「OTO」と一致するもの

Island People - ele-king

 〈raster-noton〉が、バイトーン(オラフ・ベンダー)の〈raster〉と、アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)の〈noton〉に分裂し、それぞれの道を歩みはじめたことは、10年代の先端的な電子音響音楽において重要なトピックだった。電子音響、エレクトロニカを牽引していたレーベルが終わりを迎えたからだ。
 その〈raster〉が始動後(再起動後とでもいうべきか)に最初にリリースしたアルバムがアイランド・ピープル『Island people』(2017)である。彼らのアルバムをレーベルのファースト・リリースとしたところに〈raster〉=オラフ・ベンダーの意志を感じたものだ。つまり高品質なエクスペリメンタル・エレクトロニック・ミュージックを送り出していくという意志だ。じじつ〈raster〉は、この4年のあいだ流行に左右されずに、質の高いエレクトロニカをコンスタントに送りだしてした。その原点にアイランド・ピープルがあったのだとは言い過ぎだろうか。しかしわたしが彼らのサウンドが忘れられなかったことは事実だ。折に触れ何度も繰り返し聴き続けた。

 アイランド・ピープルはスコットランド・アイルランド出身の4人の音楽家/サウンド・デザイナーによるグループである。ダフト・パンクやジェフ・ミルズ、リカルド・ヴィラロボスやカール・クレイクなどを手掛けた人気のマスタリング・エンジニアのコナー・ダルトン、グラミー賞受賞プロデューサーのデイヴ・ドナルドソン、シリコン・ソウルのグレアム・リーディー、ギタリストのイアン・マクレナンがメンバーである。先にグループと書いたが、「バンド」といってもいいかもしれない。それほどまでに4人の個性が交錯しているサウンドに聴こえるのだ。
 プロデューサーとエンジニアが在籍するアイランド・ピープルのサウンドは高品質なアンビエンス/アンビエントを実現していた。まるで映画のサウンドトラックを思わせるようなムードである。その音は緻密かつ繊細に設計され、美しくも深淵な音響空間を実現していた。どこかアンドレイ・タルコフスキーのSF映画『惑星ソラリス』を思わせもする。その意味で同じく2017年リリースの坂本龍一『async』との親和性も感じられた。

 前作『Island people』から4年の月日を経て送り出された新作が本作『II』である。待ちに待ったというより、不意に届けられたという印象で、一聴すると基本的に『Island people』のサウンドを継承しているように感じられた。しかしその音は以前よりダークであった。何か世界の変容を捉えようとするように、サウンドの移り変わりは、ゆったりとした映画の長いワンシーン・ワンショットのカメラワークを思わせた。レーベルは「初期のアントニオーニ映画のロング・トラッキング・ショットのように展開され、時間が止まっているようで、その瞬間を巡っている」と書いているが(https://raster-raster.bandcamp.com/album/ii)、まさに言い得て妙である。

 つまり前作に比べて、どこか暗く沈んだムードのアルバムなのだ。しかしそれが不快ではない。流行や時間の流れを超越したかのようなサウンドであり、その静かで、不穏で、「人がいない世界」のような音響空間には心を鎮静するような力すらある。特にドラマチックな流れのサウンドを展開する1曲目 “His Illusion” からインナースペースへと沈み込んでいくような3曲目 “Loneliness Has A Purpose” までの展開には孤独のアトモスフィアがうっすらと漂っていた。アルバムはそんなムードを反復するように展開していく。
 環境音と電子音が深海と廃墟の中で交錯するような4曲目 “Far From Shore” と5曲目 “Ten Green Bottles”、ギターのアルペジオが映画音楽的なムードを彩る6曲目 “Idyll”、緊張感に満ちたアンビエントを展開する8曲目 “Stillness”、環境音楽的なシンセサイザーに濃厚な音色のギターを聴かせる9曲目 “Luna” まで、まるでひとけのない都市を彷徨するような音世界だ。その映画音楽的なサウンドに聴きいっているとコロナ禍でロックダウンされた都市の音響のように聴こえたほどだ。加えて、ヴォーカリストのアリス・ヒル・ウッズを招いたヴォーカル曲 “Stalling”(10曲目)が収録されたことも重要なトピックだろう。アルバム・ラストの12曲目 “Traffic” では、スペイシーな電子音響アンビエントを展開し、地球を俯瞰するようなムードになり、アルバムは幕を閉じる……。

 全12曲、アイランド・ピープルは流行り廃りを超えた普遍的な電子音楽を構築しようとしているのではないか? と感じられた。尖端から深淵へ。流行から普遍へ。モードからスタイルへ。10年代まで切り拓かれてきた電子音響音楽の世界は、いま、聴き手の心に作用するアトモスフィアを得ようとしている。それこそがこのアルバムが獲得した不思議なリアリティの正体なのかもしれない、と思うのだ。

Sam Prekop - ele-king

 ザ・シー・アンド・ケイクサム・プレコップの最新EP、デジタルのみで配信されていた「In Away」が、日本限定でCD化されることになった。宇波拓によりCD盤専用のマスタリングが施されており、また完全未発表のボーナス・トラックも追加収録されているとのこと。これはフィジカルで持っておきたいアイテムです。

Sam Prekop(サム・プレコップ)
『In Away』(イン・アウェイ)

企画番号:Prekop-JP 1 / HEADZ 252(原盤番号:なし)
価格:1,800円 + 税(税込定価:1,980円)
発売日:2021年7月30日(金)※(配信の海外発売:2021年5月7日)
フォーマット:CD
バーコード:4582561395406
原盤レーベル:The Afternoon Speaker

1. In Away イン・アウェイ 5:23
2. Triangle トライアングル 3:54
3. Quartet カルテット 3:30
4. Community Place コミュニティ・プレイス 3:17
5. So Many ソー・メニー 4:52
6. Sunset サンセット 3:06

Total Time: 24:19

※ Track 6…日本盤のみのボーナス・トラック

Recorded and mixed in Chicago, February - April 2021 by Sam Prekop
All songs written by Sam Prekop
Mastered by Taku Unami
Photographs by Sam Prekop

A collection of recent tracks from my home studio, of which I've spent plenty of time in this past year or so! These pieces arrived in a similar fashion as the works on my last record "Comma". Basically culled from long rambling recording sessions where the more interesting elements hopefully emerge and present as starting points for further development. These five pieces are the most recent results of this process, I hope you enjoy and thanks for listening!
Sam

セルフ・タイトルの1stソロ・アルバムが永遠の名盤として再評価される中、The Sea and Cakeのフロントマン、サム・プレコップが、彼のインスト・ソロ作史上、最もポップでメロディアスな作品を日本のみでCD化。
Bandcamp以外、配信サービスの取り扱い無し、全曲CD用のマスタリングされ、完全未発表のボーナス・トラックも追加収録。
常に刺激的な電子音楽と美しい写真を追求し続けるサムの現在地がここにある。

昨年(2020年)夏に日本先行でリリースされた、最新ソロ・アルバム『Comma(コンマ)』(THRILL-JP 52 / HEADZ 247)が、彼のトレードマークでもある魅惑的なウィスパー・ヴォーカルを封印した、アナログ・シンセをメインに制作されたインスト・アルバムであったにも拘らず、高評価を獲得し(ピッチフォークも8点越え)、これまでのファン以外にも広くアピールしたザ・シー・アンド・ケイクのフロント・マン、サム・プレコップ。
1999年に発表された1stアルバム『Sam Prekop(サム・プレコップ)』(THRILL-JP 21 / HEADZ 42P)の日本での紙ジャケCD化に続き、Thrill Jockey盤でのLPのリプレスされることになり(Pale Pink盤の限定カラーLPもあり、間もなく日本のレコード・ショップにも並びます)、サムの新旧作品に注目が集まる中、(この1年ほど掛けて作られた)サムの自宅スタジオで今年の2月から4月の間に制作され、Bandcampのみで配信リリースされた最新音源(5曲入りEP)が日本盤のみでCD化されます。

近年海外でも再評価が進む清水靖晃、尾島由郎、吉村弘、イノヤマランド他の80年代の日本のニューエイジやアンビエントの名作群にもインスパイアされた『Comma』の延長線上にありながらも、ビートは控えめに、よりポップでメロディアスなサウンドに仕上がっており、サム本人の撮影による美麗なジャケット写真のイメージ通り、爽やかで透明感のある電子音楽集となっています。

自ら録音・ミックスを手掛けた、サムにとって初のセルフ・リリース作品で、日本盤のみ完全未発表の新曲「Sunset」をボーナス・トラックとして追加収録。
(CD化に際し、David Grubbsのコラボレーターでも知られる、HOSEの宇波拓によって、全曲リマスタリングされており、厳密にはBandcamp音源とも違っております)
ライナーノーツは、編著『シティポップとは何か』(河出書房新社)の刊行を控える、柴崎祐二が担当。
現在、Bandcamp以外、海外も含め配信サービスでの取り扱いの予定はございません。

Sam Prekop is an artist whose music is painted in hues all his own. Both solo and as part of The Sea and Cake, Prekop’s distinct and lithe compositions distill his ceaseless curiosity into bracingly sublime music. In Away follows Prekop’s 2020 LP Comma and takes the next steps into his new compositional approach to crafting more overtly rhythm-based modular synthesized pieces, deftly whittled into vivid pop prisms. Working this time with both modular synthesis and keyboard-based synths, Prekop obscures the line between architectural sequencing and subtle performances. The resulting pieces levitate effortlessly from delicate atmospheres to rippling dances with Prekop’s guiding hand gently leading each movement towards the stirringly unfamiliar.

The six buoyant pieces on In Away were developed through Prekop’s daily practice of manipulating new systems of modular synthesis, recording, and deep listening. Acting as a curator to his own museum of sounds, Prekop poured over hours of improvisations using different modular combinations to select compelling moments which could act as a framework for his arrangements. His unique approach to shifting texture and juxtaposing timbres then layered each frame with minute details and potent melody. The Buchla 208c scintillates and plucks with near-acoustic tones atop a bed of warm drones. Lightly sizzling percussion throbs beneath coursing cascades. Each moment strikes a meticulous balance between captivating surprise and gratifying outcome.

サム・プレコップは、自身の音楽を全て独自の色彩で描き出すアーティストです。ソロでも、The Sea and Cakeのメンバーの一員としても、プレコップの個性的でしなやかな作曲群は、彼の絶え間ない好奇心を刺激的で崇高な音楽に精製しています。『In Away』は、2020年に発売されたプレコップのLP『Comma』に続く作品で、彼の新しい作曲アプローチの次のステップとして、よりあからさまなリズム・ベースのモジュラー・シンセサイザーを使って、鮮やかでポップなプリズムを巧みに削り出した作品を制作しています。モジュラー・シンセシス(シンセサイザーによる音の合成)とキーボード・ベースのシンセサイザーの両方を使った今回の作品では、構築的なシーケンス(配列)と繊細なパフォーマンスの間の境界線が曖昧になっています。その結果、作品は繊細な雰囲気から波打つようなダンスまで楽々と浮遊し、Perkopの手助けによってそれぞれの動きを刺激的で聴き慣れないものへと優しく導きます。

『In Away』に収録されている6つの作品は、モジュラー・シンセシス、レコーディング、ディープ・リスニングなどの新しいシステムを操作するという、プレコップの日々の演習を通して開発されました。自らの音の博物館の学芸員のように、Perkopは様々なモジュラーの組み合わせを使った即興演奏を何時間も掛けて行い、アレンジのフレームワークとなるような魅力的な(感動的な)瞬間を選び出しました。テクスチャーを変化させたり、音色を並置したりする彼のユニークなアプローチは、その結果、それぞれのフレームに微細なディテールと強力なメロディを重ね合わせました。(米Buchla社製のアナログシンセサイザー)「Buchla 208C」が輝きを放ち、暖かいドローンのベッドの上で、音響に近いトーンを弾きます。素早く進むカスケード(直列)接続の下では、軽やかに揺れるパーカッションが鳴り響きます。一瞬一瞬が、魅惑的な驚きと満足のいく成果の間で、細心のバランスを取っています。

The World of My Bloody Valentine
マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界

極限にまで到達したロック・サウンドの軌跡──
マイ・ブラッディ・ヴァレンタインがなしえたこととは

インタヴュー
ディスクガイド
『Loveless』から広がる宇宙
ティーンエイジャーの自我の溶解
“愛無き” を愛することを学ぶ
etc

第二特集
New Generation of Indie Rock and Post Punk in the UK
UKインディー・ロック/ポスト・パンク新世代

The World of My Bloody Valentine issue

photos by Kenji Kubo
ケヴィン・シールズ、その人生を大いに語る(杉田元一+坂本麻里子)

■ディスクガイド
(イアン・F・マーティン、大藤桂、黒田隆憲、後藤護、ジェイムズ・ハッドフィールド、清水祐也、杉田元一、野田努、山口美波、与田太郎)
This Is Your Bloody Valentine
Ecstasy
Geek! / The New Record By My Bloody Valentine / Strawberry Wine / Sunny Sundae Smile
You Made Me Realise
Feed Me With Your Kiss
Isn't Anything
オフィシャル・インタヴュー(粉川しの)
ティーンエイジャーの自我の溶解(イアン・F・マーティン)
Glider
Glider Remix
Tremolo E.P.
Loveless
オフィシャル・インタヴュー(小野島大)
“愛無き” を愛することを学ぶ(ジェイムズ・ハッドフィールド)
Ecstasy And Wine
m b v
オフィシャル・インタヴュー(黒田隆憲)
EP's 1988-1991
オフィシャル・インタヴュー(黒田隆憲)
Experimental Audio Research
Patti Smith, Kevin Shields
Brian Eno With Kevin Shields
Hope Sandoval & The Warm Inventions
轟音の向こう側の素顔(黒田隆憲)
あの時代の不安定な生活のなかで(久保憲司)

■『ラヴレス』から広がる宇宙
ロック編(松村正人)
テクノ編(野田努)
アンビエント編(三田格)
実験音楽編(松山晋也)

第二特集「UKポストパンク新時代」
〈ラフ・トレード〉が語る、UKインディー・ロックの現在(野田努+坂本麻里子)
断片化された生活のための音楽(イアン・F・マーティン)
ディスクガイド(天野龍太郎、野田努、小山田米呂)
活況を見せるアイルランド・シーン(天野龍太郎)
新世代によるクラウトロック再解釈とドライな「歌」(天野龍太郎)
世界の中心は現場にあって、広がりはインターネットによってもたらされる(Casanova)

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訂正
このたび は弊社商品をご購入いただきまして誠にありがとうございます。
『別冊ele-king マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界』において、
p185上段のBlack Midiのジャケット写真が、
中央部を拡大したまま(トリミング・ミスのまま)印刷されていました。
謹んで訂正いたしますとともに、
お客様および関係者の皆様にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

Ryuichi Sakamoto & David Toop - ele-king

 大物同士の共演だ。坂本龍一とデイヴィッド・トゥープによる初のコラボ作が7月9日にリリースされる。『Garden Of Shadows And Light』と題されたそれは、2018年の6月、ロンドンはシルヴァー・ビルディングでのパフォーマンスを収録。レーベルは〈33-33〉で、これまで灰野敬二とチャールズ・ヘイワードの共作や、オーレン・アンバーチとマーク・フェル&ウィル・ガスリーらのコラボ作品を出してきたところ。当時の映像は、NTSによって公開されており、下記より視聴可能です。

The Master Musicians of Joujouka - ele-king

 過去5年の間、もしくは、これまでに観たなかで最高のライヴのひとつが、2017年の音楽フェスティヴァルFRUE(フルー)でクロージングを飾ったザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカだった。このモロッコ人たちは二度のアンプリファイド(音響ありの)・パフォーマンスで、メイン・ステージの観客の心を揺さぶる能力を披露し、すでにその週末のスターとなっていた。

 そんな彼らの最終ステージは、会場を音楽祭のマーキー(大テント)に移しての深夜のアコースティック・セットだったが、PAなしで耳が聴こえなくなるぐらいの大音量を出すことのできるバンドには、そのような違いは、ほとんど意味を持たない。舞台のセッティングは、リフ山脈の麓にある彼らの村で毎年開催されているフェスティヴァルを再現したもので、舞台を覆うように敷かれた、すり切れたラグまでもが忠実に再現されていた。

 そのイベントを二回ほど体験していた自分としては、何が起こるか、大方の予想はしていたものの、彼らの音楽がFRUEの数百人の観客にもたらした効果には、やはり驚かされた。その喜びに耽る夜は、本物の、ハンズ・イン・ジ・エア(両手を空にあげる)なレイヴのようで、4時間近くに及ぶパフォーマンスで、グループが新たな高みへと昇華する度に観客は喜びの雄叫びをあげた。

 このような体験をレコードに収めるのは常に難儀なことであり、非常に優れたいくつかのリリースを含むマスターズのディスコグラフィでも、彼らのライヴ・パフォーマンスほどの恍惚感をもたらしたものはない。彼らの名を世に知らしめた1971年のアルバム『ブライアン・ジョーンズ・プレゼンツ・ザ・パイプス・オブ・パン・アット・ジャジューカ』では、サイケデリックな特性を際立たせるために、音楽に電子的な処理が施され、そのフィジカリティ(肉体的な衝動)が犠牲になってしまった。

 それ以来、グループのリリース(バシール・アッタール率いるライヴァルの一団であるThe Master Musicians of Jajoukaも含む)は、フィールド録音から、2000年にアッタールがその一団とタルヴィン・シンとで制作した、グループの名を冠したアルバム(これはスルーしてよい作品。信じてほしい)のような作り込み過ぎたワールドビート・フュージョンのようなものなど、多岐にわたっている。しかし、2016年にパリのポンピドゥー・センターで行われた「ビート・ジェネレーション展」でのコンサートを収録した『ライヴ・イン・パリ』ほど、好き勝手に、力強くやっている録音はないと自信を持っていえる。

 2017年の日本ツアーの際に限定盤として販売されたCDの、正式なLPレコードとデジタル音源のリリースは、1年以上にわたるCOVID-19煉獄の後では、より歓迎されるに違いない。これは、マスター・ミュージシャンズのアンプリファイド・モードであり、2017年のErgot Recordsからリリースされた『Into The Ahl Srif』のフィールド録音とは全く異なっており、私が記憶しているジャジューカのフェスティヴァルでのサウンドに近いものになっている。

 とくにカーマンジャ(ヴァイオリン)奏者のアハメッド・タルハは、アンプの使用により、驚くべき微分音が際立つという恩恵を受け、より力強い演奏となっている。彼は1枚目のB-SIDEで中心的な役割を果たしており、故・アブデスラム・ブークザールがリード・ヴォーカルを務めた“ブライアン・ジョーンズ・ジャジューカ・ヴェリー・ストーンド”などの定番曲で、喜びにあふれんばかりの演奏を披露。裏面にも同じような曲がいくつか登場するが、ここでは音楽は曲がりくねったような、コール&レスポンスのリラ(笛)とパーカッションがヒプノティックにブレンドされており、複雑なポリリズムが各曲の終わりに突然跳ねて、アッチェレランドで加速していく。

 しかし、最大の魅力は、アルバムの2枚目に収録された、トランス状態を誘発するような“ブゥジュルード”のフル・ヴァージョンだ。伝統的には、これはジャジューカ村のフェスティヴァルの最終夜に、火の灯された儀式のサウンドトラックとして演奏される組曲で、普段は寡黙なモハメド・エル・ハットミが、伝説の半人半獣(人間とヤギ)のブゥジュルードとして知られる生き物を体現する。

 武骨な毛皮の衣装を身に纏い、悪霊を追い出すために人々を激しく叩くハットミの姿は、秋田県男鹿半島のナマハゲを思い出すが、音楽は全くの別物で、感覚を奪われるようなダブル・リード楽器のライタ(あるいはガイタ)が、雷鳴のようなパーカッションを背景に、群がり合い、渦を巻くように襲ってくる。

 ライナー・ノーツのなかで、グループのマネージャー兼プロデューサーであるフランク・リンは、コンサートのこの部分は、音楽の原始的なオーセンティシティ(真正性)を保つために、ペアのステレオ・マイクロフォンを2つ使用したと洒落た言葉で説明しているが、これは、非常に激しくロックしているという意味だ。44分近くに及ぶ曲の中央部では、ライタが集結し、奇妙なフェイジングの効果を発揮して、音楽そのものが錯乱しているかのようだ。
 
 グループのライヴを体験できる機会が不足しているなか、このもっとも純粋な形のトランス・ミュージックは、自分自身を解き放ち、身をゆだねるべき音である。唯一、このLPヴァージョンの批判をするとしたら、半分聴いたところで、こいつをひっくり返さなくてはならないことだ。リンによると、ポンピドゥー・センターでのコンサートでは、ステージへの客の侵入で最高潮に達したというが、これはスーサイドが演奏して以来の出来事だったそうだ。この証拠に基づけば、それこそが、道理にかなった反応だったと思う。

(アラビア語読み協力:赤塚りえ子)

The Master Musicians of Joujouka
Live in Paris

Unlistenable Records
bandcamp

James Hadfield

One of the best shows I’ve seen in the past five years―maybe ever―was the closing set that the Master Musicians of Joujouka played at Festival de Frue in 2017. The Moroccans were the stars of the weekend, having already done a pair of amplified performances that demonstrated their ability to rock a main-stage crowd.
For their final appearance, they shifted to a marquee in the festival campsite for a late-night acoustic set―though such distinctions mean little to a band that’s capable of achieving deafening volumes without the need for a PA. The setting was a convincing recreation of the festival that the group hold each year at their village in the foothills of the Rif Mountains, right down to the threadbare rugs covering the stage.
Having been to that event a couple of times myself, I had a fairly good idea of what to expect, but the effect the music had on the assembled crowd of a few hundred people at Frue still took me by surprise. It was a night of joyous abandon: proper hands-in-the-air rave stuff, people howling with joy as the group kept ascending to new heights of intensity over a performance lasting nearly four hours.
Capturing that kind of experience on record is always going to be a challenge, and the Masters’ discography―while featuring some very fine releases―has never delivered anything quite as ecstatic as their live performances. On the 1971 album that first introduced them to a wider audience, “Brian Jones Presents the Pipes of Pan at Joujouka,” the music was subjected to electronic treatments that accentuated its psychedelic properties at the expense of its physicality.
Since then, the group’s releases―and those by rival outfit The Master Musicians of Jajouka led by Bachir Attar―have ranged from field recordings to over-produced worldbeat fusion efforts like the self-titled 2000 album that Attar’s troupe recorded with Talvin Singh (trust me: you can skip it). But I’m confident in saying that nothing has kicked out the jams quite as emphatically as “Live in Paris,” which captures a 2016 concert at the Centre Georges Pompidou, held as part of an exhibition dedicated to the Beat Generation.
Sold in a limited CD edition during the group’s 2017 Japan tour, the album has finally had a proper vinyl and digital release, and after over a year of COVID-19 purgatory it feels all the more welcome. This is the Master Musicians in amplified mode, and it’s very different from the field recordings heard on the 2017 Ergot Records release “Into The Ahl Srif,” which came closer to how I remember them sounding at the festival in Joujouka.
Kamanja (violin) player Ahmed Talha in particular benefits from amplification, letting his astonishing microtonal playing assert itself more forcefully. He takes a central role on the B side of the first disc, which features ebullient renditions of staples like “Brian Jones Zahjouka Very Stoned,” with lead vocals by the late Abdeslam Boukhzar. Some of the same pieces pop up on the flip side, though here the music is a hypnotic blend of sinuous, call-and-response lira flutes and percussion, with complex polyrhythms that leap into sudden accelerandos at the end of each piece.
However, the biggest draw is the album’s second disc, which contains a full version of the trance-inducing “Boujeloud.” Traditionally performed on the final night of the festival in Joujouka, this suite provides the soundtrack for a fire-lit ritual, in which the normally retiring Mohamed El Hatmi embodies the mythical half-man, half-goat creature known as the Boujeloud.
The spectacle of Hatmi, dressed in a ragged fur costume and vigorously thwacking people to drive out evil spirits, brings to mind the Namahage of Akita’s Oga Peninsula, but the music is something else altogether: a sense-scrambling assault of double-reeded ghaita that seem to swarm and swirl around each other, backed by thunderous percussion.
In the liner notes, the group’s manager and producer, Frank Rynne, explains that this part of the concert was recorded with two stereo pair microphones to “maintain the primordial authenticity” of the music, which is a fancy way of saying that it rocks very hard indeed. During the central stretch of the nearly 44-minute piece, the massed ghaita start creating weird phasing effects, like the music itself is becoming delirious.
Short of catching the group live, this is trance music in its purest form―sounds to lose yourself in, surrender to―and my only criticism of the vinyl edition is that you have to turn the damn thing over halfway through. The Pompidou concert culminated with a stage invasion, which Rynne says had only previously happened when Suicide played there. On this evidence, it was the only sensible response.

Jimi Tenor - ele-king

 ジミ・テナーは毎年コンスタントにアルバムを発表していて、最新作は昨年リリースの『アウロス』となる。2000年代よりジミはアフリカ音楽に傾倒し、アフロ・バンドのカブ・カブやトニー・アレンとも共演してきた。トニー・アレンとはその晩年までセッションを続け、『OTOライヴ・シリーズ』(2018年)という実験的な電子アフロビート・アルバムをリリースしている。近年のジミのソロ・アルバムは、そうしたアフロにジャズ、ソウル、ファンクなどがミックスされ、さらにサイケやプログレ、クラウト・ロック、エクスペリメンタル・ミュージックの要素も散りばめられたものが多い。『アウロス』もそうした作品だ。

 一方、配信のみのリリースとなった『メタモルファ』(2020年)はテクノやハウスなどエレクトロニック・ミュージック寄りのもので、モーリス・フルトンと共演している。1990年代のジミはこうした作品が多く、〈Warp〉時代の彼にはエレクトロニック・サウンドのプロデューサーというイメージを持つ人も多いのではないだろうか。ただ、『メタモルファ』のトラックは実質的にモーリス・フルトンによるもので、ジミ自身はフルートやサックス演奏などミュージシャンの立ち位置となっている。
 2010年代のジミは特に即興演奏家としての色を強め、フィンランドを代表するビッグ・バンドのUMOジャズ・オーケストラやドイツのビッグバンド・ダッハウなどと共演し、それらでは作曲家・編曲家としての才能も披露している。2000年よりインポスト・オーケストラという名義で実験的なエレクトリック・ジャズもやっているが、これなどはフリー・インプロヴァイザー/コンポーザー/アレンジャーとしてのジミが結集されたものだ。ジミは1998年にフィンランドのフリー・ジャズ~インプロヴィゼイション界の大家であるエドワード・ヴェサラと組んで、シティ・オブ・ウーマンというプロジェクトをやったことがある。前衛音楽家としてのジミは既にこの頃から輝きを放っていたのだ。

 この度、『ディープ・サウンド・ラーニング』というジミの未発表音源集が発表された。1993年から2000年にかけてレコーディングされたもので、1997年から2000年まで在籍した〈Warp〉と、それ以前に作品をリリースしていたフィンランドの〈サーコ〉傘下の〈PUU〉時代の未発表作品となる。
 この〈PUU〉と〈Warp〉時代、ジミはデビュー・アルバムの『サーコミーズ』(1994年)を皮切りに、『ヨーロッパ』(1995年)、『インターヴィジョン』(1997年)、『オーガニズム』(1999年)、『アウト・オブ・ノーホェア』(2000年)と5枚のアルバムをリリースしている。テクノやミニマルにジャズを融合し、フューチャー・ジャズという新たな世界の先駆けとなった『サーコミーズ』、ジャズにソウルやファンクなどを導入した現在のジミの作品の原型と言える『オーガニズム』『アウト・オブ・ノーホェア』というラインナップだが、中でもジミの名前を一気に広めたのが『ヨーロッパ』と『インターヴィジョン』である。
 『ヨーロッパ』の “テイク・ザ・S・トレイン” と『インターヴィジョン』の “キャラヴァン” は、それぞれ誰もが知っているようなジャズの古典をモチーフに、モンドでアヴァンギャルドな電子音楽家ジミ・テナーの世界を確立した。『ディープ・サウンド・ラーニング』は、そうしたジミ・テナー・ワールドを満喫できるものだ。

 ソウルフルでジャジーなディープ・ハウス “エキゾティック・ハウス・オブ・ザ・ビラヴド”、初期シカゴ・ハウスの流れを汲むような “ベイビー・イット・ハーツ”、アシッド・ハウスのマナーに基づく “アンナ・メンナ” のようなダンス・サウンドの一方で、エレクトロとジャズ・ファンクを融合した “ヘイノーラ” や “ジェイムソン” のようにピコピコした風変わりな音楽があるのがジミらしい。“ヘイノーラ” や “ジェイムソン” あたりは、ジャン・ジャック・ペレイ、ガーション・キングスレイ、ピエール・アンリなど1960年代に活躍した電子音楽家たちを現在にアップデートしたような楽曲と言える。
 ウネウネした TR-808 が次第にその唸り声をあげる “スーパー・ビート” は、ジミ流のアシッド・ハウスという見方もできるが、それよりもジャズから前衛電子音楽に進んだディック・ハイマンが、ジェイムズ・ブラウンをミニ・モーグでカヴァーしたことを想起させる楽曲だ。ビッグ・バンド・ジャズとエレクトロやニューウェイヴが出会ったような “ウォーキー・トーキー” からは、ピッグバッグやリキッド・リキッドなどに通じる世界が見えてくる。パーカッシヴなアフロ・サンバの “サンバコントゥ” は、前述した “テイク・ザ・S・トレイン” や “キャラヴァン” に準じるようなアプローチで、未来のエキゾ・サウンドとでも言うべき世界を作り上げている。“ダブ・デ・パブロ” はノスタルジックなラテンと実験的な電化ダブ・サウンドの融合。こうした取り合わせの妙がジミの音楽にある。

 演奏家としてのジミはフルートをもっとも得意とするのだが、スペース・エイジ・ジャズ的な “アナザー・スペース・トラヴェル” ではそんなフルート演奏が幻想的な世界を作り出す。“エスポー” は土着的なフルートの即興演奏を繰り広げる小曲。テナー・サックスを演奏する “ダウンタウン” は、短い曲ではあるが比較的に即興演奏家として姿を垣間見せるもので、またオーケストラ風のサウンドを指向する点も後のジミの活動を暗示している。“プラン・ナイン” もサックスの即興演奏とフィリーフォームなシンセが独特のムードを生み出す。
 また、この時期はオルガン演奏も数多く取り入れており、アフロ・ジャズ風味の “サロ” ではチープとも言えるオルガンの音色が独特の味を出している。エロティックなジャズ・ファンクの “オー・セックス” もそうで、時計仕掛けのようなオルガンと疑似ビッグ・バンド風のブラス・サウンドがアクセントとなったキッチュな楽曲。
 そしてドリーミーなソウル調の “ドゥーイン・オールライト” は、1990年代に広まったラウンジ・ミュージックの概念を映し出すような楽曲。この曲やムーディー・ジャズの “マイ・ウーマン” ではジミのヘタウマなヴォーカルが聴ける。抽象的な電子音にはじまる “トラヴェラーズ・ケイプ” は、ハウスとエキゾ・サウンドやスペース・エイジ・ジャズが一緒になったような不思議な世界。どこかノスタルジックな中に近未来を想起させ、一歩間違えれば極モノとなりそうな微妙な匙加減がこの頃のジミ・テナーの魅力だったと言える。

Matthew Herbert - ele-king

 2年前、ブレグジットに触発されたビッグ・バンド作品を送り出したマシュー・ハーバート。彼のソロ名義による新たなハウス・アルバム『Musca』が10月22日にリリースされる。レーベルはいつもの〈Accidental〉。
 同作は昨年のロックダウン中に録音されたそうで、これまで一緒にやったことのない8人のヴォーカリストがフィーチャーされているとのこと。
 ハーバート自身のコメントによれば、新型コロナウイルス感染症のみならず、政治的暴力の増加、フェイスブックと親和的なファシズム、白人至上主義、気候変動などがテーマになっているようだ。現在リード・トラック“The Way”が公開中。


PDP III - ele-king

 PDP III はブリットン・パウエル、ルーシー・レールトン、ブライアン・リーズ (ホアコ・エス)の三人のユニットである。いまや絶好調ともいえるフランスのエクスペリメンタル・レーベルの〈Shelter Press〉からアルバム『Pilled Up on a Couple of Doves』がリリースされた。

 本作は、この三人の個性的なアーティストのコラボレーション作品として話題を呼んでいるが、制作工程としてはまずブリットン・パウエルがベースとなるトラックを作り、それをルーシー・レールトンとホアコ・エスのふたりが音を重ねてコンポジションしていったようだ。その意味でブリットン・パウエルを中心としたプロジェクトといってもいいだろう。
 アルバムには全5曲収録され、どのトラックも全リスニングへの没入度を高めるように入念に編集がなされている。電子音、環境音、ノイズなどがときに瞑想的に、ときにノイジーに展開し、硬質でありながらも、豊穣かつ複雑なサウンド・テクスチャーが圧倒的であり、実に濃密な音響作品である。

 ここで三人の経歴を簡単に説明しておこう。まずイギリスのルーシー・レールトン。レールトンはチェロ奏者であり、その音響を駆使したエクペリメンタルな音響作品で知られる。〈Modern Love〉からのファースト・アルバム『Paradise 94』(2018)でその名を知らしめ、〈PAN〉からリリースされた Peter Zinovieff との共作『RFG Inventions for Cello and Computer』(2020)や、 〈Portraits GRM〉からリリースされたマックス・アイルバッハーとのスプリット盤『Forma / Metabolist Meter (Foster, Cottin, Caetani And A Fly)』(2020)でもマニアたちの耳を唸らせた。2020年はオリヴィエ・メシアンの曲を演奏した『Louange à L’Éternité de Jésus』(〈Modern Love〉)もリリースした。

 ホアコ・エスはテン年代アンダーグラウンド・アンビエントの最重要人物である。2012年に〈Opal Tapes〉からリリースされた『Untitled』、2013年にワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(ダニエル・ロパティン)が運営していたレーベル〈Software〉からリリースされた『Colonial Patterns』、2016年にニューヨークのカセット・レーベル〈Quiet Time Tapes〉からリリースされた『Quiet Time』、そして同年2016年にアンソニー・ネイプルズ主宰のニューヨークのレーベル〈Proibito〉からリリースされた『For Those Of You Who Have Never (And Also Those Who Have)』など、どの作品もテン年代のアンダーグラウンド・アンビエントを代表するアルバムといっても過言ではない傑作ばかりだ。特に『For Those Of You Who Have Never (And Also Those Who Have)』は、アンビエント・マニアであれば名盤として聴き続けているような作品である。その意味でアンビエント・音響マニアからもっとも新作を期待されているアーティストのひとりといえる。とはいえ先に挙げたアルバム数からも分かるように非常に寡作な作家でもある。よって PDP III 『Pilled Up on a Couple of Doves』に参加していることは、本作の重要なトピックなのである。

 PDPⅢ の要ともいえるのがニューヨークのサウンド・アーティスト、ブリットン・パウエルだ。NYの〈Catch Wave〉から2020年にリリースされた『If Anything Is』は物音系・コンクレート作品として素晴らしい出来だった。パウエルのサイトに記された一文によると(https://www.britton-powell.com/About.html)、「エレクトロニクス、ビデオ、パーカッションを用いて、音響心理学的現象、ミニマリズム、非西洋音楽の伝統を探求している」音響作家である。インスタレーション作品でもあった「If Anything Is」は、「ハイパーリアリティと資本主義のテーマを、サウンドとマルチ・チャンネル・ビデオのためにデザインされたミクストメディア環境で表現したもの」らしい。加えて「If Anything Is」は、「急速に進むメディアと商業の世界に直面して、経験の恍惚とした交換を探求している」ともいう。「テクノロジー、儀式、都市の景観の交差点についての瞑想であること」をテーマとしているようだ。私見だがこの「儀式、都市の景観の交差点についての瞑想」は、そのまま PDP III 『Pilled Up on a Couple of Doves』にも通じるテーゼのように思える。

 PDP III 『Pilled Up on a Couple of Doves』には全5曲のトラックが収録されている。どの曲も電子音のテクスチャーが複雑にレイヤーされている。それもそのはずで、パウエルが2年の歳月をかけて編集に編集を重ねて完成させたのだ。なかでも3曲目 “Walls of Kyoto” から4曲目 “49 Days” のサウンドの変化がアルバム中でもクライマックスともいえるほどにドラマチックに展開する。
 ます “Walls of Kyoto” では瞑想的なサウンドが次第にノイジーな音響空間へと変化する。京都という古都/都市のなかにひそむ音と音が、次第にズームアップされていくかのような圧倒的なサウンドスケープだ。そして “49 Days” ではルーシー・レールトンのチェロと硬質な持続音が真夜中のざわめきのようにひっそりと変化を遂げていく。この曲もまた瞑想的であると同時に不安を引きだすような白昼夢のムードを放っている。実に濃密な16分間の音響空間を生みだしている。

 全5曲、すべてのサウンドが、まるで聴き手の聴覚を拡張するかのように進行する。その意味では非常にサイケデリックなアルバムともいえる。アートワークにニューヨークの詩人・写真家・映画作家アイラ・コーエンによるサイケデリックなイメージの1967年作品「Alien Intelligence」が用いられていることもその証左になるのではないか。
 都市の景観、都市の儀式、都市の瞑想、都市のノイズ。そこから生まれる意識の拡張。そう、『Pilled Up on a Couple of Doves』は、21世紀の都市に生きるわれわれの精神的な瞑想と拡張のために存在するような常備薬のような音響音楽である。2021年という不安な年だからこそ何度もそのシンセティックでノイジーなアンビエンスなサイケデリックな音響空間に没入したいものだ。自己と世界の関係性を音によって再考するかのように。

interview with Satomimagae - ele-king


Satomimagae
Hanazono

RVNG Intl. / PLANCHA

FolkAmbient

 サトミマガエの新作『花園』を聴いていると、まだマンションが乱立する前の、昔の古い世田谷の迷路のような小道に迷い込んで、偶然いままで知らなかった小さな空き地に出たときに感じた嬉しさのようなものを感じる。そこにはやはり小さな草花が風に吹かれているのだ。
 サトミマガエをぼくに教えたのは畠山地平だった。彼のレーベル〈White Paddy Mountain〉からリリースされた『Koko』があり、『Kemri』があった。畠山のイベントに出演した彼女のライヴにも行った。高円寺のとあるお店の地下スペースで、10人にも満たない人たちを前に、彼女はアルバムで聴いた印象の通りの静的な佇まいをもって、抑揚のない独自の歌い方と魅力的なギターを披露した。おそらくその週末の東京のいたるところで演奏されたどの音楽よりも、そこは静かだったはずだ。

 彼女の新作『花園』が〈RVNG Intl.〉を通してインターナショナル・リリースされるのは、楽しみというほかない。アンビエント・フィーリングを持った彼女の作品は、ひとつのサウンドとしての面白さが充分にある。物静かで音数は少ないが、細かいアレンジが行き届いており、ギターと歌以外の小さな音がほかにもこの小さな世界に共鳴している。そこから見える景色は、モノクロームではない。アルバムのアートワークのようにカラフルでもある。
 今回は初めての取材なので、ものすごく基本的なところから質問している。日本から登場したこの異色のアーティストにひとりでも多く興味を持ってもらえたら幸いだ。

いろんな感情を中和するものを作りたいなと思って。刺激のある音楽の間に挟んで聞くような休憩の音楽、でもそういう音楽が大事なときもあるなと思ったんですよね。

生まれと育ちはどちらなのでしょうか。

サトミマガエ:茨城県です。

ギターに興味をもたれたきっかけは?

サトミマガエ:中学生くらいのときにあった選択音楽という授業でギターを選びました。家にギターがあったので弾けたら面白いかな程度でやってみたということです。少し弾いてみたら楽しくなりすぐにのめり込みました。最初は学校で発表するという名目でやっていたので、当時流行っていたJポップなんかをやって。

お父さんがアメリカで買ってきたブルースのレコードが好きだったという話を聞きましたが。

サトミマガエ:家族で2年間アメリカに住んでいたんです。アメリカでも父親が友だちに紹介してもらった古いブルースを聴いていたし、それを日本に帰ってきてからも車とかでかけたりして。当時は好きというわけではなかったけれどよく耳にはしていましたね。

自分で能動的に音楽を聴いたり、あるいは演奏をするようなきっかけであったりとか、そういうのは別にありましたか?

サトミマガエ:小学生の高学年くらいからクラブ活動でトランペットを吹きはじめたんですよね。演奏より合奏がそのときは楽しいと思っていて、中学生でも吹奏楽部に入ってトランペットをやっていましたね。

トランペット吹くのって小学生には難易度が高くないですか?

サトミマガエ:そうですね。

じゃあいまでもけっこう吹ける?

サトミマガエ:いまはあんまり吹けないですけど(笑)過去の曲で何回か吹いています。それで中学生の終わりころにコンクールの練習で、先生がいないときに指揮台に立って各楽器に指示をだしながら曲をまとめていく役割を任されたことがあってそれぞれの楽器をコントロールしてひとつの曲にするという、そういう合奏の楽しさをそこで感じました。

じゃあポピュラー・ミュージックといったものにはあまり縁がなかったですか?

サトミマガエ:聴いてはいたけど夢中になるような感じではなかったですね。

でもどこかで夢中になったことが……

サトミマガエ:高校にはいったときに友だちがいわゆる洋楽を教えてくれて、そこからですね。そのとき友だちが教えてくれたのはニルヴァーナとレッド・ホット・チリ・ペッパーズでした。

そこからどのように発展していったのですか?

サトミマガエ:バンドでベースを弾いてと頼まれベースを聴くようになったんですよね。それでずっとレッド・ホット・チリ・ペッパーズを聴いて練習していました(笑)。あとはレディオヘッドとか、ナンバーガールとかみんな聴いていたものを聴いて。そのあと大学に進んでベースをバンドで弾きたいと思って軽音部に入りました。理系の工学部のほうにあった軽音部だったので、電気とか機材に詳しい人が多くて音楽機材のことをたくさん学びました。

分子生物学を専攻していたと。

サトミマガエ:そうです。そこでもうすこしマニアックな音楽、いわゆるもっとデジタルな音楽に出会って。さらにそのあと美術系に進んでいた姉のお手伝いで現代アートと関わる機会があって、そうするとまたまた知らなかった音楽に出会って、現代音楽や実験音楽のフィールドも知りはじめて。けっこう衝撃で本とかも読んだりしました。出会った音楽はぜんぶ歴史を調べながらというか、「すごいなぁ」と夢中になりながらいろいろ聴いてきましたね、古いフォークとかも一時期聴いてみたり。

とくに好きだったのは?

サトミマガエ:とくに大好きというのはいなかったですね。エイフェックス・ツインやフアナ・モリーナとか、いまも新しいリリースをフォローしているアーティストは何人もいるんですけど。軽音部にいたときに、電子音楽に興味が湧いて古いものからエレクトロニカ、テクノをたくさん聴きました。友だちにクラブ行ったりDAWやってる人も少しいて、クラークを敬愛してる人がいたり、電子音楽はその頃からずっと憧れの音楽という感じで今も好きです。
その後、さきほどお話ししたように現代アートと触れる機会があり、より実験的な音楽に興味を持って 『音の海』(デイヴィッドトゥープ著)という本を読んだんですけど、それが当時自分にとって知らない世界が開けたようで衝撃でしたね。
その後学生が終わった後に出会った中東やアフリカ、インドの音楽もそれと同様の衝撃がありました。知らない音楽はたくさんあるのに見えてないだけなんだな、と。

いま創作活動をやっているなかで大きかったと思えるようなアーティストであったり作品であったりはありますか?

サトミマガエ:(すこし考えて)いろいろあって難しいな(笑)。

サトミさんの場合はスタイルがあるというか、ひとりでギターの弾き語りというのがベースにありますよね。なぜそういうスタイルになったのでしょうか。

サトミマガエ:ギターは自分が唯一コントロールできている楽器という気がします。いまだに発見があるから、まだできそうなことがあるなと。ピアノとかも試したけどやっぱりうまくいかなくて、私はけっきょくギターで作曲することしかできないのかなって。ギターマニアとかコレクターというわけではないですけど。

例えば好きなギタリストがいたりとかは?

サトミマガエ:ニック・ドレイクを聴いたときは、いままで聞いたことがない感じがしました。耳コピでちょっと練習しましたね。ほかに、ホセ・ゴンザレスも最初に聴いたときに普通のフォークとは違う響きやリズムがあってハマりました。ときどき、いわゆるデルタ・ブルースというか、ライトニン・ホプキンスじゃないけど古いブルース・ギターの弾き語りを動画で見たりすると、あらためてかっこいいスタイルだなと感じます。

ブルースのどんなところがサトミさんに引っかかりましたか?

サトミマガエ:足りない感じがしないところですかね。足したくなる感じがなくてギターと声だけで完結している、声と一緒にギターがほぼ歌ってますよね。あとリズムも好きですね。

いわゆる弾き語りで歌いはじめたときの歌の部分、というのはどういうふうにご自身のなかで発展していったのですか? もともと歌っていたんですか?

サトミマガエ:中学生くらいから歌ってはいましたけど、綺麗な声じゃないし地声に自信もなかったのでぜんぶ裏声、みたいな。とにかく自分の声の嫌な部分をごまかして歌う方法を探っていました。シンガーとしてはぜんぜん自信はなかったんですけど、とにかく自分の声で成り立つ音楽を作ろうという感じでした。

人前で歌いはじめたのはいつごろですか?

サトミマガエ:ちょうど20歳くらいですね。

場所は東京でした?

サトミマガエ:東京です。

大学で東京に来られた?

サトミマガエ:はい。

そのときはもちろんひとりで?

サトミマガエ:バンドに1回はいっていたのでそこでヴォーカルをやっていたこともあります。そのあと自分の音楽をやりたくなったから自分でもやっていたけどソロではやってなかったですね、人にはいってもらったりしてやっていました。

バンドで歌っていたということは、つまりサトミさんのバンドがあったんですね。

サトミマガエ:そこのヴォーカルが抜けちゃったからはいって、みたいな感じでしたね。

なるほど、じゃあ別にサトミさんが作ったバンドというよりも……

サトミマガエ:ぜんぜん違います(笑)。あとはベースを弾いていたので基本的にずっとバンドでやっていましたね。ほとんど軽音部でやっていたからコピーバンドだったんですけど。

20歳くらいからライヴハウスにでて歌おうと思った理由はなんですか?

サトミマガエ:やっぱりどこかでずっと音楽を作っていきたいと思っていたので……、人に知ってもらおうとなったら、ライヴをしなきゃならないのかなと感じて。

月に1回くらいとか?

サトミマガエ:いや、もっとやっていたと思います。

けっこう積極的にやられていたんですね。畠山地平くんがたまたまライヴで聴いて、彼のレーベル〈White Paddy Mountain〉からださないか声をかけたという話を彼から聞いたのですけど、ああいう畠山くんみたいなアンビエントやドローンであったりとかはサトミさん自身はどうでした? 

サトミマガエ:アンビエント・ミュージックにはよく触れていたし興味はあったんですけど、そんなに自分の普段聴く音楽として聴いてはいませんでしたね。畠山さんのレーベルからお誘いをうけて見てみたら、全体の美学がかっこいいレーベルだなと思って、リリースがぜんぶアンビエントやドローン・ミュージックだけではなくて、いくつかポップなユニットとかもあったりして。レーベルを探してみたこともあったんですけど、ぜんぜん自分に合うレーベルがわからないし、まずそんなにレーベルを知らなくて。畠山さんに誘っていただいて調べてみたらすごくしっくりきたというのは憶えていますね。

ちなみに畠山くんからグルーパーというアーティストの作品を聴かされたりしませんでしたか(笑)。

サトミマガエ:聴かされてはなかったですけど、そういうふうに形容されているのはよくみて、自分は予想外でした。後からアルバムを1枚持っているのを思い出して、あぁなるほど、と思って。

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"Numa" という曲では「爽やかな諦念」がテーマです(笑)。鬱々したものではなくて、その身を任せている変化の流れ、風のような流れを楽しんでる様子を書きたかったです。

ヴォーカリストで影響を受けた人とかいますか?

サトミマガエ:女の人のヴォーカルがずっと苦手で好きじゃなかったんですけど『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を高校生で観て、そこで歌っているビョークの歌声で初めて女性の声もいいんだなと思いましたね。叫んでいるんだけど柔らかいというか、そういう女の人のヴォーカルにはじめて出会って。

しかしサトミさんの歌い方はビョークのように感情を露わにしないことが特徴だと思います。感情をあらわにしないこと、あるいは言葉をはっきり歌わないこと、それ自体がサトミさんのひとつの表現になっているように思ったんですけど、どうでしょうか。

サトミマガエ:日本語が聴き取れないとはよく言われるんですけど、じつはあまり意識したことはないんですよね。日本語ってすごくカクカクしていて、言葉が飛び出てくるというか、日本語はすごく言葉が強いと思うんですよね、強く歌うと詩だけがはいってきてしまう感じがある。そういう詩を聴いているだけのような音楽は、私は説教されているような感覚になることが多くて。言葉も音楽と一体になっていてほしいというのがいつもあって。たぶんそのせいで、そういう歌いかたになっているのだと思います。

サトミさんにとって歌詞というのはどういうふうに考えていますか?

サトミマガエ: まえのアルバムにいけばいくほどなにを言おうとしているのか完全に理解されたくない、というのは強いと思いますね。歌詞に関しては。

理解されたくない?

サトミマガエ:正直に言うと、自分の書こうとしている歌詞がはっきりと浅はかだってバレて曲を台無しにしてしまうのがいやなので(笑)。

そんなことはないでしょう(笑)。ちなみに好きな本とか作家はいますか?

サトミマガエ:最近はあまり読めていませんが、昔は日本の純文学をずっと読んでいましたね、川端康成とか谷崎潤一郎とか。

めちゃくちゃ純文学ですね。

サトミマガエ:とにかく綺麗な日本語を勉強しようと思って。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」はサトミさんの世界観にあるかも(笑)。

サトミマガエ:昔の本ってけっこう難しいんですよね。いつの間になにか起きているけど注意して読まないとそれがわからない、みたいな。大きなドラマがあるわけではなくて、ただ細かい文章だけから映像を想像していくというところが少し癖になっていました。

今回のアルバムが〈RVNG Intl.〉からでることになった経緯というのはなにがあったんでしょうか。


Satomimagae
Hanazono

RVNG Intl. / PLANCHA

FolkAmbient

サトミマガエ:海外のレーベルに詳しい知り合いに、かっこいいレーベルを教えて欲しいと頼んだらそのなかに〈RVNG Intl.〉がはいっていました。それで自分でも調べたら、FloristというバンドのヴォーカルのEmily A. Spragueがソロプロジェクトでバンドとは違った音楽をリリースしているのをそこで発見したりして、おもしろそうと。デモを送ってみました。でも実はRVNGのまえに〈Guruguru Brain〉が返事をくれて、今回はCo-Releaseで〈Guruguru Brain〉からも同時にリリースしてもらえることになりました。

今回のアルバム・タイトル『花園』というのはどこからきているのでしょうか。

サトミマガエ:いままでに比べてオープンでフラットにすることをすこし意識していて。

すごくカラフルですよね、いままでの作品より。

サトミマガエ:そうそう、そういうイメージです。だけどまだ少し閉じているというか、家の外ではあるし、外の世界と繋がっているけれどあくまでプライベートな空間というか、そういうイメージです。それと子供らしさ……、曲を書いていた時期に子供のニュースをよく見かけまして、あまりよくないニュースですけど。音楽のなかにそういうテーマもはいりこんできましたね。なんかね、『花園』っていうと……華やかで、一生懸命手入れするのに別に人に見せないという、それが子供らしさというか、ピュアな創造という感じに繋がるんですね。

子供たちにとってのユートピアみたいな。

サトミマガエ:うーん、そうですね、楽園……現実逃避ではないんですけど、広い世界がみえていないというかね。それって子供もそうだけど、ときどき大人もそうだなと。そういう感じだけれど内向的な暗さはなく、社会と繋がっているしあくまで外にあるというイメージで『花園』がしっくりくる。

なぜ外に向けて開けきらないんですか?

サトミマガエ:それは私がまだ開けきらないなって思ったからで(笑)。

でも閉じた感じというのがサトミさんの作品の魅力ではあると思いますよ。

サトミマガエ:そうですね。前のふたつの作品とか、というかいままでの作品はぜんぶそうだったと思います。

『Hanazono』は音の細部が丁寧に作り込まれていますよね、サブベースのような音があったり、フィールド・レコーディング的なものもあったり、あるいはすごく小さな音量で別のメロディが鳴っていたりとか。注意深く集中して聴くといろいろな音が聴こえるような音作りになっていて、むしろ広がりがあると思いました。

サトミマガエ:ありがとうございます。BGMだけれどただ退屈に流れているだけの音楽ではなくて、ちゃんと鳴っている音楽、というのを目指していました。プレーンな感じ……、いろんな感情を中和するものを作りたいなと思って。刺激のある音楽の間に挟んで聞くような休憩の音楽、でもそういう音楽が大事なときもあるなと思ったんですよね。

レコーディングのやりかたもいままでとは違っていると思いますが、どのように進めたのでしょうか?

サトミマガエ:作っている段階ではレーベルが決まっていなかったのもあって、とくに誰かの期待に応えるようなかたちで作っていなかったのもあったのかもしれません。ほとんど家で録っているんですよね。

あんまりいままでと作りかたは変わらなかったと?

サトミマガエ:あ、でも前回のふたつはスタジオでちゃんと録音していたので。

今回は家の中でぜんぶ作ったと。

サトミマガエ:ほぼそうですね。浦和さんがいれたもの以外は家で作りました。

それじゃ家に小さいベットルーム・スタジオみたいなものがあるんですか。

サトミマガエ:いまいる部屋なんですけど、この狭い部屋で(笑)。だからけっこう外の音とかはいっちゃっている曲もあるんですよ。

最後の“Uchu”にもはいってますもんね。あとボーナストラックにフィールド・レコーディングっぽい音がはいっている。

サトミマガエ:あれは散歩して録ったやつですね。

なるほど。じゃあけっこう時間をかけて作った感じですか?

サトミマガエ:かかりました。2018年くらいに曲自体は書き終わっていたので、そこから2019年の間はデモにするためにミックスやレコーディングをして、それで去年はずっと仕上げをしていました。

ギターの弦の音とかすごく綺麗になっていて、曲によってはギターとかを重ね録りしているんですか?

サトミマガエ:曲によってはしています。でもなかには一発録りのもあって。スタジオでやるっていうのがなかったから、できたらすぐ録るというのも可能だったんですよね。一番最初が一番良いテイクということもあるので。
■サトミさんのスタイルってすごく独特だし世界観ができあがっているから、逆にアルバムのなかで曲ごとのヴァリエーションはどういうふうに考えてらっしゃいますか?

サトミマガエ:今回はヴァリエーションというか、ひとつのアルバムが一気に流れていくような作品にしたいということはいままでではいちばん意識してました。曲ごとのカラーをけっこうがらっと変えながら、全体としてはひとつの空間にまとまっているような。

今回は英語の歌詞が半分で日本語の歌詞が半分ですか?

サトミマガエ:そうですね。

英語と日本語で半々にしたのはインターナショナル・リリースということがあったからですか?

サトミマガエ:いままでは日本語で歌うというのは自分の音楽の特徴のひとつに捉えていたんです。『Potopo』という自主制作のEPではじめて全部英語の曲をひとつ書いてみたら、別に英語で歌っても自分の曲らしいまま書けるなと思って。今回はオープンにしたいというものあって日本語にこだわらず書いてみたという感じです。

先ほど子供の話をしていただきましたけど、ご自身はこの作品を通じて何を伝えたいと考えてらっしゃいますか?

サトミマガエ:メッセージかはわからないですが、今回のアルバムの“花園"を作ってたときにテーマとして出てきたのは 自分の中や外で大きく起こる変容を受け入れる、身を任せる、ということでした。"Numa" という曲では「爽やかな諦念」がテーマです(笑)。鬱々したものではなくて、その身を任せている変化の流れ、風のような流れを楽しんでる様子を書きたかったです。歌詞がいつもパーソナルになってしまうんですけど、さっき言ったような中和する音楽を目指していたので、今回は日記のようにならないよう曲ごとにまずありふれたモチーフを思い浮かべてみたんですね。石とか風とか海とか。それに投影するかたちで曲をもう少し普遍的なものにしたいと思って。

なるほどね、わかりました。ありがとうございました。またライヴでお会いできることを楽しみにしております。ありがとうございました。

サトミマガエ:ありがとうございます。

(4月22日、ZOOMにて)

Vladislav Delay - ele-king

 年末のサウンドパトロールでも書いたが、サス・リパッティ(1976-)ことヴラディスラフ・ディレイはバンドキャンプ上でのサブスクリプションを通して、自身の過去作の大部分と、新曲を毎月発表している。そこから見えてくる彼の経歴は実にユニークだ。VD名義の出世作となったベーシック・チャンネルの〈Chain Reaction〉から出した一連のシングルとその収集版である『Multila』(2000)や〈Mille Plateaux〉の『Anima』(2001)など、ダブ・テクノやグリッチ/アンビエント史の重要作は今日においてもその輝きを失っていない。2018年に出たコード9とベリアルの『Fabriclive 100』のミックスでも象徴的にプレイされていた “Otan Osaa” が入った『Demo(n) Tracks』(2004)を聴いてみても、サンプリング、グリッチ、低音そしてそこにダブを投入する才能が20代でここまで爆発していたのかと驚く。
 グリッチやアンビエントに加え、リパッティの探求においてリズムもひとつの鍵である。彼はテクノよりもジャングルやD&Bを愛し、ルオモ名義で取り組んだハウスよりもUKGの2ステップを愛する男である(リズム&サウンドの “Truly” リミックス(2006)が良い例だろう)。彼はもともとジャズ・ドラマーで生粋のリズム・コンシャスであり、その腕はモーリッツ・フォン・オズワルドにも買われ、彼のトリオにも一時期参加することにもなり、近年では自らの即興演奏カルテットでもドラムを叩いている。このリズムへの好奇心はシカゴにも接続され、リパッティ名義でのフットワーク作も生まれた。三田格が言うようにポーター・リックスマイク・インクらと並び、リパッティはベーシック・チャンネルの影響を抜け出してオリジナルをやった少数派のひとりであり、このリズムをめぐる変遷がそのことを証明している。
 研ぎ澄まされた感覚が10年代の〈Rastor-Noton〉からの諸作を生み、さらにはスライ&ロビーとの『Nordub』(2018)と去年の『500-Push-Up』に繋がっていく。これは彼の歴史のごく一部だが、そのキャリアを聴きまくった末にこうして昨年『Rakka』の続編である今作『Rakka II』が届けられたのだから、僕はこうして筆を取らないわけにはいかなかった。リリース元は引き続き、シェイプトノイズの〈Cosmo Rhythmatic〉。6月には絶好調の〈Planet Mu〉から、リパッティ名義でのアルバムもリリースされる。

 デンシノオトが前作のレヴューで書いているように、『Rakka』シリーズはライフスタイルと多くの機材を売り払ったことによる転換を迎えて生まれたものだ。多くの人間がそうであるように、リパッティの人生は変化に溢れている。20代に多用していたドラッグをきっぱりとやめ、パートナーの電子音楽詩人 AGF と結婚し、子供ができ、2008年に拠点としていたベルリンを離れフィンランド北部に位置する人口約1000人のハイルオト島に移住。自分で木を切りスタジオまで建てている。そのなかでも音楽生活の比重を自然散策にずらすことによって生じた影響が重要だと本人は語っている。プレスリリースは、ここには彼がフィンランドの自然環境が持つ音楽構造によって制限されることのない、力(フォース)の描写があると予想している。ここにはスピリチュアルな解釈も可能かもしれないが、リパッティの言葉によれば、彼が身をおく環境は風が唸る音が非常に轟音で、それに耳が慣れた影響が『Rakka』にはあるだろうとも語っていた。
 たしかに『Rakka』はラウドな音楽である。『II』を例にとれば一曲目の “Rakkn” は、吹雪のように細かいディストーションがかけられたドローンが両耳の聴覚を覆い、そこに左チャンネルのさらに歪んだノイズが定期的に回転し、高音域の反復がサイレンの警戒音のごとく聞き手の情動に作用。そのすぐ後に低音域のドローンがなだれ込んでくる。その後も多種多様なマテリアルが左右のスピーカーを飛び交っていき、轟音と音像にと圧倒されつつ、中盤からさらにキックの連打が打ち鳴らされる。いわゆるテクノ・マナーなど皆無で、音像は近年のSFのサウンドトラックのようでもある。とにかく、最小限かつマキシマムにエネルギーが解放されていく。
 『I』と同様の機材セットアップで作られているため、『II』も前作に似た歪んだヴァイオレントなテクスチャーを部分として持っている。彼の重低音を支えてきたモーグシンセを売り払い、DAWのロジックをメインにし、同ソフトウェアに初期装備されている EXS24 サンプラーを多用した、と彼は答えている(ロジックは去年サンプラーのインターフェイスを刷新して、いまのヴァージョンはかなり見やすいのだが、リパッティが使用しているのはその前世代のものだろう)。ラップトップに取り込まれた音は、ラットやビッグマフといったギター・エフェクターに送り込まれる(彼はフィンランド人らしくメタルの影響も受けている。『Rakka』のラウドな縦ノリ感はそこにも通じる?)。生々しい歪みたちは、彼のスタジオのエコロジーの産物だ。マッシヴなサウンドだけではなく、“Rakas” のような穏やかな曲においても、そのテクスチャーは独自のナラティヴを持っている。
 先ほど、彼のリズム・コンシャスについても触れたが、『Rakka』二部作もその延長線上にある。視界が開けた二曲目 “Raaa” において、太陽光のようなドローンを区切るようにキックはポリリズミックに鳴り、それと呼応するように、シンセの反復音は定期的にトリガーされる。ここにある言語は、間違いなくリズムだ。このリズムの迷宮は6曲の “Ranno” においてピークに達する。冒頭から断続するノイズの反復が時に遅延と揺らぎを含みつつ、ふたたびポリリズミックなキックが空間に介入していく。もちろんノイズやトーンの揺れは彼が愛するジャズのように即興的で詩的であるものの、このリズム構築は恐ろしいほどまでに細部までコントロールされている。
 これらが自然環境における人間の制約から無縁のフォースを『Rakka』で描写していく。いわゆるジェネラティヴ・ミュージックは、音楽構造のパターン化をアルゴリズムの生成によって偶発的に乗り越えていく。また、ランダムに発信するLFOによってシーケンサーやフレーズを規則性がないかのように構築する手法もある。リパッティはそのようなランダム性による「開放」の描写を目指すのではなく、徹底的にコントロールされた複雑なリズムを経由して自由/自然の輪郭を炙り出そうとしている。気象や地質的な非人間的アクター、そしてそれを感じる人間が織りなすエコロジカルな連鎖反応ものとしても映る。トレッキング・シューズに覆われた旅人の足が、地図をロジカルにたどり、非ロジカルに広がる岩の上を進んでいく身体性。そこにもリズムはたしかにある。

 『II』の表ジャケットは『I』の裏ジャケットを鏡写に反転させたもので、前作のピンク色に染められた入江は今作で緑に変わっている(入江の写真はリパッティの娘が撮影したもの)。この色彩と虚像関係の意図は不明だが、少なくとも、ここにはことなるモーメントがはたらいているようである。プレスリリースにあるリパッティの説明によれば、『II』は「希望とオプティミズムに満ちたロマンティックな夏のヴィジョン。一作目のブルータリストのヴァイブスのあと、嵐は過ぎ去り、空は晴れはじめている」とある。たしかに『I』の “Rakkine” で見られた視界を遮られた奈落の暴風雨のようなサウンドというよりは、『II』には終曲の “Rapine” のように、決して晴天ではないものの、彼方の空が晴れていくような感覚を覚えなくもない。いたずらに称賛される主体から切り離された対象ではなく、そこに参加することによって感じとられる恐怖にも希望にも転じる曖昧なグラデーションを保つアンビエンス。卓越したスタジオ・サイエンスを通して、ヴラディスラフ・ディレイが今日の我々に提示するのは、そのような自然像である。

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