「All We Are」と一致するもの

 まるでプラトンの「洞窟の寓話」みたいだ。男性優位にもとづいた家父長的な観念の数々が何千年ものあいだ女性の経験をかたちづくってきたために、その外でシスターフッドを概念化することは難しいし、ましてそれを定義することは難しい。
 いずれにせよ私は、フェミニズムがこんにち辿りついている地点を疑わしく思っている。いうまでもないことだが、たとえば日本とアメリカのあいだにある社会的・文化的なニュアンスの違いは、結果として女性の行為についての異なる基準を生みだすことになる——つまりジュディス・バトラーが述べたとおり、「ジェンダー[役割の数々]は行為遂行的なものであり[……それらが]行為されるかぎりにおいて実在する*2」ものなのだ。だけどけっきょくのところいま、ニューヨークから東京まで、誰もが同じ経験をしている。つまりいま現在のフェミニズムのなかでは、女性にたいする抑圧のメカニズムそのものが、私たちをエンパワーするための鍵としてブランド化されてしまっているのである。 
 とはいえ、10年たらず前まで、フェミニズムは刺激的な危険地帯に身を置いていた。#Metooの示した展望のあとで、いったい私たちは、どうしてこんなところに辿りついてしまったのだろうか?
 そのピークにおいて#Metooは、——そもそも女を支配し沈黙させる性質をもつ家父長的な管理が、原初的なかたちをとってあらわれたものである——性的暴行の証言とともに、有名無名を問わない女たちを公の場へと連れだした。2000年代初頭にこの運動を開始したとされるタラナ・バークの言葉を引用するなら、「”Me too”はたった二語で十分だった。(……)暴力は暴力である。トラウマはトラウマだ。だけど私たちはそれを軽んじるように教えこまれ、子供の遊びのようなものだと考えるようにさえ教えこまれている」
 だけどミュージシャンたち——つまり明確に社会のサウンドスケープを形成している者たち——は、2010年代なかばの絶頂期のさなかで、奇妙なほど沈黙したままだった。とはいえ、少数の女性たちが名乗り出たことは賞賛されるべきだろう。なかでもとくに挙げられるのは、虐待を受けたマネージャーにたいする10年以上に及ぶ訴訟につい最近決着をつけたばかりのケシャや、レディー・ガガビョークテイラー・スイフトなどの名前だ。とはいえしかし、こんにちのフェミニズムをより生産的な方向へと導きうる道しるべは、まさにいま現在ポップ・ミュージックのなかに身を置いている女性たちをより深く掘り下げてみることによって与えられる。

もうひとつの“F”ワード
——いったいいま誰がフェミニストになることを望んでいるのか?

 スキャンダラスな——いやむしろ虐待的な——男性ミュージシャンたちは、実質的にひとつの原型になっている。長い間彼らには、その行動にたいするフリーパスが与えられてきたのだ。マイケル・ジャクソンは金目当ての子供たちに性的虐待なんかしていない。たしかにデイヴィッド・ボウイは14才の「グルーピーの子供」とセックスしたが、彼女は自分からその状況を招いたのだ。だとしても、ではあの悪名高いレッド・ツェッペリンのサメ事件はどうなのか? いずれにせよいつも、「男ってのは困ったもんだ」で済まされるのだ。カニエ・ウエストでさえ擁護者を抱えている。YouTubeのコメント欄をざっと見てみると、敬虔なイーザス信者の軍勢がいることが見えてくる。なかでもとくに、以下のような悲痛なコメントは、こちらをノスタルジーというボディーブローで連打してくる。「カニエは『Graduation』を作った。『Graduation』を作った。『Graduation』を作ったんだ!」*3
 どうやら男たちの場合、アーティストと彼の作るアートは、つねに切り離すことが可能らしい。
 だがしかし、女たちの場合はどうだろう?
 人類学者のルース・ベハーは『Women Writing Culture』において、あえて発言する女たちに突きつけられる期待をあきらかにしながら、「女たちが書くとき、世界は見張っている*4」と警句めかして書いている。女性ミュージシャンたちもまた、その発言にかんして——文字どおりそれを注視するような——同様の圧力に直面している。よく知られているとおりだが、シネイド・オコナーが教皇の写真を破った直後にキャンセルされたことを思いだしておこう。より最近の例として、ラッパーのアジーリア・バンクスは、楽曲よりもそのスキャンダルで有名になっている。また誰もが覚えているとおり日本では、AKB48のメンバーが、ボーイフレンドと夜を共にするというとんでもない犯罪——嗚呼!——を犯したために、頭を丸め、公に謝罪したのだった。
 悲しいことに#Metooは、たった数年で頓挫しだしたが、おそらくそれは、不幸にも性的暴行とコミュニケーション不足が結びつけられていったからだろう。2022年になるとハリウッドは、配偶者からの虐待を主張して彼の「名誉を毀損」した元妻アンバー・ハードとの訴訟に勝ったジョニー・デップを、やさしく諸手を広げて受け入れた。#Metooのあとで、私たちに伝えられているメッセージはこれまで以上にはっきりしたものになった。私たち女は、火あぶりにならないよう目立つようなことはしないのが一番なのだ。
 当初は#Metooや、ジョー・バイデンにたいする性的暴行の申し立てを支持していたレディーガガが、にもかかわらず大統領就任式で歌うことになったのは、きっとそうした圧力があったからなのだろう。だがこのことはむしろ、アメリカの(そして他の後期資本主義社会の)政治が激しく分岐していることの証明なのかもしれない。「すべての女たちを信じる」[#Metoo運動のなかで生まれたスローガン”Belive women”の派生系。ハラスメントや暴行の申し立てをまずは信じることを主張する]——なるほどね、だけどそうすることが政治的に不都合じゃないかぎり、でしょ?
 またおそらく——以前は自身がフェミニストであることを宣言する光り輝く巨大な電飾の前でパフォーマンスをしていた——ビヨンセが、女性問題にたいする公然としたサポートをやめたのは、#Metooのあとで、もはや社会の同意が得られなくなったからなのだろう。
 あるいはまた、おそらくこのことは、あの業界の寵児について、そう、テイラー・スウィフトその人について説明するものでもあるはずだ。私は自分が「スウィフティー[Swiftie:スウィフトのファンの通称]」だとは思わないし、スフィフトが——フェミニスト的な立場を主張していたのに——カニエ・ウエストの「Famous」のなかの悪名高い歌詞(自分とスウィフトは「まだセックスしてるかもしれない」というもの)を[発表前に知っていながら]知らないふりをしていたことを、[カニエの元妻の]キム・カーダシアンが暴露したときは、真剣に眉をひそめもした。しかしキャリアがスタートに見られたコンプライアンスを重視するその公的な人格は、結果として彼女のファン層(とその経済的自由)を築きあげ、そして最終的には、いまいる場所まで彼女を辿りつかせることになった。こうして彼女はいま、倫理的な理由でSpotifyから楽曲を取り下げたり、最初の6枚のアルバムを自身のアーティストとしてのヴィジョンに合うように再録したり、摂食障害について率直に語ったりしているわけである。
 だからこそ、キム・カーダシアンには[SNS上で]すぐに捕まったとはいえ、スポットライトの外で一年を過ごしたすえに18キロも痩せて帰ってきながら、歴史に残るカムバック・アルバム『Reputation』であからさまに中指を突き立て、次のように歌っていた頃のテイラー・スウィフトこそが、私は大好きなのだ。「私は誰も信じないし、誰も私を信じない。私はあなたの悪夢の主演女優になってやる」  あれこそが最高(バッドアス)だった。

女の性の力

 #Metoo以降、他に何が起きたのかを考えてみよう。グローバル経済は着実に下降している。アメリカ人たちは2008年の破綻以降いまだにふらついたままだ。一方で日本では、バブル崩壊以後の終わりのない不況が、長い戦後史上でも最低の円安を招いている。またコロナ禍以降、インフレによって貧富を分けるうんざりするような隔たりが世界中で広がっている。
 苦境にあえぐ経済は、同じ立場で男が1ドル稼ぐあいだ、こんにちにいたってもいまだに77セントしか稼げていない女たちにとって、とくに深刻な含意をもっている。そうした状況がある以上、セックス・ワークが——なかでもOnlyfans[ファンクラブ型のSNS]のような界隈のなかや、「シュガー・ベイビーズ」というかたちでおこなわれるそれが——これまで以上に魅力的なものに見えているのも当然だといえる。『Harper’s Bazaar』誌でさえもが、カーディ・Bがストリッパーだったことを梃子にして登りつめたことを「シンデレラ・ストーリー」だと表現するくらいだ。
 「WAP」で共演しているメーガン・ザ・スタリオンは自身のリリックのなかで、ごくシンプルに、「この濡れたマンコにキスしたいなら学費を払ってよ」と歌っている。
 カーディ・Bのブランドになっている、いわゆる「売女ラップ[slut rap]」の土台には、当時としては革命的だった1990年代の遺産が横たわっている。リル・キムの“How Many Kicks”やキアの“My Neck, My Back (Lick It)”といった曲が、その当時のヒップホップの場を地ならしし、女たちも、異性をモノのように扱うことで悪名高い男たち——私がここで思い浮かべているのはスヌープ・ドッグの“Bitches Ain’t Shit”やジェイ・Zの“Big Pimpin’”のような曲だ——に肩を並べることができるようにしたのは疑いないことだ。
 だがけっきょくのところ売女ラップは、男性の眼差し(メイルゲイズ)からの持続的な解放にはいたらなかったと言えるのではないだろうか? 私は何もここで、女性のセクシュアリティや、「世界最古の職業」(このこと自体、女の「選択」よりも男の欲望の方が優先されてきたことの例だが)を侮辱しようというつもりはない。そうではなく——とくに女性のセクシュアリティの表象がどんどんと男性の眼差し(メイルゲイズ)におもねったものになっている状況のなかにおいて——こんにちのフェミニズムが、そうした選択は女性たちをエンパワーするものだと主張していることに疑問を投げかけたいのだ。もちろん、少なくともエルヴィス以来ずっと、ポップスターたちは自身のセクシュアリティを資本化してきたわけだが、ガールパワーを伝えるものだったローリン・ヒルの“Doo-Wop (That Thing)”やシャナイア・トゥエインの“Any Man of Mine”、ノー・ダウトの“Just a Girl”といった90年代のヒット曲は、“WAP”を隣に置かれると、まったくもって禁欲的なものに見えるてくる。
 つまり私たちのもとにはいま、男性ミュージシャンにたいして、何でもいいがたとえば、「バカなことするのはやめて」と頼みこむ代わりに、その先には袋小路しかない「性的エンパワーメント」なるものへと向かう道をどんどんと突き進んでいく女性のポップスターたち——しかも男性プロデューサーからなるチームに指導された*5女性ポップスターたち——がいるのだ。ドレイクが自身[と21サヴェージ]のアルバム『Her Loss』のなかでフェミニズムに言及しているのは、よく言えば自分で自分に鞭を打っているようなものだが——ああ、クソッ、俺は悪いビッチたちに惑わされた善人だ、というわけである——、悪く言えば人を侮辱するたぐいのものだ。「お前らのために50万ドル遣ってやるぜビッチ、おれはフェミニストだ」といったリリックによってドレイクは、男性の眼差し(メイルゲイズ)の外に自分たちのための価値を見いだそうとしてもがく女たちを嘲笑っている。だがそのことと、“WAP”の待望された続編である“Bongos”——そのMVのなかでは、Tバックを履いた二人のラッパーがセックスの真似をしながら、「ビッチ、私はお金そのものみたいにイケてる/私の顔をドル札を印刷したっていい/太鼓みたいにコイツを叩いてみたらどう?」とラップしている——とのあいだに違いがあるとした場合、けっきょくのところそれは、後者においては、女が主導権を握っているという点に求められることになるだろうか?
 たしかに、ポン引きに食い物にされるより、自分自身がポン引きになる方がいいだろうが、だが真剣に考えてみてほしい、はたしてそれだけが私たちの選択肢だといえるのだろうか?
 #Metoo以降メディアがどう変わったか(あるいは変わっていないか)を見ていると、私たちは完全に論点を見失っているのではないかと思えてくる。言っておくが、私はカーディ・Bのメディア上での人格が好きだ。彼女はクレバーでふてぶてしく、現代にとって決定的なものである経済的な戦いも上手くこなしている。彼女もまた最高(バッドアス)だ。だから我がシスターたちの一部とは違った考えをもっていることになるかもしれないが、とはいえ私は、ファミニズムを苦しめる内輪揉めに加わるつもりはまったくない(また平等を求めるその他の運動に加わるつもりもまったくない——この点については、次のように書くなかでシモーヌ・ド・ボーヴォワールが見事に要約しているとおりだ。「女たちの翼は切り取られている、その上で彼女は、飛び方を知らないといって責められる*6」)。プラトンの寓話の洞窟に捕らえられたあの魂のように、私たちにとって真の平等を概念化することは難しい。
 だけど、ねえ(メン)*7——カーディ・Bがあの素晴らしい声を何か他のことを言うために使ったとしたらどう思う? 
 けっきょくのところ性的暴行とは、不平等にもとづくより広範なシステムの悲劇的なあらわれなのであり、このシステムにおいて女たちは、男の期待によって拘束されつづけている。男たちに私たちの価値を定義するように頼っているかぎり、私たちの価値はあくまで、特定の(セックス)にかかっていることになる。つまり、男の喜びに向けて調整された(セックス)に。
 だがひどいセックスと同じで、そんなことはただ退屈なだけだ。

【プロフィール】
ジリアン・マーシャル/Jillian Marshall

ジリアン・マーシャル博士は、現在ニューヨークを拠点に活動しているライター、教育者、ミュージシャン。初の著作『JAPANTHEM: Counter-Cultural Experiences, Cross-Cultural Remixes』 (Three Rooms Press: 2022)は、日本の伝統音楽、ポピュラー音楽、アンダーグラウンド音楽にたいする民族音楽的研究にもとづき、大学と公共圏を架橋している。博士号取得後にアカデミアを去ったが、その理由のひとつは、同僚たちからその半分もまともに受け取れないのに、彼らの二倍も努力するのに嫌気がさしたからである。https://wynndaquarius.net/

◆注

  • 1 [訳注:原題にある”hot take”とは、大方の予想とは異なる見方を強く示すことで、受け手の積極的な反応を引き出す一種のレトリックのこと。もともとはスポーツ・ジャーナリズムで用いられた言葉だが、SNS上で一般化した。日本語の語感としては「逆張り」にも近いが、もっぱらネガティヴな面が強調されてしまう点で本稿のもつ自覚的な戦略性にはそぐわないため、ここでは、カナによる音写で多義性を残しつつ、直訳的に訳した]
  • 2 Judith Butler, “Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory,” in Performing Feminisms: Feminist Critical Theory and Theatre, ed. Sue-Ellen Case (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1990), 278.
  • 3 はぁ。冗談ではなく私は、本当に昔のカニエが恋しい。
  • 4 Ruth Behar, Women Writing Culture, ed. Ruth Behar and Deborah Gordon (Berkeley: university of California Press, 1995), 32.
  • 5 カーディ・Bとメーガン・ザ・スタリオンは、自分たち以外の6人と作詞のクレジットを共有している——そのいずれもが男性だ。
  • 6 Simone de Beauvoir, The Second Sex (New York: Vintage, 1989), 250.
  • 7 [訳注:英語では、性差を問わず誰かに呼びかけるさいの言葉として”man”が用いられるが、ここではそのことが、言語そのものに刻まれた男性優位の例として強調されている。]

なお、本コラムの第二回目(2010年代のカニエ・ウェスト)は、年末号のエレキングに掲載される。

Musicological Hot Take: Pop Music Post-#MeToo By Jillian Marshall, PhD

It’s like Plato’s “Allegory of the Cave": because patriarchal notions of male superiority have shaped the female experience for millennia, it’s hard to conceptualize —let alone define — womanhood outside of it.
Nevertheless, I find myself wondering about where feminism has ended up today. Of course, socio-cultural nuances between, say, Japan and the US create different standards of the feminine performance — and, as Judith Butler wrote, “Gender [roles] are performative… and are real only to the extent that [they] are performed.”*1 But in the end, it’s the same story from New York to Tokyo: in contemporary feminism, the mechanisms of women’s oppression are now branded as the keys to our empowerment.
Yet not even ten years ago, feminism was perched at an exciting precipice. So, how did we end up here after the promise of #Metoo?
At its peak, #MeToo brought forward women of both stature and obscurity with stories of sexual assault: a primary manifestation of patriarchal control that, by its nature, dominates and silences women. Quoting Tarana Burke, who is credited with starting the movement in the early 2000s, “‘Me too’ was just two words… Violence is violence. Trauma is trauma. And we are taught to downplay it, even think about it as chid’s play.”
Yet musicians — those who explicitly shape society’s soundscape— remained curiously silent during #MeToo’s height in the mid-2010s. Perhaps it should be celebrated that only a handful of women came forward with stories: notably KE$HA, who only recently settled a decade-plus lawsuit against her abusive manager, as well as Lady Gaga, Bjork, and Taylor Swift. But a deeper inquiry into women in pop music today provides a roadmap that could guide contemporary feminism toward a more productive direction.

The Other “F” Word: Who Wants to Be a Feminist, Anyway?

Scandalous — nay, abusive — male musicians are practically an archetype, and they’ve long been awarded free passes on their behavior. Michael Jackson didn’t sexually abuse those gold-digging children. Sure, David Bowie had sex with a fourteen-year-old “baby groupie,” but she put herself in that position. And that infamous shark incident with Led Zeppelin? Well, boys will be boys. Even Kanye West has his apologists: a quick look at YouTube comments reveals legions of faithful Yeezus devotees. One lament in particular hits me with a nostalgic gut punch: “He made Graduation. He made Graduation. He made Graduation!” *2
With men, we can always seem to separate the art from the artist.
But women?
In Women Writing Culture, anthropologist Ruth Behar quipped that “When women write, the world watches,”*3 articulating the expectations thrusted upon women who dare speak up. Female musicians face similar pressures regarding their voices— literally. Consider how Sinead O’Connor was famously cancelled for ripping up a photo of the Pope before cancellation itself. More recently, rapper Azalea Banks is more famous for her scandals than her songs. And in Japan, we all remember when the AKB48 member who shaved her head and publicly apologized for the egregious crime of — gasp! — spending the night with her boyfriend.
Sadly, #MeToo began fizzling out just a few years in, perhaps due to unfortunate conflations of sexual assault with poor communication. By 2022, Hollywood opened its loving arms to Johnny Depp following his victorious lawsuit against ex-wife Amber Heard, who “defamed” him with claims of spousal abuse. Post #MeToo, the message is clearer than ever: we women best stay in line, lest we burn at the stake.
So maybe this explicit pressure explains how Lady Gaga, despite her initial support for #MeToo and the sexual assault against allegations against Joe Biden, sang at his 2021 presidential inauguration ceremony. But this might be more of a testament to the bitter bifurcation of American (and other late-capitalist societal) politics. “Believe all women”— unless it’s politically inconvenient to do so, right?
And maybe Beyonce— who once performed in front of that giant, glowing sign declaring herself a FEMINIST — dropped her overt support of women’s issues because, post-#MeToo, societal permission was no longer granted.
Or maybe this all explains the industry’s darling: yes, Taylor Swift herself. Now, I’m not exactly a “Swiftie,” and I raised a serious eyebrow when Kim Kardashian revealed that she feigned ignorance — while claiming a feminist stance, no less — regarding Kanye West’s infamous lyric about how he and she “might still have sex” in his song “Famous.” But Swift’s compliant public persona at the start of her career is what built up her fan base (and financial freedom) to ultimately arrive where she is now: pulling her catalog from Spotify for ethical reasons, re-recording her first six albums to fit her artistic vision, and speaking candidly about her eating disorder.
And though Kim Kardashian caught her red-handed, I love that Taylor Swift came back forty pounds healthier and a year out of the spotlight later, middle fingers blazing on a come-back album for the ages, Reputation, singing: “I don’t trust nobody and nobody trusts me. I’ll be the actress starring in your bad dreams.” Badass.

The Power of Female Sex

Let’s consider what else has happened since #MeToo: the steady downturn of the global economy. Americans are still reeling from the crash of 2008; meanwhile, an endless post-Bubble recession in Japan has weakened the yen to its lowest value in the long postwar. And since coronavirus, inflation cleaves a disheartening chasm across the globe between the rich and poor.
The implications of a struggling economy are particularly grave for women who, to this day, still earn just 77 cents for every dollar made by men in identical positions. So it makes sense that sex work, especially in spheres like OnlyFans or as “sugar babies,” holds seemingly more appeal than ever. Cardi B’s upward mobility, leveraged by stripping, is even described by Harper’s Bazaar as a “Cinderella Story.”
“WAP”-collaborator Megan Thee Stallion puts it succinctly with her line, “Pay my tuition just to kiss me on this wet ass pussy.”
Cardi B’s brand of so-called “slut rap” builds on a legacy from the 1990s that was revolutionary for its time. There’s no doubt that Lil Kim’s “How Many Kicks” and Khia’s “My Neck, My Back (Lick It)” leveled the hip-hop playing field for a time, enabling women to keep up with boys notorious for their objectification of the opposite sex (Snoop Dawg’s “Bitches Ain’t Shit” comes to mind, along with Jay-Z’s “Big Pimpin’”).
But can we finally admit that slut rap didn’t impart lasting liberation from the Male Gaze? I don’t mean to shame female sexuality or the “world’s oldest profession” (itself a commentary on the prioritization of male desire more than female “choice”), but to question contemporary feminism’s insistence this choice is inherently empowering— particularly as representations of women’s sexuality increasingly pander to the Male Gaze. Of course, pop stars since at least as far back as Elvis have capitalized on their sexuality, but the 90s girl-power messaging of Lauryn Hill’s “Doo-Wop (That Thing),” Shania Twain’s “Any Man of Mine,” or No Doubt’s “Just a Girl” appear downright puritanical next to “WAP.”
So rather than imploring male musicians to, I don’t know, stop being assholes, instead we have female pop stars — coached by a team of male producers*4 — marching further down a dead-end road toward “sexual empowerment.” We can all agree that Drake’s nods to feminism on his album Her Loss, is self-flaggelating at best — aw, shucks, just a good guy led astray by bad bitches — and insulting at worst. With lyrics like “I blow half a million on you hoes, I’m a feminist,” Drake makes a mockery of women’s struggle to find worth for themselves outside the Male Gaze. But when the purported difference between this and “WAP”’s much-anticipated follow-up, “Bongos” — whose video features the two rappers in thongs, simulating sex, rapping “Bitch, I look like money / You could print my face on a dollar / Better beat this shit like a drum?” — is that, here, the women are in control?
Sure, I suppose being your own pimp is better than being pimped, but seriously: these are the options?
Seeing how things have (or haven’t) changed in media since #MeToo leaves me wondering if we’ve missed the point altogether. For the record, I like Cardi B’s media personality: she’s clever, unapologetic, and in tune with the economic struggles definitive of our times. She, too, is a badass, so while I might have differing ideas on feminism from some of my sisters, I’ll never participate in the infighting that plagues feminism (and any other movement for equality_, which Simone de Beauvoir eloquently summed up when she wrote, “Women’s wings are clipped, and then she’s blamed for not knowing how to fly.”*5 Like those souls trapped in Plato’s allegorical cave, it’s hard for us ladies to conceptualize true equality.
But man — can you imagine if Cardi B used that incredible voice of hers to say something else? Ultimately, sexual assault is a tragic symptom of a broader system of inequality, where women are imprisoned by male expectation. When we look to men — themselves increasingly socialized by pornography and violence — to define our value, our worth hinges upon a particular kind of sex: one geared toward male pleasure. Like bad sex itself, it’s all just so boring.

  • 1 Judith Butler, “Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory,” in Performing Feminisms: Feminist Critical Theory and Theatre, ed. Sue-Ellen Case (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1990), 278.
  • 2 Sigh. I really do miss the Old Kanye.
  • 3 Ruth Behar, Women Writing Culture, ed. Ruth Behar and Deborah Gordon (Berkeley: university of California Press, 1995), 32.
  • 4 Cardi B and Megan Thee Stallion share writing credits on “Bongos” with six others— all men.
  • 5 Simone de Beauvoir, The Second Sex (New York: Vintage, 1989), 250.

Author Bio

Jillian Marshall, PhD, is a writer, educator, and musician currently based in Brooklyn New York. Her first book, JAPANTHEM: Counter-Cultural Experiences, Cross-Cultural Remixes (Three Rooms Press: 2022) draws on her ethnomusicological research on Japan’s traditional, popular, underground music worlds, and bridges the university and the public sphere. She left academia following the completion of her doctorate, in part because she was tired of working twice as hard to be taken half as seriously by her colleagues.

Japan Vibrations - ele-king

 パリに生まれ東京で育ったDJ、アレックス・フロム・トーキョーがこのたび、日本のエレクトロニック・ダンス・ミュージックに特化したコンピレーション・アルバムをリリースすることを発表した。細野晴臣からはじまり、Silent Poetsや横田進、オキヒデ、Mind DesignやC.T. Scan等々、ジャンルを横断しながら駆け抜ける。(トラックリストをチェックしましょう)この秋の注目の1枚ですね。

 また、このリリースに併せて、11月2日から13日までDJツアーも決定。(11/2 鶴岡 Titty Twister、3日 京都Metro、4日 大阪House Bar Muse、5日は東京で6年振りにGalleryを開催、8日 東京Tree@Aoyama Zero、9日 熊本Mellow Mellow、10日 福岡Sirocco、11日 旭川Bassment。なお、11月1日にはDOMMUNEにて特番も決定しております。

V/A
Alex from Tokyo presents Japan Vibrations Vol.1

world famous
アナログ盤は日本先行で2023年11月01日発売
CDは2023年11月22日発売

トラックリスト:
1. Haruomi Hosono - Ambient Meditation #3
2. Silent Poets - Meaning In The Tone (’95 Space & Oriental)
3. Mind Design - Sun
4. Quadra- Phantom
5. Yasuaki Shimizu - Tamare-Tamare
6. Ryuichi Sakamoto - Tibetan Dance (Version)
7. T.P.O. - Hiroshi's Dub (Tokyo Club Mix)
8. Okihide - Biskatta
9. Mondo Grosso - Vibe PM (Jazzy Mixed Roots) (Remixed by Yoshihiro Okino)
10. Prism - Velvet Nymph
11. C.T. Scan - Cold Sleep (The Door Into Summer)

 Alex From Tokyoが日本で重ねた25年以上の人生における音楽の回想録、第一章!

 『Japan Vibrations Vol.1』で、80年代半ばから90年代半ばまでの日本のエレクトロニック・ダンス・ミュージック・シーンの刺激的な時代に飛び込もう。東京でDJ活動をスタートした音楽の語り部でもあるアレックス・フロム・トーキョーが厳選したコレクションは、シーンを形作った先駆者たちや革新者たちにオマージュを捧げている。
 この秋にリリースされるこのコンピレーションは、日本の現代音楽史における活気に満ちた時期を記録したタイムカプセルとなる。また、その時代を生きた本人からのラヴレターでもある。
 アンビエント、ダウンテンポ、ダブ、ワールド・ビート、ディープ・ハウス、ニュー・ジャズ、テクノにまたがる11曲を新たにリマスター。国際的なサウンドに日本的な要素が融合した、楽園のような時代のクリエイティビティに満ちた創意工夫と、そのエネルギーを共に紹介する。
 シーンのパイオニアである細野晴臣、坂本龍一、清水靖晃、クラブ・カルチャーを形成した藤原ヒロシ、高木完、ススムヨコタ、Silent Poets、Mondo Grosso、Kyoto Jazz Massive、そして新世代アーティストのCMJK(C.T.Scan)、Mind Design、Okihide、Hiroshi Watanabeのヴァイブレーションを体験しょう。このクラブ・シーンの進化をDJセットの進行とともに展開します。

 本作はサウンドエンジニア熊野功氏(PHONON)による高音質なリマスタリングが施され、日高健によるライセンスコーディネート、アルバムアートワークは北原武彦。撮影は藤代冥砂とBeezer、と全員がアレックスと親交の深い友人達が担当。プレスはイタリアのMotherTongue Records。販売流通先はアムステルダムのRush Hour。サポートはCarhartt WIP。
 『Japan Vibrations Vol.1』は、リスナーを日本の伝説的なクラブで繰り広げられるエネルギッシュな夜にタイムスリップさせ、音楽の発見と内省の旅へといざないます。


Alex from Tokyo/アレックス・フロム・トーキョー
(Tokyo Black Star, world famous, Paris)
https://www.soundsfamiliar.it/roster/alex-from-tokyo

 パリ生まれ、東京育ち、現在はパリを拠点とする音楽家、DJ、音楽プロデューサー(Tokyo Black Star)、サウンドデザイナー(omotesound.com)&インタナショナル・コーディネータ。world famousレーベル主宰。
 彼のキャリアは約30年に及び、日本、フランス、ニューヨーク、ベルリンそして現在の拠点であるパリと、世界を股にかけて国際的に活躍中。
 アレックスを、限られた時空や芸術の連続体の中に閉じ込めてしまうのは、とても考えられないことであり、誰がそんなことをするというのだろう。
 4歳の頃から、東京に住んでいたアレックス・プラットは、地球最大の都市の音と光景の中で育つ。1991年9月に生まれ故郷のパリに帰国。当初は大学進学のためだったがパリのアンダーグラウンド・クラブ・シーンに飛び込み、1993年にパリでDj DeepとGregoryとのDJユニット「A Deep Groove」を設立してDJキャリアーをスタート。
 1995年に東京に戻ってきたAlexは、日本を目指した交流あるヨーロッパのレーベル、DJやアーティスト達の橋渡し役として活躍する事となる。Laurent GarnierのレーベルF Communicationsの日本大使になり、ロンドンのレコードショップ/レーベルMr. Bongoの渋谷店及びレーベルDisorientで働き、そしてフランスのYellow ProductionsとBossa Tres Jazz 「When East Meets West」の企画と日本側のコーディネートを行う。同時に東京のレーベルP-Vine, Flavour of Sound、Rush Productions、Flower RecordsやUltra VybeからミックスCDを製作。
 1990年代末にサウンドエンジニアの熊野功とTokyo Black Star名義でオリジナル楽曲やリミックスの制作を開始(2015年に高木健一が正式メンバーとして加入)。ベルリンのトップ・レーベルInnervisionsから2009年にファースト・フル・アルバム「Black Ships」を発表。
 クラブ・シーンを超えて、もうひとつのパッションである音楽デザイナーとしてAlexはインタナショナル・ファッション・ブランド(Y-3, Louis Vuitton, Mini, Li-Ning, wagyumafia)やセレクトされたクライアントのために音楽コンサルティングや制作を提供。2006年9月に日本の河出書房社から出版されたLaurent Garnierの自伝「Electrochoc」の日本語訳を担当。
 DJとしては日本と世界の音を吸収して「ディープ・ハッピー・ファンキー・ポジティブ」なサウンドを共有しています。
 2022年までの2年間ベルギー、ブリュッセルのKioskラジオで隔月に放送されている番組「ta bi bi to」(旅する人達のための音楽)では、世界中のリスナーに多彩な音楽の旅を提供。
 現在では、ベルリンのトップ・ゲイ・パーティCocktail D’Amoreでのレギュラー、そして日本ではDj Nori、Kenji HasegawaとFukubaと共に25年続けているSunday Afternoonパーティ「Gallery」のレジデントを務める。
 2019年にはベルリンからworld famousレーベルを再起動して、2023年の秋には日本のエレクトロニック・ダンスミュージックのコンピレーション企画シリーズ『Japan Vibrations Vol.1』を世界リリース。
 2023年9月1日にリリースされた所属のイタリアのDJエージェンシーSounds Familiar の10周年記念コンピレーション・アルバム『Familiar Sounds Vol.2 』に新曲 "Wa Galaxy "で参加。
 アレックスは、今も絶えることなく、音楽の旅を続けている。

 新作『Again』はワンオートリックス・ポイント・ネヴァーにとって記念すべき10枚目のオリジナル・アルバムにあたる。さらに今年は2010年代を代表する名作『R Plus Seven』からちょうど10年の節目でもある。いい機会だし、ここでダニエル・ロパティンの15年以上におよぶキャリアをおさらいしておきたい。オリジナル・アルバムは当然として、さまざまな相手と積極的に関わっていくところもまた彼の大きな特徴ゆえ、コラボやプロデュース仕事にも光を当てる。

主要作品紹介

 まずはやっぱりダニエル・ロパティン本人がメインとなる作品から聴いていくべきでしょう。というわけでワンオートリックス・ポイント・ネヴァー名義のオリジナル・アルバムを中心に、サウンドトラックや一部のEPもピックアップ。最初期の3枚は入手困難なため、かわりに編集盤を掲載している。

1

Oneohtrix Point Never
Rifts Software (2012)

いまとなっては入手困難な2007年のデビュー・アルバム『Betrayed In The Octagon』、2009年の『Zones Without People』、そしてNYの〈No Fun Productions〉から送り出された『Russian Mind』(同2009年)の初期3枚に、カセットやCD-Rで出ていた音源などを加えたコンピレイション。当初は09年に〈No Fun〉からリリース。3年後、再編集のうえ自身のレーベルから出し直したのがこちら。まだ素朴にシンセと戯れている。ロウファイ文脈を意識させる曲もあり。

2

Oneohtrix Point Never
Returnal Editions Mego (2010)

フェネスやジム・オルークなどのリリースをとおして実験的な電子音楽の第一人者ともいうべきポジションを築いていたウィーンのレーベル、〈Editions Mego〉からリリースされたことが重要で、これを出したがゆえにOPNは注目しないわけにはいかない音楽家の仲間入りを果たした。まずは冒頭のノイズにやられる。以降のドローンやサンプルの美しさといったら。

3

Chuck Person
Chuck Person's Eccojams Vol. 1 The Curatorial Club (2010)

当時は正体が伏せられていたため、ダニエル・ロパティンがヴェイパーウェイヴの先駆者のひとりでもあったことを知る者はリアルタイムではいなかったはずだ。退屈な仕事の合間にポップ・ソングをスクリューさせてつくった楽曲たちの集まり。いくつかはもともとYouTubeで発表されている。某超有名ポップ・スターも異形化されている。

4

Oneohtrix Point Never
Replica Software / Mexican Summer (2012)

人気作にして代表作のひとつ、通算5枚目のアルバム。自身のレーベル〈Software〉がチルウェイヴやローファイ・サウンドの拠点だった〈Mexican Summer〉傘下に設立されたのは見過ごせないポイントで、まさにインターネット時代を表現するかのごとく謎のノイズや音声が縦横無尽にサンプリングされていき、美しいシンセと合体させられていく。ジャンクなものが放つ美。

5

Oneohtrix Point Never
R Plus Seven Warp (2013)

エレクトロニック・ミュージックの名門〈Warp〉への移籍は事件であると同時に、納得感もあった。音響はデジタルなものに変化、種々の声ネタや切り刻み、反復の活用などでかつてない個性を確立した名作で、以降ロパティンが繰り広げることになる数々の冒険の起点になった6枚目のアルバム。今年でちょうど10周年。

6

Oneohtrix Point Never
Garden Of Delete Warp (2015)

メタルにハマっていた少年時代を回顧、過剰な電子音でポップ・ミュージックのグロテスクさを表現した7枚目。音声合成ソフト Chipspeech を用いた奇妙なポップ・ソング “Sticky Drama” は、これまでとは異なるファンを獲得するにいたった。のちに「半自伝的3部作」の第1作として位置づけられることに。

7

Oneohtrix Point Never
Good Time (Original Motion Picture Soundtrack) Warp (2017)

サフディ兄弟監督作の劇伴。これまでもソフィア・コッポラ作品などに作曲で参加していたロパティンの、本格的なサウンドトラック仕事としては2作目にあたる(OPN名義では初)。とにかくダークで緊張感に満ちている。最後はイギー・ポップの歌で〆。カンヌでサウンドトラック賞を授かった。

8

Oneohtrix Point Never
Age Of Warp (2018)

中世の民衆からインスパイアされたコンセプチュアルな8枚目。自身の歌を初披露。チェンバロ、ダクソフォンなど音色もかなり豊かになっている。加速主義で知られる哲学者ニック・ランド(CCRU)から触発された “Black Snow” の詞も注目を集めた。本作直後のライヴ・ツアー「MYRIAD」ではイーライ・ケスラーらとバンドを結成。

9

Oneohtrix Point Never
Love In The Time Of Lexapro Warp (2018)

『Age Of』の続編的な位置づけのEP。最大の注目ポイントは日本の巨匠、前年にOPNがリミックスを手がけていた坂本龍一からの返礼リミックスで、繊細な音響空間を味わうことができる。テーマが抗うつ剤なのはロパティンが時代に敏感な証。

10

Daniel Lopatin
Uncut Gems (Original Motion Picture Soundtrack) Warp (2019)

邦題『アンカット・ダイヤモンド』のサウンドトラック。サフディ兄弟監督とは2度目のタッグだ。名義が本名に戻ったのはただの思いつきだそう。スティーヴ・ライシュ風あり、芸能山城組風あり、アシッドありと、じつに多彩な1枚。声楽やサックス、フルートが新鮮に響く。

11

Oneohtrix Point Never
Magic Oneohtrix Point Never Warp (2020)

ロックダウン中の内省の影響を受け、自身の原点たるラジオ放送(「ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー」はラジオ局「106.7(ワンオーシックス・ポイント・セヴン)」のもじり)をコンセプトにした通算9枚目。初期を思わせるシンセ・サウンドからバンド風、ラップ入りの曲、歌モノまで、まさにラジオを聴いているかのように展開していく。のちに「半自伝的3部作」の第2作として位置づけられることに。

12

Oneohtrix Point Never
Again Warp (2023)

満を持してリリースされた通算10枚目、聴きどころ満載の最新アルバム。意表をつく弦楽合奏(指揮はロンドン・コンテンポラリー・オーケストラ創設者のロバート・エイムズ)にはじまり、OpenAI社の生成AI、存在感を放つリー・ラナルドのギター、さりげなく参加しているジム・オルークなど、注目ポイントが盛りだくさん。「半自伝的3部作」の完結編にあたるそうだ。

コラボレーション&プロデュース作品

 孤高の精神、ただひとり屹立するやり方はOPNの流儀ではない。MVやアートワーク含め、いろんな作家たちと積極的に関わろうと試みるのはダニエル・ロパティンという音楽家が持つ魅力のひとつだ。というわけでここではコラボ作&プロデュース作を見ていくが、あまりに数が多いため厳選している。以下を入口にほかの作品にも注目していただけたら。

13

Borden, Ferraro, Godin, Halo & Lopatin
FRKWYS 7 RVNG Intl. (2010)

ダニエル・ロパティンのみならず、ジェイムズ・フェラーロやローレル・ヘイローなど、当時若手でのちに2010年代のキーパースンとなる面々がミニマル・ミュージックの巨匠デイヴィッド・ボーデンを囲む。いま振り返ると歴史的なコラボレイションだ。サイケ感もある魅惑のアンビエント。

14

Ford & Lopatin
Channel Pressure Software (2011)

ロパティンが同級生のジェイムズ・フォードと組んだシンセ・ポップ・プロジェクト、ゲームズ名義から発展。そのレトロな佇まいは、素材をスクリューさせる『Eccojams』とはまたべつの切り口から80年代を再解釈しているともいえる。歌モノも楽しい。

15

Tim Hecker & Daniel Lopatin
Instrumental Tourist Software (2012)

00年代後半以降におけるアンビエント~ドローンの牽引者ティム・ヘッカーと、『Returnal』や『Replica』で音楽ファンを虜にしていた当時新進気鋭のロパティンとの組み合わせは、時代を象徴するようなコラボだった。どこまでもダークなサウンド。寂寥の極致。

16

Anohni
Hopelessness Secretly Canadian (2016)

ルー・リード作品に参加したことから注目を集め、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズとして大いに賞賛された稀代の歌手による改名後第1作。ロパティンはハドソン・モホークとともにプロデューサーとして貢献しており、OPNらしい音色も確認できる。

17

DJ Earl
Open Your Eyes Teklife (2016)

まさかフットワークにも挑戦していたとは。ダンス・カルチャーとは接点を持たないように見えるOPNとシカゴのシーンにおける最重要クルー〈Teklife〉との合流は、当時もかなり意外性があった。3曲で共作、ミックスも担当している。

18

David Byrne
American Utopia Nonesuch / Todomundo (2018)

巨匠デイヴィッド・バーンとのまさかの出会い。OPNはたまに「現代のイーノ」と形容されることがあるが、まさにそのブライアン・イーノらに交じって作曲と演奏で5曲に参加、4曲目ではそれこそイーノ風のシンセを響かせている。

19

The Weeknd
After Hours XO / Universal Music Group (2020)

本格的にメジャー・シーンに進出することになったターニング・ポイントが本作かもしれない。『Uncut Gems』時に共作したトロント出身のポップ・スター、ウィーケンドの4枚目。このときはまだ関与は3曲のみだが、次作『Dawn FM』ではがっぷり四つに組むことになる。

20

Moses Sumney
GRÆ Jagjaguwar (2020)

インディ・ロック・シーンとも接点を持つガーナ系シンガー・ソングライターのセカンド・アルバムに、ロパティンはシンセ演奏と追加プロデュースで参加。サムニーのソウルフルなアヴァン・ポップ・サウンドをうまく補強している。

21

Charli XCX
CRASH Asylum / Warner Music UK (2022)

関わっているのは1曲のみではあるものの、UKのポップ・スターとも接点を有していたとは驚きだ。ここでは〈PC Music〉のA・G・クックと “Every Rule” を共同プロデュース。しっとりしたシンセ・ポップを楽しもう。

22

Soccer Mommy
Sometimes, Forever Loma Vista (2022)

ナッシュヴィルのシンガー・ソングライターの3枚目を全面プロデュース。ロパティンは基本的には黒子に徹しているものの、スウィートなポップ~シューゲイズ・サウンドの影に、たまにその存在が感じられる。

※当記事は小冊子「ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとエレクトロニック・ミュージックの現在」掲載の文章をもとに、加筆・修正したものです。


interview with Shuta Hasunuma - ele-king

 非常に微細な音にたいして、異様に感度の高いひとがいる。日本でいえば坂本龍一が筆頭だろう。けして強くは自己主張することなく、ただ静かに聴かれることを待つ『async』のさまざまな音の断片たちは、卓出した感受性(と理論)によってこそ鳴らされることのできたある種の奇跡だったのかもしれない。その坂本の〈commmons〉に作品を残す蓮沼執太もまた、そうしたタイプの音楽家だと思う。
 これまで蓮沼執太フィル、タブラ奏者 U-zhaan との度重なるコラボ、歌モノにサウンドトラックに数えきれないほどの個展にインスタレーションにと、2006年のデビュー以来八面六臂の活躍をつづけてきた彼。本日10月6日にリリースされる新作『unpeople』は、15年ぶりのソロ・インスト・アルバムとあいなった。
 エレクトロニカの隆盛が過ぎ去った2006年、まだブレイク前のダーティ・プロジェクターズをリリースしていた米オースティン〈Western Vinyl〉から蓮沼はデビューを飾っている。爾来、飽くことなく生楽器と電子音とフィールド・レコーディングの融和を探求しつづけてきた冒険者。そんな彼がもっとも羽を伸ばして制作に打ち込める形式がソロのインスト・アルバムといえるだろう。

 といっても、新作には多彩なゲストが参加している。ジャズとポスト・ロックを横断するシカゴのギタリスト、ジェフ・パーカー。今年みごとな復帰作を発表したコーネリアス灰野敬二。〈Rvng Intl.〉からも作品を発表するNYの前衛派ドラマー、グレッグ・フォックス。さらにはコムアイから沖縄の伝統音楽をアップデイトする新垣睦美まで、まるで異なる個性の持ち主たちが勢ぞろいしている。
 おもしろいのは、曲単位だと各人の特性が存在感を放っているにもかかわらず、アルバム全体としてはしっかり統一がとれているところだ。具体音から電子音、ギター、ドラムに三線、人声までが並列かつ高レヴェルに組みあわされる新作は、蓮沼の持つ鋭い感受性と長年の経験で培われたにちがいない編集力とがともに大いに発揮された魅力的な1枚に仕上がっている。

 彼はそして、たんに感覚のひとであることに満足しない。読書家でもある蓮沼は、今回のアルバムを「unpeople」と題している。人民(people)ではない(un-)もの。振りかえれば2018年、蓮沼執太フィルのアルバム・タイトルは『アントロポセン』だった。日本語では人新世──ようするに、産業革命以降の人間の活動が大きく地球を変えてしまっているのではないか、そんなふうに人間中心的でいいのか、という問いだ。
 当時は──魚の骨や鳥や虫を歌った cero に代表されるように──人間を中心に置かない発想がポピュラー・ミュージックにも浸透しはじめてきたタイミングだった。蓮沼もまたしっかり時代の気運に反応していたわけだけれど、彼は読書が音楽体験をさらに豊かにしてくれるかもしれないことを教えてくれる稀有な音楽家でもあるのだ。その点も坂本龍一とよく似ている。
 なにより大事なのは、そういった難しいテーマや実験的なサウンドに挑みながらも、彼の音楽がある種の聴き心地のよさ、上品さを具えている点だろう。マスに開かれながら、しかし媚びることなく冒険をつづけること。そんなことを実現できる音楽家は、そうそういない。

録ることよりも聴くことがたいせつだと思っています。録ったものからなにを聴きとるか、なにを発見できるか。フィールド・レコーディングっておなじ音は絶対に録ることができない。そこは魅力だと思います。

ソロのインスト・アルバムとしては15年ぶりということですが、なぜこのタイミングでふたたびソロのインスト・アルバムをつくろうと思ったのですか?

蓮沼:じつはソロのインストのアルバムをつくろうと思って重い腰を上げたわけではないんです。音楽活動自体は休むことなくずっと続けているのですが、展覧会やアート・プロジェクト、サウンドトラックなど、自分ではないだれかのためにつくることが多くて。もちろんそれらも自分のためのものではあるんですけれど、録音された音源としてはそうではないことが多い。そういった、いろんなひとのためのプロジェクトとプロジェクトの合間合間に、少しずつ自分の音をつくっていくことをはじめたのがそもそものきっかけですね。なので「インストのアルバムをつくるぞ!」と意気込んだわけではまったくないんです。徐々に未完成の音源がたくさんできていって、「これをどうにかして世に出したい」という気持ちから動き出したのが今回のプロジェクトです。とはいえやはり、外から見たら15年も空いていることになりますよね。

蓮沼執太フィルもご自身がメインのプロジェクトですよね?

蓮沼:そうですね。ただ、メンバーが決まっていて、楽器の編成も決まっていますから、彼らが演奏するための旋律やフレーズを作曲していくことは、はたして自由といえるのかなと思うこともあって。ぼくがヘッドではあるのですが、活動を長くつづけていくためにみんなで決めて進めることにしているんですよ。喧嘩になることはないんですが、とはいえやはり制限はあります。それを自分の音楽といっていいかは……少なくとも今回の新作とはやはりちがいますね。

インストという点を除けば、ソロの前作にあたるのはヴォーカル入りの『メロディーズ|MELODIES』(2016年)ですよね?

蓮沼:歌っているんですが、もともとは声をつくるところからはじめたコンセプチュアルなアルバムですね。途中から歌モノに舵を切りました。ぼくはフィルでも歌っていますので、歌があることが蓮沼執太のイメージになっている方もいらっしゃるかもしれませんが、基本的につくっているのはインストなんです。

今回、15年ぶりというよりは『メロディーズ』から地続きの感覚でしょうか?

蓮沼:いろんな活動が地続きだと思います。フィルの活動も、それ以外のプロジェクトで音楽をつくる経験も。今回アルバムのかたちに至るまでにいろいろなことがありましたので、それらが大きな川のように流れているイメージです。

今回の取材にあたり00年代の初期のソロ作品も聴いたのですが、グリッチ感が強く、アルヴァ・ノトの影響を感じました。当時のエレクトロニカはきれいな音を目指すものが目立ち、そんななかでパルス音やノイズを入れることは、時代にたいするひとつのアンサーだったのかなと思ったのですが、いかがでしょう。

蓮沼:ぼくはエレクトロニカの時代よりちょっとだけ遅いんですよね。カールステン・ニコライも池田亮司さんも好きなのですが、彼らが活動されはじめたのはぼくが音楽をやりはじめる10年以上前ですので、直接的な影響というわけではないですね。学生時代、プログラミングで音を生成するのが趣味だったんです。MAXやSuperColliderでいっぱいノイズをつくって、ばんばんレコーディングして自分の音色を入れていったり。同時に環境音にも関心がありましたし、そういうものが合わさって「音楽をつくってみよう」となりました。

アカデミックな音楽教育を受けたわけではないんですね。

蓮沼:まったく受けていないですね。ワークショップでプログラミングの講習を受けたりはしましたけれど、完全に趣味でやっていました。最初は、就職したくないと思ってアルバムをつくる方向に行った感じです。電子音も好きでしたけど、サウンド・アートとしてのフィールド・レコーディングも好きで聴いていましたし、そういったものが音楽の世界にあるんだ、と少しずつわかっていった感じです。

理工系だったんでしょうか?

蓮沼:いえ、専攻は経済でしたね。数学が得意だったので経済学を選んだんです。もともとはマルクスから入っていったんですけど、違和感もあって、その後環境経済学というものがあることを知りました。文化人類学やフィールドワーク、エコロジーなどにも関心がありましたので、その勉強をしているときにフィールド・レコーディングもはじめましたね。

フィールド・レコーディングは蓮沼さんの音楽の大きな特徴のひとつです。フィールド・レコーディングのどこに惹きつけられますか?

蓮沼:最近フィールド・レコーディング流行していますよね。ぼくは、録ることよりも聴くことがたいせつだと思っています。録ったものからなにを聴きとるか、なにを発見できるか。フィールド・レコーディングっておなじ音は絶対に録ることができない。そこは魅力だと思います。

たとえば鳥の声のように、ピンポイントで「この音が欲しい」というような場合、ほかの音も入ってきちゃうと思うんですが、そういうときはどうされていますか?

蓮沼:ある特定のものだけを狙うようなことはしないんです。もう少しコンセプチュアルで。たとえば森にも道路にも、ただ生活を送っているだけでは気づかないリズムやハーモニー、周期性があって、記録された音源を聴くとそれに気づけたりするんですよ。そういった大きいリズムや小さいリズムの発見は、既成の音楽からは得られづらい。そういうものをたいせつにしたい思いがぼく自身の根本にあるような気がしていますね。
ただ、たとえば、オリヴィエ・メシアンとかオノ・ヨーコさんみたいに鳥の声を記譜したりして音楽にするアプローチがある一方で、「音符に記譜しなくても、音として録らなくてもいいじゃないか、そのまま聴けばいいじゃないか」という思いもあるんです。マイクで録った音をヘッドフォンを介して聴くことと、じっさいに鳴っている音をそのまま聴くこと、どちらも音楽的に面白いです。

普段から持ち運べる録音機材を携帯していて、あとで聴き返して使いどころを見つけるというようなやり方なのでしょうか?

蓮沼:音楽をつくる素材としてフィールド・レコーディングをするという考え方がありますが、ぼくはそれはいっさいないんです。よく誤解されるんですが。もちろん録った音を使っているんですが、曲のためだけに録っているわけではなくて。観察する行為それ自体が目的だったり……アーカイヴとして録音している場合がほとんどですね。「いい音だったから使う」というようなことはまったくないです。「よし、今日はいい音を録りにいくぞ」ってマイクとレコーダーを持って出かける、ということはしないです。
 それに、「いまの、いい音だったな」と思って録ろうとしても、いい音ってまず録れないんですよ。ぼくたちは音を耳だけで聴いているわけではないんです。いろんなシチュエーションがあって「あ、いい音だ」って思うんですね。いい音だと思って録っても、たいていいい音にならない(笑)。なのでぼくの場合は、あらかじめコンセプトやテーマがあってレコーダーをまわすことが多いですね。

そういった音への関心は、幼いころから?

蓮沼:そうですね。そもそも音が好きなんだと思います。音楽よりも音が好きというタイプなのではないでしょうか。完成されたもの、上手なものもいいですが、未完成だったり、そのまま存在しているだけのような芸術も好きですので。

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ぼくたちは音を耳だけで聴いているわけではないんです。いろんなシチュエーションがあって「あ、いい音だ」って思うんですね。いい音だと思って録っても、たいていいい音にならない(笑)。

蓮沼さんの音楽のもうひとつ大きな特徴として、電子ノイズがありますよね。アンダーグラウンドでは珍しくない試みですが、蓮沼さんはより広い層に、クリーンなものだけではない音の魅力を伝えようとしているように感じました。

蓮沼:どんな音楽にもノイズは存在します。オーケストラにもノイズはありますし、極論をいえば生きているだけで社会にはノイズはある。それが音楽作品にも入ってくるんじゃないかな……。それと、エラーや失敗、ミスは通常ネガティヴなこととしてとらえられますが、ぼくはそういう偶然起きたことを面白く思うタイプなんです。グリッチももともとはエラーからはじまっていますよね。30代に入ってからアナログ・シンセサイザーを使うようになったんですが、サイン波をいじるだけでグリッチが発生するんですよ。それを変調させることでいわゆるシンセの音になっていく。そのアナログのアルゴリズムが身体的にわかってきて、その観点から見てもやはりどんな音にもノイズは含まれている。100%ピュアなものってないのではないかと思いますね。
電子音のいいところは、基本的に出しっぱなしなところです(笑)。音楽の世界でそんなものってほかにないですよね。とくに初期のシンセサイザーは電源につないだら、オシレーターはずっと鳴らしっぱなしで、それをどう制御していくかみたいなところがある。ふつう、音はポンとアタックがあって、徐々に消えていくものですが、電子音はずっとブーンと鳴りつづける。大げさにいえばそこに永遠性があります。そこにも惹かれますね。

蓮沼さんの音楽では、そうした電子音ときれいなピアノの旋律が一緒になっていたりします。それらは蓮沼さんのなかで同列ですか?

蓮沼:空間性のない電子音と空間性を含む生楽器の響きは音として同列ですね。もしかしたらぼくの場合はもう少しサウンド寄りに捉えているかもしれません。

サウンド寄りというのは?

蓮沼:音楽になっていないというか(笑)。いや、音楽として成立してはいるんですけれど、いわば「弱い音楽」で、非音楽的な要素が多い状態がいいな、と。

「弱い音楽」って素敵なことばですね。

蓮沼:最近ほんとうにそう思っていて。音楽が溶けていく状態というか。

どんな音楽にもノイズは存在します。オーケストラにもノイズはありますし、極論をいえば生きているだけで社会にはノイズはある。それが音楽作品にも入ってくるんじゃないかな……。

新作はソロ・アルバムですが、多くのゲストが参加してもいます。各々の個性がけっこう出ているように感じたんですが、それぞれどういう流れでオファーしていくことになったのでしょうか。

蓮沼:今回の曲は2018年ころからつくりはじめているんですが、当時はブルックリンに住んでいました。日本にいたころよりは仕事をおさえていましたので、わりと自分の音楽をつくる時間がとれて、未完のものがたくさん溜まっていったんです。そこで、「この音だったらジェフ・パーカーに弾いてもらったほうがいいかもしれない」のようにアイディアが浮かんで、オファーしていった流れです。

なるほど、では以前セッションした録音が残っていて、それを流用したのではなく、新作のためにオファーしていったのですね。

蓮沼:灰野敬二さんとの曲(“Wirkraum”)はセッションから生まれていて、そういう経緯でした。灰野さんとはコロナ禍に何度か一緒にライヴをしたことがあって、そのときのリハーサルですね。灰野さんは歌うのみでギターは弾かないというルールがあって、このリハをやったときは笛を吹いたりしていらっしゃったんですが、こんな機会はなかなかないですからずっとレコーダーをまわしていました。3時間くらいのセッションでしたが、それをチョップして、さらにぼくが音を重ねて完成させましたね。

それは日本で?

蓮沼:日本ですね。

ジェフ・パーカーとは以前から面識があったんでしょうか? 4曲目でジャズ的なムードが来たなと思ったら彼が参加していたので驚きました。

蓮沼:共通の知人がいました。連絡先を教えてもらって、「聴いてみてほしい」とデモを渡したんです。そうしたら「いいよ」という反応で嬉しかったですね。ジェフ・パーカーの大ファンなんです。

“Selves” では、小山田さんがけっこうロッキンなギタープレイをされていますよね。小山田さんとはどういう経緯で?

蓮沼:小山田さんとは2020年に渋谷で即興演奏をやったことがあって、互いに「いいね」「またやろう」という話になっていたんです。今回の制作中にそのときのレコーディングを聴いて、「この部分いいな」と思うものがあって。それで、「この感じで一緒にできませんか?」とお尋ねしたらOKしてくださったんです。ある程度 “Selves” の骨格をつくって小山田さんにお渡ししたら、ギターを入れて返してくださいました。

それはいつごろですか?

蓮沼:去年の末くらいだったと思います。

そうすると、おそらく新作『夢中夢』をつくっているのと近いタイミングですよね。

蓮沼:そうそう、ちょうど新作をつくっているというお話も聞きました。

“Sando” にはコムアイさんと、雅楽演奏者の音無史哉さんが笙で参加されています。

蓮沼:じつはこの曲はもともと、表参道のクリスマス・イルミネーションのためにつくった曲だったんですよ。完全にコミッションで。コムアイさんにはそのとき声を入れてもらって、異なるアレンジでじっさいに街で流れていたんですよね。コロナ中でしたが。でもそれだけでは終わらせたくないなという思いがあって、しっかりアレンジしなおしました。
音無さんはフィルにも参加してもらっているんですが、このときはまだ加入前ですね。ティム・ヘッカーが雅楽をやったことがありましたよね。そのとき音無さんもレコーディングに参加していたんです。今回の曲と合いそうだと思ってお声がけしました。

音無さんは最後の曲にも参加していますね。この2曲と、新垣睦美さんが三線、三板(さんば)などで参加されたエレクトロニカの “Fairlight Bright”。この3曲がアルバムに独特の質感をもたらしていると思いました。

蓮沼:九州大学の城一裕さんという方がいて。The SINE WAVE ORCHESTRA というプロジェクトなどをやられているんですが、九大のスタジオにフェアライトCMIがあると伺って、かなり触らせてもらいました。その音でつくったのが “Fairlight Bright” です。ただ、そのままだとたんにフェアライトなだけだなと思って、新垣さんに参加していただきました。新垣さんも以前、『メロディーズ』を出したときのツアーの沖縄公演で参加していただいていたんですね。それで相談して快諾いただいて。

“Vanish, Memoria” ではグレッグ・フォックスが、なんともいえないドラムを叩いていますね。彼もおそらくニューヨーク在住ですよね。

蓮沼:ほんとうになんともいえないドラムですよね(笑)。ぼくがブルックリンにいるときに知り合って、友人のひとりです。今回の曲は、もともとは蓮沼執太フィルのために書いてもらった曲なんです。でもタイミングが合わなくてレコーディングができていなかった。お気に入りの曲でしたので、なんとかしたいと思い、ドラムは残しつつ、管楽器や弦楽器のパートをすべてシンセに変換して、石塚周太くんにギターをお願いして、という流れで完成させました。この曲のグレッグと石塚くんにかんしては、最初にひとが決まっているかたちでしたね。

多くの方とコラボされているアルバムですが、いちばん大変だったのはどの曲でしょう?

蓮沼:コラボレーションの曲ではないですが、2曲目の “Emergence” かなあ。ビート主体の曲なんですが、これは苦労しました。通常の曲であれば、ふだんから素材をたくさんつくっていますので、その素材さえよければわりとすぐ完成させられるんですよ。でもこの曲は、なかなか完成に向かわない素材ばかりで。5つのセッション・ファイルを組み替えて無理やり1曲にしたのが “Emergence” なんです。それぞれ完成を夢見ていた5つの素材が一緒になった曲ですね。「emergence」ということばには「創発」という意味があって、異なるものが合わさることでそれぞれちがう要素が独自の働きをするというような考え方があるんです。セッション自体は5つともそれぞれ生きていたんですが、それを一気にまとめたほうがよさが際立つというか、足し合わせることでコントラストや不思議な展開が生まれました。これまで曲づくりでそういうことはあまりしたことがなかったので、大変でしたね。

基本的には音楽は人間ありきですよね。そこで、人間中心的すぎることをいい加減そろそろ見なおしたほうがいいのではないかと考えるようになりました。コロナも大きかったですね。アテンション・エコノミーというか、行きすぎた資本主義はどうにかならないか、みたいなこともコロナ中には考えていました。

アルバム・タイトルについてもお伺いしたいのですが、ひとを意味するピープルに否定の「un-」がついています。直訳すると「非‐人びと」といいますか、これにはどのような意図が?

蓮沼:人間を否定したいわけではないんです。「人間よ、いなくなれ」ということではない。ただ、「人間はいなくなるのか?」というひとつの問いの、トリガーのようなものになればいなと思ってつけました。2018年に出した蓮沼執太フィルのセカンド・アルバムのタイトルが『アントロポセン』だったんですが、それ以前からパウル・クルッツェンが提唱している人新世という言葉含めて、人類の活動が地球に及ぼす影響だったり、エコロジーに関心がありました。同時期に資生堂ギャラリーで「 ~  ing」という個展もやっているんですが、そのときも本格的に「人間とモノ」とか「人間と社会」の関係性を見直さなければいけない時期に来ているんじゃないか、という思いがありました。当時、それこそ学生のころに読んでいたエコロジーの思想だったり、現代的な資本主義にかんする本をたくさん読み直しました。その後、コロナ禍になってしまいましたけれど、それらの影響がかなり色濃く出たタイトルになっているんじゃないかなと思います。

読み直していたのは、どういう本でしたか?

蓮沼:12曲目の “Wirkraum”。タイトルは、ユクスキュル&クリサートの『生物から見た社会』(岩波文庫)という本からとりました。「Wirkraum」は、環世界の諸空間のひとつで、作用空間と呼ばれています。目を閉じて手足を自由に動かすとき、われわれは方向と広がりを認識できます。この空間のことを指します。前述のセッションのときに、灰野さんが目を閉じて、両手を回したんです。このとき、ぼくのなかで空間の認識を考える瞬間があって、最終的にこのタイトルになりました。古い本ですので鵜呑みにしているわけではないんですが、ものごとを考えるうえで現代でもヒントになると思います。ほかには、エマヌエーレ・コッチャというひとの『植物の生の哲学』という本だったり。ジル・クレマン、ティム・インゴルド、ティモシー・モートン、竹村真一さんなど。コッチャもそのあたりの思想家たちと同様に語られるような方で、「植物には哲学や思想がある」というようなことをいっています。逆に、フロランス・ビュルガ『そもそも植物とは何か』という著書は、植物には感覚も知性もない、といい切った、鋭い角度の論考でとても興味深い本です。社会学分野だと、京都賞を受賞したブルーノ・ラトゥール『地球に降り立つ』という本もよく読みました。

とても興味深いです。そういった背景を踏まえてアルバムを聴くと、またちがった音の世界が広がるように思います。

蓮沼:そうした背景はデザイナーの田中せりさんにもお伝えしていて、アートワークにもあらわれていると思います。まずはひとが映らない窓を撮影して。窓って人間がつくったものですよね。その窓からのぞく環境が、時間とともに変化していくものはどうでしょうとご提案いただいて、配信のシングルはそういうふうにしています。
音楽って結局は、人間の可聴範囲で聴ける音でつくられるものですよね。どう考えても人間以外のものに音楽は無理だと思うんです。もちろん植物とか、あるいは酵母に音を聴かせるみたいな実験もあるんですけど、基本的には音楽は人間ありきですよね。そこで、人間中心的すぎることをいい加減そろそろ見なおしたほうがいいのではないかと考えるようになりました。コロナも大きかったですね。アテンション・エコノミーというか、行きすぎた資本主義はどうにかならないか、みたいなこともコロナ中には考えていました。

そこまでいろいろと深く考えて音楽をつくっている方って、日本ではなかなかいないと思うんですよ。それこそ坂本さん亡きあと、蓮沼さんがそれを担っていくことになるのではないかと、期待をこめて思っています。

蓮沼:いやいや。みんなでやっていきましょう、という感じです(笑)。

坂本さんの思い出や印象深かった出来事があれば教えてください。

蓮沼:ぼくは坂本さんの息子・娘の世代にあたりますので、坂本さんもおそらくそういう年代の子、という感じで接してくれていたのではないかなと思います。ぼくがニューヨークに引っ越したときもたくさんお世話になりました。ぼくも映画や文学やアートが好きですが、坂本さんにはいつも「どうして、そこまで知っているんですか!?」と驚かされました。そうやってさまざまな分野のお話ができる音楽家はほかにいないですね。たとえば映画監督と映画の話をして共感したりすることはありますが、音楽家と「夏目漱石の……」と明治文学の話にはなかなかならない。

坂本作品でいちばんお好きなのは?

蓮沼:デイヴィッド・トゥープと即興演奏されたレコーディング作『Garden of Shadows & Light』。かっこいいですよね。

おお、そこでトゥープとの作品があがるのはなかなかないですね。

蓮沼:すごくいい即興だなと思います。ああいうふうにご自身がやってきた音楽を解体できること、解体して即興でみせることはふつうのひとには絶対にできない。技術をこえたところで、ものすごいことをされています。坂本さんの音楽の展覧会のようなことを考える思考や方向性って、ぼくがサウンド・インスタレーションでやろうとしていること、いわゆる音楽とは異なる美術の手法を導入してどう時空間をつくりあげるかということと、近しいと思うんですね。空間の話もよくしてくださいました。そんな話ができるミュージシャンはほんとうに少ないです。

蓮沼さんはソロからインスタレーション、フィルまで非常に多くのプロジェクトを抱えておられますが、ご自身の音楽活動の核になるもの、ホームはどこにあると思いますか?

蓮沼:うーん、難しいですね……悩みます。もちろん中心には核がありますが、それらがすごく大きな円を描いて、その円周がホームになっている感じですかね。中心ではなく。つねに自分が動きまわっていて、いつの間にかこことあそこがつながっているというようなことが多くて。移動するホームですよね。

遊牧民のような。

蓮沼:それも、地図を見て「次は右に行くぞ!」というように動いているのではないというか。問題意識をもってつくることもあれば、たまたま行きつく場合もある。かならずしもレコーディング作品をつくることがホームでもないですし。もちろんレコードをつくることも自分にとってすごくたいせつなことなんですが、ホームではないですね。いろんなところを移動していくホームですね。

今後のご予定をお聞かせください。

蓮沼:新作が出るころには終わっていますが、恵比寿のPOSTというギャラリーでリリース記念の展示をやります。写真がメインの展覧会で、その写真が撮影された場所でフィールド・レコーディングした音と、『unpeople』の各曲で使ったトラックからひとつの音を選んだものと、片方ずつ鳴っている展示です。そのあとは、『unpeople』のパフォーマンス&インスタレーションをやる予定で、準備をしているところです。

『unpeople』特設サイト
https://un-people.com/

蓮沼執太
1983年東京都生まれ。蓮沼執太フィルを組織して、国内外での音楽公演をはじめ、映画、演劇、ダンスなど、多数の音楽制作を行う。最新のリリースに蓮沼執太&U-zhaan『Good News』(日本 / 2021)。また「作曲」という手法を応用し物質的な表現を用いて、彫刻、映像、インスタレーション、パフォーマンス、ワークショップ、プロジェクトなどを制作する。2013年にアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のグランティ、2017年に文化庁・東アジア文化交流史に任命されるなど、国外での活動も多い。主な個展に「compositions : rhythm」(Spiral、東京 / 2016) 、「作曲的|compositions」(Beijing Culture and Art Center、北京 / 2017)、「Compositions」(Pioneer Works 、ニューヨーク/ 2018)、「 〜 ing」(資生堂ギャラリー、東京 / 2018) 「OTHER “Someone’s public and private / Something’s public and private」(void+、東京 / 2020) などがある。また、近年のパブリック・プロジェクトやグループ展に「Someone’s public and private / Something’s public and private」(Tompkins Square Park 、ニューヨーク/ 2019)、「太田の美術vol.3「2020年のさざえ堂—現代の螺旋と100枚の絵」(太田市美術館、群馬 / 2020)など。
第69回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。
www.shutahasunuma.com

WAAJEED JAPAN TOUR 2023 - ele-king

 昨年、“ Motor City Madness”が話題になって、〈トレゾア〉からアルバム『Memoirs of Hi-Tech Jazz』をリリースしたデトロイトのワジードが来日する。

 日程は以下の通り。

 10.21 (SAT) CIRCUS TOKYO
 Info: CIRCUS TOKYO https://circus-tokyo.jp/event/waajeed/
 10.22 (SUN) ASAGIRI JAM ’23
 Info: ASAGIRI JAM https://asagirijam.jp

 ワジード(Waajeed)ことRobert O’Bryantは、ミシガン州デトロイト出身のDJ/プロデューサー、アーティスト。10代のとき、デトロイト・ヒップホップを代表するグループ、Slum VillageのT3、 Baatin、J Dillaと出会い、DJやビートメイカーとしてSlum Villageに参加。奨学金を得て大学でイラストレーションを学ぶ時期もあったが、Slum Villageのヨーロッパ・ツアーに同行しに、音楽を生業とすることを決めた。
 2000年にはSaadiq (Darnell Bolden)とPlatinum Pied Pipersを結成し、ネオソウルやR&B色強いサウンドを打ち出した。Platinum Pied Pipersとして、Ubiquityよりアルバム『Triple P』、『Abundance』がある。2002年からレーベル〈Bling 47〉を主宰し、自身やPlatinum Pied Pipers名義の作品のほか、 J Dillaのインスト・アルバム『Jay Dee Vol. 1: Unreleased』や 『Vol. 2: Vintage』をリリースしている。
 2012年、レーベル〈DIRT TECH RECK〉を立ち上げ、より斬新なダンス・ミュージック・サウンドを追求している。Mad Mike Banks、Theo Parrish、Amp Fiddlerとのコラボレーションを経て、2018年、ワジードとしてのソロ・アルバム『FROM THE DIRT LP』を完成させた。2022年、最新アルバム『Memoirs of Hi-Tech Jazz』をドイツのテクノ名門、〈Tresor〉から発表。

https://linktr.ee/waajeed
https://www.instagram.com/waajeed/
https://twitter.com/waajeed_

Waajeed - Motor City Madness (Official Video) (2022)

Dames Brown feat. Waajeed - Glory (Official Video) (2023)

Church Boy Lou - Push Em' In the Face (Official Music Video) (2023)

Odalie - ele-king

 マーラーのような後期ロマン主義はしばしばナショナリズムの文脈で否定されることが多い。80年代初頭のニュー・ロマンティックも英表記では後期ロマン主義=Neo-romanticをNew Romanticとパロディにしたもので、ヴィクトリア回帰を謳い、英国病に沈むイギリスにかつての栄光を思い出させようとしたところはやはりナショナリズムに近い感覚があった。同時期のポスト・パンクが現実を直視するもので、これと相容れなかったのは、だから当たり前で、不協和音を好んだのはそれこそ後期ロマン主義に続いて現れた印象主義の実験的な性格と同じ感覚に由来するのだろう。しかし、最も忘れ難いのは、ニュー・ロマンティックとポスト・パンクの両方を自由に行き来していたソフト・セルである。身もふたもない歌詞を未来的なサウンドにのせて歌う。ニューロマンティクスにとっても、あるいは、ポスト・パンクにとっても敵視したくなるような存在。矛盾していることにリアリティがあり、複雑であることをそのまま表現できたことが彼らの勝因だった。自分たちのことでもあり、イギリスのことにも思える『崩れ落ち方(The Art of Falling Apart)』と訳したくなるセカンド・アルバム(実際の邦題は『滅びの美学』)で彼らはニューロマンティックスとポスト・パンクを不可分に結びつけ、歌詞でははるかに及ばないものの、方向性としてはルー・リード『Berlin』(祝50年!)のエレクトロニック・ヴァージョンをつくり上げたとさえ僕は思っている(ほとんどの人は思ってないと思う)。

 マックス・クーパーのレーベルからデビュー・アルバムをリリースしたオダリーことソフィー・グリフォンも現代の矛盾を音楽で表現しようとする1人。後期ロマン主義とエレクトロニカを融合させ、ポップかと思えばインダストリアルだったり、瞑想とノイズが折り重なった『パワフルな脆弱性』はしっとりとしてメランコリックな表情の裏に(彼女がいう)悪意を貼り付け、確かに複雑な印象を抱かせる曲が多くを占めている。矛盾そのものといえるタイトルは彼女の自然観に由来し、社会というものは1人1人が弱い方が全体としては強いシステムになるという意味で、「個人主義は自然の産物だという人と、その逆だという人がいる」ことはわかった上で「自然界では競争よりも協力しあっていることに価値があると考える人もいる」ことを彼女は強調する。「自分たちの弱さを見せ合う方が私たちは先に進める」のだと。これは、しかし、普通に考えれば民主主義の原則にほかならない。1人に権力を集中させないことが民主主義の目的であり、同じことを逆からいえば「全員が弱い方がいい」ということだから。たとえば「女性を活用する」などと上から目線で言わないで「女性に助けてほしい。一緒にやりましょう」といえばいいのに、という感じだろうか。グリフォンは続ける。「自分自身が不完全で壊れやすいものであることを示す勇気を集団で見つける必要がある」と。

 オープニングはストリングスの組み合わせで、全体にリヴァーブをかけ、どことなく混沌とした〝Orages intérieurs(嵐のインテリア)〟。家具がぐちゃぐちゃと倒れ、室内が荒らされているということなのだろうか。ちょっとした不穏な始まりである。ハープシコードのような繊細なメロディで始まる〝Attendre l'éclaircie(晴れ間を待つ)〟は粛々とした雰囲気から雄大な調子へと切り替わり、何かの決心を促すような曲調。劇的なムードは続く〝We are Nature〟で最初のピークを迎え、確信的な響きのなか、ヴォーカルのブラック・リリーズは「雲のなかへ」とリフレイン繰り返す。ジャック・クーパーによるモダーン・ネイチャーが3作目となる『No Fixed Point In Space(宇宙に定点はない)』でインプロヴィゼーションを大幅に取り入れ、さも自然と同化しているかのような表現に切り替えたことと気持ちは重なる感じ。異常気象なのか気候変動なのかという議論はさておき、自然が以前よりも脅威であり、遠くに感じられることから、ある種のノスタルジーとして自然を身近なものとして描写する傾向が増えているような気がしてくる。〝Vents contraires(抜け穴の反対側)〟にはインダストリアル・パーカッションが足され、ここまでの流れを一度、ぶった切る。このあたりはいかにも後期ロマン主義。一転してアンビエントの〝Wounded〟がとてもよく、シンセサイザーとストリングスによる優雅なレイヤーに後半から入るチェロが控えめなメランコリーをにじませる。柔軟でしっかりとした美意識が堪能できる瞬間である。

 後半は先行シングルになっていた〝Battements(動悸)〟から。重めのストリングスにUKガラージを模倣したようなパーカッションが入り、確かにドキドキさせられる。ダンス・ミュージックでもないし、ましてやモダン・クラシックでもなく、どこにも着地点がないユニークさは面白い。続く〝Caresse(愛撫)〟はヨーロッパ的な官能性を打ち出し、細野晴臣を思わせるというか、スペンサー・ドーランの『環境音楽 = Kankyō Ongaku』に入っていても誰も文句を言わなそうな〝Danse des astres(星のダンス)〟へ。〝Wounded〟も含めて様々なアンビエントを試し、どれも成功しているということは「脆弱性の集合体」というコンセプトは達成されていると考えていいのだろう。最後はクレア・デイズをフォーチャーした〝Clear the air(誤解を解く)〟。これも尾島由郎と柴野さつきのコラボレーションを思わせ、全体に透明度が高く、スキャットとストリングスが一体化してしまった瞬間はとても美しい。エンディングに向かって少しずつ抽象化していく流れもなかなかに惹き込まれる。ソフト・セルに比べると様々なジャンルが混ざり合うことは当たり前の時代になっているので、グリフォンが標榜するほど「矛盾」したサウンドとは感じなかったけれど、モダン・クラシカルを基調とすればかなり踏み出した試みであることは確か。どこに向けているのかよくわからないジャケット・デザインにもそれはよく表れている。

talking about Brian Eno’s new soundtrack - ele-king

 イーノの新作は、UKで大ヒットした連続ドラマ、『トップボーイ』のサウンドトラック・アルバムである。イーノ流のミニマル・ミュージック“Top Boy Theme”からはじまるこの作品は、アートワークからもうかがえるように、華やかに見せかけている都市の片隅の、ダークサイドで起きていることのスナップショット集で、UKグライムやダブステップともリンクする、街のにおいを有したインストゥルメンタル音楽集だ。かいつまんで言えば、これまでのイーノ作品とはまるっきり無縁だったストリートを生きる不良たちの世界であって、当然その音楽にはこれまでのイーノ作品にはなかった面白さがある。誤解を恐れずに言えば『ミュージック・フォー・エアポーツ』よりはベリアルに近いかもしれないし、そう、これはいろんな意味で面白い。

 このアルバム『トップボーイ』について、ロンドン在住で何度もイーノ取材の通訳を担当し、またイーノ音楽の熱心なファンである(それは以下の対談を読めばわかります)坂本麻里子氏と対談した。話の途中、このドラマ自体もひじょうに興味深い作品であるため、その内容や背景にも触れてはいる。が、イーノの『トップボーイ』は1枚の音楽作品として充分に楽しめるものですよ、ということを最初に断っておきたい。(野田)

■イーノと映画音楽

野田:『トップボーイ』の話の前に、イーノって、そのざっくりした印象や長いキャリアに反して、サウンドトラックをやってはいるけど、たくさんやっている人ではないんですよね。

坂本:既発曲が映画やドラマに挿入歌として使われることはあっても、劇伴音楽はじつは少ない、と。

野田:70年代のデレク・ジャーマンの映画で曲を提供しているし、1984年のデヴィッド・リンチ監督の『デューン/砂の惑星』のなかの “予言のテーマ” もやってるし、ダニー・ボイル監督の『トレインスポッティング』にも曲があったし、数年前にはこれまで手がけてきた映画音楽をまとめたコンピレーション・アルバム『フィルム・ミュージック 1976-2020』も出したりしているじゃないかとか、いや、もっと前には『ミュージック・フォー・フィルムス』だってあるぞと思ったりするんですが、あれは当初はむしろイーノのほうから映画の配給会社にくばったという(その一部は、それこそジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』のリメイク版やジョン・ウー監督の『男たちの挽歌』に使われたり)、イーノ流のライブラリー・ミュージック集でありムード音楽集みたいなもので、『ミュージック・フォー・フィルムスVol.2』にいたっては『アポロ』からの収録だったり、早い話、その長いキャリアとインストゥルメンタル音楽をたくさん作っているわりには、決して多くはやっていないと言えるんじゃないでしょうか。

坂本:『ミュージック・フォー・フィルムス』は、いわゆる「実在しない映画のための想像上のサントラ」の先駆けみたいなものだったわけですね。

野田:先日、坂本龍一の追悼号を編集しているときに、彼が手がけたサウンドトラックの数の多さに驚嘆したんですが、それに比べるとイーノは少ない。全編手がけたのって「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズで有名なピーター・ジャクソン監督の『ラブリーボーン』くらいですよね。これってどういうことでしょうか?

坂本:ご指摘の通り「印象に反して」、映画やテレビ向けのオリジナル作品は意外に少ない。イーノの映画への音楽提供は、たぶんマルコム・ル・グリースの実験映画が最初で、背景には当時のロンドンの実験音楽/映画サークルの密な連携があった。デレク・ジャーマンとのコラボもアート/前衛/実験映画の流れでしょうし、基本的に「商業映画」からはあまり引きがない、ということなんじゃないでしょうか?

野田:引きがないのか、やりたくないのか。

坂本:スノッブな人ではないので、受注があり、スケジュールさえ合えば柔軟に応じてくれそうな印象があります。紙版『エレキング』19号の取材で三田さんもびっくりしていたように、イーノは『ぼくとアールと彼女のさよなら』みたいなYA映画にも参加したくらいですし。ただ、商業映画界には映画スコアの職人がたくさんいますから、イーノはその意味で部外者なのかもしれません。そもそも、本業--と言っても、イーノはポリマスなので何を「本業」とするかの特定は楽じゃありませんが――ここでは話をわかりやすくするためにそれを「アーティスト」だとして、となると、映画監督やプロデューサーは逆に仕事がしにくいのではないか、と?
 これは、イーノが仕事しにくい気難しい人物だ、と言う意味ではありません。ただ、たとえばハリウッドでは、それなりに「映画スコアの常道」があると思います。多くの場合は、ラフ・カットを観ながら監督と作曲家が「この場面には音楽が必要だ、これこれの長さの、こういう感じの音楽を」と打ち合わせ、それを基にスコアができていく。ある意味「職人やデザイナーに細かく注文して、部屋にぴったりのインテリアを仕上げる」のに似たプロセスかと思いますし、ゆえにスピルバーグとジョン・ウィリアムス、クリストファー・ノーランとハンス・ジマー、古くはレオーネとモリコーネ等、「意思の疎通がしやすい」名タッグが生まれるのではないかと。
 ところがイーノの場合、音楽の依頼を受けたら監督から映画の概要やテーマをざっくり教えてもらい、その段階でスタジオに入って音楽を作り始めることが多いそうで。後で脚本を送ってもらい、もう少し膨らませたりもするそうですが、「映像を観ながら」作るケースは少ないと思います。いったん音源を監督に送った上で、シーンの尺に合わせてトラックの長短を調整することはあるものの、基本的に「大体の内容をつかみ、イーノなりにイメージや想像を働かせ、作った音源を製作者側にゆだねる。出来上がった音楽の使い方はどうぞご自由に」という姿勢らしいので、それはたぶんプロセスとしては実験的/型破りでしょうし、いま挙げたインテリアの例で言えば、出来上がった部屋に入ったら、壁紙の選択や窓の位置や空間配置が予想していたのとは違った、みたいなことになりかねない。一般商業映画には少々リスキーでしょうし、脚本家・監督側に「イーノの音楽と彼のアプローチに対する思い入れ」がない限り、わざわざスコアを依頼する人は少ないのではないかと。

野田:ふむふむ。

坂本:『ラブリーボーン』の場合、イーノの既発曲も複数使われていたので、その流れでいっそサントラも、ということだったのかも? ダニー・ボイルは音楽好きな監督だし、イギリス人だから、イーノへの敬意は強いでしょうね。マジもののハリウッド映画と言えば、マイケル・マンの『ヒート』にオリジナル曲を提供していますが、マンは初期作品でタンジェリン・ドリームを起用したり、じつは変わった監督です。なんでまあ、「なぜイーノの映画スコアは少ないのか」は、ぶっちゃけ、欧州・英国圏に較べ、アメリカ人映画業界者はイーノをよく知らない、というのもあるかもしれません(笑)。別に「ヒット曲」がある人でもないし、「映画音楽家」でもないし、活動も多彩でアモルファスなので、よっぽど音楽好きな監督じゃないと「サントラを依頼しよう」という発想すら湧かないのでは?
 ジョニー・グリーンウッド(ポール・トーマス・アンダーソン)、トレント・レズナー&アッティカス・ロス(デヴィッド・フィンチャー)、ヨハン・ヨハンソン(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)、OPN(サフディー兄弟)といった、すでにミュージシャン/コンポーザーとして名の通ったアーティストと先鋭的な映画作家が組むケースは、比較的最近の潮流と言えます。その意味では、イーノは「大家過ぎて手が出ない」という印象もあるかもしれないし、それになんだかんだ言って、メジャー映画はやはりオーケストラ音楽の使用が多いし、もしかしたらハリウッド映画界は労組の絡みもあるのか……?っっc  いずれにせよ、「ムードを劇的に盛り上げる」とか「喜怒哀楽を増幅させる」といった、「物語を心理的に補足する」伝統的で従来の役割を音楽に期待する監督は多いでしょうし、たぶん、イーノは映画と音楽のそういう具体的な関係には興味がないと思います。残念ながら未見ですが、『Rams』はイーノが音楽を担当したんですよね? あれもドキュメンタリーで「一般商業映画」とは言えないですし、監督のゲイリー・ハスウィットはイーノのバイオ映画を撮っているので、やはり監督がイーノのファンでアプローチした、というケースではないでしょうか。

■イーノが『トップボーイ』の音楽をやるということ

野田:なんにしても、今回の『トップボーイ』のサウンドトラック・アルバムというのは、彼のおよそ50年のキャリアのなかでも意外や意外、レアな作品と言えそうですね。連続テレビ・ドラマ・シリーズの音楽をイーノが手がけているのも初めてだし。

坂本:イーノとテレビと言えば、BBCの秀逸なドキュメンタリー・シリーズ『Arena』のテーマ曲として、1975年以来“Another Green World”が使われているのが有名ですが、『トップボーイ』はばりばりに一般的なドラマですからね。ただ、イーノはテレビを持っていないので、彼自身は——これはあくまで私個人の推測ですけれども——『トップボーイ』の全シリーズをちゃんと観たことはないんじゃないか? と。『トップボーイ』は少し変わった成り立ちのドラマで、元々は2011年にイギリスの地上波テレビ局のチャンネル4が制作し、好評につき続編が2013年に制作されたものの打ち切りになった。しかしカルト人気は存続し、ドラマのファンであるドレイクの応援&口利きでネットフリックスで2019年に復活、最新のシーズン5が完結篇になります。

野田:ドレイク、よくやった。彼自身が出演するわけじゃないし。

坂本:ドラマのネットフリックス「移籍」後も、イーノが追加でインシデンタル・ミュージックを制作していったのか……は、作品クレジットが手元にないのでわかりません。ですが時間軸から考えれば、『スモール・クラフト・オン・ア・ミルク・シー』――このコラボは、イーノが「音の映画」集と形容した作品ですね――や『ドラムス・ビトウィーン・ザ・ベルズ』あたりに取り組んでいた頃=いまから10年以上前に、本アンソロジーに選りすぐられた主なピースの音楽的なテーマ群が形成されたと言えそうです。
 ある意味もうひとつレアなのは、『トップボーイ』音源集の多彩さではないでしょうか。イーノ本人のリーダー作品だと、やはりコンセプトやテーマがある程度定まっていて、「彼自身の文脈の中で」まとまっている感があるじゃないですか。『ザ・シップ』然り、『フォーエヴァーアンドエヴァーノーモア』然り。けれども『トップボーイ』は、やはり「他者の作品のための音楽」なので、そのぶんアクセス点が多いというか、ダークなアンビエントが主体とはいえ鍵盤のリリカルなパッセージが登場したり、普段のイーノが、自作でなら(たぶん)やらないようなことをやっていて、そこがリスナーとしては楽しいな、と。

野田:イーノは自分の楽曲のアーカイヴから番組の雰囲気に合うものを選んだという話ですが、結果として、いままでにはない作風になっている。だいたいアルバムのアートワークからして普段のイーノっぽくはない(笑)。

坂本:いきなり、タワーブロック(高層公団)の窓ですし。

野田:犯罪ドラマ・シリーズのサウンドドラックという点でも意外性があって、というか、グライムやドリルのようなUKラップで描かれているようなストリート・ライフ、あるいは90年代のウータン・クランの歌詞で描かれていたような冷酷で暴力的な物語の音楽をイーノがやるというのは考えられなかったんですが、だからこそ作風としても興味深いものになったと思います。
 2年前に出た、『フィルム・ミュージック 1976-2020』、1曲目がまさに『トップボーイ』のテーマ曲でしたね。ちなみにあのコンピレーションにはアンビエントでもない、ポップ曲でもない、インストゥルメンタル主体ですが歌モノもあって、いろんな曲が入っている、しかしすべてがイーノの曲としての共通する感覚があって、すべての曲に面白い工夫と良いメロディがあるんです。言うなれば、アンビエントとポップスのあいだのグラデーションにあるような感じ。
 そこへいくと『トップボーイ』はこれまでイーノが手がけてきたどの映画音楽とも違っています。本人も本作向けのPR文で言っているように、「多くの音楽は意図的に素朴で、ある意味単純なものになっている。メロディはシンプルで、洗練されていないし、大人っぽくもない」と。たしかに、『フィルム・ミュージック』に収録されている滑らかな曲たちとくらべると荒っぽさがあって、イーノ・リスナーとしてはそこが新鮮ですよね。ドラマの主な舞台は東ロンドンのハックニーの巨大な公団で、イーノの曲のダビーで荒削りなテクスチャーが、すごくハマっている。大げさにいえば、21 世紀のロンドンという街の影の部分、そのダークサイド(という場)に向けてのアンビエント、というか。

坂本:テクスチャーは本当に多彩です。ミニマリスト的な反復からビルドアップしていくものもあれば、コズミックに漂っていくシンセものもあり、後半ではビートの効いた、それこそ「踊れそう」なトラックもある。野田さんの感じた「ダークサイドに向けてのアンビエント」というのは、“Afraid of Things”とか“Waiting in Darkness”、“Dangerous Landscape”といったムードのある曲名ともリンクするし、イーノも「ロンドンのドラッグディーラーと、彼らの縄張りであるカウンシル・エステート(公団)のコミュニティ」という『トップボーイ』の世界観を、彼なりにサウンドで追求したんじゃないかと思います。たぶん本作のアートワークからの連想もあるでしょうが、これらの音源を聴いているうちに、ザ・ストリーツの『オリジナル・パイレート・マテリアル』の不思議に美しい公団のジャケットと、ベリアルのファーストのロンドンの夜景写真ジャケットも頭に浮かんできます。
 もちろんイーノの側には、イギリスのストリート発ビート・ミュージックを「模倣」しようとする意識は皆無だったでしょうし、『トップボーイ』は主役級の2名が共にMCだったり、劇中音楽にグライムやUKヒップホップも使われているので、そうした「ナウなアーバン性」は現場の若者たちに任せればいい。でも、21世紀のロンドンの街中にいくらでも転がる疎外感や闇に潜む怖さ、そして、それでもそのなかに見つかる宝石のような瞬間やメランコリーのあわいを、イーノは感覚的につかんでいる気がします。

■ここで若干、『トップボーイ』の説明を

野田:『トップボーイ』の全話(つまり5シーズン分)を観たんですが、面白いんですよ! イーノの幽玄な音響がこのストリートなドラマに奇妙な効果を与えているんです。まあ、ドラマ自体がじつによくできていて、UKで人気なのも、そして批評家筋からも評価が高いのも十分うなずけました。先ほども言いましたがハックニーの貧困層が暮らす公団を舞台にしたシリアスな犯罪ドラマ、というか社会・人間ドラマで、日本ではちょうど先日最終シーズンがはじまりました。この傑作にふさわしい衝撃的なエンディングでしたけど。

坂本:羨ましいなぁ。私はテレビ無し&ネットフリックスと契約していないので、ドラマそのものは観たことがないんです。物語のあらましや各種紹介クリップ、ファンのアップロードした人気場面の映像等々は、ネットでチェックしましたけども。

野田:元ソー・ソリッド・クルーのMC、アシュリー・ウォルターズとグライムMC のケイノ、リトル・シムズ、素晴らしいです。

坂本:シムズのファンなので、それだけでも観たい……。デイヴもシーズン3に出演したんですよね? 

野田:デイヴはぶっちゃけ、かなりヤバい役でした(笑)。

坂本:アシュリーは『Bullet Boy』という、これまた英ギャング/フッドものの映画で評価され、以来映像界でキャリアを積んでいますが、ケイノは演技は初めてのはず。

野田:初演技でこれはすごい。ケイノはドラマのなかではサリーっていう役なんですが、自分のなかではもう、(ケイノではなく)サリーです。

坂本:アシュリーもケイノも男前ですしね(笑)。でも、MCを役者に起用するのってある意味納得というか。みんな言葉と語り、そしてカリスマで勝負するストーリーテラーなので、映画やテレビにナチュラル・フィット。アメリカのラッパーも、映画やテレビに進出していますし。

野田:で、シーズン2(ネットフリックスでは最初の2シーズンは「サマーハウス」編として配信)までは、各エピソードの冒頭に、物語の舞台となっているサマーハウス公営団地がだーっと並んでいる映像が出てくるんです。カメラはどんどん引いていって、手前にサマーハウス、遠方に再開発の象徴である高層ビルが見える東ロンドン全体の風景になっていく。そこでイーノの音楽がかかるんですが、音と映像がみごとに共鳴しています。もちろん、グライムやトラップ、レゲエやダンスホール、レゲトンなんかも挿入されますが、イーノの音楽はそれらストリートな音楽と良い感じのコントラストをなしている。なので、ドラマを観るとますます今回のサウンドトラックを好きになるんですよ。
 簡単に内容を説明すると、主要な登場人物のほとんどがブラック・ブリティッシュ(ないしは中国人、アルバニア人、アラブ人ないしはアイルランド人)で、フード(ドラッグ)と貧困のコミュニティをめぐっての、ハードな話の連続なんです。暴力、裏切り、排外主義の高まりも見せているし、都市の再開発、暴動、ひと昔前のUKでは考えられなかった銃問題もあって、主役のふたりもだいたい暗い顔をしている。重たい話で、悲劇が繰り返されるんですけど、人びとの助け合い(とくに女性たちの活躍)も描かれているし、感動的なドラマでもあるんです。ちなみに、企画者であり脚本を手がけたローナン・ベネットが元アナキストで、ジェレミー・コービン前労働党党首のアシスタントをしていたような筋金入りの左派の方。これ、脚本がもほんとうに素晴らしいんです。

坂本:ベネットは北アイルランド出身の作家/脚本家で、若い頃に南北アイルランド抗争にも関わっていたとか。アイルランド問題も、長引いた結果コミュニティが引き裂かれ、ある意味「目には目を」的なギャング抗争に陥ってしまった側面がある。当時暮らしていたハックニーで、少年や青年がドラッグ売買の道具/兵隊に使われているのを知ってベネットは『トップボーイ』を着想したそうですが、時代や場所は違っても、覇権やマネーをめぐって起きる悲劇の本質は変わらない、と感じたのかもしれません。しかも『トップボーイ』のシーズン1は、偶然とはいえ、2011年ロンドン暴動の3ヶ月後くらいに放映されたので、貧しい若者が置かれた境遇に対するアウェアネスを高めるという意味でタイムリーだったでしょうね。
 ちなみにミュージシャンにはコービン支持者が多く、左派志向の若者とシンクロしていました。2019年総選挙では、イーノもアシュリー・ウォルターズもケイノも、コービン支持を表明しました。もちろん、野田さんも私も大好きなスリーフォード・モッズも!

野田:知ってます(笑)。ところで、シリーズ最初の監督は、この手のギャングスタ系ドラマでおきまりのスタイルに反することを意図し、音楽をイーノにお願いしたと言っています。このドラマの多くの視聴者は、ラップは聴いてもイーノのことは知らない人が多いかもしれない。逆にイーノのファンは、デイヴもケイノもシムズも聴いてないかもしれない。そこを敢えてやるのがUKポップ・カルチャーの良いところですね。

坂本:ネットフリックスに移籍する前の、オリジナル・シリーズの第1作――あの時点では単発企画でした――を監督し、イーノにスコアを依頼したヤン・ドマンジュですね。ドマンジュはイギリス育ちのアルジェリア系フランス人映像作家で、『トップボーイ』で評価され、ベルファストを舞台に北アイルランド紛争を描いた秀逸な『’71』で長編映画デビューしました。あの作品でデイヴィッド・ホルムズ、続く『ホワイト・ボーイ・リック』でマックス・リクターをスコアに起用しているので、アトモスフェリックな音楽+スリラーの効果を理解している人なのだと思います。彼は『Blade』のリブートで監督に抜擢されたので、嬉しい話です。

野田:ドマンジュは、オファーしたのはもちろんイーノの音楽が好きだからと言ってましたが、なかなかの音楽リスナーでもあるんでしょうね。『トップボーイ』は登場人物も多く、人間関係も複雑で、大掛かりな人間ドラマでもあるんです。そこにはいろんな感情が渦巻いているんですが、この手の物語に、感傷的なメロディの音楽が入ってしまうと、ある特定の感情(ないしは特定のアプローチ)だけが際立ってしまいかねない。だからイーノの音楽は徹底的に感情を排しているんです、やはり「場」の音楽だと思いますね。

■『トップボーイ』のなかのイーノの魅力

野田:それはさておき、アルバムのなかのテーマ曲以外で印象的な曲をいうと、“Cutting Room I”ですね。ちょっとダビーなこれ、短い曲なんですけど、印象的ですね。

坂本:“Cutting Room I”はタイトル通り、ドラマでは使用されなかった(=編集室で終わった)完全未発表曲で、本アンソロジーにはもう1曲収められています。なんとももったいない話ですが、野田さんのおっしゃる通り、“Cutting Room 1”は「ノワール・ダブ」とでも呼びたい趣きのあるトラックで、メロディカを思わせるサウンド(?)もかすかに流れたり、サウンドの選び方・配置も含め実にクール。本作収録音源の大半は3〜4分台ですが、たしかに、あのグルーヴをもっとえんえん展開してくれたらいいのに……と感じずにいられないエディットです。

野田:あと、“Sky Blue Alert”や“Delirious Circle”、“Cutting Room ll”も、控えめながらビートがしっかり入っているんですけど、ただ、このサウンドトラックは1曲1曲を吟味して聴くっていうよりは、だーっと流しっぱなしにしてこのなんとも言えない幽玄さを堪能するのがいいように思いますね。

坂本:本作の後半に、それらビートの入った、いわばドラマチックなトラックが比較的多く集まった構成になっていて、それまで徐々に積み重なってきた不穏なムードが、テンションを高めていく印象を受けます。なので、ドラマの結末は知らないのですが、「……これはどうも、ハッピーエンドではなさそうだぞ」と感じさせられる、そんなシークエンスになっている。私は、当たり前ですが、“Top Boy Theme”に凝縮されたリリシズムや、“Beauty and Danger”や“Overground”の鍵盤のシンプルなリフレインが琴線に触れます。“Floating on Sleep’s Shore”、“Beneath the Sea”、“Afraid Of Things”の壮大なスペイシーさに身を任せて漂うこともできるし、ミステリアスにゆっくり推移していくダーク・アンビエントなサウンドスケープに時おり墨汁が一滴垂らされ、広がる音の波紋や質感の変調に「ドキッ!」とさせられる瞬間もある。先ほども言いましたが、スコアなので各ピースも短めで(と言っても5〜7分台のトラックもありますが)ムードや音も多彩=ドラマ制作者側が使いやすい作りの音源になっているんだと思います。そのぶん、リスナーにはある意味とっつきやすい内容で、安直な表現になってしまいますが、「イーノ幕の内弁当」というか? 彼の道具箱のなかにある様々なツールやアイディアをふんだんに盛り込みつつ、本人が言う通りシンプルで素朴に、いわば「素材感」を活かしてまとめた音源集なのかな、と感じます。
 と同時に、「だーっと流しっぱなしにして堪能」するのも全然ありな内容になっているのは、アーティストとしての一貫性とクオリティ・コントロールの高さゆえでしょうね。たとえば、イーノは『スモール・クラフト〜』を出した頃、「フェリーニの映画を観る前にニーノ・ロータのサントラを聴いてみたところ、それだけで映画を丸ごと想像できた。しかし多くの場合、自分の想像した内容は、実際のフェリーニ作品とはまったく違っていた」という旨の発言をしています。ということは『トップボーイ』も、「海外ドラマかぁ、敷居が高いな」と躊躇せずに、まずは音楽を聴いてみて、自分のなかで「これはどんな場面だろう?」とあれこれイメージを膨らませてみる、という接し方も楽しいんじゃないでしょうか。
 もちろん、社会的なメッセージが詰まったドラマだと思いますし、実際に観てもらえればなかなか表に出にくい=日本には伝わりにくい、お洒落でもクールでもない、タフなロンドンが感じられるでしょうし、そこはとても重要なんですが。ただ、とてもぶっちゃけて言うと、イーノのファンの主な層――これはあくまで、私の個人的な「印象」ですが――は、アーティでハイブロウで理論的でハイテクな、いわば「象牙の塔に暮らすアンビエント仙人」のイーノが好きで憧れる、という方じゃないかと思います。で、『トップボーイ』は決して、そうしたイーノ・ファンが自然に惹かれて観るタイプのドラマではないんですよね。私自身、不勉強でお恥ずかしい話ですが、『フィルム・ミュージック 1976-2020』のクレジットを見て「ええっ、『トップボーイ』って、あの犯罪ドラマの?」とびっくりしたので。逆に言えば、それは普通だったら結びつかなかったかもしれない世界が、テレビ/ドラマというメディアを通じて接する機会でもある。そこは痛快だと思います。

野田:いまちょうど別冊で、坂本さんにもデイヴィッド・トゥープの取材でお世話になった「日本のアンビエント」特集号を作っている最中なんですけど、当然アンビエントの捉え方やイーノの印象も人によって違っていて面白いです。で、いろんな「アンビエント」に括られそうな音楽を聴いたんですが、ひとつ気になったのが、ニューエイジがニッチで騒がれて以降のアンビエントは、とにかく心地よい、キラキラしてて、自己肯定的で快適で陶酔的で滑らかなものが目について、こりゃ、イーノが最初に「アンビエント」と命名した4作とはだいぶ違ってきているぞと思ったんですね。
 マーク・フィッシャーが『奇妙なもの、ぞっとするもの』のなかで『オン・ランド』を取り上げていることが象徴的なんですが、フィッシャーっぽく言えば、イーノのアンビエントには在ってはならないものが在るか、在るべきものがないという感覚、そんな「ぞっとする」感覚があるんですね。フィッシャーはラヴクラフトなんかのなかにも、我々の思考では思考できないその外側の想像力みたいものを見ているわけですが、まあ、そこまで大袈裟ではないにせよ、今回の『トップボーイ』には、アンビエントでは隠し味だった、そんな「おや?」という感覚が前景化していますよね。だからじつはむしろイーノ作品として面白く聴けるんです。

坂本:なるほど。「自己啓発/セラピー系」とは異なるアンビエントが味わえる、と。

野田:ところで、坂本さんは『トップボーイ』は観てないとのことですが、この音楽を聴いていて、ロンドンのハックニーの雰囲気だなと思いますか? もちろん公営団地のすべてがあんなじゃないでしょうけど、ぼくは街の風景を見ながら、自分が知っている90年代のロンドンとはぜんぜん違っているし、人が自転車に乗ってることなんかも気になりましたね。いまの不良はあんな自転車乗ってるんだとか、ストーンアイランド着やがってとか(笑)。

坂本:ははは! 『トップボーイ』=要は「俺が一番」というマウントのとりあいの話だから、ストリートウェアの格付けは大事なのでは? でも自転車は、少なくともうちの近所(南ロンドン)のキッズはそんなに乗り回してないと思います。むしろ、パンデミック期に流行して人気アイテムになったEスクーターや、シェアサイクルの電動アシスト自転車を使う子が多い。

野田:ああたしかに、『トップボーイ』でも未成年の子たちはEスクーターに乗ってフードを売ってましたね。

坂本:シェアサイクルは、ロックを解除する方法がバレている機種があるので、子供たちはたくましく活用しています。それはさておき、うーん、ひとくちに「ハックニーの雰囲気」と言われても、それが何になるのやら……。私があの地区に住んでいた頃――偶然ですが、『トップボーイ』のロケにも使われた公団の近くでした――には、もうずいぶんジェントリフィケーションが進んでいましたし、一方でインド亜大陸やアフリカ、ヴェトナム、中東etc、実に様々なコミュニティが同居していて。だから、クリエイターが「どんなハックニーを描きたいか」によって、あるいはクリエイターの実体験や解釈によっても、サウンドの選び方は変化するでしょうね。

野田:そうですね。なんか、ポラロイド写真による街のスナップショップ集みたいにも思えます。もっともイーノは外的なことだけじゃなく、物語の内面的なことも表現したみたいなことも言ってるんですが、ロンドンに住んでいる人からして、この音楽はロンドンのアトモスフィアを捉えていると思いますか?

坂本:先ほども言いましたが、21世紀のロンドンの街中を歩いていると出くわしそうな、現代的な空気感、光と影のコントラスト、その「印象」がよく捉えられていると思います。ただ、こうしたシンセ~エレクトロニック系インスト音楽の場合、抽象度が高いぶん、応用が利くんじゃないでしょうか。言い方を変えれば、これらの音源はたしかに『トップボーイ』のための書きおろしとはいえ、なかには他のドラマや映画やドキュメンタリーにラインセンスされ使われても違和感のなさそうなものもある。さすがにロムコムやファミリー向け作品で使われることはないでしょうが、いまってほんと、犯罪ドラマやスリラーがいくらでも制作される時代なので、本作でイーノが抽出した「モダンでアーバンなムード」、あるいは、先ほど野田さんの言っていた「おや?」と感じる、かすかに「ぞっとする」要素~違和感や不安と言ってもいいですが、そのムード/モチーフは、汎用性があるのでは? なので、ローカル=東ロンドンがテーマでありつつ、そこに限定されないサウンドだな、という印象です。
 『トップボーイ』のメインの舞台である公営住宅/団地は、ロンドンの東西南北、どこにでも存在します。悪名高いものもあれば、住人が誇りと共に良いコミュニティを維持しているものも、と中身は様々ですが、あれは、一般的なロンドン市民の日常心象のどこかに見つかる風景のひとつだと思います。個人的に、ロンドンは、そこが面白くもある。いまや高級住宅地になっているエリアのなかに、急に低所得者層向け高層公団がデーンとそびえていたり。たとえば、イーノやデーモン・アルバーンがスタジオを構えているエリアは、数年前の火災大悲劇の舞台で、ロンドンの貧富格差の象徴のひとつでもあるグレンフェル公団と目と鼻の先です。逆に、一見ラフそうな街中に、ヒップなお店やプログレッシヴなコミュニティ・ハブが「ぽっ」と顔を出す。こういう、「豊かな者と貧しい者の住み分け」に抗する有機的な混在は、文化にとってプラスだと私は思いますが、公団も老朽化で、取り壊されている。昔、エイフェックス・ツインの根城だったエレファント・アンド・キャッスルの再開発は、その意味で象徴的かもしれません。いま、野田さんがあそこを訪れたら、浦島太郎な気分だと思いますよ。

野田:都市の再開発の問題は『トップボーイ』の全シーズンに通底する重要なテーマのひとつです。ここはベネットらしい政治的視点なんでしょうけど、投資家や再開発をドラッグ・ディールのアナロジーのように描いていますからね。浦島太郎な気分といえば、最近は毎日通っているはずの渋谷を歩いていても浦島太郎になりますからね。

坂本:東京やロンドンを始め、世界中の大都市がいま、そういう過渡期にあるのかな。だからこそ、本作のトップに置かれたテーマ曲が、私からすれば一番ロンドンっぽく感じるトラックかもしれません。どうしてかと言えば、あのトラックの規則正しく、かつビジーなリズムの積み重なりに、地下鉄や電車の動きを感じるので。東京もそうですが、ロンドンも、密集した大都市の各所をつなぐ活発な動脈のひとつとして、電車の存在は大きい。これは、車がメインの交通手段であるアメリカの都市(ニューヨークを始めとする、地下鉄や電車網が発達した都市は除きますが)では生まれにくいサウンドではないか、と感じるので。たとえば『アポロ』のサントラは、何せ宇宙が舞台なので、ブライアンとロジャーとラノワは勝手に想像力を働かせることができたと思います。サウンドがない無音空間なので、キューブリックのようにクラシック音楽を当てはめることもできるし、イーノ組のように「未知のフロンティア(宇宙)を行く、我らはカウボーイ(宇宙飛行士)!」なノリで、スライド・ギターを始めとするカントリーな要素を使ったり、遊べたわけです。また、『ラブリーボーン』は作品の時代設定が70年代=過去なので、これもある意味現在の我々にとっては「異国」ですし、ピーター・ジャクソンからすればノスタルジアを求めてのイーノ起用、と言う面もあったかと。
 対して『トップボーイ』は、現代の実在の都市を舞台にした、現在進行形のドラマです。ゆえに、野田さんが先ほどおっしゃっていたような、これまでのイーノの映像作品向けのスコアとは若干違ったアプローチ――『オン・ランド』的な、ランドスケープを基盤にしつつ、普遍性もあるダークな音像の造成――がとられることになったのかもしれません。その意味でも、「まぎれもなくイーノ作品だが、そこを肩透かしする意外な面もあってインスパイアされる」、繰り返しになりますが、レアな1作だと思います。

野田:なるほど。まあ、あのテーマ曲はキラーですよね。『トップボーイ』を観てしまって、すっかりあの世界にハマってしまった人間のひとりとしては、この音楽をあの映像と切り離すのは難しいんですが、ぼくと同じように、ラップ好きの子がこのドラマにハマってこの音楽も知ってくれたらいいなとも思います。

坂本:そうですね。きっかけはいろんなところに、いろんな形で転がっているし、それを自主的に掘り下げるかどうかは受け手次第。「自分の好きなもの/知っているもの」の世界を深めていくのも大事なことですが、アンテナを広げれば「自分の知らなかった、でも新たなお気に入り」をキャッチすることもある。『トップボーイ』音楽集を通じて、そんな意外で素敵なカルチャー・クラッシュがひもとかれるかもしれません。

PJ Harvey - ele-king

PJハーヴェイのいくつもの声

 2001年、PJハーヴェイはロックの女神としての絶頂期を迎えていた。前年にリリースされた『Stories from the City, Stories from the Sea』は、これまででもっとも洗練された、理解を得やすいアルバムとなり、1998年の緊張感をはらんだ『Is This Desire?』でつきまとわれた暗い噂を一掃するような自信に満ちた一撃となった。その年の9月にマンチェスター・アポロでのハーヴェイのライヴを観たのは、彼女がマーキュリー賞を受賞してから数週間後のことで、私がこれまでに観た最高のロック・ギグのひとつとなった。ラジオ向きの、煌びやかな加工がされていない “This Is Love” や “Big Exit” のような曲は、より記念碑的に響き、まるで彼女がブルース・ロックの原始的な真髄にまで踏み込み、マッチョ的な要素や、陳腐なエリック・クラプトンのような、このジャンルにありがちなものすべてが刈り取られたかのようだった。

 だが、そのショウは、ほとんどウィスパーといえるほどの小声で始まった。ハーヴェイは単独でステージに上がり、ヤマハの QY20 でのハーモニウム風の伴奏に合わせ、子どものような、物悲しいメロディを歌った。私はその曲を判別できなかったが、サビのコーラスに差しかかると、客席でクスクス笑いが起こった。バブルガム・ポップのグループ、ミドル・オブ・ザ・ロードの1970年のヒット曲 “チピ・チピ天国” の有名なリフレイン「Where’s your mama gone? (あなたのママはどこへ行ったの?)」をとりあげたからだ。ポリー・ジーンにはユーモアのセンスが欠如しているなんて、誰にも言わせない。

 昨年リリースされたコンピレーション『B-Sides, Demos & Rarities』を聴くまで、このことはすっかり忘れていた。“Nina in Ecstasy 2” は、『Is This Desire?』のセッションで録音され、結果的には「The Wind」のB面としてリリースされたものだ。当時は珍品のように見做されていたに違いないが、この曲はハーヴェイの、その後のキャリアの方向性を示す初期におけるヒントだったのではないかと思い当たった。この曲で使われた、浮遊感のある、ほとんど肉体から切り離されたような儚い高音域の声は、2007年の『White Chalk』や、2011年の『Let England Shake』などのアルバムで再び使われた種類の声だ。さらに、今年の『I Inside the Old Year Dying』でも聴くことができる。この作品をハーヴェイのフォーク・アルバムと呼びたい衝動にかられるものの、それは、私がこれまでにまったく聴いたことのないフォーク・ミュージックなのだった。

 熟練したアーティストが、自分の強みを離れたところで新たな挑戦をするのには、いつだって心惹かれる。彼女のレコード・レーベルにとってみれば、『Stories from the City, ~』の路線を継承し、クリッシー・ハインド2.0へと変化を遂げてほしかったことだろう。だが、彼女は2004年に、セルフ・プロデュースしたラフな感じを楽しむようなアルバム『Uh Huh Her』 を発表した。アートワークは、セルフィ(自撮り写真)と自分用のメモをコラージュしたもので、そのひとつには、「普通すぎる? PJHすぎる?」との文字があり、彼女の創作過程を垣間見ることができる。「曲で悩んだら、いちばん好きなものを捨てる」という一文は、ブライアン・イーノとペーター・シュミットの「オブリーク・ストラテジーズ」のカードからの引用ではないかとググってしまったほどだ。

 ハーヴェイにとって「いちばん好きなもの」とは、彼女自身の声、あるいは少なくとも彼女の初期のアルバムで定義づけられた生々しい、声高な叫びを意味するのではないか。それは、驚くべき楽器だ。1992年のデビュー作『Dry』のオープニング・トラック “Oh My Lover” を聴いてみてほしい。歌詞はかなり曖昧なトーンで書かれているのに、彼女の歌声には驚くべき自信とパワーが漲っている。このアルバムと、それに続く1993年のスティーヴ・アルビニによる録音の『Rid of Me』にとって効果的だったことのひとつは、荒涼としたパンク・ブルースのおかげで、ヴォーカルに多くのスペースが割り当てられたことだった。ハーヴェイの喉の方が、当時のグランジ系が好んで使用したディストーションの壁よりも、より強力だったのだ。1995年の豊穣なゴシック調の『To Bring You My Love』では、彼女は自分の声をさらに先へと押し出し、BBCスタジオでの “The Dancer” のパフォーマンスでは、ディアマンダ・ガラスとチャネリングしているかのように聴こえたし、そう見えた。実際に彼女は自身の声の形を変える実験も始めていた。最近のNPRとのインタヴューでは、プロデューサーのフラッドに、閉所恐怖症的な “Working for the Man” の録音の際、毛布をかぶされ、マイクを喉に貼りつけて歌わされたことを回想している。

 10枚のソロ・アルバムと、長年のコラボレイターであるジョン・パリッシュとのデュオ・アルバム2枚というハーヴェイのディスコグラフィを貫く共通項は、おそらく、頑なに繰り返しを拒んできたことだろう。多くのアーティストが同じことを主張しがちだが、ハーヴェイは暴力的なほどの意志の強さでこれを貫き、デイヴィッド・ボウイと匹敵するほど、自分をコンフォート・ゾーン外に意図的に追いやってきた。『White Chalk』では、ギターを、ほとんど弾くことのできないピアノに替え、元来の声域外で歌った(彼女は当時のKCRWラジオのインタヴューで「多分、自分が得意なことをやりたくなかっただけ」と語っている)。歌詞においても、それまでの自分には、手に負えないだろうと思うようなテーマに努力して取り組んでいる。『Let England Shake』は主にオートハープを使って作曲されたが、第一次世界大戦の歴史を考慮に入れて、自らをある種の戦争桂冠詩人に変身させた。2016年の『The Hope Six Demolition Project』 では、写真家のシェイマス・マーフィーと世界中を旅した経験から、現代政治と外交政策の意味を探ろうと試みた。

 『I Inside the Old Year Dying』は、もうひとつの、ドラマティックな変化を示している。この作品は、2022年に出版された、彼女の生まれ故郷のドーセット地方の方言で書かれた長編の詩集『Orlam』が進化したもので、歌詞カードには、曲を彩る難解な言い回しの意味の説明の脚注が付いている。「wilder-mist(窓にかかった蒸気)」、「hiessen(不吉な予感)」、「femboy(フェムボーイ=少女のような少年)」、「bedraggled angels(濡れた羊)」などだ。それらの言葉の馴染みのなさは、音楽にも反映され、音楽の元の素材から連想できるようなフォークの作風は意識的に避けられている。ハーヴェイはこのアルバムを、パリッシュとフラッドというもっとも信頼するふたりのコラボレイターに加え、フィールド・レコーディングをリアルタイムで操作した若手のプロデューサー、アダム・バートレット(別名セシルとして知られる)と共に制作した。フラッドは、より伝統的な楽器編成を古風なシンセサイザーで補い、「sonic disturbance(音波の攪乱)」としてもクレジットされている。これは、温かいが、尋常ではない響きのアルバムであり、ハーヴェイの成熟した作品を定義するようになった、どこにも分類することのできないクオリティを保っている。この音楽は、時間や場所を超えて存在するようなものではあるが、彼女にしか創り得なかったものなのである。

The many voices of PJ Harvey

written by James Hadfield

In 2001, PJ Harvey was at the peak of her rock goddess phase. “Stories from the City, Stories from the Sea,” released the previous year, had presented her slickest, most accessible album to date – a confident blast to dispel all the dark rumours that had accompanied 1998’s fraught “Is This Desire?”. The show I saw her play at the Manchester Apollo that September, just weeks after winning the Mercury Music Prize, was one of the best rock gigs I’ve ever seen. Without their radio-friendly production gloss, songs like “This Is Love” and “Big Exit” sounded even more monumental, as if she was tapping into some primal essence of blues rock, shorn of all the macho, Eric Clapton cliches you’d normally associate with the genre.

Yet the show had started almost at a whisper. Harvey took the stage alone and sang a plaintive, childlike melody, over a harmonium-style accompaniment played on a Yamaha QY20. I didn’t recognise the song, but when she reached the chorus, a chuckle rose from the audience: she’d lifted the “Where’s your mama gone?” refrain from “Chirpy Chirpy Cheep Cheep ,” a 1970 chart hit by bubblegum pop act Middle of the Road. Let nobody say that Polly Jean doesn’t have a sense of humour.

I’d forgotten about this until I heard the song again on the “B-Sides, Demos & Rarities” compilation, released last year. “Nina in Ecstasy 2” was recorded during the sessions for “Is This Desire?” and ended up getting released as a B-side to “The Wind.” It must have seemed like a curio at the time, but in retrospect it strikes me as an early hint of where Harvey would head later in her career. The voice she used on that song – floating, almost disembodied, delivered in a fragile higher register – is one that she would return to on albums such as 2007’s “White Chalk” and 2011’s “Let England Shake.” You can hear it again on this year’s “I Inside the Old Year Dying,” which I’m tempted to call PJ Harvey’s folk album, except that it doesn’t sound like any folk music I’ve heard before.

It’s always striking to hear an accomplished artist play against their strengths. Harvey’s record label probably would have loved her to continue on the trajectory of “Stories from the City…,” morphing into Chrissie Hynde 2.0. Instead, she delivered 2004’s rough, self-produced “Uh Huh Her,” an album that seemed to revel in its imperfections. The artwork, a collage of selfies and notes-to-self, offered glimpses into her creative process. “Too normal? Too PJH?” reads one of the notes. “If struggling with a song, drop out the thing you like the most,” reads another – a quote that I had to Google to check it wasn’t actually from Brian Eno and Peter Schmidt’s Oblique Strategies cards.

For Harvey, “the thing you like the most” can mean her own voice – or at least the raw, full-throated holler that defined her earlier albums. It’s a formidable instrument: just listen to “Oh My Lover,” the opening track on her 1992 debut, “Dry.” There’s a startling confidence and power in her delivery, even as the lyrics strike a more ambiguous tone. Part of what made that album and its 1993 follow-up, the Steve Albini-recorded “Rid of Me,” so effective was that their stark punk-blues left so much space for the vocals. Harvey’s larynx was more powerful than the walls of distortion favoured by her grunge contemporaries. On 1995’s lushly gothic “To Bring You My Love,” she pushed her voice even further: in a BBC studio performance of “The Dancer,” she sounds – and looks – like she’s channelling Diamanda Galas. But she had also begun to experiment with altering the shape of her voice. In a recent interview with NPR, she recalled that producer Flood recorded the claustrophobic “Working for the Man” by getting her to sing under a blanket with a microphone taped to her throat.

If there’s a common thread running through Harvey’s discography – 10 solo albums, as well as two released as a duo with longtime collaborator John Parish – it’s a stubborn refusal to repeat herself. Plenty of artists claim to do this, but Harvey has shown a bloody-mindedness to rival David Bowie, deliberately forcing herself out of her comfort zone. For “White Chalk,” she switched from guitar to piano – an instrument she could barely play – and sang outside her natural vocal range. (“I just didn’t want to do what I know I’m good at, I guess,” she told an interviewer on KCRW radio at the time.) Lyrically, too, she has made a deliberate effort to engage with themes that had seemed out of her grasp. “Let England Shake” – written mostly on autoharp – found her transformed into a kind of war laureate, reckoning with the history of World War I. 2016’s “The Hope Six Demolition Project” attempted to make sense of modern politics and foreign policy, based on her experiences travelling around the world with photographer Seamus Murphy.

“I Inside the Old Year Dying” marks another dramatic shift. It evolved from “Orlam,” a book-length poem that Harvey published in 2022, written in the dialect of her native county, Dorset. The lyric sheet comes with footnotes explaining the meanings of the arcane terms that pepper the songs: “wilder-mist” (steam on a window), “hiessen” (a prediction of evil), “femboy” (a girly guy), “bedraggled angels” (wet sheep). The unfamiliarity of the language is mirrored by the music, which consciously avoids the folk idioms which the material would seem to encourage. Harvey created the album with Parish and Flood, two of her most trusted collaborators, along with the younger producer Adam Bartlett (otherwise known as Cecil), who supplied field recordings that were manipulated in real-time. Flood complemented the more traditional instrumentation with archaic synthesisers, and is also credited for “sonic disturbance.” It’s a warm but also uncanny-sounding album, with an unplaceable quality that has come to define Harvey’s mature work. It’s music that seems to exist out of time, out of place, but could only have been created by her.

AMBIENT KYOTO 2023 - ele-king

 開幕までいよいよあと1週間となった《AMBIENT KYOTO 2023》。参加する各アーティストの展示作品内容が発表されている。
 坂本龍一+高谷史郎が展開するのは、『async』をベースにしたインスタレーション。コーネリアスバッファロー・ドーター山本精一はすべて新作だ。朝吹真理子はデビュー作の朗読を配信。
 さらに宿泊やギャラリー、京都メトロやMeditationsなどとのコラボレーションも告知されている。京都がアンビエントに染まる秋。詳しくは下記をご確認ください。

 なお10月20日には『別冊ele-king アンビエント・ジャパン』が刊行。《AMBIENT KYOTO 2023》の会場では先行発売されます。ぜひお手にとってみてください。

アンビエントをテーマにした視聴覚芸術の展覧会
AMBIENT KYOTO 2023

◉展覧会:
いよいよ開幕まであと1週間。
各アーティストの展示作品内容を発表。
◉ライヴ:テリー・ライリーのライブ、両日共にソールドアウト。
◉コラボレーション:第一弾を発表。

会期:2023年10月6日(金)~12月24日(日)

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AMBIENT KYOTOは、昨年2022年、第一回目として、アンビエントの創始者ブライアン・イーノの展覧会を開催し大成功を収めました。第二回目となる『AMBIENT KYOTO 2023』は、今年10月6日(金)より京都の特別な複数の会場を舞台に展覧会とライブ、そして朗読作品の公開が行われます。開幕を1週間に控え、展覧会の展示作品内容と、会期中に実施される本展とのコラボレーション企画の第一弾をお知らせします。

◉展覧会:各アーティストの展示作品内容のお知らせ。
京都新聞ビル地下1階の約1,000平米の広大なスペースには、坂本龍一 + 高谷史郎の作品が展示されます。また、昨年2022年、第一回目が開かれた京都中央信用金庫 旧厚生センターには、コーネリアス、バッファロー・ドータ―、山本精一による作品が展示されます。

■京都新聞ビル地下1階

坂本龍一 + 高谷史郎 | async ‒ immersion 2023

坂本龍一が2017年に発表したスタジオ・アルバム『async』をベースに制作された高谷史郎とのコラボレーション作品の最新版。
京都新聞ビル地下の広大な空間に合わせ展開するサイトスペシフィックなインスタレーション。

音響ディレクション:ZAK
映像プログラミング:古舘 健
サウンド・プログラミング:濱 哲史
音響:東 岳志、山本哲也、細井美裕
照明ディレクション/デザイン:髙田政義(RYU inc.)
美術造作:土井 亘(dot architects)
展示設営:尾﨑 聡

企画協力:Kab Inc./KAB America Inc./Dumb Type Office Ltd.


アルバム『async』(2017年)

■京都中央信用金庫 旧厚生センター - 1/2

革新的な作品を生み出し続け、世界的な評価を得てきたアーティスト、コーネリアス、バッファロー・ドー
ター、山本精一によるアンビエントをテーマに表現した作品。出展作品は、すべて新作。

コーネリアス

ZAKによる立体音響と、groovisionsによる映像作品や高田政義による照明がシンクロして生み出される視聴覚体験。

「QUANTUM GHOSTS」
最新作『夢中夢 -Dream In Dream-』収録「火花」のカップリング曲。本館で最も大きな展示室で行われる、360度に配置された20台のスピーカーから鳴らされる立体音響と、高田政義による照明がシンクロする作品。
「TOO PURE」
最新作『夢中夢 -Dream In Dream-』収録曲。立体音響と、groovisions制作の映像作品が立体スクリーンに映し出される、7.1chの音と映像の作品。
「霧中夢 ‒ Dream in the Mist ‒」
最新作『夢中夢 -Dream In Dream-』収録曲。立体音響と、高田政義による照明、そして特殊演出による霧が相互作用する霧の中の夢。
「Loo」
本展のために書き下ろされた新曲。


最新作『夢中夢 -Dream In Dream-』(2023年)

■京都中央信用金庫 旧厚生センター - 2/2

バッファロー・ドーターと山本精一の作品は同部屋で展示される。
斜めに仕切られた展示空間において展開する、ZAKによって立体音響化された音と、それを増幅させる映像のインスタレーション。

バッファロー・ドーター

「ET (Densha) 」 、「Everything Valley」
2曲とも、最新作『We Are The Times』に収録。「ET(Densha)」は、映像はベルリン在住の映像/音響アーティスト 黒川良一による作品。「Everything Valley」は、映像クリエイター 住吉清隆による作品。


最新アルバム『We Are The Times』(2021年)

山本精一

「Silhouette」
本展のために書き下ろされたアンビエントの新曲。映像は、リキッド・ライティングの手法を用いたヴィジュアル・アーティスト 仙石彬人と、山本精一による共同制作作品。


最新作『Silhouette』(2023年)

朝吹真理子

デビュー作『流跡』を著者自身が全編朗読した作品を会期中ウェブにて配信する。

作品名:『流跡』~著者自身による全編朗読作品
朗読:朝吹真理子
録音:朝吹亮二
録音監督 & Mixing :ZAK
編集: 岩谷啓士郎 & 吉田祐樹

◉コラボレーション第一弾が決定。
アンビエントは、その音楽が流れる環境の一部となる音楽です。AMBIENT KYOTOは、京都の文化・人々と共に作り上げることを目指して、コラボレーション企画を実施していきます。今後も、食、香り、伝統工芸、音楽、アートなど多数の企画を発表していきますので、ご期待ください。

●Ace Hotel
AMBIENT KYOTO 2023の割引チケット付きの宿泊パッケージを用意しました。
こちらのプランで宿泊のお客様はAce Hotel Kyotoのお食事が全て10%OFFとなります。
客室ではレア・グルーブ・レコードがセレクトしたレコードを楽しむことができます。
またAce Hotel Kyotoでの宿泊がなくても、本展のチケットをご提示すればホテル内での飲食が10%OFFとなります。
https://jp.acehotel.com/kyoto/offers/ambient-kyoto/

●Art Collaboration Kyoto(ACK)
ACKのチケットを提示すると、受付にて当日料金から100円割引となります。
※チケット販売カウンターは会場:京都中央信用金庫 旧厚生センターのみで取り扱い。
※それぞれ、 一般料金のみに限ります。
※他の割引との併用はできません。
※いずれも1枚につき1名、各館とも1回限りの適用となります。
https://a-c-k.jp

●Elbereth
アレックス・ソマーズの個展が、京都のギャラリーElberethにて開催されることが決まりました。
京都のヴィーガンカフェ Stardustが手がけるギャラリー Elbereth。そこでAMBIENT KYOTO 2023のキーヴィジュアルを制作したアレックス・ソマーズの個展が、10月14日(土)から10月31日(火)まで開催されます。古い和紙に印刷された、彼のキーヴィジュアルを含めた全16作品が、アンティーク・フレームに額装され、展示・販売される。また彼の、映像作品も展示される。
展覧会概要 開催期間 10月14日(土)から10月31日(火)| 営業時間 12:00 ‒ 18:30

会場 Elbereth / エルベレス | 京都市北区紫竹牛若町1-2(問)info@stardustkyoto.com
stardustkyoto.com
https://www.instagram.com/elbereth_stardust
https://www.instagram.com/stardust_kana/

●京都CLUB METRO
日本で最も長い歴史を誇る老舗クラブ、京都CLUB METROと共に企画した、アンビエントやアートの関連イベントを会期中に実施します。第一弾として3つのイベントを発表しました。

① 10月29日(日)「COLLABORAION : Ambient Kyoto × ACK」。共に秋の京都を彩るアートの祭典同士がその会期中に連携したスペシャルイベント。
出演:田中知之 (FPM)、真鍋大度、Ken FURUDATE、武田 真彦
② 11月19日(日)京都の地で17年に渡り、様々な解釈でアンビエントミュージックの発信を続けているイベント&レーベル「night cruising」のコラボレーションイベント。
出演:冥丁、Kin Leonn、moshimoss、RAIJIN、Tatsuya Shimada
③ 12月14日(木)英有力音楽誌『The Wire』の表紙を飾るなど、世界的に高い評価を集めるPhewと大友良英によるスペシャルなセットが実現。
出演:Phew+大友良英
https://www.metro.ne.jp/

●Meditations
アンビエント、電子音楽、インド音楽など多ジャンルにわたり世界中の音楽を取り扱う京都のレコード店Meditationsと共に、完全オーガニックの草木染めトートバッグを製作しました。南インド産のコットン・キャンヴァスを使い、アーユルヴェーダの薬草と発酵を繰り返し何年も熟成された藍を使って染め上げたトートバッグ。会期中にオフィシャル・ショップにて数量限定で販売します。
ヴィデオ:草木染めトートバックが出来上がるまで
南インド、オーロヴィルのカラーズ・オブ・ネイチャー社での製造過程を撮影した映像。

◉開催概要
タイトル:AMBIENT KYOTO 2023(アンビエント・キョウト2023)

参加アーティスト:会場
[展覧会]
・坂本龍一 + 高谷史郎:京都新聞ビル地下1階
・コーネリアス、バッファロー・ドーター、山本精一:京都中央信用金庫 旧厚生センター
[ライヴ]
・テリー・ライリー:東本願寺・能舞台
・コーネリアス:国立京都国際会館 Main Hall
[朗読] 朝吹真理子

会期:2023年10月6日(金)-12月24日(日)
   *休館日:11月12日(日)、12月10日(日)
開館時間:9:00 - 19:00 入場は閉館の30分前まで

チケット:
・チケット購入サイト: https://ambientkyoto.com/tickets

[展覧会]
一般 ¥3,800 / 専・大学生 ¥2,600 / 中高生 ¥2,000
・前売:200円引・小学生以下無料
※京都新聞地下1階のみ、一部無料枠を設ける予定

[ライブ]
◉テリー・ライリー
・会場:東本願寺・能舞台
・日程:2023年10月13日(金)、14日(土)
・開場 17:30 / 開演 18:30
・チケット:SOLD OUT

◉コーネリアス
・会場:京都国際会館Mail Hall
・日程:2023年11月3日(金・祝)
・開場 16:00 / 開演 17:00
・チケット:全席指定 S席 9,800円/ A席 8,800円
      未就学児入場不可

主催:AMBIENT KYOTO 2023 実行委員会(TOW / 京都新聞 / Traffic / 京都アンプリチュード)
企画制作:TOW / Traffic
協力:文化庁 / α-STATION FM KYOTO / 京都 CLUB METRO / 株式会社サンエムカラー / 小川珈琲株式会社 / 株式会社ハッピーマンデー / CCCアートラボ
後援:京都府 / 京都市 / 公益社団法人京都市観光協会 / FM COCOLO
音響機材協賛 : Genelec Japan / ゼンハイザージャパン / 株式会社静科 / 株式会社MSI JAPAN大阪 / アビッドテクノロジー / Synthax Japan / Abendrot International LLC / Sonos Japan
映像機材協賛:bricks & company / Magnux
技術協力:パナソニック株式会社
協賛:Square
広報協力 :HOW INC.
特別協力:京都中央信用金庫

展示ディレクター(旧厚生センター)/ 音響ディレクター:ZAK
空間ディレクションアドバイザー(旧厚生センター):高谷史郎
プロジェクト・マネージャー:關秀哉(RYU inc.)
舞台監督:尾崎聡
照明ディレクター / デザイナー:髙田政義(RYU inc.)
美術造作:土井亘(dot architects)
照明:上田剛(RYU inc.)
音響:東岳志 / 山本哲也 / 濱哲史 / 細井美裕
香り:和泉侃

キービジュアル:Alex Somers
アートディレクター:田中せり
デザイナー:宿谷一郎、岡本太玖斗

会場 アクセス

① 京都中央信用金庫 旧厚生センター (展覧会場)

参加アーティスト
コーネリアス
バッファロー・ドーター
山本精一

〒600-8219京都市下京区中居町七条通烏丸西入113
・電車:JR京都駅より徒歩5分
・バス:市バス烏丸七条バス停より徒歩1分

② 京都新聞ビル地下1階 (展覧会場)

参加アーティスト
坂本龍一 + 高谷史郎

〒604-8577京都市中京区烏丸通夷川上ル少将井町239
・電車:地下鉄烏丸線・丸太町駅下車 7番出口すぐ
・電車:地下鉄東西線・烏丸御池駅下車 1番出口より徒歩7分

③ 東本願寺・能舞台 (ライブ会場)

参加アーティスト
テリー・ライリー 立体音響ライブを実施

〒600-8505京都市下京区烏丸通七条上る
・電車:JR京都駅より徒歩7分
・電車:地下鉄烏丸線・五条駅より徒歩5分
・バス:市バス烏丸七条バス停より徒歩1分

④ 国立京都国際会館 Main Hall (ライブ会場)

参加アーティスト
コーネリアスのライブを実施

〒606-0001 京都市左京区岩倉大鷺町422番地
・電車:地下鉄烏丸線・国際会館駅より徒歩5分
・バス:市バス・京都バス・国際会館駅前より徒歩5分

◉お問い合わせ先
メディアお問合せ窓口
Traffic Inc. MAIL: web@trafficjpn.com TEL:03-6459-3359 FAX:03-5792-5723
お客様お問合せ先:ローダイヤル: 050-5542-8600(全日 9:00 ‒ 20:00)
AMBIENT KYOTO info@ambientkyoto.com

Fabiano do Nascimento - ele-king

 リオデジャネイロ出身でLAを拠点に活動するファビアーノ・ド・ナシメントが来日する。今年は2枚のアルバム──イーゴン主宰〈Now-Again〉からの『Lendas』と、マシューデイヴィッド主宰〈Leaving〉からの『Das Nuvens』──を発表している彼は、ブラジル音楽の豊穣なる遺産をLAの音楽風土のなかで新たな形へと昇華するギタリストだ。今回は伝統曲のカヴァーや未発表の新曲を演奏する予定だという。10月13日@南青山BAROOM。貴重な機会をぜひ。

JAZZ at BAROOM ー ファビアーノ・ド・ナシメント ー

南青山のBAROOMにて開催される、“ジャズを核としたその周辺のグッドミュージック”を取り上げるライブシリーズ<JAZZ at BAROOM>

7月にスタートしたこのシリーズには、これまでマーク・ド・クライヴ・ロウ × 真鍋大度、笹久保伸、菊地成孔5、BIGYUKI、4Acesなど多彩なミュージシャンたちが出演してきました。

そして今回、ロサンゼルスを活動拠点とするリオデジャネイロ出身のギタリスト、ファビアーノ・ド・ナシメントの5年ぶりの来日ソロコンサートとして、出演が決定しました。

6弦・7弦・10弦・ミニギターなど様々なタイプのギターで、伝統曲のアレンジカバーから未発表の新曲などを演奏予定です。

BAROOMのインティメートな円形空間で、ファビアーノの繊細なサウンドを感じてください。

ファビアーノ・ド・ナシメントのソロ・ギターを聴けるのは、喜び以外の何物でもない。リオデジャネイロでギターを習得し、ロサンゼルスでギタリストとしてデビューした彼は、ブラジル音楽の豊かなレガシーと、LAのシーンのオープンマインドな音楽性を併せ持つ稀有な存在だ。エルメート・パスコアールやイチベレ・ズヴァルギの音楽を愛し、朋友サム・ゲンデルにブラジル音楽を教えて演奏を共にしてきた。そして、近年は瞑想的なサウンドスケープやリズミカルでモダンなグルーヴを生み出してもいる。ギター・ミュージックの可能性を拡げる演奏を堪能できるまたとない機会だ。ぜひ、お見逃しのないように! 原 雅明

■日時 / DATE&TIME
2023.10.13.fri
OPEN 18:00|START 19:30

■料金 / PRICE
HALL TICKET(自由席) ¥5,000 *ワンドリンク別
・受付にてワンドリンク代を別途お支払いいただきます。

チケットは下記サイトにて発売中
https://jab231013.peatix.com/

■出演 / CAST
Fabiano do Nascimento(ファビアーノ・ド・ナシメント)
リオデジャネイロ出身|ギタリスト、作曲家、プロデューサー。
音楽一家に生まれ、幼少期からピアノ、音楽理論などの教育を受け、10歳でギターを手にする。
ブラジルの豊かな音楽環境によって育まれた卓越した演奏技術をベースに、サンバやショーロといったブラジルの伝統と、ジャズ、実験音楽、エレクトロニカなどの要素を取り入れた、独自の清らかで繊細な音楽を常に開拓し続けている。
https://fabianomusic.com/

■会場 / VENUE
BAROOM
東京都港区南青山6-10-12 1F
Tokyo, Minato City, Minamiaoyama, 6-10-12 1F
https://baroom.tokyo/

六本木通り南青山七丁目交差点角
・「表参道」B1,B3出口より 徒歩約10分
・「渋谷」東口/都バス01系統「新橋」行き青山学院中等部前バス停下車 徒歩約3分

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