Home > Reviews > Album Reviews > Arrington de Dionyso's Malaikat dan Singa- Suara Naga
ケチなことを言うようで恐縮だけれど、再結成したザ・ポップ・グループがサマー・ソニックで来日すると知って、僕のようにリアルタイムで熱心に聴いていた夢見がちな世代――1978年に2800円払ってUK盤を買った人なんて決して多くはないだろうけれど――はけっこ失望しているんじゃないだろうか。よりによってなぜあのザ・ポップ・グループが......と思っていることでしょう。しかしまあ冷静に考えてみれば、再結成とは屍体を墓場から掘り起こすようなものであって(だからアリ・アップはザ・スリッツは再結成ではないと強調したのであって)、マーク・スチュワートの初来日時のあの素晴らしかったよれよれのステージとは比較にもならないだろうし、そう考えればぜんぜんアリなのだ。が、それにしてもなぁ......("ウィ・アー・オール・プロスティチューズ"を演奏したら爆笑するしかないが、きっと笑えないだろうし)。
セックス・ピストルズやザ・クラッシュからファッション性をさっ引いて、さらに過剰に政治と哲学とアヴァンギャルドを詰め込んだのがザ・ポップ・グループだった。その音楽を戦地の"野火"のようだと形容していた人がいたけれど、『Y』とはそうした喩えが泉のように湧いて出てくるほどの作品だった。ザ・スリッツもそうだったが、ポスト・パンクの時代は、西欧主義を挑発するかのような、ある種の野蛮さが賞揚された。ことにザ・ポップ・グループのような、サイモン・レイノルズ言うところの"ディオニソス的プロテスト・ミュージック"すなわち"激情派の反抗"の背後には、キャプテン・ビーフハートからの影響がうかがえる。日本で言えばじゃがたらも同類で(そして一時期のボアダムスにもそういうところがあった)、ビーフハート系のディオニソスはワールド・ミュージック的ななものへとアクセスする。まあ、それもいまとなっては秩序的なものへの毒づき方のひとつのクリシェと言えなくもないけれど、それを多数の耳を惹きつけるほどの高みに持っていけるバンドはそう多くはない。90年代末は狂ったガレージ・パンク・バンド、オールド・タイム・レリジュンで活動していたアーリントン・デ・ディオニソによるプロジェクト、マレイカット・デン・シンガ(Malaikat dan Singa)のアルバム『スアラ・ナガ(Suara Naga)』はまさしくビーフハート~ザ・ポップ・グループの熱狂と陶酔の系譜に位置づけられる作品である。
インドネシアのデス・メタル・バンドがフリー・ジャズを演奏したらどうなるか想像して欲しい。それがこのアルバムである。アーリントン・デ・ディオニソはインドネシア語で、むせかえるような声で雄叫びをあげる。なぜインドネシア語なのかはわからないけれど、とにかくこのアルバムを家で聴いていると、さすがに家人たちも「何これ?」と言ってくる。それだけこの音楽には耳障りな異様さがあるのだ。ところどころファンクもあり、リズミックなうねりが熱狂を待ちわびていることは明かである。ギャング・ギャング・ダンスやチューン・ヤーズと同様に、ある種の空想的ワールド・ミュージックとも言えるが、アーリントン・デ・ディオニソはポップとは真逆の方向に突進している。その過剰さにおいて、『Y』に連なるディオニソスであることは間違いないのである。
野田 努