JUZU a.k.a. MOOCHY JUZU presents Movements "Beyond" crosspoint |
渋谷の東急本店の近くの路地にあるビルの2階だった。50人も入ればいっぱいの小さな手作りのクラブには100人ほど入って、1990年代後半のある時期、リズム・フリークスは東京のクラブ・シーンにおける噂の頂点となった。3人のDJのなかでもっとも背が高く、そしてもっとも若いひとりのDJはとくに多くの目と耳を惹きつけた。それがMOOCHYだった。あのミキシング、我々は......あるいは小林は、忘れられないほど熱狂した。やがて夜空が白み、センター街にカラスたちが集まってくる時間帯になると、リズム・フリークスの爆音もおさまって、MOOCHYはいつも大型バイクのエンジンを吹かしながら、「じゃ、おつかれっす」と言って、街のどこかに消えるのだった。
そして彼はバイクを飛ばしたままジャングルのシーンから飛び出て、インドネシア、ブラジル、キューバ、沖縄や青森......といった場所との新たな関係性を築いていった。すべての文化に対してオープンでいようとするワールド・ミュージックというコンセプトを彼なりのやり方で実践するため、MOOCHYはさまざまな人種や宗教との出会いを果たしながら、彼の音楽活動を展開している。彼は「失われた記憶を取り戻す」をテーマに2年前にアルバム『Movements』を発表しているが、これは我々の遠い祖先たちの音への旅行であり、彼のこの10年の活動のひとつの結実だ。誰にもっとも近いのかと訊かれれば僕はセオ・パリッシュじゃないかと思う。セオがサン・ラーやファラオ・サンダースらにアプローチするような手法で、MOOCHYは彼の全世界的なヴィジョンに向かっているように思える。
もっとも昨年リリースされたDVD、『Beyond』は『Movements』の映像版というよりも、彼のユートピア志向のまさにその"裏"、大いに問題提起をはらんだものとなっている。MOOCHYを知る人間が観たら「よくまあ、こんなものを作った」とびっくりするだろう。イスラムの人、ホピ族の人、六ヶ所村の人、辺野古の人、彼はいろんな人の話を収録して、自らの音楽に取り入れた。これはひとりのDJがジャーナリスティックな意識で、自主的に作った異議申し立てである。
今回は、MOOCHYの歴史を振り返りつつ、『Beyond』について話してもらった。たっぷりと......。
音楽が無かったらもっと酷かったと思う。微力かもしれないけど、音楽があったから俺は社会的な意識を持てたし。音楽がなかったら...。音楽がなかったら、ホントにみんなロボットみたいになってしまうと思う。
■よろしくお願いします。
JUZU:お願いします。
■......で(笑)、何でこんなとんでもないDVD、作ったんですか? しかも自主制作で。
JUZU:もともとはPVを作るのが目的だったんです。最初に作ったPVは"R.O.K."という、リノ君(RINO LATINA II)が出てくるトラックですよ。彼は、僕が昔やってた「リズム・フリークス」のカジ君(KAJI PEACE)と17歳くらいのときのダンサー友だちで。そういう繋がりでリノ君を紹介されて。
僕がキューバに行く前か、行った後かで、リノ君もキューバにライヴしに行ってるんです(『キューバ・ヒップホップ・フェスティヴァル・シンポジウム』/2008年8月)。そういうところでの繋がりもあってね。あるとき、カジ君のDJでリノ君が落語みたいなラップをやってて。それでオモロいなと。で、リノ君に「じゃぁ、オレにもなんか演らせてよ」みたいな感じで言われて。僕の地元の高円寺とか、中野、新宿とかって、そういうお祭りの粋なノリじで、落語みたいなラップを使ったトラックでなんかやりたいって思ってて。
■そうだったんだ。
JUZU:それで「武器売買と売春」っていうのをテーマにしようってリノ君に伝えて。
■へぇ。
JUZU:どっちが売り手買い手? みたいなことを、そういうトンチみたいにして。でも、「踊る阿呆に見る阿呆も同じ阿呆なら踊らにゃ損損」みたいなオチをつけるみたいな。とにかく、もともとは映像コラージュと音楽というテーマですね。
■とにかく、もともとの企画はPV集だったんだね。
JUZU:『Movements』(『Re:Momentos "Movements"』/2010年)っていうアルバムを2年前に自分のレーベル〈crosspointから出して。『Beyond』っていうのはその「裏」って言う意味ですね。『Movements』というアルバムの曲を収録している。
■あぁ、なるほど。
JUZU:『Movements』というCDではできなかった映像を足すことによって、僕が思ってることをもっと伝えられると思ったんです。沖縄のこともホント......中学生の頃、それこそタサカ(DJ Tasaka)も一緒だったけど(笑)、修学旅行でひめゆりの塔に行ってるんです。それで沖縄戦とか、歴史が刻み込まれてて。沖縄にはその後いっぱい友だちができて。いまとなっては居住者もすごく多いし、前から沖縄の基地問題には関心があった。基地問題に関するそのインタヴューもここに収めてるけど。それも"Koza"っていう曲で、(楽曲に参加している)ラス・ツイード(Ras Tweed)っていう人とは、ウィーンにDJに行ったときにたまたま知り合って。彼も沖縄のことを知ってて。空手とか好きで(笑)
■へぇぇ、ウィーンで。
JUZU:はい。ウィーンで録音して。ちなみにミックスはステレオタイプ(Stereo:Type)という、なんか変なバイレ・ファンキみたいの作ってる白人のスケーター。
■あぁ、いたね。
JUZU:そうそう。そいつらとなんか偶然というか、出会って。ラス・ツイードとも、彼はカリブ系でイギリス人だけど、沖縄の基地のことも知ってていた。ジャマイカなんかもそうだし。そういう、植民地化されてる島のことをちゃんと歌いたいって言ったら、すごく意気投合して。その場で歌詞作って、歌ってくれたのが"Koza"。あとは、沖縄の基地に何回か自分で足を運んで、いろいろ撮ったインタヴューとか。
■あの、よくインタヴューしたなとホント思うんですけどね。
JUZU:そうですね......。
■もともとはMOOCHYの、ま、言ってしまえば、全世界的なっていうか、マルチ・カルチュラルなヴィジョンがあるじゃない? この10年、音楽的に追求したことってそうでしょう? その延長線上に(『Beyond』の)コンセプトははじまってるって考えていいんだよね。その上でできたのがこのDVDで、MOOCHYが発表した曲に、セネガル、モロッコ、アリゾナのホピ族、辺野古、......とか、いろいろな場面やその現地の人たちの話が出てくる。で、作品ではひとり案内役を務める人がいるじゃない。スケーター?
JUZU:あぁぁ、アレはクロマニヨン(cro-magnon)の剛(小菅剛)ですね、はい。彼も彼でいろんなことあるけど。彼自体は顔とかすごい趣があるなと僕は思っていて。この男は俳優でも絶対イケるぐらいに思ってて。
■それで主役(笑)。
JUZU:そうです。(主役に)指名して。"Silence Mind"って曲は、もともと僕の後輩のイケガミケンジ(Kenji Ikegami)ってヤツが虚無僧尺八やってて。彼のソロ・アルバム(『SILENCE MIND』)も僕のレーベルから出してて。そのPVを作る過程のなかで、僕がリミックスもして。そのテーマっていうのが、あれ(PVのロケ地)って高円寺なんですけど。
■あれ、高円寺か。
JUZU:僕が10代のときに、台風かなんかでムチャクチャ土砂降りで、みんなで逃げ惑ってキャーキャー言ってる状況で、高円寺の駅前で本物の虚無僧が、ただひたすらつっ立ってたんですね。そういう鮮烈なインパクトがあって。この人だけはいまの時代とぜんぜん違うっていうか。
■たしかに(笑)。
JUZU:いまの僕らがコンクリの上で住んでる世界は、300年前は違ったじゃないですか? そういう感覚を喚起するんです。あの"Silence Mind"って曲はやっぱり、ラティール(・シー/Latyr Sy)とかウスマン(Ousmane)とか、僕のセネガルの友だちに高円寺でパーカション叩いてもらったり、彼には虚無僧の格好で尺八吹いてもらったんで。その尺八にしてもジャンベにしても、僕らの記憶っていうか、いまの時代とは違う時代から存在する楽器を演奏することで、いまのコントロールされた世界に対してのアンチテーゼ。
■MOOCHYの求めているものって、言ってしまえば、あれだよね、ユニバーサルな感覚っていうようなモノだよね。
JUZU:うん、まぁ、どこにでもある。
■......語弊はあるかもしれないけど、すべては繋がっているって言うよな。そう、それでさ、セネガルのこととか。
JUZU:はい、ゴレ島。
■......が出てきたり。ホピ族が出てきて。六ヶ所村が出てきて、コザが出てきて、最後はモロッコで。
JUZU:カサブランカですね。
■いろんな文化に対するアプローチ、というか、オープンな気持ちだよね、すべての文化に対するオープンな態度。だから、最初はこのDVDは反原発とか、3.11とか、そうした時事ネタのものかと思っていたんだけど、違ったね(笑)。DVDのなかではイスラム教と中東での宗教問題なんかの話もかなり占めているよね。で、沖縄の基地問題も六カ所村もイスラム教も、いろんな人に取材して語らせて、そしてMOOCHY自身は自分の言葉を抑えているんだよね。これはもう、観る人と一緒に考えたいって話なわけでしょ?
JUZU:うん、まぁ、そうですね。
■すべての宗教、すべての文化も受け入れるっていうようなことなわけでしょう、究極的に言えば。
JUZU:まぁ、そうかもしれない。
■そういうアプローチがMOOCHYのなかでどうやって養われていったのかっていうかさ。それが反抗心にも結びついてると思うんだけど。最初はハードコアのバンド? ジャングルのDJ?
JUZU:並行しながらやってましたね。
[[SplitPage]]いまの僕らがコンクリの上で住んでる世界は、300年前は違ったじゃないですか? そういう感覚を喚起するんです。尺八にしてもジャンベにしても、僕らの記憶っていうか、いまの時代とは違う時代から存在する楽器を演奏することで、いまのコントロールされた世界に対してのアンチテーゼ。
■この10年の自分のアプローチ。いろんな文化のいろんな場所に行ってやるっていう。文化をミックスしていく、ブレンドしていく、繋げていくっていうコンセプトはどういう風に生まれたの?
JUZU:分け隔てなく良い物は良いって、前からホントに思ってたし。デスメタルでもボサノヴァでも、(スティーヴ・)ライヒみたいなものもガムランみたいなものも、いちいちチャンネルを変えなくても、すぐに入ってくる感覚はあるから。それが自分の感覚だから、なんとも、それを理由付けるのは難しい。
■自分が成長していく過程、生きていく過程のなかで、聴く量も当然増えていくわけだから、聴いていく分だけ自分が拡張されていったみたいな。
JUZU:そうですね、拡張。そういうこと。あと、中央線育ち的な感覚はあるから。中央線のレコード屋〈レア〉とか、あとやっぱ渋谷新宿のレコード屋とか。僕の小さい頃の新宿や、渋谷もそうだけど、レコード屋事情、やっぱりいろんなジャンルのレコード屋があったし。レコード屋の人にやっぱすごい影響受けたと思うし。
■いまでも残っているものね。
JUZU:レゲエにしてもヒップホップにしてもパンクにしても、そういうのが入ってきてて。現代音楽とかフリー・ジャズとかも。
■ひとつのジャンルを追求するってタイプのDJじゃないよね。
JUZU:いろんなジャンルの人の前座DJをやらせてもらってたし。そのなかで(客層の違う)いろんなジャンルに対応するっていうミッションも楽しめてたし。デニス・ボーヴェルからジュノ・リアクターから、例えばなんだろ? デリンジャー・エスケイプ・プラン(The Dillinger Escape Plan)から、ファビオから、もうセオ・パリッシュやムーディーマンから、ジェフ・ミルズからって。いろんな人と一緒にやるなかで、自分がこの国に育った意味みたいなものを考えたときに、すごい悔しさを覚えて。
■どういうこと?
JUZU:もう幼少からっていうか、ハードコアな感覚っていうか。「モノマネはヤダ」っていうか。別にワン・アンド・オンリーでありたいとか思ってるわけじゃないけど、来日したいろんな国の人たちは、オリジナルなシーンのなかでオリジナルなスタイルをちゃんと持って来てるのに。でも、この国のほとんどの人たちは、ただ憧れてるだけで。全然自分たちのスタイルを持たないってところに悔しいなと思ってて。
■あぁぁ。
JUZU:そこで〈サウンドチャンネル〉(大阪SOUND-CHANNEL)なんかと知り合って、みんな「オリジナルなスタイルを作ろう」って......けど、まぁ、そこら辺でも、みんなそれぞれやり方、スタイルがあって。多くの人たちは、ヨーロッパ、西洋志向だったけど、僕は20歳ぐらいでアジアに行ったんですよね。「リズム・フリークス」の途中で、インドネシアとかタイとかに旅して、アジアですごいインスパイアを受けたから。
■「リズム・フリークス」のときって20歳だったのか! スゲェなぁ......あ、でも、そうかそうか、タサカ君も大学生だったもんな。
JUZU:若い(笑)。だから、そういう方向で僕は遠回りしてきたというか。多くの人はニューヨーク、ロンドン、ベルリンなんかに憧れて、そのまま行くけど、僕はバリとかに行っちゃって。そこでアジアのカルチャーの奥深さとか、そこで「ワールド・ミュージックとエレクトロニックなものを混ぜる」というコンセプトを、自分のなかで編み出したというか。で、「リズム・フリークス」をやってる最中に帰ってきて、ガムランとか尺八とかとジャングルとかドラムンベースを混ぜて、グチャグチャな......。
■やってたね(笑)。渋谷のビルの2階だったね。ターンテーブルでガムランとドラムンベースをミックスするってスゴかったよね(笑)。
JUZU:なんか、グチャグチャのカオスのなかの美みたいなものが、僕はすごい好きだから。
■でも、あの当時のDJだったら、欧米に行く、行って当たり前だと思うんだけれども、そこでアジアっていうものにさ、目を向けたっていうのは何? 鼻が利いたって感じなの?
JUZU:でも、やっぱり最初にガムランとかインドネシアの音楽を映像で見て。それは18歳のときですね。
■それじゃぁ、もう全然DJカルチャーに出会う前?
JUZU:いや全然。もう僕15歳からDJやってるから。
■ドハハ(笑)。
JUZU:だからバンドとDJは、ホント15歳のときから同じようにはじめてて。僕はもうアティテュード・アジャストメント(Attitude Adjustment)っていうジャケも超ポリティカルなアメリカのハードコア。ってか、小学校からパンクとか聴いてたから。小学校で同級生の兄ちゃんのライヴで、それこそラフィン・ノーズとかザ・ブルー・ハーツとか聴いて。小学校からそういうのを聴くと、それこそ原発のこととかも言ってたと思うし。
■まぁ、そうだよね。
JUZU:中学ぐらいの時にチェルノブイリがあって。中学のときにはもう「NO NUKES」って渋谷の電力館に描いてたみたいな感じだから。タサカの影響もあって、ヒップホップもパブリック・エナミーとかビースティ(・ボーイズ)とか、ああいうのは普通に聴いて。やっぱパブリック・エナミーで、ジャケットから見るKKKのこととか。
僕のなかでは、その後、ENT(Extreme Noise Terror)とKLFが一緒にやったりとか、UKのハードコアとKLFが一緒にやったのとか。その当時、808ステイトとか東京エアランナーズの人とか。やっぱ僕らが遊びに行ってたのが、DJドックホリデーって、須永辰緒さんがヒップホップやってたところに僕ら毎週通ってたから。15歳のとき。そこで聴いてる音楽っていうのは、もうジャクソン・シスターズみたいなレア・グルーヴからNYヒップホップとか。聴けるものは全部聴いてたし。もっと言えば宝島みたいな雑誌も全盛期だったから。
■えぇぇ! ホント? でも全盛期じゃないよ、終わりかけの頃だと思うよ。
JUZU:でもまだ「LAST ORGY」とかやってて。タイニィ・パンクスがまだちょっとやってて。で、そっからECDとか出てきて。ECDが「Check Your Mic」でボーイ・ケンとかも一緒にやってて。まだヒップホップもレゲエも未分化で。で、高校1年か2年のときにスチャダラパーが出てきて。最初のPVにサクラで僕ら呼ばれて、〈ゴールド〉にダイヴしに行ったりとか。そういう、グチャグチャな感じだったから。自分のなかでDJも、自分が掛けたい曲かけて、暴れにいって、終わっちゃって、戻ってきてみたいな。
■(笑)そうだったんだ。
JUZU:新宿の〈サンボーズ〉ってとことか、ガス・ボーイズ(GAS BOYS)が、ちょっと先輩みたいな感じ。ああいう、ちょっとバカなノリっていうか。ビースティみたいなノリ。ああいうのも好きだったし。ひとりで、あんまり仲間いなかったけど、UKのハードコアも好きだった。
■ホント、節操なく聴いてたんだね。
JUZU:重要なのは、原宿に〈デッドエンド〉っていう、ジャパコアのお店があって、鋲付きの革ジャン......っていうか、革も使わないような、ベジアタリアンの。UKのハードコアってベジタリアンが多くて。
■クラスティとかね。
JUZU:そう。そういうのにも個人的に僕は影響受けてて。、高くて買えなかったけど。毎週のように新宿とか原宿とかブラブラして、そこ行ったら、フリーペーパーがあって。そこにマクドナルドがやってることとか、石油会社がやってることととか、フリーペーパーに載ってて。
■そうなんだね。
JUZU:で、そっから「マクドナルド食わねぇ」とかなったりとか。そういうマルチ・ナショナル・コーポレーション、多国籍企業がどういうことを世界中でやってるのかを知って。それはすごい自分の食生活にも影響を与えた。
■デトロイトのクラブに行ったら、フライヤーがたくさんあって、何のフライヤーかと思ったら、ゲイ解放とか、ネイティヴ支援とか、環境系とか(笑)。まあ、日本もなかなか捨てたもんじゃないんだねぇ。
JUZU:いや、ジャパコアはすごい誇るべき、唯一日本で誇るべきはジャパコアぐらいに僕は思ってる。他はほとんどがモノマネだと思うけど。ジャパコアの「ウォォォォ」とかなってる唸り声とか、UKのハードコアとか、アメリカのハードコアとかみんな影響を真似してたぐらい。〈スカル・ディスコ〉のジャケも日本のハードコアから影響を受けてるらしいですよ。あのドロドロしたの(笑)。
■あぁ、そうなんだ(笑)。
JUZU:僕、ジョー・クラウゼルと対談したときに、偉そうに言ったことがあって。僕がやってたネクサス(NXS)っていうバンドを彼はすごく気に入ってくれてて「未来的な音楽だ」って言うから、(それを受けてジョー・クラウゼルに)「何でかわかるか? オレらは核戦争後の社会から来てるんだ」って言ってやって。すごい言いたかった。僕らの国は、原爆落とされて。他の国がみんなSFだと思ってることが、この国だけは事実、核戦争後の社会で、完全に焼け野原にされた後に、こんな55基も原発作らされて。
■なんとも不条理な話だよね。
JUZU:その不条理さが、ドープな感性っていうか。アメリカに連れてこられた、南米に連れてこられた黒人たち。UKもそうだし。彼らも不条理のなかで(独自の文化を)編み出していったと思うから。僕らは僕らで、GHQとかいろんな洗脳があって。愚民化政策で、軟弱化させられて、馬鹿にさせられてる。させられてるけど、でも、やっぱり、不条理さで言ったら、はっきり言って(ブラック・ディアスポラと)あんまり変わらないんじゃないかな。だから、コンプレックスを持つ必要はないと僕は思ってて。この国はこの国で年間3万人自殺してて。虐殺状態がずっと続いてて。
■3万......だもんな。どんな良い国だ(笑)。
JUZU:お金はあっても一寸先は闇。
■そのお金もヤバイし......。でもさ、話、ちょっと戻すと、そこでMOOCHYがアジアに向かったっていうのが、ひとつ、大きいなと思ったんだよね。今回の作品を聴いても......いわゆる雅楽のさ、サンプリングとかを使ったりしてるけど、それをひとつのサンプリング・ネタっていうよりも、旋律としてブレンドしようとしてるでしょう? それが独特の、ある種のユニヴァーサル・ヴィジョンに結びついていく。最初にアジアを旅しようと思ったのは何でなの? なぜガムランだったの?
JUZU:あの芸術にインスパイアされたし、結果的にガムランだけじゃなくてウブドっていう、いまではもうすごい有名になってるけど、僕みたいな環七育ちの人間とはぜんぜん違うカルチャーで、すごい芸術があって、誇るべきだと思うし。
■まるでドビュッシーだね(笑)。
JUZU:ドビュッシーもね、ガムランに影響受けて。
■そうそう、19世紀末のパリの万博でね。
JUZU:はい、らしいですね。だから、いまだに僕、自分がDJっていう感覚も無いですよ、ネクサスでも僕バンド・リーダーであったけど、いまでも続いてるっちゃ続いてるし、ある意味、永遠に終わらないと思ってて。あと、リーダーとかコンダクターとか......なんていうのかな、コントロール? ある程度はガムランもコントロールされてるけど、あれってメインの演奏者がいるわけでもなくて。それがいまだに、DJの考え方にも染みついている。
■考え方も違うからね。
JUZU:そういう森羅万象的な感覚っていうか、全部の音が。それこそジョン・ケージとか、ああいう人たちも全部の音が。だから、ガムランなんか、蛙の声と、人間の演奏と、月明かりとロウソクと、(その場にある)すべてが並列で。いわゆる西洋的な人間社会っていうのは、また違う捉え方で音楽があるっていうのが、環境音楽と人間の演奏が完全にミックスされてるというか。
■なるほど。取りあえず話を整理すると、そこでインドネシアに行って、そのあとますますいろんな文化......。
JUZU:そうです。ワールド・ミュージックを混ぜようっていうか。あと、自分なりに、なにか、作りたい。自分なりのことをやりたいっていうのは根底にはずっとあるから。とにかくモノマネはしたくないなぁっていうのは、すごいあって。途中で、それこそみんながジャングルからドラムンベースになって、みんながそういう方向になったときに、僕自体疎外感を感じて。ひとつのクラブ・シーンが巨大化しすぎて、みんなが金に狂ってきたっていうか。まぁ、言い方すごい悪いけど。でも、僕なりになんか違うなぁって思ってて。自分のスタイルを変える意味で、ジュズ(JUZU)っていうもうひとつのあだ名を戻してきて。
[[SplitPage]]ワン・アンド・オンリーでありたいとか思ってるわけじゃないけど、来日したいろんな国の人たちは、オリジナルなシーンのなかでオリジナルなスタイルをちゃんと持って来てるのに。でも、この国のほとんどの人たちは、ただ憧れてるだけで。それが悔しいなと思っていた。
JUZU a.k.a. MOOCHY JUZU presents Movements "Beyond" crosspoint |
■何で「ジュズ」っていうの?
JUZU:スケボーしてるときから、数珠をつけてて。
■それでジュズって言われてたんだ。
JUZU:っていうのもあって。それがネクサス(=「連鎖」を意味する)とか、繋がりとか、数珠とか。まぁ、自分のコンセプト的にそこに行きたかったし。MOOCHYっていう名前がね、ちょっとね、それこそ『エレキング』の影響もあったり、いろいろ知られた部分があって。反対にジャングルとかドラムンベースのDJっていうイメージが僕的には邪魔だったから。それを払拭したかった。もともと何でも聴いてたから。だから、あの当時(1990年代末)のディーゴにも、ちょっとしたシンパシーは感じるんすよ。そんな会って話したわけじゃないけど、あの人ももっと違うところに向かっていたし。で、僕も、よりいろんなところでDJをはじめるようになった。僕、トランスのレコードは1枚も持ってってないんですけど、でもトランスのレイヴ・パーティにすごい呼ばれてて。
■なんでだろうね? それはね(笑)。
JUZU:たぶん、サイケデリックな感じだと思うんですけど。そういうとこに行ってて。でも、やっぱり、そういう人たちの感覚はわかるから。僕も遊び人としていろいろ遊んでるし。そのなかでどうやってみんなが、いろんな人たちが(楽しめるか)。それはさっきの前座の話も含めて。そうしたら、共通項みたいなことでいうと、100~130ぐらいのあいだのBPMで、いろんなパターンを組み合わせるとグルーヴをキープできる。その当時からパーカッショニストと絡むこともすごく多くなってたから、BPM170~180のジャングルのリズムって、ちょっとやっぱり、そういう人たちは絡みづらくて。BPM100~120くらいのほうが演奏者が関わりやすい。そういう現実的なところで、段々BPMも落ちついてきて。それが自分のスタイルになって。
そこに、反対に、いろんなワールド・ミュージック的な要素を組み込んでって。そんなこんなやってて2001年に9・11が起きて。そのとき、僕もうニューヨークに住もうと思ってて。子供もアメリカに産みにいって。アメリカ移住しようと思ったらアレが起きて。アレがすごい、僕にとって、もうひとつのターニングポイント。
■何でアメリカに住もうと思ったの?
JUZU:ワールド・ミュージック的な要素を取り込みはじめた頃から、ネクサスっていうバンドとかで、いろんなミュージシャンと絡みはじめたんですけど、もっとホントの外国人と、もっとやりたい。現場っていうか。そういうのがあったし。次の旅で、インド行くか? 西洋に行くか? 迷って。「インド行ったら、たぶん戻ってこねぇかもなぁ」とか思って(笑)。まず、アメリカに行った。サンフランシスコから入って。
サンフランシスコでは、シェブアイ・サバー(Cheb I Sabbah/シェビー・サバー、シェビサバとも)っていうDJがいて、その人はドン・チェリー(Don Cherry)と幼馴染の白人の人で、南アフリカの人でね。今、ガンで60歳ぐらいなんですけど。そのチャリティに僕も参加したんですけど、その人のパーティがすごかった。当時「『リズム・フリークス』とかもう辞める、もう演らない」って言って、結構、悶々としてたんですよ。なんか、もう、どんな感じかなぁ......みたいな。で、サンフランシスコから入って、ニューヨーク行って、ロンドン行って、ブリストル行って、アムス(テルダム)行って、ロンドン戻って、LA行って、帰ってくるって、旅だったんですけど。まずサンフランシスコで、シェブアイ・サバーのパーティに衝撃を受けた。
新聞かなんかに「World Music」って告知が書いてあって、どういうんだろうと思って行ったら、ヘイト・アシュベリーにある、なんだっけ? ニッキーズ・バーベキューっていうレゲエとかR&Bとかやる箱で、サウンドシステムもゴツくて。そこで彼がやってて。150人くらいでパンパンで。ホント、あのウィー・アー・ザ・ワールド状態で。いろんな人種、アジア人から白人からアフリカ系からインド系から何からグァァって集まっていて。そのシェブアイ・サバーはホントにいろんな音楽をかけてて。なんか......もう、いきなり洗礼で。「こういうのがやりたいな」と思って。すごいまず影響を受けて。
■へぇぇぇ。
JUZU:で、ニューヨークは元ミュート・ビートの今井(秀行)さんってドラマーの人の家に世話になって。ヤン冨田のバンド・メンバーだったりもするのでシンセサイザーの使い方とかシゴかれて。マジで涙流すくらいシゴかれて(笑)。そこに世話になりながらニューヨークで1ヶ月近くいて。まだ全然人がいない「ボディ・アンド・ソウル」とか、あと何見たかな? ゴールディとかもたまたまやってたり。あと、前衛のDJスプーキーとか......。ジャズからスカイジュース(Skyjuice)みたいなダンスホールから、イケるもんは片っ端からいっぱい行って。
そのなかで、トシオ・カジワラ(Bing a.k.a Toshio Kajiwara)っていう通称ビン君、ビンさんって、いま、日本に戻ってきてるけど、A-1レコード(A-1Record)の店長をNYでずっとやってた人。ブルックリンに〈ダブ・スポット〉ってレコード屋があって、ビン君もそこで働いてて。僕のリズム・フリークス時代のミックステープを、カジくんがニューヨークにいたときに、そのトシオ君に渡してて。僕はその当時のミックスいろいろ混ぜてたから、トシオ君もイルビエント・シーンのもう真っ只なかで。デヴィッドの「ロフト」でもDJやってるぐらい。もう、とにかく、日本でいちばんぐらいのレコードの知識がある人。まだ42歳くらいだけど。その人と会って、またすごくいろいろとドバァァって広がって。で、彼は僕のミックステープをカジ君系由で聴いてて。意外とカジくん重要なんだけど。
■はは(笑)。
JUZU:「オッ! お前かぁ!」みたいな。アッチも僕の音をまず聴いてたから、すぐに僕の感覚を理解できて。ちなみにトシオ君もガーゼとかリップクリームとか日本のハードコアに影響受けてて。ジブラと同級生だったりとか変な繋がりもあって。そんなんで、ニューヨークでも発展があって。その頃にロンドンに弟がちょっと留学したんです。で、ヤツとジャー・シャカとかいろいろ行って。ひとりでブリストル行って。やっぱブリストルも、マッシヴ・アタックとかトリッキーだったりロニ・サイズだったり......オリジナリティのある音楽を地方都市で作ってるってイメージがあったから。ブリストル行って、なんかロンドンよりもカッコイイなって。スケーターも多かったり、人も良かったり。ブリストルは1日しかいなかったけど、地方都市住むのもありだなって思ったきっかけで。
■へぇぇぇ。
JUZU:東京、キャピタルに住むことのメリットもあるけど、キャピタルに住まないことでの(メリットもある)。いまの、その後10年ぐらいの(活動に繋がるものを得た)。やっぱり僕のスケートの後輩で、森田(貴宏)って、アイツがブルー・ハーブ(THA BLUE HERB)と繋がって。
僕も日本で最高のクラブは札幌の〈プレシャス・ホール〉だと思うから。すごい世話になってて、そういう繋がり。(高橋)KUNIYUKIさんでもそうだし。地方都市にいながらオリジナリティのあるヤツらに出会ってたから。反対に、東京ではカネカネになり過ぎて出来ないことを地方都市がやってる、ってことにも、インスパイアされて、その後、福岡に住むことになったり。
■福岡はなんで住んだの?
JUZU:福岡は元カミさんの実家が山口なんだけど。なんかそういう繋がりがあって。僕自体、そのニューヨークが9.11の後、それこそブラジル行って、ニューヨーク経由で行って。国旗だらけのニューヨークになっちゃって。あのブッシュの。「もうここじゃないな」と思って。でも東京から出てどうにか自分のネクスト・ステージに行きたいと思ってたから。いわゆる西洋に行く上昇志向とは逆で、福岡に行くことで、まぁ子供にもイイし、自分にとっても、試したかった。昔、ネクサスでライヴやりに行ったときに泊めてもらった田舎のプレハブを借りることになって。2年間、後ろが古墳。哺乳類がいないようなところに家族と別でひとりで住みながら、毎月東京にDJに行ってて。
■へぇぇ、電話とかは?
JUZU:携帯だけ。
■携帯だけで。トイレとかは?
JUZU:あるけどボットンだし。家のなかに蛇がいたり。
■(笑)風呂は?
JUZU:風呂も......なんか離れにあって。しかも、すごい体験......そういうの全部話出したらハンパじゃないぐらいいろんなことがあるんですけど(笑)。でも、そこで、ものスゴい人里離れたところに2年間ずっとひとりでほぼいて。必然的にサイケデリックっていうか。なんかもう、音楽の聴き方も全然変わってきたし。流行りもんとかそういうのとか、どうでもいいっていうか。永遠性のあるもの、じゃないと。そこでは歯が立たないっていうか。いくらロンドンで流行ってようがベルリンで流行ってようが、そこでかけたときに、虫の音やいろんな状況のなかで......。
■それ面白い話だね(笑)。福岡市内の市街地からどれくらい?
JUZU:車で1時間とか。もうぜんぜん田舎。その家の家主のおばあさんはそこに越した年に、その1年の間に息子と旦那を亡くしていて。僕がまず与えられた部屋がその亡くなった息子さんの部屋で......それを荷物入れたあとに事実を聞いて、そのおばあさんが「ここは強い人しか住めないから!」って言って、娘がいる奈良に行ってしまって......。そこで、悔しいから、荷物入れた日の夜中だけど、取りあえず音は出そうって(機材)繋いで、最初はそれこそガムラン系の何か掛けて。うーん? って。
■はははは。
JUZU:でハワイアン系のヤツ掛けて。うーん? って。その後、アフリカン系のヤツ掛けたら、スゴい違和感感じて。ヴァイブレーションが。で、慌てて、モーツァルトの映画で『アマデウス』のサントラをレコードでかけたらすごい落ち着いたんですよ。そっからいろいろ掛けたら、なんか落ち着いて。そこには、前そこに住んでいた息子さんの遺品もいっぱいあって。そのなかに(チェ・)ゲバラの本があったり、『ルーツ』(アレックス・ヘイリー『ルーツ』)って、あのアメリカの、ああいう本があったり。
■結局は8年間もいたんだね。
JUZU:そうですね。8年間(東京・福岡間を)行き来しながら、やっぱり東京ってことを意識しはじめて。あらためて地元っていうか。福岡は福岡ですごく良いところだけど、シンク・グローバル、アクト・ローカルっていう言葉があって、「ここ(福岡)でのアクトが自分にとってローカルなのか?」って。8年間っていても、年間でいったら実質4年間ぐらいしか住んでないぐらい(福岡に)いなかったと思うんですよ。DJやったり、いろいろ行ってたから。アクト・ローカルっていう意味でのローカルさはちょっと僕のなかでは、(福岡は)日が薄いっていうか......そのなかで東京は東京で、やっぱり自分は東京の人間なんだなぁって思ってて。僕のなかでは家族で東京に戻る、家族内でもそういう案があったんですけど。カミさんのほうは仕事がドンドン進んで、それはそれで良いと思うんだけど。
僕が、こうやっていま、ある意味、東京に戻って。ああいう原発事故が起こって。。まぁ、福岡も佐賀の原発とかあるから。別に安心とは全く思わないけど。結果的に、僕がこうやってこういうことやれて。何にしても必然的かなぁって。で、東京戻って来て早々っていうか。『ホピの予言』っていう映画も、これ(『Beyond』)にホピの人たちが出てくるのも、すごい重要で。
■なるほどねぇ。
JUZU:20歳くらいのときに、『ホピの予言』っていう映画を友だちの紹介で西荻(窪)のほぴっと村というところで観て。ナヴァホの居留地のホピ系の人たちのエリアで、ウラン、プルトニウムが採掘されて、それがヒロシマ・ナガサキに落ちたことをホピの人たちは予言してたっていう映画で。80年代にパンクスとかはみんな観てた映画らしく。それに衝撃を受けて去年末に息子たち連れて、ホピのところに行った。息子を連れてったことで、彼らもオープンになったんですよね。ネイティブ・アメリカン・マニアみたいな人も入れないキバっていう儀式、儀礼所? にも入れてもらえて。普通絶対入れないらしんだけど。でも、そこに入るとなまはげ見に来たような感じっていうか。言葉は通じないけど、同じモンゴロイドで。ただちょっと僕らと道がズレただけっていうか。そんな体験もあって、それから帰ってきて。アフリカ、セネガル、ラティールの故郷に、行って帰ってきて。で、3.11がすぐ起きて。
■(東京に)帰ってきたのは何年なの?
JUZU:2010年。12月のもう末で。そのまますぐ、アリゾナのホピのところに行って。1月の中旬に帰ってきて、2月頭からアフリカに行って。
■そのときは、これを作るつもりだったんだよね?
JUZU:いやぁぁ......そんなにね、なんか......でも、映像集的なものは考えては......いましたね。2009年くらいにPVをまとめるみたいなアイディアはあったから。『Movements』ってアルバムを2009年に出したから、そのときにPVは4つくらいもう作ってて。それをまとめて何かしたいって思ってて。やっぱり3.11以降、より明確になっていった部分はあるけど。
[[SplitPage]]多くの人はニューヨーク、ロンドン、ベルリンなんかに憧れて、そのまま行くけど、僕はバリとかに行っちゃって。そこでアジアのカルチャーの奥深さとか、そこで「ワールド・ミュージックとエレクトロニックなものを混ぜる」というコンセプトを自分のなかで編み出したというか。
■なるほどねぇ。じゃぁ、自分自身のこの10年の成果みたいなものも集約されてるっていうかね。その、DJをやっててさ、自分がいちばん良かったなって思うのはどういうとき?
JUZU:あぁ。個人的には、僕、ターンテーブル3台、CDを使って、DJでいちばん面白いのは、自分がコントロールできなくなったときっていうか。3枚、4枚......ジェフ・ミルズなんか、そういうことずっとやってるんだと思うんだけど、なるべくコントロールしようと思うけど、(DJ自身の意識を超えて)もうそこで何か生まれはじめたみたいなところが、個人的には音楽の体験としてはすごい。
■ジェフ・ミルズは逆だと思うよ。自分で100%コントロールしたい、コントロールするタイプだと思うから、真逆の発想だよね、それは。
JUZU:でも、それまで(自分でも思いもしなかったものが出てくるまで)、まとめはするんですよ。そこで生まれて来る何か。おぉ、できてきてるみたいな。それはDJでしかあり得ない面白さだと思うし。人間的なところでいえば、そういうコミュニケートだったり一体感。鎮魂もそうだし、それ以降(前述の死者に対する選曲)から、目の前にいる人だけじゃなくて、変な話、目の前にいない、そういう霊みたいなものも、どこにでもみんなあるっていうか。そういう意味ではフロアの人の顔だけを見るだけじゃなくて、ま、スティービー・ワンダーでもなんでも、目が見えない人のように、そうやってヴァイブレーションとか感じて、そのなかの一体感みたいなものを、全体で、何かが......作る、っていうのもおこがましいから。自分が献身的な心じゃないとできないと思うし。
■8年いて実質4年くらいしかいなかったってことは、ほとんど全国津々浦々行くの?
JUZU:世界も行きましたよ。ヨーロッパも行ったり、アメリカも行ったり、オーストラリアも行ったり、ハワイでもDJやったりとか。アジアは、DJはないかな。ベトナムでの録音はあるけど。
■こないだの土曜日は岡山だっけ?(岡山YEBISU YA PRO/2012年2月25日)
JUZU:うん。岡山も面白かった。札幌は〈プレシャスホール〉が、ホントにすごいいろんなこと教わって。その後、デヴィッド・マンキューソとか紹介されて。デヴィッドの「ロフト」の35周年とか、スピーカー組むのからデヴィッドの部屋にアップ運ぶのまで手伝いに行ったりとか。
■へぇぇ。それニューヨークで?
JUZU:ニューヨークで。で、ジョー・クラウゼルがやってるパーティでDJやって。ジャマイカ行ってレコーディングもして。それを2週間以内に全部やるみたいな(笑)。
■スゴいねぇ。
JUZU:デヴィッドっていま、43周年? DJのゴッドファーザーだと思うし。あの人がやろうとしてたパーティって、僕が何も知らないで「リズム・フリークス」とかデコ(レーション)とかも、みんなでやってたし、サウンドシステムも入れたし。僕はもっとハードコアにやってたけど、デヴィッドも昔はウーハーとか入れて、ベースもけっこう出してたらしいけど。
■たしかにデヴィッド・マンキューソって、ミキシングとかブレンドではない、もうひとつのDJカルチャーのゴッドファーザーだよね。
JUZU:でも、あの人の(プレイを)最初から最後まで聴くと、トータルでは8時間とか、昔だったら20時間ぐらいやってた、あの人のDJのなかで、すべてはミックスされてるっていうか。
■あぁぁ。テクニカルな意味じゃなくてね。
JUZU:1コンマとか、1秒なのか、10秒なのか。それはミックスっていうものの幅だと思う。
■たしかにね。
JUZU:1時間のなかでミックスを凝縮するのか。8時間でひとつのデカいパックを作るのか。デヴィッドのああいうのは、プロデューサー的な感覚としても、あの人が掛ける音楽は、良いサウンドシステムで掛けると、40年前の音楽もいま鳴っているように再現されるんで。プロデューサー的には嬉しいことだと思うし。やっぱり自分の一生懸命作った音楽が、40年後でもみんなが楽しんでくれるっていうのはすごい素晴らしいことだと思うから。そういう音楽を作りたいなってあの人からインスパイアされた部分も。DJ的には、繋がないで1曲ずつ掛けるっていう、ああいうスタイルもやったことはあるけど。あの人の存在もデカい。
■DVDの話にまた戻すと、とにかくPVを作ろうと思いはじめて。作ったわけだけれども、途中3.11という大事件が起きてしまって。急遽、そこに(DVD制作に)新たなアイディアが注がれたと。当初予定したものは、ある意味では全く違うものになって、こういう風にリリースされたわけだけど。ここに収録されている以上の、膨大な量の取材をしたわけでしょ?
JUZU:まぁ、いろんな人には会ってるから。ある意味そうかもしれない。取材って感覚なのか、まぁ、あれですよね、話を訊いて......。
■ドキュメンタリーだよね。いろんな人に喋らせるっていう。何故、こう、いろんな人の語りを、こういう風に入れようと思ったの?
JUZU:最初にそうやってインタヴュー的にやったのは沖縄が最初かもしれないですね。あのおばあちゃん。あと、マンちゃんっていう辺野古の基地の反対やってる、色黒のサーファーみたいなゴッツい女の人。あの人の話もその後に撮影して。
■まぁ、3.11以前。
JUZU:以前ですね。ホピの人たちも2011年のお正月前だから。そこでああいう会話、2012年問題について。
■あぁ。
JUZU:やっぱり『ホピの予言』っていう映画、いまも一応持ってきたんですけど、その映画を3.11以降、もう一回、こう......北山耕平さんっていう、70年代に『宝島』の編集もやって、ネイティヴ・アメリカン関係の(第一人者の)。あの人と熊本を一緒に旅したことがあって。そこですごく仲良くなって。まぁ変な話で。福岡で、マナバーガー(MANA BURGERS)ってベジバーガーやってる、えっと、トラさんって人がいて。で、〈ライフフォース〉のニック・ザ・レコードがベジタリアンで。〈ライフフォース〉のパーティで、ニックのまかない係もやってて。で、そのトラさんが、たまたま?僕のCDを買ったら良くて。サンクス欄見てたら〈ライフフォース〉の名前があって。福岡の僕のパーティに来てくれて。その人が「北山さん呼ぶから、MOOCHY君、一緒に遊ぼうよ」みたいな感じで。
で、僕が九州住む上ですごい影響を受けた押戸石っていう、熊本の阿蘇山のふもとっていうか、火口ら辺にある、5000年前、6000年前からある祭事場があって。ストーンサークルがあるんですよ。そこはすごい光景で。そこに行った時に天皇家の支配じゃない日本をすごい感じて。ほとんど本土って天皇家の支配下だから、そこまで行くともっと原始時代っていうか。
■縄文時代。
JUZU:そこに北山さん連れてったら、北山さんもすごい喜んで。そっから交流ができて、3.11以降、5日後ぐらいに北山さんに電話して、「『ホピの予言』もう一回観たいから、ちょっと連絡取りたい」って言って。北山さんから『ホピの予言』の制作者の人を教えてもらって。いろいろ話して受け取ったんですけど。で、もう一回見直したら、10年? 15年前に観た映画だから、よく覚えてなくて。でも、インパクトはあったから(実際に)ホピのところまで行ったけど、もう一回見直したら、「今後あまりにも文明が進んで、どこかの原発が津波かなんかで壊れて、みんなが大変なことになるだろう」って86年の映画で言ってて。鳥肌が立つっていうか。そのままになっちゃってんじゃんみたいな。
■ホピの人とか、ああいう沖縄の人たちに取材をして。ひとつのドキュメンタリーを作りたいっていう意識があったの?
JUZU:いや......そういうのはあんまり無かったですけどね。ただやっぱりとにかく行って話聞くんだったら、リノ君のPV然りだけど......「何で?」って言われると、そこまでDVDを意識していたわけじゃなかった。
なんか、自分自体が...そうですね、メディア自体、ある意味、僕を取り扱ってくれるところがないって思ってるから、多くの雑誌はスポンサードされたものでしか仕事受けなかったりとか、それでもいち部、良心的なジャーナリストとかやってくれるけど。自分自身がジャーナリスト的な感覚にならざる得なくなってきたし。自分自身がメディアにならなきゃいけないなと思ったし。今回、なんていうか、黙ったじゃないですか。雑誌も、新聞も、テレビも。でも、それを僕は3.11以降じゃなくて、以前から、そういう傾向がすごい強いなぁと思ってたし。たとえば音楽雑誌でも裏表紙が50万みたいな。そういうの聞いてたし。全部のメディアが金で動いてるっていうのがすごいあったから。だから自分がファンジン作ろうとか、アイディアは昔からあるはあるけど、それを仕事にするっていうよりは、さっき言った中高生のときにマクドナルドのことを知ったように、なんか音楽でもそれができるんじゃないかって。メッセンジャー的な......伝えなきゃ。自分が得たものを誰かに伝えないと、知恵と知識そのものは共有してナンボだと思うから。
■東電の場面まで入ってるもんな(笑)。あれは何? 自分で東電に行って?
JUZU:ひとりで行って、ヴィデオだけ持ってて。なんでか、とにかく、どういう状況になってるのか見たくて。
■それで、例の、逮捕されたさ、六ヶ所村のシール事件(笑)。
JUZU:はい、六ヶ所村の。はいはい。
■あれはたまたまDJに行ったときにじゃないよね?
JUZU:たまたまじゃないですよ。もう全然六ヶ所村目的。目的として、六ヶ所村に行くことと、青森の弘前、ねぷたの人たち、ねぷたのオジサンのインタヴューもあるけど。ねぷたのオジサンたちと会って。9・11以降、僕がもういちど日本にちゃんと住もうって思ったきっかけは2002年の青森のねぷたっていうのデカくて。あそこに、500万人、来るのかな。
■ホントにそういうモノが好きなんだね。
JUZU:いや、まぁ(笑)。ネクサスで、マドモアゼル朱鷺ちゃんがメンバーだったんですよね。朱鷺ちゃんの影響とかもすごいあるし。僕のまわりのメンバー〈ライフ・フォース〉のMassaさんにしても〈プレシャス・ホール〉のホールのサトルさんって店長にしても、そういう人の影響もあるとは思うし。自分の親父の影響もあると思うし。
■ねぷただったんだ。
JUZU:ねぷたですね。
■で、『ホピの予言』の上映会を自分でやってたんだよね。それは自分の持ち込み企画みたいな感じ?
JUZU:交通費も貰わないで、単純に1000円。見に来る人の1000円の7割だけだから。まぁ、交通費になるかならないか。しかもバイクで!
■3.11の1ヶ月、2ヶ月後ぐらい?
JUZU:2ヶ月後ですね。4月にボランティアで行ってたから、被災地の状況も見てたし。それも今回の映像にも各所で入ってるけど。もう......びっくりっていうか。ホント酷い。ちょうど、なんかまた、縁が縁で、四十九日ら辺に行ってたんですよ。3.11から49日後。だから喪服の人とかもいて。やっぱり涙出ちゃう。野田さんも子供いるだろうから、自分の子供が死んじゃったよとか......。
■まあね。だからね、シール事件もあったし、ぶっちゃけ、反原発とか、脱原発とかね。そういうモノを、もっと前面に押し出してるような企画モノなのかなって最初は思ってたのね。
JUZU:あぁ。
■あと、(見終わって)2時間もあったんだって。長いよね?
JUZU:長いですよね。
■作り込まれてないし、みんな正直に話してるじゃない?
JUZU:そうですね。
■たとえばさ、六ヶ所村の人もさ、お金、いちばん貧しい村にいきなりお金が降ってきたって。やっぱり、そのお金の話は沖縄の人も言っていて。みんな放射能のことは言うけど、お金の話はしないじゃない。そこがやっぱ現地の人の感覚としてひとつ大きいっていうのがわかる。お金とか、ネオリベラリズムとか、そういう問題にもなってくるっていうかさ。で、最後はカサブランカのタクシー運転手に宗教を語らせて終わるっていう(笑)。
JUZU:ま、厳密には、最後は剛が湖でっていうところなんですけど。だから僕、CD(『Movements』)の方にもちょっと文章とか載っけてて。「失われた記憶を取り戻す」っていうのが、そのテーマなんですよ。それの裏っていう感じで。
■だよね。それをまさに、太古の自分たちの、ユニヴァーサルな音で表現しようとしてるのは、伝わってくるんだけどさ。だけどもっと、オレ、反原発みたいなテーマで完結しているのかなと思っていたの。デモのシーンもあるんだけれど、MOOCHYの場合、こういうことをひとりでやるってところが良いよね(笑)。
JUZU:ハハハ(苦笑)。協調性がないのかな。ただ、3.11以降も、僕は別に、(作品コンセプトを)曲げられたっていうか、『ホピの予言』じゃないけど、必然的なことだったと思うんですよね。こうなったのは。アレがなかったら、みんな無関心なまま、この国だけで(原発が)100基ぐらいできてた可能性だってあるじゃないですか。
■浜岡も余裕で動いてたろうしね。
JUZU:ね? そう。僕は中学生の頃から「No Nukes」とかやってたから、核の問題とか戦争とかに興味あったし。パンクの影響とかもあったし。人種差別は、ヒップホップやレゲエやジャズから教わったし。やっぱり同じような何かを感じてたから。いまも自分なりに勉強、本読んだりとか、調べていくと、やっぱり奴隷制とか、原発の輸出、採掘、全部がやっぱ繋がってて。コンゴのウランの採掘と奴隷制っていうのは、ものすごく密接だし。ネイティブアメリカンやアボリジニ、沖縄の今のネイティブの人たちに対する扱いとかも、全部やっぱりそういう必然的な何かを感じてたから。だから3.11以降、やっぱり来たと思ったし、ぶっちゃけ。「やっぱ言わんこっちゃねぇ」って。ずっと福岡で住みながらも、玄海原発の反対署名、僕らのパーティやってたから。別に3.11以降に言いはじめたことでも何でもなくて。
[[SplitPage]]僕は中学生の頃から「No Nukes」やってたから、核の問題や戦争に興味あったし。パンクの影響もあったし。人種差別はヒップホップやレゲエやジャズから教わったし。やっぱり同じような何かを感じてたから。
JUZU a.k.a. MOOCHY JUZU presents Movements "Beyond" crosspoint |
■音楽の力っていうのは、微力だと思う?
JUZU:音楽が無かったらもっと酷かったと思う。微力かもしれないけど、音楽があったから俺は社会的な意識を持てたし。音楽がなかったら...。
■そこは間違いなく音楽の影響だからね。
JUZU:モチロン。
■学校では教わってないと。
JUZU:モチロン。だって、音楽がなかったら、ホントにみんなロボットみたいになってしまうと思う。さっきの「失われた記憶を取り戻す」っていうのは、楽器だったり音色だったり、そういうところから先人の知恵を貰わないと、こういう現状の中で、ねぇ? こういうコップでコーヒー飲んで、iPhoneと西洋タバコみたいな状況になってて、音楽が心に響いてこなかったら、たぶん、そのまま管理されちゃうっていうか。すごい、なおさら音楽の重要性は大きいと僕は思ってるし。だから、微力とも思わない。
■世のなかを動かしてるような人たちから見れば、微力だよ。
JUZU:いやぁ、でも、反対に言えば、彼らにとっても脅威だと思う。だから、いまのクラブとかデモとかに対する、この管理化はその裏返しでしょ。音楽って人を結びつけて、会話して、学び合ったり、協調し合ったりすることだから。管理する側にとってはすごくそれは邪魔なことだから。六ヶ所村のアレでも1週間以内で彼ら、僕のウェブとか全部チェックしてたから。PVまでちゃんと見てくれて(笑)。
■ハハハハ。
JUZU:取り調べの刑事から、「アンタ、ホント音楽ちゃんとやったほうがイイよ」「アンタ、やってること間違いないから」って。「オレだって原発とかぶっちゃけヤダよ」だって彼も子供がいて、20km圏内1日で即死になるぐらいの量があそこにあって知っていて。あれが福島みたいなことになったら北半球全部が住めなくなるみたいなもんだってことを、多くの人はやっぱ知らないし。福島どころじゃないっていう。それを僕は伝えたかったから、、でも結果的に犠牲はすごく多かったんですよ。パクられたことで、それこそ家族にも迷惑かけたし、まわりの友だちに迷惑かけたし。すごい散々な思いはしてるけど。
■なるほどね。どんなシールを貼ったんだっけ?
JUZU:「反原発」と「STOP KILLING OUR FUTURE」。核爆弾の製造と原発は全部リンクしてるから。
■それは六ヶ所村のどこ?
JUZU:(六ヶ所原燃)PRセンター。
■ハハハ、そんなね、シールを貼るのって、バンクシーみたいな、映画になるような芸術家のアート表現だってわかって欲しいね。
JUZU:ボム。ボムって......僕らみたいなスケーターとかは、当然、自分らのストリートはストリートだし。自分らのスタイルってあって。そういう攻撃対象っていうのもあって。いろんなメッセージをボムするっていうのも。自分がいるって言うこともひとつのボムだけど。バンクシーにしてもそうだけど。ああいうスタイルっていうか。別に中高生からやってるから。別に......って、説明すると大人気ないですけど(笑)。
■(笑)そこだけは変わらないっていうか。
JUZU:変わらない。まぁ、しょうがないですよね。
■DVDの最後はイスラム教の話で終わるけど。
JUZU:この何年かで、イスラム教に対してすごい関心が深まってて。でも本当の最後は、(沖縄の)マンちゃんの話で、ジュゴンの話があって。で、ラスト・シーンは剛が彼の実家の滋賀の琵琶湖に行くところで終わるんですけど。なんか、まぁ、自然回帰的というか。
■あれがオチなんだね。
JUZU:あれはもっとパーソナルなところ。人間社会の(サイケデリックな)宗教っていう話から、ジュゴンみたいな同じ哺乳類で、予言、予兆的なことをやるそういう生命体の話。で、最後は湖。まぁ水に帰るみたいなのは、けっこう僕のなかでテーマとしてあって。故郷に帰るっていうのも、ひとつのムーヴメントだと思っているし。ま、今後も映像作品作るだろうから、もっといろいろやってみたいことはありますね。
■今回のクライマックスとしては、世界中のいろんなところで起きているデモの映像のコラージュ映像なわけでしょ?
JUZU:それぞれ戦わなきゃいけないことがあるのかなぁって。デモすりゃいいとは思ってはいないし、違うやり方も全然あると思うんだけど。いま、良くも悪くもネットで、ねぇ? 情報交換出来るようになったから。覚醒しはじめてるのは間違いないし。
■でも、よくひとりで作ったなぁと思いましたよ、コレをホント、労作を。
JUZU:(笑)。
■ひとりのDJがコレを作ったっていうのが、すごい大きいなって思った。
JUZU:厳密にはマニュピレーターがいますけど、そうですね。なんか、偶然、必然な。もう作らざる得なかったっていうか。
■MOOCHYってけっこう饒舌で、話しだす止まらないようなところがあるじゃない。いろんな話があって。
JUZU:(笑)あぁ。
■だから、そういう意味で言うと、これは自分の言葉を抑えたよね
JUZU:聞き手な感じ。そういう意味では、DJっていう感覚はないけど、そういう感覚。素材を扱ってストーリーを組み立ててみたいな。そういう感覚は、最後のオチまで。最後はチルアウトみたいな(笑)
■うんうん、まぁ、たしかにね。
JUZU:2時間のトリップっていう感じ。
■なるほどねぇ、たしかにそうだわ(笑)。
JUZU:それで、認識をみんな、それこそ高めてもらいたい。
■はい(笑)。
JUZU:なんかむちゃくちゃ喋ってるけど(笑)。
取材:野田 努
Movements
https://go-to-eleven.com/schedule/detail/547/2012/3
2012.03.10 Sat @ eleven
▼Dance Floor
SHHHHHH / BING aka TOSHIO KAJIWARA / JAKAM&THE SPECIAL FORCES / KUNIYUKI /
TRIAL PRODUCTION feat TWIGY / JUZU aka MOOCHY / DJ TASAKA / BING aka TOSHIO KAJIWARA / Paint: KEPTOMANIAC / Dance:Nourah, Tanhq, Ayazones
▼Lounge Floor
DAI / ZIP(Zipangu Steel Orchestra) / MACKACHIN / Q / KILLER BONG / ALAYAVIJANA / SAHIB a.k.a. YAMA / 東京月桃三味線&RYOJIN / Dance: Nourah, Tanhq / Paint : WITNESS, LUVVINE