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アニマル・コレクティヴの"マイ・ガールズ"がクライマックスでプレイされるようなダンスフロアがいま日本のどこにあるのか教えて欲しい。あの曲の冒頭のキラキラしたシーケンスが流れればすぐにリアクションがある、そんな現場を知りたい。DJはその前後をどんな曲で繋ぎ、そしてどんな曲に持っていくのか......。"マイ・ガールズ"をクライマックスで上手にスピンできるDJがいたら、その人はいまもっと危うく、いまもっともフレッシュなDJに違いない......が、実際のところ"マイ・ガールズ"は、たとえば1990年のプライマル・スクリームの"カム・トゥゲザー"のように機能しているのだろうか。それはある特定の場のアンセムとして、ある世界観を共有する契機として、いまもっとも危うく、いまもっともフレッシュな歓声を浴びているのだろうか......。
『ファック・ダンス、レッツ・アート』は出るべくして出たコンピレーションで、ここ1~2年のUSアンダーグラウンドにおけるダンス・ミュージックの新展開――チルウェイヴ、エレクトロ・ポップ、シンセ・ポップ、サイケデリック・ダンス・ポップ、そしてウィッチ・ハウス――を編集してものである。ウォッシュト・アウトやトロ・イ・モア、スモール・ブラックといったチルウェイヴ系、oOoOO(オーと読むらしい)やバラム・アカブ、クリープといったウィッチ・ハウス系、それからクリスタル・キャッスルズのようなニューウェイヴ・ディスコ系など最近のトレンドから計18組を選び、18曲を収録したものである。アニマル・コレクティヴの"マイ・ガールズ"はコンピレーションのもっとも中心に配置され、そのフォロワーであるベアズ・イン・ヘヴンがアルバムの締めを務めている。通して聴いていると、ニューウェイヴ・ディスコ系が古くさく、あらためてチルウェイヴ系が新しく感じられる。
ちなみに今年、USメディアがもっとも注目しているのがウィッチ・ハウス(魔女のハウス)で、本作の1曲目(続く2曲目)がまさにそれだ。ウィッチ・ハウスとは......何も魔女の格好をしたDJがハウスをスピンするわけではない。大雑把に言えばUKダブステップ(というか主にブリアル)へのリアクションのひとつである。手法的にはヒップホップのチョップを好み、その出自にはエレクトロクラッシュ系の流れも絡み、あるいはそう、お察しの通りザ・XXの影響も受けつつ、そして"ドラッグ(drag)"や"ホーンティッド(幽霊)"とも呼ばれていることからも察することができるように、ウィッチ・ハウスはより薄気味悪くダークで、UKダブステップの暗さがアメリカ系ゴシックやホラーの文脈に落とし込まれたダンス音楽のスタイルのように思える。バラム・アカブのビートはダブステップの変型で、クリープのヴォーカルの歪ませ方はジェームス・ブレイクの応用である。また、メモリー・テープスの"バイシクル"のヴァージョン名が"ホラーズ・コズミック・ダブ"であるように、ウィッチ・ハウスはチルウェイヴとも交わっているようだ。
この"新しいアメリカのアンダーグラウンド"に関しては英米間でずいぶんと激しい議論がある。最初に仕掛けてきたのは僕が知る限りではUKの『ガーディアン』で、今年の初めに同紙は、「ブロガー・ロックは政治的鋭さを欠いている」という皮肉たっぷりの論考を掲載している。ビーチ・ハウス、ウッズ、ウェイヴス、サーファー・ブラッドといった自然系の言葉が入ったバンド名のバンド、もしくはジュリアン・リンチ、ダックテイル、ジェームズ・フェラーロといったローファイ・アーティスト(WIRE誌言うところのヒプナゴジック・ポップ=入眠ポップ)は、逃避的な田園生活を賞揚し、政治や現実に対する無関心と怠惰をを肯定する......といった内容である。もちろんアメリカからの反論はすぐに起きた。「それは逃避ではない」と、このシーンを擁護し続けている有名な音楽ブロガーがやり返した。「中産階級的経済や政治価値観にオルタナティヴなサイキック・リアリティを切り開くためのプロセスである」
すると『タイニー・ミックス・テープス』が議論に乗った。「なにがどうよ、ローファイ・インディ音楽の政治的価値」というわけで、ことの成り行きを読者に説明して、そして議論を呼びかけている。結果、大量の意見が寄せられた。ある人は「ローファイには政治性がない」と認め、ある人は「政治を求めてローファイを聴いていない」と当たり前のことを主張し、またある人は「なぜ僕たちは労働、労苦、破壊、殺人がない世界を空想していてはいけないのだろう?」と素朴な問いを発し、またある人は「逃避主義は政治的にはもっとも保守的な方法論だ」と説き、またある人は「しかし、カール・マルクス言うところの疎外者として僕たちは......、だから弁証法的に言えば......」と論を捻り、そして多くの人はその源流であるアニマル・コレクティヴの音楽を語り、そして話は......オネオトリックス・ポイン・ネヴァーにまでおよんでいる。英米で湧き上がっているこの議論は、ご覧のように実に広がりがあって、チルウェイヴもグロー・ファイもウィッチ・ハウスもどうでもよくなってくるほど読んでいて面白い。
底意地の悪い『ガーディアン』は、そして、インディ・ロックを愛するアメリカの若者たちの大量な言葉をスルーして、別の角度から逆襲を仕掛ける。今度は「インターネットはローカルな音楽シーンを殺したか?」と題して、チルウェイヴがどこか固有の、現実の現場を持たずにインターネットを通じて起きたムーヴメントであることから、それはいままで豊かな音楽文化を育んできたローカル文化を殺すものだいう論考を掲載する。
まあ、興味がある人は読んでください。あらためて言うことでもないのだろうけど、イギリスってやっぱ音楽文化にプライドがあるね、いざとなったらビートルズを出せるもんなー。そう、「マージービートというローカリズムがビートルズを生んだ」と言える。でも、それは......ときとして強者の論理にも聞こえる......というか、『ガーディアン』はどんな言葉を使ってでも、チルウェイヴを評価したくないのだろう。
"カム・トゥゲザー"のようになれなかったからこそ"マイ・ガールズ"は切り開いたのかもしれない。アンダーグラウンドで非政治的な音楽は、心が満たされる秘密の場所を追い求めるように、彼らの理想郷を拡大している。「オルタナティヴなサイキック・リアリティを切り開くためのプロセスである」とブロガーは言った。オルタナティヴなサイキック・リアリティ......なんとも際どい言葉である。
野田 努