Home > Reviews > Live Reviews > ゆらゆら帝国、Hair Stylistics、巨人ゆえにデカイ- @LIQUID ROOM Tokyo
1970年代にマックス・カンサス・シティでスーサイドとモダン・ラヴァーズが一緒にやるようなものでしょ、と僕はこの日のブッキングを喩えてみた。強引なのはわかっている。が、一緒にライヴを観ようということで恵比寿駅で待ち合わせした東京芸術大学の毛利嘉孝教授にはこのぐらい言っておいたほうがいいだろう。真実を言えば、僕は12月8日に渋谷AXでの中原のライヴを観てから、久しぶりにスーサイドのファースト・アルバムを家で聴いていたので、そんないい加減な、少々はったりめいた言葉が浮かんでいたのだ。
あのアルバムの、レコードで言うとB面の"フランキー・ティアドロップ"の後半のアラン・ヴェガの突発的な叫びが中原の叫びに似ているような気がして聴いてみたのだけれど、近からず遠からずといったところだった。......それにしてもスーサイドのファースト・アルバムは本当に素晴らしい。間章はニューヨークで彼らのライヴを観た夜に感動のあまりずいぶんしこたまキメてしまったと本人が告白しているが、もし彼がいま生きていてヘア・スタイリスティックスを観たら意識の白夜を彷徨うどころか滑り台の上から容赦なく降下して(ヘルター・スケルター)、真夜中にトイレに駆け込んで胃のなかのものすべてを嘔吐し続けた......かもしれない。
とにかく僕は、ソールドアウトのリキッドルームに自分のコネを駆使してまんまと入り込んだのだった。場内は控えめに言っても90%以上はゆらゆら帝国のファンだろう。そしてゆらゆら帝国のファンは寛大だった。前回、僕が中原昌也を観たときは明らかに彼の音楽に嫌悪を感じていた客がそれなりの数いたものだったが(それがどのバンドのファンなのかはロビーの出入りを見れば一目瞭然だった)、ゆらゆら帝国のファンは決して居心地が良いとは言えない満杯のリキッドルームのなかでヘア・スタイリスティックスのライヴを最初から最後まで温かく見守っていた。音にハマり、奇声を上げ、明らかに楽しんでいた。
というか、ヘア・スタイリスティックスはこの晩も最高のライヴを披露した。ゆらゆら帝国のファンは自分たちの幸運に感謝したことだろう。中原昌也はバンド編成による特別なセットで臨んだが、実際に出てくる音も格別だった。中原が卓を操作して、ベース=AYA(OOIOO)、ドラム=姫野さやか(にせんねんもんだい)、キーボード=渡辺琢磨(Combo Piano)による4人が基本。途中からもうひとりドラム=千住宗臣(ex. V∞REDOMS)が加わった。彼らの演奏は、何年もともに活動してきたバンドのように息が合っていた。あるいは、息の合わなさも面白味に変換していた。
前半、女性ふたりによるリズム隊(ベースとドラム)、そして中原との緊張感のある"間"の取り方に我々は息を飲み、それが数十分続いた。控えめな騒音と瓦礫のなかを中原がゆっくりと歩きはじめたようだった。演奏はじょじょに激しさを増し、中盤ではサン・ラめいたコズミックな演奏が我々の精神に激しい火柱を打ち立て、そして最後は中原の"叫び"に呆然と立ちつくした。叫び、咆哮......これを聴いたとき僕はまたしても目頭が熱くなってしまった。そして今回もまたTシャツを1枚買った。しかもライヴがはじまる前にだ(毛利教授も買った)。
巨人ゆえにデカイ、といういかにも大阪らしい名前を持つ大阪のふたり組は、もちろん初めて聴いた。ヘア・スタイリスティックスのお見事なライヴの直後ではやりづらさもあったかと思うが、巨人のギターとドラムによるコンビネーションは最初から自分たちの世界に没入し、巧妙なミニマリズムによる興味深い演奏を展開した。それはいわゆるグルーヴィーな演奏ではなければブルースでもなく、強いて言うなら日本の大衆芸能で磨かれてきた間合いのリズムのような気がする。ギターは弾くというよりも、擦り、叩いているようでさえあった。アッパーでもダウナーでもない微妙な温度感のある音楽だった。
さて、僕は例によって例のごとく、7時過ぎにリキッドに着いてからというものしこたまビールを飲んでいた。そしてその晩の最後の1杯にしようと決めたビールを片手に、僕はバンドの出番を待った。
"おはようまだやろう"ではじまった。演奏は液体のなかを泳ぐ魚類のように、滑らかに展開された。ゆらゆら帝国のスムーズな演奏はフロアを果てしない夢のなかに滑らせる。「ああ もう 何も求めず 何も期待せず 全てをあきらめた後で まだまだ続く」――坂本慎太郎の屈折したコズミック・ブルースが鼓膜にこびりつく。続いて長いインストへ。満杯のリキッドはサイケデリック・メリーゴーランドと化した。あとは音に集中していればいい。複雑な曲をシンプルに聴かせる巧妙な演奏力で、バンドはナンセンスとニヒリズム、そして華麗なファンタジーをまぜこぜに、手慣れた態度で放出した。
昔から思っていたことだが、ゆらゆら帝国のファンは格好いい男や綺麗な女の子が多い。暗闇だから実際の顔はどうかわからないけれど、ファッションにちゃんと気を遣っているのだ。何も高価なブランドを着ているわけではないが、古着などで工夫して自分たちのスタイルというものを持っている。それは往々にして60年代ファッションをアレンジしたもので、僕は彼らのこだわる態度が嫌いではない。ライヴは半ばに差し掛かると"3×3×3"のイントロが演奏される。ファンはいっきに噴火する。それに続く"タコ物語"でバンドはまた違う扉を開ける。淫靡なセックスを暗示するこの曲を、リキッドルームで踊っているレディーたちはどのような気持ちで聴いているのだろうか。僕はこの曲のなかに坂本慎太郎のセックスへの複雑なオブセッションを感じるのだが......。
"順番には逆らえない"~"EVIL CAR"で興奮状態を保ちつつ、最後の曲は冷酷なエレジーであり希望の歌でもある"つぎの夜"だった。このエンディングがまた見事だった。単純に盛りあがったままでは終わらないという、ゆらゆら帝国の独特なカタルシスがあった。
エリートは、所詮は自己正当化する。連中は頭が良いからそれなりにうまく、抜け目なくそれができる。そしてエリートに憧れるエリートにはなれない人たちのあいだでそれはあり難がられる。12月30日のリキッドルームは本当に充実していた。異端者が異端者を呼び、集まり、エレガントな騒音に酔いしれながら一時のサンキュアリーを形成したのだ。みんながファッショナブルだったし、この音楽がこれだけの人数を動員しているのだから未来は決して暗くない(楽屋には七尾旅人もいたしな)。
というわけで僕は最後から2番目のビールを手にしながら、カメラマンの小原泰広君とリキッドルームを後にして、下高井戸のトラスムンドに向かった。
野田 努