「OTO」と一致するもの

Booty Tune presents DJ PAYPAL Japan Tour 2k15 - ele-king

 シカゴのジュークは、瞬く間に世界的な音楽になった。UK、日本、そしてUSからベルリンへ。とくに DJラシャド以降は、「DJラシャド以降」という言い方が通用するほど、シーンは世界規模で拡張しているのだ。その中心には、シカゴのTEKLIFE がある。
 いや、しかし、DJ Paypalというネーミングが最高ですね。Paypalこそまさしく悪魔的なシステムです。深夜酔っぱらって、いつの間にかレコードやCDを買っていたなんてことはザラです。現代消費社会の象徴です。それをDJネームにするとは……なんて不遜な人でしょうか。
 しかも、この人のDJは、そうとうにポップなようです。
 これは期待するかありません。7月19日(東京)〜20日(大阪)です。みんなでこの謎のDJを冷やかしつつ、彼のハッピー・ジュークを楽しみましょう。

 世界を沸かす覆面ジューク DJ、ついに来日!
 ついに謎のジューク DJ が来日を果たす!  ジューク好きの間で密かに話題になりはじめた 2012年の活動開始から、この3年でまたたく間にシーンの中心に躍り出た、正体不明の覆面トラックメーカーDJ Paypal。その人を食ったDJ ネームゆえ、出演時はいつもTシャツを頭から被り、その素顔を見せることは決してない。最近、ネット決済会社の本家 Paypal から名称の未許可使用のクレームを受け、フェイスブックでも強制的に名前を変えさせられるほど、知名度も アップ中。
 大ネタを惜しげもなく使いまくる、老若男女問わず踊らせるアッパーかつポップなディスコ・スタイルは、北欧の Slick Shoota とともに現行パーティ・ジュー クのひとつの到達点と言える。自身のレーベル〈MallMusic〉からリリースされたファースト・シングル「Why」に収録された“Over”がクラブ・ヒット。さらに、新世代ベースを牽引するレーベル〈LuckyMe〉からもシングルをリリー スし、Machinedrum、Ikonikaらの著名アーティストたちのサポートを受けながら、UKベースやドラムンベースなど、ジューク・シーンに留まらない幅広い活躍を見せ続けている。2014 年からは現在のジューク・シーンの中心とも言える、シカゴ最大派閥の TEKLIFE クルーにも所属。UK の老舗レーベル〈Hyperdub〉の10周年コンピレーションにもその名を連ねた。
 今回の来日公演は Booty Tune が主宰となり、東京の大阪の 2 箇所で公演。日本勢の出演者陣もジューク・シーンをはじめ、タイトな顔ぶれがそろう。会場は、 日本フットワーク・ダンス・シーンの総本山「Battle Train Tokyo」の恵比寿KATA と大阪 Circus。全日本のジューク・ファンが待ち望んだ、ヨーロッパ最強のジューク・アーティストの来日公演。アッパーでハッピーなジュークに乗っ て、Let Me See Yo Footwork!!!

【東京】
Still Pimpin' feat.DJ Paypal
会場:KATA + Time Out Cafe & Diner [LIQUIDROOM 2F]
日程:7 月 19 日(日/祝前日)22:00~
出演:DJ Paypal (TEKLIFE, LuckyMe/Berlin, Germany)、D.J.Kuroki Kouichi、Guchon、TEDDMAN、D.J.APRIL(Booty Tune)、Dx (Soi Productions)、SUBMERSE、Boogie Mann (SHINKARON)、食品まつり aka Foodman、Kent Alexander(PPP/Бh○§†)、Frankie Dollar & Datwun (House Not House)、Dubstronica(GORGE.IN)、 Samurai08、コレ兄(珍盤亭)料金:Door Only ¥2,500 (With Flyer ¥2,000)

【大阪】
SOMETHINN vol.12
会場:CIRCUS
日程:7 月 20 日(月/祝日)19:00~
出演:DJ Paypal (TEKLIFE, LuckyMe /Berlin, Germany)、D.J.Fulltono (Booty Tune)、Keita Kawakami (Dress Down)、Hiroki Yamamura(Booty Tune)、AZUpubschool (Maltine Records / Sequel One Records)etc...
料金:TBA

■DJ Paypal(TEKLIFE, LuckyMe / Berlin, Germany)
アメリカ出身、ベルリン在住、本名不詳の謎の覆面トラックメーカー。DJ Spinn と故 DJ Rashad によって結成された世界的クルー「TEKLIFE」のメンバー。2012 年頃から徐々に頭角を現し始め、その後 Machinedrum、Jimmy Edger、Ikonika、Daedelus らからの熱烈なサポートを受け、そのキッチュな 名前に違わぬプロップスと実績を積み上げてきた。イーブンキック主体のサン プリングジュークを得意とし、アッパーかつポップなトラックメイキングで、 Juke/Footwork の枠を超え、多くの DJ に愛されている。これまでも前出の アーティストのほか、同じ TEKLIFE の盟友、DJ Earl や DJ Taye、DJ Rashad らのほか、Nick Hook や Sophie などともコラボ、リミックスワーク などを手がけている。
※20 歳未満の方のご入場はお断り致します。年齢確認のため、顔写真付きの公的身分証明書をご持参ください。(You must be 20 and over with photo ID.)


 ここ何年か、K-POPにはまる友人がたくさんいて、なんだか友だちの一人や二人がつねに韓国にいるような錯覚を覚えるほどなのだが、ぼく自身もチャン・ギハと顔たちやヤマガタ・ツイークスター、フェギドン・タンピョンソンといった面々の来日ライヴやら、顔たちのメンバーにしてプロデューサーである長谷川陽平の『大韓ロック探訪記』(DU BOOKS)などを通じて新旧の韓国ロックには大いに興味のあるところなのだ。
 最近だと、韓国でも数少ない(と思われる)D-BEATノイズ・クラスト・バンド、スカムレイドのライヴが素晴らしかったですよね。新宿ロフトのバーステージがぐっちゃぐちゃになる盛り上がりっぷりで。

https://scumraid.bandcamp.com/album/rip-up-2015-ep

 さて、そんな韓国インディの中でもヤマガタやタンピョンソンら、ホンデ(弘大)地区で活動する「51+系」とも言われるシーンには音楽的なおもしろさとトンチのきいたポリティカルなメッセージ性を特徴とするバンドが現れている。紙版『ele-king』vol.9のヤマガタ・インタヴューにも出てくるが、彼らのそうした政治的スタンスには〈トゥリバン〉という食堂の強制撤去に反対する運動の経験が大きく影響しているという。
 その運動の経緯を記録したドキュメンタリー映画があるというので前々から見たくて仕方がなかったのだ(新宿のIrregular Rhythm Asylumで自主上映が行わていたのだが情弱なもんで行けなくて……)。その映画、『Party51』がいよいよ正式に日本公開される。

 一連の運動はホンデのうどん屋〈トゥリバン〉が、再開発のため一方的に「300万ウォンやるから出て行け」と宣告されたことに端を発する。しかし、女主人(これがまた肝っ玉母さんな感じでかっこいいんですよ)はそこで諦めずに立て籠りを開始。それを支援するミュージシャンたちがそこに集まり、毎週ライヴを行うようになる。

 もともとライヴハウスみたいなところだったのかなと思ってたのだけど、この映画で観るかぎりどうも普通に食堂だったようだ。彼らを動かしているのは「こういうことを許してしまうと、また同じことが起こる」という危機意識である。この「明日は我が身」っていう感覚はすごく大事だと思う。他人事だと思っているうちに取り返しのつかないところまで動いてしまってることって普通にありますからね。

 やがてライヴ以外にも活発な議論が展開されていき、「インディ」に替わる「自立音楽」を名乗って「自立音楽生産者組合」を立ち上げ、メーデーには51組のバンドを集めたフェス〈Newtown Culture Pary 51+〉を開催。運動は店内にとどまらず、食えないミュージシャンたちが自分たちの環境を改善するために情報や意見を活発に交換していく。労組の大会で演奏して会場のおばさんたちにドン引きされる場面なども(笑)。

 ヤマガタ・ツイークスターがライヴでラーメンを作るパフォーマンスは〈トゥリバン〉での経験がルーツにある。また、後に韓国のレコード大賞みたいなので新人賞を受賞するほどの成功を収める404などは、初ライヴが〈トゥリバン〉だった。〈トゥリバン〉での運動が終わった後もさまざまなかたちで「自分たちの場所を作る」ための工夫を続けている姿が映画では描かれており、東京でいう桜台の〈pool〉や落合の〈Soup〉といったオルタナティヴ・スペースを思い起こさせもする。

 そういえば、〈トゥリバン〉の運動でも大きな役割を演じたノイズ・ミュージシャンのパク・ダハムはレーベル・オーナー兼オーガナイザーとして日韓を頻繁に行き来している(磯部亮・九龍ジョー『遊びつかれた朝に』でも言及されてますね)のだが、ぼくがパクさんに初めて会ったのは〈pool〉で行われたジンのイベントだった。

 ブラックジョーク満載のステージングがとくに印象的なパンク・バンド「バムサム海賊団」と素人の乱の交流も描かれているけれど、こうした国際企業や国家主導のグローバリゼーションとはちがった等身大の草の根コミュニケーションがアジアの地下シーンで活発に行われている最近の状況は個人的にいちばんワクワクするところ。

 ということで、すごく身近ですごく勇気のもらえる映画である。日本でもある程度なじみのあるバンドマンたちがたくさん登場するので、まずはそんな彼らの考えや歌詞の内容を知ろうという興味で観にいってもいいと思う。映像祭〈オール・ピスト〉の一環として東京と京都で先行公開された後、10月に全国上映が行われる予定。(大久保潤)



『Party 51』
ドキュメンタリー映画 2013年/韓国/101分/韓国語/日本語字幕
監督:정용택 JUNG Yong-Taek
製作:パク・ダハム(Helicopter Records主宰)

韓国ソウル、弘大(ホンデ)地区で自立した活動を続けるソウルの音楽家たち。都市開発により弘大の家賃は上昇。ライブハウスの数も年々減少。30歳前後の年齢になった彼らは、不安定な収入に不安も抱く。2010年頃、音楽家たちは不動産屋からの立ち退き要請を拒否し立てこもった弘大の食堂オーナー夫婦と出会う。彼らはお互いに協力し、立てこもり真っ最中の食堂で連日あらゆる音楽ライブを開催する──。
『Party 51』は、ユーモアを取り入れながら自分たちの場づくりと人集めに奔走するソウルの音楽家たちを追った力強いドキュメンタリー作品。来日公演が話題を呼んだYamagata Tweaksterやタンビョンソン、日本の即興・実験音楽シーンとの交流の深いパク・ダハムといった、韓国インディー音楽シーンのキーパーソンたちが多数出演。

■HORS PISTES 2015 / オールピスト2015
https://www.horspistestokyo.com/ja/

東京 TOKYO
『Party 51』 上映+トーク
〈UPLINKセレクション〉
6月20日(土)
at UPLINK FACTORY(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1階)
★上映終了後 トーク(Skype出演:パク・ダハム、聞き手:山本佳奈子/Offshore)
18:45開場 / 19:00上映開始
料金:¥1,800 一律
チケット予約:https://www.uplink.co.jp/event/2015/37967

京都 KYOTO
『Party 51』プレミア上映
6月21日(日)
at アンスティチュ・フランセ関西・京都
※上映前後のトークはありません。
14:30上映開始
料金:¥800


■『遊びつかれた朝に
──10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』

磯部涼×九龍ジョー

ホンデのシーンや韓国のインディ・ミュージックについても、興味深い情報や状況の紹介、また、東京のシーンと比較しながらの深い考察が加えられています。
詳しくは第2章を。
刊行から1年、まったく内容に古さを感じさせない、いや、ますます予言じみてくる言葉の数々に驚かされる対話集!

Satomimagae - ele-king

 うっとおしい梅雨ですが、曇った空や雨降りを味方につけてしまいそうな音楽もあります。しかも、日本のお寺でそれを聴くことは、
まるでトラベルマシンです。いつも利用している電車から降りて歩くいつもの風景だというのに、そこは異次元の入口です。
 昨年、USのグルーパーに匹敵する作品をリリースしたサトミマガエが、その作品『koko』のリリース・ライヴをやる。場所は、東京は大田区大森の成田山圓能寺。
 共演者は、ele-kingではお馴染みですよ。Family Basikの加藤りま、34423=ミヨシ・フミ、そして畠山地平伊達先生オピトープです。
 そう、これ、かなかり良いメンツなんですよ。しかも、何度も書いているように、お寺でのライヴは、本当に気持ちいいです。


■開催日時場所■
2015年7月4(土曜日)
open 15:30 / Start 16:00
入場料:AD:2,500 Door 3,000
会場:大森 成田山圓能寺 Ennouji (Omori St JR)
住所:東京都大田区山王1丁目6-30
1-6-30 Sannou Ota-Ku Tokyo
 JR京浜東北線大森駅北口(山王口)より徒歩3分
ホームページ https://ennoji.or.jp/index.html
(当イベントについて圓能寺へのお問い合わせはお控え下さい)


■前売り応募方法
下記メールアドレスまでお名前、人数を書いて、メールを送ってください。
katsunagamouri@gmail.com


■Live■
Satomimagae
加藤りま (Rima Kato)
34423
Opitope + 智聲(Chisei)


■Satomimagae
Satomimagae は1989年に生まれ、2003年から現在まで作曲を続けています。東京を中心に活動中です。2012年3月に初のアルバム「awa」をリリース、11月に映画「耳をかく女」の音楽担当。2014年12月にセカンド・アルバム『koko』をWhite Paddy Mountainよりリリース。現在精力的にライヴ活動を展開中。

■加藤りま Rima Kato
2009年よりライヴ活動を始める。ローファイ・ポップを通過しフリー・フォークを経たような哀愁を帯びながらも透明感のある歌声は、ぽつぽつと進むシンプルなアレンジの楽曲によって際立って響く。2010年ASUNA 主宰のカセット・テープ・レーベル WFTTapes から2本の作品をリリース。2012年同氏による3インチCDレーベル aotoao からミニ・アルバム 『Harmless』をリリース。2015年1月、フル・アルバム『faintly lit』をflauよりリリース。2月から5月にかけて日本各地、韓国と断続的に続いたツアーを無事終える。2014年11月に実兄とのユニット Family Basikのファースト・アルバム『A False Dawn And Posthumous Notoriety』をWhite Paddy Mountainよりリリースしている。

■34423
愛媛県出身、東京都在住のサウンドアーティスト。幼少より録音機器や楽器にふれ、音創りと空想が生活の一部となる。 切り取られた日常はサウンドコラージュによって独自のリズムを構築し、電子音に混ざり合い、より空間の広がりを感じさせる。 過去7枚の作品発表し、容姿と相対する硬派なサウンドと鮮烈なヴィジュアルイメージで注目を集め、2013年7月17日に待望の世界デビュー盤"Tough and Tender"(邂逅)をリリースし話題をさらった。その後も都内の大型フェスなどの参加や、ビジュアル面を一任するアートディレクターYU­KA TANAKAとのコラボ作を発表するなど勢力的に活動を重ね、2015年2月に最新作”Masquerade”(邂逅)をリリースした。
また、今夏上映、鈴木光司原作のホラー映画「アイズ」などをはじめ様々な映画の劇伴をつとめている。

■Opitope
Opitope は2002年の秋に伊達伯欣と畠山地平により結成。伊達伯欣はソロやILLUHA、Melodiaとして活動するほか、中村としまる、KenIkeda、坂本龍一、TaylorDeupreeとも共作を重ね、世界各国のレーベルから14枚のフルアルバムをリリース。 西洋医学・東洋医学を併用する医師でもある。漢方と食事と精神の指南書『からだとこころと環境』をele-king booksより発売。畠山地平はKranky、Room40, Home Normal, Own Records, Under The Spire, hibernate, Students Of Decayなど世界中のレーベルから現在にいたるまで多数の作品を発表。デジタルとアナログの機材を駆使したサウンドが構築する美しいアンビエント・ドローン作品が特徴。ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカ、韓国など世界中でツアーを敢行し、2013年にはレーベルWhite Paddy Mountainを設立。

 以前、海外の古い古い映画をみていたら、明らかに字幕におかしい箇所があり、首をかしげたことがある。どう考えても画面に映っているできごとと字幕があっていない。調べてみると誤訳だそうで、それを誰も指摘するものがいないまま公開に至ってしまったのだそうだ。結局は正確な訳が明かされることもなく、また英語ならまだしも、わたしに何の知識もない言語……いまだにあの映画のあのシーンを思い返すと、ミスマッチな字幕のイメージがありありと浮かびあがってくる。文字の印象というのは、認識するのは容易であってもなかなか消すことができない。字幕は暴力なのだということを、そのときに知った。

 範宙遊泳の山本卓卓は、字幕が暴力だということにいち早く気づいたのみならず、その特殊な暴力性を演劇という形態と調和させることに成功した稀有な劇作家・演出家である。

 範宙遊泳 × Democrazy Theatre『幼女X(日本‐タイ共同制作版)』は、この作品をはじめて目撃した者はもちろんのこと、過去に初演を新宿眼科画廊で、再演をKAATで目撃した者にこそ驚愕をもたらした作品であっただろう。というのも再演にはあるまじき行為、「戯曲に書かれたセリフをいっさい喋らない」という決断をしていたからである。てっきりタイ人が喋ったセリフの日本語訳字幕が逐一表示されていくものだとばかり思い込んでいたらまったくちがった。舞台上には〈待っている間、国家の安定を脅かす人を探しなさい〉〈2時間髪型をセットしなさい〉〈あなたがいったい何をしているのか人に伝わるまでハンマーを食べなさい〉といった理不尽な命令がつねに表示されており、俳優たちはその命令に服従しなければならない、その悲哀を観察するという異質な作品だった。動物実験ですでに薬を打ったあとのラットがどうなるか、檻に入れてじっくりみつめているときの気分がもっとも近いだろうか。そこに再演と呼ぶべきものがあるとするならば思想、あるいは「追い詰められたものが無我夢中で反逆を試みてしまうが稚拙な計画はあえなく頓挫する」という戯曲全体を覆う仄暗いテーマのみである。

***

 Baobabの北尾亘と範宙遊泳の山本卓卓の共同プロジェクトであるドキュントメント『となり街の知らない踊り子』でも、山本特有の仄暗い思想は見受けられるが、こちらの作品は被害者の葛藤、社会のシステムに疲れた生活者たちの行き場のなさに、よりフォーカスをあてている。

ドキュントメント『となり街の知らない踊り子』

 B女 高速で過ぎ去っていくタイムラインの中で、こんな人フォローしていたっけーっていう人が夜中に「母がとてもうざい」っていう書き込みをしててソッコーでフォロー外した。こういうやつが日本の闇なんだよなー。振りまくなよ、貴様の闇を。うざくても、うざいとか、言うな。いうんじゃねー。「ねえ、ひろくん、そう思わない?」 (山本卓卓『となり街の知らない踊り子』

 興味深いのは、一人芝居で北尾が演じるB女に対して、字幕で「そうだね」「思うよ」「え、なんで?」などという、本人の性格がさっぱりみえてこないひろくんの相槌が表示されていくのだが、B女は唐突にひろくんに別れを切り出すのである。6日しか付き合っていないにもかかわらず、である。ここにはただ連帯してほしいだけ、共感してほしいだけ、なぐさめあっていたいだけで、用がなければすぐに切り捨ててしまう、現代社会特有の情のなさが透けて見える。B女は、まるでツイッターの気に入らないアカウントのフォローを外すような気軽さで、ひろくんにあっさりと別れを告げるのだ。

ひろくん 6日間しか付き合ってないのに……。6日で僕の何がわかるんだ。
(同前)

 『となり街の知らない踊り子』にはこのほかにも多数の登場人物が出てくるが、共通しているのは「他者への無関心が、別の誰かの憎しみや苛々を増幅させ、それがなお事態を悪化させる」という夢も希望もない状況である。しかしわたしは残念ながらこの状況を現代の前提として当たり前のように設定する残酷さに未来への期待を見出してしまう。フェイクの夢や希望を掴まされて大けがを負う物語より、よっぽどスマートな人生訓をそこから拾い上げることができるように思えるからだ。山本卓卓は2010年代の、不穏な空気からけっして目を逸らすことのない、誠実なアーティストである。

loadedを“reloaded(再装填)”! - ele-king


久保憲司写真集loaded
ele-king books

Tower HMV Amazon

 ノイバウテンやSPKからストロベリー・スウィッチブレイドまで! ロックを中心に洋邦さまざまな媒体で活躍するフォトグラファー、久保憲司。とくに活発に活動を展開し、ロック・ジャーナリズムを支えた80年代半ば~90年代の仕事をたっぷり収録した写真集『loaded』を覚えておられるだろうか。刊行から1年半、「reloaded(再装填)」と題して久保憲司氏が新たに展示会を開催する。期間中にはDJイヴェントやトーク・イヴェントも予定されており、毎回いわくいいがたいテーマが掲げられているようだ。ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。

日本を代表するロック・フォトグラファー、久保憲司。
今回は、これまでの展示にはなかった氏のアナザーサイドにスポットを当て、写真集「loaded」を“reloaded”(再装填)。
80年代を中心にニューウェイブ/ノイズ/インダストリアルのアーティストの貴重な現場写真を展示します。

今回の展示を記念したDJイベント、東瀬戸悟氏(Forever Records)とのトークイベントもありますのでぜひご参加下さい。

■久保憲司 exhibition「reloaded」

2015/6/6(sat) - 6/15(sun) ※closed on 6/10(wed)
mon-fri 15:00-20:00
sat,sun 13:00-20:00

at Pulp
(map https://pulpspace.org/contact)

Einstürzende Neubauten
SPK
Foetus
Depeche Mode
Psychic tv
Strawberry Switchblade
Laibach
Suicide
Soft Cell
Fad Gadget …more

■同時イヴェント

6/6 sat | opening talk event
「狂気の音楽 人はなぜ気が狂うのか」
久保憲司 ×流れの精神科医
19:30-21:30
charge : 1000yen
※ご参加希望の方は、pulp.space.gallery@gmail.com まで
※定員25名(スペースに限りがありますので埋まり次第、終了となります。)

■6/7 sun | talk event
「80年代インダストリアル、ノイズ、ニューウェイブ再検証語り」
久保憲司×東瀬戸悟
19:30-
charge : 1000yen
※ご参加希望の方は、pulp.space.gallery@gmail.com まで
※定員25名(スペースに限りがありますので埋まり次第、終了となります。)

■6/14 sun | closing party
DJ:MR.A(from DAMAGE) / KENJI KUBO
19:00-21:00

::PROFILE::
久保 憲司 Kenji Kubo

https://twitter.com/kuboken999

1981年に単身渡英し、フォトグラファーとしてのキャリアをスタート。
ロッキング・オンなど、国内外の音楽誌を中心にロック・フォトグラファー、ロック・ジャーナリストとして精力的に活動中。
また、海外から有名DJを数多く招聘するなど、日本のクラブ・ミュージック・シーンの基礎を築くことにも貢献した。
著書久保憲司写真集『loaded(ローデッド)』『ダンス・ドラッグ・ロックンロール 〜誰も知らなかった音楽史〜』『ダンス・ドラッグ・ロックンロール 2 ~“写真で見る"もうひとつの音楽史』、『ザ・ストーン・ローゼズ ロックを変えた1枚のアルバム』など。

Moved to England in 1981, and started his career as a photographer.
Kenji Kubo also works as a journalist specialized in rock ‘n’ roll music for various music magazines such as Rockin'on.
He also invited a number of big DJs to Japan and helped to establish the Japanese club music scene.
He has published numerous book in which he photographed and wrote, such as "loaded” , “Dance Drug Rock-on-Roll”, “Dance Drug Rock-on-Roll 2”, and “The Stone Roses, the album that changed the world”.


 「おまえはおまえのロックンロールをやれ」とは、あらゆる抵抗がなかば強制的に運動へと一元化された時代への批評(反省)から生まれた言葉なのだろう。「おまえ」は殺され、「人びと」という主体だけが許された時代への。
 その晩、僕はいったい何回「おまえはおまえのロックンロールをやれ」という言葉を聞いたことだろうか。
 23日の夜遅く。よみがえったのは、ステージのうえでお揃いの赤いスーツを着ていたあの時代の、酒すら飲めない若いファンが途中で嘔吐てしまうほど圧倒的な存在感をはなっていた江戸アケミその人ではなかった。「おまえ」だった。新世界がいっぱいだから100人弱だろうか。集まったオーディエンスの半分は、どう見てもリアルタイム世代より若かった。

 こだま和文を一目見たかったというのもある。
 手術後の初ステージだったが、酒とタバコを持って登場した彼は、“もうがまんできない”を歌った。「ちょっとの搾取なら/がまんできる/それがちょっとの搾取ならば」──レゲエのリズムに乗って「がまんできる」ことを繰り返すことで「がまんできない」と表明する反語表現ならではのインパクトを持った曲だ。ぶっきらぼうに反復される言葉は、じょじょに熱を帯びながら重なっていく。見事なパフォーマンスだった。


 
 江戸アケミ抜きで、そして篠田昌已抜きで、じゃがたらの曲をやること自体がリスキーなのは、ステージで演奏する人たち全員がわかっていたことだろう。とくに南流石、EBBY、エマーソン北村、桑原延享といった生前の江戸アケミを知る者たちからしたら、心のどこかに抵抗がないはずがない。南さんはステージで「こんなコピー・バンドにお金払って来てくれてありがとう」と言っていたけれど、自嘲や謙遜ではなく、本心なのだと思う。
 しかし、それでもやるんだ、やりたいんだという純粋な気持ちが、とても清々しく伝わってくるライヴだった。故人を必要以上に崇めるような嫌味なところも、内輪的なところもなかった。感傷的にはなったけれど、過去を懐かしむ感じではなかった。OTOさんはその晩のために、熊本の農場から、現在の自分の暮らしぶりとじゃがたら弾き語りメドレーの動画を送ってくれた。
 スペシャル・ゲストとしてラップを披露したいとうせいこうにも拍手したい。僕はその晩、Pヴァイン40周年のイヴェントがリキッドであったので、ECD〜B.D. & NIPPS、それからSIMI LABという錚々たるラッパーのパフォーマンスを聴いて新世界の駆けつけたのだけれど、いとうせいこうの、早送りで言葉の意味を解体していく──としか言い表しようのないラップは僕にはあらためて新鮮に聴こえた。
 とにかく、その晩演奏された曲は、過去を懐かしむことを拒み、現在の曲として再現された。「ああしろこうしろそうしろと/あいつからが今日もがなりたてる」と歌う“みちくさ”なんか、橋元優歩が聴いたら泣くんじゃないのかな。
 が、しかし、泣かないだろう。じゃがたらに涙は似合わない。ねっとりとしたファンク、腰をくねらせるアフロ、身体に響くレゲエの複合体。徹頭徹尾ミニマルなダンス・ミュージックなのだ。“都市生活の夜”や“裸の王様”は、いまでもみんなを踊らせる。そして、音楽における言葉はつねに音とともにある。音と一緒になったときに、書き言葉にはないマジカルな威力を持つ。とくにダンスと一緒になったときは。

 江戸アケミという人には生きていくうえでのマリーシア、ある種のずる賢さ、ほとんどの人には備わっているであろう適度な欺瞞というものがなかったのだと思う。彼の並外れた愚直さは、語り継がれている多くのエピソードから容易にはかり知れる。

 「おまえはおまえのロックンロールをやれ」と言ったのは、江戸アケミ自身が「おまえ」=個という主体になりきれなかったからだと僕は思う。「人びと」「ピープル」「私たち」「社会」とか、どうしようもなくそういう主体から逃れることができなかったのは、他でもない江戸アケミだったのではないか。音楽は世のため人のためにある。ダンス・ミュージックは共同体の音楽だ。じゃがらの楽曲は、あれだけ強烈なものを発しながらエゴイズムがない。江戸アケミの歌詞には、フォーク上がりの日本のロックにありがちな“僕”や“俺”の私小説性がないのだ。
 じゃがたらのカヴァー演奏がリアルに思えたのは、楽曲が作者の所有物になることを拒んでいるからだろう。目の前に広がる風景のように、他の誰かに歌われてしかるべきものとしてある、ということなのかもしれない。だから、「おまえはおまえのロックンロールをやれ」とは、表向きには個を主張しながら、しかしむやみやたらに個に帰れと言っているわけでもない多重的な言葉なのだ。プロセスがあり、コンフリクトがあり、そしてどう考えても未来への期待と希望がある。夜も11時をまわったというのに拍手が鳴り止まなかった理由を説明せよと言われたら、僕にはそうとしか答えようがない。

 アンコールは“タンゴ”だった。“タンゴ”がアンコールだった。ということは、あんなに大きな拍手がなければ、“タンゴ”はなかったのだろうか。レゲエのリズムを使っているとはいえ、あれはやはり重たい曲だ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの“ヘロイン”だ。街の悲しい闇だ。決して後味が良い曲ではない。しかしあえて、このハッピーではない人気曲を最後に持って来たのかもしれないな。
 終電に乗って駅を降りて、「こーこーろーの〜もーちーよーさ〜」とか「ああしろこうしろそうしろと」とか歌いながら家に帰った。5年後にまた何かやるそうだ。でも、「今、今、今、今、今が最高」。「おまえはおまえのロックンロールをやれ」、至言とはこういう言葉を指すのだ。
 

トアン ホチュウエッキトウ - ele-king

 僕たちはからだとこころに悪い毎日を送っている。そうだとわかっていても、その毎日から逃れられないでいる。僕たちは毎日、犠牲を払っている。からだとこころが悲鳴を上げても気がつかない。著書『からだとこころの環境』で伊達トモヨシはそんなことを言いたいのだと思う。せめて自分に与えられたからだとこころの悲鳴ぐらいは自分自身で聞こえるぐらいになろうと、そのための漢方なのだろう。
 ゆにえアンビエントは、いや、アンビエントこそ、この東京でもっともやかましい街が必要としている。

 6月6日午後16時〜、原宿のVACANTで開催の「トアン ホチュウエッキトウ」は、その伊達トモヨシも出演するアンビエントのコンサート。
 音楽のライヴだけでなく演劇団体「マームとジプシー」のふたりや、舞踏をはじめ無数の表現媒体を経て現在ダンサーとして新境地に達しつつある朝吹真秀氏を迎え、融合的セッションを軸に、さらには食と香も取り入れ空間を彩っていく全感覚的なイヴェントだ。
 会場では靴を脱ぎ、寝転ぶもよしな自由な体制で鑑賞する形式で、食事ではあんこお菓子、日本食ごはん、日本酒やどぶろくのも用意される。ごろんろ寝転びながら、「からだとこころ」を解放しよう。

2015/06/06
Open/Start 16:00
Close/ 21:00

Vacant 2F
https://www.vacant.vc/

Ticket
Adv/: ¥3,500
Door/: ¥4,500

ドリンク代別途/全自由席/再入場可◎

会場では、靴を脱いでお上がりいただきます。

出演:
花代
夏の大△(大城真、川口貴大、矢代諭史)
青葉市子
MUI
Tomoki Takeuchi
朝吹真秀
藤田貴大・青柳いづみ(マームとジプシー)
Tomoyoshi Date

DJ : Satoshi Ogawa,Yoshitaka Shirakura
PA : zAk

Drink&Food:

あんびえん(最中)
こくらさんのひねもす食堂(おかずとごはん)
あぶさん(貝つまみと日本酒)
ぽんぽこ屋(どぶろく)

空調 : ono
照明 : 渡辺敬之
会場協力:御供秀一郎、うるしさん
イラスト:伊吹印刷

イベントページ : https://www.facebook.com/events/1649012321994600/
予約ページ : https://www.vacant.vc/d/207

Info/Reserve

Profile:

花代 / HANAYO
東京ベルリンを拠点に活躍するアーティスト。写真家、芸妓、ミュージシャン、モデルなど多彩な顔を持つ。自身の日常を幻想的な色彩で切り取る写真やコラージュ、またこうした要素に音楽や立体表現を加えたインスタレーションを発表する。パレ・ド・トーキョーなどの個展、展覧会多数。ボーカルとしてdaisy chainsaw、Panacea、Kai Althoff、Mayo Thompson、Jonathan Bepler、Terre Thaemlitz、秋田昌美、中原昌也となどとコラボレーションする。tony conrad と舞台音楽で共演したり、bernhard willhelmのショウでライブパフォーマンス、そしてJürgen Paapeとカバーしたjoe le taxiはSoulwaxの2ManyDjsに使われ大ヒットした。写真作品集に『ハナヨメ』『MAGMA』『berlin』、音楽アルバム『 Gift /献上』『wooden veil』などがある。ギャラリー小柳所属。
www.hanayo.com

夏の大△
大城真、川口貴大、矢代諭史の3人による展示/ライヴ・パフォーマンスを行うグループ。2010年大阪の梅香堂での展示「夏の大△(なつのだいさんかく)」を発端に、活動を始める。
www.decoy-releases.tumblr.com

大城真 / MAKOTO OHSHIRO
音を出すために自作した道具、または手を加えた既製品を使ってライブパフォーマンスを行う。またそれと平行して周期の干渉を利用したインスタレーション作品を発表している。近年は川口貴大、矢代諭史とのユニット”夏の大△”としても活動している。
主なイベント、展覧会に”夏の大△”(2010、大阪 梅香堂)、”Mono-beat cinema”(2010、東京 ICC)、”Cycles”(2013、東京 20202)、Multipletap(2014、ロンドン Cafe OTO)、Festival Bo:m(2014、ソウル Seoul Art Space Mullae)、"Strings"(2014、東京 space dike)等。

川口貴大 / TAKAHIRO KAWAGUCHI
主に音のなるオブジェクトやさまざまな光や風、身の回りにあるモノを自在に組み合わせることで、空間全体をコンポーズしてゆくようなライブパフォーマンスやインスタレーションの展示、音源作品の発表を行う。ソロの他の活動では、大城真、矢代聡とのトリオ“夏の大△”、アキビン吹奏楽団“アキビンオオケストラ”、スライドホイッスルアンサンブル“Active RecoveringMusic”が今でもアクティヴ。最近では今までのリリース作品をお金だけでなくモノや出来事とでも買うことが出来るようにするプロジェクトを行っていて、ポルトガルの購入者から郷土料理のレシピを手に入れたり、メキシコに住む購入者の母親の育てた多肉植物を輸入しようと試みている。あとはTEE PARTYでTシャツ作ったり(www.teeparty.jp/products/list.php?mode=search&artist_id=92)DMM.MAKEでコラム書いたり(www.media.dmm-make.com/maker/293/#)もしてます。
www.takahirokawaguchi.tumblr.com/

矢代諭史 / SATOSHI YASHIRO
2003年より自走するウーハーや自作の装置による展示や演奏を始める。同時期より東京墨田区の『八広HIGHTI』の運営などを行い始める。ドラムと動くウーハーのバンド『Motallica』などの活動も行っている。
最近の主な展示:
2010年 「夏の大△」(梅香堂 大阪)
2011年 「Extended Senses」(Gallery Loop 韓国)

青葉市子 / ICHIKO AOBA
音楽家。1990年生まれ。2010年アルバム『剃刀乙女』でデビュー。
これまでに4枚のソロアルバムを発表。2014年には舞台「小指の思い出」でkan sano、山本達久と共に劇伴・演奏を担当。12月にはマヒトゥ・ザ・ピーポーと結成したユニットNUUAMMの1stアルバム「NUUAMM」をリリース。2015年夏にはマームとジプシーの舞台「cocoon」に女優として参加予定。その他CM音楽、ナレーション、作詞家、エッセイ等さまざまな分野で活動中。
www.ichikoaoba.com

MUI
tomoyoshi date, hiroki ono, takeshi tsubakiからなるアンビエントバンド。数多の諸概念・主義主張を融解する中庸思想を共有しながら、所作と無為を心がけ活動中。
www.facebook.com/mui61mui

tomoki takeuchi
幼少より音楽に興味を持ち4歳からバイオリンを始める。バイオリンを中心としたライブパフォーマンスで様々なイベントに出演し国内外の音楽家と共演する。また、バイオリン奏者としても様々な音楽家とのコラボレーションを重ねる。2013年から音楽レーベル「邂逅 (kaico)」を主宰。
www.tomokitakeuchi.tumblr.com

朝吹真秀 / MASAHIDE ASABUKI
「思い返せば26才に発病した28年周期の躁鬱二型に振り回されていただけ」と語る朝吹氏は絵画、デザイン、彫刻、舞踏、舞台美術、音響、照明、フリークライミング、家具制作、パートドベール、とんぼ玉と多岐に渡る活動を経てきたが一環して続いたのは15才からのオートバイだけである。いま60才に60台めのバイクに乗り、舞踏家ではなくダンサーとして鬱から脱出しつつある。

青柳いづみ / IZUMI AOYAGI
女優。東京都出身。2007年マームとジプシーに参加。翌年、チェルフィッチュに『三月の5日間』ザルツブルグ公演から参加。以降両劇団を平行して活動。2013年今日マチ子(漫画家)の代表作『cocoon』、2014年川上未映子(小説家)の書き下ろしテキストでの一人芝居『まえのひ』に出演。近年は飴屋法水(演出家)や金氏徹平(現代美術家)とも共同で作品を発表。2015年6月から8月にかけて全6都市を巡る全国ツアー『cocoon』に出演予定。

藤田貴大 / TAKAHIRO FUJITA
演劇作家/マームとジプシー主宰。北海道伊達市出身。2007年マームとジプシー旗揚げ。2012年「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。」で26歳の若さで第56回岸田國士戯曲賞受賞。同じシーンを高速でくり返すことで変移させていく「リフレイン」の手法を用いた抒情的な世界で作品ごとに注目を集め、2ヶ月に1本のペースで演劇作品の発表を続ける。自身のオリジナル作品と並行して、2012年より音楽家や歌人、ブックデザイナーなど様々なジャンルの作家と共作を発表。2013年5月「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。」にて初の海外公演を成功させ、翌年ボスニア・イタリア5都市を巡るツアーを行う。2013年8月漫画家・今日マチ子の原作である「cocoon」の舞台化に成功。

Tomoyoshi Date
1977年ブラジル・サンパウロ生まれ。3歳の時に日本へ移住。 ロック、ジャズ、ポスト・ロックなどを経て90年代後半より電子音楽を開始。 ソロ作品に加え、Opitope、ILLUHA、Melodiaとして活動するほか、中村としまる、KenIkeda、坂本龍一、TaylorDeupreeとも共作を重ね、世界各国のレーベルから14枚のフルアルバムをリリース。 西洋医学・東洋医学を併用する医師でもあり、2014年10月にアンビエント・クリニック「つゆくさ医院」を開院 (https://tsuyukusa.tokyo)。随筆家としてelekingで「音と心と体のカルテ」連載中(https://www.ele-king.net/columns/regulars/otokokorokaradakarte/#004182)。漢方と食事と精神の指南書「からだとこころと環境」をeleking booksより発売。
www.tomoyoshidate.info

小川哲​ / SATOSHI OGAWA
イラストレーター。風景やモノを中心に、パターンワークやシンプルな形を使用したミニマルでリズミカルな作画で書籍や雑誌、CDジャケットを中心に活動。また音楽制作会社での勤務経験をもとに、ミュージックガイド「5X5ZINE」の制作/刊行を定期的におこなっている。
https://satoshiogawa.com/

YOSHITAKA SHIRAKURA
ノイズ・アヴァンギャルド、テクノとの混合、前衛的な”間”とビートの高揚感が、空間を特異に歪ませていく。 テクノとノイズを越境するパーティー”Conflux”を、代官山Saloonにて主催している。写真家としても活動し、様々なライブ、アーティストを撮影し、制作担当として映画『ドキュメント灰野敬二』にも関わる。
https://ysrn13.wix.com/yoshitaka-shirakura

Drink&Food:

あんびえん
餡子作りという限られた材料を元に独自の配合を研究し、日々理想の餡子を模索し続ける小豆研究家、池谷一樹によるケータリング餡子屋。一丁焼きたい焼き屋を目指し日々試行錯誤を繰り返している。今回は最中をまた同時にadzuki名義で活動する音楽家でもある。
https://adzuki-music.tumblr.com/

こくらさんのひねもす食堂
本業とは別に、生活の大切な一部として食に向かう。なんてことない料理でひねもす(一日中)おもてなしします。

あぶさん
高円寺の「あぶさん」、鴬谷の「うぐいす」、恵比寿の「あこや」と伝説を創りつづけてきた貝料理専門店より、この日限りの絶品貝つまみと日本酒を提供していただきます。

ぽんぽこ屋
手造りどぶろく屋。
無農薬自然農法のお米、神社の御神水から醸される、生きた微生物達の小宇宙は、全細胞が喜び踊る、奇跡の酒。まずは一杯どうぞ。


「ハテナ・フランセ」 - ele-king

  ボンジュールみなさん。本日のお題はフランスのお家芸のひとつ、デモとストライキ。

 ある日、フランスの国営ラジオの中でも若者向けでイケてるとされるLe Mouv’を聞きながら、そういや今日DJがしゃべんないなあと思っていた矢先「ただいまストライキのため、皆様のお聞きの放送は通常の放送ではありません。ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください」と流れた。
 あ、そういやフランスはラジオもストライキするんだったと思い出し、そんな時はどうなるんだっけと興味本位でしばらく放送を聴き続けると、ホワイト・ストライプス「Seven Nation Army」やら、最近テレビでもかかりまくってるブランディ&モニカの「The Boy is Mine」の恐ろしくダッサいフランス語カヴァーから、フランスの新人ラッパー、ジョルジオの曲までまあ脈絡のない選曲。
 というかそれすらしてなくて、局のライブラリーをランダムに放送してるだけかと思える曲たちが、数時間も聞いていると一回りしてもう一回掛かったりする、というどう見てもひどいとしか言いようのない放送が流れていた。
 フランスの国営ラジオはニュース/文化中心、クラシック中心、ジャズ中心、若者向けなど7局もの放送局を抱えているのだが、全部の局がその調子じゃいまだにラジオが重要なカルチャー発信源の一つとなっているフランスではオーディエンスのフランストレーションは結構なはず。しかもその時点で調べるとストライキは25日に突入です! とのこと。
 え? こんな放送なき放送が1ヶ月近く垂れ流されてるなんて、いい加減オーディエンスは怒るでしょ、と思いきや、周りのフランス人は「いや、これは彼らの権利だからね」とちょっと自慢げ。あれ、そこお国自慢のポイントだったっけ? と思ってハタとフランス人の権利好きを思い出した。

2012年5月1日メイデイ。労働組合は共産系が多い。cgtは炭鉱や工場など肉体労働者のための労働組合。photos by Cédric Gaury

 フランス人の子供が3〜4歳くらいから兄弟喧嘩で頻繁に使うようになる言葉の一つに「T’as pas le droit!」、直訳すると「おまえにそんな権利はないぞ!」というのがあり、意味合いとしては「やめろやい!」ということなんだが、ちびっこが権利なんて言葉使うんだ!? と最初は違和感を感じたものである。かようにフランス人は自分の権利に敏感でそれを主張するのが好きであり、その発露の一つがデモであり、ストライキなんである。
 ここでデモとストライキの簡単な定義を。この二つが違うのはわかってるけど、時々混同しちゃって「一緒にしちゃダメ!」とフランス人にプンスカ怒られる。デモは、日本でも反原発デモなどでも知られる通り、ひとつの思想なりスローガンなりの元に人が集まりその主張を行う行為で、フランス人のデモは行進とだいたいワンセット。5月1日はフランスでもメーデーであり、毎年パリでも労働組合を中心として労働条件の改善を声高に唱える大規模なデモ行進(祭りと密かに私は思っているが)が行われる。そしてストライキは労働者が雇用者に労働条件の改善などを求めて労働を行わないで抗議すること。デモで主張してもダメな場合は実力行使、と。

 ちなみに皆さんはもうご存知かもしれないが&日本もだいたい同じかもしれないが、このストライキの構造だが、まずは社員11名以上の会社では労働組合を組織することが義務付けられているのだが、その労働組合員代表は社員の投票によって決まる。そして、その組合員はフランスで正式に認められている労働組合連合に所属していることが多い。会社との交渉が行われる際はそういった労働組合連合を使ったほうがノウハウもあったり、ビラのコピーとか決起集会用ののぼりを作ってくれたりして便利らしい。そして交渉が決裂するとストライキをすることになるのだが、参加する社員は有給を使うことになる。ストライキをするかしないかはもちろんそれぞれの自由。しない人はしない人で主張があって、彼らも議論に応戦する体制はいつどんな時もバッチリできている。その時のよくある理論が「組合は自分たちと会社とのパワーゲームに勝つことに気を取られて、社員の利益を真に追求していない」というもの。

 旅行者がよく遭遇するストライキ体験は、航空会社エール・フランスのストライキで飛行機が飛ばないとか、タクシーがストライキで空港をぐるっと取り囲みパリ市内まで物騒なメトロに乗ってくるしか方法が無くて大変な思いをしたとか。世界一の観光地にして花の都パリは、綺麗かもしれない(あ、清潔とは違いますよ)がトラップがそこらじゅうに仕掛けてある刺激的な街でもあるのだ。
 そしてフランスの国民が日常的に遭遇するストライキ体験がメトロのストライキである。パリのメトロは東京のそれに比べると時間も正確じゃないし、故障やらなんやらで遅れることもしばしばだが、ストライキに入るとそれに加えて普段のダイヤの1/3やら1/2やらになる。そうなるともう通勤通学網は大混乱。それでもパリは山手線内にはいってしまうくらい小さいので、市内なら時間は多少かかっても最悪歩いて目的地まで行き着けることもあるが、郊外に住んでいるとそうはいかず、仕方なく普段の何倍もの時間をかけて通勤通学する羽目になる。
 そうするとフランス人のお得意のアレが出る。口を尖らせて「プー」と大げさにため息を吐くアレである。肩をすくめたり、目をぐるっと回したりするのと並んでのザ・おフレンチなゼスチャーのひとつ。ストライキ中の郊外の駅では「プー」の大合唱なのだ。もちろん私もここぞとばかりに張り切ってやる。まあ、権利権利というからには「ストライキ時にはぜったい文句は言わない」と豪語するフランス人もいるにはいるが、心の中では彼らだって「プー」なはずである。
 でもそうやって文句が言えなくなるとフランス人は生きていないので、彼らは生活が便利になりすぎるのを恐れているのでは、というのが私の持論だ。生活が味気なくなっちゃう、と。私に言わせればフランスでの生活は味気があり過ぎですけどね。

 兎にも角にもフランス人にとってストライキとはジュテーム・モア・ノンプリュな愛憎半ばする国民的行事なのではないかと思う。

Craig Leon, Jennifer Pike - ele-king

ようやく“ただの楽器”になったシンセサイザー 吉村栄一

 2015年はムーグ(本来はモーグという発音が正しいが、ここでは従来どおりにムーグと表記します)・シンセサイザーの生みの親であるロバート・ムーグ博士の没後10年にあたる年だ。

 ムーグ博士とムーグ・シンセサイザーが電子楽器と音楽の世界に与えた影響の大きさはここで語るまでもないが、それでも、ムーグ・シンセサイザーが世に出た1964年から今日まで、ムーグのシンセサイザー、とりわけその代名詞とも言えるモジュラー・シンセサイザーはつねに音楽の世界の第一線で活躍を続け、世紀を超えていまではすっかりあって当たり前の存在になっている。
 去年から『YMO楽器展』という、70年代末から80年代初めにかけてイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が使用したシンセサイザーその他の楽器を展示するイヴェントを企画している(これまで東京と大阪で開催。この夏には横浜でも開催します https://momm.jp/70/)。
 そこで並べた多くのヴィンテージのシンセサイザーの中で、もっとも注目を集めるのは、やはり“タンス”という通称で知られる巨大なムーグのモジュラー・シンセサイザー。そして、このイヴェントでやや意外だったことは、リアル・タイムのYMOファンだった年代よりもそうとうに若い10〜20代が多く来場し、“タンス”に熱い視線を送ることだった。これはとくに大阪会場で顕著で、話を聞いてみると、YMOそのものよりも、むしろモジュラー・シンセサイザーへの憧れや興味があるという。実際、いま日本のみならず世界中でモジュラー・シンセサイザーへの関心が高まっており、新作の発表やヴィンテージ機器の復刻が相次いでいる。
 先頃、東京や京都ではモジュラー・シンセサイザーのフェスティヴァルが開催されて大盛況にもなっていた。

 かつて1960年代、時代の最先端の楽器であったシンセサイザーでバッハの名曲を録音してシンセサイザーの存在を世に大きく知らしめたのがウェンディ(ウォルター)・カルロスの『スイッチト・オン・バッハ』だった。


Wendy Carlos /
Switched on Bach (1968)

 1968年に発表された同作は、シンセサイザーという新たな時代の新たな楽器に光を当て、世界中に大きな衝撃を与えた。
 それから半世紀近く経ったいま、クレイグ・レオンが突如発表したのが本作『バッハ・トゥ・モーグ』。『スイッチト・オン・バッハ』同様、ムーグのモジュラー・シンセサイザーでバッハの名曲を演奏という内容で、クレイグ・レオン自身も『スイッチト・オン・バッハ』の影響で本作を制作したと発言している。

 しかし、ウェンディ・カルロスが当時まだ使い道が未知の領域にあった新しい楽器、シンセサイザーでバッハを演奏したアルバムを作ることと、21世紀のいま、つまりシンセサイザーが未知の楽器から最先端〜先端の楽器という時代を通り抜けて普遍的な存在となっているいまとでは、その意味合いは大きく異なる。

 本作は先頃ムーグ社によって復刻された1970年代初期のモジュラー・シンセサイザーの名器システム55を使用して録音されている。最新の楽器どころか、およそ40年近く昔の楽器の音でのバッハ。多くの人は「なぜいまこんなアルバムを?」という疑問を抱くだろう。
 しかし、このアルバムを聴いていると、じつは人がそんな疑問を抱くことこそが不思議な気持ちにもなってくる。
 というのも、いまもなお世界中でバッハの曲はピアノで演奏され、それを録音したアルバムが多く作られている。
 誰も「なぜいまバッハの曲をピアノで?」と疑問に思ったりはしない。
 それはピアノという楽器は1700年代初めに開発されて以来、音楽の世界で浸透し、いまでは多くの人びとに愛される日常の楽器となっているからだ。
 おそらくピアノが開発された当初は、クラヴィコードやチェンバロといった楽器のために書かれたバッハの曲が、それらとは音色もオクターブもちがう新参の未知の楽器、ピアノで演奏されることに、多くの人が衝撃を受けたにちがいない。バッハがあずかり知らぬピアノなどという新楽器による演奏は、バッハの曲への冒涜だと感じた人もいただろう。
 シンセサイザー演奏による『スイッチト・オン・バッハ』も同様だった。

 しかし、半世紀近く経ったいま、シンセサイザーはすでにピアノ同様、音楽の世界に膾炙した日常の楽器だ。クレイグ・レオンはむしろこう考えたのだろう。「ピアノのバッハはたくさんあるのに、なんでシンセのバッハは最近ないんだ?」あくまで想像だが、クレイグ・レオンは、シンセサイザーはピアノと同様のすでに日常にある普遍的な楽器であり、クラシックでもジャズでも「ふつうに」演奏に使われるべきと考えたのだろう。

 それを前提に本作を聴くと、そうしようと思えばいくらでもできたはずなのに、どの曲でもいかにもそれらしい電子音は使用されていない。『スイット・オン・バッハ』ではシンセサイザーという新しい楽器の特色を強調するためにあえて使っていたいかにもな音色はここではほぼ使われていないのだ(ブランデンブルグ協奏曲など一部使っているが)。
 シンセサイザーという楽器を強調するためのアルバムではなく、バッハを演奏するのが主眼のアルバムだからだ。よくもわるくもここでのシンセサイザーはただの楽器。だから、同じくただの楽器であるヴァイオリンもシンセサイザーで音色をシミュレートするのではなくヴァオリニストを招聘して生音を躊躇なく使う。

 ムーグ博士がムーグ・シンセサイザーを世に送りだして60年。シンセサイザーはここに至って、ようやく新奇の異端楽器ではなく、ピアノやヴァイオリンやギターと同じようなただの楽器として日常に浸透したのである。本アルバムがそのなによりの証左だ。

 英語圏ではBachをバッハではなく、バックと発音することが多い。
 本作はすなわち「バック・トゥ・ムーグ」。バッハをムーグのもとに一度バックする(返す)ことによりくっきりと浮かびあがる「シンセサイザーがようやく楽器としての市民権を得たこの時代」を、寿いでいるように思えてならない。

文:吉村栄一

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モーグにとって“バッハ”とは? 前島秀国

 30年ほど前、某クラシック評論家がウェンディ・カーロスのモーグ・シンセサイザーを聴いて、「クラシックがオモチャにされているようだ」と宣った。カーロスをはじめ、多くのシンセシストたちが酔狂でクラシックを演奏していると思っていたのだろうか? おそらくその評論家は、たったひとつの音色を初期ムーグ・シンセサイザーから引き出す作業が、どれほど困難で時間のかかることなのか、まったく無知だったに違いない。

 カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』の登場以降、シンセシストたちがベートーヴェンでもモーツァルトでもなく、バッハをこぞって演奏した理由もそこにある。つまり、彼ら彼女らが苦労して作り上げたモーグの音色をデモンストレートするのに、バッハの音楽が最適だったからだ。ハーモニーが音楽の重要な要素のひとつとなるモーツァルト以降のクラシック曲よりも、2本または3本のすっきりとしたメロディラインが対位法的に戯れていくバッハのほうが、モーグ独特の音色の特徴が伝わりやすい。せっかく作った音色も、分厚い和音の海に溺れてしまっては、元も子もないから。
 モーグの“オタマジャクシたち”にふさわしい泳ぎ場は、ドラマティックな転調やノイズすれすれの不協和音が渦巻く荒海より、むしろ音楽がなだらかに流れる“せせらぎ”のほうである。ドイツ語でバッハ(Bach)という言葉は「小川」を意味するけれど、水草のようにケーブルが生い茂ったモジュールから生まれた“オタマジャクシたち”にとって、これほど自由に泳ぎ回れる居心地のいい“小川”は、いまも昔も他に存在しないのだ。

 今回の『バック・トゥ・モーグ』では、その“オタマジャクシたち”がヴァイオリンや室内オーケストラの生楽器とともに“小川”に入り、なんら遜色のない泳ぎを披露している。胡弓のような雅をまとった、エレガンスあふれる“ヴァイオリン・ソナタ第4番”。こびとがリコーダーを吹いているような、微笑ましい“ブランデンブルク協奏曲第4番”。もう、オモチャなんて言わせない。

文:前島秀国

interview with Jim O'Rourke - ele-king


Jim O’Rourke
Simple Songs

Drag City / Pヴァイン

Rock

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別冊ele-king ジム・オルーク完全読本 ~all About Jim O'Rourke~
ele-king books

Tower HMV Amazon

 1999年の『ユリイカ』は、80年代末から90年代初頭、ハードコアな作風で頭角をあらわした彼のポップな側面を示したもので、実験性とポップさとの混淆は当時音響とも呼ばれ、往時を偲ぶよすがにいまはなっている。そこから16年、『ユリイカ』を継いだ『インシグニフィカンス』(2001年)から数えても干支がひとまわりしてあまりあるあいだ、ジム・オルークは自身の名義のポップ・アルバムを江湖に問うことはなかった。ブランクを感じさせないのは、彼はプロデュースやコラボレーション、あるいは企画ものの作品に精を出してきたからだろうし、おそらくそこには心境と環境の変化もあった。ひとついえるのは、『シンプル・ソングズ』ほど、「待望の」という冠を戴くアルバムは年内はもう望めないだろうということだ。そしてその形容は過大でも誇大でもないことはこのアルバムを手にとったみなさんはよくわかってらっしゃる。まだの方は、わるいことはいわない、PCのフタを閉じてレコ屋に走るがよろしい。ついでに本屋に立ち寄って『別冊ele-king ジム・オルーク完全読本』をレジにお持ちいただくのがよいのではないでしょうか。『シンプル・ソングズ』のあれやこれやはそこに書いてある。

 余談になるが、今回の別エレでつきあいの古い方々に多く発注したのは、彼らが信頼のおける書き手であるのはもちろん、かつて勤めていた媒体が復活すると耳にはさんだせいかもしれない、とさっき思った。対抗するつもりは毛の先ほどもなかったけれども、意識下では気分はもうぼくたちの好きな隣町の七日間戦争ほどのものがなかったとはいいきれない。つーか内ゲバか。と書いてまた思いだした、『完全読本』の巻頭インタヴューでジムさんは「Defeatism」つまり「敗北主義」なる単語を日本語でも英語でも思い出せなかった。話はそのまま流れたので、そのことばはどの文脈に乗せたものか、もはやわからないが、メジャーとマイナーという二項対立では断じてなかった。

 本稿は『完全読本』掲載のインタヴューより紙幅の都合で割愛した部分と、別日に収録したものをミックスしたものであり、『シンプル・ソングズ』のサブテキストのサブテキストの位置づけだが、ジム・オルークにはこのような夥しい聴取の来歴があることをみなさんにお伝えしたかった。まったくシンプルにはみえないが、すべては音楽の話であるという意味ではシンプルこのうえない。

当時は〈Staalplaat〉が勢いがあった時期で、毎日レーベルのオフィスに顔を出していたね。

ジムさんがヨーロッパによくいたのは何年から何年ですか?

ジム・オルーク(以下JO):88年からですね。そのときはまだ大学生だったので、学校が休みになったときにヨーロッパにいっていました。

アイルランドに行ったついでに大陸に足を伸ばしたということですか?

JO:アイルランドは高校生のときですね。大学のときはまっすぐアッヘンに行っていました。アッヘンを拠点にしていました。

アッヘンに行ったのは――

JO:クリストフ(・ヒーマン)さんがそこに住んでいたからです。彼のご両親はビルをもっていて、その1階は狭かったのでドイツの法律ではたぶん賃貸に適さなかった。それで倉庫というか、実際はクリストフさんのスタジオになっていたんですが、彼はあまりそこを使っていなくて、それで欧州滞在時の私の部屋になったんですね。あのときはライヴをするといっても、一ヶ月の間に2回、せいぜい3回くらいで、アムステルダムでライヴがある場合は当時アムステルダムに住んでいたジョン・ダンカンさんのところに2、3週間やっかいになる、そんな生活でした。アンドリュー・マッケンジーさんも近くに住んでいました。当時は〈Staalplaat〉が勢いがあった時期で、毎日レーベルのオフィスに顔を出していたね。

クリストフ・ヒーマンと出会ったきっかけはなんだったんですか?

JO:88年だったと思いますが、クリストフがオルガナムとスプリットの12インチを出すことになっていたんですね。オルナガムのデイヴ・ジャックマンはそのとき私の出したカセットを聴いていたらしく、ジャックマンがクリストフに「ジム・オルークといっしょにやったほうがいい」と手紙を書いたんですね。それでクリストフさんに誘われて、船に乗ってアッヘンに行ったんです。

デイヴィッド・ジャックマンがつなげたことになりますね。

JO:その大元はエディ・プレヴォーさんです。私は13歳のときにデレク・ベイリーと知り合って、15歳のときにエディさんとも面識ができました。私はエディ・プレヴォーとデイヴィッド・ジャックマンとスプリットLP(『Crux / Flayed』1987年)が大好きでしたから、エディさんにそういったら「じゃあデイヴィッドと会ったほうがいいよ」と。デイヴィッドさんに会ったら、オルガナムを手伝ってくさい、となり、デイヴィッドさんがクリストフさんに紹介して――といった感じですね。オルガナムには6、7年間参加していました。クレジットはあったりなかったりですが。

なぜクレジットがあったりなかったりするんですか?

JO:それがデイヴィッドさんのスタイルなんです。彼の音楽なのでクレジットは私は気にしない。でもときどき書いてありました。だから私もどのレコードに自分が参加したのが100%はわからないんですね。

憶えていない?

JO:録音したのは憶えていますが、音楽を聴いてもわからない(笑)。

オルガナムではジムさんはなにをやったんですか?

JO:ギターとベース。ですが演奏というよりミックスでした。最初にやったときは演奏だけだったんですが、そのとき録っていたスタジオのエンジニアのミックスをデイヴィッドさんは気に入らなかったらしく、私に試してみてくれといったんですね。それで私のほうを気に入ったから、それからお願いされるようになりました。94、95年くらいまではやっていたと思います。でもそれは仕事ではありません。チャンスがあればいつでも参加しました。

デイヴィッド・ジャックマンはどういうひとですか?

JO:いわゆる「英国人」です(笑)。60年代の共産主義ラディカルを体現したようなひとでした。キース・ロウと同じ世代ですから。

コーネリアス・カーデューもそうですね。

JO:そうです。キース・ロウさんはスクラッチ・オーケストラですから。でもじつはキースさんよりデイヴィッド・ジャックマンのほうがキンタマがあったね(笑)。これは簡単にはいえませんが、彼らの政治的なスタンスにかんしては、そういうひとたちは反対意見にたいして、自分たちが正しいと意固地になる傾向があると思うんです。ところがデイヴィッドさんは相手が共産主義者であるかそうでないか気にしない。かたいひとですが、かたいだけじゃない。

いまでも連絡することがありますか?

JO:ときどきありますが、彼は頻繁に連絡をとりあうタイプの方ではないです。私はあのとき、イギリスにいましたから連絡は簡単でしたが、いまは日本ですからほとんど連絡しません。彼はインターネット世代ではない。インターネットを使ったこともほとんどないでしょう。連絡はもっぱら手紙。電話もなかったかもしれない。私もいまはすこしそういった感じですが(笑)。

メディアがひとの聴き方をコントロールする時代ではなかったのですから。いまの日本のようにAKB一色じゃなかった。どうしてフランク・ザッパを知ったんですか、と訊かれることがありますが、フランク・ザッパはファッキン人気だった。

ジムさんはそういう世代から考え方の面で影響は受けましたか?

JO:もちろん受けました。意識してはいませんでしたが。というか、私はまだ10代でしたから、なにもわかりませんよ。私はアメリカ生まれでしたが、両親はアイルランド人でアメリカは関係なかったですから、あのひとたちのほうがかえってわかりやすかったんです。

ヒーマンさんなんかはエディさんやデイヴィッドさんより、近い世代ですよね?

JO:ヒーマンさんは私より年上ですが、私と会ったとき、私は18、19で彼は23、24。ちかい感じはありました。あのとき彼はまだH.N.A.S.をやっていましたね。

H.N.A.S.についてはどう思いました?

JO:『Im Schatten Der Möhre』は好きでした。クリストフさんの先生はスティーヴン・ステイプルトンなんですね。でも私はそのとき彼は好きではなかった。

でもジムさんはナース・ウィズ・ウーンドといっしょにやっていますよね?

JO:うぅ。でも会ったことはありません。一度だけ電話で話しました。いいひとだと思うけど、NWWは私は好きじゃない。

どういうところが?

JO:スティーヴン・ステイプルトンはすごくレコードを蒐集しているんですが、彼がつくるほとんどの音楽は現代音楽のコピーだと思う。たとえば、この曲はロバート・アシュリーの“シー・ワズ・ア・ヴィジター”とかね。クリストフさんはスティーヴン・ステイプルトンのお陰で現代音楽にめざめたところがある。私は逆でした。コピーするのは問題ないんですよ。でもなにかが足りないだね。現代音楽のカヴァー・バンドに聞こえる。当時私は大学でそういった音楽を勉強していましたから、なおさらコピー、チープなコピーに思えたんです。それでよくクリストフとケンカなった(笑)。それでNWWは好きじゃなかったんですが、ときどきほんとうに音楽が彼のものになることがあって、それはおもしろかった。

ジムさんは10代の頃から現代音楽には深く親しんでいたんですね。

JO:そうですが、現代音楽はけっしてアングラなものではありませんよ。ジョン・ケージは生きていましたし――

だからといってだれもが聴くわけではないですよね。

JO:それは関係ない。メディアがひとの聴き方をコントロールする時代ではなかったのですから。新聞で雑誌でそういうものを読むこともできました。いまの日本のようにAKB一色じゃなかった。どうしてフランク・ザッパを知ったんですか、と訊かれることがありますが、フランク・ザッパはファッキン人気だった。彼は有名人。普通のレコード屋にも彼のポスターが貼っていたんですよ。これは30年前の話ですが、いまから30年後には「どうしてあの時代、灰野敬二を聴いていたんですか?」ともしかしたら訊かれるかもしれませんが、灰野さんは現役でライヴもやっています。レコード屋にはいればレコードがある。ふつうのレコード屋にもジョン・ケージもフィリップ・グラスもヘンリー・カウの仕切りもあったんです。まったくヘンなものではなかった、だれもが見つけることができる音楽。
 そう訊かれるのが私のいちばんのフラストレーションでもあります。私とだれかが同じタイミングでレコード屋にはいれば、そのひとがヒット曲のレコードを買うように、私はオーネット・コールマンのレコードを買うことができた。私がえらいわけではありません。もしそのひとが左に曲がれば、同じようにオーネット・コールマンのレコードを買ったかもしれない。フィリップ・グラスもスティーヴ・ライヒもCBS、メジャー・レーベル・アーティストですよ。インディペンデント・レーベルの文化がまだない時代のことですね。独立レーベル、プライベート・プレスはありましたが。

私は最初のカセットには「Composed by Jim O’Rourke」と書きましたが、それ以来書かなくなったのは、最初のカセットではシュトックハウゼンとか、そういった作曲家の影響があったにしても、20歳のころ、あの世界とは関係しないと決めたからです。

ジムさんはそういったインディペンデント・レーベルができたことで音楽が区別されるようになったと思いますか?

JO:たとえば大学では、音楽を勉強して修士になり博士になる。大学に残りつづけて先生になり、生徒が自分の作品を演奏する。死ぬまでの目的が決まっている感じがしました。同時にハフラー・トリオやP16.D4のような音楽、RRRレコーズのような音楽とピエール・アンリやリュック・フェラーリのどこがちがうのか。そこから私は、自分をコンポーザーと定義するのが好きじゃなくなったんです。現代音楽の世界――それは音楽そのものではなくて、そのやり方です――にアレルギーを覚えはじめた。これは正しい言い方ではないと思いますが、ブルジョワジーの歴史をつづけることに荷担するのがイヤになったんです。彼らがそれに気づいているかどうかは関係ありません。ただそこには参加したくなった。それで、私は最初のカセットには「Composed by Jim O’Rourke」と書きましたが、それ以来書かなくなったのは、最初のカセットではシュトックハウゼンとか、そういった作曲家の影響があったにしても、20歳のころ、あの世界とは関係しないと決めたからです。私が電子音楽をやる場合でも、私が自分の曲をコンポジションと定義し、そういうひとに評価され、その世界で仕事するようになればその世界の住人になる。そこには参加したくないから意識的に「Composed by」のクレジットはいれないことにしました。これはほんとうに私の人生ですごく大事なことです。

心情的にイヤ?

JO:その世界の10%はいいものですが、のこりの90%はゴミです。そんな世界、ゴメンです。大事なのは作品です。私が人間として大事なのではない。あのゲームはやりたくない。

ジムさんが好きだった作曲家といえば当時どういったひとでした? フィリップ・グラスとか――

JO:グラスは75年までですね。だって私はそれまでずっとそんな音楽ばっかり聴いていたんですよ。チャールズ・アイヴズはもちろん好き。電子音楽はもっといっぱいいます。リュク・フェラーリだってそうですし、ローランド・ケインは電子音楽のなかでもいちばん好きで、オブセッションさえあります。彼の音楽だけは、どうしてそうなっているのか、まだわからない、秘密の音楽なんですね。ほとんど毎日勉強する、ちゃんと聴いていますよ。彼は電子音楽についてはもっとも影響力のあるひとだと思います。影響という言葉とはちがうかもしれない。彼の音楽はそうなっている理由がわかりませんから、具体的な影響とはいえないかもしれない。大学のころに聴いていた現代音楽の作曲家の作品はほとんど聴かなくなりました。

いま、たとえばトータル・セリエル、ミュジーク・コンクレート、偶然性の音楽、そういった現代音楽の分野でいまだ有効性があるものはどれだと思いますか?

JO:大学のころ、私はピエール・ブーレーズにすごいアレルギーがありました。ぜんぜん好きではなかった。それが過去5年の間に、偶然入口を見つけました。もちろん全部の作品が突然好きになったのではなくて、とくに“レポン”という作品はよく聴いていて、すこしわかるようになりました。
 トータル・セリエルの問題は音楽がスコアにはいっているということです。100%そうだとはいいませんよ。でもそれはすごい問題です。

ミュジーク・コンクレートのようなスコアで表せない音楽を、ジムさんは評価するということですか?

JO:そういう意味じゃない。セリエルのスコア、コンポジションの考え方は、八分音符から三連符になり、その逆行形になって――という考えを捨てない。とくにアカデミックなコンポーザーは。考え方が全部スコアにはいっている。そう考えると彼らの言語はほんとうに「細い」と思う。だから彼らは彼らの音楽を聴いたひとが「わからない」というと、それを聴いたひとのせいにするのです。でもわからない理由の半分は彼らの側にもあると思う。スコアにC(ド)の音を書く、しかしそれはただのCではない。そこには音色がありニュアンスがあります。彼らのスコアを音楽にするにも次の翻訳の段階が必要なんだと思う。どうしてそれをやらないか、私はわかりません。そういう音楽をやることがまちがっていると私はいいたいのではありません。ただそれをわからないのを聴いたひとのせいにするのは失礼です。

99.9%、ケージの音楽はフリーではありません。チャンスの音楽といいますが、ケージは彼の言葉をスコアに注ぎたくない。彼の立場は、音楽から自分の言葉や存在を消し去るということなんです。

ケージの偶然の音楽はどうです?

JO:ケージの音楽は偶然ではありません。それを語りはじめるとそれだけで本になります(笑)。ケージの音楽をやったことがないひとはたぶんわからないと思う。ケージの音楽はかなり難しい。問題は彼のスコアは表面的に理解するには苦労しません。でも簡単じゃないんです。

簡単じゃないというのは自由がないということですか?

JO:99.9%、ケージの音楽はフリーではありません。チャンスの音楽といいますが、ケージは彼の言葉をスコアに注ぎたくない。彼の立場は、音楽から自分の言葉や存在をどうやって消し去るかということなんです。それはチャンスではない。正しくとりくめばそれがわかるはずです。私は音楽家としてケージの作品を何度か演奏しましたが、いっしょに演奏したひとたちがまったくわかっていなくて、ムカついたこともありますし、逆に勉強しすぎて音楽がかたくなったこともあります(笑)。その意味でもケージの音楽は難しい。

勉強しすぎてもダメだし勉強しすぎてもダメ?

JO:しないのはいちばんダメで(笑)、でも勉強やりすぎてもね。両方地獄だね(笑)。でも私のこの考えが100%正しいといいたいのではない。

フルクサスとジョン・ケージは同じくくりに入れられることがありますが、同じだと思いますか?

JO:まったくちがいます。

フルクサスはどう思います?

JO:あんまり興味がない。ボンボンの遊び。若いときにそういった考えになるのはわからなくもないですよ、でも50代でも同じことをやっているのはちょっとどうかと思う。

ハプニングはどうですか?

JO:歴史的に、次の段階に向かうためにそういったことが必要だったのはよくわかりますよ。歴史に敬意を払うことは、いま現在、作品をどう聴くかということと無関係です。ハプニングのような作品は尊敬はしても、(私には)ほんとうに関係がないんです。それにフルクサスはアートの世界のものです。

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若い頃は意図的に録音する場所を選んでいたんですが、いまはそうしないことにしています。いまは時間がないこともありますが、偶然にいい音を発見したときに録ります。

フィールド・レコーディングはどうです? 私は『別冊ele-king』の作業中、『USE』をよく聴いていましたよ。デザイナーの佐々木暁さんに音源をもらったんですね。

JO:ホントに! あれは聴くものじゃないよ。「どうぞ、使ってください」という意味で、だから「Use」なんです(笑)。

(笑)流しているといいですけどね。

JO:私、聴いたことない(笑)。

Pヴァイン安藤氏:『Use』ってDATで出した作品ですよね?

そうそう。DATの長時間録音機能を使った4時間ちかい作品。

JO:私はもってない(笑)。『Use』はあれを出した〈Soleilmoon Recordings〉のひとがそういった作品をやりたかったんですね。それで「どうぞ、どうぞ」って。音源自体は『Scend』(1992年)で使ったものの残りですね。それをどんどんくっつけて、「はい、終わり」といって渡した。

『Scend』のマテリアルということですか?

JO:はい。

エディットしたのはジムさんですよね?

JO:編集というほどのものじゃない。

適当?

JO:はい(と声高らかに)。編集しなかった。あのときはポータブルのDATプレイヤーでいろんなところで録音していましたから、音源はいくらでもあったんです。

当時フィールド・レコーディングにハマッていたんですか?

JO:いまもやっていますよ。

どういうときにやるんですか?

JO:若い頃は意図的に録音する場所を選んでいたんですが、いまはそうしないことにしています。時間がないこともありますが、偶然にいい音を発見したときに録ります。若い頃は、そういった作品をつくりたくて、たとえば工場などですね、そういったところにわざわざ出かけていきました。いまは聴いたことのないような音を偶然見つけたときにレコーダーをまわします。

DATはまだおもちですか?

JO:もっていますけど、でもDATはほんとうにダメだね。音が悪い。とくにA-DAT。あれはヒドい。音よくないよ。レッド・クレイオラのレコーディングは全部A-DATだったんですよ。メイヨ(・トンプソン)さんはA-DATで作業するから。まだS-VHSのテープを使っているかはわからないけど。私が最初に参加したレッド・クレイオラの『ザ・レッド・クレイオラ』(1994年)はアルビニさんのスタジオで録りましたけど、『ヘイゼル』(96年)も『フィンガーペインティング』(99年)もA-DATだったね。

メイヨさんは音にこだわりがない?

JO:わけではないですけど、普通の意味でのいい音にこだわりがないということでしょう。彼にはほしい音色がわかっているんですけど、それはかならずしも正しい録音ではないということですね。

ジムさんはいっしょにやったとき、メイヨさんに「こういう音がほしい」といわれました?

JO:私はアルバムの何曲かをミックスしているんですが、私のミックスはあまり好きじゃなかったので、別の音源を使ったんですね。それで私がミックスした『フィンガーペインティング』を10年後に偶然聴いて気に入ったので『フィンガーポインティング』(2008年)として出し直した。でも逆に私があのミックスはメイヨさんの好きそうなミックスを試してみたものなので、ちょっと気に入らないところがあるんですね。

ジムさんがいま聴いて気に入らないものはほかにもありますか?

JO:いっぱいあるよ(笑)。

たとえばウイルコなんかは出世作だといわれていますよね。

JO:ウイルコは大丈夫。でも私は『ヤンキー・ホテル・ホックストロット』(2002年)より次の『ア・ゴースト・イズ・ボーン』(2004年)のほうが好き。『ヤンキー~』は途中から参加した作品ですが、『ゴースト』は最初から最後までかかわったレコードでしたから。

NYはなんというか……水が合わなかった(苦笑)。60年代か70年代だったらよかったんだけど、90年代はもうまったくちがっていました。ビジネスのディズニーランドになってしまった。いまはわからないけど。

話は戻りますが、ミニマル・ミュージックにはジムさんは多大な影響を受けていますよね?

JO:大学のころ、そういった音楽は勉強しましたが……いちばん影響を受けたのは高校生のころですね。グラス、ライヒ、ウィム・メルテン、マイケル・ナイマンも好きだった。当時はフィリップ・グラスの“Strung Out”のような、作者の考えが見える、聞こえる作品が好きでした。2+3+1+2+……のような構造ですね。私もじっさいそういった作品をつくって、カセットもありますけど、ちょっと恥ずかしいだね(笑)。

出したらいいじゃないですか?

JO:なんで(笑)!?

デジタル・リリースすればいいじゃないですか(笑)?

JO:イヤですよ。

演奏はジムさんがやっているんですか?

JO:私と、私ができない楽器は別のひとに頼みました。大学のときに、私はフィル・ニブロックはじめ、ヨーロッパのミニマル・ミュージックに傾倒していきました。なかでもマイケル・ナイマンは大好きだった。

マイケル・ナイマンは後に映画音楽で有名になりましたよね。

JO:あとのことはわかりません。私は『ピアノ・レッスン』(1992年)も知らない。『プロスペローの本』(1991年)までですね。さいきんまた追いかけるようになって、聴いていなかったCDを買いました。ギャヴィン・ブライアーズも同じ。84、85年まではリアルタイムでレコードを買っていましたが、次第に買わなくなったので聴き直したいと思ってナイマンのレコードを探したんですけど、びっくりしました。彼はこの25年でいっぱいレコードを出したんだね。でも私はむかしのほうが好きです。彼も後年“コンポーザー”になってしまった。グラス、ライヒ、ブライヤーズ、アダムズは過去25年間の作品は私はほとんど知りません。そのなかではグラスやライヒは25年前の時点ですでに私の興味を引くようなものではなくなってしまっていた。(ライヒが)『The Desert Music』を出したとき(1985年)、私はそれを買って、そういった音楽が好きな友だちと喜び勇んでいっしょに聴いたんですが、レコードが終わるころには無言になった(笑)。そのあとは『Different Trains』(1989年)ですから。もういい、と(と両手を振る仕草をする)。もちろん尊敬はしていますよ、ただ興味がないだけで。グラスは83年の『The Photographer』までですね。『Songs From Liquid Days』(86年)でやめました。

リアルタイムで聴いてそう思ったんですね。

JO:そうです。『Music In Twelve Parts』(74年)や『Einstein On The Beach』のもともとのヴァージョンは好きですよ。新録はよくないけどね。むかしのファーフィサオルガンには重さがあるんだね。

ヴィンテージとシミュレーションだとちがうでしょうね。

JO:彼らの音楽から重さが消えたらプラスチックみたいになってしまう。たぶん年をとると気になるポイントが変わるんですね。重要なのは、彼らは若いころ、演奏まで自分たちで行っていたんですね。それが“コンポーザー”になると役割は紙の上で終わり、演奏は知らないひとがやるわけです。ワーグナーの時代では作曲家はもともとそういった性格のものだった。彼らは自分たちのグループのために作曲することのできた時代のコンポーザーなんですね。その典型がグレン・ブランカで、彼の委嘱作品は自作自演には劣りますよ。音楽が手段に戻っている感じがあるんですね。これは非難ではありませんよ、作品が変わってしまうんです。

ジムさんはそこに参加したくなかった、と。

JO:そうそう。

ミニマル・ミュージックと厳密に定義できないかもしれませんが、シャルルマーニュ・パレスタインはどう思われますか?

JO:彼は音を使ってはいますが、作曲家というよりアーティストですね。人生そのものが彼の作品だと思います。

アーティストで音楽をやるひと、たとえばマイク・ケリーさんのようなひとたちはどう思いますか?

JO:ジェネレーションの問題があるんですね。尊敬していますが、ほんとうの意味で心底つながった感覚を得ることはなかなかむつかしい。彼らの前の世代に私は強く惹かれて、そのあとの世代も理解できるんですが、マイク・ケリーさんの世代、トニー・アウスラーさんもそうですね、すごく尊敬しますが、入口をいまにいたるまで見つけられないんです。ふたりともトニー・コンラッドの生徒なんですけどね。

ジムさんもそうですよね。

JO:そう(笑)。(いうなれば)兄弟子なんですよ。その葛藤がたぶん……ある。つまり尊敬の対象であっても興味のそれではないということなすね。たとえばリチャード・プリンスはわかるけど、興味を惹かないのと同じで。

『Sonic Nurse』のときはジムさんはソニック・ユースにまだいましたよね?

JO:いちばんがんばったアルバムです(笑)。

あのカヴァー・アートはリチャード・プリンスでしたね。

JO:あれを決めたのはキム(・ゴードン)さんですね。彼らはむかしからの友だちで、私も会いましたけどいいひとでしたよ。

ジムさんは、NYだとジョン・ゾーンについては言及するけど、ほかのミュージシャンについてあまり話しませんね。

JO:関係ないんですね。

そこには興味がない?

JO:いやいや、ジョンさんがなにをやっているかはいつも興味をもっていて、つねに聴きたいですよ。ただルーツではないという意味です。

アラン・リクトやマザケイン・コナーズは似たようなルーツをもっているということですか?

JO:アランさんはむかしからの友だちですね。NYはなんというか……水が合わなかった(苦笑)。60年代か70年代だったらよかったんだけど、90年代はもうまったくちがっていました。ビジネスのディズニーランドになってしまった。いまはわからないけど。でもあの時代は、前のインタヴューでもいいましたけど、私はNYの部屋にほとんど住んでいなかった。ツアーに出ているか、そうでないときはプロデュースの仕事で別の街にいました。

『シンプル・ソングズ』でも、ピアノとベースがちがうリズムを刻み、建築物のように組み上げる。ポップ・ソングはリズムの拍子はヴァーティカルにみれば一致しますよね。私はそれを楽器ごとに別々に動かして、最後に全部合うようにするんです。

話は戻りますが、ミニマル・ミュージックの影響はジムさんのなかにまだ残っていますか?

JO:あるでしょう。表面的なものではなくて、作曲における構造上の影響ですね。音を垂直的に考えない。それはミニマルやチャールズ・アイヴズのような作曲家からの影響ですね。

ポップ・ソングを書くときもそうですか?

JO:ええ。『シンプル・ソングズ』でも、ピアノとベースがちがうリズムを刻み、建築物のように組み上げる。ポップ・ソングはリズムの拍子はヴァーティカルにみれば一致しますよね。私はそれを楽器ごとに別々に動かして、最後に全部合うようにするんです。それが目立たないようにも工夫しますけど。目立っちゃうとフュージョンになっちゃうから(笑)。

それはあからさまなポリリズムということですか?

JO:ポリリズムはすごく大事です。だけどいかにもなポリリズムな感じはほしくない。むしろ「なにかが正しくない」といった感じになってほしいんです。不安な、どこに坐ったらいいのかわからない感じですね。それが目立つとテーマになってしまいますから。あえて目立たせることもありますけど、それは冗談みたいなものというか、プログレやフュージョンが好きなことにたいする罪の意識かもしれない(笑)。

たとえばキング・クリムゾンの“Fracture”にも途中ポリリズムのパートがありますよね。ああいったわかりやすい感じはあまり好きじゃない?

JO:“Fracture”は難しくないよ。それよりUKですよ。UKは仕方ない、私、UK大好きですから。聴くのは楽しいけど、でもちょっと恥ずかしいかもね(笑)。

ジェネシスとキング・クリムゾンの大きなちがいはなんですか?

JO:キング・クリムゾンにはナゾがあまりないですね。聴くとわかってしまって、聴き直す気があまりおこらない。ライヴ音源には失敗があるから味があっていいんですが。

ロバート・フリップは失敗がいいとは思っていないはずですよ。

JO:ちょっと潔癖症なんだね。これも非難ではありませんよ。興味の問題であってね。

音楽史において、もっともレコードを売ったバンドはビートルズ、ローリング・ストーンズ、そしてラッシュです。

シカゴ時代まわりにいたひと、たとえばトータスのメンバーにキング・クリムゾンが好きなひとはいなかったですか?

JO:バンディ(・K・ブラウン)さんは好きだったかもしれません。私はそうじゃないけど、インディ・ロックのひとたちにとってプログレはクールじゃないんだね。「ウェザー・リポートっぽい」と褒めたつもりでいったらすごくイヤな顔をされた憶えがありますよ。

『別冊ele-king』のインタヴューではシカゴに住んでいた当時、プログレ・フレイバーの音楽が流行っていたとおしゃっていましたね。当時ジムさんのまわりでもラッシュみたいなバンドは人気だったんですか?

JO:ものすごい人気でしたよ。いつでもラジオから流れていましたから。

ジムさんはラッシュをコピーしたことはないの?

JO:高校生のとき、バスケの試合でハイスクール・ジャズバンドがハーフタイムで演奏するんですね。私はそのバンドでギターを担当していて、そのとき“Yyz”をジャズバンド用にアレンジしたことがあります(笑)。

うけました?

JO:めちゃくちゃもりあがりました(笑)。日本ではラッシュはちょっとアングラですけど、アメリカでラッシュはすごく有名でしたよ。音楽史において、もっともレコードを売ったバンドはビートルズ、ローリング・ストーンズ、そしてラッシュです。

ウソー(笑)。

JO:ウソじゃないよ! ラッシュはいまでもライヴするとなるとスタジアムですよ。彼らのファンは死ぬまでファンですよ。テレビには映らない、新聞にも載らない、でもブラジルにもスタジアムを埋めるほどのファンがいる。じつはまだ観たことがないんですよ。それはすごく残念。もし彼らが韓国でライヴするなら、私は福岡から船で行きますよ。彼らは日本ではあまり人気がないから、ギャラと釣り合わなくてコンサートができないんですよ。

安藤:84年に一度来日していますね。

大きい会場ではムリですよね。

安藤:武道館でやったと思うけどね。

JO:海外の規模を考えると武道館が彼らにはちいさすぎるんですよ。AC/DCも同じですよね。AC/DCはさいたまスーパー・アリーナで観ましたけど。彼らのすべてのレコードを聴く気はありませんが、あの手の音楽では一番でしょうね。

モーターヘッドも同じようなものではないですか? フジロックに来ますけど。

JO:モーターヘッドはAC/DCにはおよびません。『Back In Black』(80年)はものすごい傑作ですよ。当時のツアーを私はシカゴで観ましたけど最高でした(と嘆息気味に)。

『スクール・オブ・ロック』もAC/DCですものね。

JO:そうだね。ほかのそういった音楽はあまり興味ないんですけどね。残念なことに彼らも日本ではあまり人気がないんだね。

さいきんは人気出てきましたけどね。おそらくワンパターンに聞こえるんでしょうね。

JO:ヴォーカルが?

曲調じゃないですか。

JO:同じじゃないよ。だったらスマップの曲のほうが全部同じですよ(笑)。


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