「DJ DON」と一致するもの

interview with Sleaford Mods - ele-king

 「まったく国民に自粛を押しつけといてさ」、いきつけのクリーニング屋の親仁は吐き捨てるように言った。「あいつらは好き勝手やってんだよ、とんでもないよね」。昨年末のことである。かれこれ10年以上世話になっている個人経営の店の、もう白髪さえ頭にまばらなこの爺様とは、いままでずっと天気の話しかしてこなかったから、突然の政治的憤怒にはフイを突かれる格好となった。ええ本当にそうですねと、そのぐらいの言葉しか返せなかったが、あんな温厚な年寄りさえも怒っているのだと念を押された思いだった。
 このところニュースは、失業者、ホームレス、そして自殺者について報道している。コロナ第三波に対してとくになんの対策もなく、意味のある支援策も解雇防止策もないまま、だらだらと非常事態宣言がでたばかりだ。ニュースはそして最近では、トランプの信じがたい暴力的な脅しを報じている。この一大事に、他の先進国と違って我が国の政治リーダーはコメントすらできないようだが、まあ、ワシントンの議事堂における支持者たちの暴動では、警察の対応がBLMデモとは明らかに違っていることを世界に見せてしまったと。その点でもBLMの成果はあったと言えよう。だが、あの憎しみや怒りは、ぼくがアリエル・ピンクのCDをたたき割って捨てたところでは、とうてい消えはしない根深いものであることを知らしめてもいる(ジョン・ライドンに関しては……紙エレ年末号をどうぞ)。
 さっきからテレビの画面では飲食店の店主たちが悲鳴をあげている。一家の稼ぎ手がまたひとり職を失っているときに自助(自分でなんとかせぇ)を第一とする菅政権は、就任以来中小企業の事業再構築をうながしているが、これは中小企業の何割かの淘汰を意味している。こんな与党を前に野党はいまもって存在感を示すことができず、その支持率は一向に上がらない。いま、目の前にあるのは幻滅ではない、絶望だ。

バズライトイヤーの髪型をしたおまんこ野郎が
労働者たちを呼びつける
自分の将来について考えたほうがいい
自分の首のことを考えたほうがいい
仲間を作ることやクソな髪型について考えたほうがいい 
俺は25セントのパスタと
スミノフの温かいボトルの夢を叶える
“Fizzy”

 ポップ・ミュージックにできること。気張らし。慰め。逃避。夢。熱狂。ダンス。カオス。笑い。快楽。幻覚。励まし。内省。趣味の競い合い。性の解放。愛の増幅。社会参加。孤独な魂に寄り添うこと。批評。罵倒。失意。絶望。悲しみの共有。挑発。炎上。攻撃。ヒーローはいつだって私をがっかりさせる。異議申し立て。疑問。気づき。目覚め。言いたくても言えないことを言うこと。頭のなかの革命。

俺はなぜ、穿いているブーツの二の次なのか?
俺はなぜ、着ているコートや髪型の二の次なのか?
俺はなぜ、自分の車の二の次なのか?
腕時計やジーンズ、ポロシャツよりも下
“Second”

 スリーフォード・モッズは、間違いなくいまもっとも面白いバンドのひとつである。その立ち振る舞い、音楽性、言葉、ユーモア、見た目、政治的スタンス、勇気、ぶち切れ方……スリーフォード・モッズは怒りにかまけて理想を忘れるようなことはしない。ものごとは昔よりも複雑化している。だからスリーフォード・モッズは走っているが、ただ走っているわけでも、考えてから走っているわけでもなく、調査し、挑発し、不条理を受け入れて、真剣に考えながら走っている。ザ・KLFが、ポップ・ミュージックがその随所に渡って市場化され、金が神となった現代を見据えながら象徴的な意味合いとして100万ポンドを燃やしたのだとしたら、そのがんじがらめの資本主義リアリズムのなかで目一杯ジタバタして、泥にまみれてもがいているのがスリーフォード・モッズだ。彼らは、地元の保守的なコミュニティにも、居心地良さそうなリベラルのコミュニティにも属さない。言うだけ言って、やるだけやってやろうという腹づもりなのだろう。
 また、いまのような時代ではスリーフォード・モッズには希少性という価値まである。パンク・アティチュードはほかにも、たとえばシェイムのような若いバンドストームジーのような賢明なるMCにもあるのだろう。だが、ジェイソン&アンドリューというふたりのおっさんがそのなかで際だった存在であることは間違いない。昨年もロックダウン中にUKで起きた介護者への国民からの讃辞に対して、こうした美談は政府の怠惰を隠蔽すると発言したことで、当たり前だが物議を醸し、また、「階級の盗用」だとアイドルズを大批判したビーフはファット・ホワイト・ファミリーまで巻き込んでの騒ぎとなった。
 それで、まあ、スリーフォード・モッズは進化しているのだ。新作『スペア・リブズ(Spare Ribs)』には、まずはサウンド面の変化がある。『オースタリティ・ドッグズ(Austerity Dogs)』の頃のモノクロームな煉獄ループに比べると音色も多彩で、曲もずいぶん親しみやすくなっている。セックス・ピストルズやストゥージズの幻影も霞んではいるが、ドイツの冷たいエレクトロや後期ザ・スペシャルズ風な内省とメランコリーもあったりで、曲のヴァリエーションが増えている。とはいえ、ジェイソンの激怒するヴォーカリゼーションとアンドリューのミニマルなトラックが古き良きロックに回収されることはない。

 UKのモッド・カルチャーとは、本来の意味を思えば60年代回帰のレトロ志向のことではないはずだ。あれはモダンな(新しい)ものを好み、たとえば最先端のUSブラック・ミュージック(ないしはUK移民の音楽=レゲエ)を愛好する尖った文化だった。ノーマティヴな社会に溶け込みながら、人とは違った趣味を持ち、人とは違った方法で自分をしっかり着飾る文化。ジェイソンも服が大・大好だが、彼はウータン・クランに触発されたあくまで現代のモッドである。ポップ・ミュージックにできること。いまリアルに起きていることのレポート。

ここにアンセムなどない
あるのはコンクリート
チップス
汚れたソーセージ
3ポンドの花束
“The Wage Don’t Fit ”

 スリーフォード・モッズはイギリスのノッティンガムの、ジェイソン・ウィリアムソンいわく「レイシストだらけ」の保守的な街で誕生した。2006年のある日のこと、パジャマ姿のまま近所に発泡酒とチョコバーを買いに行ったときにアイデアが閃いたという。ちなみにその名前だが、彼らがスリーフォードという土地に縁があるわけではない。ただその響きが良かったから採用したという。
 ジェイソンは、他人の曲をループさせたトラックに自分のラップをかぶせるという初期スリーフォード・モッズのやり方で地元のスタジオエンジニアと4枚のCDR作品を出している。昔はストーン・ローゼズやオアシスが好きだったというジェイソンだが、彼が自分のパートナーに選んだのは地元のDJ/プロデューサーで、ソロでは荒涼としたエレクトロニカ作品を多発しているアンドリュー・ファーンだった。長身で痩せこけたアンドリューと5枚目のCDR作品を作ると、2013年には正式なアルバムとして『オースタリティ・ドッグズ(緊縮財政の犬たち)』をリリースする。時代をみごとに捉えたその勇敢で独創的な音楽はWire、NME、ガーディアン、Quietusなどなど、イギリスの有力メディアからいたってシリアスに、そして知的に評価され、翌年の『ディヴァイド・アンド・イグジスト(分断と出口)』にいたってはマーキュリー賞にもノミネートされた。(いまではブリストルの巨匠マーク・スチュワートからロビー・ウィリアムスのようなセレブにまで愛される人気バンドになったが、曲の歌詞でNMEをバカにしたので、同メディアが選ぶ最悪なバンドの1位にもなっている
 スリーフォード・モッズはその後3枚のアルバムを出している。2015年の『キー・マーケッツ』、2017年には〈ラフトレード〉から『イングリッシュ・タパス』、2019年には自分たちのレーベル〈Extreme Eating〉から『イートン・アライヴ』。再度〈ラフトレード〉からのリリースとなる『スペア・リブズ』は、昨年話題となったベスト盤『オール・ザット・グルー』を挟んでのアルバムで、ロックダウン中に録音された。まるでDAFのようなエレクトロなミニマリズムとともに『スペア・リブズ』はこんな風に、失意と疲弊感からはじまる。この気持ちは我々日本人もシェアできるのではないだろうか。

俺らみんなが保守党に疲れている
そのせこさにやられている
浜辺はファックされ、波もないから
ここじゃもう誰もサーフィンしない
“The New Brick”

 

イーノは全然好きじゃない。彼は、俺のハマってる連中の多くにすごく影響してきた人なわけだ。でも俺自身は一切影響を受けてない。彼にはまったく興味を惹かれたことがないな。だってさぁ、あのみてくれだぜ(笑)。

新作、とても楽しませていただきました。音楽的にヴァリエーションが増えたことで、歌詞がわからずとも楽しめます。ある意味アクセスしやすい作品だなと。

JW:(うなずきながら)うん、それは間違いない。

ロックダウン中に『スペア・リブズ』の録音に取りかかったそうですが、最近はどんな風に過ごされていますか?

JW:うん、なんとかやってる。ポジティヴであろうと努めているし……かなり妙だけどね、ただじっとして、働かずにいるってのは。いやだから、ギグをやれないわけでさ。でも──うん、俺たちは大丈夫だよ。とにかくいまは、他の多くの人びとに較べりゃ自分たちの状況はずっとマシなんだし、常にそれを思い起こすようにしなくちゃいけないな、と。

日々、読書や映画鑑賞に明け暮れているとか?

JW:(笑)いやぁ、俺は読書が苦手でさ。マジにからっきしダメな読み手だよ。もっと本を読めればいいなとは思うけど、ほら、自分はものすごく──これ(と携帯をカメラにかざす)の中毒なわけで。

おやおや。

JW:(携帯スクリーンを猛スピードでスクロールするふりをしながら)ピュッピュッピュッピュッ! 始終そんな感じで、何か見て「おっ、すげえ!」みたいな。わかるだろ? うん、よくないのは自分でもわかってるんだけど。それ以外だと、俺は子持ちだから、父親業だね。子供の面倒をみて過ごしてる。そうやってとにかく心持ちの面で忙しさを保とうとしているし、クリエイティヴな面で言うと、アルバム(=『スペア・リブズ』)以来、自分は実際何もやってないな。それでも何やかんやと時間はふさがっているし、きっとそれは親だと忙しいってことだろう。

あなたがフランクフルト学派やマルクーゼを読んでいるとどこかの記事で見かけたんですけど、それは本当ですか? たしか『一元的人間』を読んでいる、とのことで。

JW:ああ、とてもいい本だ。あれは助けになったというか、本当に影響された。そうは言っても1、2章かじった程度だけどね、(顔をしかめながら)すごく、すご〜く難解でおいそれと読めない本だから。ただ、あれを読んだおかげで自分はものすごくこう──目覚めさせられたっていうのかな。この……国による支配ってものから、資本主義の抑圧から、我々は決して自由になれない、という観念を意識するようになった。彼らがこちらを欺き、資本主義の経済モデルに一生貢献し続けるように我々をだます、その様々なやり方からね。

でもほんと、その管理・抑圧からは逃れられないですよね。たとえば、こうしていま素晴らしいテクノロジーを使って取材していますが、これですら資本主義モデルに準じた一種の社会的なコントロールじゃないかと感じることがありますし。

JW:うん……。だけど、と同時に俺はそれを気に入ってもいるんだ。金を使うのは好きだし、高価なスニーカーを買うのも好きだ。外食するのも、いい服を着るのも好き、と。だから俺はまた、そのモデルを自らに割り振ってもいるっていう。

先ほど言ったように、まずは音楽的に以前よりもヴァリエーションが増えたと思います。そこは意識されましたか? 様々なヴォイスやサウンドがミックスされていますし、ギターを弾いているのはあなたですか?

JW:ああ。

ギターを弾くのは本当に久しぶりだったと思いますが、どんな気分でした?

JW:たしかにずっと弾いてなかったけど、まあ、とにかく音楽の方がギターをいくらか必要としていると思えた。アンドリューは“Nudge It”でギターを弾いたし、俺は“Thick Ear”で弾いてる。だからときおり……そう、とにかく今回はギターが必要だって風に自分には感じられた、ギターをちょっと加えようと思ったっていう。だから、以前の自分ほどギターっていうアイディアに敵愾心を抱かなくなっているんだよ。

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モッズというのはいつだって真実を伝える連中だった。だから俺は自分のバンドに「モッズ」の単語を含めた。自分たちもその同じ流れに沿っている、俺はそう思ったから。

スリーフォード・モッズのサウンドスケープを拡張するというのは──『Key Markets』以降、確実にその幅は広がってきていましたが──意識的でしたか? スリーフォード・モッズの音楽はそぎ落とされたミニマルなものになりがちですが、今回はもう少し聴き手に緩衝材を与えている気がします。

JW:ああ、そこは確実にそうだ。思うに、俺は……どう言ったらいいのかな、これまでよりもう少し層の重なった、もうちょっとカラフルなものにしたかったんだ。

ちなみに、アンドリューがひたすらチープな機材を使って音楽を作っていますが、それは高価な機材でしかモノを作らないことへの反論なのでしょうか? 

JW:そうは言っても、ここ数年で奴の機材の幅は間違いなく以前より広がったと思うけどね。でも、あいつは以前「ACID」っていうソフトを使ってビートを作っていたはずで、っていうかいまも使ってる(笑)。だから、そうね、あいつはこう……効果音だとか、奇妙なサウンドだのに入れ込んでるんだよ。で、それらを入手するのには、そんなに大枚はたかずに済むわけじゃない? 
あいつのいま使ってるセットアップも、かつてに較べりゃずいぶんでかくなった。ただ、それでもあいつはいまだに、歌にビート/音楽を組み込む際は最小限の要素みたいなものにしか頼らない。あいつも近頃じゃ、いくつか良質な機材の一式をいつでも使えるよう、手元に揃えたがるようになってるけども。

スリーフォード・モッズはある意味、音楽を作ることに、音楽界にインパクトを与えるのに大金を費やす必要はないという、その好例じゃないかと思うんですが。

JW:そうそう、その必要はまったくない。俺たちはそういうのに興味なし。とにかく俺たちは大抵ミニマルにまとめているし、アンドリューはそれにうってつけなんだ。というのもあいつの音楽は、たとえばソロでやってるExtnddntwrk(=extended network)にしても、どれも一種の音のランドスケープ、サウンドスケープ郡みたいなことをやっているし、やっぱりミニマルなわけで。だからほんと、あいつのやることはそこと完璧にマッチするんだ。

Extnddntwrk名義の作品は、じゃあよくご存知なんですね。彼のアンビエントな側面もお好きですか?

JW:ああ、もちろん! 好きだしいいと思う。もっとも、あれは自分が普段聴くような類いの音楽じゃないけども。だから、そんなに聴かないけど、ちゃんと評価はしてる(笑)。

ちなみにアンビエントの巨匠イーノに関してはどんな印象をお持ちですか?

JW:ファンではないな。(苦手そうな表情を浮かべて)全然好きじゃない。でも彼は、俺のハマってる連中の多くにすごく影響してきた人なわけだよね? テクノだとか、エレクトロニカ全般なんかに多大な影響を与えてきた人だとされているけれども、俺自身は一切影響を受けてない。彼にはまったく興味を惹かれたことがないな、うん、それはない。だってさぁ、あのみてくれだぜ(と、頭を丸めた坊主頭のジェスチャーをする)? でかい頭で、すげえ妙なルックスでさ。フハッハッハッハッ……!

(苦笑)。いや、イーノはあなたと同じようにコービン支持者ですし、政治的には共感できるんじゃないかなと。

JW:(真顔に戻って)ああ、うんうん、それはもちろんだよ。だから要は、俺はあの手のミュージシャンにエキサイトさせられることはまずない、ってこと。いつだってもっとこう、ストリート系な、「ウギャアアアァァッ!」みたく騒々しいバンドなんかの方に感心させられるっていうか、そういうのなら「おう、よっしゃ!」とそそられるっていうさ。

2020年にはこれまでのキャリア総括盤『All That Glue』も出しましたし、自分たちを振り返る時間もあったかと思います。

JW:(うなずいている)

あらためてスリーフォード・モッズの原点を、あなたが友人のサイモン・パーフと2006年か07年あたりにこのプロジェクトをはじめた、その当初のコンセプトを教えていただけないでしょうか? 

JW:あれは本当に……いま君たちが耳にしているもの、そのごくごくベーシックなヴァージョンだったんだ。当時の俺たちは他の人間の作った音楽をループして使っていた、という意味でね。

(笑)無断サンプリングしていた。

JW:(苦笑)そう! で、俺はとにかく……そのループにシャウトを被せていただけで。個人的な実体験の数々、酔っぱらった経験や失敗談、アルコールとドラッグへの依存、セックスとか、まあ何でもいんだけど、そういった事柄すべてについて語っていた。いまやそこは変化したけどね、それとは別のことを俺は歌ってる。ただ、それらは人生のなかのごくちっぽけな立ち位置/存在の観察だ、というのは常にあって。で、それが念頭にありつつも──うん、昔の自分の怒号ぶりを思うと、いまよりもうちょっと早口でまくしたてていたしラウドだったし、たまに自分で制しきれなくなることもあり、実はそんなによくはなかった、みたいな? だからとにかく、いまやっていることと基本的には同類の、でもその初期ヴァージョンだった、という。

スリーフォード・モッズは、モッズと言いながらいわゆるモッズ・サウンドではありません。ポール・ウェラー的なネオ・モッズ、あるいはスモール・フェイセズといったタイプの音楽ではないわけですけど、そもそもなぜ「モッズ」を名乗ることにしたんでしょう?

JW:それは、俺たちは基本的に──いやまあ、俺自身はモッズ的なものには入れ込んでるんだけどね。あれは常に俺の興味をそそってきた。で、俺のモッズ観は、あれは他の何よりも際立つことができるものだ、ということで。もしもバンドがモッズなるものをばっちりモノにできれば、そいつらは他の何よりも抜きん出ることができる、みたいな。というのも、モッズ(モダーンズ)というのはいつだって真実を伝える連中だったし、クリエイティヴィティに対してもっとずっと正直なアプローチをとってきた連中なわけで。だからなんだ、自分たちのバンド名に俺が「モッズ」の単語を含めたのは。自分たちもその同じ流れに沿っている、俺はそう思ったから。

で、今回のアルバムの“Nugde It”の歌詞は興味深いなと。

JW:へえ、オーケイ。

あれはスリーフォード・モッズの現在の立ち位置を歌っていると思いますよね。で、スリーフォード・モッズに対する評価に対しても苛立っているように読めるのですが、もしそうだとしたら、これはどういうことなのでしょうか? ちょっと説明をお願いできますか? 

JW:あの曲で言わんとしているのは、異なる生い立ちを持つ連中がいかにして、実際にその経験がないくせに自分たちとはバックグラウンドが違う者たちの物真似をしているか、ということだね。そうやって物真似することで、彼らは自分たちをもっとエッジーに、あるいは実際より興味深いものに見せようとしている、という。で、多くの場合、人びとはその点に気づいてすらいないわけ。そういった連中は、自分たちがやっているのは本当はなんなのかすら考えずに、他の人びとのユニフォームを借り着してるっていう。俺は、それってマジに無礼な侮辱だと思う。かつ、その物真似を鵜吞みにして支持する人間が山ほどいるって事実、それに対しても本当に怒りを感じる。そういうことをやってるバンドのいくつかは、とんでもなく人気が高いわけだろ? というわけで、あの曲で取り上げているのはそういうことだね、「階級見学ツアー(class tourism)」みたいなものについてだ。
(※ここでジェイソンの話しているのは、上流・中流・下層と階級が分かれる英国で、上位に位置する人間が不思議がりときにバカにする意味合いで一時的に=物見遊山で立ち寄るごとく下層階級のファッションやスラングやカルチャーを真似する行為を指す。「貧民見学ツアー」を意味するpoverty safariというタームもある
だから、お前さん自身は繫がっていない、お前さんには実体験の一切ない、そういう人びとだったり彼らの生き様をお前は物真似しているんだろうが、と。お前がそれを利用するのは、そうやって真似ることで自分をパワフルに見せたいだけだろ、と。

──それは、アイドルズみたいなバンドのことですか?

JW:ああ、まったくねぇ! うん、そう。

ソーシャル・メディア他であなたと彼らとのビーフが広まりましたよね。先ほどもおっしゃっていたように、アイドルズはいますごい人気ですけれども──

JW:(苦虫をかみつぶしたような表情で)ああ。

あなた自身は彼らの言うことは信じていない、と。

JW:信じないね。なんて言えばいいのかな、「学が足りない/ちゃんと勉強してない」っていうの? 一元的で浅薄だし、中身がまったくない。とにかくやたらポーズばっか、と。で、いまって本当にひどい時期なわけだし、「自分は生きているんだ」と実感できるような何かを求めるわけだろ。これは俺個人の思いだけど、ああしたかっこつけやポーズから、俺はそういう感覚を受けないんだ。

ちなみに、主にCD-R作品を出していた初期のことをわたしは「スリーフォード・モッズMK.1」あるいは「Ver.01」と捉えているんですが──

JW:ああ、うん。

で、アンドリューが加入し、いわば「スリーフォード・モッズ Ver.02」がはじまった、と。そのブレイク作である『オースタリティ・ドッグズ』以降とでは、音楽への向かい方はどう違っていますか? 

JW:うん、変化したね。絶対にそう。だから……質問は、俺の音楽に対する姿勢がどう変化したか、ということ?

ええ。基本は変わっていないと思うんですが、『オースタリティ・ドッグズ』を境に、それ以前に較べてもうちょっとプロっぽくなった、「これは自分たちのキャリアだ」と考えはじめたんじゃないかと。そこで、音楽作りや作詞へのアプローチは変化しましたか?

JW:ああ、なるほど。うん、変化した。それは、さっきも話に出たマルクーゼみたいな人の考えだとか、現代世界に対する様々な類いの批評等に触れたことが影響しているんだと思う。
それと同時に、俺自身のなかで育ち続けている、「自分はこの世界のどこに位置してきたのか」みたいな意識/目覚めもあるんだ。自分という存在はこの世界でどんな意味を持ってきたのか? 自分は自分にとってどんな意味があるのか? 自分は何を学んできたんだろう? と。ぶっちゃけて言えばケアしているのは唯一それだけ、ほんと、成功と物質的な豊かさに伴うあれこれがひたすら重要な世界のなかで、自分はこれまでどんな人間として生きてきたのか、そうしたすべてをひっくるめたあれこれが、『オースタリティ・ドッグズ』を作った後で、よりはっきりしたものになりはじめていった。

それだけヘヴィになった、とも言えますね(苦笑)。

JW:ああ、もちろん! そりゃそうだって。歳を食えば食うほど、たくさんのことがかなり、こう……だから、ドラッグだのセックスだの、そんなんばっかの人生なんざもうご免だ、タイクツなんだよ! って風になり出すもので。それらがやがて問題になってくるし、となると自分の人生からその要素を取り去るよう努力する他なくなる。いや、セックスは残しておいていいな、タハッハッハッハッハッ! ただまあ、ドラッグ摂取/飲酒等々の問題面は取り除こうぜ、と。
アルコールとドラッグのツケは、最終的に非常に大きく俺に回ってきたから。あれを乗り越えるのには本当に長くかかった。で、そうしていったん克服してみると、この世界は自分にどんな意味を持つのかという面に関して、これまでとは違う物事が作用してくるようになって(※数年前からジェイソンは飲酒もドラッグも断っている)。
というわけで、スリーフォード・モッズに備わったメッセージはある意味『オースタリティ・ドッグズ』以降も変わっていないんだけど、ただそのコンテンツは常に変化し続けている。

スリーフォード・モッズは、マルクス主義者やフランクフルト学派を研究するような知識人からも評価されていますよね。個人的には興味深く思っているのですが、こうした左翼的な分析に関しては、あなたはどんな感想をお持ちでしょうか? 

JW:彼らの分析には大いに賛成だ。もっとも、自分を左翼人だとは思っちゃいないけどね。でも、右翼じゃないのは間違いない。

(笑)それはありがたい!

JW:(爆笑)。うん、ああした分析は好きだよ。インテリの立場にいる人たち、おそらく俺も興味を抱くであろう、そういう人びとが俺たちのやっていることをすごく気に入ってくれてるのはいいことだと思ってる。

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彼らの分析には大いに賛成だ。もっとも、自分を左翼人だとは思っちゃいないけどね。でも、右翼じゃないのは間違いない。

オーウェン・ジョーンズの『チャブ』は読んでいると思いますが、あの本は好きですか? 

JW:もちろん読んだ。すごく気に入ったね。あの本もまた、俺が政治に関してもっと建設的なフォルムみたいなものへと浮上していく、その助けになったもののひとつだ。

“Elocution”では誰かの偽善性を批判しているようですが、具体的に誰とかあるのでしょうか? それとも音楽シーンに対する観察?

JW:ああ、うん、あれは……だからこの国の音楽シーンじゃ、マジにがっくりさせられる、そういう手合いはいくらでも跡を絶たないわけで。

(爆笑)

JW:ハッハッハッハッハッ! なんかこう、そういう連中がどこからともなく次々に湧いてくる。っていうか、ほぼ毎年出てくるな。本当にシャクに障りイラつかされる、そういうアクトが毎年かならず、1、2組は登場する。

(苦笑)なるほど。

JW:で……あれはほんと、そうした連中をあれこれ組み合わせたコラージュだね。連中は社会正義を謳った色んなキャンペーン活動のフロントを張るわけだけど、たまに「こいつら、自分たちのキャリアを向上させるのが目的でこういう活動をやってるんじゃないの?」という印象を抱かされることがあって。音楽そのものの力じゃ勢いが足りないからそれをやってる、と。才能が平均以下のミュージシャンの多くは、人気者のポジションを狙うなかで、大抵はネットワーキングに頼るものなんだ。各種音楽賞だの、なんであれそのとき焦点の当たっている、メディアに取り上げてもらえる問題に対するキャンペーン活動を通じて、という意味でね。だから連中は多くの場合、自分たちの地位を向上させるために、そのメカニズムに相当に依存しているわけ。
そうは言っても、彼ら自身は自分たちがどういうことをやっているかに対する自覚がないのかもしれないよ? ただ──そういうのにはウンザリなんだって。そんなんクソだし、お前らの音楽は特にいいわけでもない。こっちにはそれはお見通しなのに、それでもお前は「音楽をケアしてます」って言うのかよ、と。まあ、彼らもたぶん少しは気にかけているんだろうな。けど、それ以上にお前が気にしているのは自身のキャリアだろ、っていうさ。

そこはミュージシャンにとっての難問ですよね。たとえば『スペア・リブズ』が売れてあなたたちがさらにビッグになったら、「ソールドアウトした」と批判する人は出てくるでしょうし。

JW:ああもちろん! っていうか、その批判を俺たちはこれまでも受けてきたし、いまですらそうだ。ただ、俺たちがかっこつけた気取り屋ではないこと、セレブではないっていう事実、そこは人びとだって俺たちからもぎ取れない。俺たちは常に、自分たちのままであり続けてきたんだしさ。

“Glimpses”や“Top Room”はロックダウン中の情景を歌っていますよね? で、“Glimpses”ですが、これは曲調こそパンク・ソングなのですが、歌詞がずいぶん抽象的というか詩的に思いました。ここにはどんな意図があるのでしょうか?

JW:“Glimpses”ね。あれは……もっとこう、子供を連れて近所の公園に出かけると、みたいな話だね。で、行ったもののCOVIDのせいで公園は封鎖されてた、と。それと、消費主義についての歌でもある。それがいかに……だから、とあるスニーカーの宣伝をちょこっとやっただけでそのスニーカーをタダで5足もらえる奴もいる、と。ところがこちらは、その同じスニーカーを買うのに500ポンドだのなんだの、大金をはたくことになる。となると、こっちはほとんどもうなんの価値もない人間だ、ってことになるよな。商品そのものの話ではなくて、マネーのことだよ。
でもいずれにせよ、俺たちだってみんな、そこは承知しているわけで。誇示的消費(=conspicuous consumption。富や地位を誇示するための消費)なんて、別に目新しいものでもなんでもないんだし。で、俺としてはある意味、その点をあそこで論議したかったんだけど──うん、果たしてそのふたつの意味合いをあの曲でちゃんと表せたか、それは我ながらよくわからないな。あれはとてもいい歌だし、すごく気に入ってる。ただ、曲のメッセージという意味では、まだほんの少し、言葉が足りないのかもしれない。

2014年のガーディアン紙の取材であなたはスリーフォード・モッズの音楽の根幹には「怒り」があると話しています。いまでも「怒り」はモチベーションだと思いますが、それはあの頃とまったく同じ「怒り」がいまも持続している感じですか?

JW:うん……だから、俺の怒りのほとんどは、他の人びとに対して感じる苦々しさや嫉妬、うらやましさから派生したものなんだよ。それとか他人をおいそれと信じないところだったり、政府に対する軽蔑もその主な要因になっている。で、その点は変化していないと思う。それらのアイディアから、俺はいまだにこうしたエネルギーのすべてを得ているわけで。ネガティヴィティにシニシズム、そして自己批判もあるけど、そうしたものからエネルギーを得ている。
というわけで、そこはいまだに継続中だな。ただ、思うにほんと唯一、自分にとって重要なことという意味で……自分にどうしても語れないのは愛だなぁ。愛というのは、(歌にして)宣伝するよりも(苦笑)、実際に体験する方がずっといいアイディアだと俺は思っているから。だからまあ、ポジティヴィティがほとんど存在しない、ポジティヴさがわずかな隙間にちょこちょことしか見出せない状況で、常にポジティヴなことばかり語るのは、どうしたって興味深いこととは思えないだろう。

トランプやボリス・ジョンソンのような右派ポピュリストは、新自由主義によるグローバリゼーション(安価の移民労働)と「Austerity」(福祉予算のカット)によって追いやられた労働者たちの心情にうまくコミットしていましたが、コロナによって、例えばトランプが選挙に負けたように、右派ポピュリズムにほころびが出てきています。しかし、それでも日本では、コロナを企業社会の新自由主義的な再編の機会として捉えている向きもあり、ますますやばい状況になりそうです。イギリスも失業者がハンパないと報道されていますが、そうした社会不安や追い詰められていくメンタリティの問題、見えない恐れの感覚は今回のアルバムに大きな影響を与えていると感じたのですが、いかがでしょうか?

JW:そうだと思うよ、うん。もちろん。だからこの、自由がみるみる奪われていくという実感に、疎外感に……日常的に同じ経験を繰り返しているなという感覚。終わりがどうにも見えてこないフィーリングに、いったい何を信じればいいのかわからないという感覚。情報よりもむしろ、「これは大丈夫だ」と思える自分のいい本能/直観に常に頼らなくてはならない状況だとか。正確な情報ってのは、誰にでもすぐ入手できるものであるべきだというのに。うん、そういったことが作品に影響したね。──と言いつつ、と同時にこれは……パンデミックが襲った際の人びとの振る舞い方とそこから生まれた結果というのは、資本主義システムの下では人びとはそう振る舞う以外にないんだし、いずれにせよそれと同じ結果になる、ということでもあって。だから今回の作品にしたって、ずっと継続している物語のエピソードのひとつというか、『オースタリティ・ドッグズ』以来俺たちが語り続けてきたこと、そのなかの一話なんだ。
というわけで、俺はその面はあまり述べたくなかった。この試練だって、後期資本主義のまた別の一面に過ぎないんだし、あまねく広がった腐敗の現れであり、遂に本当に真剣な決断を下さなくてはならない地点にまで達した文明の側面なんだから。自分たちは何を信じるのか、そして自分たちはどう振る舞っていくのか、そこについて人類はシリアスな決断を下さなくちゃならないところまで来ているわけでさ。うん、そうした思いはたしかに、アルバムにある程度までは影響を与えた。おっしゃる通りだ。

ネガティヴィティにシニシズム、そして自己批判もあるけど、そうしたものからエネルギーを得ている。というわけで、そこはいまだに継続中だな。ただ、思うにほんと唯一、自分にとって重要なことという意味で……自分にどうしても語れないのは愛だなぁ。

たとえば、ビリー・ノーメイツが参加した“Mork n Mindy”なんかはそういう気味の悪い不安をうまく捉えた曲だと思いましたが、あの曲はあなたの子供時代を反映したものらしいですよね?

JW:ああ、そうだ。あの曲は俺が子供だった頃についての歌で、そうだな、あれと“Fish Cakes”の2曲は、子供時代について歌ってる。自分の子供時代や、子供のときはどう思うんだろうといったことを考えるようになりはじめて……。俺は生まれつき、難病の二分脊椎症(spina bifida)を患っていてね。11歳のときに脊椎の大手術を体験したんだ。

ああ、そうだったんですか。

JW:うん。でも、当時は二分脊椎症だったとは知らなくて、今年の夏に(コロナの影響で)ジムが閉鎖され、自宅の庭でエクササイズ中に背中を怪我して、はじめてそうだったと知った。で……うん、そのおかげで、手術を受けた頃に引き戻されたね。あれは、かなりエモーショナルな時期だったから。というわけであの頃を思い返したし、子供だった自分のことをまた考えるようになって。それにもちろん、いまの自分には子供もできたし、彼らの子供時代と自分自身の子供時代とをしょっちゅう比較するようにもなったわけ。だから……あの曲はアルバムに入れたかったんだよ、子供時代を考えれば考えるほど、自分のなかに色んな思いがたまっていったから。

ビリー・ノーメイツは今年アルバムを出しましたが、あなたも1曲参加していますよね。彼女は抜群だと思いますが、あなたは彼女のどんなところを評価していますか? 

JW:やっぱ、あの声だよね。それと、彼女の曲の書き方も。彼女は本当に、すごく、すごく才能があるし……うん、ちゃんとした、本当にオリジナルな人で。それに、彼女を聴いていると自分の頭にかつてのグレイトなシンガーがたくさん思い浮かぶんだ。とくに、過去の優れたソウル・シンガーの数々を思い起こす。音楽という概念を実践する面でも非常に腕の長けた人だし……とにかく彼女には、どこかしらすごくソウルっぽいところがあるんだよなぁ。と同時に、80年代っぽいところもかなり備えていて。そうした点が、ほんといいなと思う。

Amyl and the Sniffersのエイミー・テイラーも参加していますが、今回なぜ女性シンガー2名とコラボしようと思ったんでしょう?

JW:俺たちも女性の存在を求めていたんだよ、だから、ほら……全般的に、女性が欠けてるわけだしさ(苦笑)。

(笑)テストステロン値が高過ぎる、と。

JW:そう(笑)! 野郎が多過ぎだって。ハッハッハッハッ……ぎゃあぎゃあ騒いでる男どもが多過ぎる(苦笑)。

アルバム名は「肋骨」で、女性はアダムの肋骨(=リブ)から作られたと旧約聖書にありますよね。それで女性が必要だったのかな?と。

JW:ああ〜! たしかに! なるほどねぇ。(笑)いや、そういうわけじゃないけど、でも実に古典的なポイントだな、それって。そういう風に自分が考えたことはなかったけどさ。

このアルバム・タイトルを知ったときに、イギリスで70年代に発刊されたフェミニスト雑誌『Spare Rib』を思い出したんですよ。その書名はもちろん、聖書の「女性は男性の一部である」という発想を茶化したもので。

JW:うん、うん(うなずく)

とはいえ、このタイトルの「スペアリブ」は、まさしく我々のことを指しているわけですよね。一本くらいなくなっても平気なあばら骨、いわば使い捨てライターのように取り替え可能な存在、という。

JW:イエス! でも……君がそうやってアルバムの概要をまとめてくれた方が実際よりはるかに面白いかもな、クハッハッハッハッ!

(笑)ふざけないでください。全部、ちゃんと考えてるんでしょ?

JW:いやいや、そうやってあれこれ言われると、俺は「違う」って言い出すっていうね! アッハッハッハッハッァ〜……! 
(ひとしきり笑った後で真顔に戻って)いや、うん、そうだよ。あのタイトルは基本的に、俺たちの政府は2020年のはじまり以来人びとをどんな風に扱ってきたか、ということで。無駄死にした死者の数──だから、あれだけ(コロナで)死者が出たけど、そのある程度までは防げたはずだった、俺はそう思っていて。そこで考えさせられたんだよ、政府は経済モデルに貢献している人民の生命よりも、その経済モデルを維持することの方に心を砕いているんだな、と。いやもちろんこれは、政府側はその点を意識してそうやっている、という意味ではないんだ。ただ、世のなかには常に、この経済モデルに貢献する人間たちが絶え間なく流入してくるわけでさ。ということは、この経済モデルを保存するためにだったら、政府の側には20万人であれ百万人の命であれ、たまにちょっとばかり人口を削ってもなんとかなる、そういう余裕があるってことだよ。
で、2020年のはじめからイギリスの公衆に対しておこなわれてきた安全対策の数々を考えれば考えるほど──わかるだろ? 英政府は(人民よりも)経済モデル維持の方をもっとケアしてきたんだな、という印象を抱くわけ。だから、政府の考え方は「肋骨をいくつか取り除いても、身体そのものはなんとか機能するからOK」みたいなものにはるかに近い、と。ということは、俺たちはみんなスペアリブだってことだよ。でも……このタイトルは、イギリスではおなじみな、中華料理のテイクアウト・メニューにもちなんでいて。

ほう。

JW:わかるかな、スペアリブ? イギリスじゃどこでもお目にかかるありふれた食い物なんだけど(※ばら肉を骨付きで揚げたりバーベキューした、イギリスのお持ち帰りチャイニーズの定番料理)。ある意味、そこにも目配せしているタイトルだし、子供時代とも繫がっていて。

……あなたはよく、食べ物について書きますよね?

JW:うん。

どうしてですか?

JW:当たり前だろ、それって。

「スペアリブ」はもちろん、これまでも「マックフルーリー」とか「イングリッシュ・タパス」とか。あなたは身体を鍛えていて、大食いしなさそうですけど、歌詞には食べ物や食べることに関する妙な執着があるように感じるんですが(笑)?

JW:いやとにかく、多くの人間が食えるのってそれくらいなわけじゃない? たとえば……ひとり分のチップス、その人が手に入れられるのはそれだけ、みたいな(※チップスはフライド・ポテト。日本のそれより厚めにカットされていてボリュームがあるにも関わらずひと袋200〜300円程度なので、本来は副菜であるチップスを主食代わりにする人もいる)。それとか、食べられるのは卵サラダサンドだけ、とか。だから、それって人びとはいかに……んー、あまりお金がない状態にいると、そういう安くてしょうもない食べ物でも美味く感じて大事に味わえる、そこに落ち着くんじゃないかと思う。それに、俺とアンドリューがふたりで話すのって、ほんと、食い物についてばっかだし。

(笑)マジですか。

JW:いやだから、そこはまた……さっき言われたイングリッシュ・タパスだとか、マックフルーリーだとか、まあなんでもいいんだけど、そうやって俺が歌で取り上げてきたことって、俺がそういった食い物を食ってる日常の周辺で起きた色んなことを表象するものでもあるんだよ。それは子供時代の話も同様で、ガキの頃はとんでもなくひどいものを食わされてたよなぁ、みたいな文句をね(笑)。その手の話はしょっちゅうやってる。

表題曲の“Spare Ribs”の歌詞にエイフェックス・ツインが出て来ますが、お好きですか?

JW:うん、彼はいいんじゃない? いやだから、あの歌詞で彼の名前を持ち出したのは、あの曲で歌っているのは──

──知ったかぶりの、マウントしたいタイプ?

JW:(顔をしかめて)うんうん、あの手合いはね〜、ほんと、もう……

(歌詞を引用して)「エイフェックス・ツインや/スペインのアナキストについてえんえん語ってる奴」と。

JW:うん、そうそう! だからさ、ああいう難しそうなことをぺらぺら触れ回ってる連中って、いざ「それってどういうことですか?」と突っ込まれると、実はそれをよく知っていないのがバレるっていう。となると、やっぱ思うよね、お前は常に「自分はこの手の世界にどっぷり浸かってますよ、熟知してます」って雰囲気を醸してきたのに、なんで自分の言ってきたあれこれをよく知らないんだい?と。

“Fish Cakes”で繰り返されている「At least we lived」という言葉に込められている感情は、やはり絶望感なのでしょうか?  すごく悲しい曲だなと思いますし、「少なくとも自分たちは生きたんだから」という一節にあなたが込めたのもそういう思いなんでしょうか。

JW:うん、ある意味、そうなのかもしれない……。うん、そうした悲しみをあの曲で伝えたかったのかもね。というのも、俺が子供の頃は……いや、そんなに悲しい子供時代だったとは思わないな。それよりもこう、とにかく退屈だった。狭く限られていたし、周囲にも大して何もなくて。しかも大人たち、当時接することになった大人のほとんどは、子供たちよりもひどい状態で。だから、とにかく何もかもがつまらなくみじめだと思えたし、憂鬱に映った。そこを歌にしたいなと。それらの体験を曲に含めたいと思ったんだ。それをやるのには、本当に苦戦したけどね。というのも、俺はあれを哀れっぽい曲には、聴き手に憐憫の情を掻き立てるような曲にはしたくなかったから。そうではなく、あの情景を表に見せたかっただけで。

今年亡くなったアンドリュー・ウェザオールから受けた影響についてお話しいただければ。Two Lone Swordsmenの“Sex Beat”(ガン・クラブのカヴァー)には影響を受けたという話は読みましたが、それ以外で彼について思うことがあればお願いします。

JW:TLSのアルバム『From the Double Gone Chapel』(2004)で、彼らは──あれはたぶん4枚目か5枚目だったはずじゃないかな? あれを聴いて、俺の抱いていた……シンガーが歌う際のいいバッキング・サウンドとはどういうものになり得るか、そこについての考え方を部分的に変えさせられた。いいサウンドってのは何かという、その見方をね。あの雷みたくゴロゴロと鳴るベース・ラインに、あのアルバムでのアンドリュー・ウェザオールの歌い方に……それにキース・テニスウッド。彼とは知り合いで、たまに話す間柄だよ。本当にいい人だけど、うん、彼の用いたプロダクションの手法だとか。そういや、彼もブライアン・イーノの大ファンなんだよな。彼に「あのアルバムであなたが影響されたのは何だったんです?」と尋ねたら、「ブライアン・イーノにめっちゃ影響されたぜ!」って答えが返ってきて、俺は「クソッ、そうなのか!」みたいな(笑)。

(苦笑)それはもう、あなたもイーノを聴かないと。意地を張らず、諦めて聴きましょう。

JW:(笑)あー、そうだねぇ、聴かないと……。ともあれ、うん、そういう話で。それに、アンドリューとも2回くらい実際に会ったことがあって。ほんと、イイ奴でね。本当にナイス・ガイで。全然──お高くとまったところや自己中心的なところのまったくない、じつに愛すべき人だった。だからうん、そこはものすごく感銘を受けたよね。でも、それだけじゃなく、彼の佇まいも印象に残ったな。ほら、あのタトゥーだったり……着る服を通じて自己表現する彼のやり方だとか、あれは無類のものだったっていう。ああいうことをやる人は決して多くなかったし、そこからも本当に影響された。とにかく、「自分の頭で考えろ」っていうこと。もっとも、その点については、他の人たちからも俺は多く学んできたんだよ。ただ、アンドリュー・ウェザオールはそのなかでもグレイトな人物のひとりだと思ってる。

ウェザオールには「彼のスタイル」がありましたよね。そこが、他の人とは違っていたんだと思います。

JW:(うなずく)ああ。

来年の抱負をお願いします。

JW:それは……やっぱ、またライヴをやることだよね。俺たち、日本にぜひ行きたいと思ってるし。

ぜひ!

JW:うん、ほんと、日本に行けたらいいなと思ってる。とにかく日本で演奏するだけでいいんだ。そうやって向こうに行って……ギグをやって守り立てることで、『スペア・リブズ』にふさわしいだけのことをちゃんとやってあげたいな、と。いまは視界も開けた状態なわけだし、うん、もっと後になってからではなく、できれば早めにそれを実現したいと思ってる。

アルバム音源も好きですが、あなたたちのエネルギーはライヴだと一層パワフルなので、日本でのショウが実現するのを祈っています。というわけで、本日はお時間いただき、ありがとうございました。

JW:こちらこそ、ありがとう。

★了

(2020年12月17日取材)

Jam City - ele-king

 ジャム・シティことジャック・ラザムが帰ってきた。2015年の『Dream A Garden』から5年、ついに新たなアルバムが送り出される。タイトルは『Pillowland』、発売は来週11月13日で、今回は〈Night Slugs〉ではなく自身のレーベル〈Earthly〉からのリリースとなっている。
 プレスリリースによれば、疑念と痛みと混乱と変化に満ちた自らの生活に向きあった結果、アンフェタミン漬けで甘~いポップの夢景色のなかに逃避した内容になっているらしい。ふむ。楽しみに来週を待とう。

Jam City
Pillowland

Earthly

01. Pillowland (2:28)
02. Sweetjoy (2:50)
03. Cartwheel (3:38)
04. Actor (2:01)
05. They Eat The Young (2:30)
06. Baby Desert Nobody (1:32)
07. Climb Back Down (3:26)
08. Cruel Joke (4:50)
09. I Don't Wanna Dream About It Anymore (5:05)
10. Cherry (4:05)

Written & Produced by Jam City
Mixed by Liam Howe and Jam City
Mastered by Precise
All artwork by Jakob Haglof
All photography by Sylwia Wozniak

https://pillowland.org/

BES & I-DeA - ele-king

 日本のブーンバップ・ヒップホップを代表するラッパー BES による人気ミックス・シリーズ最新作は、おなじく SCARS勢の I-DeA とがっつりタッグを組んだ注目の1枚。キモを押さえた選曲に加え、エクスクルーシヴな新曲も4曲収録されている。現在そのなかから D.D.S & MULBE を迎えた “SWS”(プロデュースは DJ SCRATCH NICE)が先行配信中なので、チェックしておこう。

SWANKY SWIPE / SCARS のメンバーとして知られるシーン最高峰のラッパー、BES による人気ミックス・シリーズ『BES ILL LOUNGE』の最新版は盟友 I-DeA とのジョイント! 新録音源として B.D.、BIM、MEGA-G らとの各コラボ曲を収録し、D.D.S と MULBE が参加した “SWS” が本日より先行配信開始!

◆ SWANKY SWIPE / SCARS としての活動でも知られ、SCARS『THE ALBUM』(06年)、SWANKY SWIPE『Bunks Marmalade』(06年)、ファースト・ソロ・アルバム『REBUILD』(08年)といった日本語ラップ・クラシックな作品を次々とリリース。2007年には ULTIMATE MC BATTLE - GRAND CHAMPIONSHIP に出場して準優勝を果たし、その実力をシーン内外に強くアピールして人気/評価を不動のものに。少しのブランクを経て2012年には自身のかかわった楽曲に新曲/フリースタイルを加えたミックス・シリーズ『BES ILL LOUNGE: THE MIX』をリリースして完全復活を果たし、以降は自己名義の作品のリリースのみならず ISSUGI とのコラボレーションでも『VIRIDIAN SHOOT』、『Purple Ability』と2枚のアルバムをリリース。さらに近年では SCARS としても再始動するなど、活発な活動を続けているシーン最高峰のラッパー、BES(ベス)。

◆ 故D.L(DEV LARGE)のもとで D.L や〈EL DORADO RECORDS〉作品などの制作を手掛け、SEEDA や BES を始めとする SCARS勢、NORIKIYO や BRON-K ら SD JUNKSTA 周辺、さらには MSC や JUSWANNA など00年代中期以降の日本語ラップ・シーンにおける重要アーティスト/作品にことごとく関与しており、そのプロデュース/ディレクションの凄まじさは「I-DeA塾」とも称されるほど多くのアーティスト/関係者から畏敬の念を抱かれ、一方、SCARS のメンバーとして、またソロとしても自己名義で作品をリリースするなど多岐に渡ってディープ・エリアで活動してきたシーンを代表するプロデューサー/エンジニア、I-DeA(アイデア)。

◆ これまでにも前述の SCARS『THE ALBUM』や BES『REBUILD』など随所でリンクしてきた BES と I-DeA が再びガッチリと手を組むのは、BES のミックス・シリーズの最新となる第3弾『BES ILL LOUNGE Part 3』! BES がこれまでに関わってきた膨大な楽曲の中から I-DeA らしい切り口でチョイスされており、BES~SWANKY SWIPE 楽曲だけでなく JUSWANNA~メシア THE FLY、MEGA-G の楽曲、さらには TEK of SMIF-N-WESSUN とのコラボ曲など渋いラインもセレクション!

◆ そして! 本シリーズのキモとも言えるエクスクルーシヴな新録音源では、サシで楽曲を制作するのは初となる B.D. や同じく初顔合わせな BIM、D.D.S & MULBE、MEGA-G との各コラボ曲を収録! プロデュースは DJ SCRATCH NICE が2曲、そしてK.E.M、BES & I-DeA が担当。さらには SCARS の名曲 “MY BLOCK” の BES によるリミックスも収録!

◆ 11/18(水)のリリースを前に、新録音源の中から D.D.S & MULBE をフィーチャーした DJ SCRATCH NICEのプロデュースによる “SWS” の先行配信が本日より開始!


アーティスト: BES
タイトル: BES ILL LOUNGE Part 3 - Mixed by I-DeA
レーベル: P-VINE, Inc.
仕様: CD/デジタル
発売日: 2020年11月18日(水)
CD品番: PCD-24994
CD税抜販売価格: 2,400円

[トラックリスト]
01. BES / BES ILL LOUNGE Pt'3 Intro
02. BES / SWS feat. D.D.S & MULBE *新曲
 Prod by DJ SCRATCH NICE
03. GRADIS NICE & DJ SCRATCH NICE / DAYS feat. BES & ISSUGI
04. MEGA-G / HOW HOW HIGH PART.2 feat. BES (REMIX)
05. HIMUKI / G.E.N.S.E feat. BES
06. BES / 美学、こだわり feat. MEGA-G *新曲
 Prod by BES & I-DeA
07. BES / MY BLOCK REMIX *EXCLUSIVE
08. SWANKY SWIPE / Feel My Mind feat. メシア The Fly & 漢
09. SWANKY SWIPE / Breathe In Breathe Out
10. BES / 勘ぐりと瞑想と困惑
11. SWANKY SWIPE / 東京時刻
12. dubby bunny / Narcos feat. A-THUG & BES
13. BES & ISSUGI / BOOM BAP
14. BES / Make so happy feat. BIM *新曲
 Prod by K.E.M
15. ONE-LAW / I DON'T CARE feat. BES
16. メシア THE FLY / No More Comics feat. BES (MASS-HOLE REMIX)
17. BES & ISSUGI / HIGHEST feat. MR.PUG, 仙人掌
18. owls (GREEN ASSASSIN DOLLAR & rkemishi) / Lonely feat. BES & MEGA-G
19. DJ FUMIRATCH / 刻一刻 feat. BES & 紅桜
20. 鬼 / 僕も中毒者 feat. BES
21. TEK of SMIF-N-WESSUN / Cold World feat. BES (SO COLD REMIX)
22. BES / 表裏一体 feat. B.D. *新曲
 Prod by DJ SCRATCH NICE
23. JUSWANNA / Entrance feat. BES & 仙人掌
24. SHIZOO / たしかに feat. BES
 Mixed by I-DeA for Flashsounds

[BES / PROFILE]
SWANKY SWIPE / SCARS としての活動でも知られるラッパー。SCARS『THE ALBUM』(06年)、SWANKY SWIPE『Bunks Marmalade』(06年)、ファースト・ソロ・アルバム『REBUILD』(08年)といったクラシック作品をリリースして人気/評価を不動のものとし、近年はソロだけでなく ISSUGI とのジョイントでの BES & ISSUGI として、また復活した SCARS として活発に活動している。

[I-DeA / PROFILE]
故D.L(DEV LARGE)のもとで D.L や〈EL DORADO RECORDS〉作品などの制作を手掛け、SEEDA や BES を始めとする SCARS勢、NORIKIYO や BRON-K ら SDJUNKSTA 周辺、さらには MSC や JUSWANNA など00年代中期以降の日本語ラップ・シーンにおける重要アーティスト/作品にことごとく関与しており、そのプロデュース/ディレクションの凄まじさは「I-DeA塾」とも称されるほど多くのアーティスト/関係者から畏敬の念を抱かれている。一方、SCARS のメンバーとして、またソロとしても自己名義で作品をリリースするなど多岐に渡ってディープ・エリアで活動してきたシーンを代表するプロデューサー/エンジニア。

Oneohtrix Point Never - ele-king

 波紋を呼んだ前作『Age Of』から早2年。多作かつコラボ大王のダニエル・ロパティンはこの間もサントラの制作やザ・ウィークエンド、モーゼズ・サムニーの作品への参加など、絶え間なく音楽活動にいそしんできたわけだけど、ついに本体=ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとしてのニュー・アルバムを10月30日にリリースする。
 なんでも、今回はこれまでのOPNを集大成したような内容になっているとのことで、期待も高まります。現在、アルバムから3トラックを収録した先行シングル「Drive Time Suite」が配信中、試聴はこちらから。

[10月14日追記]
 くだんの先行公開曲3トラックのうち、“Long Road Home” のMVが本日公開されている。監督はチャーリー・フォックスとエミリー・シューベルトで、エロティックかつなんとも不思議なアニメ映像に。OPN の原点の回想であると同時に最新型でもあるという新作への期待も高まります。

ONEOHTRIX POINT NEVER
集大成となる最新アルバム『MAGIC ONEOHTRIX POINT NEVER』から
先行シングル “LONG ROAD HOME” のミュージックビデオが公開!
過去作品のオマージュにも要注目!
アルバム発売は10月30日! Tシャツ付セットの数量限定発売も決定!

ライヒ、イーノ、エイフェックス・ツインからバトンを受け継ぐ存在としてシーンに登場し、今や現代を代表する音楽プロデューサーの一人となったワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(以下OPN)が、そのキャリアの集大成として完成させた最新作『Magic Oneohtrix Point Never』から、先行シングル “Long Road Home” のミュージックビデオを公開した。

Oneohtrix Point Never - Long Road Home (MV)
https://www.youtube.com/watch?v=w5azY0dH67U

アルバム発表と同時に、シングル・パッケージ「Drive Time Suite」として3曲を一挙に解禁した OPN ことダニエル・ロパティン。自身の作品だけでなく、映画音楽や、ザ・ウィークエンドの大ヒット作『After Hours』のプロデュースを経て、ポップと革新性を極めたサウンドに早くも賞賛の声が集まったが、今回ミュージックビデオが公開された “Long Road Home” は、その3曲の解禁曲の一つとなっており、メイン・ヴォーカルをロパティン本人が務め、元チェアリフトのキャロライン・ポラチェックが参加している。チャーリー・フォックスとエミリー・シューベルトの二人が監督した本ビデオは、異世界の不気味な二つの生物が、ロマンティックに絡み合う様子が描かれたストップモーション・アニメーションとなっており、人間の感情とエロティックなダークユーモアの間で展開する求愛の乱舞が、ファンタジーと現実の境を破壊していくストーリーとなっている。『R Plus Seven』のアートワークにも登場する、ジョルジュ・シュヴィツゲベルが1982年に発表した短編作品「フランケンシュタインの恍惚」へのオマージュとなっている点も楽しめる映像となっている。

これは愛と変質についてのロマンチックな寓話で、夏の間にダン(OPN)と交わした荒唐無稽で哲学的な会話から生まれたものです。グロテスクな、あるいは悪魔のような生き物を、求愛の儀式を通して、奇妙で愛らしく、また切なさを纏ったキャラクターに見せたいと思いました。親密さが切望され、同時に恐れられているこの時期に、突然変異体のような奇妙な歌声が響くこの曲に、完璧にマッチした映像だと感じました。心の底から素晴らしいと思ったし、それが滲み出てると思います。 ──co-directors Charlie Fox and Emily Schubert

これまでの OPN の音楽的要素を自在に行き来しながら、架空のラジオ局というコンセプトのもとそれらすべてが奇妙なほど見事に統合された本作『Magic Oneohtrix Point Never』は、OPN の原点の振り返りであり、集大成であり、同時に最新型である。

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー最新アルバム『Magic Oneohtrix Point Never』は、10月30日(金)世界同時リリース。国内盤CDにはボーナストラック “Ambien1” が追加収録され、解説書が封入される。また数量限定でTシャツ付セットの発売も決定。アナログ盤は、通常のブラック・ヴァイナルに加え、限定フォーマットとしてクリア・イエロー・ヴァイナルと、BIG LOVE 限定のクリア・ヴァイナルも発売される。Beatink.com 限定のクリア・オレンジ・ヴァイナルとカセットテープはすでに完売となっている。

また、本日10/14より〈WARP〉からリリースされたワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの過去作品を対象としたポイント還元キャンペーンが BEATINK.COM でスタート! 会員登録をして対象タイトルを購入すると、次回の買い物時に使用することができるポイントが10%付いてくる。併せて、iTunes でも対象タイトルが全て¥1,222で購入できる期間限定プライスオフ・キャンペーンが本日よりスタート!

interview with A Certain Ratio/Jez Kerr - ele-king

 救世軍のバザーや古着屋で仕入れたレトロなスーツやシャツをこざっぱりと着こなした彼らは、パンクに似つかわしいとは言えない銀行の支店長のような髪型で決めて、インダストリアルなファンクを演奏する。あるいは、こ洒落たサファリルックに身を包みながらノイズまじりのラテン・ジャズを奏でる。さもなければ、ファンカデリックがドナルド・バードといっしょにTGをカヴァーしたかのような面白さ。“ポストパンク”時代のUKには、パンクの灰から生まれた因習打破のインディ・バンドが多々登場しているが、ア・サートゥン・レシオ,通称ACRもそのなかの重要なひとつ。取材に応えてくれたジェズ・カーはACRサウンドの核となるベース担当であり、そしてポストパンクからダンスの時代とそれ以降を渡り歩いたシーンの生き証人のひとりでもある。
 映画『24アワー・パーティ・ピープル』で描かれているように、ACRはジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダーとともに初期〈ファクトリー〉の看板バンドだった。ことACRに関しては、トニー・ウィルソンがマネージャーを引き受けるほどレーベルお気に入りのバンドだった……が、しかしその活動は順風満帆というわけではなかった。多くのヒット曲に恵まれコマーシャルな成功をおさめたNOとくらべると、ACRは長いあいだ玄人好みのバンドであり、ある種ニッチなポジションに甘んじていたと言える。2000年代初頭のポストパンク・リヴァイヴァルにおいて、ACRが再評価の中心となるまでは。


Kevin Cummins ドイツ表現主義風の初期の写真。中央に立っているのがジェズ。

 ACRがポストパンク・リヴァイヴァルの目玉となったのは、ESGやリキッド・リキッドの再評価、あるいはDFAなどディスコ・パンク勢の隆盛ともリンクしたからだが、同時に、初期ACRのモノクロームなファンク(それは“ファンク・ノアール”などと呼ばれる)がアンダーグラウンドにおけるインダストリアルへの展開とも通じていたからだ。ACRはどこから聴けばいいのかと問われたら、まずは“Lucinda”を薦めることにしている。それは同時代のブリストルのファンクとはまた違った感触を持ったマンチェスターのファンクで、初めて聴くリスナーはその冷めたファンクが21世紀のいまもまったく古くなっていないことに驚くに違いない。
 80年代よりも現在のほうがACRの存在感は増しているといったら言い過ぎだが、昨年は結成40周年を記念してリリースされた愛情のこもったボックスセット(ミュートの素晴らしい仕事のひとつ)が欧米では話題となった。トーキング・ヘッズのカヴァー曲やグレイス・ジョーンズとの共作予定だった曲などトピックもいくつかあったが、多くのメディアが書いたのは長きにわたって過小評価されてきた先駆者へのリスペクトであり、悪化する社会経済を背景に生まれた40年前のポストパンクと現在の状況との相似点である。

 12年ぶり10枚目のアルバムとなる『ACR ロコ』(ACR狂)にはあらゆる世代から特別な期待が寄せられているようだ。そしてあたかもそれに応えるように、新作にはACRの魅力がわかりやすく表現されている。シンセポップからラテンないしはジャズやハウスなどさまざまな要素がポストパンク解釈によって加工される、ACRファンクの現在形が聴けるというわけだが、目立って新しいことをしているわけではない。しかしアルバムとしての完成度はじつに高く、それぞれの曲自体にそれぞれのアイデア=魅力がある。と同時にすべての曲には滑らかなグルーヴがあり、自信をもって初期の精神を忘れない演奏は感動的ですらある。
 インタヴューでジェズ・カーは、じつに多くのことを喋っている。2万5千字以上という長めの記事になってしまったが、いままで日本ではそうそう紹介されてこなかったバンドなので、ここはひとつほとんどエディット無しで載せることにした。のんびりと読んでください。こと〈ファクトリー〉にまつわる話はひじょうに面白いし、ところどころ笑える。通訳兼質問者の坂本麻里子によればジャズ本人も本当によく笑う人だったとのこと。

トニー・ウィルソンは僕たちにぞっこんで。だから僕たちは「彼のバンド」だった、と。言うまでもなく、彼はマネージャー業には向いていなかったわけだけど。っていうかビジネスマンですらなかった。

まずは取材を受けていただいてありがとうございます。

Jez(以下、J):どういたしまして。

新宿でのライヴも見にいきました。

J:うん、MARZのショウね。

ええ。なので、3曲目の“Yo Yo Gi”を聴いたときは、ちょっと嬉しかったです。

J:ああ、うんうん(笑)。僕たちは表をうろうろしていて。歩いているうちに代々木(ジェズは「ヨーヨージ」と発音)まで行き着いてしまって、それで地下鉄に乗って戻ったんだ。で、僕はあの車内放送を録音したんだけど……っていうか僕たちふたり(おそらくマーティン・モスクロップのこと)ともあれを録音したっけな。だから、(笑)僕が「大丈夫、二駅だけだから」って言ってるのが聞こえるはずだよ。アッハッハッハッ!

しかしあれは新宿駅の構内放送なのになぜ“Yo Yo Gi”になったんでしょう?

J:うん、たしかにそうだ。ごめんごめん。でも、あの名前、「Yo-Yo-Gi」っていうのがとにかく気に入っただけなんだ。

「Shin-juku」よりもファンキーな曲名かもしれません(笑)。

J:(笑)そうそう。っていうか、ああして地下鉄に乗っていたときに代々木の駅名の標識を見て、「こりゃグレイトなタイトルだな」と思ったんだ。でまあ、あるトラックに取り組んでいて、ふと「あの音源を使ったらどうだろう」と思いついて。うん、そんな風にして出来上がった曲だよ。

でもおもしろいですよね。なぜその音楽はラテンとハウスになったのでしょうか? 日本とは全然関係のない味わいなわけですが。

J:うん(笑)。だけど、その組み合わせがうまくいったと僕は思うけどね。それに、あの曲はミュージック・ヴィデオもかなり興味深いんだ。あれを作ったのは僕たちのファンで、2、3年前にこちらにコンタクトをとってきた。彼は自作のヴィデオ映像をいくつか送ってくれて、僕たちと何かやりたいととても熱心でね。で、このアルバムを発表する段になり、よし、試しにやってみよう、どんな映像のアイディアが浮かぶかやってみてよ、とお願いすることにしたんだ。彼はあのミュージック・ヴィデオを作ってくれて、僕たちもほんとに気に入ったし、そういう運びであのヴィデオができたっていう。だから、あれはファン制作のヴィデオなんだ(笑)!

そうだったんですね。さて、今回は12年ぶり、昨年の40周年記念を経ての10枚目のスタジオ録音アルバムです。

J:かなり長く間が空いたよね、うん。ただ、僕たちはその間もずっと活動していたんだけどね。レコードこそ発表していなかったものの、いま言われた過去12年の間もギグは続けていた。どこかから声がかかるたびにギグは続けていたんだよ。で、少し前から〈ミュート〉が再発をはじめて……

ボックスセットもありましたよね。

J:そう、それも含むバック・カタログのリイシューがあって、それを機にライヴをやる機会がさらに増えて。でまあ、うん、僕たちにはずっと「もう1枚アルバムをやれる」という思い、自分たちのなかにまだ音楽が残っているという気持ちがあったし、後はもうそのレコードを出すための方法/便宜を調達できるか否かにかかっていた。で、〈ミュート〉と再発の契約を結んだ際に、よし、アルバムに向けて作品をまとめる作業をはじめようと僕たちは考えたわけ。基本的に、このアルバムは過去1年くらいの間に自分たちで形にしていった。週末ごとに集まってレコーディングをはじめて、とにかくジャムを音源にしていって。そこから半年後にそれらの音源に改めて取り組むことにし、そこで作品を完成させたわけ。
 だから──そう、僕たちは作品を自主プロデュースしたし、その上で〈ミュート〉側にこの作品をライセンスする意向はあるかと尋ねたところ、彼らも僕たちの旧作の売れ行きに満足していたし、「オーケイ、新作を我々が出そう」と言ってくれて。だからある意味……自分たちはいまこそハッピーだって言うのかな、(苦笑)クハッハッハッハッ! いやだから、これまで以上にいまの自分たちは楽しめているんだ、ほんと。もちろん、初期の頃だって楽しかったよ、若くて何も考えずに済んだから。でも思うに、中期あたりかな、あの頃から、音楽活動だけではなく人生そのものも全体的に少々難儀になっていったんだよね(苦笑)。

『ACR ロコ』は、ACRの集大成のように、40年の活動が集約されているように思いました。あなたはどんな気持ちでこのアルバム制作に臨みましたか?

J:まあ、いつもと同じだったね。要するに、どこに向かっているか五里霧中でとにかくやっていく、っていう。

(笑)。

J:さっきも言ったように、僕たちはいまから1年以上前にこのアルバムのレコーディングに着手した、というか、とにかくスタジオに集まって──メンバーはみんな他に仕事をしていたり等々の事情があるから、全員集合できるのは週末だけでね。でまあ、集まって3つか4つのトラックをモノにして、大体はベース、ギターとドラムに、なかにはヴォーカルの混じるものもあって。で、少し音源を休ませた上で、またスタジオに入ってもうちょっとあれこれつけ足していくうちに6、7曲ぶんくらい、骨格になるアイディアが生まれた。そこからツアーをたくさんやって、その後でまたスタジオに戻り、去年のクリスマスの少し前に音源の仕上げに取りかかりはじめた。あのときからだったね、ほんと、作品がちゃんと形になっていったのは。
 ただ、さっきも言ったようにちゃんとした「プラン」はなかったんだ(苦笑)。とにかく何か録音していき、それをやっているうちにみんなが「おっ、これはグレイトだ。こういう方向に持っていったらどうかな? やってみようぜ」云々と言い出すし、レコーディング作業/音源自体が変化を促していくっていうか。でも、うん、いまの君の意見には同意するけどね。たしかに今作は、僕たちのやってきた数多くの異なるサウンドをレプリゼントしているし……そうだな、このアルバムを最初から最後まで通して聴くと、ACRの通ってきた旅路を追体験できるとでもいうのかな、そこには僕も満足している。

ですよね。

J:……と言いつつ、そうするつもりはまったくなかったんだけどね(笑)!

(笑)偶然そうなった、と。

J:ああ。でも実際、僕たちのキャリアは何もかもそんな調子だったんだって! そのほとんどは偶然起きたものだったし、「前もって計画を立ててやる」ところはまったくなかった。それはさっきも話したことだし……たとえば、僕の大好きなACR作品の1枚である『Sextet』(1982)にしても、制作時間はとても限られていて。スタジオに入った時点では、まだスケッチ段階の3曲くらいしか手元になかった。だから、それ以外の要素はすべてスタジオ内で生み出されていったっていう。

そうだったんですか。

J:うん。今回のアルバムでも“Taxi Guy”や“Friends Around Us”なんかがそれと同様で、胚芽程度のアイディアはあったとはいえ実際に曲が出て来たのはスタジオのなかでだった。僕にとってはそれがベストなやり方なんだよ、というのも非常にフレッシュだし、それに曲を書いたその場でレコーディングするのはとてもいいことだとも思っている。リハーサルをさんざんやって繰り返し演奏すると、その曲にあった当初の火花やヴァイブみたいなものが二度と取り戻せなくなるんじゃないかな。以前の自分の考え方はその逆だったんだけどね、リハをえんえん重ねて完璧にモノにしてからレコーディングするものだ、ずっとそう思ってきた。だけどそうじゃない。ベストなやり方、レコーディングに対する見方というのは、はじめのうちに録ってしまう、それなんだ。

経験を積んであなたがたもある意味賢くなった、ということかもしれません。「流れに任せてやればいいんだ」と。

J:(笑)。まあ、僕たちが学んだ主なことと言えば、物事をコントロールしようとすればするほど、その新鮮さと生命力は薄まってしまうものだ、だろうな。思うに僕たちはとにかく、以前よりもっと楽しめているんだよ。その面は音楽そのものに反映される。実際にやっていて楽しいと、その楽しさが自分たちのやっていることにも反映するもので。まだ若かった頃、バンドをはじめた初期の頃だってもちろん楽しかったよ、何もかもとても目新しい経験でエキサイティングだったから。でも、僕たちは気づいたんだと思う──その要素(=やっていて楽しいかどうか)こそ、自分たちのやることに必須な部分だってことに。
 だって、もしもやっていて自分たち自身が楽しくなかったら、それは観ている側にだって伝わるものじゃない? だからなんというか、僕たちは物事を本当にシンプルに留め、とてもスピーディに進めることにした。そんな風にナチュラルであるべきだし、小難しくなる必要はない、と。

たしかに今作は、僕たちのやってきた数多くの異なるサウンドをレプリゼントしているし……そうだな、このアルバムを最初から最後まで通して聴くと、ACRの通ってきた旅路を追体験できるとでもいうのかな、そこには僕も満足している。

新作については後でまたお訊きするとして、ACRの日本のメディアでのインタヴューはかなりレアなのでこれまでの歴史についても少し訊きたいと思っています。かまいませんか?

J:ああ、もちろんいいよ!

というのは、ひょっとしたら日本の多くのファンは映画『24アワー・パーティ・ピープル』で描かれていたACRが100%真実だと思ってしまっている可能性があります。

J:ハッハッハッハッハッ!

あの映画は大好きですが、あれはそもそもカリカチュアと事実とが半々くらいの内容であって──

J:(笑)イアン・カーティスが僕たちのことを「ファッキン・クソだ」って言う場面とか?

(笑)。あれは実際に起きたんじゃ?

J:そうだったのかもね? ただまあ、あの場面は、要は彼は自分たちの方が僕たちより上だと思っていた、ということでさ(笑)。

ええ。でも誤解を招いている気もする映画です。あなたご自身もカメオ出演なさっていましたが、せっかくのこの機会に訂正したいところなど、あります?

J:まあ、「半分くらいまでは本当」という箇所は多い映画だよね、うん。ただ、僕もあの映画はほんと大好きなんだ。あの映画がやってのけたのは〈ファクトリー〉というレーベルの気風を捉えてみせたってことで、それはなんだったかと言えば、「誰ひとり自分たちが何をしているかわかっちゃいなかった」で。

(笑)。

J:誰もがとにかくちょっと楽しい思いをするためにやっていたし、そのスピリットをあの映画は本当によく捉えている。さまざまなちょっとした逸話等々が含まれているし、その多くは事実だよ。ただ、なんというか、(笑)それらをあの映画はもっとユーモラスに見せていた、と。でもほんと、かつての僕たちはあんな感じだったからね、とにかく面白がって楽しんでいただけ(笑)。さんざん笑い合っていたし、そこまで真剣じゃなかった、みたいな。

なるほど。でもACRに関してでいいので、あの映画の真実ではないところを語ってもらえますか?

J:いや、とくに「これは真実じゃない」と言うつもりはないよ。でもまあ、そうだなあ、いくつか……ほら、トニーが……(苦笑)僕たちの脚に日焼けローションを塗りたくる場面があるよね?(訳注:ACRのトレードマークでもあったサファリ・ルックのショーツ姿のメンバーの白い脚を健康的に見せるためにトニー・ウィルソンが楽屋で小麦色のローションを塗る場面)

(笑)あれは笑えます。

J:でも、あれはトニーじゃなかった。女の子の一群が、トイレでローションを塗ってくれたんだ(笑)。だから、それくらいの軽い違いで……。

起きたことの本質そのものは変わっていない、と。

J:そういうこと。

あの映画のなかでトニー・ウィルソンは盛んに「ジョイ・ディヴィジョンはロブ・グレットンのバンドだが、ACRは自分のバンドだ」と主張しますけど、あれは?

J:ああ、あれは本当だよ。最初の何年か、トニーが僕たちのマネジメントをやってくれたから。彼は僕たちのマネージャーだったし、僕たちをニューヨークまで連れて行ってくれたのは彼だったからね。彼の母親が亡くなり遺産が手に入って、そのお金でアメリカに飛ばしてくれた。だからなんだ、ニューヨークでアルバム(『To Each…』/1981)をレコーディングできたのは。

初のアメリカだったでしょうし、さぞや素晴らしい体験だったでしょうね。

J:その通り。あれはすべて彼のおかげだったし、トニーは僕たちにぞっこんで。だから僕たちは「彼のバンド」だった、と。言うまでもなく、彼はマネージャー業には向いていなかったわけだけど。

(苦笑)ビジネスの感覚には欠けていたみたいですね。

J:っていうかビジネスマンですらなかった。だから彼はとにかく、ひらめきのアイディア人だったってこと。で……僕が〈ファクトリー〉で好きなのもそこだったんだよな、あのレーベルに関わっていた連中はみんなほんと、「レーベル・ビジネスを立ち上げて儲けよう」っていう観点からはじまっていなかったから。僕たちとおんなじで、〈ファクトリー〉の連中はミュージシャンみたいだった。クリエイティヴな面々で、面白可笑しいことをやろうとしていた。ほんと、初期〈ファクトリー〉はちょっとしたファミリーだったんだよね。所属バンドも若かったし、年代的に言っても、お互いライヴァル意識を抱いてはいた。
 ただ、と同時に同胞だという感覚もかなりあって。というのも、「〈ファクトリー〉のバンド」として一緒にライヴをたくさんやったから。ジョイ・ディヴィジョン、ACR、ドゥルッティ・コラム、セクション25、OMDの顔ぶれで「ファクトリー・ナイト」としてパッケージ・ツアーもやった。だからそれが、僕たちにちょっとした……そうだな、所属意識をもたらしてくれたんじゃないかな? 
 っていうか、〈ファクトリー〉のそもそものはじまりが零細家内工業みたいなものだったわけで。たとえば(〈ファクトリー〉の第一リリースである)『A Factory Sample』(1978)にしても、バンドの連中も実際にあれを何千枚か手作りするのを手伝ったんだし。そのぶんワクワクさせられたし、そこは楽しい要素だった。だからほんと、レーベル初期はエキサイティングだったね。で、それからちょっとした成功が訪れることになって──イアンが亡くなったときに、かなり変化が起きたと思う。あのあたりから、お遊びではなく、もっとシリアスになっていったっていうかな(軽く嘆息)。彼の死は、とても多くに影響したと思う。

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あの映画がやってのけたのは〈ファクトリー〉というレーベルの気風を捉えてみせたってことで、それはなんだったかと言えば、「誰ひとり自分たちが何をしているかわかっちゃいなかった」で。

まず、ACRのごくごく初期の話から聞きたく思います。あなたたちが結成されたのはマンチェスターのFlixtonとされていますが──

J:(苦笑)僕たちがバンドをはじめたのはフリクストンではなかったよ!

そうなんですね。ちなみにそのフリクストンは大まかに言えばどんな土地柄のところなのでしょう? 大マンチェスター圏の南西部のエリアですよね。

J:うん、ストレットフォード区(トラッフォード)の街だ。ただ、バンドの結成はフリクストンでじゃなかったんだ。シンガーだったサイモン・トッピングはフリクストン出身だったし、ピーター、ピート・テレル(G/エレクトロニクス)はその近くのアームストン(Urmston)出身で、その意味ではACRの起源はあのエリアだった、と言えるけれども……人びとはよく、ACRを(苦笑)ウィゼンショウ出身と言うこともあってね。というのも、僕たちのドラマーのドナルド(・ジョンソン)はウィゼンショウ出身だから。というわけで、うん、そうやっていろんな情報が混ざってしまっているけど──きっとどこかの時点で、僕たちの歴史について本を一冊書く人が誰か出て来るんじゃない? ハッハッハッ!

なるほど。ややこしいみたいですね。

J:でも、グレイトな話はたくさんあるんだよ(笑)!

あなた自身はどんな少年時代を過ごされたのでしょうか? 

J:僕の子供時代?

はい。たとえば、JD/ニュー・オーダー絡みの記事や本で、サルフォード出身のバーニーは「自分の子供時代のサルフォードは陰鬱で寒々しくて」みたいなことをよく言っていますが。

J:(苦笑)ああ、うんうん。

あなたはどうだったんでしょう。少年時代のあなたはフットボール(サッカー)に夢中だった、と話している海外記事を読んだ記憶がありますが。

J:そうだね、僕はフットボール小僧だった。

その頃は音楽よりフットボールにもっと入れ込んでいた?

J:いや、音楽ももちろん好きだったけど、自分で音楽を演奏するというほどまでにはまだのめり込んでいなかった。僕の伯父はフットボール選手だったんだ。だから伯父の志しを継いで、11歳から17歳までマンチェスター・ユナイテッドで、MUSC(Manchester United Supporter’s Club)の学童訓練チームでプレイしていてね。だから子供時代はフットボール一直線だった。ところが17歳のときにくるぶしに大怪我をしてしまって。

フットボール人生がそこで終わりを迎えたんですね。

J:そういうことになる。でも、いまの自分からすればかなり「ああなってくれてよかった」、みたいな(笑)。それでも当時の自分にとっては大ショックだったし、そこから1年後にACRに参加した。ACRは僕にとって最初のバンドだったんだ。

時期的に考えてみて、それ以前に地元のアマのパンク・バンドで軽くプレイしたことはあったんじゃ?

J:ノー、それはない。ACR以外のバンドでプレイしたことはなかったよ。ただ、僕は当時……君は知ってるかなぁ、ジルテッド・ジョンってバンド(訳注:ノヴェルティ/パンク・パロディ・アクト。1978年にシングル「Jilted John」をヒットさせた)がいたんだけど?

(笑)はいはい、憶えてます。

J:あの「Gordon The Moron」と、僕はハウスシェアしていたんだ(訳注:「ゴードンの低能野郎」は“Jilted John”に登場するキャラで、ガールフレンドに振られた主人公ジョンの恋敵。ここではバンドの『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演時にステージでゴードン役を演じた人物を意味すると思われる)。あそこらへんの連中とはマンチェスター・ユース・シアター経由で知り合いでね、ジルテッド・ジョンのシンガーだったグレアム・フェロウズのことも知っていた。実は、グレアムは僕たちがシェアしていたあの家の居間のソファであの曲を書いたんだ(笑)。

(笑)そうだったんですか!

J:(笑)僕たちはラシュロームでハウスシェアしていて、家の住人の共通項はみんなマンチェスター・ユース・シアターに参加していたってことで。それに〈レイビッド・レコーズ〉の連中も僕は知っていた(訳注:〈Rabid〉はマンチェスターのインディ・レーベルでマーティン・ハネットのプロデュースしたジルテッド・ジョンのシングルをリリース)。僕はまだとても若かったし、あの面々のなかでは最年少のひとりだったな。ほんの17歳で、あの手の連中とつるんで遊んでいた。もっとも、当時の僕はミュージシャンじゃなかったけどね。音楽を演奏してはいなかったし、とにかく……自分をやや見失っていたんだと思う、フットボールの夢が消えてしまったところで。
 そうするうちに、ACRがピップスって名前のディスコで演奏するのを観てね。ピートとサイモンのふたりだけで、演奏後に彼らとお喋りした。そしたら何ヶ月か経って通りでサイモンにばったり出くわして、「バンドの方はどんな調子だい?」と尋ねたら、彼は「ベース・プレイヤーを探してるんだけど」と返してきて。僕はたまたまベースを持っていてね、ただし、演奏はできなかったんだけど。そんなわけで、その2日後にはバンド・オン・ザ・ウォールって会場で彼らとギグをやっていたっていう。

(笑)たった2日後に?

J:うん、リハを1回やって、2日後には本番。それで決まり。だからそれくらい、僕たちの能力には限界があったってことだよ。だけど、実はそれが僕たちの魅力でもあったんだと思う。演奏の腕前はほんとどうしようもなかったものの、僕たち3人が合わさることで何かしら興味深いサウンドを生み出していたし、そこからほんの2、3週間後にマーティン(・モスクロップ)が加入したしね。彼はそれ以前に他のバンドでプレイしていたんだけど、彼のバンドが出演した同じ晩にバンド・オン・ザ・ウォールでACRのライヴを観て。で、僕たちもマーティンのバンドを観たんだけど、そのときの彼のファッションが僕たちとまったく同じ、モッズ・スーツ姿でさ(苦笑)。バンドの方はグラム・ロックっぽい見た目で、彼はなんだか浮いてた。
 というわけで彼は僕たちのバンドに参加することになり、4ピースとして6、7ヶ月間プレイして、そのあたりだったね、〈ファクトリー〉とのシングルをやったのは。ドラマーがいない状態で作った、1枚目のシングルだ。で、ドナルド(・ジョンソン)が入ってくれて、そこからだったんじゃないかな、バンドが本格的に伸び始めたのは? というのも、僕たちはインダストリアルっぽいサウンドをやっていたわけだけど、そこにファンキーなドラム・サウンドが加わったことで──途端にふたつがハマった、うまくいった。あそこからはじまっていったね、ほんと。

僕はフットボール小僧だった。僕の伯父はフットボール選手だったんだ。だから伯父の志しを継いで、11歳から17歳までマンチェスター・ユナイテッドの学童訓練チームでプレイしていてね。だから子供時代はフットボール一直線だった。ところが17歳のときにくるぶしに大怪我をしてしまって。

あなたが加入する以前のACRはサイモンとピートのデュオだった、と。

J:うん。

当時の彼らはどんなバンドでしたか? インダストリアルなパンクというか、ノイズと騒音だけ、とか?

J:(苦笑)いやいや、とても興味深いものだったよ。サイモンがベース、ピートがギター担当で、それにサイモンは友人が作ってくれた「ノイズ・ジェネレーター」なる呼び名の小さな箱も使っていて。要はオシレーター(発振機)で、つまみをひねると(耳ざわりな電子音を真似て)イ・イ・イイィィ〜〜イィ〜ン……みたいなノイズが出て(笑)。たしか3曲、“The Thin Boys”とかを演奏したんじゃなかったかな? 僕が参加したリハーサルでも“All Night Party”に“The Thin Boys”、“Genotype/Phenotype”をやったし、それにレコーディングせずに終わった“Intro Talking”っていうトラックもあって。だけどあのトラックは、後にアルバム『Mind Made Up』(2008)収録の“Teri”になっていった。というのも、僕はまだあの1回目のリハーサルの模様を録ったテープを持っていて……実家、母親の家にしまってある(笑)。だからいま言った4曲が残っているし、あのテープはいつかディジタイズしなくちゃね。人びとがあれを聴くのに興味を持つ日がいずれ来るかもしれないし。

あなたにとっての大きな音楽的な影響はなんでしょう? バンドでプレイしはじめた頃に大きかったのは?

J:まあ、ピートとサイモンは……ピートがとくにそうだったけど、彼はブライアン・イーノにハマっていてね、とりわけ『テイキング・タイガー・マウンテン』(1974)と『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』(1977)の2枚に(編註:バンド名は『テイキング・タイガー・マウンテン』収録の“The True Wheel”の歌詞の一節から取っている)。『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』に“No One Receiving”という曲があるけど、あれを聴くと“Do The Du”(編註:初期の代表曲。がちょっと聞こえると思う。ハッハッハッハッハッ! “Do The Du”の歌詞を書いたのはピートだったし、あれは……たしか、ドナルドが加入する前にできていた曲だったはずだ。でも、彼が後からドラム・パートをつけ足してくれて。ドラム部が入るまで、ライヴであの曲はやらなかった。とにかくまあ、最初の頃の僕たちはブライアン・イーノにザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、クラフトワークあたりを聴いていたね。
 ただ、ラッキーだったのは──僕たちはパンク・バンドになるつもりはなかったんだ、バンドがはじまったのはたしかにパンク期だったけれども。ある意味、あの当時は誰もがパンクの後に続こうとしていたと思う。でも、77年にパンクはまだ本当の意味でマンチェスターに達していなかったし、人びとが「パンク・ミュージシャンはいわゆる“ミュージシャン”ではなく、立ち上がって自分たちで何かやっている連中だ」という事実を理解したのは78年頃のことで。おかげで非ミュージシャンな連中の多くにインスピレーションがもたらされたし、彼らに「自分も試しにやってみよう」という気を起こさせたっていう。僕たちはまさにそういうクチだった。誰ひとりちゃんと楽器を弾けなかったし、それでも何かやりたいと思っていた。最初の頃はドラマーすらいなかったし(苦笑)、とにかく3人で興味深いサウンドを出していただけ。その意味で、あの頃の僕たちはスロッビング・グリッスルみたいな連中に近かった。ドラムレスだったし、あの手のインダストリアルっぽいサウンドに引き寄せられていたし。うん、いまあげたような名前、VU等々が大きかったな。
 それでも、僕たちは他にも……だから、僕はあの頃どこのクラブに行ってもかかっていたノーザン・ソウルを聴いて大きくなったわけで。マンチェスターはダンスが本当に大きい土地柄だし、ウィークデイは働いて、週末になると金土の晩は踊りに繰り出す、と。誰もに「自分のお気に入りのダンス・ミュージック」があったし、言うまでもなくディスコ・ブームが訪れ、それに続いてパンクが到来し……だけどそのパンクにしても、レゲエおよびダブ・ミュージックとの連携は非常にディープなものだったんだ。僕たちのプレイした会場の多くも、パンク・バンドが出演し、詩人ジョン・クーパー・クラークが出て、レゲエ・バンドも出るって感じだったしね。そのグレイトなところというのは、本当に混ぜこぜだったってことで。
 だから、ギグを観に出かけると、ダブ・ミュージックにパンク、ダンス音楽を耳にすることになる。それらすべてがミックスされていて、すごくよかった。だからあれは、いわゆる「アフター・パンク」の結果だったし、当時はニュー・ウェイヴと呼ばれていた。本当に色んなものが許容されていたし、それくらい人びともオープンで心が広くて。とにかく自分たちにプレイできる場があること、それをみんながエンジョイしていた。大会場ではなく、スモール・タウンにちらばった小さな会場がたくさんあったし、小規模なレーベルもたくさんあったんだ。

(編註:1982年のサード・アルバム『I'd Like To See You Again』を最後にバンドを脱退するオリジナル・メンバーのサイモン・トッピングは、ハシェンダでシカゴ・ハウスを──UKにおいてもっとも早く──スピンしたレジデントDJのマイク・ピカリング率いるバンド、クアンド・クアンゴに加入。これがやがてUKで最初期のハウス・プロジェクト、T-COYへと発展する)

彼はブライアン・イーノにハマっていてね、『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』に“No One Receiving”という曲があるけど、あれを聴くと“Do The Du”がちょっと聞こえると思う。とにかくまあ、最初の頃の僕たちはブライアン・イーノにザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、クラフトワークあたりを聴いていたね。

そんな小さなレーベルのひとつが〈ファクトリー〉でした。ACRは〈ファクトリー〉がリリースした最初のバンドなわけですが、トニー・ウィルソンとはどのように出会ったのでしょう?

J:あれは、ジョイ・ディヴィジョンのマネージャーだったロブ・グレットン、彼が僕たちがバンド・オン・ザ・ウォールで演奏するところを観てね。彼ら(トニー・ウィルソン、アラン・エラスムス他)は〈ファクトリー〉をはじめたばかりのところで、ロブ・グレットンがトニー・ウィルソンに「あのバンドを絶対にラッセル・クラブに出演させろ」と進言して。ヒュームにあったラッセル・クラブという会場で、〈ファクトリー〉は毎週木曜にイヴェント・ナイトを主宰していたんだ。というわけで、バンド・オン・ザ・ウォールでの僕たちのギグを観たロブが、僕たちをラッセル・クラブに出せとトニーに言ってくれて。それでトニーも僕たちを観ることになったし、ギグの後にトニーが楽屋に来て、「シングルを1枚やろう」と提案してくれた。で、その後でトニーは僕たちのマネージャーになったっていう。ハッハッハッ!

ドナルド・ジョンソン(Ds)加入後、「Shack Up」(編註:USファンク・バンドの1975年のヒット曲のカヴァー。まさにポストパンクとノーザン・ソウル文化との交差点)のあたりからすぐにファンク・サウンドを表現しますが、ファンクはその後のACRにとってトレードマークにもなります。あなたがファンク・サウンドに拘っている理由は何なんでしょうか?

J:思うにそれは、さっきもちょっと話したけど、僕たちがノーザン・ソウルを聴いて育ったからだろうね。とくにジェイムズ・ブラウン。彼の影響は巨大だったし、何せ彼はものすごくファンキーな人なわけじゃない(笑)? 要するに、彼の音楽を聴いているとじっとしていられなくなる、そこだよね。“Get On Up”や“Sex Machine”といったレコードをかければ、その人間が誰であってもみんな、ビートに合わせて足踏みせずにいられなくなる(笑)。うん、すごくシンコペーションが効いていて、ファンキーで……で、さっきも話したように、僕たちはああいうファンキーな音楽はずっと好きだったんだ。
 ただ、実際に自分たちが演奏していたのはこの、インダストリアル調の(苦笑)、ヘヴィなノイズだったわけで。4人編成になってから6、7ヶ月くらいの間、6、7曲から成るセットをずっとやっていたのは憶えている。で、ドナルドが参加したときに彼に言ったのは、「このセットに合わせてドラムをやってくれない?」だけだったし、(苦笑)それで決まり、だった。基本的に彼は既存の楽曲に合わせてドラムを叩いたわけだけど、ばっちりで。聴き返して、「おおっ、最高じゃん!」と。(ドラムが加わって)実にパワフルな響きになった。
というわけで、僕たちはしばらくの間そんな風に演奏していたわけだけど、どうだったかと言えば──だから、ドナルドが参加する以前の僕たちは、ドラマーがいなかったから4人全員がリズムを弾いていたし、そのせいで空間を音で埋め尽くしていたわけ。ところがドラマーが参加したところで、ある意味、僕たちの側は演奏するのをやめたっていうか(笑)。というのも、ドナルドがリズムを維持してくれるんだし、彼がプレイしてくれれば、僕たちが音空間をすっかり埋める必要はないじゃないか、と。とくにそれは、“Forced Laugh”みたいなトラックに当てはまる。ああいった楽曲群を聴けば、ドナルドに何もかも任せて、僕たちは実質何もやっていないのが分かるよ(苦笑)。で、あれが僕たちの音楽的な発展だったんだ。ドナルドのファンキーなドラム・プレイももちろんあったけれども、僕たちの方もこう……おかげで、それまでとは違うやり方でプレイするようになれた。ほんと、僕たちのスタイルはああやって出て来たんだ。
 でも肝心なのは、人びとは「あれこれ考えた上でああなったんだろう」と考えるだろうけど、そんなことはなくて。とにかく僕たちはリハーサル部屋に入り、演奏をはじめ、そこで浮かんだいいアイディア、そしてグルーヴとに沿ってとにかく続けていっただけだよ。

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photo : Kevin Cummins


photo : Kevin Cummins  マンチェスターに来たときACRを訪ねたグレイス・ジョーンズといっしょに。

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僕たちがノーザン・ソウルを聴いて育ったからだろうね。とくにジェイムズ・ブラウン。彼の音楽を聴いているとじっとしていられなくなる、すごくシンコペーションが効いていて、ファンキーで……で、僕たちはああいうファンキーな音楽はずっと好きだったんだ。

2000年代初頭にポストパンク・リヴァイヴァルがあって、そのなかでとくに初期のACRの音源が再評価されました。

J:(笑)ああ、人びとももっと僕たちを意識するようになったね。

おかげで若いファンもACRを発見しましたし、〈Soul Jazz〉が編集盤『Early』(2002)をリリースし、最初のカセットテープ作品『The Graveyardされしました。あのときはどんなお気持ちでしたか? 「パンク・ファンクのオリジナルのひとつ」と改めて見直されたわけですが。

J:何であれ、評価してもらえるのはとても嬉しいことだよ。まったくねえ、我ながら信じられないよ、もうそんなに昔の話だなんて……。いや、でも、認識してもらえるのは本当に嬉しいことで。そうは言いつつ、ACRはいまだに音楽をプロデュースしているわけだし。だから……僕たちは常に前進し続けてきたってこと。同じ地点に留まることはまずなかったし、思うにそれだったんだろうな、人びとがたまに僕たちをミスることもあったのは。ACRは同じ場所に長く留まるってことがなかったから(苦笑)。初期のインダストリアル・サウンドも長く続けなかったし、そこからあのパンク・ファンク調をやりはじめ、その後にはジャズっぽいことをやり出して(笑)。聴き手からすれば「何これ?」、「どうなってるの?」ってもんだよ。彼らの反応は当然「わかんない」だし、「とにかくこっちの好きなことをやってよ」と求めてくるわけだけど、それだけは僕たちは絶対にやらなかった。僕たちは常にトライしていたし……だからなんだろうね、やっていてACRがずっとおもしろかったのは。

もしかしたらそれが、ACRが他の同期のバンドやレーベルメイトの多くよりも長続きしてきた理由のひとつかもしれません。

J:いや、そうなったのは……バンドとして存続していくのって、本当に難しいことだからだよ。僕たちはある意味、運がよかったんだろうな。はじめのうちはトニーがマネジメントを担当してくれたけど、その後の僕たちは実質自分たちでマネジメントをこなしていた。おかげで早いうちに知ることになったんだ、この業界がどんな風に動いているか、レコードをリリースするにはどうすればいいか云々を。というわけで、〈ファクトリー〉を離れた時点で、正直僕たちはバンドとして終わっていてもおかしくなかった。ところが僕たちにはまだレコードを作る意思があったし、ギグも続けていて。それでマネージャーをつけて、〈A&M〉と契約した。メジャー・レーベルと契約することにしたんだ。

たしかその頃、ご自分たちのスタジオ「SoundStation」を設営しますよね? そこもいい判断だったと思います。

J:その通り。だから基本的に、〈A&M〉と契約したおかげでスタジオを手に入れることができるようになった。自分たちで音楽をプロデュースする「場」を持てたということだし、イコール、レーベルは必要ではなくなる、と。自分たちで物事を始められるし、〈A&M〉から出たアルバム『acr:mcr』(1990)は、本当の意味で自分たちで作った最初の作品だった。制作費を出す者はいなかったし、自分たちのスタジオで、自腹を切って作った。僕たちが〈A&M〉にあのアルバムをリリースさせたんだよ、というのも向こうは出したがっていなかったし(苦笑)。

意図的にではないにせよ、あなたがたは常にインディペンデントさを、自給自足を目指していたようですね。

J:ああ。それにもうひとつ大事なのは、実際に〈ファクトリー〉を離れることになった際に──彼らは借金を山ほど抱えていたから(苦笑)、その代償として僕たちは自分たちの音源を持って出て行けたんだ。だから、僕たちの音楽作品のすべて、と言っても〈A&M〉時代の作品は契約の一部だから除くけれども(笑)、音源の権利はすべて自分たちで所有している。それができたんだから僕たちはとても運がよかった。
 というわけで、僕たちの手元にはすべてのマスター音源やマルチ・トラック群、1/4インチのマスター・テープ等々があるし、それらをみんな自分たちでディジタル音源化していった、と。それを最初にやったのは、〈クリエイション〉が僕たちの旧作を再発したときだったんじゃないかな(訳注:〈クリエイション〉による1994年のCD再発)。で……あー、いま、何を言おうとしたたんだっけ? ど忘れしてしまったな……

(笑)無理なさらず。

J:ああ、だから、23スキドゥーみたいな、いわゆるパンク/ポストパンク系のバンド群はみんな……いや、彼らもきっと、まだ活動を続けているんだと思うよ。実際、あの手のバンドのいくつかはいまも、たまにギグをやっている。ただ、とにかく、とても難しいことなんだ、バンドを続けていくのは。家族がいれば大変だしね、音楽活動は定期収入ではないから。ニュー・オーダー/ジョイ・ディヴィジョンのように運よく大成功を収め、ファンの数も巨大じゃない限り、バンドを維持し続けるのは難しい。で、自分たちはとにかく踏ん張り続けたっていうのかな。自主プロデュースで、僕たちなりのもっと小規模なやり方で活動を続けてきた。
 ラッキーなことに、〈ミュート〉は素晴らしい仕事相手でね。彼らは僕たちのバンドのことを本当に理解してくれていると思うし、〈ミュート〉の旧作再発の仕事ぶりもとてもよかった。彼らがあの『ACR:SET』の編集盤をまとめた手法にしても、あれは一種、僕たちのやってきたライヴのセットを反映するような内容だったわけで。だから、僕たちはライヴ活動をストップすることはなかったんだよ。常にライヴで映えるバンドだったし、ライヴのよさで名を馳せるようになって。バンドはまだ生きているってことだし、「じゃあひとつ、アルバムを出そうじゃないか」と僕たちも思ったっていう(笑)。「レコードを1枚やってみようよ」とね。で……うん、新作には僕たちもとても満足している。シングルは今日(9/10)発売だし、アルバムは9月25日に出る。また日本にぜひ行きたいよ、ハッハッハッ!

COVI-19状況が落ち着けば、またきっと行けるでしょう。

J:ああ、そうだよね。まったく悲惨な話だ。あれはこの業界を破壊しつつある。とりわけ小規模の会場がそうだし、というか誰もに影響が及んでいて。何千人もの人間にダメージを与えている。

それまでコンスタントに作品を出していたACRですが、90年代後半になってから新作が途絶えますよね。バンドにとってどんな時期だったのでしょうか? メンバーが家庭人になったことでの休息期だった?

J:ああ、それもあった。でも、ああなったきっかけで大きかったのはロブが亡くなったときだったね。僕たちはあの頃ロブ・グレットンの〈Robs Records〉に所属していたし(編註:ロブのレーベルからは1992年にリズミックな躍動を持った『Up in Dowsnville』、1996年にはトリップ・ホップを取り入れた『Change The Station』をリリース)、彼が亡くなったとき(1999年)の僕たちはこう、「ああ、なんてこった、これでおしまいだ……」みたいな。作品を出すレーベルがなくなってしまった、と。
それにメンバーも全員家庭持ちになったりいろいろとあったし、ここらでいったんブレイクをとろうということになって。それでも、いずれまた集まって何かやることになるだろう、そこは自分たちにも分かっていたけどね。だた、そうだな、7、8年近く、僕たちは休止期間に入っていた。ところがその間に〈Soul Jazz〉がコンピ『Early』をまとめて、僕たちにギグを依頼してきたんだ(笑)(訳注:ロンドンのElektrowrerkzでの2002年のギグ。前座はACRの大ファンだったアンドリュー・ウェザオール)。で、こっちはもう「うわ、まいったな、どうしよう??」みたいな(笑)。

(笑)。

J:でもはっきり憶えているよ、そこでどうしたかと言えば、エイブラムス・モス・センターっていう、マンチェスターにあるスタジオ兼コミュニティ・カレッジみたいな施設に入ってね。マーティンはあそこで教鞭をとっていたから、そのコネでスタジオを使わせてもらえた。で、僕、ドナルド、マーティンの3人でスタジオに入り、「さて、どうする?」と。そこで“Do The Du”をプレイしてみたんだ。あの曲は、フーッ、そうだな、25年くらい? ずいぶん長いこと演奏していなかったけど、実際にプレイしてみたらファンタスティックな響きで。僕たち自身「ワオ、こりゃ最高だ!」と思った。
 そんなわけで……まあ、〈Soul Jazz〉から頼まれたとき、僕たち自身ギグをやれるかどうか半信半疑だったんだ。だからああやって3人で集まってリハをやってみたし、でもその結果、これはイケるという手応えがあって。本当にいいサウンドが出たし、それであのギグをやった、と。あれは2002年のことだったけど、以来、僕たちはまたギグをやり出すようになって。で、あの経験は本当に素晴らしかったけれども、と同時に……さっきも話したけど、僕たちは常に前に進んでいるわけじゃない? 『The Graveyard〜』に『To Each…』曲をプレイしたけど、僕たちは前進している。僕たちのオーディエンスもよく言うからね、「こっちは発売されたばかりのアルバムを聴いてるところなのに、バンドはもう次のレコードをライヴで演奏してる」って。クハッハッハッハッ!

そうやって初期の音源が再評価されるいっぽうで、〈A&M〉時代のハウス・ミュージックの影響を取り入れた『Good Together』(1989)や『acr:mcr』も当時は人気でしたよね。時代によって変化していったACRですが、あなた個人にとって、過去作品で思い入れがあるのはどの作品になりますか?

J:個人的にもっとも満足度の高い作品は『Sextet』。もちろん、あれ以前の初期作品も気に入ってるけどね。僕たちがマーティン・ハネットとやっていた頃の、たとえば12インチ『Flight』なんかは最高だと思う! あのシングルだろうなぁ、マーティン・ハネットとACRとの結合が本当にうまくいったのは。だけど『Sextet』は自分たち自身でプロデュースした最初の1枚だったし……(苦笑)いや、何も「自分たちで作ったから好きだ」って言いたいわけじゃないんだよ。ただ、あの作品には独自の要素があって。さっきも話したように、あのアルバムをレコーディングするのに1ヶ月しかもらえなかったし、スタジオに入る前に3曲しかできていなかった。だから、制作期間1ヶ月で3曲からアルバムを作ることになったし、それ以外はスタジオのなかでのジャムから成る作品だった、と。だからだと思う、あの作品にああいう響きがあるのは。本当にフレッシュだし、他とはすごく違う響きがある。あの作品が出たとき、人びともやや虚をつかれて当惑したんだ。ほら、(笑)『24アワー・パーティ・ピープル』に、僕たちがハッシエンダ(のオープニング)で演奏する場面があるじゃない? で、誰かが「こいつら、ウィゼンショウ発の最初のジャズ・バンドじゃねえか」みたいなコメントをするっていう。

(笑)はいはい。

J:(苦笑)。だからそれくらい、あの当時は理解してもらえなかったっていう。ところが、何年か前に再発されたところで、あのアルバムは「革新的なアルバムだ」云々の新たなステイタスを獲得したわけで。うん、自分がいま聴いても、あのアルバムは「ACRのなんたるか」を捉えていたなと思う。それにマーサ・ティルトンの歌唱、彼女の声も、人生の儚さみたいなものを実によく捉えていたと思うし、うん、あのアルバムは本当に好きだね。

『ACR ロコ』は、冒頭にも言いましたが、これまでの集大成的なアルバムだと思いますし、ファンクからシンセポップ、ラテンやハウス、ACRの音楽のすべてが結集されている。とはいえ、“Bouncy Bouncy”や“Always in Love”、“Berlin”のようにメロディが際立っている曲があり、ミニマルな“What's Wrong”やクローザー・トラックの“Taxi Guy”では新境地も見せていると思います。

J:ああ、“Taxi Guy”ね、あれは僕もお気に入りの曲だよ。あの曲はパーカッション部からスタートしたもので、でも、メロディ部を弾いているのはサキソフォン。しかもその上に303が乗っかっているし、「なんだ、これ??」みたいな(苦笑)。だけど、僕からすればそこが抜群なところで。聴いた人間がつい「どういうこっちゃ?」と首を傾げる、「どうも理解に苦しむ」と思う曲だ、という点がね。ハハハッ! でも、かなりいい曲なわけだろ? そういう戸惑いは、僕からすれば素晴らしいリアクションなんだ。あの曲は基本的にはサンバ曲だけど、そこから外れていく要素を後半に加えていって、ベースや303が混じっていって。ところがその上にトニー(・クィグリー)がサックスを被せたら曲のヴァイブがまたすっかり変化して、別物へと変わっていったっていう。うん、あのトラックだね、新作で僕がいちばん好きなのは。

いくつかの曲で故デニース・ジョンソンも歌っていますね。

J:うん。

彼女は90年代のACRのメンバーだったし、思い出について語りはじめたら時間が足りないでしょうが、手短かに彼女とはどんな人だったのか喋ってもらえますか?

J:彼女はビューティフルな人物だった。正直、僕たちはいまだに動揺していいるところで……デニースはもうこの世にいない、という事実に対してね。彼女は本当に大きなパーソナリティの持ち主だった。彼女がどういう人だったかと言えば──僕たちで一緒にギグをやるわけじゃない? で、ライヴを終えてツアー・バスに乗り込んだところでも、彼女は演奏した会場のバーのスタッフやセキュリティをやってくれた人たちのことを思いやっている、そういう人だった。だから、彼女はそういう風に大きなキャラ、その場にいる誰もをギグに含めようとする人だったんだ。で……僕はまあ、1985年に歌わされる羽目になったけど、実はシンガーだったことはなくて(苦笑)。
 自分は実質、ベース・プレイヤーだよ。歌い手としての役目が突如降り掛かってきてなんとかそれをこなしていたとはいえ、デニースがACRに参加してくれたところで、僕も本当に楽になった。というのも、ライヴの場でお客さんと繫がってくれるのは彼女だったから。彼女のパーソナリティはそれくらい、本当に大きかったし……うん、とにかく、彼女は実にビューティフルな、あったかい人だった。それはもう、彼女の声を聴けば感じるだろうし、それにあの笑顔に目を見ればわかる。ファンタスティックな人だったし、僕たちみんなが、彼女を本当に惜しむだろうね。
 でも、実は『ロコ』を録り終えたとき──あの作品のミキシングは早めに済ませていたし、スタジオ時間が余って週末に2回ジャムって、そこで新音源をやりはじめたんだ。で、次のアルバム向けに5曲作っていたっていう(苦笑)。僕たち3人とデニースとの組み合わせでね。

ぜひ、発表していただきたいです。

J:ほんと、アメイジングな出来の楽曲だよ。あれらは実質『ロコ』向けのセッションの一部ってことになるけど、あれをやった時点でもうアルバム1枚分に足るトラックは仕上がっていたし。だからあの音源は、将来のどこかの時点でACRの次のアルバムの一部を成すものになるだろう、と。

楽しみです。彼女への追悼という意味でもぜひ。

J:ああ。でも、悲しくもあるけどね。というのも彼女自身は、あの音源が日の目を見るときを僕たちと一緒に楽しめないわけだから……。あれはもう、信じられない完全なショックだった。だって、彼女はバンドのなかで一番若かったからね。彼女は(ACRでは)まだ「ひよっこ」だったんだよ。

デニス・ジョンソンとACR。

“Get A Grip”はスライ&ザ・ファミリー・ストーンを思い出すんですが、あなたのルーツだったりするんですか?

J:うん、もちろん。あの手の連中はみんな僕たちの音楽的なヒーローだよ、スライ、ジョージ・クリントンにパーラメント/ファンカデリックといった……

ファンキーな人びとが。

J:そう、ファンキー・ピープル。彼らはみんな、ものすごく大きな影響だった。ドナルドのドラミング・スタイルはもちろんだけど、彼はたくさんのレコードを僕たちに聴かせてくれたし、あの手の音楽を僕たちは山ほど聴いた。で、“Get A Grip”、あの曲はたぶん、さっき話に出た“Taxi Guy”を除けば、今作でいちばん好きな曲だと思う。とにかくシンプルなグルーヴが続いていく曲だし、そこから……っていうか、あれはこのアルバムをやりはじめたときに最初にやった楽曲のひとつで。
 ところが、録ったはいいもののその後1年近く放ったらかしで、その段階ではベース/ギター/ドラムだけだった。あの曲にキーボードもヴォーカルも入っていない、そういう状態を想像してもらえばわかると思う。
 で、そのままで長いこと放置されていたんだけど、改めてあの音源に取り組むことになった段階で、新たなキーボード・プレイヤー、以前はブラン・ニュー・へヴィーズのメンバーだったマット(・スティール)が参加してくれていてね。で、一緒にあの曲をジャムってみたところ、彼があの曲にメロディをつけてくれて。そこで僕たちも「よし、じゃあヴォーカルをつけよう」と思ったんだけど、ドナルドとマーティンはあそこで別のシンガーのフレイヴァーを入れたがって、それでシンク・ユア・ティース(Sink Ya Teeth)っていうバンドのマリアに歌ってくれないかと頼んだんだ。彼女たちとは去年一緒にツアーした間柄でね。で、彼女に曲を送り「これにヴォーカルをつけてくれないかな?」と。彼女がヴォーカル部を書いて送り返してきて、その上で僕たちが楽曲とヴォーカルを若干アレンジし直して……うん、すごくうまくいったと思ってる。

ACRは常に新しい血を取り入れている、ということですね。

J:うん、っていうか、バンド外の他の人たちと一緒にやるのって、とても助けになるんだと思う。自分たちのやっていることのなかに、また別の味を持ち込んでもらえるから。キーボードのマットにサックス奏者のトニー、それにデニースにしても、彼らみんながレコーディングに何かを持ち込んでくれる。僕たちがやっているのはそれらを組み入れるってことだし、その結果生まれるのがACRの音楽だ、と。それって、多様さを持たせることになっているんじゃないかな。僕たち3人以外に誰もいない状態でシコシコ音楽をやってたら(苦笑)、音楽が安定して変化のないものになってしまうだろうし。

ちょっと生気に欠けてしまう、と。

J:うん。だから、『Sextet』にはそういうところがちょっとあったんだと思う。あのアルバムを作ったやり方にはピリッと辛い味わいがあったし、そのせいで他とはかなり違う作品になったんじゃないかと。僕たちは常に知っていたんだと思うよ、重要なパートというのは、他の人たちを助けたり、あるいは他の人たちの能力を借りて、自分たち自身の音楽を彼らに委ねることだ、と。


『Sextet』のオリジナル盤。ポストパンクの名盤で、これはマストでしょうな。ジャケットの粗目の厚紙、それからインサートもいかにも〈ファクトリー〉意匠で格好いいです。

これまでずっと自分の友だったアルバムのひとつに、『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』があるね。バナナのジャケの、あれ。うん、あのアルバムは本当に大好きで、常に僕のそばにいた。

デビューしてから40年余りのあいだ、いい時期も大変だった時期もあると思いますが──

J:(苦笑)。

あなたを奮い立たせてきた、支えてきたような音楽があったら教えて下さい。

J:そうだな、これまでずっと自分の友だったアルバムのひとつに、『The Velvet Underground and Nico』(1967)があるね。バナナのジャケの、あれ。うん、あのアルバムは本当に大好きで、常に僕のそばにいた。

どうしてでしょう? VUはいわゆる「洗練された上手いバンド」ではなかったから? 優れたソングライターのいたバンドとはいえテクニック面では荒削りですし、その意味ではパンクやDIYバンドの先駆者だったわけで。

J:そう、その通り。彼らが洗練されていない、そこが好きな理由(苦笑)。だからあのアルバムが好きなんだ。それもあるし……なんというか、とにかく僕はちょっとやぶにらみな作品を選びがちで。ルー・リードの言葉をいつも引用するんだけど、いわく「コードを3つ使っていたらそれはジャズだ」と(苦笑)。彼だってコードは2個くらいしか使っていないわけでさ。で、ACRにしても、初期音源を聴くとコード・チェンジはまったくやっていないのがわかると思う。キーはひとつだけ、と。
 そんなわけで僕はいつだって、VUのそういうところが好きでね。それに、彼らのアプローチって、こう……ディストーションとかディレイを多く使っていて、そういう風に奇妙で、ややサイケデリックになるところも僕は気に入った。しかも、彼らはそういったことを他とはちょっと違うやり方でやっていた、そういう感じがあって。思うに、それはドラムのモー・タッカーに負うところが大きかったんじゃないかと。それにもちろん、ジョン・ケイルの弾いたヴィオラの要素もあったし……だから、それらさまざまなエレメントが本当に彼らを、他とはかなり異なる存在にしていたんだと思う。彼らはユニークだった。そこだと思うよ、自分が彼らを好きな理由は。うん、曲ももちろん素晴らしいけれども、彼らのアプローチだね。一種アート的な──そりゃまあ彼らはウォーホルと関係があったから当然だけれども──アプローチだったし、僕が好きなのはその点であり、かつあの、彼らの一種アンダーグラウンドな視点だったと思う。

おっしゃる通り、VUは「一般的なバンド」像とは違いましたよね。ジョン・ケイルは現代音楽、ルー・リードは職業ポップ・ライターだったこともあり、モー・タッカーのドラムは素人っぽく単純という具合で、妙なコンビネーションだったにも関わらず、それが生きていたわけで。

J:うん。僕もそう思う。いま君の言った一種の奇妙さというかな、それぞれが別の場所から集まって生まれたストレンジさだよね。ロックンロールやファンクといった要素からも彼らは完全に外れていたわけで……初期ACRにも、そういう面が確実にあったと思う。そういう姿勢とパンクな姿勢、僕たちはそれらのアティテュードを音楽に対して抱き続けてきたんだ。要するに、「退屈なものにはなるな」みたいな(笑)。

最後の質問ですが、昔のマンチェスターの「音楽や生活にいたるまでの文化」にあっていまのマンチェスターが失ったものとはなんでしょうか?

J:それは……ぶっちゃけ、マネーってことだと思うけど。ここのところマンチェスターは本当に様変わりしていてね、ビッグ・マネーが流れ込み、新たに多くのビル/施設etcが建っている。ところがそれらは地元マンチェスター人のためのものではなく、ロンドンに通勤する人びとのためのものでさ(苦笑)。だからまあ、ちょっとロンドン化が進んでいるっていうか。金のある連中がこちらに流入している。
 ただ、いまのマンチェスターにもシーンはあると思っているよ。たとえばいまなら、ロンドンでいちばん大きいのはジャズ・シーンらしいし、盛り上がって形になってるみたいだよね。だから現時点ではマンチェスターよりロンドンの方が活況だという風に映るし、それは残念なことだ。というのも、こっちにもたくさんバンドがいて、音楽をやるのに興味がある人間がいまだに多くいるのは僕も知っているから。ただどうも、彼らはそうした勢いを発信していくアウトレットをまだ見つけていないようで。
そうは言っても、小さな自主レーベルはこちらにもいくつか存在するけどね。だから……そうだな、僕はとにかく、次の波がやって来るをの待っているところだ(笑)。

その前にまず、現在のコロナ危機が沈静化するのを待ちましょう。それが過ぎれば、何かが生まれるかもしれません。

J:(プフ〜ッ! と嘆息まじりで)ああ……うん、コロナのせいで多くがダメになってしまったよね。だから、アンダーグラウンドとまでは言わないけれども、非メインストリームなシーンの形成に関わっている人びとみんな、多くの小型ヴェニューに関わっている連中、そういう人びとはちゃんと存在するし、彼らもライヴを企画するとか、あれこれやりたがっているんだよ。ところがもちろん、現時点ではCOVID-19がそれらの活動に待ったをかけているわけで。うん……でも、僕はヘブデン・ブリッジ(西ヨークシャー)を拠点にするバンドのいくつかと仕事してきてね。あそこには素晴らしい小さな音楽シーンがあって。

話に聞いたことはあります。いいアート・シーンが育っているようですね。

J:うん、若いバンドがたくさんいるよ。僕がいま関わっているのがThe Short Causewayっていう名前のバンドで、彼らなんてまだ15歳くらいだし(笑)。でも、彼らは実に抜群でね。彼らはハリファックス出身のThe Orilelles(訳注:西ヨークシャーのハリファックスで結成されたトリオ。現在はマンチェスターに拠点を移し〈ヘヴンリー〉に所属)にインスパイアされていて、そのオーリエルズももういくつか作品を発表して好調だ。彼らはある意味「どこからともなく登場した」わけだけど、あのエリアにはザ・トレイズ・クラブ(ヘブデン・ブリッジ)という名のクラブ、そしてザ・ゴールデン・ライオン(トッドモーデン)というパブ会場があってね。数は少ないけれども、そうした会場が音楽をプレイしたがっているキッズに場を提供している。ほんと、物事がはじまるのはそこからであってさ。でも、COVID-19とそれに伴う規制でそうした小さなヴェニューの多くがドアを閉ざしたわけで、うーん、ああしたシーンも失われるのかもしれない……だから、演奏できる場所がなければ若手も苦労するし、一部の才能は消えていくんじゃないかと。でも、たぶん彼らはまた別の何かを生み出していくんだろうね。

そう思いたいですね。きっと、新たなアイディアが生まれるはずです。

J:ああ、僕もそう祈ってる。何かがここを抜けて出て来るだろう。その意味で僕たちはとても運がよかったんだね、過去にアメリカにも行けたし。ところがいまや、アメリカに行くのもヴィザetcがバカバカしいくらい大変だし、それにいずれブレクジットのせいで欧州ツアーも面倒になるだろう。カルネ等の税関申告手続きが煩雑になり、かつてのようにヴァンに飛び乗って欧州入りしてギグをやる、というわけにはいかなくなる。で、それって本当に、人びとが何かをやる、何かをクリエイトする行為を制限するものなんだよな。だから、若い、これから伸びつつあるバンドが思いつきにまかせてパッと何かやる、いまはそれをやるのがはるかに難しい環境になっていると思う。とてもやりにくくなっている。

ある意味新作のタイトル『ロコ』は、そんなクレイジーな時代にふさわしいかもしれません。

J:(苦笑)その通り。だからあのタイトルにしたんだと思うよ。でもまあ、誰かから教えられたんだ、スポティファイか何かではメキシコがACRの主要リスナー国のひとつだ、と。ACRのリスナー数の統計ではメキシコがトップらしくて(笑)。それもある意味あのタイトルを考えるのに繫がっていったし、それに『ロコ』という単語はとにかく、トランプだのブレクジットだのなんだの、いま起きているクレイジーなことすべてにふさわしい気がした。うん、僕も思う、いまの時代はクレイジーだと。
 で……僕たちは何も、特に政治色の強いバンドではないんだよ。ただ、とにかく(フーッと軽く嘆息して)、アーティスティックで、クリエイティヴで、感性の繊細な人びとにとって、世界はどんどん遠ざかっている、そんな気がする。何もかもが反動的かつ右に向かいつつあるし、「これはやるな、あれはやってはいけない」と人びとを封じていて。僕たちがバンドを始めた頃なんて、止めだてするどころか「ノー、やめるな、どんどんやれ!」って感じだった(苦笑)。はるかに自由な時代だったと思うし、それにコンピュータetcもまだなかったわけで、僕たちはその影響を大きく受けなかった。対していまの若い子たちには、「こうあるべき」みたいなプレッシャーが強くかかっているんじゃないかと思う。ネットに対して、カルチャーと接点を持つ際のやり方に対してね。
 だから昔といまではまったく違うわけだけど、それでも僕は、いまの若い子たちだっていまだに、若かった頃の僕たちが抱いたのと同じフィーリングを抱えているはずだと思ってる。ところが残念なことに、そのフィーリングを表現するための「場」が、かつてに較べてはるかに限定されているんだね。

たしかに。でもきっと新しい方法が出て来るはずです。パンク〜ポストパンクもある意味同様だったんじゃないでしょうか。

J:ああ、うんうん。

当時の貧しく若い子たちにはあまり行き場がなかったでしょうし、だからこそ彼らはDIYで場を作っていったわけで。

J:そうだよね。僕もそうなるだろうと思っている。

Disclosure - ele-king

 コロナ禍におけるUKではハウス・ミュージックがかかる違法レイヴ──いまどきの別称でいえば“隔離(quarantine)レイヴ”が頻発していることはもはやよく知られたところで、当局が30人以上のレイヴを見つけた場合は主催者に1万ポンド、参加者にも100ポンドの罰金、二回目以降は3200ポンドの罰金を科すなど政府も取り締まりに躍起になっている。まさにアナーキー・イン・ザ・UKというか、なんでも7月末には3000人規模のレイヴがあり、8月のある週末にはわかっているだけでも200件を越えるイベントがあったそうで、8月22日の電子版『ガーディアン』によれば6月以降すでに1000件の違法レイヴが発覚しているそうだ。30年ぶりのレイヴ爆発である。
 それにしても……1992年~93年のクリミナル・ジャスティスのときとは違った意味で警官(ただしフェイスガードしている)に囲まれているレイヴァーたちの写真を見ていると、イギリスって本当にレイヴが好きなんだなぁと呆れるというか感心する。いまだ有効なワクチンがなく、おそらくは公衆衛生的にも欠陥だらけで、致命的な病気にかかるリスクがあるなかでの集団的な「ダンス」なので奨励するわけにはいかないけれど、しかしまあ、本当に好きなんだなぁと。そうでもしてなければやってられないと、そういうことでもあるのだろうけれど、日本でこれはまずないでしょ。
 決して小さくないリスクを冒してまでいま森のなかや飛行場で踊っているのは、もちろん90年代に当事者だった中年たちではない。主役はその子どもたちの世代であって、まさか親から教え込まれたわけじゃあるまいし。文化として根付いてしまっているんだろう。
 だとしても、やはりどうしてもいま集まって踊ることは昔のようなオプティミズムやロマンスとは別の意味を孕んでしまう。これはもう仕方がないことだ。そして、よりによってこんな時代──UKではクラブはいまも閉店中──に堂々と『エナジー』などという直球なタイトルのダンス・アルバムをぶちかますディスクロージャーとはナンなのかと(笑)。

 いや、笑いごとではない。話はより複雑で、コロナ時代に敢えてダンスのディスクロージャーは格好いいという単純なオチでもなかったりする。コロナ前のUKにはクラブ/ハウスをめぐってのハードな議論があり、それはいまもあるので、手短に紹介したい。
 まずひとつには、昨年DJ Magが掲載した秀逸な記事──いまのUKダンス・カルチャーは白人的であり中産階級的(高価な遊び)であるという問題提起に集約される。これは、クラブ・カルチャーという漠然としながらも響きの良い言葉が「ナイト・エコノミー」という新自由主義用語にすり替えられてから起きている、大きな問題だ。日本でも「ナイト・エコノミー」が言われてから、何が失われたのかを探ってみて欲しい。企業が企画するドラムンベースのイベントなんて90年代の感覚でいえば警察がギャングスタ・ラップをやるのと同じくらい考えられない話だが、しかしそれが現代なのだ。
 もうひとつは、The Quetusが取り上げて批判している、ハウスキーピング問題もある。ロンドンのハウス好きな4人のDJによるハウスキーピングなるグループの何が問題かといえば、彼らの職業にある。経済的に決して裕福ではないアンダーグラウンドで生まれたこの音楽を、よりによって都市の再開発に関わる事業家や金融業者が「平等」や「隣人愛」を謳い、いかにもなトランシー・テック・ハウスをやるとはなんたることかという、ある意味ではなかなか指摘しづらいことでもある。これはよくよくディプロに叩きつけられている文化の搾取というレヴェルの話とはまた別だ。
 まあつまり、このところUKではそもそもハウス・ミュージックおよびダンス・カルチャーとは何なのかという本質的なことが問い直されていると、ざっくりこんな事情があるなかで、ディスクロージャーがたとえばコロナで亡くなったデトロイトのDJ/プロデューサー、マイク・ハッカビーへのリスペクトを表明したことは、小さなことだが大きなことでもある。ハウス・ミュージックのように、ロックと違って言葉を持たない/中心を持たない音楽の文化的死(清志郎のレヴューを参照されたし)を免れるには、作品それ自体の強度のほか、ひとつは作り手やメディアが言い続けることであり、より多くのリスナーがその出自を知ることであり、音楽やリスナーがストーンウォールやロン・ハーディを忘れないことである。

 ディスクロージャーは上記の議論において、ぼくが散見する限りでは、つねに賛否両論を受ける立場にいるのだけれど、だからこそ本作は注目に値するとも言える。思慮深い彼らが、では彼らのハウスをこの時代いかにディヴェロップするのかという話だ。しかもよりによって自由にダンスできない、レイヴは拡大しているが危険だし、あるいはナイト・エコノミー……いや、クラブ・カルチャーも停滞している現在にドロップされたダンス・アルバム『エナジー』、ここには彼らなりの回答がある。そのひとつはUKグライムとの共振だ。
 昨年の『Nothing Great About Britain』でいっきに評価を高めたスロウタイをフィーチャーした“My High”なる曲において、活きの良いこのグライム・ラッパーは「たのむから俺のハイを邪魔すんな(please don’t fuck up my high)」と繰り返している。そのみなぎるエナジーとファンキーなリズムを前にリスナーは圧倒されるかもしれない。コロナなんて知ったこっちゃないと言わんばかりだが、しかしアルバムではこの曲の前の前の1曲目には──シカゴ・スタイルをベースが大きいUK風にアレンジしたハウスで──ケリスをフィーチャーした“Watch Your Step(気をつけて)”がある。「私は群衆を望まない/暗くなっても私はひとりで部屋にいるように踊る」とケリスは歌っているが、これはいかようにも解釈できる歌詞で、じつはアルバムは初っぱなからリスナーをアンビヴァレンツな気持ちにさせてもいるのだ。

 ディスクロージャーは今年の頭に「エクスタシー」という、これまた直球すぎるタイトルの5曲入りのシングルを出している(※ちなみに本人たちの弁によれば彼らはドラッグ・ユーザーではない)。おそらくはこの夏に備えていたのだろう。コロナさえなければ彼らは2020年の夏の野外の王者になっていたかもしれない。だが事態は急変し、『エナジー』は場違いな作品になりかねなかったところだった。それが彼らの捻りと周到さによって、むしろこの夏に相応しいダンス・アルバムになっていたりもするのだ。
 彼らの周到さは、『エナジー』の広がりに見受けられる。アルバムには、スロウタイやケリスのほかに、シドコモンといった有名どころから、カメルーン出身のシンガーBlick Bassy、シカゴのラッパーMick Jenkins、マリのシンガーFatoumata Diawaraなど多彩なゲストが参加している。こうした華やかなフィーチャリングはメジャーではよくあることだが、9人のゲストの全員が非白人であり、何人かは英語以外の言語で歌っている。これもまた、ひとつのメッセージになりうるだろう。そして彼ら・彼女らは作中で浮いたりすることなく、色とりどりの趣向を配した本作の一部として機能している。
 それは歯の浮いた人類愛ではない。ハウスを通して見せることができる多様性の具現化だ。もうひとつの『エナジー』の特徴は、──これは今作に限った話ではないのだが──、UK音楽がもっとも得意とするセンスの良いモダンな雑食性にある。ストリート感あり、R&Bあり、ラップあり、アフロ・テイストありと、いろんなものが詰められているがスジが通っていて、よく練られているのだ。思いきりサンバのリズムを使った表題曲“Energy”を拒否するか受け入れるかはリスナーの精神状態にかかっているかもしれないが、コロナ禍だからといって音楽まで自粛する必要はどこにもない。

 2020年の夏に相応しいとはそういうことだ。『エナジー』は夏のダンスであり、UKハウスの魅力が詰まったアルバムで、と同時に、以前のようにクラブで騒げないからといって、いまダンス・ミュージックを作ることが決して無意味ではないということの問いかけにもなっている。ポップと、そしてアンダーグラウンドを行き来できることがダフト・パンクやベースメント・ジャックスの時代よりも重要になっている現在において、ディスクロージャーの『エナジー』をぼくは部屋のなかで楽しんでいる。TVからは国民不在の政治ニュースが流れているが、「たのむから俺のハイを邪魔すんな」である。

KURANAKA 1945 × GOTH-TRAD × OLIVE OIL - ele-king

 KURANAKA a.k.a 1945 主催のパーティ《Zettai-Mu》が9月13日に梅田 NOON にて開催される。GOTH-TRAD、OLIVE OIL、mileZ ら豪華な面々が出演。5月にはライヴ・ストリーミングで「Zettai-At-Ho-Mu」が開催されていたが、今回はリアルに会場へと足を運ぶもの。コロナ時代における音楽やダンス、クラブのあり方を探っていくイヴェントになりそうだ。感染拡大防止対策をとりつつ、ぜひ参加してみてください。

Atropolis - ele-king

 ニューヨークで閉店した飲食店の6割はアフリカ系の経営する店だったという(白人の経営する店舗は2割弱、ほかはアジアやヒスパニック系)。ニューヨークで新型コロナウイルスの犠牲になるのは圧倒的に黒人だという報道が流れはじめた当時、僕はついエイドリアン・マシューズ著『ウィーンの血』(ハヤカワ文庫)を思い出してしまった。2026年のウィーンを舞台に新聞記者が殺人事件の真相を調べていると、同じような死因で亡くなる人がさらに増え(以下、ネタばれ)特定の人種だけを殺すウイルスがばらまかれていたことが判明するという理論物理ミステリーである(ヒトラーのユダヤ殲滅思想はウイーン起源という説を下敷きにしている)。実際にはバーニー・サンダーズも激昂していたようにゲットーでは水道が止められていて手も洗えなかったとか、住宅が密集していて人との距離が取れず、エッセンシャル・ワーカーが多かったという社会的条件による制約が黒人の多くを死に追いやったことは追加報道の通りなのだろう。ニューヨーク文化といえば、人種の坩堝であることが活力の源であり、とりわけダンス・ミュージックが多種多様な生成発展を繰り返してきた要因をなしてきたと思うと実に悲しい話である。アフリカ系とヒスパニック系の出会いがヒップホップを誕生させた話は有名だし、2000年代にはジェントリフィケーションに反対してジャズからハウスまで、エレクトロクラッシュを除くすべてのダンス世代がデモ行進を行ったことも記憶に新しい。ニューヨークの音楽地図はこの先、どうなってしまうのだろうか。この3月から〈Towhead Recordings〉が『New York Dance Music』というアンソロジーをリリースしはじめ(現在4集まで)、スピーカー・ミュージック『Black Nationalist Sonic Weaponry』にも参加していたエースモー(AceMo)や飯島直樹氏が年間ベストにあげていたJ・アルバート(J. Albert )など無名の新人がダンス・ミュージックの火を絶やすまいとしている。ジョーイ・ラベイヤ(Joey LaBeija)やディーヴァイン(Deevine)といったニューヨークらしい外見のDJたちも健在である。そう、途絶えてしまうことはないにしても、しかし、何かが大きく変わってしまうことは避けられない気がする。

 クイーンズ区に住むアトロポリスはシェイドテックの〈Dutty Artz〉から2010年にデビュー。ホームページを開くと1行目に書いてあるのが「多様性に対する情熱が自分をインドやガーナ、コロンビアやメキシコ、そして南アフリカなどのミュージシャンとの仕事に導いてくれた」という趣旨のこと。そして、彼は自分の音楽がどれだけ多様性に満ちているかをくどくどと説明しだす(https://www.atropolismusic.com/about)。実際、彼の音楽は水曜日のカンパネラ以上にルーツのわからない雑種志向の産物で、初めて聞いたときはカリブ海出身だろうと思ったし、まさかギリシャ系キプロス人だとは予想もしなかった(ギリシャ人の音楽はもっと堅苦しいイメージがあったので)。テクノポリスならぬアトロポリスというネーミングもギリシア由来で、グランジ都市(国家)という意味になるらしく、ギリシアとカリブ海の共通点といえば海に近いことぐらいだった(レバノンの爆発はキプロス島まで振動が伝わったという)。久々となる新作もチャンチャ・ヴィア・シルクイトやノヴァリマなど南米のミュージシャンや日本のDJケンセイなどをアメリカに紹介するニコディーマスのレーベルからで、げっぷが出るほど多様性の嵐(失礼)。先行シングルはレゲトンのMC、ロス・ラカス(Los Rakas)をフィーチャーした“Gozala”。これがウイルスとか多様性とかがどうでもよくなるほど夏に涼しいさわやかモードだった。

 クンビアやレゲトンを基調としつつ『Time of Sine』は全体にシンプルで、ほとんど間抜けと呼びたくなるほど隙間の多いサウンドを、柔らかく、透き通るようにアコースティックなサウンドで聞かせてくれる。力が入るところがまったくなく、水曜日のカンパネラがフィッシュマンズをカヴァーしたら、こんな感じになるのかな。違うな。とにかく涼しい。そのひと言だけでいいかもしれない。ニューヨークに浸透したカリビアン・サウンドは様々にあるだろうけれど、そのなかで最も気が抜けているんじゃないだろうか。そよ風を音楽にしたようなもの。石原慎太郎が湾岸に高層建築を建てられるようにするまでは東京でも夜になると海から内陸に吹いてきた涼しい風。日中の気温は同じでも、東京の夜も昔は東北と同じく涼しかった。そんな人工的ではない涼しさを思い出す。後半には“Funk”などというタイトルの曲もあるけれど、汗が飛び散るようなファンクではなく、ガムランやアラビアン・ナイトの怪しげな響きがトライバル・ドラムを引き立てるだけ。ブラス・セクションが入っても涼しさは損なわれず、水の音が流れ、どの曲も見せてくれる景色がとにかく涼しいとしか言えない。言いたくない。涼しい、涼しい、広瀬……いや。

 ここ数ヶ月、これまでアフロ・ハウスと呼び習わしてきたものをオーガニック・ハウスとタグ付けを変えていく動きがあり、それはアフロと称しながらまったくポリリズミックではないことに気がついたからなのか、環境問題と親和性を持たせようとしているからなのか、それともニュー・エイジやスピリチュアルがマーケットをもっと低俗な方向に移動させようとしているからなのか、そのすべてのような気がするなか、呼び方だけが変わった「オーガニック・ハウス」をアルバムにして10枚分ほど聴いてみた結果、95%はクズでしかなかった(マイコルMPやキンケイドなど、ちょっとは面白いものがあるのが逆にやっかい)。「オーガニック・ハウス」自体は〈Nu Groove〉の時代からジョーイ・ニグロやトランスフォニックにヒット曲があり、北欧ハウスの始まりを告げたゾーズ・ノーウェジアンズ『Kaminzky Park』(97)や日本のオルガン・ランゲージ『Organ Language』 (02)などすでに傑作と呼べる作品はいくらでもあるものの、いわゆるムーヴメントと呼べるほど大きな波になったことはなかった。たぶん、『Bercana Ritual』『Sounds of Meditation』『Don’t Panic – It’s Organic』『Continuous Transition of Restate』と立て続けにコンピレーションが編まれ、アリクーディやレイ-Dがアルバム・デビューしている現在が「最高潮」である。さらにはダウンテンポやプログレッシヴ・ハウスもこの流れにまとめられはじめたようで、南アのゴムのなかにも4つ打ちはナシという基本からはみ出したものがこれに加算され、僕にはオーガニック・ハウスというものがただの「その他」のようにしか思えなくなってきた。しかし、「オーガニック・ハウス」を最初に聴こうと思ったとき、その言葉から期待していたものがすべて流れ出してきたのが『Time of Sine』だった。

R.I.P. Malik B - ele-king

 唯一無二のヒップホップ・バンド、The Roots の初期メンバーであるラッパーの Malik B こと、Malik Abdul Basit 氏が2020年7月29日に亡くなった(享年47歳)。死因は明らかになっていないが、ネット上にて Malik B の死の噂が広まってすぐに、彼の従兄弟でCBSニュースの元特派員である Don Champion 氏が Twitter で追悼のメッセージをポストしたことによって訃報が事実であることが判明。さらに The Roots の Questlove、Black Thought らも相次いで追悼の意を表す投稿を Instagram にて行ない、世界中の The Roots ファンへと悲報が伝わっていった。

 80年代後半、同じフィラデルフィアのアート系の高校に通っていた Questlove と Black Thought によって The Roots の原型となるグループが結成され、その後、大学へと進学した Black Thought が親戚の紹介で出会い、共に活動することになったのが同じくフィラデルフィア出身の Malik B であった。高校の時点ですでに生楽器によるバンドスタイルでライヴを行なっていた彼らであるが、Black Thought がグループのメインMC、そしてサイドMCである Malik B はサポート・メンバーという立ち位置でフィラデルフィアやニューヨークでライヴ活動を重ね、バンド・メンバーを少しずつ増やしながら、ヒップホップ・バンドとしてのフォーマットを固めていく。ちなみに The Roots の 1st アルバム『Organix』は、彼らの初のヨーロッパ・ツアーに合わせて1993年に自主制作でリリースされたものであるが、(すでに共にライヴ活動はしていたにもかかわらず)実はこのアルバムのレコーディングの時点ではまだ Malik B はグループの正式メンバーではなく、このヨーロッパ・ツアーのタイミングで正式にメンバーになったという。1995年にリリースされた、彼らのメジャー・デビュー作でもある 2nd アルバム『Do You Want More?!!!??!』のジャケットには右から Questlove、Black Thought、そして Malik B の3人が並び、Malik B は名実ともに The Roots の看板を背負う立場になった。
 いまでは人気テレビ番組『The Tonight Show Starring Jimmy Fallon』のハウス・バンドを務めるなど、アメリカを代表するヒップホップ・グループのひとつとして高い知名度を誇る The Roots であるが、デビュー時の彼らはヒップホップ・シーンの中で実に異端な存在であった。90年代のヒップホップ・シーンはサンプリングによるプロダクション全盛期であり、生楽器でのバンド・スタイルでのヒップホップ・グループは、少なくともメジャー・アーティストでは彼ら以外は存在しておらず、大半のヒップホップ・ファンにとっては未知の存在であった。しかし、バンド・スタイル以前に、Black Thought と Malik B という二人のMCの素晴らしさは誰が聞いても明らかであり、The Roots にヒップホップ・グループとしての絶対的な価値があるということに皆が気付くようになるにはさほど時間はかからなかった。
 4枚目のアルバムとなった『Things Fall Apart』(1999年)のリリース後、Malik B はグループを脱退するが、Black Thought と Malik B の2MC体制であった時期の The Roots は、文字通りの黄金期であった。80年代から90年代にリリースされたヒップホップの名作アルバムを紹介している書籍『Check THe Technique』の中で、Questlove はこのふたりのMCについて、Black Throught を「明快で論理的」、Malik B を「抽象的」とコメントしている。いわゆるバトルライムを得意とする Black Thought は、ヒップホップ・シーンの中ではまさに正統的なスタイルであるが、それとは対照的なアブストラクトなスタイルの Malik B という存在があったからこそ、ふたりが絶妙なバランスで絡み合う3枚のアルバム『Do You Want More?!!!??!』、『Illadelph Halflife』、『Things Fall Apart』は、いまもヒップホップ・クラシックとして輝き続けている。
 Malik B は2006年リリースの『Game Theory』にてグループへ再合流し、2008年リリースの『Rising Down』にも参加しているが、共にクレジット上ではゲスト・アーティスト扱いとなっており、残念ながら正式にメンバーとして復活はしていない。一方でグループ脱退後には、ソロでのEPやニュージャージー出身のプロデューサー、Mr. Green とコラボレーション・アルバムなどもリリースするなど、ラッパーとしての活動は継続していただけに、47歳という年齢で亡くなったことは実に残念である。

 最後に、日本のヒップホップ・ファンにとっては、Malik B の名を聞いてDJ Krush “Meiso” を思い出す人も多いだろう。1996年にリリースされた同名のアルバムにも収録されたこの曲には、Black Throught と Malik B が揃ってゲスト参加しており、90年代当時の DJ Krush を代表する一曲でもある。自らのヨーロッパ・ツアー中に The Roots の存在を知ったという DJ Krush は、おそらく日本人の中でもいち早く彼らの魅力に気づいた人物だ。シンプルでありながら、独特の存在感を放つ DJ Krush のビートに乗って展開される、Black Throught と Malik B のマイクリレー。ラストの「With DJ Krush from Japan, so no more need to discuss」という Malik B のライムを心に刻みながら、哀悼の意を表したい。

Moodymann - ele-king

 窓のカーテンがすべて紫色に統一されているのは、プリンスの家のことではない。デトロイトのURの本拠地サブマージの建物の筋向かいにある家のことで、数年前から、おそらくはケニー・ディクソン・ジュニア(KDJ)が住んでいるのか(もしくはただ借りているだけなのか、いったい何のために?)わからないが、彼のものであるらしいとまことしやかに囁かれていると、昨年までは毎年デトロイトの野外フェスに行っている人物から聞いた。その写真、動画も見せてもらった。なるほど大きな一軒家(東京と比べると家賃は恐ろしく安いのだろう)の窓という窓は濃い紫のカーテンがあり、カーテンがない窓には黒人ミュージシャンの絵が絵が描かれている──プリンス、ジョージ・クリントン、ニーナ・シモン……。
 まったく人通りのない埃っぽい通りにポツンとそんな紫カーテンの屋敷があるのは異様といえば異様だが、しかもその建物からは通りに向かって、ただひたすら60年代~70年代のソウル・ミュージックが流れている。もうそれだけで、ひとつのメッセージである。

 よせばいいのに、この春リイシューされたプリンスの後期の傑作『レインボー・チルドレン』のアナログ盤を買ってしまったのだが、プリンスはジョージ・クリントンと並んでデトロイトの特別なヒーローのひとりである。KDJは前作の『Moodymann』からは、ハウス・ミュージックの形式をさらに拡張し、自分のルーツ(ソウル、ファンク、ディスコ)との接点に意識的なスタイルを模索しているように思える。ソウルやファンクの要素は最初からあったし、歌モノ自体は『Black Mahogani 』でも『Anotha Black Sunday』でもアンプ・フィドラーやホセ・ジェイムスなどを起用して試みてはいるが、近年のそれはリズムがハウスの機能性から自由になっているし、サンプリングにせよコラージュにせよ歌のように構成されている。

 コロナ渦ということで、察するにプレス工場が動かないから先に配信のみで5月21日にリリースされたのであろう『Take Away』の1曲目、アル・グリーンの“ラヴ&ハピネス”(ディスコ・ファンにはファースト・チョイスのカヴァーでも知られる)のサンプリングからはじまる“Do Wrong(間違えろ)”は、完璧なまでにゴスペル形式のハウスで、これはまったくKDJ印といえるのだが、その即興(ゴスペルとは決められた枠組み内での即興である)において洗練されている。続く表題曲は、キビキビしたファンクのシンセ・ベースと魔術的なコラージュによって、彼の教会(=ゴスペル)をディスコに変換する。「シスター、取って、取って、取っていって」と声は繰り返し、一瞬パトカーのサイレンが挿入される。
 が、しかし不安はすぐに消える。『Take Away』全編に滲み出ているKDJのブラック・ポップ・ミュージックへの愛情によって。アルバムはそして、KDJファミリーのNikki-Oが歌いアンドレスがプロデュースする“Let Me In(私を入れて)”~「みんなさよなら」を繰り返す“Goodbye Everybody”~デトロイトのポップ・ソウル・グループ「DeBarge」参加の“Slow Down(ゆっくりと)”、それからKDJ流のギャグ“I'm Already Hi(俺もうハイ)”を経て、ため息が出るほど美しいディープ・ハウスの“Just Stay A While”へと到達する。ここまでの流れがじつに心憎いのだけれど、この曲におけるシンセベースはラリー・ハードの“キャン・ユー・フォール・イット”の次元に侵入していると言っていいし、“Do Wrong”と“Just Stay A While”がアルバムのベストなのは疑いようがない。
 とはいえ、“Let Me Show You Love(君の愛を俺に見せてくれ)”も陶酔的なソウルとハウスのエレガントなミクスチャーだ。アルバムを締める、ジェイミー・プリンシプルのセクシー・ヴォイスが注入された“I Need Another ____”は80年代半ばのシカゴ・ハウスへのトリビュートであろう。
 じつは最後に、bandcampの画面には掲載されていないが、音源を買うとボーナストラックとして“Do Wrong”のSkate editがヴァージョンが入っている。デトロイトではいまでもスケート場でダンス・ミュージックを楽しむというスタイル(ソウル・スケート・パーティ)が活きているのだった。

 KDJはDJであり、古きソウル、ファンク、ディスコの研究家だ。まだ黒人コミュニティにしか知られていないような、倉庫にどっさり眠っているキラーなソウルやディスコを彼はチェックしているのだろう。そしてそれが彼の作品に息吹を与えているのは間違いない。『Take Away』はKDJのなかでもとりわけ歌(=ソウル)が前景化した素晴らしいアルバムだが、頼むから早くヴァイナルを出してくれ。ハードディスクではないところで、自分のコレクションに加えたい。


※なお、本日7月3日のbandcampは、Covid-19の影響を受けたアーティストをサポートするために売上のシェアを放棄する日。また、この日のために以下のレーベルやアーティストがさまざまな支援のため、特別なリリースを用意しているのチェックしてください(https://daily.bandcamp.com/features/artists-and-labels-offering-donations-special-merch-and-more-this-friday-july-3)。ちなみに、「bandcampがいかにしてストリーミングのヒーローになったのか」はガーディアンのこの記事を読んで。英語だけど(https://www.theguardian.com/music/2020/jun/25/bandcamp-music-streaming-ethan-diamond-online-royalties)。

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