Home > Reviews > Album Reviews > やけのはら- This Night Is Still Young
セミの鳴き声を聴いていると少年時代を思い出す。毎日のように泳ぎ、海を眺め、虫捕りや釣りに夢中になっていた日々。遊び疲れて、夕食前に布団の上でうたた寝をしては親に起こされていたあの日々である。
やけのはらのソロ・デビュー・アルバムからはセミの声が聴こえてくる。が、彼のそれは少年時代の郷愁ではない。現在進行形の夏であり、そして青春なるもののいちぶである。それは切なくも曖昧な、とらえようのない埃っぽい路上の話へとつながっていく。
やけのはらとの出会いは、4年前の夏だった。時間つぶしにたまたま入った、静岡市の中心街からはずれにある服屋に置いてあった音楽イヴェントのフライヤーの1枚を手にとって、僕は店番をしていた女性に「これ、面白そうですね」と言った。「私も行きたいんですよ~」と彼女は言った。そしてこう続けた。「やけのはらを聴きたいんです」
その音楽イヴェントには、やけのはらよりも有名な人たちの名前が並んでいた。それでも彼女は、清々しい笑顔で「やけのはらを聴きたいんです」と言ったのだ。これが僕が、やけのはらを意識するようになったきっかけだ。やけのはら......なんていう名前のMCだ。その名前は、地方都市のこんな辺鄙な場所にある服屋の店員にまで響いているのだ。
実を言えば、最初にやけのはらを教えてくれたのはブッシュマインドとSFPだった。その夏の半年前の冬、僕はSFPの最初のアルバムのためのマスタリングに付き添ってデトロイトに行った。スタジオに入って、そこで初めて"Summer Never Ends"を聴いたのだ。やけのはら......なんていう名前のMCだろう。その名前はハードコアのもっともラディカルなシーンにも届いているのだ――そのときもそう思ったものだった。
『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』は夏ではじまり、夏で終わる。甘さと苦々しさが混じったポップなラップ・アルバムで、それは初期のRCサクセションや初期のフィッシュマンズ、最近で言えばS.L.A.C.K.のデビュー・アルバムにも通じる感性を有している。つまり、社会が用意したレールの上からはぐれてしまった青春が活き活きと描かれているのである。それは『オリジナル・パイレート・マテリアル』をはじめとする、ゼロ年代以降のポップ・カルチャーでたびたび登場する小さな......しかしより親密なコミュニティの話、この厳しいご時世を生きている新世代のボヘミアンたち、やけのはらの言葉で言えば「夢も希望も砂まみれな」連中......の物語となって展開する。
磯部涼がやけのはらに取材する前に、レコード会社で担当者がPVを見せてくれた。それは江ノ島で撮影した映像で、複数の男女が屈託なく嬉しそうにはしゃいでいる。なんとも楽しそうな若者たちだ。友だちがたくさんいて、何人かの水着姿の女性や、スケボーが上手な子供までいる。「いいな~」と思う。自慢ではないが、僕の20代なんてこんな格好いいものではなかった(ま、それはおいておいて)。でもそれが、やけのはらの"俺たち"というリアリティなのだ。「俺たちが見ている景色が夢だとしたら 最高にアホらしく笑えて スリル満点の夢にしよう 一瞬のまやかしだとしても 錯覚や幻想だとしても 信じていたいと思える何かを見つけたんです この夏はきっと終わらないって なんとなくそう思った」(Summer Never Ends)
「最高にアホらしく笑えて スリル満点の夢」を共有できる"俺たち"、SFPの12インチ・シングルにそのいちぶが収録された"Summer Never Ends"は、アルバムの入口としては最高の選択だ。この短い曲には、やけのはらの得意とする甘く切ない叙情主義がよく表れている。僕の計算が正しければこれは5年前の夏に書かれた曲だ。
2曲目の"ロックとロール"は〈ローズ・レコーズ〉のコンピレーションに収録されていたキャッチーな曲で、彼のロックンロールへの想いが語られている。つまり、ラップによるロックンロール賛歌だ。続く、粗大ゴミを宝に変えようと繰り返す"SUPA RECYCLE"は消費社会への批評だが、曲調はポップで、アッパーなパーティ・チューンとなっている。この展開には、シリアスなテーマをシリアスに語らないという、やけのはらの特徴がよく出ている。
4曲目の"自己嫌悪"はやけのはらが影響をうけたキミドリのカヴァー曲だ。彼のぶっきらぼうなラップはクボタタケシからの影響だと思われるが、これもまた、お涙頂戴の歌謡ラップにも、あるいはラップの厳めしいマッチョイズムのどちらにも与しない彼のスタンスが表れている。
クライマックスはアルバム後半にある。"DAY DREAMING"から"Rollin' Rollin'"、そして七尾旅人がリード・ヴォーカルを務めるR&Bソングの"I REMEMBER SUMMER DAYS"にかけてがそうだ。"DAY DREAMING"はブッシュマインドの『ブライト・イン・タウン』(2007年)に収録され、〈セミニシュケイ〉からもシングル・カットされている曲だが、アルバムではよりメランコリックな曲調に変換されている。これもまた"Summer Never Ends"と同様、やけのはらの叙情主義が貫かれた曲で、日本のハードコア・シーンとそのアンダーグラウンドなフリー・パーティへの深い思いが綴られている。そして"Summer Never Ends"に続く"Rollin' Rollin'"のジャジーなヴァージョンがまた良いのだ。それはPPPクルーとも共通するあか抜けたアーバン・ソウル・サウンドで、オリジナルとは違った魅力を放っている。もちろん七尾旅人の甘い歌がこのアルバムに親しみやすさを与えていることは言うまでもない。だが、それにも増して興味深いのは、やけのはらが、アルバムにおいてある種のあか抜け方、つまりファッショナブルな響きを強調している点だ。青春音楽とはスマートでなければいけないとでも言いたげなまでに、やけのはらは洗練されたR&Bスタイルを注入している。一瞬......、まあほんの一瞬だが、シュガーベイブ流のシティ・ポップスかと錯覚するかもしれない、が、しかしやけのはらの抑揚のない声とぎこちなさが奇妙な軋みを発している。その微妙なズレが彼の音楽の味なのだ。
そして......アルバムからセミの声が聞こえると、最後の曲"GOOD MORNING BABY"が待っている。美しいなエレピの音と優しいストリングスからはじまるこの曲で、やけのはらは最後の最後まで自分の前向きさを強調する。「上手くいくさ大丈夫だぜ」、リスナーにそう話しかける。「大丈夫だぜ」の根拠について、このアルバムだけでは説明不足でもある。それでも彼は「大丈夫だぜ」を言う。悲観しようが楽観しようが自由なんだし、なんだかよくわからないけれど、「大丈夫だぜ」、そう思っていたほうが精神の健康上よろしい。『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』はそういうアルバムである。
僕がセミの声を聞いても自分の20代を思い出せないのは、自分の青春が『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』とは真逆だったからだ。だいたい80年代に複数の男女で海に遊びに行くなんて......いや、これ以上は止めておこう(とにかく僕自身は、どう考えても格好悪い青春派だったのだ)。
『ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング』は、ブッシュマインドが『ブライト・イン・タウン』で表現したゼロ年代におけるストリート・カルチャーの真実をポップな次元で試みようとしているとも言える。アルバムからは「街に出よう」という呼びかけも聴こえる。シンプルな呼びかけだが、これがまた、80年代のある種の裕福さとは真逆の時代における青春の、かけがえのない自由を主張しているようにも聴こえる。と同時に、それは必要以上に携帯やパソコンに依存してしまった今日のライフスタイルへのアンチテーゼでもある。あるいはまた、"外で遊ばなくなった若者"という大人の決めつけに対する反発でもあるかもしれない。だとしても、やけのはらはケチなことは言わない。ネガティヴな感情への共感を忌避するように、そのうえでの前向きさを、耳にタコができるほど繰り返すのである。そしてボロボロの服を着たサンダル履きのラッパーは、この国のいたるところに溢れているドロップアウターたちに向けて(もちろんこの僕も含まれる)、心を込めてこう言うのだ。もっと音楽を聴こう。
野田 努