Home > Reviews > Album Reviews > 《《》》- Relay
一度すでに体験したという感覚を、錯覚と称するのは不当であると私は思う。むしろこのような折りには、実際にかつて一度体験したことのあるものが触れられているのだが、これ自体は、一度として意識されたためしがないゆえに、意識される形では想い出されないのである。簡単に言うなら、「既視」の感覚とは、ある無意識の空想の想起に向けられたものなのだ。
ジークムント・フロイト『日常生活の精神病理学にむけて』
類例など
ある演奏の録音と、それを参照せずに行われた別の演奏の録音を、そのまま重ね合わせることでひとつの音楽を生み出そうとする試みは、その系譜をたどるならばジョン・ケージの偶然性の音楽へと遡ることができるものの、近年のいわゆる即興音楽シーンにおいてもいくつか類例をみることができる。たとえば2009年にリリースされた吉田アミと中村としまるによる『蕎麦と薔薇』というアルバム。同じ年にリー・ノイズとバリー・チャバラによってリリースされた『ザ・シェイド・アンド・ザ・スクイント(The Shade and the Squint)』にもこうした方法論を見て取ることができる。2011年にマッティンがリリースした『エクスクイジット・コープス(Exquisite Corpse)』は、彼が書いた詩篇を譜面に見立ててバンド・メンバーがそれぞれ3分間の演奏を個別に録音し、それを重ねてカオティックなパンク・ロック調の音楽を仕上げるという手の込んだ試みである。なかでもとりわけ極端かつ過激ともいえるのは、キース・ロウ、クリスチャン・フェネス、ピーター・レーバーグらが参加する即興音楽集団M.I.M.E.O.による2007年のアルバム『サイト(Sight)』だろう。11人の演奏者がそれぞれ60分のCD-Rに5分間の即興演奏を収め、それらを機械的に合成することで擬似的な「集団即興」を行う。それは即興演奏において同じ場所と時間を共有することの意味、あるいは共演者に対して反応をするとはどのようなことなのかといったことを、なかば露悪的に遡上にのせる企てだった。
このたび〈ダウトミュージック〉からリリースされた《《》》(メツ)のセカンド・アルバム『Relay』の制作手法から連想され得るのは、たとえばこのような作品群である。たしかに、これらの作品群が独奏の累乗から「合奏」を作り上げているのに対して、《《》》のアルバムでは、合奏に合奏が重ね合わされているという微妙な異なりはある。すなわち聴いていない(聴くことのできない)相手の音だけではなく、そこに場所と時間を共有しながら聴いている(はずの)相手の音も混在しているのである。これは彼らの演奏スタイルを鑑みるならば、重ね合わされるふたつの録音=演奏に、より一層異なる傾向をもたせようとしたのではないかと思われる。だがいずれにせよ、「相手の音を聴くことができない状態で行った演奏をそのまま重ね合わせる」という手法の眼目は、即興演奏における音楽的時間/空間に切れ目を入れることによって、相手の音に対する反応のクリシェ化を回避し、意想外の展開をもたらすような偶然性を導入することにあるのだと、ひとまずはいうことができるだろう。
《《》》とその『Relay』について
《《》》は2014年から活動を開始した即興音楽グループで、大島輝之、中田粥、竹下勇馬、石原雄治の4人からなっている。それぞれギター、キーボード、ベース、ドラムスを担当すると書くと、ありふれたカルテットにみえるかもしれないが、ここから想像できるような音楽は聴こえてこないだろう。とりわけ説明を要すると思われるのは、中田粥が扱うバグシンセサイザーと竹下勇馬による自作エレキ・ベースである。バグシンセサイザーはサーキットベンディング的発想によって剥き出しにされたキーボードの基盤を誤作動(つまりバグ)させることで音を出す楽器であり、本人の言によれば「内部奏法の延長線上」にあって、アナログシンセ的なノイズ、内蔵された音色パターンの誤作動から生じる音、そしてプリセットされた音楽の自動演奏というおもに3種類の用い方があるという(1)。一方で竹下の自作エレキ・ベースは、本人のホームページなり何なりに載っている写真を参照していただければ早いのだが、エレクトリック・ベースにいくつもの電子回路やエフェクト装置などを取り付け、通常のベースでは出せないような電子音響を鳴らすことができるようになっている。ライヴの際に明滅するLEDランプは視覚的にも強烈だ。楽器の解体から新たな響きを見出そうとする中田と、むしろ器材を付け加えて新たな響きを獲得していく竹下では、自作楽器を用いている点では同じでも、そのやり方は対照的だといえる。
《《》》の4人による演奏は、今年発売されたファースト・アルバム『《《》》』において、「なにも手が加えられていない状態」で聴くことができる。括弧書きしているのは録音という加工が施されているからに他ならないが、ともあれこの一発録りのライヴ・レコーディングからは、突如演奏がはじまったかと思えば唐突に立ち止まる痙攣的/発作的な彼らの演奏スタイルを聴き取ることができるだろう。それはそれだけ互いの音に対して敏感に耳をそばだてながら瞬時に対応していくという即興演奏のありかたを示しているということでもある。
シンガーソングライターの柴田聡子とテニスコーツのさやを迎えたセカンド・アルバム『Relay』は、先にも少し書いたように特殊な録音手法によって制作されている。ライナーノーツによれば、まずデュオによる即興演奏を5分間録音し、つぎにそれを聴いていないふたりが同じ時間だけ演奏し録音をする。そしてそれらをそのまま重ね合わせることでひとつのトラックが完成されているのである。アルバムでは、以上のようにしてなされた録音の、片方が次のトラックにも組み込まれるというふうにして、演奏が連鎖的に続いていくこととなる。わたしたちは5分前の演奏とまったく同じ音源が、別の相手との「合奏」によって鳴らされるのを聴くというわけだ。それは5トラックめでさやが「デジャヴ、デジャヴ……」と囁くように、初めて聴くはずのものにどこか既聴感が含まれているかのような不思議な体験だ。そしてボーナス・トラックとされた最後の「合奏」の片方が一トラックめに回帰することによって、アルバムは円環構造をなしていく。
本盤において《《》》の4人のメンバーだけで行われた演奏が収録されているのは4トラックめのみである。とはいえこれも、実際には竹下・石原のデュオと大島・中田のデュオが別々に行われ、それらの録音を重ね合わせることで生み出された擬似的な「合奏」だ。前二者による緊迫感溢れる静謐な演奏と、後二者による高速度でノイズが散りばめられていく演奏という、ふたつのサウンドの流れが並び立つ「合奏」は、相手の音に敏感に反応するという彼らの演奏スタイルであればこそ、ときにグルーヴするリズミカルな展開さえみられた前作とはまるで異なった、音楽的時間の多層化がもたらす新鮮さを聴かせてくれる。しかしそれはまったくちぐはぐなふたつの演奏が終始噛み合わないままでいるのかというと、そうでもないのであって、まるで示し合わせたかのように聴いていないはずの相手の音に反応したり、ともにアンサンブルを編み上げていく場面も聴かれるのである。収録された他のトラックにも同じことがいえるが、とりわけ6トラックめで柴田の歌唱にコーラスするさやの絶妙さは、あらかじめ決めておくことからは到達し得ないような、録音手法がもたらした偶然性の奏功を示しているといえるだろう。
音に反応するということ
だがそもそも、フリー・インプロヴィゼーションにおいて相手の音に反応するということは、聴き手であるわたしたちに対してどのようなこととしてもたらされているのか。言うまでもなくそこには「反応しない」という反応さえ含まれているのである。音盤で「合奏」する彼ら/彼女らの相互触発は、反応できないにも関わらず見事な「反応」を引き起こしたから凄い、ということに過ぎないのか。定められた構造を目的とすることのない即興演奏にあって、予定調和を打破しようとする《《》》が、たとえば特定の相手の音に反応してはならないという禁則を暗々裏に個々人が設けたうえでライヴをするとき、『Relay』で聴かれる「合奏」と何か本質的に異なる響きをもたらすことがあるのだろうか。反応することと、反応するように聴こえることとに、わたしたちが見出すことのできる差異とは何か。
かつて大友良英が手がけた作曲作品「Anode」のシリーズにはまさに「無反応」や「他の楽器の音に反応しないこと」といったルールが定められていた。それはしかしあくまで演奏の論理(あるいは演奏家の倫理)にフォーカスした作品であって、厳密にルールを適用することよりも、そうした制限が課されたなかで演奏家の聴取行為にいかなる変化が起こるのかということが探究されていた。それゆえに即興演奏における反応がもたらす響きの組織化の問題は、ここではあくまで実験的な段階にとどまることとなる。ならば「無反応」を徹底するならばどのような響きが生まれるのか――それは別の企てによって実践されることとなる。Sachiko Mとの共同ユニットであるフィラメントによって2004年にリリースされたBOXセットに収められている“Tokyo 20012004”という楽曲である。これは大友とSachiko Mのふたりがそれぞれ空間を隔てて同じ時間帯にソロ・インプロヴィゼーションを行い、それらの録音をそのまま重ね合わせることで出来上がった作品だ。「Anode」における禁則のひとつは、ここでは「相手の音に反応できない」ことによって厳密に適用されることとなる。
冒頭で挙げたいくつかの作品群と同様の手法によるものの、それは意想外の展開をもたらすためというよりも、M.I.M.E.O.が『Sight』において露骨に掲げていたような、むしろ音を聴くことの不可能性からでさえ、つまりは演奏家が反応できない状態にあっても、発された音どうしに否が応でも生まれてしまう関係性をこそ示していた。そしてこの路線を極限まで突き詰めたのが、2008年に初演され、昨年末から今年の初めにかけてNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開催された「音楽と美術のあいだ」展において再演された作品『quartets』だった。あらかじめ8人のミュージシャンの演奏を録音・録画し、独自のアルゴリズムに従って選択された4人の演奏家の影を会場に設置された巨大な直方体の四側面にそれぞれひとりずつ映し出すとともに、彼/彼女が発している音を再生することでカルテットによる「合奏」を仮構する。登場するミュージシャンが入れ替わり立ち替わりするために、異なる「合奏」が半永久的に生成されていくという仕組みである。ここに至って大友の企ては、空間だけではなく、時間さえバラバラに分割したとしても、それらを組み合わせることで「集団即興」が、つまりは「反応」がどこまでも続いていくことを提示したのだった。それは「既に為されて/起こってしまった演奏=出来事を組み合わせていくだけでも『即興』(もしくは限りなくそれに近似した状態)は成立してしまう」という事態を示していた(2)。
当然のことながらもしもこれが通常の作曲作品の再現前化や、即興演奏であっても特定の正統性に則ることを目指す試みであったならば、このことは成り立たない。そうした場合にはほとんどの演奏が「弾き間違い」や「ミストーン」として否定されることになるだろう。つまりはここで行われている演奏がフリー・インプロヴィゼーションであるということが重要な条件となってくる。そこでは相手の音にどのような反応をすることも、あるいはしないことをも許されている。すなわち演奏における「失錯行為」が容認されているということだ。もちろん、演奏者が「間違えた」と考えることは大いにあり得るだろう。あるいは相手の音に対して「相応しくない」と思うこともあるだろう。だが彼ら/彼女らの意志とは離れたところで、発された音は独自の関係性を生み出していく。それが正しいかどうかを決定する客観的な視座がここには用意されていないのだ。演奏者の音に対する反応が偶発的なものであれ意志的なものであれ、どのようなものであっても、発された音そのものにみられる「反応」は、それ自体が組織化された響きとして肯定されているのである。
言い換えるならば、演奏者が相手に反応して音を発するということと、発された音がなにがしかの「反応」を聴かせるということのあいだは、決定的に断絶しているのである。そこでは相手の音に反応しないことが、結果的に「反応」し合う響きを生み出すことさえある。そしてだからこそ、『Relay』における「相手の音を聴くことができない状態で行った演奏をそのまま重ね合わせる」ということがもたらす「新鮮さ」と、程度の差こそあれども、ライヴする《《》》が到達する地点とのあいだに、わたしたちは本質的な差異を見出すことができないのである。だがそれは、どんな「出鱈目」でもかまわないということを意味するわけではない。演奏者の手から離れた音は、こんどは聴き手とのあいだで新たな関係を結ぶ。そしてこの領域においてこそ『Relay』は録音芸術たるゆえんの不気味さを響かせているように思われる。
「音楽の無意識」から
周知のごとくジークムント・フロイトは「失錯行為」を「無意識」の表徴と捉えることによって精神分析を行った。演奏における「失錯行為」は演奏家の「無意識」を繙く手掛かりになる(本当は演奏したくない、など)かもしれないが、それは「音楽の無意識」とは別のものである。ならば音楽には「無意識」がないのだろうか。そう断定するのは性急だ。フロイトが「失錯行為」による「無意識」の分析を明快に記した『日常生活の精神病理学にむけて』が可能にした知見を援用しながら、映画がもたらす知覚の変容について、ヴァルター・ベンヤミンが次のように語っていたことを思い出そう。
いままで澱みなくつづけられているとみえた会話のながれのなかで、そのいいまちがいのためにとつぜん深層のパースペクティヴがひらける。こういったことは、むかしならば、むしろ例外に数えられたと考えていいだろう。しかし『日常生活の精神病理学』以来、事情は一変した。それは、事物を分離し、同時にこれまで知覚の幅ひろいながれとともにおしながされていた無意識的なものを分析可能にした。映画もまた、視覚的記号世界そして現在ではさらに聴覚的記号世界の全域にわたって、同様の知覚の深化をもたらしている(3)。
「意識」が決して到達することのない「無意識」の領域の分析を、「失錯行為」を突端にフロイトが進めていったように、ベンヤミンは視覚における「無意識的なもの」の分析を複製技術が可能にしたのだと述べる。
カメラに向かって語りかける自然は、肉眼に向かって語りかける自然とは、別のものだ(……)意識に浸透された空間のかわりに無意識に浸透された空間があらわれることによって、自然の相が異なってくるのである(4)。
カメラは「視覚的無意識」の世界を明らかにする。ベンヤミンが仄めかすように、このことはマイクがもたらす「聴覚的無意識」についても同様に考えることができる。わたしたちが聴くことのできる自然と、マイクが捉える自然とは別のものだ。音響再生産技術は「無意識」に浸透された時間/空間を差し出す。大谷能生が言うように、「そこには音楽と音の区別も、それが人間に聴こえるかどうかすらの区別もない。カメラが世界の中から光学的な側面だけを取り出してくるように、マイクロフォンは世界を空気の振動として記述する」(5)。わたしたちがふだん聴いているものは、耳に聞こえてくるもののなかから、つねにすでに意識的に選別されたものでしかない。だがマイクにそのような選別はなく、あらゆる響きを等価に記録していく。そこにはわたしたちが聞いていたはずなのに、聴いてはいなかった響きがある。「音楽の無意識」とはすなわち、「聴くこと」と「聞くこと」の差異にあって、音響再生産技術の助けを借りることではじめて分析可能になったのである。
だから録音物を繰り返し聴くということは、決して同じ体験の反復にはならない。「レコードの反復性は回帰する時間の中での差異に基づき(……)レコードは回帰そのものによって肯定され、回帰のたびに差異を生むものであることによってその存在が構成されている。(……)回帰する時間はふりだしを持たず、差異の差異化として常に多方向にずれてゆく運動として生成される」(6)。だがそれは、同じ録音物を以前聴いて覚えているから二度め以降の体験が異なるのではない。「反復は記憶の力を借りない。それはむしろ忘却に根ざした直接的な能動性であり、可能態ではなく現実態である」(7)。録音物を繰り返し聴くとき、そこには聞いてはいたものの聴くことのなかった響きが介入してくる。それが「聴覚的無意識」であるかぎり、「意識」が思い出すことはできないのだ。忘却の底にあった響きが、音響再生産技術によって、わたしたちの耳元へと連れ出されてくるのである。
録音物を繰り返し聴くということは、つねになんらかの差異を伴った特異な体験である。たとえばわたしたちは、ある録音された音楽を聴くとき、一度めはメロディに注目し、そのときまったく気にしていなかったリズムに注目しながら二度めを聴くということがある。このような異質な経験は、ふつう、聴き手の能動的な参与によって獲得されるだろう。わたしたちはまるで同じものをなんども聴くようにして録音物に接しているからだ。だがそれが録音物のほうからあからさまに語りかけてくるとしたら、どうか。録音芸術としての『Relay』が優れているのは、「合奏」によって聴きどころのバイアスをかけられた響きが、こんどは別の「合奏」として異なるバイアスがかけられながら反復されることにある。そこでは、一度めに聞いたものの、聴き逃していた響きが不意に立ち現れる。たとえ気にも留めなかったとしても、同じ響きが異なる関係性のもとに続けて置かれることによって、「忘却に根ざした直接的な能動性」に直面させられる。「聴覚的無意識」が「聴くこと」のなかに回帰する。フロイトに倣って、「デジャ・ビュ」が以前「無意識」のうちに出会ったものが不意に「意識」へと浮上する体験だとするならば、まさしくこの意味で『Relay』は「デジャ・ビュ」である。それは「音楽の無意識」を利用して聴き手の聴覚を蠱惑する。
だから本盤は、即興演奏の一回性を代理=表象する「かりそめ」の記録ではなく、それらの記録を偶然性のもとに縫合した単なるあり得べからざる「共演」の実現でさえもなく、むしろ同一性を逃れプロセスを生きる即興演奏の差異化の運動を、その作用方式において録音した作品だといえるだろう。わたしたちはアルバム・トラックが進む度に、録音物の非同一性あるいは差異の差異化する運動と、なかば強制的に立ち会うこととなるのである。そしてさらに『Relay』の円環構造が、こんどはアルバムそれそのものを回帰する差異化の運動のなかへと据え置く。より大きな時間の流れのなかで「聴覚的無意識」がやってくる。そのように二重化された音楽的時間は、その度ごとに異なる現実性を生きながら、二種類の「聴くこと」の変容をもたらしていくことになるだろう。
引用注
(1) 「バグシンセPV中田粥」https://www.youtube.com/watch?v=9sKWhXAoytI
(2) 佐々木敦『即興の解体/懐胎』、132頁
(3) ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」(高木久雄・高原宏平訳、『複製技術時代の芸術』所収)、38頁
(4) 同前、40頁
(5) 大谷能生『貧しい音楽』、209頁
(6) 細川周平『レコードの美学』、192頁
(7) 同前、193頁
参考文献
細川周平『レコードの美学』(勁草書房、1990年)
ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』(佐々木基一編、晶文社、1999年)
ジークムント・フロイト『フロイト全集〈7〉』(高田珠樹訳、岩波書店、2007年)
『ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英』(青土社、2007年)
大谷能生『貧しい音楽』(月曜社、2007年)
佐々木敦『即興の解体/懐胎』(青土社、2011年)
細田成嗣