「LV」と一致するもの

HAINO KEIJI & THE HARDY ROCKS - ele-king

文:ジェイムズ・ハッドフィールド(訳:江口理恵)[8月19日公開]

 1960年代に入ってしばらくするまで、カヴァー・ヴァージョンというのはロック・バンドが普通にやるものだった。ビートルズの最初の2枚のアルバムに収録されている曲の半分近くは他のアーティストの作品だ。初期のローリング・ストーンズは、自らのソングライターとしての才能を証明するよりも、ボ・ディドリーを模倣することの方に関心があった。しかし、LPがロック・ミュージックのフォーマットに選ばれるようになると、ファンはアーティストにより多くの革新を期待し、レーベルもオリジナルの音源の方が金になることに気付き出した。カヴァー・ヴァージョンは、ありふれたお馴染みのものから、ロック・ミュージシャンがより慎重に意図を持って使うものになっていった。敬意を表したり、いつもの定番曲に新風を吹き込んだり、キュレーターとしてのテイストをひけらかしたり、あるいは完全に冒涜的な行為を行うための。

 『きみはぼくの めの「前」にいるのか すぐ「隣」にいるのか』の収録曲では、これらのことの多くが、時に同時進行で行われている。灰野敬二が70歳の誕生日を迎えたわずか数週間後にCDとしてリリースされたこの変形したロックのカヴァー集は、実質的にはパーティ・アルバムであり、クリエイターの音楽的ルーツを探る、疑いようのない無礼講なツアーのようだ。全曲を英語のみで歌う灰野敬二が、角のあるガレージ・ロック・スタイルのコンボ(川口雅巳(ギター)、なるけしんご(ベース)、片野利彦(ドラム))のヴォーカルを務め、ロックの正典ともいうべき有名曲のいくつかを、ようやくそれと認識できるぐらいのヴァージョンで披露している。

 灰野がカヴァー・バンドのフロントを務めるというのはそれほどばかげた考えではない。彼の1990年代のグループ、哀秘謡では、ドラマーの高橋幾郎、ベースの川口とともに、50年代・60年代のラジオのヒット曲の、幻覚的な解釈をしてみせた。ザ・ハーディ・ロックスの前には、よりリズム&ブルースに焦点を当てたハーディ・ソウルがあり、その一方で灰野はクラシック・ロックの歌詞を即興のライブ・セットに取り入れることでも知られていた。つまり、このアルバムが、一部の人間が勘違いしそうな、使い捨てのノヴェルティのレコード(さらに悪くいえば、セルフ・パロディのような行為)ではないことを意味している。

 2017年に、ザ・ハーディ・ロックスを結成したばかりの灰野にインタヴューしたとき、彼はバンドがやっていることを「異化」という言葉で表現した。これは英語では“dissimilation”あるいは“catabolism”と訳されるが、ベルトルト・ブレヒトの、観客が認識していると思われるものから距離を置くプロセスである“Verfremdung”の概念にも相当する。ここでは“(I Can’t Get No ) Satisfaction”のように馴染み深い曲でさえ、じつに奇怪にきこえる。キース・リチャーズの3音のギター・フックが重たいドゥームメタル・リフへと変わり、灰野が喉からひとつひとつの言葉をひねり出すような激しさで歌詞を紡ぐ。驚くべきヴォーカル・パフォーマンスを中心にして音楽がそのまわりを伸縮し、次の“Hey Hey Hey”への期待で、いろいろな箇所で震えて停止してしまう。

 あえて言うまでもないが、灰野は中途半端なことはしない。レコーディング・エンジニアの近藤祥昭が、不規則で不完全な状態を捉えたこのアルバムでの灰野のヴォーカルは、まるで憑りつかれているかのようだ。金切り声や唾を吐く音が多いにもかかわらず、何を歌っているのか判別するのはそれほど難しいことではない。バンドは重々しい足取りでボブ・ディランの“Blowin’ In The Wind”をとりあげているが、それはもっとも不機嫌な不失者のようでオリジナルとは似ても似つかないが、それでもディラン自身が2018年のフジロックフェスティバルで演奏したヴァージョンよりは曲を認識できる。

 注意深く聴くとたまに元のリフが無傷で残っているのがわかるが、音の多くの素材は、不協和音のコード進行や故意に不格好なリズムで再構築されている。このバンドの“Born To Be Wild”では、有名なリフレインに辿り着く前に灰野がジョン・レノンの“Imagine”からこっそりと数行滑り込ませている。“My Generation”では、崩壊寸前の狂気じみた変拍子でヴァースに突進していく。川口が灰野のヴォーカルに合わせて支えるように、しばしば、エフェクターなしでアンプに直接つないだ生々しいギターの音色を響かせる。なるけと片野は、様々なポイントでタール抗の中をかき分けて進むかのように演奏している。

 ビッグネームのカヴァーが多くの人の注目を引くだろうが、ザ・ハーディ・ロックスは、日本のMORでも粋なことをしている。アルバムのオープニング曲の“Down To The Bones”は、てっきり『Nuggets』のコンピレーションの収録曲を元にしていると思っていたが、YouTubeのプレイリストを見て、これが実際には1966年に「骨まで愛して」で再デビューした歌謡曲のクルーナー、城卓矢のカヴァーだと判明した。“Black Petal”は、水原弘の“黒い花びら”をプロト・パンク風の暴力に変えるが、日系アメリカ人デュオのKとブルンネンの“何故に二人はここに”については、灰野にかかっても救いようのない凡庸さだ。

 もっとも異彩を放つのは、アルバム終盤に収録されたアカペラ・ヴァージョンの“Strange Fruit”だろう。これは奇妙な選択であり、「Black bodies swinging in the southern breeze(黒い体が南部の風に揺れる)」という歌詞を静かに泣くように歌い、本当の恐怖を伝える灰野の曲へのアプローチの仕方には敬意を表するが、私はこの曲を再び急いで聴こうという気にはならない。しかし、アルバム全体は非常に面白く、このクリエイターの近寄り難いほど膨大なディスコグラフィへの入り口としては、理想的な作品である。



HAINO KEIJI & THE HARDY ROCKS


きみはぼくの めの「前」にいるのか すぐ「隣」にいるのか
(“You’re either standing facing me or next to me”)


P-Vine Records

by James Hadfield

Until well into the 1960s, cover versions were just something that rock bands did. Nearly half of the songs on the first two Beatles albums were by other artists. The early Rolling Stones were more interested in channeling Bo Diddley than in proving their own abilities as songwriters. But as the LP became the format of choice for rock music, fans began to expect more innovation from artists, while labels came to realise there was more money to be made from original material. Cover versions went from being ubiquitous to something that rock musicians used more sparingly, and intentionally: to pay respects, put a fresh spin on familiar staples, flaunt their curatorial taste, or commit acts of outright sacrilege.

The songs on “You’re either standing facing me or next to me” are many of these things, sometimes all at once. Released on CD just a few weeks after Keiji Haino celebrated his 70th birthday, this collection of deformed rock covers is practically a party album, and a distinctly un-reverential tour of its creator’s musical roots. Singing entirely in English, Haino acts as vocalist for an angular, garage rock-style combo (consisting of guitarist Masami Kawaguchi, bassist Shingo Naruke and drummer Toshihiko Katano), who serve up just-about-recognisable versions of some of the most famous entries in the rock canon.

The idea of Haino fronting a covers band isn’t as absurd as it may seem. His 1990s group Aihiyo, with drummer Ikuro Takahashi and Kawaguchi on bass, did strung-out interpretations of radio hits from the ’50s and ’60s. The Hardy Rocks were preceded by the more rhythm and blues-focused Hardy Soul, while Haino has also been known to incorporate lyrics from classic rock songs into his improvised live sets. All of which is a way of saying that this isn’t the throwaway novelty record that some might mistake it for (or, worse, an act of self-parody).

When I interviewed Haino in 2017, not long after he’d formed The Hardy Rocks, he used the term “ika” (異化) to describe what the band were doing. The word can be translated as “dissimilation” or “catabolism” in English, though it also corresponds with Bertolt Brecht’s idea of “Verfremdung”: the process of distancing an audience from something they think they recognise. Even a song as familiar as “(I Can’t Get No) Satisfaction” sounds downright freaky here. Keith Richards’ three-note guitar hook is transformed into a lumbering doom metal riff, as Haino delivers the lyrics with an intensity that suggests he’s wrenching each word from his own throat. It’s a remarkable vocal performance, and the music seems to expand and contract around it, at various points shuddering to a halt in anticipation of his next “Hey hey HEY.”

As if it needed stating at this point, Haino doesn’t do anything by halves, and his vocals on the album—captured in all their ragged imperfection by recording engineer Yoshiaki Kondo—sound like a man possessed. But for all the shrieks and spittle, it’s seldom too hard to figure out what he’s actually singing. The band’s lumbering take on Bob Dylan’s “Blowin’ in the Wind”—like Fushitsusha at their most morose—may sound nothing like the original, but it’s still more recognisable than the version Dylan himself played at Fuji Rock Festival in 2018.

Listen closely and you can pick out the occasional riff that’s survived intact, though more often the source material is reconfigured with dissonant chord sequences and deliberately ungainly rhythms. The band’s version of “Born To Be Wild” eventually gets to the song’s famous refrain, but not before Haino has slipped in a few lines from John Lennon’s “Imagine.” On “My Generation,” they hurtle through the song’s verses in a frantic, irregular meter that’s constantly on the verge of collapse. Kawaguchi matches Haino’s vocals with a bracingly raw guitar tone, often jacking straight into the amp without any effects pedals. At various points, Naruke and Katano play like they’re wading through a tar pit.

While it’s the big-name covers that will grab most people’s attention, The Hardy Rocks also do some nifty things with Japanese MOR. I was convinced that album opener “Down To The Bones” was based on something from the “Nuggets” compilations, until a YouTube playlist alerted me to the fact that it was actually “Hone Made Ai Shite,” the 1966 debut by kayōkyoku crooner Takuya Jo. “Black Petal” turns Hiroshi Mizuhara’s “Kuroi Hanabira” into a bracing proto-punk assault, though the band’s take on “Naze ni Futari wa Koko ni,” by Japanese-American duo K & Brunnen , is a pedestrian chug that even Haino can’t salvage.

The most out-of-character moment comes near the end of the album, with an a cappella version of “Strange Fruit.” It’s an odd choice, and while I can respect the way that Haino approaches the song—delivering the lyrics in a hushed whimper that conveys the true horror of those “Black bodies swinging in the southern breeze”—it isn’t a track that I’ll be returning to in any hurry. But the album as a whole is a hoot, and an ideal entry point into its creator’s intimidatingly vast discography.

ジェイムズ・ハッドフィールド

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文:松山晋也[9月5日公開]

 9月7日に出るLPが届いた昨日だけで立て続けに3回聴いた。いま、そのハードさに改めて打ちのめされている。LP版は、11曲収録のCD版よりも2曲少ない9曲入りなのだが、「最初からLPを念頭に作ったアルバム」と灰野が語るとおり、サウンド全体のヘヴィネスと密度が強烈で、ハーディ・ロックスというユニット名に込められた灰野の思いもより明瞭に伝わってくる。5月に出たCDを買った人もぜひLPの方も聴いてほしいなと思う。ひとりのファンとして。

 ロックを極限までハードに表現すること──ハーディ・ロックスという名前に込められた灰野の思いは明快である。実際、ライヴ・パフォーマンスも極めてハードだ。灰野+川口雅巳(ギター)+なるけしんご(ベイス)+片野利彦(ドラム)から成るこのユニットでは灰野はギターを弾かず、ヴォーカルに専念している(曲によってはブルース・ハープも吹く)のだが、1回ライヴをやると体調が完全に回復するまで半年かかると本人は笑う。それくらい尋常ではないエネルギーを放出するわけだ。しかし、ハード=ラウドということでもない。バンドの演奏も灰野のヴォーカルもなるほどラウドではあるけど、彼らの表現の核にあるのは音量やノイズや速度では測れない何物かだ。原曲の歌詞やメロディに埋め込まれた思いや熱量にどこまで誠実かつ繊細に向き合えるのか、という “覚悟” が一音一音に刻み込まれている。その覚悟の真摯さ、強固さを灰野は「ハーディ」という造語で表明しているのだと思う。

 ハーディ・ロックスは、海外の楽曲(ロックや、R&B、ジャズなど)や日本の歌謡曲を英語でカヴァするためのプロジェクトとして数年前にスタートした。98年にアルバム『哀秘謡』も出た歌謡曲のカヴァ・プロジェクト=哀秘謡、2010年代にやっていたソウルやR&Bのカヴァ・プロジェクト=ハーディ・ソウルの延長線上というか、総決算的プロジェクトと言っていい。これら3つのプロジェクトに共通しているのは、“なぜ(原曲は)こんな演奏と歌い方なんだ!” という原曲に対する愛と不満だろう。
 今回のアルバム(CD版)に収録された曲目は以下のとおり。このうち⑤⑥の2曲はLP版ではカットされている。

① 城卓矢 “Down To The Bones(骨まで愛して)”
② ボブ・ディラン “Blowin’In The Wind”
③ ステッペンウルフ “Born To Be Wild”
④ エディ・コクラン/ブルー・チア “Summertime Blues”
⑤ バレット・ストロング/ビートルズ “Money (That’s What I Want)”
⑥ Kとブルンネン “Two Of Us(何故に二人はここに)”
⑦ ローリング・ストーンズ “(I Can’t Get No) Satisfaction”
⑧ ドアーズ “End Of The Night”
⑨ 水原弘 “Black Petal(黒い花びら)”
⑩ ビリー・ホリデイ “Strange Fruit”
⑪ フー “My Generation”

 ① “骨まで愛して” と⑥ “何故に二人はここに” は『哀秘謡』でも日本語でカヴァされていたが、今回の英語ヴァージョンと聴き比べてみると、20数年の歳月が灰野の表現にどのような変化/深化をもたらしたかよくわかる。“骨まで愛して” は『哀秘謡』版ではリズムもメロディも極限まで解体されていたが、その独特すぎる間合いと呼吸が今回はロック・バンドとしてのノリへと昇華された感じか。“何故に二人はここに” の『哀秘謡』版は灰野にしては意外なほどシンプルだったが、今回はそのシンプルさに拍車をかけたダイレクトなガレージ・ロック調。灰野の作品でこれほどポップな(演奏のコード進行もヴォーカルのメロディもほぼ原曲どおり!)楽曲を私は聴いたことがない。LPに収録されなかったのは、時間的制限という問題もあろうが、もしかしてシングル盤として別に出したかったからでは?とも勘ぐってしまう。ちなみに灰野が14才のとき(66年)に大ヒットした “骨まで愛して” は、発売当時から灰野はもちろん知ってはいたが、本当に惹かれたのは後年、前衛舞踏家・大野一雄のドキュメンタリー映画『O氏の死者の書』(73年)の中で、サム・テイラー(たぶん)がテナー・サックスで吹くこの曲をBGMに大野が豚小屋で舞うシーンを観たときだったという。また、第二のヒデとロザンナとして売り出されたKとブルンネンの “何故に二人はここに”(69年)は、『哀秘謡』を作るときにモダーン・ミュージック/P.S.F レコードの故・生悦住英夫から「歌詞が素晴らしい曲」として推薦されたのだとか。

 海外の曲の大半は、灰野が10代から愛聴してきた、あるいは影響を受けた作品ばかりだと思われるが、中でも④ “Summertime Blues” と⑧ “End Of The Night” に対する思い入れは強いはずだ。なにしろブルー・チアとドアーズは、灰野のロック観の土台を形成したバンドだし。70年代前半の一時期、灰野は裸のラリーズの水谷孝とともにブルー・チアの曲だけをやるその名もブルー・チアというバンドをやっていたこともあるほどだ。だから、曲の解釈や練り上げ方にも一段とキレと余裕を感じさせる。ジム・モリスンがセリーヌの「夜の果てへの旅」にインスパイアされて書いた “End Of The Night”(ドアーズの67年のデビュー・アルバム『The Doors』に収録)は短いフレーズのよじれたリフレインから成るドラッギーな小曲だが、原曲と同じ尺(約2分50秒)で演奏されるハーディ・ロックスのヴァージョンは、ドアーズが描いた荒涼たる虚無の原野を突き抜けた孤立者としての覚醒を感じさせる。灰野敬二の表現者としての原点というか、灰野の心臓そのもののように私には思えるのだ。

 その他、特に面白いのが、アカペラによる⑩ “Strange Fruit(奇妙な果実)” か。彼らは最初これを演奏付きで何度も試してみたのだが、どうもしっくりこず、最終的にヴォーカルだけにしたのだという。なるほど、この歌で描かれる凄惨な情景、木に吊り下げられた黒い躯の冷たさにここまで肉薄したカヴァはなかなかないだろう。あと、③ “Born To Be Wild(ワイルドで行こう!)” の途中で突然ジョン・レノン “イマジン” のワン・フレーズが挿入されているのも興味深い。ノー・ボーダーな野生児による宇宙との一体化という歌詞の共通点から挿入したのか、単なる直感や気まぐれなのか、そのあたりは不明だが。

 これらのカヴァ・ワークは、“何故に二人はここに” 以外はいずれも、ちょっと聴いただけでは原曲が何なのかわからないほどメロディもリズムも解体されており、ビーフハート作品のごとく極めて微妙なニュアンスに溢れた演奏の背後には、かなり長時間の集団鍛錬があったはずだ。抽象的な言葉を多用する灰野のヴィジョンをサウンドとして完璧に具現化するためだったら、すべての楽器を灰野自身が担当した方が録音もスムースだろうし、実際それは可能だと思うのだが、それをあえてやらないのがこのユニットの醍醐味だろう。誤解や齟齬によって生まれる別の匂いを楽しむこと、「わからないということを理解する」(灰野)ことこそが灰野にとっては大事なのだから。

 振り返れば、灰野の目はつねに “音楽の始原” という一点だけを見つめてきた。灰野のライヴでいつも驚かされるのは、どんな形態、どんな条件下であっても我々は音楽が生まれる瞬間を目撃できるということである。ここにあるのは、誰もが知っている有名な曲ばかりだが、同時に誰も聴いたことがない曲ばかりでもある。

松山晋也

Alva Noto + Ryuichi Sakamoto - ele-king

 『Vrioon』(2002)を皮切りに、先日は『Insen』(2005)もリマスター再発された、アルヴァ・ノトと坂本龍一のコラボレーション、〈V.I.R.U.S.〉シリーズ、9月9日にはその第三弾として2006年にリリースされた『revep』が登場。前2作よりも坂本龍一のピアノがフィーチャーされた本作には、“Merry Christmas Mr.Lawrence”のリミックス・ヴァージョンとも言えそうな“ Ax Mr.L.”も収録。
 なお、今回はオリジナル盤にボーナストラック3曲を追加してのリリース。


◆ボーナストラックとして収録された「City Radieuse」が使用されているカールステン・ニコライ(アルヴァ・ノト)の2012年の映像作品『future past perfect pt.02 -cité radieuse』 



Alva Noto + Ryuichi Sakamoto
Revep (reMASTER)

NOTON
流通:p*dis / Inpartmaint Inc.

Nick Cave & Warren Ellis - ele-king

 ザ・バッド・シーズやグラインダーマンという栄光がありながら、アーティストとしてさらに光沢を増しているニック・ケイヴとウォーレン・エリスのふたり。昨年はアルバム『Carnage』が多方面から高く評価された彼らが、その次に手がけたのが映画『ベルベット・クイーン ユキヒョウを探して』のサウンドトラックだった。

 もとよりこのふたりはいくつもサウンドトラックを手がけているのだが、今回は自ら「やりたい」と申し出たいわくつきの作品。しかも、チベット高地に生息する滅多に見ることができない動物、ユキヒョウを追い求める自然ドキュメンタリーとなると、いっしゅんピントが合わないザ・バッド・シーズのファンもいるかもしれないが、これがまた、ライ・クーダーの音楽が『パリ・テキサス』の一部であったように、ケイヴとエリスの歌とサウンドは『ベルベット・クイーン』とばっちり合っているのだ。この神秘的な自然を描写する映像の世界には、やはり一流の詩人が必要だし、その詩人の言葉と崇高な自然との溝を埋めることのできる一流の音楽家の腕前が必要だった。


 そんなわけで、これは音楽ファンもチェックして欲しい映画です。野生写真家と小説家のふたりの冒険を軸にした物語もじつに感動的で、最後に流れるニック・ケイヴの歌がまた泣かせる。
  8月27日から新宿K’s cinema 全国順次公開予定。詳しくはホームページをご覧ください。そういえば、グラインダーマンのジャケットは動物だった……
 


David Sylvian - ele-king

 デイヴィッド・シルヴィアンが2010年にリリースした『Sleepwalkers』が、新装版となって蘇る。同作は彼が00年代に制作したコラボ楽曲などを集めた編集盤で、坂本龍一高木正勝フェネス渡邊琢磨藤倉大などが名を連ねているが、このたび2022年リマスター盤として、あらためてCDとLPで発売される運びとなった。未発表曲 “Modern Interior” も収録とのことで、要注目です。

孤高の音楽家デイヴィッド・シルヴィアンの00年代におけるコラボレーションやサイド・プロジェクト作品で構成されたコンピレーション、『スリープウォーカーズ』の改訂&リマスター版がCDおよび2枚組LPでリイシュー。未発表曲追加収録。

『ブレミッシュ』(2003年)と『マナフォン』(2009年)という二枚の強力きわまるソロ・アルバムを2000年代に発表したデイヴィッド・シルヴィアン。彼が同時期にクリエイトしたコラボレーションやサイド・プロジェクト作品のなかから最上のものを厳選した、2010年にリリースされて好評を博したコンピレーション『スリープウォーカーズ』に改訂、およびリマスターを施した新装版が登場。坂本龍一や高木正勝、クリスチャン・フェネス、渡邊琢磨、藤倉大といったアーティストとの作品、バーント・フリードマンとのプロジェクト、ナイン・ホーセスの作品等の16曲に加え、新たな未発表曲「Modern Interior」を追加収録。コンピレーションだからこそ、あらためてヴォーカリスト、デイヴィッド・シルヴィアンの圧倒的な存在感が際立っている。世界を一変させる唯一無二の歌声が、このコンピレーションに不思議な統一感をもたらしている。

《リリース情報》
ARTIST: DAVID SYLVIAN
Title: Sleepwalkers
アーティスト:デイヴィッド・シルヴィアン
タイトル:スリープウォーカーズ


[SHM-CD]
商品番号:PCD-27062
フォーマット:SHM-CD
価格:定価:¥2,970(税抜¥2,700)
発売日:2022年7月13日(水)
解説/歌詞・対訳付
2022年リマスター盤


[2枚組LP]
商品番号:PLP-7874/5
フォーマット:2枚組LP
価格:定価:¥6,050(税抜¥5,500)
発売日:2022年8月10日(水)
2022年リマスター盤
完全限定生産
輸入盤国内仕様

収録曲
01. Sleepwalkers
02. Money For All
03. Do You Know Me Now?
04. Angels
05. World Citizen - I Won’t Be Disappointed
06. Five Lines
07. The Day The Earth Stole Heaven
08. Modern Interior
09. Exit / Delete
10. Pure Genius
11. Wonderful World
12. Transit
13. World Citizen
14. The World Is Everything
15. Thermal
16. Sugarfuel
17. Trauma

Fontaines D.C. - ele-king

 故郷であるイギリスの地元の街のことで度々蘇る記憶のひとつに、パークストリートの頭上を覆うように堂々とそびえ建つバロック建築のブリストル博物館がある。陰鬱な古い絵画、ブリストルの航空史を記念する品の数々、征服者のローマ人が遺した異国の古代の遺物、あるいはイギリス自身が植民地で略奪した遺物とともに、アイリッシュエルク、またはジャイアント・アイリッシュ・ディア(ギガンテウスオオツノジカ)として知られる、絶滅して久しい生物の巨大なスケルトンが展示されている。

 このグロテスクで威厳のある、恐ろしいほど巨大な鹿の骸骨と、異様なほど脆そうに見える脚は、ブリストルの子供たちの悪夢に度々現れる。この標本自体はイングランド南西部で発掘されたと思われるが(アイリッシュエルクは当時ヨーロッパとロシアの間を広くうろついていた)、この種とアイルランドとの結びつきには、馴染み深いものと、どこか異質なものの両側面が存在する。

 ウェールズ人の母とアイルランド人の父の息子であるイギリス人の私にとって、馴染み深いものと異質なものとの衝突は、自分自身の中の遺産の断片が、どのように組み合わされているのかを探って理解しようと試みる時に必ずついてまわるものだ。イングランドに生まれながら、アイルランドの血も入った自分にとってあの堂々たる骸骨は、自分自身の、置き去りにした部分からの告発であり、霊的な記憶のようでもある。

 アイリッシュエルクの絶滅が題材となっているアイルランド語の呪文“Skinty Fia(スキンティ・フィア)”は、“鹿の天罰”と訳され、この言葉をアルバム・タイトルに採用したアイルランド出身のバンド、フォンテインズD.C.は、 故郷(バンド名のD.C.はダブリン市の意)を離れてロンドンに向かう過程で、彼らのなかのアイルランド人らしい感覚がどう変わったかという葛藤を探る方法として活用している。彼らはインタヴューのなかで、たびたびこれを自分の存在が血統に左右されるという意味においての“悲運”のテーマだと説明しており、そのもっとも露骨な方法のひとつがアイルランド人らしい、あからさまなサインをイギリス人がどう解釈するかだと述べているのだ。

 アルバムのオープニング・ソングでは、アイルランド語の「In ár gCroíthe go deo(永遠に私たちの心のなかに)」という害の無いフレーズを引用しているが、これはアイルランド生まれの女性、マーガレット・キーンの遺族が、彼女の死後、墓石にこの言葉を原語のまま、英語への翻訳なしで使用することを英国国教会が禁じて、イギリスで論争の的となった言葉だ。教会側の言い分としては、イングランドでは、アイルランド語が政治的な意味合いを持つものに見られる可能性があるということを理由にあげた。この可能性というものこそが、イングランドにおけるアイルランドへの広範にわたる不快感を露呈している。何世紀にもわたって征服し、植民地化し、飢えさせ、薄切りにして切り離した国に対する彼ら(僕ら?)イギリス人の植民地に対する不安のパンドラの箱を開ける楔なのである。

 20世紀後半の大半にわたって、イギリス人が抱くアイルランド人のイメージは、北アイルランド(現在もUKの一部)に駐留するイギリスに対抗する派閥の、戦う“アイリッシュ・テロリズム”であった。私が生まれた数ヶ月後に、ブリストルにあるアイリッシュエルクの骸骨標本が佇む博物館から僅か数メートル離れた先で、IRAの爆弾が爆発し、自分の幼少期には爆発の警告が日常茶飯事だった。
 一方で、アイルランド人はしばしば、愚かで酒飲みの野暮ったい“パディ”として、ジョークの的にされることも多かった。これらふたつのアイルランドらしさを表すとされた存在感は、イギリス人の発想の中で密接に結びついており、ジョークで、自分たちが彼らの国にしたことへの罪悪感を和らげ、いまだに存在する、私たちに向けられる怒りを弱めようとした。スコットランド人であるアズテック・カメラと、ウェールズとロシア系ユダヤ人の両親を持つイギリス人のミック・ジョーンズが“Good Morning Britain”という曲で歌ったように、「Paddy’s just a figure of fun / It lightens up the danger (パディはただの遊び道具 / 危険を軽減してくれる)」のだった。

 しかし、『Skinty Fia』は、単純に差別に対する非難というわけではない。歌詞には直接的な表現はほとんどなく、しばしば抽象的あるいは隠喩的なやり方でイギリスと自分たちのかつての故郷の両方に対するバンドの関係性の感覚を、より複雑な層にまで探究する。アイルランド国内においても、首都ダブリンとアイルランド語を話すような田舎のエリアとでは違いが存在する。英語の“beyond the Pale(境界を越えて、常軌を逸した)”という表現は、こうした地方のことを指し、許容範囲や文明的な限度を超えた行動という慣用句としての意味を持つフレーズだ。
 一方、地方出身者は、ダブリン出身者を“Jackeens(ジャッキーンズ)”と呼び、イギリス化した「リトル・イングリッシュ」と表現することがある(パトリック/パディはアイルランド人に多い名前であり、英国旗が“ユニオン・ジャック”と呼ばれるように、ジャックはイギリス人に多い名前)。フォンテインズD.C.は、“Jackie Down the Line”でこの表現をほのめかし、自分たちの言葉として使っているが、これはイギリスが自分たちを変えようとしていることを敏感に感じ取っているからかもしれない。

 アルバムに通底しているのは、変化と、変わらないこととの間に流れる緊張感であり、バンドはほとんどアイルランドらしさを失うことなく、イギリスでもアイルランドでもない、等しい価値のある、新しい何かに変異させるべく表現している。“Roman Holiday”では、アウトサイダーとしての自分たちの立場に誇りを感じて喜び、冒険のように“ロンドンを受け入れる”ことを歌った曲だと説明している──彼らはおそらく、自分たちの異質性を受け入れると同時に、今では彼ら自身がその小さな一端となっているアイルランドのディアスポラ(離散)も、ある程度受け入れているのだろう。

 フォンテインズD.C.自身もそうであるように、アイルランドのディアスポラの一部は、野心家のアーティストたちが観客とクリエイティヴな仕事の機会を求めて旅した結果でもあった。ダブリナーだったマイ・ブラッディ・ヴァレンタインは故郷を離れ、マイクロディズニーのショーン・オヘイガン、ハイ・ラマズとステレオラブもコークを後にし、同様の旅に出た。“Big Shot”では、アーティストとしての名声と成功が気まぐれに約束されている大都市への移動の、何がリアルで、何が表面的なものに過ぎないのかがわからない不安を浮き彫りにしている。それに対して“Bloomsday”では、毎年6月16日に行われるジェイムズ・ジョイスの名高い小説『ユリシーズ』にちなんだダブリンの芸術史の祝いを呼び起こしている──これは特定の場所から生まれ、その場所の基礎構造の一部となるような創造的な作品なのかもしれない。どうやらフォンテインズD.C.が求めているのは、石や鉄骨や舗装された場所ではなく、一連の繋がりや記憶や物語に支えられた新しい居場所なのかもしれない。

 自分自身にまつわる感覚的なものの多くを、博物館に展示された先史時代の鹿のスケルトンの細い脚のようなものに投影するのは、脆くて妖しいことと思われるかもしれないが、いわゆるブリティッシュ・ミュージックの歴史と成長に目を向けると、その血管にはアイルランドの血が流れていることがわかる。アイルランドから移動してきたアーティストに加えて、アイルランドのルーツはすでに存在し、非常に多くのものの礎となっている。ザ・ポーグスはロンドンのアイリッシュ・ディアスポラのど真ん中から誕生したし、ジョン・ライドン、ケイト・ブッシュ、ザ・スミス、ケヴィン・ローランド、ノエル&リアム・ギャラガー、ポール・マッカートニー、そして、やや遠縁にはジョン・レノンなどが、皆アイルランドのバックグラウンドを持っている。

 しかし、私たちは“スキンティ・フィア”が、もともとは呪文であり、憤りや怒りの表現であることを忘れてはならない。あらゆる人間関係と同様に、このアルバムが描く変異のプロセスは、決してスムーズでも、快適でもないものだ。バンドが、自分たちのイギリスとアイルランドとの関係性を探る上で繰り返し立ち戻る隠喩が、有毒で機能不全のロマンスであることがそれを物語っている。彼らはアウトサイダーとしてロンドンを受け入れ、アイルランドに「I Love You」と、たびたび露骨で批判的な表現で歌うが、自分たちの過去に運命づけられている以上、そこからまた新しい何かを築き上げる望みはあるのだ。



Ian F. Martin

One of my abiding memories of my hometown in the UK is the imposing, baroque structure of Bristol Museum looming over the top of Park Street. Among the exhibits, taking in gloomy old paintings, mementos of Bristol’s aviation history, and ancient relics from overseas left behind by conquering Romans or looted during Britain’s own colonial adventures, there stands the towering skeleton of a long-extinct creature known as the Irish elk or giant Irish deer.

This grotesque, majestic, fearsomely huge skeletal deer with its strangely fragile looking legs haunts the nightmares of Bristolian children. And despite this particular specimen most likely having been unearthed locally in the southwest of England (the Irish elk roamed much of Europe and Russia in its day), there was something both familiar and alien about the species’ association with Ireland.

For me, the English son of a Welsh mother and an Irish father, that collision between the familiar and the alien is a constant feature of the way I try to understand how the fragments of my own heritage piece together. Born in England but somehow still of Ireland, that imposing skeleton is like a spectral memento or accusation from an abandoned part of myself.

The extinction of the Irish elk is the subject of the Irish language curse “skinty fia”, often translated as “the damnation of the deer”, and in taking it for the title of their new album, Irish band Fontaines D.C. have used it as a way of exploring the tensions in how their own sense of Irishness has changed in the process of leaving their home (the D.C. in their name refers to Dublin City) for London. In interviews they have often described it as a theme of “doom”, in the sense of one’s existence being in thrall to your lineage, and one of the most obvious ways that can manifest itself is in how English eyes interpret overt signs of Irishness.

The album’s opening song references the Irish phrase, “In ár gCroíthe go deo” — an innocuous phrase meaning “in our hearts forever”, which became the centre of a controversy in England when the bereaved family of an Irish-born woman named Margaret Keane were forbidden by the Church of England to use the words without a translation on Keane’s headstone. The church’s reasoning was that the Irish language might be seen by some in England as having political connotations, but that potential for discomfort reveals a broader discomfort within England towards Ireland. The alienness of the Irish language is the wedge that opens up a Pandora’s box of colonial anxieties the English have towards a country they (we?) have over the centuries conquered, colonised, starved and then sliced apart.

For much of the late 20th century, the main image of Irishness that English people had was of “Irish terrorism” from factions fighting against the ongoing British presence in Northern Ireland (which remains part of the UK). A few months after I was born, an IRA bomb exploded just a few metres up the road from the museum in Bristol where the Irish elk skeleton lurks, and bomb warnings were a regular feature of life growing up. The flipside of that was that Irish people were often the butt of jokes that portrayed them as foolish, drunk and unsophisticated “Paddies”. These two presences of Irishness in the English mindset went hand in hand, the jokes softening the English guilt for what we’d done to their country and diminishing the anger against us that still existed. As Aztec Camera (Scottish) and Mick Jones (English of Welsh and Russian Jewish parentage) sang in their song “Good Morning Britain”, “Paddy’s just a figure of fun / It lightens up the danger”.

“Skinty Fia” isn’t simply a tirade against discrimination, though. Rarely direct in its lyrics, it explores more complex layers of the band’s sense of relationship with both England and their former home in often abstract or metaphorical ways. Within Ireland itself, there are differences between the metropolitan seat of government in Dublin and the more rural, more Irish-speaking areas beyond. The English term “beyond the Pale” refers to those rural regions, the phrase carrying the idiomatic meaning of behaviour that goes beyond acceptable or civilised limits. Meanwhile, people from rural regions sometimes refer to Dubliners as “Jackeens”, painting them as Anglicised “little English” (just as Patrick/Paddy is a popular Irish name, Jack is a common English name, while the British flag is known as the Union Jack). On “Jackie Down the Line” Fontaines D.C. allude to this term and adopt it for themselves, perhaps touching on their sense of how England is changing them.

That sense of tension between change and holding on runs through the album, with the band describing it as not so much losing Irishness as mutating it into something neither English nor Irish, but new and equally valid. They have described “Roman Holiday” as a song partly about “embracing London” as an adventure, happy and proud in their status as outsiders — perhaps in a way embracing their own alienness, but also embracing the Irish diaspora of which they are now one small part.

As with Fontaines D.C. themselves, part of that Irish diaspora has been a result of ambitious artistic types travelling to where the audience and creative opportunities are. My Bloody Valentine were displaced Dubliners, while Sean O’Hagan of Microdisney, the High Llamas and Stereolab took a similar journey from Cork. It’s this move to the big city with its capricious promise of artistic fame and success that underscores the anxieties expressed about what is real and what superficial in “Big Shot”. In some ways, a counterpoint might be the way “Bloomsday” calls back to the storied artistic history of Dublin in its reference to the city’s annual June 16th celebrations of James Joyce’s novel “Ulysses” — a creative work born from a specific place that then itself becomes part of the fabric of that place. What Fontaines D.C. seem to be looking for is a new place to belong, anchored not in the stones, steel beams and tarmac of a place but in a series of links, memories and stories.

It may seem a fragile and spectral thing on which to carry so much of one’s sense of self, like the slender bone legs of a prehistoric deer skeleton in a museum, but one look at the history and growth of so-called British music reveals Irish blood running through its veins. In addition to those artists who travelled over from Ireland, already-existing Irish roots are fundamental to so much more. The Pogues were born right out of the heart of the London Irish diaspora, while John Lydon, Kate Bush, The Smiths, Kevin Rowland, Noel and Liam Gallagher, Paul McCartney and more distantly John Lennon all have Irish backgrounds.

We should remember, though, that “skinty fia” is originally a curse — an expression of exasperation or anger. And like any relationship, the process of mutation the album describes is not a smooth or comfortable one. It’s telling that one metaphor the band keep returning to in exploring their relationships with both England and Ireland is that of a toxic or dysfunctional romance. They embrace London as outsiders, they sing “I Love You” to Ireland couched in often explicitly critical terms, but for all that they are doomed by their past, there is some hope of something new to be built from it.

Alvvays - ele-king

 トロントのインディ・ポップ・バンド、オールウェイズが新作『Blue Rev』を10月7日にリリースする。『Alvvay』(2014)、『Antisocialites』(2017)につづくサード・アルバムだ。バンド史上最長の作品に仕上がっているとのこと。日本限定でオビつきのカラー・ヴァイナルもあり。現在、シューゲイズな新曲 “Pharmacist” が公開中。アルバム全体がどうなっているのか楽しみです。

世界中のインディーリスナーから愛されるインディーポップ・バンド、Alvvaysが5年振りとなる待望の3rdアルバム『Blue Rev』を10月7日にリリース!

世界中のインディーリスナーから愛されるカナダはトロントを拠点に活動中のインディーポップ・バンド、Alvvaysが3枚目となるアルバム『Blue Rev』を10月7日にリリースする事が決定した。

同アルバムの中からアルバムの冒頭を飾る “Pharmacist” が先行公開された。

・Alvvays - Pharmacist [Official Audio]
https://youtu.be/eH5mqLjwg6U

 “Pharmacist” はAlvvaysがこれまでにリリースしてきた楽曲の中でも特にシューゲイズを感じる曲で、そのドライヴ感のあるギターサウンドの中にMollyの美しい歌声が溶け込んでいく。疾走感のあるサウンドでありながらも、ノスタルジックでエモーショナルな世界観を作り出したAlvvaysにしか作れないこの曲で、アルバムはスタートから一気にギアをあげる。

 パンデミックを乗り越え完成させた5年ぶりのアルバムとなる『Blue Rev』はAlvvays史上最長のアルバムになっており、Alvvaysらしい楽曲から新しいサウンドに挑戦した楽曲までを収録。

 その様々な楽曲の中でヴォーカル、Molly Rankinのキュートでありながらも琴線に響く美しい歌声と誰もが心震わせるキャッチーな “メロディー” が輝く。間違いなく今年のインディーシーンのマスターピースになる作品だ。

 今作『Blue Rev』は国内盤CDの他に日本限定の帯付きColor Vinylのリリースも決定している。

 またアルバム発売に先駆け、1st/2ndアルバムの名曲 “Not My Baby” / “Next of Kin” をカップリングし、オリジナルジャケットを採用した日本限定盤7インチレコードが7月20日にリリースされるので、合わせてチェックしてみてほしい。

・Alvvays『Not My Baby / Next of Kin』7inch 予約ページ
https://anywherestore.p-vine.jp/products/p7-6300


[リリース情報]
Alvvays『Blue Rev』
Release Date:10月7日(金)
Label:Polyvinyl Records / P-VINE, Inc.

Tracklist:
01. Pharmacist
02. Easy On Your Own?
03. After The Earthquake
04. Tom Verlaine
05. Pressed
06. Many Mirrors
07. Very Online Guy
08. Velveteen
09. Tile By Tile
10. Pomeranian Spinster
11. Belinda Says
12. Bored in Bristol
13. Lottery Noises
14. Fourth Figure

Streaming Pharmacist
https://pvine.lnk.to/Q4xwcU

Alvvays:
Instagram https://www.instagram.com/alvvaysband/
Twiiter https://twitter.com/alvvaysband

山本アキヲの思い出 - ele-king

山本アキヲとシークレット・ゴールドフィッシュ
文:三浦イズル


「ほな、行ってきますわ」

 アキヲと最後に電話をした数日後に、アキヲの突然の訃報が届いた。シークレット・ゴールドフィッシュの旧友、近藤進太郎からのメールだった。
 2021年秋頃からアキヲは治療に専念していた。その治療スケジュールに沿っての入退院だった。その間もマスタリングの仕事をしていたし、機材やブラック・フライデー・セールで購入するプラグインの情報交換なども、電話でしていた。
 スタジオ然とした病室の写真も送って来た。Logic Proの入ったMacbookProや、小型MIDIキーボード、購入したてのAirPodsProも持ち込んでいた。Apple Musicで始まった空間オーディオという技術のミックスに凄く興味を持っていて、「これでベッドでも(空間オーディオの)勉強ができるわ〜」と嬉しそうだった。

「夏までに体力をゆっくり戻して、復活やわ」

 明日からの入院は10日間で、これで長かった治療スケジュールもいよいよ終了だと言っていた。

「ほな、行ってきますわ。じゃ10日後にまた!」

 近所にふらっと買い物にでも行く感じで電話を切った。その日は他の友人にも連絡しなくてはいけないということで、2時間という短い会話だった。
 アキヲと俺はお互い本当に電話が好きで、普通に何時間も話す。あいつが電話の向こうでプシュッと缶を開けたら「今日は朝までコースだな」と俺も覚悟した。明日の仕事のことは忘れ、まるで高校生のように会話を楽しんだ。話題が尽きなかった。
 電話を切った後、アキヲが送ってきた写真をしばらく眺めていた。
 それは先日一気に購入したという、2本のリッケンバッカーのギターとフェンダーUSAのテレキャスターを自慢げに並べたものだった。

「リッケン2本買うなんて気狂いやろ!」
 中学時代父親にギターをへし折られて以来、ギターは弾いていなかったらしい。

「最近無心でギターずっとジャカジャカ弾いてんねん。気持ちええな」
「今さらやけどビートルズってほんますごいわ」
「ほんまいい音やで。今度ギターの音録音して送るわ」

 アキヲの声がいまだにこだまする。
 赤と黒のリッケンバッカーたちが眩しかった。


俺はそいつを知っていた——アキヲとの出会い

 シークレット・ゴールドフィッシュは1990年に大阪で結成された。英4ADの人気バンド、Lushの前座をするためだ。その辺りのエピソードに関しては以前、デボネアの「Lost & Found」発売の際に寄稿したので、そちらをご覧になっていただきたい。
 1990年、Lushの前座が終わり、ベースを担当していたオリジナルメンバーのフミが抜けることになった。フミも経営に携わっていたという、当時はまだ珍しいDJバーの仕事に専念するためだ(その店ではデビュー前の竹村延和が専属DJをしていた)。
 そんななか、近藤が「同級生にめっちゃ凄い奴がおるで」と言って、ベーシストを紹介してくれることになった。
「学生時代番長や」近藤は得意のハッタリで俺をビビらせた。当時勢いのあった大阪のバンド、ニューエスト・モデルのベース・オーディションにも顔を出したことがあったという(*)。「むっちゃ怖いで〜、顔が新幹線みたいで、まさにゴリラや」そして俺の部屋にアキヲを連れてきた。たぶん、宮城も一緒だったと思う。
 現れたのは近藤の大袈裟な話とは違い、体と顔はたしかにゴツイが、気さくで物腰の柔らかい男だった。しかも俺はそいつを知っていた! 忘れることもできないほど、俺の脳裏に焼きついていた人物だったからだ。
(*)現ソウル・フラワー・ユニオンの奥野真哉氏の回想によれば、「ええやん、やろや!」となったそうだがその後アキヲとは連絡取れず、この話は途絶えてしまったそうだ)

 1989年か1990年に、(たぶんNHKで放送していたと記憶しているが)「インディーズ・バンド特集」的な番組を観ていた。新宿ロフトで演奏する大阪から来たというパンク・バンドの映像が流れた。彼らはインタビューで語気を強めて答えた。
「わしらぁ武道館を一杯にするなんてクソみたいなこと考えてないからやぁ」
 そう語る男の強面な顔と威切った言動が強く印象に残った。
 しばらくして、バイト帰りに梅田の書店で無意識に「バンドでプロになる方法」らしきタイトルの本を立ち読みした。その本の序文の一説に、先日NHKで見た「武道館クソ発言」とそのバンドについて書いてあった。それは否定的な内容で、そういう考えのもとでは一生プロにはなれない、と著者は断じていた。
「あいつや……」
 忘れようとしても忘れられない、あの大阪のバンドの奴の顔が浮かんだ。
 そう、近藤が連れてきた番長の同級生、目の前の男こそが「あいつ」だった。山本アキヲ。物腰の柔らかさと記憶とのギャップに驚いた。

 俺も最近知ったのだが、シークレットのメンバーは大阪市内の中学の同級生が半分を占めていたらしい。近藤進太郎、山本アキヲ、朝比奈学、近所の中学校の宮城タケヒト。皆、俺と中畑謙(g. 大学の同級生)とも同い年だった。彼らは「コンフォート・ミックス」というツイン・ヴォーカルのミクスチャー・バンドをやっていて、自主制作レコードもその時持参してくれた。同じ日に宮城も加入した。
「コンフォート・ミックス」のLPは在庫がかなりあったらしく、シークレットがCDデビューする前の東京でのライヴで便乗販売していた。当時の購入者は驚いただろうが、今となっては超貴重盤である。

  こうしてアキヲがしばらく、シークレットのベースを担当することになった。俺にとっては運命的な出会いだった。その友情はその後30年以上も続くのだから。


1991-アキヲと宮城が゙加入した頃-京都にて

 アキヲはシークレットのベースとして多くライヴに参加したが、仕事の都合で渡米したりするので、アキヲの他にも朝比奈、ラフィアンズのマコちゃん(後にコンクリート・オクトパス)など、ライヴの際は柔軟に対応していた。
 2nd EP「Love is understanding」では、アキヲが2曲ベースでレコーディングに参加している。東京のレコーディング・スタジオまで飛行機で来て、弾き終えると大阪へとんぼ帰りだった。今思えば仕事との両立も大変だったろうに、本当にありがたい。アキヲが他のメンバーよりも大人びていると感じたのは、そういう姿も見ていたからかも知れない。


LOVE IS UNDERSTANDING / SECRET GOLDFISH 1992

 シークレットは多くの来日アーティストのオープニング・アクト(前座)を務めていた。その中でも英シェイメン(Shamen)のオープニング・アクトは特に印象に残っている。
 俺たちのライヴには「幕の内弁当」というセットリストがあった。「もっと見たいくらいがええねん」と、踊れる7曲を毎回同じアレンジ、ノンストップで30分ほど演奏していた。
 せっかくシェイメンと一緒のステージだし、いつもの演奏曲も宮城のエレクトロ(サンプラー)を前面に出したアレンジに変えた。練習も久しぶりに熱が入った。アキヲはそのスタイルに合わせ、ベースラインを大きく変えて演奏した。

「ええやん、そのベース(ライン)」
「せやろ!」

 そのライヴでの「Movin’」のダンスアレンジは今でもかっこいいと思う。その時のアレンジが先述のEP「Love is〜」や「Movin’」のリミックス・ヴァージョンに、宮城タケヒト主導で反映された。


MOVIN' / SECRET GOLDFISH (Front act for SHAMEN,1992)


1991年の大阪にて

 シークレットの最初期こそ京都を中心にライヴをしていたが、活動場所は地元の大阪へと移っていく。心斎橋クアトロをはじめ、十三ファンダンゴ、難波ベアーズ、心斎橋サンホール、大阪モーダホールなどでライヴをした。
 ちなみに91年難波ベアーズでのライヴの対バンは、京都のスネーク・ヘッドメンだった。「アタリ・ティーンエイジ・ライオット」を彷彿させるパンク・バンドだった。アキヲとTanzmuzikのオッキーことOKIHIDEとの出会いはその時だったのかもしれない。
 心斎橋サンホールでは「スラッシャー・ナイト」にも参加した。出演はS.O.BとRFDとシークレット。そのイベントに向けてのリハーサルは演奏より、メンチ(睨むの大阪弁)を切られても逸らさない練習をした記憶がある。なんせ近藤と宮城が真顔でこういうからだ。「ハードコアのライヴは観客がステージに上がって、ヴォーカルの顔面1cmまで顔近づけてメンチ切るんや。イズルが少しでも目逸らしたら、しばかれるでぇ」
 アキヲは笑ってたと思う。俺も負けじとドスの効いたダミ声で「Don't let me down」と歌うつもりで練習した。当日、S.O.BのTOTTSUANがシークレットのTシャツを着て登場し、「次のバンドはわしが今一番気に入ってるバンドや!」とMCで言ってくれたおかげでライヴは超盛り上がった。予期せぬ事態にメンバー一同胸を撫で下ろした。

 10月にはデビュー・アルバムも発売され、そこそこヒットした。あまり実感はなかったが、心斎橋あたりを歩いていると、その辺の店から自分の下手な歌が聞こえてくる。と、同時に多くの「ライヴを潰す」とか「殺す」などの噂も耳に入った。それはかなり深刻で、セキュリティ強化をお願いしたこともあったほどだ。


1992-心斎橋クアトロ-4人でのステージ

 そんな状況下でアキヲとの関係が深まる出来事が起こる。英スワーヴ・ドライヴァーの前座、クラブチッタ川崎でオールナイト・イベントがあり、その夜にはそのまま心斎橋クアトロでワンマンという日だった。諸事情で近藤と宮城はそれらに参加できなくなった。ステージを盛り上げる二人の不参加に俺は不安になった。

「ガタガタ抜かしてもしゃあない、わしも暴れるし思い切りやろうや!」

 その言葉通りアキヲは堂々と4人だけのステージで、近藤のコーラス・パートも歌いながらリッケンバッカーのベースを弾いた。その姿とキレのある動きはまさにザ・ジャムのベーシスト、ブルース・フォクストン! しかもチッタでは泥酔&興奮してステージに上がろうとする外国人客を蹴り落としたり、演奏中に勢い余って転んで一回転しながらも演奏を続けたりしてめっちゃパンク! 派手なステージングに俺のテンションも上がった。

 大阪行きの新幹線で初めてアキヲと向き合って話した。距離が少し縮まった気がした。


Taxman - Secret Goldfish 1992 @ CLUB CITTA'


祭りの後

 心斎橋のワンマンも無事に終え、シークレットはさらに勢いづいた。が、元来気性の荒い個性的な集団だっただけに、ぶつかり合いも多々あった。若さだけのせいにはしたくないが、未熟でアホやった。俺も独善的だった。
 祭りはいつかは終わるものだが、神輿の上に乗ったまま、知らない間にそれは終わっていた。バンドもメンバー・チェンジをしながら、音楽の新しいトレンドが毎月現れる、激流のようなシーンのなかで抗った。次第にメンバー同士が会う機会も減った。
 正式に解散したわけでもなくフェード・アウトしていく。それは単に、皆がそれぞれ違う音楽や表現手法に興味が向かっただけだった。無責任ではあるが、ごく自然なポジティヴな流れで、決して感傷的ではない。もともと皆新しもの好きだったのだから。


アメ村で見たフードラム

 暫くアキヲをはじめとするメンバーとは連絡を取り合っていなかったが、96年頃大阪に行った時、アメ村の三角公園前にある、アキヲが働いていた古着屋に立ち寄った。
 Hoodrumのメジャー・デビュー直後で、レコードショップでは専用コーナーも作られていた頃だ。アキヲがどんどん有名になっていくのは俺も嬉しかったし、誇らしかった。
 その店に立ち寄ったのも、単に一緒にいた仲間にアキヲの店だよ、と自慢したかっただけだが、レジのカウンター越しで怠そうに座っていたのはアキヲ本人だった。メジャー・デビューであれだけメディアに露出してるのに、普通に店番もしているなんて、まさにシークレット時代のアキヲのままだ。かっこ良すぎる。
 まだ携帯もメールもない時代。アキヲは当時と変わらず接してくれた。考えてみるとアキヲとは、過去から今に至るまで一度も衝突したことがない。それだけ大人だったんだな、とふと思う。
それ以来、時々また連絡を取り合うようになった。

 ミックス作業が上手くいかなくなった時などアキヲに聞くと、
「ミックスっちゅうんは一杯のコップと考えればいいんよ。その中で音をEQなどで削って、上手に配置するんやで」
 今ではAIでもやってくれるマスキングという作業についてだ。
 当時その情報は目から鱗だった。今でもミキシングの真髄だと思っている。


2000年の夏、河口湖にて。居候・山本アキヲ

 2000年の夏、アキヲが河口湖の俺の仕事場兼自宅に、2ヶ月ほど滞在(と言えばかっこいいが居候だな)することになった。その経緯は割愛するが、アキヲはちょっといろいろと精神的に疲弊していたんだと思う。俺も同じ経験をしているので、それは思い違いではないだろう。

「富士山をみると背筋が伸びんねん。叱られてる気分やわ」


2000-西湖にて富士山をバックにするアキヲ

 富士北口浅間神社では「今まで訪れた神社で一番空気が凛としてるわ」など気分転換になったと思う。慣れてくると自転車に乗って一人で河口湖を一周したり、俺の実家の父親の仕事を手伝ったりして汗も流していた。
 夜になると必ず一緒に音楽を爆音で聴きながら酒を呑んだ。湖畔の古民家だったので、夜中の大音量に関しては問題ない。まだSpotifyなどの配信は当然ない時代。俺のレコードやCDライブラリを聞いた。時には湖畔で夜の湖を眺めながら。
 日課のように聴いていたのは、B-52'sやThe Clash、JAPANやコステロなどのニューウェイヴ、他にもグレイトフル・デッド、ティム・バックリィ等々。音楽なら何でも。クラシックから民謡までも聴いたりした。Cafe Del Marを「品質がええコンピ」と紹介してくれたのもこの時期だった。

 酒が深くなると職業柄のせいか、制作側の視点へと熱を帯びながら話題も変化していく。例えばこんな感じに。

「The Clashの『London Calling』 (LP)のミックスは研究したけど、あれは再現不可能や。誰にも真似できひん」

「(Tanzmuzikの2ndのつんのめるようなリズムについて)あれはな、脳内ダンスなんや。頭の中で踊るんやで」

「(大量に持参した89年辺りの当時一番聴かないようなDJ用レコードについて)今は陽の目を見ないこれらの音楽を切り刻み、そのDNAを生かして再構築して再生させるんや」──その手法で作られたSILVAのリミックスには本当に驚いたのを覚えている。

「リヴァーブは使わんとディレイだけで音像を処理するんよ」

 アキヲには音のみならず、何事に対しても独特の哲学とインテリジェンスがあった。感心するほどの勉強家で、読書家でもあった。何冊かアキヲの忘れていった本があるが、どれも難しい評論や硬派な文学だった(吉本隆明著『言語ににとって美とはなにか』など)。
 例えば不動産の仕事に就けば、一年掛かりで宅建資格を取得して驚かせる。他の仕事に就いた時も常にそうだ。そして、楽しそうにその仕事のことを話す。とことん深く掘り下げる。高杉晋作の句に置き換えると「おもしろき こともなき世を おもしろく」を体現していた。

 俺たちはギターの渡部さん(渡部和聡)とアキヲと3人で、シークレット・ゴールドフィッシュとして4曲レコーディングした。2000年の夏の河口湖の記録として。


2000-河口湖のScretGoldfishスタジオにてくつろぐアキヲ


あの最高の感覚

 いつだったかアキヲがまた大阪から河口湖に来た際、旧メンバー数人でスタジオに入った。
 まず「All Night Rave」を合わせたのだが、その刹那、全身が痺れた。これだよ。この感覚。タツル(Dr)のドラムとアキヲの太くうねるベース。全員の息の合った演奏とグルーヴ。一瞬で時が巻き戻された。そう感じたのは俺だけではないはず。皆の表情からも伝わってきた。

 バンドは結婚と似ているというが、俺は今でもそう思う。シークレット以来パーマネントのバンドは組んでない。ごくたまにベースで手伝うことはあったが、まあ正直興奮はしない。だけど、このセッションではアドレナリンが溢れた。この快感が忘れられないからだったんだな。


山本アキヲとシークレット・ゴールドフィッシュ

 今回のアキヲの訃報で多く人の哀悼の言葉を読んだ。アキヲの音楽と人柄が愛されていることを知り、本当に嬉しかった。と同時にモニター越しに「厳然たる事実」を突きつけられ、不思議な感覚に陥った。3月から気持ちの整理を徐々にしているつもりだったのに。
 俺の知らないアキヲの側面を知っている仲間もたくさんいるし、各々がアキヲとの大切な思い出や関係性を持っている。近藤や宮城たちは謂わば幼なじみだ。その心中は俺には計り知れない。
 ただ、今こうしてシークレット・ゴールドフィッシュのメンバーと気兼ねなく電話やメールもでき、本当に幸せだと感じる。アキヲの訃報を直接口で伝え、アキヲとの馬鹿な思い出話を笑いながらできたことは良かった。ネットニュースで聞いたという形にはしたくなかった。
  バンドとしての在籍期間や活動期間は短かかったが、20歳そこそこの多感な時期、一緒に経験したあの密度の濃い瞬間は永遠だ。
 アキヲのマスタリングで過去のアルバムをサブスク(配信)に入れる話もしてたが、今後どうするかはまだ決めていない。

 アキヲは昨年から、河口湖にマンションを買って引っ越すつもりで調べていた。冗談なのか本気だったのかは、今となってはわからない。俺も地元の仲間も、その話には大歓迎だった。これからも酒を飲みながら音楽の話をしたり、一緒に制作したりする将来を楽しみにしていた。そういえば河口湖は第二の故郷だといっていたなあ。

 アキヲとの話はここでは語りきれないし、語らない。ただ、全部を胸に秘めておくだけでもいけない、ともう一人の自分が言う。アキヲという人間の一面を知ってもらうためだ。
 アキヲの音楽がそれを一番多く語ってくれている。そう、俺たちは音楽家だ。

「イズルも俺もミュージシャンやないねん。抵抗あるやろ? アーティストとか」
「音楽家や。今でも俺らはこうして音楽に携わっている。感謝せなあかんくらい、これってむっちゃ幸せなことやで」
 酒をごくりと飲む音と一緒にあいつの叱咤する声が聞こえた。

 最後にアキヲが言った一番嬉しく、一番心強かった言葉を記して終わることにする。
「イズルがシークレットやるって言うんなら、わしゃあいつでもやるで!」

 アキヲ、ありがとう。

2022年6月30日

三浦イズル(Secret Goldfish)


"All Night Rave" Secret Goldfish (12/07/15)


https://secretgoldfish.jp/
Secret Goldfish in 1991 ;
Drums:Tatsuru Miura
Bass: Akio Yamamoto
Guitar:Ken Nakahata
Vocal & Guitar:Izuru Miura
Dance & Shout: Shintaro Kondo
Synth & Sampler: Takehio Miyagi

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アキヲさんとの思い出のいま思い出すままの断片
文:Okihide

■出会った頃

 たぶん91年かそこらの、なんかやろうよって出会った頃にアキヲさんが作ってくれた「こんなん好きやねん曲コンパイルテープ」。当時みんなよくやった、その第一弾のテープには、そのちょっと前にくれたアキヲデモのテクノな感じではなく、フランス・ギャル(お姉さんからの影響だと、とても愛情を込めて言っていた)やセルジュ・ゲンズブールの曲が入っていた。僕がシトロエンに乗っていたのでフレンチで入り口をつくったのか、そこからのトッド・ラングレンの“ハロー・イッツ・ミー”や“アイ・シー・ザ・ライト”、その全体のコンセプトが「なんか、この乾いた質感が好きやねん」って、くれたその場のアキヲの部屋で聴かせてくれた。その彼は当時タイトに痩せながらもガタイが良く、いつものピチピチのデニム、風貌からもなんとなくアキヲさんは乾いたフィーリングを持っていて、で、その好きな音への愛情や気持ち良さをエフェクトのキメや旋律に合わせて手振り身振り、パシっとデニム叩きながら、手で指揮しながら語ったくれた。
 その部屋には大きな38センチのユニットのスピーカーがあって、周りを気にせずでかい音で鳴らしてたのは僕と同じ環境で、その音の浴び方もよく似ていたが、昭和な土壁の鳴りは乾きまくってて、そんなリスニングのセッティングもアキヲさんの一部だった。
 そのテープの最後に入っていたYMOは、彼が少年期に過ごしたLA時代に日本の音として聴いたときの衝撃について話してくれた。初期のTanzmuzikに、僕がよく知らなかった中期のYMOへのオマージュ的な音色がときどき出てくるのも、こうした出来事があったから。
 そんなことがあって、アキヲさんには、その体格を真似できないのと同じように、真似できない音楽的感性の何かがあって、そこにはお互いに共鳴するものがあると気づいて、リスペクトする関係になった、そんな初めの頃のエピソードを思い出す。

 〈Rising high〉 のファーストが出て、やっとお互いいちばん安いそれぞれ違うメイカーのコンソール買って、少しは音の分離とステレオデザインがマシになったけど、それまではほんとにチープなミキサーと機材でやっていた。そのチープ機材時代の印象的な曲として、“A Land of Tairin”という曲がある。アキヲさんがシーケンスやコード、ベースなど全ての骨格の作曲を作って、こんなん……って聴かせてくれたものに僕がエフェクトやアレンジを乗せた曲。このノイズ・コードをゲート刻みクレシェンドでステレオ別で展開させたいねん!って、アキヲさんに指と目で合図しながら、2人並んで1uのチープなゲートエフェクタのつまみをいじって、当時のシーケンス走らせっぱなしで一発録りしたのを思い出します。
 あの曲のそんなSEや後半〜ラストに入れたピアノは僕がTanzmuzikでできたことのもっとも印象的なことのひとつで、アキヲさんだからこそさせてくれたキャッチボールの感謝の賜のひとつです。


■最後の頃。

 こんなして思い出すとキリがないので、最後の頃。アキヲさんが亡くなる前の数ヶ月ほどは不思議とよく会いました。僕が古い機材をとにかく売って身軽になってからやりたいなぁ、って機材を売りにいくって言うと、着いてきてくれてね、帰りに大阪らしいもの食べよって 天満の寿司屋に連れてってくれて、そしたら「久々こんなに食べれたわ!」って8カンくらい食べたてかな、ありがたいわって。その前のバカナルのサラダも。
 帰りに2人で商店街歩いてたら、民放の何とかケンミンショーのインタヴュー頼まれて、断ったけど「危ないわ、こんなタンズて」って笑ってて。

 たぶん最後に会ったときなのかな、気に入って買ったけどサイズ合わへんし、もしよかったら着てくれへん?ってお気に入りのイギリスのブランドの僕の好きなチェックのネルシャツを色違いで2枚。おまけに僕の両親に十三のきんつばも。
 で、最後のメールは、僕におすすめのコンバータのリンクだったと思います。
 彼はもちろん平常心、良くなるはずでしたから、マスタリングの仕事からそろそろ自作をと、ギターやベースも買ったばかりで意気込んでたし、なかなか音に触れない僕にも常に機材や音の紹介をしてくれていました。
 そんなことともに、僕のなかのアキヲ臭さっていうのは、クセのある人でパンクで短気であると同時に、20代の頃から僕と違ったのは、ことあるごとに、〇〇があってありがたい、〇〇さんには感謝やねん、って僕によく言っていたことで、アキヲさんは僕の感謝の育ての親でもあると今さら思うのです。 
 彼が面白がって興味を持った作曲のきっかけになったモチーフには、彼なりの独自な愛情が注がれてます。ターヘル名義のハクション大魔王やタンツムジークのパトラッシュ(たまたま思い出せるのがアニメ寄り)……、色々あるけど、アキヲさんの曲を聴いてる人のなかで産まれるおもしろさや気分を覗いてみたい気分にもなってきました(笑)。音楽は不思議です。アキヲさんと、アキヲさんの音楽に感謝。


■トラック5選


Dolice/Tanzmuzik
アルバム『Sinsekai』のあと、追って〈Rising high〉から出た5曲入りEPのなかのB1の曲。アキヲさんのセンチメンタルサイドの隠れ傑作と思ってます。〝最終楽章” のたまらん曲!です。実はデモはもっとすごくて、なにこれ!って絶賛するも再現なく、「あれ、プロフェットのベンダーがズレてたわ……」



Countach/Akio Milan Paak
着信音にしたい、この1小節。



Mothership/SILVA..Akio Milan Paak Remix
Silvaのリミックス、強いキックの隙間にノイズの呼吸するエロティックなアキヲ・ファンクの特異点。これもデモテイクは下のねちっこいコードから始まって上がってそのまま終わってしまうという、もっと色気のある展開だったのに……


Classic 2/Hoodrum
Fumiyaのフィルターを通してアキヲさんが純化されたカタチの傑作と思う。PVによく表現されたベースラインもアキヲさんらしくたまらないし、他に絡む抑えの乾いた707(?)のスネアは707のなかでいちばんカッコいいスネア。あの当時の2人の僕のなかの印象を象徴する。
 ほかにも、“HowJazz It”のサックスとオルガンの〝お話”合いのような裏打ち絡みも好きだし、“Classic 1”は青春期の鼻歌アキヲ節全開な面あって、シークレットのイズルやトロンのシンタロー……アキヲの好きな旧友の顔が不思議と浮かんでくる。
 あと1曲挙げようと思ったけれど、いっぱい出てくるのでここまでにします。
 サブスクにもあまり出てこないマニアックな曲も多いけど、是非機会があれば聴いてみてください! Radio okihide が出来ればかけたい曲やテイクが山ほどあります。

 アキヲさん、ありがとうございます。

文:Okihide

Ginevra Nervi - ele-king

 中国の動画サイトに投稿されたグラム・ロックの映像にはたいてい「精神汚染」というタグが付けられている。中国メディア全体が華美なことに敏感なのである。パンデミック前には視聴者がファッションを真似するという理由で複数の宮廷ドラマが放送中止となり、コロナ禍で最高視聴率をマークした「乘風破浪的姐姐」というオーディション番組も槍玉に上がった。30歳を過ぎた女性アイドルが生き残りを賭けて競い合う同番組は「アメリカズ・ゴット・タレント」を少しばかりヒネった企画だけれど、確かに本家よりもセットは豪華だった。そのトバッチリというのか、バラエティ番組も放送禁止の対象になったというので「快楽大本営」という番組を探して観てみたところ、なんのことはない「王様のブランチ」に歌って踊るコーナーがくっついたものを公開収録でやっている程度のものだった。これぐらいでもダメなのか……と。しかし、僕が違和感を持ったのは華美ということよりも「乘風破浪的姐姐」や「快楽大本営」でステージに上がる芸能人たちがあまりにもスタイル抜群の美男美女だらけだったこと。たまに客席が映ると日本の70年代を思わせる冴えない相貌の男女が客席を埋めていて、そのギャップは歴然だし、芸能人になる条件としてあからさまにルッキズムが肯定されているのだなあと。韓国でも「日本の女優はあまり美人ではない」という論評が盛んだったところに「だけど、個性的な顔の方が作品は記憶に残る」という意見が出てきて、あまりに同じような顔の女優が韓国には多過ぎるという方向に話が逆流するなどルッキズムが対象化されつつある感じを覚えたりもしたのだけれど、中国はまだとてもそんな感じではないのだろう。

 イタリアからネットフリックスやアマゾン・プライムの音楽を手掛けてきたジネーヴラ・ネルヴィによるデビュー・アルバムは、台の上に立って、さも10頭身であるかのように見せかけた本人がジャケット・デザインを飾っている。ハリウッド俳優がちょっとばかり体重を増減させただけで「肉体改造」と称するのが最近は普通になり、そういったギミックも含めてルッキズムをバカにした表現なのは明白で、アルバム・タイトルも「外見障害」と訳せばいいのか、「見た目がめちゃくちゃ」とでも訳すのか。彼女の場合は身長が低いことで人生に面白くないことが多かったとか、見た目で判断されてきたことに異議があるということなのだろうか。具体的にはもちろんよくわからない。いずれにしろ誤読も含めてデザインで多くを語ることには成功している。少なくとも僕はこのジャケット・デザインの「見た目」が気になって聴いてみようと思ったし。予備知識がないということは先入観もゼロで中身に接することができる。短いスキャットとドローンのミックスでアルバムは幕を開け、ミニマルと優しいインダストリアル・ノイズを組み合わせた“Variable Objects”へと橋渡される。クラシカルの素養は感じられるものの、アルカやOPN以降のポップな音処理が前景化し、彼らのグロテスクな要素が苦手だった人には爽やかな変奏に感じられる内容といったところだろうか。3曲目は“Twelve”、4曲目は“Seven”、5曲目は“Nine”とヒネくれたタイトル・センスが小気味好く、10年代に実験的と感じられた傾向をどれもスタイリッシュなポップ・ソングへとリモデルし、先行時代の作品をメタで楽しく作り変えたという風情。そして、じょじょに自分の持ち味に慣れさせていく。

 実験音楽なのに、とても軽やかでポップな印象さえ残すという意味ではローリー・アンダーソンのデビュー・アルバムが脳裏をかすめる。何度か聴いてみると重い部分もあり、とくに後半は実験的な色合いを剥き出しにしていくものの、構成の妙でそこはリスナーをさらりと深みまで導いてしまう。以前はビヨークそっくりの曲などもやっていたようだけれど、このアルバムにその片鱗はなく、そういう意味では完全に独自のサウンドを掴んだ瞬間がパッケージされている。やかましいを通り越したジャングルのフィールド録音にまったく踊れないパーカッションを組みわせた“Twenty”や複数のミニマル・ミュージックを混ぜ合わせてポリリズム化した“Zero, Two, One”や同じく“Eleven”も新鮮。異なる2つの要素をミックスする時に「こんな発想はなかった」と思うわけではないのに「こんな曲はなかった」と思わせてしまうのはやはりセンスがいいからだろう。エディット能力が優れていたとされるナース・ウイズ・ウーンドとは同じ能力を持ちながら逆方向の美意識を発揮しているということかもしれない。ストリングスを何重にもレイヤーさせた“Anmous”、アルバム・タイトルと呼応しているのかなと思わせる“An Interior of Strange Beauty”にはブレイクで意表をつかれ、2曲目の““Variable Objects””を重くアレンジした“Stasiv V”を経て♪多元宇宙で私は解き放たれる~と歌うヴォーカル・メインのエンディングへ。すべてを壊して再構築に再構築、再生に再生するという夢の歌。とにかく発想が豊かで、曲がヴァラエティに富んでいるにもかかわらず、アルバム全体に統一感があり、なかなか感動の1枚である。

『The Disorder of Appearances』を聴いて僕は久々にアヴァン・ポップという言葉を思い出した。森田芳光やタランティーノが最初に現れた時の「あっ」という、あの感じ。瞬間風速だけが人生だぜ、みたいな。わざとなんだろうけれど、サウンドにはあまり奥行きがなくて、本音をいえば異なったミックスでも聴いてはみたいところ。そのせいなのか、オーディオを変えてみると異様につまらなく聞こえる曲もあり、僕と同じ再生環境にない人にはどう聞こえるのかはちょっと未知数。できればイコライザー満載のミキサーを通して聴いてみたい。

R.I.P.山本アキヲ - ele-king

 すでにニュースになっているように、山本アキヲが亡くなった。3月15日だから3ヶ月ほど前のことではあるが、ご親族の事情があったのだろう、発表されたのは昨日(6月20日)だったようだ。アキヲにとって最後のプロジェクトになったAUTORAのメンバー、高山純がSNSに投稿したことで彼の訃報がいま拡散している。
 ぼくが彼の死を知ったのは、数週間前だ。6月の上旬、いま京都で開かれているイーノの展覧会のために、久しぶりに関西に行くのだから、京都のオヒキデの蕎麦屋に顔を出して、それから大阪まで足を延ばして山本アキヲに会おうと、連絡を取るために動いて、その過程において知ってしまった。
 アキヲに最後に会ったのはかれこれ10年以上前の話で、宮城健人の案内で、ぼくが大阪は十三にある彼の実家を訪ねたときだった。アキヲの自家製スタジオのなかで、当時好きだった音楽の話しで盛り上がったものだ。変んねぇなーこいつ、と思った。だいたいこの歳になると、音楽関係の知り合いというのは、久しぶりに会ってもつっこんだ音楽の話なんかはしない。近況や身の上話であったり、人の噂話であったり、そんなものだったりする。だからあの男がいまどんな音楽をやっているのか、どんな音楽が面白いと思っているのか久しぶりに話したい、そう思っていた矢先のことだった。
 まあそんなわけで、しかし、ぼくには時間があったので、いまはもうだいぶ気持ちの整理はついている。それでもこうしてあらためて彼のことを思うと、やはり悲しくてたまらない。聞いた話では、昨年食道癌を患ってしまい、とはいえ病状は決して重たくなく、治療を続けながら本人は変わらず音楽に向き合っていたという。それが今年に入って急に悪化して、帰らぬ人になってしまった。
  
 山本アキヲは、1990年代初頭からつい最近まで、複数のプロジェクトやバンドで活動をしていた大阪の音楽家だが、彼のキャリアのなかでもっとも広く知られているのは、90年代の日本のテクノにおいて先走っていたプロジェクトのひとつ、タンツムジークとしての作品だろう。いまとなってはクラシックなアルバムとして名高い、1994年にロンドンの〈ライジング・ハイ〉からリリースされた『Sinsekai』(翌年ソニーからも収録曲の変更があって発売されている)だが、しかしリリース当初の日本では、ほとんど理解されなかった1枚だった。タンツムジークにとってテクノとは、ダンスフロアの4つ打ちに限定されるものではなかったし、彼らこそのちにエレクトロニカないしはIDMと呼ばれることになる自由形式のエレクトロニック・ミュージックの日本における先駆者だったといまなら言えるだろう。
 この先鋭的なプロジェクトは、大阪のインディ・ロック・バンド、シークレット・ゴールドフィッシュでベースを弾いていた山本アキヲと、京都のスネークヘッド・メンなどでエレクトロニクスを担当していた佐脇オキヒデとの出会いによって生まれている。かたやパンク上がりのミュージシャン、かたやクラウス・シュルツやリエゾン・ダンジュールに感化された電子機材マニア、このふたりのコンビネーションが初めてシーンにお目見えしたのは、1993年のことだった。
 もしこの先、日本の90年代を語りたいという若者が現れたら、1993年は日本のテクノ元年だったと記述するといいだろう。この年、日本のテクノ・シーンで重要な働きをすることになる人たちは、ほとんどが20代前半から半ばで(ぼくは20代後半だったけれど)、アンダーグラウンドにおいてなんだかんだで始動し、お互い出会ってもいる。たとえば、福岡では稲岡健がいちはやく〈Syzygy Records〉をスタートさせ、大阪では田中フミヤの〈とれま〉レーベルもはじまった。東京では、下北沢の小さなライヴハウスにおける永田一直のイベントでケンイシイが初めてライヴを披露し、たしかムードマンもテクノ・セットのDJをやったと記憶している。でまあ、ここには書き切れないくらい、ほかにもいろんな人たちのいろんなことがあったのだ、あの年には。個人的には卓球といっしょに『テクノボン』を出したり。

 以下、京都にて佐脇オキヒデと会ってきたので、彼の言葉も交えながら山本アキヲについて書いてみることにする。
 「初めて会ったのは、91年、いや、1992年だったのかな……、ぼくが大阪でライヴをやったとき、アキヲさんが『こういうの作ってるねん』ってテープをくれたんですよね。帰りの車のなかで聴いたら、打ち込み一年生みたいな荒い録音だったんですけど、コード進行が独特で、好きになったというか、なんか光るモノを感じたんですよ。で、『なんか一緒にやろう』ってすぐに電話したんです」
 「そっからお互い連絡取り合って、アキヲさんの家にも行きました。機材はまだ簡素なものだったけど、大きなモニタースピーカーがあって、あ、ぼくと同じだって。ヘッドフォンで作ってないというね。で、あるときアキヲさんが、『若いDJで、勢いがある鋭いやつがおるんねん』『その子がテクノのイベントをやるからライヴで出て欲しいって』、それが(田中)フミヤのイベントだった。そのライヴの話があったので、じゃあ“タンツムジーク”という名前でいこうということになって、そのライヴのために作った楽曲がやがて〈ライジング・ハイ〉から出る『Sinsekai』になるんです」
 「ある日突然ロンドンの〈ライジング・ハイ〉から(当時はメールなどないから)電話がかかってきて契約したいと。電話の後ろではタンツムジークの曲ががんがんにかかっていて、で、英語は喋れないからファックスにしてと言ったら、ファックスで20枚ぐらいの契約書が送られてきた」
 「内容的にはいまでも納得していないです。カセットでサンプル的に送ったつもりの音源まで収録されてしまったり。でも、作品を出せたことで、吹っ切れたところはありましたね。とくにアキヲさんは、すごく前向きな気持ちになっていました」

在りし日のタンツムジークのふたり。左にアキヲ。右にオキヒデ。アトム・ハートが好きだったから〈ライジング・ハイ〉に決めたという、その頃のアーティスト写真。

 そんなわけでタンツムジークは、デビュー・シングル「Muzikanova」こそ〈とれま〉からのリリースだったが、それから数ヶ月後には、当時もっとも影響力のあったレーベルのひとつと言っていいだろう、〈ライジング・ハイ〉から「Tan Tangue EP」が出ている。で、続いてくだんの『Sinsekai』も発売された。ちなみに、同アルバムの最後に収録されている“A Land Of Tairin”は彼らの代表曲のひとつで、作曲はアキヲ、彼の大胆な構成力とオヒキデのコズミックな電子音響とが絶妙なバランスで融合し、独特の美しさを携えているトラックだ。永田一直が「日本のテクノの名曲のひとつ」として、いまでもDJでかけているという話を、今回京都で同席してくれた稲岡健が教えてくれた。
 「アルバムに収録されている曲は、それぞれが作った曲もあるんですけど、アキヲ君が作った曲にぼくが手を加えた曲やふたりでアレンジした曲が多かったですね。アキヲさんはね、作りはじめのスケッチの段階からぼくに聴かせてくれるんですよ、『こんなシーケンスできたんやんか』って。だからアレンジもやりやすくて、お互い話しながら、それこそ機材の前にふたり並んで、楽しく作れた。“A Land Of Tairin”なんかは、そうやってできた曲です」
 「“踊れない音楽”というコンセプトやねん」、これがアキヲがタンツムジークというプロジェクト名に込めた意味だったと、オキヒデは言う。当時はまだ、踊れない音楽はテクノにあらずというほどダンス至上主義が幅をきかせていた時代だったから、これはずいぶんと皮肉の効いたネーミングだった。稲岡健がそこにこう付け加える。「アキヲは、自分で言うときにはタンツムジークとは言わず、大阪のアクセントで“タンズ”って言うんですよ。『あのさ、タンズのことやけど〜』みたいに。それが“ひとつの音”としてずっと印象に残っていて」

 1994年だったと思う。稲岡健が福岡で主催した(閉店したキャバレーをスクワット状態で使っていたクラブ〈θ(シータ)〉での)テクノのパーティで、タンツムジークのライヴと、お恥ずかしい限りではあるがぼくのDJというのがあった。大阪から福岡の会場まで、車を載せた機材といっしょにフェリーに乗ってやってきたふたりは、その当時の日本のテクノ・シーンの基準で言えばかなり実験的な(つまり当時の基準で言えば踊りやすいとは言いがたい)サウンドを容赦なく演奏し続けていたのだけれど、大方の予想に反して福岡のオーディエンスは狂ったように踊った。「俺らの音楽で人があんなに踊ってるの、初めて見たわ」と、ライヴが終わった後にアキヲが嬉しそうに話していたことをぼくはよく覚えている。

フェリーに乗って大阪から福岡に向かうふたり。「オッキー、今度せっかく九州行くから、フェリーのらへん? 楽しいやん」

 しかし、日本全体が福岡ではなかったし、海外レーベルからデビューした日本人としては、ケンイシイ、横田進、サワサキヨシヒロに続く4番手だったタンツムジークの音楽は、ごく一部のファンを除いて、広く理解されたことなどいちどもなかった。山本アキヲはそれから数年間は〈とれま〉を拠点に、Akio Milan Paak名義でダンスフロアで機能するダンス・トラックを、それからオキヒデが「その構成力に驚いた」というTarheel名義でもソロ活動を走らせ、さらに田中フミヤとはHoodrumを結成したが、これは途中で脱退している。タンツムジークとしては1998年にセカンド・アルバム『Version Citie Hi-Lights』をリリースしたり、シーンにいたほかの当事者たちもそうだったが、90年代は突っ走っていたと思う。そんななかで、うまくいっても、うまくいかなくても、アキヲは会うといつも変わらず優しい男だった。
 「アキヲさんは本当に優しい。独特の礼節があって、死ぬ直前まで、ぼくの家に来るときは『これ、おっちゃんとおばちゃんに』って、十三の名店のお菓子を手土産に持ってくるんですよ。『アキヲさんは本当に優しい顔をしているね』って、ぼくのオヤジとお袋も言うんですよ」とオキヒデが話すと、ことあるごとにアキヲと会っていた稲岡もまた「アキヲ君は本当に優しい奴だったな」と同意する。おそらく、1990年代以降、アキヲと出会ったほとんどの人たちは同じような感想を持っているだろう。

 彼には、自分の音楽が評価されていようといなかろうと、そんなことはかまわないというようなところがあったし、注目されていようといなかろうと、彼は彼の音楽を続けていた。2000年代に入ってからの山本アキヲは、高山純とのAUTORAで作品を出しつつ、マスタリングエンジニアとしても忙しくしていたという。レイハラカミの再発盤はすべてアキヲによるマスタリングで、オキヒデが言うには、ずいぶん悩みながらがんばっていたそうだ。「病気になったのは去年の秋だったけど、死ぬ直前まで機材のことで話しに来たり、アキヲさんとはずっと会っていました。今年こそ自分の作品を作るって言ってたんですけどね……」
 山本アキヲがずっと好きだったという、リッケンバッカーのギターとベースも購入したばかりでもあった。「こんなカッコいいやろ」とオキヒデに写真を送って、「このギターな、初めて買ったときオヤジにへし折られたんやで」、そう言って大笑いしていたと、なんだか彼らしいエピソードだなとぼくは思った。
 
 オキヒデは、Silvaの「ヌード」(1999年)に収録された“Mothership”という曲のAkio Milan Paak名義によるリミックス(Spaceship in the Gottham City)が推し曲のひとつだと言う。たしかにこれは、2000年代初頭のオウテカにも通じる異次元ファンク・サウンドだ。この12インチ・シングルをいま見つけるのは困難かもしれないが、時代のなかで、タンツムジークの諸作は立派に再評価されている。残された3枚のアルバムはどれもが必聴盤だが、ぼくがとくにずっと好きなのは『Scratches』だったりする。アキヲ/オキヒデ名義でリリースされた遊び心あるこの朗らかなアンビエント・タッチのアルバムは、いつ聴いてもぼくを良い気分にしてくれるのだ。アートワークが表しているように、ここにはタンツムジークの明るい側面、ロマンティックな一面が記録されている。稲岡健は、このアルバムのなかの1曲に共作者(インスパイア元)としてクレジットされているが、それを言うと、「このアルバムは自分にとってふたりとの友情の証のような大切な宝物なんです」と語ってくれた。
 
 90年代の日本のテクノ・シーンには、それはそれは、ものすごいエネルギーがあったことを、ぼくはいまここであらためて言いたい。基本インディ・レーベル主体でDIYだったし、自分たちの居場所は自分たちで作るしかなかった。あの頃は、自分の売り込みではなく、自分のまわりで面白い音楽を作っている人の作品を一生懸命プロモートする人たちが何人もいた。90年代のテクノ・シーンを盛り上げたのは、ほかでもない、そういう人たちだった。ビジネスにしようなんて考えていたのはほんの僅か。大いなるアマチュアリズムの時代、それを美化するつもりはない。悪く言えばウブで、よく言えばイノセント、ただ好きだからやっているという基本にとにかく忠実だったというか、それでしかなかった。
 山本アキヲはまさにそういうシーンのなかにいた、大切なアーティストのひとりだった。彼はただ、それが好きだからやっていたし、それ以上でもそれ以下でもなかった。芸術的な野心はあったにせよ、音楽でメシを食うにはあまりにも優し過ぎる男だったと言えるのかもしれない。
 あの時代、ぼくは彼とプライヴェートでもけっこう話しているので、アキヲがどんな思考を持っていたかはだいたいの見当が付いている。山本アキヲはパンク的なものを愛していたし、社会的弱者の味方であろうとしていたし、本物の平等主義者だった。そして、ひょっとしたらじつはものすごくセンチメンタルな内面を持っていたのではないのだろうかと思うことがあったが、その感傷性を絶対に表に出さないことが彼の流儀でもあったように思っている。

 それにしても早すぎたぞ。君がいなくなって、君と出会ったみんなが悲しんで、寂しがっていることをわかっているのかな。それから言っておくけど、君の音楽は永遠だ。若い世代からも、君へのリスペクトはこんなにもたくさんある。山本アキヲと出会えて本当に良かったよ。ありがとう。そしてお疲れ様でした。(敬称略)

2019年ぐらいのふたり。

Mary Halvorson - ele-king

 ぼくぐらいの世代、ないしはそれ以降の雑食性リスナーになると、だいたい若い頃にいちどは阿部薫にハマって、で、ジャズをもっと聴きたいと追求している過程においてアンソニー・ブラクストンの『フォー・アルト』に行き着いたりする。1969年に発表されたそのアルバムは、初めて聴いたときは雷に打たれたような衝撃を受けるもので、まずは壮絶なテクニックとその表現力に圧倒され、そして“ジョン・ケージへ”や“セシル・テイラーへ”といった象徴的な曲名に好奇心がかき立てられもする。歴史的に言えば、そもそも伴奏無しのサックス1本による演奏のみでアルバムを作ってしまうという思い切った試みはこれが最初なのだ。しかし、『フォー・アルト』は感性に身をゆだねて生まれた感覚的な音楽ではない。ブラクストンは理論家で、彼の演奏には彼のシステム論的な根拠がある。
 シカゴのサウスサイド(ハウスやフットワークの故郷でもある)に生まれ、AACM(アート・アンサンブル・オブ・シカゴの母体にもなった前衛ジャズ研究団体)の初期メンバー、つまりジェフ・パーカーの先輩筋にもあたるブラクストンは、恵まれた家庭環境ではなかったし、経済的な理由からたびたび大学を辞めているが、学ぶことを諦めなかった人物だった(70代半ば過ぎのいま現在でも彼は自らを学ぶ人と言う)。おもにジャズと現代音楽の影響を吸収し、クラシックのオーケストラのための曲も書いているブラクストンは、独自の音楽システム理論のいくつかを発明したことでも知られている。彼の(ぼくには難解きわまりない)音楽理論は書にも表されているが、キャリアの途中からは本人が大学で教鞭を執ってもいる。1990年から2013年まではウェズリアン大学で音楽の教授を務めており、おそらく、任期の最後のほうの教え子のひとりがメアリー・ハルヴォーソンだ。
 
 彼女にはすでに膨大な作品があり、ぼくはそれを網羅している者ではないので書くことは限られてしまうが、彼女が『コード・ガール』を発表してからは、ハルヴォーソンの音楽は即興マニアだけのものではなくなっている。かつて『Wire』誌から「書店員のように静かで親切」と形容された彼女だが、活動は精力的に継続しており、作品のリリースが途絶える気配はまるでない。いままさに彼女は乗っている時期にいるのだろうけれど、この度リリースされた『アマリリス & ベラドンナ』(CDと配信では『アマリリス』と『ベラドンナ』のダブル・リリース、アナログ盤ではその2枚のカップリング)は、一連の彼女の前衛作品のなかにおいて、より多くの人を酔わせる瞬間が多く、より多くのリスナーに開かれた作品となっている。〈ノンサッチ〉からのリリースというのも関係しているかもしれない。大作ではあるが、まあ、平たく言えば入りやすいアルバムなのだ。

 『アマリリス』は彼女にとって新しい六重奏団による演奏で、こちらは全体を通してジャズ的と言える。もっとも1曲目の“Night Shift”が素晴らしいのは、それがジャズ的だからではない。それは空に舞い上がる花弁のように、華麗で、心躍っているからだ。ハルヴォーソンの軽やかなギターとセクステットの楽しげな演奏は、この音楽が理論のためのものではないことを告げている。ストレートな演奏の表題曲の疾走感もみごとだし、“Hoodwink”はいまならアンビエントなどと形容できる曲だ。
 当然のことながらハルヴォーソンの実験精神と革新的なギター演奏は随所に見られるが、彼女のほかの作品同様、ラディカルなスタンスが刺々しいとは限らないし、基本的に彼女の音楽は洗練されている。実験的だがエレガントで、彼女はぼくたちに音楽の感じ方の柔軟性を示しているようにも思える。こういうのもありますよと、まさに親切な書店員のように。
 『アマリリス』のアイデアを弦楽四重奏として発展させたのがもう1枚の『ベラドンナ』で、NYで暮らすハルヴォーソンはロックダウンの最中、もてあます時間をオーケストレーションの勉強(および本作の記譜)に当てていた。その成果がここには発揮されているというわけだ。『アマリリス』よりも静的な作品になっているが、息を呑むほど美しいのはこちらかもしれない。

 ぼくがアンソニー・ブラクストンに興味を覚えたのは、彼の音楽がときに黒人らしくないと批判されてきたからだった。その点において黒人音楽史におけるブラクストンは、Pファンクやデトロイト・テクノと似ている。おまえの音楽にはソウルがない、おまえは黒人ではない、おまえが好きなのはエドガー・ヴァレーズだ、そう言われてきたブラクストンは一時期はジャズから追い出され、自らも自分の音楽はジャズではないと主張し続けていた。時代的に言えば、60年代に黒人音楽家がシュトックハウゼンを愛することは、80年代に黒人でクラフトワークを愛することよりも冒険的で、未来的だった。
 ハルヴォーソンは『Wire』誌のインタヴューで「先生は、信じられないほどオープンマインドだった」と述懐している。サン・ラーなら話はわかるが、レディ・ガガまで受け入れていたというその寛容さは、ハルヴォーソンの音楽の風通しの良さにも通じているのだろう。音楽の大衆性を忘れずに実験するということの、じつに優雅な表現力を持った音楽となって。『ベラドンナ』に収録されている“Flying Song”を聴いて欲しい。音楽における温かみには、こんな描き方もあるのだ。

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