Home > Reviews > Album Reviews > Kode9 & The Spaceape- Black Sun
「空には穴が空いている。それは私の目を焼き尽くす。なぜ空に暗い穴が空いているのだろう」――ダブステップにおける知性派、大学教授でもあるスティーヴ・グッドマンによるコード9名義の2枚目のアルバム『ブラック・サン』は、3年前のファースト・アルバム『メモリーズ・オブ・フューチャー』と同様に、彼のディストピック・ヴィジョンを繰り広げている。前作は都市における暗闇――『ピッチフォーク』が物々しくレヴューしたように「テロリズム・パラノイア、内部コミュニティの争い、インナーシティの抑圧、それら恐怖のテーマを文字通りのジャマイカ感覚において企てる」ものだったとしたら、『ブラック・サン』はサイエンス・フィクション仕立てのさかしまのユートピアにリスナーをテレポートさせる。学者としてのグッドマンの同胞であるコドウォ・エシュン言うところの"ソニック・フィクション"だ。
......で、それにしてもどうですか、このアートワーク。狩野派の描いた襖絵を意識したようなこのデザインは、日本で暮らす我々を虚構から引き離し、この現実に引き留める。グッドマンが創出したディトピアは英国への呪い(彼のタームで言えば"一神教信者によるニューエイジ・バビロン")から生まれているというけれど、しかしながら黒い太陽はいままさにアポカリプティカを生きる我々の頭上で輝いているのである。
とはいえ、彼の不吉なる「ブラック・サン」は、2009年に12インチ・シングルとして発表されている。この悪夢は3年前からはじまっているというわけだ。僕が面白いと思うのは、この曲がUKファンキーからの影響で作られていることで、UKファンキー......それはUKガラージにおけるアフロとソカの混合であり、そのダンス・ミュージックとしての展開であるが、「ブラック・サン」は民芸品に陳列されているアフロやカリブ海ではない。〈ハイパーダブ〉が送り出したテラー・デンジャーのフリーケンシーズがどこか不機嫌で、手の施しようのないくらい過剰だったように、ガラージやファンキーにおけるアフロ・ディアスポラは心地よい陽光や大地とはむしろ逆の感性を磨いている。おそらくグッドマンが目を付けたところもそこだ。「ブラック・サン」のブラックにはアフロが含まれているのだろうけれど、そこに笑顔はないのだ。
『ブラック・サン』はディストピック・ヴィジョンによるコンセプト・アルバムだが、音楽的に言えばグッドマンのビートへの探求心がもたらした作品だと言える。彼は自分のリスナーがフーコーとドゥルーズを読んでいる大学生ばかりではないことを証明するかのように、ここにはアントールドやピアソン・サウンドといった新世代のベース・ミュージック・プロデューサーからの影響も伺えるし、僕が驚いたのはデトロイト・テクノやシカゴ・ハウスへの接近である。グッドマンにしても、彼の優秀な生徒と言えるだろうブリアルにしても、もともと2ステップ・ガラージのビートの応用者である(あの、一拍目と三拍目二にアクセントをおいたブレイクビートですね)。それはジャングルの発展型であり、テクノ/ハウスからずいぶん離れたダンス・ビートである。どこまで意図的かは知らないが、『ブラック・サン』にはリズム・イズ・リズムのラテン・パーカッションをパラノイアックな恐怖にまで反転させたような曲があるし、シカゴ・ハウスの首を締め上げたような曲もある。このアルバムを聴いたあとではドレクシアの悪夢でさえも気さくなファンタジーに思えるかもしれない。まあ、とにかくエモーションなどないし、"ラヴ・イズ・ザ・ドラッグ"なる曲があるが、それはもう、気が滅入るような恐ろしい呪文である。
これはデトロイト・テクノではないし、ましてやダブステップでもない。アルバムのクローザー・トラックではフライング・ロータスが参加しているが、彼は錆びて、シミだらけのこのアルバムに相応しいグリッチ・ノイズを表情を変えずに鳴らしている。それがひとかけらの愛も希望もない、どこまでも絶望的なこの物語を後味悪く締めている。
ここまで徹底的に、執拗なまでに未来の崩壊を表現しようとするグッドマンはどうにも底意地の悪い、ニヒルで手に負えない悲観論者だと言えるのだろうか。そうかもしれないし、あるいはJ.G.バラードやジョージ・オーウェル、ネビル・シュートといった偉大なディストピアンを輩出した英国ならではの伝統を汲んだ作家か、もしくは本気で警鐘を鳴らしたいのだろうか......、いやそんなことよりも、彼の感受性がとことん恐怖を感じ取ってしまっているだけのことなのかもしれない。
野田 努