Home > Reviews > Album Reviews > Mount Eerie- Now Only
映画について書く仕事をしているとレコメンドを訊かれることも多いが、そのとき「重い映画は勘弁してくれ」と加えてくるひとは案外多い。と書くと、映画がある種の気晴らしと捉えられていることに対する愚痴のようだが、そうではなく、映画が語りうるものの力を知っているがゆえにこそ「重い」作品に向き合うことは精神的に容易ではないという含意がそこにはある。この間も子を持つ友人に『マンチェスター・バイ・ザ・シー』のプロットを簡単に説明すると、「自分はその映画を観られない」と言っていた。「観たくない」ではなく、「観られない」だ。人生における理不尽な悲劇とスクリーンを通して直面できない……という呟きを前に、何を偉そうなことを言えるだろう。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』には「重さ」だけではないユーモアや美があるのだけれど、子を持つ人生を選択した彼を前にして、子を持たない僕は押し黙ることしかできなかった。
では、重い音楽はどうだろう。誰のためにあるのだろう。妻の死と、その後も続いていく人生に震え続ける自身をドキュメンタリーのように綴ったマウント・イアリの昨年のアルバム『ア・クロウ・ルックト・アット・ミー』は、テーマとしてはもっとも重い部類の作品だった。共感するとも感動するとも簡単に言えない、個人的な悲劇の赤裸々な描写がひたすら続く。弱々しく、いまにも壊れそうなフォーク・ミュージック。同作を2017年における最高のアルバムに選んだタイニー・ミックス・テープスによれば、この作品を愛することはとてもアンビヴァレントな想いを喚起する。つまり、誰かの人生の悲劇に音の震えとともに涙することは、それ自体が傲慢なことなのではないか、と。その答はわたしたちにはわからない。歌い手であるフィル・エルヴラムにもわからない。わからないまま、ひたすら歌に身を任せるしかないという時間がそこには収められていた。
前作からほぼ1年で発表された『ナウ・オンリー』は、当然のことながら『ア・クロウ・ルックト・アット・ミー』の続きである。エルヴラムは幼い娘を遺して他界した妻ジュヌヴィエーヴ・カストレイに向けて、「僕はきみに歌う」とアコギを小さく鳴らしながら囁くばかりだ。生前のジュヌヴィエーヴと読んだ『タンタン チベットをゆく』を思い出しながら(“Tintin in Tibet”)、ジャック・ケルアックのドキュメンタリーを観ながら(“Distortion”)、あるいはスクリレックスが派手なショウをするフェスティヴァルで「死についての歌を ドラッグをキメた若者たちに向けて歌い」ながら(“Now Only”)。『クロウ』が妻の死から時間が過ぎていく様を順に描いていたのに対し、本作ではより断片的にエルヴラムの心情が浮かび上がるのだが、前作で繰り返していた「死は現実である」という真実にギターのアルペジオとともにうなだれている姿は同様だ。
だが明確に違う点もある。ほとんどギターと歌による一筆書きだった『クロウ』に対して、ディストーション・ギターやノイズ、ピアノ、ドラムといったバンド・アンサンブルが『ナウ・オンリー』では復活している。復活、というのは、ザ・マイクロフォンズからマウント・イアリへと至るエルヴラムの長いキャリアのなかで見せてきたローファイなサウンド構築がここで再び姿を見せているからだ。90年代にサッドコアと呼ばれた音楽を思い出すひともいるだろう。とりわけタイトル・トラックである“Now Only”ではギター・ポップのような軽やかなバンド演奏すら聴ける。……が、それはあるとき床に手をつくように不協和音とともにフォルムを崩し、力なく鳴らされるばかりのギターのコード弾きと音程を取らずにまくしたてられるエルヴラムの嘆きへと姿を変える。かと思えば、またギター・ポップになり、かと思えばまた崩れ落ちる。この音のあり方は、エルヴラムの引き裂かれる内面をそのまま表しているだろう。妻を想う彼の言葉は何度も詩的な描写へとたどり着こうとするが、次の瞬間、彼自身がそのことを否定する。妻の死を詩や歌にすること、それを共有することの無意味さをエルヴラムはアルバムのなかで何度も何度も噛みしめている。だが、それでも言葉の連続はやがてメロディとなり、重なる音はアンサンブルとなる。その、情景が何度も揺れ動く生々しさにはただ呆然とするしかない。最愛のパートナーを喪った悲しみは僕にはやはりわからない。わからないまま、胸が締めつけられる時間が続いていく。
ノイジーなギターとともに始まる“Earth”はそのもっとも究極的な一曲だ。オルタナティヴ・ロック調の導入は、やがて単純なコード弾きの連打とエルヴラムの飾らない歌、それに微かに後ろで鳴っているノイズへと姿を変えてゆく。「きみはいま 庭の外で眠りについている」と言った次の瞬間には、「何を言ってるんだ? きみは眠ってなどいやしない/きみにはもはや死んだ身体すらない」と自分の詩的な表現を拒絶する。だがそれでも、曲の後半3分、こぼれ落ちてくるように畳みかけてくるメロディをエルヴラムも聴き手であるわたしたちも押し止めることはできない。そのか細くも美しい音の連なりに、僕はどこかでこれが永遠に続けばいいと願っている。だが、歌はあるときあっけなく終わりを告げる。それ自体が誰かとの別れのように。
『ナウ・オンリー』を聴くことは、フィル・エルヴラムそのひとの内面の揺らぎをそのまま体験することだ。だがそこには重さだけではない、浮遊するような心地よさがたしかに宿っている。9分以上に渡って人生の意味を問う“Two Paintings By Nikolai Astrup”、前作から引き継いだカラスというモチーフとともに妻の不在にあらためて浸るヘヴィなアシッド・フォークの終曲“Crow pt.2”に至るまで、シーンの片隅でひっそりと歌い続けてきたフィル・エルヴラムの誠実なソングライティングの輝きは消えない。
多かれ少なかれ、早かれ遅かれ、僕たちは別れや悲劇や――それぞれの人生の重さに向き合わねばならないのだろう。フィル・エルヴラムは歌うたいとして、そのことにただ向き合ったし、これからも向き合っていくに違いない。その歌はセラピーでも自傷行為でもない。わたしたちが人間性と呼ぶものに、そっと触れることだ。
木津 毅