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エラード・ネグロことロベルト・カルロス・ラングの8枚目のアルバムは “LFO (Lupe Finds Oliveros)” と名づけられた一曲から始まる。Lupe とは1950年代にフェーダー社でアンプを製造しのちにコレクターの間で彼女の手がけた製品が評判となったメキシコ系アメリカ人女性ルーペ・ロペスのことであり、Oliveros とは電子音楽のパイオニアとしての再評価が近年著しい音楽家ポーリーン・オリヴェロスのことだそうだ。要はどちらも音楽の実験の領域を広げた偉大な人物であり、ラングが彼女らに深い敬意を持ってこの曲から始めていることは伝わるのだが、曲自体は8ビートのドラムビートを持ったインディ・ロック的なサウンドで暴力的な警察などが登場する抽象的なリリックのスペイン語のナンバーとなっているから不可思議だ。モチーフと歌詞と音楽が彼のなかでどのように関係しているのかは判然としないためあれこれ想像するしかなく、それでも3分強のこの曲はじわりと聴き手の気持ちを温めてくれる。このアルバムでは、そのように、音楽が決められた枠から朗らかにはみ出していく瞬間に生まれる喜びが追い求められている。
IDMとルーツであるラテン・フォークとインディ・ロックとヒップホップなどなど……をコラージュ的に混ぜ合わせてきたエラード・ネグロは、活動的にも音楽的にも掴みどころのない存在であり続けてきた。2000年代後半にサヴァス&サヴァラスへの参加などギレルモ・スコット・ヘレン周辺から注目され、2010年代にはアニマル・コレクティヴ以降のモダン・サイケ・ポップを(ジュリアナ・バーウィックとのコラボレーションなどをしつつ)ゆるやかに広げてきた彼は、歌ものとしての完成度を一気に高めてブレイクスルーとなった6作目『This Is How You Smile』(2019年)を経て、前作『Far In』(2021年)ではエレクトロとソウルの要素を強めたために「あっ、案外ビビオなんかに近いひとなのかもしれない」と自分は思ったのだが、本作『PHASOR』を聴くとそれもちょっと違うのかもと感じる。得意のトロピカル・テイストが入ったインディ・ポップ “I Just Want to Wake Up with You”、ジャジーな “Best for You and Me”、フォークとエレクトロが抽象的なドラムの上で交錯する “Colores del Mar” ……と、たんにジャンルの多様性だけではなく、ソングライティングの洗練とリズムとさりげない実験性と録音の細やかさによって特定の場所に留まらない音楽をどこか飄々とやってのけている。そのなかでとりわけキーになるのがエレクトロニクスだ。
本作のインスピレーションとなったのは、現代音楽の研究者でありエレクトロニック・ミュージックの探究者でもあったサルヴァトーレ・マルティラーノが開発したシンセサイザーSAL-MARをイリノイ大学で5時間見学した経験だという。有機的にサウンドシークエンスを作成できるそのマシンに「完全に魅了された」とラングは語っているとのことで、冒頭で書いたルーペ・ロペスとポーリーン・オリヴェロスにまつわるエピソードといい、エレクトロニック・ミュージックが人間の――アーティストの創意工夫によって新たな可能性に開かれること自体にインスパイアされた作品だと言える。シンセ音の反復がラテン・ジャズと戯れる “Our There” や、電子音がいたずらっぽく跳ねるエレクトロニカ・ポップ “Wish You Could Be Here” などはその成果がわかりやすく表れた一曲だと思うが、それでいて実験のための実験という感じもなく、徹底してフレンドリーな音楽だ。
このアルバムの曲名で「You」と呼ばれているものは音楽それ自体だと感じられるし(「わたしはあなたとともに目覚めたいだけ」、「あなたがここにいたらいいのに」)、ラテン・フォークとアンビエント・ポップの心地よい出会いが味わえる “Flores” や “Es Una Fantasia” を聴けば、音楽に身を任せる時間の豊かさが讃えられていることを直感する。生音とエレクトロニクスがどこまでもオーガニックに温かく身を寄せ合い、実験をポップに変換する楽しさを邪気なく謳歌するこのアルバムは、音楽やそれにまつわる文化に魅せられる人間の幸福な瞬間のことを喚起させるのである。
木津毅