Home > Reviews > Album Reviews > James Ferraro- Night Dolls With Hairspray
2010年のインディはだいたいチルウェイヴの年だったかどうか、ウォッシュト・アウトもトロ・イ・モアもスモール・ブラックも結局聴き逃したが、レインジャーズの『サバーバン・ツアーズ』をよく聴いた私にはなんともわからない。
あげくのはてに、昨年末『サバーバン~』をリリースした〈Olde English Spelling Bee〉の出したジェイムズ・フェラーロの新作を今年に入って買った。これまでもフェラーロの作品を出してきた〈OESB〉は2008年のテープ・アルバム『ラスト・アメリカン・ヒーロー』を去年LP化している。そこで聴ける塊になった糸がほどけるようなギターのアルペジオとシンセサイザーの音の膜は『E2-E4』の後裔というよりライヒばりのフェイズ・ミュージックをサイケデリックに移すにあたりわざわざボタンを掛けちがえた節がある。私がいま傍点をふった、この「わざわざ」がクセモノであり、フェラーロの芯の部分にあるのは、このアルバムでも明らかである。シリアス・ミュージックとデフォルメあるいはパロディとの線引きを曖昧にしたまま全部を引き連れて行くフェラーロのコラージュ・センスはここでは1曲1曲に向けてはおらず、アルバムのコンセプトを作動させるコンセプト、物理の分野でいう「場」の概念にちかいやり方になっている。
大袈裟に書いてしまったが、ジャケットをよくよくご覧いただければおわりかりの通り、ようはこれ、MTVがモチーフなんです。砂嵐を前にオカッパ頭の男が映ったテレビ画面の左下にはMTVを思わせる「HTV(Hは"Hell"のH)」のロゴがあり、画面の前にはサーモン・ピンクのストラトキャスターが漂い、手前にはリモコンを手に髪にカーラーを巻きペディキュアを乾かす女のうしろ姿をコラージュしている。ご丁寧に一周まわってオシャレといえなくもないスタッズ(鋲打ち)・ベルト風の縁取りまであるそれらの視覚記号はこのアルバムのテーマは「MTVとその時代」だと示しているが、『ナイトドールズ・ウィズ・ヘアスプレイ』の書き割りは80年代消費文化の戯画としての『アメリカン・サイコ』のスノビズムではなく、それを頂点としたヒエラルキーの下部に位置した、オーウェルが『1984年』で予見したディストピアの全体主義をレーガン時代の反共/保守に置き換えた社会風俗としてのポップ・カルチャーであり、作中では81年にバグルスの"ラジオ・スターの悲劇"とともに開局したMTVが好んだニューウェイヴ、エレ・ポップ、ニューロマ、ヘア・メタルをシミュレートした曲を、テレビをザッピングするように執着なく並べていく。「アリエル・ピンク的な」ポップさはたしかにウリだが、それ以上に、90210の同僚であり、マトリックス・メタルズ名義でLAヴァンパイアにジョイントし、アウター・リミッツ・レコーディングス名義では"アイ・ニード・マイ・T.V."と題したシングルを出したサム・メーランことサム・メレンゲの偏愛に感化されたとみるべきかもしれない。「マイTV」を「ユーチューブ」といい換えられる世界にあって、私たちはその気になれば世界の終わりまでPVを見つづけることさえできる。最新のものだけでなく過去のものも。しかし本作はアーカイヴ消費に与してはいない。〈OESB〉の諸作に特徴的なテープ・マスター風の劣化した音色は、このアルバムではアーカイヴ自体の経年変化を印象づける。『サバーバン~』ではそれが、チルアウトと一体になっていた。『ナイトドールズ~』の場合、それはたぶん、動画共有サイトにアップした倍速録画したVHSテープの映像とリンクしている。このふたつにはレトロな音楽への既聴感と、何かがリヴァイヴァルすること対する既視感が二重写しになっている。低予算のスタジオ・セット、DCブランドの逆三角形のシルエット、スプレイでオッ立ったヘアスタイル、マイケルの"スリラー"、シンディ・ローパーの"グーニーズ"、『悪魔のいけにえ』の撮影監督ダニエル・パールが撮ったビーフハートの"アイス・クリーム・フォー・クロウ"、それらのイメージが退色したネオンカラーの洪水のように押し寄せてくる。
松村正人