「OTO」と一致するもの

Osunlade - ele-king

 プロデューサーであり、ミュージシャンであり、レーベル〈Yoruba〉の主宰者でもあるオスンラデが2年ぶりの来日を果たす。セントルイス出身のこのスピリチュアル・ハウスのヴェテランは、きっと最高にソウルフルでディープな一夜を演出してくれるにちがいない。11月9日は VENT へ。

ハウス界のメシア。
魂を揺さぶるディープ・ハウスの最高峰、 Osunlade

大人気のレーベル〈Yoruba Records〉を率い、アメリカのディープ・ハウス・シーンの最高峰に君臨する OsunladeOfficial が11月9日のVENTに初登場! 存在そのものがアートとも言える重鎮による2年ぶりとなる超待望の来日公演が決定!!

Osunlade ほど多彩なアーティストもなかなかいないだろう。ブラック・ミュージックの代表格であるブルースやジャズが生まれたセントルイスに生まれ育ち、幼少の頃から作曲に興味を持っていたという。17歳でハリウッドへ渡り、プロデューサーとしての才能を開花させてからは、メジャー・レーベルのもとで多くのヒット作を手掛けてきた。

やがてメジャーの音楽スタイルでの音楽制作は自分の音楽への情熱を弱めてしまうと感じ、一念発起してアーティストの道を選択。1999年に〈Yoruba Records〉を設立したのだ。一切の妥協がないディープでソウルフルな作品をコンスタントにリリースすることで Theo Parrish や Dixon をはじめ多くのトップDJたちにサポートされると、レーベルとともに Osunlade はアーティストとしても広く認知され、「ハウス界のメシア」と評されるようになった。

Osunlade の魂を反映したアフロ、スピリチュアル、ソウルフルなディープ・ハウス作品と、彼の繰り出す壮大なDJセットは、オーディエンスのエネルギーとヴァイブスと混ざり合いマジカルな一夜を創り上げるだろう!

- Osunlade -
DATE : 11/09 (SAT)
OPEN : 23:00
DOOR : ¥3,500 / FB discount : ¥3,000
ADVANCED TICKET : ¥2,500
https://jp.residentadvisor.net/events/1317046

=ROOM1=
Osunlade
Motoki a.k.a. Shame (Lose Yourself)
KITKUT (ON and ON)
Atsu (東風 / 三楽)

=ROOM2=
A.M.A. (ON and ON)
Tonydot (TANGLE)
KenNYstyle
Yuri Nagahori
Cozzy
MOMO.

VENT:https://vent-tokyo.net/schedule/osunlade/
Facebookイベントページ:https://jp.residentadvisor.net/events/1317046

※ VENT では、20歳未満の方や、写真付身分証明書をお持ちでない方のご入場はお断りさせて頂いております。ご来場の際は、必ず写真付身分証明書をお持ち下さいます様、宜しくお願い致します。尚、サンダル類でのご入場はお断りさせていただきます。予めご了承下さい。
※ Must be 20 or over with Photo ID to enter. Also, sandals are not accepted in any case. Thank you for your cooperation.

VENT PRESS
MAIL: press@vent-tokyo.net
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■プロフィール

Osunlade はアートそのものを擬人化したかのような存在だ。彼の音楽は、調和、人生、知性が融合されたメロディーを作り出す。彼の出身はブルースやラグタイム、ジャズなどが生まれたミズーリ州のセントルイスだった。7歳でピアノに運命的に出会った。12歳の頃までには作曲に興味を持っていたという。その後に地元でバンドを結成し、いくつかの楽器も習い、作品に磨きをかけるために学んでいた。

17歳のときの1988年に初めてプロとしてハリウッドへ旅行した。コリオグラファーでパフォーマーでもある Toni “Mickey” Basil にすぐに目をかけられ、セサミ・ストリートなど子供向けテレビ番組を含むいくつかのプロジェクトの音楽担当を任された。彼女の後押しもありロサンゼルスへ移住し、その後の壮大な楽曲制作のキャリアが始まったのだ。数年後に初めてプロデュースしたアルバム作品は、当時はまだインディーだった〈Intersope〉からのものだった。Gerardo というアーティストの作品で、今では友人であり、彼は俳優、ダンサーとしても活躍している。“Rico Suave”というラテン・ポップ初期作とも言えるキャッチーなフレーズの曲を制作した。GQerardo は素晴らしい機会を得た直後に、数作のプラチナ・アルバムと4枚のゴールド・シングルをリリースしている。

その後数年間で20作を超える作品に関わってきたが、Osunlade は音楽ビジネスを学ぶことは、自分の音楽への情熱を弱めてしまうのではないかと考えるようになった。マス向けで供給から成り立つものの元で働くのはやめようと決意したのだ。精神的な癒やしを求め、自分の魂に誇りを持つことを望んでいると、Ifa を知ることになった。それはアフリカのヨルバ民族やアメリカの奴隷達から伝わった自然を元にするの文化的/宗教的な占いのようなものだ。

1999年に Osunlade は夢を叶えるために動き出した。〈Yoruba Records〉を立ち上げたのだ。世界で最も重要なレーベルのひとつと認識されており、魂を昇華させる音楽を作り出している。

レーベルが成長していくと Osunlade の人気も高まっていった。2001年にはデビュー・アルバム『Paradigm』を人気の〈Soul Jazz Records〉 label からリリースした。このアルバムはその年の最も売れたハウス・アルバムの1枚となり、彼は「ハウス界のメシア」と評されるようになった。多くのDJが彼の音楽をサポートし、今ではより多くの人々に聴かれるようになりついには、ミュージシャンであり、コンポーザーであり、プロデューサーであり、そしてアーティストとして認知されたのだ。

DJセット、リミックス、アルバムそして数枚のミックスCDをリリースし Osunlade の唯一無二のクオリティの作品は常に高い評判を得ている。

Osunlade の率いる〈Yoruba Records〉は1999年の最初のリリース以来ダンス・ミュージック・シーンを牽引している。Ifa の教えのもとに立ち上げ、ディープ・ハウスからソウルフルなハウスまで幅広い作品をリリースしてきた。常に素晴らしい作品を心がけ一切の妥協がない。ダンスは昔から重要なものであり、ジャズやソウル、オルタナなエレクトロニックも作品を手掛けてきた。シンプルに良い音楽の事を考え続け、〈Yoruba〉は時代の変化を乗り越えてきた。様々なスタイルのアーティストの作品をリリースしてきた。コンセプトとして精神的な結びつきを最も重要視している。エネルギーとヴァイブスに導かれて、それぞれのアーティストが情熱に従ってクラシックだが誠実な、魂を反映するかのような作品を作り続けている。300を超える作品をリリースし、人々の中にある境界線を広げようとしているのだ

消費税廃止は本当に可能なのか? (2) - ele-king

私たちが日々疑問なく支払っている消費税は本当に必要なのだろうか?

 とうとう10月1日から消費税が10%に上がった。今回の消費増税に関しては、社会保障を支える為に必要だという賛成意見もあり賛否両論となっているが、ちょうどこの日にタレントのロンブー敦氏がツイッターで面白いアンケートを実施していたので紹介させてもらいたい。「さぁ今日から消費税増税 8%~10%へ どうか消費が冷え込みませんように… 僕もガシガシ消費しまくります!」と添えたアンケートでは以下のような結果になっていた。

 消費税0%に戻して欲しい! 45%
 消費税5%に戻して欲しい! 26%
 消費税8%に戻して欲しい! 5%
 消費税10%は仕方ない!   25%

 全属性がツイッター民であるというバイアスがあるものの、ロンブー敦氏のフォロワーは主にノンポリ層のはずで、その彼らが65,636票も投じているのだから、大変興味深いサンプルと言えるだろう。実に45%もの人たちが消費税廃止を望み、全体で76%が減税ないし廃止を望んでいるのである。マスコミの世論調査とは随分と違う結果になったことに驚くばかりだ。

 さて、前回コラムでは経済における「合成の誤謬」についてお伝えした。良かれと思って貯蓄や無駄の削減に励むことは、経済全体にとって富の喪失につながるという理論だ。

 この「合成の誤謬」のままに、レッセフェール的な資本主義体制を進めると、富の偏りが生まれてしまうため、政府がその財政的権力をもって是正すべく介入しなければならない。富の偏在、つまり経済的格差の拡大が経済停滞を招くことは、過去にもIMFやOECDをはじめとする国際的機関や数多くの経済学者に指摘されていて、すでに常識とされるところだが、この資本主義の負の側面の拡張を放任するばかりか、後押しし続けたのが我らが日本政府であった。

 日本政府は、公務員数や公共投資などを削り、無駄という無駄を削減し続け、財政と経済を緊縮化させた。経済が緊縮状態になると、その収縮効果に伴いデフレスパイラルが形成される。それによって所得税や法人税などの税収も減少することは火を見るより明らかだろう。しかし政府は、そのデフレにより足りなくなった税収の穴埋めを、あろうことか人々の消費行動への罰金である消費税に求め、さらなる経済のシュリンクを加速させた。

 本来ならこのことは、「合成の誤謬」だとか「レッセフェール」だとかという専門用語を使って説明する必要すらない。政府は「飢饉で米が取れないから、さらに年貢を増やす」とやっているのだから、説明不要の愚策と言える。しかもこの年貢は、飢饉で苦しむ庶民の中でも最弱者である病人や子供からも等しく徴収する人頭税に等しい。よしんばこの人頭税を課すにしても取り方というものがあるのではないか。

 庶民の消費行動に、足かせである消費税を課し、消費活動を減退させるということは、そのまま誰かの所得の減少に繋がる。誰かの所得が減るということは、その彼の消費も減り、また他の誰かの所得も減少させることになるため、ここに経済の悪循環が完成してしまう。「誰かの消費は誰かの所得」であるので、当然の帰結だ。

 実際にこの20年間(96年~16年)の日本のGDP成長は1.00倍で、まったく増えておらず、戦争や紛争が起こっている国を除けば断トツで世界最下位の成績だ。中国は13倍、米国は2.3倍、先進国で日本の次に悪いドイツでさえ1.4倍に増えている中でだ。加えて国民の年収の中央値も100万円以上も下がっている。こんな衰退国家は日本をおいて他に存在しない。日本政府や大本営マスコミは「いざなぎ越えの好景気」と喧伝するが方便でしかない。

 政府は税率を上げて庶民から召し上げ、大企業は野放図な資本主義体制のもと、庶民や中小企業からお金を取り上げる。需要の足りないデフレ下で、決してやってはならない経済運営を進めてきた。はっきり言って、わが国の「衰退途上国」化は、大企業経営者たちや無能な日本政府が推し進めてきたと言っても過言ではない。

 では、この悪循環をどう断ち切ればよいのだろうか。反緊縮派の多くは、一つに「消費税の廃止」、そして二つ目に「政府による財政出動」が有効策であると考えている。

 まず、消費税、ひいては租税の意義について考えてみたい。そもそも徴税の役割とは財源を得るためにあるのではなく、景気の調整のみにあるという考えがある。「景気自動調節機能=ビルト・イン・スタビライザー」と呼ばれる政策がそれだ。これは累進課税制度により、儲かっていない分野はそのままに、そして儲かっている分野、景気が過熱し過ぎた分野からは相応の額の徴税を通じて、景気の安定化を図ろうという仕組みだが、中学・高校の公民や政経の教科書にも載っている、いたって一般的な概念となる。

 17世紀のオランダでチューリップ・バブルが起こったことはよく知られている話だろう。人々が価格高騰するチューリップの球根への投資に熱狂し、僅か数年で球根ひとつに平均年収の10年分もの価格がつくほどになったが、突如バブルが崩壊し、価格が100分の1にまで暴落、投資家たちが債務不履行に陥り、景気が悪化したというものだ。ビルト・イン・スタビライザーはこういった過熱する分野(主に金融や不動産)に所得税や法人税などで累進課税制をしき、自動的に増税を行う形で需要を減少させ、行き過ぎた景気過熱やバブルを防ごうという考え方だ。

 立命館大学の松尾匡教授は「なぜ、わざわざ税金を取るのか。政府がお金を作り続けると、世の中にお金が出過ぎて、購買能力がその国の供給能力を超え、インフレが激化していく。これを防ぐために税金を取って購買力を抑える。目的はインフレの管理なのだ。財源が必要だから税金を取るという考えは家計の場合であって、家計と一緒にしてはいけない」と語っているが、税の役割は財源の確保のためではなく、インフレ管理などの景気調整にあるということだ。

 翻って消費税を見た場合、その景気自動調節機能がない。よく考えればわかるはずだが、消費税を課せられている病人や子供を含む庶民全般に、儲かって儲かって仕方がないという景気過熱の状況が生まれることなどあるだろうか? 答えは否である。

 もうひとつ一般的に税の役割として考えられているものが、所得や資源の再分配機能となる。しかしこれも消費税にはほとんどないと言える。そりゃそうである。病人や貧困層から税金を集めて、これを再び病人や貧困層に戻すという仕組みなのだから、二度手間だし、こんなバカげた話もない。下図のように、消費税は富裕層には優しく、貧困層には地獄のような、逆進性の高い税なのだ。これが再分配のための税といえるだろうか。


画像:山本太郎氏・街頭演説より

 因みに、諸外国の消費税・付加価値税のほとんどにはしっかりと軽減税率が設定されており、累進課税の機能も担保されているため、日本の消費税のような性格──日本の軽減税率は、主に食料品と新聞にかかる2%分のみが対象で、その他の生活必需品の購入にはそのまま10%が課税されるが、ほとんどの諸外国では日用品も軽減税率の対象となっている──にはない。そのため、日本の全国税の税収に占める消費税収の割合は、福祉国家といわれる北欧と比べても遜色ない状況になっている。

 実際に、日本の消費税収は、25%の消費税を設けるデンマークより多い状態にあるが、日本人は、北欧のような充実した福祉サービスを受けられているだろうか。このことから、北欧並みの消費税を課すべきだという議論がいかにナンセンスであるかがわかるだろう。すでに北欧並みに課税されているわけだから。

 消費税には景気自動調節機能がなく、また所得や資源の再分配機能も乏しいことがわかった。それ以外にも、日本の消費税の不公平性は多岐にわたる。すべて社会保障に使われると約束されていたはずの消費税収分の8割ほどが、実際は国債償還等に充てられ、多くが再分配されていないばかりか、通貨をこの世から消滅させているという事実まであるうえに、──前述した経済団体のロビイング活動の賜物としてだが──消費税が、大企業を優遇するための法人税減税で目減りした財源の穴埋めにも使われてきた側面もあるのだ。もしどうしても、消費税廃止の穴埋めを税だけで賄いたいと言うのなら、この30年間かけて減税してきた法人税や所得税の累進性を復活させ、租税特別措置などを元に戻せばよいだけのはずだ。


画像:山本太郎氏・街頭演説より

 今まで消費税は社会保障費を賄うために必要だと信じられてきた。「いろいろ問題があるからと言って消費税を廃止にすることまではないんじゃないか」といった意見もあるだろう。でも財源を逆進性の高い消費税に求めては、国民経済が停滞することに繋がり本末転倒だ。自らの首を絞めることに繋がってしまうのだから、再考する必要があるだろう。

 そこで、消費税収に替わる財源を得るため、そして国民経済を後押しするための政策が、反緊縮派が二つ目に挙げる「財政出動」ということになる。

 「財政出動すると財源が減ってしまうのではないか」と思われる方もいるかもしれないが、それは誤りである。財政出動すると、実体市場に通貨が創造されるので、支出することそれすなわち財源となることを意味する。

 おそらく、ケインズ派(ニューケインジアン左派、ポストケインジアン、MMTer)の議論を知らない人にとって、この「財政支出すること自体が財源となる」という概念は意味不明だろうと思う。次回はこの概念「スペンディング・ファースト(Spending First)」の説明を中心に続けたい。

Stereolab - ele-king

 ステレオラブ復刻プロジェクトがついに完結。5月の2nd&3rd、9月の4th~6th に続き、今度は2001年の7作目『Sound-Dust』と2004年の8作目『Margerine Eclipse』がリイシューされる。発売は11月29日。これまで同様、全曲リマスタリング&ボーナス音源追加。両作ともにショーン・オヘイガンが参加しており、前者ではおなじみのジム・オルークとジョン・マッケンタイアがエンジニアリングとミックスを担当している。現在『Sound-Dust』より“Baby Lulu”が先行解禁中。

STEREOLAB

90年代オルタナ・シーンでも異彩を放ったステレオラブ
10年ぶりに再始動をした彼らの再発キャンペーン第三弾発表!
『SOUND-DUST』と『MARGERINE ECLIPSE』の名盤2作が全曲リマスター+ボーナス音源を追加収録でリリース!

90年代に結成され、クラウト・ロック、ポスト・パンク、ポップ・ミュージック、ラウンジ、ポスト・ロックなど、様々な音楽を網羅した幅広い音楽性で、オルタナティヴ・ミュージックを語る上で欠かせないバンドであるステレオラブ。その唯一無二のサウンドには、音楽ファンのみならず、多くのアーティストがリスペクトを送っている。10年ぶりに再始動を果たし、今年のプリマヴェーラ・サウンドではヘッドライナーのひとりとして出演。5月には、再発キャンペーン第一弾として『Transient Random-Noise Bursts With Announcements [Expanded Edition]』(1993年)、『Mars Audiac Quintet [Expanded Edition]』(1994年)の2タイトルが、9月に第二弾として『Emperor Tomato Ketchup』(1996年)、『Dots And Loops』(1997年)、『Phases Group Play Voltage In The Milky Night』(1999年)の3作がアナログ、CD、デジタルで再リリースされている。

7タイトル再発キャンペーンの締めくくりとなる第三弾として、ジム・オルークとジョン・マッケンタイア共同プロデュースによる2001年の『Sound-Dust』と、久々のセルフ・プロデュース・アルバムとなった2004年の『Margerine Eclipse』の2作が、全曲リマスター+ボーナス音源を追加収録した“エクスパンデッド・エディション”で再発されることが発表された。また合わせて『Sound-Dust』より“Baby Lulu”が先行解禁されている。

Stereolab - Expanded Album Reissues Part 3
https://youtu.be/5mlLux_PEhc

Baby Lulu
https://stereolab.ffm.to/baby-lulu

今回の再発キャンペーンでは、メンバーのティム・ゲインが監修し、世界中のアーティストが信頼を置くカリックス・マスタリング (Calyx Mastering)のエンジニア、ボー・コンドレン(Bo Kondren)によって、オリジナル・テープから再マスタリングされた音源が収録されており、ボーナス・トラックとして、別ヴァージョンやデモ音源、未発表ミックスなどが追加収録される。


『Sound Dust [Expanded Edition]』と『Margerine Eclipse [Expanded Edition]』は2019年11月29日リリース。国内流通盤CDには、解説書とオリジナル・ステッカーが封入され、初回生産限定アナログ盤は3枚組のクリア・ヴァイナル仕様となり、ポスターとティム・ゲイン本人によるライナーノートが封入される。また、スクラッチカードも同封されており、当選者には限定12インチがプレゼントされる。さらに対象店舗でCDおよびLPを購入すると、先着でジャケットのデザインを起用した缶バッヂがもらえる。

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: SOUND DUST [Expanded Edition]
release date: 2019/11/29 FRI ON SALE

[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Black Ants In Sound-Dust
02. Space Moth
03. Captain Easychord
04. Baby Lulu
05. The Black Arts
06. Hallucinex
07. Double Rocker
08. Gus The Mynah Bird
09. Naught More Terrific Than Man
10. Nothing To Do With Me
11. Suggestion Diabolique
12. Les Bons Bons Des Raisons

Disk 2
01. Black Ants Demo
02. Spacemoth Intro Demo
03. Spacemoth Demo
04. Baby Lulu Demo
05. Hallucinex pt 1 Demo
06. Hallucinex pt 2 Demo
07. Long Live Love Demo
08. Les Bon Bons Des Raisons Demo

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: MARGERINE ECLIPSE [Expanded Edition]
release date: 2019/11/29 FRI ON SALE

[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Vonal Declosion
02. Need To Be
03. Sudden Stars
04. Cosmic Country Noir
05. La Demeure
06. Margerine Rock
07. The Man With 100 Cells
08. Margerine Melodie
09. Hillbilly Motorbike
10. Feel And Triple
11. Bop Scotch
12. Dear Marge

Disk 2
01. Mass Riff
02. Good Is Me
03. Microclimate
04. Mass Riff Instrumental
05. Jaunty Monty And The Bubbles Of Silence
06. Banana Monster Ne Répond Plus
07. University Microfilms International
08. Rose, My Rocket-Brain! (Rose, Le Cerveau Electronique De Ma Fusée!)

たしかに、目を閉じて、音楽が純粋に音響的な現象であるかのように認識することもできるが、コンサートの最中には、人は音楽を見るし、音楽を目で読む。音楽は身振りでもあるのだ。 ──カールハインツ・シュトックハウゼン(*1)

容易には判別のつかない状況

 たとえばチェロを抱え持ち、弓を弦に押し当てている男がいるとする。わたしたちはおそらく、彼が演奏をしていると認識するはずである。だがなぜ、演奏をしていると言うことができるのだろうか。楽器という音楽を奏でるための道具を手にしているからだろうか。たしかに抱えているのが木箱であるなら演奏しているようには見えないかもしれない。だがもしかしたら彼もまた演奏しておらず、単にチェロを抱えているだけなのかもしれない。それに木箱を抱えていたとしても必ずしも演奏していないとは言い切れない。20世紀の様々な前衛と実験を振り返るまでもなく、たとえば日用品や廃物などの非楽器であっても、演奏する道具として用いることができるからである。ならば行為の結果として組織化された音響が聴こえてくれば演奏していると言い得るだろうか。しかしなにも手に持たずに椅子に座り、なにも音を出さなくとも演奏と言い得る場合もある──音と沈黙を等価な構成要素として認めるのであるならば。おそらくわたしたちは、チェロを抱えるその男のみならず、あらゆる人間の行為に関して、彼/彼女が演奏行為をしているのか否か、手がかりになる別の情報を抜きにして決定的な判断を下すことはできないだろう。だが演奏行為か否か容易には判別のつかないような状況においてこそ、見えてくる光景や聞こえてくる音響があるのだと言うこともできるのではないだろうか。少なくともそのような状況は、演奏行為をわたしたちが見知った音楽なるものにそのまま当て嵌めてしまうことに対して、いちど立ち止まって考えてみるきっかけを設けてくれる。

 平易かつ実践的な道徳を説いた石門心学の拠点のひとつとして、18世紀の京都に明倫舎という施設が建立された。1869年にその跡地に小学校が開校し、戦前には大幅な改築が施されることで現在にも残る校舎が完成するものの、120年以上の歴史を経た1993年に閉校。そしてその校舎をもとに2000年に京都芸術センターが開館した。同センターが主催する音楽にスポットライトを当てた事業のひとつに、2013年から開始した「KAC Performing Arts Program / Music」がある。講堂や教室など、廃校となった建造物の空間を活かすことによって、いわゆる音楽のための設備が整えられたコンサート・ホールとは異なる音の体験を目的に、若手作曲家のシリーズからユニークなコンセプトの公演まで、これまで様々なイベントがおこなわれてきた。その2018年度のプログラムとして、2019年2月22日から24日までの三日間、京都を拠点に活動するチェロ奏者の中川裕貴を中心とした企画『ここでひくことについて』が開催された。同イベント全体を貫くテーマは「演奏行為」である。ふつう演奏とは音楽を現実に鳴り響かせるための行為として認識されている。だが演奏行為が立ち上げるのは本当に音楽だけなのか。演奏行為によって可能になる出来事をつぶさに眺めていくならば、それは音楽と呼ばれるものとは異なるなにか別の可能性を秘めているのではないか。こうした問いを問いながら中川は、「『演奏』という行為を通じて、私たちの周りに存在する身体、イメージ、距離、意識、接触について考える」(*2)試みとして『ここでひくことについて』を企画したという。

 1986年に三重県で生まれた中川は、10代の終わり頃より演奏活動をはじめ、京都市立芸術大学大学院では音響心理学および聴覚について学んでいた。2009年頃にチェロと出会うもののいわゆるクラシカルな道には進まず、「音の鳴る箱」としてのチェロを叩いたり擦ったりするなかで独自の非正統的な演奏法を開拓していった。中川は敬愛するチェロ奏者として米国の即興演奏家トム・コラ、および前衛音楽からクラブ・ミュージックまでジャンル横断的に活躍した同じく米国のアーサー・ラッセルを特に挙げている。中川もまた即興演奏家として活動するとともに、言葉と音の関係性を中心にしたバンド「swimm」、さらに劇団「烏丸ストロークロック」の舞台音楽を手がけるなど、ジャンルの垣根を超えて幅広く活躍してきている。2013年からはメイン・プロジェクトと言ってよいグループ「中川裕貴、バンド」を始動。「音楽を演奏しながら、音楽を通して観客に伝わるものについて思考する」(*3)というテーマのもとライヴを重ね、2017年にはファースト・アルバム『音楽と、軌道を外れた』をリリース、さらに同年末には京都芸術センターが主催する公募事業のひとつ「Co-program」の一環として初の単独コンサート『対蹠地』を実施している。唯一無二の個性を発揮するチェロ奏者であるとともに、単なる自己表現ではなく、受け手の知覚と認識のプロセスを取り込んだ批評的な制作スタンスを併せ持つという類稀な才能が評価されたのだろう、京都芸術センターにおける中川を中心とした二度目の大規模な試みとして『ここでひくことについて』が開催されることになったのである。

 本公演には三つのプログラムが用意されている。「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」と題されたプログラムAでは、小さな体育館のようなフリースペースで、造形作品や照明を効果的に織り交ぜた、中川裕貴によるソロ・パフォーマンスが披露された。プログラムBは「Not saying "We (band)"」と題されており、五人のメンバーからなる「中川裕貴、バンド」による、音楽を中心に舞台空間を全面的に使用した公演がおこなわれた。そしてプログラムC「“You are not here” is no use there」には特定の舞台はなく、京都芸術センターのいたるところで勃発する出来事を、ポータブル・ラジオとイヤホンを渡された観客が自由に歩き回りながら体験していくというイベントがおこなわれた。三日間にわたって開催された本公演は、初日がC→A→B、中日がB→C→A、最終日がC→B→Aという順番でおこなわれており、三つのプログラムを通して聴くのであれば、これらの順番はそれぞれに決定的と言ってよい体験の相異をもたらしたことだろう。だがここではあえてA→B→Cという実在することのなかったプログラムの順序に沿って記述していく。それは各日の相異よりも三日間を通したイベントのトータルな意義に着目するからであるとともに、ある意味では企画の趣旨には反するのかもしれないが、ここでは音楽としての演奏行為がいかにして成立しているのかという問いを念頭に置きながら、演奏行為に関わる批評的な視座を得ようと試みるためでもある。

  • *1 ジャン=イヴ・ボスール『現代音楽を読み解く88のキーワード』(栗原詩子訳、音楽之友社、2008年)191頁。
  • *2 KAC Performing Arts Program 2018 / Music #1 中川裕貴『ここでひくことについて』パンフレットより。
  • *3 「INTERVIEW WITH NAKAGAWA YUKI Vol.1 1/2」(『&ART』2015年)https://www.andart.jp/artist/nakagawa_yuki/interview/150505/
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分断された視聴覚と演奏行為──プログラムA「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」

 プログラムAは中川裕貴によるソロ・パフォーマンスであるものの、パフォーマンスの鍵として舞台美術を担当したカミイケタクヤによる巨大な船のような造形作品──正確には船ではなく地球をかたちづくった作品であり、左右にゆらゆらと揺れることから「地球シーソー」と呼ばれていた──や、照明担当の魚森理恵による巧みな光の操作があり、実質的には協働制作によってこうした複数の要素がミクストメディア的に組み合わされた舞台公演だったと言える。とはいえ名目上はソロ公演であるため、中川の演奏行為をここでは辿っていく。パフォーマンスはまず、暗闇のなか造形物の奥で中川が演奏開始のアナウンスをするところからはじまった。アナウンスにはジョージ・クブラー、九鬼周造、そしてブリュノ・ラトゥールという三人それぞれの文献からの引用が織り込まれていた。なかでも「聖像衝突」を論じたラトゥールのテクストは一部が言い換えられていた──「この演奏会は衝突を論じるのであり、破壊を論じるのではない」というように(*4)。ラトゥールによれば「破壊行為が何を意味するのかが分かっており、それが一つの破壊計画として明確に現れ、その動機が何であるかが分かっている場合」が聖像破壊であるのに対して、「補足的な手掛かりなしでは破壊的なのか構築的なのか知ることのできない行為によって動揺している場合」が聖像衝突であるという(*5)。すなわち演奏によって既存の音楽秩序を単に破壊するのではなく、破壊的なのか構築的なのか容易には判別のつかないような行為の意味の揺らぎへと向かうこと。引用文の言い換えはこの「衝突」をこれから披露することの宣言として受け取れるだろう。

 アナウンスが終わるとマイクから手を離し、スティーヴ・ライヒの「振り子の音楽」のように天井からぶら下げられたマイクがぶらりぶらりと往復する。中川はチェロを持ってゆっくりと歩きながら即興的に演奏しはじめる。そして会場中央にある椅子に座すとチェロを膝の上に横向きに置き、エンドピンを出したり閉まったり回したり、弦の上をさっと摩ったりボディを指で軽やかに叩いたりするなど、楽器の調整をするかのような仕草を見せていく。そうした行為にともなう響きはしかし完全にランダムではなく、一定のパターンがかたちづくられることによって驚くほど音楽的に聴こえてくる。だが同時に奇妙な違和感を覚えるようなサウンドでもあった。この奇妙さはいったいなんだろうかと考えていると、ごく自然な流れで中川がチェロから手を離していた。しかし音は先ほどまでと変わらずに響き続けている。行為にともなう響きはリアルタイムで録音され、いつの間にか楽曲のように構築されてスピーカーから再生されていたのである。その後ブリッジ付近を細かく弓奏することによる季節外れの蝉時雨のような高周波のノイズになり、音量の大きさも相俟って耳元で音が蠢くような感覚にさせられる。徐々に音量は下がり、チェロをゆっくりとしかしリズミカルに弾きはじめる。だがこれもまた、演奏する手を止めても音が鳴り続けている。弾いていると見せかけて気づいたら弾いていない。いつの間にかその場で録音されたサウンドが再生されている。わたしたちは彼の演奏行為を目撃しながら、まさにいま鳴っている響きを彼がいま・ここで発したものとして聴いていたにもかかわらず。

プログラムA「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」(撮影:大島拓也)

 その後チェロをカホンのように叩くことによって、ドラムンベースのように、あるいはタブラによる打楽のようにビートの効いた演奏を披露し、さらにそのサウンドはエフェクター類を介して残響が強調されることによって、深海に沈み込むようなドローンへと変化していく。手元にある紐を中川が引っ張ると、頭上に置かれていた壊れたチェロ──これは中川が以前使用していた、初めて手にしたチェロだという──が落下し、そしてそこにくくりつけられたもうひとつの紐が「地球シーソー」を動かすことで照明とコンプレッサーが作動する。唸るようなコンプレッサーが切れるとチェロを置き、弓を空振りしながら「地球シーソー」の裏側へ。そしてもういちど紐を引っ張ることでシーソーをもとの傾きに戻してからあらためて椅子に座し、ヘッドホンを被って黙々とチェロを弾きはじめる。かさこそと静かな弦の音が会場内に響き、しばらくすると「曲ができました」と述べ、多重録音されたチェロが喚き叫ぶような楽曲がスピーカーから再生される。録音のプロセスを開示したとも、音からは切り離された演奏行為を披露してみせたとも言えるだろうか。シーソーを再度傾かせると聖骸布を模した大きな布がばさりと広がり、その裏に隠れるようにして中川は演奏しはじめる。複数の光源から照らされることによって、演奏する中川の影が様々にかたちを変えながら聖骸布に分身のように浮かび上がっていく。烈しさを増したサウンドは会場内で乱反射するかのように響きわたる。演奏を終えるとまたもやシーソーが動いて暗転し、小さなプレートにぼんやりと「No Playing」という蓄光シートによる文字が光りだす──同じプレートには先ほどまで「Now Playing」と表示されていたのだった。

 演奏する身振りと聴こえてくる音響は必ずしも一致しているわけではない。この当たり前と言えば当たり前の事実を、しかし普段のわたしたちはほとんど問題にすることなく演奏を聴いている。眼の前で演奏行為がおこなわれ、そして音が聴こえてくるのであるならば、その音は当の演奏行為によって生み出された響きだというふうにまずは認識する。だが中川は巧妙なまでに演奏行為と音を切り離して提示する。いま・ここで見えている光景が必ずしも音と地続きではないことをなんども知らしめる。それはしかしいわゆる当て振りとは決定的に異なっている。当て振りが音に合わせて身体を動かし、いま・ここで出来事が生起していることを仮構するのに対して、中川はむしろいま・ここで生起する諸々の出来事が結びつくことの無根拠さを暴き立てているからだ。むろん演奏行為と音響が必然的に結びついていることもあるだろう。だが演奏行為を見て音響を聴く受け手にとっては、自らの経験において視聴覚を恣意的に統合するしかないのである。だからこそ聖骸布に映る影もまた、単なる影像ではなく演奏行為の分身としてわたしたちの視界に入ってくる。わたしたちは中川による演奏行為の分身としての影のかたちを目で追い、同じように演奏行為の分身としてスピーカーから流れる響きを耳で追う。もしかしたら「地球シーソー」もまた分身かもしれない。演奏行為を目撃することは、ふつう、このように根源的には分断状態にあるはずの受け手の視聴覚を統合するための契機となる。それによって音楽が成立してきたと言ってもいい。しかし中川は演奏行為によってむしろ仮構された統合状態を分断しようとする。受け手が視覚と聴覚を結びつけることの無根拠性を演奏行為それ自体によって明らかにするのである。

  • *4 もとのテクストは「この展覧会は聖像衝突を論じるのであり、聖像破壊を論じるのではない」(ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』(荒金直人訳、以文社、2017年))。なお、他の引用は「原型が無ければ複製はあり得ない」(ジョージ・クブラー『時のかたち』(中谷礼仁・田中伸幸訳、鹿島出版会、2018年))、「スリルというのも『スルリ』と関係があるに相違ない。私はかつて偶然性の誕生を『離接肢(選択肢)の1つが現実性へするりと滑っていく推移のスピード』と言うようにス音の連続であらわしてみたこともある」(九鬼周造「音と匂──偶然性の音と可能性の匂」(『九鬼周造随筆集』菅野昭正編、岩波書店、1991年))だった。
  • *5 ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』152~153頁。
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コンサートという形式と演奏行為──プログラムB「“You are not here” is no use there」

 プログラムBの「中川裕貴、バンド(以下:、バンド)」によるコンサートは、合成音声によるアナウンスから幕を開けた。「転換中はコンサート・プログラムなどを見てください。よろしいでしょうか」という台詞が繰り返され、奇妙なイントネーションと声質も相俟って否応なく印象に残る。しばらくすると中川、ピアノの菊池有里子、ヴァイオリンの横山祥子が登場し、きわめて様式的に演奏がはじめられた。一曲めは激しい変拍子のリフが繰り返され、その後点描的な即興セッションも織り交ぜながら展開が次々に変わっていく「A traffic accident resulting in death, I took different trains, in random order」。アルバム『音楽と、軌道を外れた』にも収録されていた通称「事故(自己)」という楽曲で、あらたなヴァージョンにアレンジされている。演奏が終わると三人の奏者は一礼し、丁寧な足取りでステージを後にする。すると二人の「黒子」が出てきて舞台の転換がはじまった。ほとんどの観客は冒頭のアナウンスに従って楽曲の解説が記されたパンフレットへと目を落としている。「黒子」たちはステージ中央にマイクを立てたりコードをまとめたりなどしている。転換にしてはいくらか長く、やけにぶっきらぼうに機材を動かしているようにも見える。次第にその様子が明らかにおかしいことがわかってくる。立てたはずのマイクを片づけ、置いたはずの椅子を別の場所に移動させる。会場内で動き回る二人は、転換をしているようで実はなにもしていないのではないか。その予断は「黒子」の二人がステージ上の楽器類をはじめの状態に戻し、あらためて中川、菊池、横山の三人が入場してくるころには確信へと変わっていた。

 実は「黒子」の二人は「、バンド」のメンバーである出村弘美と穐月萌だったのである。もともとは俳優であり、ノン・ミュージシャンとして「、バンド」に参加していた彼女らは、転換をおこなうそぶりを見せながら、ステージ上でパフォーマンスをおこなっていたのだ。この二人が舞台後方の緞帳を開けると、煌びやかな銀色のカーテンが出現する。その煌びやかさに呼応するように「セクシーポーズー!」というかけ声の録音が再生される。水族館でおこなわれたアシカとセイウチのショーをフィールド録音した音源を流す「異なる遊戯と訓練の終わりの前にⅠ」という楽曲だ。チェロとヴァイオリンの二人がじりじりと弦を擦る不協和な音を出し、楽しげな海獣ショーの録音の再生が途絶えるとその鬱々としたノイズが前面に出てくる。そのうちに菊池が朗らかなピアノ・フレーズを弾きはじめた。だが唐突に演奏がなんども打ち切られ、海獣の雄叫びが再生されるとともにその鳴き声を模したかのような響きを三人が出す。音が引き起こす聴き手の感情の変化を聴き手自らに自覚させるかのように矢継ぎ早に変化するサウンド。続いて演奏されたのは「私たちとさえ言うことのできない私たちについてⅢ」という楽曲だった。こんどはヴァイオリンの横山が朗らかなメロディを奏でていく。そして彼女が一曲を演奏するあいだにピアノの菊池が三曲を、チェロの中川が五曲を演奏するというコンセプトの楽曲なのだが、この日はパフォーマーの出村と穐月が銀のカーテンを少しずつくるくると巻き上げていくなどの行為がさらに重なり、次第にステージ奥の窓がある空間が露わになっていった。

プログラムB「“You are not here” is no use there」(撮影:大島拓也)

 四曲めに披露された「ひとり、ふたり、或いは三つ目のために」は、クリスチャン・ウォルフの「For 1, 2 or 3 People」からインスピレーションを得た曲だという。出村と穐月がそれぞれエレキベースとエレキギターを抱えて座り、二人の前で教師のように立つ中川が演奏開始の指示を出す。不慣れにも見える手つきで弦を弾き、あるいは単音が静かにぽつりぽつりと鳴らされていくものの、これがあたかも演劇のように舞台上で繰り広げられているために飽きることがない。しばらくするとステージ奥からピアニカとヴァイオリンの音が聴こえてきた。同じ楽曲を菊池と横山がひっそりと演奏しているようだ。音遊びのように楽しげなセッションで、演奏する姿ははっきりとは見えないものの、出村と穐月のデュオに比べると多分に音楽的なやり取りに聴こえてくる。最後の楽曲は「106 Kerri Chandler Chords featuring 異なる遊戯と訓練の終わりの前にⅡ」。die Reihe 名義でも活動するジャック・キャラハンが、ディープハウスのDJとして知られるケリー・チャンドラーが制作したすべての楽曲に共通する106種類のコードを抽出した作品を、この日のためにリアレンジしたものだそうだ。チェロ、ピアノ、ヴァイオリンという編成による106種類の持続する音響が徐々に音量を増していくとともに張り裂けるように鳴り響く、ノイジーだが美しいサウンドだった。そしてそこに伴奏するように「、バンド」によるグルーヴ感溢れる演奏の録音が再生され、さらにステージ後方では装飾が施された小型ロボット掃除機のようなものが動き回っていた。

 「、バンド」の三人によるそれぞれの楽曲の演奏はどれもクオリティが高く、それだけでも公演としては十分に成立していたと言うことができるものの、楽曲と楽曲のあいだ、あるいは楽曲と同時並行的に別のパフォーマンスがあったということがやはりこのプログラムの特長を際立たせている。わたしたちはふつう、コンサートにおいて、ステージ上で披露される楽曲の演奏のことを音楽作品として捉えている。演奏と演奏のあいだは音楽の外部にある時間であり、ステージの外でおこなわれる行為は作品とは異なるものだと認識している。だが本当はそのときもまた、わたしたちはなにかを見ており、なにかを聞いているはずなのである。この事実が省みられることがないのはひとえに、わたしたちが音楽をコンサートという形式において聴いているからに他ならない。演奏者がステージに上がったら客席が静まり返り、あるいは歓声を上げ、演奏者が呼びかけたら応答し、演奏を終えたら拍手を捧げる。次の演奏がはじまるまでは作品外の時間として自由に過ごす。むろんジャンルによってその形式は異なるものの、形式において音楽を経験するという点では変わりない。さらに言うなら形式を抜きにして音楽そのものを経験することはないのである。そして「、バンド」による公演ではまさにこの形式それ自体が音楽として上演されていた。演奏、転換、演奏という流れや、ステージの内外を行き来することが、コンサートという形式の制度的なるものを演劇的な時間/空間として俎上に載せる。わたしたちはコンサートにおいて単に組織化された音響を享受しているのではなく、記憶と知覚が関連したトータルな出来事を体験しているのであり、このとき音楽を成立させるところの演奏行為とは出来事を産出するすべての──ロボット掃除機さえ含んだ(!)──行為者の振る舞いを指すことにさえなるだろう。

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選択する聴取体験と演奏行為──プログラムC「“You are not here” is no use there」

 プログラムC ではまず、FMラジオとイヤホン、それにイベントがいつ・どこでおこなわれるのかが記された用紙を渡され、来場者たちは芸術センター二階の大広間に集められた。試しにラジオを聴いてみると爽やかな小鳥の声が聴こえてくる。しばらくすると出村弘美が登場し、イベントの開始をアナウンスするとともに、囁くような小声で語りかけてきた。リアルタイムでマイクを通してラジオへと音声を流し、観客が持っている機器が正常に作動するかどうかの確認をおこなっているようだ。その後、同じ階にある講堂へと移動すると、なにか物音のようなものがラジオから聴こえてきた。講堂正面の緞帳の奥でパフォーマンスがおこなわれているのか、それとも録音が流されているだけなのかはわからない。すると講堂に置かれたピアノに菊池有里子が座り、演奏がはじまった。取り上げる楽曲はフランツ・シューベルトの「四つの即興曲」の第二曲、変ホ長調。だがこれはその練習だという。たしかに弾き間違いや弾き直しを繰り返しながら、やけにぎこちなく演奏が続けられていく。しかし練習と本番の違いを、ステージにおける演奏行為からわたしたち受け手が判別することは実は容易ではない。たしかに即興曲とはいえ作曲作品である以上、「正しい演奏」があるように見える。だが弾き間違いや弾き直しを交えて演奏することが作曲作品のひとつの解釈ではないと、なぜ言うことができるのだろうか。むしろこの公演においては相応しい解釈の在り方だとさえ言えるのではないか。そしてその間もイヤホンからは、テニスやゴルフなどのスポーツに興じているらしきフィールド録音が流れ続けていた。

 その後、文様作家であり怪談蒐集家の Apsu Shusei が創作し、中川が編集を加えた怪談が、建物の外にある二宮金次郎像の周辺で読み上げられるようだ。移動してみると建物の内部から窓越しにぼうっとこちらを覗いている人物がいた。虚ろな表情の出村弘美だった。手元のラジオからは彼女が朗読する怪談が流れはじめる。怪談の内容は次のようなものだった。田舎町の山奥にある洞穴に、「けいじさま」と名づけられた像があるという。それは鳥籠のような、あるいは人間の頭のようなかたちをしており、ある日、些細なことから家を飛び出した子供の「私」は、町を彷徨い歩くなか「けいじさま」に呼びかけられてしまう……。たしかに怖ろしい怪談ではあったものの、それ以上に、なんども反復されるこの「けいじさま」という言葉が妙に印象に残った。朗読が続けられるなか、講堂内では中川によるレコードを再生するというパフォーマンスがおこなわれていた。フィットネスのためのリズミカルな音楽で、怪談とは真反対で能天気にも聴こえる曲調が諧謔的に響く。同時に講堂では照明が点いたり消えたりするなど、「照明テスト」もおこなわれていた。続いて最初の大広間にて、横山翔子がアコーディオンを抱えて前説を交えながら、「上海帰りのリル」や「憧れのハワイ航路」など数曲の弾き語りをおこなった。この間もイヤホンからは、車両が行き交う街中の響きや汽笛が飛び交う漁港の響きなどのフィールド録音が流され続けていた。なおプログラムCではさらに、プログラムAの会場であったフリースペースにおいて、本公演の美術を担当したカミイケタクヤが、終始その造形作品を「調整する」という行為を継続しておこなっていたことも付記しておく。

プログラムC「“You are not here” is no use there」(撮影:大島拓也)

 そして最後は講堂を舞台に、出村とチェロを抱えた中川の二人によるライヴがおこなわれた。「最後に一曲演奏します」と中川が言った後、ジョン・ケージの「4分33秒」を演奏することが宣言される。周知のように「無音」の、つまりは演奏行為だけがある楽曲である。プログラムAおよびBを通して演奏行為とそれを取り巻く認識や形式を問いかけてきただけあって、いったいどのように趣向の凝らされた「4分33秒」が披露されるのだろうかと少し勘繰ったものの、演奏はきわめて正統的におこなわれた。出村がストップウォッチを用いて時間を測りながら、楽器を持った中川はじっと身構えてなにも音を出さずにいる。だがこのとき怪談における「けいじさま」が想起されるとともに、怪談を聴く手段であったポータブル・ラジオから音が流れ続けていることを思い起こした。急いでイヤホンを耳につけてみると、中川がかつて演奏した録音やフィールド録音が流されていた。目の前には演奏行為だけがある。他方でラジオからは音だけが流れている。この二つの時間を重ね合わせることによって、中川による演奏が音をともなって仮構される。しかしラジオの音はかつて演奏行為があったことの痕跡でもある。発音することのない演奏行為と、音を残して過ぎ去った演奏行為の、どちらがいま音楽を生み出している演奏行為だと言えるだろうか。むろん現実には無音などなく、つねになにかが、それも意図されざる響きが聴こえてくるということが「4分33秒」の要点でもあった。しかし想像を広げてみるならば、いまや様々な意図のもとに録音された過去の響きが現実のどこかで鳴り続けているのであり、これに「無音」の演奏行為を前にした聴き手が耳を傾けていてもなお、「4分33秒」はその体裁を保ち続けていることになるのだろうか。

 プログラムAおよびBを通して、わたしたちは演奏行為というものが、決して作り手の行為それ自体によって完結するものではなく、たとえば受け手による認識のプロセスによって視聴覚の統合がなされることもあれば、受け手が慣れ親しんできた形式のうちにあらわれもするということを経験してきたのだった。つまり演奏行為の成立条件のひとつとして受け手の存在が欠くべからざるものとしてあったのだが、プログラムCでは露骨なまでに受け手の行為が演奏行為の現出に関わっている。ここでは同時多発的にイベントが起きるというものの、実際にはメインになるイベントは限られており、結果としてほとんどの聴衆はあたかもパレードのように──ラジオとイヤホンを用いて散策するスタイルは、大阪で米子匡司らが主催してきた「PARADE」というイベントがもとになっており、同じ機材のシステムも借り受けているという──おおよそ同じ経路を移動していった。それはこのプログラムがイベントの同時多発性よりも受け手が聴くことを選択する行為に主眼があったということでもある。わたしたちはイヤホンを耳に入れることで別の時間/空間における響きを経験する。あるいはイヤホンを外すことでいま・ここで生起する響きを経験する。この二種類の時間と空間を、一人ひとりの聴き手が選択することによって、個々別々の経験を織り成していく。そのとき眼の前で繰り広げられている演奏行為は、たとえ練習であっても、レコードの再生であっても、前説を交えた弾き語りであっても、「無音」の上演であっても、あるいは身震いするような怪談であっても、聴き手の選択によって自由に遮られ、すぐさま断ち切られてしまうような無力なものでしかない。だがこのように無力だからこそ、演奏行為が聴き手のうちに音楽として立ちあらわれるときの強度は計り知れないのだとは言えないか。

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音楽の成立条件を問うこと──幽霊的な演奏行為を通して

 分断された視聴覚、コンサートという形式、そして選択する聴取体験。これら三つの公演を貫いていたのは、単なる組織化された音響ではなく、作り手の身振りや行為、空間や物体、受け手の記憶や知覚作用など、音を取り巻く音ならざる要素によって音楽と言うべき出来事が成り立っていたということである。なかでも演奏行為によって出来事が生み出され、あるいは出来事が演奏行為として立ちあらわれることは、『ここでひくことについて』の核となるテーマでもあった。このように音楽における行為を前景化する試み──それもミクストメディア、音楽的演劇、遊歩音楽会とも言い換えられるような実践からは、かつて1950年代から60年代にかけて盛んにおこなわれたシアター・ピースを思い起こすことができる。行為や身振りなどを音楽の要素として取り入れたシアター・ピースは、庄野進によれば二つの流れに分けて捉えることができる(*6)。ひとつはジョン・ケージらに代表されるアメリカを中心とした流れであり、音をともなう行為によっていま・ここで生起する偶然性を、作り手が意図し得ない出来事の総体としてあるがままに現出するという非構成的な傾向である。もうひとつはマウリシオ・カーゲルやディーター・シュネーベルらに代表されるドイツを中心とした流れであり、身振りや言葉といった演劇的な要素を音楽の素材として作曲していくという構成的な傾向である。この二つの流れは様相を異にするもののいずれも非物語的であり非再現的であるという点で共通しており、この意味でそれまでのオペラやミュージカルをはじめとした音楽劇とは一線を画していたと庄野は言う。そのため「劇場は模倣され、再現されたものを伝達し、理解する場ではなく、そこに居合わせる人々とともに、その場で起こる出来事を共有し、しかも日常生活へとそれを持ち帰り、常に我々の生の意味を確認し、再活性化するための『コミュニオン』の場」(*7)となっていったのである。

 しかしこうしたシアター・ピースにおける基本的な性格として見落としてはならないのは、どちらの流れにおいても第一に演奏家の身体を「再発見」したという意義があったことである。その裏には演奏行為が置かれ続けてきた立場を見なければならない(*8)。西洋音楽の歴史においては長らく、演奏行為とはまずもって解釈行為のことだった。創造の源泉となるのは記譜された作曲作品であり、その作品のイデアルな芸術性を受け手に届けるために、作品を解釈し、現実の鳴り響きとして具体化することが演奏家の役目だった。このとき演奏行為は作曲作品の芸術性をできるだけ損なうことなく受け手に伝達することが重要であり、アルノルト・シェーンベルクが語ったとされる「演奏家はおよそ不要な存在なのだ。十分に楽譜が読めない気の毒な聴き手に楽曲をわからせるため、演奏してみせる場合を除いて」(*9)という言葉のように、ときには透明であることさえ望まれるような音楽の付帯的な存在でしかなかった。それはたとえヴィルトゥオーゾのように演奏家自身の創造性に光が当てられることがあったとしても、あくまでもまずは作曲作品があり、その解釈において生み出されるヴァリエーションとしてしか輝くことができなかった。だが音楽の現場にいるのは演奏家であり、音を発するのもまた演奏家である。そしてどれほど理想的な解釈であろうとも、作曲作品のイデアそのものに到達することはできない。むしろ音響が生起する場所を考えるならば、作曲作品こそが音楽における付帯的な要素とさえ言えないか。ここから演奏家というものの重要性があらためて立ち上がる。音楽が生まれる現場には演奏家の身体があるという当たり前と言えば当たり前の事実に気づくことになる。

 このように見出された演奏家の身体を、しかしシアター・ピースのようにあらためて作曲家の創造性を伝達するための媒介物とするのではなく、演奏行為それ自体が創造の源泉であり、むしろそれのみが音楽を成り立たせているのだと捉えるとき、期せずしてヨーロッパにおける自由即興の文脈へと近接していくことになる。自由即興もまた、作曲家を中心とした西洋近代主義的なヒエラルキーに対して、貶められてきた演奏家の役割を取り戻すという批評性があったのである。すなわち演奏行為について思考と実践を徹底的に積み重ねるならば、なかば必然的に即興性をめぐる問題へと関わっていく(*10)。むろん『ここでひくことについて』は三つのプログラムが三日間をかけてそれぞれ三回反復されており、そのためのリハーサルもおこなわれている。その意味ではどの公演も即興性とは相容れない再現性を持っているように見える。だが同時にこれら三つの公演は、記号の領域へと抽出し、別の場所で別の人物によって再現できる性格のものでもない。京都芸術センターという特有の空間があり、そして中川裕貴および「、バンド」という集団の個々の身体と密接に結びつきながら、はじめて実現し得る出来事なのである。その意味ではいま・ここにある個々の身体を離れては再現不可能な出来事であり、だからこそそれぞれの受け手にとってもまた再現不可能な経験がもたらされている。それは作曲作品において尊ばれる同一性よりも、即興性がその原理において触れるところの非同一性を湛えている。あたかも演劇が同一の舞台公演を反復しながらも、ひとつとしてまったく同じ出来事にはなり得ないように。

 演劇ではステージ上の人々がここにはいない人物を演じ、ここには存在しないはずの物語を立ち上げる。それに対して演奏行為はステージ上の人々がまさに当の本人であることによって、ここにしか響くことのない音楽を立ち上げる。だが本公演を通して経験してきた出来事は、どれもここで起きることが不確かなものであり、目に見えるものと耳に聞こえるものが、いま・ここで繰り広げられている演奏行為とは別様に体験されるということだった。わたしたちは視覚と聴覚が結びつくことの無根拠さを経験し、音楽を享受することを規定している形式性を経験し、そして異なる時間/空間へと聴覚的に旅することによって演奏行為の無力さを経験してきた。それらはシアター・ピースにも似ているものの、それは単にいま・ここにある身体的な行為を前景化しているからというよりも、むしろいま・ここにはないものを現出するという意味で演劇的なのである。三度反復される演奏行為は同一のものの再現ではなく、いま・ここへと徹底的に縛られた即興性が原理的に非再現的であるようにして、しかしながらいま・ここには存在しないはずのものの根源的な非同一性としてその都度現出する。そして受け手であるわたしたちはこの幽霊のように見えないものと聞こえないものに立ち会うことになる。このとき演奏行為は音楽を鳴り響きとして現実化するための手段ではなく、わたしたちがなにを音楽として捉え、どのように享受し、あるいはいかにして接することができるのかということの、いわば音楽の成立条件を経験のうちに明らかにするものとしてある。そうであるがゆえに『ここでひくことについて』における演奏行為は音楽へと捧げられていたと言ってもいい。それはこれまでの音楽秩序を破壊していたのでも、あらたな音楽秩序を構築していたのでもない。そうではなくむしろ、その成立条件に触れることで明かされる音楽秩序なるものの不安定な揺らぎを、破壊的か構築的か容易には判別のつかないような行為によって、すなわち幽霊的な演奏行為の「衝突」を発生させることから、来たるべき音楽の姿として呼び寄せていたのではないだろうか。

  • *6 庄野進「新しい劇場音楽」(『音楽のテアトロン』庄野進・高野紀子編、勁草書房、1994年)。
  • *7 同前書、51頁。
  • *8 もうひとつの背景として、松平頼暁が「アクションなしのサウンド」と述べたように、録音音楽さらには電子音楽といった、行為を必要としない音楽が一般化してきたことも挙げられる。なお、松平はシアター・ピースを「従来の演奏行為の延長としてのアクション」と「インターメディアまたはマルチメディア的な手法で、サウンド以外のメディアとしてアクションが加わるもの」という二種類のアプローチに区分けし、前者の例としてケージらを、後者の例としてカーゲルらを挙げている(『音楽=振動する建築』青土社、1982年)。
  • *9 大久保賢『演奏行為論』(春秋社、2018年)13頁。
  • *10 反対に即興性に関する思考と実践を徹底的に積み重ねることは必ずしも演奏行為をめぐる問題に突き当たるわけではない。たとえば Sachiko M がサンプラーそれ自体に内蔵されているサイン波を発する動作、あるいは梅田哲也が動くオブジェクトを会場に設置していく振る舞いなどは、即興的なパフォーマンスとは呼べるものの演奏行為および身体性とは異質な側面があるということには留意しておかなければならない。

special talk - ele-king

 今週末の10月12日、渋谷 CONTACT にてジャイルス・ピーターソンの来日公演が開催される。もしかするとこれは今年もっとも重要なパーティになるかもしれない。ジャイルスのプレイが楽しみなのはもちろんではあるが、それ以上に注目すべきなのは、90年代から日本の音楽シーンを支え続け、昨年現行のUKジャズとリンクする新作を送り出した松浦俊夫と、日本の現状を変革しようと日々奮闘している Midori Aoyama、Masaki Tamura、Souta Raw ら TSUBAKI FM の面々との邂逅だ。さらに言えば、GONNO × MASUMURA も出演するし、Leo Gabriel や Mayu Amano ら20代の若い面々も集合する。ここには素晴らしい雑食があり……つまりこの夜は、いまUKでいちばんおもしろいサウンドが聴ける最大のチャンスであると同時に、ジャンルが細分化し、世代ごとに分断されてしまった日本の音楽シーンに一石を投じる一夜にもなるかもしれないのだ。20代も50代も交じり合う奇跡の時間──それは最高の瞬間だと、松浦は言う。というわけで、今回のイヴェントを企画することになった動機や意気込みについて、松浦と青山のふたりに語り合ってもらった。

[10月11日追記]
 10/12(土)開催予定だった《Gilles Peterson at Contact》は、台風19号の影響により、中止となりました。詳細はこちらをご確認ください。

いまの音楽を追わなくなった人がすごく多い。懐かしいものに帰ろうとしている傾向がある。90年代の音楽を聴きなおすことも大事だけど、いま自分たちが生きているなかで、日々たくさんのフレッシュな音楽が生まれていることは事実。 (松浦)

10月12日にジャイルス・ピーターソンの来日公演があります。松浦俊夫さんとともに青山さんたちも出演されます。自分たちの世代と松浦さんの世代を橋渡ししたいというような考えが青山さんにはあったんでしょうか?

Midori Aoyama(以下、青山):そうですね。松浦さんがジャイルスのパーティをオーガナイズすることを知ったので手をあげました。自分もジャイルスが紹介している音楽をかけているDJのひとりだし、ラジオもずっと聴いていますし。TSUBAKI FM というラジオをはじめて、いままでハウス・ミュージックをやっていたところから、少しずつ広がっていくのをこの2年間で肌で感じたんです。こういうタイミングがきて、自分のなかで「いまかな」と思って。もし縁があればおもしろいことができるんじゃないかなと思いました。

松浦俊夫(以下、松浦):もちろん青山さんのお名前は知っていましたけど、実は今回の件で初めてお会いしてお話したんですよね。

青山:以前何度かご挨拶だけはさせてもらったんですが、そのときは自分の音楽について話すということもなかったですし、松浦さんと深く時間をとって話すことはなかったので。この対談はお互いの考え方とか意見を交換する貴重な機会だと思っています。

松浦:日本ではジャンルとか世代が、いままでバラバラだったところがあって。シーンが細分化されて、それぞれがそれぞれの細かいところにいて、全体として勢いを失った印象です。UKのシーンのおかげかわかりませんが、またジャンルが関係ないところで音楽がひとつのところに寄ってきているのをここ何年か感じています。ジャンルとともに世代もつながっていることをヨーロッパには感じていたんですけど、日本では自分たちは自分たちみたいな感じなので、どうそこを突破していこうかなということを数年悩んでいたんです。青山さんみたいにある意味でアンビシャスがある人たちが日本にはちょっと少ないかなと。今回の企画はそれぞれの叶えたいこととともにシーンのことを考えてもっとジャンルと世代を関係なくつなげていこうというところでひとつになっているなと思います。今回一緒にやるという意義をそこにすごく感じています。

それぞれが叶えたいこととは?

松浦:世代を超えたいというところ。50歳を超えてクラブに来る人も当然いるけど、90年代にクラブだったり、音楽にどっぷりつかった生活をしていた人たちって、社会に出たり、家庭ができたりで、いまの音楽を追わなくなった人がすごく多い。懐かしいものに帰ろうとしている傾向がある。学生時代に聴いていた90年代の音楽を聴きなおすことも大事だけど、いま自分たちが生きているなかで、日々たくさんのフレッシュな音楽が生まれていることは事実。それを味わってもらうために自分はDJとして選曲家として、クラブやその他のメディアで活動をしているつもりです。
 さらに若い人たちにジョインしてもらうためにはある程度降りていかなきゃいけないなと思っている。自分はどんどん濃くしていきたいんだけど、これを薄めて若い人たちにつなげていくというのは、自分的には違うから、若い人も巻き込んでいくやり方がいいんじゃないかなって思います。それがうまくできているのがUKのシーン。そのスペシャリストがジャイルスなのかなという気がする。イギリスだけじゃなくて、ヨーロッパでも、自分が手掛けてない音楽も含めてひとつにまとめてくれる、それが彼の感覚のすごさですよね。これをなんで日本ではできないのかという葛藤があっただけに、今回こういう機会を作ってもらえたので彼の手を借りて、みなひとつにするチャンスだと思っています。

降りていくというのは、キャッチーな曲をかけるとか?

松浦:そういうことですね。これは音楽だけではないと思うけど、ちょっと難しくなると暗いとか。それは昔から変わらないですよね。かといってマイナーなことが格好いいかというとそうでもないと思う。誰も聴いたことがないプライヴェート・プレスで、アルバムで3000ドルくらいしますみたいなものでも、聴いてみると別にそんなすごいアルバムじゃない。そうではなくて、聴いたときに誰の何かわからないけど、これっていいよねということをシェアできるようにしなきゃいけない。ここ数年でイギリスのシーンが動き出したことでライヴ・ミュージックとしてミュージシャンが作る音楽とクラブで完結していたダンス・ミュージックが、やっと30年くらいかかってひとつになった。それは人力テクノとかではなくて、これこそオルタナティヴな音楽が生まれる瞬間なのかな。これは日本にも当然余波として来るべきですね。90年代のレアグルーヴだったり、アシッド・ジャズの流れで東京からいろんなユニットやバンドが出てきたように、東京からももっと出てくるタイミングじゃないかなと思っています。

パーティやDJを10年間くらい続けてきて同世代には広げ切ったという感じがあった。次何をするかとなったら、若い人と何かやるか、上の世代とやるしかない。松浦さんやジャイルスのお客さんにも自分たちのやっていること、自分の実力を証明したい。 (青山)

青山さんの野心は?

青山:僕と松浦さんって音楽的にリンクしてないって周りの人は思っている。これが伝わっていないことが自分のなかのジレンマです。松浦さんはジャズ、僕はハウスというイメージで完全に分かれている感じ。でも松浦さんがラジオで、僕が Eureka! でブッキングする外国人DJをプッシュしてくれていたことは知っていたし、ありがたいなと思っていました。
 パーティやDJを10年間くらい続けてきて同世代には広げ切った、自分のなかではつながれるところはほとんどつながった、やりたいクラブでも全部やったし、呼びたい海外DJも呼んだし、自分のやりたいパーティもやって、なんか終わったなという感じが正直あった。次何をするかとなったら、若い人と何かやるか、上の世代の人と何かやるしかない。世代、環境、性別、国とかを超えて何かもっと強く発信していかなきゃいけないなと思っていたんです。そのなかで自分がいまいちばんおもしろいなと思っているシーンはUKのジャズ・シーンだったり、UKのハウスだったりするんですね。だからこそ松浦さんとやるということはひとつのカギだったし、松浦さんやジャイルスのお客さんにも自分たちのやっていること、自分の実力を証明したいなと思っている。全然ダメじゃんと言われたらそこまでですけど(笑)。
 一回背伸びしてチャレンジするいいタイミングかなって思っています。いまの自分たちに何ができるのか。どういうものを知ってもらえるのかというのをこっちから表現して、松浦さんやジャイルスの世代のひとたちが、もっとこうしたほうがいいとか、こういうのが足りないと思ってくれるのならそれを取り入れて改善したい。最終的にはもともと自分が持っているハウスとかテクノのコミュニティにも刺さったらいいですね。そもそもジャイルスのイヴェントに自分たちが出てくるということ自体雰囲気的にハテナな人もいると思う。とくに今回のラインナップで言うと、Masaki (Tamura) 君とかは納得いくけど、Souta Raw はディスコだし、ジャイルスとどこがリンクするの? みたいな話になる。でもやっている本人たちはそんなことないんです。ジャイルスがかけているディスコとかファンクとか、彼が紹介しているハウスとかにすごくインスパイアされている。そこはもう少し目に見えるかたちで、身体で感じられるレヴェルで表現したいと思った。それが今回いちばんやりたいこと。

松浦:自分は意識していないけど、寄り付かせない何かをまとっている部分があると思うんです。だから、実際に大きな音で聴いてもらって、みんなが思っているジャズだけというイメージとは違うということをわかってもらえるといいですね。聴いたことない人たちにも、今回青山さんがお手伝いしてくださることによって集まってくれた人たちにも届けることができたらお互いに新しいお客さんを巻き込むことになる。これがうまくいけばその次もあるんじゃないかなって思う。

いまのUKでいちばんおもしろい音を聴けるチャンスですよね。UKのジャズのおもしろさは雑食性、ジャズの定義の緩さというか、新しいビートを取り入れることなわけですから、今回のパーティはまさにその雑食性を表現しているように思います。

松浦:そうだと思いますね。たぶんジャズをやろうとしてはいないんじゃないかな。ジャズというフォーマットのなかで勝負するのであればアメリカに行ってアメリカのなかでジャズをやると思う。新しいものを生み出すということのなかで、あえてジャズにしようとしていないのはたぶん意図的にやっているんじゃないかな。

アシッド・ジャズのときも、あれはジャズではないですよね。

松浦:また30年くらいたったときにやっていることは違うけど、ムードが近い雰囲気になってきているなと思いますね。ちょっと遅れて日本に届いてくる感じもあのときの感じに近い。やっとここで動くんじゃないかなという期待が今回のイヴェントにある。いちばん若い子だと Leo (Gabriel) 君ですね。

青山:あとは Mayu Amano ちゃんという一緒に TSUBAKI FM を運営してくれている彼女も20代前半ですし。

松浦:プレイする方も混ぜたいけど、お客さんにも混ざってほしいな。90年代に yellow というクラブがあて、21時オープンで5時まで Jazzin’(ジャジン)というレギュラーをやっていたんですけど、21時から0時くらいまでではサラリーマンとかOLの人たちでひと盛り上がりして、2時くらいから六本木の水商売の人がやってきてまた盛り上がるという二段階。それが交わる瞬間が0時から2時くらい。そのとき交じり合っている世代は50代から20まで。そういう景色を見るとやっぱり音楽ってすごいんだなって思いますよね。ジャンルとか、年齢みたいなものがぐちゃぐちゃになっていてみんな楽しそうにしている景色を見るのは最高の瞬間ですよ。

青山:yellow のときの状況はすごかったと思うんです。僕が20とかのときに最後の yellow に行っていたから僕のクラブの初期衝動はあの場所が大きい。自分でこういうパーティをつくりたいというイメージはけっきょく遊んだときのもの。年齢の垣根を越えている感じとか、熱量、あれが自分基準値になっている。

他のジャンルでも世代は固まっている気がしますね。

青山:だからこそ熱量のある空間をできる限りつくっていくというのが20代以上の世代の人たちがクラブとか音楽シーンに求められていることだと思うんです。そうやって下の世代に引き継いでいくことはすごく大事だと思う。
 松浦さんはご自分で発信している音楽とか、U.F.O.で昔やっていた曲とかが、いまの世代にまた伝わりはじめているなと感じることはありますか?

松浦:そうですね。なぜそうなったのかはわからないですけど。時代の周期みたいなものがあるのかな。その周期を見ながら、現在も新しいものをつくろうという気持ちは変えずにいきたいな。あと、自分で自分がやりたいことをできるような場を作るにはどうすればいいかということはつねに考えている。

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ジャンルとか、年齢みたいなものがぐちゃぐちゃになっていてみんな楽しそうにしている景色を見るのは最高の瞬間ですよ。 (松浦)

すごいなと思った最近のUKのジャズは?

青山:でもけっきょくヴェテランがいいなと思っちゃいますね。最近はカイディ・テイタムが好き。

松浦:アルバム単位というよりかは、自分の場合は曲単位で選んでいます。アシュリー・ヘンリーのアルバムとか、〈Sony〉が久々にああいうUKのアーティストを出してきたのはすごくおもしろい。ソランジュの曲をピアノでカヴァーしたり。ネリーヤ(Nérija)もそうだし。あとはポーランドのアーティストもすごくおもしろくなってきている。ジャズのなかでのせめぎあいではなくて、オルタナティヴ・ジャズのシーンみたいなものがあるとしたら、そのなかで勝負している感じが非常におもしろい。その方向性は人によってはアフロに寄ったり、カリビアンによったりする。ただストレートにどこかのジャンルに一直線に走っているわけではなくて、いろんな要素を加えながらそのアーティスト独自の表現を探そうとしているところがきっとおもしろいんだろうな。

イギリスにはジャイルスみたいな人が何人かいますよね。〈Honest Jon's〉みたいなレコード店だってそう。若い世代でいうと、ベンジー・Bがジャイルスの後継者になっている。イギリスにはこれがいい音楽だって言える目利きの文化みたいなものがありますよね。あとはブラック・ライヴズ・マターとか、人種暴動があったり、ヘイトクライムがあったりそういう世の中で、UKジャズが体現しているのは人種やジェンダーを超えたひとつのコミュニティ。それはいまの時代に説得力がある。

松浦:テロが起きたことと、コスモポリタンになったということがイギリスが強くひとつになれる理由なのかな。

やっぱり日本って借り物の印象がすごく強いと思います。どうしても外タレ崇拝みたいなところがある。ファッションもDJも全部そう。そこをまず変えていかなきゃいけないのかなという使命感があります。 (青山)

イギリスから音楽の文化が弱くなったように見えたためしがない。つねにみんな音楽が好きだし、いい曲が出れば「これいいよね」という会話が普通に成り立つような国だから。

松浦:アンダーグラウンドの場所が世の中にあるというのがすごいですよね。自分がいくつになっても自分の楽しみを続けていこうという姿勢は強いかな。

青山:イギリスって自国から生まれたものをすごく大事にする印象がある。やっぱり日本って借り物の印象がすごく強いと思います。どうしても外タレ崇拝みたいなところがある。ファッションもDJも全部そう。海外のカルチャーを受け入れてどう日本で消化させていくかということがこの20年~30年続いているなと思う。そこをまず変えていかなきゃいけないのかなという使命感があります。

松浦:そうですね。Worldwide FM をやっていて、日本の番組だから日本発の新しい音楽をできるだけ紹介したいし、ゲストも若い日本人の人を紹介したいんだけど、なかなか難しい。

青山:それは僕も正直ある。他のネットラジオなどを聴いていても、こんなに毎週毎月UKから新しいミュージシャンやアルバム、コンピレーションがガンガン出ているのに、日本からは1枚も出ない。もちろんアーティストのレヴェルの問題もありますけど、仕組み自体を変えないとダメだなと思う。UKが仕組みとしておもしろいのはジャイルスみたいな良い曲を判断してくれるキュレーターがいて、そういう音楽を発信するプラットフォームがあって、そこで曲を発信したいと思って作曲するアーティストが増えるという形で循環しているところ。ジャイルスだけじゃダメだし。アーティストがいるだけでもダメだし、ラジオがあるだけでもダメ。全部がはじめてひとつの輪になってグルーヴが生まれて、それがシーンになっていくと思うんですけど、日本にはそれがない。あるかもしれないけど、局地的だったたり、つながってない。そこをまずひとつにしていくという作業が次の10年で大事なのかなと思う。それを僕は TSUBAKI FM で体現したい。海外のラジオを日本でやろうとかということではなくて、日本オリジナルのブランドを作らないとどうにもならないなって。  さらにもうひとつはアーティストもレーベルも、ディストリビューションも日本になるといいですね。日本でプロモーションを世界に向けて発信して、世界で評価されるというところまでもっていきたい。それが次の日本の音楽シーンが目指す目標だと思う。それを目指すためのひとつのピースとして TSUBAKI FM だったり、もっとみんな真剣に考えて取り組まなきゃいけないなと思います。

松浦:それこそ90年代に『Multidirection』っていうのを2枚作りましたけど、そのくらい集めたくなるほど新しい音楽を生み出せる環境、インターナショナルで聴かせたいというものがもっと出てきてほしいな。もうちょっとグルーヴのある音楽で出てきてくれるといいな。でも巻き込んでいくしかないのかな。こういう音楽をつくっても出ていけるというふうに感じないとダメなのかな。

青山:そこはDJや僕らの仕事かもしれないですね。ここの曲のこういうところにグルーヴがあればかけられるんだよとか、使えるんだよなということを、アーティストに要求していく。日本にはレールもないし、アーティストに対して要求する人が全然いない。アーティストがこれが良いと思ったものをそのまま出しちゃっているから、そのアーティストの仲間は受け入れてくれるかもしれないけど、周りの人に伝わるかといったら伝わらないこともある。そこは第三者がディレクションをしてあげることでもっと深みがでると思う。なので、アーティストに対してDJとかプロモーターとかレーベルをやっている人が近づいて要求していくという作業も必要ですね。

松浦:流れができれば国内からも必然的に出しましょうという話になると思う。

青山:そういうことをやりたいという目標があるけど、それをちょっとずつ広げていくために今回のイヴェントはすごくいい機会です。松浦さんとお仕事ができただけで価値あることだと思う。

松浦:まだまだはじまったばかりだからね。僕にとっての大先輩、トランスミッション・バリケードというラジオをやられていたふたりと一緒にDJをやったとき、自分はここにいていいのかなくらいの緊張感があった。でも終わってから選曲がよかったと言ってもらえたので嬉しかったですね。この年でもまだ緊張感が生まれる先輩がいてよかったなと思う。逆にそういう関係性が世代を超えてできたらいいですね。年齢的に一回り以上年上の方でも新しい音楽を中心にプレイしようという意思が感じられたので、自分ももっとがんばらなきゃなと思いました。

(聞き手:野田努+小林拓音)

Gilles Peterson at Contact
2019年10月12日(土)

Studio X:
GILLES PETERSON (Brownswood Recordings | Worldwide FM | UK)
TOSHIO MATSUURA (TOSHIO MATSUURA GROUP | HEX)
GONNO x MASUMURA -LIVE-

Contact:
DJ KAWASAKI
SHACHO (SOIL&”PIMP”SESSIONS)
MASAKI TAMURA
SOUTA RAW
MIDORI AOYAMA

Foyer:
MIDO (Menace)
GOMEZ (Face to Face)
DJ EMERALD
LEO GABRIEL
MAYU AMANO

OPEN: 10PM
¥1000 Under 23
¥2500 Before 11PM / Early Bird
(LIMITED 100 e+ / Resident Advisor / clubbeia / iflyer)
¥2800 GH S Member I ¥3000 Advance
¥3300 With Flyer I ¥3800 Door

https://www.contacttokyo.com/schedule/gilles-peterson-at-contact/

Contact
東京都渋谷区道玄坂2-10-12 新大宗ビル4号館B2
Tel: 03-6427-8107
https://www.contacttokyo.com
You must be 20 and over with photo ID

Alva Noto & Ryuichi Sakamoto - ele-king

 これまで幾度も共作・共演を重ね、昨年もライヴ盤『Glass』を発表しているアルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)と坂本龍一が、新たにライヴ・アルバムをリリースする。今回は2018年にシドニー・オペラハウスで録音されたもので、当日の即興や、イニャリトゥ『The Revenant』のテーマなど、これまでのふたりのコラボ曲によって構成されている。発売は11月15日。

[11月15日追記]
 上記ライヴ・アルバムの日本盤の発売が決定しました。発売は11月29日、リリース元は〈インパートメント〉です。詳細は下記をご確認ください。

日本盤情報

発売日:2019年11月29日(金)
品番:AMIP-0200
アーティスト:Alva Noto & Ryuichi Sakamoto
タイトル:‘TWO’ - live at Sydney Opera House
レーベル:NOTON
フォーマット:国内流通盤CD
本体価格:¥3,200+税

https://www.inpartmaint.com/site/28519/

 以下は当初の情報です。

Alva Noto & Ryuichi Sakamoto
TWO: Live at Sydney Opera House
NOTON
12" Vinyl Album / CD Album
Available 15 November 2019

Tracklist:

01. Inosc
02. Propho
03. Trioon II (Live)
04. Scape I
05. Berlin (Live)
06. Scape II
07. Morning (Live)
08. Iano (Live)
09. Emspac
10. Kizuna (Live)
11. Gitrac
12. Monomom
13. Panois
14. Naono (Live)
15. The Revenant Theme (Live)

https://noton.greedbag.com/buy/two-120/

消費税廃止は本当に可能なのか? (1) - ele-king

消費税が10%になり数日が経った。
本稿では「消費税廃止は本当に可能なのか?」と題し、その実効性が理論として正しいのか検証していきたい。

 i-Tunesで好きなアーティストの楽曲を買う際にも、Amazonで書籍を購入する際にも、コンビニでビールを買う際にも、誰でも買い物をする際には10%の消費税を支払うことが義務付けされた。

 30代以下の若い人たちにとっては、物心ついた頃から消費税は課されていて、あって当たり前のもの、税率は上がって当たり前のものとして認識されてきただろう。しかし、20,000円の財布を買う際には2,000円分の税が含まれ、パソコンを70,000円のものに新調する時には7,000円の税を支払うことになると聞いたら、大きなインパクトを感じるのではないだろうか。


画像:山本太郎氏・街頭演説より。池戸万作氏作成。

 そればかりか、上図のように、一か月に20万円消費する人にとっては、年間で22.8万円の消費税が課されるとする試算もある。総務省「家計調査」と比較するならば、年収400~500万円の人に相当するだろう。同調査によると年収が300~400万円だとしても消費税納税額は19万円とされ、消費性向(所得のうち消費に割り当てる割合)の違いにより、平均所得付近の層の納税額はさほど変わりないこともわかる。

 約20万円もあればちょっとした海外旅行にだって行けるし、服だっていろいろ買える。友達や恋人と食事に行く回数を増やすこともできるだろうし、子供がいるならその為の用立ても可能だ。自分にはそんな贅沢はできない、奨学金も返済しなければならないしローンや借金もあるという人だって、もしこの数十万円が浮くとなれば随分と生活が楽になるのではないだろうか。そう考えると、なぜこんなに多額の税金を払わなくてはならないのかと怒りさえ感じるのではないか。

 去る9月12日、共産党・志位和夫代表とれいわ新選組・山本太郎代表の党首会談が行われ、「5野党・会派と市民連合が合意した共通政策」をベースに「消費税廃止を目標にする」ことが政策合意として結ばれ、そのうえで「野党連合政権にむけ大事な合意が確認できた」とし共同会見を行った。消費税廃止を掲げる”影の”連合政権と呼べる存在が誕生したことにより、今まで非現実的だと思われてきた消費税廃止にも一定の現実味が帯びてきた格好となる。

 10月から施行された10%消費増税に関しては、これまでも国内外を問わない形で、スティグリッツやクルーグマンという複数のノーベル経済学賞受賞者を含む様々なエコノミストからも批判が投じられている。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは社説で、消費税増税が経済をさらに悪化させる「自傷行為」になるとの見方を示したほどだ。

 筆者もマクロ経済学初学者ながら、消費税は廃止にすべきだとの見方を強めている一人だが、一方でこの自傷行為と揶揄された消費税を、日本国の社会保障のために必要だと考える人たちも多い。本当に自傷行為になるかどうかは、今後の各種経済指標を注視する必要があるのだろうが、10月までのメディア各社の世論調査では、消費増税に反対する人が過半数を占めるものの、おおよそ賛成派と拮抗する形となっている。

 増税賛成派の多くには「増え続ける社会保障費を賄うためには増税はやむを得ない」「将来世代のツケとなる国の借金1100兆円をこれ以上膨張させてはならない」という意見が根強い。また、この10%増税に賛成したばかりか、財界を代表する団体、日本経済団体連合会(経団連)は19%への増税を、経済同友会は17%への増税をそれぞれ政府に対し提案している。

 しかし、このような仰々しい名称を冠した経済団体はあくまで企業経営者の集団だ。マクロ経済学や財政学の専門家でもなんでもないロビイスト団体が、その能力を超えて日本政府に経済政策の提言を行っているのだから酔狂にも等しいと言えるのではないだろうか。「経営」と「経済」はまったくの別物で、いうなれば、経営は「ビジネスを介して人々から富(貨幣)を取り上げること」、対して経済は「人々に富(貨幣)を生み出し分け与えるもの」というくらいの違いがある。「経済」の語源である「經世濟民」が、[世をよく治めて(經めて)人々を苦しみから救う(濟う)こと]とされるように、営利企業の「経営」とは真逆とも言って良いほどに質が異なるのだ。

 では、「富を取り上げる」とはどういうことか。企業経営者たちが業績を上げるために躍起になる「無駄の削減」や「イノベーション」というものは、人々が受け取るはずだった所得を奪う行為で、誰かの富を別の誰か(主に資本家)に移し替えるだけの行為に他ならない。これは、実体経済市場全体にとって特に良いことはないばかりか、富が偏在し過ぎた場合は、是正されなければならない対象ともなり得る。

 もちろん、民間で活発なビジネスが行われることによって貨幣の流通速度が速まり、経済発展に寄与するというメリットもある。しかし、例えば今までカメラや時計、音楽再生機、パソコン、電話というようにその特性別に分かれていたものが、スマホという商品に機能が集約されるようなイノベーションが起こると、それまでカメラ単体を製造していた業者は淘汰され、そこで生まれていた従業員の所得も失われることになる。この一点をマクロ経済の視座から見ると、実体経済市場を巡るはずだった貨幣が資本家の貯蓄や金融資産へと消えることになり、全体の富の損失に繋がることがわかる。

 「合成の誤謬」という概念がある。大辞林によると、「個々人にとってよいことも、全員が同じことをすると悪い結果を生むことをいう語。個人にとって貯蓄はよいことであっても、全員が貯蓄を大幅に増やすと、消費が減り経済は悪化するなど」とある。ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロのスケールでは、意図しない結果が生じることもある。企業が「無駄の削減」などに勤しむと、かえってその分マクロ経済を巡る富(貨幣)が少なくなるということだ。

 一般的には、無駄の削減やイノベーションを通じて自身の収益となったことが、「富を創出した」のだと誤解されている。しかし実態は逆だ。多くの企業経営者も、自らの商行為を通じて国の経済に貢献したと誤解しているのではないだろうか。この行動様式や勘違いこそが「合成の誤謬」と呼ばれる類いとなるが、彼ら企業経営者たちは、国家財政やマクロ経済を企業会計と同一視してしまう「家計簿脳」に陥り、そのアニマル・スピリットは、デフレ状況下であればただただ富を食いつぶそうとする方向に働いてしまう。

 当コラムでも何度かお伝えしているように、反緊縮のロジックでは自国通貨建て国債を発行する国家が破産することはない。そして過度なインフレにならなければ、国債は額の多寡に関わらず、国民経済のために発行できる。しかし、この合成の誤謬や家計簿脳に執着する人々は、Pay As You Goの原則(支払った分だけ使える仕組み)に基づき、下図のように「国の借金1000兆円を返済しなければ」とか「社会保障費を消費税で賄おう」などという策に溺れることになってしまう。どうしても税が国家財政を支えていると考えるのである。


*上図は経済同友会の一次ソースを、ツイッターの有志が経世済民同好会(笑)の正しい認識と比較する形で二次創作したものとなる。

 自由放任的な資本主義体制は、放っておくと富の偏りが生まれてしまうので、政府がその財政的権力をもって是正すべく介入しなければならない。富の偏在、つまり経済的格差の拡大が経済停滞を招くことは、すでにIMFやOECDをはじめとする国際的機関や幾多の経済学者に指摘されるところだ。考えてみれば、中産階級が没落して消費額を減らせば、経済を回すための一番大きなエンジンである個人消費が落ち込むのは当たり前である。日本のGDPの約6割は個人消費で支えられているのだ。

 ところが、この資本主義の負の側面の拡張を放任するどころか、後押しし続けたのが日本政府であった。

 大雑把に言うと、私たちの暮らしが良くならないのは、政府が緊縮財政をしき、野放図な略奪型資本主義を認め、企業も実体経済市場に投資をしないからだ。政府や企業がお金を出さないから、私たちにもお金がない。当然のことじゃないか。

 消費税廃止は本当に可能なのか、廃止できるのならその代替財源はどうするのか。次回も続けたい。

Waajeed - ele-king

 デトロイトからWaajeedがやって来る。T3、 Baatin、J Dillaで構成されたヒップホップ・グループ、Slum VillageにDJやビートメイカーとして10代のときからシーンで活動するアーティストで、近年はハウスやテクノの傑作を連発しているので、好きな方には「おお!」という朗報だ。
 ちなみに、彼のElectric Street OrchestraではMike BanksやSurgeも参加している(https://dirttechreck.com/shop/music/dtr02a-electric-street-orchestra-the-natives-ep-digital/
https://samplinglove.blog94.fc2.com/blog-entry-1826.html)。また、今年7月に自身の〈Dirt Tech Reck〉よりEP『Ten Toes Down』をリリース済み(https://waajeed.bandcamp.com/album/ten-toes-down-ep)。10月にはBenji Bのレーベル〈Deviation〉 からも新作のリリースを予定している(https://deviationlabel.bandcamp.com/album/hocus-pocus)。
 関係ないけど、ワタクシ=野田のリュックには、ちゃっかり〈Dirt Tech Reck〉の缶バッヂが付いております。

■WAAJEED JAPAN TOUR 2019

10.11 (FRI) 大阪 @Compufunk Records

SPECIAL ACT
Waajeed (Dirt Tech Reck)

DJ`s
DNT (POW WOW)
MITSUKI (MOLE MUSIC)
DJ COMPUFUNK

VE
catchpulse

Open 22:00

Advance 2500 with 1DRINK
Door 3000 with 1DRINK

Info: Compufunk Records https://www.compufunk.com/
大阪市中央区北浜東1-29 北浜ビル2号館 2F TEL 06-6314-6541


10.12 (SAT) 福島 @Club NEO
- K.I.S.S.#59 -
Keep It Sound & Sense.

K.I.S.S. 10th Anniversary Party!!!!

Special Guest:
Waajeed (Dirt Tech Reck)

Resident DJ:
STILLMOMENT
MONKEY Sequence.19

Food:
Aoyagi

Photo:
Seiichiro Watanabe (swism)

Open 22:00

Advance 4000yen with 1Drink
Door 4000yen
*先着順で10th Anniversary MIX+ノベルティグッズをプレゼント!

Info: Club NEO www.neojpn.com
福島市本町5-1 パートナーズビルBF1 TEL 024-522-3125


10.14 (MON/祝) 東京 @Contact

STUDIO X:
Waajeed (Dirt Tech Reck)
桑田つとむ
Suzu (Charge / Key / Bums)

CONTACT:
MOC (Powers), Funktion crew (Yudaini, Tikini, Taiki),
Shintaro Iizuka x Takuya Katagiri (GASOLINE)

Open 17:00 - Close 22:00

Under 23 | Before 18:00 1000yen
GH S member | advance 2000yen
With Flyer 2500yen
Door 3000yen

Info: Contact https://www.contacttokyo.com
東京都渋谷区道玄坂2-10-12 新大宗ビル4号館B2F TEL 03-6427-8107
※未成年も入場可


Waajeed (Dirt Tech Reck / Detroit)

WaajeedことJeedoはデトロイト、コナントガーデンズ出身のDJ/プロデューサー/アーティスト。
同郷の、T3、 Baatin、J Dillaで構成されたヒップホップグループ、Slum VillageにDJやビートメイカーとして十代で参加する。奨学金を得て大学でイラストレーションを学ぶ時期もあったが、Slum Villageのヨーロッパツアーに参加した時に、アートより音楽を生業とすることを決めたという。自身の主宰するレーベルBling 47からJay Dee Instrumental Seriesといったインストビート集をリリース、またニューヨークに一時移り、2002年にPlatinum Pied Pipersを結成、よりR&B色強いサウンドを打ち出した。Platinum Pied PipersとしてUbiquityより2枚のアルバムをリリースしている。現在デトロイトを拠点に活動し、2012年レーベルDIRT TECH RECKを立ち上げ、より斬新なダンスミュージックサウンドを追求している。Mad Mike Banks、Theo Parrish、Amp Fiddlerとコラボレーションを経て、2018年最新ソロアルバム『FROM THE DIRT LP』を完成させた。Planet E主催のDETROIT LOVEのツアーにも多々参加し、今年の初のSonar出演では当地のオーディエンスに鮮烈な印象を与えた。

interview with Kuro - ele-king

 昨年リリースの TAMTAM のアルバム『Modernluv』は、それまでバンドが経てきた音楽的変遷の最新報告として、既存のファン以外を含む多くのリスナーにその魅力を知らしめることとなった。そのリリース時にも ele-king ではメンバーの高橋アフィとKuroにインタヴューを敢行し、豊富な音楽的バックグラウンドや卓越したセンスに迫ることができたが、今回はヴォーカル担当の Kuro による初のソロ・アルバム『JUST SAYING HI』の発売に際して、彼女の単独インタヴューをお届けする。
 バンド活動と並行して制作されたという本作、一聴して聞き取れるのは内外の最新系R&Bやヒップホップ、各種ビート・ミュージックとの強い共振だ。TAMTAMにおけるバンド・アンサンブル志向を一旦脇に置き、自身による奔放な作曲を交え気鋭のトラックメイカーたちを集結して制作されたその内容は、単に「ヴォーカリストのデビュー作」と呼称するにとどめることのできないヴァーサタイルな魅力に溢れている。
 ソロ活動開始のきっかけや各種トラックメイカーのチョイス、彼等との興味深いやりとり、自身の音楽的興味の現在、いまを生きる女性アーティストとしてのライヴリーな視点、作詞家としての美学とその矜持など、さまざまなトピックについて語ってくれた。


自分を爆発させたい、みたいな感覚があって。頭を空っぽにして、気分やノリみたいなものを大事に歌おうと思いました。ピッチを守ることとかより「オラッ」って勢いを出したいと思って。

ソロ活動は以前からやろうと思っていたんでしょうか?

Kuro:TAMTAM の活動をメインにしつつ、誰かとコラボしたりソロだったり、バンド以外の活動も増やしていきたいとは思っていたので、いつか良いタイミングがあればやりたいなとは思っていました。それを今年やることになったのは、レーベルの方から年の頭に提案をもらったというのがきっかけですね。

元々ソロ用の曲も作っていたんでしょうか?

Kuro:バンド用かソロ用かは別にして新曲のデモは定期的に作っていましたね。でも、今回それらの曲は結局全て入れなかったんです(笑)。正式にソロ・アルバムを作るとなって色々方針が見えてきてから作ったものですね。

「これはバンド向け」これは「ソロ向け」と差別化して曲を作ることはあまりしない?

Kuro:TAMTAM のデモを作るときは、ドラムや鍵盤、ギターとか、バンドの編成をなんとなく念頭に置いて作りますね。

今回はそういうのをとっぱらって作った?

Kuro:自分で作ったトラックに関してはそうですね。打ち込んだものが最終版になるというつもりで作曲したと思いますし、ベースレスだったりドラムの音色もエレクトリックが前提だったり。トラックメイカーに頼んだ曲についてはアレンジも含めヴォーカル以外は基本お任せにする形だったので、自分は歌に関連することだけに集中するという意味でまったく違う作り方でした。それぞれの方に作ってもらったトラックへ自分で作ったメロディーとコーラスラインと歌詞を集中して載せていくという工程でした。

もらったトラックを元にキャッチボールをする感じ?

Kuro:そうです。自分が仮歌を録音して送り返したものに対して、少し調整してもらったりしています。

なるほど。いわゆるシンガーソングライター的な作り方とソロ・ヴォーカリストへの楽曲提供的な制作法の中間のような形だったんですね。

Kuro:まさにそうですね。

昔からソロ・シンガー的なスタイルに憧れはありましたか?

Kuro:それが全然なかったんですよね(笑)。自覚的に音楽を作り始めたのはバンドが最初なので、メンバーと一緒に曲を作って歌うヴォーカル担当という意識が強くて、そもそも「シンガーです」というつもりが最初は特になくて。デビューしてから友達が増えていくに従って、ようやく徐々に世の中にはシンガーソングライターというソロ活動の世界があるんだな、とか実感できたような感じなので。

リスナーとしてはR&Bソロ・シンガーの音楽を好んで聴いていたんでしょうか?

Kuro:そうですね。TAMTAM はバンド形態ではありますけど、昔からリスナーとしては打ち込みトラックのものもバンドも分け隔てなく聞いていますし、ネオ・ソウル、レゲエやR&B、ヒップホップなどのポップ・ソングが歌のバックグラウンドにはあると思います。でも当時は「ソロ・シンガーになりたい、歌でやっていきたい!」とかは一度も思ったことないですね。特にフォーク的なシンガーソングライターと自分は距離があるなあと思っていました。

自分のジャンル的好みとして?

Kuro:好みの問題もあるかもしれないですが、自分が歌うことを除けば好きなアーティストは多いので、単純に自分との相性ですかね。

今回、トラックメイカーに発注せず自身でトラックも含め作っている曲も2曲(“HITOSHIREZ”“FEEL-U”)ありますね。これはどんな機材で作っていったんでしょうか?

Kuro:元々 TAMTAM のデモ作りでも使っているんですけど、DAWは Ableton Live です。

打ち込みやダンス・ミュージック制作に適したDAWですよね。

Kuro:そうですね。でも、最初に買ったときはそういう判断軸はなくて単にバンドのみんなが使っているから程度の理由だったんですけど。いま思うとMIDI編集がスムーズだし、音源多いし便利で良かったなって。

通常のバンド用のデモ制作とは別に、いわゆるビートメイク的なことは前からやっているんですか?

Kuro:趣味的な感じなら結構やってます。それをこれまで世の中に出していることはあんまりないんですけどね。TAMTAM の最新アルバムに入っている“Nyhavn”が打ち込みだったり、生と打ち込みのミックスした曲があったりはします。

ビヨンセがコーチェラで「女性のヘッドライナー少なすぎない?」って言ったとき、はっとした部分はありました。日本のバンドに置き換えて考えると女性人口が圧倒的に少なくて、さらに女性が歌うバンドで自身で曲を書く人となるとほとんどいないんですよね。男性が女性をプロデュースしていることも多いし。

近頃DTMも大きく市民権を得て、色んなジャンルの人が自らの音楽を自宅で作っていますよね。DAWの発展や普及と歩調をあわせて日本のインディー音楽も凄く多様に展開してきたなあと思います。

Kuro:私が生まれた頃よりハードルは格段に下がっているでしょうね。デモを作るだけで色々操作法を覚えていきますし、最近は YouTube とかで簡単にハウツー動画を見られたりするので、自分たちもそんな中で TAMTAM での制作含めて、どういう音像を作りたいかということへかなり意識的になっていると思います。

この2曲、ほかトラックメイカーの人たちとも違うソリッドなカッコよさがあるなあと感じました。

Kuro:ありがとうございます。確かに自分でも自分以外の人が作らなさそうな曲ができたなという気がしていて。トラップを土台にしたり、普段バンドでできないことをやろうと思って作業していたんですが、でき上がったものを聴くと結果的に TAMTAM の曲に通じる要素も多い気がして(笑)。嬉しい発見だったし、自分の個性や癖が浮き彫りになったようにも思いました。

実際の作業も全てひとりで?

Kuro:ミックスの面では自分の知識だけだと自信を持ちきれなかったので、TAMTAM メンバーの高橋アフィさんを若干頼りました。イメージする音像に近づけたかったし、普段やらないということもあって色んな人の意見を聞きたかったので。

それ以外の曲におけるトラックメイカーの人選や発注はどのように進めていったんですか?

Kuro:最初は自分で全曲トラックを作ってみようかなとか、TAMTAM のメンバーを交えて生演奏の曲も作ろうかなとかいろいろ考えていたんですが、来年バンドのアルバムを出せればという予定もあって、あまり手一杯になってしまうのもよくないなと思って。で、これまでの活動で実際に出会ったり自分が好きで聴いていたトラックメイカーの人たちに頼んでみるのが面白いかも、と思って。なので、まずは近しい人からお願いしていった感じです。

初めはどなたに声を掛けたんでしょうか?

Kuro:ji2kia さん。以前彼の音源を聴いてすごくカッコいいなと思っていたから、まず連絡して。「良さそうなストックがあれば歌をのせたいので、聞かせて欲しい」って言ったら、それなら新しく作るよって言ってくれて。その次は ODOLA。“Metamorphose Feat. Kuro (TAMTAM)”という彼らの曲でフィーチャリング・オファーしてくれた経緯があったし、いい後輩って感じで慕ってくれるので。

Shin Sakiura さんは?

Kuro:Shin さんは今年の3月にTAMTAMで共演したのがきっかけですね。そのイベントでのライヴをみて、こういうメロウな楽曲で1曲は思い切りエモーショナルに歌ってみたいって思って。トラックメイクはもちろん、ギタリストとしても素晴らしい方です。

EVISBEATS さん。

Kuro:EVISBEATSさんは実はこの中では唯一お会いしたことのない方なんですが、レーベルのスタッフに曲の方向性を伝えたらアイデアとして頂いて、それですごく良さそう! と思ってお声掛けして。制作にあたっても対面でなくメールでやりとりさせていただいた感じです。普段ヒップホップのアーティストにトラックを提供していることが多い印象だったので、今回は歌とラップの中間的なものを狙えたらいいなと思っていて。そしたら凄くいいトラックが来て。ただ、エヴァーグリーンな感じのトラックで自分の歌がうまくハマるのかは心配だったんですけど、完成したら自分でも初めてなぐらいオープンな雰囲気の、器の大きい曲になって。こういうところがEVISBEATSさんパワーなのかなと感動しました。

君島大空さん。

Kuro:トラックメイカーの方に声を順次掛けていくなかでアルバムの最終的なバランスもなんとなく想像ができるようになって。で、あえて全然テイストの違う作風の人に頼んでも面白いかもと思って、君島くんに声をかけました。彼にお願いした“虹彩”だけは自分の作ったデモが先にあって、それのリアレンジをしてもらうような形で作ってもらいました。ギターをがっつり入れてくれて、かなり雰囲気が変わりました。

「こういう音楽性で」というイメージを各トラックメイカーへ発注の段階で伝えたんでしょうか?

Kuro:発注にあたって私と各トラックメイカーの間に共通言語があったほうがいいなと思っていたから、リファレンス的な音源を渡しながら依頼しました。「このアーティストのこの曲の雰囲気が好きだ」っていう、自分の趣味を伝えるようなプレイリストをいくつか作って相談していきましたね。全曲に共通するトーンとして、バンドでの曲よりもフロアユースなものにしたかったので、そのあたりも意識して伝えました。

たしかにアタックの強い低音感を含めて全体的に現場での鳴りが意識されている印象を受けました。一方で ji2kia さんや君島さんの曲にはアンビエント的なテイストも感じます。

Kuro:そうですね。順序的に制作の最初の方に見えてきたのがそのふたりの曲だったんですが、それがわりとアンビエント寄りのものでした。それはそれで凄くいいなと思ったんですけど、自分の嗜好として完全にそういうタイプでもないので、もう少しぱきっとしたピースも入れたいと思って、Shin さんの曲でそういう相談をしたりしましたね。

そういった制作法だと、最終的に全体をまとめ上げるのがなかなか一筋縄ではいかなさそうですね。

Kuro:私も最初はそう思っていたんです。バラバラで聴いていると疲れるようなアルバムではなくてスムーズに繰り返し聴けるものにしたかったので。色んな人に頼んだっていうことで正直不安はあったんですけど、最終的に自分が歌うと予想以上に自分の色でまとめることができたのは、歌う人間として嬉しかったです。それでいて、やはり各曲違うテイストがあってそれぞれ味わえるみたいな感じになったかなと。もちろんトラックメイカーさんやエンジニアさんのチューニング力はあるものの、ですね。

ミックスはどういった形で?

Kuro:オケのミックスは各トラックメイカーさんに9割型お願いしました。その後、歌録り、歌とオケとのミックス、マスタリングの3つは big turtle STUDIOS でやりました。そのお陰でさらにまとまったと思います。いま思い出したんですが、“TOKIORAIN”は最終ミックス終了の2時間前にそれまでとまったく違うオケのステムが ji2kia さんから送られてきてめちゃくちゃびっくりしました(笑)。最初は4つ打ちのビートが全体に敷かれているような曲だったんですが、もっと冒険的なものがマスタリング当日に送られてきて。でも、それがとても良かった。

それは焦りますね(笑)。でもその効果もあって、アルバム終盤に向けて凄くよい流れになっている気がします。

Kuro:そうですよね。

一部の曲でギターとトランペットの生演奏も入っていますね。特に“FOR NOTHING”でのアイズレー・ブラザーズのようなギター・ソロは強烈です。

Kuro:そうそう、凄い勢いのあるテイクですよね(笑)。TAMTAMのライヴ・サポートをやってくれている Yuta Fukai 君に弾いてもらって。今回、制作期間中TAMTAMでカナダへツアーに行っていて、それが終わった後サンフランシスコに住んでいる Fukai くんのお姉さんの家に泊まりに行ったんです。そこでくつろいでいるときに録ったのがこのギター(笑)。特にフレーズも決め込まずに2~3テイクちゃちゃっと弾いてもらって、いちばんよかったひとつを選ばせてもらいました。最後の方でしれっと爆発的なソロをぶちこんでいて、プレイバックしたときは笑っちゃいました。

全編構築的な印象のアルバムの中で、あそこだけ生のセッション感があって面白いです。トランペットはどなたが? 曲に陰影を与えるようなプレイが素晴らしいですね。

Kuro:今回あえて私が吹かずに、友達の堀君(Kyotaro Hori)に頼みました。以前から彼のトランペットが凄く好きで。技巧的な奏者ならたくさんいると思うんですけど、わかりやすく海外アーティストで例えて言うとクリスチャン・スコットみたいな。そういうセンスを持っているジャズ・トランペッターは貴重だなと思っていて。これもとくにフレーズを決めず、アドリブ的に3テイクくらい吹いてもらったんですが、どれもめちゃくちゃ良くて。歌詞で表現したかったことを楽器の音色ひとつで広げてもらったような気がしています。

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テレビドラマとかワイドショー見て気持ち悪いと思って消したり、しかもそれが世間的には人気番組だと知って、生きにくいなーと思ったり。「世の中そういうものだよね」って言うほうが共感を呼ぶのかもしれないけど、「そういう世の中間違ってるよね」と気づかせてくれる物語が好きですね。

フィジカルな感覚ということでいうと、これまでフィーチャリング・ヴォーカルでソロ参加している曲とくらべて、歌声に肉体性が増していると感じました。あと単純に凄く巧くて、スゲーって思って。

Kuro:それは嬉しいです。

レコーディングにあたって意識的にヴォーカルの鍛錬をしたんでしょうか?

Kuro:鍛錬というような鍛錬はしていないですけど、歌い方の差でいうと、以前は「フィーチャリングで呼ばれたからには、人様の作品だしちゃんとしなきゃ」みたいな思考だった。それに比べると今回は逆に自分を爆発させたい、みたいな感覚があって。頭を空っぽにして、気分やノリみたいなものを大事に歌おうと思いました。ピッチを守ることとかより「オラッ」って勢いを出したいと思って。TAMTAMのライヴも最近そんな感じですけど。

体を動かすように歌っている感じがしました。

Kuro:そうですね、実際踊ったり体動かしながら歌録りしましたね。

少し話題を変えて。今作を聴いてまず思ったのは、欧米のR&Bの最前線との音楽的共振でした。最近のご自身のリスニングのモードがそういったものなんでしょうか? レーベルの資料にも H.E.R. やシドの名前が書いてありますが、そういったシンガーに共感する部分がある……?

Kuro:そうですね、ただいわゆる“ディーヴァ系”みたいなものは最近はあまり聴いていなくて。ジョルジャ・スミスや H.E.R、マヘリアのようなポップ・シンガーは聴いていて気持ちいいし好きですけど、「歌唱力」が魅力の中心に来すぎると自分の趣味とは少しだけ違うかもと感じることがあります。むしろトラップだったり、女性の歌ものでもソランジュや IAMDDB みたいな、ディーヴァっぽさからズレたものを聴くことが多いです。シドもその部類だと思って。でもいまって歌ものとラップとのの境目もだんだんなくなってきていますよね。

確かに。

Kuro:バンドの生音と打込み系の境もなくなってきていたり。私も普段はバンドをやっていますけど、好んで聴くのは打込み系の方が多いかもしれないですね。

それはどうしてそうなっていったんだと思いますか?

Kuro:新譜を聴くのが好きなんですが、打込み系のほうがカジュアルに楽曲リリースされているイメージがあって、数も多いので自然と……(笑)。バンド系は満を持して大作を出す、みたいなイメージまだまだあります。特に国内。もちろん例外はあるし、あくまで傾向ですけど。

リアルタイムで情報を早く摂取していくっていうのは以前から意識的にやってきたことなんでしょうか?

Kuro:学生時代とかは1枚のCDを何回も聴いたりすることもありましたけど、サブスクや配信になったせいか、自分で作曲をするようになったからかわかりませんが、新しい音楽好きというところに拍車がかかった感じはあります。あとはやっぱり、TAMTAM のメンバーにニュー・リリースを聴きまくる高橋アフィさんがいるので、周りの人はその影響を受けざるを得ないというのもありますね(笑)。

北米ツアー中に見つけた絵葉書で、スヌープ・ドッグのポートレートが書かれたものがあって、それに「JUST SAYING HI」って書いてあって。スヌープが好きだし「あ、これいいじゃん」って(笑)。

ちょっと話題を変えて……先日来日して大きな話題になったジャネール・モネイなどもそうですが、自立した新しい女性アーティスト像がいまR&Bやダンス・ミュージックのシーンでクローズアップされていて、これまでにないクールなアーティスト観を提示してくれていると思っているんですが。

Kuro:うんうん。

もしかするとそれをポップ・カルチャーにおける新しいフェミニズムの興隆と捉えることも可能かと思うんですが、Kuro さんはそういったものへ呼応していこうという意識はあったりしますか?

Kuro:幸運なことに自分の活動や周りで音楽をしている人は、古いジェンダー感覚を持つ人は少ないように思えます。TAMTAM のバンド・メンバーも、良くも悪くも中性的な人間が多いですし。なので、自分が呼応って意味だといままではなかったんです。ただビヨンセがコーチェラで「女性のヘッドライナー少なすぎない?」って言ったとき、確かにはっとした部分はありました。例えば日本のバンドに置き換えて考えると女性人口が圧倒的に少なくて、さらに女性が歌うバンドで自身で曲を書く人となるとほとんどいないんですよね。男性が女性をプロデュースしていることも多いし、TAMTAM もそう見られることもあったり。

なるほど。

Kuro:今回はその意味で、シンガーとしての作品でもあるんですけど、ソングライターとしての自分のスタンスを周りに伝えることはかなり積極的にやっています。普段 TAMTAM でおこなっていることと同じではあるんですが、自立したミュージシャンである自分を主張しているつもりです。

国内外含め社会一般的的には保守化が進んでいるという意識はある?

Kuro:世間一般の話になると、違和感を覚える、間違っていると思うことは増えましたね。とある民放のテレビドラマとかワイドショー見て気持ち悪いと思って消したり、しかもそれが世間的には人気番組だと知って、生きにくいなーと思ったり。女性でもLGBTでも男性でも、ステレオタイプな見方がさも常識的なもののように描かれているとひいてしまいます。「世の中そういうものだよね」って言うほうが共感を呼ぶのかもしれないけど、「そういう世の中間違ってるよね」と気づかせてくれる物語が好きですね。

以前 TAMTAM の『Modernluv』リリース時のインタヴューでも話したと思うんですが、Kuro さんの書く歌詞は、どちらかというとそういう社会的なイシューよりも個人の感情の機微や街の風景といったものを描いているという印象があって。今回はそれがさらに研ぎ澄まされた感じがします。

Kuro:それは嬉しいです。音楽に乗せる歌詞はそういうものが多いですね。自分が歌詞を好きになったきっかけは「あれが正しい、これが間違っている!」ということを言うものじゃなく、単純に美しさだったので。今回は特に、制作期間とツアーで北米に行っていた期間が被っていることもあって、街を歩きながら歌詞を考えたりして、その景色や気分で書きたくて。

なるほど。

Kuro:特に“PORTLAND”という曲はそういう雰囲気が色濃く出ていると思います。ツアーの行程が全て終わった後っていうのもあったし開放的なマインドでした。ポートランドはご存じの通り全米有数のリベラル・シティでもあるので刺激も多くて。自分の部屋ではかけない歌詞が書けた気がします。

自分が置かれる環境によって創作がかなり左右される?

Kuro:自分のメンタルに左右されますね。気分や思考の癖を変えるために、環境を変えようとすることがあります。単純にネタ探しってこともあるけど、これまでの TAMTAM の曲もどこかに行ったり、誰かと話してできることが多かったです。自分の部屋でスマホいじって……みたいな環境にずっといるとよく行き詰まる。

たしかに、今の東京の雰囲気からはこの歌詞は出てこないだろうなと思いました。

Kuro:ああ~、そうだと思います。

一方で他の曲、とくに“HOTOSHIREZ”や“MICROWAVE“、“TOKIORAIN”などは、ラヴ・ソングの形を取りながら、その向こう側に先行きの分からない不安感や刹那的な感覚もある気がして。「この先どうなるかわからないけど今夜は遊ぼう」的な、若干逃避的な気分を嗅ぎ取ったりしたんですけど。

Kuro:ああ、なるほど……たしかにその3曲は都内で歌詞を書いてますね(笑)。東京は湿度が高いし、ちょっとした陰鬱さが似合うというか……。

それも含めてやはりどこかに日本的な要素を感じ取れる気がするんです。恋愛における心の機微とか、どこか湿度のある風景描写とか、そういうものが歌詞として抑制的な曲調に乗せられると特にそれを感じて。

Kuro:うんうん。

ざっくりした言い方で恐縮なんですが、ユーミンっぽさっていうか……。それは結構意識している?

Kuro:今回具体的に狙ったりはしていないですが、自分が歌詞を書き始めた頃の理想にはありましたね。情景描写がとても綺麗で、自分のことのように思えてくる素朴なトピックとか。むごいことでも綺麗に表現をするとか。

聞き手の感覚として、ラヴ・ソングを書くってすごくエネルギーが必要な作業なんじゃないかなって思ってしまうんです。子供の頃にユーミンを聴いて「この人はどんなすごいドラマチックな恋愛をしているのかしら?」とか思ったりしたけど、いまになってあれはいわゆる恋愛体質だとかどうとかいうより、むしろポップス作家としてのプロフェッショナリズムの為せるものなのかなとおもったりして。

Kuro:それはとても分かりますね。私自身も恋愛のトピックは多くても、ラヴ・ソングの体裁を借りていることが多いです。

短編小説的に、美しいフィクションとして提示する?

Kuro:それができていれば良いなあと思いますね。でも一方で“HITOSHIREZ”のようにトラップっぽい曲だと、作家的というより、より自分が主体で書いたかもしれないです。トラップって、瞬間の瞬発力を感じるものがよくて、ポップス的な作詞の仕方をしてしまうと妙に器用で嘘くさく見えてしまうというか。最初はなかなか歌詞を書くのが難しかったんですけど、トピックが見つかってからは勢いでガーって勢いで書いちゃいました。こういうビートだと言葉のスピード感が大事な気がしました。

先程話した刹那的感覚にも通じる話なんですが、アルバム・タイトルの『JUST SAYING HI』って、すごくポジティヴなフレーズにも聞こえつつ、とりあえず「ハイ!」って言わざるを得ない的なニュアンスにもとれるよな……と思ってしまったたんですが、このタイトルってズバリどういった意味が込められているんでしょうか?

Kuro:今回、実際に曲が上がってない状態で先にアルバム・タイトルとトラックリストをつけようと思って、内容的な部分や主張を反映しすぎないタイトル付けにしたんです。ソロ第一弾だし単純に「クロです! よろしく!」みたいな挨拶っぽい感じにしたくて。あと、たまたま北米ツアー中に見つけた絵葉書で、スヌープ・ドッグのポートレートが書かれたものがあって、それに「JUST SAYING HI」って書いてあって。スヌープが好きだし「あ、これいいじゃん」って(笑)。

そうだったんですね。つい悲観的な性格が出て深読みしてしまいました(笑)。

Kuro:(笑)。アーティスト名も初めは Kuro って名前じゃなくて、ソロ・プロジェクト用の別名をつけようと思って色々考えていたんですけど、悩んでこねくり回していくうちにどんどん偽物っぽく思えてしまって(笑)。Kuro だから Kuro でいいし、アルバム・タイトルも単純明快っていう感じを目指しました。

最後の質問です。今後ライヴ含めソロ活動はどういう形で展開していきそうでしょうか?

Kuro:TAMTAM のアルバムを来年出したいって心に決めて並行して新曲を作ったりしているので、そんなにガシガシとソロばっかりとかは思ってないんですけど、ありがたいことにイベントに声をかけてもらったりするので、そういう場所にはなるべく出ていきたいなと思っています。フィーチャリングも楽しいのでたくさんしたいです。

ソロ名義のライヴはどういう編成になるんでしょうか?

Kuro:最初はラップトップ一台でとかも考えたですけど、この夏旭川に TAMTAM の小編成版でライヴをしに行ったとき、このアルバムに入っているソロ曲もいくつかやってみたんです。ベースとドラムと、私が鍵盤を弾く3人編成で、かつオケも流して演奏するっていう編成をアフィさんが提案してくれて。完全に生楽器にコンバートしちゃうんじゃなくて、あえてオケも交えてゴチャっとした出力のライヴが面白いなあって思っています。

確かにそれはカッコ良さそう。

Kuro:あとは Shin くんがギターとマニピュレーションやっていいよと言ってくれているので、2人セットもありかなって思っています。ひとりでオケをポン出しして歌うとかはまだ、楽しくやれるかわからないな。幸いにも面白がって協力してくれる人がいるので、ソロ活動とはいえども周りにいる誰かしらを巻き込んでワイワイと活動していきたいなと思っています。


Via gothamis

 先週の金曜日(9/20)、ブロードウェイを歩いていると若者ばかり、すごい行列が出来ていた。またアイドルか何かのサイン会か、シュプリームかキースが新しいアイテムをリリースしたのかぐらいにしか見ていなかったのだが、後で聞くと、クライメート・ストライクのデモ行進だった。


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https://gothamist.com/news/liveblog-nyc-students-go-strike-demand-action-climate-crisis

 オーストラリア、インド、ドイツ、イギリスなど全世界150カ国で行われるクライメート・ストライクのひとつで、NYの生徒たちはこの日はストライクに参加するため、クラスを休むことが許されている。

 12時にバッテリーパークのフォーレイスクエアからスタート。16歳のスウェーデン人のアクティヴィスト、グレタ・トゥーンベリも参加し、「天候は、私たちが思うよりはやく変化している。私たちの親がしたことと反対のことをしなければならない。いまアクションが必要なのだ」とプラカードを掲げ、NYの道を練り歩く。

 すでにヒーロー扱いのグレタ・トゥーンベリは、9月上旬に二酸化炭素を排出しないヨットに乗り、2週間かけてヨーロッパからNYに到着した。主張するために、わざわざ大西洋を渡らないといけないなんて狂っている、という声もある。しかいま若者は、ソーシャル・メディアとテックツールを使いつつ、真剣に物事を捉えている。彼らには前世代のように夢を見ている暇はなく、恐れも知らない。親たちの尻拭いをしているとも言うが、ゆっくり考えるより行動するしかない。NYにいると、こういったデモ行進によくぶつかり、彼らのなんとかしなければ、と言う訴えが、突き刺さる。


Via gothamis

https://gothamist.com/news/photos-greta-thunberg-nyc-climate-strike

https://globalclimatestrike.net/

https://actionnetwork.org/event_campaigns/us-climate-strikes

 今日イーストハンプトンに住んでいる友だちから、いまNYにいると連絡が入った。仕事を休んで、UNのクライメートウィークに参加しに来ていたのだ。彼はとても興奮していたし、手応えを感じると言っている。


Via gothamis

https://www.climateweeknyc.org/

 トレーダージョーズやホールフーズではプラスティックバッグはもうないし、スターバックスではストローもない。大多数のマーケットはプラスティックの容器は廃止し、すべて紙になっているし、意識の高い人が多いNYは、これが普通なのだろう。ちなみみに、私がたこ焼きパーティを毎月やっているブッシュウィックのバーのストローはパスタだし、たこ焼きのお皿は竹である。

 普段の生活からこうなので、道を歩いているとデモにぶち当たり、いま何かが変わろうとしているのだなと、いやでも気づかされる今日である。ベネフィットショーが行われ、たくさんのサミットやイベントがあり、今週はますますNYがひとつになるのが見えた。

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