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まずは“Exp”の衝撃。ソウルのパッチワーク。冒頭にJBのシャウトが一発。ギター・サウンドの連続に「ヘンドリクス」の名が挿入されるライム。ハットはもはや時空間を刻むのを止めている。その分スネアが捩れたグルーヴを刻む。そうだ、これは「ザ・ワン」の証明だ。2017年のJPから生まれた痙攣するファンクだ。それを宣言するためにJBはシャウトした。ギターの5弦3フレットから5フレット、C音からD音へのハンマリング。それが1拍目にドロップされる。あとは3連で寛いだスネアたちが連れ添って、ファンクの余白を埋める。
続く“Cowhouse”でもハットは時間を刻まない。たまにごく気まぐれに、痙攣するその姿を現すのみだ。時間を刻むのはあくまでも JJJ のライムだ。全てがスタッカートで記述される言葉。つまりスラップ奏法でプロットされる言葉たちが、ハット以上にビートを牽引する。かつてザ・ルーツの一員だったラーゼルが自身のビートボックスとライムを同じ唇と喉から生まれる音源として扱った手つきで、J はライムをリズム楽器として見ていることは明白だ。あるいは Native Instruments社製の Maschine のパッドを叩くのと同じ手つきで、ライムを打ち込む。波形としての言葉が見える。言葉に触知可能な実体を持たせるように、こんなにも見事にビートの上、あるいは隙間に「置く」ことができるラッパーは稀だ。そしてそれらはひとつの流れ=フロウを形作る。
そんな風にビートを駆動するフロウワーたる J の立ち位置を代弁するのは“Exp”で客演する KID FRESINO のラインだ。「リズムの真ん中/生まれ落ちた俺は/君たちとは論を交わすまでもない」。確かに旧態依然のリズムのアーキテクチャーに拘泥するプレイヤーやリスナーにとっては、彼らの機動力は理解不能だ。対話は閉ざされる。できるのは、一方的に理解しようともがくことだけだ。
この言葉のスラップ奏法は、むしろハットが打つレギュラーなビート“Place To Go”やブレイクビーツが牽引する“Django!”でより明確にその輪郭を現す。規則正しいハイハットのグリッドが時間軸を分割しているために、彼のライムの音符としての位置を測ることができるからだ。ライムにおいて、子音はドラムだ。その破裂音や摩擦音は、スネアとなり、ハットとなる。J の子音のアクセントを全面に出したスタッカートが、このグリッドに正確に刻まれた小節内を闊歩してゆく。スタッカート・フロウが可能なのは、母音/子音の発声の強弱だけでなく長短のコントロールに長けているからだ。このコントロールの上手さが際立っていることで、彼のライムは言葉である以前に、リズムを刻む短いフレーズの集積である。「グルーヴの支配者」(“Django!”)は言葉をも演奏する。かつてラキムがサックスのフレーズをライムに変換したように。あるいはドラムのハットやタム回しの変奏のように(たとえば“Place To Go”の1分34秒「落ちていく夕日/謎はとける今夜中に」という3連のラインを参照)。
このようなライムの扱い方が可能であるのは、もちろん彼がビートメイカーであることに由来する。逆に言えばライムを編む手つきがそのままビート制作にも透けている。J のパッチワークを編む手つき。「音が息する瞬間」(“Django!”)を捉えるその手つき。“Exp”や“Cowhouse”ではオーバードライブの効いたギター・サウンドが、とにかくこのアルバムを祝福するように、つまり天から差し込むチョーキング・サウンド=光として燦然と輝く。前作『Yacht Club』の“Yacht”や“Vaquero!”に代表されるノイジーなサウンドがボム・スクワッドと比較されたように、このようなギター・サウンドが駆動するビートはそう多くない。それが単にワンフレーズのサンプリング・ループだけに留まらないとすればなおさらだ。メトロ・ブーミンがヴァン・ヘイレンの“Ain't Talkin' 'Bout Love”を大胆にサンプリングしたヤング・サグの“Alphabetical Order”はその物珍しさにおいて新しい可能性を提示するものだった。しかし J のギター・サウンドの扱い方は、これに留まらない。このパッチワークはヒップホップのビートの自由度を根本的に見直すものだからだ。
J のビートメイキングが立っている場所は、直接的にせよ、あるいは Down North Camp を媒介とするにせよ、90年代のゴールデンエイジのゲームの延長線上だろうか。ゴールデンエイジが標榜するサンプリング・アートは、極めて高度に洗練された「引用の織物」としてのアウトプットをもたらす。しかしその分競技規定は固定化されている。この競技の共通のルールとは、あくまでもサンプラーを中心に据え、サンプリング・ベースでビートを制作するということだけだ。その他のやり方については自由である。しかし、シーンをリードするビートメイカーたちとそのフォロワーたちにより、徐々に方法論は固定化され、幾つかの様式美の類型が生まれる。とはいえ縛りがキツくなるほどに、美学の探求心に拍車がかかるのもまた事実だろう。
一方、NYのゴールデンエイジが胚胎しているオーセンティシティの対極に、アトランタのトラップを象徴するビート群を配置するのは有効かもしれない。文字通り北の極と南の極として。サンプリング・アートに対して、ソフトシンセなどによる打ち込みをベースにしたそれは、たとえば Zaytoven によるビートメイキング動画を見れば、各々の方法論に開放された、自由度の高いものに映るかもしれない。しかし幾つかのビートたちを並置し比較してみれば、そこに通底する様式を認めるのは難しいことではないだろう。各ビートメイカーの意匠は、極小な「差異」に表れる。それは、多くのダンス・ミュージックのジャンルと同じように、「差異」を楽しむ音楽だ。70のBPM、FL Studio と Nexus のコンビネーションを中心に、圧倒的なベース・サウンドが基底をなし、TR-808 のハットとスネアが乱打される。そこでもまた明示化されない数々の競技規定が存在し、同時にそれらのルールを前提に研鑽を積むビート職人たちにより、日々独自の美学が築き上げられているのだ。
J は、これらの二極を基準点とするビートメイキングの航海図において、どこに位置しているだろうか。一見してミニマムなフレーズのパッチワーク。そのスタイルは、オーセンティックなサンプリング・アートに準拠しているようでもあるが、もっと自由なマインドに駆動されている。J はヘンドリクスだけでなく、ジャンゴ・ラインハルトへのリスペクトとともに「feel like Django/grooveの支配者/スネアは前/put your mathafuckin lighter's up/boombap この音 better than you」とライムする。ジャンゴは、火傷により不自由となった薬指と小指という制約を逆手に取り、指板を自由に広く使うコードのフィンガリングを編み出す。そしてこの試みの延長線上で、ギターは伴奏楽器でありソロには向かないという当時の制約すら破壊することになる。
J が既成概念から逃れ自由を志向していることは、曲ごとにビートメイキングの方法論が異なっていることや、使用する音色がローファイ至上主義に陥っていないことからも明らかだ。レコードなどの音源からのサンプル素材とソフトシンセの音源、ブレイクビーツと単音の打ち込み用ドラム素材を同等に扱うのは、現行のビートメイキングにおいて特に珍しいことではない。しかし J の「パッチワーク」は自由を実現するツールだ。チョップされた数多くの短いサンプル/手弾きのフレーズを数珠つなぎにして楽曲を形成する。たとえば前述の“Place To Go”に耳を傾ければ、メインの逆回転ループの周辺に、ワウギター、声ネタ、ブレイクビーツのシンコペーションなど、数多くの所謂オカズが挿入=パッチワークされていることに気付くだろう。
さらに言えば、たとえば1曲のうち、複数の異なるスネア・サウンドが現れることすらある。“Midnight Blu”で彼が使い分ける3つのサウンド。左右に広がるステレオ定位のハイが強調されたスネア、モノラル定位のミドルが強調されたスネア、そしてクラップ(ここではいわゆる指パッチンのサウンド)。それは同曲に登場する3つの「ヴォイス」、すなわち JJJ、仙人掌、エミ・メイヤーを象徴しているようでもある。そして言うまでもないことだが、J の出自が febb と KID FRESINO との3ピースのパッチワークであった。この3種のスネアの、度々重なり合うことで互いを補完し合い、かつ単体で鳴ってもそれぞれに存在感を持つというカラーの違いは、そのまま Fla$hBackS の3人の関係性と響き合っているかのようだ。
いずれにせよ、J によるビートメイキングは自由を志向している。そしてそれを実現するのは、短いサンプルフレーズを数珠つなぎにする方法だった。考えてみれば、ヒップホップ黎明期にはサンプラーのサンプリング・タイムの短さというハードウェア的な制約から、必然的にサンプルフレーズは短いものだった。たとえば BDP の“South Bronx”のように。その制約がなくなった後も、ビートメイキングのサイエンスを活性化させたのはミニマムなフレーズの利活用だった。DJプレミアなどによるフリップしかり、プレフューズ73ことスコット・ヘレンがもたらしたカットアップ的方法論しかり。彼らの意志を継ぐ J は、短いサンプル群を、小節単位のサンプリングのアートと手弾きのシンセの中間に位置するもの、すなわち自由にパッチワーク可能で、ピッチを弄ることで演奏可能なものとして捉える。J は「狂い咲くアイデアを形に/生きた証を残す目の前」(“Django!”)とライムする創作のため、いかなるルールからも逃れようとするのだ。
“Cowhouse”の冒頭には、そのステートメントであるかのようなラインが現れる。映画化もされたケン・キージーの『カッコーの巣の上で』(1962年)はまさに自由を獲得するための闘争の物語だった。ロボトミー手術に象徴されるように、画一化され、コントロールされようとする人間の有り様。その圧力が凝縮された場が「カッコーの巣の上」だった。J は規格通りのビートメイクを無自覚に踏襲するだけ、あるいは批判的な視線なく受容するだけの「ビッチズ」をその「カッコーの巣の上」に「蹴落とす」と言っているかのようだ。しかし同時に J は理解している。自由とは、自分がいる場所とは違うどこか外側の世界にあるのではなく、いま自分がいる場所にあるのだと。それを獲得する意識の変革こそが必要なのだと。マクマーフィーが病棟に監禁された仲間たちにそのことを示したように、J もビートメイキングの様式美という鉄格子に囲まれながら、自由であることをリスナーに示す。だから彼はライムする。「貧しい心に垂らしたいインク/muthafuckin my beat/脳にぶち当てるkick/rawshit/その自由/鉄格子の中」(“Django!”)と。
J は闘争の只中にある。ビートの自由を獲得するための闘争の只中に。
吉田雅史