「OTO」と一致するもの

interview wuth Geoff Travis and Jeannette Lee - ele-king

 以下に掲載する記事は、2021年7月に刊行された別冊エレキング『マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界』に掲載の、〈ラフ・トレード〉の創始者、ジェフ・トラヴィスと共同経営者ジャネット・リー(『フラワーズ・オブ・ロマンス』のジャケットで有名)、ふたりへのインタヴューです。現在のUKインディ・ロック・シーンに何が起きているのか、UKインディに起点を作った人物たちがそれをどう見ているのか、じつに興味深い内容なのでシェアしたい思い、ウェブで公開することにしました。
 〈ラフトレード〉については日本でも多くの音楽ファンがその名前と、だいたいの輪郭はわかっていると思う。しかしながらこのレーベルが、マルクス主義とフェミニズムを学んだ人物によって経営されていた話はあまり知られていない。このあたりの事情については、ele-king booksから刊行されたジェン・ペリー(ピッチフォークの編集者)が書いた『ザ・レインコーツ』に詳述されている。ま、とにかく、彼=ジェフ・トラヴィスには彼が望んでいる未来がありました。彼の志はおおよそ正しかったのですが、未来とは予想外の結果でもあります。さてさて、彼がポートベローに小さなレコ屋を開いてから45年、“UKインディ・ロック”はどこに向かってるのでしょうか。どうぞお楽しみください。


2021年はスリーフォード・モッズの素晴らしい『スペア・リブ』からはじまった。 by Alasdair McLellan

数多くのエキサイティングなバンドがいま浮上してきている、間違いなくそう思う。ただ、今回の違いと言えばおそらく、いま出てきている若いバンドの多くは本当に素晴らしいプレイヤーたちだ、ということでしょうね。テクニック面でとても秀でている。

ここ数年、日本から見て、UKのロック・シーンから活気が生まれているように感じます。スリーフォード・モッズのような年配もいますが、とくに若い世代から個性のあるバンドが何組も出てきて、このコロナ禍においてパワフルな作品を出しているように見えます。おふたりは70年代からずっとUKのロック・シーンの当事者であるわけですけど、いまぼくが言ったように、現在UKのロック・シーンは特別な状態にあると思いますか? 

ジャネット・リー(JL):ええ、数多くのエキサイティングなバンドがいま浮上してきている、間違いなくそう思う。ただ、今回の違いと言えばおそらく、いま出てきている若いバンドの多くは本当に素晴らしいプレイヤーたちだ、ということでしょうね。テクニック面でとても秀でている。若いバンドはたまに、数曲プレイできるようになり、髪型とルックスをかっこよくキメたらツアーに出てしまい、成長するのはそこから……ということもあるわけだけど(苦笑)、いま飛び出してきているバンドの多くは、テクニックの面ですでにとても優れていると思う。しかも彼らの多くはカレッジあるいは音楽校、たとえばブリット・スクールやギルドホール・カレッジ(ギルドホール音楽演劇学校)等に通った経験もあるから、ツアーに出る前に楽器演奏をしっかり学んでいる、という。いま起きていることの違いのひとつはそこだと、わたしは思う。

ジェフはいかがでしょう? ジャネットの意見に賛成でしょうか?

ジェフ・トラヴィス(GT):ああ、賛成。(苦笑)だから、わたしたちはいつだって意見が一致するんだ! 

JL:(笑)

GT:興味深いと思うのは我々が十代だった頃はいまのような音楽学校はなかったことでね。ブリティッシュ・ミュージック・シーンはある意味アート学校で生まれたようなものだ。実際に学生だった者だけではなく、アート校周辺に集まった連中も音楽をやっていた。それに、ピート・タウンゼントのように実際にアート学校に通った人びともいた。
 けれどもいまや、さまざまな音楽学校がそれに代わったわけだ。かつ、70年代には職がなければ失業手当の申し込みができ、政府からわずかのお金が給付された。飲食費に充てるのではなく家賃のためにね。
 ところが現在では、政府給付を受けるのははるかにむずかしくなっている。それに大学やカレッジといったアカデミックな道を望まない、あるいは義務教育以上に進学したくないキッズで、それでも音楽を本当に愛しているとか、何かをクリエイトするのが大好きという者たちは、先ほどジャネットが名前を挙げたような新たなタイプの音楽校に向かうわけだね。
 リヴァプールや南ロンドンをはじめ各地にそういった学校があり、彼らはそこに3年通ったり、専門校他の違ったタイプのカレッジに通い、音楽を学べる。実際、それが大きなサポートになっている。ミュージシャン同士がそうした学校で出会い、バンドを結成し、プロジェクトをやったり。たとえば、ミカ(・リーヴィ)の通った、キャンバーウェル(南ロンドン)にあるあの学校はなんだっけ? あるいは、ジョージア・エレリー(ブラック・カントリー・ニュー・ロード、およびジョックストラップ)が行ったのは……

JL:スレイド美術校? いや違う、ジョージア・エレリーが通ったのはギルドホール。

GT:ああ、ギルドホールか。ああいった面々は本当に才能あるミュージシャンであり、相当なカレッジに通ってね。

JL:でも、そればかりとは限らないし——

GT:たしかに、生まれつき才能のある者もいる。

JL:——ただ、彼らが基準を高く定めていく、と。

GT:ああ、レヴェルを上げる。違う世代ということだし、そこだね、70年代からの変化と言ったら。

JL:そう。

GT:思うに……それに70年代は、ある種60年代を引きずっていたとも言える。というわけで、カウンター・カルチャーの発想がいまよりももっと優勢だったのではないかな?

JL:(うなずいている)

GT:だから、若者はちゃんとした職に就こうとはしない、弁護士や医者になるつもりはない、といった調子で、親が子に望む生き方と逆の方向に向かったものだ。けれども、彼らはそういう考え方をしていないよね? いまのキッズは違う。

JL:ええ、それはない……。ということは、いまのキッズには反抗する対象があまりないということでしょうね、かつてのわたしたちと較べて(苦笑)。

GT:ああ。それにおそらく、まだ親と暮らしているだろうしね。

JL:でしょうね。

GT:なにせひとり暮らしをしようにも、家賃が高過ぎて無理だから。その違いは大きい。UKにおいて、音楽は歴史的に言っても、我々がいつだってかなり得意としてきたところでね。我々にいくらかでもある才能のうちのひとつだ。だからイングランドでは常に、新たな面白い音楽が生まれてくる。
 もっとも、ムーヴメントというのは正直、定義しにくいものでね。我々はその面は大概、社会学者やそれらについて書く音楽ジャーナリストの手に委ねておく。我々はとにかく、いま音楽をやっている人びとのなかで我々がベストだと思う者たち、我々全員がエキサイトさせられる連中を見つけようとするだけだ。
 とはいえ、うん、間違いなくひとつのムーヴメントがあるね。あの、歌うのではなくて、たとえばマーク・E・スミスやライフ・ウィズアウト・ビルディングスのスー(・トンプキンス)がやっていたような、歌詞を吐き捨てるごとくシャウトする一群の連中がいる。ドライ・クリーニングやヤード・アクト、スクイッドブラック・カントリー・ニュー・ロードといった連中、彼らがああいう風に「歌う」歌唱ではなく、「語る」調の歌唱をやっているのは興味深いことだ。

UKにおいて、音楽は歴史的に言っても、我々がいつだってかなり得意としてきたところでね。我々にいくらかでもある才能のうちのひとつだ。だからイングランドでは常に、新たな面白い音楽が生まれてくる。

これら新たなバンドがどんどん出てきているのには、何か社会/文化的なファクターがあると思いますか? それとも、じつはずっとこの手のバンドは存在し活動していて、シーンもあり、それがいまたまたメディアに発見され、脚光を浴びているのでしょうか? 

JL:新しいシーンはいつだって進行していると思う。常にね。そして、いつだってメディアがそれを取り上げ、命名するものだ、と。ただ、さっきも話したように、現在起きていること、おおまかに言えば南ロンドン&東ロンドン・シーンになるでしょうけど、それを他と区別している点は、新たなバンドのミュージシャンシップだと思っている。専門的な腕の良さ、彼らが技術的に非常に堪能であること、この新たな一群とこれまでとを画している違いはそこになるでしょうね。というのも、ほら、たとえばパンクの時代には、そこから離れていく動きがあったわけでしょう? 

たしかに。

JL:パンク以前は、人びとは技術的にとても達者だったし、(苦笑)ギターでえんえんとソロを弾いたり(苦笑)。そしてパンクが起こると、楽器が上手なのはまったくファッショナブルなことではなくなり、誰もそれをやりたがらないし、誰も聴きたがらなくなった。その側面は長い間失われていたけれども、こうしていま、人びとが再び音楽的な才能を高く評価する、そういうフェーズに入っているということだと思う。本当に、ちゃんと演奏ができる、という点をね。

GT:それもあるし、いま、ロンドンには非常に活況を呈しているジャズ・シーンもある。それは珍しいことでね。新世代の若い黒人のロンドン人たちが、ジャズを再び新しいものにするべく本当に努力を注ぎ込んでいる。それはずいぶん長い間目にしてこなかった動きだし、そこもまた、新しいバンドのいくつかのなかに入り込んでいる気がする。サキソフォンやホーン、ヴァイオリンなど、一般的なバンドでは耳にしないサウンドが聞こえるし、それも彼らにとってはノーマルな部分であって。そこはある意味興味深い。

たしかにジャズも勢いがありますし、新世代バンドのなかにはやや70年代のプログレが聞こえるものがあるのは、興味深いです。

JL:ブラック・ミディでしょ(笑)?

GT:ああ。

(笑)はい。なので、いまの世代は、パンクだ、プログレッシヴ・ロックだ、ヒッピー音楽だ、という風にジャンルを分け隔てて考えていない印象があります。影響の幅が非常に広いな、と。

GT:その通りだね。我々が本当に驚かされてきたのもそこで、たとえばブラック・ミディの3人と話すとする。で、彼らの音楽的知識、その幅、そして歴史的な理解は全ジャンルにわたるものであり、とにかく驚異的だね、本当に。わたし個人の体験から言っても、あの年齢で、あれだけさまざまな音楽や知名度の低いアーティストについて詳しい人びとに出会ったことはいままでなかった。ジャズ・ギタリスト、フォーク・ギタリスト、カントリー&ウェスタンのプレイヤー、ロカビリーのギター・プレイヤー等々。それはまあ、インターネットが人びとの音楽の聴き方の習慣を変え、あらゆるものへのアクセス路をもたらしたからに違いないだろうけれども。

JL:しかも、彼らは音楽学校に入るわけで。そこでも教育を受け、音楽史等について学ぶ。

GT:ああ、そうだね。にしても、彼らの音楽への造詣の深さ、あれにはただただ舌を巻くよ。

若手のシェイムをはじめ、ゴート・ガール、ドライ・クリーニング、スクイッド、ブラック・ミディ、ワーキング・メンズ・クラブ、ヤード・アクト、ザ・クール・グリーンハウス、コーティング、ブラック・カントリー・ニュー・ロード、ビリー・ノーメイツスリーフォード・モッズやアイドルズなどなど……彼らをポスト・パンクと括ることに関してはどう思われますか? 


ゴート・ガールの『On All Fours』もよく聴きました。 by Holly Whitaker

GT:ルイ・アームストロングはかつてこう言ったんだ、「音楽には良いものか、悪いものしか存在しない。わたしは良い類いの音楽をプレイする」とね。

JL:(笑)その通り。

(笑)ええ。

GT:いやもちろん、わたしも理解しているんだよ。ジャーナリストは数多くの原稿を文字で埋め、何かについて書かなくてはならないわけだし、物事をジャンルへとさらに細かく分け、そこに名前をつけようとするのは理にかなっている。けれども、ミュージシャンのほとんどはそれらのカテゴリーのなかに入れられるのが正直好きではないし、とくにジャンルに関して言えば、これらのバンドたちは、別の世代がやったのと同じようにカテゴリーを認識してはいない。非常に多様でメルティング・ポットな影響の数々が存在しているからね。ポップをやることも恐れないし、かと思えば次はフォーク、今度はソウル・ミュージックをプレイする、という具合だ。たとえばブラック・ミディは今日、ホール&オーツのカヴァーをやってね。

(笑)なんと!

GT:あれはまさか彼らから?と思わされた変化球だった(苦笑)。

JL:(笑)それに、彼らはブルース・スプリングスティーンの曲もカヴァーしたことがあって。あれにも――かなり驚かされたわね。でも、個人的に言えば、わたしはカテゴリーは別に気にしてはいない。とにかく、いいものか、そうではないか。何かしら胸を打つものか、あるいはそうではないか。それだけの話であって。わたしたちの心に響き感動させられるもの、わたしたちが惹き付けられるのはそれ。これまで、わたしたちが「あの新しいムーヴメントのなかから誰かと契約しなくてはらない」という風に考えたことは一度もなかったと思う。そうした考えは一切入り込まないし、とにかく本当に才能があるとわたしたちの見込んだ人びとと会ってみるし、その視点から物事を進めていくことにしているだけ。彼らをグループとして一緒にまとめているのは、新聞のほう(笑)。

(苦笑)はい、我々の側ですよね。承知しています。

GT:(笑)。

[[SplitPage]]

若い子たちはスリーフォード・モッズにあこがれていると思う。ちょっとしたヒーローだし、若い人たちの見方もそれだと思う。彼は自分の考えをはっきり外に向けて出しているし、しかも人生経験もちゃんとある人だから。

多くの若いバンドが2018年あたりに登場していることで、ブレグジット以降のUKの社会/政治状況が間接的に影響を与えているという解釈がありますが、あなたがたはどう思われますか? 若者の多くは未来に不安を感じているでしょうし、とても不安定な状況なわけですが。

GT:そこは非常に大きい部分を占めていると思う。たとえばゴート・ガール、彼女たちの書くこと、プレイしている曲、何もかもがそうしたことによって形成されていると思うし、彼女たちは社会の崩壊や、現在の世界の状態を非常に強く意識している。というか実際彼らのほとんどは、いまどういうことになっているかについてかなり強い意識があると思う。これらのミュージシャンの多くが演奏している音楽は、必ずしもストレートにコマーシャルだとは言えない類いのものなわけで、そういうことをやるためには、実は本当にやりたい音楽を「自分たちはこう感じている」とプレイし、言いたいことを言うしかない。人がどう考えるだろうか?と気にするのはある種の検閲であり、忌まわしいことと言える。
だから、(商業的ではなく)やりたい音楽をやっているということは、彼らがはただ単に保守的に順応するのではなく、いわば自分たち自身の道を進んでいる、その現れだね。ただ、いまの時代において、成功という概念はとても混乱させられるもので。

JL:そうね。

GT:やっていることを気に入ってくれるオーディエンスを見つけること、それがサクセスなんだろうね。かつ、音楽をプレイすることで生計を立てられる、それが多くのミュージシャンの夢だよ、実際。彼らがまず到達しようとする第一着陸地点がそこだろう。

JL:ええ。それにわたしは、このCOVIDのロックダウンやもろもろの後で、かなり大きなクリエイティヴィティの爆発が起こるんじゃないかと期待している。人びとは集まってクリエイトすることができずにいたし、おそらく彼らも、音楽を作りクリエイティヴでいるために何か別の方法を思いつかなければならなかったでしょうから。で、「必要は発明の母」なわけで、きっとここから何かが出てくると思う。大きな、クリエイティヴな爆発が起きるでしょうね。

シャバカ・ハッチングスの素晴らしい新作はロックダウン下で制作されたはずですし、おっしゃるように、今後UKからさらに多くの素晴らしい音楽が出てくるのを期待したいです。

JL:そうね。

〈ラフ・トレード〉では、ゴート・ガール、ブラック・ミディ(そしてスリーフォード・モッズ)を今回の特集のなかでフィーチャーさせてもらっています。どちらの新作も大好きなので、個別に話を訊かせてください。まずはゴート・ガール。このバンドこそぼくには70年代末の〈ラフ・トレード〉的な感性を彷彿させるものがあるように思います。ザ・レインコーツのような、独自の雑食性があって、しかも女性を売りにしない女性バンドです。

GT&JL:うんうん。

おふたりにとって、このバンドのどこが魅力ですか?

JL:彼女たちは……非常に音楽的だからだし、彼女たちの作っていた音楽をわたしたちが気に入ったのはもちろん、しかも彼女たちはとても意志の強い、興味深い、若い女性たちであって。彼女たちのような若い女性たち、強い心持ちがあり、自分たちが求めているのは何かをちゃんと知っている女性のグループと一緒に仕事できるというのは、わたしたちにとって非常に魅力的だった。というのも、ああいうグループは、決して多く存在しないから。

ええ、残念ながら。

JL:そう。だから、これまで彼女たちと一緒に仕事してこられて、こちらも非常に嬉しいし満足感がある。

ブラック・ミディはほとんどアート・ロックというか、なんでこんなバンドが現代に生まれたのか嬉しい驚きです。ブリット・スクールで結成されたのは知っていますが、だいたいダモ鈴木と共演していること自体が驚きです。彼らはいったい何者で、どんな影響があっていまのようなサウンドを作るにいたったのでしょう? 『Cavalcade』を聴いていると、エクスペリメンタルですが、XTCみたいなポップさもあるように思います。

JL:……(ジェフに向かって)この質問はあなたに譲る。

GT:(苦笑)えっ!

(笑)説明するのが楽ではないかもしれませんが。

GT:むずかしいね、というのも彼らは本当に風変わりで、とても型破りだから。たとえばジョーディ(・グリープ)、ギタリストでメインのシンガーのひとりである彼だけれども、彼は相当にエキセントリックなキャラクターだ。非常に個性的な人物だし、ああいう人間には滅多にお目にかからない。で、そこは本当に彼の魅力のひとつでもある。
まあ……我々はほかとはちょっと違う人びとを、普段出くわさないような人びとを常に讃えてきたよね。いい意味で、とは言えないような、やや興味深い人びとを。だがジョーディはとても教養があり、知識も豊富で、しかも実に素晴らしいミュージシャンだ。それに彼はとてもいい形で、自分のやっていることの本質を理解している、というのかな。彼は楽しいことをやりたい、スリリングかつ楽しいものにしたいんだ。それは非常にいい考え方だ(笑)。 

JL:たしかに。彼らのもっとも魅力的なところのひとつは、彼らには境界線が一切なさそうだ、ということで。とにかく彼らは、そのときそのときで自分たちの興味をそそることならなんだってやるし、自分たち自身を「我々はこういうバンドであり、やっているのはこういうこと」という風に見ていない。自分たちにとって興味深く、スリリングなものであれば音楽的にはなんだってやる。彼らは恐れを知らないわけ。

GT:しかも、それをやれるだけの能力も備えている。それは珍しいことだ(笑)。

JL:そう、そう。能力があり、恐れ知らず。彼らはほかの人間がどう考えるかあまり気にしていないし、自分たち自身を楽しませている。そこに、わたしたちは非常に魅力を感じる。

なるほど。でも、レーベルとしては、そんな風になんでもありで形容・分類できないバンドな、逆にマーケティングしにくいのではないか? とも思いますが。

GT:新しく、前代未聞ななにか、というね。それはその通りだし、だからこそエキサイティングなのであって。

JL:でも、その意見はおっしゃる通りで、彼らをマーケティングするのはとてもむずかしかったかもしれない。ところが実際はどうかと言えば、これまでわたしたちがしっかり付き合ってきたなかでも、彼らはもっともマーケティングしやすいバンドでね。なぜなら彼らには自分たちで考えてきたアイデアがあるから。自分たちをどう提示するかについて、本当にいいアイデアを持っている。その意味でもやっぱり、「境界線がない」という。彼らがとてもいい案を思いついてきて、こちらはそれらのアイデアをサポートしてきた。だからこれまでの彼らのマーケティングは、楽しかったとしか言いようがない。そもそもアイデアがちゃんとあるから、かなり楽にやれる、という。

質問にあった、ザ・フォールやパブリック・イメージのようなバンドは現在でも出てこれるか? に対するわたしの回答は、絶対に出てこれるだろう、そう思う。

今回我々が取り上げているような、ここ数年出て来たバンドのなかで、もっともいまの時代を言葉によって的確に表現できているバンドは何だと思いますか?

JL:それはもう、あなたが親であれば、彼らはあなたの子供であってみんな愛しいし、「この子」とひとつだけにスポットを当てるのはとてもむずかしい、というのがわたしの感覚であって(苦笑)。

(笑)すみません。

JL:(笑)でもまあ、スリーフォード・モッズには山ほどある。いまの世界の状況とUKの状況について、彼らには言いたいことがいくらでもある。だから、ある面では、たぶん彼らでしょうね。一方で、ゴート・ガールは、女たちにとって本当に大事なことを言葉にして歌っている。先ほど言ったように、ブラック・ミディは境界線も恐れも知らなくてアメイジングで――だから、この一組、という話ではない。そうやって選ぶのはこれからもないでしょうね。

GT:ああ。それに、我々全員が惚れ込んでいる、キャロライン(Caroline)という新人バンドもいる。8ピースのグループなんだが。

はい、知っています。

GT:うん。彼らのやっている音楽もわたしたちみんながとても、とても愛しているものだ。興味深いんだよ、あのバンドは共同し合い作業できる者たちによる一種の集団で、コミュナルな、恊働型でね。しかも8人と大規模なグループだから、その力学を見守るのも興味深い。それにこれらのグループはいずれも、もっとショウビズ的なロックンロールとしての価値も備えている。たとえばスリーフォード・モッズ、あるいはブラック・ミディの演奏を観に行くと、実際のイヴェントが、ショウとして、パフォーマンスとして、とにかくファンタスティックなんだ。それゆえに彼らのメッセージ、あるいは彼らの言わんとしていることに対して懐疑的になってしまうかもしれないが、とにかく素晴らしい一夜のエンタテインメントになってもいて。それもまた、彼らのやろうとしていることの一部なんだ。


内省的だった2021年に、場違いな騒々しさをもたらしたブラック・ミディ。

それではサウンドの面で、おふたりにとってもっとも斬新に感じるバンドはどれでしょうか?

GT:我々はいま、アイルランドのフォーク・ミュージックにとても入れ込んでいる。あの音楽は現在非常にいい状態にあるし、ランカム(Lankum)、リザ・オニール(Lisa O’neill)、 イェ・ヴァガボンズ(Ye Vagabonds)、ジョン・フランシス・フリン(John Francis Flynn)といった面々が大好きでね。新たな世代による伝統的なアイリッシュ・フォークの再解釈ぶり、あれはアイルランド音楽に久々に起きたもっともエキサイティングなことではないかと我々は思っている。実際、70年代初期以来のことだ。(※上記アクトはいずれも〈ラフ・トレード〉、もしくはジェフとジャネットが音楽ライターのティム・チッピングと始めたフォーク音楽を紹介するための傘下レーベル〈River Lea〉所属)

なるほど。

GT:それだけではなく、文学界も興味深くなっている。労働者階級や少数派文化の背景を持つ作家の作品がもっと出版されるようになっていて、それは出版界ではかなり久々のことであり、本当にエキサイティングな展開だ。他のレーベル所属アクトのライヴはあまり観に行かなくてね(苦笑)……

JL:ミカ・リーヴィ(Mica Levi/ミカチュー名義で〈ラフ・トレード〉から2009年にアルバム・デビュー)は、〈ラフ・トレード〉外ね。彼女も以前〈ラフ・トレード〉所属だったけれども、いまは自分自身で活動している。わたしたちは彼女が本当に大好きで。

同感です。最近はサントラ仕事を多くやってきましたよね。ものすごい才能の持ち主だと思います。

JL:ええ。彼女は本当にアメイジング。

いまの若いロック・バンドは、Z世代やミレニアルに属している子たちも少なくないと思うのですが、昔のロック・バンドのようにまずドラッグ(大麻は除く)はやらないし、酒に溺れることもないですし――

GT&JL:(苦笑)。

また、人種問題や環境問題、フェミニズムにも意識的だと人伝いに聞いています。おふたりから見てもそう思いますか? 70〜80年代のロックンロール・ピープルとは違う、と?

JL:間違いなくそう。わたしは確実に彼らから勉強させてもらっているから。彼らは食生活も健康的で、お酒も飲まないし、PC(政治的に正しい)でもあって(笑)。

(笑)口の悪いスリーフォード・モッズは除いて。

JL:(笑)その通り。ただ、あなたの言う通りで、若い人たちのアプローチの仕方は本当に違う。だから、むしろわたしたちの方が彼らから学べると思う(苦笑)。彼らの方が、かつてのわたしたちよりももっと妥当なルートをたどっている——というか、いまですらわたしたちはその面はダメかもしれない(笑)。

GT:フフフッ!

スリーフォード・モッズのようなバンドは、質問者のようなオヤジ世代にしたら堪らないバンドですが、UKの若い子たちはジェイソンのことをどう思っているのでしょうか? いまのバンドに彼らの影響はあると思いますか?

JL:若い子たちは彼にあこがれていると思う。彼はちょっとしたヒーローだし、若い人たちの見方もそれだと思う。彼は自分の考えをはっきり外に向けて出しているし、しかも人生経験もちゃんとある人だから。

階級闘争と文化闘争の問題についてはどう思われますか? つまり、いまのUKの文化、音楽はもちろんテレビ/映画界等の担い手から労働者階級が昔にくらべて激減し、文化が富裕層に乗っ取られているという話です。PiLやザ・フォールのようなバンドは現代では出にくい状況にあるという。

GT&JL:フム……(考えている)

ある意味、より複雑な状況のように思えます。たとえば先ほどおっしゃっていたように、いまバンドをやっている人びとにはカレッジやブリット・スクールに通った者もいて、親の学費負担もそれなりでしょうし。

GT:それは部分的には誤解だね。ブリット・スクールは実は学費を払わないで済む学校だから。

ああ、そうなんですか!

GT:あれは有料校ではないはずだし、それ自体があの学校の意義であって。入校するためにオーディションを受けるとはいえ、学費は払わないでいい。金持ちの子供のための、彼らが世に出る前に教養を積む学校だ、と思われているけれども実はその逆。才能さえあれば誰でも入校できるし、労働者階級の面々もブリット・スクールに通っている(※通訳より:ブリット・スクールに通ったことのある有名なアクトであるエイミー・ワインハウスもアデルも労働者階級なので、これは当方の理解不足です)。そこは思い違いだし、ブリット・スクールの側ももっとPRをやってその点をはっきりさせるべきだな。とはいえ、ファット・ホワイト・ファミリーのようなバンドもいるわけで……(ジャネットに向かって)彼らはどんな連中なんだい? 労働者階級?

(笑)。

JL:……(考えている)

GT:あれは、また別の系統だ。

JL:彼らは彼らだけの無比階級(笑)!

GT:そうだね、たしかに他にいない。彼らは違う感じだ。ただ、とりわけいまのロンドンのミュージシャンにとって、彼らは非常に影響力の大きいバンドでね。まあ、いろいろな人間が混じり合っていると思うし、労働者階級の面々にもいずれ、リッチな層と同じくらい、音楽界に入っていく可能性が訪れると思う。

JL:でもわたしは、いまは中流〜中流よりちょっと上の階級の人びとがバンドに多い、その意見は本当だと思う(笑)。それは本当にそうだと思うし。ただ、人生における何もかもがそうであるように、物事はさまざまなフェーズを潜っていくものであって。たとえば70年代には、お洒落で高そうな学校に通ったことがあってバンドをやっていると、あざ笑われることがかなり多かったと思う。
けれども、とにかくいまはもうそんなことはないし、もっと人びとが混ざり合っている。だから、そうした類いのタブーが消えたんだと思う。もっと混ぜこぜだし、いまはもっと、しっかり教育を受けた若者たちがバンド活動と音楽にのめり込んでいる、そういうものではないかと思うし、とにかく時代は変化している、ということなんでしょうね。ある意味、わたしたちは向上した、というか。

なるほど。そうしたタブーは逆差別にもなりますしね。中流やそれ以上の階級の人間であっても、音楽作りが好きでバンドをやりたければやっていいわけで。

JL:でも、スリーフォード・モッズ、間違いなく彼らは、そうしたバックグラウンドからは出て来ていないし。それに、質問にあった、ザ・フォールやパブリック・イメージのようなバンドは現在でも出てこれるか? に対するわたしの回答は、絶対に出てこれるだろう、そう思う。仮にわたしたちが明日彼らのライヴを観に行き、素晴らしかったら、その場で契約しているでしょうし。要は才能があるかないか、それだけの話だと思う。

1970年代末のポスト・パンク時代にはサッチャーという大きな敵がいましたが——

JL:(苦笑)ええ。

いま現在のロック・バンドにとって当時のサッチャーに匹敵するものとは何だと思いますか? 

GT:たぶん、内務大臣のプリティ・パテルは国でもっとも人気が低いんじゃない? 

なるほど。

GT:彼女は嫌悪の対象だ。けれども、現政府が若者たちの多くに対して発してきた嘘の山々、あれはとにかく過去に前例のないひどさという感じだ。いやおそらく、過去にも同じだけの嘘をつかれてきたんだろうが、かつては秘密のとばりにもっと隠されていたのが、いまやもっとあからさまになっている、ということなんだろうね。
で、先ほど君が言っていたように、いまの若者はもっと政治に関して意識的だし、この国でいま何が起きているかについてとても詳しい。気象変動をはじめとするさまざまな問題に対するアクションの欠如も知っているし、それを我々も過去数年起きてきた大規模なデモ行動の形で目にしてきたわけで。

BLM運動など、いろいろありますね。

GT:そう。とはいえ、君の指摘は正しいよ、マーガレット・サッチャーがある意味、若者を団結させた存在だった、というのはね。「この政府はうんざりだ」と彼らも思ったわけで(苦笑)。

JL:でも、あの頃も保守政権だったし、いまも保守政権なわけで。

GT:そうだね。憂鬱にさせられるのは、この保守党政府がしばらく長く続きそうな点で。そこは最悪だ。

政治・社会状況が困難であるほどアートは活発になると思うので、それを祈りましょう。でも、ということはボリス・ジョンソン首相はサッチャーほどの「敵」として見られてはいない?

GT:ああ、彼もそうだけれども、うん……

JL:……いまは、保守党全体がそういう感じで(苦笑)。

何人ものサッチャーから成り立つ政党、と。

JL:そう。だから、単純に「このひとりを敵視する」という象徴的な存在はいない。

GT:でもミュージシャンにとっては、ボリス・ジョンソンはミュージシャンがヴィザ無しで欧州に渡り、ライヴをやり、現地でお金を自由に使うのを許可する協定をEUとの間で締結しそこねた、という事実があるわけで。まだ駆け出しのバンドが外に出て行ってプレイするのは不可能な話だし、ミュージシャンには深刻だ。若いバンドに限らず誰であれ、欧州で演奏するのが以前よりもっとずっとむずかしくなっている。現政府のアートに対する感謝の念の欠如、そこにはただただ、ショックを受けるばかりだ。

それもありますが、まずはCOVID状況の克服が先決ですよね。それが起きればライヴ・セクターも回復するでしょう。音楽界にとってもまだまだ困難な時期は続きますが、〈ラフ・トレード〉の活況を祈っています。

GT&JL:ありがとう。

(初出:別冊エレキング『マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界』2021年7月刊行)


(追記)
 ついでながら、ぼく(野田)が気に入っているのは、ドライ・クリーニングとブラック・ミディ、次点でスクイッドです。2021年の洋楽シーンは良い作品が多かった、それはたしかでしょう。が、コロナ禍ということがあってだいたいが内省的だった。そんななか、ブラック・ミディから聞こえる場違いな騒々しさとスクイッドの“Narrator”には元気をいただきました。
 というわけで、ブラック・ミディ、スクイッド、ブラック・カントリー・ニュー・ロードの最新インタヴュー掲載の紙エレキング「年間ベスト・アルバム号」、どうぞよろしくお願いします。(ロレイン・ジェイムズの本邦初インタヴューもありまっせ)

クリスチャン・マークレー - ele-king

 音というものはつくづく不思議なものだ。高らかに鳴り響いたかと思えば、地を這うように轟きわたり、郷愁をさそうメロディの他方で聴くものを拒絶するノイズと化し、熱狂した観衆は踊り狂い、その瞬間に音はそのこと自体を言祝ぐファンファーレとなり、陶然とする私たちはただそれを描写することしかできない──

 上のような横書きの文字列が東京都現代美術館で開催中のクリスチャン・マークレーの展覧会「トランスレーティング[翻訳する]」の会場にはいってすぐの方形の展示スペースをかこんでいる。冒頭で「ような」とことわったのは文章そのものは私がうろおぼえで書いた創作だからだが、だいたいこのようなことが日本語で記してあったと考えていただいてさしつかえない。むろん私とて出版人のはしくれ。引用は正確の上にも正確を期すべきだとわかっている。わかっているが、この作品のテキスト自体、意味の伝達を優先しない。なんとなれば、今回の展示テキストはカタロニア語からの訳出で、その前が何語だったかは寡聞にして知らないが、本邦初披露のさいの展示はドイツ語からの翻訳で、このたび二度目のおめみえとなる。ただし前回と今回の文章は微妙にちがっているはずだ。翻訳=トランスレーションが逸失(ロスト)と不可分なのは日本を舞台にした映画の題名にもなったのでごぞんじの方もすくなくないが、聴覚に働きかける音ないし音楽という現象を対象とする場合、まかりまちがえばその懸隔はおそるべきものとなる。音を書くとは、その点で不可能事に属することは、ゆめゆめわすれてはなるまいが、それらを他言語に移しかえるともなれば、こぼれおちるニュアンスもひとしおであり、そのとき「翻訳」は「伝達=欠落」となる。


2.《ミクスト・レビューズ》 1999
壁に貼られたテキスト
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay.

 この作品のタイトルは《ミクスト・レビューズ》。1999年の発表で、新聞や雑誌に載った音楽にまつわる幾多のレヴューからサンプリングしたセンテンスをつなぎあわせ、文意はとおっていそうなのに全体的にはなにをいっているかわからない(わからなくてもいい)テキストになっている。クリスチャン・マークレーの個展「トランスレーティング[翻訳する]」はこの作品がぐるりをめぐる中央に「リサイクル工場のためのプロジェクト」と題した、ブラウン管式PCモニターやメディアプレイヤーなど、廃物を利用したメディアアートないしインスタレーション作品を設置した第一室からスタートする。サンプリングとリサイクリング、オブジェクトとコンセプトといった作者を基礎づける2作品、かつて国内で公開したなじみぶかい2作品でクリスチャン・マークレー「トランスレーティング[翻訳する]」展をおとすのである。


5. 「リサイクルされたレコード」のシリーズ 1979-1986
コラージュされたレコード
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York

 第一室をあとにした観客は通路沿いの《リサイクルされたレコード》、その前後をはさむように設置したふたつの映像作品《ファスト・ミュージック》《レコード・プレイヤーズ》を目にすることになる。ともに活動初期の作品で、ことにレコード盤にじかにマーカーで記号を書いたりシールを貼ったりするだけならまだしも、切り離して別のとくっつけて外見ばかりか中身もコラージュした《リサイクルされたレコード》はマークレーが特異なターンテーブル奏者としてニューヨークの即興音楽界隈で頭角をあらわしはじめた当時の代名詞というべき一作。ここでの「代名詞」の語には代表作や名刺代わりの含意があるが、そのように記す私はこの「代名詞」なる用語の匿名性と交換可能性をたのみに、言語そのものがマークレー的表現世界の一端であるかに思いはじめている。
 本展はこの「マークレー・エフェクト」とでも呼びたくなる現象の多面性をたしかめる場でもある。それらはレディメイド、フルクサス、ノーウェイヴ、DJカルチャーなど、歴史的文脈にも接続可能だがいずれも微妙に食いちがい、そのわずかばかりの空隙を発生源とする。たとえば初期サンプラーの粗いビットレートやいびつなループ感は時代性の傍証であるとともに特定の形式を想起させる記号でもある。いまでは80~90年代のサンプラーの解像度を再現することはたやすいが、マークレー・エフェクトはそのようなテクノロジー依存的で定量的なシミュレーションとはことなる原理原則に接近しながら働く法則だといえば、いえるだろうか。
 その点でマークレーはデュシャンやケージら考え方の枠組みを転換した先達の系譜につらなっている。ただし彼らのようにその前後を分割したりはしない。もっとカジュアルでしばしばコミカルなのは、お歴々ほど近代や制度や社会や教育や教養といった課題に真正面からとりくまなくてもよかったからかもしれない。むろん美大生時代のボストンでのノーウェイヴ体験、卒業後に出てきたニューヨークの都市の磁場も無視できない。80年代のニューヨークには猥雑で折衷的な空気が瀰漫していたと想像するが、先端的なモードのなかで近代なるものは失調しかけていた。モダニティの革命幻想が晴れてしまえば、あらわれるのは「post festum」としての事物と状況である。剥き出しのレコード盤を転々流通させることで、音楽から本来とりのぞくべきノイズを外部から付加するのみならず、エディションを一点ものに変化させる《レコード・ウィズアウト・ア・カバー》や、レコード店のエサ箱から中古盤のジャケットを改変した《架空のレコード》、おもにクラシックとポップスのジャケットをかさねて視覚をおもしろがらせるのみならず、鑑賞者固有のイマジナリーサウンドスケープの再生ボタンを押す《ボディ・ミックス》など、本展の中盤の要となる80年代末から90年代初頭の諸作の情報攪乱的なコンセプト、すなわち黎明期のサンプリング・カルチャーの戦術はおそらく先に述べた時代背景にも影響をうけている。また制度との摩擦熱を動力源とするこの戦術はおよそ形式や序列や経済性が存在すれば、どの分野にも応用可能であり、そのことを証明するように2000年代以降、マークレーは作風の裾野をひろげていくのである。


14 「ボディ・ミックス」シリーズより 1991-1992
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York

 とりわけ2002年の《ビデオ・カルテット》は映像分野の劃期として一見の価値がある。作品に登場するのは過去の映画から抜き出した音にまつわる場面で、マークレーは数百にもおよんだという断片を、カルテットの題名通り、四つの画面に矢継ぎ早に映し出しながら、時間の前後のみならず空間の左右にも目配せしつつ緊密に編みあげている。私はこのおそるべき労作を前にするたびに畏怖の念と笑いの発作におそわれるが、なんど鑑賞してもあきないのは作品の自律性によるものだろう。《ビデオ・カルテット》でマークレーはサンプリングした映像を人物や事物といった事象に分解しその記号的な側面を強調したうえで同時時進行する4面の映像と音が連関するようたくみに構成するのだが、そのありようは、ジャズのアンサンブルにも、実験的ターンテーブリストのエクササイズにも、チャールズ・アイヴズのポストモダン版になぞらえられなくもない。


9. 《ビデオ・カルテット》 2002
4チャンネル・ビデオ(同期、カラー、サウンド) 14’ 30”
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
サンフランシスコ近代美術館蔵 © Christian Marclay.

 きわめて音楽的であるがゆえに時間的な《ビデオ・カルテット》の主題はのちに長大な《The Clock》などに展開する。一方で速度や強度といった音楽体験の土台となる主観的な時間単位は「アクションズ」や「叫び」のシリーズで絵画という古典的な形式に擬態するかにもみえる。クリスチャン・マークレーの「翻訳」とは、それら相補的な問題の系を横切りながら、そのたびになにかを「欠落」していくことにほかならない。あたかも音の不在が沈黙を析出するように、翻訳のさい反語としてうかびあがるもの。私のいうマークレー・エフェクトもそこに淵源するが、そのことを体感するには本展のような企画はぜひとも必要だった。
 いうまでもなく「翻訳」とは二言語間に限定できず、言語の数だけ存在するなら、その行為は本来的に増殖的である──そのことを体感するのにも本展はうってつけといえる。やがて鑑賞者は本展後半にいたるころには、マークレーがアートそのものの翻訳作業にかかり、度外れにその意味を拡張するなかで、意図的に主題を空転させ、真空状の記号にすべての意味をすいあげさせていることに気づくであろう。翻訳行為にはえてしてこのようなパラドックスがつきまとうが、よくよく考えると、存命中の美術家でクリスチャン・マークレーほどパラドキシカルな作家もそうはいないわけで。私は本展の多様な作品を前にして上のようなことを思ったが、他方であらためて作品を前にして、マークレーを語るにあたってコンセプトに隠れがちな細部の繊細さ、情報が覆う作品表面の風合いや素材の質料や質感にも目をひかれた。《無題》と題した2004年のフォトグラムなどはそのことをさらに作品化したものともいえるのだろうが、ほかにもレコード盤やジャケットやマンガ雑誌の切り貼り、シルクで刷ったカンバスの表面、幾多のファウンド・オブジェクトに作者の手の痕跡のようなものを感じたのも本展の収穫だった。展覧会場の最終コーナーにもうけた「フェイス」シリーズや《ノー!》などの新作にも手の痕跡はみとめられる。2作品ともに2020年の発表で、コロナパンデミックというきわめて現代的で文明的な状況における人間のありようをマンガのコラージュであらわした作品だが、そこでは感情や身体性の表出が意味伝達の速度をおいこしていくのがわかる。その傾向は2021年の最新作《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》へ伸張し、ろう者であるパフォーマーが冒頭でとりあげた《ミクスト・レビューズ》を日本語へ手話通訳する模様をおさめた映像では音や口頭言語の伝達機能が希薄化するのと反比例するように身体性がたちあらわれるのである。この作品をもって「トランスレーティング[翻訳する]」は円環を閉じるように幕をひくが、そのとき私たちは「翻訳する」ことにみちびかれ、思えば遠くに来たもんだと、ひとりごつのである。

連鎖の網の目に位置する「誤訳=創造」のプロセス
——クリスチャン・マークレーと「翻訳」

 たとえば五線譜を演奏することについて、一般的にはそれを翻訳と呼ぶことはない。五線譜に記された記号は多くの場合、演奏内容を細かく規定しており、演奏者はそれらの記号を解釈しながら特定の作曲作品を音として再現する。他方で翻訳とは、なにがしか起点となる表現を別の文脈へと置き直すために別の形を作り出す作業のことをいう。通常はある言語を別の言語へと、できるだけ同一の意味内容を保ちつつ置き換える行為およびその結果を指す。だが周知のように言語学者ロマン・ヤコブソンは「翻訳」を三種類に腑分けし、そのうちの一つを自然言語にとどまらない「記号間翻訳」として定義した。彼の定義を踏まえるのであれば、言葉、音、イメージ、あるいはそれらの混合物をも含み込みながら、音楽、文学、絵画、写真、映画など、さまざまな記号系を置き換えることもまた、一種の「翻訳」と看做すことができる。この意味で異なる記号系を跨がる演奏、たとえば絵画を譜面と見立てて音楽を演奏する行為は一種の「翻訳」である。五線譜の演奏は譜面と音を異なる記号系と区別する限りにおいて「翻訳」と呼び得るだろう。そしてこうした「翻訳」は、自然言語においてもそうであるように、少なくとも次の二つの結果をもたらす。すなわち「翻訳」によって、わたしたちは異なる言語あるいは記号の体系を架橋し、これまでになかったコミュニケーションを生み出すことができる。同時に「翻訳」は、同一の意味内容を保とうと努めつつも、文脈と形が変わることによって、つねに致命的なズレを抱え込むこととなる——それをコミュニケーションの原理的な不可能性と言い換えてもいい。だがこうしたズレと不可能性は、たとえ情報の伝達という面で失敗の烙印が押されようとも、いみじくもヤコブソンが「詩」について述べたように、むしろ新たな表現へと向かうための創造性の源泉となっている。音楽に「翻訳」の観点を導入することに意義があるとすれば、まさにこの点にある。そしてそれは作曲と演奏のプロセスだけでなく、演奏と聴取の間にも創造的に寄与するはずだ。

 音楽家であり美術家のクリスチャン・マークレーによる、国内の美術館では初となる大規模な個展「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」が11月20日から東京都現代美術館でスタートした。展覧会の関連企画として、会期2日目の11月21日にはマークレーのグラフィック・スコアをリアライズするライヴ・イベント・シリーズ「パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する」の第1回が開催。∈Y∋のソロ・パフォーマンス、およびジム・オルーク率いるバンド(山本達久、マーティ・ホロベック、石橋英子、松丸契)による演奏が披露された(なお、同イベント・シリーズは2022年1月15日にコムアイと大友良英、翌16日に山川冬樹と巻上公一によるライヴが予定されている)。マンガをコラージュしたヴィジュアル・アートでもあるグラフィック・スコアを音楽へと「翻訳」する試みは、音楽と美術という異なるジャンルを渡り歩き、そしてそのいずれにも括り切れないマークレー独自のスタンスがあればこそ実現できた取り組みだったことだろう。

 クリスチャン・マークレーは1955年にアメリカ・カリフォルニア州で生まれ、スイス・ジュネーヴで育った。音楽家としては主にノー・ウェイヴの影響下でバンド活動を始め、ヒップホップとは異なる文脈で1970年代後半からターンテーブルを自らの楽器として使用し始めた先駆的存在として知られる。1980年代にはジョン・ゾーンらニューヨーク・ダウンタウンの先鋭的な音楽シーンと交流を持ち、1986年に当時「ノイズ・ミュージックの前衛的ゴッドファーザー」と呼ばれたヴォイス・パフォーマーでドラマーのデヴィッド・モスとともに初来日。音楽批評家・副島輝人の招聘ということもあり、来日の模様は『ジャズ批評』誌で取り上げられた。その後、マークレーは1989年に自身を含む12名のミュージシャンのレコードをそれぞれのミュージシャンごとにコラージュした12曲入りの傑作アルバム『モア・アンコール』を発表、さらに80年代のレア音源をコンパイルしたソロ・アルバム『記録1981~1989』を1997年にリリースしている。他にもギュンター・ミュラーやエリオット・シャープ、大友良英、オッキョン・リーらさまざまなミュージシャンとセッションをおこなった作品を多数リリースしており、こうしたコラボレーションの方が彼の音楽活動の大部分を占めているとも言える。演奏家としては近年はターンテーブル奏者としてではなく、日用品やオブジェを駆使したアコースティックなサウンド・パフォーマンスに取り組んでいる。2017年に札幌国際芸術祭が開催された際、廃墟となったビルの内部で大友良英とともにバケツやキッチン用品、食器、発泡スチロール、自転車、枕など無数のファウンド・オブジェを用いてデュオ・インプロヴィゼーションをおこなったことも記憶に新しい。

 他方でマークレーの足跡は音楽家だけでなく、ヴィジュアル・アーティストとしても40年近いキャリアがあることが一つの大きな特徴だ。もともとマサチューセッツ芸術大学で彫刻を専攻していた彼は、1979年から86年にかけてレコードをモノとして解体/再構築した「リサイクルされたレコード」シリーズを制作。1985年には音楽アルバムとも造形作品とも言い得る代表作の一つ《カヴァーのないレコード》を発表し、やはり不透明なメディアとしてのレコードそれ自体の物質性を前景化した。他にもレコード・ジャケットのステレオタイプなジェンダー・イメージをユーモラスかつクリティカルにコラージュした「ボディ・ミックス」シリーズ(1991~92年)、さまざまな人々が歌い叫ぶ口元を切り取った写真で構成される《コーラス》(1988年)、古今東西の映画から演奏シーンを抜き出して4つの画面に映した《ヴィデオ・カルテット》(2002年)など、発表されたヴィジュアル・アート作品は多岐にわたるが、そのどれもが音または音楽と関連する要素がモチーフとなっている点では共通している。2010年には無数の映画から時刻がわかる映像を切り出してコラージュし現実の時間と対応させた24時間にわたる大作《ザ・クロック》を完成させ——この作品もまた時間を構成するという点で音/音楽と密接に関わっている——、翌2011年に第58回ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を獲得することで美術家として名実ともに確固たる地位を確立した。2010年代以降は《マンガ・スクロール》(2010年)を突端に、無音のヴィデオ・インスタレーション作品《サラウンド・サウンズ》(2014~15年)や近作「叫び」シリーズ(2018~19年)および「フェイス」シリーズ(2020年)など、マンガに描かれた絵やオノマトペを素材として用いた作品に目立って取り組むようになっている。

 このように音楽と美術の領域を跨ぎつつ、一貫して音/音楽にまつわる要素をモチーフに、一流のユーモアとクリティカルな視点を織り交ぜ、聴覚のみならず視覚的作品としても自らの活動を展開してきたのがマークレーの足跡だと、ひとまずは言うことができるだろう。そうした彼がミュージシャンによる演奏を前提として制作したグラフィック・スコアの一部が、《ノー!》(2020年)と《つづく》(2016年)である。21日のライヴ・イベントでは、∈Y∋が《ノー!》を、ジム・オルーク・バンドが《つづく》を、どちらも約20分弱の時間でリアライズした。通常のグラフィック・スコアがそうであるように、演奏内容の大部分は演奏者自身に委ねられているものの、これら二作品にはマークレーによるディレクションも記載されており、そのディレクション内容の違いも手伝ってか、∈Y∋のパフォーマンスがほとんど彼自身の個性を大々的に伝えるような独自のリアライズとなっていたのに対して、ジム・オルーク・バンドは極めて構成的で、スコア解釈も奏功することでマークレーのユーモアさえ感じさせるようなリアライズとなっていた。


パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する (2021/11/21)
「ノー!」∈Y∋
撮影:鈴木親

 最初の∈Y∋のパフォーマンスでは、ステージ上に15台の譜面台が扇状に設置され、それぞれの譜面台には計15枚ある《ノー!》のグラフィック・スコアのシートが1枚ずつ置かれていた。《ノー!》はソロ・パフォーマーのためのヴォーカル・スコアとして制作されており、15枚のシートをどのような順序で並べるのかはパフォーマーに委ねられている。シートにはマンガから切り抜いた間投詞を含むシーン、たとえば「AAAH!」「NNNN!」「WOO-OO-OO-OO!」といったさまざまなセリフが絵とともに貼りつけられ、パフォーマーはこのスコアをもとにヴォイスと身体で解釈していく。コップを持ちながら舞台袖から登場した∈Y∋は、向かって右端の譜面台へと歩み寄ると、おもむろにマイクを手に取って絶叫し始めた。そして左端まで1枚ずつスコアをリアライズしていったのだが、会場で準備されていた計3本のマイクを通じて∈Y∋のヴォイスにはディストーションやディレイなどの激しいエフェクトがかけられ、ほとんど言葉を聴き取ることが難しいような凶悪なノイズが響き渡っていた。身体を大きく後方に反らせてなにかに取り憑かれたかのようにヴォイスを振り絞るそのパフォーマンスは他でもなく∈Y∋そのものである。だが1枚ずつスコアをリアライズしていくという点では、自由な即興演奏でもなく、明確に15のブロックに分節されたパフォーマンスだったと言える。そして最後の1枚はタイトルでもある「NO!」というセリフがさまざまなシチュエーションで発されているシーンを切り抜いたスコアで——厳密には「NO!」以外のセリフのシーンも含まれているが——、ここに至って渦を巻くような絶叫ノイズからようやく誰もが聴き取ることができるほど明確な言葉が立ち現れる瞬間が訪れた。全てのスコアをリアライズした∈Y∋はステージ中央に戻るとマイクのプラグを荒々しく引き抜き、まるで示し合わせたかのように横に置かれたドラムセットのクラッシュシンバルが倒れて終わりを告げた。


パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する (2021/11/21)
「つづく [To be continued]」 ジム・オルーク(ギター)、山本達久(ドラム)、マーティ・ホロベック(ベース)、石橋英子(フルート)、松丸契(サックス)
撮影:鈴木親

 しばしの休憩を挟み、続いてジム・オルーク(ギター)が山本達久(ドラム)、マーティ・ホロベック(ベース)、石橋英子(フルート)、松丸契(サックス)とともに今回のパフォーマンスのために結成したバンドが登場。マークレーのグラフィック・スコア《つづく》がリアライズされた。同じグラフィック・スコアとはいえ《つづく》は制作経緯が《ノー!》とはやや異なっており、もともとスイスのグループ、アンサンブル・バベルのために考案された48ページからなる冊子タイプの作品である。アンサンブル・バベルは今回のジム・オルーク・バンドと近しい二管&ギターのクインテット編成で、《つづく》はギター、木管楽器、コントラバス、パーカッションを想定して作られているが、編成に若干の異同が許されている。スコアにはやはりマンガの切り抜きがコラージュされているのだが、必ずしもセリフが書かれているわけではなく、演奏シーンや楽器、機材、オノマトペ、あるいは音を想起させる描写、そして五線譜までが、まるで一編の物語を描くように配置/構成されている。コラージュされた五線譜にはところどころメロディとして解釈可能な音符も記されており、スコアに付されたマークレーによる複数のディレクションを踏まえるなら、通常のグラフィック・スコアよりも比較的明確に演奏内容が定められているとも言える。実際に当日のジム・オルーク・バンドによるリアライズでは、数10秒程度で次々にシーンが切り替わっていくように演奏がおこなわれ、その音像は時間の枠組みと分節を設定する現代音楽のコンサートのように構成的なものだった。そしておそらくスコアそれ自体のディレクションに加えて、スコア解釈にあたって演奏前にバンド内で交わした取り決めも、こうした構成的側面の創出に大きく寄与していたのではないだろうか——たとえば出演者たちが揃って足踏みするユーモラスなシーンは、あらかじめ定めたスコア解釈の一つの結果だったと言える。とはいえその分、当日のパフォーマンスでは全体を満たすアンサンブルの細部にも妙味が宿っており、スコアそれ自体や事前の取り決めに還元することができないような、5人のメンバーそれぞれに特有な楽器奏者として持ち合わせている音色、そして独自に開発しただろうテクニックも一つの聴きどころとなっていた。いずれにしても、個性的ヴォイスが前面に出た∈Y∋のパフォーマンスに比して、ジム・オルーク・バンドがリアライズした《つづく》には作曲家・マークレーの痕跡が色濃く刻まれていたとは言えるだろう。


《ノー!》2020
15枚のインクジェットプリントを含むポートフォリオ
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング [翻訳する]」展示風景(東京都現代美術館、2021年)Photo: Kenji Morita
© Christian Marclay

 どちらの演目も、マークレーが手がけたヴィジュアル・アートでもあるグラフィック・スコアを、音中心のパフォーマンスへと「翻訳」する試みであった。展覧会のテーマがそうであるように、「翻訳」はマークレーの活動の一側面を鋭く言い表した言葉だ。ただしコンサートにおいては、スコアとパフォーマンスの間を置き換えるプロセスはあくまでも秘密裏に遂行されている。観客はどのような「翻訳」がおこなわれているのかをリアルタイムで知ることはなく、ステージ上の演奏風景とそこから発される響きに耳を傾けるのみだった。こうした演出の仕方はマークレー自身の意向によるものである。というのも《つづく》に書き記されたディレクションには次のような箇所がある。すなわち「このスコアは演奏するミュージシャンたちのために作られたものであり、コンサート中にオーディエンスとシェアするものではない」のであり、しかしながら「この出版物はパフォーマンスとは別物として、誰もが楽しむことができる」のである。もしもイメージを音へと「翻訳」するプロセスそれ自体が作品となっているのであれば、ヴィジュアル・アートとしてのグラフィック・スコアをプロジェクターでスクリーンに投影するなどしつつ、視覚的要素がどのように聴覚的要素へと置き換えられるのかを明らかにした方がよりよく表現できるだろう。だがマークレーは《つづく》のディレクションで「プロジェクションを使用してはならない」と釘を刺してさえいる。つまり彼にとってイメージを音へと「翻訳」するプロセスは、観客に伝えるべき内容としては考えていないようなのだ。実際に《つづく》のみならず《ノー!》も、当日に会場でスコアが投影されることはなかった。観客にはパフォーマンスのみ体験させ、他方でスコアそれ自体をヴィジュアル・アートとして楽しむことは半ば推奨されているのである。


《つづく》2016
冊子(オフセット印刷、ソフトカバー、48ページ)
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング [翻訳する]」展示風景(東京都現代美術館、2021年)Photo: Kenji Morita
© Christian Marclay.

 このことからはグラフィック・スコアを用いたパフォーマンスに対するマークレーのスタンスが窺えるのではないだろうか。すなわち彼にとってグラフィック・スコアは、一方ではヴィジュアル・アートとして制作されているものの、他方ではヴィジュアル・アートとは別の記号系に属するパフォーマンスそのものを生み出すための手段としても制作されている。そして「翻訳」を通じて置き換えることはあくまでもパフォーマンスの裏にある作業として、受け手にはリアルタイムでは伝えることなく実行されなければならない。それは言い換えるならパフォーマンスそのものの価値を積極的に認めようとすることでもある。だが翻って考えるなら、このようにスコアを投影しないということ自体は、むしろ音楽においてはスタンダードなあり方だ。通常、譜面台に置かれた楽譜は演奏者が音を生み出すためにあり、観客に見せるためにあるわけではない。マークレーは映像をスコアとする《スクリーン・プレイ》(2005)のみ例外的にスコアを見せることで観客に「より積極的に聞く」よう仕向けることを企図したと明かしつつ、グラフィック・スコア(図案楽譜)を観客に見せないことの理由をこのように説明している。

大半の図案楽譜はミュージシャンのためにあります。楽譜のイメージは音楽を説明することは意図していませんし、テレビやインターネットのせいで私たちはサウンドにイメージを紐づけるよう飼い慣らされています。サウンド抜きのイメージだとなにかが欠けているという感覚を持ってしまう。私にとって楽譜のイメージは演奏の引き金であり、ミュージシャンのための通常の譜面となんら変わらないのです。
(「クリスチャン・マークレーに、恩田晃が聞く 音楽とアートの関係」『intoxicate vol.155』2021年12月10日発行)

 マークレーは大規模なコンサートで豆粒大にしか見えないミュージシャンの姿を映像として巨大なスクリーンに映し出すことを例に挙げながら「人々は音楽を聞きながら、何かが見えることを期待してしまう」とも述べる。たしかにわたしたちは、音のないイメージ、またはイメージのない音について、なにかが欠落していると感じてしまうことがしばしばある。野外フェスティバルではかろうじて視認できるミュージシャンの小さな姿よりもスクリーンに映る大きな映像を目で追ってしまう。たとえイメージが用意されていたとしても飽き足らず、動画サイトで静止画と音楽の組み合わせに出会すと、時間とともに変化する映像を欲してしまう。それは音楽体験の充実度を情報量の多寡で判断しているということなのかもしれない。音楽を情報として捉えるなら、できるだけ効率よく多量の情報を摂取することが望ましいのだ。だがこうした消費のあり方はどれほど効率的であっても創造性の観点からは貧しい体験だと言わざるを得ない。受け手が自ら想像し作品に積極的に介入する余白を持たないからだ。しかしマークレーの作品はむしろこうした想像/創造へと受け手が自発的に足を踏み出すよう誘い出す。なにも聞こえないヴィジュアル・アートは音の欠落ではなく、受け手自身が豊かな音を想起するきっかけとしてある。同様にグラフィック・スコアを用いたパフォーマンスは、響きを聴くことによって一人ひとりの観客が異なるスコアのイメージを思い浮かべることになるだろう。むろんイメージに限る必要はない。今まさにこうして書かれているテキストがそうであるように、当日のパフォーマンスに触発された受け手は、音とは別の記号系にあるなにがしかを想起し、あるいは具体的な形をともなう表現としてアウトプットする。「翻訳」という観点が重要なのはこの意味においてである。もしもスコアをスクリーンに投影していたのであれば、イメージとパフォーマンスの対応関係に観客の注意が向いたことだろう。それは「翻訳」を客体として眺めることであって、観客自らがそのプロセスに介入しているわけではない。例外とされた《スクリーン・プレイ》のパフォーマンスも、「より積極的に聞く」という意味において、やはり観客が自ら主体となって「翻訳」をおこなう契機となる。

 クリスチャン・マークレーのヴィジュアル・アートは観客に音を想起させる。だが彼のグラフィック・スコアが想起させる音楽と、ミュージシャンが「翻訳」することによって具現化する響きは、おそらくまったく異なるものとしてある。それはとりもなおさず観客とミュージシャンそれぞれの「翻訳」がつねに致命的なズレと不可能性を抱えた創造的な「誤訳」であることを示している。この点で音を譜面の再現と看做す通常の五線譜と彼のグラフィック・スコアは根本的に異なるあり方をしている。そしてヴィジュアル・アートとしてのスコアがあくまでも固定化された視覚的要素として存在しているのに対して、それを手段として生まれたパフォーマンスはつねに具体的なパフォーマーをともなうことによって、実現されるたびに新生し続けていく可能性がある。それはかつてマークレーがターンテーブル演奏に関して「死んだと思えるオブジェを、生きたライヴの文脈において使うための一つの方法」(『ur 特集 ニュー・ミュージック』第11号、ペヨトル工房、1995年)と語ったこととも通底している。ヴィジュアル・アートとしてのグラフィック・スコアは、他の人間によって「翻訳」されない限り、あくまでもある時点で記録され固定化された「死んだと思えるオブジェ」に過ぎない。それは一方では見られることで受け手の記憶をまさぐり、想像上の音の発生を引き起こすことで「生きたライヴの文脈」へと蘇ることになる。他方ではパフォーマンスのための手段として用いられることによって、やはり「生きたライヴの文脈」に鳴り響きをともないながら置き直される。それだけではない。さらにパフォーマンスそれ自体の受け手によっても「翻訳」されていくのである——まるで物体としてのレコードが延々と回転し続けるように終わりのない連鎖を呼び込みながら。他の音楽家による多くのグラフィック・スコアが作曲と演奏のプロセスに焦点を合わせ、あるいは視覚のための純粋な絵画へと近づくのに対して、マークレーの作品はあくまでも連鎖の網の目——そもそもが既存のマンガを流用したコラージュだ——のなかに位置している。その意味で∈Y∋とジム・オルーク・バンドによる「翻訳」のプロセスを通じたリアライゼーションは、グラフィック・スコアを生きた文脈へと置き直す一種の蘇生の儀式であるとともに、パフォーマンスそれ自体が「死んだと思えるオブジェ」のように観客の記憶へと刻まれることによって——あるいは記録メディアにアーカイヴされることによって——、新たな「翻訳=創造」のプロセスを駆動させる試みでもあったのだと言えるだろう。

Contact - ele-king

 コロナ禍で迎える年末年始のカウントダウン・パーティ、渋谷コンタクトの「New Year’s Eve Countdown Party 2011-2022」には、BOREDOMSの∈Y∋のライヴをはじめ、あっこゴリラと食品まつりとの共演、なかむらみなみのライヴほか、滝見憲司ほか、Contactでお馴染みのDJやMOTORPOOLのレギュラー陣、ファビュラスなDrag QueenやGoGo Boysも加わって、2022年の幕開けをお祝いする。

ZEN RYDAZ - ele-king

 NITRO MICROPHONE UNDERGROUND の MACKA-CHIN と PART2STYLE の MaL、そして JUZU a.k.a. MOOCHY の3人から成るユニット、ZEN RYDAZ のセカンド・アルバムがリリースされている。
 ディジェリドゥや三味線、アラビック・ヴァイオリンなどが入り乱れ、ヒップホップやダンスホールやジャングルのリズムが揺らす大地の上を、多様なスタイルのラップや歌が駆け抜けていく。日本ラップのファンもベース・ミュージックのファンも要チェックです。

弛まぬ想像力によって昇華されたZEN RYDAZの2ndアルバムがリリース!

極東発HIP HOP x WORLD MUSIC!!!
新時代のベースミュージック・ユニット ZEN RYDAZ が豪華ゲストミュージシャン達と共に、廃墟の遊園地(宮城県・化女沼レジャーランド)にて満月の下繰り広げた1発撮りの奇跡のライブセッション! 朝陽へ向かう瞬間を捉えた貴重な映像作品とともにリリースされます。

https://www.youtube.com/watch?v=WnBh7LolsQw

映像制作は近年、絶景 x MUSICで話題を集めるTHAT IS GOOD。
ドローンによる風景美を得意とするチームとの連携により、独自の近未来感と映画的情緒を持つ唯一無二な作品が出来上がりました。

●ZEN RYDAZ
MACKA-CHIN, MAL, J.A.K.A.M. (JUZU a.k.a. MOOCHY)
●ゲストMC/シンガー
ACHARU, AZ3(RABIRABI), D.D.S, EVO, NAGAN SERVER, MIKRIS, RHYDA, 愛染eyezen, なかむらみなみ
●ゲストミュージシャン
GORO(ディジュリドゥ、ホーミー、口琴), KENJI IKEGAMI(尺八), KYOKO OIKAWA(アラビックバイオリン), 東京月桃三味線(三味線)

●発売開始日
2021年12月02日(木曜日)
CD: 2000円(税別)

各種サブスク、ストリーミング
https://ultravybe.lnk.to/zentrax2

CROSSPOINT bandcamp
https://crosspointproception.bandcamp.com/album/zen-trax2

NXS Shop
https://nxsshop.buyshop.jp/items/55581725

TRACK LIST
01. WISDOM 04:57
 Vocal: ACHARU / Digeridoo & Jews Harp: GORO
02. CLOUD9 03:19
 Voice: MIKRIS / Violin: KYOKO OIKAWA
03. CLOUDLESS MIND 04:22
 Voice: NAGAN SERVER / Shamisen: 東京月桃三味線 / Flute: GORO
04. KOKORO 04:33
 Voice: AZ3,EVO / Violin: KYOKO OIKAWA
05. QUEST 04:28
 Voice: RHYDA, ACHARU, NISI-P / Shakuhachi: KENJI IKEGAMI
06. SLOW BURNING 03:32
 Voice: D.D.S / Violin: KYOKO OIKAWA
07. CROSS-BORDER 04:01
 Voice: 愛染 eyezen / Turkish Flute & Jewish Harp: GORO
08. CANCANCAN 03:43
 Voice: なかむらみなみ
09. MIRRORS 04:21
 Voice: ACHARU / Violin : KYOKO OIKAWA
10. VEDA 05:36
 Voice: NAGAN SERVER & NISI-P / Shakuhachi: KENJI IKEGAMI

Total Time: 41:50

Arrangement: J.A.K.A.M.
Mix: J.A.K.A.M. (01,03,05,07,09) & MAL (02,04,06,08,10)
Mastering: Robert Thomas (Ten Eight Seven Mastering London / UK)
Logo, Illustration: USUGROW
Picture: NANDE
Photo: Nobuhiro Fukami
Design: sati.

PRODUCED BY ZEN RYDAZ (MACKA-CHIN, MAL, J.A.K.A.M.)

P&C 2021 CROSSPOINT KOKO-099
https://www.nxs.jp/

プロフィール
ZEN RYDAZ:

NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのMACKA-CHIN、PART2STYLEのMaL、JUZU a.k.a. MOOCHYことJ.A.K.A.M.
2019年、それぞれのフィールドで20年以上活動してきた同年代の個性派3人が、満を持してジャンルを越え“ZEN RYDAZ”としてWORLD MUSICをテーマに、メンバーが旅して得た世界観、常にアップデートされていく其々の感性、追及から生まれるスキルを結集し、21世紀的ハイブリッドサウンドver3.0としてここTOKYOでクラクションを響き渡らす。
MADE IN JAPANの島リズムが生み出すZEN SOUNDはバウンシーでドープそして自由な発想と飽くなき音楽魂を“禅FLAVA”に乗せ、大空高くASIA発のニューライダーズサウンドとして言葉を越え世界にアップデートされたWORLD MUSICを送信中。
https://zenrydaz.tumblr.com/

BANDCAMP
https://crosspointproception.bandcamp.com/
SHOP
https://nxsshop.buyshop.jp
WEBSITE
https://www.nxs.jp/label

interview with Gusokumuzu - ele-king

ポップだけど、そっちに流されすぎないってとこ。必ずメッセージはいれたい。負けもせず勝ちもせずもやもやしてる若者の違和感を歌いたい。

 グソクムズがセルフタイトルの1stアルバムを完成させた。東京を拠点に活動するたなかえいぞを(Vo, G)、加藤祐樹(G)、堀部祐介(B)、中島雄士(Dr)の4人組は、井上陽水や高田渡、はっぴいえんどらのDNAを受け継ぎながら、2021年の感覚でよるべない若者を描写する。77年生まれで90年代に青春を過ごした筆者は、豊かでもなく貧しくもない状態が永遠に続くと思っていた。その意味で輝かしくはないが、未来は確かにあると。だがいまの子供たちは何を思う。大半の大人が人間不信に陥り、景気も気候も悪い。おまけに未知の伝染病まで蔓延する。グソクムズの1stアルバムにはそんなディストピアをリアルに生きる若者の気持ちが描かれる。
 そんなアルバムについて、さらに今回はバンドのヒストリーをたなかえいぞをに聞いた。


今回取材に応じてくれたヴォーカル/ギターのたなかえいぞを

息してるだけでお金がなくなっていく。夢も生活もどんどん削られているのに、街はどんどん発展してでっかいのが建って。地元の吉祥寺も、下北沢も。僕はそこでうまく生活できないなって思うんですよ。

グソクムズはもともとたなかさんと加藤さんのフォーク・デュオだったんですよね?

たなか:そうです。加藤くんとは高校から付き合いでいっつもふたりで遊んでました。僕らは不良とオタクと引きこもりしかいない高校に通ってて。僕はクラスの人気者だったけど、加藤くんは日陰者でした(笑)。でも音楽の趣味というか、単純に気があったのですごく仲良くなりました。

そんな学校で人気者だったということは、たなかさんももともとはすごい不良だったとか?

たなか:いやいやいや。本物の悪い人たちはだいたい1年の1学期でいなくなっちゃうんですよ。僕は平和主義者だし。1年でやめちゃったけど大学にも行ったし。

音楽にはどのようにハマっていったんですか?

たなか:原体験は両親ですね。いま65歳なんですが、家で60~70年代のカーペンターズとかサイモン&ガーファンクルとかがよくかかってたんです。そういうのを自然に聴いてたから、60~70年代の雰囲気がいちばん馴染むんですよね。高校とかだとまわりはワンオクとかセカオワを聴いてました。僕はそういう人たちとも仲が良くて、音楽のことは加藤くんと濃く話してた感じですね。彼はすごく音楽に詳しくて。井上陽水や高田渡も加藤くんが教えてくれました。そこから僕もどんどん音楽にのめり込んでいった感じですね。

フォーク・デュオを結成した経緯は?

たなか:高校を卒業したあとよくふたりで公園で焚き火しながら朝まで話したりしてたんですよ。七輪を買ってきて、なんかを焼いて食べたり。その流れで、ある日加藤くんがギターを持ってきたんですよ。そこで一緒に陽水さんのカヴァーしてるうちに「スタジオいこう」みたいなノリになったのがきっかけですね。

バンド名は当時からグソクムズだったんですか?

たなか:いや当時は別の名前でした。でもカッコ悪いのであんまり言いたくない。スタジオに通ううちに友達伝いで「ライヴやるから出ない?」って誘われたんですよ。フライヤーに名前をクレジットしなきゃいけなくて、僕らは名前なんて決めてなかったから適当につけたんです。グソクムズという言葉に当初の痕跡は残ってます(笑)。

「やるぞ!」というよりゆるく形になっていったんですね。

たなか:そうです。ニュアンス的には加藤くんと、マーシー(真島昌利)の『夏のぬけがら』みたいなバンドにしようぜって話してたんです。その名残として、グソクムズにもアコースティックな雰囲気が残ってるんだと思う。

バンド編成になったのは?

たなか:やってくうちに「もっとこうしたい」みたいな気持ちになってきて、通ってたスタジオの店員さんがギターで加入したんですよ。ギター3人組。その人はいま僕らのマネージャーをしてくれてます。で、その後、同じスタジオに来てた加藤くんの先輩だった二個上の堀部さんが加入します。巷では楽器がうまくて有名だったんですよ。その後ドラムはなかなか決まらず、いろんな人とスタジオに入ったけどなんか合わなくて。そこで最終的にスタジオの店員だったナカジさん(中島雄士)を誘ってようやくいまの4人組になりました。

『グソクムズ』は演奏面、楽曲面ともに1stアルバムとは思えない安定感のある作品だと思いました。

たなか:いわゆる初期衝動みたいなものは、それこそ加藤くんとふたりでやってた頃に作ったシングルで出しちゃったからだと思います(笑)。堀部さんもナカジさんもいろいろなバンドを経てのグソクムズだったりするし。アルバムを聴いて安定感を感じていただいたのだとしたら、そのへんが出てるんじゃないかな。あと僕らはかなり細かく作品を作り込んでいくタイプなんですよ。

スタジオに集まってセッションしながら作っていくのではなく?

たなか:はい。コロナだからスタジオに行けなかったというのはあるんですが、僕らは基本的に全員が作詞作曲するんですね。加藤くんは歌えないけど、グソクムズ以前は堀部さんもナカジさんもそれぞれギターを弾いて歌ってたんですよ。そんな感じで、昔はみんなで一緒にスタジオに入って、それぞれ作ってきた曲を披露する会とかもしてたんですけど、いまはそれぞれが宅録して納得できるデモができたら、LINEのグループトークにデータを投げて、「これいいね」ってなったらあれこれ話しながらこつこつと完成度を高めていく形で作っています。

なるほど。本作は統一感があるけど、同時に音楽的な幅も感じたんです。それがメンバー全員の個性なんですね。

たなか:ですね。例えば1曲目の “街に溶けて” は堀部さんが作りました。この曲はフォークっぽいけど、彼は黒人音楽やメタルも好きで、幅広く音楽を聴くんですね。8曲目の “グッドナイト” も堀部なんですけど、これはベースがグイグイいわしてる。

“街に溶けて” にはいちばんはっぴいえんどを、“グッドナイト” にはいわゆるシティ・ポップらしさをいちばん感じました。

たなか:堀部さんはモテ曲が多いんですよ(笑)。

[[SplitPage]]

はっぴいえんどはアングラすぎるし、山下達郎はトレンディすぎる。グソクムズはその中間がいい。それにメンバー全員が井上陽水さんを好きなので、その色は消したくない。だからシティ・フォークと言ってるんです。

MVにもなった “すべからく通り雨” は誰が?

たなか:ナカジさんですね。夏に「曲を作ろっか」とデモを持ち寄ったとき、全員一致で「これはA面だね」っていうくらいポップ。

たなかさんが作詞作曲したのは?

たなか:“迎えのタクシー”、“そんなもんさ”、“濡らした靴にイカす通り” です。今回のアルバムは事前にシングルとしてリリースしてた “夢が覚めたなら”、“街に溶けて” に加えて、“すべからく” や “グッドナイト” みたいな、バンドとして強い曲、柱になる曲を入れようという話になったんですよ。僕と加藤くんはバンドの幅を表現する曲を作っていった感じですね。

“迎えのタクシー” はアルバムのなかでいちばん土臭い雰囲気がありますね。

たなか:僕はもっとポップな感じで作りたかったんですよ。でも僕はこのスケールのフレーズしか弾けないから、とりあえずデモを作って、あとはみんなにいい感じにしてもらおうと思ってたんです。そしたら「なんでこのコード進行にこのギター・フレーズなの?」って突っ込まれて。しかもフレーズが採用されて、コードを換えてるんですね。だからこの曲は前半がブルースっぽくて、後半がポップスっぽいんです。

この感じすごい好きでした。“そんなもんさ” にも通じますが、たなかさんの曲はちょっとやさぐれた雰囲気がありますね。

たなか:“そんなもんさ” はコード進行と歌詞だけはずっと自分のなかにあって。作ったのは結構前ですね。僕は基本的にいつもいっぱいいっぱいなんです。キャパシティもそんな大きくないほう。どの曲もしっかりと作り込みたい気持ちはあるけど、忙しいとすぐ「疲れたなあ」と思っちゃう。根がいい加減なんです。それでこういう歌詞になりました。でも今回のアルバムにはいいかなと思ってみんなに聴かせた感じですね。僕らは4人が作詞作曲するから、みんなのなかに「グソクムズらしさ」があるんですよ。

「グソクムズらしさ」とは?

たなか:共通する部分もあってそこがアルバムの統一感に繋がってると思うんですが、同時にそれぞれのバックグラウンドや考え方で微妙に違うとこもある。僕が思うのはポップだけど、そっちに流されすぎないってとこ。必ずメッセージはいれたい。負けもせず勝ちもせずもやもやしてる若者の違和感を歌いたい。僕はグソクムズの違和感担当ですね。

高校時代は人気者だったのに?

たなか:学生の頃の僕は何も考えてなかったんですよ(笑)。だけどバンドで生きていこうとなってからは考えることが多くなりました。その感じが出てるのが “濡らした靴にイカす通り” です。僕は革靴が好きなんですけど、お金ないからあまり手入れできない。息してるだけでお金がなくなっていく。夢も生活もどんどん削られているのに、街はどんどん発展してでっかいのが建って。地元の吉祥寺も、下北沢も。僕はそこでうまく生活できないなって思うんですよ。違和感を感じるし、置いていかれる気持ちになる。

ライヴハウスの音が良かったり、歌ってて気持ちが良かったりすると歌詞を忘れちゃうんですよ。昔はそういう自分が嫌でライヴ自体が苦手でした。けど、コロナ前くらいから「楽しければなんでもいいか」と思えるようになった。

表現するようになって、現実や自分と向き合うことが多くなった?

たなか:それもあるけど、やっぱバンドを本気でやるようになってからですね。最初は他力本願なとこがあって、週1でライヴしてればレーベルの誰かが見つけてくれてなんとかなっていくんだろうと思ってたんです(笑)。でも当たり前のように世の中そんな甘くなくて。ライヴハウスのブッキング・ライヴに出ても友達しか呼べない。他のバンドも友達を呼んでる。当時の僕らは、まあいまもなんですが、お金が全然なくてMVを作れなかった。仮に(僕らのことを)気になってくれたとしても、探す術がないんですよね。そんな状態でいくらブッキング・ライヴに出ても意味ないなと思った。ノルマ代も、練習スタジオ代もバカにならなかったし。だから僕らは3年前にライヴをやめて、そのお金を全部制作につぎ込むことにしました。レコーディングして、MV作って YouTube にアップして。

まさに「夢も生活もどんどん削られている」なかで、ドラスティックに活動スタイルを変えたんですね。

たなか:自分たちの甘えもありましたけど(笑)。とはいえ、バンドをやってたり、夢を持って生きてる人にはいまって生きづらい世の中だと思う。この曲(“濡らした靴~”)は、「でもイカした生き方ができるんだぜ」って思いで書きました。僕が書いた曲は割と僕がリアルタイムで感じてることが反映されてるかもしれないです。普段から感じてることや使いたい表現をいつもメモしてて。僕は曲先でも詞先でもない。そのときに口ずさんだものが曲になっていく。さっき言われたように、曲を書いてて何かと向き合って気づくこともあるし、「あれ? 変だぞ」って違和感をそのまま歌にすることもある。これは後者ですね。

ライヴは今後もやらないスタイルで活動していくんですか?

たなか:いや来年からはやる予定です。昔は僕がライヴが苦手だったんです。僕、ライヴハウスの音が良かったり、歌ってて気持ちが良かったりすると歌詞を忘れちゃうんですよ。今回のアルバムだと加藤くんが作った “夢が覚めたなら” とか。彼はメロディーとリズムにあった言葉を並べてくのに長けてる人。だからあの曲は歌っててめっちゃ気持ちいい。たぶんライヴでやると確実に歌詞が飛んじゃうタイプの曲(笑)。でも昔はそういう自分が嫌でライヴ自体が苦手でした。けど、コロナ前くらいから「楽しければなんでもいいか」と思えるようになったので、いろいろ収束したらどんどんライヴをやっていきたいです。

ちなみに仲が良いバンドやアーティストはいますか?

たなか:The Memphis Bell ってブルース・バンドと、工藤祐次郎さんですね。工藤さんとはコロナもあって全然会えてないんですが、最後にお会いしたときは一緒にやりたいねと言ってくださっていて。

グソクムズは街に心象を重ねる描写も多く、今後いわゆるシティ・ポップの文脈で語られるような気がします。それについてはどう思いますか?

たなか:僕らは最初から自分たちの音楽をシティ・フォークって言い張ってたんです。そういうジャンルがあるのかわかんないけど(笑)。もちろんはっぴいえんども山下達郎も好き。でも僕らの感覚だと、はっぴいえんどはアングラすぎるし、山下達郎はトレンディすぎる。グソクムズはその中間がいい。それにメンバー全員が井上陽水さんを好きなので、その色は消したくない。だからシティ・フォークと言ってるんです。

シティ・フォークってグソクムズの音楽性にぴったりですね。では最後に今後の抱負を。

たなか:今回のアルバムは正直自信作です。かなりしっかり作り込みました。でも来年には2ndアルバムに向けて動き出すつもり。まずはこの1stアルバムをいろんな人に聴いてもらいたいですね。


グソクムズが吉祥寺・渋谷の3店舗でインストアイベントを開催! 松永良平(リズム&ペンシル)に加えて柴崎祐二(音楽ディレクター/評論家)、レコードショップ店員等からのコメントも到着!

12/15(水)に吉祥寺の新星 "グソクムズ" が、1stアルバム『グソクムズ』をリリース。吉祥寺・渋谷のレコードショップ3店舗で観覧フリーのインストアイベントを開催することが決定しました。

・12月19日(日) 14:00 at HMV record shop 吉祥寺
・12月25日(土) 16:30 at タワーレコード吉祥寺
・1月30日(日) 16:00 at タワーレコード渋谷

そして松永良平(リズム&ペンシル)に加えて柴崎祐二(音楽ディレクター/評論家)、レコードショップ店員等からのコメントも到着。特設サイトよりご覧いただけます。

[グゾクムズ インストアイベント詳細/特設サイト]
https://special.p-vine.jp/gusokumuzu/

・グソクムズ - すべからく通り雨 (Official Music Video)
https://youtu.be/TE-rqPUvyuM
・グソクムズ - グッドナイト (Official Music Video)
https://youtu.be/n8LwWJvvDd4

[リリース情報①]
アーティスト:グソクムズ
タイトル:グソクムズ
レーベル:P-VINE
品番:PCD-22443
フォーマット:CD/配信
価格:¥2,420(税込)(税抜:¥2,200)
発売日:2021年12月15日(水)

トラックリスト
01. 街に溶けて
02. すべからく通り雨
03. 迎えのタクシー
04. 駆け出したら夢の中
05. そんなもんさ
06. 夢が覚めたなら
07. 濡らした靴にイカす通り
08. グッドナイト
09. 朝陽に染まる
10. 泡沫の音 (CD盤ボーナストラック)

[リリース情報②]
アーティスト:グソクムズ
タイトル:グソクムズ
レーベル:P-VINE
品番:PLP-7776
フォーマット:LP
価格:¥3,520(税込)(税抜:¥3,200)
発売日:2021年12月15日(水)

トラックリスト
A1. 街に溶けて
A2. すべからく通り雨
A3. 迎えのタクシー
A4. 駆け出したら夢の中
A5. そんなもんさ
B1. 夢が覚めたなら
B2. 濡らした靴にイカす通り
B3. グッドナイト
B4. 朝陽に染まる

[プロフィール]
グソクムズ:
東京・吉祥寺を中心に活動し、"ネオ風街" と称される4人組バンド。はっぴいえんどを始め、高田渡やシュガーベイブなどから色濃く影響を受けている。
『POPEYE』2019年11月号の音楽特集にて紹介され、2020年8月にはTBSラジオにて冠番組『グソクムズのベリハピラジオ』が放送された。
2014年にたなかえいぞを(Vo / Gt)と加藤祐樹(Gt)のフォークユニットとして結成。2016年に堀部祐介(Ba)が、2018年に中島雄士(Dr)が加入し、現在の体制となる。
2020年に入り精力的に配信シングルのリリースを続け、2021年7月に「すべからく通り雨」を配信リリースすると、J-WAVE「SONAR TRAX」やTBSラジオ「今週の推薦曲」に選出され話題を呼び、その後11月10日に同曲を7inchにてリリース。そして待望の1stアルバム『グソクムズ』を12月15日にリリースすることが決定。
HP:https://www.gusokumuzu.com/
Twitter:https://twitter.com/gusokumuzu
Instagram:https://www.instagram.com/gusokumuzu/

Alva Noto - ele-king

 グリッチとパルス。ノイズとリズム。グリッドとドローン。厳密な建築と設計。それらの組み合わせによるミニマルな電子音響音楽。そのむこうにある濃厚なノスタルジア。未来。カールステン・ニコライが20年以上にわたって生み出してきたミニマルなエレクトロニック・サウンドは、電子音響におけるパイアニアのひとつとして現在進行形で君臨している。
 しかしそのサウンドはけっして固定化していない。常に変化を遂げている。90年代のノト名義のノイズとパルスによるウルトラ・ミニマルなサウンドスケープ、00年代以降のアルヴァ・ノト名義で展開されたグリッチと電子音とリズムの交錯によるネクスト・テクノといった趣のトラック、そして透明なカーテンのような電子音響以降のドローン/アンビエント作品、坂本龍一とのコラボレーション作品で展開するピアニズムと電子音響が交錯し、高貴な響きすら発している楽曲、言葉が電子音響のなかで分解され、リズミックな音響ポエトリー・リーディングにまで昇華したフランスの詩人アン=ジェームス・シャトンとの共作アルバムまで、どの音楽も電子音楽・電子音響の領域を拡張するものである。

 そして本年リリースされた新作アルバム『HYbr:ID Vol.1』は、カールステン・ニコライ=アルヴァ・ノトのアルバムの中でも一、二を争う傑作ではないかと思う。もちろん、カールステン・ニコライ=アルヴァ・ノトのアルバムはどの作品もクオリティが高い。だが本作では彼がこれまでおこなってきた実験の数々が、極めて高密度で融合しているように感じられたのだ。ちなみにリリースはカールステン自身が主宰する〈noton〉からである。

 このアルバムの楽曲は、もともとは19年にベルリン国立歌劇場で上演されたリチャード・シーガルの振付/演出のベルリン国立バレエ団によるコンテンポラリー・バレエ作品「Oval」のためにカールステン・ニコライがアルヴァ・ノト名義で作曲した音源である。
 「コンテンポラリー・バレエのための音楽」という制約の多いなかで、彼は自身がこれまで培ってきた技法のすべてを投入しているような音響空間を生成していく。00年代以降に展開された「uni」シリーズのリズム/ビート、「Xerrox」シリーズのアンビエント/ドローンが、まさにハイブリッドな音楽技法によって見事に統合されているのだ。まさに00年代~10年代のカールステン・ニコライ=アルヴァ・ノトの総括にしてネクストを指し示すようなアルバムなのである。

 透明な電子音、パルスのようなリズム、微かなノイズが空間的に配置され、重力と無重量を超えるようなサウンドスケープを展開している。加えて本作ではコンテンポラリー・バレエのための電子音響という面もあるからか、反復の感覚(コンポション)がこれまでのカールステン・ニコライのトラックとはやや異なり、反復と非反復を往復するような構成になっているのだ(どこか故ミカ・ヴァイニオの音響を思わせるトラックに仕上がっているのも興味深い)。いままで聴いたカールステンのサウンドを超えるような音にも思えた。ミニマルと反ミニマル。反復と非反復。人間と機械などの相反するもの、まさに「ハイブリッド」なサウンドスケープが展開されていたのである。

 レーベルのインフォメーションによると、「映画のような映像技術とハドロン、ブラックホール、コライダーなど、トラックタイトルにもなっている科学的事象が描かれた静止画像にインスパイアされたという作品で、天体の物理現象やフィクションをダンスの動きを結びつける形を模索しながら制作が行われた」という(https://noton.info/product/n-056/)。
 いわば自然現象とテクノロジカルな技術と20世紀以降のアートフォームを援用しつつサウンドを生成し、それを人間の肉体の運動に落とし込むというようなことがおこなわれているのだろうか。それは先にあげた反復(機械)と非反復(人間)の交錯に結晶しているのかもしれない。

 アルバムには全9トラックが収録されている。いかにも10年代のアルヴァ・ノト的な2曲目 “HYbr:ID oval hadron II” もまるで魅力的だが、「Xerrox」シリーズ的なアンビエンス感覚に非反復的なサウンドが交錯し、透明でありながら不穏なムードを放つ3曲目 “HYbr:ID oval blackhole” が何より本アルバムのサウンドを象徴しているように思えた。いわば不安定、非反復の美学とでもいうべきか。
 この曲を経た4曲目 “HYbr:ID oval random” では自動生成するような細やかなリズムがクリスタルな電子音響とミックスされていく。5曲目 “HYbr:ID oval spin” では “HYbr:ID oval blackhole” のようなサウンドをより緻密にしたような音響空間を展開する。不定形に放たれる音の粒といささかダークなトーンの電子が交錯し、まるで映画のサウンドトラックのように聴こえてくる。
 以降、アルバムはまるで仮説と証明を繰り返すように、もしくは演算をおこなうかのように、リズムとアンビエントが交錯し、緻密に、そして大胆に音響世界を展開していくだろう。どこまでも澄み切ったクリアでクリスタルな音は、聴く側の知覚を明晰に磨き上げてくれるような感覚を発していた。聴いているととにかく「世界」が明晰に感じられるのだ。

 そしてアルバムはクールネスな温度を保ったまま、しかし次第にテンションを上げつつクライマックスといえる9曲目 “HYbr:ID oval p-dance” に至る。ここでカールステンは惜しげもなく近年のアルヴァ・ノト的な(つまり「uni」シリーズ的な)ミニマルにしてマシニックなリズム/ビートを展開している。もちろん、これまでアルバムを通して培ってきた不穏な電子音響ノイズも、しっかりとトラックに仕込まれている点も聴き逃せない。まさに20年以上に渡る彼の技量が圧縮したようなトラックといえよう。ラストの10曲目 “HYbr:ID oval noise” では、規則的に打たれる低音に、まるで人口の雨や風のような電子音響が重なり、透明な夜とでも形容したいほどの音響空間を構築する。圧倒的なサウンドスケープだ。

 “HYbr:ID oval noise” に限らず本作はどこか天候や宇宙などの超自然現象を電子音響でシミュレートしているような雰囲気がある。それがカールステンのミニマム/マシニックな音世界をよりいっそう深く、大きなものに変化させたたのではないか。未来の電子音響世界など誰にもわからないが、しかし、このアルバムの音に未知と既知が交錯しているのは違いない。音楽はまだまだ進化する。そんな「可能性」を感じさせてくれる稀有なアルバムといえよう。

 「ハイブリッド」シリーズのVol.1と名付けられていることからも想像できるように、このシリーズもまた続くのだろう。期待が高まる。

〈Advanced Public Listening〉 - ele-king

 長らくベルリンに在住していた Miho Mepo によって設立された新たなレーベル〈Advanced Public Listening〉。その第1弾作品となるコンピレイション盤『ON IN OUT』が12月2日にリリースされる。フォーマットはCD(2枚組)とLP(4枚組)の2形態(配信はなし)。ハンス・ヨアヒム・レデリウスを筆頭に、マシュー・ハーバートリカルド・ヴィラロボストーマス・フェルマンムーヴ・Dデイダラスなどなど、エレクトロニック・ミュージックの錚々たる面子がトラックを提供している(下記参照)。しかも、全曲エクスクルーシヴというから驚きだ。要チェックです。

新レーベルAdvanced Public Listeningの第一弾コンピレーション『ON IN OUT』、2021年12月2日にリリース!

宇宙138億年、地球46億年… この作品が世代も世紀をも超えて人々の魂を浄化する
普遍的な正典であることに疑う余地はない。宇川直宏(DOMMUNE)

1998年に単身ベルリンに渡り、28年に渡って数々のアンダーグラウンドで良質な海外アーティスト、DJを日本に紹介し続け、
錚々たるアーティストから全幅の信頼を置かれる日本人女性、Miho Mepoが設立した新レーベルAdvanced Public Listeningの
第一弾コンピレーションが完成!
本作のコンセプトに賛同した世界各国の錚々たる豪華ミュージシャン達が提供したエクスクルーシヴ・トラック、全22曲を収録!
CDの発売はここ日本でのみとなる限定スペシャル・エディション!

参加アーティスト
ハンス・ヨアヒム・ローデリウス(クラスター/ハルモニア)
マシュー・ハーバート
リカルド・ヴィラロボス
ディンビマン(ジップ)
トーマス・フェルマン
ローマン・フリューゲル
アトム・TM
ムーブ・D
デイデラス
タケシ・ニシモト
など全21アーティスト作品

日本語解説:宇川直宏(DOMMUNE)

■アーティスト:Various Artists (V.A.)
■タイトル:ON IN OUT (オン・イン・アウト)
■発売日:2021年12月2日[CD]/12月12日[LP]
■品番:APLCD001[CD]
■定価:¥3,000+税[CD]
■その他:●日本語解説:宇川直宏(DOMMUNE)、●全収録曲、本作の為のエクスクルーシヴ・トラック。
■発売元:ADVANCED PUBLIC LISTENING

Tracklist
Disc 1
01. KARAPAPAK 「FM EMOTION」
02. Julie Marghilano 「Human」
03. Pierre Bastien 「Revolt Lover」
04. Takeshi Nishimoto & Roger Doering 「Dream」
05. Simon Pyke aka FreeFrom 「Mass Murmurations」
06. Thomas Brinkmann 「Ruti _ Sakichis dream」
07. Roman Flügel 「Psychoanalysis」
08. Move D 「Für Franz” (Live at Theater Heidelberg)」
09. Thomas Fehlmann 「phoenix」
10. Takeshi Nishimoto & Roger Doering 「Call」
11. Hans joachim roedelius 「Immer」

Disc 2
01. Seitaro mine featuring Elson Nascimento & KIDS 「dia e noite」
02. Tyree Cooper 「Classic Material」
03. ZAKINO(aka Seiichi Sakuma) 「What time do you think it is」
04. Low End Resorts (Phoenecia + Nick Forte) 「Drunkin’ Drillz」
05. Daedelus 「Denote」
06. Atom TM 「C4LP (F*ck Yeah)」
07. Pulsinger & Irl 「l Vicinity Dub」
08. Matthew Herbert 「PEAHEN」
09. Dimbiman (aka Zip) 「Väterchen Frust」
10. Ricardo Villalobos (ZEDA FUNK)
11. The Irresistible Force (aka Mixmaster Morris) 「MULTIBALL」

Ryuichi Sakamoto + David Toop - ele-king

 薄灯りの、仄暗い空間を、ゆっくりと行き先を探りつつ、しかし確信を持った足どりで進むかのごとき音の交錯、ざわめき。
 坂本龍一とデイヴィッド・トゥープの演奏(いや音の生成とでもいうべきか)を記録した音響作品『Garden of Shadows & Light』には、まさに静謐な音の対話のようなサウンドスケープが生まれていた。

 リリースはロンドンのエクスペリメンタル・レーベルの〈33-33〉からだ。カタログ数はそれほど多くないレーベルだが、灰野敬二とチャールズ・ヘイワードの共演盤などをリリースするなど、その厳選されたキュレーションが魅力的なレーベルである。
 それにしてもなんて美しいアルバム・タイトルだろうか。その名のとおり本作『Garden of Shadows & Light』にはサウンドによる陰影の美学がある。坂本とトゥープが鳴らす音たちの群れは、淡く、微かにして、しかし強い。偶然の豊かさを消し去ることもない。フラジャイルな音にすらも、豊穣な気配が生まれているのだ。
 坂本龍一とデイヴィッド・トゥープは音の時間のなかを思索的に、もしくは遊歩的に進む。音の気配に敏感になり、耳をそばだて、繊細な手仕事のように音のオブジェクトを組み合わせる。そうして静謐で濃厚な音響空間が生成されていく。
 冒頭、何か叩くような、カーンと澄み切った音が鳴り響く。それに応えるかのように、やや小さな音がカツンと鳴る。やがて何かを擦る微細な音が鳴り、弦の音の残滓のような音も聴こえてくる。音はやがて音楽の原型のような響きへと変化するが、しかしそれはノイズのテクスチャーのなかに溶け込んでいく。そしてまた別の音がやってくる。彼らふたりは音を招き寄せている。

 本作には「音が訪れる」感覚がある。「おとがおとずれる」「音が音ズレる」とでも書くべきか。非同期の音たちの群れ。しかしひとつの大きな(ミニマムな?)時間を共有もしている。そのズレと時間の交錯が、音の気配を豊かにする。
 このレコードの秘めやかで、大胆な音の生成、対話、群れに耳を澄ます私たちもまた彼らが生成する音の時間に引き込まれ、音の変化、歩みを共にし、音の存在に敏感になるだろう。一音一音の存在に驚き、まるで一雫の水滴の音を聴くように静謐な時間をおくることにもなるだろう。

 『Garden of Shadows & Light』は、2018年、ロンドンはシルヴァー・ビルディングでおこなわれたライヴの録音である。映像も配信されていたので、すぐに観たことを記憶している。私は「手仕事としての音響工作」を満喫した。これぞブリコラージュと感嘆したものだ。
 なによりテクノ(ポップ)以降、20世紀後半における電子音楽のレジェンドである坂本龍一と、批評家、キュレイターとして、そしてサウンド・アーティストとしても長年に渡って活動を展開する才人デイヴィッド・トゥープとの饗宴には大いに興味を惹かれたのである。
 それから三年の月日が流れ、いまや伝説的な演奏となった音源が本年「録音作品」としてリリースされた。いま、こうしてレコード作品となったふたりの「演奏」を改めて聴き込んでみると、配信されたライヴ映像とは異なる印象に仕上がっていたことに驚きを得た。もちろん音は同じだ。しかしサウンドがもたらすパースペクティヴや時間が新鮮なのである。視覚情報が欠如されたことによって、音に対する認識が変わったのかもしれない。
 加えて坂本龍一とデイヴィッド・トゥープのこの音響ノイズ演奏には、音楽家における老境の境地が横溢していたことにも気がついた。特に本作に限らず近年の坂本の「音そのもの/音それじたい」をコンポジションするようなサウンドからは、まるで「音響のモノ派」、もしくは音の「侘び寂び」を感じた。音それ自体への感覚が横溢し、肉体性から離れ、音やモノや空気としめやかに同一化するような音響が生まれているのだ。突如として音が鳴り、それが静謐な空間性に即座に融解し、持続の只中に溶け込んでいく。音が刹那と永遠のあわいにある。
 まさに「音の海」(トゥープ)と「async」(坂本龍一)の融合か。もしくは消尽の美か。自分などはこのアルバムを晩年のサミュエル・ベケットに聴いて欲しかったと思ったほどである。もしくは武満徹に聴いてほしかったとも。武満ならばこのアルバムの、演奏の、そしてサウンドスケープを大絶賛したのではないか。

 西洋音楽を学んだ日本人音楽家が安直なオリエンタリズムに陥ることなく、日本、東アジアの音響・音楽を実践すること。それによって「世界」という場に立っていること。これは本当に稀有なことだ。坂本龍一は音そのものの原質に触れようとしている。
 00年代以降のアンビエント/ドローンを基調とした音楽作品を生み出した坂本龍一は、まずもってここが重要なのだ。高谷史郎と坂本龍一のオペラ『TIME』の東洋と西洋、ネットフリックス配信の『ベケット』の職人的な音楽のなかに不意に満ちるドローン、『ミナマタ』の西欧的和声のむこうに交錯する無時間的な響きの交錯など、近年の坂本龍一の仕事は、どの作品も西欧と東アジアが透明な水と空気のなかで清冽に鳴り響くような音楽/音響を生み出している。
 そう考えると2018年の時点で、このような音を鳴らしていた本アルバムの録音はとても重要に思えてくる。2017年の『async』から2020年代の坂本龍一の音をつなぐ音。対して西洋人であるトゥープが、これほどまでに非西欧的なノイズ・音響・時間感覚を発露できることに深い知性と卓抜な感性を感じた。

 物質、空気、微かな光、闇、空間、静謐さ。時間、非同期。音。まさに「Gardens of Shadows & Light」。そう本アルバムには21世紀の「陰翳礼讃」の感性にみちている。薄暗い光と陰影の美学がここにある。

グソクムズ - ele-king

 いま少しずつ注目を集めているバンドがいる。吉祥寺を拠点に活動する彼らの名はグソクムズ。たなかえいぞを(Vo, Gt)、加藤祐樹(Gt)、堀部祐介(Ba)、中島雄士(Dr)からなる4ピースのバンドだ。はっぴいえんどや高田渡、シュガーベイブなどの音楽から影響を受けているという。
 結成は2014年。これまでに『グソクムズ的』(2016)、『グソクムズ風』(2018)、「グソクムズ系」(2019)などのミニ・アルバムやEPを発表、昨年は「夢が覚めたなら」「夏の知らせ」「冬のささやき」と立て続けにシングルを送り出し、この夏に配信で発表した「すべからく通り雨」がラジオなどで話題を呼んだ。
 そしてこのたび、その爽やかな曲「すべからく通り雨」が限定7インチ・シングルとして11月10日(水)にリリースされる。店舗限定とのことで、取り扱い店は下記をチェック。

"ネオ風街"と称される東京・吉祥寺の新星"グソクムズ”が、心の中をブリーズが通り抜けるような爽快感が心地良い激キラー曲「すべからく通り雨」を超限定7インチシングルにてリリース! ミュージックビデオも公開!

"ネオ風街"と称される東京・吉祥寺の4人組バンド"グソクムズ”。POPEYEの音楽特集への掲載やTBSラジオで冠番組を担当するなど、幅広い層からの注目を集める中、心の中をブリーズが通り抜けるような爽快感が心地良い激キラー曲「すべからく通り雨」の超限定7インチシングルを11/10(水)にリリースします。

印象的なジャケットはカネコアヤノ『よすが』のアーティスト写真/ジャケット写真で注目を集める小財美香子が担当。また本作のリリースに伴い松永良平(リズム&ペンシル)からのコメントが到着。

併せてNOT WONKやHomecomingsの作品等で知られる佐藤祐紀が監督を務めるミュージックビデオを公開します。

・グソクムズ - すべからく通り雨 (Official Music Video)
https://youtu.be/TE-rqPUvyuM

通り雨の街で

 傘がない、と50年くらい前に誰かが歌っていたけれど、今は雨がちょっとでも降ってきたらみんな傘をひらく。それも大きなビニール傘。いつ頃からだろう、自分だけはぜったい濡れたくないという気持ちが強くなりすぎて、傘だけどんどんデカくなる。相合傘道行き、と歌っていた人もいたっけ、やっぱり半世紀くらい前。あの愛すべきロマンチックな憂鬱はとっくに消え失せたのかも。
 すべからく、通り雨。グソクムズは2021年にそう歌う。いまどきの雨だから、きっとその雨は大雨だ。1時間に100ミリ超え。記録的短時間大雨情報。だから駆け出す。雨は手のひらにいっぱい。つつがなく通り過ぎ、さした夕日が憎たらしいね、と彼らは歌を続ける。
 ずぶ濡れの耳にも、雨に追われて息も切れるほど走ったあとでも、確かに届く街角の音を、グソクムズがやっている。雨宿りしている目の前を、情けない叫び声を上げながらこの曲が全力で駆け抜けていくのが見えた。音楽が、絵に描いたような街の景色じゃなく、彼らが生きてる現代の武蔵野の街そのままを一緒に連れてくるのを感じた。
 彼らのバンド・サウンドを、古さや新しさで測るつもりはない。通り雨に打たれたことがある者なら、髪から滴るしずくや水溜りの反射に映る汚れた街が美しく見える瞬間をご褒美に感じたことがあるだろう。その感覚は、今も昔も変わらないはず。そして、グソクムズの音楽は、直感的にその本質をつかんでいると思う。

──松永良平(リズム&ペンシル)

またパワープレイにも続々と決定しています。
2021年、快進撃を続けるグソクムズをお見逃しなく。

[パワープレイ情報]
グソクムズ「すべからく通り雨」
-----
・NACK5 11月度前期パワープレイ
https://www.nack5.co.jp/power-play
-----
・AIR-G'エフエム北海道「11月度POWER PLAY」
https://www.air-g.co.jp/powerplay/
-----
・α-STATION「11月HELLO!KYOTO POWER MUSIC」
https://fm-kyoto.jp/info_cat/power-play/
-----
・エフエム滋賀 「キャッチ!」11月マンスリーレコメンドソング
https://www.e-radio.co.jp/
-----
・J-WAVE (81.3FM)「SONAR TRAX」
期間:2021/8/1~8/15
https://www.j-wave.co.jp/special/sonartrax/
-----
・TBSラジオ「今週の推薦曲」
期間:7/26~8/1
https://www.tbsradio.jp/radion/
-----

[商品情報]
アーティスト:グソクムズ
タイトル:すべからく通り雨
レーベル:P-VINE
品番:P7-6290
フォーマット:7インチシングル
価格:¥990(税込)(税抜:¥900)
発売日:2021年11月10日(水)

■トラックリスト
A. すべからく通り雨
B. 泡沫の音

■取扱店舗
タワーレコード:渋谷店 / 新宿店 / 吉祥寺店 / 梅田大阪マルビル店 / オンライン
HMV:HMV record shop 渋谷 / HMV&BOOKS online
ディスクユニオン
FLAKE RECORDS
JET SET

[プロフィール]
グソクムズ:
東京・吉祥寺を中心に活動し、"ネオ風街"と称される4人組バンド。はっぴいえんどを始め、高田渡やシュガーベイブなどから色濃く影響を受けている。
『POPEYE』2019年11月号の音楽特集にて紹介され、2020年8月にはTBSラジオにて冠番組『グソクムズのベリハピラジオ』が放送された。
2014年にたなかえいぞを(Vo/Gt)と加藤祐樹(Gt)のフォークユニットとして結成。2016年に堀部祐介(Ba)が、2018年に中島雄士(Dr)が加入し、現在の体制となる。
2020年に入ると精力的に配信シングルのリリースを続け、2021年7月に「すべからく通り雨」を配信リリースすると、J-WAVE「SONAR TRAX」やTBSラジオ「今週の推薦曲」に選出され話題を呼ぶ。その「すべからく通り雨」を11月10日に7inchにて発売することが決定した。
HP:https://www.gusokumuzu.com/
Twitter:https://twitter.com/gusokumuzu
Instagram:https://www.instagram.com/gusokumuzu/

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114