サンプリングで作られた〈KDJ〉からのデビュー・トラック “Lake Shore Drive” 以降、自らの音楽理論に基づき確信的な作品を生み出してきたセオ・パリッシュは今作でもその姿勢を失うことはない。シカゴのオリジナル・ハウス世代をリアルに体験しながら、異行のハウスを生み出し、ケニー・ディクソン・Jr とともに多くのフォロワーを世界中に生み出してきた彼は、ソウルやジャズといった “ブラック・ミュージック” の先達ジャンルへの敬愛も作品で強く表現してきた。オリジナルの作品を普通になぞるのではなく自らのフィルターを潜らせた上で。
本作は初のシンガーとのコラボ・アルバムであり、セオ流のスピリチュアル・ジャズ作品と捉えることができる。
相手のモーリサ・ローズはベテランのシンガーで、これまで〈サウンド・シグネチャ〉とは2017年のアルトン・ミラー「Bring Me Down」を皮切りに、セオとの初コラボ「This Is For You」、「It’s Out Of Your Control」を経て今回遂にアルバムへと至った。そのコラボ作品をざっと説明すると、〈サウンド・シグネチャ〉のカタログ史上最もソウルフルなヴォーカル・ハウスといえる “Bring Me Down” は、アルトン・ミラーによる心地よいジャジーなタッチのハウス・トラックとモーリサの歌声によるソウルフル・ハウスで、王道の歌モノ・ハウスの魅力に溢れた楽曲として幅広い層に受け入れられた。次作の “This Is For You” では、マイナーでアンニュイなキーボード・リフと4つ打ちの痕跡をアヴァンギャルドなリズム隊がなぞるセオ・パリッシュらしい実験性が散りばめられたトラックに、ほろ苦く切ないヴォーカルが合わさることで『Wuddaji』のハイライトとして記憶された。さらに2022年「It’s Out Of Your Control」では、ハイハットこそ裏打ちながらやはり実験的なドラム主体のトラックと、モーリサのコーラスのように歌い上げる酩酊感あふれるヴォーカルが独特のサイケデリック感を醸したディープなダンス・トラックとして、前2作とは異なるアプローチを表してみせた。
さて、ここでモーリサ・ローズについても紹介しておくと、デトロイトを拠点とするベテランのシンガーで、わずか7歳でゴスペルのレジェンドであるビル・モスと妻であるエッシー・モスに認められ彼らの〈ビレース・レコード〉と契約し10才でレコード・デビューを果たして以降、メジャー〈EMI〉との契約、独立しレーベルを立ち上げ、自ら楽曲制作も始める、という幼いときより天才性を周囲に認められてきた人物。パフォーマーとしてもアニタ・ベイカーやチャカ・カーンともかつてステージを共にし、加えてブッキング・エージェンシーとしても活動、米国映画俳優組合・TV映画ラジオの芸術家協会である SAG/AFTRA のミシガン州役員も務めるなど、音楽都市デトロイトの音楽家として豊富な経験と、重要な役割を果たしてきたことがキャリアからうかがえる。
そのような充分すぎるキャリアを重ねたデトロイトのベテラン・シンガーと、説明不要の個性を放ち続けるDJ/プロデューサーが10曲に渡ってコラボレーションをおこなったのが本作なのである。
はたしてでき上がった作品は「Free Myself」のタイトルどおり、ふたりが枷を外し己を自由に解放させたタイトル通りの内容となった。先行EPとなった表題曲 “Free Myself” はモーリサの歌唱をじっくり染み渡らせるような、スロウで低い重心のダウンテンポ・ソウル。次の “The Truth” ではベスプレとして活動するデトロイトの若手アーティスト、ケイラン・ウォーターマンも加わり、ゴスペル・ソウルのようなビートダウンを聴かせてくれる(この2曲のみ7インチ・アナログとしてフィジカル化)。3曲目の “I’m Done” は、抑揚を効かせながら力強いイメージが残る歌唱がエキスペリメンタルなトラックを下敷きに訴えかける真夜中のソウル。続く “Spiral Staircase” でもモーリサの歌声が主旋律として響き、掴みどころのないドラムがビートを刻むなか、フリーキーなピアノやキーボードは後ろで控えめにある。ささやかなメランコリアを纏ったリフとベースラインの不穏さが押し寄せる “Purify Me” と、ミニマルなパーカッションのビートダウンにリフレインするヴォーカルの “Everything You Want” を経て、Duminie DePorres のファンキーなブルース・ギターとリズムを強く意識したモーリサの声によるデトロイト・ファンク “Snakes” が存在感を放つ。アルバム中最もセオのハウス・サイドが展開する “Surround The World”、“Once I Been Gone” の実験的でサイケデリックなアブストラクト・ハウス、“Spiral Staircase” のインストで幕を閉じる。
初のヴォーカル・アルバムは過去最もジャズでアヴァンギャルドな作品となり、セオ・パリッシュは自らの革新性を改めて知らしめる。
「NotNotFunã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
これまで不定期に単発のレヴューを掲載してきたが、この度月一で4枚分のディスク・レヴューをまとめたコラムをおこなうことになった。私が取り上げるものは主にジャズ系の作品だが、いわゆる王道のそれではなく、他ジャンルの音楽がミックスされたものが多い。そもそもジャズを聴く前からロックやクラブ・ミュージック全般を聴いていたし、DJカルチャーに触れることによって折衷的な音楽の聴き方をするようになったから、ジャズにしてもソウルやファンク、民族音楽など自然といろいろな要素が融合したものを好むようになった。従って、ジャズを中心としつつも、それにとらわれることなく幅広い音楽を取り上げたいと思う。そして、DJをやっていると人が知らないレコードをプレイする楽しさを感じることがあるが、レヴューにおいてもそれは同じである。いろいろなところで取り上げられる著名アーティストではなく、どちらかと言えばあまり日の当たらないマイナーなアーティスト、まだあまり知られていな新人の方に目が向くことが多い。このレヴューでもそうした作品を積極的に取り上げられればと思う。

Speakers Corner Quartet
Further Out Than The Edge
OTIH / ビート
サウス・ロンドンのジャズ・シーンでは、既にシャバカ・ハッチングスやモーゼス・ボイドなど評価を確立したミュージシャンも多いが、一方で次々と新しい才能が芽吹いて新陳代謝がおこなわれている。スピーカーズ・コーナーズ・カルテットもそんな新しい集団で、もともとブリクストンでおこなわれていたスポークン・ワードやヒップホップのイベントのバック・バンドから発展している。メンバーはビスケット(フルート)、クウェイク・ベース(ドラムス、パーカッション)、レイヴン・ブッシュ(ヴァイオリン)、ピーター・ベニー(ベース)で、なかでもクウェイク・ベースはシャバカ・ハッチングスと1000キングスというユニットを組んでいたことでも知られ、レイヴン・ブッシュはマルコム・カット率いるファンク・バンドのヘリオセントリックスのメンバーだ。これまでにMFドゥーム、ディーン・ブラント、サンファ、ケイト・テンペスト、リアン・ラ・ハヴァスなどいろいろなアーティストと共演し、今回ファースト・アルバムの『ファーザー・アウト・ザン・ジ・エッジ』を完成させた。
サンファ、ケイト・テンペスト、ティルザなどこれまでの共演者のほか、シャバカ・ハッチングスやジョー・アーモン・ジョーンズらも参加しており、サウス・ロンドンにおけるジャズとその隣接する多種の音楽の融合を見せるアルバムとなっている。サンファが歌う “キャン・ウィ・ドゥー・ディス?” やコビー・セイが歌う “オン・グラウンズ” などのエレクトリック・ソウル、レイラーが歌う“ソープボックス・ソリロクワイ”のようなフォーキー・グルーヴ、ケイト・テンペストのポエトリー・リーディングをフィーチャーした “ゲロニモ・ブルース”、タウィアのダークなスポークン・ワード調のヴォーカルが光る “ラウンド・アゲイン” などのトリップ・ホップ系まで、だいたいの曲がシンガーやラッパー、詩人たちとのセッションとなっており、スピーカーズ・コーナーズ・カルテットの生まれてきたバックグラウンドを物語る。
また、ヴァイオリンを交えた編成というのが特徴で、全編における繊細なストリングス使いが奥行きのある空気を生み出している。カーク・ディジョージオ(アズ・ワン)を彷彿させるエレクトロニック・ジャズの “アキュート・トゥルース” にしても、変拍子のビートに絡むヴァイオリンの響きが他にない個性を生み出していく。そして、“ドレッディッド!” はレア・センが歌っているのだが、彼女も参加した昨年のウー・ルーの『ロガーヘッド』に共通するオルタナティヴな部分もある。クウェイク・ベースとレイヴン・ブッシュは『ロガーヘッド』の録音にも参加していて、ウー・ルーとは同じブリクストン出身ということもあってか、似た空気感を持つのかもしれない。

Aja Monet
When The Poems Do What They Do
Drink Sum Wtr
ジャズとポエトリー・リーディング/スポークン・ワードの融合では、アジャ・モネの『ホエン・ザ・ポエムズ・ドゥ・ワット・ゼイ・ドゥ』というアルバムが見事だ。ジャズはヒップホップが誕生する以前は詩の朗読のバックで演奏してきた歴史があり、ラスト・ポエッツやギル・スコット・ヘロンといったアーティストが生まれてきた。アジャ・モネはニューヨークのブルックリン出身の詩人/パフォーマーで、ニューヨリカンのポエトリー・カフェの「グランド・スラム」を拠点に詩の朗読のパフォーマンスをおこなってきて、詩集や著書もいくつか出版している。ブラック・ライヴズ・マターはじめ、有色人種や先住民族への差別やジェンダー問題に関する事柄など、社会問題を詩にしてきた活動家で、パレスチナのレジスタンス活動に関する書籍も出している。ハリー・ベラフォンテのドキュメンタリー映画『フォローイング・ハリー』にも登場する彼女にとって、『ホエン・ザ・ポエムズ・ドゥ・ワット・ゼイ・ドゥ』は初めて音楽をバックにしたファースト・アルバムで、そもそもは『ザ・デヴィル・ユー・ノウ』という短編映画の音楽から発展したものである。バック・ミュージシャンはアトゥンデ・アジュアーことクリスチャン・スコット(トランペット)、マーカス・ギルモア(ドラムス)、エレナ・ピンダーヒューズ(フルート)、サモラ・ピンダーヒューズ(ピアノ)など、アメリカの現代ジャズを代表する面々が務める。
“ブラック・ジョイ”、“ウェザーリング” など、これまで彼女が出版してきた詩集に音楽をつけた作品が並び、“イエマヤ” のようにラテン色豊かな作品もあり、非常にルーツ色豊かなアルバムだ。“アイ・アム” は自身の存在やアメリカの黒人のルーツに向き合うような作品で、アジャの声に対してパーカッションのみで綴る非常にシンプルな構成だが、詩の内容やアジャの声のトーンに対してまるで生き物のようにパーカッションが変化していくという、ジャズとポエトリー・リーディングの醍醐味が味わえる。“ホワイ・マイ・ラヴ?” のように優美なナンバーの一方で、“ブラック・ジョイ” のようなディープなスピリチュアル・ジャズ調のナンバー、ゴスペル的な “ザ・デヴィル・ユー・ノウ”、アフリカ色豊かな “フォー・ザ・キッズ・フー・リヴ” など、音楽的にも非常に優れたものが並んでいる。アメリカの女性詩人のアルバムでは、サラ・ウェブスター・ファビオの『ジュジュズ/アルケミー・オブ・ザ・ブルース』(1976年)がカルト的な傑作として知られるが、詩と音楽を両立させた『ホエン・ザ・ポエムズ・ドゥ・ワット・ゼイ・ドゥ』も、極めて重要なアルバムとなっていくだろう。

The Gaslamp Killer And The Heliocentrics
Legna
Cuss
スピーカーズ・コーナーズ・カルテットのレイヴン・ブッシュが属するヘリオセントリックスと、LAシーンの立役者のひとりであるDJのガスランプ・キラーが共演した『レンガ』。近年はプライヴェートのトラブルで活動も休止していたガスランプ・キラーだが、2020年に久々のアルバム『ハート・マス』をリリースし、それに続くのが『レンガ』となる。リーダー格のマルコム・カットがマッドリブ、DJシャドウ、イーゴンらと交流があり、LAシーンとも結びつきのあったヘリオセントリックス。ガスランプ・キラーも自身のミックス・テープにマルコム・カットのソロ作品を入れるなどしてきて、2013年にはヘリオセントリックスとのカップリング12インチをリリースしたこともあった。ガスランプ・キラーのツアーではヘリオセントリックスがバック・バンドにつくこともあり、両者の結びつきは深まっていく。そして、ガスランプ・キラーのアルバム『インストゥルメンタレパシー』(2016年)や『ハート・マス』にヘリオセントリックスはスポット的に参加していたが、『レンガ』は初めて一緒に録音したアルバムとなる。
この両者の共演作となると、内容は大体サイケデリックなジャズ・ファンクではないかと想像がつく。そうした予想にたがわず、ロウで荒々しい演奏とスペイシーなエフェクトがブレンドされ、ディープで幻惑的な世界が展開される。そうしたなかで、これまでヘリオセントリックスのアルバムでも度々歌ってきたスロヴァキア出身のシンガー、バルボラ・パトコヴァをフィーチャーした “シーズ・カミング” が出色の出来栄えだ。彼女のポエトリー・リーディングのような歌がまるで魔女の呪文のようで、カリフォルニアの伝説的なサイケ~電子ロック・バンドのフィフティ・フット・ホースから、ホークウィンドやゴングなどヨーロッパのスペース・ロックやプログレを連想させる。レイヴン・ブッシュはストリングス、エフェクト、キーボード、モーグ・シンセなどマルチに演奏しているのだが、パーカッシヴなトラックとスペイシーなSEで不穏な空気を作り出す “ウィッチズ・ウィスパー” などは、彼の手腕が大いに生かされたナンバーで、トリップ・ホップ的なアプローチが光っている。

Islandman feat. Okay Temiz and Muhlis Berberoğlu
Direct-To-Disc Sessions
Night Dreamer
トルコのイスタンブール出身のDJ/プロデューサーであるアイランドマンことトルガ・ベユクは、地元のトルコはもちろん、世界中の民族音楽を研究し、バレアリックなスタイルで自身の作品に取り入れてきたアーティストとして知られる。そんな彼がトルコ出身で、オリエンタル・ウィンドを結成して北欧などでも活動した伝説的なジャズ・ドラマー/パーカッショニストのオケイ・テミズと共演した『ダイレクト・トゥ・ディスク・セッションズ』。これまでこのシリーズは、シェウン・クティとエジプト80、サラティー・コールワールとウパジ・コレクティヴ、セウ・ジョルジとホジェー、ゲイリー・バーツとマイシャと、ジャズ、アフリカ音楽、ブラジル音楽、インド音楽など、新旧のいろいろなミュージシャンたちのセッションを実現してきたが、そのなかでも非常にユニークな顔合わせが実現した。また、トルコの民族楽器であるバグラマという弦楽器奏者のムーリス・ベルベロールも参加している。
オケイ・テミズといえば、DJからはトリッキーなパーカッション・トラックの “Denizaltı Rüzgarları” あたりが知られるが、今回のセッションでも当然取り上げていて、原曲の何とも言えないエキゾティックで摩訶不思議な感じを増幅させている。“Papatyalara” はアフリカ音楽やジプシー音楽のようなパーカッシヴな舞踏曲で、中近東と近いトルコならではのアラビックな旋律を持つ。アイランドマンのダンス・ミュージック的なセンスがうまく生かされた楽曲だ。アイランドマンのオケイ・テミズに対する敬意や研究がよく伝わってくる共演で、ガスランプ・キラーとヘリオセントリックスの共演同様に両者の個性や特徴を理解し、組み合わせた好企画と言えるだろう。
*§*†
まだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった。外出先から帰宅したばかりの私はどういうわけか無性に初期の暴力温泉芸者(中原昌也)のアルバムが聴きたくなり、CDラックの奥のほうに突っ込まれていた『Otis』(Endorphine Factory, 1993)をその手前に無造作に積まれた本の山を崩しつつ、苦労して引っ張り出してきた。YouTubeにアップロードされた音源を適当に見繕って聴いてもよかったのだが、CDでないといけない気がしたのでブラウザは開かなかった。ヴァイナルほどではないにせよCDで音楽を聴く行為には昨今では明らかに儀式的な性格が付きまとっている。とはいえある種の聴取のモードに入るためにその過剰さが好都合に働くこともあるのだ。プラスチックケースを開け、ディスクを取り出してスリットに挿入し、読み込まれたのを確認してから再生ボタンを押す。最初のトラックは中原本人と思しき青年が、友人たちとともに訪れたカラオケボックスで『ミラーマン』の主題歌を気持ちよく歌う様子をほぼそのまま垂れ流したあの有名な楽曲(?)である。このトラックによってアルバム全体を貫くトーン、表面に現れるスタイルとは別の、根底をなすメタスタイルとでもいったものが決定される。リズムマシンが打ち出す正確なリズムはつねにどこか場違いな軽みを帯び、掻き鳴らされるギターの弦はたいてい緩みきって調子外れな音を出しており風刺性さえ感じさせない。歌とも叫びとも語りともつかない声が時折介入するかと思えば、突如として不穏な沈黙が挟まる。異様にオプティミスティックな映画の一場面がサンプリングされた次の瞬間には、ジャパノイズの十八番たる爆発的なハーシュノイズが耳を覆う。絶対的に文脈を欠いたデスヴォイスがいつ果てるともなく続き、そして糸が切れたように唐突に終わる……楽曲ごとにスタイルはまったく異なるにせよ、その背後にある中心的モチーフあるいは戦略素は一貫している。テレビで繰り返し流れるCMソングや子ども時代に見ていた(見せられていた)特撮番組の主題歌といった、嫌でも耳に入ってきてしまう音、イヤーワームとして頭に染み込んでしまった音をいわば「吐き戻す」場所としてのカラオケボックスがそれだ。むろん第一義的にはそこは、日本のポピュラー音楽が文化産業(アドルノ)として消費者側の需要を刺激しつつ、映画やテレビといった視聴覚メディアの物語生産のフォーマットと連動して、聴覚的‐情動的な支配‐被支配関係の再生産を行っている当の場所であるのだが……音は、社会から切り離された抽象的な空間で生成されているわけでは決してなく、社会そのものの良くも悪くも具体的な、生々しい運動から放たれるノイズとして存在している(中原も友人たちと連れ立って、いわば社会的行動の文脈においてカラオケボックスを訪れている)。暴力温泉芸者はカラオケ的な音がもつそうしたノイズ的、ないしはアブジェクション(クリステヴァ)的な本性に気がついているようだ。暴力温泉芸者の名に含まれる「温泉」は──もちろんそこにもしばしばカラオケマシーンが置かれている──性的かつ生物学的な再生産(生殖)のために家庭とは別に社会的に設えられた空間の名にほかならない(他のノイズ・ミュージシャンたちと同様に初期の暴力温泉芸者は古いポルノ映画からの引用を頻繁に行っている)。他方、暴力温泉芸者の出す音がときにどれほど凶暴に(文字どおり「暴力」的に)なろうと、単純なレベル・ミュージックには決してならない(なれない)のは、レベル・ミュージックさえ商業的に利用し、消費と生産の際限のない循環に包摂することができる後期資本主義の(ポストモダンの、と言ってもよい)メカニズムについての意識をもたないことが彼のように知的に鋭敏な人間にとっては不可能なことだからだろう。暴力温泉芸者は言ってしまえば教養がありすぎて、どこまでいっても体制との折り合いをつける「芸者」としての仮面を外すことができないのだ。それは良くも悪くも、である。しかしその不可能性の前で恐れることなく棒立ちし続けるすっとぼけたアイロニーの内在的強度こそが、暴力温泉芸者のノイズを他面では、MerzbowやIncapacitantsの超越的あるいは超俗的なニュアンスをもったノイズから差異化している。別にこれは私一人の独創的な見解というわけでもなく、彼の音楽が好きな人たちのあいだでは多かれ少なかれ共有されている見方だと言っていいだろう。再生産の場所の曖昧な汚濁を引き受けた暴力性は、犬の鳴き声(おそらく小型犬だ)とカンフー映画の打撃の効果音と取り留めなくその周波数を変えるサイン波との組み合わせのなかで、アイロニカルに物象化される。ポルノへの参照に加えて中原の音楽には、初期のコーネリアス(小山田圭吾)と同様に、お笑い(コメディ)へのベクトルが含まれている(そしてもちろんコメディの感覚‐運動図式は「いじめ」のそれから切り離せないものである限りで、ポルノと同様のアブジェクション的な次元を備えてもいる)。道化師の媚態はそれ自体が鋭利な恐怖の源泉となりうる。
私は満足してCDプレイヤーの停止ボタンを押す。
その夜私が暴力温泉芸者のアルバムを聴きたくなったのは偶然ではなく、実はあるノイズ・ミュージックのライヴを聴いてきた帰りだったからなのだが(私たちの心のなかで生じる表象の移り変わりは事程左様に、一見私たちの自由意志に従っているようでありながら、突き詰めていくとこうした機械論的因果性のもたらす必然性に例外なく従っているものなのである──心的な領域にまで届く運命論(fatalism)、この地点でこそ、私たちが自身を自由であると感じるのは私たちがたんにその意志を規定している原因を知らないからなのだと主張する必然主義の哲学者スピノザと、夢や失錯行為はたんなる偶然的なものなどではなく無意識的な隠れた動機をもつものなのだと強調する合理主義の精神分析家フロイトとがにこやかに握手を交わす)、そのライヴによって突きつけられた謎を解くための鍵をおそらく私は、初期の暴力温泉芸者のアルバムを聴くことによって無意識のうちに探っていたのだろう。その謎とはひとことで言えば、結局のところ、ノイズとは何なのだろうか、というものである。というのもすでに述べたとおり、中原のアルバムに登場する音は猥雑なまでの多様さを示しており、単一の本質的な特徴によって括ることなど(カラオケ的という茫漠とした特徴を除けば)到底できないように思われるし、しかもそれらの音は各々単独に取り出してみれば決してノイズとは呼ばれえないような、私たちが日常的に耳にするようなありふれた音だからだ。いや、平凡さを通り越してその音が与える印象は、ほとんど頓馬の域にまで達していると言ったほうがいいのかもしれないが。
誰もはっきりとは言わないが誰もが薄々感じているであろうことを、ここであえて言ってしまうと、ほとんどのノイズ・ミュージックは全体の印象としては同じように聞こえるものだ。もちろん部分ごとに比較すれば差異は当然のように聴きとれる。だが全体としてのノイズは、アルバム単位であれトラック単位であれ(そもそもトラックごとに楽曲として区切られること、始まりと中間と終わりをもつこと自体を、ノイズ・ミュージックは忌避する傾向にあるのだが)個体性よりも識別不可能性を明らかに志向している。聴き分けるということへの、知覚の解像度への抵抗がそこにはある。だからこそ(ちなみに自由即興のジャンルにも似たような傾向が見られるが)その識別不可能性があたかも存在しないかのように、それらの「作品」の個別的特徴を知覚的に明らかのものとして語ってみせることが批評的なパフォーマンスとして成立するのだろう。しかし実際のところ……使用する機材の違い、スタイルの違いはあれど、ノイズ・ミュージックは、ノイズであろうとする限り、ある意味で多かれ少なかれみな〈同一の音〉を鳴らしている、と言うことができるのではないだろうか。すべてのノイズ・ミュージックは、多かれ少なかれ類的につながっているのだと。そしてそのような識別不可能性を真正面から認めるときにこそ、〈いまここ〉ならぬ〈そのときそこ〉で鳴っていたノイズの特異性を聴きとることができるのではないだろうか。この特異性は、声に出されることのないひとつあるいは複数の問いの雲のようなものとして、耳の中で高速で回転し続ける。声を獲得し定式化されるときには、すでにそれは陳腐な響きを帯びてしまっていることだろう。その〈問い以前のもの〉が耳の中で回転しているうちに、言語化されてしまう前に、テープにその〈問い以前のもの〉と同等な何かを自分なりのやり方で吹き込んでおくこと。それをしていれば、私も今頃ノイズ・ミュージシャンになることができていたのかもしれない。だがもう遅い。その問いは言語化されて、カラオケで歌われるあれやこれやの歌と同様の、あのありふれた、ちょっとした汚らしさを伴って再生産されてしまっている。「結局のところ、ノイズとは何なのだろうか」という少しばかり気どった歌の文句として……。
[[SplitPage]]§†**
「ノイズとは何か」という問いが「音とは何か」や「音楽とは何か」といった問いと同様に、その見た目の初歩性に反してかなり厄介なものであることは、現代の実験音楽とその周辺の言説にある程度以上慣れ親しんできた人々のあいだでは、おそらくほとんど常識と言っていいほどによく知られた事柄である。「〜とは何か」という本質主義的な問いの立て方が、すでにこの問いを袋小路へと向かうよう運命づけているのだと述べるだけでは十分ではない。困難は、音や音楽が問いの対象としてポジティヴなものであるのに対し、ノイズはネガティヴな対象であるということに存している。とはいえ、ネガティヴであるとは抽象的であるということを意味するのではない。ノイズは私たちが日常的に繰り返し耳にしているものでもあるし、間違いなく経験的な具体性を帯びた対象であると言うことができるのだから。
「ノイズとは何か」というこの具体的すぎるがゆえに手に負えない問いに対して、いまあえて答えることを試みるならば、採れる道筋はおそらくひとつしかない。すなわち、最も素朴な答えから出発して、その失敗を確認しつつ、徐々に素朴でない答え方へと移行していくというやり方である。かくしてひとは次のように呟くことになる。ノイズとは少なくとも、音楽的ではない音のことだ。音楽的な音とは、音楽理論で音高(ピッチ)と呼ばれ、音響物理学では周波数(可聴域内の)と呼ばれる要素をもった音のこと、言い換えれば、リズムとして知覚されるよりも短い時間スケールにおいてある種の安定した反復構造を示すような音のことである。したがってノイズとは、そのような内的な反復構造ないしは周期性をもたない音のことである、と。反例を挙げるのはそれほど難しくない。スピーカーの配線を間違えた際に鳴るハムノイズは明らかに音高/周波数をもつが、それでもノイズと呼ばれている。また、身のまわりの(やや古い)電子機器から発されるビープ音や、オーディオ機器のテストの際に使用されるサインスイープ音も、純粋な音高/周波数を備えているにもかかわらず、むしろノイズとして聴かれることのほうが多いだろう。ゆえに、ある音がノイズであるか否かは、その音の内的構造としての周波数や倍音構造に即して決定されるのではなく(西洋音楽において非整数倍音をもつ金属的な音色がノイズないしそれに準ずるものとして扱われることが多かったという歴史的事実をひとまず脇に措くなら)、むしろその音にとっての外的な構造、すなわちその音がそこにおいて聴かれているコンテクストに即して決定されるのだと言われなければならない。
だが、そのように言ってみたところで何も解決されはしないということに私たちはただちに気づかされる。実際にさまざまな音がノイズとして聴かれるのが〈いかなる〉コンテクストにおいてなのかを突き止めない限り、「ノイズとは何か」という問いは相変わらずひとつの謎として残り続けることになる。
視点をずらしてみよう。一般にある音がノイズとして聴かれるのはその音が非音楽的なコンテクストにおいて聴かれる場合、またその場合に限られると述べるとき、私たちはノイズをいわゆる環境音と実効的に同一視していることが多いように思われる。たしかに、都市において聴かれる各種の心理的にストレスフルな環境音は、イタリア未来派のルイジ・ルッソロの「ノイズの芸術」のアイデアが典型的に物語るように、歴史的に見てノイズの具体例として真っ先に挙げられる類いのものではあった。しかしその一方で、田園的な風景のなかで聴かれる川のせせらぎや鳥の鳴き声といった環境音は、一九世紀のロマン派以来(古代ギリシアのピタゴラス派の「宇宙の音楽」以来ではないにせよ)「自然の音楽」という詩的メタファーによって枠づけられ、ノイズとは正反対の評価を受けとることも少なくなかったことが思い起こされる。付言しておけばR・マリー・シェーファーのサウンドスケープの思想における「保護」されるべき環境音とそうでない音とを分かつ差異も、こうした自然/人工という古くからある二項対立を参照して設定されている。事情がそのようなものである以上、歴史的に見てすべての環境音がつねにノイズの領域に属してきたと言うことはできないだろう。また、ノイズと呼ばれる音のなかに都市の環境音だけでなく、先に触れたような人工的に(意図的に)生成された電子音、とりわけカラードノイズと呼ばれるような音が含まれていることを考えるなら、すべてのノイズが(非意図的に生成された音という意味での)環境音の領域に包摂されるわけではないということも認めざるをえない。要するにノイズと呼ばれる音の領域は、環境音のそれとも電子音のそれとも正確に重なりあうことはないのである。
加えて、ノイズの概念は近年では音響的なものの領域を超え出ていく傾向さえ示している。「ノイズという語を、ほとんどの場合引用符付きで、音とは関係のないさまざまな文脈においてしばしば情報と対立するものとして用いることはいまや当たり前のことになった」と、セシル・マラスピーナはその著書『ノイズの認識論』の冒頭で述べている。たとえば金融の分野で語られるノイズとは、「証券取引所でのランダムな変動に関連した不確実性」にほかならない。「ノイズは、経験的探求のほとんどすべての領域で、データの変動性の統計的分析に元から備わる概念となった」。現代的統計学における精度(precision)の概念が誤差すなわちノイズがそこに収まる幅によって定義されていることからもわかるように、ノイズは現代の知、科学的認識の手続きにとって付帯的なものではなく、むしろ構成的なものである。「ノイズという語の特別な意味はそれゆえ、統計的平均との関連での不確実性、確率、誤りといった考え方が被った方法論的な変容とそれらがまとった新たな科学的身分とをともに含意している。このような豊かさを背景として、サイバネティクスと情報理論においてその後になされたノイズの定義は、物理的エントロピーの概念と、より一般には不確実性、統計的な変動および誤差の概念を遡及的に取り込むこととなった」(Cecile Malaspina, An Epistemology of Noise, London: Bloomsbury, 2018, p. 1-2)。
ならばそこからのアナロジーで音としてのノイズを、シグナルすなわち聴取者に何らかの情報を与える正常な音に対立する、いかなる情報も与えない異常な音だと定義すればよいのだろうか。少なくとも理念的な極限としてなら、そのような不可能な音の存在を仮定することも許されるだろう。だが言うまでもなくそのような定義からは、音響的な複製や生成の技術的過程で生じる純粋なトラブルとしての、再認不可能で複製不可能な(すなわち反復不可能な)音のようなもののみを〈ノイズなるもの〉のモデルとして特権化するような身振りが避けがたく生じてくる。それはノイズの概念を再び、可能的な聴覚経験の全体を吊り支える、それ自体は聴覚的に経験不可能であるような単一の点に、あるいはそうした全体に対する超越論的ないしは潜在的な裏地のようなものに変えてしまうことにつながるだろう。そのような「否定神学」的なノイズの概念を振りかざすことが、数学的極限としてのホワイトノイズに〈ノイズなるもの〉の超越的で実定的な理念を見てとる通俗化されたデジタル・ミニマリズムの素朴な態度と比べて、理論的にも実践的にも特段優れているわけでないことは言うまでもない。クリストフ・コックスが諸芸術における共感覚を唯物論的角度から論じる文脈で、ドゥルーズの共通感覚批判を引き合いに出しつつ、「感覚されうるものの存在ではなく感覚されるところのものを把捉する「諸能力の経験的使用」〔すなわち常識=共通感覚〕」に対立する、各能力の限界にまで行き着くことで「感覚されうるものの存在」を明るみに出すような「諸能力の超越論的行使」を称揚する際に陥っているのは、まさにこの種の危険であるように思われる(cf. Christoph Cox, Sonic Flux: Sound, Art and Metaphysics, Chicago, IL: University of Chicago Press, 2018, p. 212)。
結局、ノイズを聴くことのうちで賭けられているのは、その可能的な経験(つまり可能的なノイズの聴取)といったものではなく、むしろ実在的な経験、事実性としての経験、つまり実際に聴かれた音のうちでその音が自己同一性を失い、何か別のものへと変形していくのを(それがどれほど短い時間に生じることであれ)聴く、聴いて〈しまう〉ということであるのだと思われる。だがそのような事実的に聴いて〈しまう〉ことの核には、不可能な音の可能性をそれでも信じきるといった神秘主義の行為とは何か別のものが存在しているのでなければならない。
神秘主義なきノイズとの出会いにたどり着くためにまずなすべきことは、ノイズを何らかのタイプの音として実体化したうえでこれを聖別するような、あらゆる身振りを退けることであると考えられる。かつてエドガー・ヴァレーズは「主観的には、ノイズとはひとが好まないあらゆる音のことである」と述べた。このような心理的観点からの定義の企ては、たしかに「ノイズとは何か」という問いを「ノイズを聴くとはどういうことか」という別の問いに適切に置き換えるという点では有益なものである。しかしこれは、ヴァレーズ自身「主観的には」という留保を付すことで仄めかしているように、ある音がそこにおいてノイズとして聴かれるコンテクストについて情動的観点からの限定を加えるものでしかない。聴覚文化研究者のマリー・トンプソンが強調するように、ノイズというカテゴリーには明らかに「望まれない音」以上の何かが含まれている。「ノイズなくしては音楽も、メディア作用も、音そのものさえ存在しないのだ」(Marie Thompson, Beyond Unwanted Sound: Noise, Affect and Aesthetic Moralism, London: Bloomsbury, 2017, p. 3)。そしてその「〜以上の何か」とはおそらく、ポール・へガティが宇宙背景放射を念頭に置きつつ次のように語る際に仄めかしているような、ノイズにおける除去不可能な何かのことである。「ビッグバンは音をもっている──それは決して取り除くことのできない最終的なスタティックノイズだ──それゆえ宇宙それ自体は(少なくともこの宇宙は)ノイズとして、残余として、予期されざる副産物として想像されうるのであり、そして最後の音はまた最初の音であることになるだろう」(『ノイズ/ミュージック』若尾裕・嶋田久美訳、みすず書房、二〇一四年、八頁、訳文変更)。仮に宇宙そのものに音量のようなものがあるとして、それを無際限に増幅していくなら、どの局の放送も受信していないラジオの音量を上げていったときのように、ついには何らかのスタティックノイズが出現するはずである。その音は初めからすべての局の放送の背後で鳴っていたのだが、そのことが気づかれるのはそれらの放送すべてが終わった後のことでしかない(したがってそこでは所与としての可能的な音響の超越論的枠組みがアプリオリに聴かれているわけではない)。ノイズの除去不可能性は究極的には、ノイズがもつこのような時間的に捻れた存在論的身分に関わっている。へガティが思い描く「最後の」聴取が、彼が肩入れする哲学者ジョルジュ・バタイユにおける宇宙的な夜、絶対的な無差異への脱自的没入というヴィジョンに引きずられた誇張的な提案である点には注意すべきだが、ノイズを宇宙論的に理解しようとするその姿勢自体は、沈黙をノイズの同義語として用いたジョン・ケージの思想を彷彿とさせるものでもあり興味深い。
周知のようにケージは、ヴァレーズの定義とはわずかに異なり、「沈黙とは私たちが意図していない音のすべてである」と述べている。「絶対的な沈黙といったものは存在しない。したがって沈黙に大きな音が含まれるのはもっともなことであり、二〇世紀にはますますそうなっている。ジェット機の音やサイレンの音、等々だ」(Douglas Kahn, Noise, Water, Meat: A History of Voice and Aurality in the Arts, Cambridge, MA: MIT Press, 1999, p. 163より引用)。意図していない音とはすなわち、偶然的な音、正確に言えば「望まれない音」であるのかどうかさえいまだ不確定であるような音のことである。だとすればケージによる沈黙としてのノイズの定義は、ヴァレーズの定義が引いた主観性という境界線を一歩だけ、しかし決定的な仕方で、踏み越えていることになる。というのも、意図されない音として背景ではつねに何かが鳴っており、そしてこの鳴り響く何かは、私たちにとって(主観的に)偶然的であるだけでなく、究極的にはそれ自身において(客観的に)さえ偶然的な、あるがままの事物の断片にほかならないからだ。ノイズをネガティヴな情動との関係によって特徴づけるのではなく、情動そのものへの無関係、情動へのインディフェレンツ(無関心=無差異)によって特徴づけること。私たちはここで「偶然的なものだけが必然的である」という哲学者カンタン・メイヤスーの思弁的なテーゼを思い出すこともできる。偶然的な音としてのノイズは、一見、聴取する私たちの意識に相関的に存在しているにすぎないもののように思われるかもしれないが、実際にはそうではない。私たちの聴取の志向的働き(意図)が存在していなかったときでさえ何らかの音が沈黙として存在していたのであり、それが音として鳴っていたことに事後的に気づくことを通じて、私たちはこの沈黙をノイズとして遡及的に聴取することになるのである。偶然性のヴェールによって守られたものとしてのノイズは、私たちの意識や思考に対して非相関的に振る舞うことができるほとんど唯一の知覚的な存在者だ。裏を返せば、沈黙としてのノイズというケージの考えを偶然性という契機を無視して理解すると、ダグラス・カーンが鋭く指摘するように、音楽家の主観的な意図(発言)を「音そのもの」から除去することには成功しても、聴くことができる=音であるという等式に従って、汎聴覚性(panaurality)というかたちで主観的な属性を客観的な音の世界の全体に再び投影することになってしまうのである(cf. Kahn, op. cit., p. 197-8)。ゆえに偶然性という契機は「存在としての存在」ならぬ〈ノイズとしてのノイズ〉から切り離せない。そしてそのような偶然的ノイズは、日常的なコンテクストでも十分に出会うことが可能な、規定された個体的な音である限りで(その個体性がどれほど不可思議な構造をもつにせよ)、超越論的ないし潜在的なノイズからは区別され、事実論的ノイズと呼ぶことができるものだろう。
(例。暴力温泉芸者の初期の作品に聴かれるようなサンプリングとサウンド・コラージュは、そこで鳴っている音そのものは日常的によく耳にするような、消費社会が生み出した一種の音響的な屑であり、再認可能で反復可能な音であるにもかかわらず、ノイズとして十分に聴かれうるものとなっている。そうした事態はそれらの日常的な音がどこかで聞いたことのある音、勝手に耳に入ってくるような音であって、それが鳴った瞬間に一定の注意とともに聴かれるような音ではないからこそ可能になっているのだと考えられる。またそれは別の観点から言えば、どこかで聞いたことのある、おそらくは繰り返し聞いたことのあるような音こそ、かえってそれを聞いた時間と場所を厳密に特定するのが難しいということでもある。暴力温泉芸者においてはさらに、サンプリングを元の音源から直接行わずに、ダビングもしくはローファイな環境で録りなおして音質をわずかに悪化させたものから行うことで、時間と場所についてより特定可能性の低い音像が作り出されている。一般にある音が自身の生成された状況についての情報を与えなくなればなるほど、その音はノイズに近づくと言える。これはたんに音源の現前性から切り離された音という意味での「アクースマティック」(ピエール・シェフェール/ミシェル・シオン)な音になっていくこととは異なる。というのも、ノイズへの漸近においては原因としての音源の特定可能性というより、結果=効果としての音自体の同定可能性が壊れていくことになるからだ(つまり、その音が何から出た音なのかがわからなくなるのではなく、その音が何であるのかということ自体がわからなくなる)。日常的な音は事後的にしか(一定の注意で)聴かれないことにより、聴覚的記憶のシステムにある時間的な捻れを発生させる。私たちが事実論的ノイズと呼ぶのはこの捻れの個体的に規定された諸事例にほかならない。イニゴ・ウィルキンズがマラスピーナと同様に確率論と情報理論の文脈を踏まえて「不可逆的ノイズ」と呼ぶものも、私たちが事実論的ノイズと呼ぶものと同様に、システムのなかでの情報の回復不可能な消失とその結果生じる時間的非対称性に強く依拠しているように思われる(Inigo Wilkins, Irreversible Noise: The Rationalisation of Randomness and the Fetishisation of Indeterminacy, PhD thesis, Goldsmiths, University of London, 2015, p. 37-8)。)
ノイズに関するそのような強い偶然性、すなわち事実論性の仮定のもとでは、おそらく「私が聴いているのは何の音なのか」という問いを超えて、「私が聴いているのはそもそも音と呼ばれうる類いの事物なのだろうか」という問いを引き起こすような聴覚的‐音響的な出来事こそが、純粋なノイズとの出会いのメルクマールと見なされることになるだろう。このような出来事の概念は、環境世界のうちに折り畳まれた潜在的な〈生〉の線の反‐実現的な解放というドゥルーズ的な理解におけるそれよりも、日常的状況のうちには所属しえない実在的〈不死〉の輪郭の識別不可能な到来というアラン・バディウがその諸著作で描き出すようなそれにより近いと言える。バディウにおいて「出来事」とは、ある局所的な「状況」のうちでカテゴリー化され認識可能なものとなっている諸々の「存在」を超え出るものであって、ちょうど科学革命(パラダイム・シフト)を通じて立ち現れる諸概念間の共約不可能性がそうであるように、その「出来事」への忠実さを維持しようとする「主体」の助けを借りつつ、既存のカテゴリーを解体して新たな記述的手段を開発することで「状況」の再編成と拡張された認識可能性の出現とを準備するものである。それゆえ音にまつわるカテゴリーそのものの改訂可能性こそが、ノイズの純粋な現前化の核をなす。事実論的なノイズは、最初の聴取においては日常的な、再認可能で複製可能な音でありながら、最後の聴取においてはそうした普通の音がそこにおいてみずからの位置を割り当てられた現象性の枠組み全体が崩壊する可能性を指し示すことさえできるような、ある種の終末論的負荷を帯びた、独特な象徴的強度とアレゴリー的ギミックとを備えた音でなければならないだろう。サンプリングされ、反復可能となったデザインとしてのグリッチを私たちはもはやノイズとして聴くことはしないが、それでもサンプリングの使用法、さらには反復の手法そのものの内側で、ノイズ的としか呼びようがない予見不可能な出来事(それは必ずしも機械的なエラーではない)を「望まれない」仕方で到来させることの可能性は依然として残されていると言うことができる。手垢のついたものと見なされている音響的イディオムのうちに物質的に蓄えられたノイズ的なポテンシャルを解放し、そこに耳の注意が向かうよう促すことは、ジャンルとしてのノイズ・ミュージックと直接の関わりをもたずまたそれに隣接するジャンルで活動しているわけでもない多くのミュージシャンが、音楽史を展開させてきたかの単純さと複雑さとの弁証法に従って、各自の関心に応じて音楽の新たな次元を探求する際に本能的に行っていることですらある──ジャック・アタリの著作を引き合いに出すまでもなく、すべての音楽は(ノイズを好まない人々にとっては気の毒な話であるが)ある程度までノイズ・ミュージックであるのだ。かくしてノイズの本質性なき本質は、音のほとんど全領域にいわばノイズ的な仕方で、ある揺らぎとともに拡散される。音(のようなもの)としてのノイズがもたらす感覚的認知のプロセスの根本的な不安定化は、さまざまな分野を横断して現れる概念(のようなもの)としてのノイズの不安定な同一性と共振している(後者がマラスピーナの言う「認識論的ノイズ」だ)。「ノイズとは何か」という問いに答えるあらゆる企ては、それゆえ最後には必然的に挫折する。にもかかわらずこの問いを追求するなかで、またその追求のなかでのみ、ひとはノイズとしてのノイズを聴くことができる。だからこそ私たちは、ノイズとは非音楽的な音のことであるという素朴な直観から出発するにもかかわらず、音楽の内側でこそノイズを探求するという一見矛盾したものに映る、エラーを吐き出すことを約束されたプログラムをあえて走らせるような選択をしばしば行うことになるのである。──ノイズ・ミュージックというジャンル、この絶対的に無謀な企ての必然性はそこから導かれる。つねに新たなるうるささ、ラウドネスを音楽として発明しようとすることへの、放埓さと忠実さのあいだで揺れ動きながらも、決して譲歩されることのない、あの準‐普遍的な欲望。
[[SplitPage]]*§†*
さて、こうした話をいまさら蒸し返すことに何の意味があるのかと訝る向きもあるだろう。『OHM: The Early Gurus of Electronic Music』(Ellipsis Arts, 2000)や『An Anthology of Noise & Electronic Music #1』(Sub Rosa, 2001)といった優れたアンソロジーが発売された前後の時期には、サーストン・ムーアやポール・D・ミラー(DJスプーキー)といった教養ある人々の顰みに倣って、ノイズをめぐる現代的思考の起源をルッソロやヴァレーズやケージといった歴史上のアヴァンギャルドにまで遡って位置づけることには、たしかにある種の妥当性が認められていたかもしれない。しかし現在、そのような単線的歴史化の身振りを、音のクラスそして/あるいは音楽のジャンルとしてのノイズについて語るための、それがあたかも必須条件であるかのように行ってみせることは、この二〇年間に蓄積されてきたノイズに関する非目的論的歴史観にもとづく知見の数々に背くことであるし、ノイズをめぐる思考のうちにそれとは本質的に反りが合わない、真正性や音楽的な質に関する判断を暗にもち込むことにもなりかねないだろう、と。そうした非難を予期しつつ、それでもあえてここまで私たちが、ノイズの概念の歴史性を最近の聴覚文化研究や音響研究の成果への瞥見も交えて、駆け足気味にではあるが論じてきたのは、音楽のジャンルとしてのノイズがもつ概念的に(おそらくは政治的にも)不確かな地位が、音のクラスとしてのノイズ自体がもつ同様に不確かな地位と共鳴関係にあることを示したかったからであり、またノイズ・ミュージックの生産者と受容者のあいだで繰り広げられる言語ゲーム(もちろん文字どおりの言語を介して行われるわけではないが)の二〇二〇年代初頭現在における主要な(もちろん暗黙の)論点がもはや、聴取と相関する限りで存在するものとしての音の領域を美学的に拡大することのみに関わっているわけではない、ということを示したかったからでもある。拙劣かつ不完全な仕方であっても、ノイズをめぐる思考と聴取の歴史をいったんこのように俯瞰的に捉えなおしておくことは、ノイズ・ミュージックに関する神秘主義やファナティシズムに安易に身を委ねることから、あるいは薄っぺらな擬似‐民主主義的ダイバーシティの理念の美学的な代弁者としてノイズ・ミュージックを引き合いに出すことから、私たちをある程度まで守ってくれるという意味でも、決して無駄なことではないように思われたのだ。
新たなラウドネスを音楽の可能性のひとつとして絶えず発明し続ける試みとしてノイズ・ミュージックを特徴づけることには別のメリットもある。すなわち、ラウドネスという性質そのものに含まれる社会的敵対性や生産関係(分業システム)に関わる規範性の次元への注目である。二〇二〇年代のノイズ・ミュージックにとって、ノイズとはたんに極端さと過剰さによって作動する政治的抵抗の意識の激烈な発露であるだけでなく、ある音をラウドなノイズとして聴くように促すコンテクストの解体と再構築のループを通じて、このコンテクストを貫いて走っている社会‐経済的な諸力のベクトルを観察するための実験的な機会を与えるものとなっている。社会的に実在的な空間のうちで構築されたラウドネスは「望まれなさ」というたんなる音響心理学的な属性に還元されることを拒むような、ある頑なな再帰性をもつ。いかなるノイズも聴き方次第で音楽になりうるという多幸感に満ちたポスト・ケージ主義的なテーゼの裏には、いかなる音も文脈次第でノイズになりうるという憂鬱きわまりない新自由主義的なテーゼが潜んでいる。近年のノイズキャンセリング機能つきのイヤホンやヘッドホンの人気ぶりと、それと表面的には矛盾する電車やカフェにおけるスピーカーをオンにしたスマートフォンでの周囲の目を憚らない動画視聴の流行とは、汎聴覚性を軸として展開されるポスト・ケージ主義の美学の敗北をしるしづけるものでは決してなく、むしろその完全な勝利から導かれた、ひとつのアイロニカルな帰結としての新自由主義的な美学、〈空間なき聴取〉とでも呼ばれるべき新たなミクロ統治性の様態が出現しつつあることを告げ知らせるものとして理解されなければならないのだ。ノイズと自由即興のフィールドで活動しながら、近年ではスコア(譜面)を用いた観客参加型の集団的即興を試みているマッティンは、そうした見方を現時点で最も深く発展させているミュージシャンの一人だと言えるだろう。「社会的不協和は私たちにケージのイデオロギー的無響室が現実には存在しないことを認めるよう求める──ホワイトキューブの中立性が現実に存在しないように。あなたはすでにこの実在性の一部であり、これらの不協和はすでにあなたのうちを貫いて走っている。そのため問いは以下のようになる。主体としてのあなたとは──あなたがひとつのものであるとして──いったい何か、そしてあなたは他者たちといかにして関係するのか。肝心なのは、あなた自身を分離するための人工的な実在性を──あたかもあなたがすでに趣味の自律性を行使することのできる主体であったかのように──生成することではなく〔……〕、実在性の他の諸側面との直接的な接続を生成することであり、経済と文化とあなた自身が主体として生産される仕方とのあいだに元から備わっている諸接続を探求することなのだ」(Mattin, Social Dissonance, Falmouth: Urbanomic, 2022, p. 30)。しかしこのパースペクティヴにおいて私たちは、私たちがそれぞれ〈個人〉として〈自由〉な主体であるという思い込み自体が、資本主義社会における抑圧的再生産と疎外(alienation)の構成的な歯車になっているという、厳しくもダークな洞察に直面することになる。「私たちがそれであるところのものと、私たちはそれであると私たち自身が考えているところのものとは同じものではない、つまり私たちは合理性を通じて完全な自己理解への直接的アクセスをもつことはない。言い換えれば、私たちがもっている自律性・自由・主体性についての概念は、特定の仕方で限界づけられ歪められているのだ。しかしこれらの概念は資本主義的生産様式のイデオロギー的エンジンである。経験的かつ現象学的な個人〔個体〕としての主体という理解は、それゆえこの主体を生み出した構造的な諸条件を遠ざけて覆い隠す」(Ibid., p. 103)。ノイズによる抵抗は、抵抗の主体そのものをどのようにして構築しなおすかという問いを回避しえない限りで、再帰的な構造をもった諸戦略の練り上げに取り組まざるをえない。ひとつの音がノイズとして聴かれるという出来事を規定する諸力の戯れは、心的で生命的な領域よりもはるかに社会-経済的な領域のほうに、そしてまた、もはや心理的ではない神経科学的な領域のほうに属している。
ノイズ・ミュージックはそれゆえ、ノイズを聴くことの実在的(たんに可能的なのではない)経験の条件を問うために、「ノイズとは何か」という問いがその内在的な論理に従って生成する、あらゆる超越論的主観性を絶滅させる偶然性の感性論的なオルガノン、事実論的なものをめぐる時間的に捻れた思弁のための実験装置であると同時に、社会‐政治的な抵抗と闘争とが音響的/聴覚的領域において継続される際に必然的にそこを横切ることになるような、ある種の倫理的な負荷を帯びた、多層化された再帰性をもつ実践的空間でもあるのだ。ノイズ・ミュージックが、それぞれその最も高い強度に達した思弁と実践とのこのような複合体でありうるのは、それがジャンルに対するある種の自己転覆的な、擬死的な関係を保つ限りでのことである。哲学者のレイ・ブラシエがその論考「ジャンルは時代遅れである」において述べるには、「「ノイズ」は電子音響の探求と自由即興と前衛的実験とサウンドアートのあいだに広がる無人の土地を指し示すだけでなく、ポストパンクとフリー・ジャズのあいだ、ミュジック・コンクレートとフォークのあいだ、確率論的作曲とアール・ブリュットのあいだといった、諸ジャンルのあいだでの干渉が生じるアノマリー的な地帯をも指し示している」(Ray Brassier, “Genre is Obsolete” in Noise and Capitalism, Mattin Artiach and A. Iles (eds.), Donostia, San Sebastian: Arteleku Audiolab, 2009, p. 62)。はたしてノイズ・ミュージックにおいて音楽はジャンルとしてのみずからの死を擬態することで生き延びているのだろうか、それとも生きているとも死んでいるとも言うことのできない状態においてウィルス的に現存しているのだろうか。いまや私たちは、私たちが実在的経験として、事実として聴くことができた、ノイズ・ミュージックの演奏のひとつの具体的な事例を記述しなければならないだろう。ひとつのライヴ(デッド)レポートとして。
[[SplitPage]]§*†*
ケース・スタディ。理性的に切り刻まれた実験動物の死骸。ただしそこで解体されるのは音響のほうではない。私たちのほうだ。ノイズ・ミュージックにおいて実験に供されるのは音ではなく、耳である。そうだ、しかし耳だけではない。音響が襲いかかることのできる身体のすべての部分。それらがテストされる。実際にはテストという名の拷問が行われるにすぎないのだが。倫理的負荷? そんなことを言った覚えはない。音は裏切る。音響にとっては倫理的だが人間にとっては非倫理的な線が次々と引かれてゆく。どこかで誰かの悲鳴が上がる。あるいはどこでもないどこかで誰でもない誰かの悲鳴ですらない声が上がる。否、それは声ですらない。より悪いことには、音ですらないかもしれない。最近は大規模言語モデルでさえ幻聴を聴く。私たちは餌に誘われ罠に落ちた、地下室に閉じ込められた哀れなドブネズミの群れである。ラウドネスの展開とともに音は熱と見分けがつかなくなる。子どもじみた拷問、茹で上がったドブネズミ(世界のほとんどはそのような出来事で構成されている)。私たちの耳はドブネズミになる(ネズミどもを根絶やしにしろ! とファシストが叫ぶのが聞こえる──だが次の瞬間にはファシストどももネズミの群れに変わっている)。卵の割れる音。卵生のドブネズミが私たちの耳の中に入ってきて、私たちの耳は〈最新流行〉の疫病の媒介者になる。耳は限りなく不潔になる。耳を切除し、また縫い付ける(ファン・ゴッホもそうすればよかったのに)。耳の中で骨が進化したり、退化したりする。搾取され追い詰められた耳は共食いし、近親交配を繰り返す。鼓膜と耳朶の違いさえもはや判然としない。私たちの種族はとっくの昔に死に絶えており、現在では私たちの耳だけが生存している(その逆も然り)。ある晩、ドブネズミの子孫たちが偉大な祖先に捧げるオードを歌う、あの金切り声が聞こえてきた。実はそれが革命の合図だったのだが、あまりにも不愉快で、誰もその歌を聴き続ける気にはならなかったため、この宇宙で一度しか到来しないはずのその好機は無為に消費され、永遠に消え失せてしまったのだった。めでたしめでたし(続きを読むにはイジチュールとヨゼフィーネの合いの子を作らなければならない、ChatGPTで)。排水溝を流れる、切り刻まれあるいは茹で上げられて死んだ実験動物の耳は海を目指す。この耳は怨恨を募らせ、呪怨の言葉を吐き散らしながら、海に住むすべての生物を根絶やしにすることをその貧しい想像力のうちで夢見ることになる。海に電極を刺し、沸騰させてみよう。復讐の精神に取り憑かれたこの耳は度し難く残忍な、それでいて子どもっぽいギャングのように振る舞う。クラゲの仲間が撒き散らす精液と卵のなかを漂いながら、この切り刻まれた実験動物の死骸の目立たない部分たる耳は(文はここで途切れている)……結局、きみたちが聞きたがっているのは子守歌なのだ。だから……そして、昔々あるところに。あるところではなくどこでもないどこかに。汚らしい耳をもった耳が住んでいた(私たちの種族はとっくの昔に死に絶えていた)。耳は耳から生えている(耳がキノコの仲間であることは、現代の実験音楽とその周辺の言説にある程度慣れ親しんできた人々のあいだでは、おそらくほとんど常識と言っていいほどによく知られている事柄である)。胞子嚢の割れる音。ある晩(それはまだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった)、耳は祖先の秘密を探るべく地下室に降りる。そこに罠が仕掛けられているとも知らずに。地下室に閉じ込められた耳はそこが地獄であると信じ込むが、実際には地獄ですらない。どこでもないどこかで誰でもない誰かが上げた悲鳴が実は悲鳴ですらなく、声ですらなく、音ですらなかったように。アルトーなら屁ですらなく、と付け加えたところだろう。病に侵され衰弱しきった、おそらく数日以内に死ぬことになる何らかの動物の何らかの臓器が立てる、腐った、湿ったあるいは乾いた、屁ですらない音。名づける価値すらない音。その音の名はその音自身である(名づける価値のないxxxという音にはxxxという名を与えるしかない)。泥、埃、カビの仲間、どうせそんなところだ。名付ける価値すらないか、「名づける価値すらない」という名が与えられるか、どうせそんなところだ。ベケット的離接。存在論的罵詈雑言(SchimpfluchとかRunzelstirn & Gurgelstockといった名称から連想されるのはそのようなものである)。ノイズであることを忘れたノイズ。そんなものさえ私たちの耳は受け入れてしまっている。そして吐き戻し(ニーチェのように?)、伝染させる(ニック・ランドが解釈したバタイユのように?)。音響ウィルス。狂人の妄想? 否、狂人だけが世界をあるがままに聴いているのだ(Kenji Shiratoriの詩集を開き、溜息をつきながらまるで何の感銘も受けず、何の「悟り」も得なかったかのようにその本を閉じる動作を死ぬまで繰り返すことを、この世界における最も崇高な振る舞いのひとつとして私たちは思い描くことができる)。忌まわしい掠れ声は最小の音圧で最大のラウドネスを獲得する。切り刻まれ茹で上げられた聴覚的身体が吐き出した、取り留めのない文字と記号の列。音楽批評? とんだお笑い種だ。これより前に書かれたものもこれから後に書かれるものも、断じて音楽批評などではなく、ノイズによって切り刻まれ茹で上げられた実験動物の身体が上げる悲鳴でも声でも音でもないあのノイズの、文字と記号の列への胡乱な転写にすぎない。聴覚的吐瀉物から立ち上る音響的病原体。生物と非生物の境界線上で震えている何か、「生死」(デリダ)。
マイクに涎が滴る。痰が喉を通り越して耳に絡む。もうすぐ死ぬことになっている実験動物の耳が(口が、と書こうとしても書けない)音も立てずに歯軋りする。獣どもの墓地には時折音の幽霊が現れる。その振動をピックアップで拾い、増幅し、歪め、録音する。テープは歯軋りし、吃る。あるテープの口から別のテープの耳へ、血が混じった痰を磁気的に塗りつける。電気椅子的、口唇-肛門的、音響降霊術の儀式。ヤク中の耳は擬死的に生存する。
**§†
ele-king編集部の小林拓音さんから誘われて、2/11(土)の夜、私はアーロン・ディロウェイの来日ツアーを見に東中野へと足を運んだ。会場となった落合soupは大通りから少し脇道に入ったところにある、平凡な住宅街のなかの銭湯とコインランドリーが入ったやや古めの雑居ビルの地下にひっそりと店を構える比較的小規模のクラブだ。カッティングエッジな電子音響を中心に普段からさまざまなスタイルの前衛的・実験的なミュージシャンのライヴが行われており、東京のディープな音楽ファンのあいだではよく知られたおなじみの箱である。2013年の来日時にもディロウェイは同じ落合soupで、今回のライヴにも出演しているburried machineが主催したイベント「狼電」のメインゲストとして演奏を行っていた(なおそのときのディロウェイの演奏の録音はburried machineの主催する〈Rockatansky Records〉のBandcampページ上で販売されている)。この10年前のライヴを私は残念ながら見逃していたため、今回の来日ツアーがその時と比べてどうであったかを言うことはできないが、少なくとも観客の数は前回を明らかに上回っていたようである。実際、私がイベントの始まる5分前に到着したときにはフロアはすでにほとんど身動きがとれない満員の状態となっており、最前列近くでアクトが手元の機材を操作する様子を眺めるといったことは早々に諦めなければならなかった。前日にDommuneで放送された特番の効果が大きかったかもしれないし、イベントの出演者にあのIncapacitantsが名を連ねていた影響もあるのかもしれないが、そうした細々とした要因分析をまったく無意味に感じさせるような剥き出しの、裸のノイズへの期待とでも呼びたくなるような雰囲気がたしかに観客のあいだには漲っていた。唾液飛沫の拡散を防ぐマスクをつけながら日常生活を送らねばならなかった約三年間のフラストレーションが人々をそこへと向かうよう無意識に動機づけたのだろうか。とはいえむろん近隣住民とPAの音質双方への配慮から気密性が高く設計され、ドアが閉まると耳に圧力を感じるほどであるsoupの店内ではほとんどの観客はマスクを装着していたのだが……トランプ支持者たちの反マスク(そして反ワクチン)キャンペーンが日本にもQアノン的経路で浸透していたという事情があり、この三年間でその衛生雑貨品を然るべき場面において着用しているのか否かはすっかり政治的シグナリングの問題になってしまっていた。Soupのように先端的な音楽が中心的に演奏されるクラブ/ライヴハウスでは特にそうした政治的なコノテーションへの鋭敏さがその場所を共有するすべての人に求められる傾向がある。とはいえ仮にマスクを着けていたとしても、これから耳を覆うことになるだろう超‐暴力的な轟音へのマゾヒスティックな期待感が、他者の涎の霧を肺に吸い込んで例のウィルスに感染するかもしれないという不安感をほぼ完全に相殺していたことは、その場の雰囲気からして明らかだった。しかし念のため補足しておくが、実際のライヴはそうした期待の地平をさらに当然のように上回るものとなったのであり、裸性の概念によって表象されるような芸術的アナーキズムの手垢のついたイメージには間違いなく収まらないものだった(さようなら、アガンベン!)。オーセンティックなシャツに身を包んだ礼儀正しいホワイトカラー労働者のような当日のディロウェイの装い自体がすでに、そうしたステレオタイプ的な理解の誤りであることをさりげなく指摘するものであったのだろう。

USノイズと呼ばれるシーンがどのようなものか、実を言えばライヴの存在を知らされた時点での私はあまりよく知らず、ウルフ・アイズは聴いたことがあったがアーロン・ディロウェイのアルバムは一枚も聴いたことがないというお粗末な状態であった。そんな私が当初このライヴに興味を抱いたのは出演者の並びにRudolf Eb.erが含まれていたからだったのだが、ノイズ・ミュージックというジャンルのなかでもさらにひときわ異端的な立ち位置を占めておりそれゆえマイナーでもあるEb.erの音楽について私が多少なりとも知りえていたのは、哲学者のレイ・ブラシエがある論考のなかで彼を主題的に取り上げていたことによるところが大きい。Eb.erの経歴については80年代半ばにスイスでみずから結成したSchimpfluch-Gruppeやソロ名義であるRunzelstirn & Gurgelstøckでの活動がウィーン・アクショニズムの系譜に連なるものとしてしばしば紹介されるが、アクショニズムという概念が指し示しているのはこの場合、彼の表現においては聴覚的なものだけでなく視覚的なものが重要な役割を果たすということである。加えて彼のパフォーマンスには、血や糞便や吐瀉物といったおぞましいもの(アブジェクト)を連想させる要素が、オカルト的儀式性の身振りとともにつねに含まれている──したがって潜在的には触覚的、嗅覚的、そして味覚的なイメージまでもがその〈音〉のなかには、共感覚的などというハーモニックな統一性からはほど遠い不穏で秘教的な凝集力によって畳み込まれていると言うこともできる。しかしアクショニズムという語がもつ一般的なイメージに寄せたこうした紹介の仕方は、Eb.erの活動の重要な側面について誤解を与えかねないものかもしれない。ブラシエも「過剰な慣れ親しみがウィーン・アクショニズムの図像学を凡庸なものに変えてしまった──血、ゴア、性的侵犯もいまやエンターテイメントの安っぽい必需品となっている〔……〕しかしEb.erの、狂気じみたものにカートゥーン的なものを思慮深いやり方で添加し、心的な苦悩を子どもじみたスラップスティックへと不安にさせるような仕方で移調する手つきからは、ステレオタイプ化に対する疑念とともに、故意と強制、倒錯と病理のあいだの消去不可能な共犯性についてのある明晰な意識もまた垣間見られるのである」と述べて、Eb.erの表現がいわゆるショックバリューのクリシェ的固定化から慎重に距離をとったものであることを強調する(Brassier, op. cit., p. 68)。実際、Schimpfluch-GruppeやRunzelstirn & Gurgelstøckのパフォーマンスにおいて血の要素(ヘルマン・ニッチュなどに典型的な)が直接的に取り上げられることはほとんどない。むしろEb.erの表現が基礎とする暗示的にアブジェクション的な要素、いつの間にか聴いて〈しまって〉いるノイズ的な音響的要素とは人がものを食べる音、噛んだり飲み込んだりする息継ぎをしたりするその一連の音であろう。このことはEbe.erがJoke LanzとともにSchimpfluchとして行ったパフォーマンスの記録である『Akustische Aktion - Zürich 1991』(Pan, 2009)のようなアルバムを聴くことでいっそうはっきりとする。
ディロウェイについてはウルフ・アイズの『Burned Mind』(Sub Pop, 2004)は聴いたことがあったのでそこからの類推で音をイメージしていたが、今回のライヴの予習のつもりで聴いた『Modern Jester』(Hanson Records, 2012)『The Gag File』(Dais Records, 2017)によって完全に認識を改めさせられた。というか率直に言って、これほど繊細かつ大胆な、細部まで計算された不穏さの交響楽とでも言うべき作品を生み出すミュージシャン(あえてノイズ・ミュージシャンという限定はしないでおく)について自身がいままでほとんど何も知らずにいたという事実に恥じ入るとともに驚きを隠せない。世界は広く、まだまだ私が知らないすばらしい音楽が私の音楽的趣味のレーダーの射程外に眠っているということなのかもしれないが、すでに言及したUSノイズのシーンなるものの動静が日本の実験音楽周りのコミュニティには伝わってきづらい何らかの構造的理由があるのかもしれないとさえ思えてくる(後述するが、今回のライヴで共演することになったディロウェイとEb.erをつなぐ重要な線としてトム・スミス(To Live and Shave in L. A.)というノイズ・ミュージシャンがいることに、私はブラシエのテクストを読んでいたために偶然気づくことができたのだが、この人物について日本語でまともに取り上げた活字上の記録がほとんど見当たらないことからも、USノイズのシーンの相対的な不可視性に関する私の想定はあながち的外れなものでないことが予感されるのである)。
いずれにせよノイズのプロパーなファンのあいだですでに十分な名声を確立しているディロウェイの作風に関して私がいまあらためて余計な説明を行う必要はないだろうが(気になる人はまずは上述の二枚のアルバムをサブスクやBandcampで聴いてみればいい)、ライヴ前の予習的聴取の段階で感じていた彼とウルフ・アイズとの差異と思われる点についてのみ触れておきたい。すなわち、彼のトレードマークとなっている演奏/作曲のための機材であるところのオープンリール・テープに避けがたく付いてまわる、埃や変形などの物理的要因によって生じるさまざまなノイズによって豊かな重ね塗りが施されたあの沈黙の効果的な利用についてである。ここで「効果的」という言葉を、まさに私は映画における各種の編集技法が特定の心理的「効果」を目指して、ギミックとして使用されるような場面を念頭に置いて言っている。ウルフ・アイズがもつヘヴィなバンド・サウンドへの指向は、「効果=結果」よりもむしろ「原因」の次元にノイズ・ミュージック的リアリティを見出そうとするものであるように思われる。またシカゴ音響派をはじめとするポストロック一般がもつどちらかといえば緩い、ポストヒストリカルな日常性の強調を狙っての映画音楽的語彙の使用とは異なるものとして、ディロウェイの「効果的」に非日常性を生成する音響言語は、ホラーを含むエクスプロイテーション映画の伝統に根差していることが指摘されうるだろう。ディロウェイの沈黙においてはケージのそれとは異なり、明確に心理的な緊張感や不安感の醸成が目指されている(たとえば、テープに記録された椅子が軋むような音はルームリバーブがほとんど除去されることによって、詩的なイメージを掻き立てる聴覚的-音響的断片といったものではない、たんにそこで起きた物理的出来事をそっけなく報告するだけの監視カメラ的非情性を付与されているように感じられる)。そしてそれでいて、テープループが生み出す呼吸を思わせる比較的ゆっくりとしたテンポで反復される断片的な音たちは、密度が高まるにつれて一定のビートを刻み始める傾向があり、このような沸騰状態にもたらされた沈黙の躍動感によって(『Modern Jester』の楽曲 “Body Chaos” が範例的だろう)多くの実験音楽が陥りがちな退屈な聴取の神秘化を回避することにもディロウェイの音楽は成功しているのである。

ライヴ当日の様子に話を戻そう。演奏はまず主催者Burried Machine、次いで大阪在住のRudolf Eb.er、ジャパノイズの大御所Incapacitants、最後にディロウェイという順序で、それぞれ約40分の標準的な長さで行われた。Burried Machineこと千田晋によるパフォーマンスは、プロジェクターから投影された、どことなく爆撃機の攻撃を受けて炎に包まれた都市を連想させる赤い抽象的なイメージを背景として(と思って最初見ていたのだが、実際にはステージ上の様子をカメラで撮影したものを再びフィードバック的に投影したものであった)、テーブルの上に整然と並べられたテープマシンとミキサーを憑かれたように激しく操作しながら、ヒスノイズをふんだんに含んだエクストリームなノイズを容赦なく放出し続けるというものだった。音圧の大きさによって、その後に続くアクトらへと観客の耳を準備させるとともに、反復的ビートによって生じるそこはかとなくダンサブルな展開を注意深く避けることによって、良い意味での禁欲主義的な集中の雰囲気をフロアにもたらしているようにも感じられた。テープだけでなく、コンタクトマイクの使用や着席したうえで頭を抱えるようにして身悶える仕草など、交友関係にあるディロウェイからの影響が随所に窺える迫力あるパフォーマンスであったが、それだけに反復を避けつねに予想外の仕方で変化し続けることを追い求めているかのように感じられるフィードバック・ノイズを基調とするサウンドは、ジャクソン・ポロックなどの絵画について言われるような「オーヴァーオール」な性格を見せ、むしろハナタラシやPain Jerkなどジャパノイズの伝統とのつながりを強く感じさせるものでもあった。この点についてはその後Incapacitantsの演奏を聴いていた際に、Eb.erやディロウェイとのノイズ(・ミュージック)に対する美学的スタンスの違いにおそらくは起因するものとして、個人的な印象の範囲を出ないものではあるもののあらためて確認されることになる。
二人目に演奏したRudolf Eb.erは、おそらく彼の音楽を聴いたことのないすべての人に驚きを与えたに違いない。後ろだけポニーテールでまとめたスキンヘッドというそのヘアスタイル、長いあご髭を蓄えた整った顔立ちのなかに突如出現するブラックホールのような、あるいはダルマのように見開かれたその眼という風貌、にもかかわらず落ち着いた物静かな佇まい……といった視覚的諸要素もさることながら、すでに触れたように、彼の音楽のショックバリューないし演劇的な力は、彼が使用し分節化する音響素材そのもののうちに含まれている。たとえばその日のライヴではEbe.erはヴァイオリンを使用し、機材から流れる録音された悲鳴や水音のような散発的ポップノイズへのオブリガートのように、スルポンティチェロで、古い木製の扉を開くときの軋みをそのまま引き伸ばしたかのような単音を弾き続けるシークエンスを幾度か挿入していた。こうしたヴァイオリンの用法は、演奏の半ばに唐突に現れたエレクトリック・オルガンの音色による大胆なまでに軽い(個人的に私はこのような大胆な軽さこそがEb.erの音楽の最大の魅力だと考えている)短二度の不協和音やトーンクラスターの保続と組み合わさって、70年代のオカルト映画のような空気感をパフォーマンス全体に付与するとともに、観客を「精神物理的なテストとトレーニング」へと催眠的に誘うことに貢献していた。観客に向けてマラカスのような棒状の楽器(?)がひたすら振り続けられる別のシークエンスでは、悪魔崇拝と神道の諸要素を掛け合わせた何か得体の知れない超心理学的な降霊術のパロディのようなものに参加させられているかのような感覚が絶えず生じてさえいた。Eb.erのこのようなパフォーマンス、たんに外見上の奇抜さを追求するだけのものと誤解されかねず、またかつてはアクショニズム的な挑発の身振りも含まれていただけになおさらそうであった(ショットガンの空砲を撃ったりすることもあったようだ)それについて、ブラシエはそれが「「シリアスな」エクスペリメンタル系ミュージシャンたちからの非難」を集めるものであったことを認めつつ、「〔しかし〕そこで嘲笑されているのは、それ自身における純粋な目的として音楽的経験を──特に、作曲されたものであれ即興されたものであれ、「実験音楽」を聴くことの経験を──聖別するような人々の安易な神秘主義なのである」と指摘する(Brassier, op. cit., p. 66)。私もブラシエと同意見であり、Eb.erの音楽は当然のことながら単純な精神病理学的な形成物ではなく、そのシミュレーションをある程度まで知的に意図して作られたものとして、「テストやトレーニング」の身体的苦痛を伴わない実験音楽の空虚な美学的経験崇拝を告発するものとして聴かれるべきものであると考えている。そうであると同時に、制度化された芸術の擬似的な〈外部〉としての狂気や犯罪にそのまま安易に突き進むことをしないEb.erの(真の意味での)美学的‐批判的な厳しさこそが称賛されなければならない。うがいをしたり痰を吐き出したりするようなアンフォルメルな音をマイクで拾いつつ、制度的に守られた美的経験の規準に対して文字どおりまた比喩的に唾を吐きかけながら、にもかかわらずEb.erの音楽は各シークエンスの長さや順序、音響素材の音量面でのバランスといった形式的な練り上げに対してきわめて明確な意識を保ち続けている。この点は見逃されるべきではないだろう。私にはEbe.erの音楽の「芸術的」な洗練度の高さは、ある音響素材を中心に展開されるシークエンスから別のシークエンス(たとえばヴァイオリンの、たとえばマラカスの)へと移行するあいだに挟まれる、沈黙や比較的小さな音量でのノイズが鳴っている時間における、彼のあの不気味なほとんどアウラ的と言ってよいあの落ち着きのうちにこそ凝縮されているのだと感じられた。
Eb.erのライヴが終わると、短い休憩と転換を挟んで三組目のIncapacitantsが始まった。フロアの客層が入れ替わり、彼らのライヴを聴くことを最大の目的としてこの日のライヴに足を運んだと思しき人々によって最前列付近は占拠されたため、私は演者の手元を観察しようと未練がましく頭を左右に動かすことはやめ、スピーカーから発せられる音の運動のみに意識を集中させることにした。後日SNS上に投稿された動画を見て、Incapacitantsの二人がテーブル上に並べた無数のエフェクターやオシレーターの類いを操作しているのを確認し、その日何が起きていたのかを朧げながら遡行的に理解したぐらいだ。パフォーマンスは圧巻であり、フロア内で立っている位置によっておそらくどの周波数帯域が最も強く聞こえるかは異なっていただろうと推察されるが、私が聴いた限りではIncapacitantsのライヴの後半に発せられた低音から高音へ、またその逆へと急激に上昇下降する雷鳴のようなサウンドがその日の全演奏のなかで最大の音圧値を叩き出していたように思う。ホワイトノイズ寄りの音像からLFOの効いたパルス寄りのそれまで、音色の多彩さと展開の引き出しの多さはさすがベテランといったところで、ある種のフリー・ジャズ(たとえば山下洋輔トリオの最も脂の乗っていた時期)を聴くような聴覚‐造形的な満足感があったのだが、しかしながら観客の盛り上がり方が率直に言ってフーリガン的というか、サッカーW杯(あるいは最近で言えばむしろWBC)日本代表の試合中継中のスポーツバーのような雰囲気に傾いていると感じられる瞬間が多々あり、それに関しては疑問符がつかないでもなかった。たしかに観客が音楽に興奮してどのような振る舞いをしようとも、言葉でもって扇動したということがない限りミュージシャンにはいかなる責任も帰せられないだろうし、美的‐芸術的な責任に関してはなおさら無関係だということにもなるだろう。しかしIncapacitants(周知のとおりこの言葉の元々の意味は軍隊が暴動鎮圧のため民衆に対して用いる無力化剤、催涙ガスである──もちろん権力の記号や攻撃性の露悪的な強調はノイズのジャンルにおける常套句であって、素朴な態度で解釈されるべきものではないが)のフロントマンに相当する美川俊治が、最前列付近に陣取った熱心なファンと思われる男性と、拳を握りしめた腕を力強く胸の前で掲げながら叫びあうモッシュ的なコミュニケーションをとっている様子をフロア後方から幾度か目にするうちに私は、ハーシュノイズと呼ばれるかパワーエレクトロニクスと呼ばれるかに関わりなく、ジャパノイズと呼ばれるジャンルに依然として付きまとう「(戦後)日本的なもの」の政治的に曖昧な属性について、すなわち、家父長制的でナショナリズム的なファナティシズムへと容易に反転しかねないその危ういポテンシャルについて考え込みたくなる気分が生じてくるのを抑えられなかったのである。もちろん事態はおそらく見かけほど単純ではなく、アイロニーとユーモアを経て何重にも捻れているだろうし、粗暴で無教養あるいは悪趣味で下品といった印象をたとえもたれることになったとしても、怒りをはじめとする情動的な身振りの生産的で覚醒的なエネルギーを通じて「実験音楽」の大半が被ることになる制度的な囲い込みによる文化的不活性化を回避しようとする戦術こそが、ノイズがその祖先であるインダストリアル・ロックやパンクなどから受け継いだ重要な(超)美学的遺産であるからには、審美家風の取り澄ました態度を取りたがる批評家にとってもIncapacitantsが視覚的にも聴覚的にもまとっている「オーヴァーオールな」男性性(masculinity)のイメジャリーを、それがたんにそのようなものであるからという理由だけで退けることは許されないのだ。しかしある文化における〈あえての論理〉がその疲弊や腐敗とともにその〈あえての〉という修飾詞を脱落させてしまうことは決して珍しくない(そのことはノイズと類縁的な関係にあり同様にショックバリューを戦略的に利用するジャンルとなっているブラックメタルにおいてネオナチ的な表現傾向への滑落がしばしば起きていることからも見てとれるだろう)。外付けのいつ剥落してもおかしくない〈あえての論理〉に頼るのではなく、内在的な抵抗を固執させる〈ひねくれの論理〉を構築しておかなければならない。その観点から言うならば、その日のIncapacitantsの演奏が生み出した「オーヴァーオールな」音響的乱流は、アナーキーでありつつも有機的な全体-部分関係のヴィジョンを示すものであったことが個人的には注意を引いた。無数のオシレーターやエフェクターから発せられる電気信号‐ノイズ‐肉が構造的な複雑さを増しながら互いに癒着したり断裂したり痙攣したりを繰り返すそのさまは、男性性よりもむしろ筋肉性(muscularity)のイメジャリーのほうを向くものとして解釈することもできたのである。ノイズ的な音群の運動をそのような筋肉組織の矛盾に満ちた運動との類比において理解することは、構築と破壊が同時的に絡みあいながら進行していくような〈ひねくれ〉の内在的メカニズムを私たちそれぞれの聴取の習慣に埋め込む際の手引きともなりうる。苦痛と快楽の抗争のゲームをいかにして美学的に致命的であるのみならず政治的にも危険な帰結をもたらしかねないものとしてのクリシェ的な固定化から守るかは、誕生からもうすぐ半世紀が経とうとしているジャパノイズというジャンルのクリエイターたちにとってのみならず、このジャンルを愛するリスナーである私たちにとっても喫緊の問いとなりつつあるのだ。
最後のアクトはディロウェイである。幕間も含めて私が会場に到着してからすでに3時間ほどの時間が経過していたが、あっという間であった。それだけその日のイベントが充実した内容のものだったということだが、しかしその後にディロウェイが提示したノイズによって、私たちの耳はさらに異質な次元へと運び去られ、多重化された〈疎外〉のエピファニーに直面させられることになる。パフォーマンスの内容は少なくともその冒頭部分に関しては、直前のIncapacitantsのダイナミックさと鮮やかな対照をなす、スタティックの極致とも言うべきものであった。実際、テープマシンとミキサーが並べられた長机の前に電信技師のように着座して演奏を開始したディロウェイは、最初の10分ほどは鉄パイプをコンクリートの床の上で転がしたり引きずったりするような音と(足元に置かれたピックアップの取り付けられた金属板を踏むことで出した音だったのかもしれない)、低い囁き声のサンプル、そして何の音か判別のつかない低音ドローンを組み合わせつつテープループで反復させ、背後から徐々に不穏な何かが迫ってくるかのようなサウンドを作り上げていた。しかし気質=気候の断絶とでも呼べそうな変化が、中盤において生じることになる。テープディレイを駆使して音が幾重にも塗り重ねられ、モジュレーションの輻輳によってサウンドの不透明度が増していくとともに、耳を突き刺すような高音がLRに極端にパンを振られた分散配置において音響心理的な臨界点に達し(個人的にそこにはルイジ・ノーノの《力と光の波のように》におけるのと類似したクライマックスの作り方を感じとったのだが)、その後は一挙に、シンプルに爆音と呼ぶのがふさわしい壮絶なラウドネスともに、終演まで止まることなく音響的な〈引き裂きの刑〉が敢行されることとなったのである。ディロウェイのこの演奏について言われるべきことは、まずそこでの彼の身体的パフォーマンスの驚くべき集中力だろう。何かに取り憑かれたかのように頭を揺らしながら、要所ごとに首や肩を痙攣的に傾げつつ機材のつまみを操作したり、椅子の位置をずらしたりしながら、口の中に含んだコンタクトマイクを転がし、喘ぎ、苦悩に苛まれるように頭を腕で抱えるその姿は、表面的観察からはそのようなものと判断されるシャーマニックな身振りなのでは全然なく、むしろ音楽そのものの展開のなかに徹底して没入しようとするがゆえに生じる身振りにほかならないものなのだと考えられる。つまり、少なくとも彼のライヴ中のパフォーマンスに関して言えば「憑依的」という形容詞は、その言葉に含まれる超自然的な含意のために的外れなものとならざるをえないのだ。ディロウェイの動きの奇妙さは、プロのピアニストやヴァイオリニストが椅子の高さから肘の高さにいたるまで神経質に調節を図りながら、すべての動作が次に行われるすべての動作に滑らかに接続されることを願いつつ、呼吸のリズムに合わせて行うあの優雅でありつつもどこか滑稽である大げさな身振りがもつ奇妙さと厳密に同じ種類のものなのだと言われねばならない。実際、ディロウェイが行っているようなテープディレイを軸としたライヴ・エレクトロニクスの音楽において、音量やタイミングのちょっとしたずれで演奏の質はまったく変わってしまうのであり、ディロウェイがこの音楽の繊細な特質と向き合うために、あらゆる一回性に対して鋭敏になるような演奏スタイルへと到達したのだとすればそれは至極納得のいく話であろう──テープ特有の音の揺れやサチュレーションやヒスノイズなど、物質的したがって自然的な一回性へと極限まで接近しようとした結果が、ディロウェイのライヴにおける精神的なそれゆえ超自然的なものの介入を疑いなく感じさせるあの身体的なパフォーマンスの数々なのである。ライヴの途中、必ずしもすべてを計算して制御できているわけではないものと推察される複数のテープマシンのアレンジメントの内部で、音楽的なカオスが強度的な閾を超えて自走し始めた瞬間、ディロウェイは椅子から立ち上がりsoupの床の上を這いまわり始めた。多くの観客はこれをディロウェイの憑依的‐演劇的な興奮があるレヴェルを超えたことで生じた(超常?)現象だと見なしただろう。だが私見を述べることを許してもらうならば、あれだけ精緻な音楽を作り上げ、なおかつその繊細な複雑さを維持するために支払われた諸々の代価のためにこそある種「狂ってしまった」男が、進行中の音楽の生成を注意深く監督する役割をみずから放棄してスペクタクル的なアテンションの獲得に勤しんだりすることなど考えられない以上、ディロウェイにとってコンソールを離れたあの瞬間は、非有機的生命としての音楽が(すなわち複数のテープマシンからなるシステムが)自走し始め、ディロウェイという生身の(したがって死にゆく)身体をもはや不必要となった外付け部品として、無慈悲に廃棄ないしは排泄する瞬間にほかならなかったと解されるべきなのだ。そしてそのような痛ましい排出の瞬間の後であったからこそ(ベケットの『事の次第』の「ピム以後」のような状況である)、ディロウェイの表情はライヴの後半ではあれほどの悲哀で歪んでいたのであり、疎外され非音楽化された自身の身体を残された最後の音楽的器官であるコンタクトマイクを介して切り刻むようにして音響的に再生成しながら、もはや自身を必要としなくなった(いわば「ネグレクト」した)音楽への呪詛の言葉を吐き散らしつつ、そのうえでこの呪詛の言葉をある超人的な音楽へと変換するかのような身振りにすべてを賭けることによって、音楽的自然の要求に厳格に従ったどこまでも物理的なマリオネッテンシュピールのうちでおのれの身体の存在を一回的に消尽させることを選ぶに至ったのである。
さて、ディロウェイのライヴは以上のとおり圧倒的な強度の熱狂をもって、期待の地平を期待どおりにはるかに超え出つつ、展開され展開し尽くされそして燃え尽きる類いのものであったのだが、そこでの軸として熟慮して選択されたものと思われる咽び泣くように咆哮しながら歌う声による、あの燃え尽きの(より正確に言えば〈燃え尽きる男〉の、いかなる被害者性をも含まずむしろ倒錯的な英雄性の隠喩としての価値をもつ)イディオムには、グラム・ロックのラディカルな再解釈が潜んでいたように思われる。そして、ディロウェイにおけるこのような歌う声の身体性それ自体をオーヴァードライヴさせるという戦術にはひとつの隠れた影響源を指摘することができるのだ。それはディロウェイと今回のライヴの共演者であるEb.erとをつなぐ線でもあるTo Live and Shave in L.A.(TLASILA)のリーダー、トム・スミスの美学である。実を言えば先ほどから何度か引用してきたブラシエの論文において、Eb.erのRunzelstirn & Gurgelstøckとともにトム・スミスのTLASILAは、ジャンルを否定するジャンルとしてのノイズに特有のパラッドクス的性格について正面から取り組む姿勢を見せている稀有なミュージシャンとして紹介されていた。「ノイズのポストパンク的ルーツがもつ覚醒的な怒りを受け入れつつも、そのストックされた手法のカタログに対する癒着に対しては拒否の姿勢を示すスミスとEb.erは、概念的な厳格さと反美学主義的な不機嫌さとを結びつける一方で、手垢のついた疎外の表現に対してと同じくらいサブアカデミックなクリシェに対しても激しく拒絶するような作品を生産してきた。二人はそれぞれに錯乱的明晰さをリビドー的撹乱のうちに巻き込む──「知性とリビドーが同時につまみ捻られる」──そして分析と放埓とが相互浸透できるようにするのである」(Brassier, op. cit., p.63)。このような評価のもとに語られるトム・スミスとはいかなる人物であり、またTo Live and Shave in L.A.とはいかなるグループなのか? ブラシエはTLASILAが掲げる「ジャンルは時代遅れである(genre is obsolete)」というモットーに注目し、これを彼自身の論考のタイトルにもしているが、スミスにとっては(またEb.erにとっても)ノイズを抽象的なジャンルの否定と見なすことはそれを結果的にジャンル的なものに変えてしまうことである点が強調される。ジャンルの収束的な法に抗うには具体的な発散の戦略を練らなければならないというわけだ。ブラシエによれば、スミスが第一に採用するのは「一度に聞かれるにはあまりに少ないというより、むしろあまりに多くのものがつねにある」という「過剰さ」の戦略である。しかしこれはあくまで第一段階にすぎない。彼はそのような戦略が「オーヴァーオールな」ノイズにおけるエントロピー的没形式性という見慣れた結果に行き着いてしまうことを考慮に入れて、「歌」という形式を中心にしてネゲントロピー的な情報圧縮を図る第二の戦略を取り入れるのである(cf. Brassier, op. cit., p. 64)。この二重の戦略によってスミスおよびTLASILAの音楽は(音響的データの洪水によって)解釈不可能でありながら、(ポップ・ソングという形式の適用によって)解釈要求をつねに突きつけるというパラドックス的機械と化すことになるのだ。TLASILAの上記のような特徴を私たちはアルバム『The Wigmaker in 18th Century Williamsburg』(Menlo Park, 2002)を聴くことによって、その最も強烈かつ完成された状態においてたしかに確認することができる。ブライアン・フェリーやスコット・ウォーカー、またデイヴィッド・シルヴィアンなどのヴォーカリストに見られるグラム・ロック的な〈燃え尽きる男〉のイメージを、半ば遊戯的半ば強迫的に利用したその歌唱法は、口の中に入れたコンタクトマイクを通じて自身の放棄された身体の存在論的特異性を内側から音響的に切り崩していくディロウェイのあのスタイルと明らかに通底している。そして、読者にもすでに予想のついていることと思うが、ディロウェイはこれまでに幾度かトム・スミスと共演しておりスプリット・カセットの制作なども行っているほか、若い頃の自身に衝撃を与えた音源としてTLASILAのアルバム『30-Minuten Männercreme』(Love Is Sharing Pharmaceuticals, 1994)を挙げたりもしており(ちなみにこのアルバムをディロウェイは自身が運営するレーベル〈Hanson Records〉から再発してもいる)、さらに昨年1月に惜しくも亡くなったスミスのために短いシングル「Blue Studies (For Tom Smith)」(Hanson Records, 2022)を捧げてもいるのである。以上の事実と他のインタヴューなどから判断する限り、ディロウェイはもちろんのことウルフ・アイズのメンバーであるネイト・ヤングやアンドリュー・W・Kといった彼と同世代に当たるミュージシャンたちにとって、スミスのTLASILAがさまざまな点で進むべき道の示唆を与えるメンター的な存在であったことはほぼ疑いを容れない。実際スミスはTLASILAをフロリダ州マイアミで90年代初頭に設立しているが、それ以前にはプッシー・ガロアのメンバーに加わったりPeach of Immortalityというバンドを組んでいた時期もあり、ノーウェイヴからUSノイズのシーンへの移行が生じつつある時期に、ジョン・ゾーンを中心とするいわゆるKnitting Factory系ないしニューヨーク・シーンの文脈とも、またデヴィッド・グラブスからジム・オルークまでを含むシカゴ系の文脈ともやや離れたところで人的ネットワークを構築していたことが想像される。このように見ていくと、ネイト・ヤングのもうひとつのグループNautical Almanacがミシガン州アナーバーで結成されアーロン・ディロウェイの現在の活動拠点がオハイオ州オバーリンであることからも察せられるように、スミスもそこに含まれるところのUSノイズ・シーンの実体とは、NYでのLAでもないアメリカ内陸部の巨大な「郊外」のなかで眠っていた何か、ホラー的でポルノ的でコメディ(お笑い)的な、日常的でありながらおぞましいアディクション的潜勢力をもった〈何か〉──それはディロウェイとレーベル上のつながりをもつ初期のエメラルズや、あるいはカセット・カルチャーという文脈を介して地理的にはNYに属すはずのOPNやジェームス・フェラーロにまで流れ込んできた〈何か〉であるだろう──との関わりのなかで捉えられるべきものなのではないかという印象がにわかに強くなってくる。
ホラーやポルノやコメディへのアディクション──それは人間の〈文化的なもの〉の蓄えが底を尽きたときに現れる精神の身も蓋もない物質性のレイヤーであり、「動物的」と表現することさえ(動物はそこまで愚かではない以上)適切ではないようなものであるが、これはEb.erのRunzelstirn & Gurgelstøckにも見出された特徴であることは、もはやあらためて確認するまでもないだろう。それは日本の文脈では90年代サブカルにおける悪趣味(バッドテイスト)系として語られていたものだと言われるかもしれないが、「ノイズ」というジャンル否定的なジャンルのパラドックス的衝動の問題との関連を視野に入れるなら、その傾向はたんなる「(戦後)日本的なもの」の問題にもたんなるポストモダニズムの無責任さの問題にも回収されえない、何よりもまずポスト冷戦的世界におけるグローバルな文化批判的な論理に関わるような遠大な射程をもつ問題であることが明らかとなり始めるのである。悪趣味(バッドテイスト)系、ないしはノイズとアディクション的諸要素の関係をめぐるこの問題は、一見すると日本やアメリカの個別のローカルな文化的コンテクストに属するように見えて、厳密にはそれを超え出るジェネリックな性格を有している。そうした状況を踏まえてのことか、トム・スミスはゼロ年代半ばにはアメリカを離れて単身ドイツに移住し、Eb.erとSchimpfluch で共演していたデイヴ・フィリップスとともにOhneというグループを結成している。Ohneのライヴ・パフォーマンスにおける咳払いやゲップの音といった、あの日常的なものの圏域に属しながら美的な聴取の秩序からは(実験音楽のそれにおいてさえ!)慎重に排除されている音群への、彼らの鋭いアプローチと戦略的な利用に耳を澄ましてみよう。スミスの情報論的な共不可能性の極大化の戦略は、そのようなかたちでEb.erの社会的精神病理の限りない再帰化の戦略と響きあっているのである。そしてディロウェイもまた、ジョン・ケージの《ローツァルト・ミックス》のリアリゼーションの仕事などにおいて純粋な「実験音楽」の歴史に目配せしつつも、『Modern Jester』や『The Gag File』のアルバム・タイトルやジャケット・イメージに見られるように、不気味な道化師が周囲に振りまくコメディ的でホラー的な不安定化するアンビエンスから、自身の音楽的想像力のリソースを少なからず引き出しているのだ。ノイズはアディクションの衰弱させるようなベクトルを自身のうちで折り畳み、多重化することで〈文化〉への別の角度からの再侵入を狙う。対抗アディクションとしてのノイズ──スミスそして(録音物ではなくライヴにおける)ディロウェイが身にまとう〈燃え尽きる男〉のイメージは、男性性を取り巻く諸々のアディクションをそれ自身のポテンシャルに従って燃え盛らせ、いわば〈男性への生成変化〉をオーヴァードライヴさせることによって、ついには男性性そのものが、人間性の諸形象とともに無化されるように感じられる地点にまで行き着くのである。男になりすぎて女になってしまった声が放つ、あの擬死的なエロス。それはラディカルな文化政治的な含意を伴う、男性性の唯物論的脱構築のひとつの優れた実例と見なすこともできるものだ。
[[SplitPage]]§**†
かくしてライヴは終わり、私は小林さんとともにSoupを出て帰路についた。数日前に購入した聴覚保護用のイヤープラグのおかげで、耳鳴りはそれほどでもなかった。ライヴ後の耳鳴りこそノイズの(あるいはある種のエレクトロニカやテクノのイベントの)醍醐味だと言う人もいるが、私はそうは思わない。イヤープラグのおかげで尋常ならざるラウドネスに達していたディロウェイのライヴ後半部でも冷静に音の運動を追跡することができたのだし、帰り際に道路工事の音を聴きながらそれがまるでインダストリアル系の音楽(それも相当に音質が良い!)のように聴こえてくるなどという感覚を楽しむこともできたのである。たしかにそのような〈聴くこと〉の〈楽しさ〉をたんに強調してノイズ(・ミュージック)の無化的批判のエネルギーを等閑視するならば、カーンがケージについて述べたような汎聴覚性の罠に舞い戻ることになりかねないだろう。にもかかわらず他面では、繰り返しになるが、ノイズのライヴの興奮をファナティックな集団自傷行為のそれと融合させてしまうことに対して私たちは、そこに対抗‐アディクション的な反転可能性が依然として賭けられているのだとしても十分に慎重でなければならないのである。それはノイズの倫理、一般的な倫理ではなくノイズという特異的な場所に固有の倫理と関わる。
キャンセル・カルチャーという言葉が叫ばれ、ノイズキャンセリング・イヤホンが人気を博している現在において、勇気をもって言表されなければならないのは、この世界のうちでただひとつだけ決してキャンセルされるべきでないものが存在するとすればそれはノイズである、ということだ。聴取が向かうべき空間は、そこが真の意味での〈正義〉の空間であるならば、ノイズを決して排除しない。ノイズの社会的キャンセルが正当化され、実行可能な計画までもが組まれるようになるとき、真のファシズムが開始されるだろう。それは政治的非難の常套句としての、言葉の綾としてのファシズムではなく、歴史的にかつて猛威を振るっていたそれと同じ本性をもつ、言葉の本来の意味におけるファシズムである。しかしそのような迫害のシナリオが現実化される前に、ノイズ自身がこのような真のファシズムに陥ってしまう可能性を孕んでいる。この危険について私は、ジャパノイズだけでなくノイズ一般の政治的属性の危うい曖昧性としてすでに触れておいた。
哲学者のジャック・デリダは、まさにファシズムとの浅からぬ関係をもつニーチェの生物学主義的思想の脱構築をその企図の一部として含む七〇年代半ばの講義において、教育制度を通じたある種の記憶や思考の枠組みの再生産および選択の問題を論じながら、同時代的に進行しつつあったDNAの発見に端を発する遺伝生物学の発展とそこでの「プログラム」概念の位置づけをめぐる問題も横目で睨みつつ、ニーチェにおける「耳の問い」、「耳の形象」、「耳の迷宮」への注意を促している(ジャック・デリダ『生死』小川歩人ほか訳、白水社、二〇二二年、六〇頁)。フランス語において理解することと聞くことの両方の意味をもつ動詞entendreを戦略的に戯れさせながら、ここでデリダが示唆しようとしているのは、哲学的思考もまたそこに根を下ろしているような言語的意味作用の隠喩的で類比的な層について、何らかの目的論的で実体的なシニフィエをその起源として前提せずに、むしろさまざまな「プログラム」の制度的-遺伝的な錯綜と相互汚染から生産される効果=結果として、思考一般にとってのこの層の不可避性をそれ自体隠喩的かつ類比的に語ることが、そこにおいてはふさわしい振る舞いと見なされることになるようなある場面のことである。「ニーチェは、概念的思考、その理解と拡張の規則は隠喩によって進むことを示しているのであり、彼はそのことを言表のように述べるのではなく、言表行為において述べるのです」(前掲書、八六頁)。純粋なものと推定された概念的思考のうちに混入する隠喩的ベクトルのある種の除去不可能性については、デリダが「白い神話」をはじめとする諸論文において指摘してきたものであり、それほど新鮮な論点ではないかもしれない。しかし私たちはそこで隠喩の生産とその理解/聴取とに関する一連の思考の働きが、耳というそれ自体特異的な隠喩的価値を帯びた感覚器官と結びつけられていることに注目するとき、またそれが進化論と遺伝生物学を含む現代生物学のさまざまな知見を考慮に入れることが当然期待されるような文脈において、「隠喩の自然選択」(同上)といったアイデアと並べられて──同じく七〇年代にリチャード・ドーキンスによって提案された「ミーム」の理論とも不思議な共鳴を見せるような仕方で──論じられていることに気づくとき、この使い古され摩滅しつつあるテーマないしトポスに新たな使用価値が宿りつつあることを認めざるをえない。おそらく耳はひとつの戦略素、「自身が話すのを聴く声」という自己現前性に支えられた現象学的意識のモデルに走った半透明の亀裂、思考のアプリオリな構造ないし経済の自然史的(したがってもはや分析的ではない総合的な)秩序への切れ込みがそこから入れられ、次いでこの秩序全体のトポロジカルな変形がそこから開始されることになるような、あの決定的な隠喩的対象のうちのひとつであるのだ。このハイパー自然史的な平面の上では、思考の経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルとはたんに二重襞として扱われるだけではもはや済まないものとして、いくつかの特異点(固有名ないし隠喩)において識別不可能な仕方でショートサーキットされることになる。耳は意識であり、意識は脳であり、脳は制度であり、制度はミームであり、ミームは遺伝子であり、遺伝子は言語であり、言語は隠喩であり、隠喩は概念であり、概念はミームであり、ミームは隠喩であり、隠喩はノイズであり、ノイズはノイズであり、ノイズはノイズではないものであり、ノイズではないものはアディクションであり、アディクションは唾や痰であり、唾や痰はウィルスであり、ウィルスは埃や変形であり、埃や変形はテープであり、テープは息であり、息は音であり、音は耳であり、耳はノイズであり、ノイズは思考であり……かかる隠喩的回路のオーヴァードライヴにおいて〈生きること〉と〈思考すること〉と言語との関係は、もはや「生「と」死」や「生「とは」死「である」」といった定立的で対立的もしくは同一化的な論理に従って捉えられることはできなくなるがゆえに、またむしろそのような論理自体がこのオーヴァードライヴの生産する効果=結果であることを指し示すために、デリダはそれを接続詞も繋辞も取り払った「生死」(la vie la mort; life death)として名指すことになるだろう(cf. 前掲書、二四頁)。そしてその回路のうちには還元不可能な偶然性が働いていることが予期される。だからこそ私たちは「ノイズとは何か」という問いのリフレインを通じてノイズの経験の実在的諸条件について記述しようとする際に、ノイズの本質のノイズ的(偶然的)揺らぎによるジャンル的自己異化を考慮に入れて、これを生気論的エネルギーのたんなる賛歌によってではなく、耳の「生死」の次元において、すなわち個体的事例としてのノイズ・ミュージックの「ライヴ(デッド)レポート」の次元において記述することを望んだのだった。
周知のとおり音楽について語るうえで、そして書くうえで避けることができないのは、隠喩の暴走であり、自走である。このことはノイズ(・ミュージック)に関してはいっそう激しく当てはまるかもしれない。というのもノイズとは、それをまさに聴いているときにはそれを音として同一化することが困難であるような、時系列的な捻れを孕んだ出来事の名であるからだ。ノイズにおいて聴覚的なものと音響的なものとは天空と大地のごとく分離される。音を聴くことと音が鳴ることの自然な統一性、二項のあいだの相関性に時間的な亀裂が走り、「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という問いあるいは〈問い以前のもの〉を残すとき、私たちはノイズの経験をもつのだと言える。このような経験、混じり気のない唯物論的な経験に対して私たちがなしうるのは、隠喩を駆使しながら、そして隠喩が焼き切れるまでそれを使いながら──おそらくそこにデリダがかろうじて留保していた「脱構築の脱構築不可能性」が他の意味において脱構築されてしまう時間、ブラシエ的な意味での「絶滅」の時間が見出されることになる──、より正確な記述のためのカテゴリーを探すことでしかないだろう。「音であるにはあまりにもうるさすぎる」(ラウドネス)、「聴かれるにはあまりにもおぞましすぎる」(アブジェクション)といった過剰さを特徴とするノイズの経験は、私たちの耳という入力端子への超過電流の流れ込みとして隠喩化されうるかもしれない。その場合、私たちの耳-回路という隠喩的図式のなかにオーヴァードライヴが生じていることになる。言葉はもはや入力された値をそのまま出力することはなくなり、すべての意味‐音色は強度的‐内包的に歪む。次に試みられるのは、隠喩的図式をオーヴァードライヴさせて得たこの思考を、再び隠喩的回路に流し込むことで、フィードバック・ループを生じさせることだろう。ノイズの経験を記述するために用いられる隠喩的カテゴリー(たとえば「耳」「痰」)を幾度となくダビングし、それ自身の内部での準-音響的経験(いわば〈隠喩の耳鳴り〉)の記述にまで適用するとき、ついには聴覚的経験を言説的に表現するものとしてのテクストそのものが物質的な次元でハウリングし、ループし始めるだろう。どんなライヴを聴いたのか、そこで誰が演奏していたのかということさえ、もはや私は忘れ始めている。ただそこで私の耳を襲った音たちが、無数の軋るような隠喩的図式、ミームとアディクションの唸りを上げるような運動に変換されて、私の脳内を駆けめぐっているだけだ。ひとつの言説として出力するにはそれらの信号をもう少し増幅してやる必要があるだろう。録音、再生、再録音。そのようにして「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という〈問い以前のもの〉が、「結局のところ、ノイズとは何なのだろうか」というひとつのほどよく素朴で、素面な、流通可能で売買可能な形式の問い‐商品へと成形されていく。だがその商品化された問いの下では、依然として〈問い以前のもの〉が地下道を走りまわるネズミの群れのごとき、小さく聴きとりづらい、それ自体で複数のものである唸り声を上げている。物質的時間が劣化の名のもとに種々のノイズを刻み込む以上、テープループによる反復は悪無限の牢獄ではない。隠喩は永遠に隠喩であるわけではない。「欲望機械は隠喩ではない」(ドゥルーズ&ガタリ)。
ノイズの隠喩をノイズの隠喩で焼くと、隠喩の燃焼でノイズそれ自身が生じる。ノイズについてのノイズはひとつのイディオムを、歌を生む。テープが(ヴァイナルが、CDが……)徐々に磨耗しながら、同じ歌の文句を問いとしてループさせる。歌が歌い尽くされるまで、問いが問い尽くされるまで。
そして、昔々あるところに。まだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった。外出先から帰宅したばかりの私はどういうわけか無性に初期の暴力温泉芸者(中原昌也)のアルバムが聴きたくなり(文はここで途切れている)……。
------
追伸:この記事は当初ライヴ・レポートとして執筆されていたものの、徐々にノイズについての原理的な考察としての性格を強め、それに伴い字数も大幅に増えたために、コラムとして掲載されることになった。しかし記事内で述べられているように、ノイズについての十全な理論的考察は個体的で実在的な音響体験の記述から切り離せないため、当初のライヴ・レポートの内容と枠組みはそのまま残されている。したがってこの記事は拡大されてはいるものの純粋なケース・スタディ(事例研究)として読むことも可能であれば、圧縮されてはいるものの完全な一般理論として読むことも可能なものとなっている。どちらの解読格子を採用するかは読者の好みに委ねられる。
ニューヨーク在住のアンビエント・アーティスト、テイラー・デュプリーが主宰するレーベル〈12k〉は、90年代末期から運営されている老舗エレクトロニカ/アンビエント・レーベルである。
レーベル初期はグリッチ的な音響によるエレクトロニカを展開していたが、00年代中期以降は次第にアンビエント的な音響へと舵を切り、以降、多くのアンビエント・アルバムをリリースしてきた。
リリース・アーティストは多岐にわたる。主宰のテイラー・デュプリーをはじめとして、アメリカのサウンドアーティスト/ギタリストのステファン・ヴィティエッロ、伊達伯欣とコリー・フラーのユニットのイルハ、オレゴン州ポートランドを活動拠点とするサウンド・アーティストのマーカス・フィッシャー、アルゼンチン・ブエノスアイレスのアンビエント・アーティストのフェデリコ・デューランド、ノースカロライナ州のアンビエント・アーティストで日本の畠山地平との共作でも知られるマイケル・グリゴーニ、リッチモンド在住のアンビエント・アーティストのモリー・バーグなどのアルバム、EP、参加音源をリリースし続けてきた。
ほかにもスロウダイヴのサイモン・スコット、スティーヴ・ロデン、イタリアのサウンドアーティスト/打つ音響作家ジュゼッペ・イエラシ、テイラー・デュプリーと坂本龍一の共演作など、アンビエント・アーティストのアルバムを多く送り出しているのだ。まさに現代アンビエント・ミュージック界を代表するレーベルといえよう。
さて今回、新作『Low Flying Owls』をリリースしたビトウィーンは、先に挙げたテイラー・デュプリー、ステファン・ヴィティエッロ、コリー・フラー、マーカス・フィッシャー、フェデリコ・デューランド、マイケル・グリゴーニ、モリー・バーグらによるアンビエント・グループである。
とはいえメンバーは不定形で、2011年にリリースされた『Between』では、テイラーやマルクス、コリー・フラーに加え、サイモン・スコットと伊達伯欣が参加していた。
私見だが〈12k〉の共演作には傑作が多い印象がある。例えばモリー・バーグ、ステファン・ヴィティエッロ、スティーブ・ロデン、オリビア・ブロックによるモス(MOSS)の『MOSS』(2011)や、先に挙げたビトウィーン『Between』(2012)などはまるで深夜の教会で鳴らされるアンビエント・セッションのごとき静謐な音響が魅力的なアルバムであった。
デュプリーとケネス・カーシュナーの『Post_Piano 2』(2005)、ステファン・ヴィティエッロとモリー・バーグの共演作『The Gorilla Variations』(2009)も素朴にして美麗なアンビエンスを放っていた。
共演作にはそれぞれの魅力を相殺してしまうケースもあるが、〈12k〉の共演作はそうではない。それぞれのアンビエンスが豊穣な音空間を構成しているような聴こえるのだ。
この『Low Flying Owls』も同様といえる。音。空間。薄明かり。そんなイメージのサウンドスケープが7人の個性の融合によって生成されているのだ。聴くほどに音の深みに落ちていくような感覚とでもいうべきか。
『Low Flying Owls』は、テイラー・デュプリーとステファン・ヴィティエッロのふたりが、フロリダのビーチハウスに設置したスタジオで制作したトラックをベースに、それぞれのアーティストが自分たちの音を付け加えていくことで制作されていったという。
声、クラリネット、ドラム、ピアノ、ギター、さらにはフィールド・レコーディング音などが加えられてゆき、優雅で繊細な音のタペストリーが織り上げられていったわけだ。まさに〈12k〉的なアンビエント美学の集大成ともいえる作品に仕上がっている。
じじつアルバム1曲目 “Glass” の一音目、ポーンと放たれる美しい音からして一気に引き込まれてしまう。いくつのノイズが折り重なり、ループし、真夜中の森のように微かなざわめきを感じさせる音響空間が時のなかに染み込んでいくように鳴らされていく。7人のアンビエント・アーティストの個性が慎ましやかに、相互に浸透しあっていくような曲だ。
3曲目 “know” ではドラムの音が鳴っている点も重要である。といってもビートを鳴らすというよりは、点描的に音が置かれていくような音だ。静謐なアンビエント空間に違和感なく溶け込んでいるのだ。
以降、最後の9曲目まで音たちは、ただ鳴らされ、そして慎ましく配置されていく。まるで日本の水墨画のようなコンポジションである。日本的な美意識すら感じるほどに。
思い出してみれば、2012年の『Between』も京都の島原にある「きんせ旅館」でライヴ録音されたものであった。彼らの音の本質に(ということは〈12k〉の音の本質に)、日本的な「あいだ」と「あわい」のような美学があるのではないかと勝手に想像してしまう。まさに「ビトウィーン」の美学。
本作はライヴ録音ではないが、日本的な陰翳礼讃のムードが横溢しているように感じられた。このアルバムを聴くと、音と音の「あいだ」にあるもの、静けさに染み込んでいく音や時間の痕跡がとても心地よく感じるようになっていく。
同時にどこかジャズ的な響きも感じてしまう。まるで北欧のジャズ、例えば〈ECM〉のアルバムのような響き、ムードがあるのだ。透明な音色によるアンビエント・サウンド・セッションとでもいうべきか。
ここにはあるのは音の「間」と音の「持続」である。まさに〈12k〉というレーベルの「美学」が完璧なかたちで再現されているアルバムだ。はじめて〈12k〉の音楽を聴く方にも自信を持ってお勧めできる美しいアンビエント・ミュージックである。
アートワークはマーカス・フィッシャーが手がけている。CDとセットにされるアートブックにも彼の作品が収録されている。いわばサウンドとヴィジュアルの両方から、アルバムの世界観を提示しているともいえよう。
過去の真のイメージは、さっとかすめて過ぎてゆく。過去はそれが認識可能となる瞬間にだけひらめいて、もう二度と姿を現すことがない。そのようなイメージとしてしか、確保できないのだ。
歴史とは構成[構造体形成]の対象である。その構成の場は、均質で空虚な時間ではなく、今の時に充ちている時間である。
──ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」
小さいようで、大きいアルバムだ。それと同時に、大きいようでいて、なんだか小さいアルバムでもある。
いくつかのインタヴューで語られているとおり、この『e o』が以前の『Obscure Ride』(2015年)や『POLY LIFE MULTI SOUL』(2018年)と大きく異なる点は、プロダクションとその方法にある。制作にあたって、橋本翼が住んでいた吉祥寺のマンションを作業部屋にし、橋本と髙城晶平、荒内佑はそこに集まって、デモを制作していった。そして、後半は、カクバリズムの事務所の一室で同様のことをおこなったという。荒内は「3人とも宅録出身なんで、自然なやり方に戻った感じがしています」と、髙城は「高校生の頃はこんな感じで曲を作ったりしていたな」と振り返っている。
ceroの3人はここで、プレイヤーたちの身体的・肉体的な感覚をレコードに刻みつけるよりも、ホーム・レコーディングとプログラミングを中心にすることを選び、プリプロダクションからポストプロダクションまでをある程度シームレスにつなぐことでアルバムを織りあげた。いかにもバンド然とした演奏は後退して希薄化し、それらとエレクトロニクスとの有機的な接合が試みられており、髙城のヴォーカリゼーションもかなり抑制的だ(「ご近所に迷惑にならないようなレンジで歌う、っていう宅録でのスタンスが引き継がれ」たという)。『e o』を聴けば、原点回帰とも揺り戻しともとれるその小さな場所での小さな制作は、サウンドにおける内的宇宙の見事な伸長と拡大に結実していることがよくわかる。
3人は、このアルバムにコンセプトがなかったことも強調している。だから、断片的な作品だという印象も受ける。かといって、統一感がないわけでもない。ソロ・ワークの寄せ集めといった趣は皆無だし(3人は2020年以降、それぞれソロ活動とアルバム制作をおこなった)、むしろ、一定のクールなムードや空気、あるいは香りのようなものが充満しており、各曲の独立性とアルバムとしての統一性、その両方がある。“Fdf”、“Nemesis”、“Cupola”、“Fuha” という2020年から2022年にかけて断続的に発表されたシングルが収められてもいるが、それらはアルバムという置き場所を得たことで、リリースされたそのときには謎めいていたそれぞれの表情にひとつの解が与えられたような、不思議な座りのよさが感じられる。
なにかとなにかのあわいにあるような、むずがゆくてはっきりとしない、半醒半睡の、半酔の、靄がかかったような、中間的な領域をずっと漂っているような音。そうであるからこそ、「プラネタリーな規模と心の次元が結びついて織り合わさってるような」、マクロとミクロとを瞬時に行き来することができるような、自由に飛び跳ねる音。
髙城のリリックも、こういった変化にそのまま対応している。再びインタヴューの発言を引くと、『e o』で歌われているのは、これまでのように叙事性や物語性を志向したものではなく、「リニアに時間が展開していくよりも、意味を切断していくような『詩』らしい広がり方を」を持った、「香水のような」歌詞である。
極端なジャンプカットの連続のような、紙芝居のような、スナップショットの束のような、「ひどく粗いゲーム画面」(“Epigraph”)か「絡み合うタペストリー」(“Nemesis”)のような、跳躍を続ける言葉、そしてそれらが描く(少々 sci-fi な)イメージ。かといって、抽象的だったり、心象的だったりするばかりではない。「素粒子の精霊は観測者を待つ」(“Epigraph”)。「人新世の霊と 枯れた花のゲート」(“Fuha”)。「兵隊たちにインタビュー/乱れる映像」(“Evening News”)。『e o』で髙城は、まちがいなく私たちがいま生きているこの世界のことを、奇妙な手触りをもった言葉で歌っている。
髙城の断片的な詞は、その形式においても内容においても、圧縮され凝固された時間のようだ。注目すべきは、imdkm も指摘するように、アルバムのクローザーである“Angelus Novus”があきらかにヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」へのオマージュになっていること。この曲は、オープナーの “Epigraph” とともに、ベンヤミンの歴史や時間についての思惟と少なからぬ共振を見せている。
ベンヤミンは1940年、ナチスに追われて滞在中のパリから脱出し、スペインに逃れようと試みるが、9月にピレネー山中でモルヒネで自死している。「歴史の概念について」は、彼が最期まで手を加えていたという、十数のテーゼからなる原稿だ。そこでベンヤミンは、因果関係によって歴史を書く「歴史主義」や進歩史観を強く批判しながら、彼なりの史的唯物論を展開している。それは、平たく言えば、「今の時に充ちている時間」のポテンシャルにかけるような思考だ。抑圧された過去が現在と不意に出会い、星座的な布置をなし、現在を突然に変容させてしまう──ベンヤミンは「歴史の連続体を爆砕して過去を取りだす」という言い方もしているが、それが「今の時に充ちている時間」という(革命的な)チャンスである。
叙事的な語りや連続的な歴史観を捨ててそこから飛び出すことは、上で引いたとおり、『e o』における髙城の詞作の方法と相似形を描いている。「真新しいものがなくなり/ようやく静けさの中ページが開く」(“Epigraph”)というラインは、ベンヤミン的な歴史や時間に対する態度の一端を言い表しているかのようだ。
それは、音楽的にもそうである。『e o』は、『Obscure Ride』におけるネオ・ソウルや『POLY LIFE MULTI SOUL』におけるリズムの実験といった、わかりやすい参照点を持っていない。ここにある音楽は、溝にハマって離れることのないグルーヴ、あるいはリズムの交差が生み出す興奮ではなく、楽音や電子音などの多彩な要素が絡まりあい、冷静に構成された、一瞬の閃きや煌めきからなる複雑な織物である。
「歴史の概念について」は、ベンヤミンが執筆当時に置かれた状況を考えてもわかるとおり、けっしてオプティミスティックなものではない。それでも、そこには、私たちの中に潜性している「かすかなメシア的な力」にかける意志がある。「嵐がくる/楽園から吹きつける/透明な未来」(“Angelus Novus”)と歌って終わる『e o』には私たちが押し流されていく先にある未来へわずかに期待をかけるような、小さく冷静なオプティミズムが感じられる。未来は真っ白なブランクでしかないが、絵に描いたような未来に向かって単線的に進んでいくのではないかたちで、それをのぞみ求める、というような。
41分9秒というランニング・タイムは、cero のアルバム・ディスコグラフィの中でもっとも短い。けれども、その時間には、これまででもっとも濃密で、豊かで、深遠で、複層的な音と詞が封じ込められている。だから、奇妙なルールに支配された分厚いゲーム・ブックで遊ぶように、たくさん折り重なった襞の中に分け入っていくように、薄明かりが射し込む部屋に散らばったなにかを手探りするように、私は今日もまた『e o』に耳を傾けている。
■引用・参考文献
ヴァルター・ベンヤミン『[新訳・評注]歴史の概念について』鹿島徹訳・評注、未來社、2015年。
みなさんは音楽にうんざりすることは、ないだろうか。定額制の配信が音楽リスニングのスタンダードとなって、いつでもなんでも気になった音楽が好きなように聴ける状態にあり、だからつねに満腹で、もう食欲がないのに関わらず音楽は溢れている。で、気がついたら嘔吐寸前。サイモン・レイノルズが『レトロマニア』のなかで分析したように、音楽は時間的な制約を受ける芸術体験ではなくなり、いわば液化し、一時停止や保存などの非連続性に対して致命的に弱い連続的な供給物となった。ビル・ドラモンドが「音楽を聴かない日」というイヴェントをやる意味はじゅうぶんにある。
2014年にU2がiTunes上でアルバム『Songs of Innocence』の無料ダウンロード展開をしたとき、当たり前の話、この人道主義のバンドに興味のないユーザーからヒンシュクをかっているが、じっさい、商品と広告が一体となった新手の販売戦略は欧米では議論の対象となった。だいたいこうなるともう、音楽はオンライン記事ともよく似た、無料で気を引くための何かであり、少なくとも四六時中スマホや液晶画面を眺めている生活を否定するものではなく、それを批評するものでもないのだ。そんな火種となったU2の所属レーベルから訴えられた経験を持っているのが、アメリカ西海岸のアート集団、ネガティヴランドである。彼らが1991年、大きく「U2」と書かれたパッケージでリリースしたそのEPは、U2のヒット曲のパロディと有名なディスクジョッキーの口汚い言葉や犬の声などがコラージュされたばかりか、アートワークにはアメリカ空軍のロッキードU-2もコラージュされていた。(彼らはその訴訟に負け、のちに作品をもって反撃をしている)
2010年代において重要なアルバムの1枚、 MACINTOSH PLUSの『FLORAL SHOPPE』に収録の “リサフランク420 / 現代のコンピュー”は、典型的な初期ヴェイパーウェイヴで、ダイアナ・ロスの “It's Your Move” をスクリュー(速度をおそらく半分くらいに落として再生)しただけの曲だった。ほかにも当時のヴェイパーウェイヴには、ほとんど80年代の日本のCMをカットアップしただけで作られたアルバム(New Dream Ltd.の『Theatré Virtua』など)もあり、時代の鬼っ子がいっきに話題になったときによく言われたことのひとつが、「こういうことはすでにネガティヴランドがやっているよね」だった。これはザ・KLFがその初期(ザ・JAMS時代)において有名ヒット曲のあからさまなサンプリング・ミュージックを披露したときにも言われたことで、1970年代後半から活動しているこのいたずら好き集団は、1983年の『A Big 10-8 Place』や1987年の『Escape From Noise』によって、古いポップ・ミュージック、電話の会話、ニュース放送、広告、話し言葉などなどのコラージュによる作風を確立しているし、彼らは80年代なかばからラジオ放送というメディアを使ってのいわゆる「カルチャー・ジャミング」を実行していた。というか、状況主義よろしく企業社会をパロディ化する行為。たとえば大企業のロゴを皮肉っぽくいじったり、街の広告板をこっそり書きかえたりなど、90年代以降の反資本主義運動における手段のひとつとして定着する「カルチャー・ジャミング」という用語の言い出しっぺが彼らだった。
「私たちを取り巻くメディア環境が、私たちの内面にどのような影響を与え、方向づけているかという意識が高まるにつれ、抵抗する人も出てくる。巧みに作り替えられたビルボードの看板は、消費者をそこに仕組まれた企業戦略の考察へと導く。カルチャー・ジャマーにとってのスタジオは、世界全体である」ネガティヴランド『Jamcon '84』
ネガティヴランドは1999年には、UKのアナキスト・ロック・バンド、チュンバワンバと組んで政治レクチャーと大ネタのサンプルまみれのEP「アナキズムのいろは(The ABCs of Anarchism)」なんていうのもリリースしている。ザ・レジデンツともよく比較され、1970年代後半から長きにわたって活動を続けているネガティヴランドだが(中心メンバーの2人は数年前に他界している)、いろいろ面白い存在でありながら言葉を多用するため非英語圏の人たちにはその面白さがなかなか伝わらず、という理由もあるのだろう、日本では編集部・小林のような道路の左側しか歩かない人間が知らなかったりするのだ。
こうした日本での状況を考えると、昨年末にリリースされたCD2枚組はほぼすべてがインストゥルメンタル曲のため、非英語圏の人たちにも素直(?)に楽しめるものとなっている。そもそも彼らは、バンド名をノイ!のファースト・アルバムのなかの曲名から取っているし、彼らのレーベル名〈Seeland〉はノイ!のサード・アルバムの曲名から取っているという、アメリカでは極めて希有な、はじまりがそこにあるバンドなのだ。だから間違ってもサウンドを軽視していたわけではない。そういうことがあらためて確認できるのが今回の、言葉のない『発言はなし(Speech Free)』である。
それにしてもこの音楽をなんて表現しようか。風変わりなライブラリー・ミュージック。ノイ!のセカンド・アルバムの拡張版、アップデート版とも言えるし、ミューザック、イージーリスニング、MOR、スムース・ジャズ、そしてニューエイジやエレーベーターミュージック──つまり悲惨な自分たちを忘れさせるための、非場所(non place)のための、いまの消費社会を円滑にするために発案されたanodyne music(痛み止め音楽)のパロディであるとも言えるだろう。面白いが恐怖があり、ユーモアと不安が混じっている。入っちゃいけないものが入っている。だからこれはミューザックのフリをした狼……ではないが、ほのぼの系に見せかけててツメを立てながらシャーっと威嚇する猫みたいなものかもしれない。とにかく、2014年頃のヴェイパーウェイヴのように、心地よさげに見えて不気味なのだ。“リサフランク420 / 現代のコンピュー” をして「インターネットがゲロを吐いているようだ」とうまい表現をした人がいたが、『Speech Free』は無菌状態の都市空間にお似合いのすべてのBGMの品行を乱している。音楽にうんざりしているときに聴けるアルバムなのだ。
昔、テイラー・スウィフトの作品のことを「ソーシャルメディアを通じてつねに評価を求める社会」における「適合主義的パワー・ファンタジー」と評した人がいた。いわく「このおかしな世界では、大きな声で拍手するか、さもなければ破門され嫌われ者の谷に落ちるか、それがあなたの選択肢なのだ」。そうだとしたら、ネガティヴランドも10年代半ばのヴェイパーウェイヴも確実に後者に属している。しかし、だから良いのだ。
先週来日情報が発表されたばかりのオルタナティヴR&Bシンガー、ケレラ。彼女が盟友のアスマラ(ングズングズ)とともに2019年に発表したミックス音源『Aquaphoria』は重要な定点観測だったと、いまあらためて思う。小久保隆のような日本の環境音楽家から OPN にヴィジブル・クロークス、〈PAN〉のコンピ『Mono No Aware』にも収録されたカリーム・ロトフィといった2010年代の音風景の一角を担ったアーティストまでを拾い上げたそのアンビエント・ミックスは、ケレラ本人のヴォーカルが重ねられることにより、ソランジュ以降の静かなソウルの流れを射程に収める試みにもなっていた。すべてではないにせよ、10年代の音楽が持つある側面がそこに集約されていたのだ。
インタヴューでも語られているように、同ミックスでアンビエントを探求した経験が大きな転機をもたらしたのだろう。ケレラ6年ぶり2枚めのアルバム『Raven』は、その路線をさらに推し進めたサウンドに仕上がっている。
黒人女性であることがテーマになっている点も見逃せない。詳しくは天野くんによる上述のインタヴューをお読みいただきたいが、『デイズド』によれば前作以降の沈黙期間中、彼女はブラックに関わるさまざまなことを独自に学んでいたという。研究対象には編集長が尊敬するマルクス主義フェミニスト、ベル・フックスの著作であったり、サミュエル・R・ディレイニーやオクティヴィア・E・バトラー、グレッグ・テイトやコジュウォ・エシュンが出演するアフロフューチャリズムのドキュメンタリー『The Last Angel of History(邦題:マザーシップ・コネクション)』(ジョージ・クリントンは当然のこと、デトロイト・テクノの面々も多く出演)も含まれている。
そもそも2010年代前半、ワシントンDC出身にしてLA在住のエチオピア系たるこのシンガーが頭角をあらわしてきたのは、〈Fade To Mind〉~〈Night Slugs〉周辺、すなわちUKベース・ミュージックとの連携においてだった。ミックステープ『Cut 4 Me』(13)、EP「Hallucinogen」(15)、ファースト・アルバム『Take Me Apart』(17)といった一連の作品は、キングダム、ングズングズ、ボク・ボク、ガール・ユニット、ジャム・シティ(そしてアルカ)らの協力あってこその産物だ。インド系のアスマラを除けば(おそらく)ほとんどがホワイトである。ゆえにこの6年間のケレラの研究は、自身のアイデンティティの確認という側面も有していたにちがいない。
サウンド面ではアンビエントに没頭すること。意識の面では黒人女性をとりまくけっして軽くはない諸問題について理解を深めること。それらの探求を経て生み落とされたのが新作『Raven』なのだ。
他方で本作には多くのダンス・ミュージックが搭載されてもいる。最新の動向を追っているリスナーにとっては、LSDXOXO の参加がもっとも気になるところだろう。自身の作品ではジャージー・クラブやゲットー・ハウスを打ち鳴らしている彼だが、本作では最近のトレンドであるジャングルのビートを生成、アップリフティングな “Happy Ending” でも、ほんのりラテン調の哀愁を帯びた “Missed Call” でも、シンセがゴールディー “Angel” のような浮遊感をまとう“Contact” でもダーティな感覚は封印しつつ、気品あふれるケレラのヴォーカルをうまく引き立てている。
ハイチ系カナダ人のヒップホップ・プロデューサー、ケイトラナダとの共作も注目ポイントかもしれない。彼がプロデュースに加わった “On the Run” ではダンスホールのリズムを崩す実験が試みられている。あるいは終盤に配置されたハウス・トラックも、これまでのケレラにはなかった路線だ。これらみずみずしいダンス・チューンが『Raven』に花を添えていることは疑いない。
けれどもやはり全体として本作は、アンビエント色のほうが濃く出ている。ビートは控えめに、サブベースで下部を支えながら、極力中間部を抜き去り、ヴォーカルやシンセの残響で空間を満たしていくアトモスフェリックなトラックが大半だ。手を貸しているのはベルリンのアンビエント・デュオ、OCA(ヨー・ヴァン・レンズ+フロリアン・TM・ザイジグ)。『Aquaphoria』でもピックアップされていた彼らとの共同作業が本作の核になっていることは、先述のインタヴューからも確認できる。
ではシンガーとしての彼女はどう変わったのか。歌唱法には大きな変化はないように聞こえる。しかし冒頭や最終曲で高らかに歌い上げられる「far away」=「遠く(流されて)」──このフレーズは、水がテーマである本作中何度も登場することになる──には、どこかこれまでとは異なる決意めいたものが感じられる。歌詞はどれも一見ラヴ・ソングのようだが、たとえばさりげなく自身を白人だと信じ込んでいた架空の盲目の黒人政治家の名が忍ばされていたり、主人公があくまで黒人女性であることを意識させるつくりになっている(対訳つきの日本盤を推奨)。やはりブラックに関わる事柄の研究がヴォーカルと歌詞にも影響を及ぼしているのだろう。
そういった点も踏まえるなら、今回ケレラがジャングルやハウスを導入したことは、ディフォレスト・ブラウン・ジュニアが掲げる「テクノを黒人の手にとりもどせ(Make Techno Black Again)」ともリンクする態度といえる。が、その一方で、白人が生み出した音楽であるアンビエントからもおなじくらい大きく触発されている点にこそ、『Raven』最大の魅力が宿っているのではないか。近年は KMRU やクライン、ロレイン・ジェイムズのようにブラックによるアンビエント作品にも注目が集まるようになりつつある。あくまでケレラはシンガーではあるものの、本作にはその動きを後押しするようなポテンシャルも具わっているのだ。
勇敢な冒険心とともに前進しつづけているロック・バンドがいま、特に英国やアイルランドから現れているのは、周知のとおり。先日も、たとえば、マンディ・インディアナ(スクイッドが対バンしたこともある)が刺激的なデビュー・アルバム『i’ve seen a way』を世に問うたばかりだ。
一方で、シーン(のようなもの)の全体が成熟してきたために、どこかコミュニティの個性やローカリティは薄れつつあるように感じられ、もっぱら、話題は個々のバンドのストーリーや作品のクオリティに焦点が絞られつつある。ある意味で多拠点化して分散し、フラットになりつつあるわけだが、ロンドンから少々離れた海辺の街ブライトンの大学で結成されていたり、メンバーのうち数名がブリストルに住んでいたりするスクイッドは、元々そういう磁場には引っ張られていなかったのかもしれない。2021年の『Bright Green Field』での成功からちょうど2年、〈Warp Records〉からのセカンド・アルバム『O Monolith』の実験的で自由なムードにも、そのことが感じられる。
スクイッドの5人は、ブリストルで曲を練りあげたあと、ブリストルの東、ウィルトシャーのボックスにあるリアル・ワールド・スタジオ(言うまでもなく、ピーター・ゲイブリエルが1980年代に築いたスタジオだ)でこのアルバムを制作している。前作と同様にダン・キャリーがプロデューサーとして携わり、注目すべきことにトータスのジョン・マッケンタイアがミキシングをおこなった。
イギリス西海岸の空気、ボックス村の自然ののびのびとした開放感が『O Monolith』にはそれとなく刻まれているが、おもしろいのは、ある意味で密室的な実験がそこに同居していることだ。自由で奇妙な律動を刻むパーカッション、渦巻く電子音、厳かなヴォーカル・アンサンブルがバンドの演奏と溶けあわせられることで、これまで以上に深められた独特の風合いの複層的な音が、ここでは生み出されている。
そして、それは、危機に瀕していながらも、表面的には変わらず牧歌的な緑と青を茂らせた地球環境と、いびつな人工物とのおかしな共演──緑のなかに屹立するストーンヘンジ──のようでもある。『Bright Green Field』での表現といい、どうも彼らはそういうことに関心がありそうだ。
そんな『O Monolith』について、ギターやヴォーカルなどを担うルイ・ボアレス、キーボードやパーカッションやヴァイオリンなどを弾くアーサー・レッドベター(スクイッドの楽器の担当はとても流動的だ)のふたりと話すことができた。トーキング・ヘッズの『Remain in Light』からの影響、ファンクやディスコとの関係、さらに制作中のサード・アルバムにミニマリズムが関係していることなど、スクイッドのサウンドの秘密に迫る内容になっている。
ブリストルには大きな塔がたくさんあるんだけど、そういった現代に作られたモダンな塔と、ストーンサークルみたいな相当昔からずっとある古い一枚岩のイメージを結びつけてみる、というのが、アニミズムについて考えるうえで、すごくおもしろい方法だったんだよね。(ボアレス)
■前作『Bright Green Field』は傑作だと思いました。ご自身の手応えはどうでしたか?
アーサー・レッドベター(以下、AL):あの作品には、全員すごく満足してる。でも、あの作品をどう思うかを考えていたのは、レコーディングしてるときの話。リリースしてからは、あのアルバムは僕たちだけじゃなくて、みんなのものになった。人びとのレコード・コレクションや Spotify のプレイリストのなかで生き続けるんだよ。だから、そうなった時点で、僕はあのアルバムを評価するのをやめたんだ。リリースしたときから、僕の頭は次のプロジェクトのことでいっぱい。それって、すごくいいことだと思うしね。あの作品から得たいちばん大きなものは、多くのことを学べたこと。バンドが成長するためのいい踏み台になったと思う。
ルイ・ボアレス(以下、LB):あんなにいいリアクションがもらえたなんて、すごくエキサイティングだった。作品を作ったときは、何を期待したらいいのか、ぜんぜんわからなかったから。でも、チャートで上位に入ったり(※英オフィシャル・アルバム・チャートで初登場4位)、驚きの連続だったね。
■『Bright Green Field』のリリース後、世界はパンデミックやロックダウンからだんだん解放されていきました。バンドの活動も変わっていきましたか? どんな変化がありましたか?
AL:パンデミックの間は、家にいるということがどういうことなのかを改めて実感できたと思う。あんなに長い期間ライヴをせずに家にいたのは、かなりひさしぶりだったから。そして、いい意味で、ライヴをやりすぎる必要はないんじゃないかと思うようになった。外にいる時間と、自宅での創作活動のバランスをもう少しとったほうが、自分の脳や身体にとっても健康的なのかもしれないってね。パンデミックが終わった夏、あの期間の収入や露出の減少を補うためにかなりの数のショーをやったんだけど、あれはちょっとクレイジーすぎたから(笑)。
■なるほど。そして、新作『O Monolith』も、前作に続いて素晴らしかったです。まずは、この変わったタイトルの由来や意味を教えてください。
LB:当時、オリー(・ジャッジ)が書いていた歌詞の多くが、アニミズム、そして想像力を働かせて日常生活のなかのありふれたものに命を与えるということに関連していたんだよ。で、ブリストルには大きな塔がたくさんあるんだけど、そういった現代に作られたモダンな塔と、ストーンサークルみたいな相当昔からずっとある古い一枚岩のイメージを結びつけてみる、というのが、アニミズムについて考えるうえで、すごくおもしろい方法だったんだよね。それがタイトルの元になったんだと思う。
■ピーター・ゲイブリエルのリアル・ワールド・スタジオでこのアルバムをレコーディングしたそうですね。
AL:そうそう。アルバム(の曲)を書いてるとき、僕たちはリアル・ワールド・スタジオから小川を渡ったところにある、華やかさとは無縁のリハーサル・スタジオにいたんだ。そのスタジオのサウンドは素晴らしくて、僕たちはそこで何日も、一日中アルバム(の曲)を書いてたんだよ。で、徐々に実際にメイン・スタジオでレコーディングすることを想像しはじめた。最初はそんな予算はないって思ってたんだけど、それがどんどん現実的な話になってくると、「あの部屋を使える」っていうのがいい目標になって、かなりのモチベーションになったんだ。そして、あのメイン・ルーム自体からもすごくインスパイアされた。その部屋で、たくさんの素晴らしいミュージシャンやエンジニアたちに使われてきた最高の楽器や機材を使うことができたわけだからね。
■リアル・ワールド・スタジオがあるウィルトシャー州ボックス村のロケーションがアルバムに影響を及ぼしている、とも聞いています。メンバー全員がイギリス西海岸と強い結びつきがある、ともプレスリリースに書かれていますが、そのあたりについて具体的に教えてください。
LB:僕は8年間サウス・デヴォンに住んでいたから、そういう意味では間違いなくそのエリアに親近感がある。ルイはブリストル出身だけど、彼はコーンウォールを何度も訪れているし、ロックダウン中にはコーンウォールに住んでた時期もあった。景色もすごく美しいし、僕たち全員がエンジョイできる場所なんだ。

今回のアルバムでは、パーカッショニストを追加で起用したいと強く思ってたんだ。そして、レコードのサウンドには、そのパーカッショニストたちが同じ部屋で一緒に演奏に参加してくれることが重要だと思った。(レッドベター)
■新作は「proggy」なものだとの発言を読みましたが、ピーターの作品や初期のジェネシスといったプログレッシヴ・ロックには関心がありますか?
AL:いい音楽とは思うけど、新作が「proggy」だとは思わないな(笑)。
■そうですか(笑)。オリーは、“Swing (In A Dream)” は制作時に二日酔いだったからビートがシンプルになったとインタヴューで言っています。ただ、全体的には、前作以上にリズムやビートにフォーカスしていると感じました。今回、曲作りにおいて、リズムやビートにどのように取り組んだのでしょうか?
AL:今回のアルバムでは、パーカッショニストを追加で起用したいと強く思ってたんだ。そして、レコードのサウンドには、そのパーカッショニストたちが同じ部屋で一緒に演奏に参加してくれることが重要だと思った。そこで、ザンズ・ダガン(Zands Duggan)とヘンリー・テレット(Henry Terrett)のふたりに参加してもらって、彼らが一緒に演奏してくれたんだ。それは、アルバムのリズムにとってすごく大きなエフェクトになったと思う。特にザンズは、自分で楽器を作るんだ。だから、彼のパーカッションってすごく深くて、かなりユニークなんだよ。それが、アルバムに本当に個性的なフィーリングをもたらしてくれたと思う。
LB:僕らは(トーキング・ヘッズの)『Remain in Light』の大ファンなんだけど、あのアルバムで、バンドはパーカッションのアンサンブルを招いてるんだよね。あのレコード全体のパーカッションは本当にユニークで、リズムとロックやポストパンクのあの最高のバランスが独特の味を作り出してる。(プロデューサーの)ダン(・キャリー)がザンズを推薦してくれたんだけど、さっきアーサーが言ったように、彼は自分で作る素晴らしい楽器で演奏してくれたし、僕は以前、ヘンリーとギグで一緒になったことがあったから、参加してくれないかって頼んだんだ。ヘンリーもかなりユニークだし、彼らのおかげでかなり特徴的なリズムを作ることができたと思う。
■わかりました。そして、そのリズムとの対比で、ハーモニーが豊かです。『O Monolith』でもっとも印象的なのは、ヴォーカル・アンサンブルのシャーズ(Shards)の貢献でした。彼らとの出会いや参加の経緯、彼らがアルバムにもたらしたものについて教えてください。
LB:ロンドンでショーを見た人たちがすごくよかったって言ってたのと、僕たちのマネージャーがシンガーのひとりと友だちだったから、彼らを招くことにしたんだよ。最初は、子どもの聖歌隊の声みたいなのを入れたらおもしろいかな、なんてアイディアを持ってたんだけど、結果、本格的な聖歌隊に参加してもらうことになったんだ(笑)。
AL:“Siphon Song” みたいな曲は、彼らがいなければいまの姿にはなってなかったと思う。聴いてもらったらわかると思うけど、彼らがハーモニーをリードしてくれてるんだ。彼らに楽譜を渡して方向性を伝えると、一瞬でそれを理解して、僕たちのアイディアを彼らの解釈とやり方で表現してくれた。あれはかなり大きかったし、彼らとコラボレーションできたのは本当に素晴らしい経験だったね。彼らは最高だよ。
■素晴らしいマリアージュだと思います。その “Siphon Song” のヴォーカルは、まるでダフト・パンクのように加工されていますよね。リリックの内容に対応しているとも感じましたが、この曲のプロダクションについて教えてください。
AL:ヴォコーダーを使おうっていうのは誰のアイディアだったかな。あの曲は、実際にスタジオに入る前に構成が決まってた曲のひとつ。トラックの構成や大まかな輪郭に関するアイディアはダンとの会話のなかで生まれたもので、その会話のなかで様々なアイディアを思いつくことができたんだ。ダンが、50個もオシレーターがあって、全部ちがうチューニングができるようなシンセを持ってて。で、トラックの最後では、全員がちがうオシレーターに手を置いててさ。みんな、そのトーンを徐々に上げていって、聖歌隊も最後の音に向かってゆっくりとグリッサンドしていって、曲の最後の盛り上がりがすごいことになったんだ(笑)。
■そのシャーズは、テリー・ライリーと2016年にコラボレーションしているんですよね。ライリーやスティーヴ・ライシュ(ライヒ)、フィリップ・グラスのようなミニマリストたち、あるいはもっと広く考えて、現代音楽やポスト・クラシカルから影響を受けることはありますか?
AL:もちろん。大学では、大学に入る前までは聴いたことがなかったような音楽にたくさん触れることができたし、ひとりでコンサートに足を運ぶようになったんだよね。子どもの頃もライヴには行ってたけど、自分が体験したい音楽を探すまではしてなかった。で、だんだん歳を重ねてコンサートに行くようになると、『18人の音楽家のための音楽』(スティーヴ・ライシュ)とか『浜辺のアインシュタイン』(フィリップ・グラス)みたいなミニマリストの作品を好むようになっていったんだ。本当に感動したし、心を揺さぶられたから。最近だと、ジュリアス・イーストマンの作品を見たんだけど、彼の音楽も本当に素晴らしかった。彼の音楽を再発見できたことは、僕にとってすごく新鮮で興奮したし、もっと彼の作品を聴きたいって思ったね。
LB:僕は、ミニマリズムをたくさん聴いて育ったんだ。スティーヴ・ライシュが生オーケストラの18人のミュージシャンのためにスコアを書いた作曲家の最初のひとりだって、父親が昔話してたのを覚えてる。あの作品はそこまで昔のものではなかったから、それを聞いてちょっと驚いたけど。父の影響もあって、スティーヴ・ライシュは子どもの頃からずっと聴いてきたんだ。ミニマリズムには、本当に素晴らしい瞑想的な性質があると思う。聴いたあとに得られる、独特の感覚があるよね。バンドのみんなとも、ヴァンのなかで聴いたりするんだよ。リラックスしたいときとか、疲れてるときとか。今回のアルバムにも、いま作ってるアルバムにも、間違いなく影響を与えているはずだよ。
[[SplitPage]]
最近だと、ジュリアス・イーストマンの作品を見たんだけど、彼の音楽も本当に素晴らしかった。彼の音楽を再発見できたことは、僕にとってすごく新鮮で興奮したし、もっと彼の作品を聴きたいって思ったね。(レッドベター)
■先ほどトーキング・ヘッズの『Remain in Light』の話が出ましたが、西洋以外の音楽からインスパイアされることはありますか?
LB:あのアルバムからは、さっき話したように、パーカッションのアンサンブルから影響を受けているんだ。西洋以外の音楽に関しては、アントン(・ピアソン)が大学で勉強してたんだよ。あれ、なんだったっけな?
AL:西アフリカの音楽。マリの音楽だね。それは、アントンのギター・プレイに大きな影響を与えたと思う。
■そうだったんですね。ところで、“Undergrowth” はファンク的ですよね。ファンクやR&Bからの影響についてはどうですか?
LB:もちろん。僕とアントンはファンク・バンドを結成したことがあって、それで出会ったくらいだし。大学1年生のときは、ファンクやソウル、ディスコを聴いてよく踊ってた。それまでディスコはあまり聴いたことがなかったんだ。なんか冷たい音楽な印象があって、あまり興味がなくてさ。でも、大学1年のときに、朝の4時にディスコを聴いて踊り狂ってる人たちを見て、これは何か魅力があるに違いないって思って聴くようになった(笑)。
AL:僕が最初にダンス・ミュージックに触れたのは、若いときにロンドンのクラブやレイヴ・イヴェントに行ったとき。だから、僕にとってのダンス・ミュージックの音楽はそういう音楽だったんだ。バンドのみんなに出会ったときは、ちょうどファンクやソウルにハマりはじめたときだったと思う。僕らが作ってる音楽はそういった音楽とはちょっとちがうけど、好きな音楽ではあるから、自然と音に反映されることはあるんじゃないかな。
Undergrowth (Official Audio)
■なるほど。特に “The Blades” などで電子音やシンセサイザーの奇妙な音がたくさん挿入されていますが、これはロジャー・ボルトンの参加とシンセのフェアライトCMIの使用の影響が大きいのでしょうか? 今回の電子音やシンセサイザーへのアプローチについて教えてください。
AL:いや、ロジャーは、電子音やシンセのクリエイションには特別関わってはいないよ。“The Blades” ではローリー(・ナンカイヴェル)がドラム・マシンのサウンドを作って、シンセは僕。あのトラックでフェアライトが使われてるかは確かじゃないけど、“Undergrowth” や “After the Flash” では使われてる。その他の曲でも使われているし、ちょっとしたフェアライトの宝がアルバム全体に隠されているんだ。毎回そうなんだけど、僕らはアルバムを作るたびに、できるだけ多くの種類のツールを集めようとするんだよね。今回は、制作過程で Digtakt(Elektron のドラム・マシン/サンプラー)の使い方がつかめてきて、Digtakt をたくさん使ったんじゃないかと思うんだけど、ローリーはどう思う?
LB:そのとおりだと思う。もちろん、いまもまだ学習中だけどね。あれってほんとに深くてさ。マスターするのに、あと数年はかかるんじゃないかと思う(笑)。
The Blades (Official Video)
ミニマリズムには、本当に素晴らしい瞑想的な性質があると思う。聴いたあとに得られる、独特の感覚があるよね。(……)今回のアルバムにも、いま作ってるアルバムにも、間違いなく影響を与えているはずだよ。(ボアレス)
■佐藤優太さんが執筆した日本盤のライナーノーツで、オリーが「(自分たちの作品と社会とは)切り離している」と言っています。しかし、プレスリリースには、作品のテーマは「人と環境との関わり」、「切迫する環境問題、家庭という存在の役割の変化、長い間離れているときに感じる疎外感といった、僕たちが没頭するようになった物事の暗示が反映されている」とあります。私は音楽と社会や現実世界は無関係ではいられないと考えていますが、みなさんはどうですか?
AL:そのふたつは切り離すことはできないと思う。ただ、僕たちは意識してダイレクトに社会や現実社会について語ろうとしたり、音楽を使って直接的にそれに取り組もうとはしないというだけ。
LB:そうだね。意識したことはないし、逆に切り離そうと話しあったこともない。あまり歌詞や内容を断定しないほうが、より多くの人びとに音楽が届くと思うんだよね。でも、もちろん、自分たちが考えてることが自然と落としこまれるときもある。僕らだって世の中の状況にイライラすることはあるし、それが自然と音や歌詞に反映されることはあるんだ。
■それに関連して、“After The Flash” のアウトロと “Green Light” のイントロに鳥の鳴き声のフィールド・レコーディングが挿入されています。これは、やはり気候変動問題を意識したものなのでしょうか?
LB:いや、それと気候変動は関係ないよ。音楽と関係なく、僕たちはみんな気候変動に関心はもっているけど、それが直接のメッセージではない。僕らは、自分たちの音楽でそういったことを伝えようとしてるわけじゃないんだ。フィールド・レコーディングを使ったのは、アントンがたまたま小さな Tascam か Zoom のレコーダーを持ってたから。ウィルトシャーのすごく美しい地域にいたっていうのもあって、それを使ったんだ。アントンって、元々かなりの鳥愛好家で、バード・ウォッチングが大好きでさ。その土地に生息する鳥の鳴き声を使ったおかげで、アルバムのなかに特別な空間を作り個性を持たせることができたのはすごくよかったと思う。
■しつこく聞いてしまって申し訳ないのですが、気候変動、食料や資源の枯渇、人口の増加といった、人類が直面している喫緊の問題について、みなさんはどう考えていますか? そういった問題に直面しているいま、音楽にはどんなことができると思いますか?
LB:やっぱり、ギグで人びとを興奮させて、集団的な力を作り出すことかな。たとえば、気候変動のようなグローバルな問題に取り組むなら、やっぱり、なんらかの集団的な後押しが必要だと思う。人びとがお互いにつながってるって感じられることが大切だと思うんだ。音楽は、人びとにその感覚を与えることができると思う。少なくとも、それは僕が答えられる哲学的な答えのひとつだね。
■昨年末から今年にかけて、ブラック・ミディやウェット・レッグ、ブラック・カントリー・ニュー・ロード、アイルランドのフォンテインズ・D.C. などが来日しました。近い世代のバンドたちから受けるインスピレーションはありますか?
AL:同世代のバンドからインスピレーションをもらっているのは間違いないと思う。いちばんインスパイアされるのは、一緒にツアーしてる実験的なバンド(※2021年にツアーをした KEG やカプット(Kaputt)などのことだと思われる)。その理由は、前進して、進歩して、人びとからの期待という限界を押し広げることが音楽だと僕らは思っているから。
■わかりました。今日はありがとうございました。
AL:こちらこそ、ありがとう。
LB:またね。
人生の大切なことは韓国ノワールが教えてくれた──韓国ノワールの熱い世界とその歴史
いまや世界で評価される韓国映画、そのなかでも大きな一角を締めているのが「韓国ノワール」とよばれる犯罪映画の一群です。
「香港ノワール」のリメイクに挑戦したり、韓流スターが出演するなど独自に展開してきた韓国ノワールは、韓国映画の特徴である「容赦のない暴力描写」と「社会に対する批判的な視点」により年々クォリティを上げ、『新しき世界』でひとつの到達点に達したと言ってもいいでしょう。
K-POPや韓流ドラマも発展を遂げたが、そんな中で韓国ノワールはどのような進化を遂げてきたのか。
長年この分野に注目し、共著『韓国映画・ドラマ わたしたちのおしゃべりの記録2014~2020』などでも知られる著者が韓国ノワールの主要作品を紹介し、その変遷を読み解いていきます。
まえがき
第一章 初期の名作
現在のノワールの原型を作った『友へ チング』(2001年)
なぜ原題は『黄海』なのか 延辺の朝鮮族を描いた『哀しき獣』(2010年)
美しさを「見せる」「正しき」ノワール『アジョシ』(2010年)
第二章 韓流×ノワール
若かりし日のイ・ビョンホンとファン・ジョンミンの熱が感じられる『甘い人生』(2005年)
むきだしの激しい感情だけがリアルなのか 『映画は映画だ』(2008年)
普通の会社員が実は殺し屋 発想の斬新さは今見ても健在 『ある会社員』(2012年)
第三章 香港映画のリメイク
ノワールに必要だったのは多様な顔ぶれか 『男たちの挽歌 A BETTER TOMORROW』(2010年)
マルチキャスティングブームでブラッシュアップされた快作 『監視者たち』(2013年)
『毒戦 BELIEVER』(2018年)を見終わった後の余韻は『別れる決心』と似ていた
第四章 『新しき世界』前夜
ソン・ガンホの人間力にキュンとくる恋愛×ノワール 『青い塩』(2011年)
因果応報では解決しないリアルなノワールの夜明け 『生き残るための3つの取引』(2013年)
人間のかっこ悪さや滑稽さを、濃い面々で突き詰めた群像劇 『悪いやつら』(2012年)
第五章 力とは何か
あの頃、なぜ勧善懲悪が求められていたのか 『ベテラン』(2015年)
プライドを捨てて、権力に寄り添ったところで、誰も守ってはくれないことを学べ! 『ザ・キング』(2017年)
正義と復讐で結びついたふたりが巨大な悪を圧する『インサイダーズ/内部者たち』(2015年)
第六章 バイプレイヤーから主人公へ
これからという時期の俳優同士のぶつかりあいの記録 『最後まで行く』(2014年)
あのユ・ヘジンが凄腕の殺し屋の主人公に 『LUCK―KEY/ラッキー』(2016年)
第七章 女たちのノワール
母と娘、闇組織のボスと部下、ふたつの意味での継承の物語 『コインロッカーの女』(2015年)
〝力〟と〝感情〟を爆発させるパク・フンジョン作品の女性たち 『楽園の夜』(2020年)『The Witch 魔女』(2018年)
女性の怒りを描いた王道クライム・アクション 『ガール・コップス』(2019年)
第八章 感情のノワール
感傷的(メロウ)な感情に浸っていたい 『新しき世界』(2013年)
これはまぎれもなく愛のノワールだ 『名もなき野良犬の輪舞』(2017年)
まっとうな感覚が北と南のふたりを結ぶ 『工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男』(2018年)
第九章 歴史との並走
嫉妬心が人を破滅に向かわせる 『KCIA 南山の部長たち』(2020年)
金大中のよりよい未来を信じる諦めなさが今の韓国エンタメを築く元になったとわかる『キングメーカー 大統領を作った男』(2021年)
あとがき これからの韓国ノワールは……
【オンラインにてお買い求めいただける店舗一覧】
◆amazon
◆TSUTAYAオンライン
◆Rakuten ブックス
◆7net(セブンネットショッピング)
◆ヨドバシ・ドット・コム
◆Yahoo!ショッピング
◆HMV
◆TOWER RECORDS
◆紀伊國屋書店
◆honto
◆e-hon
◆Honya Club
◆mibon本の通販(未来屋書店)
【全国実店舗の在庫状況】
◆紀伊國屋書店
◆三省堂書店
◆丸善/ジュンク堂書店/文教堂/戸田書店/啓林堂書店/ブックスモア
◆旭屋書店
◆有隣堂
◆くまざわ書店
◆TSUTAYA
◆未来屋書店/アシーネ
今年2月に故ジョン・ハッセルのアナログ盤が2種類リリースされた。2014年に『City: Works Of Fiction (Expanded Edition)』としてオリジナル盤に追加されていたボーナス・トラックをそれぞれ2種類のアナログ盤として独立させたもので、1枚は『City~』(90)を録音したメンバーで前の年にNYで行われたライヴ(イーノがライヴ・ミックス)から「4thワールド」直系の曲を集めた『The Living City』、2枚目は『City~』がパブリック・エナミーの影響下でつくられたことに準じて同アルバムのデモや別テイクを使ってジョン・ハッセルがボム・スクウォッドやテオ・マセロよろしくダブやコラージュなどの再構築を試みた『Psychogeography』(『The Living City』と『Psychogeography』をカップリングしたCD『Further Fictions』も1週間後にリリース)。そう、ジョン・ハッセルはトランペット・ドローンによって60年代末に頭角を現したエレクトロニック・ミュージックの変革者で、基本的にはインドのラーガとエレクトロニック・ミュージックを結びつけた作風で知られるものの、フュージョン・ファンクを追求した『Earthquake Island』(78)やヒップホップを取り入れた『City~』、そして、ダブステップやジュークを意識した『Listening To Pictures』 (20)と、定期的にダンス・ミュージックとの交錯を続けた越境者でもあり続けた。とくに『Listening To Pictures』は亡くなる寸前のリリースにもかかわらず、そのような興味を持続させていたことに驚かされ、改めて彼の音楽的な意欲に打ちのめされた1枚でもあった。この根性というのか、気概というのか、ガッツにあふれた『Listening To Pictures』に対してダブステップの側からアンサーを返したのがブリストルのウィリアム・イエイツであり、彼のソロ10作目となる『How Was Your Life?』は『Listening To Pictures』の先に広がっていた景色をこれでもかと幻視する。サム・ゲンデル同様、以前からジョン・ハッセルを思わせるフレーズや効果を随所に散りばめてきたイエイツは『How Was Your Life?』であからさまにジョン・ハッセルを参照し、本歌取りに邁進する。とくに中盤の “Glow In The Dark ” から “Carved By The Moon” へと続く辺りは「いくらなんでもキコルがアスカすぎる」というか、『推しの子』が放送延期になるほど『テラスハウス』に似過ぎているというか。これはもはや『Listening To Pictures』の続編といっていいだろう(それこそ『どんな人生でしたか?』というアルバム・タイトルがジョン・ハッセルに向けられたものだと考えることも可能かもしれない)。
2011年にダブステップでデビューし、〈Black Acre〉から3枚のアルバムをリリースしたイエイツはだんだんと作風をモダン・クラシカルに寄せ、ジャズにも手を広げるなど、時間をかけてボーズ・オブ・カナダのスモーカーズ・ヴァージョンへと移行していく。曲の題材も現実的な悲劇から空想的で抽象性の高いものに変わり、〈Black Acre〉からは最後の『The Rounded Room』(18)はとても幻想的、続いて東京の〈Diskotopia〉からとなった『Invisible Cities』(20)はダブステップの痕跡をオフ・ビートとして感じさせるなど、どこかサン・アロウを思わせるウエイトレス・サウンドに。ピアノとサックスを絡ませただけの “Cities and the Sky” が背後にグルーヴを隠し持っているように聞こえたり、それだけでもオリジナリティは確かなもので、少ない音で最大限の空間性を創出していく曲運びはさすがブリストルとしか。ウエイトレスというのはいってみればシンコペイテッド・アンビエント・ミュージックということで、普通に考えてクラブ・ミュージックがエレクトロアコースティックやニュー・エイジといったリヴァイヴァリスト・アンビエントにアゲインストしている状態といえ、その最大のスターが現在はロレイン・ジェイムズということになるだろう。イエイツのそれはフォーク・テイストを強くし、そのせいでエキゾチック・サウンドともオーヴァーラップしながら、インプロヴィゼーションとの親和性を高めているところが面白く、だからジョン・ハッセルを自在に呼び込めたということなのだろう。『Invisible Cities』のヴァリエーションを量産し、適度な実験を繰り返したカセットを4本挟んでアナログ・リリースでは3年ぶりとなる『How Was Your Life?』は、そして、〈Impatience〉からのリリース。和楽器でハウスをつくるホシナ・アニヴァーサリーことヨシノブ・ホシナによる『Hisyochi』をリリースした〈Impatience〉である。レーベルの選び方も抜群じゃないですか。
オープニングはギター・ソロ。ランダムに、そして、トゲトゲしくブルースを叩きつけていく。まるでドゥルッティ・コラムがご機嫌を損ねているかのよう。続いていかにもロウファイなジャム・セッション。演奏をぶつけあっているのはドン・チェリーとスーサイドか。そう、まったくスウィングなんかさせてくれない。『The Rounded Room』や『Invisible Cities』にあふれていた桃源郷はもはやだいぶ過去のことらしい。ウエイトレスには戻らないのか。どんどん先へ行ってしまうのか。エコロジーを意識させる “Forest Zone ” はそれこそジョン・ハッセル版ダブステップ。エキゾチック・サウンドに聞こえてはいけないものがエキゾチック・サウンドに聞こえ始め、暗闇のなかを得体の知れないアート・ロックへと近づいていく。ジェニー・ヴァル・ミーツ・ヴィジブル・クロークス。そのまま未知への道はバリアリック・ネオ・フォークへと続く。『How Was Your Life?』は後半になるとハッセル色があからさまではなくなり、独自のサウンド・フォーマットへとひた走っていく。これまでに何度も試みられてきたミニマル・サウンドをさらにポリリズム化した “Canteen Sandwich” 。メビウス&プランクをアコースティックで聴いているような鬼のリピートが過ぎると、ついに桃源郷を凝縮した “Lonehead” へ。細かいエレクトリック・パーカッション(リズム・ギター?)にトランペット・ドローンと散発的なピアノが織りなす恩寵の時間。浮遊感はなく、地面ごと持ち上がっていく感じ。最後は隙間だらけの “Walking Backwards” 。ぽっかりとした空間が広がり、これがどうしてもフィッシュマンズに聞こえてしょうがない。2分49秒から入るギターが何度も僕を夏の野音に連れ去っていく。

