「OTO」と一致するもの

Piezo - ele-king

 ナイヒロクシカスピーカー・ミュージックと続いたこの6月にエレクトロニック・ダンス・ミュージックのシーンは一変してしまった……ような気までしていたけれど、そんなことはなくて、

 デビューから5年という歳月をかけて「Parrots」(18)や「The Mandrake」(19)といった目覚ましいシングルを聴かせるまでになったピエツォのデビュー・アルバムがついに完成。それも『負けた(Perdu)』というタイトルで(……「負けた」。たしかに)。ダンス・ミュージックのほとんどはアルバムが出る頃にはもうダメで、それ以前のシングルの方がよかったという人がほとんどなのに、ピエツォことルカ・ムッチに限っていえば、つい最近までシングルの出来不出来が激しかったにもかかわらず、過去にリリースされたどのシングルよりもアルバムの方がよかった。こういうことは珍しい。シングルを追わないリスナーにはそれがどれだけ稀有なことかはわからないだろう。

 イージー・リスニングを嫌い、日本のワビサビを好むというピエツォはミラノを拠点とし、UKガラージをサウンドの基本としているけれど、実際にブリストルにも何年か住んでいたらしく(だから、「Lume」は〈Idle Hands〉からのリリースで、ツイッターを見ていたらヤング・エコーがサポートしていたのね)、イタリア的な要素はたしかに薄い。なにがどうして彼がイタリアに戻り、倉本涼の友人がやっているレーベル、〈Hundebiss〉からのリリースということになるのかはわからないけれど、アメリカのアンダーグラウンドとUKガラージを結びつけて〈Pan〉の裏レーベルのような役割を果たし、ハイプ・ウイリアムズやスターゲイト(ロレンツォ・センニ)を初期からサポートしてきた〈Hundebiss〉からデビュー・アルバムを出すことになったというのは実に素晴らしい流れである。とくに〈Hundebiss〉は17年にケルマン・デュランのダンスホール・オリエンティッドな実験作『1804 KIDS』をリリースして評価が変わってきた時期だけに。

 ピエツォが昨秋にリリースした「Steady Can't Steady Can't Stay」や「ANSIA004」といったシングルはとくにひねりのないテクノやダウンテンポで、むしろ期待を削ぐようなフシもあったにもかかわらず、『Perdu』はオープニングから実験色を強めている。シャッフル気味の不穏なダブステップ“OX”にはじまり、“Stray”では一気にポリリズムを加速、ガラスを砕くような音とパーカッションのブレイクも見事で、DJニガ・フォックスとアルカがコラボレイトしているかのよう。同じくスペイシーなパーカッションでクールにキメる“Blue Light Mama Magic”からマウス・オン・マースを思わせるスラップスティック・ジャングルの”Rowina”とIDM黄金期を立て続けに再定義(?)。“Interludio”ではエフェックス・ツイン『Drukqs』が見え隠れしつつ、とにかく音だけの楽しさに集中していく。映画『Toxic Love』の伊題をもじったらしき“Amore Tossi”でダブとドローンをユルユルとかち合わせた後、“Castrol”ではリエゾン・ダンジュオーズがポリゴン・ウインドウ“Quoth”をカヴァーして、どっちつかずになったような激しさも。“QZak”というタイトルがまたエイフェックス・ツインの曲名を思わせるけれど、次の曲ではミュジーク・コンクレートのようなことをやっています。そして、僕の人生をいつも大きく左右してくれる神経伝達物質のミススペル、“Xerotonin”も脳内で何かが起きているようなアブストラクな描写。そして、エンディング前にビート・ナンバーに戻って“Anti-Gloss”ではブリストル・タッチのトライバル・テクノを配し、最後は優雅に”Outrow”。あっという間に終わって、さすがに物足りない。もう一度聴くか、過去のシングルを聴くか……。

 「Parrots」ではエレクトロやシャッフル、「Steady Can't Steady Can't Stay」ではダブやオーガニック・ハウスと、よくぞここまでジャンルを一定させないなと思うほどピエツォの作風はコロコロと変わってきた。曲のイメージもファニーなものからアグレッシヴなものまで多種多様で、カラーというものはないに等しい。『Perdu』ではその幅がかつてなく広げられ、あてどない宇宙のインフレーションを思わせる。作風というのはいつでも固まってしまうものだろうから、変化を受け入れられるときには可能なだけ変化してしまう方がいいのだろう。そのような勢いにあふれたアルバムである。

Aru-2 - ele-king

 ビートメイカーとしてキャリアをスタートし、ビートテープのリリースやプロデューサーとして様々なアーティストへのトラックを提供する一方で、Notology という名義でヴォーカル作品も発表し、さらに昨年11月にはラッパー/ビートメイカーの NF Zessho とジョイント・アルバム『AKIRA』をリリースするなど、実に多彩な活動を繰り広げてきた Aru-2。そんな彼がビートとヴォーカルという、自らのふたつの武器を見事に駆使して作り上げたのがこのアルバム『Little Heaven』だ。

 Aru-2 の作り出すサウンドはシンセ/キーボードが軸となって空気感を作り出し、さらに下地となるビートは実に不規則なパターンを描き、彼にしか作り得ない独特なグルーヴが完成している。また全体を通して、アナログ的なザラザラした感触が保たれる中で、音数も決して多くはなく、どこか引き算の美学というのも強く感じとれる。ジャンル的にはヒップホップというフィールドにいるのは間違いないのだが、ヒップホップという音楽だけを聴いていたら決して生まれないサウンドであり、それは彼のヴォーカル・スタイルにも共通している。ヴォーカルも楽器のひとつとして、他の楽器と見事に混ざり合い、心地良く耳に響いてくる。先行リリース曲の “Sen” などはその典型とも言えるが、曲の中でシンセとヴォーカルが並列に存在し、見事なアンサンブルを奏でている。そんな中、“Hentai NIpponjin” という曲に関しては、彼の言葉が実にダイレクトに届き、少々異彩を放つ。シンセベースが実にファンキーに響くトラックに乗って「現代日本人はみんな変態」というシンプルなメッセージにニヤリとさせられながらも、どこかふっと腑に落ちるような曲でもあり、不思議な魅力に包まれている。

 本作のもうひとつの目玉は、Aru-2 とも繋がりの深いラッパーのゲスト参加だろう。乗りこなすのは決して容易ではない Aru-2 のトラックであるが、全員がそれぞれスタイルの異なるビートに自らの個性をストレートにぶつけ、曲のグルーヴ感を最大限に引き出している。完成度が高いのは曲の構成が一番作り込まれ、展開も見事な JJJ とのタイトル曲 “Little Heaven” であるが、KID FRESINO、Campanella との “Go Away”、ISSUGI との “Bye My Bad Mind” も、甲乙つけがたい強い存在感を放っており、Aru-2 のヴォーカルとのコンビネーションも実に聞き応えがある。少々贅沢な願いかもしれないが、Aru-2 のビート&ヴォーカルを駆使した上で、さらにもっといろんなラッパーとの組み合わせによる楽曲を聞いてみたい。そんなことさえ思わせてくれる、無限の可能性を感じさせるアルバムだ。

中川裕貴 - ele-king

 京都を拠点に活動するチェロ奏者・中川裕貴による新作コンサート『アウト、セーフ、フレーム』が、7月31日から8月2日にかけてロームシアター京都・サウスホールで開催される。未曾有のパンデミックを受けて、当初の予定よりも広い会場へと開催場所を変更し、感染拡大を防ぐための措置を講じたうえでコンサートの形式を拡張することに挑むという。人々が密集することによって空気の振動を分かち合うという、従来の一般的なライヴやコンサートの形式がそのままでは成立し難い状況となったいま、フィジカルな空間でイベントを開催するにあたっては、人々が接触することの問題と否応なく向き合わざるを得ない。すなわち音楽の場においてどのように「距離」を確保することができるのか。だが中川はソーシャル・ディスタンシングが叫ばれるようになる以前から、音楽に対して「距離」を取ることについて考え続けてきたという。

 昨年2月に京都芸術センターを舞台に開催された『ここでひくことについて』で、中川は「演奏行為」をテーマに、まるで奇術師のように観客の視覚と聴覚を撹乱し、あるいはパフォーマンスと演出によってコンサートという形式の制度性を明らかにし、さらには受け手の聴取体験の自由と制約を同時多発的な出来事を通じて提示した。そこでは音楽が音によって立ち現れるばかりでなく、音を取り巻く音ならざる要素によってもまた音楽と言うべき体験が成立していたのだった。それは作り手と作品と受け手のそれぞれのあいだにある「距離」を見出すことによって、通常意識されることのない音楽にまつわる関係性を再構築する試みだったと言うこともできる。それはまた、独自の演奏法を開拓することでチェロという楽器の可能性を拡張し、即興演奏家としてさまざまなセッションをこなす一方、劇団「烏丸ストロークロック」の舞台音楽にも携わってきた、演奏と演出の両分野の経験に根差した彼ならではの実践だったとも言えるだろう。

 『アウト、セーフ、フレーム』では、こうした「距離の音楽」がさまざまなレベルで展開される。たとえば「声」という人間にとって根源的に思える響きをチェロから引き出し、実際の人間による発声や聴覚研究に関するテキストと組み合わせることによって、「声」の直接的な現前性に揺さぶりをかけること。あるいは美術家の白石晃一に協力を仰いで廃物と化したチェロを自動演奏機械へと改造し、あたかも自らの分身のような楽器とのセッションを通じて、演奏家として代替不可能なはずの個性を複数化してしまうこと。さらには音響作家の荒木優光とコラボレートし、コンサートをステージから客席へと作品を届けるための一方通行的な場とするのではなく、むしろこうした関係性が宙吊りとなるような音の空間的なデザインへと向かうこと。接触の不安が社会を覆っている状況下において、こうしたさまざまな「距離」の取り方を経験することは、音楽におけるソーシャル・ディスタンシングの在り方を根本的に問い直す契機にもなるだろう。少なくともそこに、パンデミック以前から探求されてきた「距離」に対する批評的な眼差しが潜んでいることは疑いない。

今回の『アウト、セーフ、フレーム』というイベント・タイトルにはどういった意味が込められているのでしょうか?

中川裕貴(以下、中川):音の周りで「セーフ」とされることは何なのか、どこまでいったら「アウト」とされてしまうのか。そこには判断をするための枠組み=フレームの存在が浮かび上がってきます。「フレーム」という言葉は映画的な意味を念頭に置いています。僕は映画音楽に最近ハマっていて、エンニオ・モリコーネの1970~80年代のサントラをずっと聴いていたタイミングで訃報が飛び込んできて驚いたんですが……ともあれ、映画って「フレーム」を基本的な単位として構成されていますよね。これは昨年末に刊行された映画批評家の赤坂大輔さんによる著書『フレームの外へ』を読んで受けた影響もあるのですが、「見える/見えなくなる」「聴こえる/聴こえなくなる」「やって来る/去っていく」「意識の内部/意識の外部」といった、内と外を区画する枠組みとしてのさまざまな「フレーム」について表現を通して考えてみたい。なんだか高尚に聞こえるかもしれませんが、一方で「アウト、セーフ」というフレーズには野球拳を彷彿させる非常に俗っぽい響きもあって、そうした両義的な意味合いも含めてこのタイトルにしました。

さまざまな「フレーム」を設定することによって、枠組みの内(セーフ)と外(アウト)を提示することが、今回のイベント全体を通じたテーマということでしょうか?

中川:そうですね。それともう一つのテーマとして「再生」ということを考えています。これは「もう一度何かになろうとすること」と言い換えることもできるかもしれません。たとえば今回は壊れたチェロを改造して自動演奏させる予定です。そのチェロは僕が以前使用していたものなんですが、もと通りに修復するのではなく、何か別のやり方で再び機能を取り戻すというか、楽器に外科手術を施すことで以前とは別の状態で演奏の場に呼び戻す。それを受けて僕自身の演奏行為もまた変容して別の何かになっていく……ということを考えています。他にも俳優によるいびつな日本語の再生とその反転、チェロの演奏音が人間の声になろうとする、あるいは演奏という行為が音楽と呼ばれるものになろうとする、といったことにも「再び何かになる」というテーマが関わっていますし、ある楽曲がコンテクストを外れて意図せざる受け手に届いてしまうということも、その誤配のうちに「再生」の瞬間が訪れると言えるはずです。そうしたテーマに関わる表現に取り組もうと思っています。そしてそのすべてにおいて「音像」をいかに構築するか、ということが重要な課題としてあるなと思っています。

「音像」を構築するというのは、具体的にはどういうことでしょうか?

中川:今回は音響作家の荒木優光さんとコラボレートして、ロームシアター京都のサウスホールというコンサートホール然とした会場で、通常のコンサート形式のイベントをおこなうと同時に、いかにそこから遠いものを「音像」によって生み出すことができるかを考えています。より具体的には「サウスホールそのものを再生する」ということをテーマに、無観客の状態であらかじめ会場を複数のマイクで空間ごと録音し、それを上演時に再生すること(つまり二重のサウスホールの音場が現れる)や、通路を移動する巨大なスピーカーの存在など、お客さんの視聴環境を踏まえたサウンドデザインを検討しています。ただ単に変な方向から音が出てくるとか、一般的な意味でのサラウンドとは異なるかたちで、音を空間内でどう配置/構成していくのかを考えています。通常のコンサート形式にこれらの「音像」が多層的に重なって進んでいくことが、今回の公演の大きな特徴になると思います。

チェロの自動演奏楽器は、中川さんご自身が改造を手がけているのでしょうか?

中川:いや、技術的な部分は美術家の白石晃一さんに協力していただきました。白石さんとはもともと2017年に美術家の故・國府理さんの『水中エンジン』の再制作プロジェクトではじめてお会いしたんですが、昨年12月にYCAM(山口情報芸術センター)で開催されたミュージシャンの日野浩志郎さんによる『GEIST』という公演に参加したときに久しぶりに再会して。そのときに白石さんが日野さんの自動演奏装置を制作していたんですね。それで「これはすごい!」と思って、今回のイベントでコラボレーションできないか打診したら引き受けていただけたんです。壊れたチェロにさまざまな部品を装着して、プログラムを走らせて何らかのトリガーで自動演奏されるというものになっているんですが、僕の演奏方法と似たようなことができるように白石さんが調整しているので、僕としては自分自身と対話するというような感触があります。

それはまるで自分の「亡霊」とセッションするような感じで面白そうですね。

中川:そうですね。ただ、やっぱり自動演奏楽器が観れるとか、特殊なサウンドデザインのスペクタクルがあるとか、そういったこと自体は僕にとっては表現の本質ではないんですよね。キャッチコピーとしてそうしたポイントを強調した方が人目を引くかもしれないんですけど、自動演奏楽器もサウンドデザインもあくまでも手段であって目的ではないんです。それらを方法として用いたことで結果的に生まれる作品こそが重要なものだと思っていて。こういうことを言うとわかりにくいと感じる方もいらっしゃるかもしれないんですが、別に難解なことをしようとしているわけでもないんです。むしろ誰にでも開かれた作品であるとも思っていて。いまは移動すること自体にどうしても感染のリスクが発生してしまうので余計に難しいのですが、会場に足を運んで時間をともにしてもらえれば、たとえ実験音楽や前衛音楽の文脈をまったく知らなくても何かしら呼応していただける部分があるのではないかなと思います。

(取材・文:細田成嗣)

インタヴュー記事全文はこちら(https://note.com/hosodanarushi/n/na66da38dd44a

公演情報

ロームシアター京都×京都芸術センター U35創造支援プログラム”KIPPU”
中川 裕貴「アウト、セーフ、フレーム」
日時:2020年7月31日(金)~ 8月2日(日)
会場:ロームシアター京都 サウスホール
https://rohmtheatrekyoto.jp/event/59027/

出演・スタッフ
作曲/演奏/演出:中川裕貴
出演:中川裕貴、菊池有里子、横山祥子、出村弘美、穐月萌、武内もも(劇団速度)
サウンドデザイン:荒木優光
舞台監督:北方こだち
照明:十河陽平(RYU)
音響:甲田徹
技術協力:白石晃一
宣伝美術:古谷野慶輔
制作:富田明日香、阪本麻紀

チケット料金
一般 3,000円
ユース(25歳以下)2,000円
高校生以下1,000円
12歳以下 無料(要予約)
※ユース、高校生以下は入場時証明書提示
★リピート割
2回目以降のご鑑賞は、各種料金の半額にてご覧いただけます。
※当日受付にてチケット半券をご提示ください。
※以下の予約フォームより各回の前日までご予約も可能です。
※チケット完売の回につきましては、ご利用できませんのであらかじめご了承ください。
https://www.quartet-online.net/ticket/out_safe_frame

interview with Bing & Ruth - ele-king


 00年代後半~10年代のいわゆるモダン・クラシカルの勃興は、マックス・リヒターやニルス・フラームといった才能を第一線へと押し上げることになったが、NYのピアニスト、デヴィッド・ムーアもまたその流れに連なる音楽家である。彼を中心とした不定形ユニットのビング・アンド・ルースは、ライヒなどのミニマル・ミュージックやアンビエントのエキスを独自に吸収し、〈RVNG〉からの前々作『Tomorrow Was the Golden Age』(14)や〈4AD〉移籍作となった前作『No Home Of The Mind』(17)で高い評価を獲得、モダン・クラシカルの枠を越えその存在が知られるようになる(ムーアはその間、イーノが絶賛していたポート・セイント・ウィロウのアルバムにも参加している)。


 お得意のミニマリズムは3年ぶりのアルバム『Species』でも相変わらず健在ではあるものの、その最大の特徴はやはり、全面的に使用されているコンボ・オルガンだろう。つつましくもきらびやかなその音色はどこか教会的なムードを醸し出し、楽曲たちは反復と変化の過程のなかである種の祈りに似た様相を呈していく。ムーア本人は新作について「ゴスペルのアルバム」であり、「神の存在を感じる」とまで語っているが、とはいえけっして宗教色が濃厚なわけではなく、それこそ瓶に挿された一輪の花のごとく、ちょこっと部屋の彩りを変えるような、カジュアルな側面も持ち合わせている。大音量で再生して教会にいる気分を味わってみるもよし、かすかな音量で家事のBGMにするもよし、いろんな楽しみ方のできる、まさに「家聴き」にぴったりのアルバムだ。

 新作での変化や制作のこだわりについて、中心人物のデヴィッド・ムーアに話をうかがった。




ライヒが大好きだし、ドビュッシーも大好き。彼らの音楽が影響を与えたことは間違いない。でもそれらの影響はすべてひとつのシチューになったんだよ(笑)。スプーンですくってみるまでなにができてるかはわからない。


あなたの音楽は「モダン・クラシカル」に分類されることが多いと思いますが、音楽大学などでクラシカル音楽の専門教育は受けていたのでしょうか? 独学?


デヴィッド・ムーア(David Moore、以下DM):ぼくはクラシカル音楽の専門教育を受けて、その後、ジャズと即興の専門教育を受けて、音楽学校にも通っていたよ。

「モダン・クラシカル」や「ネオ・クラシカル」ということばが定着してからだいぶ経ちますが(日本では「ポスト・クラシカル」という言い方もあります)、それらは矛盾をはらんだことばでもあります。自身の作品がそのようなことばで括られることについてはどう思いますか?

DM:うーん、あまり好きではないね。じぶんの作品をことばで括られるのは誰も好まないと思うな。それでわかりやすくなるのなら、ぼくは気にしないけど、ぼくはじぶんがつくっている音楽をある特定の種類の音楽として認識していないからね。あるカテゴリーに入れるとしたら実験音楽だと思うけど、そのことばさえぼくはあまり好きじゃない。じぶんの音楽をカテゴライズしたり、他人にじぶんの音楽をカテゴライズされるようになると、型にはめられた感じがしていろいろと複雑になってしまうから、ぼくはしないようにしている。

前作『No Home Of The Mind』で〈RVNG〉から〈4AD〉へ移籍しましたね。それまで〈4AD〉にはどんな印象を抱いていました?

DM:アーティストなら誰でも所属したいと思う、夢のようなレーベルだよ。ぼくにとっても夢だった。〈4AD〉が過去30年から40年にかけてリリースしてきた作品を見れば一目瞭然だ。〈4AD〉がリリースしてきた一連のアーティストや作品を見ても、ほかに拮抗できるレーベルは思いつかない。〈4AD〉は奇妙な音楽をリリースすることに恐れを感じていなくて、その音楽が結果的に大成功したりするし、まあまあ成功したり、成功しなかったりする。でもそれをリリースしたという事実が大事なんだ。ビッグなアーティストの音楽もリリースしていて、そういうグライムスザ・ナショナルディアハンターといったアーティストたちも非常に興味深くてユニークなアーティストたちだ。〈4AD〉にはそういう特徴が一貫として感じられる。

自身の作品が〈4AD〉から出ることについてはどう思いますか?

DM:とても光栄だよ。そして向上心を掻き立てられる。じぶんを限界まで追い詰めてつくったものでないとダメなんだという気持ちになる。ぼくは彼らと仕事をしていて、彼らはぼくと仕事をしている。そこには共通の想いがあって、ある方向性に感銘を受けているからだ。方向性とは先に進んでいるものであり、停滞はできないものなんだ。ぼくは〈4AD〉のスタート地点と〈4AD〉が向かっている方向が好きだし、〈4AD〉はぼくのスタート地点とぼくが向かっている方向が好きだと思うからそこに共感がある。

前作『No Home Of The Mind』は高い評価を得ましたが、それによって状況に変化はありましたか?

DM:変わらなかったね(笑)。ぼくの人生は、時間が経つにつれて変化するという理由から変化したし、新しいものをつくったという理由から変化したけれど、生活の質にかんしてはそんなに大きな変化はなかった。でもぼくは意識的にそういう影響されるようなものからじぶんを隔離しているんだよ。レヴューはあまり読まないし、SNSの投稿も読まないし、コメントも見ない。じぶんの音楽に対する反応にはなるべく関わらないようにしている。ぼくの役割は音楽をつくることで、その音楽をつくり終えたら、次につくる音楽のことを考えたい。ぼくがつくり終えたものに対してのほかのひとの考えは気にしていない。

ミニマル・ミュージックの手法を追求するのはなぜでしょう? それはあなたにとってどのように特別なのでしょうか?

DM:ミニマル・ミュージックというものがなんなのか、ぼくにはもうわからなくなってしまった。人びとが従来ミニマリストの音楽として定義してきたものに、じぶんの音楽が入っているとは思わない。これはまたジャンルについての話になってしまうけれど、ぼくはジャンルについては詳しく話せないんだよ。じぶんの音楽が、ある特定のジャンルや派に属しているとは思っていないからね。誰かのサークルに入りたいと思っているわけでもない。ぼくはじぶんがつくりたいと思う音楽やじぶんが聴きたいと思う音楽をつくろうとしているだけなんだ。それをなんと呼びたいのかはほかのひとに任せるよ(笑)。

あなたにとって、もっとも偉大なミニマル・ミュージックの音楽家は?

DM:偉大ということばを可能な限り定量化するとすれば、やはりジョン・ケージだろうね。


不思議な感覚だったよ。周辺で見る車は、ぼくが生涯をかけて働いても買えないようなものばかりだったし。とても不思議で非現実的な環境だった。そこでぼくは美しいほどの孤独を感じたんだ。とても美しい孤独だった。


あなたの作品はミニマル・ミュージックであると同時に、どこか印象派を思わせるところもあります。具体的なものや人間の感情、社会などよりも、漠然とした風景や雰囲気を喚起することを意識していますか?

DM:伝えておきたいたいせつなことがあって、それは、ぼくはじぶんのやっていることや、その理由について、ぼくはあまり深く考えていないということ。じぶんのやっていることについて考えれば考えるほど、その動機を疑ってしまって良くない方向に行ってしまうこともある。だからぼくは、「この要素を入れて、印象派の要素を入れて、ミニマルの要素を入れて、スティーヴ・ライヒの要素を入れて、ドビュッシーのパーツを入れて……」というようなアプローチはしていない。ぼくはスティーヴ・ライヒが大好きだし、若いころは彼の音楽をよく聴いていた。ドビュッシーも大好きでいまでもいつも聴いている。彼らの音楽がぼくの作曲の仕方に影響を与えたことは間違いない。でもそれらの影響はすべてひとつのシチューになったんだよ(笑)。スプーンですくってみるまでなにができてるかはわからない。とにかく、じぶんのやっていることにそこまで深く考えていないんだ。ほかのひとがそう思ってくれるのは嬉しいけれど、実際はずっと単純なことなんだ。

「家具の音楽」や「アンビエント」のアイディアについてはどう思いますか? あなたの音楽は、しっかりと聴き込まれることが前提でしょうか?

DM:アンビエントの音楽のなかには好きなものもあるよ。じぶんの音楽の機能というものについて考えるのはとてもたいせつなことだと思っている。それは作曲の過程というよりも、録音とミキシングの過程でとくに表現されるものだ。音が部屋に色彩を加えたり、アルバムをかけることで、その部屋の雰囲気が変わったりするのは素敵なことだと思う。ぼく自身、アルバムをわずかな音量でかけて流すという音楽の使い方も楽しんでいる。作曲しているときや、録音とミキシングをしているときにぼくが意識していることは、ヘッドフォンで音を大音量にしてかけても、音量を絞ってべつのことをしながら──たとえば、朝食をつくりながら──聴いていても効果的だと感じられる音にしようとすることなんだ。アーティストなら、リスナーはじぶんの音楽を聴くときはそれ以外のことをしないで、じぶんのアートをフルに体験するべきだと言いたくなるかもしれないけれど、人びとには毎日の生活があるしそうはいかない。だから音楽の形式として、ぼくはさまざまな機能的シナリオを持つアルバムをつくるのは好きだと言えるね。 

これまではピアノが主役でしたが、今回(ファルフィッサの)コンボ・オルガンにフォーカスしたのはなぜ?

DM:コンボ・オルガンにフォーカスしたのは、べつにこれをやろうとじぶんで決断したことではないんだ。ぼくはずっとファルフィッサ・オルガンを弾いていて、次第にオルガンを弾く時間のほうがピアノを弾く時間より多くなっていった。そしてついにはピアノをいっさい弾かなくなり、オルガンしか弾かないようになっていた。振り返って考えてみると、オルガンには持続音があり、ピアノにはそれがないとか、オルガンは音量が一定でピアノはそうでないとか、オルガンはライヴに持ち運ぶことができるけどピアノはできない、など、思いつく理由は芸術面でも実用面でもあるけれど、先にじぶんが決断したことではなくて、自然な流れでそうなった。じぶんが明確に求めていたものにフィットしたのがファルフィッサ・オルガンだったということなんだ。

今回コンボ・オルガンを使用するにあたって苦労したこと、または気をつけたことはなんでしょう?

DM:このオルガンはとても壊れやすくてね。いま、ぼくは2台所有しているけれど、どちらも50年以上前のものだ。初めてのファルフィッサを買ったとき、それはまったく使えないものだった。まったく音が出なかったんだよ(笑)。だからつねにショップに持っていって、直してもらったり、じぶんでも直し方を習ったりするんだけど、はんだのやり方もろくにできないぼくがオルガンを直すなんて、とうてい無理な話なんだ(笑)。だからツアーのときに、もしオルガンが壊れたらどうしようかと悩んでいたんだ。そうしたらコロナが広まって結局ツアーもすべて中止になってしまった。だからまだ解決していない問題なんだよ。

NYからカリフォルニアのポイント・デュムに一時的に移住したそうですね。街や環境には、どのようなちがいがありましたか? 土地柄は、制作する音楽に影響を与えると思いますか?

DM:ぼくはニューヨーク・シティからしばらく離れる必要性を感じていた。以前にもカリフォルニア南部には行ったことがあって、楽しい時間を過ごせたから良い場所だと思っていた。ロサンゼルスだと友だちがたくさんいるから、簡単に気が紛れてしまう。マリブのポイント・デュムで家を貸している友人がいて、マリブは超高級住宅地なんだが、家の借り手がつかずに、その家は解体される予定だったんだけど、それが延期になっていた。そんな理由からぼくたちが家を借りられることになった。すばらしかったよ。ビーチに近くて、天気もちょうど良くて、ぼくはそこでランニングに本格的にはまった。近所にはマシュー・マコノヒーやボブ・ディランが住んでいて、まったく不思議な感覚だったよ。その周辺で見る車は、ぼくが生涯をかけて働いても買えないようなものばかりだったし。とても不思議で非現実的な環境だった。そこでぼくは美しいほどの孤独を感じたんだ。とても美しい孤独だった。それはたしかにぼくの作曲に影響を与えた。孤独とはネガティヴな意味合いがあるけれど、ぼくの場合はちがった。一緒に家を借りた友人たちは母屋に住んでいて、ぼくは小さなバンガローのほうに住んでいて、彼らは不在のときも多かった。近隣の住民は誰も知らなかったし、みんなぼくとはちがう税率区分のひとたちだった。だからとてもひとりぼっちな感じがして、じぶんの想いをすべて音楽に注入することができた。

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新作は、テキサスの砂漠と農園のすぐそばのスタジオでレコーディングされたのですよね。ほとんどひとがいなそうですが、そのスタジオを選んだ理由は?

DM:このスタジオを選んだ理由はいくつかあって、ひとつ目はとても実用的な理由で、予算内でスタジオが使えて、食事の施設もあって、スタジオに24時間アクセス可能だったという点。それはとてもたいせつな点だった。予算内で好きなときにスタジオが使えて、ぼくたちが宿泊できる施設があり、食事もできて、そういう心配をする必要がなく音楽に集中することができた。そして、実際にスタジオに行ったときに思ったのは、ぼくがいままで訪れたなかでもっとも魅惑的な場所のひとつだったということ。このアルバムがこういうサウンドになったのはこのスタジオの影響だ。ぼくたちの作業に多くのインスピレイションを与えてくれる場所だった。ぼくたちはスタジオに1週間滞在していたけれど、また機会があったらぜひそこでレコーディングしたいと思う。

曲名に意味は込められているのでしょうか? “I Had No Dream” や “Blood Harmony” などは深読みしたくなる題です。

DM:意味は込められているよ。それが狙いだからね。でもぼくはできるだけ物事の意味合いを、受けとる側の解釈に任せられるだけの余裕を与えたいと思っている。ぼくがタイトルを決めるときは、そのフレーズの響きが好きだったり、そのフレーズから連想するものが好きだったり、じぶんのマインドがそのフレーズから曲に繋がっていく過程が好きだったりという理由から決めている。“I Had No Dream” という曲はべつに、「夢がなかった」という意味ではなくて(笑)、聴き手が曲に入るための手助けをしているフレーズに過ぎない。曲に入る手助けはしているけれど、どこに入れという指示まではしていない。それが良いタイトルだとぼくは思っている。良いタイトルは、リスナーを引き込むけれど、そのときにリスナーがどの状態から入ってくるのかは問わない。リスナーを決まった扉に連れていくのではなく、その扉は各リスナーにあって、扉の入り方もリスナーの自由だ。


このアルバムはゴスペルのアルバムなんだ。ぼくにとってこのアルバムは神の存在を感じるということだった。ぼくは教会にも行かないし、聖書も読まないから、べつに信仰が厚いわけではないんだ。そういう意味での神ではなくて、各自にとっての神という意味でその存在を感じたということ。


アルバムのタイトルは『Species(種)』ですが、全体のテーマがあるとすれば、それはどのようなものなのでしょう?

DM:はじめに言っておきたいのは、アルバムがどういう意味だとか、どういうものであるべき、という話はあまりしたくないんだ。なぜなら、結局のところ、それはリスナーそれぞれによってちがうから。歌詞があるアルバムで特定のことについて歌っているのであれば、「これはぼくが大好きだった靴をなくしたときの話だ」などと答えられるかもしれないけれど(笑)、インストゥルメンタルの音楽ではそうはいかない。でも個人的な意見から言うと、このアルバムはゴスペルのアルバムなんだ。ぼくにとってこのアルバムは神の存在を感じるということだった。ぼくは教会にも行かないし、聖書も読まないから、べつに信仰が厚いわけではないんだ。そういう意味での神ではなくて、各自にとっての神という意味でその存在を感じたということ。それは個人的で深い体験だった。ぼくはそれまで何年もその存在に気づかないで生きてきたから。このアルバムによって、ぼくは神の存在に近づけたし、アルバムを制作する過程はぼくにとって非常にパワフルな過程だった。だからぼくにとってこれはゴズペルのアルバムなんだ。でもほかのひとにとっては、ディナーをつくっているときにかけるきれいな音楽かもしれない。それはなんでもいいんだ。そのひとの解釈がなんであれ、それはすばらしい。

NYには坂本龍一がいます。以前、彼がレストランのために編んだプレイリストにあなたの曲が選ばれていましたが、彼と会ったことはありますか?

DM:会ったことはないけど、ぜひ会ってみたいと思う。

ここ数年のアーティストで、共感できる音楽家は誰ですか?

DM:最初に思い浮かんだのは、スタージル・シンプソンだね。日本で有名かどうかは知らないけれど、彼はとてもすばらしいミュージシャンだよ。彼がリリースした作品も好きだけれど、ぼくがとくに好きなのは彼の観点や視点、それから歌詞の書き方やインタヴューの答え方なんだ。とても強い存在感のあるひとで、親和性を感じる。彼のほうがぼくよりも有名だし、状況はちがうけれど、彼が話すのを聞くと、彼のことを知っているような気になるんだ(笑)。音楽業界という世界に身を置きながらも、なんとか本来のじぶんというものを保とうとしている。彼のそういうところはぼくにとって大きなインスピレイションとなってきた。音楽的には彼の音楽とぼくの音楽はまったくちがうものだけれど、哲学や理念にかんしてはとても共感できるひとだと思う。それからフィオナ・アップルの新しいアルバムにもいますごくはまっている。最近出たアルバムでよく聴いているよ。あとは数週間前だったかな──もう時間の感覚がわからなくなってしまった──に出たラン・ザ・ジュエルズのアルバムもよく聴いている。新しい音楽もけっこう聴いているよ。

世界じゅうが新型コロナウイルスによりたいへんなことになりました。しばらくライヴはできず、音楽は家で聴くことが主流になりそうですが、本作は家で聴くのにも適した作品だと思います。どういったシチュエーションで聴いてほしいですか? あるいは、本作のどんな部分に注目して聴いてほしいですか?

DM:なるべく1秒くらいは注目しないで聴いてみるのが良いと思う(笑)。さっきも話したけれど、それはリスナーが好きな方法で聴いてくれたら良いと思う。ぼくが個人的に好きな聴き方は、リラックスした状態でヘッドフォンで大音量でかけるという聴き方や、公園を散歩しているときにヘッドフォンで聴いたり、低音量でリピートで家のなかでかけるという聴き方など。リスナーが引き込まれる瞬間があるなら、それが良い聴き方なんだと思う。このアルバムにはいろんな聴き方があるけれど、最終的にそれを決めるのはリスナー各自だ。

ライヴが可能になるのが1年後か2年後かはまだわからない状況ですが、パンデミックが収束し、外でプレイできるようになったとき、まずどのようなライヴをしてみたいですか?

DM:日本でライヴをしたいね(笑)。ぼくは日本に行ったことがないんだけど、日本でライヴをやった友人たちの多くが日本の観客のすばらしさや日本人のホスピタリティの高さをいつもぼくに伝えてくれる。だから日本にすごく行ってみたいんだ。日本に行ってライヴをやったり、取材の質問に答えたりして、ぼくの音楽を広めてくれるひとたちの手助けをしたい。どんな環境でライヴをやりたいかというと、大音量であることはたしかだ。今後、どのような形でライヴをするのが可能になっていくかはわからないけれど、ぼくのライヴは暗くて大音量のなか、強烈な体験にしたいと思っている。そしてそのあいだや、その上やその下にあるすべての要素、いろいろなものが含まれているライヴにしたいと思っているけど、まだ先のことは誰にもわからない。もう誰もなにもわからない! ぼくはもう二度とライヴができないかもしれない。いまはとても困惑した状況だからね。

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オフノオト
〈オンライン〉が増え、コロナ禍がその追い風となった今。人や物、電波などから距離を置いた〈オフ〉の環境で音を楽しむという価値を改めて考えるBeatinkの企画〈オフノオト〉がスタート。
写真家・津田直の写真や音楽ライター、識者による案内を交え、アンビエント、ニューエイジ、ポスト・クラシカル、ホーム・リスニング向けの新譜や旧譜をご紹介。
フリー冊子は全国のCD/レコード・ショップなどにて配布中。
原 摩利彦、agraph(牛尾憲輔)による選曲プレイリストも公開。
特設サイト:https://www.beatink.com/user_data/offnooto.php

interview with Laraaji - ele-king


Laraaji
Sun Piano

All Saints/ビート

Ambient

beatink

 一昨年の圧倒的な来日公演も記憶に新しいララージ。エレクトリック・ツィターを駆使した幻惑的なサウンドは近年のニュー・エイジ・リヴァイヴァルにも大きな影響を与えてきたわけだが、今回の新作ではなんとツィターは一切使われていない。『Sun Piano』なるタイトルどおり、生ピアノだけを演奏した作品なのだ。でも、心配ご無用。天上から降り注ぐ光のようなイメージはそのままに、あのララージ的世界をさらに拡張したものになっている。ここでは、新作の内容のみでなく、ピアノとツィター、ピアノと自身の関係についても詳しく語ってもらった。

ピアノというのは、非常に肉体的な打楽器だ。肉体的に、リズミカルに自己表現する楽器。ハーモニーと音色で表現する楽器。さまざまな楽器のなかでも、触れ合うのが純粋に楽しいと思う楽器なんだ。

元々ピアノを勉強していたあなたが、今回ソロ・ピアノのアルバム『Sun Piano』を発表したのはとても納得のいくことですが、同時に、これだけピアノ演奏が達者なあなたが、なぜこれまで一度もピアノ作品を作らなかったのか、改めて不思議に感じました。まずは、このアルバム制作の背景、経緯を教えてください。

ララージ:ピアノは私の人生のなかで、重要な位置を占めている楽器だからね。人生の薬のようなものさ。ピアノは常に私の表現の軸にある楽器だが、これまで私は主にエレクトリック・サウンドの実験を進めてきた。そんななかで、近年のアルバムのレコーディングを見てきていたプロデューサーのマシュー・ジョーンズ(Matthew Jones)に言われたんだ。「そろそろピアノでソロ・アルバムを作る頃だろう」って。それが、この新作を作ることにした理由さ。自分のなかで、その助言がとてもしっくりときた。ピアノはずっと好きだったから、時が来たんだね。私の中で、このタイミングでピアノ・アルバムを作るというのはとても自然なことだったんだ。これまでほとんど弾いたことのなかったグランドピアノを使ったりもして、そういう部分でも純粋に楽しかった。ピアノの前に座って、弾くことを素直に楽しむ時間が幸せだったよ。作業にとりかかり始めたのは2018年の頭で、その年の12月に録音を開始した。

ピアノだけのアルバム制作に際し、なにか戸惑ったり難しかったことはありますか。

ララージ:ピアノだからといって、難しいということはなかったよ。だた、物理的な面で大変だったことがひとつあって……レコーディング途中で、エンジニアのジェフ・ジーグラー(Jeff Zeigler)が拠点を移したんだ。スタジオを引っ越したのさ。それで、ミキシングが途中で止まるなど、作業が遅々と滞ってしまったのが大変だったね。あとは、コロナ・ウイルスの関係でスケジュールの変更もいろいろとあったし。それ以外にはとくに問題はなかった。

カート・ヴァイルやメアリー・ラティモアなどとの仕事で知られるジェフ・ジーグラーが録音/ミキシング・エンジニアを担当した経緯は? また、録音に際し、ジェフとはどのような対話がありましたか。

ララージ:ジェフとは、ダラス・アシッド(Dallas Acid)とのコラボレーションの際に知り合った。ニューヨークのブルックリンでね。2年前にLaraaji/Arji Oceananda/Dallas Acid 名義のコラボ・アルバム『Arrive Without Leaving』を出した時のことだ。ジェフ・ジーグラーとダラス・アシッドと私を繋げてくれたのは、『Arrive Without Leaving』でエグゼクティヴ・プロデューサーを務めたクリント・ニューサム(Clint Newsome)だ。私とジーグラーは初対面の日から2日間、一緒にスタジオで過ごした。彼は今、私のライヴの際にもシステム・エンジニアを務めてくれている。サウンドのクオリティにこだわる人で、仕事をする上でとても頼もしいよ。レコーディング中に彼と話したことは…そうだな……「どうしたら椅子がきしむ音を消せるか」ということと、「今日のランチはどこにするか」ということぐらいかな(笑)。真面目な話、私たちは、感情の面で偏りが出ないようには気をつけていた。穏やかな面と、攻撃的な面とのバランスをちゃんと持っている作品にしたかったんだ。

自宅ではこれまでもずっとピアノを弾いてきたのですか。

ララージ:毎日弾くよ。夜はいつもイヤホンを付けて弾いている。ピアノというのは、非常に肉体的な打楽器だ。肉体的に、リズミカルに自己表現する楽器。ハーモニーと音色で表現する楽器。さまざまな楽器のなかでも、触れ合うのが純粋に楽しいと思う楽器なんだ。音程もたくさんあって、強弱も幅広くつけられるから。

若い頃は、大学でクラシック・ピアノを学びつつ、趣味でジャズ・ピアノを弾いていたと一昨年の日本での取材時に言ってましたが、いま自宅で好んで弾くのはたとえばどういう音楽ですか。

ララージ:自宅では、即興演奏しかやらないんだよ。だから、いつも新しい曲を弾いているんだ。ジャズのような、エネルギッシュなものをフリー・フォームで弾いたりはするが、楽譜を見てクラシックの曲を弾いたりは、もうしないね。即興が楽しすぎて、それどころではないから(笑)。

伝承曲“シェナンドー(Shenandoah)"以外の『Sun Piano』収録曲もすべて即興なんですか。

ララージ:うん、すべて即興だよ。楽譜は書かない。まずはテーマとなるハーモニーを見つける。そしてそのテーマに従って、肉付けの部分の作曲を即興で進めていくんだ。

作品全体がイノセンスな輝きに満ちていますが、本作を作る際、あなたの頭のなかにはどのようなイメージ(情景)がありましたか。

ララージ:ある時は、深呼吸を頭のなかで想像する。そうすると穏やかな、リラックスできる曲になる。ある時は、楽しく踊る脚を想像する。そうすると踊り出したくなるような曲になる。そしてある時は、雲の上の高いところでダンスをする、天使や妖精みたいな、想像上の生き物を想像する。それが、君が言ったような「イノセンスな輝き」につながっているのかもしれないね。

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太陽は、自然界のなかでも私がとくに好きな存在だ。自らのエネルギーを放出して、世界を明るく照らす。私はそんな太陽からインスピレーションをもらって、自分の芸術を表現している。活気とエネルギーがあって、光を分け与えられるようなものとしてね。このアルバムを『Sun Piano』というタイトルにしたのも、それが理由だ。


Laraaji
Sun Piano

All Saints/ビート

Ambient

beatink

伝承曲“シェナンドー"には何か特別な思い入れや想い出があるのでしょうか。

ララージ:これはアメリカン・フォークのなかでもとくにお気に入りの曲なんだ。そこから着想を得てグランドピアノで即興をするのも面白いかなと思ってね。実は、これまでも長いこと“シェナンドー"をベースにしていろいろと即興をしていたんだよ。それをたまたまこの新作に入れてみようかなという気になってね。今回は大きな教会のグランドピアノで演奏したから、反響で自分らしい音が聴こえるんだ。そういう、自己満足のようなものだね。一度やってみたかったっていう。大学で合唱の時にこの曲を歌ったり、アメリカに実際にあるシェナンドーという場所に行ったことがあったりと、いろんな思い出のある曲なんだよ。

長年ツィターを演奏してきたことは今作でのピアノ演奏にも何らかの影響を与えているはずだと思いますが、もしそうだとしたら、具体的にはどのような影響でしょうか。

ララージ:私がツィターを使いはじめたのは1974年だ。ツィターはむきだしのミニチュア・ピアノのようなものだが、ピアノではできないことができる。ハンマーを使って演奏することもできるし、ピアノよりもメロディーの幅が広がるんだ。だから、ツィターでの実験を通して発見したことを逆にピアノでできないかなと模索することなんかがあるし、そこからさらに新たな発見に出会うこともある。私がツィターと初めて出会ったのは、当時お金が必要で、ギターを売ろうと思って訪れた楽器の質屋だった。ブルックリンのね。でもお金に替えるかわりに、そこにあったツィターと交換してしまった。神に導かれるようだった。そんな出会からこの楽器をいじり始め、いろいろと面白い音を見つけ、それを人前で披露できるまでになった。きっと運命だろうね。

ヨーロッパ近代社会や思想と結びついた平均律(equal temperament)ピアノの音は、雲や虹のようなあなたの世界とは相容れないのでは……などと想像しがちですが、あなたのなかでは何の違和感もありませんでしたか。

ララージ:これまでずっとツィターで音楽的な実験を続けてきて、今回はそれを活かしたいと思ったんだ。長い間使ってきたツィターだから、これまでの経験を活かしてあげないとと思ってね。私にとっては、まずはそこが重要だった。ただ、今回のアルバムのようにピアノを使
うとなった時に、例えばピアノを違う周波数に調律して弾くのは違和感があるよね。たとえば純正律とか。そもそもピアノとツィターでは奏でられる旋律にも違いがあるし。純正な音程ではない平均律は、音色としてはいわゆる不協和音をはらんでいるが、一方でそれは、他楽器との調和に役立つ。つまりここでは、ツィターで培ってきた旋律の構成手法を活かすための平均律なんだ。

本作は3部作の第1弾であり、次作は『Moon Piano』だとすでにアナウンスされています。『Sun Piano』と『Moon Piano』の違いや関係について説明してください。

ララージ:『Sun Piano』は明るく、楽しく、燦然と輝く、アグレッシヴなリズムを奏でるアルバムだ。これから出る他の2枚に比べ、オープンなんだ。『Moon Piano』はより女性的で、柔らかく、内省的で、そして静か。この2作品に関しては、同じ即興セッションのなかから生まれた。使ったピアノも同じだが、感情の世界の別の面が表現されている。穏やかな面と、攻撃的な面とね。そして3枚目は『Through Illumines Eyes』というタイトルだ。そのアルバムでは、エレクトリック・ツィターとピアノを同時に演奏している。感情の面では、とても明るく、燦々と輝いており、まぶしいくらいだ。イメージとしては、グランドピアノとエレクトリック・ツィターの間だね。ピアノとツィターを、自分で同時に演奏しているから。私はピアノを両手で弾きながら、途中からピアノを伴奏にして右手でツィターを弾くこともできるし、ツィターのループをかけながらピアノを重ね
ることもできる。ドラマーみたいな感じだね。

あなたは常に時代の空気を意識してきたと以前語ってくれましたが、今回のソロ・ピアノ作品はいまの時代とどのように共振すると考えていますか。

ララージ:太陽は、自然界のなかでも私がとくに好きな存在だ。自らのエネルギーを放出して、世界を明るく照らす。私はそんな太陽からインスピレーションをもらって、自分の芸術を表現している。活気とエネルギーがあって、光を分け与えられるようなものとしてね。このアルバムを『Sun Piano』というタイトルにしたのも、それが理由だ。音楽を聴くことで、聴き手はそこに平穏を見つけられると思う。落ち着くことができる。それは、静かな曲だけではなくて、元気な曲にも言えることだと思っているんだ。いまの世のなかで起こっていることを考えて、不安で気持ちがざわざわしている時にでも、音楽を聴けば自分のなかにバランスを見つけることができる。今回の3部作を聴くことで、一旦落ち着いて、リラックスし、状況を客観的に観察し、そしてもう一度平穏を取り戻せるような感情の世界に自分を導いてくれれたらと思っている。

このアルバム制作を通し、ピアノという楽器に関して新たに発見したこと、気づいたことはありましたか。

ララージ:今回は教会で演奏したんだが、音の反響があるから、これまで聴こえていなかった音が聴こえた。ピアノの音の奥深さと、ハーモニーの広がりを感じたよ。グランドピアノ自身が奏でる豊かな音色が聴こえてきた。それから、ピアノの椅子が鳴らすキーキーという音にもリスペクトを払うようにしようと気づけた(笑)。ピアノに没頭しているときに鳴る音だからね。ジェフ・ジーグラーとのレコーディングがあったからこそ、これまで気づいていなかったピアノの音を発見できたというのもあるね。

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Cafe OTO - ele-king

 ロンドンにおけるエクスペリメンタル・ミュージックの最重要拠点として、海外でも多くのファンを持つ〈Cafe OTO〉。最近のele-kingでは、高橋勇人によるムーア・マザーのライヴ・レポートでも触れられているが、〈Cafe OTO〉は、フリージャズ世代のアンソニー・ブラクストン、気鋭のテクノ・アーティストのNKISI、ディス・ヒートのチャールズ・ヘイワード……(枚挙にいとまがない)など、最高に尖った連中が出演するヴェニューで、ほかにも灰野敬二、大友良英、三上寛、中村としまる、池田謙、中島理恵、食品まつり、Phew……などなどコスモポリタンかつ妥協無しの作品を出している日本人アーティストが多数出演している。

 さて、コロナによって以前のようなライヴができなくなったいま現在において、〈Cafe OTO〉は新レーベル〈TakuRoku〉をスタートさせている。(とくに即興をするアーティストにとって)ライヴの現場という発表の場を無くしたことは大きく、もちろん会場側も存続しなければならない。〈TakuRoku〉は、余儀なくステイ・ホームされたアーティストによる“宅録”作品でアーティストとCafe OTOに利益が半分ずつは入るという仕組みになっている。アーティストからの共感も呼んだのだろう、早くも36作目がリリースされている。

 以下、OTOのホームページに掲載されているラインナップです。試聴できるので、気になる作品はチェックしてみよう。
https://www.cafeoto.co.uk/shop/category/takuroku/

 このように、ヴェニューがレーベルとして出演アーティストの音源を出すことで互いの利益を生んでいくことは、アリですよね。

interview with Julianna Barwick - ele-king

 イレジスティブル・フォース『It's Tomorrow Already』(98)以来、アンビエント・ミュージックには消極的だった〈ニンジャ・チューン〉が15年のリー・バノン『Pattern Of Excel』、19年のア・ウイングド・ヴィクトリー・フォー・ザ・サレン『The Undivided Five(19)に続いてジュリアナ・バーウィックの新作を獲得した。強引にカウントするとキング・マイダス・タッチとフェネスのコラボレイション『Edition 1』(15)もアンビエントといえるので、どちらかというと〈ニンジャ・チューン〉が構想するアンビエント・ミュージックは知的なラインナップといえる。バーウィックはなかでは理論家というより感覚肌の作家に属するものの、それでもニュー・エイジには迎合しない節度を見せるタイプ。何も考えていないように思える作家なのに、どうしてテンションの低い感覚的な作品になってしまわないのか。これははなかなか不思議なことだけれど、それこそ生まれつきの感性としかいえないのかもしれない。童謡をドローン化したようなアンビエント・ポップス。ジュリアナ・バーウィックの音楽を頭でっかちに定義すると矛盾だらけの表現になってしまう。それがいい。重苦しくないブルガリアン・ヴォイス。アカデミックではないメレディス・モンク。時代に掠ってるんだか掠ってないんだかよくわからないところもいい──それだけ約束事の外に出られた気になれるから。無邪気に子ども時代を回想した『The Magic Place』(11)や宗教的なムードを抽象化した『Will』(16)など、これまではある程度まとまったテーマを設定してきた彼女が可能性の範囲を広げようといろんな方向に手を伸ばした新作が『Healing Is A Miracle』である(アニオタ訳=自然と治っちゃうなんて不・思・議)。ときにプリンスが愛したエリザベス・フレイザーの声を思わせ、シガー・ロスとも波長が重なってきたLAのジュリアナ・バーウィックに話を訊いた。

新型コロナウィルスに加えて抗議デモや暴動もあるから、延期すべきかどうすべきかというのはレーベルとも話した。でも私は、少しでも人びとが平和を感じられるようなことに、自分が何かしらの形で貢献ができるのであれば、ぜひ貢献したいと思った。

前作に比べてヴァラエティ豊かというのか、いろんなことを試した作品になったのかなと。リラックスもしたいし、緊張感も欲しいし、次はディスコもやりかねないポテンシャルを感じます。やらないと思いますけど。

ジュリアナ・バーウィック(以下、JB):ははは、可能性は無限。たしかに、ある意味、折衷的だと思う。10年とか15年くらい前に自分がつくったものに遡ったような曲もあるし、よりエレクトロニック・サウンドで、ちょっと前作『Will』の曲を彷彿させるような曲もあるし、新たな発見もあって。あとやっぱりコラボレーションによっていつもの自分の作品より多様なサウンドが生まれたというのも当然あったと思う。

なかでは“Flowers”がもっとも意外でした。具体的にどんな花をイメージしているのでしょう? 日本ではサクラという花が人気で、サクラというネーミングはツボミが「裂ける」に由来します(注・諸説あります)。“Flowers”が描写しているのは、そのような花の生命力なのでしょうか?

JB:そういうわけじゃなかったけど、でもすごく興味深い視点。教えてくれてありがとう。サクラの花の名前がツボミが裂ける様子に由来するなんてとても美しいと思う。私が音楽をつくる時は、いきなりレコーディングし始めることが多くて、頭に思い浮かんだことをそのまま歌い出す。この曲のときもそうで、♪ラーララーララー、フラーワーズ〜みたいな感じで(笑)。「Flowers」って言葉が聞こえたから、それをキープしておいて。大体そういう感じでつくってて、半分英語、半分はただの音みたいなのを思いつくままに歌うというね。

桑田佳祐方式なんですね。その人にも『アベー・ロード』(https://www.youtube.com/watch?v=R0bYVE3c1oM)(https://www.youtube.com/watch?v=8aQmql5XeqA)という政治を批判したビートルズ・パロディがあるんですけど、ちょっと前にあなたが参加したフレーミング・リップスのビートルズ・トリビュート『With A Little Help From My Fwends』(14)は企画自体に賛否両論があったなか、あなたには何をもたらしましたか?

JB:あれは、私が自分でiPhoneで録ったボイスメモを彼らに送ったもの。スマホに“She’s Leaving Home”のあのパートを吹き込んで、それをウェインにメールで送って、それを彼が曲に入れたという。そんなことは自分ではそれまで一度もやったことがなかったし、以後も一度もやってない。あのアルバムに入ってる私の声は、iPhoneのボイスメモ。それってすごくない? 正真正銘のボイスメモ、テイクは1回、以上。めちゃくちゃ面白かった。

今回のアルバムは自己回復能力をテーマにしているそうですが、それは人間の意志とは無関係に働くものですよね? 「意志(Will)」をテーマにした前作のコンセプトとは正反対になったということ?

JB:その発想、素晴らしい、思わずメモしちゃった。人間の意志とは無関係に働く自己回復能力……ってめちゃくちゃかっこいいな。しかも確かに、最初にアルバムの名前をこれにしようと思ったのも、そういうことを考えてたからで、文字通り、私たちの体が自動的にやってくれる身体的な回復って、ある意味奇跡的だと思うし、マーベル映画に出てくるような超人的な能力なんだけど、実際、私たちの体ってそういうふうに機能してて。それってすごいことじゃない? それで『Healing Is A Miracle』というタイトルを思いついて、自分でも気に入って、これに決めようとなって。でも前作への応答みたいな意図はなかったけどね。前作を『Will』というタイトルにしたのは、かなりいろんな解釈ができる言葉だったから。意志もそうだし、人の名前でもあるし。でも前作との対比をちゃんと考えたらすごく興味深いかもしれない。それ、自分で思い付きたかった(笑)。

「意志(Will)」を神の意志と取ると、同じことかもしれませんけどね。新型コロナウイルスは免疫系を破壊することが知られています。それこそ「Healing」が不可になるので、あなたの作品に対する自然界からの挑戦ですね?

JB:かもしれない。いまは奇妙な時期だし、それに怖いよね。とくにアメリカではちょっと手に負えなくなってるし、こういう時期、公演ができる保証がどこにもないなかで、新作をリリースするというのはある意味興味深いことではあると思う。新型コロナウィルスに加えて抗議デモや暴動もあるから、延期すべきかどうすべきかというのはレーベルとも話した。でも私は、少しでも人びとが平和を感じられるようなことに、自分が何かしらの形で貢献ができるのであれば、ぜひ貢献したいと思った。アルバム発売を延期して売上の可能性を最大化するとかそういうことよりもね。いま世界に必要なものを考えたら、予定通りリリースする方がいいんじゃないかと思ったのよ。

そうですね。いい判断だったと思います。ビルボードの調べでは音楽の消費量は伸びて、好きなミュージシャンの新曲を聴きたいという人が最も多かったそうですから。ちなみに〈ニンジャ・チューン〉に移籍したのはなぜですか? このところ〈ニンジャ・チューン〉はアンビエント作家を増やしているので、以前ほど不自然ではありませんが、やはり最初は違和感を感じました。

JB:3年半ほど前にレーベルからEメールが届いて「あなたのやっていることがすごく好きです。一緒にやりませんか?」と書いてあって。それで何度か実際に会って、あらゆる面ですごくいい感じだったから、契約することにしたという訳。

メリー・ラティモアはあなたよりヘヴィなところがある作風だと思います。彼女と共同作業をすることで“Oh,Memory”には少し内省的なニュアンスが加わったのでしょうか、それともこういう曲だから彼女に参加を求めたのでしょうか?

JB:とにかく彼女の声が欲しかったというのがあった。メアリーのサウンドって瞬時に彼女だと認識できるものだと思ってて。それに彼女とは親友だしね。ツアーを一緒にやったりもしてるし、何度も共演してて。ちょっと前には私が彼女の曲をリミックスしたこともあったし。とにかく自分のアルバムに参加してもらいたいとずっと思ってたから、今回、ようやく夢が叶ったという。それと今回のコラボレーターはみんなLA在住の友だちで、それも少し理由としてあった。今作のコラボレーションは、私がいるLAのコミュニティを表したものでもあるの。

シガー・ロスとの付き合いを考えると自然なのかもしれませんが、前作の“Same”や、今回、ヨンシー(Jónsi)が参加した“In Light”はあまりにシガー・ロスに引きずられてませんか? シガー・ロスもこのところアンビエント・アルバムを連発しているので、波長が合っている感じはしますけど。

JB:“Same”は別の友だちとコラボした曲だけど、でも言ってる意味はわかる(笑)。ちなみにあの曲はトムという友だちが参加してるよ(注・シンセポップのMas Ysaのこと)。ヨンシーとの曲は、間違いなく彼がつくった部分が多くて、だからすごく「ヨンシー感」があるし、当然、彼っぽいサウンドになってる。それこそ私が求めていたものだし、彼とコラボするなんて夢だったわけで。メアリーが参加した“Oh,Memory”も同じように、すごくメアリーっぽくなってるしね。単純にヨンシーと作った曲はヨンシーっぽいってことだと思う。

ノサッジ・シングの役割だけがちょっとわかりませんでした。彼が“Nod”で果たしている役割は?

JB:まず私が彼にヴォーカルを入れたものを送って、それから彼のスタジオで作業して、ノサッジことジェイソンがベースやドラムを加えていったという感じだったんだけど、出来上がったサウンドが私にはすごくノサッジ・シングっぽいと思えた。ヨンシーやメアリーの時と同じようにね。

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だいたい即興で歌いはじめることが多いから、そのときに感じていることをそのまま歌ってるし、つまりそれは純粋な感情であって、声にはそのときの感情が反映されると思う。

音楽を作りはじめる以前に自分の声を録音して聞いたことがありますか? あるとしたら、そのときはどんな感じがしましたか?

JB:子どもの頃にカセットテープ・プレーヤーを持ってたから、当時から自分の声は録音してた。歌ったり、ラジオのDJの真似をして喋ったり……3、4歳の頃だったと思うから、どう感じたかは覚えてないけど、でも、いつもそんな感じで遊んでた。

声が持っている様々なポテンシャルのなかから優しさだけを増幅させている印象があります。それは意識的ですか?

JB:それはないかな。だいたい即興で歌いはじめることが多いから、そのときに感じていることをそのまま歌ってるし、つまりそれは純粋な感情であって、声にはそのときの感情が反映されると思う。たとえば誰かの声を聞いて、さっきまで泣いていたなってことがわかったり、興奮してたら声も興奮した感じになるでしょ? 歌ってるときも同じだと思う。

声をメインにして音楽をつくるミュージシャンはオノ・ヨーコやダイアマンダ・ギャラスなどたくさんいると思うのですが、僕の知っている限り、ほとんどが女性です。なぜだと思うか、考えを聞かせてください。

JB:うーん……考えたことなかったけど、でも言ってることはわかる。ヨーコの「アイイイイー」みたいなやつでしょ。きっと男性でもやってる人はいるんだろうけどね。確かに印象としては声を楽器のように使ってるのは女性の方が多い気がするけど、でも確信はないし、私が間違ってるかもしれないし、単純に知らないだけかもしれない。

男性では最近だとアン=ジェイムス・シャトンなどは声というより「言葉」に比重を置いているという印象が強いです。あなたの音楽は「言葉」から「声」を自由にしていると思いますか?

JB:それは間違いなくそうだと思う。やろうとする前に、音楽を作りはじめたときからすでにやっていたというか。シンガーソングライター的なものが自分にとっては自然ではなくて、サウンドをつくってるなかでたまに言葉が出てくることがある程度で……さっきの“Flowers”みたいな感じでね。だから歌詞を書くというよりも、サウンドと感情で曲ができ上がる。私の作品は基本的に全部そういうものかもしれない。もちろん例外はあるけど、ほとんどの場合は言葉がない。

男性があなたの『The Magic Place』を丸々1枚カヴァーしたら聴いてみたいですか?

JB:もちろん!

女性でもメデリン・マーキースティン・ジャーヴァンのように声だということがわからなくなるほど変形させてしまうスタイルは抵抗がありますか?

JB:何でも一度はトライしてみようと思ってるけどね。というか、よくペダルの設定をいじって遊んでるし。(実際に声を変えながら)こんな低くしたり、たかーくしたり。声を変えてハモったり。でもエフェクター以外でやることは考えたことがなかったなあ。ただ、私はかなり声域が広い方で、ものすごく高い声で歌うこともできるし、結構な低いところまで出せるから、そういうところで少し実験してはいる。

Vocaloidに興味はありますか?

JB:ペダル(※エフェクター)で十分。

ああ、佐々木渉さんには内緒にしておきます。世界で一番好きな声は誰の声ですか? 歌手でなくてもいいし。自分の声でもかまいません。

JB:ヨンシーかな。あと私の母の声もすごく好き。彼女の歌声はとても美しいの。

聞きたくない声はありますか? 

JB:怒りのラップ、怒りのメタル。“グォォォーッ”みたいなやつ。ああいうのは大嫌いで、ちょっと無理。

たとえばドナルド・トランプは言葉の内容が伝わらないとしたらハスキーで面白い声なのかなとも思うので、あくまで音として聞きたくない声ということですが。

JB:ああ、なるほどね……ゲーーーッ。

ははは。1日のうちで『Healing Is A Miracle』を聴く時間を指定しなければならないとしたら何時にしますか?

JB:自分のことを言うと、朝はまずコーヒーを入れてインターネットとEメールを開きながら音楽を聴いてるから、朝がいいかもしれない。でも夜に聴いてもいいと思う。

最後に〈リヴェンジ・インターナショナル〉からカセットでリリース予定の『Circumstance Synthesis』も同傾向の作品になるんでしょうか? それともまったく傾向の異なる作品ですか?

JB:まったく違う感じの作品で、というのもこれはマイクロソフトと共同でシスターシティ・ホテルのロビー用につくったものだから。マイクロソフトのAIを使って、カメラをホテルの屋上にセットして、レンズを空に向けてAIが空の変化を読み取って、その情報がプログラムに送られて、それをきっかけに私がつくったサウンドが流れるという。

へー。

JB:かなり複雑なんだけど、私は朝、昼、午後、夕方、夜と1日を5つの時間帯に区切ってそれぞれの時間帯のセットを作って、5つはどれも全然違うサウンドで、それを短くまとめたのがこの作品。自分がホテルのロビーにいるところを想像しながら、興味深くて美しくて、あまり静かすぎたり退屈にならないように、かと言ってホテルにチェックインするときにあまりにうるさい耳障りな音楽は聞きたくないし、でもやっぱりプロジェクト自体がとても興味深いものだったから、それにふさわしく興味深いものにしたいと思った。というのが作品の由来。

なるほど。「Music for Hotel Lobbies」という感じなんですね。わかりました。どうもありがとうございました。

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あのときは君は何を聴いていたのか

パンデミックの最中、音楽からトレンドは消え、部屋のなかで音楽作品は深く聴かれた
Deep 音楽リスナー15人の記録と200枚のアルバム

小山田圭吾/五木田智央/EYヨ
ジム・オルーク/デリック・メイ

松山晋也/水上はるこ/星野智幸
高橋智子/増村和彦/大塚広子
Chee Shimizu/Mars89
長屋美保/大前至/高橋勇人
三田格/後藤護/杉田元一
松村正人/野田努

目次

野田努 / 序文にかえて──世界からトレンドが消えたときに音楽を体験すること
EYヨ インタヴュー (松村正人)
小山田圭吾 インタヴュー (野田努)
松山晋也 / 人生のサウダージ
水上はるこ / 真夜中にニール・ヤングを聴く
星野智幸 / ベランダで口笛ライブを
三田格 / 今夜も飛沫ぶし
増村和彦 / ホームリスニングのサイケデリアを求めて
大塚広子 / 空腹に効く
Chee Shimizu / 徒然ならぬ世界と音楽と私の関係
Mars89 / サウンドトラックの旅
長屋美保 / 閉ざされたモンスター・シティに沁みる音
大前至 / 記憶を辿りながら現在を見る
高橋勇人 / ロックダウン・ダイアリー
高橋智子 / 耳を塞ぐための音楽
デリック・メイ インタヴュー (野田努)
五木田智央 インタヴュー (松村正人)
後藤護 / そもそも〈ホーム〉って何?
杉田元一 / 2020年120時間の旅 
松村正人 / 符牒と顕現
ジム・オルークの10枚

Cover photo: fuji kayo

オンラインにてお買い求めいただける店舗一覧

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全国実店舗の在庫状況

紀伊國屋書店
丸善/ジュンク堂書店/文教堂/戸田書店/啓林堂書店/ブックスモア

KOTA The Friend - ele-king

 NY・ブルックリンを拠点に活動し、自主リリースでありながら、2018年リリースの 1st アルバム『Anything.』や昨年リリースの 2nd アルバム『FOTO』が一部のヒップホップ・リスナーの間で話題となった、現在27歳のラッパー、KOTA The Friend。自らプロデュースも行ない、メローでレイドバックしたビートに、自らの家族や日常生活に根ざしたテーマで、万人に届くピースフルなメッセージを込めたラップを乗せるという彼のスタイルは、いま現在のメインストリームなヒップホップ・シーンのトレンドとも異なる。しかし、あくまでもストリートに根付いた上でのオーガニックな彼の楽曲は、殺伐としたいまの時代だからこそ求められているのも事実で、特にコロナ禍かつ BLM (Black Lives Matter)ムーヴメントが世界中に広がっている最中の5月下旬に、今回のアルバム『EVERYTHING』がリリースされたことは大きな意味を持ち、人びとの心に寄り添うような視線で語られる彼のポジティヴなメッセージや音楽性に救われる人もきっと多いに違いない。

 彼の音楽的な特徴は、ギターやシンセサイザー、ホーンなどを多用した生っぽい感覚のあるサンプリング・トラックと、そのサウンドに対して実にマッチしている心地良いフロウとのコンビネーションにある。ある意味、曲によってはローファイ・ヒップホップなどにも通じる部分もあった彼のいままでの楽曲に対して、今回の『EVERYTHING』はビートの面で明らかな変化が生じているのだが、それはドラムの部分だ。ハイハットやキックを連打するパターンであったり、リズムマシン的なドラムの音質は、まさにトラップそのもの。実際、このビート感はすでに 1st アルバムでも一部で導入されており、2nd でさらに強化されていたのだが、本作ではアルバム一枚を通して、ほとんどの曲でこのスタイルが貫かれており、さらに言えば彼自身のラップもトラップ色が非常に濃くなっている。軸にあるメローな部分は変わらないまま、トラップの要素が足された彼のサウンドは、素直に格好良いし、個人的にはめちゃくちゃ好みだ。このスタイルが彼の専売特許ということではないと思うが、完璧とも言えるバランス感によって、強固なオリジナリティが貫かれている。

 同郷ブルックリンの Joey Bada$$ とクイーンズ出身の Bas がゲスト参加した “B.Q.E” は、そんな本作の魅力が詰まった一曲であり、彼らの地元を通るフリーウェイを掲げたタイトルの通り、実にスタイリッシュなニューヨーク・アンセム(=賛歌)になっている。また、前作での “Hollywood”、“Sedona” のように、これまでも国内外の様々な地名をタイトルに付けた曲を発表してきた KOTA The Friend だが、今回は “Long Beach” と “Morocco” という2曲を披露しており、数少ない非トラップ・ビートの “Long Beach” は歌のパートも心地良く、非常に開放感ある一曲で、一方の “Morocco” は透明感ある美しいトラックに乗った tobi lou とのコンビネーションがタイトに響く。他にもアルバム冒頭の “Summerhouse” から “Mi Casa” への気持ち良すぎる流れであったり、Joey Bada$$ と並ぶ大物ゲストの KYLE がゲスト参加した “Always” など聞きどころは多数あり、俳優の Lupita Nyong’o と Lakeith Standfield がそれぞれメッセージを寄せるインタールードなども含めて、アルバムの構成という面でも隙はない。ラスト・チューンの “Everything” では彼の息子=Lil Kota も参加しており、ふたりの掛け合いによるラストの部分から得られる幸福感は何ものにも代え難い。こんな気持ちで聞き終えるヒップホップ・アルバムは本当に希であろうし、この作品に出会えたことを幸せに思う。

TSUBAKI FM - ele-king

 めでたいお知らせです。新しい視点でさまざまな音楽を紹介してきた注目のインターネット・ラジオ TSUBAKI FM がウェブサイトをリニューアルしています。過去のアーカイヴも聴けたり、検索機能も強化、さらに、毎週日曜だった放送枠も日~水の週4日放送に拡大! すばらしい音楽に出会うためのすばらしいプラットフォーム、ぜひチェックしましょう。

 https://tsubakifm.com

インディペンデントミュージックを発信する音楽プラットフォーム『TSUBAKI FM』がウェブサイトをリニューアル。7月から京都、名古屋を含むレギュラー番組も新たに始動

ローカルからワールドワイドまでクオリティーの高いアーティスト/DJをキュレーションしながら日本のシーンに対して新しい風を送りつづける TSUBAKI FM。コロナウィルスの影響で無念の延期となった3月のアニバーサリーイベントを乗り越え、新しいウェブサイトと共に次のステージへ。

日本を拠点にするクリエイティブデジタルスタジオの Garden Eight が制作に携わり、過去のアーカイブがいつでも聴ける「RADIO」ページや、アーティストやジャンル毎のタグを追って検索できる「SEARCH」機能。そして「NEWS」ページで TSUBAKI FM の最新のニュースをチェック。もちろん今まで通りライブ放送も試聴可能に。

そして毎週日曜の放送枠から一気に拡大し、日曜日から水曜日まで週4日連続放送が決定。
日曜日は昨年の MUTEK.JP にも出演した Mayu Amano、そして新進気鋭のミュージックコレクティブ No Nations クルーが登場。月曜日は TSUBAKI FM のファウンダーでもある Midori Aoyama が毎週ホストを務め、翌日の火曜日は Souta Raw が自身のホームグラウンドである Tunnel を舞台にレギュラー放送を実施。そして水曜日はFMとの強い絆のある京都、そして名古屋は club GOODWEATHER を舞台に隔週で放送。他にも毎月スペシャルなプログラムや様々な都市での放送も予定しており、コロナ禍で変化した生活様式に向けて TSUBAKI FM が新たな音楽体験を提供する。

各番組ホストと放送日程は以下の通り

//No Nations//
毎月第1, 第3日曜日 19:00-21:00 (しぶや花魁)

//Mayu Amano//
毎月第2日曜日 19:00-21:00 (しぶや花魁)

//TFM Monday by Midori Aoyama//
毎週月曜日 19:00-21:00 (しぶや花魁)

//Tunnel Tuesday by Souta Raw//
毎週火曜日 21:00-23:00 (Aoyama Tunnel)

//Tsubaki fm Kyoto by Yoshito Kimura, Keisuke Dance, Masaki Tamura//
毎月第1, 第3水曜日 20:00-22:00 (会場は随時アナウンス予定)

//Tsubaki fm Nagoya by AGO, MUSICMAN, SAMMY the RIOT, S.O.N.E.//
毎月第2水曜日 20:00-22:00 (club GOODWEATHER)

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