Home > Reviews > Album Reviews > 友川カズキ- 復讐バーボン
復讐バーボン。私は酒場の暗がりでひとり杯を傾ける男の内面にうずまくものを思わせるタイトルにシビれながら、しかしそこに70年代的なデカダンスを見てシビれているなら、ゴールデン街で昔話に花を咲かせながらトグロまくオヤジたちと同じではないかと思ったが、友川カズキの歌を聴いて我に返った。
「花ではない 黄色が拡がってる
永遠とは 刹那のことである
とっくの昔に明日は終わった
静かならざる狂おしい夕暮れに
したたかにあおっているのは
しあさっての復讐の
復讐のバーボンのロック」(“復讐バーボン”)
すでに終わっている「明日」のさらに先の「しあさって」のために呷るバーボンのロックは、過去の仇を討つ復讐という言葉の指向性にもかかわらず虚無に向いている。友川カズキの詩は現代詩的な方法意識をことさら表に出しはしないけれども保守的ではなく、言葉はイメージで色彩豊かに結合していくが、つねにぼくぼくとしている。そんなことはとっくのとうにわかっていたつもりだった。ところが新作を聴くたびに目がさめるのは、私のモノ忘れがひどいのもあるにちがいないが、友川カズキの言葉は歌になることでさらに凄絶さを増す。アコースティック・ギターをかかえ膝をそろえイスに坐り、ツバキを飛び散らしながら文末を食いちぎるように鋭くカブリを振る歌いぶりから一転、朗々と歌い上げる友川カズキの姿をこのアルバムを聴きながら思いだす。同時にあの舞台の上の人を食ったユーモアも。その落差に人は狂気のようなものを目のあたりにした気になり目を逸らし、その実、耳はそばだてるから歌の余韻は残る。いや、余韻などと余裕綽々とはしてはいられないおそるべき残響である。
このアルバムにもそれがある。いままで以上に、といってもいい。『青いアイスピック』(PSF)から3年ぶり、スタジオ盤としては通算21枚目のアルバムである『復讐バーボン』は“順三郎畏怖”のアコースティック・ギターの大きなストロークからはじまる。順三郎とは戦前からモダニズム~シュルレアリスムの旗手であった西脇順三郎のことで、この曲は西脇の詩を元に友川が歌にした。友川カズキといえば、4作目『俺の裡で鳴り止まない詩』でとりあげ、後にアルバム1枚まるまる使った中原中也(『中原中也作品集』)を思いださないわけにはいかないが、友川は詩人(実作者)であるとともに一遍上人から山頭火から葛西善蔵から住宅顕信から、他者の言葉(と存在)に触発される人でもある。受け手でもあるのだ。それも流行に右顧左眄しない。『復讐バーボン』でも西脇順三郎のほかにもソニーロリンズ(“兄のレコード”)、ジャンポール(“『気狂いピエロ』は終わった”)、新吉高橋(“ダダの日”)など、人名がちらほらある。もっとも引用で何かをほのめかそうとは友川は狙ってはいない。詩に迷いこんだ他者が詩を異化するのを丸抱えしながら存在するから、ディランでもスプリングスティーンでもなく、朝靄をぬって走る滝澤正光様に私は――競輪はズブの素人ではあるけれども――胸を撃たれるのである。
資質という、わかったようないい方をしていいかわからないが、その側面では友川カズキの音楽は変わりようがない。変わりようがないことは代わり映えしないのではなく変わらないものが不意を突いて眼前に突き出してくる。『復讐バーボン』がとくにそうなっているのは演奏のすばらしさもあるだろう。頭脳警察/シノラマの石塚俊明、パスカルズの永畑雅人、金井太郎、坂本弘道、松井亜由美といったレギュラー陣にNRQ/前野健太とDAVID BOWIEたちの吉田悠樹(二胡)、さらに2009年の友川のドキュメンタリー映画『花々の過失』で共演したギャスパー・クラウス(チェロ)を加えた演奏陣は、曲ごとに組み合わせを変えながら歌を支えるだけでなく、このアルバムでは歌をひっぱっているところもある。資料には「完全一発録りの前例を破り、初めてスタジオ・リハーサルを行った」とある。これってわざわざ特記することなんだろうかと聴く前は思ったが、特記すべきでした。これまでは歌に対して演奏は即興(的)だったので、反応が事後的―といっても、譜面に記せないほどのものなのだが、そしてそれは一部のブルースマンのやり方と同じともいえるのだが―になることもあったが、『復讐バーボン』では事前に音を合わせることで音は不即不離になっている。もちろん緊張感がないわけではない。“わかば”の坂本弘道とギャスパー・クラウスの二台のチェロによるメロディと軋み、“馬の耳に万車券”の即興空間、あるいは“夜遊び”の後奏において私は友川バラッド(ワルツ)とでも呼ぶべき一連の三拍子系の曲の大陸的な音楽性―これはまた縄文的な三上寛とは好対照だと思うが、それについては別稿をもうけたい―がすんなり腑に落ちた。
そして『復讐バーボン』は1977年の3作目『千羽鶴を口に咬えた日々』に収録した“家出青年”の36年ぶりの盤上の再演で終わる。歌詞の一部を書き換えているとはいえ、この歌に歌われる「家出青年」の内面は36年前のこととは思えない。彼は「蒲団に潜る時『このままでええや』」と思い、「蒲団を蹴る時『このままじゃダメだ』」と思う。その煩悶は時代とは関係なく、ある世代にかぎらずとも、誰もが思いあたる節の嵌りこむ穴であるだろう。友川カズキはセルフ・カヴァーで、生きるに手いっぱいの青年の夜更けに頭をもたげる悩みと、「原発だろうと何だろうと/イヤなモノはイヤだと声を成せばいい」という問題意識を重ね合わせ、歌をなまなましくよみがえらせる。というより「『次世代のため』なぞと言うから滑稽になっちまう/『負の遺産』なぞと括るからたいがいになっちまう」と、過去と未来、以前と以後を峻別したがる人たちと、それにすらとりあわぬ人たちのおためごかしに、友川カズキは再生することで生まれる音楽のなかから、過去でも未来でも以前でも以後でもない現在から叫ぶのである。それでさえ「歌は平気でウソをつく」(“『気狂いピエロ』は終わった”)かもしれないけども。虚構がそうやって真理をつかまえることはいうまでもない。
松村正人