Home > Reviews > Film Reviews > パーティで女の子に話しかけるには
1977年のクロイドンを舞台に初期パンクの佇まいや心情を描いた映画だと思って観ていたら、ちょっと違った。クロイドンはロンドンの南に位置し、当時だとXTC、最近ではベンガやスクリームなどダブステップのシーンで知られる住宅街。オープニングからしばらくはアレックス・シャープ演じるエンが生粋のパンク・キッズとしてジュビリー(女王在位25周年)を祝う大人たちにケンカをふっかけたり、友だちとライヴハウスに潜り込んで大騒ぎはするものの、バンドの打ち上げに紛れ込めなかったエンたちがどこからか音がする方向に導かれて奇妙な一軒家に迷い込むと、そこからはSF映画に話がすり替わっていく。その家にいた奇妙な人々は実は宇宙人であり、48時間後には地球から退去しなければならないことが次第にわかってくる。彼らが宇宙人だと判明するまでがまずは楽しい。ブロードウェイで大成功を収めたジョン・キャメロン・ミッチェル監督が舞台演出をコンパクトにまとめた美術や衣装で彼なりのヴィジョンを矢継ぎ早に見せていく。ナゾがナゾを呼ぶというパターン。僕は最初、ロシアのバレエ団かと思った。未来派のようなコスチュームで優雅に踊っているし、群舞だし、全員が同じ衣装というのは当時、共産圏の比喩みたいなものだったし。宇宙人ということになってはいるけれど、そう、彼らはまるでパンクの3~4年後に姿を現すニューロマンティクスのようにも見えなくはなかった。等しくエドワード朝ファッションだったり、英国病にうんざりしていたという共通点があるにも関わらず、パンクとニューロマンティクスは同質の文化とは見なされていない。この距離を縮めてみることもまたSF的発想だったといえる。
ジョン・キャメロン・ミッチェルは彼の名を一躍有名にした『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(01)でもやはり時間軸を巧みに操作していた。東ドイツでニューヨークのロック文化にアイデンティファイしていたヘドウィグはトランスジェンダー化することで西側への越境を果たす。そして、ベルリンの壁崩壊後に70年代のニューヨーク文化を音楽によって再現しようとするものの、アメリカには往時の熱狂を思い出す者はいなかった。よく言われているように70年代のニューヨークは文化的にひとり勝ちで、それには世界中が嫉妬していた。そのために90年代以降、誰もがニューヨークの凋落を指して、その事実を過剰に言い募った。同地からは!!! “ミー・アンド・ジュリアーニ・ダウン・バイ・ザ・スクール・ヤード”がそのアンサーとなり、『ヘドウィグ』もアメリカはもはや苦労してまで来る意味はなかった場所なのかと、その変貌を際立たせつつ、かつて自分が自由の国から得た熱狂を人々に回復させようとする。90年代の風景に70年代の精神を置くことでアメリカが失ったものを可視化したともいえる。時間的な差は短いとはいえ、パンクとニューロマンティクスにも決定的な違いがあり、前者が女性たちに独自の表現を促したのに対し、ホモ・ソーシャルであることを気取っていた後者は女性の参入そのものをほとんど許さなかった。エンが奇妙な家で出会ったザン(エル・ファニング)に「パンク」という言葉を教えると、ザンがすぐにも自分の衣装をハサミで切り刻み始めたことはなかなか象徴的である。そして、ザンはエンを追って奇妙な家から飛び出し、そこからしばらくは「1977年のクロイドンを舞台に初期パンクの佇まいや心情を描いた映画」になっていく。
選曲が面白い。ファンジンを編集しているエンたちは音楽にも幅広い興味を示し、パンク一本やりではなく、レコードショップでクラウトロックを漁り、レジデントのDJにはペル・ウブをリクエストする。確かにパンクしか聴かないという哲学が生まれるのはもう少し後のことだろう。パンク・ロックしか鳴らない映画は必ずしもパンク・ロックの時代を描いているとはいえないともいえる。とはいえ、この映画のために作られた新曲も多く、その辺りはぐっちゃぐちゃ。宇宙人のBGMにはニコ・マーリーとマトモスがあたり、この場面は高解像度のカメラで画面の調子も変えてある。またパンクといえばどうしてもスウィンドルのようで、ヴィヴィアン・ウエストウッドからクビを言い渡されたという設定のボディシーア(ニコール・キッドマン)がちょっとした思いつきでザンをステージに上がらせ、それが受けると「私がプロデュースしたのよ!」とマルカム・マクラーレンばりの仕掛け人を気取る。スージー・スーを思わせる彼女のファッションもなかなか見せるものがあり、ほかもデレク・ジャーマンの衣装デザインを手掛けてきたサンディ・パウエルが初期パンクをなるべくリアルに再現したそうで、服もヘアも77年のデザインに限定し、78年以降のアイテムはまったく出てこないという。そのようにしてリアリズムに徹したのは宇宙人パートをファンタジーとしてくっきりと対比させるためで、ニコラス・ウィンディング・レフン『ネオン・デーモン』でもエキセントリックなメイクを盛られまくったばかりのエル・ファニングがなかなかそれらしい宇宙人キャラを演じている(僕はつい『荒川アンダー ザ ブリッジ』の桐谷美玲を思い出してしまった)。宇宙人たちのことを最初は移民の比喩かなとも思ったりもしたけれど、どちらかというとアスペやサヴァン症候群を描きたがる流れと同じ性質を持つものなのだろう。そういう意味ではそれほど徹底した表現にはなっていない。ザンの振る舞いを真似たエンがゲイリー・ニューマンとしてデビューしたという後日談を付け足せばよかったのに(なんて)。
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は、ヘドウィグがトランスジェンダーの手術に失敗していたことが後半部分のキーになっていた。それはいわば生殖機能にかかわる問題で、『パーティで女の子に話しかけるには』も後半で明らかになるのは宇宙人たちの世代交代や存続にかかわる問題だった。ザンにはある種の運命が課せられ、エンと過ごした時間がそのことに影響を与える。奇妙な家を抜け出し、エンの隠れ家で朝を迎えたザンは父親のいない家庭でエンの母親と出会う。エンの母親は昔はモデルだったと自慢げに話し、ダイアナ・ドースのポートレイトを指差しながら「彼女の足はアップに耐えられないので私がその代わりを務めていた」と言い放つ。そして、ソウル・ミュージックをかけてザンと楽しく踊り出す。ビートルズ『サージェント・ペパーズ』やザ・スミス『シングルズ』のジャケット写真にも使われているドースは、簡単にいってしまうとマリリン・モンローの代役を務めていたイギリスの女優で、莫大な遺産がいまだに行方不明という謎だらけの存在である。一般的にはドースはポルノ女優に近い存在とみなされているので、その足の代わりを務めていたということは、エンの母親はイギリスに置ける性的な存在としてかなり重要なパートを占めていたという意味になる。そのセリフの後でザンと踊り出すのだから、ザンにはすなわち性的なポテンシャルが手渡されたことになり、ヘドウィグのような性的に中途半端な存在であることをやめ、さらにはエンとの交流を通じてザンは親と子という「世代」の持つ意味を学ぶことになる(これ以上はネタバレ)。ザンは踊り、歌い、そして、宇宙人の存続にとって大きな変化をもたらす契機をつくり出す(ちなみにザ・スミスが『シングルズ』で使用しているドースのポートレイトは彼女が唯一、シリアスな映画に出演して評価を得た作品から選ばれている。マリリン・モンローでいえば『ノックは無用』と重なる)。
ジョン・キャメロン・ミッチェルの作品にはいつも父がいないか、いても陰が薄い。父が欲しければ自分がなればいい。『パーティで女の子に話しかけるには』は他愛もないボーイ・ミーツ・ガールものだけど、ヘドウィグの手に入らなかったものがすべてここにあるともいえる。ラスト・シーンは予想外だった。
三田格