野田努
デイヴ・ボールは、ポール・ボールになったかもしれなかった。 彼が生まれた1959年5月3日、じつの母親はポールと名付けている。しかし未婚のシングルマザーは、1年間の貧しい生活の果てに我が子を養子に出すことにした。ポールを養子に迎え入れたボール夫妻は、ポール・ボールのような韻を踏んだ名前ではこれから学校に行ったときに問題になるかもしれないと、デイヴィッドに改名したのである。かくしてデイヴ・ボールは、イングランド北西の街、ブラックプール──サッカーファンからは、弱いけど人気があってサポーターが熱い(駿河湾のくぼみのどこかのチームのようだ)地元クラブのことで知られ、英国音楽ファンからはノーザン・ソウルの大いなる拠点のひとつとして記憶されている──で思春期を送ることになる。
ボールが初めてディスコに行ったのは10歳のときで、のちに彼がマーク・アーモンドとともに結成するソフト・セルがカヴァーし、最初の、そして最大のヒットになった“Tainted Love”を初めて聴いたのは16歳のときだった。グロリア・ジョーンズがこの曲を吹き込んだのは1965年、しかもこれは不発シングルのB面曲、そもそもあまりよく知られていない曲だった。ノーザン・ソウルとは、このように、大勢がまだ知らない埋もれたアメリカのソウル——デトロイト、シカゴ、フィラデルフィア、LAなどのなるべくヒットしなかった曲——をディグするというレアグルーヴ的なアプローチによる選曲と、そしてDJは会場にやって来たダンサーのためにひと晩中踊る曲をかけ続けるというレイヴ的なアプローチを兼ね備えた、1970年代の、DJ/ダンス・カルチャーの初期段階だった。南部やロンドンの洗練された文化と違って、北部のいなたい労働者階級の若者が週末のダンスのために生きる刹那的なライフスタイルに根ざした巨大なアンダーグラウンド・ダンス・シーンである。
デイヴ・ボールがポップ史において果たしたひとつの成果は、ソウルとパンクとクラフトワークを合体させたことだった。ソウルとスーサイドを合体させたことだった、とも換言できる。ひとりのヴォーカリストとひとりのエレクトロニック担当者のふたりでステージに立つことの先駆者にはスーサイドがいたし、第二期DAFもそうだったけれど、言うなれば彼らはアンダーグラウンドの脅威だった。1979年(ウィキペディアほかネット情報では1978年結成とあるが、本人の述懐によれば、サッチャー当選の1979年に結成。おそらく、アーモンドのパフォーマンスのバックに初めて音を付けたのが1978年なのだろう)に誕生したボールとマーク・アーモンドのソフト・セルは、チャートを賑わせ、トップ・オブ・ザ・ポップスに出演するようなポップ・ミュージックのユニットである。
とはいえ、ソフト・セルがポップスとして聴かれるには少し時間が必要だった。だいたいポスト・パンク期からゴシック期へと(つまり70年代末から80年代へと)移行する時代における若きエレクトロニック・ミュージックは、いきなりMoogを買えるほど裕福ではなく、機材が日進月歩していたこともあって作品ごとサウンドが異なっている。初期のシンセサイザーと言えばモノフォニック(単音しか出せない)で、シーケンサーの代わりはテープデッキ、ドラムはBOSSのDr Rhythmとか、もしくはプリセットを使うことも珍しくなかったし、最初期のキャバレー・ヴォルテールのようにホワイト・ノイズをリズムの代わりに使っていたバンドもいる。しかしながらそうした制限が、創造的な音楽を促していたと言いたくなるのは、いま聴くと、今日のPC内でつくられた音楽にはない、それぞれ固有のテクスチャーや創意工夫に基づいた深みのある魅力を放っているからだ。
ロックンロールが大嫌いだった父親のもとで、10歳から音楽オタクとなったデイヴ・ボールは、すべてのお小遣い/アルバイト代をレコードにつぎ込み、リーズ工科大学に進学する頃にはそれなりのレコード・コレクションを有していたという。ソウル・ミュージックからグラム・ロック、ディスコ、プログレからクラウトロックまで、横断的に蒐集していた彼が最初に天の啓示を感じたのは、高校時代にアイスクリーム屋でバイトしていたときにラジオから流れたクラフトワークの “アウトバーン” だった。それから、ブライアン・イーノの『アナザー・グリーン・ワールド』、そしてドナ・サマーの “アイ・フィール・ラヴ” ……。
大学に進学するとリーズにやって来たパンク・バンド/ポスト・パンク・バンドのライヴ──オリジナル・ヒューマン・リーグ、キャバレー・ヴォルテール、ジョイ・ディヴィジョン、ACR、スピッツ・エナジー、スロッビング・グリッスル等々──を目撃している。在学中、学位取得のためしばらくマンチェスターへ移り住んだときは、2トーン・レコードのツアーやディーヴォ、YMOのライヴにも足を運んだ。そのころには、ボールの関心はエレクトロニック・ミュージックに絞られていた。在学中、ギターを売って得た金と300ポンドで、ふたつのオシレーターを搭載したKorgのデュオフォニック・アナログ・シンセサイザー、800 DVを買った(数年後にはソフト・セル・サウンドのトレードマークにもなる、もう一台のKorg、ベース・シンサイザーSB-100を手に入れる)。
大学の同級生にはマーティン・ハネットの実弟がいて、最上級生にはフランク・トーヴェイがいたが、大学に入って最初に声をかけた相手が、ヒョウ柄のシャツを着てアイラインを入れたマーク・アーモンドだったのは運命的である。ジョン・ウォーターズの「ディヴァイン」シリーズやラス・メイヤー、ケネス・アンガー、ウォーホル等々、トラッシーなカルト映画好きという共通の趣味もあって意気投合したふたりだが、最初のボールの役目はアーモンドのパフォーマンスのためのBGMをつくることだった。そうこうしているうちに、ふたりの関心は音楽制作に向かったのである。歌と作詞はアーモンド、曲の担当がボール。そしてふたりがつくりあげたのは、ノーザン・インダストリアル・キャバレー・エレクトロとでも言いたくなるような独特の雰囲気をもった音楽だった。
ソフト・セルは、ポスト・パンク時代のエレクトロニック・バンドの第一波(キャブス、ヒューマン・リーグ、TG、シリコン・ティーンズ、ファド・ガジェット等々)に続いた第二波(ほかにデペッシュ・モードやブランマンジュなど)に相当する。ボールはリアルタイムで、トーマス・リアの「Private Plane」、キャバレー・ヴォルテールの「Extended Play」、スロッビング・グリッスルの「United / Zyklon B Zombie」、ザ・ヒューマン・リーグの「Being Boiled」といった1978年の重要な7インチ・シングルに共感を寄せていた、つまり、その次のステージを狙っていたのである。
最初期のソフト・セルにおいて——そしてエレクトロニック・ミュージック史においても——もっとも重要な曲、 “Memorabilia”(1981) は、ボールの憧れのひとり、ダニエル・ミラーのサポートを得て制作された。この曲の、反復的な四つ打ちのグルーヴ、フィルターをかけたシンセ、ダブ処理されたヴォーカルといった構成は、明らかに、ディスコのその先へと突き進んだサウンドで、のちに「ハウス・ミュージックの先駆け」と評価されることになる。また、世界初の「Eレコード」などと呼ばれてもいるが、それは誤認だ。ソフト・セルは当時まだエクスタシーの存在など知るよしもなかった。もちろん、それから1年後、この時代としては画期的なリミックス・アルバム盤 『Non Stop Ecstatic Dancing』(1982)に収録された同曲の別ヴァージョンをNYで録音する頃には、ふたりとも経験済みではあった。ちなみに言うと、当時はまだ、それは違法ではなかったのである。
初期のソフト・セルでもう1曲重要なのは、もちろん──当然、オリジナルと違って──大ヒットした “Tainted Love”になるが、こちらのプロデュースはマイク・ソーン、それ以前はワイアーを手がけた才人である。1975年に〈スパーク・ノーザン・ソウル・レコード〉からもカヴァーEPが出ているほどノーザン・ソウル・クラシックたるこの曲のカヴァーの提案をアーモンドが受け入れた理由は、オリジナルでは彼のヒーローのひとり、マーク・ボランの妻=グロリア・ジョーンズが歌っていたからだった。シングルではこの曲からスプリームスのカヴァー曲 “Where Did Our Love Go” にミックスされる。Roland CR-78のリズム、 SB-100によるシンセベース、それから電子ドラムパッド、 電子クラップ──それらメタリックな響き(それは電子パンクと言える)のなかで歌われるソウル・ミュージック。こうしたある種の倒錯が、ジョン・ウォーターズの醜いものほど美しいと同様にソフト・セルの個性となった。
モノフォニック・シンセが奏でる絶妙な音色のうつくしいメロディをもったソウル・バラード“Say Hello, Wave Goodbye”はソフト・セルの代名詞と言える人気曲だが、ファースト・アルバム『Non-Stop Erotic Cabaret』のなかでは、週末のクラブに勤しむ若者の孤独を歌った “Bedsitter” のようなダークな曲(MVのなかでアーモンドが読んでいる本はジョン・ブレインの『年上の女』である)も好きだし、彼らのカルト映画趣味がここぞとばかりに噴出した(そしてすぐに放映禁止になった) “Sex Dwarf” のMVにおけるTG的な恐れを知らぬ侵犯的タブーへの挑戦も興味深く思ったものだったけれど、リアルタイムでいちばんよく聴いたのはセカンド・アルバムの『The Art of Falling Apart』(1983)だった。
ぼくはここで読者諸氏に言いたい。その曲を聴いてから、20年後も30年後も40年後もずっと好きでいられる曲があるということは幸せなことである。若い読者が、今年自分が好きになった曲をこの先もずっと聴き続けると思っているのなら、それでいい。音楽はファストフードになりつつあるかもしれないけれど、老兵としては、そうではない音楽もまだあると思いたいのだ。ぼくは『The Art of Falling Apart』(明らかに機材的にアップグレードされた、しかし全体としてはファーストよりも暗く重い作品)に収録された“Where the Heart Is” がいまでも、曲そのものもその歌詞も、大・大・大好きだ。モリッシーよりも数年早く、家族からつまはじきされた少年のよすがをなくした孤独な心を歌い上げるその曲に天使の羽を与えたのは、間違いなく、デイヴ・ボールのシンセサイザーである。
しかしながら、このころすでにソフト・セルは友好的に分裂していた。アーモンドは、ニック・ケイヴ、リディア・ランチ、ジム・フォータスらアンダーグラウンドな人たちと交流しつつ、マーク&ザ・マンバス名義でソロ・アルバムをつくっている(それもまた、とてつもなくすばらしいアルバムだ。なにしろ、あのアノーニに決定的な影響を与えたのだから)。ボールもまた、ジェネシス・P・オリッジやヴァージン・プルーンズのギャヴィン・フライデイ、コイルのジョン・バランスらアンダーグラウンドな人たちと交流し、最初のソロ・アルバム『In Strict Tempo』(1983)を制作する。そしてボールは憧れだったキャバレー・ヴォルテールのアルバム『The Crackdown』(1983)に参加もしている( “Just Fascination” と “Crackdown ” の2曲である)。ソフト・セルの最後のアルバムはいまひとつの内容だったが、彼らにはこんなエピソードがある。あるとき、ソフト・セル宛の郵便物がレーベルに届いた。分厚い写真集が入っていて、そこには、「あなたたちの音楽が大好きです。ポール&リンダ・マッカートニーより」とつづられていた。
とはいえ、ソフト・セル解散後の80年代なかば以降のボールは、物事がうまくいっていたとは言いがたい。好転したのは、ジェネシス・P・オリッジがアシッド・ハウスに心酔し、彼が自分でもアシッド・ハウスをつくろうとJack the Tab名義で『Acid Tablets Volume One』(1988)を企画し、そこに参加してからだった。P・オリッジから紹介された『NME』のライター、リチャード・ノリスといっしょにM.E.S.H.名義で “Meet Every Situation Head on ” をつくると、それに反応し、サポートしたDJのひとりにアンドリュー・ウェザオールもいた。
ノリスとのコンビが、ザ・グリッドへと発展することはよく知られている。この時期、UKのダンス・ミュージックを聴いていた人なら、ザ・グリッドによるリミックス──ハッピー・マンデーズの「Loose Fit」やペット・ショップ・ボーイズの「DJ Culture」、イレイジャーの「Am I Right?」、ブライアン・イーノの「Ali Click」,デイヴィッド・シルヴィアン「Darshan」等々──を少なくとも5曲以上は聴いているだろう。
ボールが初めて日本の地を踏んだのも、1995年のザ・グリッドとしての来日公演だった。 “Crystal Clear” や “Swamp Thing” といったソフト・セル以来のポップ・ヒットが続いていたころで、場所はたしかリキッドルームだったと思う。ライヴに駆けつけたオーディエンスのなかにはソフト・セルのファンも少なくなかったけれど、ぼくがそのとき取材したのは複数のメディからインタヴューされたボールでもノリスでもなかった。同じく初来日で、そのときはぼく以外の誰も取材しなかったアーティスト、前座を務めたオウテカのほうだった。
リアーナが “SOS”(2006) でソフト・セル版“Tainted Love”をサンプル・ネタとして使ったころ、かつてはチープなソウル・エレクトロで一世を風靡したふたりは、再度タッグを組んで精力的な活動をしていた。2002年には1984年以来の4枚目のアルバムをリリースし、2003年にはハイドパークで開催された6万人規模のゲイ・プライドのヘッドライナーを務めたソフト・セルだったが、ボールにはこんなエピソードもある。彼が恋人とNYのゲイ・バーに入ったとき、まったくの偶然だが、カウンターの隣にはフレディ・マーキュリーが座っていた。マーキュリーはボールの顔を見ると、「デイヴィッド、教えてくれ。君とマークは恋人同士なのか?」と訊いた。ボールは自分がストレートでガールフレンドがいると説明すると、マーキュリーは黙ってその場を去ったという。このことが、ボールが髭を剃るきっかけとなった。
それはさておき、長年にわたるあらゆる依存症がボールを蝕んでいた。1990年代後半には、飲酒と喫煙、ドラッグの乱用で精神的にも身体的にも、そして日常生活に支障がでるほど窮地に追い込まれていたボールは、なんとかしようと一時期はアルコール依存症匿名会と薬物依存症匿名会に通ったほどだった。ドラッグと煙草を断ったデイヴ・ボールは新生ソフト・セルを始動させると、先述の通りアルバムを発表し、大きなライヴもいくつかこなし、2020年には自伝『Electronic Boy』も上梓している。2022年の『Happiness Not Included』が比較的高評価だったので、翌年にはその姉妹作『Happiness Now Completed』もリリースした。2025年10月22日自宅で亡くなったというボールだが、ソフト・セルとしての新作『Danceteria』の制作を終えたばかりだった。そういえば、つい先日ラスト・アルバムを出したセイント・エティエンヌの『International』にはザ・グリッド・リミックスがあったけれど、ボールはまだぜんぜんやる気だったのだろう。
ほんの数年前、石野卓球とのメールで、あのころ自分が好きだったのはクラフトワークの “Numbers” よりもソフト・セルの同名曲のほうだった、というやりとりをしたことがある。そうしたら、あの曲をエイフェックス・ツインがサンプリングしているの知ってた? と卓球から教えられた。自分としては、あの時代の人たちがここにまたひとりといなくなるのはとても寂しい。先週末は多くのファンが “Say Hello, Wave Goodbye” を聴いたのだろうけれど、あらためてあのころのボールの音楽を聴いていると、良い曲ばかりで、やはりすごいことをやった人だったんだなと思った。
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三田格
9年前、デイヴ・ボールは(ジャーナリストではなくピアニストの)ジョン・サヴェージと『Photosynthesis(光合成)』と題されたアンビエント・アルバムをリリースしている。どちらがイニシアティヴを取ったのかはわからないけれど、『Photosynthesis』はダーク・ドローンに分類され、ひと言でいえば不気味な作品に仕上がっていた。その当時はまだL.A.から解き放たれたベルリン・スクール・リヴァイヴァルの余波がニュー・エイジのポテンシャルを増幅させていた時期で、簡単にいえばアッパラパーな雰囲気のなかで、どんよりとした『Photosynthesis』には出る幕がないと感じられた。そして、無意識のうちに僕にはデイヴ・ボールに期待する、ある種のムードがあることを自覚した。それはやはりソフト・セルやザ・グリッドといったキャリアの初期に展開されていたポップでカラフルな響きであり、重苦しい曲調のなかにもどこか抜けのある軽妙洒脱なセンスだった。『Photosynthesis』にはあまりにもそれがなかった。しかし、デイヴ・ボールの訃報を聞いて僕が最初に聴いたのは、なぜか『Photosynthesis』だった。暗く、のったりと蠢くシンセサイザーに哀悼の気持ちは少しずつ吸い込まれていった。
『Photosynthesis』から5年後にソフト・セルは再-再結成を果たす。そして、3枚のアルバムを完成させている。彼らにとってファイナルとなった7thアルバム(発売は来年)を完パケた直後にデイヴ・ボールは亡くなり、ヴォーカルのマーク・アーモンドは「2026年はデイヴ・ボールにとって高揚感に満ちた年となるはずだった」と饒舌な追悼文で嘆いている。「僕たちの50年を一緒に祝えたらよかったのに」と。その追悼文によると、ソフト・セルはロンドンというよりもN.Y.のディスコ・カルチャーに属すると彼ら自身は考えていたようで、ラスト・アルバムに『Danceteria』と名付けたことは、ガビ・デルガドーが最後に残した曲のタイトルが“Tanzen(ダンス)”だったことと共鳴している。そう、1981年は彼らがイギリスでダンス・カルチャーを爆発させた年だった。ニュー・ロマンティクスやブリティッシュ・ファンクも呑み込んで「メソッド・オブ・ダンス」を合言葉に。
ソフト・セルがN.Y.のディスコ・カルチャーに属すると考えるのはとても納得のいくことである。実際にN.Y.のディスコでMDMAを経験したことが彼らの音楽性に影響を及ぼしたこともそうなら、マーク・アーモンドの変態的な歌詞はルー・リードの強い影響下にあり、性的マイノリティが集まるN.Y.のディスコ文化とは親和性が高かった。ルー・リードと世代的な差を感じるのはユーモアの質で、「自動車の後部座席でセックスをしているとシートに張り付いていたガムが背中でくちゃくちゃと音を立てている(大意)」といった発想はやはりルー・リードのそれとは距離を感じさせる。大学生の頃、単純な手作業のアルバイトをしている時に退屈なのでニューウェイヴの曲を集めたテープを作業場で鳴らしていたら一緒に作業をしていたカナダ人のモナちゃんが、ジョイ・ディヴィジョンがかかると「辛すぎる……」といって作業の手を止めてしまい、ソフト・セルがかかると笑いが止まらなくなって、やっぱり仕事にならなかったことがある。なるほど、ソフト・セルというのはそういう風に聞こえるのかと思ったものである。
シンセポップというのはどれも極めてチープで、ソフト・セルも例外ではなかった。先行したパンク・ロックの影響もあるのだろうけれど、「極めてチープなサウンド」で表現される世界観は普通の生活様式からは逸脱した人間性や、人間の隠された一面を戯画化して取り出す傾向があった。ヒューマン・リーグやザ・ポリスがストーカーを題材にして人間のファナティックな行動を通して時代を照射するのとは異なり、ソフト・セルは背景としての社会に目を向けることはなく、彼ら自身がどのように生きているかを切々と歌い、その核心は多様なラヴ・ソングに結実していった。人間の性を支配や消費という観点からドライに歌ったことで大きな論争を呼んだ“Sex Dwarf”は極端な例だけれど、彼らの曲の多くは強く変態性を帯び、ノーマルな人々にとっては気持ち悪いものにしか映らなかったことだろう。愛を歌い、その姿がどれだけ無様でも取り繕う様子もないどころか堂々としていたところは、日本だと戸川純が立っていた場所を想起させる。エロ・グロ・ナンセンス全開で好きなことをユーモアたっぷりに歌っていた戸川純がそれでも新曲を出せばTVに呼ばれていたという「社会的な評価」は、おそらくイギリスでソフト・セルが置かれていた位置に通じるものがある。がんばろうとか人にやさしくといった表面的な言葉ではなく、人が人を強く求める思いが彼らの表現の中心にはあり、時に人間の弱さを受け入れてくれることがない社会派の音楽よりも彼らの方が愛されていたとしたら、それはやはり制度よりも彼らの心が人の方に向けられていたからだろう。
「正しいことをするのに、僕の力はもういらないんだね」(“Tainted Love”)
「僕たちは初めて会った見知らぬ他人さ、そうだろ?」(“Say Hello, Wave Goodbye”)
「バカすぎて君にはヒドいこともできない」(“Torch”)
ソフト・セルにとって最大のカヴァー・ヒットとなり、ロング・ランを続けたあげく、『サイトシアーズ 殺人者のための英国観光ガイド』という映画のテーマにもなった“Tainted Love”は、タイトにリズムを刻むグロリア・ジョーンズの原曲よりもルーズな曲進行で、語尾を伸ばすように歌うことで歌詞の内容を強調し、シャカタクのヴォーカル、ジル・サワードがラス・スワン名義でカヴァーしたヴァージョンを参考にして彼らのヴァージョンを練り上げたという。ギネス・ブックに載るほどのメガ・ヒット曲となった“Tainted Love”はそして、12インチ・ヴァージョンでは途中からシュープリームス“Where Did Our Love Go”に変わり、再び“Tainted Love”に回帰してくるという不思議な構成となっていて、カップリングには完全に遊びでつくられた“Tainted Dub”を収録するなど12インチ・シングルという新たなメディアのポテンシャルをこの時点でここまで引き出したグループはほかにいなかった。ソフト・セルの12インチ・ヴァージョンはその後も原曲の2~3倍の長さになるのは当たり前で、10分を超える“Numbers”や12分近い“Soul Inside”など、デイヴ・ボールがいかにミックスで遊ぶのが好きだったかということを印象づける(このことだけでもデイヴ・ボールがDJカルチャーに移行することは初めから決まっていた気がしてしまう)。
デイヴ・ボールのサウンド・プロダクションが唯一無二のものになるのはセカンド・アルバム『The Art of Falling Apart』からで、場末のキャバレーを音で表したようなファーストから一転、それはヴェルサイユ宮殿かトプカプのような荘厳さを感じさせた。シンセポップにこんなことができるのかと当時の僕はかなりショックを受け、シンセポップ=「チープ」という形容詞はもう使えないと思った。基本的には“Sex Dwarf”のゴージャスなアレンジを全体に敷衍させ、オーヴァー・プロデュースを恐れなかった結果が『The Art of Falling Apart』になったのだと思う。どの曲も本当に素晴らしく、すべてにああだこうだと言いたいところだけど、当時は台所がテーマなんて珍しいと思い、“Kitchen Sink Drama”の歌詞を訳してみると母親が現実逃避ばかりしているという内容で、マーク・アーモンドが離婚した自分の母親をディスりまくっているのかと思っていたのだけれど、今回、調べ直してみたら“Kitchen Sink Drama”とは社会的リアリズムに基づくイギリスの文化運動を指す名称で、「怒れる若者」の源流だということを初めて知った。マーク・アーモンドにしてみれば自分の書く歌詞はアラン・シリトーに連なるものであり、マイク・リーやケン・ローチといった映画監督の表現と地続きなんだという表明だったのかもしれない。デイヴ・ボールのサウンドはピアノを導入に使い、歌詞に合わせて幻想的なフレーズを多用し、流れるように白昼夢を描いていく。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの“Sunday Morning”が念頭にあったのだろう。
『The Art of Falling Apart』と同じ年にデイヴ・ボールは初のソロ・アルバム『In Strict Tempo』も完成させている。ソフト・セルはシンセポップの代表格ではあるけれど、デペッシュ・モードやユーリズミックスと同じ文化圏にいたわけではなく、それは彼らのマネージメントが〈Some Bizzare〉だということと深く関係している。〈Some Bizzare〉とサインしたことがあるミュージシャンにはサイキックTV、ノイバウテン、スワンズ、コイル、ザ・ザ、ジム・フィータス……とオルタナティヴのフロントラインが揃い踏みで、それこそ「普通の生活様式からは逸脱」した音楽家しかいなかった。『In Strict Tempo』はニュー・オーダーが“Blue Monday”で新たなモードに歩を進めたようにデイヴ・ボールがダンス・カルチャーに模索の手を延ばした痕跡が残る一方、ヴォーカルにヴァージン・プルーンズからギャビン・フライデイを迎え入れるなど〈Some Bizzare〉という環境から得られるアンダーグラウンドな価値観がひしめき合ってもいる。実は、最初に取り上げたジョン・サヴェージとのジョイント・アルバム『Photosynthesis』は、こうした〈Some Bizzare〉の文脈でデイヴ・ボールを捉えればもっと鷹揚に楽しめたのかもしれない。デイヴ・ボールにとってそうした環境がどれぐらい吉と出たのかはわからないけれど、それこそ後には『Live in Heaven』にも参加するなどサイキックTVのメンバーにもなったことで、ジェネシス・P・オーリッジやジャーナリストのリチャード・ノリスとともにアシッド・ハウスにのめり込んでいく機会を得たことは間違いない。サイキックTVの変名アルバムとして認識されているアシッド・ハウスのコンピレーション『Jack the Tab/Tekno Acid Beat』はジェネシス・P・オーリッジに加えてデイヴ・ボールとリチャード・ノリスが全曲で関わっていて、すでにザ・グリッドの前段階と言えるものになっていた。同じ年にデイヴ・ボールはキャバレー・ヴォルテールの2人とラヴ・ストリートを結成し(両者は『The Crackdown』ですでに結びついていた)、バリアリック・ビートの“Galaxy”でもファンキー・ビートを聞かせている。『Jack the Tab/Tekno Acid Beat』と“Galaxy”を続けて聴くと、ある種の迷いのなさは伝わってくる。この時期のブリティッシュ・アシッド・ハウスはオリジナリティを否定し、他人と同じものをつくるのがいいとされていたので、デイヴ・ボールのそれもとくに彼の個性が反映されたものではない。ジャケット・デザインがデザイナーズ・リパブリックだというのがデイヴ・ボールの美意識からかけ離れ、いまとなっては同時代性だけを強く主張している。
84年に第1期ソフト・セルのラスト・アルバム『This Last Night in Sodom』をリリースした後、デイヴ・ボールの足跡はあまりに細切れになる。最初は当時の妻、ジニ・ボールとアザー・ピープル名義でサンプリングを散りばめたディスコ・ナンバー、“Have a Nice Day!”をリリースし、続いて3人組のイングリッシュ・ボーイ・オン・ザ・ラヴランチ名義では“Blue Monday”のバッタもんにしか聞こえない“The Man in Your Life”やハイエナジー調の“Sex Vigilante”を連打と、ソフト・セルからマーク・アーモンドによるメロディ・センスを取り除いたディスコ・ビートへの執着をとにかく強く感じさせる。ストローベリー・スウィッチブレイドのローズ・マクドウェルやシュガーキューブスのアイナール・オルン・ベネディクソンらと組んだオーナメンタルでも多幸感あふれる“No Pain”にどこまでもさわやかな“Crystal Nights”とシンセポップの延命をこれでもかと追求するも、これらがどれも長続きしなかったことがアシッド・ハウスへと舵を切るきっかけになったのだろう。デイヴ・ボールの作業でいえばソフト・セルの12インチでやっていたことをメインとすればいいだけのことだからロック・カルチャーからダンス・カルチャーに乗り換えられないと苦悩するほどのこともなく様変わりはできたはずである。サイキックTVやラヴ・ストリートとの習作を経て正式にリチャード・ノリスとスタートさせたザ・グリッド(マネージメントはアラン・マッギー)はデビュー・アルバム『Electric Head』ではまだイングリッシュ・ボーイ・オン・ザ・ラヴランチやオーナメンタルに近い音楽性を多分に残していて、これが最初にシングル・カットした“Floatation”のリミックスにアンディ・ウェザオールを起用したことで完全にダンス・カルチャーの領域へと歩を進められただけでなく、プレスの注目を最初から集めることにも成功する。ザ・グリッドによるソフト・セルのリミックス集『Memorabilia - The Singles』と並行して続くセカンド・アルバム『456』から“Crystal Clear”をヒットさせたのはもはや時間の問題だった。1993年にグラストンベリー・フェスに行った際、昼間のプログラムが終わるや否や、暗くなった途端に会場内で小規模なレイヴ・パーティがあちこちで始まり、ほどなくして“Crystal Clear”が僕たちの頭上にも鳴り渡った。クラウドはあっという間に恍惚としたムードに包まれ、多幸感の波を全身に浴びていた。ザ・グリッドは、さらにサード・アルバム『Evolver』からバンジョーをフィーチャーした“Swamp Thing”をヒットさせ、その頃には「国民的人気」と書き立てられるまでになっている(その勢いでカイリー・ミノーグ“Breathe”までプロデュースする)。
リチャード・ノリスの指向だったのではないかと思うのだけれど、ザ・グリッドは『456』から“Heartbeat”をシングル・カットする際、ブライアン・イーノにアンビエント・リミックスをオファーしている。ダンス・アクトとしてのザ・グリッドは4作目の『Music for Dancing』で一旦休止し、10年以上空けて復活するも、ラスト・アルバムとなった『Leviathan』ではロバート・フリップをゲストに迎えてアンビエント・アルバムも製作している。荒涼として寒々しいアンビエント・アルバムである。これがデイヴ・ボールの過去の作品とどう繋がっているのか、僕にはさっぱりわからなかった。アンビエント・ミュージックには個人の資質を出しづらいということもあるのかもしれないけれど、『Leviathan』や唯一のソロ作となった『In Strict Tempo』を聴いていると、もしかするとデイヴ・ボールには生涯を通じて本当にやりたかったことはなかったのかもしれないとも思えてくる。それこそ本当に意志の強い人と共に作業をすることで作品の完成度や相乗効果を高めることが彼にとっては才能を活かす道であり、デイヴ・ボールでなければソフト・セルやザ・グリッドは仮りに生まれていたとしてもまったくの別物になっていただろう。ソフト・セルやザ・グリッドが現在、残されているかたちになったこと、そして、“Torch”を聴いてトランペットという楽器が好きになった僕は、それだけでも彼が存在したことに感謝したい。……Say Hello, Wave Goodbye。


















photo by Sol Washington
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