ele-kingの読者の皆さまこんにちは。わたくしNaBaBaという者です。先日はインタヴュー記事を特集していただき、記憶に新しい方も多いかと思います。突然ですがなんと、今回からこちらで連載記事を書かせていただくことになりました。しかもテーマは海外ゲーム・レヴュー! このele-kingで! いったいどういうことなのでしょうか!?
ひとまず改めて自己紹介させていただくと、わたくしNaBaBaは本業はゲームのデザイナーとして働くかたわら、個人で絵画制作も行っており、ネットとリアル双方で活動をしております。まだまだ駆け出しの身の上ですが、先日はカイカイキキにて「A Nightmare Is A Dream Come True: Anime Expressionist Painting AKA:悪夢のドリカム」というグループ展にも参加させていただいておりました。その経緯からこちらでインタヴューをさせていただくことにもなったのです。
インタヴューでも触れていますが、僕は海外ゲームの大ファンであります。一時は年間60本くらいのペースで遊ぶこともありました。こうした趣味が昂じてゲーム会社に就職を決めたほか、自身のHPでもゲームのレヴューを書いたりもしていました。もっともここ数年はHPの方はだいぶご無沙汰していたのですが。
かつてゲーム大国と呼ばれた日本ですが、海外ゲームは日本ではとても馴染みが薄いものです。世界では300万本や400万本売れている作品が、日本では10万本にも届かないということもよくあります。それを文化の違いと一蹴するのは簡単ですが、やはり数百万本という数字を叩き出すのはそれなりの理由がある。
いち開発者としてはそういうところを学び取らなければという思いで遊んできましたし、自分以外の人たちへは向こうのゲームのパワフルさを知り、楽しんでもらいたいという思いで今まで地道に紹介をしてきました。
ここele-kingはインディーズのミュージック・シーンを紹介されるサイトです。マスほどの知名度はないけれども、そこにある価値を信じて紹介されているサイトであると思います。このお互いが見ているシーンへの思い、そこの意気投合から今回の連載をさせていただくことになったのでした。
ele-kingは現在は音楽ひとすじのようですが、これから徐々に音楽以外のジャンルも取り扱っていくときいています。その先駆けとして僕のこの連載、題して『NaBaBaの洋ゲー・レヴュー超教条主義』をお送りしていきたいと思います。みなさまよろしくお願い致します!
ご挨拶はこれくらいにして、さっそく本題に入ってまいりましょう。このレヴューの趣旨としては毎回1本の作品をテーマに、なるべくわかりやすく、しかし突っ込むところは突っ込んで、できるならそれを元に海外ゲーム全体のトレンドとかムーヴメントもご紹介していきたいです。みなさまの理解を深める一助になればと思います。
そういうことで記念すべき連載第1回を飾るのにふさわしい作品は、ズバリ『Half-Life 2』を差し置いて他にないでしょう。現代の海外ゲーム、特にFPSにおいてはその多くがこの作品が指し示した方向性の延長線上に立脚していると言っても過言ではありません。また僕個人にとっても思春期に直撃した作品として、後々のゲーム観に多大な影響を与えました。そんな多くの意味で後のゲームの先駆けとなった『Half-Life 2』。今回はこのゲームをご紹介していきたいと思います。
■04年の衝撃、現代FPSの先駆者、『Half-Life 2』
『Half-Life 2』は04年に〈Valve〉から開発・発売されたPCゲームで、SF的世界観のFPS。98年に発売された初代『Half-Life』の続編で、前作以来エイリアンや人間が混然一体となった近未来を舞台に、主人公のGordon Freemanが仲間とともに、圧政に立ち向かっていくストーリーです。
『Half-Life 2』が発売されてからもう8年も経つわけですが、この作品が出た当時は業界全体がものすごい衝撃を受けていたと記憶しています。ゲームはテクノロジーと強い因果関係を持つメディアで、新しい技術が開発されるたび、それを取り入れた新しい遊びを提示する。その繰り返しで進化してきています。
そういう観点で見ると、『Half-Life 2』はまさに従来にはなかった新技術をふんだんに使い、それまでのゲームでは不可能だった様々な表現の可能性を提示した、ブレイクスルーそのものでした。
フォトレアリスティックなグラフィックス、物理エンジンを利用した物体の高度な物理的挙動の再現、キャラクターのリアルなフェイシャル・アニメーション......専門用語をつらつらと並べてしまいましたが、要は現代では当たり前になっているいわゆる「リアル」な表現を、現代の作品へと続くクオリティで初めて提示したのが『Half-Life 2』だったのです。
リアルな表情を見せるキャラクターとのドラマ。それまでのゲームでは考えられないことだった。
しかし上記の技術的ブレイクスルーのみが本作の特徴だったとしたら、後年にいたるまで絶対的な影響力を放つ作品にはなりえていなかったでしょう。『Half-Life 2』の同年に発売された〈id Software〉の『DOOM 3』がまさにそういう作品でした。
〈id Software〉といえばFPSというジャンルを始めて世に確立せしめた『DOOM』を生み出した、老舗にして業界トップの開発会社でした。圧倒的技術力を誇る同社が当時開発していた『DOOM 3』もまた『Half-Life 2』と同じく最新技術のショーケースで、当時は二大FPSの巨人の頂上決戦と、前にも後にもこれ以上無いんじゃないかというくらい盛り上がったものです。
こちらはDOOM 3。FPSの始祖の最新作。Half-Life 2と二分する、04年のもうひとりの主役だった。
最終的にどちらが勝利したかというと、それは今回主役の『Half-Life 2』でした。本作の勝利は歴史が如実に語っており、後続のゲームは『DOOM 3』の作風ではなく、『Half-Life 2』の影響を受けていったように見えます。
どちらも技術的には最先端を走っていたはずなのに、いったいどこで差が出たのか。いまから思えば『DOOM 3』は確かに最先端の技術を搭載はしていましたが、ゲームとしての遊び自体は従来の方法論の延長線上にあるに過ぎなかったのでしょう。べつの言い方をするなら、見た目はすごくリアルになったけれども、正直、昔のままのリアルじゃない見た目だったとしても、ゲームとしてのおもしろさはそこまで変わらないのではないか、とか。
その点が『Half-Life 2』はちがいました。最先端の技術と、その裏づけなくしては表現しえない「没入感」があったのです。ちなみに「没入感」は僕がゲームを遊ぶ上で最重要視している要素のひとつ。『Half-Life 2』には他にも語れる点はたくさんあるのですが、今回は後続へ与えた影響も鑑みて、『Half-Life 2』の持つ「没入感」に話題を絞って解説していきましょう。
[[SplitPage]]■没入感の追求とは
さて、「没入感」といってもゲームを普段遊ばれない人はピンとこないと思います。実際これはゲーム特有の感覚で、言語化するのがなかなか難しいのですが、しいて言うなれば「ゲームと自分という一歩引いた距離感を取り払い、自分がまるでゲームの主人公になりきり、ゲーム内で起きたことを我が身に起きたことのようにありありと感じられる状態」、でしょうか。
これはゲームに「熱中」している状態とは一見同じようでまったくちがいます。「熱中」というのは、たとえばテトリスを遊んでいたとして、どんどんブロックの落ちる速度が速くなり、それに対応してミスすることなく消しまくっている状態がそれです。言いかえるなら徹底的な効率化であり、まるで機械になったかのようにミスなく特定の操作を繰り返していく状態のことを指します。
『Half-Life 2』はまさにいま示した「没入感」の方を追求した作品。ゲームをより良いスコアでクリアしたり、高い難易度をミスなくクリアすることを目的とするのではなく、ゲーム内の出来事をありありと感じ入ることを優先的に考えた作品でした。しかしありありと感じるためには、それに耐えるだけの説得力、リアリティが必要です。そのために本作は先ほど挙げたフォトレアリスティックなグラフィックスだとかという、数々の最新技術を必要としたわけです。
しかし広く捉えれば、「没入感」を重視したゲームは『Half-Life 2』以前にも無かったわけではありません。本作が旧来の「没入感」志向のゲームの中でもひときわ革新的と評価されたのは、ゲームのはじめから終わりまで一貫して主人公の一人称視点で展開されること、どんなときでもプレイヤーの自由操作を奪いきらないこと、そして最も重要なのが、それでいてシネマティックな演出あふれる展開を描いたことの3点があったからです。
『Half-Life 2』、というよりも『Half-Life』シリーズにはカット・シーンというものがありません。カット・シーンというのはつまりゲームの合間にストーリー進行的な意味あいで挿入される映像のことですね。ゲーム・プレイだけでは追えないストーリーの複雑な部分を説明できるので、多くのゲームが使う手なわけですが、遊び手としてはそこを操作させろ! と思うこともよくあるわけです。
その点『Half-Life』シリーズはどんな時でも一人称視点のままゲームが進行する、つまりすべてを自分自身の視野で目の当たりにすることになるわけです。しかも基本的に自由操作が奪われない。仮に動けなくても、その時は拘束されているとかハッキリとした理由があり、そういう状況でも視点を動かすことはできる。見たくなければ目をそらしてもいい。
等身大の視点で強引な束縛を受けずに、事態を体感することができる。こうした作りが、従来のゲームのやらされている感や、見せられているだけ感を払拭し、自らの意志で立ち会っている感、ひいては自らなりにありありと感じる「没入感」を表現しえたのです。
主観視点に徹する作品はFPSのなかでも実は珍しい。Half-Lifeシリーズはそのようなゲームの代表格だ。
■初代『Half-Life』と『Half-Life 2』のちがい
ただこの一貫した一人称視点と自由操作の2点は、実は先程“『Half-Life』シリーズ”と呼んだように、そもそもは98年の初代『Half-Life』の発明なのです。しかしそれで『Half-Life 2』の評価を下げるのは早計ですよ。前述したように、そこにシネマティックな演出を共存させたことこそが『Half-Life 2』の革新性なわけですから。
先に初代『Half-Life』ついて少し触れてみましょう。この作品は先の2点を発明した、いわばゲーム内世界を等身大に感じさせることに注力した初めての作品だと言えます。むしろこの2点以外にもゲームのあらゆる要素が等身大であることに強くこだわっていたとも言えるでしょう。
たとえばプレイヤーの分身となる主人公のGordon Freemanは、屈強な兵士でも魔法使いでもなく、ただの科学者という設定。舞台も地味な科学研究所。実験失敗から異世界への扉が開き、研究所内をエイリアンが跋扈するというストーリーはセンセーショナルですが、かといってそれを誇張するわけではなく、ただ事実を積み重ねていくだけのように、その後の研究所の様子を淡々と描いていくことに終始します。ただしその淡々とした様子自体はしっかり描ききる。
そのどこまでも等身大であることに徹底したことが、まるで記録映像のようなリアリティ、もといただの人間=プレイヤーが突然渦中に放り込まれてしまった感がすごく出ていました。当時のゲームはどれも宇宙海兵隊だとか地獄の使者だとか、フィクション性が強く、またストーリーはあってないような作品ばかりだったこともあり、いままでにないストーリーと、それを体感させる仕組を編み出した名作という評価につながったのです。
Half-Lifeはモノレールに乗って出勤するシーンから始まる。記録映像的な本作を象徴する場面だ。
しかしこれはべつの見方をすると、初代『Half-Life』の表現は、リアリティある体験を描きたいのだが、当時の技術ではどうあがいても宇宙海兵隊にリアリティを持たせることはできない、というところからの逆説だったとも捉えられます。嘘だとバレやすいフィクション性や演出を徹底的に排除していって、結果として記録映像的な展開に行き着いたというような。
ところが続編の『Half-Life 2』ではそれが一転します。主人公のGordon Freemanは前作の事件の生き残りとして英雄視され、舞台のCity 17もスチーム・パンク的なケレン味が増しています。ゲームの目的も前作のただ生き残ることから圧政へのレジスタンス活動へと変わり、仲間とのヒューマン・ドラマあり、戦闘ヘリを相手に激しいカー・チェイスを繰り広げる場面もありと、とにかくすべてがシネマティックな方向性へと変わりました。
ある意味この変化は初代がこだわった等身大からの脱却です。みなから尊敬される英雄で、激しいアクションで敵をなぎ倒していく様子はもはや以前のしがない科学者とは思えません。嫌味な言い方をするなら、かつて初代で否定した宇宙海兵隊と同じではないか。しかし驚くべきことは、そんな設定や演出でも没入できるわけですよ。最新技術を駆使した随所のリアリティの向上によって!
先ほども少し触れたとおり、ゲームはもともと複雑なストーリーを描くことが苦手です。少なくともアニメや映画といった従来のメディアと比べるとすごく苦手。ゲームとはプレイヤーが自分の意志で気ままに操作するものですから、強固なストーリー・ラインを構築するのが難しい。がちがちにストーリーを決めて、主人公がやることなすこと全部決めてしまっては、逆にプレイヤーがわざわざ操作する意味がなくなってしまいます。
こういったジレンマに、多くのゲームはカット・シーンの挿入という安易な方法にはしったり、荒いポリゴンの感情移入しきれない寸劇に甘んじたり、初代『Half-Life』は記録映像的な変化球で対応した。そんななか『Half-Life 2』は、真正面からゲーム・プレイそのもののなかに劇的な演出を混在させ、それをリアリティと感じられる水準まで作りこんだ、初めての作品と言えるでしょう。
[[SplitPage]]■『Half-Life 2』以後のゲーム
この『Half-Life 2』の登場以降、業界全体のグラフィックス技術の大幅な上昇により、技術向上の恩恵を受けやすいFPSの一大ブームとなり、没入感重視のゲームもいっきに増えました。
ゲームの発売には周期性があるのがおもしろいもので、だいたい1本のゲームを開発するには、現代では2年から4年ほどかかると言われています。だから04年に発売した『Half-Life 2』の影響を受けたゲームが世に登場するのはだいたい07年くらい。
実際その年には『Call of Duty 4: Modern Warfare』や『Bioshock』等といった、『Half-Life 2』のコンセプトを独自解釈・発展させたかのような作品が多数登場するにいたっています。これらの作品も、後々この連載で取り上げていくことになるかもしれません。
一方で『Half-Life 2』の後続への悪しき影響についても触れておきましょうか。「没入感」という点では非常に秀でたものを持っていた本作でしたが、ゲーム・システムそのものの完成度であるとか、駆け引きの面白さはいまひとつな出来となっています。
ひと言で表すなら散漫なんですね。各チャプターごとでステージごとのコンセプトがころころ変わる。そこまでは体験のバリエーションが多いってことなのでべつにいいのですが、おもしろさまでころころ変わって出来不出来の差が激しいのは問題。
純粋なゲーム性のおもしろさを求めた人からはこの点が不満としてあがりがちで、またそういう人たちにとっては本作の人間ドラマだ演出だってのは不要なものという意見も多かった。いいからはやく銃を撃たせろよ! ってことですね。そういった求めるもののちがいにより当時から賛否両論を招く作品でもありました。
ゲーム中2回登場する乗り物によるチェイス・シーンは退屈だとする意見が多い。
そしてこの『Half-Life 2』の登場以降、演出重視でゲーム性イマイチみたいな作品を見ることが多くなっていきましたね。作品として勝負する点が変わってしまったということです。
これは本作の影響のみならず、2006年末に発売されたPlayStation 3により口火を切ったいま世代の家庭用ゲーム機の登場、それによるゲームのより広いユーザーへの浸透や、そのなかでより遊んでもらうための訴求性の追求だとか、もっとマーケット全体の傾向からの結果でもあります。しかしその先駆けだったのは『Half-Life 2』。それはまちがいありません。
■まとめ
というわけで今回は『Half-Life 2』というゲームを、良きにつけ悪しきにつけ今日のFPSに多大な影響を与えた歴史的意義の深い作品として、連載第1回目にご紹介させていただきました。
今回初回ということもあり、概要の説明もまじえてかなり長文となってしまいましたが、みなさまいかがでしたでしょうか。『Half-Life 2』は今回取り上げた以外にもまだまだネタのつきない作品で、というよりも開発元の〈Valve〉自体がゲーム業界の異端児かつ先行者といった感じで、本当に話題に事欠きません。というよりもむしろ台風の目のようにつねに話題の中心にいるような会社です。
おそらく今後の連載でも何度もその名前を見ることになるでしょう。その意味でもそんな〈Valve〉の代表作の『Half-Life 2』はぜひ取り上げようと思いました。
さて次回は、視点を変えて今年発売された最新のゲームのなかからひとつ紹介させていただきたいと思います。最後までご拝読ありがとうございました。それではまた会いましょう。