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コーマック・マッカーシーは2005年に発表した小説で、「老人が生きる国はない(原題『No Country for Old Men』、邦題『血と暴力の国』黒原敏行訳、扶桑社)」と言っていた。その舞台がアメリカとメキシコの国境だったせいか、キャレキシコの新作を聴いていて僕の脳裏をよぎるのは、その映画版『ノーカントリー』において「老人」であったトミー・リー・ジョーンズの額の皺である。コーエン兄弟のような優等生では原作の破壊的なエネルギーをじゅうぶんに出せているとは言いがたかったが、それでもハビエル・バルデムの魔物としての存在感と、ジョーンズの皺が映画に奥行きを作っていた。奇しくも同年の2007年公開だったポール・ハギス『告発のとき』にもジョーンズは出演していたが、そこで描かれていたのはアメリカの価値観の終わり、「さかさまの星条旗」が象徴するというアメリカからの救援信号であった。その頃から、アメリカの終焉ははっきりと目に見えていたということなのだろう。
スプリングスティーンが「星条旗がどこに翻っていようとも」と歌った2012年、野田努に「ただのアメリカ好き」と言われるような僕にとって、アメリカの音楽はどこか終わりを伴うものとして響いた。星条旗はずいぶん前から、さかさまに掲げられていたのだ。ダーティ・プロジェクターズやグリズリー・ベアのような優秀なアーティストは変わらず進歩的な作品を発表したが、かつてほど注目を集めているようには見えない。そんなときに聴くキャレキシコのしっとりとした哀愁は、抗いがたくしみて来る。田中宗一郎に「寂寥感」と言われようとも、三田格に「sense of lonliness」と訳されようとも......。
拠点のアリゾナを離れてのニューオリンズ録音が話題になっている『アルジアーズ』だが、特別ニューオリンズという記号が浮上するわけでもない。何かが大きく変わっていることもない。彼らが丹念に紡いできたフォークやカントリー、マリアッチ、ポスト・ロックといった語彙は完全にシームレスなものになり、その多国籍な音楽性はより自然なものになっている。キャレキシコがこれまでずっとやって示してきた米国のルーツ・ミュージックへの深い理解と、非アメリカ音楽への興味とその丁寧な導入は、00年代のアメリカン・フォークの発展を思えば偉大な功績である。だがそれも、熟成したということなのだろう。かつてはアンドリュー・ウェザオールまで繋がり広がっていたことを思えば、この円熟は壮年期としてのそれである。ウィルコの最近作にしてもそうだったが、季節はゆっくりと秋の終わりを迎えているようなのである。"シナー・イン・ザ・シー"のエキゾチックで情熱的な演奏と歌、"フォーチュン・テラー"のただただそのふくよかさに嘆息するしかないフォーク、"メイビー・オン・マンデー"の抑えられながらも立ち上るエレキ・ギターの熱量、得意のラテン・ナンバー"プエルト"で聞かせる管楽器と弦楽器の絡み合いの官能、そのどれもが、純粋にそこに陶酔するものとしてある。そしてゆっくりとアルバムを満たしていく切なさと旅情。家の外から聞こえてくる選挙の演説の、「日本の再生」といった言葉がまったく響いてこない現在において、キャレキシコが奏でる旅への想像力、その温かさには救われる思いだ。
ラスト2トラック、"ハッシュ(静けさ)"から"ザ・ヴァニッシング・マインド(消えてゆく精神)"へと至る、ひたすら美しい時間の流れに身を寄せていると、終わっていくものへの感傷が許される感覚がする。「きみの笑顔が僕を長い一日へと立ち戻らせる/思考が消えてゆく」。そして目を閉じれば、それが終わりゆくものだとしても、心はアメリカの南部の豊かな風景へと飛ぶ。国境へと走らせる車のなかに入ってくる、暖かな風。南へ、もっと南へ。キャレキシコの歌は変わらず、遠い国の音楽が運んでくるエモーションの豊潤さでもって、わたしたちを狭苦しい場所から連れ出そうとする。
木津 毅