Home > Reviews > Album Reviews > Amon Tobin- ISAM (Control Over Nature)
日本版のアマゾンでは、「ミュージック」というコーナーと「クラシック」が分かれている。US版のアマゾンではロックやジャズなど他のジャンルと同じように「Music」のいち部として並列されているが、UK版やカナダ版では「Classical」は「Music」と分けて別項目になっているし、ドイツ版でも「Klassik」があり、フランス版でも「Classique」がある。
これはUKの新聞『ガーディアン』において「Sports」と「Football」が別々に分けられているのと似ているが、「Football」はたしかに彼らにとって特別な国民的なスポーツなのだから、まあ、そうか......と思えるのだけれど、「Classical」はその意味から言って、「古典的」で、「代表的」で、「模倣的」で、しかも「名作」というニュアンスまで含んでいるのだから、そのなかにマイルス・デイヴィスも入っていてもおかしくないはずだが、もちろんない。
ちなみにピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンは「Classical」に入る。現代音楽とはクラシックの発展型だからだが、もちろんカンもクラフトワークも「Music」や「Musik」だ。国の予算を使いながら大学や研究所で電子音を鳴らしていたほうが、自力で実験していたその生徒よりもいまだ偉そうにしているというのも、2011年において腑に落ちない。
そもそもそれらをクラシックと呼んだのもヨーロッパが世界を支配していた時代の名残であって、アフリカ系アメリカ人がDJカルチャーにおいて歴史的に評価の高い作品のことをクラシックと呼び直したのも、「古典」とはすでに西洋音楽の価値観のみに決定されないことを暗に主張していたからだろう。
こうした価値の相対化をもっとも印象づけたのは、鼻が高くて有名なグラムフォンが130年以上の歴史を誇るベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏のラヴェルやムソルグスキーの曲をカール・クレイグ&モーリッツ・フォン・オズワルドにリミックスさせたことだろう。その後に、フランソワ・ケヴォーキアンによるリミックスまで出しているが、クラシックに関して無知にひとしい僕から見ても、正直もうちょい意地というか、プライドってものを見せて欲しかったところだ。それまで頑固だったじいさんがぽっくりいってしまったような寂しさを感じたのは僕だけではないだろう。
リチャード・D・ジェイムスが『ドラックス』においてクラシックのほうをちらりと横目で見たことは、ヨーロッパのIDMにとって大きかったのではないだろうか。スコアも書けないであろうアシッド・ハウスの子供がある程度の年齢を積み重ねていったとき、さすがにいつまでも黒人音楽からヒントをもらってばかりじゃマズいと思ったのかもしれない。こと電子音楽に関してはクラシックから生まれたものであるという歴史を思い出したのかもしれないし、まったく違うかもしれない。なにせその後、悪あがきのように『金のためにやったリミックス集』を出している。
いずれにしてもゼロ年代以降、オウテカのようにさもアカデミズムとは距離を置いているかのように、オールドスクールなエレクトロに執着する連中もいれば(むしろ彼らの性急な距離の取り方のほうが憧れの裏っ返しのように思えるときがある)、ミラ・カリックスがいつの間にかギャビン・ブライヤーズと共演したりとか、生存競争の激しいこの音楽業界において、20年もの年月を経たIDMもいつまでものほほんとしているわけにもいかず、ある意味ではいまこそ頭の運動をしなければリスナーの興味を惹きつけてはいられなくなっている。
そういう意味では、実は、いまだからIDMに注目するという手もある。作家性が問われているし、本当に彼らは我々の耳を楽しませてくれるのか、あるいは我々がこの10年楽しんできた音楽の正体は何だったのか、そろそろ見極めるときなのだろう。
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで生まれ、主にUKで育ち、2002年にモントリオールに移住したアモン・トビンは彼の拠点であるロンドンの〈ニンジャ・チューン〉がヒップホップに触発されながらエレクトロニカとの境界線で発展していったように、ブレイクビーツをあの手この手でいじくりまわし、とても個性的な作品を発表してきている。古いジャズや映画音楽のブレイクを切り貼りした1997年のファースト・アルバム『ブリコラージ』はとくに人気作で、僕個人も〈ニンジャ・チューン〉のなかのベストな1枚に挙げたいほど好きなアルバムだが、この頃から彼の細かくエディットされたブレイクは鼓膜に心地よく、曲によっては笑いがこみ上げてくるほど痛快だった。それ以降、彼はわりと出す度に批評的には成功しているが、実際にそれがどこまで売れているのかは僕には予想もつかない。
というのも、玄人筋から評判の良かった前作にあたる2007年の『フォーリー・ルーム』の複雑さが、僕には頭では「面白い」と思えても『ブリコラージ』のように心までもが笑うようなことにはならなかった。ある意味で『ブリコラージ』はイージー・リスニング的で、お気楽なアルバムだったが、『フォーリー・ルーム』は作品というものを目指したアルバムだった。そしてある時期から彼は、ハッパを加えたイージーリスナーを相手にせずに、自分の作品というものに真っ向から取り組んでいるようだ。
さて、彼にとって7枚目のソロ・アルバムとなる本作『アイサム』は、カタログ的にも作品の質的にも、『フォーリー・ルーム』以降のアルバムだ。僕はこのアルバムから逃げようかと思ったが、結局は聴いて、いまこうしてその感想を言語化している。
『アイサム』は、古いレコードからのサンプルを止め、フィールド・レコーディングによる音を電子的に加工することで作られている。クラシックの文脈言えばミュージック・コンクレートの発展型だが、周知のようにこれはいまではテクニックとしては一般的で、特筆すべきことでもない。『アイサム』は、昆虫の死骸を使って造形物を作ることで知られるUKの若手のアーティスト、テッサ・ファーマーとの共作となっている。共作といっても、彼女のアート作品にトビンが音楽を付けたといったところだろうか。こう書いていくと、マシュー・ハーバートの『ボディリー・フィクションズ』を思い出す人もいるだろうが、『アイサム』には前者にはない異様とも言える迫力がある。トビンの音楽的手法がドラムンベースに負っているからというのもあるのかもしれない。しかしそれでも『アイサム』は小さな生物の死骸で構成された新しい生き物への並々ならぬ、強い思いが込められている。いわゆる力作というヤツだ。
ヘッドフォンで聴くとよくわかるのだが、音が軟体動物のように動き、そして潰されていくようだ。あやまって道端にいたカナブンを踏んでしまったときの「ぐしゃ」という音がビートを刻んでいるようでもある。クラブ系のお約束事である反復による陶酔感はいっさいない。絵の具を壁にぶちまける抽象画の画家のように、音を左右ぐいぐい引っ張ったり、潰したり、流し込んだりしている。メロディらしいメロディはない。音による「彫刻」を目指しているとのことだが(オウテカも同じようなことを言っていた)、立体音像のことを指しているのだろう、たしかに聴覚から3次元を感じる。奇妙な、異質な、さまざまな音が細切れに統合されていくさまは圧倒的で、気楽に聴ける代物ではないが聴き応えはある。"マス&スプリング"のような、音のバネがぼよよーんと収縮しているような曲、"ベッドタイム・ストーリーズ"のようによくコントロールされた曲が僕には面白い。
アートワークの美しさにもっとも多くが重なるのは"ナイト・スウィム"だろう。不規則に鳴る竪琴の音とぷちぷちいう豆粒のノイズが脳のなかに新鮮な空気を送り込んでくれるようだ。
"ウッドン・トイ"や"キティ・キャット"のような歌モノもやっているが、『アイサム』はポップスではないしクラシックでもない。ここにはドラムンベースの残滓もない。イージー・リスニングでもない。IDMが立ち向かっているところに立ち向かっている作品である。
野田 努