「Noton」と一致するもの

Cleo Sol - ele-king

 この6月にロンドンの覆面的なプロジェクトである SAULT(スー)が、99日後に消えるというニュー・アルバムの『ナイン』をリリースして話題となった。そのスーのメンバーであり、リトル・シムズの『グレイ・エリア』(2019年)や新作の『サムタイムズ・アイ・マイト・ビー・イントロヴァート』にも参加するクレオ・ソル。この2作はスーのインフロー(ディーン・ジョサイア・カヴァー)が全面的なプロデューサーを務め、リトル・シムズの音楽性にスーが極めて親密に関わっていることを示しているのだが、『サムタイムズ~』の中にはクレオ・ソルがフィーチャーされた “マザー” という曲がある。ナイジェリア系のリトル・シムズがアフリカはじめ世界の女性たちを鼓舞するナンバーなのだが、同時に母親となったクレオ・ソルに捧げられたナンバーでもある。そして、『サムタイムズ~』と同時期に『マザー』と題したクレオ・ソルのアルバムもリリースされた。アルバム・ジャケットには赤ん坊を抱きかかえたクレオ・ソルのポートレイトがある。

 クレオ・ソルはまたの名をクレオパトラ・ニコリックといい(『サムタイムズ~』の中でもなぜかクレオ・ソルとクレオパトラ・ニコリックの名義が併用されている)、ウェスト・ロンドンのラドブローク・グローヴで1990年に生まれた。セルビア人とスペイン人の混血である母、ジャマイカ人の父ともにミュージシャンで、特にシンガーをやっていた母親の才能を受け継いだ。ちなみにラドブローク・グローヴはノッティング・ヒルのカーニヴァルで有名で、彼女もそのお祭りにはいつも参加していたそうだ。ソウル、ジャズ、ラテン、レゲエなどさまざまな音楽を聴いて育ち、スパイス・ガールズからフランク・オーシャンなどもお気に入りという彼女だが、音楽の和音という面ではスティーヴィー・ワンダーの “ドンチュー・ウォリー・バウト・ア・シング” に理想を見出している。10代半ばから本格的なヴォーカル・レッスンを受け、スペイン語で太陽を表わすソルを用いたクレオ・ソルの名前を使うようになる。

 プロのシンガーとなったクレオは、グライムのパイオニア的なプロデューサーであるダヴィンチと一緒に仕事をするようになり、彼のアルバムの『ライダー』(2009年)にフィーチャーされる(そこではクレアという名前を用いていた)。そうした繋がりからダヴィンチ、ロール・ディープ、レッチ23、アグロ・サントスらによる2010年のオレンジ・ロックコープスのアンセム “ギヴ・ア・リトル・ラヴ” にもフィーチャーされ、UKでは一躍その名を知られることになる。その後、ダヴィンチのプロデュースで “ラヴ・ベース” や “コール・フォー・ミー” などをラジオ・ヒットさせるのだが、当時の2010年代初頭はEDMのような派手目のダンス・サウンドのシンガーというイメージだった。

 その後しばらく見かけなかったクレオだが、彼女の名を再び発見したのはリトル・シムズの『グレイ・エリア』で、そこで一緒に仕事をしたインフローと共にスーを結成している。かつては人の書いた曲をただ歌っていたクレオだが、活動休止期間中に作詞・作曲についてもマスターしたようで、すっかりシンガー・ソングライターへと変貌していた。そして、2020年にはインフローのプロデュースのもと『ローズ・イン・ザ・ダーク』というソロ・アルバムをリリースするが、それはダヴィンチと一緒に仕事をしていた頃と180度イメージを一新したものだ。スーのアルバムともまたカラーが異なっていて、エリカ・バドゥあたりを彷彿させるオーガニックでジャジーな質感のネオ・ソウル系の作品集だ。彼女の理想とするスティーヴィー・ワンダーの作品にも通じるアルバムであり、本来的に彼女がやりたかった音楽なのだろう。それに続く『マザー』は2枚目のアルバムとなる。

 『ローズ・イン・ザ・ダーク』から『マザー』への間、コロナによるステイ・ホームがある一方でクレオは母親となった。『マザー』のジャケットは柔らかな太陽の光が差し込む部屋で赤ん坊を抱きかかえてくつろぐクレオの写真で、母になった喜びや子供への愛情が詰まったアルバムとなっている。その代表と言えるのが “ワン・デイ” で、この6月に生まれたばかりの子供のことを歌ったナンバーだ。しっとりとしたピアノをバックにクレオが優しく歌う “ワン・デイ” はかつてのキャロル・キングを彷彿とさせるようなはじまりで、『ローズ・イン・ザ・ダーク』と比較しても『マザー』がさらにアコースティックでフォーキーなテイストとなっていることを示す。そして単にシンプルでメロディアスな曲というわけではなく、8分25秒という比較的長めの中で複雑で豊かな和音展開を見せるあたり、スティーヴィー・ワンダーの影響も大いにあることがわかる。

 アルバム全体のプロデュースは前作に続いてインフローが務め、今回は “ハート・フル・オブ・ラヴ” に見られるようにオーケストラルなアレンジによって、優しく包み込むようなサウンド・メイクが際立っている。また、多重録音によるコーラス・アレンジの素晴らしさも随所に見られる。と言っても過剰なアレンジが施されているわけではなく、“ドント・レット・ミー・フォール” や “プロミセス” のようにあくまでクレオの歌を中心に、アコースティック・ピアノやアコースティック・ギターが寄り添う構成。ややラテンやボサノヴァ的なフレイヴァーも感じさせるところはキャロル・キング的であり、現在では同じロンドンのシンガー・ソングライターのリアン・ラ・ハヴァスあたりに通じるものも感じさせる。“スピリット” における厳かなコーラスとオーケストレーションはゴスペル・クワイア風で、ロータリー・コネクションやミニー・リパートンを手掛けたチャールズ・ステップニー的なプロデュース・ワークである。“ミュージック” の前半はまさにミニー・リパートンの “レ・フルール” を連想させるが、後半はタンゴをイメージしたような優美なオーケストラ演奏が展開される2段構成だ。ちなみにキャロル・キングも1971年に『ミュージック』という名アルバムを残しているのだが、クレオも何かしら意識しているのかもしれない。

Soccer96 - ele-king

 今年もサンズ・オブ・ケメットの新作『ブラック・トゥ・ザ・フューチャー』のリリースなど活躍が続くシャバカ・ハッチングス。そのシャバカが在籍するユニットの中で、ザ・コメット・イズ・カミングも彼中心に捉えられることが多いが、実際にはキーボード奏者のダナローグことダン・リーヴァースと、ドラマーのベータマックスことマックスウェル・ホーレットのふたりが土台となっている。
 ダンダナローグとベータマックスは2010年代初頭よりサッカー96というユニットをやっていて、そこにシャバカがゲストで共演することもあった。そうした中からトリオという形で発展したのがザ・コメット・イズ・カミングである。サッカー96自体はエレクトロニクス色の強いシンセ・ユニットで、そうした土台があるからこそザ・コメット・イズ・カミングのテクノやニューウェイヴに接続した新しいジャズが生まれてきたのである。
 また、サッカー96はSF志向の強いユニットでもあり、ザ・コメット・イズ・カミングのグループ名(彗星の飛来)もそうした志向に繋がるものだ。なお、サッカー96の名前にどのような由来があるのかは不明だが、イングランドでおこなわれた1996年のユーロ大会が何らかのインスピレーションになっていると思われる。

 サッカー96は2012年のファースト・アルバム以降、これまでに3枚のアルバムをリリースしている。ダナローグによるヘヴィーでアシッドなアナログ・シンセとベータマックスのドラムスによるコンビネーションが軸で、宇宙や未来をイメージしたサウンドを指向している。こうしたシンセ・ユニットの場合、リズム・トラックは大抵プログラミングとなるものだが、サッカー96の場合はベータマックスのドラムスの即興生演奏という違いがあり、それがジャズのフリー・インプロヴィゼイションとの接点でもある。ファースト・アルバムの『サッカー96』はドリアン・コンセプトチド・リムフライング・ロータスフローティング・ポインツリチャード・スペイヴンなどに通じるエレクトロニック・ジャズという趣の作品。そして、エレクトロニック・ジャズやビート・ミュージック、人力ダブステップや人力ドラムンベース調のナンバーなどのほかに、極めてポスト・パンク~ニューウェイヴ的なナンバーもやっていて、そのあたりがサッカー96ならではの特徴でもあった。

 セカンド・アルバムの『アズ・アボヴ・ソー・ベロウ』(2016年)にはシャバカもゲスト参加していて、ジャズ・ファンクやシンセ・ブギー、ニューウェイヴ・ディスコなどが合体したダンサブルなサウンドとなっていた。サード・アルバムの『リワインド』(2018年)はそれからするとアブストラクトで実験的な側面が強くなっており、モーリッツ・フォン・オズワルド・トリオあたりに通じるダブ・テクノのようなナンバーもあった。『リワインド』以降はエクスペリメンタル・ロック色を強め、スポークンワード・アーティストのアラブスター・デプラムと共演した「タクティクスEP」(2020年)をリリース。こうしたテイストはザ・コメット・イズ・カミングの活動にも影響を与え、『トラスト・イン・ザ・ライフフォーズ・オブ・ザ・ディープ・ミステリー』(2019年)の破壊性や衝動性へと繋がっている。

 その『リワインド』から3年ぶりのニュー・アルバムとなるのが『ドーパミン』である。先行シングルとなったタイトル曲の “ドーパミン” にはヌーハ・ルビー・ラーというアーティストがフィーチャーされるが、ムーア・マザーイヴ・トゥモアなどとも比較される最近のロンドンの異形の新人である。また、〈ブレインフィーダー〉から『デンカ2080』(2019年)をリリースして話題を呼んだサラミ・ローズ・ジョー・ルイスも “シッティング・オン・ア・サテライト” という曲に参加している。その『デンカ2080』には「2080年のディストピア(反理想郷、暗黒世界)な地球」というテーマがあったのだが、『ドーパミン』にも “パーフェクト・ディストピア” という曲があり、“プレリュード・トゥ・ジ・エイジ・オブ・トランスヒューマニズム” という曲では最新科学技術によって人体能力を進化させる「超人間主義」を描くなど、近未来における人類の明と暗がテーマとなったアルバムである。ジョーダン・ラカイの『オリジン』(2019年)もAIシステムの発達が引き起こすディストピアを描いていたが、昨今のアーティストがこうしたテーマをいろいろ用いているのも興味深い点である。

 “サイキック・メカニックス” はコズミックなシンセ空間とトライバルなドラムが融合した、まるで未来と太古がひとつになったような世界。“レッド・スカイズ・オブ・ジ・アントロポセン(人新世)” も同様に、抽象的でどこかアラビア音楽を思わせるシンセとアフロセントリックなリズムによって、重厚かつサイケデリックな世界へと誘う。ヴォコーダーを用いたディープなダウンテンポ・チューンの “エンタングルメント(物理学における量子のもつれの意が転じ、人間関係のもつれや鉄条網の意味でも用いられる)”、電化クルアンビンとでも評したいエレクトリックなジャズ・ファンクの “シッティング・オン・ア・サテライト”、アンドロイドなヴォイスが逆にソウルフルなムードを醸し出すエレクトロ・ファンクの “キャリー・アス・ホーム” など、同じSF志向でもダフト・パンクの対局にあるような世界がサッカー69である。宇宙空間を浮遊するような “インタープラネタリー・メディテーションズ” の一方で、“プレリュード・トゥ・ジ・エイジ・オブ・トランスヒューマニズム” はクラフトワークを数百倍もヘヴィーにしたような楽曲で、その重苦しさはブラックホールを連想させるかのようだ。そして、“ユーズ・ミュージック・トゥ・キル” の絶望的な暗黒感は “パーフェクト・ディストピア” と共に暗い未来を暗示する。この “ユーズ・ミュージック・トゥ・キル” や “ドーパミン” にはスロッビング・グリッスルやサイキックTVなどに繋がるムードが流れており、サッカー96のパンキッシュな精神を象徴する楽曲と言えるだろう。


Gina Birch - ele-king

 もっとも重要なポスト・パンク・バンドのひとつ、ザ・レインコーツのメンバー、ジーナ・バーチがジャック・ホワイト主宰のレーベル〈Third Man Records〉から初のソロ作品(7インチ・シングル)を発表した。そのタイトルは「フェミニスト・ソング」で、曲の出だしはこんな感じ。「私はフェミニストかって訊かれたらこう言う、無力なんてまっぴらだ。孤独なんかくそ食らえ」、この怒りに満ちたアンセミックで強力な曲は、そのコーラスで「都会の女の子、私は戦士だ!」と繰り返している。同曲はすでにザ・レイコーツのライヴでも披露されていたが、この度初めての録音となった。なおミックスはキリング・ジョークのユースが担当しており、彼は同曲のアンビエント・ミックスでもその手腕を発揮している。現在は配信でも聴けるが、7インチ盤は10月末にはお店に出回っている予定。


Popp - ele-king

 ミュンヘンからツイン・ドラムのジャズ・ユニット、ファジー(Fazer)のサイモン・ポップによるセカンド・ソロ。ハッセル&イーノ『Possible Music』を思わせる2年前の『Laya』と同じく打楽器だけで構成されたインプロヴァイゼイション・アルバム。複数の打楽器や細かいパーカッション・ワークを駆使し、全体にインド音楽のテイストを残しながらもアフリカ色が強くなったことで同じようにスタティックな作風でも静謐さの種類に変化がもたらされている。ファジーが元々、ラウンジ・ミュージックに近い音楽性だったこともあり、テンションをみなぎらせるようなインプロヴァイゼイションではなく、かといってニューエイジのようなユルユルでもなく、ビアトリス・ディロンへのクラブ・ジャズからのアンサーというのか、スティーヴ・ライヒから可能な限り緊張感を取り除いたアンビエント・ドラミングというのか。あくまでも演奏を基本にしていることでフィールド・レコーディングとプロセッシングでつくり出すアンビエント・ミュージックにはないオーガニックなムードが全体のトーンを決めている(90年代の雰囲気を出すためにゲート・リヴァーブとピッチ・シフトは多用したらしい)。サイモン・ポップはファジー以外の活動としてアブシュタン(Abstand)やファジーのドラマー2人によるファジー・ドラムス名義のアルバム『Sound Measures』などでミニマルにフォーカスした試行も並行して続けており、そのためか、サイモン・ポップのソロ作を取り上げた欧米のレヴューでは「サード・ストリーム・ミニマリズム」という定義がやたらとコピペされて使われているものの、僕が調べた限りどこにも定義の内容は書かれていない(ので、よくわからない)。お笑いの第7世代みたいなものなのだろうか?



 前作の『Laya』は鐘の使い方やランダムなビートの刻み方など明らかにメディテイションを目的としていて、フィジカルではなく音の効果は意識に集中していた。『Devi』ではそれがガーナのリズムなど東アフリカのリズムを取り入れた結果、一転してフィジカルに訴えかける要素が増え、全体的に内省的な気分を誘発するものではなくなっている。“Gundel”や“Jilu”などインドとアフリカが融合し、なんとも気持ちのいいハイブリッドに仕上がっていて、透き通るような残響音が美しい“Myna”や、いまにもデヴィッド・アレンがごにょごにょとマントラじみたヴォーカルを歌い出しそうな“Dama”などどの曲も素晴らしく、『Devi』はドイツのミュージシャンがアフリカ音楽を取り入れた最高傑作といえるのではないだろうか(“Xolotl”は食品まつりのリミックスが聴いてみたい)。クラシック大国ドイツによるアフリカ音楽の受容はこれまで悲惨としか言いようがない過程を辿ってきた。ボアダムズ『77 Bore Drum』にヒントを与えたらしきナイアガラ(クラウス・ヴァイス)や最近のアフロ・ハウスまで、まったく横揺れがしないドイツ人のアフリカ趣味は彼らの生真面目な性格を伝えるだけで(なにせメトロノミック・ビートである)、カンのヤキ・リーベツァイトを例外としながらマーク・エルネスタスによるジェリ・ジェリやタイヒマン兄弟によるアフリカとの交流によって発展してきたクラブ・ミュージックの片隅でようやく重要が喚起されてきた程度だろう。その上でのサイモン・ポップであり、『Devi』なのである。

 70年代のクラウトロックでもミヒャエル・フェッター(Michael Vetter)やドイター(Deuter)がインド音楽をメインに似たようなことはやっていた。しかし、これらとモンバサやオム・ブッシュマンといったドイツのジャズ・ドラムが結びつくことはなく、2017年にヤン・シュルツ(=ヴォルフ・ミュラー)が『Tropical Drums Of Deutschland』を編纂することで新たなフュージョンの可能性が出てきたということなのだろう。70年代の空気と80年代のテクニックが結びつき、これに「サード・ストリーム・ミニマリズム」wを加えることでサイモン・ポップの音楽性は立ち上がってきたといえる。“Higlehasn”がクラフトワーク“Tanzmusik”のアンビエント・ヴァージョンに聞こえてしまったのは僕だけだろうか。ちなみに「Laya」はインドの音楽用語、「Devi」はインドの女神を意味しているのかなと思うけど、正確にはよくわからない。

Muck Spreader - ele-king

 ジャンルとは境界線とはいったいなんなのだろうか? 全部が隣にあって、時代もなにもかもアーカイヴ化されていて、指先一つでワープが可能な現代、誰かのSpotifyのプレイリストを眺めてみてもごちゃ混ぜで、国も地域も超越している。それでもやっぱりシーンというものはあって、場所がどこかに必要で根っ子にある部分がふとした瞬間に顔を出す。コンピューターの画面の中でどんなにスタイリッシュに先鋭化していっても結局はそんな人間の生身の部分に惹かれていく。

 マック・スプレッダーの『Abysmal』を聞くと頭にそんな考えが浮かんでくる。燃え上がるサウス・ロンドンのシーンを尻目に、そこにひっかかりながらも意に介さず彼らは飄々と存在する。この音楽はいったいなんなんだろう? ブラック・ミディと同じくらいにフラットでごちゃ混ぜ、自分の周りにあるもの(それはもちろん音楽以外のものも含まれる)の全てを鍋にぶち込んで、気怠くアウトプットしたような、マック・スプレッダーの音楽はそんな音楽なのだ。

 たとえばそれは “Would He” の歩みを進めるベースの上に乗ったサックスの音で、そこにギターが重なる、センスが良くて凄まじく格好いい音なのにクダを巻くようなヴォーカルをそこに乗せてグダグダにする。あるいは “A particular Shade Of White” や “Plumbing Problems” の瞑想じみたグルーヴのまどろみの中で語られる物語、僕はそこに生活を感じる。画面が綺麗なだけの映画ではないという魅力、スタイリッシュな画作りの中で路上で酒瓶片手に酔っ払って寝てしまう姿を描いているみたいなラップともしゃべるようなヴォーカルとも違う粘り気のある話かけるようなヴォーカル・スタイル、聞いてくれる相手がいるかどうかはわからないけれどタバコを吹かしながらずっと語りかけてくるようなそれ(しかし結局はひとり言になってしまうのかもしれない)、そんな人間臭い魅力がここにはあるのだ。ジャズがあってパンクがあって、ダブ、ヒップホップにインディ・ロック、サウス・ロンドンのヴェニューで夜毎に繰り広げられていたであろう狂騒の中で生まれた思い、その記憶をグラスの中で混ぜ合わせたようなやさぐれてグダグダで尖った音、マック・スプレッダーが奏でているのはそんな音楽でそれがたまらなく魅力的に映る。

『Abysmal』を聞いてそんなことを考えていたが、実際にマック・スプレッダーはサウス・ロンドンのライヴハウス「ウィンドミル」で生まれたようだ。バンドの中心人物であるヴォーカリスト、ルーク・ブレナン(というかもうこの人の為のプロジェクトのような感じだ)はデイリー・スターのインタヴューでこんな風に語っている。

「元々俺は詩を書いていてハックニーで依存症の問題を抱える人たちの為のスポークン・ワークのイベントを開いていたんだ。そのうちウィンドミルでショーをおこなうようになって、それをバンドをやってる奴らが見て一緒にやらないかって声をかけてきたんだ」

 そうしてルークは観客の中から足りないメンバーを集めはじめた。こいつはギターが弾ける、こいつはヴァイオリンが弾ける、固定されたコア・メンバー以外はそんな風に集められ、かなりの人数が出たり入ったりと流動的なライナップのバンドともコレクティヴとも呼べるようなマック・スプレッダーができ上がっていった。しかしこの集団は一筋縄ではいかない。ファット・ホワイト・ファミリーの登場以降のサウス・ロンドンの雰囲気を身にまといソーリーと一緒にツアーを回るなどシーンと無関係では決してないはずなのに現代のポップ・ミュージックのフォーマットから外れた独自の美学を貫こうとする。
「俺たちが直面した一番の問題はリリースした曲をライヴでやらなくても許されるのか? ってことだった」ルーク・ブレナンは言う、ライヴとレコーディングは完全に別物でライヴは観客が持つ集団的な恐怖感や何が起こるのかという期待感を楽しむものだと。舞台の上でおこなわれるのはその日の空気を表現した即興演奏であってリリースされた曲がそこで披露されることはない。それがたとえデビューEPのリリースを記念してのローンチ・パーティだったとしてもだ。使われなくなった食品倉庫の一角を改装して作られたヴェニューでおこなわれたレーベルメイトであるピーピング・ドレクセルとのライヴにおいて、リリースされたばかりのEP「Rodeo Mistakes」の曲が演奏されることはなかった。
ホドロフスキーのSFコミックに出てくるような探偵をもっとやさぐれさせたみたいな風貌のルーク・ブレナンはくだを巻き、寝転び、観客を見つめる。バンドは目の前のディストピアを祝福するかのようなメロディを奏でて、距離をおいて座る観客はそれぞれに体を揺らす。トランペットが鳴り響く中、最前列の男女がキスをする(ステージなんて見てはいない)。座り込んだルーク・ブレナンは笑顔でそれを眺めて言葉を重ねる、そうして音楽がまた変化していく。YouTubeの画面越しに見る白黒のライヴの映像はまるで映画のシーンを切り取ったかのようだったが、こうやって考えてみるとマック・スプレッダーのスタイルはジャズやフリースタイルのそれに近いのかもしれない。
「完璧なものを作るのが目的ではない。ものごとが完璧な形で組み合わさる必要はないんだ」「曲を覚えて何度も歌詞を歌うのは嫌だし、何かが失われている気がする。昔から写真でも何でも最初に撮ったものが一番で、創造性については本能的に動いているんだ」バンドのインタヴューでもそんな言葉が飛び交うくらいだ、マック・スプレッダーにとってリリースされた音楽はその日までに起こったことの記録という側面が強いのだろう。その日になんでそうなったのかという過程と結果の方が重要でそれをそのままステージの上で再現することには興味はない(彼らはこれをスポーツの試合にたとえていた)。この『Abysmal』にもマック・スプレッダーのそうした思想が反映されていて、それが生々しさやゾクゾクするようなスリルに繋がっている。ここに記録されているのは2021年のサウス・ロンドンに漂うその空気なのだ。

 その空気を考える上で『Abysmal』が〈Brace Yourself〉からリリースされているというのもまた重要だろう。ダンス・ミュージックの名門〈WARP〉や〈Ninja Tune〉がジョック・ストラップスクイッドブラック・カントリー・ニューロードのようなインディ・バンドと契約し、イタリア90やジョン、ピーピング・ドレクセルなどパンクに寄ったギターバンドをリリースする新興レーベル〈Brace Yourself〉からマック・スプレッダーのレコードが出る、そんな状況こそがいまなのだ。ポップ・ミュージックのフィールドでジャズ的な感性を発揮する、ダンス・ミュージックが鳴り響くフロアに向けてギターがかき鳴らされる、ジャンルレスあるいはポスト・ジャンル化が進む現代においてより一層個性が求められている。何を混ぜ何を削るのか、そこにいまを生きる人間の感性が現れる。マック・スプレッダーのレコードは時代との対話だ、そんなことを言いたくなるくらいにここに色々な要素が詰め込まれている。もしかしたらこの中にアンダーグラウンド・シーンの次の形が隠されているのかもしれない、頭の中にぼんやりとそんな考えが浮かんでくる。そうだとしてもそうではなくとも、マック・スプレッダーの音楽は常に疑問を投げかけてくる。ジャンルとは境界線とはいったいなんなのだろうか?

ガールズ・メディア・スタディーズ - ele-king

「まず自分でやってみる」なんて余計なお世話。他人に言うことじゃない。やりたいのに、なぜだかちょっと踏み出せないでいる自分に対して、そっとつぶやいてみればいいんだと思う。
 それでも、どこへむかって踏み出せばいいのか、さっぱりわからないということもある。そういうときに役に立つ教科書があってもいい。この本は「女性たちがどのようにメディアの中で描かれているか、もしくは女性たちがどのようにメディア文化をいきいきと創っているのか、という点に関心のある学生たちにむけての教科書」だという。「表彰と解釈」と括られた前半では映画や広告、音楽からメイド喫茶や援助交際まで、若い女性たちがメディア空間でどのように表象されるかが分析される。メイド喫茶のメイドがツイッターなどのSNSを使ってどのようにセルフ・ブランディングをしているか、それはどのような「労働」なのか。あるいは90年代の女子高生ブームとはなんだったのか。援交する美少女像は誰が必要としたのかなど、メディアを利用しながら、実際には翻弄もされる女の子たちが見えてくる。「考えてみよう」「調べてみよう」「話し合ってみよう」などと、研究の指針が示されているのも親切じゃないか。
 「ワンダーウーマン」「キャプテンマーベル」などの映画から、表彰としての女性とフェミニズムとの関係を分析したり、ビヨンセやレディ・ガガなどを上げながらポピュラー・ミュージックにおけるジェンダー表象の読み解き方が解説されたり、90年代に起きた女子高生ブームの男性研究者による調査や分析をさらに分析する。
 好きなのは後半の「交渉と実践」のパートだ。アート、ダンス、ファッション、ジンの製作、社会運動を取り上げ、それぞれ、実践の場所の現状や先人の試みが紹介されている。たとえば美術展では女性客が圧倒的に多く、美大でも女子学生が多いにもかかわらず、日本の美術界ではジェンダー不平等がまかり通っている現状や、それでも表現としてはフェミニズム的な発想が増えていたりすることや、「ジン」と呼ばれるようなミニコミ出版物を作るときのたくさんのヒント、あるいは社会運動のはじめ方など、現実に役立てられそうな知識が詰まっている。
 じつは私も学生のころ、女子学生だけでミニコミペーパーを作っていた。ウーマンリブが「怖いもの」と言われていたポストフェミニズム的な80年代初頭の気分をそのまま写しとった、つまり「大卒女子が子供を産んだ後も雇われ続けるために、“女には” 何が必要か」「企業は社員を能力で評価してほしい」「雇われるためには女も意識を高くしなきゃ」みたいな、まさしくその後の新自由主義経済を待望するかのような内容だったが、(短大ではなく)4年制大学に行くことでかえって就職しにくくなると言われていた時代には切実なテーマだった。で、そのミニコミには当時できたばかりの人材派遣会社や、育児休暇制度を作ったばかりの百貨店などがけっこうな額の広告費を出してくれていた。女子学生が企業社会での性差別解消を訴えるミニコミに、企業が広告を出すのだ。企業と「交渉」しているような気持ちでいたが、どうだったんだか。──「ポストフェミニズムにおいて「女」はネオリベラリズム時代の労働者の特権的なシンボルとして立ち現れているためである。たとえば、今ではネオリベラリズムとそれに基づく市場原理主義によって、全ての労働者が柔軟な自己管理、つまり自身の身体を他者化・対象化・商品化することを求められるようになってきたが、これは「女らしさ」においては歴史的に今までもずっと求められてきたことである」。まったくだ。
 テーマとしては馴染めないながらもおもしろいと思ったのは「メディアをまとい闘うBガール」という章で、男性的な空間である「ストリート」の考察だ。確かに映画「スケート・キッチン」を観ると、アメリカでもストリートは圧倒的に男子のものだった。80年代のたけのこ族では女の子もたくさん見かけたのだけどなあ。スポーツとジェンダーやフェミニズムの問題は五輪を機に話題も増えていたが、女子が学校などの管理下にいて、男子がそこから押し出されてストリートに出ている可能性が考察されている。そのことと、ダンスという文化の根幹にある「まなざし」による権力関係との関わりをはじめ、Bガールたちのファッションや音楽との関係など、興味深い。
 メディア文化とはいえ、しばしば、心ならずもいつのまにか、若い女は見られる存在となっている。自分は見る側だと、主体的に活動しているつもりでいるのに、気がつくとどこかから、誰かから見られる側になっている。90年代の「女子高生」も80年代の「女子大生」も、勝手な視線で勝手にまとめられていて、どちらも「まとめて語るな」と怒っていた。
 この本からは、たとえば「見られること」を対象化する方法、見る/見られる関係を更新する考え方なんかを体得するツールがなにか見つかるだろう。加えてもう一息の自粛生活で、しばしご無沙汰だった「外」が拡がるかも。

The Steoples - ele-king

 1990年代にヒッポホップ・レーベルからスタートした〈ストーンズ・スロウ〉は、2000年代に入ってマッドリブのイエスタデイズ・ニュー・クインテットをリリースする頃からジャズをはじめ幅広い作品をリリースするようになっていった。現在はビート・ミュージックからロックやアンビエントなど多岐に渡る作品がリリースされるのだが、そうしたなかでもメイヤー・ホーソーンやアロー・ブラックなどのリリースでソウル~R&B路線もひとつの柱となっている。彼らとアプローチは異なるが、ザ・スティオプルズもそうしたソウル系のアーティストと言える。

 ザ・スティオプルズはガブリエル・レイエス・ホイテカーとイエオフィ・アンドーによるユニットで、2012年に「ザ・スティオプルズ・EP」でデビュー。それ以前もガブリエル・レイエスはGB(ギフティッド&ブレスド)名義で活動してきており、レーベルの〈ギフティッド&ブレスド〉も主宰している。LAビート・シーンの初期から活動するプロデューサーで、GB名義のアルバム『サウンドトラック・フォー・サンライズ』(2004年)はスティーヴ・スペイセックから大御所のアイアート&フローラ・プリム夫妻まで参加するなど、彼の幅広い音楽性と人脈が窺い知れるものだ。LAビート勢のなかにあって、マッドリブのプロジェクトのDJレルズと共に当時のUKのブロークンビーツ・ムーヴメントにも呼応したようなところもあった。ほかにもジ・アブストラクト・アイ、ザ・リフレクター、ジュリアン・エイブラーなど複数の名義でエレクトロニック・サウンドのビートメイカーとして活躍し、一方フランキー・レイエス名義では彼のルーツであるラテン音楽を主体とした作品も作っている。

 一方、イエオフィ・アンドーはイギリスからロサンジェルスに移住してきたDJ/プロデューサーで、UK時代はアシッド・ジャズ~ニュー・ジャズ方面で活躍したアウトサイドにシンガーとして参加していた。その後、ア・レイス・オブ・エンジェルスという個人プロジェクトを興すのだが、ここにはアウトサイドのときの同僚のアンドレアス・アレンも参加して、主にダウンテンポ・ソウルやファンク系の音をやっている。2007年にリリースされた『フロム・L.A.・ウィズ・ラヴ』というオムニバスにフライング・ロータス、ノーボディ、カルロス・ニーニョ、ガスランプ・キラーらと共に参加するなど、LAビート・シーンにもコミットした活動をしているが、GBの『サウンドトラック・フォー・サンライズ』にもヴォーカリストとして参加していて、ガブリエル・レイエスとの関係はその頃よはじまっていた。

 ザ・スティオプルズとしてはデビューEPの「ザ・スティオプルズ・EP」を〈ギフティッド&ブレスド〉からリリースした後、2017年に〈ストーンズ・スロウ〉に移籍してアルバム『シックス・ロックス』をリリース。そして、それから4年ぶりのニュー・アルバムの『ワイド・スロー・ジ・アイズ・オブ・ノー・ワン』を先日発表という流れとなる。ふたりのトラックメイカーが作るサウンドは、LAビート・シーンの流れを汲むジャジーなダウンテンポを中心に、ときにサイケデリックでコズミック、ときにディープに沈みこんでいくような世界を作り出す。そして、そこにイエオフィのソウルフルなヴォーカルが結びつき、スティーヴ・スペイセックやテイラー・マクファーリンなどに通じるダウンテンポ・ソウル・アルバムが『シックス・ロックス』だった。中にはアブストラクトな雰囲気のインスト曲もあり、そのあたりはビート・ミュージック色が強いなという印象を持ったものだ。

 その印象からすると、『ワイド・スロー・ジ・アイズ・オブ・ノー・ワン』はより明確なソウル色が出たアルバムとなっている。ビートメイクというよりも、イエオフィのヴォーカルをさらに生かす形でソングライティングに重点が置かれたエレクトリック・ソウルだが、随所に楽器類のオーガニックな演奏が配備されている。ストリングスとギター演奏が生み出す広がりのある空間が印象的なアコースティック・ソウルの“イン・ザ・ダンス”は、ガブリエル・レイエスならではのラテン的なフィーリングを持ち、往年のスティーヴィー・ワンダーを思い起こさせるところがある。“コットン”はマーヴィン・ゲイの“アフター・ザ・ダンス”やエムトゥーメイの“ジューシー・フルーツ”などの世界に繋がるような浮遊感に満ちたクワイエット・ストーム。ラテン・リズムを取り入れた“ワイド・スロー・ジ・アイズ・オブ・ノー・ワン”は哀愁に包まれたバレアリック・ソウルで、“ザ・グッド・ニュース”は4ヒーローのようなブロークンビーツ的なフィーリングを持つ。1970年代から1980年代の良質なソウル・ミュージックのエッセンスを受け継ぎ、そこにブロークンビーツやダウンテンポなどDJ的なセンスを融合したのが『ワイド・スロー・ジ・アイズ・オブ・ノー・ワン』である。

PACKS - ele-king

 それはある意味でフットボールのクラブと同じようなものなのかもしれない。移籍があって、獲得があって、別れと出会いを経ての浮き沈みがある、音楽レーベルに関して僕はそんな風に思っているところがある。〈Captured Tracks〉なんかはメジャーリーグ・ベースボールにひっかけて所属のアーティストをロースターと表現しているけれど、自分としてはフットボールのスカッドの方が近いんじゃないかと思う(ドラフト制よりももっと自由移籍の側面が強いような感じだ)。気になるバンドがいくつかできて追いかけていくうちに「あれ、またここから出てるのか」と気がついてそうやってお気に入りのレーベルができ上がっていく。違いがあるのはひとつのレーベルに忠誠を誓ったりせずにその時々でどこのレーベルが良いとか勢いがあるとか気軽に言えるところだ。だからレーベルはその分シビアにその場その場で判断される(ひょっとしたらそれはとても健全な状況なのかもしれない。良ければ褒めて悪ければ離れる)。

 そしてしばしばみんな同じタイミングで、同時に気がつくのだ、このレーベルはちょっと凄いんじゃないかって。ディーパー、デフド(Dehd)、ピュアX、Mamalarky、Bnny、ウォンボ、最近の〈Fire Talk〉の勢いは凄い。〈Fire Talk〉はブルックリンのレーベルで創設は2009年、Discogs でカタログを見ると当初はテニスの7インチを出していたりしたらしいけど、いまがいちばん勢いがあるんじゃないかってくらいに最近その名前をよく見かける。レーベルの勢いはリリースするバンドによって可視化され、だからこそみんな同時に気づく、これもそうだしあれもそう、集められた “スカッド” にはいまのレーベルの哲学が詰め込まれているのだ。

 自分にとって〈Fire Talk〉の決定打になったのはトロント出身のバンド、パックスで、いままで出していたディーパーやデフドとはちょっと毛色が違う、90年代を感じさせるペイヴメントみたいなギターにグランジの風味を混ぜてスネイル・メイルや初期のサッカー・マミーみたいなオルタナティヴなインディSSWをやっている感じなのが新鮮だった。でもスネイル・メイルやサッカー・マミーと比べると圧倒的に醒めていて、ギアをローに入れたまま感情を発露させずに言葉少なく淡々と描くようなスタイルだ。ローファイのまま過剰な装飾を施すことなく日記の切れ端を物語として提示する、こういうセンスはちょっとロンドンのバンド、ソーリーと近いような感じで、この感覚がとても良い。

 デビュー・アルバム『Take the Cake』の収録時間は24分弱で、このあたりにも過剰さを排除したバンドのセンスが現れていると思う(伝わらなかったら伝わらないでいい、言葉を尽くし他者を説得しようとしたりしない、そんな醒めた目線がそこにはある)。パックスは元々ヴォーカルのマデリン・リンクスのソロとしてスタートし、そこからバンドになったようだがこのアルバムのなかにもSSW的な感性とバンドのダイナミズムが混在しているようで面白い。“Two Hands” や “New TV”、“Hangman” のような曲はギターの弾き語りから肉付けしていったような感じがするし(この曲たちが続けて配置されているのも偶然ではないような気がする)、“Hold My Hand” はまさにグランジ風味のペイヴメントでありバンドのダイナミズムを感じることができるが、同時にモニターの光に照らされた暗い部屋に寝転びながらスマホを眺め、悪態をついているマデリン・リンクスの姿が思い浮かんでくる。自分がパックスに魅力を感じるのはこの混在している奇妙な要素のバランスなのだ。個人的な日記のようでそうではなく、客観的な視点があって、他者の存在をそこに感じて、バンド・サウンドのなかに個人と社会があるような感じで、それが不思議に調和する。一言で言えばしっくりくるという感じで、センスが良いという言葉で簡単に片付けたくなるようなものだけど、そこに多くの意味をこめたくなる。

 ともすれば情報過多になってしまうような時代にあって、それに反発しこれさえあればいいとひとつのやり方に固執するのではなくて、いま、何ができ、必要なのかと選択肢を広げ選び取る、そして同時にこれはやらないということを判断する、それこそがきっと現代におけるセンスで、それが日常的に様々な場面でジャッジを迫られるような時代において強く求められているものなのだろう。選択と判断こそが時代のキーで、だからこそパックスの音楽は魅力的に響くのだ。溢れる情報のなかで、時代の空気を感じ取り、それを過剰に出すことを選ばずに、リヴァイヴァルが起きはじめている90年代のサウンドのなかに落とし込む。“インディ的な” とまたしても簡単に言葉にしてしまいたくなるけれど、みなが感じるインディらしさとはきっと歴史の積み重ねによってその空気が作り出されてきたもので、はっきりとは見えないけれど確かにそこに存在するものでもある。バンドはそれを表現しレーベルがそれを選び取る、空気は不変ではなくつねに入れ替わり、過去を思い起こさせる新しさが未来を作る(それは伝説的な誰かみたいな選手を求めるクラブとファンみたいなものだ)。

 〈Fire Talk〉のようなレーベルとパックスみたいなバンド、僕はその選択を気にして追いかける。1st アルバムをリリースした後、2021年8月にパックスはその3ヶ月前に発売されたアイスエイジのアルバム『Seek Shelter』の “Drink Rain” をカヴァーし配信でリリースした。信じられないくらいのスピード感、サブスクリプションの時代になって、届けるための手段が増えて、新たな意味がそこに付け加わっていく(カヴァー曲はいまや共感や自らのスタンスを表明するひとつの手段になっている。同時代性を強調しアティチュードを共有する、過去ではなく現在の、それは繋がることができる世界に向けて出された線なのだ)。いま、なんでそれをするのか、その選択が心を躍らせる。パックスにはそんな時代のセンスが詰まっている。だからこそきっとこんなにもドキドキするに違いない。

BLAHRMY - ele-king

 それぞれがソロMCとしても活躍する MILES WORLD と SHEEF THE 3RD によるグループ、BLAHRMY の実に9年ぶりとなるフル・アルバム。この9年間にそれぞれが蓄積してきた高いスキルが合わさった上で、『TWO MEN』というタイトル通りの純粋な「2MC」スタイルがアルバム全体を通して貫かれている。さらに今回は、彼らの所属レーベルでもある〈DLiP RECORDS〉の屋台骨を支える NAGMATIC が全曲のプロデュースを手がけたことで、BLAHRMY としての純度はより高まっている。

 本作を象徴する一曲は間違いなく1曲目の “Woowah” だろう。90年代後半から2000年代にかけてのNYヒップホップとも通じるドラマチックでストリート感溢れるトラックでありながら、音の鳴りはいまの時代のサウンドそのもので、そのビートに絡みつく MILES WORLD と SHEEF THE 3RD のコンビネーションに圧倒される。彼らが放つひとつひとつの言葉の響きは実に楽器的であり、その言葉がもつ本来の意味にプラスαの価値を加え、まるで新たな命を吹き込むかのように「Woowah」というタイトル・ワードを強烈に光らせる。ちなみに YouTube でも公開されている藤沢駅近くで撮影されたというこの曲のMVは BLAHRMY の世界観がさらにストレートに描かれており、モノクロで撮られた映像も痺れるほど格好良いので、興味ある方はそちらもぜひチェックしていただきたい。

 アルバム前半部は “Woowah” と同様のハードな路線が続き、彼らとも繋がりの深い DINARY DELTA FORCE の RHYME BOYA と緊張感漂うスリリングなマイクリレーを展開する “B.A.R.S. Remix” や、自らをエイリアンに例えながらふたりがそれぞれ異なるイメージを描き出す “Aliens” など、彼らの言葉のチョイスの面白さや純粋にラッパーとしてのストレートな魅力がダイレクトに伝わってくる。かと思えば中盤ではGファンク全開の “Hey B.”、インド(?)っぽいテイストも盛り込まれた “Fiesta”、ゴールデン・エラのヒップホップへの愛が詰まった “Recommen'”、オリエンタル風味な “Flight Numbah” など、NAGMATIC のヴァリエーション豊かなビートのイメージに合わせて、BLAHRMY としての軸はキープしながら様々なスタイルをリリックで披露する。

 仙人掌をフィーチャした “Living In Da Mountains” は本作では唯一、〈DLiP RECORDS〉以外のゲストを迎え入れたことで、微妙な空気の変化がアルバム全体に深みを与え、そのムードは BLAHRMY としての未来を伝えるラスト・チューン “続、”へと引き継がれる。本作のリリース直後に SHEEF THE 3RD は BLAHRMY とはまた少し異なるカラーのソロEP「Peice is. EP」をリリースしており、おそらく MILES WORLD もすでに次作を準備中であろう。ふたりのソロ活動がまた次の BLAHRMY の作品にどのように反映されるのか、楽しみでならない。

ショック・ドゥ・フューチャー - ele-king

 未来の衝撃。そう題されたこの映画の舞台は、40年以上前のパリだ。ある特定の世代の懐古趣味と捉えられかねない側面がないわけではない。けれどもこの『ショック・ドゥ・フューチャー 』は、2010年代が終わりを迎えようとしている「現在」──フランス本国での公開は2019年──だからこそ、大きな意味を持つ作品だと思う。

 ときは1978年。当時のシンセサイザーは巨大だった。ゆえに部屋ごと機材を借りている主人公の若手音楽家アナは、依頼されたCM曲がうまくつくれず悩んでいた。とうに〆切は過ぎ、自身の立場を危うくしたくない男性担当者が押しかけてくる。そんなせっぱ詰まったタイミングで機材が故障、泣きっ面に蜂の状況に陥るも、修理に訪れた技術屋がたまたま持っていたリズムマシンにアナは天啓を得る。その後CM曲を歌うことになっていた歌手クララが部屋を訪れ、意気投合したふたりはその場でセッションを開始、名曲誕生の予感に胸を躍らせる。今夜のパーティにはレコード会社の大物も顔を出すらしい──
 ストーリーはいたってシンプルだ。フランス古典主義の「三単一」よろしく、ひとつの場所で、一日のあいだに、ひとつの筋が進行していく。主題をぼかさないための工夫だろう(序盤のカフェや終盤のセーヌとおぼしき川など、一部舞台は変更されるものの)。
 さりげなく画面に映りこむテリー・ライリー『A Rainbow In Curved Air』やブライアン・イーノ『Before And After Science』(当時出たばかりのぴちぴちの新譜)、ジョルジオ・モロダー『From Here To Eternity』(1年前にリリース)などの輝かしきエレクトロニック・ミュージックの重要盤、シャンソンやロックと対比的に流されるスロッビング・グリッスル “United” やスーサイドの “Frankie Teardrop”、それとわかるように明確に映しだされる SYSTEM-700 や CR-78 といった機材──パンフレットで野田編集長が指摘しているように、それら細部を確認することもまたこの映画の楽しみ方のひとつではある。
 しかし、ではぼくのように遅れて生まれてしまった者、かかっている曲をパッと答えられないような後追い世代の人間は、この映画をどう享受したらいいのだろう?


 作中では、あからさまな偏見やいやがらせが何度も挿入される。ほのめかされていた主題は、エンディングにおいて明確になる。「電子音楽の創生と普及を担った女性先駆者たちに捧ぐ」との献辞につづいて掲げられる、12人の音楽家たちの名前。そこにはウェンディ・カルロスをはじめ、近年再評価されているローリー・シュピーゲルやスザンヌ・チアーニ、ポーリン・オリヴェロスやベアトリス・フェレイラらの名が並んでいる。直接エレクトロニック・ミュージックとは関係のないパティ・スミス『Horses』が映り込んだり、アナがジャニス・ジョプリンのTシャツを着ていたりすることにも、意味がこめられていたのだ。

 2010年代のエレクトロニック・ミュージックの動向のひとつに、女性音楽家たちの著しい擡頭があった。ローレル・ヘイローをはじめ、インガ・コープランドマリー・デイヴィッドソンホーリー・ハーンダンコリーンジュリアナ・バーウィックソフィーグライムスファティマ・アル・カディリジェイリンガゼル・トゥインジェニー・ヴァルケイトリン・アウレリア・スミスクラインラファウンダカテリーナ・バルビエリピュース・マリーニディアキシアフロドイチェアースイーターヤッタムーア・マザークララ・ルイスルクレシア・ダルトフェリシア・アトキンソンビアトリス・ディロン、サラ・ダヴァーチ、Cuushegalcid、ユウコ・アラキ、直近でいえば2021年の台風の目たるロレイン・ジェイムズヤナ・ラッシュ、以前から活動していたひとたちのさらなる躍進という意味ではコージー・ファニ・トゥッティPhew、パメラ・Zやエレン・フルマン、上述の献辞には登場しないがおなじく再評価されている例としてポーリン・アンナ・ストロームなどなど、枚挙にいとまがない。
 彼女たちの音楽が高く評価されたのは、彼女たちが女性だったからではない(もちろん、女性でなかったからでもない)。単純に、その音が尖鋭的だったり独創的だったり強度を持っていたりしたからだ。2010年代とは、エレクトロニック・ミュージックがつくり手のジェンダー(や人種や年齢)に左右されず正当にサウンドで評価されるジャンルだということに、多くの人びとが気づくようになった時代なのだ。

 映画には二重の苦難が描かれている。ひとつは、ポピュラー・ミュージックにおいて電子音楽が異端でキワモノ扱いされていた時代に、それをやるということ。もうひとつは……本作にはアナが、「歌手になれば?」とアドヴァイスされる場面が出てくる。いまそんな助言をするやつはいない。「女性=ヴォーカリスト」という固定観念が失効するまでに、40年近くかかったということだ(似たような偏見に「女は機械に弱い」というのもある)。「未来の衝撃」の意味を、ぼくはそう解釈した。
 過去へのリスペクトに満ちたこの映画はじつは、今日においてまたべつのかたちの偏見と闘っているひとたちへのエールなんだろうと思う。オバマが大統領に就任したとき、ローザ・パークスの「拒否」から50年以上が経過していた。いまの苦労や試行錯誤が報われるのは半世紀後かもしれない。でも、あなたがやっている尖鋭的な試みはけっして間違ってはいないと、『ショック・ドゥ・フューチャー』は、現在見向きもされず、トレンドから遠く離れたところで実験に明け暮れている、野心あふれるチャレンジャーたちに激励を送っているのだ。

予告編

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