Home > Reviews > Book Reviews > 0円で生きる――小さくても豊かな経済の作り方- 鶴見済
頑張って生きることをやめ、自分の内面をコントロールし、身体を解放し、自然とつながる生き方を追求してきた鶴見済は、前著『脱資本主義宣言~グローバル経済が蝕む暮らし』(新潮社 2012年)で、そうした楽に生きる生き方にとって最大の障害となる無法な資本主義の正体を、おそらくこの上なく、分かりやすく書き表した。そして服の原料の綿、携帯電話、コーヒー、ジーンズ、マクドナルドにペットボトルなど身近な消費財の生産と消費が生む問題を指摘しながら、他人と自分と自然に優しいフェアな態度というものを考え、その先にヒト本来の姿を取り戻すことを提言した。この新刊はそこから踏み込んで、その生産/消費の経済活動をどれだけ回避できるのかをテーマにした、前著の実践編に位置づけられるものだ。
具体的には、貰う、あげる、交換する、借りる、貸す、共有する、助け合う、公共サーヴィスを使うといった、人と人との繋がりの中で成立するさまざまな生きる術にフォーカスしている。“拾う”という技術の指南にも紙数を割いているし、自然界に神の力を思い、そこからの恵みを尊んできた人間が、無償の贈与というものにどれだけの価値を見出してきたかにも立ち返らせる。そして、古来の自然(現物)経済を経済活動の土台として再評価し、その上で、できるだけ金銭を介在させずにできることや、誰かとやりとりできる善意とサーヴィスのさまざまな形と価値を知り、見直すことだけで十分豊かな暮らしが送れると説く。
この本のタイトルに、貧乏臭いと言って拒否反応を示す人もいるだろうし、良さそうなことが書いてありそうだけどピンとこない、あるいは、そもそも資本主義の何が問題なの? という人もまだいるはずだ。鶴見は、前著を要約しながら本書の精神をこう簡潔に記している。
〈本書はお金を稼ぐことを悪いと見なしてはいないが、お金儲けを至上の目的としたものには反対する。〉(P.4)
これは鶴見流の柔和なオブラートでくるんだプルードンの翻訳であろう。その〈所有、それは盗みだ!〉はつとに知られるが、プルードンはそこに〈所有、それは自由だ!〉とも付け加えていて、所有における悪と善を、複式簿記における借方と貸方、その表裏一体の不可分性にたとえた。つまり、格差社会を産む国家管理主義の要件たる所有(=体制側に増えた分)はもう片側から出ていったもの(盗品)であり、一方で、その逆側には、自分たちの自由を形成するための所有が存在すると。そしてそこには、“自由”と“盗み”とを厳然と、別ものと見なす理性が求められる。〈本書はお金を稼ぐことを悪いと見なしてはいないが、〉という言い回しが、言外にそこを指し示している。
しかしながら、無人島や密林ででも暮らさない限り完全に避けることなどできない〈稼ぐ/持つ/使う〉の円環は、事実上この身から決して外れない首かせ、足かせであり、その死ぬまで経済の奴隷であり続けることに対する、えも言われぬ恐怖が個人的にいえばそもそも苦しい。だから、せめてもの身の処し方として、なるべく綺麗にカネを稼ぎ、それをできるだけ慎ましく、少なくとも地球のどこかの見知らぬ誰かを苦しめるようなことにだけはならないように使おうと日々留意している……のだが、自分の支払ったあるものへの代金が何処かの国で人殺しの原資になっている可能性を知ったりすれば、余暇を削っても抗議しなくてはこっちの正気が保てなくなる。魅力的な商品を見つけ心踊っても、それが工場労働者を不当に搾取して製造されたものだと知って暗澹たる気持ちになることも多々ある。加えて、この自分自身が搾取されることに対しても同じだけの注意を払い、それも阻止しなくてはならない。稼ぐのも、使うのも、ほとほと疲れる。「そんな余計なことは考えず、もっと稼いでもっと使え」という政治は、人の心を見ず、人をキャピタリスト・ゲイムの駒としかみていない。
苦労して稼いだ虎の子を預けようと立派なメガバンクに口座を作れば、知らないうちに自分の預金が東電を支えることに使われ、断りなく原子力産業への積極投資に回され、なんとクラスター爆弾製造企業への投融資にまで流用されていることが明るみに出るから心臓がバクバクしてくる。それなのに、入口を入ると両手で下っ腹をあっためながら薄気味悪い笑顔で何事もなかったかのようにお辞儀なんぞしてくるあの行員の足下に、バケツで汚物をぶちまけてやりたいと考えてまた血圧が上がる(結局そんなところからはカネを引き上げたが)。パナマ文書のニュースを見れば、あれが閻魔帳だったらいいなと思うが、地獄の沙汰もカネ次第というし……。どこまで行ってもゲイムのプレイヤーはあの連中であって、我々は、感情を持たないゲイムの駒(もちろん使い捨て)であり続けなくてはいけないのだろうか?
だから鶴見はまず、はっきり確認するのである――自然経済から進化した貨幣経済と、現状の資本主義経済を同一視してはいけないことを。つまり、〈生きていくのにある程度のお金は必要である〉という考えと、〈お金儲けを至上の目的としたもの〉との間には相当な開きがあるということを。
〈カネのために何かやる〉という発想がヒトの本来性に馴染むものかどうかまではここでは踏み込まないが、それにしたって、その先に何の歯止めも持たないシステムを作り出し、それを自ら免罪符として〈カネのために何でもやる〉に突き進むのは行き過ぎと言わざるを得ないし、そうして作った利潤は、人間社会および自然界に与える実害とモラルの問題を勘案するに、どんどん“盗品らしく”なってくる。おまけに99%が泣き叫ぼうと、1%にはその涙を拭くティッシュ1枚贈る義務はない。どころか、隠し、飛ばし、すり抜け、まぬがれ……さらに許し難いことに、カネにまかせて大好物の権力を掌中にたぐり寄せ、政治屋という名のマリオネットをコレクションしては操るのである。
だからこの本は、そうしたシステムに対する最もラディカル、かつ断固たる抵抗策を提示する。あくまでヒューマニズムの見地から、である。本のオビには、〈お金のかからない生活を実践する著者が、新しい「幸福の形」を教えます。〉などと記されていて、そんなエコ&ロハスな雑誌に載ってる写真のボケ味のように優しげな文言でカモフラージュされてはいるが、読み進めば、これが〈資本主義経済が破壊した、人間の営みと人間関係カタログ〉であることがわかる。言い換えれば、この本の提案は、新自由主義が最も嫌うタイプの暖かさ、人間らしさに満ちている。
それでも、『0(ゼロ)円で生きる』というタイトルに、現実離れしたロマンティシズムを思うかもしれない。が、本書が最終的な目的に据えているのは、〈自分たちなりのもうひとつの経済〉を作ることであって、それに貢献するいくつかの稼ぎ方もちゃんと提案している。それは、〈カネのために何でもやる〉連中が唯一やらない、そのシステムにとって脅威となる“実戦”的オルタナティヴだ。
ペイジをめくると立ち昇ってくるこの抵抗ののろしは、心を落ち着かせる匂いがする。ビッグ・ブラザーに見つかって華氏451度で燃やされないように、こっそり読んだ方がいい。
鈴木孝弥