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『書を捨てよ、町へ出よう』のKindle版をamazonで買ってみたのは、そのときに書いていた原稿で、とある1行を引用しようと本棚を探したのだが見当たらず、そうか、先日、BOOK OFFが引き取っていった大量の本のなかに紛れ込んでしまっていたのかもしれないと思い当たったためだった。それにしても、書を買うのにも、書を捨てるのにも、家を出なくていい時代に、街へ出る理由などあるのだろうか。というか、そこには、わざわざ出ていくに値する魅力などあるのだろうか。そういえば、何をするでもなく街をぶらつくということがめっきりなくなってしまった。最近は、もっぱら、家から目的地へ、それこそ、ハイパー・リンクのように移動するだけだ。または、歩いていても、街並よりスマート・フォンの画面を眺めている時間のほうが長いかもしれない。そんなことを考えながら、ふと、iTunesを立ち上げ、約40年前の楽曲と2012年の楽曲を続けて再生してみた。たとえば、そこで歌われている街と人の関係にも変化があるのではないか。
「七色の黄昏降りて来て/風はなんだか涼しげ/土曜日の夜はにぎやか」。アイズレー・ブラザーズの"イフ・ユー・ワー・ゼアー"を下敷きにした軽やかなファンクの上、22歳の山下達郎がみずみずしい声で歌っている。「街角は いつでも 人いきれ/それでも陽気なこの街/いつでもおめかししてるよ/暗い気持ちさえ/すぐに晴れて/みんなうきうき/DOWN TOWNへ くりだそう」。先日、『CDジャーナル』誌で、ライターの松永良平と対談した際、このシュガー・ベイブの楽曲"DOWN TOWN"(75年)についての話になった。それは、「あたらしいシティ・ ポップ」と題した特集記事のひとつで、テーマは、2012年、山下達郎や松任谷由実のベスト・アルバムが売れる一方、インディ・ポップにおいても、"シティ・ポップ"が裏のモードと言っていいような様相を呈していた理由を探ることにあった。
たとえば、かせきさいだぁはその名も『ミスターシティポップ』というアルバムをリリースしている。彼はすでに長いキャリアを持っているが、シティ・ポップをキャッチ・コピーに掲げ、山下達郎そっくりの歌声を聴かせる83年生まれのジャンク・フジヤマも話題になったし、一十三十一の5年振りのオリジナル・フルレンス『CITY DIVE』のブックレットでは、プロデューサーのクニモンド瀧口が、制作の発端を、彼女の「ルーツでもあるシティ・ポップなアルバムを制作しようという話にな」ったことだと語っている。また、そこで話し相手を務めている、「シティ・ポップスをリアルタイムで聴いて来た」マンガ家の江口寿史は、「これはシティ・ポップスの金字塔アルバムですよ!」と太鼓判を押す。しかし、ふたりは、山下達郎や荒井由美、大貫妙子、吉田美奈子、佐藤博といった名前を挙げながら、同ジャンルについて語る内に、むしろ、その定義の曖昧さを明らかにしていく。「今、いろんな人が選曲したシティ・ポップスのコンピレーション出てるじゃないですか? 僕からすると"これ、ちょっとシティ・ポップスじゃないんじゃないか?"ってのもあって。その人にとってはシティ・ポップっていうか。それぞれ幅広いよね(笑)。"これ!"と言えない何かがあって」(江口)。......はたして、"シティ・ポップ"という言葉は何を指しているのだろう?
たとえば、木村ユタカ編著『JAPANESE CITY POP』(02年)には、70年代から現在にかけて発表された、計514枚のアルバムが載っているものの、その音楽性は、ロック、フォーク、フュージョン、ディスコ、ブラック・コンテンポラリーと、じつに様々で、決してひと括りにできない。また、"洋楽"をいかに翻訳するかは、明治以降、日本のポピュラー音楽が取り組み続けてきた課題であって、この期間だけの特徴でもない。ただし、同書のディスクガイドがはっぴいえんどのファースト=通称『ゆでめん』(70年)ではじまり、小西康陽、曽我部恵一、スピッツ、ジム・オルークfeat.オリジナル・ラヴ、くるり等が参加したトリビュート・アルバム『Happy End Parade』(02年)で終わるように、そこには、"はっぴいえんど史観"とでも言うべき、明確な基準がある。じつは、同時代的には、"シティ・ボーイ"に比べて、"シティ・ポップ"という言葉は、あまり一般的でなかった。DJ/選曲家の二見裕志が細野晴臣、鈴木茂、大貫妙子等のリリースで知られる〈パナム・レーベル〉のディスコグラフィーからセレクトしたコンピレーション『キャラメル・パパ~PANAMU SOUL IN TOKYO』(96年)の、二見自身によるライナーになると、はっきりと、その音楽性が"シティ・ポップ"と名指されているが、それは、90年代半ば以降、レア・グルーヴの延長ではっぴいえんどからシュガー・ベイブへと続く系譜が掘り返され、歴史化されるなかで(再)浮上したタームだと言えるのではないか。
一方、シティ・ポップと同時代の音楽を指す言葉に、"ニュー・ミュージック"があって、そちらは広く使われていた。音楽評論家・富沢一誠の著作『ニューミュージックの衝撃』(79年)は、アメリカのコンテンポラリー・フォークをスノッブな若者たちがカヴァーし、そこから、〈フォー・ライフ・レコード〉(井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等)に代表される、オーヴァーグラウンドなムーヴメントが生まれるまでを追ったルポルタージュだ。あるいは、それは、大瀧詠一が"分母分子論"で批判した、日本のポップ・ミュージックがガラパゴス化する過程だった。実際、同著には、荒井由美が登場するものの、彼女のバックを務め、当時の歌謡曲における洋楽的なセンスを担っていたティン・パン・アレー――言うまでもなく、はっぴいえんどから分派したバンドー――は重視されていない。そんなニュー・ミュージックから現在のJ-POPまでがひと続きと考えると、対するオルタナティヴを、ニュー・ウェーヴとはまた違う文脈で提示する際に、"シティ・ポップ"という歴史がつくられたという側面もあるのかもしれない。
とは言え、『JAPANESE CITY POP』の続編である『クロニクル・シリーズ~JAPANESE CITY POP』(06年)には、『ヤング・ギター』誌77年2月号の「シティ・ミュージックって何?」という記事が再録されている。「"シティ・ミュージックってどんな音楽なんですか?"と訊かれても困ってしまう」とはじまる同文は、「何なら試しにシティ・ミュージックを定義してみようか?――都会的フィーリングを持ったニュー・ミュージックかな」と、シティ・ミュージックなるものとニュー・ミュージックを区別した後、76年に発表された代表的作品として、南桂孝『忘れられた夏』、山下達郎『サーカス・タウン』、大貫妙子『グレイ・スカイズ』、荒井由美『14番目の月』、吉田美奈子『フラッパー』、矢野顕子『ジャパニーズ・ガール』を挙げているのだから、当時、"シティ・ポップ"という言葉が一般的でなかったとしても、同様の価値観はあったのがわかる。
ちなみに、前述のクニモンド瀧口は、「僕は敢えて、シティ・ポップと言いたくない派なんです」「本当はシティ・ミュージックって言いたいんですけど」と発言(『CITY DIVE』ライナーより)し、松任谷由実『流線形80'』(78年)からバンド・ネームを引用した自身のユニット"流線形"のファースト・EPにも『シティ・ミュージック』(03年)と名付けている筋金入りだ。『CITY DIVE』のジャケットにしても、松任谷由実『VOYAGER』(83年)へのオマージュなのではないか? グランド・マスター・フラッシュは"ザ・メッセージ"(82年)で都市をジャングルに見立て、サヴァイヴするべき場所として歌ったが、同年代に発表された『VOYAGER』では、都市はリゾートのプールに見立てられ、彼女はそこを優雅に泳いでいる。そして、それこそは、80年代におけるシティ・ポップの核となっていく思想であった。
はっぴいえんどがシティ・ポップの起源とされるのは、結成当初のコンセプトが、バッファロー・スプリングフィールドのサウンドに日本語の音韻を乗せることだったように、グローバルでソフィスティケイテッドな音楽性を志していただけでなく、何よりも彼等の歌が、シティ=都市に対する批評性を持っていたためだろう。ただし、『ゆでめん』で描かれる都市は、いわゆる"シティ・ポップ"という言葉からイメージされるようなきらびやかなものではない。アルバムは、故郷を捨て、都会で孤独感に苛まれる若者が、なんとか自分を奮い立たせる"春よ来い"ではじまる。作詞を手掛ける松本隆の、「あやか市 おそろ市や わび市では/ないのです ぼくらのげんじゅうしょは/ひとご都 なのです」("あやか市の動物園")や、「古惚け黄蝕んだ心は 汚れた雪のうえに/落ちて 道の橋の塵と混じる」「都市に降る雪なんか 汚れて当り前/という そんな馬鹿な 誰が汚した」("しんしんしん")といった言葉から読み取れるのは、むしろ、近代都市批判である。
続くセカンド・アルバム『風街ろまん』(71年)における松本の歌詞は、前作に比べて淡々とした情景描写が多く、一見、レイドバックしたフォーク・ロックに向かったサウンドに合わせて、丸くなったように思える。しかし、"風をあつめて"で、何の変哲もない街並の上を路面電車が飛んで行くシーンが象徴するのは、リアリズムではなく、サイケデリックだ。彼は、『ゆでめん』の延長で、現実の都市と対峙するのではなく、架空の都市を夢想することを選んだのだ。
松本は1949年、東京都港区の青山地域に生まれている。彼のリリシズムの奥深くで疼いているのは、少年時代に始まった東京オリンピックに伴う都市開発で馴染の風景を奪われたことによる喪失感であり、創作行為こそがそれを癒したのだという。
「ぼくは幼少時代を証明する一切の手がかりを喪失してしまったわけだ。そこには一本の木も、ひとかけらの石も残っていない。薄汚れたセンター・ラインが横たわっていただけだった。」
「その時、ぼくは見知らぬ街をその都市に見出した。ぼくの知っている街はアスファルトとコンクリートの下に塗りこめられてしまっていた。ぼくはそのことを無為に悲しんだわけではない。だが、ロマンもドラマも特にない戦後世代の永遠に退屈な日常のなかで、そのような幼児体験の記憶まで都市に蝕まれるのが嫌だったわけだ。」
「ぼくは視る行為に全てを費やした。何も見逃さないこと、街の作るどんな表情も擬っと視つめることによって、ぼくは自分のパノラマ、街によって消去されたぼくの記憶と寸分狂いない〈街〉を何かの上に投影すること、それが行為の指標になったのだ。スクリーンは何でもよかった。眼球の網膜でも、レコード盤の暗い闇の上でも、原稿用紙の無愛想なますめでも。ぼくはそれらのどれにでも、〈もうひとつの街〉である〈風街〉を描こうとした。」
松本隆『微熱少年』(75年)収録、「なぜ(風街)なのか」より
言わば、シティ・ポップとは、現実の都市に居ながら、架空の都市を夢見る音楽である。はっぴいえんどの場合、それは、前述した通り、近代都市批判を目的としており、『風街ろまん』に収められた"はいからはくち"にしても、シティ・ボーイを揶揄したものだが、しかし、『書を捨てよ、町へ出よう』(67年)で書かれているように、そこは、彼等を家父長制の抑圧から解放してくれる場所でもあったはずだ。そして、同ジャンルも、シュガーベイブの"DOWN TOWN"を転機に、現実の都市をより発展させたものとしての、架空の都市を歌っていく。社会学者の北田暁大は、著作『広告都市・東京』(02年)で、73年、西武グループが〈PARCO〉のオープンとともに、区役所通りを"公園通り"と改名、渋谷を"消費のテーマパーク"化していった戦略について分析しているが、シティ・ポップはそのBGMとなったのだ。
あるいは、はっぴいえんどは、「亜米利加から遠く離れた 空の下で/何が起こるのか 閉ざされた陸のような/こころに 何が起こるのか」(『ゆでめん』収録、"飛べない空"より)という問題提起からはじまり、「さよならアメリカ/さよならニッポン/バイバイ バイバイ/バイバイ バイバイ」(73年のサード『HAPPY END』収録、"さよならアメリカさよならニッポン"より)という別離の言葉で終わる、第2次世界大戦後の日本の対米従属体制に対するアンビヴァレントな思いを歌い続けたバンドでもあった。その点に関しても、シティ・ポップは、荒井由美が在日米軍調布基地を眺める中央自動車道を"中央フリーウェイ"(76年のアルバム『14番目の月』収録)と呼び換えたように、しだいにアメリカへの素朴な憧れを表出していく。文藝評論家の加藤典洋は著作『アメリカの影』(85年)で、田中康夫のベスト・セラー『なんとなく、クリスタル』(81年)の淡白な文章と過剰な情報の裏に、日米関係に対する批評的な視点を読み取った。数多のレコードが登場する同小説において、主人公の恋人はフュージョン・バンドのメンバー兼スタジオ・ミュージシャンとして活動しているものの、シティ・ポップはどこか馬鹿にされている節がある。それは、ソロ・デビュー直後の山下達郎の内省が、フォロワーである角松敏生(81年デビュー)に至ると、すっかりなくなってしまうことを思えば、仕方のないことなのかもしれない。
昨今のシティ・ポップ・リヴァイヴァルにしても、単なるキッチュやノスタルジアに留まっている作品も多いが、2012年に発表されたもののなかには、同ジャンルを批判的に検証し、音楽的に発展させようという意思を持つ作品がいくつか見受けられた。たとえば、ceroのセカンド『My Lost City』は、ラスト・トラック"わたしのすがた"の歌詞、「シティポップが鳴らすその空虚、/フィクションの在り方を変えてもいいだろ?」が印象的だ。ファースト『WORLD RECORD』(11年)は、ジャケットが、ヴァイナルA面を"City Boy Side"と銘打っている鈴木慶一とムーンライダース『火の玉ボーイ』へのオマージュということもあって、"2010年代版シティ・ポップ"と評された。そして、その発表から数ヶ月後に起こった3.11に、東京という都市が隠蔽し続けてきた問題の露呈を見た彼らは、アルバムに、F・スコット・フィッツジェラルドがニューヨークの虚像を暴いたエッセイ「マイ・ロスト・シティー」(32年)の名を掲げ、都市から生まれた音楽を変えることで、都市そのものを変えようと考えたのだ。
他にも、前述の一十三十一『CITY DIVE』では、"Rollin' Rollin'"のアレンジを手掛けたDORIAN、PAN PACIFIC PLAYAのカシーフを起用、シティ・ポップとテック・ハウスの融合に成功している。また、ディスコ・ダブ以降のセンスで日本のポップ・ミュージックをディグ/ミックスした『Made in Japan Classics』シリーズ(04年~)で知られるTRAKS BOYSのCRYSTALが、相棒のK404、イルリメこと鴨田潤と組んだ(((さらうんど)))のアルバムでも同様の試みが行われているが、その完成に際して、CRYSTALのブログにアップされたエントリーは、秀逸な現代シティ・ポップ論である。
「『シティポップ』という言葉を聞いてまず思い浮かべるのは、80年代のある種の日本のポップス。欧米のポップ・ミュージックを消化した洗練された音楽性を志向し、歌詞やビジュアルは、豊かな都会生活とそれを前提としたリゾートへの憧れをテーマとすることが多い。」
「でも当たり前だけど、それはあくまで80年代の日本という場所・時代でこそ成り立った表現の傾向だと思う。」
「インターネットにより情報の格差が少なくなって、都会にいなければ得られない情報やモノはなくなったと言ってもいい。経済状況にしても、高度経済成長末期の繁栄を謳歌した当時とは全く違う。」
「そんな今2012年に『シティポップ』と呼ばれるものがあるとしたら、それはどんなものなのか考える。」
「『シティ=街』は、もはや『都会』を意味しない。それは文字通りの意味で、僕たちが息をして暮らす『街』そのものだ。」
「それは僕にとっては自分が住む長野市だし、勿論東京に住んでいる人だったら、それは東京になるだろう。」
「自分が生活する『街』で、どんな風に遊ぶのか。そこでどうやって人と交わって、どんな『文化』をつくっていくのか。」
「何かに憧れるのではなく、地に足つけて自分の周りを面白くしていって、例え稚拙でも、他でもない自分自身の手で『街』をカラフルに塗り替えていくこと。」
「今『シティポップ』と呼ばれるものがあるとしたら、そんな風に『街』を遊んでいる人たちのためのポップスだと思う。」
CRYSTAL"City & Pop 2012"より
そして、公園通りが生まれて40年が経った。道沿いの〈PARCO PART2〉は、もう随分と長い間、廃墟のまま放置されている。いまの都市が夢の残骸なのだとしたら、そこに、プロジェクションマッピングさながら、架空の都市を投射する音楽。そんな、2012年を代表するシティ・ポップ・ソング――新しい"DOWN TOWN"が、"水星"だ。正確には、トラックメーカーでヴォーカリストのtofubeatsがラッパーのオノマトペ大臣をフィーチャーしてつくった、同曲のデモ・ヴァージョンがsoundcloudにアップされたのは2010年6月のことだった。翌年9月に、まずはヴァイナルでリリース。続いて、2012年6月にiTunesで配信されるやいなや、総合アルバム・チャートで1位を獲得したという事実は、話題が長続きしないと言われるネット時代にあって、この楽曲の普遍性をまずは数字の面から実証してくれる。
ただし、"水星"は、これまで挙げてきたアーティストとは違って、シティ・ポップというジャンルを意識しているわけではない。トラックにしても、下敷きになっているのは、テイ・トウワが手掛けたKOJI1200の"ブロウ ヤ マインド"(96年)で、ヒップホップ・ソウル・リヴァイヴァルと評したくなるつくりだ。それでも、なぜ、同曲が同ジャンルを引き継ぎ、更新するものだと考えたのかと言えば、まずは、イラストレーターのMEMOが手掛けた、80年代半ばの少年マンガを思わせるジャケットや、リズムステップループスによる、山下達郎がプロデュースした竹内まりや"Plastic Love"(84年)とのマッシュアップ"I'm at ホテルオークラ MIX"のインパクトが強かったというのはある。しかし、それだけではない。
あるいは、バックグラウンドにしても、tofubeatsは、シティ=都市ではなく、郊外文化の影響が強い。90年、神戸市近郊のニュー・タウンに生まれた彼は、現在は都心寄りに越したようだが、あくまで地方を拠点に活動を続けている。ちょうど、『水星EP』がリリースされた頃だったろうか、過剰規制問題についての書籍『踊ってはいけない国、日本』を編集するにあたって、摘発が相次いでいた関西のクラブ関係者にヒアリングを進めるなかで、tofubeatsにも面会した。その際、印象的だったのは、出身地のニュータウンについて、酒鬼薔薇聖斗も同地に育っており、あのような、一見、清潔な――その実、異物を徹底的に排除する環境では何らかの歪みが起こるのは当然だと語ってくれたことだ。『書を捨てよ、町へ出よう』の時代とは違って、地方でも家父長制は崩壊しているに等しいものの、そこでは、拙編著で社会学者の宮台真司が言ったところの、新住民による同調圧力が力を増している。ましてや、外に逃げようにも、都市は受け皿として機能しなくなっている。
そんな閉塞的な状況にいた彼にとって、外の世界に通じる窓となったのは、やはり、ネットだった。「音楽やる友達居なかったけど/そんなに困らずに始まった/掲示板に上げてた.mp3 128kbps まだ中2」。konyagatanakaという、ウェブで活動し、実際に顔を見たひとがいないことで有名なプロデューサーのトラックに、盟友のokadadaとラップを乗せたdancinthruthenights名義の"Local Distance Remix"を聴けば、tofubeatsのネットに対する考えがわかる。ただし、「インターネットが縮めた距離を/インターネットが開いてく 今日も/チャットで話してる 時折顔とか忘れてる/なんか踏み切れないし煮え切らない 気持ち都会の人にはわからない/神戸の端から声だしてるけどちょっとログオフしてたら忘れられちゃうでしょ」というラインの悲哀から読み取れるように、彼は、ネット"が"現場なのではなく、ネット"も"現場なのだと言っているのであって、関係の深い〈Maltine Records〉の活動にしても、ネットとリアルの相互作用こそが重視されていることは、パーティのプロダクトや、周辺に立ち上がりつつある、シェア・ハウス等と結びついた新しいライフ・スタイルによく表れている。
そして、tofubeatsは、ヒップホップのレプリゼントだけでなく、ディギングという価値観を極めて現代的に、日本的に捉え直す。ブレイクビーツは、もともと、ブロンクスの若者たちが、親のヴァイナルを、親とはまた違った聴き方をすることで生まれたが、彼が掘り下げるのは、例えば、ネットに転がるグレーな音源であり、リサイクル・ショップで投げ売られているユーズドのCDである。神聖かまってちゃんがTSUTAYAでザ・ビートルズやザ・セックス・ピストルズに出会ったように、tofubeatsはBOOK OFFで購入した100円のJ-POPを切り刻み、その名も"dj newtown"名義で発表した。"水星"のメロディと歌詞も、カラオケで"ブロウ ヤ マインド"を流しながら書いたという。後者が収められたKOJI1200のアルバム・タイトル『アメリカ大好き!』に意味を見出すのは深読みが過ぎるとして、彼はアメリカの魅力がなくなり、都市が廃れた時代に、ネットやリサイクル・ショップ、カラオケを通して、郊外で、新しい都市=水星を夢想する。やはり、これは新しいシティ・ポップなのだ。
i-pod i-phoneから流れ出た
データの束いつもかかえてれば
ほんの少しは最先端
街のざわめきさえもとりこんだ
"水星"より、オノマトペ大臣のヴァース
「最近"ラップトップは俺らのデッキや"って主張してるんですけど」
〈&RWD〉のインタヴューより、tofubeatsの発言
かつて筆者は、スケートボーダーやグラフティ・ライターの、街をパークやキャンバスに読み替える想像力に希望を見出していた。もちろん、それは、いまでも有効だが、"PCを持って街に出よう"という無線LANについての記事の掲載より10年、ネットが新しい都市をつくり出し、そこから、新しい音楽を生み出しつつあることについて、さらに考えなければいけないだろう。オノマトペ大臣のソロEPは『街の踊り』といい、そこには、"CITY SONG"という楽曲が収められている。他にも、彼とthamesbeatとのユニット=PR0P0SEのデビュー作や、Avec AvecとSeihoのユニット=Sugar's Campaign「ネトカノ」など、同時多発的に鳴り出しているネット時代の新しいシティ・ポップたち。それらをiPhoneに詰めて歩き出せば、彼方に未来のダウン・タウンが見えてくる。
磯部 涼