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デヴィッド・シルヴィアンは20世紀最後のロマン主義者だ。ロマン主義とは「夜」を好む芸術である。そして、彼の近作は夜の音楽なのだ。たとえば2009年にリリースされた『マナフォン』の、あの音、あの気配、あの空気。真夜中の密やかさと、ざわめきのような音楽。
2014年暮れ、わたしたちのもとに突如届けられた新作もまた夜の音楽である。より正確に言うならば、本当の光=朝を希求するための真の夜の音楽とでもいうべきか(リリースは彼自身のレーベル〈サマディサウンド〉から)。
本作は、シルヴィアンが敬愛するという米国の詩人フランツ・ライトとのコラボレーション作品である。フランツ・ライトの朗読に、シルヴィアンらが作り上げた幽玄なトラックが折り重なる音響作品に仕上がっており、彼のヴォーカル作品とはちがうラインに属しているといえる。インスト作品の系列だ。
しかし、これは彼のサイドワークではない。これまでもシルヴィアンはインスト楽曲/作品を発表している。そしてそれらは彼の芸術を考えていくうえで欠くことのできない重要な仕事であった。むしろデヴィッド・シルヴィアンという音楽家の本質は、そこにこそ息づいているようにすら思える。たとえばセカンド・アルバム『ゴーン・トゥー・アース』(1986年)はヴォーカル盤とインスト盤との2枚組だったし、近年の『ウェン・ラウド・ウェザー・バフィテッド・ナオシマ』(2007年)や、ステファン・マシューとのコラボレーション作品『ワンダーミューデ』(2012年)、ヤン・バング、エリック・オノレらとの共作『アンコモン・ディアティーズ』(2013年)など、エレクトロニカ/音響以降の手法を昇華したインスト・アルバムをリリースしている。そのどれもが素晴らしいアトモスフィアを発している作品であった。
本作は、それらのアルバム以上にシルヴィアンの美意識と個を強烈に感じる作品である。たしかにフランツ・ライトとの詞から受けたインスパイアが創作の源泉には違いないし、近年重要なコラボレーターでもあるクリスチャン・フェネスも全面的に参加している。そのうえAMMやモートン・フェルドマンの録音でも知られるピアニスト・ジョン・ティルバリーや、ノルウェイのトランペッター・アルヴェ・ヘンリクセンなどが素晴らしい演奏を添えてはいる。
しかし、本作が放つ音の夜の闇のような深い色彩は、まさにシルヴィアンのソロ・アルバムといっても過言ではない。「ああ、この音響空間こそ00年代以降のデヴィッド・シルヴィアンが至った境地なのだ」と、深い溜息が漏れ出てしまう。
冒頭から鳴り響く、無調の中にほんの少しのロマンティシズムの香水を落としたようなジョン・ティルバリーのクリスタルなピアノ。そこに絡む強烈なノイズ。フランツ・ライドのメタリックな声。フェネスの演奏と思えるエレクトリック・ギターと音響構築。さらには『マナフォン』でのレコーディング・セッションでの音源も見事にリサイクルされていく。それら肌理細やかなコンポジションは、徹底的に研ぎ澄まされており、しかし機械のような無機質さというよりは、空気のような抽象性を獲得しているのだ。
かつて武満徹は『エンバー・グラス』(現在はCD盤『アプローチング・サイレンス』(1999)に収録)、とくに2分ほどの小品“エピファニー”(!)を絶賛したが、もしも武満が本作を聴いたら同じように称賛の声をあげたのではないか。このアルバムには、あの“エピファニー”にあった(声と音響の)モンタージュというシネマ的な方法論が存分に拡張されているからである。映画的といってもよいが、それはデジタル・ハイヴィジョンな映像というよりは、フィルム的な質感を思い起こさせるものだ。モンタージュといっても、細やかにカットを繋いでいく映画ではなく、キャメラの長回しのような感覚である。そう、シルヴィアンや武満徹が敬愛する、あのタルコフスキーの映画のように……。
音楽家デヴィッド・シルヴィアンの手腕が存分に発揮された濃密なトラック(60分もの長尺!)は、静寂の中にある音の蠢きをじっくりと掬いあげていく(『ブレミッシュ』(2003)、『マナフォン』以降、ギターやコンピューターなど、コ・プロデューサー的な役割でシルヴィアンをサポートするクリスチャン・フェネスの音響処理も見事)。とくに弦楽器のレイヤーが醸し出す緊張感は、彼自身も深くリスペクトする武満徹作品を思わせもするし、グスタフ・マーラーが轟音のオーケストレーションの裏側に潜ませておいた闇夜の静寂なロマンティシズムとでもいうような、シルキーな音の連鎖/感覚もある。夜とは昼の裏側にある世界だ。そこにある深い静寂を、シルヴィアンは強く希求しているのではないか。
静寂な夜の森に満ちている気配のような音。密やか音。微かなノイズ。エレクトロニクス化したモートン・フェルドマンのごとき音。そこにあるロマンティシズムの残滓。闇の中で変化する色彩のような音。ピアノの点描的な演奏/配置。絹のような弦楽器のレイヤーとコンポジション。それは不穏であり、清冽であり、複雑であり、単純であり、冷たくひんやりした空気のようであり、気配の充満した静寂のようでもある。
夜の音楽。夜の音響。この2014年の黄昏に、この作品が世に出たことは記念すべきことだ。騒々しく変化し続ける世界に背を向け、真夜中の静寂と、幾千の音の蠢きに耳を澄ますこと。1970年代の終わりごろ、若きシルヴィアンが、彼の住むロンドンのフラットで、武満徹の“鳥は星形の庭に降りる”に何度も耳を澄ましていたときのように、われわれもまた本作に何度も耳を澄ますことになるだろう。それは音楽と芸術によって、世界をもう一度再生する試みである。だからこそ本作の終焉、まるで真夜中から朝への移り変わりのような弦楽器(まるでドビュッシーのような!)の響きが、あれほど鮮烈に鳴っているのだと思いたい。
夜を経由した、まっさらで、透明で、クリスタルな、本当の「朝」の生成。本作のコーダには、そんな奇跡的な朝の気配が生まれている。いわば、新しい生のはじまり。だが、それは真の「夜」があるからこそ生まれる奇跡、とはいえないか。
デヴィッド・シルヴィアンは「夜」の音楽を生み出している。何故なら彼こそ20世紀最後のロマン主義者であり、21世紀においてロマン派芸術の思想と美意識を受け継ぐアーティストだからである。シルヴィアンは夜が生み出す「浄化」の力を、強く、深く、信じている。本作は、そんな彼の思想と美意識の結晶である。
デンシノオト