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Home >  Reviews >  Book Reviews > 栗原康- 村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝

栗原康

栗原康

村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝

岩波書店

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小林拓音   May 03,2016 UP

 つい先日リリースされたばかりのビヨンセの新作を聴いていたら、「ベッキー」という単語が耳に飛び込んできて、年明けにこの国を騒がせたスキャンダルのことを思い出してしまった。件の騒動を性差別の観点から捉え、社会的な問題として報じたのは英『ガーディアン』紙だったけれど、恋愛の話題と社会の話題とがきれいに分断されてしまうこの国において、最近の彼女の振る舞いはどう受け止められるのだろうか。
 新作『レモネード』においてビヨンセは、男性社会への憤りと白人社会への怒りとを同時に露わにし、海の向こうで大旋風を巻き起こしている。彼女の新作が面白いのは、「素敵な髪のベッキーに電話したらいいじゃない」と夫であるジェイ・Zの不倫について言及した "Sorry" のような楽曲と、白人警官による黒人への暴力行為に対する異議およびブラック・ライヴズ・マターへの共感を示した "Formation" のような楽曲とが、同じ一つの流れの中に同居しているところだ。このことが示しているのは、恋愛や夫婦の問題も、政治や社会の問題も、それぞれが別個に切り離された全く無関係の独立物なのではなく、どちらも同じ地平の上に横たわっている ものなのだということである。
 それらに共通しているのは、端的に言って、わかりあうということの難しさだ。それは恋愛においては無論のこと、社会的な問題においても要因の一つとなっているように思われる。例えば、いわゆる体制側を擁護するつもりは毛頭ないけれど、白人警官が無抵抗の黒人を容赦なく射殺してしまう心理の一つに、「何をしでかすかわからない」という恐怖があるのではないだろうか。

 ここに紹介する栗原康は、新進気鋭のアナキズム研究者である。もうご存じの方も多いかもしれないが、2013年末に『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(夜光社)を出版してからの彼の活躍は目覚ましい。とりわけ昨年は彼にとって飛躍の一年で、2月には『学生に賃金を』(新評論)を、4月には『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)を、8月には『現代暴力論』(角川新書)を立て続けに刊行している。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだ。それらに続いて刊行されたのが、彼にとって6冊目の著作となる本書、『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(岩波書店)である。
 副題からもわかるように、本書は伊藤野枝という大正時代を駆け抜けた女性アナキストの伝記である。本書では、あるときは貞操を巡って、あるときは堕胎を巡って、またあるときは廃娼を巡って、その度に世間一般の道徳に囚われることなく各々のテーマが孕んでいる根本的な問題をあぶり出し、結婚という「奴隷根性」によって支えられた制度そのものを否定して、最終的には憲兵によって虐殺されてしまう一人の女性の生涯が、様々なエピソードを通して描き出されている(当時内務大臣だった後藤新平や、来日していた哲学者バートランド・ラッセルとの興味深い逸話もある)。
 こう書くと重くて堅苦しい本のように思われるかもしれないが、本書は決してとっつきにくい類の本ではない。例えば、一つ一つのエピソードに「チキショウ」だとか「かわいそうに」だとか「かましたれ」といった著者自身の心緒を表す言葉が挿入されており、その様はまるでスポーツ観戦をしているファンさながらだ。そのような著者の素直な感情表現が、読む者を深く伊藤野枝という一人の女性の人生へと引き込んでいく。
本書では様々な問題が提起されているけれども、その最大の見所は、野枝の恋愛論を「わからない」という観点から捉え返すくだりである。

 愛するふたりは、けっしてひとつになれやしない。どんなに好きでもとめあい、抱きあってセックスをしても、ふたりはぜったいにひとつになれやしない。なぜかというと、ふたりはまったくの別人であるからだ。そんなことをいったら、身もふたもないかもしれないが、いいかえれば、それは異なる個性をもったかけがえのない存在だということでもある。はじめから、相手がどこによろこびをおぼえるのかなんてわからない。自分の感性とはちがうのだ。でも、だからこそ、ひとは心身ともにめいっぱいふれあって、相手にたいしてやさしくしようとおもう。愛するひとに、もっと気持ちよくなってもらいたい。わからない、わからない、でも、でも、と。 〔本書124頁〕

 相手のことがわからないというのは恐怖である。相手のことがわからないがゆえに人は、恋人という契約の締結や、結婚という制度による保障や、家庭という集団の形成に逃げ込んでしまう。そして知らず知らずのうちに、自ら進んで集団の構成員としての役割を果たすようになってしまう。妻だからこうしなければならない、夫だからこうしなければならない、という風に(「警官だからこうしなければならない」というのもそのヴァリエイションの一つだろう)。著者はそれを「奴隷根性」と呼ぶ。それはまさしく資本家と労働者の関係であり、人が人ではなくモノとして扱われるような関係である、と。
 確かに、人と人とは決してわかりあえないのだろう。でも、だからと言って誰かと誰かが「主人と奴隷」のような関係に陥ってしまうのでは、そのどちらも、そしてそれを見ている方も息苦しくなるだけである。ではどうしたらいいのか。見返りや対価を前提とした人間関係とは異なる、有償性に基づかないような人と人との繋がりを作っていくしかない。本書には、そのためのヒントがたくさん散りばめられている。

 もちろん、伊藤野枝とビヨンセとは違う。野枝は今風に言えばビッチだし、ビヨンセはどちらかと言えば優等生だ。けれど彼女たちはどちらも、わかりあうということの困難を抱えながら、恋愛の問題にも社会の問題にも、全力で向き合っている。そういう意味で本書は、ビヨンセの新作に強く胸を打たれた人にこそ、ぜひ手に取ってもらいたい一冊である。


小林拓音