「OTO」と一致するもの

坂本龍一、Alva Noto、Bryce Dessner - ele-king

 なんと厳しくも、美しい音楽だろうか。まさに極寒の音響空間。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の映画『ザ・レヴェナント 蘇りし者』のサウンド・トラックのことである。

 本作を生み出した音楽家は、坂本龍一、アルヴァ・ノト、ブライト・デスナーの3人。坂本龍一ファンでもある監督から坂本個人にオーダーがあり(『バベル』では“美貌の青空”が使われていた)、坂本がアルヴァ・ノト=カールステン・ニコライに協力を求め、さらに監督がオーケストラ的要素としてブライト・デスナーを起用したという。 ここでは中心人物である坂本龍一に焦点を当てて分析してみたい。

 坂本龍一の音楽には、大きく分けて2つの系譜がある。ひとつはリリカルで叙情的なメロディと浮遊感のある和声で、20世紀フランス印象派、ドビュッシーの系譜に繋がる作曲家の系譜。もうひとつは、未知の音色と音楽を希求して追求する実験的な音楽家としての系譜である。

 このふたつは、坂本龍一という音楽家のなかで分かち難く一体化しており、氏のソロ.・アルバムにおいては、フランス印象派風の響きと電子音楽から無調、未来派によるノイズまで、近代から20世紀以降のあらゆる音楽的な実験のエレメントや、アフリカ音楽から沖縄民謡までの非西欧音楽などが交錯していく。それは初期の『千のナイフ』『B-2ユニット』から近年の『キャズム』『アウト・オブ・ノイズ』まで変わらない。

 いわば巨大な音楽メモリ/装置としての存在、それが坂本龍一なのだ。その意味で、氏は言葉の真の意味でポストモダンな音楽家である。氏は自身に「根拠がない」ことを繰り返し語っていた。ゆえに「外部」が必要になるとも。だからこそ坂本龍一にとって「外部」としてのコンピュータが重要であり、それは「電子音楽」への追求でもあった。自己を相対化すること。じじつ坂本龍一の先鋭的な個性はコラボレーションやサウンド・トラックに表出しやすい。『エスペラント』、『愛の悪魔』などなど。

 だが「外部」はコンピュータに限らない。真の「外部」は「人」ではないか。それゆえ彼は多くのコラボレーションを実践してきた。カールステン・ニコライやクリスチャン・フェネス、テイラー・デュプリーなど電子音響/エレクトロニカのアーティストとのコラボレーションなどは、コンピュータが「外部」というより、自分の拡張デバイスとなった時代において、当然の帰結であったのだろう。そもそも彼らの音楽は、人との聴覚を拡張するアートであったのだから。

 なかでも『Vrioon』以来、10年を超える共闘を続けているカールステン・ニコライ=アルヴァ・ノトとの仕事は重要である。音の建築の中に、微かなポエジーとロマンティシズムを称えるカールステンの作品と、坂本との音楽性との相性は(意外にも)良い。残響の果てに溶けあうノイズへの感性が共通するからだろうか。

 そのふたりの新作が本作だ。真冬の、身を切るような、氷の音響。ここでは弦も、電子音響も、音楽の消失点に鳴るような過酷なノイズを生成している。オーケストラとの共演という意味では、2008年の『utp_』を思わせもするが、それよりも遥かに厳しい音のタペストリーだ。

 1曲め“ザ・レヴェナント・メインテーマ”のギリギリまで和声が削ぎ落とされた響きが、本作のトーンを決定していく。まるで絶望の中の光のような音楽。背後に微かに鳴る電子音も素晴らしい。2曲め“ホーク・パニッシュ”はアルヴァ・ノトとブライト・デスナーの曲だが、メインテーマの変奏であるのは明確だろう。3曲め“キャリング・グラス”は坂本とアルヴァ・ノトの共作で、微かな記憶の片鱗のような電子音に、硬質な弦、砂塵のような電子ノイズが折り重なる。5曲め“キリング・ホーク”は坂本単独曲で、『愛の悪魔』を思わせる低体温の電子音に、鋭くも厳しい弦楽が鳴り響く。また、坂本単独曲の13曲め“ザ・レヴェンタント・テーマ2”、“ザ゙・レヴェナント・メイン・テーマ・アトモスフェリック”で聴かれる香水のような芳香を放つピアノも美しい。19曲め“キャット&マウス”は坂本龍一、アルヴァ・ノト、ブライト・デスナーの共作で、電子音からオーケストレーション、アフリカン・リズムが交錯し、音楽史と音楽地図と越境するような刺激的なトラックに仕上がっている。3人の共作では、電子ノイズと打楽器と弦楽が拮抗しあう“ファイナル・ファイト”も緊張感も印象的だ。

 どの曲もサントラの機能性を保持しながらも、しかし独立した楽曲として素晴らしいものである。オリジナル・アルバムとしてカウントしても良いのではないかと思うほどに(『エスペラント』がそうであるように)。

 とはいえ、このような音楽作品に仕上がったのは、やはり「映画」という「外部」が重要に思えるのだ。映画とは監督のものだ(もしくはプロデューサー?)。そこでは音楽家は否が応でも、映画というプロジェクト=「外部」と接することになる。ことイニャリトゥ監督は音楽に拘りを持っている映画作家であり(氏はメキシコでDJもしていたという)、『バードマン』では、アントニオ・サンチェスのドラム・ソロ・トラックを映画音楽のメインに据えるという革新的なことを成し得たほど。つまり音楽への要求は(異様に)高いはず。

 じっさい、その音楽制作は度重なる修正などが6ヶ月ほどに渡り続くという過酷なものであったようだ。加えて坂本は重病の治療から復帰したばかりでもあった。いわば映画という「外部」、病という自身の身体に起きた「外部」という二つの状況のなかで、本当に大切な響きを吸い上げるように、音を織り上げていったのではないか。そこにおいて「外部」としてのコラボレーターの存在は、暗闇を照らす光のような存在だったのではないかとも。

 じじつ、坂本は素晴らしい共演者と巡り合うことで、自身の音楽の深度をより深めてきた音楽家である。このサウンド・トラックの仕事はたしかに過酷であったのだろうが、しかし、生み出された作品は、氏のディスコグラフィにおいて、ほかにはない「光」を放っている。ギリギリまで和声を削いだ響きに、苦闘の果てのルミナスを聴くような思いがするのだ。それは命への光、のようなものかもしれない。

 急いで付け加えておくが、このアルバムにエゴは希薄だ。外部としての映画。外部としてのコラボレーション。相対化し複数化する個。カールステン・ニコライ、ブライト・デスナーらという共演者と音楽は、それぞれの音の層が重なり合い、電子音響でも、アンビエントでも、クラシカルでもない音響を生み出していく。あえていうならばサウンドスケープだ。個がありながらも、個が消え去り、ただ音響が生成すること。

 日本盤ライナーでカールステン・ニコライがタルコフスキーの名を出していたが、たしかに本作には「ポスト・タルコフスキー的宇宙」とでも称したい、現実の世界との音響の境界が消えゆくような音楽の未来=サウンドスケープが鳴り響いているように聴こえてならないのだ。

Washington square park 4/13 - ele-king

 選挙キャンペーン #BerninUpNYC - Get Out the Vote (GOTV) Party & more
 以下、ワシントンスクエア・パークのバーニーショー(サンダース応援コンサート)の模様です。ヴァンパイア・ウィークエンドとダーティー・プロジェクターズが演奏、ものすごい人です。ヴァンパイア・ウィークエンドはバーニーショーに出るのはこれで3回目。

PHOTOS:via Brooklyn vegan



Dirty projectors


Vampire weekend & dirty projectors


Vampire weekend






 日本で優雅に桜を見て、4/5にNYに戻ると、周りは選挙モードがいっきにヒート・アップしていた。
 ご存知の通り、2016年はアメリカ大統領選挙の年。民主、共和両党の候補者指名争いが佳境を迎え、3/1の「スーパー・チューズデー」で民主党はクリントン氏、共和党はトランプ氏がリードした。7月の全国大会で両党の候補者が決まるが、その前、4/19は、NY州での予備選挙(プライマリー)がある。
 ニューヨーク州上院議員を務めたヒラリー氏(お住まいはNYのアップステイト)、NY市のブルックリン生まれのサンダース氏(以下敬称略)、どちらにも所縁のあるNYで、両方の民主党のキャンペーンがピークに達している。

 私はインディ・バンドを追いかけているので、どうしてもバーニー寄りになるのだが、4/1からバーニー・サンダーズのNYラリーが始まった。
https://berniesanders.com/new-york-rallies/
 上のリンクはオフィシャルで、細かいNYCラリーが沢山ある(ワシントン・スクエア、パーク・スロープ、ロングアイランド・シティなど)。4/1にはブロンクス(18,000集客!)、4/8のお昼には、彼の生まれたミッドウッド、そして5時からグリーンポイントのトランスミッター・パークでラリーが行われた。グリーンポイントには寒い中、1000人以上のオーディエンスが集まった。


Supporter at greenpoint (Photo via gothamist )


Crowd at transmitter park greenpoint (Photo via gothamist )


Supporter in mid wood (Photo via gothamist )


Sarandon & Sanders (Photo via gothamist )


Kid at transmitter park(Photo via gothamist )


BerninUpNYC event Outside

 女優のスーザン・サランドンが「あなたは今、歴史の一ページにいます。誇らしいことです」と、バーニーを紹介し、NYの選挙が彼にとってどれだけ大切か、みんなのサポート、エネルギーで、勝利を勝ち取りたいと力強く呼びかけ、オーディエンスから拍手喝采を浴びていた。
 ラリーは引き続き我がブルックリンでも続いていて、4/19まで、いろんなところでバーニー・パーティが開催されている。4/12にはブシュウィックのlot45というインディ・バンドが良くショーをするスペースで「#BerninUpNYC - Get Out the Vote (GOTV) Party」が行われた。伝説の(テイトウワが在籍したことでも知られる)deee-liteのレディ・ミス・キアがDJ、ほかにも多くの心に響くスピーカー、ゲスト、選挙キャンペーン・チームなどが参加した。
 外は、大勢の警察が動員されセキュリティを管理。IDを見せると、バーニーの似顔絵の入ったオリジナル・スタンプを押してくれる。手前のラウンジは、ボランティアを呼び掛けるテーブル、バーニー・グッズの販売、フォトブース、寄せ書き、ポスターなどで投票を呼び掛け、スタッフも参加者も、思い思いのバーニー・コスチュームを身につけている(ハロウィン状態!)。

 ダンスフロアではスピーチが行われ、オーディエンスに自分たちのアメリカを変えよう、と訴えかけ、その度に拍手喝采や野次が飛び、ふと、スーパーボウルを思い出した。この団結力が、アメリカなのだ。
 「#BerninUpNYC」、「#FeeltheBern」, 「#GOTV」などのハッシュタグを使ってソーシャルメディアで拡散して、と呼びかける。
 ダンス・パーティも抜かりない。DJが良いのはもちろん、思わずダンスしたくなる選曲で、みんなをチアアップする。そして後ろに流れる、ビジュアル・ミックスの素晴らしさ! バーニーの演説やヒラリーとの絡みの映像はもちろん、バーニーのイラストをぺーパーラッド(https://paperrad.org)が加工したのか?、というカラフルな映像や、バーニーの顔だけが本物で下半身がヒゲダンスしているなど、詳細ミックスも凝っていて、この日来ているみんなはかなり熱かった。
 また、バーニーの支持者にはヒップスターが多く、ヴァンパイア・ウィークエンド、TVオン・ザ・レディオ、グリズリー・ベアなどのインディ・バンドも、バーニーのためにショーをする。

 とは言っても、ヒラリー支持者もいるわけで、こんなバーニーなNYで、ヒラリー支持者は肩身が狭いが「それもあり」と支持者を釣る「chillarynyc 2016」(https://www.facebook.com/events/531816170312368/)というイヴェントもある。
 4/19がどうなるか、今週末も選挙イベント満載なNY、私は今からヴァンパイア・ウィークエンド。、ダーティー・プロジェクターズ、スパイク・リー、グレアム・ナッシュなどが出演する、ワシントンスクエア・パークのラリーにいってきます。


ChillaryNYC event poster (Via Bedford & bowery)

Yoko Sawai
4/13/

interview with Hiroshi Watanabe - ele-king









Hiroshi Watanabe

MULTIVERSE


Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse



Amazon


 人生には何が待っているかわからない。当人にとっての自然な流れも、はたからは意外な展開に見えることがある。ヒロシ・ワタナベといえばKaito、KaitoといえばKompakt。Kompaktといえばドイツのミニマル・ハウス、ポップ・アンビエント、水玉模様……ヒロシ・ワタナベといえばKaito、Kaitoといえば子どもの写真、美しい風景、クリーンな空気……。

 しかしヒロシ・ワタナベのキャリアは──90年代半ばのNY、DJピエールのワイルド・ピッチ・スタイル全盛のNY、エロティックでダーティーなNY、それは世界一ハードなクラバーのいるNY──そこからはじまっている。

 そして2016年、彼はデリック・メイのレーベル、──デトロイトの名門中の名門とでも言っておきましょうか──、〈Transmat〉から作品をリリースする。アルバムは『MULTIVERSE(マルチヴァース)』というタイトルで、12インチEPはすでに出ている。EPのほうは〈Transmat〉からの初の日本人作品という話題性もあって、あっという間に売れたし、好評だった。アブドゥール・ハックによるアートワークも良かった。

 それで『MULTIVERSE』だが、これはヒロシ・ワタナベらしい繊細さをもちながら、じつにパワフルで……というか寛容さと力強さを兼ね備えていて、些細な瞬間に大きな喜びを見いだすことさえ可能な、前向きな心によって生まれた作品であることは間違いない。人生に挫折した男も女もふと空を見上げ、ひょっとしたらこの苦境を乗り越えられるかもしれない、そう思うだろう。

 これを〈Transmat〉サウンドと呼ばずして何と言おうか。初期ヒロシ・ワタナベが荒々しいダンスの渦中で生まれた音楽なら、Kaitoはダンスフロアに草原の清々しさを吹き込む音楽、そして『MULTIVERSE』は……こうも言えるだろう、デリック・メイとの二人三脚で生まれた音楽であると。

 このインタヴューではヒロシ・ワタナベの20年以上のキャリアを振りながら、彼のダンス・ミュージック/電子音楽への考え方を紹介している。長い話だが、初めて聞けることばかり。デリック・メイとの熱い(!)やり取りのところまで、どうぞお付き合い下さい。


2016年正月の神戸公演にて。

理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

今回の新作、表面的には「〈コンパクト〉から〈トランスマット〉へ」──という風に見えると思うんですよ。やっぱりカイト名義の〈コンパクト〉からの作品は、ある時代(2000年代の最初)を象徴するものでもあったし、その印象がまだ強いんじゃないでしょうかね。

ヒロシ・ワタナベ(以下、HW):たしかに、長い期間やってきましたからね。

〈トランスマット〉から日本人が出るらしい、それがヒロシ・ワタナベって知ってびっくりする人は少なくなかったと思いますよ。

HW:でしょうね。

ただ、ちょうど2000年代に入ったばかりの頃、ぼくがデトロイトに行ったとき、車のラジオから〈コンパクト〉が流れてきたことがあったんですよね。ラジオのDJが「コンパクトからの新譜で〜」みたいな紹介の喋りがあって、あのミニマル・ハウスがかかるみたいな。

HW:意外というか、オープン・マインドというか。

そういう意味でいうと、今回のヒロシ・ワタナベの〈トランスマット〉リリースも、ヨーロッパ経由なわけでデトロイトと繋がらなくはないんですよね。だって彼らはヨーロッパ大嫌いで大好きじゃん。

HW:ヨーロッパのひとたちも、アメリカのシーンに絶対に興味を持っているけど、アメリカという国に対してはめちゃめちゃアンチだったりする。
 ぼくが結果的にデトロイトの〈トランスマット〉からのリリースにたどり着いた経路にも、不思議で面白いところがあるんです。ぼくは、もともとはボストンで大学に通いながらダンス・ミュージックを作りはじめたんですね。メインストリームも消化しつつ、自分なりの音を探っていたんですが、それがのちのちクァドラ(Quadra)というプロジェクトになっていきます。で、卒業後にボストンからニューヨークに行って、当時もっとも衝撃だったDJピエールやジュニア・ヴァスケス 、ジョニー・ヴィシャスなどのハード・ハウスのスタイルに影響を受けました。ゲイ・カルチャーに根ざしながら、ゲイ・シーンだけではないものを一生懸命に聴いていましたね。

90年代のニューヨークにとってハウスは本当に大きかった。ヒップホップも大きかったけど、ハウスもすごかった。ジャネット・ジャクソンのようなポップ・スターも、みんなハウスをやっていたよね。

HW:あのマンハッタンと狭いその近隣のエリアにガッツリ組み込まれていたハウス・シーンに、ぼくもドップリ入っていたわけです。

どのような経緯で?

HW:1990年にボストンに渡って音楽の学校(バークリー音楽大学)へ通って、1994年に卒業したあとにニューヨークで曲を作りはじめました。学校でかぶってはいないんですけど、DJゴミ(DJ GOMI)さんがぼくの先輩なんです。ゴミさんがバークリーに遊びに来ていたので、ちょっとお会いして挨拶したりとか、ニューヨークのシーンについて伺ってみたりしました。卒業する間近にゴミさんの家に泊まらせてもらって、ニューヨークをいろいろ案内してもらったり、いろいろお世話になったんです。「じゃあ、これからがんばってね」と言われて、ぼくはニューヨークへ渡るんですけど。

なんでハウス・ミュージックにそこまでのめり込んだんですか?

HW:ボストンで楽曲を作りはじめたときは、基本的にテクノなサウンドの方が好みだったんです。中学のときはYMOも聴いていたし、レコードもほとんど持ってました。とにかく、シンセサイザーを使って打ち込みが盛り込まれている音楽が、ひと通り好きだったんです。でもクラフトワークはあんまり聴いてないんですよね。アンダーグラウンドの音楽に対する自分の着目点は、王道のクラフトワークまで遡らずに、当時流行っていたブレイクビーツ系のテクノや〈XL〉のものでしたね。ドイツの〈EYE Q〉なんかもも聴いていました。学校には、打ち込みをやっている仲間がいっぱいいたんです。

お父さんが作曲家で、お母さんがジャズのピアニストなんですよね。

HW:そうです。

ご両親に対する反発心からテクノへ行ったんじゃないかと(笑)。

HW:ははは(笑)! 反発心からじゃないんですよね。

テクノって、音楽をちゃんと学んだひとからするととんでもない音楽でしょう?

HW:ぼくはとんでもないスタイルで作られた音楽に完全に魅了されたんです。高校は東京音楽大学の付属へ通ってクラシックも勉強したし、バークリーではジャズや音楽理論も多少なりとも勉強しました。でも自分が音楽を作って放出するときに、そういうアカデミックなものとはどうも違う。オーケストラでのコントラバスの経験ももちろん肥やしになっていますけど、理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

テクノって、多くが感覚で作られているし、単純じゃないですか? クラシックを学んでいると、その辺が逆に新鮮だったりするの?

HW:それで間違いないと思いますよ。理論やテクニックの部分を取っ払ったとこでどこまで勝負できるかという点において、テクノってすごく素敵な音楽なんです。ただ、もっと幼少期にさかのぼると、うちの父親が当時アナログ・シンセサイザーを多用して、マルチ・レコーディングやフィールド・レコーディングをした音を組み合わせて、夜な夜な楽曲を作っていたのを見ていた体験があるんです。

お父さんの影響が大きんだ。

HW:大きいです。かつ、当時はニューエイジ・ミュージックと呼ばれていた、いまでいうアンビエント・ミュージック、それこそアンビエントの原点というか。

UKのある有名なテクノのアーティストが、なんでテクノを好きになったのかという話をして、それは5歳の頃、オーディオ好きの父親に、部屋を真っ暗にして冨田勲を聴かされたことがきっかけだったと。そのとき、自分が本当に別世界へ行ってしまった感覚を覚えてしまったと言っていたんだけど、そんな感じですよね?

HW:それにほぼ近いですね。当時小学生のころ住んでいたのは平屋の木造民家だったんですけど、父親がバンドの練習をするためにひと部屋を手作りでかなり強力な防音室にしたんですよ。その防音室にぼくは忍び込んで当時全盛だった『スター・ウォーズ』の2枚組LPを真っ暗にして大音量で聴いていたんですよね。するともう、そこは宇宙になわけですよ。右も左もわからない状態で音だけに浸るって、その体験とまったく同じなんですよ。

しかしヒロシ・ワタナベをその気にさせた音楽って、〈XL〉であり、レイヴ・カルチャーであり、ダンス・ミュージックなわけですよね。

HW:サンプラーとブレイクビーツに興味があったんですよね(※レイヴ・ミュージックは基本、ブレイクビーツだった)。
 当時はアカイのサンプラーが一世を風靡していたんですけど、ヒップホップのスタイルはかっこいいけど自分が作る音楽ではないなとずっと思っていたんです。ヒップホップのスタイルは自分が経験してきた文化と違うし、最初はサンプリング・ミュージックを作ることには前向きにはなれなかったんです。でも、〈XL〉やオルタン8などブレイクビーツのサンプルは、ヒップホップとはまったく別のやり方でしたね。ヒップホップは無理だけど、こっちは全然いけるじゃんって思った(笑)。

その手のダンス・ミュージックは、どうやって知ったんですか?

HW:最初は、学校のシンセサイザー科の友人から教えてもらいましたね。彼はテクノを聴いて、自分でも作っていたんですけど、そこからテクノの仲間がどんどん増えていきます。学校外にも仲間がたくさんいることがわかって、いろんな人たちと出会うんですけど、そのうちのひとりがいま大阪にいるエニトクワ(Enitokwa)で、彼は同じ時期にボストンにいました。

レイヴに行って踊ってました?

HW:最初は聴いてるばかりでした。音楽と出会ってしまい、音楽を聴きまくる感じでした。クラブにも行ってないですし。

じゃあベッドルーム・プロデューサーとしてスタートしたわけですね?

HW:最初はそうです。ただ、そのあとボストンに808ステイトやエイフェックス・ツインなどがボストンに来ているので、見に行ったんです。そこでクラブ・サウンドの凄さを体感して、「DJをしないと、ダンス・ミュージックは作れないんじゃないの?」くらいに思いはじめました。
 作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。
 それで、踊るんだったら躍らせる側に回った方が早いじゃないかと。それで中古の機材を集めてDJをはじめたんですが、そのころに知り合ったDJの友人がニューヨーク・ハウスのレコードを持っていたんです。それを自由に使っていいと言ってくれたので、わけもわからないままレコードを漁って、いいなと思ったものを友人のところでかけていたんですよ。そこでDJピエールのワイルド・ピッチ・スタイルを聴いちゃって、「これ何!?」みたいになって(笑)。

DJピエールで4つ打ちの良さに目覚める。

HW:ブレイクビーツを聴いていると、シンプルな4つ打ちがスカスカに思えてしまうんですね。だけどDJピエールは、普通の4つ打ちなのに、なんでこんなにかっこいいんだろうと。そこからハウス・ミュージックに興味を持つんです。ニューヨークへ行ったきっかけもDJピエールでしたね。


いきなりニューヨークという、その行動力はすごいです。

HW:若いエネルギーがすごいなと思うのはそこですよね。若さゆえに何にも考えずに、どんどん入っていけちゃうじゃないですか。これはもういても立ってもいられないから、ニューヨークへ行くしかないと。それ以前の歴史やアンダーグラウンド・シーンの流れをあまりわかっていないまま、いまその街で起こっていることに夢中になって追っかけていくんですね。
 それでぼくはサウンドを追い求めてニューヨークへ行くんですけど、実際はこんなにゲイ・カルチャーなんだと。

カルチャー・ショックでしたか?

HW:ぼくはけっこうすんなり受け入れましたね。彼らが巻き起こしているシーンがこれなんだって、サウンド・ファクトリーへ行ったとき、そう思いました。あまりにも強烈なサウンドシステムと、すさまじい盛り上がり方。そこではジュニア・ヴァスケスが延々とプレイしている……セットのなかで、ドープな時間だったり歌物の時間だったりハッピーだったりと展開していくわけだけど、そのシーンに触れたときに、「このために音楽が生まれているんだな」というのも思い切り体感して。ここでかかるような音楽を作って勝負したいと思いましたね。

ニューヨークではどんな生活だったんですか?

HW:最初はゴミさんの紹介で、〈Dr.Sound〉というところに勤めていたんです。クロサワ楽器系列で、経営は日本人だったんですね。その楽器屋さんには、DJデューク(※90年代のNYハード・ハウスの中心人物のひとり)が遊びに来たりとか、いろんなDJが来たので、用意していた自分の新作デモカセットをすかさずデカい音でかけていました(笑)。「これ誰の曲だ? お前のか?」とか、そう言われるのを待って(笑)、それで知り合いになってオフィスに呼んでもらって、デモ・テープを渡しまくりました。もちろんデュークのところ(※〈セックス・マニア)レーベル〉からも出したかったんだけど、ぼくはあそこまでダーティ・ハウスじゃなかったから(笑)。


働いていた楽器店の入口にて。

ヒロシ・ワタナベがDJデュークや〈セックス・マニア〉といっているのが面白いんですけど、カイトのイメージとは真逆だよね(笑)。

HW:カイトのサウンドは、小中学校のときに触れたニューエイジ・ミュージックにまで遡れる。あるいは映画音楽だったりとか。音でイメージが空想できるようなスタイルというか。クアドラの音楽はそのイメージに自分が解釈したテクノを融合させたイメージだったんです。クアドラ名義では1995年に〈フロッグマン〉から1枚目を出しました。その前にはコンピレーションにも参加していたんですよね。あの曲は、ボストンで学生だったときに作った曲です。ああいう、クアドラのイメージはとっておきながら、それとは別にニューヨークで自分が勝負したいと思うものを探求していくと、ハード・ハウスのスタイルだったんですね。

なるほど。面白いね。

HW:ぼくはニューヨークにいたけど、ガラージみたいなものにはいかなかったんですよ。さっきのヒップホップといっしょで、ガラージは日本人が勝負をかけても無理だろうと思っていたんですよね。あのグルーヴ感は、真似て作るものではないと。自分が勝負できるのはハード・ハウスだと。とにかく、ピエールの、じわじわ構築していくようなワイルド・ピッチ・スタイルが大好きでした。当時、ヒサさんのレーベル(〈キング・ストリート〉)からも、あの手法を取り入れた作品がリリースされていました。

しかし、DJデュークなんか、ポルノみたいなハウスじゃないですか(笑)。

HW:ラベルとかもひどいし(笑)。



ヒロシ・ワタナベのイメージとは著しく異なっている(笑)。

HW:現場でぼくが追い求めていたハードで熱いシーンと、ぼくがオリジナルで作品を出し続けた自分のイメージはけっこうズレているんです。

90年代半ばは人気がすごかったもんね。

HW:そうなんです。音はすごく良いんです! 

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作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。


Hiroshi Watanabe
MULTIVERSE

Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse

Amazon


DJは、どんなふうにはじめるんですか?

HW:楽器屋さんに来てくれるお客さんでDJもしていた大事な旧友と知り合うんです。最初は、彼といっしょにDJができる場所を探すことにしたんですよね。彼はイースト・ヴィレッジに住んでいて、ぼくはクイーンズのグリーンポイントというところにはじめはいたんですけど。で、マンハッタンのイースト・ヴィレッジにあったセイヴ・ザ・ロボッツ(Save The Robots)という、めちゃめちゃアンダーグラウンドでアフターアワーズ・パーティが盛んなクラブがあったんですね。アヴェニューB沿いの、かなり危険な区域なんですけど。


Save the robotsでのDJシーン。

90年代には、まだ70年代のニューヨークが残っていたんですね。

HW:そうなんです。アヴェニューA、B、Cとかにいっちゃうとヤバいんですよ。ジャンキーやフッカーだらけの怪しくて危ない場所でしたね。でもそこにかっこいいクラブがあるから行こうぜ、と。レコードを持ってお店が開いたら直ぐに入って、「DJやりたいんだけど、やれないかな?」とオーナーに直接訊いてみたんです(笑)。そしたら「お前ら上のラウンジの方でちょっとかけてみろよ」と言われて、ふたりで一生懸命かけるんですよ。

すごい強引な(笑)。

HW:はい(笑)。でも、そうしたら運良く、「空いてる曜日があるから、お前たち上でよかったらいいよ」って誘われて、毎週そのクラブでふたりで時間をわけてDJをやるんです。で、上のフロアなのに、がっつり盛り上げてハードに攻めていたら、お店のひとが面白がってくれて、「お前ら、下のメインフロアでやっていいよ」となったんです(笑)。そこで実験がはじまるんです。
 ある日、あるパーティにヒサさんが遊びに来ていて知り合いになるんですね。それで、早速次の日にすぐヒサさんのところに自分のトラックを持っていきました。そうしたら「アーバン・ソウル(Urban Soul)とサンディー・ビー(Sandy B)の“バック・トゥギャザー(Back Together)”をリミックスしてみないか?」と言われて、「DATをくれて好きにやっていいよ」と。それでもう、必死になって作ったら、それが出たんですよ。

ヒサさんも知名度ではなく、音で選んだんですね。

HW:はい! 音でいけました。セイヴ・ザ・ロボッツでDJ をしていて面白かったのは、わけのわからない日本人がDJをしているわけじゃないですか? でも曲やプレイがすごいと「お前何てやつだよ?」って訊いてきてくれるし、ガンガン踊ってくれるから、その反応を素直に体感できたというか。作ったばっかりの楽曲をDATでかけたりとか。アセテート盤を作ってかけてみたりとか。

ニューヨークには何年いたんですか?

HW:丸5年ですね。1999年の夏に帰ってきているんで。

ある程度ニューヨークで活動しながら、帰ってきたのはなぜだったんですか?

HW:アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。
 当時はジュニア・ヴァスケスが頂点の時代で、みんながジュニアがプレイしている晩に自分のレコードやDATを持って、ジュニアのブースまで行くわけですよ。ぼくもほんの数回それをやりました。でも、自分がジュニアのところまでわざわざ音源を持って行ってもかけてくれないんだったら、なんか嫌だなという違和感もあって、それよりジュニア本人がレコード屋さんで選んだものが自分の音楽だったら、そんな最高なことはないじゃんと思ったんですよ。目標はそれだと。それで、まずはいろんなハウスのレーベルに作品を持っていって、自分の作品をリリースしようと思ったんです。

初めてのリリースは、1996年に〈Nite Grooves〉から出した「Bad House Music」?




HW:それはニューヨークで出したオリジナルの最初で、その前に“Back Together”リミックスが先に出るんですよ。

盤としては、ひょっとして〈フロッグマン〉から出た「SKY EP」が最初だったりして。

HW:レコードとしては〈フロッグマン〉からの方が早いです。でも、いちばん最初はクアドラが入ったコンピレーションですね。続いてイエロー(Yellow)が出した『East Edge Compilation 2』にDefcon 5という名前で参加しました。それが95年で、ほぼ同時期。

1996年にはジョニー・ヴィシャスの〈Vicious Muzik〉からもシングルを出していますね。

HW:ニューヨークへ行っていろいろ模索しているうちに、クラブでジョニー・ヴィシャスにも出会うんですよ。ジュニアもかけていたジョニーの曲があって、それを聴いて「やべーな、こいつとは会うしかない」と。かつてトンネルでDJをしていたヤング・リチャードが HouzTown 名義で、先にそのレーベルから「Brooklyn A Train」という曲を出したんです。それもすごくドープな曲で。それからぼくもナイト・システム(Nite System)名義で出すんです。

なんでそんなに名義を使い分けていたんですか?

HW:ひとつには色分けですよね。全然コンセプトが違うからクアドラでやるわけにもいかないし。言ってしまえば、ハードハウスはぼくにとっては実験だったので、それで生きていきたいというよりもニューヨーク・シーンに対しての自分なりの挑戦というか。

ハード・ハウスは、もう、とにかくクラブでダンスするための音楽だよね。トランスさせる音楽というか。

HW:さっきも言ったように、音楽の学校へは行ったけど、ぼくが求めている音楽にはいっさいがっさいそれが必要なかったんだなと気づいてしまった(笑)。

とにかく、ハウスのアンダーグラウンドな世界に入って、順調な活動ができていたんですね?

HW:DJもやっていてネットワークもできていたので、週末の金曜日にトンネルで回せたりとか。サウンド・ファクトリーがトワイロ(Twilo)という名前に変わったときも、友人がオーガナイザーになってイベントを立ち上げたとき、メインフロアでDJができましたね。いろんなクラブでDJができるようになった。レコードも出せて活動の幅の広がった。

すごいですね。

HW:ただ、ぼくは、デモを渡さずにジュニアがいつ自分の曲をかけるのかという一点だったんです。それであるとき、友人から電話がかかってきて「ジュニアが先週ヒロシの曲をかけたよ!」って教えてくれたんです。次の週に急いで駆け込んで、ずーっとかかるか何時間も見ていたんです(笑)。

フロアで(笑)?

HW:そう、ずーーーっと。そしたらかけてくれたんですよね。スタジオでちまちま作った音楽がレコードとなって、そしてジュニアが見つけてくれて、そしてフロアでかけてくれて。

なんていう曲だったんですか?

HW:〈Deeper〉からナイト・システム名義で出した曲です。

嬉しかったでしょぅ、それは。

HW:はい。と同時に、ニューヨークでのミッション・コンプリートみたいな感じになっちゃったんです。当時ぼくはもう結婚していました。籍入れたのは1996年の終わりころ! なので新婚生活真っ只中だったんです。DJと曲作りが基本だったからお金が全然なくて本当にひどい生活だったんだけど……。

早い!

HW:本当にただ一緒にいたくて。若くて熱かったっすね。

息子さんのカイトくんはまだ生まれてないわけでしょう?

HW:生まれてないです(笑)。






NY時代の自宅スタジオの風景。


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アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。


Hiroshi Watanabe
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話を戻すと、ジュニアがヒロシ君の曲をかけて?

HW:嬉しかったと同時に、目標を果たしてしまったというか。自分の気持ちがそこで変わっていくんです。 当時はお金がなかったから、マンハッタンからクイーンズへ引っ越して、住んでいたアパートは屋根に上がれたんですけど、そこに寝そべって星空を見ていたときに、ふっと「俺、日本帰ろう」と思ったんです。奥さんにもその気持ちを伝えて、日本に帰る決断ができて、帰国を決めて段取りを整えているときに、奥さんのおなかに赤ちゃんがいることがわかったんです。このタイミングにはある意味運命を感じた。それがカイトなんですけど。日本に帰ってきて1月後に生まれるのかな。
 だから、子供が生まれるから帰ってきたのねってみんなに言われてたんだけど、全然そうじゃなかったんです。ある意味アメリカでのミッションをクリアし、高校を出てから日本の社会にも触れてなかったから。頭も高校生のまま! で、音楽を作ってきて、ちょっと社会的にまずいんじゃないかとも思ったんです。日本を知らなさ過ぎていたし、日本で社会人の経験がないのがまずいんじゃないのかと。それで戻ったんです。

ニューヨークでは、DJやって、EPを出しているぐらいでは、食っていけない?

HW:ギリギリです。1タイトルを売ると、当時多くて2000ドルくらい。少ないと1300ドルくらい。

それを毎月出すわけでもないしね。

HW:それをコンスタントに繋げて、あちこちでDJをしながら小さなお金をかき集めるって感じでしたね。それでギリギリです。結果的に自分の修業の場になってやれてよかったですけど。
 イースト・ヴィレッジのアヴェニュー・A沿いに、ものすごくハイプなアヴェニュー・A・スシ・バーというのがあったんですよ。やばくって、内装もいっちゃってるんですけど、ニューヨーク中のクラバーが日本食を食べに来るヒップな場所なんですね。入ってすぐに席とDJブースがあって、その奥にまた席があって、さらに奥に寿司を握る場所があるんです。そこに毎日入れ替わりでDJが入っていて、そこに勤めていた友人がやめちゃうんですけど、「ヒロシくん、よかったらやる?」と話をくれて毎週木曜日に回すことになったんです。そこのお客さんは耳が肥えているから、スシ・バーなんだけど本気でDJをしてないといけない。しかも時間も長くてロングセットなんです。そこでいいDJをすると、お客さんが帰るときに名前やスケジュールを聞いてくれるんですね。「ここでご飯を食べている連中を踊らせてやるぞ」くらいな感じで、毎週そこでDJをやってました(笑)。

当時のニューヨークって、いまのベルリンじゃないけどさ、クラブ・カルチャーの中心地だったものね。

HW:その通りですね。そこにテイ(・トウワ)さんとかもいたんですよね。

90年代末は、でも、ちょうどひとつの時代の終わりでもあったよね。それを肌で感じたということもあるんですか?

HW:あります。

ワイルド・ピッチ系のニューヨークのハード・ハウスの流れも、そのころにはピークに達していたもんね。

HW:成熟しきっちゃっていて。言ってみれば、それ以上先はルーティン・ワークになって飽きちゃうギリギリのところで、ぼくはニューヨークから引き上げたんです。ぼくが帰国した2年後にテロがありますよね。それでニューヨークは一気に変わってしまう……。

当時は、日本の状況を何も知らないわけでしょう?

HW:そうです。ニューヨークにいたとき、3ヶ所くらいツアーで日本を回らせてもらったことがありましたけどね。マニアック・ラヴと沖縄のヴァンプと福岡のO/D。マニアック・ラヴやイエローが盛り上がっていたのは知っていました。
 それに、アメリカに10年いようが、日本人は日本人じゃないですか。だから日本で起きているテクノ・シーンのことを、ぼくはすんなりと受け入れられたんですよね。「こんな面白いことをやっているのか!」って見れたんです。日本のシーンがうごめくすごさに関しては、とてつもないものがありましたからね。


Kompaktの昔のレコ屋さん内でDJ中のヒロシ。

しかし当時は多くの日本人はニューヨークに学ぼうとしていたわけですよ。

HW:ただ、ぼくはニューヨークでドラッグ・カルチャーもモロに見てしまったんです。ぼくは正直一切ドラッグはやらなかったので、葛藤はありましたよ。ぼくは音楽でぶっ飛んで欲しいと思っていましたからね。

そこはデリック・メイと同じスタンスですね。

HW:おこがましい話だけど、ぼくはデリックに強いシンパシーを感じるんですよね。ぼくは自分が持っている感覚をフルに使って「さらにぶっ飛ばせる音楽を作ってやろうじゃん」と決意をあたらにしたんです。

帰国して、それからカイトをやるわけですが、その経緯を教えて下さい。

HW:日本に戻って子供が生まれて、家庭を持つことになり、日本の社会に揉まれるんですよね。最初は日本についていくのが大変でした。
 そういう時期、EMMAくんが〈NITELIST MUSIC〉を立ち上げたばっかりで、曲を集めていたんです。ぼくの作った曲の半分はニューヨークくさいもの、半分は日本に戻ってきてもう一度構築しようと実験していたものでした。〈NITELIST MUSIC〉からは、ヒロシ・ワタナベとナイト・システム名義で作品を出してもらうんですけど、ニューヨークでやってきたことを踏まえながら、新しいことをやりたいなとも思っていたんです。ちょうどその頃に、のちにいっしょにトレッドというユニットを組んでアルバムを出すことになる、グラフィック・デザイナーのタケヒコ・キタハラくんに会うんです。彼はヨーロッパの音を当時僕より断然追っていて、とくに〈コンパクト〉レーベルという存在を意識していましたね。彼から「ヒロシくん、〈コンパクト〉にデモを送った方がいいよ」と言われたんです。で、曲を送ったら、1週間後くらいにウルフガング・ヴォイトからメールで連絡が来たんですよ。
 ミヒャエル・マイヤーが言うには、送ったタイミングもすごくよかったみたいです。〈コンパクト〉は、1998年にレーベルがはじまってから、ひと通り出し切っちゃった感があったみたいで、自分たちがどこに向かうべきか話し合っていたときらしく。そこにぼくのデモテープが送られてきた。オフィスでかけてみたら、みんなが反応したそうです。メールには、「ちょうど新しいものを探していたんだよ。お前の音はバッチリだから出そう!」と書かれていましたね。

デザインもよかったですよね。〈セックス・マニア〉の猥雑さとは真逆でしょ。いかにもドイツ的なデザインで。なぜカイト名義にしたんですか?

HW:自分の本名でもよかったんですけど、ヒロシ・ワタナベだと印象がニューヨークすぎるんじゃないかと。でも彼らは日本語名がいいと言っていたんです。日本語名って難しいじゃないですか。日本人にとって日本語名プロジェクトがダサく感じることもあると説明していたんですよ。なかなか良い案が出なかったんですけど、「ちょうど生まれて間もない息子のカイトの名前はこういう漢字で、こういう意味(宇宙の謎を解く)があるんだよ」って伝えたら、「もうそれしかねぇよ!」と決まったんです(笑)。そうやってカイトのプロジェクトが生まれたわけです。だから最初に曲を作っていたときに、息子をイメージしていたわけではないです。

親バカからきたわけじゃないんですね(笑)。

HW:全然違います(笑)! ゼロからはじめて、日本で暮らしながら生まれる音楽ってなんだろうという模索の中から作ったのがカイトです。で、セカンド・シングルの「Everlasting」にジャケをつけることになって、子供の写真を送ったらあのジャケになってたんです。



あれがカイトのひとつのイメージを作ったもんね。

HW:自分が意図的にそのイメージを作り上げたわけじゃないけど、一度出した以上はそれでプロジェクトは走っていく。あの当時はダンス・ミュージックにあんな子供がドーンと露骨に出ちゃうって、なかった。だから自分でも面白いかなと思ったんですね。

当時売れたでしょう?

HW:かなり売れましたね。

だって、2000年代からは、ヒロシ・ワタナベといえばカイトですよ。

HW:自然とそうなっちゃいましたよね。


Kaito Live at Studio 672 in 2002

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デリック・メイと一緒に。

日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。









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ニューヨークのハウスは、12インチ・カルチャーですよね。しかし、ヨーロッパのテクノにはアルバムを出すというスタンスがある。結果、カイト名義では6枚以上のアルバムを出すことになりますよね。

HW:2002年、最初のアルバムを作り終えたあと、〈コンパクト〉がぼくのライヴ・ツアーを組んでくれたんです。そのとき、ケルンのまだ小さかった頃のオフィスに行ったんです。そこで、カイトの音楽のもとになったビートレス・ヴァージョンをミヒャエル・マイヤーに聴かせたんです。そしたらビートレス・ヴァージョンもこのまま出そうって、その場で決まったんです!

ああ、それが有名な『ポップ・アンビエント』シリーズにも発展するのかぁ。ヒロシ君の曲の特徴のひとつは、メロディだから、ビートレスの作品というのはすごくわかります。また、〈コンパクト〉というレーベルにすごく勢いがあった時代だった。クラブだけではなくて、アメリカのインディ・ロックの連中も、〈コンパクト〉と〈WARP〉はチェックしていたでしょ?

HW:ジェラルド・ミッチェルが「俺はカイトのビートレス・アルバムが大好きで、毎朝起きると聴いてんだぞ。本当だぜ」と言ってくれました。「デトロイトの連中はみんなお前の曲好きだよ」って(笑)。本当なのかなぁと思ってたんですけど、デリックも「デトロイトの奴らはお前の音楽をずっと追っかけてるぞ!」って教えてくれたんです。それって、お世辞じゃなかったみたいで、ぼくは正々堂々と自分の音楽で彼らとつながることに自信が持てたというか。
 そういう人たちって、ぼくにはレジェンド過ぎるので、会うたびに緊張していたんです。デリックとも最初は全然話せなかったんですよ。イエローが閉店する週の同じ日に、デリックがDJでカイトがライヴというときがあったんですね。そのとき初めて話ができたんです。ちょうどデリックの子供が生まれたばかりで、ぼくも三男が生まれたばかりで、子供の話で盛り上がりましたね(笑)。
 それから数年後、日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。

2003年に〈Third-Ear〉から出た12インチ「Matrix E.P」は、たしかにデトロイティシュでした。メロディの作り方は、いま思えばデリック・メイの好みだったのかな。






「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。


HW:デトロイト・テクノって、メロディアスで、哀愁的な感覚も入ってますからね。マイク・バンクスにはジャズやいろんな要素が入って、音楽のアカデミックな部分が盛り込まれてくるけど、旋律的な部分ではみんなに共通項があると思うんです。

なぜいまデトロイトなんでしょうか?

HW:いままでにもいろんな出会い/出来事がありましたけど、今回の一件は強烈でした。ただ、極めて自然な流れだと思うんです。2004年あたりにぼくはギリシャのレーベルからいろいろ出しているんですけど、そのときに出した数枚のアルバムがデリックの手に渡って、DJで使っていたんですね。

そうだったんですね。ギリシャとのネットワークはどうやってできたんですか?

HW:ギリシャの〈Klik Records〉の元A&Rだったジョージっていう最高な友人がいてリアルタイムに「Matrix EP」をレコード屋さんで見つけてくれたんです。あの曲を聴いて、ぼくに直接連絡をくれた。「この音楽を見付けてからもう何回もリピートして聴いてるよ、うちのレーベルから何か出さないか?」と。ちょうど、アテネ・オリンピックが終わった後ぐらいでしたね。




アテネで開催されたBig In Japanの模様。野外の映画館が会場となり2000人以上動員した。2007年6月


2006年、ギリシャでのポスター。

ギリシャって、経済破綻しながら、なんで音楽は廃れないんだろう。いまでもレーベルがあるしね。

HW:しかもいまでもたしかにパーティ・シーンはあるんです。あそこは国柄、人間性がなんというか、すごくあっけらかんとしているんですよね。イタリアやスペインとも似ていますね。暖かくて、国のどこに行ってもオリーブの木があってっていう、そういう土地柄で、ものすごくオープンな人柄という印象です。
 それから、クラブ・ミュージックをボディではなくてマインド・ミュージックとして捉えているんじゃないかと感じます。ぼくの音楽に対しても、グルーヴもそうなんだけれど、その上に乗っかっているものにシンパシーを感じているといつも行く度に思うんです。

ギリシャはけっこうまわってますよね?

HW:アテネを中心にツアーしていますね。多くのDJは、ギリシャに行くと、だいたいミコノス島にあるカヴォ・パラディソという一番コテコテな有名なクラブでやるんです。観光客ばかりで羽振りがいいんで、有名なDJはみんなそこへ行くんですけど、ぼくはギリシャ全土にある、現地人しか来ないような小さいバーから大きなクラブまで回りました。車やフェリーを使って。それを2005年から毎年2回くらいやったんですよ。
 〈Klik Records‎〉が仕掛けたプロモーションも功を奏しました。発行部数が多い一般紙にぼくのCDをフリーで付けたこともありました。だから、一般のひとにもウケたんですよ。あるツアーでアテネのホテルに滞在していて、ちょっとお腹が空いたから何か買いに行こうと思ってホテルを出て、信号のない大きな道路を渡ったんです。そしたら近くに警察がいて「ヘイ!」って言われたんですよ。渡っちゃいけないところだったのかなと焦って立ち止まったんです、そしたら「アー・ユー・ヒロシ?」って警察が言ってきたんです(笑)。

それはありえないよね(笑)。

HW:本当なんです。「アイ・ライク・ユア・ミュージック」って。




なるほど。90年代はニューヨーク、そして2000年代はヨーロッパのシーンとリンクしているんだけど、2000年代に入ってクラブ・カルチャーも変化するじゃない?

HW:〈コンパクト〉はウルフガング・ヴォイトが社長の座を降りた頃から変わったんですよ。小さなレコード屋さんから大きなオフィスに移って、ビジネスやディストリビューションを大きくしていった。しかし、シーンはデジタルに移行していったので、運営が当時一度難しくなっていってしまった様子でした。

そうだよね。インターネットが普及していったのと反比例して、アナログ盤は減った。

HW:マーケットがデジタルへ移行していくことに関しては、僕も抵抗があったんですけど、ぼくはもともと曲作りから入っているんで、DJソフトのトラクターも早い段階で導入したんですよね。コンピュータを現場に導入する感覚って、楽曲を作っている人間にしてみれば、普通なんです。むしろパソコンがあったほうが安心できるというか。だけどよりDJという側面で強く音楽に接してきた人には、けっこう抵抗があったと思います。パソコンの状態の保ち方とか、データの整理の仕方とか、そういう基本的なところから話がはじまっちゃうから。

そういう意味では、なおさら、なぜいま〈トランスマット〉なのかと思いますね。デリックとの対談で「40代のゼロからのチャレンジ」みたいなことを言っているでしょう?

HW:20数年のキャリアを振り返ったときに、いまという現在を通過できるかできないかのチャレンジをしているってことなんです。ニューヨークでジュニア・ヴァスケスがぼくの曲をクラブでかけるか、というチャレンジと同じくらい大きな試練がやってきたというか。デリック・メイが〈トランスマット〉に求めるものを、ぼくが作れるか作れないかって、とてつもなくハードルが高いことなんですよ。

しかも〈トランスマット〉は〈コンパクト〉みたいにコンスタントに動いているレーベルじゃないからね。

HW:デリックは出したいものしか出したくないし、タイミングなんかどうでもいいわけですよ。自分が出してきたどのレーベルでもそうなんだけど、まず自分が作った音楽があって、出来上がったものを渡すのが自然の流れじゃないですか? でも今回のリリースに関してはそうじゃない。数年前ぼくはデリックに「〈トランスマット〉から出せる機会があれば光栄だし、そんな光栄な時を願わくば待っているよ」ってデリックに言ったんです。そのときは「もちろんそのチャンスがないわけじゃないぜ」って答えたんですけど、ぼくはそれをずっと覚えてたんですよね。
 それであるとき、ふたりで熊本にDJをしに行ったんです。そのときに、カイトとしての自分の今の環境や状況の相談みたいな話をしてて、ものすごく親身になってくれたんです。「もちろん俺はカイトの音楽自体ももっと世の中に認知されるべきだし、お前はカール・クレイグと同じような存在であるべきなのに、なぜもっと世界で認知されていないのか俺には理解できない」、「デリック、嬉しい言葉だけど俺もわかんねぇから、理由を教えてくれ」と(笑)。そうやって個人レベルでのやりとりが密にはじまるんですよね。

そのやりとりが面白いんですよね。そういうやりとりはいつぐらいから?

HW:震災あたりからだから、5年前くらいです。

そのときから自分のデモを聴かせていたんですか?

HW:デモを聴かせているというよりも、当時は純粋にぼくが出している曲を聴いてくれていたんです。彼がぼくの曲をDJで使っているのを知ることで、そんな嬉しいことはないと思いながら、ぼくもデリックにしっかり話していいんだなと思えてきて、あるときに、「お前はデトロイトに来てフェスに出るべきだ!」って言われたんです。そりゃいつでも出たいけど、どうしようもないじゃないですか。そしたら「俺が話をつけてやるから、ちょっと待ってろ!」と。それでしばらく経って、また会ったときに「ヒロシ、ごめんな。俺はプッシュしたんだけど、イベントの体制が純粋に音だけで選ぶような今は状況ではなかった。ごめんな」と。そういう見方をしてくれていたんですよね。
 それでデリックは、彼なりにぼくに対してできる最善のことは何かと、考えてくれるようになったんでしょうね。そこまで関係性ができたときにぼくはデリックに曲を渡すんです。忙しいだろうし返事もすぐには来ないだろうなと思ってたんですけど、「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。

はははは(笑)!

HW:「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。

すごいね(笑)!

HW:「そこにたどり着く方法は自力で見つけろ。お前には絶対できる。本当に出したかったら、次の〈トランスマット〉からのリリースはヒロシだ」と。デリックがそんなこと言うなんてすごいじゃないですか? 

まあ、すごいですね(笑)。

HW:だけどそれと同時に、いままでにないプレッシャーを感じたんです。いいものができたら曲を出すって言われている以上、作らなきゃいけない。でも作っても「ヒロシ、これじゃない」と返信し続けられたら、ぼくは生きた心地がしないわけです。ずーっと自信をもって音楽を作ってきているし、自分の音楽を感じながらやってきたものの、そこで作れども作れども、もしOKが出ないなんてことが起きたら、デリックの言うポイントに到達できてないってことになる。それは自分の音楽人生であっちゃいけないし、ありえないことだと思ったんですね。

しかしデリックも直球な言葉ばかりを言ってくるんだね。

HW:だから、20年以上のキャリアを積んできたにも関わらず、もう一回ゼロから自分がチャレンジする機会をデリックがくれたとも言えるんですよ。ニューヨークで無心になって作っていた当時の自分がいま新たに蘇ったというか。デリックに「これだよ!」って言われなかったら、俺の20年間はなんだったんだろうと、そのときに思ったんです。そこからはもう、徹底的に作り続けました。

「あの山を登るのに、他の連中はこの平坦な綺麗に舗装された道を行く。しかし、お前は一人きりで裏の崖からロープ一本で登ってるんだ」とか言われたらね(笑)。

HW:「お前は荒野のなかの一人たたずむ侍だ、自身の中に潜む何かを掴むために一人きりでいるんだ」(笑)とか。

そうやって火をつけるのが彼のやり方なんだろうけど、すごいものがあるよね。

HW:最初に送った楽曲は〈トランスマット〉へというつもりではなかったにせよ、しょっぱなが「これじゃない、もっと〈トランスマット〉に相応しいものを作れ」って言われたわけじゃないですか。(笑)だから簡単には曲は送らないと決めたんですけど。なんでもいいわけじゃなくて、自分で彼のいうポイントに到達できたと思えるものでないと送っちゃいけないと思ったし、深く考えると、自分がいいと思ったものに対して「お前はこんなものをいいと思ってんのか?」と反応をされたとしたら信頼も失うことになる。だからそのときに自分は何を作るべきなのかを、いろいろ深く改めて探るようになったんです。

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カール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。









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ニューヨーク時代にハウスを追求し、カイトではアンビエント的な要素もいれつつ、より多様なエレクトロニック・ミュージックをやっていたと思うんですけど、それとは別のコンセプトが必要になってきたときに、何をどうやって考えたんですか?

HW:〈トランスマット〉で選ばれてきた音楽もしっかり一通り聴き返したんです。純粋に改めて「デトロイト・サウンドって何だろう?」という観点から作っても、ヒップホップやガラージ・ハウスを真似するのと結局同じことになってしまう。そんなことでは絶対にダメだし、そんな方向をデリックが求めていないことはハナっからわかってたんです。とはいえ、カイトのまんまやることはぼく自身が納得できなかった。それは〈コンパクト〉や他のレーベルでやればいい。やっぱり〈トランスマット〉から出すのであれば、その歴史の名に恥じないものを作らなきゃいけない。ぼくが好きなカール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。
 例えばグレッグ・ゴウ(Greg Gow)やステファン・ブラウン(Stephen Brown) とか、マイクロワールド(Micro World)、特にジョン・ベルトランなんかはめちゃめちゃメロディアスで、ディープで綺麗で繊細だし。デリックのすごくホットなDJプレイのシーンだけじゃなくて、彼自身の音楽の好みや〈トランスマット〉が歩んできたルートを紐解いていけば、そもそもなんでカイトにシンパシーを感じてもらえ、DJでも使ってくれている理由とかもより明確にわかってきたんですね。

自分の武器が何なのかがわかってきたということ?

HW:そういうことです。ぼくが何かに合わせるということよりも、自分が本来持っているものの何をデリックは見ていたのかを、自分でもう一度探し求めたといいますか。

今回のアルバムは、いままでのヒロシ・ワタナベ作品のなかではもっとも感情に訴える音楽ですよね。それが大局的な意味で言うところのデトロイティッシュなものですよね。ブレインでもボディでもなく、エモーションに行くっていうね。

HW:タイトルや曲の情景が出来上がるにつれて、自分が導かれていく場所はタイトルが示しているものだってわかっていきました。生きている意味だったりとか、自分が生かされている場所だったり、そんなところまでさかのぼって音に気持ちを込めざるをえなかったんです。もちろんアルバムの2曲目を聴いてみると、自分がニューヨークで体験したことが現れていたりするんです。野田さんのライナーにも書いてくれていましたけど、逆に“Heliosphere”なんかはデリックが好きなカイトのテイストだと思うんです。アルバム全体には自分のいろんな部分が散りばめられているんですよね。

そういう意味でいうと、ヒロシ・ワタナベがいままでやってきたことが集約されているんだけれども、やっぱりデリック・メイに火をつけられた部分というか……

HW:40半ばで心が少年になっちゃったんですよね。一度もレーベルから出したことのない時代にさかのぼって、気持ち的には本当にあの頃に戻っていたというか……。あの頃って、本当に血眼になって楽曲を作っていたというか……。

デリックとヒロシくんの関係がはまったんだと思います。たとえば“The Leonids”という曲は、本当に素晴らしい曲ですね。

The Leonids (ele-king exclusive preview)
https://soundcloud.com/kaito/the-leonids-eleking-exclusive-preview/s-wpIVz

デトロイティッシュであなりながら、ヒロシ・ワタナベらしい繊細さ、ソウルフルな展開……。

HW:人種を飛び越えたところでのソウル・ミュージックって何だろうって考えましたね。「特定の生まれもったルーツがないとソウル・ミュージックとは言えないのか?」と。言葉がないダンス・ミュージックってそういうところを越えていけるような、ものすごく特殊な音楽だと思うんです。本当の意味で魂や人種を飛び越えることが、どのように音が変換されていくのかを見てみたかったんですよ。

それもデトロイト・テクノの重要なコンセプトでですね。例えば、ケンドリック・ラマーというヒップホップのひとがいて、ぼくはいま大好きなんですけど、彼はソウルやファンクもちゃんとわかっていて、ジャズやフライング・ロータスのような最新のエレクトロニック・ミュージックも取り入れている。なによりも弱き者たちへの力強いメッセージもある。しかし、そこで主に参照されるのは、やはり自分たちの内なる文化、アフリカン・アメリカンの文化なんですね。
 デトロイト・テクノのすごいところは、彼らは自分たちの内側だけを参照しないところなんです。ヒロシ君もよく知っての通り、自分たちの内なる文化を誇りとしながら、ヨーロッパであるとか、他の文化にどんどんアクセスする。90年代にぼくが初めてデトロイトへ行ったときに、友だちの車で最初に流れたのがエイフェックス・ツインだったんですね。ぼくにはものすごい先入観があったんですね。黒人はエイフェックス・ツインを聴かないだろうっていう。しかし、真実はそうではなかったんです。デトロイト・テクノは、アフリカン・アメリカンであるということだけでは完結できないんです、そして、それを彼らは“未来”と言ったんですよね。
 どこまでデリックが意識しているのかわからないけど、〈トランスマット〉は早くから、アラブ系とか、中国系とか、アメリカ人でも主要ヨーロッパの人たちでもない人たちの曲を出していますよね。しかも彼は、日本のことが大好きだから、もっと早くに日本人の作品を出したかったかもしれない。だから、ヒロシ・ワタナベの作品を出せたことは、彼自身も嬉しかったんじゃないのかな。あるいは彼は気まぐれな男だし、商業ベースでレーベルを運営していくタイプでもないんで、出会いのタイミングもあったとは思うけどね。ちなみにこの「マルチヴァース(Multiverse)」というタイトルですけど、これは人種を超えた何かを表しているんですか?

HW:そうです。次元を飛び越えたところで、自分たちが存在する意義とは何かと。音や自分が生きてきた証のなかで、しっかりと正々堂々と繋がってこれた関係性でもあるわけじゃないですか。そういうなかで、もっと飛び越えた次元で自分が生きていることが最終的にどんな証になるのか、この機会に自分の気持ちを盛り込まなきゃと思ったんです。

どこで意識されたのかわからないですけど、世界情勢をみると、それはタイムリーなメッセージですね。アメリカもヨーロッパもすごく難しい時期にきていますね。もちろん日本も。

HW:本当はもっと飛び越えていかなきゃいけないんですよね。みんな本当のところはわかっているんだから。

DJカルチャーの重要さもそこにありますよね。さっきのギリシャの話もそうだけど、ぼくたちは日本に住んでいるけど、ムーディーマンのDJを通じてデトロイトのインナー・シティのソウル・ミュージックを聴くこともできる。南ヨーロッパの辺鄙な街で生まれたハウス・ミュージックを聴くことができる。大げさに言えば、普段は出会うことがない文化にDJを通して触れることができる。DJはある意味では文化の運び屋なんだけど、同時に文化をミックスすることもできるんですよね。

HW:音楽というところで繋がっているひとたちは、DJに限らずいろんな国や人種にふれたときに、問答無用にひとつになれることを体感しているわけじゃないですか。それこそ僕たちが地球全体で抱えている問題って実はすごくシンプルで、人種なんか関係ないはずです。ところが、国が大変になってくると、政治や宗教が原因でいろいろな事件が起きる……そういう意味では、ぼくがいま感じられることは注ぎました。野田さんの素敵なライナーもありがとうごいました! ぼく自身のメッセージもあえて添えましたし、きっとトータルで音や言葉からそれらを感じてもらえると思います。

Fika(フィーカ) - ele-king

「スウェーデン人にとってFika(フィーカ)は生活の一部よ」

フィーカって、ご存知ですか?
それはスウェーデン流の“お茶の時間”を指す言葉です。
お隣の家で、友人とカフェで、会社でさえも、
顔を合わせれば「Ska vi fika?(スカ・ヴィ・フィーカ/お茶にしましょう)」と誘いあう──
スウェーデン人はお茶が大好きなのです。
そして、それは休み上手、楽しみ上手な彼らの文化をよく象徴しています。
フィーカで大事なのは、くつろぐこととおいしいお菓子。
多くの家庭には、フィーカのためのさまざまな手作りお菓子が常備されています。
そうした定番お菓子のレシピと、さまざまなコラム、そしてたくさんの素敵なイラストとともに、
フィーカの12か月をたどります!

■Contents

はじめに * 合い言葉は「Ska vi fika?」 2

スウェーデン人のFika 4

Fika i mars * Våfflor
3月 ヴォッフロル(ワッフル) 15
Våffeldagen * ワッフルの日 / Påsk * 復活祭 / Kafferep * かしこまったお茶会 / Alla korvars dag * すべてのソーセージの日

Fika i april * Kärleksmums
4月 シャーレクスムムス(チョコレートのスポンジケーキ) 27
Jättegott!* おいしいときの合い言葉「mums=う~ん(おいしい)♡」 / Gott till kaffet * おかしな名前のお菓子 / Valborgsmässoafton * ヴァルプルギスの夜 / Surdeg * 天然酵母の日

Fika i maj * Morotskaka
5月 モーローツカーカ(ニンジンケーキ) 39
Morotens dag * ニンジンの日 / Prinsesstårta * お祝いのケーキ / Kaffe * Fika=コーヒー / Primör * スウェーデンの野菜事情

Fika i juni * Nationaldagsbakelse & Smörgåstårta
6月 ナショナルダーグスバーケルセ(建国記念日のミニケーキ)& スモルゴストータ(サンドイッチケーキ) 51
Sveriges Nationaldag * ナショナルデー / Utspring * Fikaで旅立ちのお祝い / Midsommardagen * スウェーデン最大のイベント・夏至祭 / Sju sorters kakor * 一家に1冊あるFika菓子の教本 / Färskpotatisens dag * 新ジャガの日

Fika i juli * Chokladbollar
7月 ショクラードボッラル(チョコレートボール) 67
Sommarlov & Sommarsemester * 夏の暑い日は火を使わないチョコレート菓子作り / Fläderblomssaft * 夏のFikaはサフト / Praktiskt & Enkelt * 合理的で簡単に作れるレシピ / Kryddor & örter *スパイスとハーブ

Fika i augusti * Rabarberpaj
8月 ラバルベルパイ(ルバーブのクランチパイ) 79
Rabarbersäsong *季節限定のフレッシュ菓子・ルバーブのパイ / Sylt * ジャム作りは夏の終わりのシーズンワーク / Kräftskiva * ザリガニの解禁日 / Köttbullens dag * ミートボールの日

Fika i september * Sockerkaka & Äppelkaka
9月 ソッケルカーカ(スポンジケーキ)& エッペルカーカ(リンゴのスポンジケーキ) 91
Äppelsäsong * スウェーデン人はリンゴが大好き / Glass * アイスの消費量は世界トップクラス / Teets historia * 意外に古い紅茶の歴史 / Paket * スーパーは北欧デザインの宝庫

Fika i oktober * Kanelbullar
10月 カネールブッラル(シナモンロール) 103

Kanelbullens dag * シナモンロールの日 / Mejeriprodukter * おいしくて種類も充実、スーパーの乳製品売り場 / Svampar & Allemansrätten * 森や山はスウェーデン人みんなの宝 / Höst & Vinter * もっともFikaが重要になる時期

Fika i november * Kladdkaka
11月 クラッドカーカ(ぐちゃぐちゃチョコレートケーキ) 115
Kladdkakans dag * クラッドカーカの日 / Chokladens dag * 10月から11月にかけてチョコレート三昧のFika / Ärtsoppa * 木曜日に豆のスープを食べる習慣 / Martinsdagen * 聖マッティン祭

Fika i december * Lussekatter & Mjuk pepparkaka 127
12月 ルッセカッテル(サフラン入りパン)& ミューク・ペッパルカーカ(ソフトジンジャーケーキ)
St. Lucia * サフラン入りのパンを食べる聖ルシア祭 / Pepparkakans dag * ジンジャークッキーで「お菓子の家」作り / Advent * アドベントからはじまるクリスマス月間 / Julafton * もっとも盛り上がるクリスマスイブ / Nobelbanketten * ノーベル賞の授賞式、晩餐会のメニューは注目の的

Fika i januari * Hallongrottor
1月 ハッロングロットル(ラズベリージャムのクッキー) 143
Gott nytt år!* Fika定番の伝統クッキー / Tjugondedag jul * 世界で一番長いクリスマス / Nötter & Frön * お菓子作りに欠かせないナッツ類 / Rörstrand&Gustavsberg / クオリティーの高さで知られるスウェーデンデザイン

Fika i februari * Semla
2月 セムラ 155
Fettisdagen * 春を告げるシーズン菓子、セムラ / Geléhallonens dag * ラズベリーグミの日 / Kvällsfika * 夜のFikaは、ホットチョコレートでほっと一息 / Vinter▷▷▷Våren * 暖かい春へと向かう日々


■著者プロフィール

塚本佳子(つかもと・よしこ)
編集者・ライター。さまざまなジャンルの書籍や雑誌の制作に携わる。週末のみ「北欧雑貨の店 Fika」の店主。暮らしを豊かにするための方法を日々模索中。著書に『小さくてかわいい家づくり』(新潮社)、『好きなことだけ』(Pヴァイン)など。

ホームページ
https://zakka-fika.com/



見瀬 Klingstedt 理恵子(みせ・くりんぐすてっと・りえこ)
フリーランスイラストレーターとして活躍。1995年から現在まで通算12年間を家族とともにスウェーデンの首都ストックホルムで暮らす。帰国後は友人井上佳子と料理ユニット「SPISEN(スピーセン)」を組み、スウェーデン大使館のイベント等で料理を提供するかたわら、コラムニストとしても活動。著書に『シンプルを楽しむ 北欧の幸せのつくり方』(エディシォンドゥパリ)など。

ホームページ
https://www.riekomise.com

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news_Moe and ghosts × 空間現代『RAP PHENOMENON』、いよいよリリース、そしてレコ発のお知らせ

 彼女は、そうだね、たとえば最近の、ゆるふわ系女子がラップしましたっていうのとはわけが違うんだよ。ホンモノのラッパーだ! と、信頼のおける某ライター氏が言っておりました。たしかに……Moe and ghosts 、その速くて独特のアクセントのフローに、ジャズドミュニスターズなどで聴いてびっくりされた方も多いでしょう。
 早くから期待が高まっていたMoe and ghostsと空間現代との共作『RAP PHENOMENON』は、いよいよ来週の水曜日(6日)に発売されます。
 また、4月6日にDOMMUNEにてオンライン・リリース・パーティ、5月30日には渋谷WWWにてZAZEN BOYSとのツーマン・レコ発も決定しました。これ、間違いなく注目作です。



Moe and ghosts × 空間現代
RAP PHENOMENON
NKNOWNMIX 42 / HEADZ 212
2016年4月6日発売

Amazon

■TRACK LIST:

01. DAREKA
02. 不通
03. 幽霊EXPO
04. TUUKA
05. 新々世紀レディ
06. 可笑しい
07. 少し違う
08. TASYATASYA
09. 同期
10. DOUKI
11. 数字
12. ITAI

Moe and ghosts: Moe, Eugene Caim
kukangendai: Junya Noguchi, Keisuke Koyano, Hideaki Yamada

All lyrics by Moe and Junya Noguchi
Except Track 6 (Mariko Yamauchi "It's boring here, Pick me up.")
All music produced by kukangendai
Except Track 1, 4, 8, 10, 12 produced and mixed by Eugene Caim, contain samples of kukangendai

Recorded by Noguchi Taoru at Ochiai soup
Rap Recorded and Mixed by Eugene Caim at DADAMORE STUDIO
Mixed and Mastered by Tatsuki Masuko at FLOAT

Photographs: Osamu Kanemura
Design: Shiyu Yanagiya (nist)

 2012年に発売され異形のフィメール・ラップ・アルバムとして話題となった1st『幽霊たち』から、約4年振りの作品リリースとなる"Moe and ghosts"と、昨年はオヴァルやマーク・フェル、ZS、OMSBら国やジャンルを越えたリミキサーが参加したリミックス・アルバム『空間現代REMIXES』をリリースし、日本最大級の国際舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー」に出演するなど各方面で注目を集める"空間現代"のコラボ・アルバムが発売決定。
 2015年に開催されたHEADZの20周年イベントにて初披露されたこのコラボレーションは、巷の安易な共作ではなく、互いが互いの音楽を研究しつくし、互いの音楽が寄り添いつつ並列し昇華される、前代未聞のコラボレーション、前代未聞のラップ・アルバムに仕上がった。
 山内マリコの小説「ここは退屈迎えに来て」のテキスト使用した楽曲や、未だ謎に包まれるMoe and ghostsのトラックメイカー、ユージーン・カイムが空間現代をリコンストラクトしたトラックも収録。
 ジャケット写真は金村修。ジャケットデザインはブックデザイナーの柳谷志有。バンド録音は、にせんねんもんだい等の録音を手がける野口太郎。ラップ録音はユージーン・カイム。ミックス・マスタリングは砂原良徳やiLL等を手がける益子樹が担当。
 2016年4月6日にDOMMUNEにてオンライン・リリース・パーティ、5月30日には渋谷WWWにて、ZAZEN BOYSとのツーマン・レコ発が決定している。

■アルバムのティザー映像

■LIVE

2016年4月6日(水)
@DOMMUNE 21:00-24:00
【"RAP PHENOMENON" ONLINE RELEASE PARTY】
LIVE:Moe and ghosts × 空間現代
DJ:GuruConnect(from skillkills)

2016年5月30日(月)
@渋谷WWW
【"RAP PHENOMENON" release live】

LIVE:
Moe and ghosts × 空間現代
ZAZEN BOYS

open18:30/start19:30

前売:3000円(+1D)
※ぴあ[Pコード:295-316]、ローソン[Lコード:75789]、e+[https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002187031P0030001]にて4/9~販売開始

https://www-shibuya.jp/schedule/1605/006575.html

interview with ASA-CHANG&巡礼 - ele-king


ASA-CHANG&巡礼
まほう

Pヴァイン

PopExperimental

Tower HMV Amazon

 古代インド神話におけるトリムルティ(三神一体論)に登場するシヴァ神は、破壊神でありながら、破壊後の創造をも担うという両義性を持つ。ヒンドゥー教の経典『リグ・ヴェーダ』では、シヴァは暴風雨神ルドラとして現れ、暴風雨による風水害を引き起こす一方で土地を肥沃に潤し、作物の恵みをもたらす。またルドラには人々の病を治癒する超能力があるという。

 破壊とその後の再生を担うという両義性。病を治癒する力。ルドラやシヴァのこうした特性は、ASA-CHANGという優れて特異な音楽家の創作態度とぴったり重なる。既成の様式を破壊するだけでなく、根底から創り直して再生させる――ASA-CHANG&巡礼のこれまでの軌跡は、文字通り破壊と再生の連続であった。ASA-CHANGが切り開いた“けものみち”に咲きみだれる、美しくも異形の花々は、いつしか世界中に散らばる同志たちにとってのひとつの道標となっている。

 2009年の5thアルバム『影の無いヒト』をピークとして、翌10年にこれまでの編成を一旦解体したASA-CHANG&巡礼から、7年ぶりの新作『まほう』が届いた。後関好宏と須原杏という二人の新メンバーを迎えて制作された初のオリジナル・アルバムとなる今作は、全曲歌モノで構成された、まさに初ものずくしの作品となった。とりわけその核となる“まほう”と“告白”の2曲は、かつてない方法論でつくられ、体験したことのない衝撃を聴き手にもたらす未知の音楽であると同時に、日本語のポップスが未踏の領域に足を踏み入れた瞬間の記録でもある。前者の歌詞は、『惡の華』(『別冊少年マガジン』09年10月創刊号~14年6月号連載、講談社コミックス全11巻刊)などで知られる漫画家の押見修造が、吃音に悩む少女を主人公にした学園物の短篇“志乃ちゃんは自分の名前が言えない”(太田出版WEB連載空間『ぽこぽこ』11年12月~12年10月連載、13年1月同題のコミックス全1巻刊)からサンプリングしたことばのぶつ切りと作中に登場する歌詞の引用がミックスされ、後者の歌詞は、今作のジャケットも手がけたアート・ディレクター/映像作家の勅使河原一雅のウェブサイトに上げられた赤裸々なプロフィールをそのまま引用した。「そんなのありか!?」と思わず叫びたくなる意表をついたアプローチだが、チョップされたことばと音が曼荼羅のように脳内を回り出す、ASA-CHANG&巡礼の専売特許というべきえもいわれぬ聴き心地がさらに深まって、なんと形容していいか分からない、まったく新しい感情が自分の中に芽生えるのを感じる。

 1969年にカナダのトロントで行われたマーシャル・マクルーハンとジョン・レノンの対話のなかで、マクルーハンは言う。「言葉というものは、どもりを整理した形態だ。人は喋るときに、文字通り音を切り刻んでいる。ところが、うたうとき人はどもらない。つまり、うたうという行為は、言語記号をひきのばして、長く調和のとれたさまざまなパターンと周波をつくり出すことなのだ」。

 一方、レノンは言う。「私にとって言葉とか歌は、理論的に震動がどうのこうのということを別にすれば、夢を語ろうとするようなものなのです」。そして、「どもることに関しての話はたしかにおっしゃるとおりですね――言いたいことって言えないものです。どんなふうに言っても、いいたいようにはけっして言えませんよ」と述懐した後、「音楽が新しいリズム、新しいパターンを採用する方向に向いつつあることをどう思う?」というマクルーハンの問いかけに対し、「完全な自由があるべきですね。とにかく、人間が何千年もかかえてきたパターンをいったん捨ててみることです」と言い切っている。

 「ビートルズの音楽はよい趣味になりつつある危険に瀕しているのかね?」とマクルーハンに問われたレノンは即答する。「その段階はもう通りすぎましたよ。もっと徹底的にむちうたれなくてはいけないのです」。ぼくには、ASA-CHANGとレノンが、47年間という時の隔たりを超えて、方法論こそ違えども、創造にかかわる問題意識を共有しているように思えてならない。マクルーハン曰く、「それが、中央集権化している現代の世界を白紙に戻す方法でもある」。

 押見、勅使河原の両氏は、ASA-CHANG&巡礼が14年に始動した、異なる分野の表現者とマンツーマンでセッションするライヴ・イヴェント「アウフヘーベン!」のvol.3とvol.2 にそれぞれ出演しているが、aufhebenというドイツ語には、廃棄する・否定するという意味と、保存する・高めるという二つの矛盾する意味がある。これはドイツの哲学者ヘーゲルが提唱した弁証法の基底となる概念であり、否定を発展の契機としてとらえる考え方である。テーゼ(命題)に対するアンチテーゼ(反対命題)として古きを否定する新しきものが現れるとき、矛盾するもの同士を高次の段階でジンテーゼ(統合)することにより新しい何かを生み出し、さらなる高みに到達しようという、このプロセスをアウフヘーベン(止揚)と呼ぶ。それはまさしく「ASA-CHANGという哲学」そのものだ。

 今作『まほう』は、否定の感情をぶつけあい傷つけあって、いたずらに混迷するばかりの世界に向けてASA-CHANG&巡礼という破壊神が投じた、止揚への大いなる一石であり、決して癒されることのない痛みに苦しむ人たちにおくる鎮魂歌集である。


■ASA-CHANG&巡礼
1997年、ASA-CHANGのソロユニットとして始動。国内で評価されるとともに各国のメディアにも取り上げられる。 また、ミュージックビデオにおけるコンテンポラリーダンサーとの共演が世界的な話題となり、09年に音楽×ダンス公演『JUNRAY DANCE CHANG』を世田谷パブリックシアターにて開催。 12年に後関好宏、須原杏をメンバーに迎え、国際的な舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT 2012」への参加、アニメ『惡の華』のEDテーマ曲の提供など、多岐にわたり活動を展開している。 また、14年9月からライブシリーズ「アウフヘーベン!」を始動、世界的な舞踏家・室伏鴻や映像作家・勅使河原一雅、漫画家・押見修造といったジャンルを横断した作家とのコラボレーションを行う。2016年3月、6thアルバム「まほう」をP-VINEより発売。

音楽=サウンドだけだと思えませんでした。本当に管楽器が欲しかったら、そのメンバーに歌ってもらうなんてことはしないと思うんですよ(笑)。そのひとと作りたい、その滲み出るもの全部と関わりたいんですね。

新しい編成になって、いろんな意味で新しいスタートラインに立った──ご自身もそういう気持ちでレコーディングをされたのでしょうか?

ASA-CHANG(以下AC):そうですね。メンバーが変わりましたからね。で、ひとが変わったわけだから、音も変わりますね。

前の3人編成のときに、ASA-CHANG&巡礼の音楽は確立されていました。ぼくは活動が広がっていくにつれて、少しずつ理解できるようになったというか。最初は突然変異系の音楽だと受けとめていたんです。だけど、やっぱり“花”という曲がぼくも好きで、ずっと心に残っているんですよね。あの曲があるから、たとえ変わったとしても全然関係のないところへ行ってしまうことはないだろう、という気持ちはありますね。今回のアルバムを聴いても、作品から受ける感動の性質は変わらなかった。生と死の両方を感じさせ、なおかつ、ぎりぎりの果ての果てからそれでも先に行かなければいけないときに支えになってくれる音楽というか。新しいメンバーはどういう経緯で集まったのですか?

AC:前のメンバーとの形が解体して、それ以降、自分のソロとして続けると告知したんですけどね。そのちょっと前から舞台芸術というか、コンテンポラリー・ダンサーといっしょにやったり、世田谷パブリックシアターなんて大きな劇場から声をかけてもらったりとか。やっぱりソロでは活動できなかったので新メンバーを公募したりしていたのですが、なかなか見つからない……。それでようやく巡りあったメンバーが後関(好宏)さんと須原(杏)さんだったんですね。

後関さんは在日ファンクのメンバーですよね。

AC:そのときは在日ファンクのメンバーじゃなかったと思います。いまはそうですが……。ちょっと定かではないです。

管楽器ができるひとが欲しかったのですか?

AC:正直そういう見方でもなくて、音楽=サウンドだけだと思えませんでした。本当に管楽器が欲しかったら、そのメンバーに歌ってもらうなんてことはしないと思うんですよ(笑)。そのひとと作りたい、その滲み出るもの全部と関わりたいんですね。だからヴァイオリニストにヴァイオリンだけを望まないし、管楽器奏者から管楽器だけを望まない。その限られた人数のなかでつくっていこうと思うと、どうしても起こってくるんですけど。かといって、そのひとを深く知ろうとするわけでもないんですけど。

そのひとがピンとくるポイントってどこですか?

AC:んーわかんない。相性というか。感覚よりも明確な何かがあるでしょうけれども……、わからないですね。鍵穴みたいなものというか……。

音を出す前から、どんな感じかわかるのですか?

AC:音は関係なくなっちゃいますね。当然音はいいだろうと確信しているので。

後関(好宏) さんとの出会いはどんな感じでしたか?

AC:覚えてないです(笑)。メンバーになる前から知っていたので。ゴセッキーというアダ名がありまして。ゴセッキーとまさか巡礼をやるとは思いもしなかったですね。この東京の音楽業界の片隅に必ずいた人物なので。念頭にはなかったんですが、メンバーを探していたときにお願いしてみたというか。

須原(杏)さんは?

AC:ひとづてです。こういうことを話しても、ドラマ性がなくて面白くないんですよ(笑)。

「ワン、ツー、スリー、フォー」ってドラマーがバチをカンカン鳴らしてカウントするのも、なんだか恥ずかしいと思っていましたから。

きっとなにがしか引き合うものがあって、メンバーになっているわけですよね?

AC:そうですね。でも僕らは、バンド体質を持っていないというのは大きいですね。ベースがいてドラムがいてピアノがいないと成り立たない音楽だとは思わないので。バンドマンが持っているような考え方や、出会いのドラマチックさが、ある意味全然なんですよ。

それは前からそうなんですか?

AC:うん……。あんまりそういうのはないかもですね。あったらロック・バンドをやっていますって。スカ・バンドしかやってないですから。「ワン、ツー、スリー、フォー」ってドラマーがバチをカンカン鳴らしてカウントするのも、なんだか恥ずかしいと思っていましたから。自分の好き嫌いは相対的なもので、もっとかっこいいものが他にあったら、浮気症な男なんで、自分の音楽哲学みたいなものは変わってしまいますよね。だから、出会いかたはつまんないんですけど、いまは本当に大切なメンバーですね。

新編成になってからの第一歩を、どういう形で記したのですか?

AC:前の編成(ASA-CHANG、ギタリスト/プログラマーの浦山秀彦、タブラ奏者のU-zhaan) を2009年に解体しました。加入した時には、まさかお茶の間レベルにまで浸透するなるなんて想像もつかなかったU-zhaanという存在、彼と活動をともにしなくなってから、3年後ですか。京都で舞台芸術のイヴェント(「KYOTO EXPERIMENT 2012」) があって、それに出ることになったんですが、そのとき初めて新体制で動きました。

2010年から2012年の間は、朝倉さんがひとりでいろんなことをやっていたのですか?

AC:いや、何もやってないです。正直ちょっと面倒くさくなっちゃいました。

ある意味、一旦解散したような感覚があったのですか?

AC:辞めようとまでは思っていませんでした。でも、言い方が悪いですが、本当に面倒くさくなっちゃったんですよ。これはぼくのいけないところだと思うんですけど、(巡礼以外の)他のプロデュースや演奏に集中してしまうと、そこに鍵をかけて置いておけるんです。一旦そうすると、自分で何か始めるまでおいておけるんですね。そういうナマケモノの場所が自分にはあるので、数年間はほっぽっておいちゃいました。

ASA-CHANG&巡礼は、朝倉さんが他所に心がいっているときは、別に動かさなくてもいいわけですね?

AC:それがすごくナマケモノなところだと思います。

舞台芸術なんていうと、なんでみんなそんな同じような表現しかないのかな、というところに自分のアンチがあったので、たとえ野暮でも極彩色で明るいものにしようと。

「KYOTO EXPERIMENT 2012」に参加したときに、新メンバーとリハーサルで音を出してみて、そこでいっしょにやる音楽が見えてきた感じですか?

AC:舞台表現だから、相当な稽古量なんですよ。だからその音楽だけのリハーサルなんていうのは、本当に歯車の一個という感じで。台本に合わせた細かい打ち合わせを毎日やるわけです。ライヴバンドみたいに「やっちまえ!」という感覚は許されない。

演出家が指示を出して、それにミュージシャンも従うという。

AC:その演出家が自分なんですよ。だからいい意味で音だけに集中しなくて済んだので、音は他のふたりに預けておけた。それが自分にとって良い形のスタートを切れたのかもしれないですね。舞台芸術なんていうと、なんかアカデミックで、モノクロの光がわぁーっときて、なんでみんなそんな同じような表現しかないのかな、というところに自分のアンチがあったので、たとえ野暮でも極彩色で明るいものにしようと。なんでいつもこう暗黒舞踏みたいなのだろう、と。誰が決めたんですかね? 舞台芸術の常識っていうのはとても不思議だなと。

ぼくは観客として舞台や演劇に接するとき、なかなかその世界に素直に入れないタイプなんです。

AC:ぼくもそうです。ちょっとかゆくなっちゃうというか(笑)。正直、わざわざお金を出して観に行こうとは思わなかったんです。突然奇声を張り上げたりとか、ステージ脇から走ってきて止まってバタンと倒れたり(笑)。あのスタイルは誰が決めたんだと。それが(効果的に)作用するときがあったんだろうと思うんだけど、それを固定してやられても、ちょっと気持ち悪いですよね。でも、気持ち悪いと思っているひとだから切り開ける部分もあって。だとしたら、ずっと走っていてバタンと倒れるのが上手くなれば「最高」ってなるわけじゃないですか?

それってコントみたいですね。

AC:何かの思想だけで表現しているみたいなのがね……。しかしそういう界隈で巡礼の音楽はすごく評価されているんですよ。それで観に行って勉強するというか、通ってみたりして。ただ嫌い、って言うのもいやになっちゃって、好きなものもあるかもしれないぞと。でも、どうしても嫌いで。

そんなに急には変らないですよね(笑)。

AC:好きなカンパニーも少しは出来たんです。そのひとたちと手を組んで強烈にいろんなことをやっていったら、「KYOTO EXPERIMENT」の舞台の演出の話がきたんです。嬉しかったですね。

その試みは『JUNRAY DANCE CHANG』(※09年5月15日~17日、世田谷パブリックシアターで開催された音楽×ダンスの3DAYS公演。音楽・演奏:ASA-CHANG&巡礼/構成・総合演出:ASA-CHANG×菅尾なぎさ/振付・出演:熊谷和徳、菅尾なぎさ、斉藤美音子、康本雅子/出演:井手茂太、上田創、酒井幸菜、佐藤亮介、鈴木美奈子、須加めぐみ、中村達哉、中澤聖子、松之木天辺、メガネ、U-zhaan、ASA-CHANG、他)/空間美術:宇治野宗輝×ASA-CHANG)からはじまっているんですか?

AC:そうです。その前(06年3月29日~31日)にも、六本木の〈スーパー・デラックス〉で『アオイロ劇場』(※ASA-CHANG&巡礼とMV“つぎねぷと言ってみた”、“背中”、“カな”のミュージック・ヴィデオに出演したダンサーたちが舞台空間で競演する、JUNRAY DANCE CHANG名義の3DAYS公演)というのをやりました。そういう感じですね。

『アオイロ劇場』はどういうきっかけではじめたのですか?

AC:自分の作った“花”とか、“つぎねぷと言ってみた”を「公演で使っていいか?」という依頼が、いろんなダンス・カンパニーから――ヨーロッパやアメリカ、もちろん日本からもくるようになって。

それは思いがけない反響でしたか?

AC:思いがけないです。まさか身体表現のひとからそんなに愛されるとは思っていなかったですね。そういう反応があって、自分もそっちへ接近していったんです。

なぜ身体表現をするひとたちに好かれるのか。あるいは、なぜ彼らがASA-CHANG&巡礼に触発されるのか。その理由について、朝倉さん自身が接近していくにつれて何か見えてくるものはありましたか?

AC:「なぜ」かはわからないですね。ただみんな好きで使ってくれたみたいです。「なぜ」を問うたりしなかったです。既存の曲のように1番があって2番があって間奏があってエンディングに向かって盛り上がってダンっと終わる曲が踊りづらいんでしょうね。同じビートが続いて……それじゃ、クラブ・ミュージックで自然に反応するような動きしかできなくなっちゃうんですよ。パルス過ぎるんでしょうね。かといって、巡礼の“花”なんかクラブで結構かかっていた時期もありましたね。

エクスペリメンタルな音楽には、想像力を喚起して身体を動かしたくなる不思議な作用があって、そういう要素がASA-CHANG&巡礼には入っているような気がしますね。

AC:そうだと嬉しいのですけれど……。ぼくは例えば本を作ろうとすると、紙の原料になるコウゾやミツマタの木を伐採に行くようなことから始めるわけです。そこから作って紙をすいて、そのインクまで作るみたいなことをしないと、自分のなかではオリジナルだとは思えなくなってしまって。そうしないといけないと前世で誰かに言われてしまったんだと思うぐらいです。

家を作るんだったら、まず瓦を作りたいんです。そういうことをすることが音楽だと思ってしまっている。

そういう気持ちが高まってきたのはいつぐらいからですか?

AC:昔からです。スカパラのときもそうでした。どこにもないから作るという、収まりきらないようなモノをね。家を作るんだったら、まず瓦から作りたいんです。そういうことをすることが音楽だと思ってしまっている。例えば、DJはターンテーブルを作らないでしょう?

そうですね。ターンテーブルはすでに用意されている、という前提がありますね。

AC:それだと個人のスタイルが違うだけで、フォーマットは違わないじゃないですか? そこでフォーマットを変えることが音楽だと思っちゃったんですよ、ぼくは。ただそんなことをやっているとキツいんです。それは80年代に当時のファッションの最高にアツい現場にいて、20代でそういうことを感じてしまったことが影響しているのかもしれないですけどね。雑誌の「流行通信」などの撮影現場で、ものすごいモノを作り上げていて、ぼくはびっくりしたんです。そこで初めてクリエーターと呼ばれるひとたちに会うわけですよ。

朝倉さんはヘアメイクのお仕事をされていましたよね。その頃に出会って、とくに印象に残っているひとたちは?

AC:写真家の小暮徹さん。いまでも親交があります。伊島薫さんもそうです。素晴らしいひとたちと会い過ぎちゃって。自分は全然ダメで、ただ東北の田舎から出てきてカタカナ商売に憧れていただけの未成熟な少年で、ここで何かしなきゃ!と焦って、もがいていました。原宿のど真ん中で……入り込んだ美容集団が凄すぎたのは、ぼくにとってはとても大きいですね。そのなかで小泉今日子さんとも出会うわけですけど。だから、音楽にもその当時のクリエイティヴの熱気を求めますね。

あのころの……80年代の熱気って特別な感じがしますね。

AC:ただ、いまと空気が違うから、そのまますり合わせるのも無理なので、それをいまの自分とすり合わせて上手く作っていこうと思うんですけど。

創造性を触発されるクリエイターとセッションするという感覚は、朝倉さんのなかでずっと続いているんでしょうね。

AC:そうですね。ぼくはあまりにもそのひとたちと世代が違ったので、(相手が)デカすぎたんでしょうね。そういう風になりたい、大人になりたい、と常に思っています。「スタイリストって本当に洋服を選んでいるだけのか?」って思っちゃうくらいすごかったので。だから、音楽をやるために音楽だけに入り込むというのがまったくつまらなく思えたんですね。それよりも音楽を壊していくことが音楽を作ることに近い気がします。

スカパラも、初期の頃は魑魅魍魎が現れたというか、それまでの日本には存在しないニュータイプの楽団だった。でもスタイリッシュでカッコいい、まったく新しいグループとして世に出た記憶がありますね。

AC:とにかく人数が多くて、ライヴハウスのステージから常にひとりかふたりはみ出しているわけですから(笑)。

しかも当時はクリーンヘッド・ギムラという煽り役がステージの中心にいて、担当は“匂い”だという。そういうスペシャルなメンバーもいましたからね。

AC:それを作ろうと思ってああなったわけじゃないけど、いまでも使われている“東京スカパラダイスオーケストラ”というあのロゴをぼくが書くわけなんです。そういうデッサンみたいなものをぼくが(スカパラを構想したときに)書いているわけですよ。そういうことをイメージしちゃうと、それを実際にやりたくなって。でもそれは数年しかやれないわけですよ。じゃあ辞めて別のバンドに入ればいいわけですけど、ぼくの場合はそうじゃないんです。

スカパラのロゴが頭に浮かんで、そのデッサンを形にした後は、イメージが膨らんでくるのを楽しんでいる状態でしたか?

AC:ぜんぜん楽しくないですよ。焦りともがき。「これかっこよくない?! やろうよ!」って常に周りに勧誘してたと思います。やっぱり(実現するにはふさわしい)時があるんでしょうね。急速に集まり出すんです。それでデビューしていくわけですけど。

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みんなで、世間をかき回せればいいと思いました。何かを挑発してね。そういう気持ちはいまでも全然ありますね。


ASA-CHANG&巡礼
まほう

Pヴァイン

PopExperimental

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80年代の終わりから90年代の頭にかけての東京の空気って、ぼくがこれまでに経験したなかでも、いまだにああいうザワザワした感じってなかったな、と思うんですよね。街中に新しいものが生まれる空気があって。

AC:それは、いまだとネット上のあるところには存在するのかもしれないけど。でも当時は街角とか、ある店に行くと(何かハプニング的な出会いがある)……っていう感じでしたからね。あの煩わしいくらいのひととの(距離感の)近さは、いまは作れないですよね。

街の空気はあの頃のようには戻らない、そこは決定的に変わっちゃったなと思いますね。いまは音楽と人間との関わり方が新たに問われている時代というか。

AC:そういう場所が好きだったら、そのままやっていたでしょうけど、そうじゃないんですよね。あと、音楽業界に慣れないんですよ。所属事務所も(スカパラを)どう扱っていいかわからない、でも人気があるぞ、と。だからスカパラの代表としてのぼくは、風当りが強かったですね。なのにメンバーはみんな暴れん坊だし……。

ぼくらからすると、突然ASA-CHANGが抜けちゃったっていう感じだったので困惑しました(93年3月、3rdアルバム『PIONEERS』発表後に脱退)。創始者がいなくなったんですから。スカパラも、メジャーデビューしてからは音楽業界の仕組みのなかに入って、既成のルールに則って動かなきゃいけないような感じになって、そこにハマらないメンバーは順次抜けていったようにも見えたし……。

AC:でも、脱退のことは20年ぐらい前にどこかの雑誌で聞かれても答えようとしなかったんですけど、「お茶の間にスカを」なんて言ったのはぼくですからね。そういうことをやりたかったんです。『夜のヒットスタジオ』に出たいとか。みんなで、世間をかき回せればいいと思いました。何かを挑発してね。そういう気持ちは(いまでも)全然ありますね。

静かに、すごく挑発していると思いますよ。

AC:前までの巡礼は、本当にひとの心の奥までムリヤリ触りに行っていたと思うんですよ。そういう挑発をやっていたと思うんですけど、今の作品は、そんな気持ちにはなれなかったんですよね。

『まほう』にはすごく痛みを感じるんですよね。完全には癒しきれない、ずっと引きずらざるを得ないその痛みにどう寄り添えるのか、懸命に取り組んでいる。そういう音楽にも聴こえましたね。

AC:嬉しいですね。

聴き終えたとき、自分のなかに新しい感情が芽生えたんですよね。“まほう”というタイトル曲とか、まさにそういう感じで。これは吃音の女の子を主人公にした押見修造さんという漫画家の「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」という作品に触発されて生まれたわけですよね。押見先生との出会いは、まず作品を読んで?

AC:いや。押見先生って講談社からコミックスを出してるくらい有名な方で、代表作の『惡の華』、それがアニメ化されるんですね(2013年4月よりTOKYO MXなどの独立局、BSアニマックスなどのアニメ専門局で放送)。そのとき、押見先生から直々に指名されて「エンディングに“花”を使わせてほしい」と。でもいろんな意味でリニューアルしないといけなくて。あれは古い作品ですもんね。

押見先生がすごいのは、吃音のハンデを理解してほしいという漫画じゃないってことなんですね。もっと上のレベルにいっている。さらにいうと、こういうひとが普通の社会にもあるでしょ、という描き方。

古い作品といっても、あれは真のクラシックだと思います。

AC:でも、巡礼の作品を指名してくれて。それで訊いてみたら、押見先生は巡礼のライヴにすごく来てくださっていたんですよ。初期のライヴから見てくれていて。しかも『惡の華』は巡礼からインスパイアされている部分もあると。それを聞いて本当に嬉しかったから、「ぼく、作り直します」て言って、もう一回全然違うひとの声をレコーディングして、その音声を切ってはめていくってことをやったんですけれども……。それが先生との出会いですね。それから、実は押見先生自身が吃音を持っていたと。(ご自身の経験を下敷きにして描いた)その作品に出会うんですけど、押見先生がすごいのは、吃音のハンデを理解してほしいという漫画じゃないってことなんですね。もっと上のレベルにいっている。さらにいうと、こういうひとが普通の社会にも存在するでしょ、という描き方。登場人物には、普通の基準からズレている子たちがたくさん出てくるけど、それも普通の子たちといっしょにいて。それがただの重い作品として終わらないんですよ。それが“志乃ちゃんは自分の名前が言えない”っていう作品なんですけど。この漫画の風通しのよさを音楽にできないかなと思いました。普通の日常が普通に終わっていく作品なんですが、だから風通しのよい曲にしちゃいました。

作詞のクレジットは押見先生と朝倉さんの共作になっていますが、それは漫画から朝倉さんがことばをちぎってはエディットしていくようなやり方ですか?

AC:押見先生のセリフなんですけど、それをある程度いじっちゃったので。使う言葉もぼくが決めちゃったので。

“花”とか“つぎねぷ”もそうですが、ASA-CHANG&巡礼の代表作に共通するコンストラクション/コンポジションを感じる作品ですね。

AC:普段はポップスで使わないリズムにはめていくというか。いまだに日本語はグルーヴしないと言われているけれども、日本語(の特性)に起因することが多いんですよね。流れていかないから。韓国語もそうですけど、サウンドがブツ切れなので、だからこそのかっこいい音楽ができるんじゃないの、と。そこにすがるようにね。それで今でも自問自答して作るんですけどね。気持ち悪いひとにとっては気持ち悪いと思いますけどね。

それこそ60年代から70年代にかけてフリージャズのムーヴメントがあったときに、詩人とジャズメンが共演して、ことばと音のセッションは当時盛んに行われていました。ことばと音をなんとかしたいという気持ちは、詩人や音楽家には同じようにあったけれど、いまは必ずしも即時性に拘らなくて、サンプラーが生まれて以降だから、わりといろんな要素を組み合わせることがやりやすくなっているのかもしれないですね。

AC:そうですね。昔はそういうのをやるにしても、いちいちアナログテープを切ったり貼ったりしてやっていたけれども。ターンテーブルを使ってコラージュしたりね。だけどそれもスタイルになっちゃったっていうのもあって。

どうしても、何事も生まれたときがいちばん面白くて、それをみんなで共有できるようになると、それが型になりますよね。

AC:巡礼はもうちょっと仲間を増やしたいですけどね(笑)。

仲間だと思えるひとたちは国内外にいますか?

AC:ヨーロッパのDJやアーティストはよく扱ってくれて、仲間というか、かけてくれる時点でありがたかったですね。

どういうかけ方をするんですか?

AC:普通にDJフォームですよね。日本語のブツ切れ感がエキゾチックに感じるのかもしれないんですけど。

ことばの使い方が最初から厳密な意味性に捕われていない。ぽっとことばが出てきて、それがつらつらっと想念のように続いていく。もしくは途切れて、また次に飛んでいくというか。

AC:日本にはレイ・ハラカミがいました。なんでこんなことができるんだろうって思うような美しさを、ハラカミくんは安いシーケンサーでやっていて惚れました。あとはコーネリアスでしょうか。小山田くん本人が言ってくれていますけど、彼の声の捉え方には巡礼の影響があると思います。

(コーネリアス・リミックスは)すごかったですね。すべての音の光沢がきれいで、嗚咽して聴きました。

ぼくもそれは『Point』以降のコーネリアス作品に感じますね。

AC:だから、音楽界ももうちょっと巡礼を汲み取ってもいいと思いますけど(笑)。コーネリアスに巡礼の影響があるのも、まさか?!っていう感じなんですかね。

でも、小山田くんとはフリッパーズ・ギター時代から交流があったりして、〈トラットリア〉から巡礼のデビュー・アルバムが出ますよね。あれが出たときは、コーネリアスは現在のようなスタイルではなかったですよね。

AC:コーネリアスのレコーディングに呼ばれたのは、まだ初期の頃でしたね。バンド編成で、まさに渋谷系直系の音でしたね。

初期のコーネリアスは、ポップスとしてオーソドックスなコンポジションだったけれど、どんどんそれ以降変わっていきますよね(※97年9月にコーネリアスの3rdアルバム『FANTASMA』が、翌98年にASA-CHANG&巡礼の1stアルバム『タブラマグマボンゴ』がリリースされた)。2000年代以降はエクスペリメンタルな、まさに巡礼的なフォームになっていった。

AC:あとSalyu × Salyuの声をチョップする感じとか。ただ、格好のつけ方は巡礼と違うので面白いんですよ。「これどうやってんの?」って訊いちゃうもん。そしたら、「……っていうか、巡礼のあれはどうやってるんですか?」みたいな会話になって(笑)。ある日「小山田くん、巡礼の新譜を出すんだけど関わってくれないか?」って依頼したら「OK」と。そしたら、ものすごく作業が早いんですよ。他の曲ができる前にコーネリアスのリミックスが出来上がっていて。ぼくらの他の曲のミックスダウンが終わってないのに、コーネリアスのやつだけドーンっと届いて(笑)。「これは超えらんないかも。頑張るしか……」みたいな。

元になる“告白”のトラックは、すでにできていたのですか?

AC:できていました。ただ“告白”と“まほう”の2曲は、不思議なんですけど、バンドっぽくライヴをやっていたらできちゃったんですよ。そのときにはリズム分割や声を切っていく作業もすでに終わっていて、あとは磨き上げるだけの状態でした。ここから仕上げるぞいうときに、コーネリアス・リミックスが届いたんですよ。すごかったですね。すべての音の光沢がきれいで、嗚咽して聴きました。

ASA-CHANG&巡礼 - 告白 (Official Music Video)

ぼくはこのアルバムの最後の曲というかたちで聴くことになったから、余計にそういう気持ちになりました。心が洗われるというか。小山田くんは一音一音をどう研ぎ澄ませるかという作業を延々と続けてきているから、音楽的な筋肉が鍛え上げられている。だけど、彼の場合は緻密な作業を軽やかにやってのける。そこがすごく好きですね。本当に美しい形でASA-CHANG&巡礼とコーネリアスが合流した。

AC:小山田くんの音の磨き方は素晴らしいけど、それを真似して磨いても敵わないんで。ぼくにはそんな研磨剤はないんです。粒子の荒い写真だってかっこいいですよね? だからああいう感じのザワザワした肌触りしかできなかったですね。そういう雑味というか、生活ノイズみたいなものも今回は普通にありますね。

口ずさめる事こそポップスの定義だというひとがいて、だから巡礼はポップスなんです、と。それを聞いて嬉しいような感じもしました。

たしかに流れるように聴けるアルバムじゃなくて、あちこち引っかかりながら聴いていく感じではあるんですけど、最後まで聴き通さずにはいられない。

AC:いちいちなんでこんな歌い方をしなきゃいけのっていう曲もありますもんね。前のインタヴューで「もっと歌えるひとにちゃんと歌ってもらえばいいじゃないですか?」って言われたみたいなことが(笑)。

資料のキャッチコピーに「全曲歌モノ&インスト曲なし!」と書いてあって、たしかにインスト曲ではないけれど、これを歌モノと言っていいのかと。

AC:たとえば「花が咲いたよ」と自分でそう言ってみて口ずさめたら、口ずさめる事こそポップスの定義だというひとがいて、だから巡礼はポップスなんです、と。それを聞いて嬉しいような感じもしました。そういうことで言えば、ぼくもまだポップスの領域にいるかなと。自分ではその領域にいてほしいんですけどね。

■極めてエクスペリメンタルな音楽なのに、ポップスの領域にちゃんと足を引っかけている。聴くひとを選ばず、リスナーの心にこれまで見たことがない足跡とか爪痕とか、何かを残そうとしている。普通はなかなか成立しづらい難しいことに挑戦しつづけてきた巡礼だからこそ果たせた、ネクスト・レヴェルの達成を感じます。“告白”の、ひとのプロフィールをチョップして歌詞にするなんて作り方も聞いた事がないですね。

AC:これは(原型を) ほとんどいじっていないプロフィールですね。

最初からいきなり主語も何もなしに「産まれた。」というフレーズからはじまるので、てっきりプロフィールをチョップしたのだと思っていました。

AC:固有名詞のところだけ濁して「工場」だけにしたりしますけど。勅使河原(一雅)さんの作家ネームのqubibiのサイトを見ればわかるんですけど、本当にいじっていないんです。場所を断定するようなところだけ消してるんです。勅使河原一雅っていう映像作家なんですけど。

あの草月流の勅使河原家の一族の方ですか?

AC:本人は違うって言っていますけどね。ぼくも絶対にそうだと思ったんですけど。もちろん本名なんですけどね。去年あたりからの定期的なコラボをしていくと気になるキーワードが現れてきたんですよ。学園ものというか、学校を舞台にしているところというか、青春感が漂うもので。押見先生の“志乃ちゃんは自分の名前が言えない”もモロにそうで、勅使河原さんの生い立ちというか、「登校拒否をしていた」というクダリとか、そういう合致も自然にうまれていて。それのリアルさは巡礼にとっては追い風でした。

自分は音楽家ですけど、自分の音楽なんて震災のなかではなんの効力もないとつくづく思い知らされました。

朝倉さん自身はどういう少年時代を過ごされたのですか?

AC:普通ですねぇ……。自宅とくっついているタイプの住宅地のなかの美容院の息子です。

じゃあ岡崎京子さんみたいな。

AC:あ! そうです。町の美容室の。でも町の美容室の娘と息子では、けっこう立場的な違いが大きいと思いますけど。父親は本当に髪結いの亭主でしたね。ダメ人間でした。赤い鉛筆を耳に挟んで、週末は競輪ばっかり行ってました。

競輪場に連れて行ってもらったりはしなかったのですか?

AC:なかったですね。酒に溺れるようなひとでほとんどいい印象がないです。

自分はこうはなるまいと思った?

AC:完全にそう……。自分の高校時代に父親が死ぬんですけど、完全に自分の進路が変わっちゃったんですよね。家業の美容室を継がなきゃいけなくなったわけです。正直、こんな片田舎の美容室なんて継いで「先生」とか言われて終わっちゃうのかなと思ったら、なんだかどうにも継げなくて。そういうときに美容雑誌をなんとなく見てたんです。そしたらバルセロナのガウディや詩人のランボーが白日夢のように登場するサントリーのTVCMの美術担当がヘアメイクのひとで「自分がやろうとしている仕事から派生したところに、こんな仕事があるのか!」と閃光が走ってね。で、継ぐという点から飛躍しないで嘘をつくように上京しました。

朝倉さんはどちらのご出身ですか?

AC:福島県のいわき市出身です。いまは震災でいろいろあるところです。

震災のときはかなり心配された……。

AC:そうですね……。でも心配のしようのないくらいの大変な出来事だったので。うちは半壊、というかヒビが大きく入れば行政では半壊認定になるんですけどね。その程度で収まって。知り合いを辿れば、津波で流されたひとはいっぱいいます。それ以降ほぼ毎年、地元いわき市で鎮魂の念仏踊りの行事に参加しているんです。自分は音楽家ですけど、自分の音楽なんて震災のなかではなんの効力もないとつくづく思い知らされました。だから例えばギターを抱えて応援しているシンガーソングライターに対して、やるなとは思わないですけど……ある種の違和感がね。巡礼の音楽なんてとくに機能しないし。それで、地元に伝わる念仏踊りを手伝うようになりました。御盆の行事なので、夏フェスのシーズンと重なるんですが、毎年稽古に通うようにしていますね。

それはパーカッショニストとして参加したということですか?

AC:違いますよ。「プロジェクトFUKIUSHIMAいわき」といって、DOMMUNEとも近い存在なんですけど、大友良英さんがやっているチームと暖簾分けするような形で活動してます。

震災があったのは、巡礼が活動を停止しているときですものね。

AC:そうでしたね。ただ不思議なのは、ばく自身、3月11日は大友さんのレコーディングをしていたんですよ。で、その前日までいわき市にいたんです。いわきでワークショップをしていて、大友さんのレコーディングのために常磐線に乗って戻ってきたんです。

■震災はどういうかたちで知ったのですか?

AC:いや、だから東京も揺れましたから。あの震災を大友良英とともに経験するわけですよ。ぼくは大友さんが毎年福島市でフェスティバルをやる日に、いわき市での弔いの郷土芸能が必ず重なるので、いわき市から数時間かかる大友さん達の福島市の行事には物理的に行けないわけですよ。毎年の行事の日程は変わらないですから。それと、福島は原発事故でとんでもない事態になっちゃったけれど、それをも知らないで津波で流されたまんまのひとが、いわき市にはたくさんいるんだと。この風習はね、レクイエム過ぎるほどのね……。

今回は「ひと」なんですよ。ひとに向けているし、なにげなく生活のそのへんに存在する音楽であってほしい。

死についてなにか言及したいというつもりも何もないのに、生きていたらこんなふうになったんです。ただ巡礼としての曲をつくっただけなんですけどね。いびつに見えるかもしれないけど、きわめて愛に満ちた音楽ではあると思ってるんですよ。

そのレクイエムの空気は、このアルバムに確実に確実に入っていますね。

AC:(“花-a last flower-”の歌詞の)「花が咲イタヨ」の「花」もそうかもしれません。でも、あれはちょっと神様っぽいというか……今回は「ひと」なんですよ。ひとに向けているし、なにげなく生活のそのへんに存在する音楽であってほしい。そういう思いが強いですね。

今作には“2月(まほうver.)”が入っていますね。オリジナルの作者、bloodthirsty butchersの吉村秀樹さんもすでに亡くなられていますし。

AC:死んでしまったとか、生きてないとか、そういうことが多く関わっている作品ですよね。ただ、やっぱり、死んじゃうんですよね……ひとは。だからといってこの作品が「死のまとめ」ということにはならなくて。死がいっぱいというだけではね。

結局受け入れるしかないというのか。震災にしてもいろんな理不尽に対する怒りはありつつ、しかし、受け入れないとどうしようもないことが多すぎる。死はその究極ですよね。

AC:悲しんでいる場合でもないというか。たしかに、受け入れるということでしょうね。受け入れなくてもいいけど、ただそうある。

(目の前の過酷な現実を)認めるというのはつらいことだけど……。

AC:死を語らないという死への触り方もあるのかもしれないですけど、死についてなにか言及したいというつもりも何もないのに、生きていたらこんなふうになったんです。ただ巡礼としての曲をつくっただけなんですけどね。だから、後付けではいろいろ言えるんですが。ただただ、出会ったり、死んだり、人間に普通に起こることが起こってくるんです。不思議なものです。いびつに見えるかもしれないけど、きわめて愛に満ちた音楽ではあると思ってるんですよ。

愛に満ちていると思いますよ。「受け入れる」という行為だって、愛をもってそうしなければ、できないですよね。とくに死は。

AC:あとは、ごまかすということですね。悲しみなんてごまかしちゃえばいいとも言えるんです。ことばって、終わっていくじゃないですか。僕はそういうときのことばが好きなんです。リズムというか。たとえば強めにものを言うときに「あ」とか「えっと」とか言う、これもひとつのリズムだし。なぜかわからないですけど、リズムのことや太鼓のことを考えていると、それを音符で書けるようになっちゃって。それがベーシックなんです。それをPCでチョップしていくんです。

それはすごいな……どうして音符に書けるようになったんですかね。

AC:ぜんぜん複雑な構成のものでも、即興的なものでもないんですけど。「お お おお おお しま お お」(“まほう”)……とか、こういうのも全部音符で書いているんですよ。

譜面化できるんだ! コードは付いていないんですよね?

AC:まだ付いていないですね。このリズム譜で言葉はチョップできるんです。僕はPCで作業をするのが下手なので、こういう譜面がないとイメージ通りにならないんですよ。ウチコミ担当のひとといっしょにつくっていくんですけど。

いっしょにつくる方というのはどなたですか?

AC:安宅(あたか)秀紀さんといいます。クレジットではエンジニア扱いになってますけど、メンバーみたいな人です。

いつから共同作業をされているんですか?

AC:えっと、以前に巡礼でプログラミングとかをやってくださっていた浦山秀彦さんが辞める前後からですね。

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最近ミャンマーのトラディショナル・ミュージックがおもしろくて。これまであまり紹介されてこなかったみたいなんですけど、ハマっちゃって。


ASA-CHANG&巡礼
まほう

Pヴァイン

PopExperimental

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今回はゲストがたくさん参加されていますけれども、どんなふうに決められたんですか? たとえば「おかぽん」さんはどういう経緯でのオファーになったんでしょう。

AC:おかぽんは普通の女の子なんですけど(笑)。あんまり自分の名前を出したくないということでそういう表記になってます。とてもこのアルバムに似合うような、声優っぽい声をした子で、それで「やってくんない?」って誘ったんです。匿名希望の一般人です(笑)。

朝倉さんがイメージされている声にぴったりだった、と?

AC:「お お 」(同前)とか言ってるのも全部彼女なんですけど、あの声が魅力的だなと思って。

“ビンロウと女の子”にもすごく合いますね。

AC:李香蘭とかじゃないんですけど、結果的にあんなふうになりましたね。ぜんぜん中国風のものではないものをつくろうとしていたんですけどね(笑)。アジアの中でも南国のほうの雰囲気で。

ビンロウ(※中国語で檳榔。ヤシ科の植物。種子は嗜好品として噛みタバコに似た使われ方をする南方の特産物)ですからね。  

AC:そうなんですよね。最近ミャンマーのトラディショナル・ミュージックがおもしろくて。これまであまり紹介されてこなかったみたいなんですけど、ハマっちゃって。すごくかわいいんですよ。コシが入っていなくてふわふわしていて、でもかっこよく聴こえて。それに影響されているかもしれませんね、この曲は。

どこで聴く機会があったのですか?

AC:民族系パーカッションみたいなことをやっていたりすると、コメントを書いてくれっていう依頼がきますから、それで知ったんです。まあ、“ビンロウと女の子”だってそれほどミャンマーっぽいわけではないんですけどね。ベトナムとかカンボジアとかって、映画とかの影響かもしれないですけど、ちょっとエロティックなイメージもあって。それに口の中を真っ赤にしてビンロウを噛んでいる男性がいっぱい登場しますよね。そんな不思議な感じにも影響されているかもしれません。

作詞の松沼文鳥さんはどういう方ですか?

AC:NHKの番組なんかに作品を提供していらっしゃる方なんですが、作詞家さんというわけではないんです。ただ、とても言葉がおもしろいので、けっこう前からいっしょにやらせていただいています。

松沼さんの言葉のどんなところに惹かれるのですか? 今作では“アオイロ賛歌”、“ビンロウと女の子”、“木琴の唄 –Xylophone-”と3曲の作詞に参加されていますよね。

AC:“アオイロ賛歌”は、2012年にお願いしました。戦前感というか、そんな雰囲気のものがおもしろくて。「壊れちゃった懐メロ」という感じの曲が巡礼には多いので、彼女の詞がおもしろくなっちゃったんですね。

スカパラ時代から知っている人にしてみれば何にも変わらないじゃんっていう感じだと思います。メインストリームからの外れ方も、昭和感も……そんなふうに言ってくれる人がいるのはとてもうれしいですよ。

壊れた懐メロ(笑)。そうですよね、昭和歌謡がブームになるずっと前──スカパラ時代からそういう和モノの影響は垣間見えましたよね。

AC:そう、あまりテイストは変わってないんですよ。

一貫していますよね。

AC:で、ヴォーカル・チョップ以外の曲がはじまると、「スカとマンボ」(=“スカンボ”  )なんて感じで壊して、ごちゃ混ぜミックスするようなことをやって楽しんでみちゃう。やっていることはわりといっしょなんですよね。“木琴の唄”の詞がすごく好きですね。

あ、これは『つぎねぷ』(02年)の収録曲“Xylophone”をつくり直したんですね。

AC:『つぎねぷ』にも入っていた曲ですね。こういう曲調にもかかわらず英語の詞だったんです。それを今度は和モノでやろうという。テイストは、スカパラ時代から知っている人にしてみれば何にも変わらないじゃんっていう感じだと思います。メインストリームからの外れ方も、昭和感も……そんなふうに言ってくれる人がいるのはとてもうれしいですよ。よくぞ、ずっと聴いてくださっているなあと。

撒かれた胞子が世界中にどんどん広がって、これからもたくさん、不思議なおもしろい花が咲いていくのでしょうね。ところで、“2月(まほうver.)”の間奏に“ハイサイおじさん”っぽいメロディが出てきますよね。あれはかなり意識されて入れられたものなんですか?

AC:意識したわけじゃないんですけど……。“2月”は、ほんとはダークな曲で。それで、なにか、茶化したい気持ちがあったんですね。bloodthirsty butchersの名曲中の名曲なんですけど(96年発表の4thアルバム『Kocorono』収録)、映画になっちゃうくらいの吉村(秀樹)くんの精神の暴れん坊が凄いというか、彼とは結構深く付き合っていた時期があったんです。それで、ななんだか茶化したかったというのが、なぜかあるんですよね。ブッチャーズ・ファンからは相当糾弾される曲なんじゃないかと思うけど。でも、似たヴァージョンをすごく前に出したことがあるんですけど、そのときは無反応でしたね(笑)。

どう受け止めていいかわからない?

AC:そう、わからないみたいです。フォロワー的なアーティストによるトリビュート・アルバムとかも出たんですけど(※14年1月、3月、5月にかけて『Yes, We Love butchers ~Tribute to bloodthirsty butchers~』という通しタイトルのもと、『Mumps』、『Abandoned Puppy』、『Night Walking』、『The Last Match』と計4作が〈日本クラウン〉からリリースされる。ASA-CHANG&巡礼による“2月”のカヴァーは『The Last Match』に収録)、いちばんいじっちゃいけないような曲なので……。

“花”を聴いたときに、同じタイトルを持つ喜納昌吉さんの曲(“花~すべての人の心に花を~”)  をどうしても思い浮かべてしまったんですけど、あれもいつのまにかスタンダード中のスタンダードになりましたよね。そういう「いつのまにか」感も似ているなと思いました。

AC:最初は言われましたね、やっぱり。「あの“花”やろ? 最高やなあ!」とかって。「人は流れて……ってやつやろ? よくぞあれをカヴァーしたねえ!」(笑)。もう面倒くさいから「ハイ」って言っとくしかないかなあって思ってました。

朝倉さんの“花”は、安直な解釈を受け付けない、ある種のカウンターとして現れたというところはあると思うんです。これからも、ぼくらの想像を超える残り方をしていくんじゃないかと思います。

エンディング曲だけは、お話をいただいたりはするんですけどね。でもサントラそのものはあまりお声が掛かんなかった。だから、やれることがとてもうれしくて。

椎名もたさんのお話も伺いたいのですが、昨年7月に20歳という若さで亡くなられたボカロPですよね。前からお付き合いがあったんですか? 

AC:亡くなるちょっと前にイヴェントでいっしょになったんですよ。対バンというかたちで。それで、30歳も離れているのに意気投合しちゃったんです。「今度いっしょに何かつくろうねー」って。でも、いつ死んじゃってもかまわないっていうような……ポーズではなくて、本当にまわりが危機感を感じるくらい、生への執着がないようなところがありましたね。(レイ)ハラカミくんが亡くなった後、関係者が彼のPCに残っていた未完の音源を発掘したりしてましたよね。あのとき僕はあんまりいい気持ちがしなかった。そんなの当然望んでないよって。でも、今回は何か大丈夫な気がして、実際に提案すると反対も起きなかった。レーベルからもご親族の方からも。それでつくっちゃいました。ボカロの人なんですけど、本人の声があるのでそれを使って。

生声で、というところに意味があるのでしょうか。

AC:彼は歌がボカロかどうかというところは執着があまりないみたいでね、できれば自分で歌いたいと思っていたみたいです。ちょうどそういう時期だったというか。

では、ある意味ではその願いが叶ったというか。

AC:そうですね、ちょっと未完成っぽく、リハスタで録ったみたいなラフな感じの音にしました。完成形にはしない──僕だけが完成形をリリースするということはしたくないなと。ほとんど言い訳ですが。

ASA-CHANG&巡礼が音楽を手がけた映画『合葬』(監督:小林達夫、原作:杉浦日向子/2015年9月公開)のED曲をリアレンジしたもの(“エンディング”)が、ラストの“告白(Cornelius ver.)のひとつ前に置かれていますが、丸ごとサントラを手掛けられたのは初めてですか? 

AC:初めてですね。エンディング曲だけは、お話をいただいたりはするんですけどね、“花”はそうです(01年、監督:須永秀明、原作:町田康の映画『けものがれ、俺らの猿と』主題歌に起用) 。でもサントラそのものはあまりお声が掛かんなかった。だから、やれることがとてもうれしくて。サントラが盤になりにくい時代に盤になったりとかもしているので、そのあたりもありがたいです。それで、このアルバムに使っているものは、この作品に合うようにつくり直したものです。

ANI(スチャダラパー)くんは前からASA-CHANG&巡礼の舞台公演やライヴにダンサーとして参加していたのですね?

AC:そうなんです。もう、声は出さなくてもいいよって。存在がつねに大好きです。職業「ANI」っていう……(笑)。彼はしゅんしゅんと敏捷には動けないんだけど、とても存在感があるダンスをしてくれるんです。フリースタイルというわけではなくて、ちゃんと振付があるんですが、それも覚えてくれてるし。舞台人としてとてもちゃんとしているんです。

演劇人であるかのように存在してますよね、この“ANIの「エンドレスダンス」体操”という作品の中に。。

AC:そうですね。宮沢章夫さんのところとかでもやっていると思うんですよ。あとは映画とか。……ちょい役のスーパースターみたいなところで。

そこを攫っていく。

AC:そうそう。「さっき出てたの誰!?」みたいな(笑)。そんな良さがあって。それで、幕間に「ANIの声だな」ってなったらおもしろいなと思ったんです。おもしろい、というか、景色が変わってくる気がして。

挑発するような、トゲのある音をやめてしまったし、風通しのいい音だけにしちゃったので、「巡礼は“花”の時代で終わったな」「巡礼・イズ・デッド」って言われるんじゃないかって。

そう、まさにそんな役割ですよね。今作『まほう』は、これまで以上にいろんな言葉がアルバムの中で跳ねたり、宙を舞ったり漂ったりして、それが音と絡み合っている様が、シアトリカルでもあり、すごく立体的に世界がひろがってくる感じがして、本当に独特ですよね。こういうのを何て表現したらいいんだろう。映像的だというのもちょっとちがうし……今回のアルバムは、結果的に全部歌ものになったという感じですか?  

AC:そうですね。(出来上がってから)「インストないや!」って、びっくりしちゃって。

ある意味ではインストありきのバンドであるかのように感じますけれども。

AC:ねぇ、あたらしく器楽奏者を2人も迎えといてね。「これちょっと歌って」っていうことばかりで、みんな我慢してて偉いなあって思います(笑)。

(笑)では、完成したときの手ごたえはいかがでしたか?

AC:こうやって取材をしてくださって、褒めていただいたりしてから、ちょっと勇気が出ましたけど、はじめはもうダメだと思ったんです。

それはどうしてですか?

AC:挑発するような、トゲのある音をやめてしまったし、風通しのいい音だけにしちゃったので、「巡礼は“花”の時代で終わったな」「巡礼・イズ・デッド」って言われるんじゃないかって。それを考えると、マスタリングをして完成しても通して聴けなかったりしました。失敗作をつくってしまったんじゃないかと……。巡礼の音楽には雛形がないから、擦れ合わせるような保険がないんですよね。

聴いたひとのリアクションを待たないとわからない。

AC:だから、ライターさんとか、こうやって取材で質問してくれるひとが褒めてくれるだけで、いまは僕は幸せです。

01年にセカンドの『花』が出た後に、ファーストとセカンドをカップリングしたイギリス盤が出ますよね(『Jun Ray Song Chang』02年/リーフ)。最近リイシューされましたけれども(『20th anniversary vinyl reissues』15年/リーフ)、僕はヴァイナルが欲しいなと思って、それを買っちゃいました。

AC:ほんとですか。あれカッコイイですよね。いったい何枚入ってるんだっていうボックス・セット(『Leaf 20 Vinyl Box Set』15年/リーフ)俺も買おう(笑)。 

(『花』の当時は)音楽評論としてはどう書いていいかわからなかったんじゃないですかね。あたりさわりのないかたちで触れられていたと思います。

『Jun Ray Song Chang』が最初に〈リーフ〉から出たとき、『WIRE』誌の2002年ベスト・アルバム第4位に選ばれましたよね。『MOJO』や『MUSIK』の年間ベストにも取り上げられたりして、ヨーロッパで大評判になったわけですけれども、そのときはどんなふうに感じられました?

AC:もう、褒められるのが好きなので、そりゃあうれしかったですよ。ざまーみろ日本て(笑)。

国内の反応は?

AC:まあ、ゲテモノ扱いですよね(笑)。「なんだかヤバい」──これはいまふうの言い方ですが、そんな雰囲気はありましたけども、音楽評論としてはどう書いていいかわからなかったんじゃないですかね。あたりさわりのないかたちで触れられていたと思います。ディスるならディスってくれ、とまではいはいわないんだけど……。

それが、意外なことに海外では評判だったと。

AC:はい。チリとかアルゼンチンとかからの反応もあって。あとはヨーロッパ。でも、不思議とアメリカからの反応はほとんどなかったですね。カレッジ・チャートとかにもかすりもせず。

そうなんですね。「ピッチフォーク」とかにも載らなかったんですか?

AC:どうだったかなぁ(※2003年1月8日付で『Jun Ray Song Chang』、同年3月23日付で『つぎねぷ』のレヴューが掲載されている。前者は8.0、後者は7.0と評価された)。でも、トーキング・ヘッズの──

あ、デヴィッド・バーンが?

AC:そう、彼と周辺のひとたちが追っかけてくれたりはしました。ものすごく褒めてくれたのは覚えていますね。本当にうれしかったですよ。フランスだと、日本で言えばマツキヨみたいな、どこにでもあるドラッグストアのCM音楽になってました。

フランスに親和性があるというのは、なぜかわかる気がしますね。アヴァンギャルドとポップが入り混じることに対する許容度が高い。しかし〈リーフ〉から出たASA-CHANG&巡礼のイギリス盤は、レーベル始まって以来の売り上げだったそうですね。

AC:ススム・ヨコタとか、巡礼とかっていうイメージはありますよね、〈リーフ〉は。

ススム・ヨコタさんの『Sakura』とかも〈リーフ〉なんですね。今回の作品は海外リリースの予定はあるんですか?

AC:それは、お話があればぜひ。でも、どういうかたちで出そうかというのは迷うところですよね。

CDの前にライヴで曲をつくるなんてことは考えられなかった。でもいまはなぜかアルバムの前にライヴでを新曲をやっているんですね。

朝倉さんは、「かつては楽曲を再現することに苦労していたけれど、いまはライヴ先行なんだ」と発言されていましたけれど、それはいつごろから意識の変化が起きたのですか?

AC:“まほう”とか“告白”とか、僕らにとって大きな意味のある曲は、まずCDでどーんと発表して、まさかライブで演奏なんかできるのか、という感じだったんです。それをあとから演奏可能にしていくというね。CDの前にライヴで曲をつくるなんてことは考えられなかった。でもいまはなぜかアルバムの前にライヴでを新曲をやっているんですね。人とコラボする「アウフヘーベン!」っていうライヴ・シリーズがあって(※「vol.1 室伏鴻(振付家/舞踏家)」14年9月23日@青山CAY、「vol.2 勅使河原一雅(アート・ディレクター/映像作家)」14年12月6日@青山CAY、「vol.3 押見修造(漫画家)」15年3月10日@渋谷WWW)  

ここまで越境的な異種格闘をしているのは、他に七尾旅人くんぐらいしか思い浮かびません。旅人くんとは時々共演されていますね。表現の可能性を探る実験としてものすごくアヴァンギャルドなのにポップな表現として成立するところが、朝倉さんと旅人くんの共通点であり、稀有なところだと思います。新編成になる前(10年4月)に事務所をプリコグに移籍されていますね。そのへんも何か影響があったのでしょうか。

AC:そうですね。ミュージシャンをマネジメントするのではないひとたちのほうが、僕らとうまくタッグが組めるのかなと思いました。演劇というか、パフォーミング・アーツのチームですけどね。

J-POPにも現行の東京インディー・シーンにも属さないASA-CHANG&巡礼の居所としては、いちばんしっくりきているような気がしますね。今後どういう活動をしていきたいというふうに思っておられますか?  

AC:活動がここまで本当にとびとびだったので、巡礼をもうちょっとうまく機能させていくっていうことが、僕の力だと──僕のやるべきことだと思っていますね。

Kiyoshi Izumi - ele-king

 キミは和泉希洋志を知っているか? どうだ、知っているか? るかるかるかるかるか……(←ディレイをかけたつもりです)
 和泉希洋志は1997年、リチャード・D・ジェイムスとグラント・ウィルソン・クラリッジによるレーベル〈Rephlex〉から六角形のCDケースに入ったEPでデビューしたプロデューサーで、まったくつかみどころのないエレクトロニック・ミュージシャンである。2004年に『Protocol A 』というまったく素晴らしいアンビエント作品、2011年にaSymMedley名義でアルツのレーベルから『A G E Of Sun Edge』を出して以来、しばらく音沙汰のなかった彼だが、どうやらカレー屋を運営していたようだ。
 久しぶりにリリースされた新作『BOUNDARIES』は、CDにして4枚組。しかもカレー屋SOMAのレシピ付き、かなり本格的に、カラー写真込み、9品の料理のレシピが紹介されている。パンチの効いた味で心身共にすっきりなれるからだろうか、音楽が好きでエスニック料理が好きな人はなぜか多いのだが、このブックレットはかなりそそられますぞ!
 4枚のCDは、エレクトロニックな1枚があり、ジャズ/ビートの1枚がありと、1枚ずつテーマがあるが、そのすべてが和泉希洋志らしくまったくつかみどころがない。
 4枚のCDの入ったダンボール紙のボックスには、自身が描いた7メートルに及ぶ絵画の切れ端が貼られている。まさにアーツ&クラフト運動的なインディのあり方で、この手作りの感覚こそいま最先端なのだ。


和泉希洋志
BOUNDARIES Limited Edition

bitSOMA

ElectronicBreaksExerimentalDowntempo

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interview with Koshiro Hino - ele-king

 昨年のセカンド『Rhythm & Sound』で、goatはオルタナティヴなロック界隈はもとより、クラブ・ミュージック、とくにエクスペリメンタルな志向性のダンス・カルチャー周辺にもその存在感を浸透させつつあるのは、暮れにDJ NOBUの話を訊いたときにも思ったのだった――と、だしぬけの宣伝で恐縮だが、そのインタヴューを収録した『クラブ / インディ・レーベル・ガイドブック』がもうしばらくしたら店頭に並びます。古今東西のクラブ、インディ系のレーベルを国別に総括した類例のないガイドブックで、刺激的な音に目のない親愛なる弊媒体読者にはうってつけであるとともに、この世にはかくも音楽レーベルがなるものがあるかや、と感嘆必至の一冊になったと自負するが、goatの日野浩志郎が運営するレーベル〈birdFriend〉も本書はとりあげている。〈birdFriend〉はフィジカル・リリースにおいてカセットが復権したころあいをみはからった感があるが、レーベルを手がけながらgoatと並行してハードコア・ユニット、ボナンザスを率い、YPY名義でソロ活動にいそしむ日野浩志郎があらたに大編成のプロジェクトを始動すると聞いたのは、本書の入稿を終えたころだった。新プロジェクトはヴァージナル・ヴァリエーションズなる名称で、昨年12月大阪で一度ライヴを行い、今週末の東京で公演は2度めだが、ロック・コンボの可能性をきりつめ、機能性へ反転させた日野浩志郎が、大阪公演よりさらに人数を増やした編成――そのなかにはさきごろ新作をリリースした服部峻らも含む――でなにを志向し、どうおとしこむのか、大阪の日野浩志郎に質問状を送った。これは宣伝ではないどころか、ジャンルを問わず、2016年のもっとも刺激的な音を耳にするまたとないチャンスである、マジで。

■日野浩志郎 / ひの・こうしろう
大阪を拠点として活動するミュージシャン。バンドとしてはgoat、bonanzasのリーダーとして、ソロではYPY名義で名を馳せ、カセットレーベル〈birdFriend〉も主宰する。goatでは2013年にファースト・アルバム『NEW GAMES』、2015年にはセカンド・アルバム『Rhythm & Sound』を、bonanzasでは2枚のライヴ・アルバムにつづいて2013年にファースト・アルバム『BONANZAS』を発表。

クラシック楽器を含めた大編成ユニットの構想は3~4年前くらいからありました。

新プロジェクト「ヴァージナル・ヴァリエーションズ(Virginal Variations)」はどのような経緯で生まれたのでしょう? またヴァージナル・ヴァリエーションズ(以下VV)というグループ名の由来について教えてください。

日野浩志郎(以下日野):アイデアが生まれた具体的なきっかけは憶えていないんですが、クラシック楽器を含めた大編成ユニットの構想は3~4年前くらいからありました。わかりづらい表記にしてしまったんですが、ヴァージナル・ヴァリエーションズというのは作品のタイトル名兼ユニット名であり、次の作品ができた際は「Hino Koshiro plays」の後ろが次の作品名に入れ替わる予定です。
 正直なところ、このプロジェクトをはじめようと踏み切ったときにはっきりとしたコンセプトは定まっていませんでしたが、このユニットで試したいと思っていた漠然としたアイデアはいくつもありました。しかしこれといって統一性はなく、さらにそのアイデアは実際に音を出してみないと使えるかがわかりませんでした。とにかくやっていくうちにまとめていこうと思い、最初につくった曲群の作品ということでヴァージナル(処女らしい、無垢の)ヴァリエーションズと名づけました。

日野さんはgoatやbonanzasでも活動されていますが、これらはいわゆるロック・バンドの編成です。より大部の編成で音楽をつくりにあたり、これまでとちがったところはありましたか。

日野:初ライヴは昨年の12月に行ったんですが、結成のタイミングにかんして特別ななにかを狙ったわけではありません。前にロンドンに行ったとき世話になったグリム・グリムの大阪公演を僕が企画することになったんですが、ソロもバンドも合わないかもしれないと思いこのユニットを試してみることにしました。
 公演の約一カ月前にメンバーを集めて練習を開始したんですが、じつはそのときかなり苦戦しました。バンドの制作をする際は、goatやbonanzasは弦楽器があるものの各楽器をほぼ打楽器として捉えてダンス・トラックを作るようにPC上でデモをつくっていくんですが、VVはハーモニーも重要となります。DTMはそこまで得意ではないのでPCではデモをつくらず、ギターと鍵盤を使いながら脳内で想像しノートとペンで作曲をしていく必要がありました。それも慣れない編成なので事前に考えていたアイデアは使えるものは少なく、練習でアイデアを出していちからつくるはめになりました。それはそれで楽しかったんですが、人数も多いのでなかなか全員で音を出すことができず時間もないので初ライヴ前は本当に気が気でない状態でした……。

DTMはそこまで得意ではないのでPCではデモをつくらず、ギターと鍵盤を使いながら脳内で想像しノートとペンで作曲をしていく必要がありました。

始動にあたり参考にされた作品やグループなどありましたか? 音楽でなくともかまわないですが。

日野:参考にした作品は多くあります。3月13日に原宿VACANTで行うライヴは全部で5つのフェーズに分かれているんですが、それぞれのフェーズで少なくともひとつ以上のモチーフがあります。それを解体していき自分なりに表現していこうとしているんですが、それひとつひとついうのもヤボなのでここでは控えておこうと思います。
 ただ、作品を組み立てていく上で少しずつコンセプトのようなものが見えてきました。ヒントのひとつはエリオット・カーターの弦楽四重奏曲です。正直なところその曲自体はとっつきにくいんですが、作曲の方法がとても興味深いものでした。たとえばある人は巨匠のように、また別のある人はおどおどした感じで弾くなどそれぞれの演奏者にキャラクターを割り当てたり、グループを分けて同時にまったくちがうことを演奏するなどしているところに大きくインスパイアされました。

VVにはさきごろ〈noble〉から新譜を出した服部峻さんやゑでぃまぁこんの元山ツトムさんなども参加されていますが、メンバー編成はどのように決まったのでしょう? また13日のライヴでは〈関西メンバー〉にさらに多数の管と弦が〈東京メンバー〉として加わるようですが、これは(ユニゾンによる)音量の獲得を意図しているのか、それとも(アンサンブルの)複雑さを目的としているのでしょうか?

日野:服部くんにかんしては元々VVとは別に二人で新しいユニットをはじめようとしていました。お互いに忙しくてなかなか進んでいなかったんですが、今後一緒にやるユニットの潤滑剤になればと思い誘いました。このVVが土台となり服部くんとなにか新しいことをする可能性もあります。
 モツさん(元山ツトム)や元ウリチパン郡のカメイナホコさん、チェリストの中川くんなど、参加してもらっているメンバーには本当に感謝しかないです! ゼロからはじめたユニットだったのでかたちにするまでにかなりの労力が強いられるだろうと思い、twitterでメンバーを公募して学生などと実験をしながらつくっていきたいと思っていたんですが、なんと連絡は一人も来ず! 結局身近な人たちにお願いすることになりました。
 初ライヴでは合計8人で当初考えていたハーモニーのアイデアをうまく生かすことができなかったため、東京メンバーを足して表現の幅を増やそうと思いました。あと単純に音量獲得も目的のひとつです。なるべく生楽器はマイキングせず、スピーカーから出る音は電子音だけにして生楽器と電子楽器を完全に分けてしまいたいというのが理想です。しかし実際は楽器の配置を考えたとしても弦はドラムや管に負けてしまうので恐らく弦楽器はラインかマイクで拾ってスピーカーから出さないといけなくなりそうです。理想をかなえるには弦楽器があと2~3倍程度必要かもしれないですね。

譜面はありますが、ほとんどメモ書きのようです。実際に会って説明しなければ、その譜面を見ても理解することは難しかったと思います。

音楽の話が後手にまわってしまいましたが、お送りいただいた練習音源を一聴したところ、VVにはハードコア、ドローンの点描的、という形容はそもそもドローンと矛盾していますが、そのまさに拡大版の趣きだと感じました。厳密に譜面とはいえなくとも、おそらくなにがしかのスコアはあると思いますが、それはどのようなものでしょうか? それにスコアがあるとしたら、それぞれの演奏者はどれくらい裁量を任せられているのでしょう。

日野:聴いてもらったのは初ライヴ前の荒削りな音源なんですね。実はこれでもほとんど演奏者には自由はなくて、決められているものを演奏してもらっているんです。もちろん譜面はありますが、ほとんどメモ書きのようです。東京のメンバーとは先日はじめて練習をしたんですが、実際に会って説明しなければ、その譜面を見ても理解することは難しかったと思います。
 Yoshi Wadaの『The Appointed Cloud』という作品があるんですね。この作品にはグラフィック・スコアのような譜面があるんですが、実際はもっと細かく決められていて特にドラムにかんしては詳細なドラム譜が存在します。
 「ヴァージナル・ヴァリエーションズ」は、フェーズのある部分によってはルールを設けたり、また即興のパートもありますが、このユニットで表現したいのは個人個人の能力を発揮させていくようなものではありません。もちろん作品の範疇で自分らしさを表現するのは大歓迎ですが、海外公演も視野に入れていて現地の人を入れての演奏も考えているので「その人にしか演奏できない」というようなものを譜面に入れるのは避けています。

日野さんはgoatなどで、最近はDJ NOBUさんら、クラブ・ミュージックにも接近しています。YPY名義での活動はもちろんありましたが、『Rhythm & Sound』移行の環境の変化(?)とVVの音楽とはなにか関係がありますか

日野:クラブ界隈と密接につながりはじめたのは最近ですが、goatをはじめる前から好んでクラブ・ミュージックをよく聴いていたのでVVの音楽への影響というのはあまりないと思います。しかしながらドネイト・ドジーやRrose、クラブ以外ではスティーヴン・オマリーやオーレン・アンバーチなどジャンルを軽く超えて表現をしていくひとには深い共感を持っていますし少なからず影響を受けています。『Rhythm & Sound』後の変化といえばEUのブッキングエージェントを獲得したということがいちばん大きいですね。さらに昨年末のFUTURE TERRORで、ある方からすごく光栄なお話もいただき、こういったことの積み重ねがVVをはじめる自信のひとつとなりました。
 VVでやろうとしている音楽というのははっきりいって広い層に対してアピールできるものではないかもしれません。だからといって難しそうなものの表面だけをさらってポップに表現し、あたかもそれらしい説明をつけ加えてアート初心者にもどうぞ……というのは正直毛嫌いしているものが多いです。最終的によかったらなんでもいいんですが。

誰でもできそうな単純なパターンの快楽は避けていて、聴いたひとが簡単に説明できないナゾをつくり出したいと思ってます。

 自分なりにVVの音楽はわかりやすくパッケージングしたつもりですが、全体を通して聴くと少し複雑に聴こえるかもしれません。これだけの人数を揃えてドローンをして快楽に向かうというのは比較的簡単に思いつきます。なので誰でもできそうな単純なパターンの快楽は避けていて、聴いたひとが簡単に説明できないナゾをつくり出したいと思ってます。しかし説明がないと聴いても面白くないというのも避けていて、よくわからないけどとにかくすごい! と思えるものをつくることが目標ですが、実際にそういった音を実験するためには責任と経費が重くのしかかってきます……。3月13日のVACANTの公演はソールド・アウトになっても赤字になる可能性があります。これがもしgoatやYPYなどの活動をしていなかった場合は興味をもってもらうのも大変なことで、もし数年前にVVをやっていたらいまよりもっと厳しい状況だったでしょう。

日野さんには楽器のクレジットがありませんが、VVではコンダクターということなのでしょうか、それとも演奏パートを担当されるのでしょうか。

日野:宣伝を開始した時点で全体があまり見えていなかったので、自分が何を担当するかは決めていませんでした。今回の公演では9割コンダクターに徹し、残りはドラムマシンを操作する予定です。ちなみに初公演の際はギターとピアノも担当していました。理想はコンダクトのみですね。

VVでは服部峻さんは「アレンジャー」とのことですが、おふたりはどのようにして曲をかためていったんですか。

日野:服部くんはアイデアに富んでいて本当に刺激を受けます! 初公演では服部くんは未参加でしたが、最初の公演に向けて作曲しているときに服部くんの新作『MOON』を聴いてとてもインスパイアされました。今回の公演ではアレンジをする時間があまりとれず、服部くんにかぎらずモツさんやカメイさんの意見を取り入れて少しずつアレンジを加えていきましたが、今後服部くんの存在は大きくなっていくだろうと思っています。

お金もかけひとを巻き込んで実験をしていて、以後同じ内容の公演はないのでぜひ公演に足を運んでください。

VVの音源のリリースは予定されていますか(フィジカルでなくても)? 予定があるとすれば、気の早い話で恐縮ですが、いつになりそうですか?

日野:リリースの話をしているレーベルはあります。それも僕にとってそのレーベルはVVを出す上でいちばんの理想といえるレーベルです。本当にリリースできるか現段階ではわかりませんがとても興奮しています! 時期は分かりませんが今年中に録音できればと考えています。録音のアイデアもいくつか浮かんでいるので録音が楽しみです!

3月13日のライヴにかける意気込みをお聞かせください。あと公演告知のヴァージナル・ヴァリエーションズの後に(プロトタイプ)とつけたのはなぜですか。

日野:VVはいずれヴァリエーション群を固めていき、ひとつの大きな作品に落とし込もうと考えています。いまはそのヴァリエーションを増やしたりひとつひとつビルドアップさせている段階なのでプロトタイプとつけましたが、先にもいったように海外公演なども視野に入れメンバーは流動的に考えています。メンバーのスキルや人数によってつくったヴァリエーションも変化していくかと思うので、演奏が固定することはなく永遠にプトロタイプなのかもしれませんがそれはそれで面白いかと思っています。
 僕にとってこのVVは大きなリスクを持ちつつ時間、精神力、体力をすべて注ぎ込んで臨んでいるプロジェクトです。お金もかけひとを巻き込んで実験をしていて、以後同じ内容の公演はないのでぜひ公演に足を運んでください。あとこの場を借りて恐縮ですが、関西もしくは関東在住で実験に付き合っていただける志高い弦楽器、管楽器の方のご連絡をお待ちしています!!

Hino Koshiro plays prototype Virginal Variations
日野浩志郎 ヴァージナル・ヴァリエーションズ(プロトタイプ)

2016年3月13日(日)18時
原宿VACANT
開場17:30 / 開演18:00

出演:
Hino Koshiro plays prototype Virginal Variations
〈関西メンバー〉
日野浩志郎
石原只寛(サックス)
呉山夕子(シンセサイザー)
服部峻(シンセサイザー)
島田孝之(ドラムス)
西河徹志(ドラムス)
中川裕貴(チェロ)
元山ツトム(スチールギター)
カメイナホコ(クラリネット、他)

〈東京メンバー〉
安藤暁彦(サックス)
安藤達哉(サックス)
戸畑春彦(サックス)
出川美樹子(チェロ)
池田陽子(ヴァイオリン)
本田琢也(コントラバス)
448(コントラバス)
Kevin McHugh(アコーディオン)
石原雄治(ティンパニー)
水谷貴次(クラリネット)
松村拓海(フルート)

オープニングアクト:福留麻里
DJ:Shhhhh

料金:予約2,500円 当日3,000円(+1ドリンクオーダー)

予約:info@snac.in
件名「3/13 VV予約」とし、本文に「名前・電話番号・枚数」をご記入の上、ご送信ください。
こちらからの返信を持ってご予約完了となります。定員になり次第受付を締め切らせていただきます。

問い合わせ:SNAC
メール info@snac.in 電話 03-3770-5721(HEADZ内)
電話でのお問い合わせは13:00以降にお願いいたします。不在の場合はご了承ください。

照明:渡辺敬之、佐藤円
PA:馬場友美

主催:吾妻橋ダンスクロッシング実行委員会
助成:公益財団法人セゾン文化財団
協力:HEADZ、VACANT

IO - ele-king

イメージがリアルを追いつめる “CHECK MY LEDGE”

 2015年の東京のアンダーグラウンドを騒がせたビッグ・ハイプのひとつは、間違いなくKANDYTOWNだった。世田谷区南西部のベッドタウンを拠点とするこのクルーは、ランダムにドロップするヴィデオやミックステープ、さらにはストリート限定のフィジカルCDを通じて、東京の山の手エリア特有の、アーバンで洗練された空気を緻密に演出してみせた。トラックメイク、ラップとともに、映像制作やモデルまでこなす総勢15人。北区王子や川崎南部など、東京の郊外エリアからハードコアなバックグラウンドのトラップ・ミュージックが隆盛する中、「KANDYTOWN」という架空の街のコンセプトと、メロウなサンプリング・アートによって構築される90’Sサウンドは異彩を放っていた。じゅうにぶんに盛り上がったハイプと、おそらくは水面下でくすぶるジェラス混じりの反感。デビューの舞台としては申しぶんない好奇心が渦巻く中、KANDYTOWNの中心人物であるIOのファースト・ソロ・アルバム『SOUL LONG』はリリースされた。

 結論から言おう。IOは見事にハイプの内実を埋めた。彼はこの30年来の日本のヒップホップの伝統の正統な後継者だ。そして同時に『SOUL LONG』は、ジャンルの壁を超え、CEROやSUCHMOSなど、ヒップホップ以降のソウルやファンク、ジャズの咀嚼を通じてシティ・ポップスを現代的に更新/拡張しようとする、新世代のインディ・バンドたちの隣に置かれるべきレコードでもある。つまり、日本の若い世代による、アメリカ音楽のコンテンポラリーでフレッシュな再解釈。そこには、これまでの日本のヒップホップのエッセンスの継承だけでなく、それ以前から東京の文化エリートが綿々とつむぎ続けてきた、外国音楽の真摯な翻訳の伝統が息づいている。豪華プロデューサーたちの集結をうけて、巷では「日本版Illmatic」との言葉も飛び交っているみたいだけれど、『SOUL LONG』は20年前の黄金期ニューヨーク・ラップの焼き直しなんかじゃない。これは、噴出するリアルに対抗しようとする、想像力を武器にしたスタイルの美学だ。

                   *

 ルー・コートニーの“SINCE I LAID EYES ON YOU”の流麗なコーラスをバックに亡き親友の肉声をサンプルする”CHECK MY LEDGE”から期待を裏切らない。腰を落ち着けたIOのラップはどこまでもスムース。いわゆるトラップ以降の、フロウの独創性とフレーズの面白さで勝負する最近の流行とはまるで真逆だ。フロウを壊さぬようになめらかなライミングをキープし、ヴァースの終わりには狙いすましたパンチラインをキックしてみせる。それ以降も、なかばクリシェ的なセルフ・ボースティングやワン・ナイト・スタンド的な色恋沙汰、警察の職務質問をかわすきわどいシーンまで、あくまで一線を越えないクールさだ。

 世代を超えた精鋭プロデューサーたちによるトラックもそれぞれの個性を際立たせながら統一感を失わない。新世代の筆頭、ビート・アルバム『OMBS』で世界水準のビート・メイカーであることを証明したSIMI LABのOMSBによる“HERE I AM”、そしてDOWN NORTH CAMPの若きキーマン、KID FRESINOがビート・メイクとリミックスでの客演をこなす“TAP FOUR”が、とにかく素晴らしい。NEETZが笠井紀美子の楽曲をサンプルして90年代生まれのIOが歌う“PLAY LIKE 80’S”も、いまの東京のバブリーで、どこか殺伐とした空気をうまく切り取っている。KANDYTOWNの面々をゲストに迎えた“119MEASURES”ではスリリングに、BCDMGのJASHWONによる“CITY NEVER SLEEP”では叙情的に、それぞれ対照的にストリングスを使いわけるバランスも新鮮だ。
 クライマックスの終盤、ライムスターのMummy-Dによる完全に90’Sマナーの“PLUSH SAFE HE THINK”ではジャン・ミシェル・バスキアをさらりと引用し、生歌の日本語フックに挑戦した疾走感溢れる追悼タイトル・トラック、“SOUL LONG”はKING OF DIGGIN’、御大MUROプロデュース。いまや太平洋を越えた現象である、90年代の黄金期ニューヨーク・ヒップホップ再評価の流れに呼応して、どれもトラップ的なアプローチとは一線を画す、メロウな90’Sサウンドだ。とくにMummy-DとMUROのベテランならではのプロデュース・ワークは、フレッシュでありながらオーセンティック、というアルバム全体の印象を決定づけている。リリックには故DEV LARGEの名もさらりと飛び出すけれど、彼が存命中ならきっとこの豪華布陣に名を連ねていたに違いない、なんてことも思わずにはいられない。

 日米の90’Sリヴァイバラーの中でのIOの個性は、間違いなくそのメロウネスにある。それはけしてサンプリングを基調としたサウンドのムードだけのことではない。スムースなラップというのはたいてい歌に接近するものだけれど、IOはあくまでクラシカルなラップによって、ソウルフルなフィーリングを表現する。たとえば、ビースト・コーストの震源であるニューヨークのPRO ERAとその中心人物JOEY BADA$$には、サウンドにもリリックにもハードコアなヒップホップ・マナーが顕著にみてとれるし、そもそも長らく90’Sヒップホップの文法に呪縛されてきた日本のシーンで、真の意味での90’Sリバイバルを決定づけたFla$hBackSの洗練されたサウンドにさえ、そのフロウやビート・マナーには言語化以前の鋭い反抗のアティチュードが感じられる。それに対してIOは、あくまで優雅でドライなスタンスを崩さない。葛藤や苛立ちの棘、強い叙情を完璧なまでにコントロールして、ひたすらソフィスティケートされたドラマを演出してみせる。

 ラップというのはえてしてリアルを追求するものだけれど、ここにあるのは逆に、イメージを駆使してリアルを塗り替えようとする想像力だ。KANDYTOWNのミックスやヴィデオにはアメリカのソウルだけでなく、山下達郎の“甘く危険な香り”など、日本産のシティ・ポップスが印象的に登場する。そのことを踏まえれば、口にしてはいけないことを口にしない、この禁欲的な美学は、かなり確信犯的に選びとられている。東京郊外でリアリティ・ラップが盛り上がり、地上波ではフリースタイル・バトルの泥くさい熱気が溢れる中、サウンドの感触と言葉選びによって演出されるこのクールネスは、そのスムースな見た目とは裏腹に、とても野心的なものだ。郊外のトラップ・ミュージックがVICE JAPANのショート・ドキュメンタリーをきっかけに注目を浴びたのとあえて対比させるなら、IOとKANDYTOWNのバックボーンには明確に、映画的な感性がある。

 シティ・ポップス的な想像力を媒介とした、ヒップホップ以降のソウルやジャズ、ファンクのメロウネスの再構築。その音楽的な方向性は、足取りはまったく真逆だけれど、現在の日本のインディ・ロックともリンクする。それは、たとえばCEROがディアンジェロやロバート・グラスパーを経由して最新作『OBSCURE RIDE』で完成させたサウンドや、KANDYTOWNの一員である呂布も客演するSUCHMOSのデビュー盤『THE BAY』とも、切れ目なくつながっている。事実、CEROの“SUMMER SOUL”の12インチのリミックスを担当したのはOMSBだし、STILLICHIMIYAの田我流とカイザーソゼ、5lackの生バンドとのセッションなど、最近のアンダーグラウンド・シーンはバンドサウンドとの実験的融合に舵を切りつつある。
 ただ、こうした交錯現象は、いわゆるクロスオーヴァーとは少しおもむきが違う。本作には昨年急逝したKANDYTOWNの創設者、YUSHIが残したラップやビートがいくつか使われているけれど、彼はかつて、現在のOKAMOTO’Sの前身バンドのフロントマンをつとめていた。つまり、異なった音楽的バックグラウンドを持つ者たちが異種交流し、ハイブリッド的になにか生み出しているというよりは、もともと共通の音楽的素養を持つ者たちが、アウトプットとしてそれぞれ異なる表現方法を選ぶことで、自然にジャンルの壁を超えた交錯が生まれているとみるべきだ。これはディアンジェロやグラスパーの登場を背景とする、90年代以降のヒップホップを軸にしたソウルやジャズの更新なしにはありえなかったことだ。

 少し大げさな話になってしまうけれど、文句なしに去年のベスト・アルバムだったケンドリック・ラマーの『TO PIMP A BUTTERFLY』は、ヒップホップの人脈と若手のジャズ・プレイヤーの人脈が実際の血縁関係も含むクランとしてつながり、その制作を支えていた。サウンド面でのリーダーだったテレス・マーティンにいたってはア・トライブ・コールド・クエストとの出会いがきっかけでジャズの魅力に没頭していったというから、ようはヒップホップ以降の世代にとって、マシンのビートと生楽器による演奏というのはとくに大仰に線が引かれるものじゃない。J・ディラ以降の身体的なズレを反映させたマシン・ビートはすでにクリス・デイヴなど、ディアンジェロやグラスパーのサウンドを支えるドラム・プレイヤーによって、再帰的なプレイ・スタイルに昇華されてさえいるのだ。もちろん『SOUL LONG』そのものは、オーソドックスなヒップホップの方法論で制作されているけれど、そのスタイルがメロウネスを結節点にシティ・ポップスとの共振の萌芽をみせていることは、今後のシーンの動向を占ううえでも非常に重要だ。

 このアルバムのリリースされた2月14日は、KANDYTOWNとっては肉親同然の幼馴染みだった、故YUSHIの一周忌にあたる。作品に昇華するにはいまだ生々しいだろうその傷も、YUSHIの遺した謎の言葉を「ソー・ロング(さよなら)」と読ませるタイトル、詩的なリリックやアートワークを通じて、あくまでも寡黙に、コンセプチュアルに表現される。KANDYTOWN名義のミックステープ『KOLD TAPE』では、サックスをフィーチャーしたバンドサウンド、大橋純子の“キャシーの噂”といった昭和歌謡、JAY-Zやディアンジェロなどの90’Sクラシックをひょうひょうとビートジャックする、自由奔放な実験が繰り広げられていた。『SOUL LONG』のストイックなサウンドとワード・チョイスはおそらく、確固たるスタイルの美学に従って構築されている。

 KANDYTOWNのベースにシティ・ポップス的な洗練の美学がある、というのは、けして表面的な直感だけにとどまらない。1980年代に誕生したシティ・ポップスという日本独自のジャンルを牽引した大瀧詠一や山下達郎といったミュージシャンは、アメリカから遠く離れた島国で、本来は借りものであるソウルやドゥーワップ、ロックンロールなどの海外音楽のエッセンスを抽出し、綿密な計算にもとづいて、なかばフィクショナルに都市的な洗練を演出しようとしていた。それは同時に、直前の学生運動の熱狂、そしてその運動に同期したフォーク・ミュージックの情念や直接的なポリティカル・メッセージから意識的/無意識的に距離をとり、自分たちの新たなリアリティを創造する試みでもあった。

 海外音楽をヒントにした新たなリアリティの創出、というその伝統の遺伝子は、90年代来の日本のヒップホップのルーツにも、もちろん強く刻印されている。そもそもヒップホップのサウンドは、ジャズやソウル、ファンクの偉大な遺産を切り刻み、自分勝手なフレッシュさで再構築するという不遜な哲学にもとづいているけれど、参照先の音楽的遺産がもとより輸入文化である日本では、その情熱はいよいよレコードというフェティッシュなモノへのネクロフィリック(屍体性愛的)なものにならざるをえない。掘りおこした黒いヴァイナルに封印された異国の音楽の屍骸をむさぼり、その音の魔力を血肉化して、自分たちの新たなリアリティの発明を試みる若者たち。そのとても豊かで、どこか屈折した光景は、日本のヒップホップにとっての、愛すべき原風景でもある。

 おそらく、リアリティ・ラップの台頭をうけて最近よく口にされる、裕福なフィクションの時代が終わり、より切実なリアルの時代が始まった、という一見わかりやすいストーリーそのものが、ひとつの罠なのだ。なぜならヒップホップの母胎となった1970年代のニューヨークのゲットーは、警察も立ち入れない、ギャングによる熾烈な内戦状態にあった。いくら経済格差が拡大しているとはいえ、数字上の治安状態としてそこまでの荒廃を経験してはいないはずの日本から、生々しいラップ・ミュージックが生まれる理由は、なし崩しに下降線をたどる自分たちの社会の現実に、ゲットーという虚構=フィクションの補助線を引くことによって、初めて理解される。いかなる切実なリアリティも、リアルにフィクションを足すことなしには存在できない。客観的に現実を切り取ろうとするドキュメンタリーさえ、作り手の主観なしにはけして成立しないように、ここには、リアルとフィクションをめぐる、根源的な秘密がある。

 そして、ヒップホップにおいてそのリアルとフィクションの配合の秘密は、誰もが知るひとつの言葉で表現される。つまり、スタイル、と。いみじくも「スタイル・ウォーズ」という言葉に端的に表れている通り、ヒップホップにとってスタイルとは、けして表層的な飾りではない。明確な意志で選びとられたスタイルこそが、リアルに拮抗するリアリティを創りだし、やがてリアルそのものを変えていく。東京の地下のクラブで、物静かなベッドタウンで醸成された異国由来の夢は、いまその狭い空間から溢れ出し、震災後の東京の真っ暗な路上を覆おうとしている。このロマンティックなドラマは、リアルから逃避するのではなく、リアルをなぞるのでもなく、リアルに牙をむいているのだ。

 KANDYTWONのホームである世田谷区喜多見は閑静な住宅街だ。そこから大規模な再開発によってバブリーな賑わいをみせる二子玉川を抜けて、さらに多摩川を下流にそって橋を渡ると、東京近郊のリアリティ・ラップの雄、BAD HOPを擁する川崎市がある。デ・ラ・ソウルやパブリック・エネミーら、ロングアイランド郊外のサバービア・ヒップホップに対し、インナーシティのプロジェクトから突きつけられたのが、Nasのハードコア・ラップだった。KANDYTOWNが提示するのは、むしろ東京の山の手エリアの音楽的な歴史の蓄積の豊さだ。そこには、ニューヨークと東京の地政学的なズレを背景とした転倒がある。音楽の力学は、都市の力学の反映でもあるのだ。音とイメージはからみあい、ほどけ、予想もしない仕方で連鎖する。

 そして2015年のもうひとつのビッグ・ハイプは、また別な架空の街をつくりあげたYENTOWNのクルーだった。トラップをドラッギーかつフレッシュなスタイルに昇華した彼らの本格的な活動も、今年は期待されている。それにシーンは違うけれど、SUCHMOSのフロントマンであるYONCEのインタヴューなんて、茅ヶ崎のフッドへの愛着やあけっぴろげな上昇志向、社会に中指を立ててみせる挑発的な態度などなど、完璧にヒップホップ的なストリート・マナーで笑ってしまうほどだ。2016年の東京は大きく動くだろう。自由な想像力が、Googleの無味乾燥なマップを上書きし、街を塗り替えていく。異なるスタイルと異なるリアリティがせめぎあう、その衝突のなかで、10年代のリアルは生まれようとしている。時代を語るヒマがあったら想像力を語れ、この音の強靭な美学はそう告げている。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114