「All We Are」と一致するもの

vol.129:PCRは陽性という結果だった - ele-king

 COVID 19がパンデミックになり4ヶ月が過ぎた。NYでは、人は普通に外に出ていて、マスクをしているだけで普段と変わりない。公園、ビーチには人がぎっしり、レストランやバーも、アウトサイドシーティングは人がぎっしり。
https://gothamist.com/news/coronavirus-updates-july-18

 地下鉄やバスも人はたくさん乗っていて、6フィートのソーシャル・ディスタンスが取るのが難しいときもたくさんある。が、COVID 19はまだ猛威を振るっている(夏になれば勢力は弱まる、という見解は大きく外れた)。7月上旬、アメリカ全土の感染者数はいままでになく上昇(1日に5万人!)。フロリダ、テキサス、アリゾナ州では、感染者が激増し、カリフォルニア州はレストラン、バーの営業を停止し、1ヶ月前に逆戻りした。ニュ-ヨークは感染率が高い州からの移動を禁止した。

 今日(7/19)のNY市のコロナウィルス感染者データ:感染者合計:221,419人、新感染者:298人、死者合計:23,400人、新死者:12人

 7/11、ニューヨークは3月以降初めて、コロナウィルスでの死者が0になったが、油断は禁物。大勢の若者たちがクイーンズのスタンウェイ・ストリートやロングアイランドシティなどでマスクなしでたむろっている。
https://gothamist.com/food/videos-astorias-steinway-street-has-become-party-street-queens

https://gothamist.com/arts-entertainment/we-all-want-pretend-isnt-happening-mask-free-pandemic-parties-are-popping-nyc

https://gothamist.com/arts-entertainment/profundo-ravel-covid-test-rooftop-pandemic-pool-parties-rage-lic

 自分は感染していないだろうと誰でも思いたいが、実際は無症状患者もたくさんいるはず、私みたいに。私は6月にアンチボディ検査、7月にPCR検査を受けた。アンチボディは陰性で、PCRは陽性という結果だった。ん、いまコロナにかかっているじゃないか! 
 とはいっても無症状だったので、まったく気がつかず。熱も無いし、味覚も嗅覚もあるが、かかっているというならそうなのだろう。慌てて隔離生活に入る。隔離生活は、基本家で隔離されるのだが、必要あれば、ニューヨーク市がホテルを用意してくれる(3食付き)。毎日(14日間)ニューヨーク市から電話がかかってきて「今日の調子はどうか」、「誰かに会ったか」、「どこにも外出しなかったか」などいろいろ質問される。「何かあれば、すぐこの番号に電話して」と緊急の電話番号を渡されるなど、いたれり尽くせり。だから、NYは感染者が減っているのだろう。
 私も家にいるしかない。やりたいことができないのは辛いが、いまはオンラインでミーティングしたり、友だちや家族に頻繁に電話したり、リモートでできることを探すしかない。バー経営者の友だちは2週間に一回テストを受けているという。人と顔を合わす仕事だから、自分がかかっているかどうか知っておく義務がある、と。自分がかかるのはまだいいが、周りの人に知らない間にうつしてしまうのが一番怖い。持病のある、年老いた親と住んでいる人に会う可能性もあるからだ。
 20日からニューヨークは第4段階に入る。動植物園の営業や映画・テレビ制作、無観客でのスポーツイベントが可能になる。一方で美術館や店内飲食など屋内の活動は引き続き制限する。その代わり、レストランの野外飲食はレイバーディから10月末まで延期され、テーブルを並べられる歩行者天国が、40ヶ所追加された。
https://gothamist.com/food/nyc-adds-40-new-open-streets-outdoor-dining-extends-open-restaurants-october
 チェルシーマーケットも木曜日から日曜日までと日程制限はあるが、先週末から再開し、ハイラインも予約制でオープンしている。ニューヨークは人が多いから、何かあれば、すぐに感染者は増えるだろう。みんなが自覚し、健全な世のなかになることを祈る。私も自宅待機を続けるしかない。

Theo Parrish - ele-king

 やはり動いていた。かつて9・11にもすぐに応答していたセオ・パリッシュだけれど、ジョージ・フロイド事件を受け、『We are All Georgeous Monsterss』と題したスポークン・ワード作品を6月に発表している。警察の暴力や、新型コロナウイルスの黒人における影響の大きさを背景にした、全6パートにもおよぶ長大な構成で、ブルーズやジャズ、ソウルなど、本人の曲も含めたさまざまなトラックをバックに、いろんな人物の語りが挿入されていく(作家ジェイムズ・ボールドウィンと詩人ニッキ・ジョヴァンニの会話も含まれる模様)。英語がわからないとたいへんだが、考えるヒントになることは間違いない(『RA』にレヴューあり)。

Speaker Music - ele-king

三田格

 ニューヨークのアパレル・メーカー「HECHA / 做」が攻めまくっている。プロジェクト1は2018年の9月にウェブ上で行ったオール・デイ・ストリーミング。プロジェクト2は2019年のベルリン国際映画祭でジェシー・ジェフリー・ダン・ロヴィネリ(Jessie Jeffrey Dunn Rovinell)によるクィアー映画『ソー・プリティ』の上映。プロジェクト3は「黒いテクノを取り戻す(Make Techno Black Again)」(トランプのパロディです、念のため)というキャンペーン用キャップの発売。この時にテーマ曲をつくったのがスピーカー・ミュージックことディフォーレスト・ブラウン・ジュニア(以下、DBJ)という音楽ライター。プロジェクト4はオンライン・ショップの開設とポップ・アップ・イヴェントと続き、これらはすべて共感によってドライヴされるビジネス・モデル(Empathy-driven business model)を標榜するルス・アンジェリカ・フェルナンデスとティン・ディンという2人の女性が企画・推進している。プロジェクト7は「テクノは誰のもの?(Who Does Techno Belong to?)」と題された討論会の開催で、商品化され、商業化したテクノについてゲストを交えて語り合うなど、テクノに対するこだわりがハンパない。彼らの頭にあるのはとにかくデトロイト・テクノの継承と発展である。EDMのかけらもない。そして、Project10として〈プラネット・ミュー〉からリリースされたスピーカー・ミュージックのセカンド・アルバム『Black Nationalist Sonic Weaponry』はまさに「黒いテクノを取り戻」し、「HECHA / 做」の主張を具体化した素晴らしい内容となった。〈プラネット・ミュー〉も今年、最も重要なリリースになると大きな声を上げている。何も知らずに1曲目を聴いた僕も叫びそうになった。すごい。すごいよ!!マサルさん。セクシーコマンドー。いやいや。

 ベース・ミュージックとフリー・ジャズの出会い。そんな生易しい次元ではないかもしれない。1曲目にフィーチャーされているのは詩人のマイア・サナア(Maia Sanaa)で、付録としてついている45ページのブックレットは彼女の書いた理論や詩を集めたものらしい(これは未見)。DBJ自身もアミリ・バラカが提唱し、黒人音楽の歴史をまったく新しい視点で読み直したとされる批評家ツィツィ・エラ・ジャジ(Tsitsi Ella JajiI)が連帯のために提唱したステレオモダニズム理論をアルバム全体に応用したそうで、それはアメリカ産のブラック・ミュージックを読み解くためにセネガルとガーナと南アフリカの音楽を研究した成果らしい。どこがどうだかはもちろんよくわからない。わかるのは躓くように叩かれるスタッタリング・ドラムがとにかくカッコいいということと、3曲目の“Techno Is A Liberation Technology(テクノは解放のテクノロジー)”でジョン・ハッセルばりのトランペットが最初のピークをつくり出すこと。この緊張感には圧倒される。ドリルン・ベースなんて子どもの遊びだったじゃん……(いや、それはそれでいいんだけど)。続いて“Black Secret Technology Is A Traumatically Manufactured And Exported Good Necessitated By 300 Years Of Unaccounted For White Supremacist Savagery In The Founding Of The United State(野蛮な白人至上主義の上に築かれたアメリカのために300年も輸出が必要とされ、精神的な外傷を負わされてきた黒い秘密景気)”で同じく極端なスタッタリング・ドラムの背後で粒子の細かい電子音が縦横無尽に飛び回り、“A Genre Study Of Black Male Death And Dying(黒人男性の「死んだ」と「死んでいる」の調査)”ではドラムがトライバルな響きにガラッと変わり、延々と警察無線がサンプリングされる。複数のパーカッションが入り乱れる瞬間はまさしく何かが起きた感じ。

 不協和音を連打するピアノにリードされた“Of Our Spiritual Strivings(私たちの精神的努力)”はザ・ポップ・グループをベース・ミュージックに変換したかのようであり、メロウなサックスとノイズで構成された“Black Industrial Complex - Automation Repress Revolution In The Process Of Production, And Intercontinental Missiles Represent A Revolution In The Process Of Warfare(黒い複合産業 - オートメイションは生産方法を劇的に変えることを抑止し、大陸間弾道ミサイルは戦争を進化させていく)”でようやく一息つける(つけないかな)。“Super Predator(他人を犠牲にして利益を得る者)”で再び強烈なスタッタリング・ドラムが復活し、“American Marxists Have Tended To Fall Into The Trap Of Thinking Of The Negroes As Negroes, i.​e. In Race Terms, When In Fact The Negroes Have Been And Are Today The Most Oppressed And Submerged Sections Of The Workers​.​.​.(アメリカのマルクス主義者たちは黒人のことを人種的タームとして考える罠に陥りやすく、実際に黒人たちはかつても、そして、いまも抑圧され、労働者としてどっぷり社会の底に沈められている)”ではストイックなドラミングに不穏なシンセサイザーの波が押しては返すスリリングな展開。ラストはアルバム全体の余韻を先取りするようにジェフ・ミルズのコード進行を思わせるクールな“It Is The Negro Who Represents The Revolutionary Struggles For A Classless Society(階級なき社会のための革命の闘争を象徴するのはニグロである)”。物悲しいサックスの響きはマッド・マイクのそれとはあまりに対照的。デトロイト・テクノの優美なメロディやパワフルな面しか見えていないフォロワーは思いっきり反省すべきだろう。

 深南部からニューヨークに出てきたというDBJは、以前は本人名義で実験音楽に多くの時間を割いてきた。どちらかというと活動はアート寄りで、2017年にスザンヌ・フィオール・キュレイトリアル・フェローシップの奨励を得るとMoMAの別館など様々な場所で作品を発表し、ヒートシックなどの名義で〈パン〉からリリースがあるスティーヴ・ウォーウィックとの共作「E-M」などですぐにも知名度を上げていく。DJなどではヒップホップやテクノを扱うこともあったDBJは、しかし、自分で作曲するとなるとフィールド・レコーディングや延々とスピーチを続けているものがメインで、昨年末に〈プラネット・ミュー〉からリリースされたスピーカー・ミュージックとしてのデビュー作『Of Desire, Longing』もゴソゴソとしたドローンの変形サウンドが46分36秒にわたって持続するだけ。いわゆるダンス・ミュージックではまったくない(あ、安倍晋三の言い回しがうつった!)。『Black Nationalist Sonic Weaponry』の前哨戦となったのはケプラ(Kepla)とのコラボレイト・アルバム『The Wages Of Being Black Is Death』(19)で、控え目だけれど、パーカッション・サウンドが取り入れられ、『Black Nationalist Sonic Weaponry』の青写真がここには確実に描かれている。言葉とサウンドの比重が逆転し、「メイク・テクノ・ブラック・アゲイン」を自らが実行に移した感じだろう。“Sunken Place in Reverse...a Cancelled Future, a Horizon of a Pipe Dream(逆さに沈没した場所……キャンセルされた未来、空想の地平線)”から『Black Nationalist Sonic Weaponry』まではあと一歩である。“Sophisticated Genocide - American Industrialized Culture is Designed to Flush Out Non-performing/Non-conforming Black Male Bodies(洗練された大量虐殺 - アメリカの産業文化は役に立たない黒人男性の肉体を追い出すようにつくられている)”で組み合わされたリズムとドローンのコンビネイションもDBJが助走段階に入っていることを告げ知らせている。さらに『Black Nationalist Sonic Weaponry』と2日違いでリリースされたDBJ名義『Further Expressions Of Hi-Tech Soul』は1時間に及ぶスタッタリング・ドラムにマッド・マイクを思わせる雄大なシンセサイザーがやや重々しく被せられていくスタイルで、彼の作品にしては言葉がまったく使用されず、この試みもまたテクノを新たな次元に持ち上げたものといえる。タイトルはマッド・マイクを意識したものではなく、耐久と適応を強いられてきた黒人の歴史とその肉体を表すものだという。

 シリアからオマール・スレイマンが飛び出し、ウクライナからヴァクラが頭角を現したように、紛争が起きることを察知して優れた音楽がその予兆を奏でることはままあることだろう。アメリカでブラックライヴズマターが再び拡大する直前、僕はピンク・シイフ(Pink Siifu)によるパンク・ラップにいささか慄いていた。ここまでアナーキーなヒップホップ・サウンドはそうそうない。しかし、録音時期から考えて、それをも上回る音楽的な爆発を起こしていたのはDBJだった。19日に配信が開始されたということは、各曲のタイトルはブラックライヴズマターを受けて考えられたものに違いない。厳密にいうとブラックライヴズマター以後につくられた最初の作品とは言えないだろうけれど、そのような時間的な境界線上にあったことを考えれば、『Black Nationalist Sonic Weaponry』をブラックライヴズマター後に現れた最初の音楽作品として考えてかまわないのではないだろうか。〈プラネット・ミュー〉からのステートメントは「(『Black Nationalist Sonic Weaponry』は)野蛮な新自由主義を超克し、白人のテクノ・ユートピアが描き出す架空の経済成長に負うことがない未来へと歩み出す作品だ」と結ばれている。また、『Black Nationalist Sonic Weaponry』の収益はすべて「Black Emotional and Mental Health (BEAM) 」と「the Movement 4 Black Lives」に寄付される。

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野田努

デトロイト・テクノはアメリカのポップ・カルチャーから欠落し、反メディア的であるために、国のスキャン・システムから完全に抜け落ちてしまっている。(略)アメリカのメディア風景全体を補強しているエンパワーメントの論理からテクノは脱退する。それらすべての指令から逃れて可視化するために、あるいは人びとの声を聞くために、人びとの歴史を語るために。──コドウォ・エシュン『More Brilliant Than The Sun』(高橋勇人訳)

 娘がまだ幼稚園に通っていたとき、いっしょに近所を歩いていたら、自転車に乗った警官が2名ぼくたちの前を通り過ぎた。傍らにいた娘を見ると、思い切り敬礼している。「なにやってんだよ?」と訊くと「おまわりさんと仲良くなれれば、何かあったときに助けてくれるじゃん」と答えた。たしかにこの社会では最初、そう教えられるものである。おまわりさんはみんなを守ってくれると。
 その娘もいま11歳となって、アメリカで警官が黒人をとっちめている映像をいっしょに見ている。このリアルは、彼女が学校では教えられていないリアルだ。時間はかかるだろうが、これから彼女に“黒い物語”を話さなければならない。すなわち信じ込まされていた話が必ずも正しくはなかったということを。ブラックライヴズマターに若い白人が多いのは、彼ら・彼女らが子どもの頃に教えられたリアル(歴史、社会)が欺瞞的だったことに腹を立てているからだろう。

 「地球人を飼いならす平凡な視聴覚プログラムは、人びとの心を濁らせて人種間に壁を作る」とはかつての、30年前のデトロイトのURなるアーティストがレコードに印刷した言葉だが、時代が変わるときはいっきに変わるものだ。NYのスピーカー・ミュージック(ディフォレスト・ブラウン・ジュニア)なる黒人青年は、いま、山頂で空気で肺をめいっぱい膨らませるかのようにデトロイト・テクノとフリー・ジャズを我が身に吸い込み、そして更新しようとしている。ディフォレスト・ブラウン・ジュニア(DeForrest Brown Jr.)名義でリリースしたアルバム『Further Expressions Of Hi-Tech Soul(ハイテック・ソウルのさらなる表現)』のアートワークは、エシュンの『More Brilliant Than The Sun』を読んでいる彼自身の姿である。そして、“Hi-Tech Soul”とはデリック・メイの造語であり、そのコンセプトの重要性をDBJは1週間前に出たばかりのスピーカー・ミュージック名義のアルバムに併せて作ったブックレット(フリーでDLできる)のなかで解説している。
 ブックレットにおいては、URの『インターステラー・フュージティヴ』のアルバムのアートワークが紹介され、そしてドレクシアの『ザ・クエスト』のCD版に掲載された奴隷貿易という西欧社会の歴史(学校では教えられることのない)が再掲されている。それがこれからスピーカー・ミュージック(DBJ)を聴こうとする人たちへのひとつヒントだが、しかし、彼のサウンドには、21世紀のフットワークやベース・ミュージックを通過した斬新なリズム──ディスコとは切り離されたエレクトロニック・アフリカン・パーカッション──がある。リズムは彼の武器だが、さらにフリー・ジャズのエッセンスを融合させ、そう、URの“ファイナル・フロンティア”を30年分のアップデートに成功させている。それが、スピーカー・ミュージックのセカンド・アルバム『Black Nationalist Sonic Weaponry』の最後の曲、“It Is The Negro Who Represents The Revolutionary Struggles For A Classless Society (階級なき社会のための革命の闘争を象徴するのはニグロである)”だ。ちなみにニグロとは、黒人が主体的に自らを呼んだ言葉ではない、植民主義における白人が彼らをそう呼んだのであって、問題の根源は植民主義を生んでしまった思想なり文明なりにあると。
 スピーカー・ミュージックはサウンドの発展のさせ方もさることながら、コンセプトの研磨においても抜かりがない。今回の抗議運動は歴史的モニュメントの破壊にまでことが及んでいるが、ブラックライヴズターが反人種人差別にとどまらず、それ(=奴隷制度や植民主義)が黒人ではなく白人の歴史から来ていることを若い世代の白人が声を出していることに未来があるとは言えないだろうか。人びとの声は、DBJがブックレットの最初に引用したアミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)の1967年の言葉「我々はポスト・アメリカの形態を欲する」とリンクしている。そして、連帯(solidarity)を呼びかけているこの音楽は、パブリック・エナミー〜UR以来の、確信的なポリティカル・ブラック・ミュージックと言えよう。(彼はいま『黒いカウンター・カルチャーの結集』なる著書を準備中だとか)

 ディフォレスト・ブラウン・ジュニアは、革命前史として、サン・ラ、アーチー・シェップ、アルバート・アイラー、ミルフォード・グレイヴス、ノア・ハワード、クリフォード・ソーントンといったアーティストたちの作品をリストアップしている。そう、ジャズなのである。これら60年代末〜70年代前半のフリー・ジャズと90年代のデトロイト・テクノとの溝を埋めようというのがDBJの企みであろう。
 また、インスピレーションのひとつに状況主義にも影響を与えたフランスの思想家アンリ・ルフェーヴルの名も挙げているが、大それた固有名詞が並んでいるからといって、身構える必要はない。テクノは、音を感じるところからはじまる。まずは何よりも、ここにはサウンドの強度がある。能書きをすっ飛ばして聴いても充分にカッコいい。アーチー・シェップのアルバムのように。ただひとつだけ言いたいのは、世のなかには「いま聴かなくていつ聴くのよ」という音楽があり、これはまさにいま聴く音楽だ、ということ。世界が“黒い物語”を必要としているまさにいまこのときに、である。

 ハローハローこちら Mars89。聞こえてるかな? 先月のコラムではマトリックス・ワールドの話の続きをするぞ! って予告をして、文章も書いてたんだけど、もっとしなきゃいけない話ができちゃったからその話をする。手記としては、いま書かなきゃいけないことを書く方が目的にかなってるしね。
 僕が今から話しかけるのは、僕と同じような人。それは、日本に住んでる日本人で、数世代遡ってみてもみんな日本人で、シスジェンダーでヘテロセクシャルの男。で、ちょっと頭とか目とか口が悪い程度で、だいたい健康に過ごしていて、夜には潜り込めるベッドがある。たぶんこの文章を読んでる人の多くはそんな感じだと思う。
 いろんな条件を書いてみたけど、これから一つでも外れると一気に生き辛くなるということを僕たちは知らない。想像するのが難しいと言った方が正確かもしれないね。僕は本名を名乗ることに恐怖心を覚えたこともなければ証明書や在留カードを持つ義務もない。入試で勝手に減点されたり、性的な嫌がらせを日常的に受けたりしないし、性別のせいで給料が安いのに、物件を選ぶときに防犯を気にして割高な物件を選ばなくてはいけないなんてこともない。自分が恋した相手の性別が興味の対象になることもなかった。君もそうでしょう? あらゆる人がこういう生き辛さを抱えている社会の中で僕たちは、そんなことを考えなくても済むという大きな特権を与えられているんだ。
 ここまで書けば、相当カンの悪い人でも僕がいま話そうとしているのが差別の話だと気がついていると思う。一週間ほど前に George Floyd 氏が警官によるヘイトクライムで殺された事件を機に、いま世界中で Black Lives Matter のアクションが活発化しているね。それを受けて、いまこの場所でいくつかの特権を持つ人間として、同じ側にいる君たちに向けてこの文章を書いている。(自戒も含めて)
 差別ってのはめちゃめちゃ最悪なことだという大前提は共有されているものとする。差別万歳! 何が悪いんだよ! って人は、とりあえず自分の心臓をえぐり出して食べるとか(よく噛んでね)、地面に頭を打ち付けるとか(あらかじめブルーシートを敷いておくといいよ)、しっかり勉強するとかして考えを改めてから出直してきてもらいたい。

 それでは本題に。
 僕は自民党議員の杉田水脈の「LGBTQは子供を作らないから生産性がない」という発言に抗議するために自民党本部前に集まったり、外国人差別に抗議するデモに参加したりしたんだけど、そのときに「ゲイなの?」とか「日本人でしょ?」という意見を目にしたんだよね。いわゆる「当事者でもないのに」ってやつ。この「当事者」という言葉をよく覚えておいてほしい。
 例えば、君が路上で通り魔にあったとする。そのとき、問題があるのは通り魔? それとも君? もちろん通り魔だよね。差別だってそう。問題があるのは差別される側じゃなくて、差別を生み出す社会の側。そう考えたときに、問題に向き合うべき「当事者」ってのは誰のことだろう? その社会を構成する一人一人じゃないかな?
 性善説とか性悪説の話じゃないんだけど、人は生まれながらにして差別意識を持っていると思う? 僕はNOだと思う。この社会のシステムが人に差別意識ってものを、少しずつ少しずつ刷り込んでいくんだと思ってる。で、そのシステムの中で僕たちには特権が与えられるんだけど、その特権には、そのシステムと戦うために使うって使い道もある。
 アメリカでの BLM 運動の中で、警官の前に立ちはだかった白人たちがいたよね。警官は相手が黒人だと容赦なく暴力をふるってきたが、白人(特に白人女性)が相手だと手を出しにくい。その特権を利用して自ら盾になったんだ。これが僕たちがやらなきゃいけないこと。フロントラインで差別主義者と戦うのも使い道の一つだし、差別されてる人たちの声や情報を拡散するのも一つ。他にも日常的に使えることがたくさんある。

 こういう問題を語るとき、マジョリティとマイノリティって書き方をするのが一般的な気がするけど、ここではあえてそう書かなかった。なぜなら文字通りの数の問題じゃなくて、力関係の問題だから。この社会のシステムは誰が誰のために作っているのか? 文字通りのマジョリティではないんだよね。それは、金を持ってるやつ、権力を持ってるやつ、いわゆる「勝ち組」みたいな、ほんの一握りの既得権益層。2011年の Occupy Wall Street で使われたスローガンは「We are the 99%」。上位1%の富裕層だけが蓄えを増やし続けていることへの抗議だった。そういう層が「自分たち側」のためにシステムを作っていて、その中には差別意識が染み込んでいる。ブリストルでは先日、奴隷の売買で財を成した Edward Colston の像が引き倒されて Avon 川に投げ込まれたよね。そして、その動きはUK中へと広まっているらしい。街や国への貢献から奴隷商を偉人として扱うのは、人を人と思わず、ただの商品として扱うことを当然のこととして、それで経済を発展させた社会のままの意識の上に成り立つ考え方だと思う。Netflix に『13th』という大変良いドキュメンタリー・フィルムがあるからぜひ見てほしい。合衆国憲法の修正13条が奴隷制度を隠して生きながらえさせる抜け穴だという内容だ。奴隷で財を成した者たちが、既得権益を失わないために作ったシステムと言えるよね。人を人と思わない奴が、それで財を成すってのは海の向こうに限った話じゃないんだよ。この過労死大国の日本は、まさにそういう人を人と思わない既得権益者たちによって、搾取の構造が内包されたシステムが作られているんだよね。竹中平蔵なんてまさに現代の奴隷商人だと思うよ。彼らは身分制度(見えにくくカモフラージュされてるけど、ここにもバッチリ存在してる)を固定化し再生産することで、自分たちの利益を守って、さらにブクブクと肥え太ろうとしている。親の収入と受けられる教育の相関関係、受けた教育と収入の相関関係なんかを調べてみるとわかりやすいかな。

 ちょっと話が散らかっちゃった気がするけど、今アメリカで BLM が抵抗しているのは差別なんだけど、それは社会の中にシステムとして組み込まれた差別で、ここ日本にも同様に抵抗しなくてはいけない差別とシステムが存在するってことが言いたかった。
 僕の大好きな曲、Smith & Mighty の “No Justice” のリリックにはこういう一節がある。

The reason why our lives they are so rough.
Because the system is unjust.
And the reason why the system is unjust.
Because it's not made for us.

 システムというものを少しでも具体的に見ることができたら、この曲の持つパワーも具体的に感じられると思う。

 これは「人類 vs 人を人と思わないクソ野郎」の戦いだし、社会のシステムそのものを問い直す動きだと思うんだ。僕たちは奴らが決めた「勝ち組」ではないけど、負けたつもりなんてないし、自分たちが持ってるものを使ってあらゆる方法で戦っていかなくてはいけない。人類のあらゆる権利や尊厳をかけた戦いだからね。

 とにかくできるだけ早く書かなきゃと思って急いでアイデアをまとめたから、ちょっと伝わりにくい箇所があるかもしれないけど、これが僕の今の文章力の限界だから許してほしい。間違いがあったらぜひ指摘してほしい。僕はまだまだ日々勉強中だし、分からないことがいっぱいある。この1週間だけでも多くのことを学んだ。みんなもきっとそうだと思う。少しずつでも学んで、知るということは前進するためにとても大事なことだと思う。

 次回こそは前回の続きを書きたいし、それまで大きな事件が起きないことを願って。
 The power to the people they must be released✊

Black Lives Matter Protest in London - ele-king

 5月25日にアメリカ合衆国のミネアポリスで白人警官によって黒人男性のジョージ・フロイド氏が殺害され、それに端を発する人種差別撤廃を掲げる抗議運動「Black Lives Matter(以下、BLM)」が、現在世界各地で行われている。先週末の日曜日、6月7日にイギリスのロンドンで開催された抗議集会に僕は参加してきた。この記事では、そこで自分が見たものを記していきたいと思う。
 ロンドン市内での大規模な抗議は5月31日から合計4回開催されており、この日のデモの開始地点は、ロンドン中心地のテムズ川の南に位置するエリア、ヴォクソールにあるアメリカ大使館(『007』シリーズに出てくるMI6本部の建物もここにある)。現在のコロナ禍に対応するため、抗議運動の主催者からは、マクスの着用が求められていた。抗議には多くの年齢層が参加していたが、20代から30代の若者が多かった印象を受けた。人種は黒人系を中心に、白人層やその他のバックグラウンドを持つ者も大勢集まっていた。政府の発表によれば、この一週間のロンドンの抗議運動には、合計137500人が参加し、警察からは35人の怪我人を出し、逮捕者は135人に登ったというが(The Guardian, 2020) 、僕の周りでは終始、平和的に抗議が行われていた。
 今回のデモには多くのアフロ/カリブにルーツを持つミュージシャンや俳優などの文化人も参加している。先週はディズニー版『スター・ウォーズ』三部作にフィン役で出演していたジョン・ボイエガがハイド・パークの集会でスピーチをし、他にはグライムMCのストームジーやUKラップのデイヴ、サックス奏者のヌビヤ・ガルシアなど、多くの人物が抗議に参加した。サウンド・カーで音楽を披露するわけではなく、文化の現在を形成する者たちはイギリスを生きる黒人として、一般人と同じ立場から、彼らはその声を届けにきていた。
 この日の天候は決して良くはなかった。そして、徐々に規制が緩和されているとはいえ、イギリスはまだコロナ禍によるロックダウン(都市封鎖)の最中である。都心部から電車でだいたい40分ほど離れた場所に位置する、サウスイースト・ロンドンのルイシャム地区、ブロックリーに住む僕は、自転車で目的地まで向かう必要性を感じていた。いくつかの駅は閉鎖され、運行本数は減らされているものの、電車やバスは動いているし、「不要不急」の使用を避けるように要請されているだけで、実際は使用することはできる。しかし、出来る限り感染のリスクを下げるため、お互いの「ソーシャル・ディスタンシング」を保ちながら、近所に住む友人たちと雨に降られながら、僕は自転車で集合場所へ向こうことにした。
 現場に到着する10分ほど前から、歩道と自転車道は抗議への参加者でいっぱいだった。バスターミナルがあるものの、普段はそれほど混むことはないヴォクスホールだが、駅周辺に自転車を駐めるのは困難なほどの人混みだったため、そこから少し離れた公園の柵に自転車をくくり付け、アメリカ大使館へと向かった。この時点で携帯がネットになかなか繋がらない。ロンドンでは、大勢が密集する地域ではよく起こることだ。僕は以前、三日間で100万人以上が集まるノッティングヒル・カーニヴァルで同じ現象を経験したことがある。電波が悪くなるのに十分な人数がこの時点でもう集まっていた。
 集合時間の2時から30分ほど遅れ現場に到着した。集合エリアでは、脱中心的にいたるところでシュプレヒコールが巻き起こっていた。すでに道路は閉鎖され、集合地点であるアメリカ大使館へは到達できないほどの群集ができあがっている。「Black Lives Matter」、「No Justice! No Piece!(正義がなければ平和もない)」、「I can't breathe (息ができない)」、「Fuck Donald Trump!」「What's his name? George Floyd!」など、25日以降、世界中で叫ばれている言葉が群集から飛び出してくる。参加者たちがヒートアップするなか、大使館前にいるグループからの掛け声で、集合エリアの参加者は跪き、拳やプラカードを掲げ、1分ほど沈黙によって抗議の意を示した。


(抗議マーチの起点となったアメリカ大使館近くのヴォクソール橋)

 その後、参加者たちは列を作り、徐々に移動を開始する。ヴォクスホールの再開発によって奇妙な形のタワマンが立ち並ぶエリアから橋を渡り、川の北川の伝統的でポッシュな建物が立ち並ぶエリアをぬけ、一般的市民が住めるレベルの建物がやって見えてくる。周知の通り、ロンドン中心地の家賃は恐ろしいほど高騰しているが、そんなエリアでも公営住宅は存在している。窓からは「Black Lives Matter」のプラカードを掲げた家族や子供たちが、シュプレヒコールを路上に向けて叫んでいる。
 この周辺には、ロンドンで最も混雑する駅のひとつ、ヴィクトリア駅があり、普段は多くの車が行き交っているのだが、この日はその道路も抗議マーチによって封鎖された。立ち往生し、不満が募っている周囲のドライバーたち……、と思いきや、その多くからは抗議への賛同を示すクラクションが聞こえてきた。なかには、わざわざマーチが進行する道路に車を駐車して、車中から音楽を流し、窓から上半身を乗り出してプラカードを掲げる者もいた。


(マーチが通る場所に位置するバス停や電話ボックスには、「Black Lives Matter」や「George Floyd」、「ACAB(All Cops Are Bastards:すべての警察はクソ野郎)」などの文字が書かれていた)

 ヴィクトリア駅周辺のビル街を抜けると、国会議事堂があるウェストミンスター地区がある。いわゆる「ビッグベン」で知られる、現在は修復中の時計台が見下ろす議会広場を中心に、このエリアもすでに抗議の参加者たちで溢れていた。この広場にはデビッド・ロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルといったイギリスの歴代政治家とともに、マハトマ・ガンジーやネルソン・マンデラといった国外の政治指導者たちの銅像も並んでいる。その周辺では有志の若者たちがマスクと手の消毒液を無料で配っていた。広場でしばらく休憩したのち、僕は抗議の終着地点に向かった。首相官邸がある、ダウニング・ストリートである。


(議会広場のネルソン・マンデラ像)

 混雑する通りを進むと、ゲートが閉まったダウンニング・ストリートの入り口では、群集がザ・ホワイト・ストライプスの “Seven Nation Army” の替え歌を大合唱していた。この歌は、前回の総選挙時にはジェレミー・コービン支持者らが「オー、ジェレミー・コービン!」の替え歌で合唱したことでも有名だが、今回の歌詞は「Boris Johnson is a racist!(ボリス・ジョンソンは人種主義者)」である。政府機関が入る周囲の建物には抗議者がよじ登り、壁には「Black Lives Matter」の文字が殴り書かれていた。この場所では先日6日の抗議では抗議者と機動隊が衝突した場所でもある。けれども、この日は建物や信号によじ登る者はいたものの、警察の介入はなく、暴力的な場面に遭遇することもなかった。通りには過去の大戦での戦没者を追悼する記念碑もあり、そこに座ろうとする者を注意する抗議参加者たちもいて、秩序立ったなかで抗議は進行していった。そこでしばらくシュプレヒコールをし、僕たちは南へと帰ることにした。時刻は5時近く。国会周辺からは一向に人が減る気配はなかった。


(ダウニング・ストリート周辺の抗議)

 この原稿の目的はあくまで抗議の様子を紹介することなので、イギリスにおけるBLMの考察などには踏み込まないが、最後にひとつだけ触れておきたいことがある。先ほどの「彼の名前は?」のシュプレヒコールで、ジョージ・フロイドに加えて、組織的な人種差別の犠牲者となった者たちの者たちの名前が叫ばれていた。そのなかのひとりに「Stephen Lawrence(スティーブン・ローレンス)」がいる。
 1993年4月23日、サウスイースト・ロンドンのエルタムのバス停で、友人ともに外出していた18歳の黒人青年、スティーブン・ローレンスが、16〜17歳の5人組の白人の少年たちによって刺殺されるという凄惨な事件が起きた。殺害は彼が黒人だったからという、あまりにも稚拙で愚劣な人種主義的動機によるものだった。
 このような残忍な犯行であったにもかかわらず、逮捕された5人は証拠不十分で不起訴となる。このような不当な事態を受け、被害者の母親であるドーリーン・ローレンスは警察側に正当な捜索をするように抗議運動を開始する。この遺族が中心となった活動により、警察内部での組織的な人種的偏見から、捜査そのものが適切に行われていなかったことが判明した。これを機に、イギリス国内における、この事件や人種政策に対する関心は大きな高まりを見せる。容疑者のうちゲーリー・ドブソンとデービッド・ノリスに有罪判決が出たのは、2012年。それぞれ禁固15年2月以上と14年3月以上の判決が言い渡された。事件発生からあまりにも長すぎる時間が流れ、刑の内容も十分とは思われないものの、関係者の努力により形で事件は大きな進展を見せた。
 多文化主義が謳われるロンドンだが、権力レベルで人種差別が行われている制度的人種主義とそれが引き起こす問題が広く認知されるようになったのは、27年前の事件を境にしたことにすぎない。スティーブン・ローレンスの命日は、今日も人種差別撤廃を意識づける日として、毎年多くの者に追悼されている。ドーリーン・ローレンスは人種差別撤廃の活動を今日も続けており、2020年に入ってから、キア・スターマーを新たに党首に選出した最大野党の労働党によって、ローレンスは党の人種関連アドバイザーに任命されたばかりだ。
 文化面に与えた影響も大きい。ロンドンを拠点に活動するサックス奏者、シャバカ・ハッチングスは積極的にイギリスのブラック・ムーヴメントにコメントをしてきた人物のひとりだ。彼が率いるバンド、サンズ・オブ・ケメトの2018年作『Your Queen Is A Reptile』は、歴史上に名を残す黒人女性たちの名前を曲名に関したアルバムで、終曲の名前は “My Queen Is Doreen Lawrence” であり、今作には彼女への大きな敬意が込められている。ハッチングスとも繋がりがある、グライムを産んだ音楽家であるワイリーもSNSで、この事件に関する投稿をローレンスの命日とBLMプロテストの日にしていた。イギリスのギラついた音楽は、人種主義へのカウンターとして、今日も鳴り響いている。
 2011年、ロンドンで警官が黒人男性を射殺したことを発端に、イギリス全土で大規模な暴動が発生した。それから9年後、海を渡ったアメリカで起きたジョージ・フロイドの事件がトリガーとなり、今回のロンドンでの大規模なBLMの抗議運動へと繋がっている。イギリスは政治的にも、デモグラフィー的にもアメリカとは決して同じではない。しかし、警察や権力による日常的な人種主義的偏に対する怒りという意味では、この運動には国境は存在しない。そこには分断を超えていくようなエネルギーが満ち溢れている。帰り際、発煙筒からピンク色の煙が上がるチャーチル像の近くでスティーブン・ローレンスとジョージ・フロイドの名前を耳にしたとき、僕はそんなことを考えていた。


(議会広場のチャーチル像。この銅像には、このあと、「チャーチルは人種主義者(racist)だった」の落書きがされる。)

[参考資料]

The Guardian (2020), “Bid to defuse tensions as Black Lives Matter protests escalate”
AFP (2012), “18年前の黒人少年刺殺事件、白人被告2人に禁錮刑 英国”
•スティーブン・ローレンス事件と制度的人種主義の関連は、イギリス人ジャーナリスト、Richard Power Sayeedが著書『1997: The Future that Never Happened』(Zed Books, 2017)で、現在の英国の人種政治と絡めて詳しく書いている。

「実用向け音楽」の逆襲 - ele-king

 この度、〈Pヴァイン〉の新たなリイシュー・シリーズ「A JOURNEY TO LIBRARIES」が始動し、第一弾として2タイトルがリリースされた。これを機会に、ライブラリー・ミュージックとはいったいどんな音楽なのかをイントロダクション的に紹介しつつ、その魅力について考えてみよう。

 ライブラリー・ミュージックとは、主にヨーロッパを中心とした各地で制作された(ている)、非市販音楽の総称である。一般的に、テレビ、映画、ラジオ、CM等の放送業界では、その映像コンテンツになにがしかの音楽を使用する際、主に3通りの手段を用いる。一つは、既存市販音源を使用するパターン。ここでは、使用希望者は原盤を管理するレーベルと使用料の交渉のうえ覚書を結び(新譜作品などの場合、当該楽曲のプロモーションを企図する「タイアップ」という扱いで、使用料が免除されることも多々ある)、著作権管理団体(JASRAC等)へ使用申請をおこない、使用料を支払う。二つ目は、例えばCM制作などで、音楽制作会社が受注しオリジナル音楽を新制作する場合。ここでは原盤使用料を支払わなくてよい反面、新制作であるがゆえの制作業務やミュージシャンのブッキング作業などが発生することになる。そして三つ目が、ライブラリー・ミュージックを使用する、という場合だ。この方法によれば、使用希望者は過去の(あるは常にアップデートされる)膨大なアーカイヴ(この性質が図書館に似ていることからも、「ライブラリー」ミュージックと呼ばれる)から、雰囲気に合わせた任意の曲をピックアップし、自由に使用することができる。また、ライブラリーミュージックの専門業者は、基本的に著作権・著作隣接権を一元的に管理しており、規定の使用料さえ支払ってしまえば、煩雑な事務処理も省かれるというわけだ。ライブラリー・ミュージックとは、まずもってこういった業界的背景の中で、利便的に供給され、使用されてきたものだ。

 世の中に日々リリースされる「アーティストによるオリジナル作品」に慣れきってしまっている我々音楽リスナーの感覚からすると、こうした「実用向け音楽」というのは、いかにも「魂の抜けた」「積極的に聴く価値のない」音楽と思われるかもしれない。たしかに大方のライブラリー・ミュージックは、(当然ではあるが)いかにもお手軽かつ保守的な「聞き流し用」音楽なので、その見方が間違っているとはいい難い。しかしながら、膨大に残されてきた音源の中には、現代の聴取感覚で接してみてもブリリアントとしかいいようのない逸品も隠されているのだ。
 こうした「再発見」は、主に90年代、ロンドンを中心としたDJシーンで推進されていった。60年代以来様々な専門レーベルで制作され、80年代にむけて更に需要が膨らんでいったライブラリー・ミュージックだが、アナログからCDへの変遷に際して、過去の「古臭い」ヴァイナル音源が大量に破棄されるという潮目がやってきたのだった。それまではごく少数が一般の中古レコード店やバザールに「流出」する程度だったそれらヴァイナルが、この期に及んで多数一般へセコハンとして出回るようになり、常に「未だ知られざる音楽」を求めるDJたちに発掘されることとなった。いわゆる「ディグ」の遡上に載せられたライブラリー・ミュージックは、それ以来加速度的に注目をあつめることになり、まめまめしいDJやアーカイヴィストの手によって様々なコンピレーションが発売されるという事態が起こった。かねてより中古レコード市場では、ラウンジ・ミュージックやヨーロッパ映画のサントラ盤などの発掘ブームが興っていたこともあり、そうした志向にもうまく共振したということも大きいだろう。また、主に70年代産のものはサンプリング・ソースとして相当に優れたものも多く、こうした視点から徐々にビートメイカーの間へも浸透していった。

*ランダムに、私のお気に入りのライブラリー・ミュージック有名どころをピックアップしたので、本記事のBGM代わりにどうぞ。

 今回、リイシュー・シリーズの第一弾にラインナップされたノルウェーの音楽家、スヴェン・リーベク(Sven Libaek)がライブラリー名門英〈Bruton Music〉傘下の〈Peer International Library Limited〉に吹き込んだ74年作『Solar Flares』も、まさにこうしたレア・グルーヴ的観点から評価された作品だ。本格的なソウル~ファンク系のオリジナル作品の水準からするといかにも甘やかに聴こえるかもしれないが、気品を感じさせるオーケストラル・サウンド、ソフトロック的とすらいえるポップなメロディー(ただし、ライブラリー作品なのでノン・ヴォーカル)、ときにアナログ・シンセサイザーが闖入するスペーシーな味付けなど、ライブラリー・ミュージックならではの華やぎが何より素晴らしい。あくまで付随すべき映像を邪魔することなく「引き立てる」ために制作された作品ゆえの、清涼感と喉ごしの良さは、他のジャンルには得難い魅力といえる。

 これまで述べてきた通り、ライブラリー・ミュージックというのは、はじめから映像等の副次的な存在として自らを規定する音楽であるがゆえ、使用目的物それ自体より目立ってはいけない。そのため、実際の使用にあたっては、なにがしか特定のテクスチャーや時代性が(「未来的」とか「ノスタルジー」とかあえてそうする場合を除いて)取り除かれていることが求められる。したがって、「古臭い」ものは忌避され(フューチャリスティックな映像に、カクテル・ピアノ音楽は(異化効果を狙うとき以外は)フィットしないだろう)、そのときどきのポピュラー音楽の流行へ、主に音色面において相乗りしようとする傾向がある。具体的にいえば、16ビートのファンキーなジャズ・ファンクが流行ればそのようなものが量産されるし、ディスコやテクノポップ、あるいはヒップホップの流行を察知すれば、シンセサイザーやシーケンサー、サンプラーを用いた「それ風」のトラックが量産される、と言った具合だ。この良い意味での軽薄さこそが、(実はかつてライブラリー・ミュージックを制作していたのはヨーロッパでも有数の実力派ミュージシャンばかりであったという事実や、彼らの高度なスキルや実験精神と接合されるとき)我々後年のリスナーをしていかにも好ましい「時代性」を愛でさせることになっているのだ。その折々の流行が、ときに拡大的にときにいびつな形で昇華されているのを聴くのは、普段から過去よりの音楽にロマンを感じてしまう(私のような)人間からすると、たまらない体験なのだ。

 さて、ここ近年のライブラリー・ミュージックへの興味も、かつてのレア・グルーヴ的なものが主導する感覚からやや変異してきているようにも思う。ポピュラー音楽シーンにおいても、80年代リヴァイヴァルなどを経由し、シンセウェイヴやヴェイパーウェイヴが勃興して以降、かつては唾棄すべきものとされていた「いかにも」なシンセサイザー・サウンドやデジタル・リヴァーヴ等の特徴的イコライジングが、むしろクールなものとして再帰してきたという流れがあるが、ライブラリー・ミュージック再発見においても、そういった視点が立ち現れてきた。主に80年代を通して盛んに制作されたライブラリー作品は、一部を除きいまだ深く発掘されているとはいい難い状況なので、ライブラリー発掘の第一世代に間に合わなかった者にとっては、探求の楽しみが残されているというのも魅力だし、それゆえにオリジナル盤を(ライブラリー・ミュージック発掘の主戦場であるネットに限らず実店舗でも)お手頃価格で入手する可能性も残されている。音楽的なバラエティという点においても、著名アーティストが作る「シリアス」なテクノやアンビエントにも通じるような(ある意味でより先鋭的とすらいえる)逸品もあったりして、侮れない。

*ランダムに、個人的お気に入りをピックアップしたので、本記事のBGM代わりにどうぞ。

 上述のスヴェン・リーベクと同時再発となった、英音楽家ジェフ・バストウ(Geoff Bastow)による独〈SONOTON〉からの86年作『The AV Conception Volume 1』(ライナー執筆は筆者。お買い上げよろしくお願いします!)も、そういった文脈から味わってみたい一作だろう。ジェフ・バストウは70年代からジャズ・ファンク的ライブラリー・ミュージックを作ってきた音楽家だが、ドイツへ移住し、ミュンヘン・ディスコ〜イタロ・ディスコ・シーンでも活躍した人。その経歴から推測されるように、電子音を扱わせても一級品で、80年代を通じて様々な電子ライブラリー・ミュージックを量産しているのだが、中でも本作はあのテレビ朝日系の長寿討論番組『朝まで生テレビ』のオープニング・テーマとして長く使用されている “POSITIVE FORCE” (テーテーテッテレッテー!というアレ)が収録されているという飛び道具的ネタもある。同曲のヴァージョン違いの各トラックはいかにもサンプリング向けだし、全体的にもまさしく「ルーツ・オブ・シンセウェイヴ」というべきレトロ・フューチャリスティックな魅力に満ちている。

 今後も「A JOURNEY TO LIBRARIES」では様々なライブラリー・ミュージックの名盤(ときに珍盤)がリイシューされていくようなので、是非引き続きチェックしてほしい。

 最後に、新録のライブラリー・ミュージック・シーン(?)にも触れておこう。レコード・ディグ文化との結びつきが強いためどうしても過去のカタログに注目が集まりがちなライブラリー・ミュージックだが、もちろん現在でも盛んに制作はおこなわれている。もしかすると制作曲的にいえば、70~80年代の勢いを上回っているのではないかと思う。現在のライブラリー・ミュージックは、かつてのようにフィジカルメディアとしてまとめられることはごく少なく、各ライブラリー・ミュージック配給社がオンライン上で公開し、ダウンロード販売するのが主流となっている。日々テレビで耳にするような「いかにも」な実用音楽が多数を占めてはいるが、一般的な音楽リスナーへは可視化されていないだけで、ときにかなり先鋭的なトラックがまじり込んでいたりするので油断がならない。主にエレクトロニック・ミュージック(あるいはその亜種としての各種プラグインを駆使した生音風サウンド)が多くを占めるが、DAWの浸透によって音楽制作の簡便性が格段に飛躍したこととも連動しているだろうし、またこのような傾向は、それまでの専門性の高い(=ある意味閉鎖な)プロ作家中心の制作体制から、徐々にインディペンデントなアーティストがライブラリー・ミュージックへ参入する新しい体制の萌芽を促してもいるようだ。例えば〈Hyperdub〉の主要アーティストのひとり Ikonika こと Sara Chen や、ベルリンを拠点とする BNJMN こと Ben Thoma など、普段のオリジナル作品制作とリリースという枠組みを超えて音楽的な(「実用」向けという制限付きの)冒険に臨む音楽家にとって、新たなフィールドとなりつつある。また、70年代を中心に人気作の多いライブラリー・ミュージック大手〈KPM〉の再発を手掛けてきた〈Be With Records〉からは、〈KPM〉ブランドのもと、あのバレアリック系デュオ SEAHAWKS のライブラリー作品が発表されるなど、注目すべき例も出てきている。こうした動きは、通常リリース以外の形態を模索するアーティストたちの経済的なインセンティヴとも合致したフィールドとして、今後も活性化していくだろう。そういった動きにも是非注目してもらいたい。

追記:手前味噌な話になってしまうが、実をいうと私自身も現在、新録ライブラリー・ミュージック企画のディレクションに関わっており、近々詳細をお知らせできるのではないかと思っている。お楽しみに。

ライブラリー・ミュージック(放送用音源)として制作されながらも音楽作品としても決して聴き逃すことのできない “今だからこそ聴くべき” 名盤2作品がついにリイシュー!

-ライブラリー・ミュージック名盤リイシューシリーズ:A JOURNEY TO LIBRARIES-
「ライブラリー・ミュージック」とは、TV/映画/CMその他のために制作されたプロユース用音楽の総称。「BGM」として旧来のリスナーからは看過されがちだったといえるが、一流のプロフェッショナルたちが手掛けた作品には、今こそ多くの音楽ファンに広く聴かれるべき黄金の鉱脈が眠っているのだ!

レア・グルーヴのディガー達によって発掘されてきた、ジャズ/ファンク/イージー・リスニングといった視点からも高いクオリティを備えた70年代の諸作、そして、電子楽器の普及とともに拡がりをみせた当時の “シンセサイザー・サウンド” が、シンセウェイブやヴェイパーウェイヴを経た今だからこそ再評価すべき80年代の作品など、時代やカテゴリを越えたライブラリー・ミュージックの魅力を多角的に紹介していきます!

【第一弾リリース!】

『ジ・AV・コンセプション ヴォリューム・ワン』ジェフ・バストウ
テーテーテッテレッテー!あの『朝まで生テレビ』テーマ・ソング収録作がついに再発! UKの名ライブラリー作家ジェフ・バストウが1986年にドイツの名ライブラリー・レーベル〈SONOTON〉からリリースしたルーツ・オブ・シンセウェイブ~フューチャリスティック・ファンク~アンビエントなキラー盤が世界初リイシュー!
* 試聴可 https://smarturl.it/GeoffBastow_AV

『ソーラー・フレアズ』スヴェン・リーベク・アンド・ヒズ・オーケストラ
あの海洋パニックムービー『ジョーズ』にも影響を与えたと言われるカルト・ドキュメンタリー『インナー・スペース』など数多くのオリジナル・サウンドトラックやTV音楽を手掛けてきたノルウェー出身の鬼才、スヴェン・リーベクが1974年に発表した激レア・ライブラリー作品が世界初紙ジャケットCD仕様でリイシュー!
* 試聴可 https://smarturl.it/SvenLibaek_Solar

[アルバム情報]



タイトル:The AV Conception VOLUME 1 / ジ・AV・コンセプション ヴォリューム・ワン
アーティスト:GEOFF BASTOW / ジェフ・バストウ
レーベル:P-VINE
品番:PCD-24942
定価:¥2,400+税
発売日:2020年6月3日(水)
世界初CD化&紙ジャケット仕様/初回限定生産/日本語解説:柴崎祐二

最終金曜日、テレビで夜更かしをしたことのある全国民が知っているであろう、あの、「テーテーテッテレッテー!」というフレーズ。テレビ朝日が誇る長寿番組『朝まで生テレビ』のテーマ・ソングとして有名なそれは、実はUKの名ライブラリー音楽作家ジェフ・バストウによる “POSITIVE FORCE” という楽曲だったのだ! ジョルジオ・モロダーに師事し、80年代シンセ・サウンドの真髄を継承する彼が作り出した「新しいオーディオ・ヴィジュアル時代」を賛美するライブラリー・ミュージックは、シンセウェイブ~ヴェイパーウェイヴを経て、新時代DTM全盛の今と激共振する、スーパーデューパーな逸品! “POSITIVE FORCE” のクールなヴァージョン違いを含め、今こそ聴きたいフューチャリスティックなキラー・トラックが満載! アートワークも最高! 【1986年作品】

《収録曲》
01. Current Advances 1
02. Current Advances 2
03. Current Advances 3
04. Current Advances 4
05. Current Advances 5
06. Horizons 1
07. Horizons 2
08. Horizons 3
09. Horizons 4
10. Positive Force 1
11. Positive Force 2
12. Positive Force 3
13. Positive Force 4
14. Positive Force 5
15. Positive Force 6
16. The AV Conception 1
17. The AV Conception 2
18. The AV Conception 3
19. The AV Conception 4
20. Expo 1
21. Expo 2
22. Expo 3
23. Expo 4



タイトル:Solar Flares / ソーラー・フレアズ
アーティスト:SVEN LIBAEK AND HIS ORCHESTRA / スヴェン・リーベク・アンド・ヒズ・オーケストラ
レーベル:P-VINE
品番:PCD-24943
定価:¥2,400+税
発売日:2020年6月3日(水)
世界初紙ジャケットCD仕様/初回限定生産/日本語解説:小川充

1960年代から作曲家/アレンジャーとして数多くの映画、TV音楽を残してきたスヴェン・リーベクですが、その幅広い音楽性とハイセンスな作曲能力でライブラリー音楽も手掛けていたのは有名な話で本作はロンドンの “ピア・インターナショナル・ライブラリー” にて制作された1枚。放送用BGMというにはあまりにもクオリティが高く、ジャズ・ファンク、フュージョン、ラウンジ、イージー・リスニング、エキゾといった幅広いスタイル、さらにはモーグ・シンセをフィーチャーしたまさにコズミック・ファンクとも言うべきサウンドも取り込んだレア・グルーヴファンの間でも非常に評価の高いアルバムです! 【1974年作品】

《収録曲》
01. Solar Flares
02. Stella Maris
03. Lift Off
04. Destination Omega 3
05. Conversations With Hal
06. No Flowers On Venus
07. Quasars
08. Meteoric Rain
09. Space Walk
10. Infinite Journey
11. In Nebular Orbit
12. And Beyond

The Soft Pink Truth - ele-king

 これは怒りの作品だ。マトモスの片割れ、ドリュー・ダニエルによるプロジェクト、ザ・ソフト・ピンク・トゥルースが『Am I Free to Go?』なるカヴァー・アルバムをリリースしている。コンセプトは明確で、ドゥームやディスチャージなど、クラストコアのカヴァー集。
 ドリューによれば、最近〈Thrill Jockey〉からリリースされたばかりの新作『Shall We Go On Sinning So That Grace May Increase?』と同時期に制作されたもので、現在の資本主義的な生活世界における政治的悲惨さ──ドナルド・トランプ、(巨大グローバル企業の)アマゾン、人種差別的とりしまり(警察)、気候変動、パンデミック──をめぐって湧きあがってきた、みずからの感情と向き合ったアルバムだそう。
 経費を除いたすべての収益は、ファシズムに抗議する世界じゅうの人びとを法的に支援するファンド「国際反ファシスト法的防御基金(the International Anti-Fascist Legal Defence Fund)」へと寄付される。

artist: The Soft Pink Truth
title: Am I Free To Go?
release date: 27 May, 2020

tracklist:
01.Hellish View (Disclose cover)
02.Fuck Nazi Sympathy (Aus-Rotten cover)
03.Multinationella Mördare (Totalitär cover)
04.Police Bastard (Doom cover)
05.Profithysteri (Skitsystem cover)
06.Respect the Earth (Crude SS cover)
07.Cybergod (Nausea cover)
08.Death Earth (Gloom cover)
09.Space Formerly Occupied by An Amebix Cover But Fuck That Guy for Being a Holocaust Denier
10.Protest and Survive (Discharge cover)

bandcamp

Wire - ele-king

 パンクが大衆の認識に与えた衝撃が完全に浸透するよりも前に、ワイアーはすでにパンクを弄び、嘲笑い、その限界を超越していた。新興のパンク世代が、より純粋であると思われる1950年代のロックンロールの価値観を称揚し、1970年代のプログレッシヴ・ロックの大仰さを軽蔑して根絶を望んでいたのをよそに、ワイアーは〈Harvest Records〉と契約を結んでピンク・フロイドと同じレーベルの所属となり、伝統的ロックンロールに残るブルース・ロックの影響を自分たちのサウンドから排除しようとした。パンク・ムーヴメントの中核に残された者たちは、パンクの限界をより深く突き詰めようとしたが、それがあまりにもあっさりと超えられたことに、ほとんど気づいてさえいなかった。

 それから40年以上が経ったいま、ワイアーの音楽が反ロックの衝撃をもたらすことはなくとも、その栄誉の一部はワイアー自身に与えられるべきだろう。彼らが短期間で鮮烈にロックの形態を歪め、解体したことによる影響は長くくすぶり続け、ここ数十年に渡ってロックを再構築しようとする動きに力を与えており、状況は1970年代の終わりに彼らが目指した方針に近づいている。一方でワイアーが少なくとも2008年の『Object 47』以来切り開いてきた道は、ロックとの和解を目指しているかのようであり、ロックの構造に対する遠回しでぎこちない攻撃は健在ながら、自分たちの言葉で曲作りの方法論を探求することで、以前より遙かに心地よい状態に繋がっている。

 また現在のワイアーは、過去の自分たちとの対話にますます没頭しているように見受けられる。ロックの既成概念を解剖するアイデアと、ほとばしるポップスの輝きを組み合わせるスタイルは当初から変わっておらず、バンドは過去の自分たちを折に触れて肯定することを厭わない。コリン・ニューマンが皮肉とともに“Cactused”の切迫感のあるサビに込めたメッセージは、バンドによる1979年の珠玉のポップ・ソング“Map Ref. 41 Degrees N 93 Degrees W(北緯41度西経93度)”と同じ無味乾燥なほのめかしを表している。それでもワイアーが現在のロックのあり方を受け入れるなかで辛辣さはわずかに鳴りを潜め、うまくいっているときに得られる純然たる喜びも多少は感じられるようになってきた。

 そこには以前に比べて少しだけ緩さも生じているのかもしれない。1970年代のワイアーの楽曲は槍のように脳をきつく刺激するもので、リリース時点ですでに彼らのミニマリズムは完成されており、バンドはそこにさらなる活力を与えて展開させることは望んでいないように見受けられたが、現在、その音楽のなかに新たな活気が生まれる余地が徐々に認識できるようになっており、とくに『Mind Hive』ではその狙いが見事に開花している。“Unrepentant”や最後の“Humming”のような曲では、ブライアン・イーノ風と言ってもいいほどの広大なアンビエントの流れができており、一方“Hung”は、8分近くにおよぶ曲の中で核となるグルーヴを乗りこなせるという自信に満ちている。そうしたエネルギーは、新たに加入したギタリストのマシュー・シムスが持ち込んだ幻惑的な色合いにもたしかに受け継がれており、彼の存在感はますます高まっているが、それはまたバンドが少なくとも過去12年間で辿ってきた進化の道筋に欠かせないものでもある。

 ワイアーが変わらず妥協のない挑戦的なワイアーらしさを保っていることは、歌詞に現れている。その歌詞は、現在のインディ・ロック・シーンで彼らの影響を受けているどの若手バンドと比べてもなお、鮮烈で鋭く、謎めいていると言っていいだろう。多くの楽曲では、オンライン空間のまとまりのない空虚な世界観が断片的な形で漂っており、“Humming”では謎めいたロシア人の存在に言及し、喪失感やうまくいかないものごとや頭をよぎる失われた自由について述べていて、“Hung”においては混乱のなかで制御を失われる感覚や「一瞬の疑念」から生まれた些細な混沌がひたすら描かれる。『Mind Hive』全体を貫いているのは、現在まさに動揺し崩壊しようとするこの世界に対する明白な意識だが、それぞれの歌が具体的な何かから引き出されたものだとしても、その直感の閃きを歌詞から辿ることはできない。歌詞に唯一残されているのは、断片的な糸口と脅迫めいた暗示であり、それは力強く感情を込めた、憂鬱と偏執からなる筆致で描かれている。これはおそらくロック・ミュージックに限らず、世界の全体が、ようやくワイアーに追いついたということなのかもしれない。

訳:尾形正弘(Lively Up)


Ian F. Martin

Before punk had even fully made an impact on the public imagination, Wire were already kicking it around, mocking it, transcending its limitations. As the emergent punk generation championed the supposedly purer values of 1950s rock’n’roll and sneered the pomposity of 1970s progressive rock into what they hoped was oblivion, Wire signed to Harvest Records as label mates to Pink Floyd and set about expelling the blues-rock influences of classic rock’n’roll from their sound, leaving the core of the punk movement digging deeper into its own limitations, mostly not even aware of how swiftly they’d been surpassed.
Now, more than 40 years on, Wire’s music doesn’t land the anti-rock impact, but part of the credit for that should probably go to Wire themselves. The slow-burning influence of their short, sharp distortions and deconstructions of rock forms has helped rock music over these past few decades to reassemble itself in a way that brings it closer to the path that Wire had begun charting in the late 1970s. Meanwhile, the path Wire have carved themselves, at least since 2008’s Object 47, feels like a sort of reconciliation with rock, retaining the band’s oblique and angular attacks on its structures but combining that with a greater comfort in exploring its songwriting conventions on their own terms.
The Wire of today also seem to be increasingly engaged in a dialogue with their own past selves. The combination of ideas that dissect rock conventions and bursts of glorious pop has been there since the beginning, and the band aren’t averse to the occasional nod to their past selves. Colin Newman’s irony-laced announcement of the impending chorus in Cactused directly references a similar dry aside in the band’s 1979 pop gem Map Ref. 41 Degrees N 93 Degrees W. Still, there’s a little less sarcasm in Wire’s nods to convention nowadays, a little more comfort in the simple joys of what works.
There’s perhaps a bit more looseness too. Where Wire’s songs in the 1970s were tightly-wound lances to the brain, already at such a point of minimalist completion by the time of release that the band seemed to feel no need to let them breathe and develop, there’s increasingly a sense of breathing space to their music now that is in particularly full bloom on Mind Hive. Songs like Unrepentant and the closing Humming have an expansive, almost Eno-esque ambient drift to them, while Hung has the confidence to ride its central groove for nearly eight minutes. Some of this must surely be down to the psychedelic tint brought by new guitarist Matthew Simms as he increasingly makes his mark, but it’s also part of an evolutionary course the band have been on for at least the past twelve years.
Where Wire are still uncompromisingly and defiantly Wire is in the lyrics, which are still fresher, sharper, more cryptic than nearly any of the younger bands that carry their influence in the contemporary indie scene. The disconnected, spectral presence of the online world haunts many of the songs in a fragmentary fashion; references to an ambiguous Russian presence, a sense of loss, of something gone wrong, of freedoms lost flicker through Humming; the sense of something spinning out of control, of mere chaos born out of a “moment of doubt” pounds its way through Hung. There’s a definite sense running through Mind Hive of our current shivering, crumbling world, but if the songs are drawn from anything specific, access to that spark of inspiration is closed off by lyrics that leave only fragmentary evocations and menacing hints, painted in powerfully emotional strokes of melancholic paranoia. Perhaps it’s not just rock music but the whole world that has only just caught up with Wire.

Shabaka And The Ancestors - ele-king

舞い戻ってくる過去、そこから想像されるオルタナティヴな現在

髙橋勇人

 本作『We Are Sent Here By History』は、バルバドス/イギリス出身でロンドンを拠点に活動するサックス奏者シャバカ・ハッチングスが率いるバンド、シャバカ・アンド・ジ・アンセスターズ(以下、ジ・アンセスターズ)による、2016年作のファースト『Wisdom of Elders』に続く二枚目となるスタジオ・アルバムである。タイトルを直訳すれば「我々は歴史によってここに送られる」となる。ハッチングスの思想的探求が結実した作品となっている。
 これは、現在において途方もない問題に直面している我々とは誰なのかを、アフロ・ルーツへと立ち返り、それを人類規模で思考する壮大なサウンド・プロジェクトだ。合評ということなので、僕のテキストは今作の思想的な背景に焦点を絞って読み解いていきたいと思う。

 今作に関するインタヴューでハッチングスが述べるように、西アフリカ文化に伝わるグリオ(Griot)と呼ばれる、物語の語り手や音楽家が主にその役を担う存在が、今作に着想を与えている。グリオは国家の歴史や教訓を切り取り、それを楽曲や物語のなかに生きながらえさせ、人々に伝える。ハッチングスはそれに着想を得て、過去の一部分を違った角度から語り、それを保存していくことの意義を今作で示しているのだという。
 また、『CRACK』などの媒体で引用されているように、ハッチングスはこのアルバムを以下のようにも説明している。「(今作は)我々がひとつの種として絶滅しかかっている事実に関する熟考である。それは、廃墟からの、あるいは燃え盛るものからの内省だ。もしその終焉が悲劇的な敗北以外の何かであるとしたら、個人的な、あるいは社会的な我々の転換において取られるべき方向への問いだ」。経済的、環境的、パンデミック的な災害は、惑星規模で人類を蝕んでいる。ジ・アンセスターズは、そこに希望を見出すために歴史の概念にアフリカを経由して向かっているのだろうか。そして、「歴史によって我々はここに送られる」とはどういうことなのか。

 この点を考えていく上でヒントになるのは、ハッチングスがインスタグラムで最近読んでいる一冊に挙げていた、ロンドン拠点の地理学者カトリン・ユゾフの2018年発表の著書『十億の黒い人新世たち、もしくは無(A Billion Black Anthropocenes or None)』である。
 人類が地球環境に甚大な影響を及ぼす時代区分を示す人新世という地質学的な時代区分に対して、賛否を含めて多くの議論がある。そのなかでもひときわ重要なのは、人新世における「人間」とは誰なのか、という問いである。種としての人類はたしかにひとつかもしれないが、そこで文化的にも形成される「人間」の定義はひとつではありえない。その形成過程は文化が生じる歴史の経路によっても多元化しているからだ。
 「人新世」というタームが西洋のアカデミズムから出てきていて、その論理の根拠となるデータがそのコミュニティから派生しているのならば、その時代における「人間」とは西洋白人というカテゴリーに限定されてしまってはいないだろうか? その場合、地球規模の問題として人類が直面する天候クライシスなどのイシューに関わる主語としての「人間」の定義は、そんな狭義でよいのだろうか?
 ユゾフの『黒い人新世』は、そういった観点から、地球環境を把握する地質学(geology)という手法が、どのように特定の「人間」、あるいは「人種」に作用しているかを、ポストコロニアリズム研究などを経由して発展したブラック・スタディーズを武器に、果敢に切り込んでいく。先行する研究が説いてきたように、近代化の過程において、特定の他者を排除する奴隷制や、植民地主義といったシステムが、そういった「人間」のあり方を規定してきた。
 その文脈において、現代において惑星規模で危機に直面する者たちが誰なのかを、そして、その存在が活動する場所について考えるためには、現代のグローバルシステムにおいて形成される単一的な「白」ではなく、その歴史的な背後にうごめく制度によって除外されてきた数十億の「黒」を含めた「人間」を描かなければいかない。ざっくりいえば、それがユゾフの主張である。

 このクリティークがハッチングスの基本姿勢に通底している。彼が『The Quietus』に語っているように、アフリカの宇宙論において、時間は直線的にではなく、循環的に存在している。冒頭で引いたように、グリオたちを経由して過去が現在に舞い戻ってくる歴史観がまさにそれである。すでに起きてしまったことも、グリオたちの焦点の当て方によって変化していく。ハッチングスが参照する歴史観において、過去とは一様のものではなく、このようにして、いく通りにも変化していく潜在性の貯蔵庫のようなものだ。
 「我々は歴史によってここに送られる」。つまり、「ここ」を形作るのは歴史である。そして、「ここ」に問題があるならば、それを形成する歴史という潜在性に目を向け、その問題を打ち消すようなべつの「ここ」を想像しなければならない。
 ジ・アンセスターズは「ここ」を生きる「人間」の概念にも焦点を当てている。8曲目の “We Will Work (On Redefining Manhood)” のタイトルにある「Manhood」は「男らしさ」とも解釈できるが、この文脈では「人間としてのman」の再定義としても理解することができるだろう。
 サウンドにもこの思考は顕在化している。ジ・アンセスターズはクラブ・ミュージックのように、しばし反復的なメロディを刻む。加えて、今作で歌唱を担当する詩人のシヤボンガ・ムセンブが、消えゆく人間の末路が歌われている冒頭曲 “They Who Must Die” で最初に口にする「We are sent here by history」というラインは、二曲目 “You’ve Been Called” でメロディとともに現れ、その旋律が終曲の “Teach Me How To Be Vulnerable” で、哀愁を帯びたハッチングスのテナーから溢れてくる。言葉とサウンドで自己参照を繰り返し、ジ・アンセスターズは事象の多元性を描いてみせる。
 冒頭のハッチングスの言葉にあるように、語り部は、歴史のタイムラインを複数化させ、来るべき未来の可能性を示すことができる。この意味において、去年日本版が出た『わが人生の幽霊たち』でマーク・フィッシャーが描いた、息が詰まる資本主義リアリズムの現実の外側から「ノイズ」として到来する、別様の未来の可能性を内包した希望としての幽霊たちとも、『We Are Sent Here By History』のテーマは重なると言ってもいい。彼らはサウンドを通して、「ここ」と、その場所を生きる者たちの別の姿を、歴史的な潜在性に立脚し描こうとしている。

 ジ・アンセスターズが横断するジャズの地平線において、このアプローチは全く斬新なもの、というわけではない。2019年に再発された数あるジャズの名作のなかで、ひときわ注目された一枚は、サックス奏者ジョー・マクフィーの1971年作『Nation Time』だった。アミリ・バラカに触発され世の中に送り込まれたこの起爆剤は、当時のブラック・ムーヴメントに共振したものである。
 そこでは「time」は「時代」を表している。そのダブル・ミーニングでマクフィーが冒頭で叫ぶ「いま何時だ!?(What time is it!?)」という問いは、いまは奴らのじゃない、俺たちが作る国の時代なんだぜ、というアジテーションだった。観客はそのコールに「Nation Time!」とレスポンスし、マクフィーの怒涛のサックスが鳴り響く。
 『We Are Sent Here By History』は、異なる現実を示唆/提示するという意味ではマクフィー的なブラック・パワーともオーバーラップしている。しかし、ジ・アンセスターズの射程はそれだけではない。焦点の当て方で変わる過去の事象と現在、という歴史のシステムにも向かっている。この、現実を作り出すシステムを鳥瞰図的に描くと言う意味で、彼らには形而上学的なユニークさがある。
 ジャケットのヴィジュアルにも、それに通じる点がある。黒い四角形の後方部には、歴史の存在容態とその複数性を表しているであろう円形の模様が蠢いている。その前方に位置する、ひとりの黒人の姿。その歴史/人間が放つアフリカ時間と視線を合わせ、現在から我々の視点は、数十億の黒がひしめき合う過去へと引きずり込まれていく。そのようにしてしか、過去と未来が到来し続ける現在を考えることができない。身体は斜め前に向かいつつも、その眼光は力強く、こちらを向いている。

髙橋勇人

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口述的/非筆記的な「グリオ」というテーマに映る英国自由即興音楽の経験

細田成嗣

 英国現代ジャズ・シーンの中心的存在として活躍するサックス/クラリネット奏者シャバカ・ハッチングスが率いるシャバカ・アンド・ジ・アンセスターズ(以下:アンセスターズ)による4年ぶり2枚めのアルバムが発表された。リリースもとは〈インパルス!〉で、これでサンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミングに続き、シャバカが現在取り組んでいる3つの主要プロジェクトすべてが米国の名門ジャズ・レーベルからデビューを果たすこととなった。

 アンセスターズはシャバカが南アフリカのジャズ・ミュージシャンとともに2016年に結成したグループである。以前よりエチオ・ジャズの巨匠ムラートゥ・アスタトゥケとコラボレートするほか、南アフリカ出身のドラマーであるルイス・モホロと共演するなど、シャバカはアフリカをルーツに持つミュージシャンと関わりを持っていた。モホロといえば、かつて1960年代後半に南アフリカ出身のピアニスト/作曲家クリス・マクレガーが英国の先鋭的なジャズ・ミュージシャンらと結成したビッグバンド、ブラザーフッド・オブ・ブレスのメンバーとしても知られている。むろんアパルトヘイトによって祖国を追われた当時の南アフリカのミュージシャンと英国の関係をそのまま現代に置き換えることはできないものの、少なくとも英国と南アフリカのつながりから生まれたジャズの系譜は長い歴史を経て現在のアンセスターズへと流れ着いたと言うことはできる。ただしシャバカはアフリカを唯一のルーツとして考えているわけではない。1984年にロンドンで生まれながらも少年時代をカリブ海の島国バルバドスで過ごした彼は、アフリカン/カリビアン・ディアスポラとして自身の音楽活動を捉えている。

 シャバカが推し進める主要3グループのなかで、アンセスターズは編成も内容もいわゆるジャズにもっとも近しいプロジェクトだと言っていい。それも執拗に反復するベースラインと力強く詩を叫びあげるヴォイス、そして陶酔的/祝祭的なサウンド・メイキングは、サン・ラやファラオ・サンダースをはじめとしたスピリチュアル・ジャズを彷彿させる音楽性となっている。今作は西アフリカにおいて物語や教訓などの口頭伝承を担う演奏家を意味する「グリオ」およびカリブ海でカリプソをもとに時事問題を歌いあげる即興詩人を意味する「カリプソニアン」になることを目し、人類の絶滅をテーマに制作したというものの、そのサウンド面に着目するだけでも前作からの音響的変化を聴き取ることができる。

 真っ先に耳が引かれるのは、前作において複数の楽曲でシャバカがメインのサックスを朗々と吹いていたのに対し、今作ではアルト・サックスのムトゥンジ・ムヴブとともに対位法的に2管の旋律を絡み合わせていく演奏が主体となっていることである。前作の4曲め “The Sea” の方向性がより洗練されたかたちで前景化したと言ってもいい。さらに今作ではシャバカ自身による不定形な即興性が前作に比して抑えられている。言い換えればコンポジションの比重が高まったということでもあり、それは2管が絡み合う旋律を構築的に聴かせるということとも無縁ではないだろう。そしてこうした諸々の変化は、グループにおけるシャバカの演奏家としての立ち位置が突出することなく、あくまでも他のメンバーと共同でアンサンブルを編み上げていくことを重視するようになったと受け取れるとともに、その表面的な構築性とは裏腹に、口述的で非筆記的な「グリオ」や即興歌唱を行なう「カリプソニアン」をテーマとして取り上げたことを考え合わせるならば、記譜作品とは異なる快楽を求めてきたシャバカのもうひとつの顔、すなわち即興演奏家としての経験がリフレクトされた音楽としても聴き取れるように思う。

 シャバカ・ハッチングスは2007年にロンドンの芸術大学ギルドホール音楽院を卒業後、一方では英国カリビアンの先達でもあるサックス奏者コートニー・パイン率いるジャズ・ウォーリアーズに参加しつつ、他方ではいまや英国即興シーンの拠点のひとつとなっているロンドンのカフェ・オト(2008年設立)周辺のミュージシャンたち、たとえばエヴァン・パーカーやスティーヴ・ベレスフォード、アレキサンダー・ホーキンス、ルイス・モホロらと共演することで即興音楽の世界との関わりを深めていった。のちにサンズ・オブ・ケメットで活躍するドラマーのトム・スキナーらとその頃に結成したトリオ・Zed-Uでは、こうした自由即興の文脈を取り入れたアルバムも制作している。

 即興演奏家としてのシャバカの足跡を辿るうえでひときわ注目に価するイベントがある。2011年10月6日から8日にかけてドイツ・ベルリンを舞台に開催された《Just Not Cricket!》という音楽フェスティヴァルである。テーマは他でもなく英国自由即興音楽だった。当日の模様は4枚組のレコードとしてアーカイヴされている。ドキュメンタリー映画も製作が進められていたものの、現時点ではまだ完成していないようだ。同映画は仮の副題として「英国自由即興音楽のマッピング」を掲げており、ジョン・ブッチャー、スティーヴ・ベレスフォード、ロードリ・デイヴィス、アダム・ボーマンの4人をシーンの主要人物として捉え、四世代にわたる英国自由即興音楽の担い手たちをカメラに収めているという。そのうち最も若い世代にあたるのが、当時20代のシャバカ・ハッチングスだった。

 英国は自由即興音楽が盛んな土地としても知られている。かつて60年代にはリトル・シアター・クラブを拠点に多くのミュージシャンが新たなフリー・フォームの音楽を探求し、デレク・ベイリーやエヴァン・パーカー、ジョン・スティーヴンスらを輩出した。なかでもスティーヴンスはスポンティニアス・ミュージック・アンサンブル(SME)を組織しつつ、さらに即興演奏のワークショップを行なうことで後進の育成にも貢献した。ベイリーとパーカーはトニー・オクスリーらとともにミュージシャンによるレーベル〈インカス〉を創設したことでも知られている。
 またこうした交流とは別の文脈で、キース・ロウやエディ・プレヴォらによるグループ・AMM も活動を行なっていた。70年代半ばからは、のちにオルタレーションズとしても活躍するデイヴィッド・トゥープやスティーヴ・ベレスフォードらが参加したロンドン・ミュージシャンズ・コレクティヴ(LMC)が始動し、コンサートやワークショップが継続的に開催された。トゥープやベレスフォードに加え、ジョン・ブッチャー、ジョン・ラッセルらを含めたミュージシャンが第二世代と言われている。90年代終わりにはコンダクションを用いた即興アンサンブルのロンドン・インプロヴァイザーズ・オーケストラ(LIO)が組織され、数多くのミュージシャンが去来した同グループにはのちにシャバカも参加している。90年代後半からゼロ年代にかけてはベルリンやウィーンにおけるリダクショニズム、あるいは東京の音響系/音響的即興と同時代的な潮流もあらわれ、ロードリ・デイヴィスやマーク・ウォステルら第三世代の立役者たちは「ニュー・ロンドン・サイレンス」という言葉とともに語られた。

 シャバカはそのような英国即興音楽の系譜のなかではゼロ年代後半からテン年代にかけて頭角をあらわした第四世代に位置している。レコードとしてリリースされた『Just Not Cricket!』で彼は3つのトラックに参加しており、なかでも同じく第四世代にあたり、ジャズ・グループのほかヴァンデルヴァイザー楽派をはじめとした現代音楽作品を再解釈する試みを行なっているセット・アンサンブルの一員でもあるコントラバス奏者ドミニク・ラッシュと、第三世代のハープ奏者ロードリ・デイヴィスとのトリオ・セッションで顕著なのだが、点描的な弦楽器のサウンドに対してシャバカは流麗なメロディをクラリネットで淀みなく演奏していく。それは特殊奏法を駆使した音色の探求や力強い咆哮によって生じるノイズ、あるいはメロディやリズムを巧妙に避けるノン・イディオマティックなアプローチといった自由即興の文脈とはやや異なるサウンドであり、クラシックとジャズをバックグラウンドに持ちつつ背後に仄かにグルーヴが流れ続けているような演奏とでも言えばいいだろうか。いずれにしてもこのように活動領域や文脈が大きく異なる3人がセッションを行なうことができるのは、英国においてミュージシャン同士を結びつける自由即興音楽のコミュニティが強く根づいていることの証左でもあるのだろう。

 アンセスターズの作品、とりわけこのたびリリースされたセカンド・アルバムでは、こうしたシャバカの即興演奏家としての側面は明示的なサウンドとしてはあらわれていない。もとより即興セッションにおいても構築的な演奏を重視していたと言うこともできる。むろんなかには深い残響処理が施されたアコースティック・ピアノのアブストラクトな響きから幕を開ける2曲め “You’ve Been Called” や、激しく飛び交うトランペットの即物的かつストレンジな音色が印象的な7曲め “Beast Too Spoke Of Suffering” といった楽曲も収録されている。だがいずれもその裏では骨子となるようなポエトリー・リーディングやテーマ・メロディが奏でられており、演奏全体が音響的にカオティックな状態に陥ることはなく、かえってそのコンポジションのありようを際立たせている。このことはしかし本盤が固定された構築美を示しているというよりも、むしろ「グリオ」のように口述的/非筆記的に、すなわち即興的にさまざまな変化を遂げていくことの原型となり得ることを示唆している。そこにはシャバカが自由即興の世界で幾度も出会ってきたはずの、音楽における記譜の伝統とは別種の快楽に対する志向がうかがえる。

 そしてそのような音楽へと赴くことができた背景には、ミュージシャンが修練を積むためのさまざまなコミュニティが、誰でも参入可能な開かれたかたちで存在しているという英国ならではの土壌があることを見落としてはならない。英国において自由即興音楽は特権的で閉鎖的なものではなく、おそらくミュージシャンを志す誰もが小さなきっかけから自然と触れることができ、学ぶことができるようなものとしてある。少なくともこれまで見てきたように、英国には即興音楽を実践するためのコミュニティが歴史的に数多く存在してきたのである。ジャズに目を転ずれば、若手ミュージシャンの育成機関であるトゥモローズ・ウォーリアーズがそのような役割の一端を担っており、他でもなくシャバカはそこでも音楽を学んでいたのであった。彼の音楽はこうしたさまざまなコミュニティのアマルガムとして産み落とされている。それはアフリカン/カリビアン・ディアスポラとしての音楽を模索する彼が、一方では英国という土地で歩んできた固有の経験を自らの音楽に刻んでいることを意味しているとも言えるのではないだろうか。

細田成嗣

インディ・シーン団結しようぜ! - ele-king

 いま音楽にできることは何だろう? ことインディと呼ばれるシーンにできることは……どんなに小さくとも、そこに人が複数いればシーンだ。小さいシーンほど政府がアテにできないのはもうわかっている。だからといって白旗を揚げるのは冗談じゃない。自分たちのコミュニティが破壊されようとしているんだから。おたがい支え合うことがまず重要だ。
 これまで多くの刺戟的なアクトを輩出してきたイアン・F・マーティン主宰のレーベル〈Call And Response Records〉が、新型コロナウイルスの影響で危機に瀕している地元のシーンを支援すべく、日々サウンドクラウドなどに動画や音源をアップ、高円寺の音楽スポットを支援するための寄付金を募っている。
 日本のインディ・シーンはこのように無数の小規模なスペースや有志たちの手によって成り立っているもので、そのような全国のスポットにびっくりするくらい足を運んでいる猛者がイアンであり、この国のインディの状況をもっともよく理解している者のひとりである。彼による声明はわたしたちにとって大きなヒントを含んでいるので、以下に掲げておくが、これは現時点でのひとつの解ともいえるアクションではないだろうか。
 そもそも音楽がどういうところから生まれてくるものなのか──すでに被害が甚大な欧米の『ガーディアン』などメディアでは、来年秋頃まですっきりしない感じが長引くのではないかとも言われている現在、それを思い出しておくのはたいせつなことだろう。政府に補償を要求するのもたいせつなことだけれど、DIY精神やコミュニティへの眼差しを忘れずに行動していくことも、とっても重要なことである。(それは高円寺だろうが静岡だろうが京都だろうが)
 インディ・シーン、団結しようぜ!

キャンペーン・ページ:https://callandresponse.jimdofree.com/help-our-local-music-spots-地元の音楽スポットに救いを/
キャンペーン・ステイトメント:https://callandresponse.jimdofree.com/help-our-local-music-spots-地元の音楽スポットに救いを/campaign-statement/

地元のインディー音楽スポットに救いの手を!
(ENGLISH TEXT BELOW)
イアン・マーティン(Call And Response Records)

突如世界的なパンデミックが巻き起こり、世界中の多くの人々は現状を受け止めることが困難な状況にあります。いま私にできることは、微力ながらも自分のコミュニティのために何ができるかを考えることです。

Call And Response Records は、東京のライブミュージックシーン、その中の高円寺周辺から生まれました。高円寺は私たちのホームです。日本でコロナウイルス危機の対応が遅れさらに悪化するにつれて、ミュージックバーやライブ会場はますます困難な立場に置かれています。

私は幸運にも家に居ることができ、自分の部屋から執筆作業をすることができます。しかし、東京の独立した小さな音楽スポットのオーナーにとって、補償がないのでこれは簡単なことではありません。彼らは自分たちの生計を立てるために残され、皆にとっては恐ろしくて不安定な状況です。現状は誰もサポートをしないので、彼らの力になりたいです。店を開ければ批判と個人への誹謗中傷に直面し、店を閉めれば生計を立てられなくなり倒産へ追いやられてしまいます。

この危機を乗り越える為に正式な支援を求める運動をして居る方々がいらっしゃるので、今後少なくとも政府はこの問題を認識することを願います。取り急ぎ、できる限り早く、少なくとも Call And Response Records を支援してくれたいくつかの小さな会場・お店を助けたいと思います。

今、世界は混乱しており、おそらくあなた自身も問題を抱えているでしょう。Call And Response は、それを理解しています。しかし、これまで音楽に関わる活動を楽しんできた皆さんのために、私たちのコミュニティが集い、成長させる場所を与えてくれた、私たちの周りの音楽会場や音楽スポットについて考えてみてください。

また、ライブビデオと無料DL音源をこのページに集めて、人々が自由楽しめるようにする予定です。

そしてもし可能なら、少しのお金を支払うことで彼らを助けてください。

地元のインディー音楽スポットに救いの手を!

募金の寄付先については以下の3つのライブ会場、バーです。レーベルと私たちのコミュニティにとって、ここ最近で重要な場所となっている3つの小さなインディースポットにフォーカスしました。今後状況を見て、このページも随時アップデートしていきます。

Help us support our local independent music spots

By Ian Martin (Call And Response)

Seeing the massive devastation the global pandemic is causing to so many people’s lives around the world is overwhelming and difficult to process. The only way I can get through each day is by thinking small and thinking about what I can do for my own community.

Call And Response Records was born out of the live music scene in Tokyo, and the neighbourhood of Koenji in particular. It’s our home. But as Japan’s experience of the Coronavirus crisis drags on and gets worse, music bars and live venues are increasingly in a difficult position.

I am lucky enough that I can stay at home and do writing work from my room. But without support, that isn’t so easy yet for the owners of small, independent music spots in Tokyo. They have been left to fend for themselves, trying to stop their livelihoods falling apart in a situation that’s scary and uncertain for everyone. They face criticism and personal danger if they open, bankruptcy and the end of their livelihoods if they close.

There are people campaigning for formal support to help the music scene get through the crisis, so at least the government is being made aware of the problem. In the meantime, though, I want to at least help some of the places that have helped Call And Response Records if I can.

The world is in a mess right now, and you probably have your own problems. We at Call And Response understand that. But for those of you who enjoy what we do, just take a moment to think about the venues and music spots around us that have given us a place to gather and grow our community. We plan to upload live videos and free downloads, gathering them all on this page for people to take and enjoy freely. And if you can, please drop a bit of money to help.

With any donations we receive on this page, we’re focusing for now on three small, independent spots that have become important places to the label and the community around us in recent years. We will keep an eye on the situation as it changes and make any of our own changes if they seem appropriate (updates posted here).

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