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萩原健太『70年代シティ・ポップ・クロニクル』

萩原健太『70年代シティ・ポップ・クロニクル』

「場所と時代を越えて届けられる音楽の感触」

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文:矢野利裕   Aug 21,2015 UP

 適当な音楽を流しながら、その曲が何年に発表された曲なのかを当てる、というひとり遊びをよくする。「おしい、67年かと思ったら68年だったか」とか「2004年にもうこんなサウンドになっていたのか」とか、ささやかな発見がある。ピタリと当てたときは、少し嬉しい。僕は1983年生まれなので、生まれる以前の音楽も多いのだが、そういう知るよしもない時代のことを想像しながら、音楽を聴く。ちなみに、自分が生まれた1983年――ハービー・ハンコック『フューチャー・ショック』が発表された年だ――以降、ポップスにもリズム・マシンが多用されてくる印象があって、それ以前の音楽にへんに郷愁を覚えたりする。とくに、中・高音域がクリアになっていく印象がある1970年代なかば過ぎ――1977年のスティーリー・ダン『エイジャ』あたりが境目だという印象――以前の音楽には、独特なあたたかみを感じる。これは、日本の音楽に対しても同様だ。僕自身はドラムに耳が行くのだが、たとえば、大瀧詠一“乱れ髪”のバタバタしたドラムを聴くと、〈70年代感〉としか言いようのないあたたかい響きを感じる。DJだったら2枚使いしたくなること間違いない、荒井由実“あなただけのもの”や大貫妙子“くすりをたくさん”冒頭のドラム・ブレイクも同様だ。いわゆるジャンル性とも違って、なかなか言葉では説明はしにくいが、共有してもらえると信じる。


萩原健太
70年代シティ・ポップ・クロニクル

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 萩原健太『70年代シティ・ポップ・クロニクル』は、日本における1970年代前半を、ポップ・ミュージックの歴史の随所に存在する「奇跡的に濃密な5年間」のひとつと捉え、はっぴいえんど『風街ろまん』や小坂忠『ほうろう』など、この時期の名盤たち15枚について語る。著者自身がリアルタイムで体験したこともあり、実証的にポピュラー音楽史をつむぐというよりは、自身の記憶を中心に振り返っている。必然、文章中には「感触」「手触り」「実感」「感覚」といった言葉が多くなっている。しかし、このような、ジャンルや音楽性によって整理された歴史から抜けがちな「感触」こそ、一方で大事だったりする。僕自身、日本のポピュラー音楽の通史については後追いで知った気になっているが、たとえば、フジテレビの音楽番組『リブヤング』で音楽の紹介者となっていた加藤和彦のことは知らない。深夜ラジオがきっかけでフォークルが大反響になっていった「感触」もない。きっと一部のリスナーは、そういう「手触り」のなかでサディスティック・ミカ・バンドの登場を見ていたのだろう。あるいは、南佳孝『摩天楼のヒロイン』のレコード・ジャケットのことは知っているが、「あの時代、ステージ上で非日常的に、というか、スクエアな方向で着飾るのはどこか“嘘っぽい”イメージがあった」という、当時の「感覚」は知らない。そのような「感覚」の総体として、きっと当時の南佳孝は存在していたのだろう。

 いつの時代も、音楽は、それをとりまく「感触」や「感覚」とともにやってくる。萩原は、「記憶違いもあるだろう」ということも承知で、実証性より記憶を大事にして書いている。リアルタイムではないと抜け落ちてしまうような、「感触」の総体をこそ再現しようとしているのだろう。その意味で、萩原自身が書評を書いていた、ウィリアム・ジンサー『イージー・トゥ・リメンバー』(国書刊行会)の手つきに似ている。本書の大きな魅力だ。というか、こういう語り口こそ、僕が勝手に抱いているところの〈70年代感〉的なあたたかみの正体をつかむ手がかりになっているようである。萩原は、「まえがき」で次のように言っている。

この時期注目を集めるようになった新しい日本のポップ・ミュージックに関しては、送り手と受け手両者が、確実に何か変わりつつある“場”の空気を共有しているという実感があった。前述したような“肌触り”をベースに、自分の言葉を自分のメロディを乗せて表現する日本人アーティストたち。彼らは“場”を共有していた聞き手たちと微妙な目配せを交わしながら、あの時代ならではの誤解や屈折すら味方につけ、少しずつではあったが、マジカルな名盤をひとつ、またひとつと生み出していったのだった。

 萩原にとって1970年代前半の名盤たちは、リアルタイムの「感触」なしでは語れないのかもしれない。なぜなら、当時の「“場”の空気の共有」こそが、大事だったのだから。後世代の僕は、あるいは読者は、その「空気」の残り香くらいしか共有できていないのかもしれないが、だからこそ本書を読むことで、その一端を共有することになる。

 本書を貫く問題意識のひとつは、外国の音楽を日本でどのようにおこなうか、ということだろう。はっぴいえんど『風街ろまん』からはじまる構成も、本書の主題を示しているかのようである。「日本語ロック論争」のことは言うに及ばず、A面1曲め“抱きしめたい”に対する「外来文化のロックと、日本古来の芸能である落語との融合」という指摘や「アナーキーな文節の区切り方」という指摘は、日本でロックをおこなうことの苦心と工夫を伝えている。あるいは、サディスティック・ミカ・バンド『黒船』に対する「自分たちの眼差しを海外から日本へと襲来する黒船側に置いている捩れた位置取り」という指摘や、細野晴臣『泰安洋行』に対する「屈折しきったエキゾチシズムを実に愉快に、躍動的に、そして毒々しく表現した傑作」という評価も、日本でポップスをおこなうことの意味を問うた先でなされている。本書を締めくくる名盤は、サザン・オールスターズ『熱い胸さわぎ』だが、サザンもまた、はっぴいえんどに端を発する「自分たちの母国語である日本語を使って、それを“どうロックさせるか”、そのうえで“何を歌うか”」という問題意識の延長で語られ、ランプ・アイ『下剋上』(!)に接続されている。

 本書を読んでいると、このような、日本から異国の音楽に焦がれるような態度が、1970年代的な「空気」を形成していたのだろうと思える。しかし、そのこと自体は、いつの時代にも共通するものである。重要なことは、その異国の音楽の内実だ。僕が1970年代の音楽に感じるあたたかみは、ジャンルを越えて存在する。萩原は、「当時、いわゆるロックとかフォークとかソウルとか、従来の音楽ジャンルの枠組みではとらえきれない柔軟な音楽性を持つ海外アーティストたちが日本の輸入盤店やロック喫茶でも話題を集め始めていた」と書いている。具体的には、トム・ウェイツやマリア・マルダー、ヴァン・ダイク・パークスなどだ。つまり、1970年代における「“場”の空気の共有」とは、そういった「柔軟な音楽性」を追求するような態度、その雰囲気なのかもしれない。だとすれば、「フォークでもない、ロックでもない、歌謡曲でもない、従来の枠組みでは計り切れないポップな風景と色彩感に満ちた日本の音楽を、はじめてトータルな形で作り上げてみせた」という『風街ろまん』のインパクトは、やはり大きかったのだろうと想像する。この「柔軟な音楽性」については、「ローラ・ニーロならではのソウル感覚」とともに振り返られる、吉田美奈子『扉の冬』についての文章が良い。『扉の冬』自体が好きなこともあるが、本書全体のコンセプトが詰まっているという点で、本書のハイライトである。萩原は、次のように言う。

ソウル音楽というのは黒人だけのものなのか。黒人ならば誰もがソウルフルなのか。白人に、あるいは白人の音楽にソウルはないのか。それじゃ、日本人は……? そんな永遠の命題に向き合う素晴らしいきっかけになってくれた1枚だった。

 異国の音楽を、柔軟な音楽性を、すなわち1970年代の音楽を、いかに日本のポピュラー音楽として奏でるか。萩原が自身の記憶とともに追っているのは、そのような試みとしてあった音楽なのだろう。そして、そのような音楽たちが、ジャンルを越えて、国境を越えて、時代を越えて、〈70年代感〉的なあたたかみの「感触」として、僕たちのもとに届けられているのだろう。本書を読むと、そんなことを考えてしまう。
 ちなみに『扉の冬』のバックを務めるのは、キャラメル・ママの面々である。1970年代の日本のポップスにおいて、キャラメル・ママ‐ティン・パン・アレーが果たした役割は言うまでもない。時代を彩ったゆたかなサウンドは、ティン・パン・アレー系のミュージシャンによるところが大きい。本書においても、従来的なバンド形態ではない彼らの存在は重要視されている(と同時に、逆説的に、バンドにこだわった鈴木茂やシュガー・ベイブの試みも浮き彫りにされている)。日本のポピュラー音楽について考えるにあたって、このことはけっこう重要だ。というのも、例えば1970年代には、キャラメル・ママをバックに雪村いづみが歌った『スーパー・ジェネレーション』や、ティン・パン・アレーをバックにいしだあゆみが歌った『アワー・コネクション』などがあるが、このような高い音楽性を兼ねた企画モノは、キャラメル・ママやティン・パン・アレーのような独立したミュージシャン集団のもとでこそ成立するからだ。このような、高い音楽性に加えてノベルティ成分が入ったノリは、「プラスティック・オノ・バンドをもじったバンド名からして大いにふざけていたし、プライベート・レーベルを用意してのデビューというのもお遊び感満点だった」と指摘されるサディスティック・ミカ・バンドにも通じるかもしれないし、なにより、大瀧詠一の一連の仕事に接続される。ノベルティ・ソングにただならぬ思い入れを見せてきた萩原は、そのような文脈においても、1970年代の音楽に愛着を感じているのかもしれない(これは、勝手な想像だが)。

 そう考えると、大瀧詠一の存在感は、やはり大きい。本書には、大瀧詠一がソロ第一作『大瀧詠一』を制作するにあたり、キャロル・キングが果たした役割が語られている。すなわち、「前時代的なアメリカン・ショービズの伝統を汲む形で活動していたゴフィン&キング」が、ビートルズのような自作自演のロックの趨勢とともに、いったんは活動の場を奪われたものの、アルバム『つづれおり』で「再び時代に請われるような形でシーン最前線にカムバックしてきた」、「大瀧詠一にとっても、これは事件だった」のだ、と。萩原は、続けて言う。

が、この瞬間、ついに封印は解かれた。新しいとか、古いとか、そんな曖昧な価値基準に何か意味があるのか、と。彼なりの確信を深めた結果、生み落とされた多彩でマジカルな傑作がこの“ファースト”だった。

 大瀧のソロ・ファーストが、ロックン・ロール風ありガールズ・ポップ風ありの傑作であることは、聴いたことがある者ならよく知っている。僕も知っていたつもりだ。しかし、その多彩な音楽性の意味を真に理解した気がするのは、引用部を読んだのちである。このようなゆたかな名盤が、1972年に生まれたことには、それなりの必然性があったのだ。だとすれば、1970年代的な「柔軟な音楽性」を下支えしているのは、時代のトレンドに左右されず、軽やかに音楽を享受する態度なのかもしれない。そのような態度は一方で、自作自演のアーティストとは異なる、ノベルティ・ソングへの興味を引き起こすだろう。この大瀧への指摘は、本当に素晴らしい指摘である。

 1990年代前半、そして現在と、「シティ・ポップ」ブームはたびたびくり返される。とくに現在の「シティ・ポップ」ブームらしきものには、僕は正直ノれないでいるのだが、この「シティ・ポップ」という言葉のなかに、大瀧的な、軽やかに音楽を享受する態度が含まれているのだとすれば、少しは理解できなくもない。本書は、萩原の個人的な記憶とともに語られているが、それゆえに、時代を越えた「感触」を獲得している。話題は1970年代のことに終始しているかもしれないが、その「感触」は、そこにいなかった者たちにも、あるいは、それ以降の時代に生まれた者たちにも、共有できるはずである。本書の言葉を借りれば、「地域性でもなく、人脈でもなく、ジャンルでもなく、言語化しにくい“肌触り”に貫かれた音楽」の「感触」を。

文:矢野利裕