素晴らしい音楽や映画、あるいは書物というのは、思いも寄らなかったところに入り込み、硬直した視野を押し広げてくれるものだ。石橋英子の『The Dream My Bones Dream』には、いち個人が日本史の靄のかかった奥に潜り込んでいくという点において、村上春樹の『ねじまき島クロニクル』を彷彿させるところがあった。だからといって、彼女が濱口竜介監督の、傑出したこの映画のサウンドトラックを引き受けることになったわけではないだろう。ようやく時間が持てたので、ぼくは『ドライブ・マイ・カー』を観た。そして3時間後には、しばらく席から立てないほど打ちのめされた。エンドロールでかかる石橋英子の曲は、車がギアチェンジしたことさえわからない滑らさをもって、しかし映画の深い余韻をしっかりと引き受けている。
石橋英子は、このサウンドトラックを2曲に集約させている。表題曲“Drive My Car”、映画においてもっとも印象的なチェーホフからの引用を曲名とした“We'll Live Through The Long, Long Days, And Through The Long Nights(長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう)”。アルバムには、この2曲をもとにした合計10ヴァージョンが収録されている(*)。とはいえ、10曲といっても差し支えないくらいに、個々それぞれ違っている10作品でもあるのだが、日々ひっきりなしに往復する車と同じように、それぞれの楽曲にもアルバム全体にも反復性がある。また、劇中でかかっている多くは、おそらく楽曲の断片で(まだ一度しか観ていないので、正確なところはわからない)、石橋英子のサウンドトラックは映画の音をそのまま再現しているわけではなく、それらをもとにひとつの独立したアルバム作品として再構成しているようだ。
映画は静かにゆっくりと、一見なんの変哲もない日常のなかで、登場人物たちそれぞれが個々の悲しみを打ち明けていく。自分に何が起こっているのか理解することそのものが困難な、いつ日常がひっくり返っても不思議ではない不安定な(村上ワールドでたびたび描かれている)日々において、安定しているのは登場人物みさきの運転ぐらいなものとなっている。変わりない時間軸といっしょに、残酷なまでに変わっていく時間軸が併走し、ドライブする車がいつの間にか車線変更するように映画はそのどちらかを走っている。こうした微妙なニュアンス、さりげない場面の意味的な移り変わりを、石橋英子(そしてジム・オルークと山本達久をはじめとする演奏者たち)は、ゆったりとスウィングするリズムとさまざまな表情の小さなメロディ、効果的なサウンドコラージュと起伏に富んだストリングス、そして電子音による音数少ないテクスチュアによってじつに巧妙に表現したと思う。主人公の家福が演劇の稽古で、役者たちに台詞を(下手に感情を込めずに)棒読みにするよう徹底させるシーンがある。感情は自分が勝手に与えるものではなく、言葉のほうから与えられるものだということなのだろうけれど、この音楽も似ている。情緒を押しつけるのではなく、それは聴き手のうちなるところから生まれるべきだと、それが主張を控えたこの音楽の主張だろう。
石橋英子は特定のジャンル作家ではない。いろんなスタイルでたくさんの音楽を作っている。先鋭的な実験音楽から親しみやすいポップス、ジャズからアンビエントまで。そうした彼女の多彩なところも、本作ではうまくまとまっているんじゃないだろうか。優雅で美しいピアノが旋回する“Drive My Car”の(Misaki)、サウンドコラージュとサティ風のピアノによる同曲の(Cassette)。山本達久の趣あるドラムと茫洋とした電子ドローンをフィーチャーする“We'll Live Through 〜”の(SAAB 900)ヴァージョンは、実験音楽家としての石橋英子の面目躍如で、さらにドローンに徹した(Oto)ヴァージョンの寂しげな静寂もぼくには面白いし、ミニマルな“Drive My Car”の(The Truth, No Matter What It Is, Isn't That Frightening/真実はそれがどんなものであれ、それほど恐ろしいものではない)などはクラスター&イーノによるプロト・アンビエントを彷彿させる。
こうした抽象的な楽曲があるいっぽうで、小気味よいリズムとメロディを主体とした“Drive My Car”の(The Important Thing Is To Work/大切なのは仕事をすること)、そしてストリングスの音色を活かした“We'll Live Through 〜”のオリジナル・ヴァージョンは、ギリギリのところである種ロマンティックな雰囲気を引き起こしている。曲の後方でジム・オルークのギターがざわついている“We'll Live Through 〜”の(And When Our Last Hour Comes We'll Go Quietly/そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう)は、アルバムのクローザーに相応しい。昼も夜も休まることなく、クライマックスに向けて走り抜けていくようだ。が、しかし走っても走っても、カフカの『城』のように終着点はない。いや、ここはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のように、と書くべきか。
本作は、2021年の夏に出たアルバムだが、ぼくが聴いたのはわりと最近で、レヴューを書くために映画を観に行こうと思い、ようやくそれが叶ったことでいまこうして書いている。映画を観た人と観ていない人では、このサウンドトラックの受け止め方が違うのは当たり前だ。これは観た人の感想文であって、観ていない人がこの音楽をどう聴くのかはわからない。ぼくはこのアルバムが気に入っているし、ここ最近は、ぼくが移動するときのサウンドトラックにもなっている。まあ、ぼくはもっぱら歩く人ですけど。
(*)つい先日発売されたCD版にはボーナストラックとして新たに2曲が追加されている。1曲は“Drive My Car”の(Hiroshima)、もう1曲は“We'll Live Through 〜”の(different ways)。前者はミニマルなピアノ演奏による曲で、後者は『ミュージック・フォー・エアポーツ』寄りの、複数の電子ドローンがそれぞれ循環する美しいアンビエント・ミュージックになっている。
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4年前に急逝した Fla$hBackS のラッパー/プロデューサー、FEBB。生前手がけていたという幻のサード・アルバム『SUPREME SEASON』がなんと陽の目を見ることになった。残されたPCから発見された全16曲を収録、アナログ2枚組とCDのフィジカル限定で、デジタルでのリリースは予定されていない。これは要チェックです。
FEBBが生前に最後まで手がけていた幻の3rdアルバム『SUPREME SEASON』が完全限定プレスの2枚組アナログ盤、CDのフィジカル限定でリリース。
2018年2月15日に急逝したFEBBが生前に最後まで手がけていた幻の3rdアルバム『SUPREME SEASON』がリリース。デジタルでリリース済みの“SKINNY”や“THE TEST”の7インチにカップリングされた"FOR YOU”など一部既出の楽曲やGRADIS NICEとの『SUPREME SEASON 1.5』でリミックス・ヴァージョンが収録されたりしているものの、これが本人が纏めていたオリジナル音源での3rdアルバム。
FEBB自身のパソコンから発見された全16曲のオリジナルデータにマスタリングを施し、ご家族と協議の上リリースすることとなりました。客演としてMUD(KANDYTOWN)が唯一参加となっています。(本来は全17曲ですが"DROUGHT"はMANTLE as MANDRILLのアルバムに収録されたため本作には未収録)
アートワークは名盤『THE SEASON』と同じくGUESS(CHANCE LORD)、マスタリングはNAOYA TOKUNOUが担当。
本作はアルバムとしてのデジタル・リリースは予定しておらずフィジカル限定となり、アナログ盤は帯付き見開きジャケット/完全限定プレスで一般販売。同じく完全限定プレスのCDやTシャツ等のマーチャンダイズはP-VINE
SHOP限定での販売となり、詳細は追ってアナウンスになります。
(Photo: Shunsuke Shiga)
[商品情報]
アーティスト: FEBB
タイトル: SUPREME SEASON
レーベル: WDsounds / P-VINE, Inc.
発売日: 2022年5月25日(水)
仕様: 2枚組LP(帯付き見開きジャケット仕様/完全限定生産)
品番: PLP-7778/9
定価: 4.950円(税抜4.500円)
[TRACKLIST]
A-1 SUPREME INTRO
A-2 DRUG CARTEL
A-3 THUNDER
A-4 FOR YOU
B-1 CITY
B-2 DANCE
B-3 RUSH OUT
B-4 $AVAGE
C-1 F TURBO
C-2 FOR REAL THO
C-3 ELOTIC
C-4 NUMB feat. MUD
D-1 REALNESS
D-2 LIFE 4 THE MOMENT ( SKIT )
D-3 MOTHAFUCK
D-4 SKINNY
2021年のエレクトロニック・ミュージックにおいて、こと複数のメディアで総合的に評価の高かった2枚に、アヤの『im hole』とロレイン・ジェイムスの『Reflection』があり、ほかにもティルザの『Colourgrade』とか、えー、ほかにもスペース・アフリカの『Honest Labour』もいろんなところで評価されていましたよね。まあ、とにかくいろいろあるなかで、やはりアヤとロレイン・ジェイムスのアルバムは突出していたと思います。この2枚は、ベース・ミュージックの新たな展開において、10年代のアルカそしてソフィーといった先駆者の流れを引き寄せながら発展させたものとしての関心を高めているし、そしてまた、〈ハイパーダブ〉という21世紀のUKエレクトロニック・ミュージックにおける最重要レーベルの新顔としての注目度の高さもあります。ロンドン在住の現役クラバー、高橋勇人と東京在住の元クラバー、野田努がzoomを介して喋りました。
■アヤとは何者?
高橋:先週はコード9に会いましたよ。
野田:なんで?
高橋:イースト・ロンドンのダルストンにある〈Café Oto〉というヴェニュー。大友(良英)さんや灰野(敬二)さんがよくやってる。
野田:うん、わかる、日本でも有名。Phewさんの作品も出してるよね。
高橋:そこでアヤがインガ・コープランドの新名義ロリーナと対バンしたんですよ。
野田:くっそー、その組み合わせ、最高だな。
高橋:インガ・コープランド、とくにハイプ・ウィリアムスって、ある種、ダンス・ミュージック以外にも注目しはじめた第二期〈ハイパーダブ〉を象徴するアーティストですよね。
野田:そう、いまハイプ・ウィリアムスの話からはじめようと思ってた。高橋くんって、(マーク・)ロスコの原画って見たことある?
高橋:テート(・モダン)で見たことあります。
野田:あの抽象表現絵画って絵葉書とかになってたりするけど、原画はものすごく巨大で。
高橋:ウォール・ペインティングですもんね。
野田:あの原画の前に立ち尽くすと、圧倒的なものを感じるんだよね。俺はドイツの、たしかデュッセルドルフで原画を見たんだけど、しばらくその前から動けなかったぐらい圧倒された。ハイプ・ウィリアムスのライヴは、自分が21世紀で観てきたなかでいまだベストなんだけど、そのときのハイプ・ウィリアムスのライヴは、言うなればジャングルやベース・ミュージックの抽象絵画だったんだよ。
高橋:なるほど。
野田:抽象化されたベース・ミュージック。そのときのライヴは、壮絶な電子ドローンからはじまったの。サブベースありきのね。もし、“ドローン・ダブ” なんて言葉があるとしたら、あれこそまさにそんな感じだった。それで最初にアヤを聴いたとき、ハイプ・ウィリアムスの続きがここにあると思ったんだよ。ほら、冒頭の電子ドローン、あれを大音量でちゃんとしたシステムで聴いたら、近いモノがあると思うし、電子的に変調された声もそう。
高橋:ははは、そうなんですね。僕にとってハイプ・ウィリアムスとは〈ハイパーダブ〉からの『Black Is Beautiful』ですよ。あのイメージが僕には強い。だから、サンプリングを重視したすごく変なポップ・ミュージックって印象です。
野田:そうだよね。コンセプチュアルでメタなエレクトロニカだよね。とくにその後のディーン・ブラントは音楽そのものを偽装する奇妙でメタなポップ路線に走るけど、あのときのライヴは、言葉が通じない日本人に対してサウンドで勝負したんだよな。そこへいくと、アヤは詩人であり、言葉の人でもある。しかしそのサウンドがあまりにも斬新なんだ。ちなみにさ、アヤってどこから来た人なの?
高橋:経歴を説明すると、出身は北イングランドのヨークシャー。いまって若手のアンダーグラウンドのミュージシャンでも、大学で音楽を勉強している人がすごく多いじゃないですか、ロレイン・ジェイムスとレーベルの〈Timedance〉を主宰しているブリストルのバトゥと彼のレーベルメイトなんかもそうだし。アヤもそうで、音楽大学でミュージック・プロダクションを勉強して、そこで出会ったティム・ランドというランドスライド(Landslide)名義でドラムンベースを作っていた先生に出会うんですよ。その人からアヤはアルカやホーリー・ハードンなどについて学んでいる。
野田:えー、大学でアルカを学ぶって。日本じゃ考えられない(笑)。
高橋:(笑)それがウェールズの大学で、アヤはそこからマンチェスターにいった。そこでベースやUKガラージのシーンへと入って、〈NTS〉マンチェスターとかその周辺の人たちとやっていた。で、『FACT Magazine』のトム・レア元編集長がはじめた、ロンドンの〈Local Action〉レーベルがあって、現行のベース系だけど、ダブステップよりもUKガラージとかから派生している、フロアで機能するようなレーベルです。そういったコミュニティにいたのがアヤ。そこではまだ、ロフト名義でやってた。
野田:ロフト名義のころから注目されてたの?
高橋:詩のパフォーマンスもやってはいたけど、リリースでは音がメインでしたね。ちなみに、トム・レアやその周辺のベース・ミュージックと日本でつながってるのはdouble clapperzのSintaくんとかじゃないかな。
野田:Sinta、素晴らしいな。
高橋:トム・レアってすごく敏腕ディレクターで、新しいことをいろいろやってる。いわゆるEDM的なものではない、カッティング・エッジなベース・ミュージックをロンドンから発信していた。そのなかのひとつとして、ロフトも注目されていた感じです。ロフトはブリストルの〈Wisdom Teeth〉からもリリースしていて、アンダーグラウンドのベース・ミュージック新世代のひとりとして認知されていましたよ。
野田:話が飛んじゃうけど、いまブライアン・イーノの別冊を作っているのね。60年代から70年代って、イギリスはアートスクールがすごかった。アートスクールという教育機関が、70年代のUKロックに影響を与えていたことは事実なんだけど、きっと、いまはそれが大学なんだね。
高橋:まあ、アートスクールが大学ですからね。ブレア政権時代に、いわゆる昔の職業専門学校みたいなのが大学になったりしている。その大学改編の一環で、それまでのアートスクールが大学になっているんじゃないかな。いわゆる美大みたいな感じに。
野田:なるほど。それでアルカについて教えたり、Abletonの使い方を教えたりしてるんだ。そりゃあ面白いエレクトロニック・ミュージックが出てくるわけだな(笑)。ブライアン・イーノがアートスクール時代の恩師からジョン・ケージや『Silence』、VUなんかを教えてもらったようなものだね。
高橋:似ているかもしれない。それこそ僕の在籍しているゴールドスミス大学はジェイムス・ブレイクの出身校ですからね。

Photo by Suleika Müller
野田:話を戻すと、アヤの『im hole』は2021年出たエレクトロニック・ミュージックではいちばん尖った作品だったよね。
高橋:尖ってましたね。
野田:しかもあれって、ベース・ミュージックだけじゃなく、ドローンやアシッド・ハウスとか、いろんなものがどんどん混ざっている。ハイブリットっていうのはまさにUKらしさだし、まあいつものことなんだけど、アヤのそれは抽象化されているんだけど、巧妙で、リズムの躍動感が抜群にかっこいいんだよ。
高橋:僕の好きな曲は4曲目の“dis yacky”です。
野田:あー、わかる、あのベースが唸るやつね(笑)。アルバムを聴いていって、あの曲あたりから踊ってしまうんだよ。部屋のなかで。
高橋:基盤にグライム、ダブステップとジャングルが入ってる。曲の作り方がほかの人とぜんぜん違います。ちなみに、アヤはもともとドラマーでリズム感がめちゃくちゃいいんです。あれって普通に聴くとダブステップと同じようなスピードなんですよ。でも、うしろで鳴ってるのが五連付のドラムロールで、その音だけ、だいたいBPMが170でジャングルと同じなんです。で、アヤはそのBPM170をエイブルトンで設定して作っているんだけど、普通に音楽を聴くときはダブステップやグライムで主流のBPM140で聴こえる。つまりポリリズムですよね。普通はそうやって凝り過ぎるとIDMっぽくなるというか、フロアではシラケちゃったりする。けれどアヤはそこのバランスがうまい、ぜんぜんサウンドオタクっぽく聴こえない。
野田:なるほど、たしかに。
高橋:僕はそこにある種の、ポリリズムとある種のクィアなアイデンティティの相関関係みたいなものがあるんじゃないかと思った。クィア・サウンドとはこれまでにない音を作り出す、それまでのサウンドの境界線をプッシュするというか。そこでポリリズムもリズムの多重性と考えられないかなと。ちなみにアヤ自身はトランスウーマンで、自分のジェンダー自認は女性って公表しているので、その自認がクィア、つまり男性でも女性でもない、というわけではないんですけどね。ただ彼女の生き方には、そういったクィア性はみてとれる。そういった表現をサウンド・テクスチャ―から感じるプロデューサーはいるけど、リズムでやってる人はそこまでいないような気がする。
野田:クィア・サウンド……、なるほどね、それっていま初めて聞いた言葉だけど、面白いね。だって、ハウスはゲイ・カルチャーから来ていて、やっぱりあのサウンドにはその文化固有のエートスが注がれているわけで、最近のエレクトロニック・ダンス・ミュージックでおもろいのは、気がつくとクィアだったりするんだけど、同じようにその独特なノリやその文脈から来ているテクスチュアがあるんだろうね。
高橋:10年代でいえば、〈Night Slugs〉なんかがクィア・シーンではすごい人気ですけどね。
■ソフィーの影響はでかかった

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野田:アヤは〈ハイパーダブ〉がフックアップしたの?
高橋:これはスティーヴ・グッドマン(コード9)がロフトのライヴに感銘を受けて、〈ハイパーダブ〉から出したとインスタグラムで言ってました。まずポエトリー・リーディング、詩のパフォーマンスがすごいとも言ってた。そしてあのサウンドテクスチャー。
野田:〈ハイパーダブ〉の資料によると、アヤはクィア文化に対しても批評的なことを言ってるよね。それも俺、興味深く思っててさ、自分がクィアでありながらクィア文化に対しても批評的であるということは、それが「LGBTQであるから評価するのは間違っている」ということだよね?
高橋:そうです。つまり、クィア文化そのものを批判しているんじゃなくて、そこに向けられる言葉に懐疑的なんです。「LGBTのサウンドはこうでしょ、LGBTのアーティストに求められるものはこうでしょ」、といったものを完全に拒否した音楽です。
野田:逆に言うと、それはジェンダーの認識がすごく成熟に向かってるということでもあるのかね。
高橋:そういう見方もできるかもしれません。だからこそかもしれないけど、リリックのなかでクィアなアイデンティティを全面にだすより、単純に自分が感じている日常的なこと、たとえば自分はヨーク出身で、マンチェスターを経由していま音楽をやっているとか、そういうことをうまい言葉遊びで表現してる。だから必ずしも、クィアやLGBTを取り巻く言説に対する批判だけにとどまらないアティチュードが面白いんですよ。
野田:言い方を変えれば、ジェンダーを超えたところで評価してほしいってことだよね。
高橋:もちろん。アヤはソフィーからの影響が強いアーティストなので。
野田:あらためて思うけど、ソフィーはホント、でかいなぁ。
高橋:ソフィーなんてでてきた当初、誰がやっているかさえわからなかったじゃないですか。でも、ブリアルとぜんぜん違うのはメディアとかにもでていて、ソフィーが顔をだすまえ、つまりアルバム『Oil Of Every Pearl's Un-Insides』を出す前、インタヴューを受けても顔を隠して声も変えたりしてた。
野田:まさにそれはアヤもやってることだよね。
高橋:そう。〈NTS〉のラジオでもずっとやってた。ソフィーの影響だと思う。このアルバムにはソフィーが死んだ数日後に作ったという“the only solution i have found is to simply jump higher”という曲が入ってます。僕が買った『im hole』の本の謝辞にも「ソフィへ、すべての永遠の満月を(To SOPHIE for every full moon forever)」って書いてある。ポスト・ソフィーっていい区切りになりますよ。サウンド・ミュータントを追求するアルカやフロアで革新性を求めた〈Night Slugs〉もすごく影響力があるけど、ソフィーがやったハイパーポップがもっと重要みたいです。アヤとロレイン・ジェイムスはふたりともソフィーの影響下にありますからね。
野田:ああそうだね、ロレインも。

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高橋:去年、僕が感動したDJは、ロレイン・ジェイムスが〈NTS〉でやったソフィーへのトリビュート・セット。あれは素晴らしい。ソフィーの楽曲だけじゃなくて、そのカバーもミックスしていて、みんなのソフィー像が浮かび上がってくるみたいなんです。 LGBTコミュニティに属するアーティストの紹介と言う意味でも、〈ハイパーダブ〉も頑張っていますね。クィア・アーティストとか、マージナルなアイデンティティの人をよくだすようになった。サウス・アフリカのエンジェル・ホ(Angel-Ho)とか。
野田:ところでアヤのライヴってどうだった?
高橋:2回観てますけど、去年のライヴ・ハウスみたいなとこでやったのは、黒いパーカーを着てステージにあらわれて、体を使ったボディ・パフォーマンスがすごかった。本人はスケボーもやっていて運動神経がすごくいいんです。
野田:あれで運動神経がいいなんて、ちょっと反則だ(笑)。
高橋:なんて言えばいいのかな……、ソフィーやアルカも、ライヴをやってるときってけっこうシリアスな感じになるんですね。でもアヤはそういう感じではない。どんなにシリアスになったときでも、アヤはお客さんとジョークを交えたコミュニケーションを取ることを忘れない。
野田:北部の人たちは、昔からロンドンのお高くとまったところに対抗意識を持ってるんだよ。
高橋:ありますね(笑)。うまく言えないんだけど、すごくイギリス人っぽいユーモアを持ったひとです。だからアルバムからは想像できないけど、すごくフレンドリーです。じょじょに曲が進むとパーカーを脱いで、すごくかっこいい衣装になってダンスしまくる、みたいな。その日はちょうど、アルバムにも参加してるマンチェスターのアイスボーイ・ヴァイオレットもMCでステージに現れました。アイスボーイのジェンダープロナウンは「They/Them」で、男性と女性でもないことを自認していますね。
野田:はぁ……(深くため息)、いまコロナじゃなきゃ、日本でもきっと見れたんだろうなぁ。君がうらやましいよ。じゃ、ロレイン・ジェイムスのことを話そう。彼女は〈ハイパーダブ〉が見つけたんじゃなく、ロレインが海賊ラジオに出演したとき、これは〈ハイパーダブ〉が契約しなきゃだめだろってリスナーが騒いで、で、〈ハイパーダブ〉が契約したっていう話を読んだんだけど。
高橋:たしかに。ロレインは同じ世代からの信頼がすごく厚いプロデューサーなんです。オブジェクト・ブルーというロンドンのプロデューサーや、ロレイン・ジェイムスのフラット・メイトで、〈Nervous Horizon〉を運営するTSVIと彼女は仲がいい。みんな非常にスキルフルで影響力のある作り手たちです。そういったロンドンのコミュニティがあるのは面白いですよね。
野田:面白い話だね。そういうのは日本からはぜんぜんわからないよね。
高橋:オブジェクト・ブルーさんは日本語が母国語のひとつだし、『ele-king』で日本語圏に向けて取り上げるべき人ですよ。最近ではジェットセットでもレヴューを書いてたな。彼女はレズビアンであることを公言していて、昔Twitterには自分のことをテクノ・フェミニストと呼んでいてかっこいいなと思いました。
野田:へー、それも興味深い。
高橋:そういうコミュニティからロレイン・ジェイムスがでてきてるっていうのは、ひとつありますね。いわゆる団体というよりも、友だちって感じですけど。
野田:ロンドンって再開発して物価が上がってボヘミアン的なアーティストが住めないって聞くから、もう新しいものは生まれないって思ってた。そういうわけじゃないんだね。
高橋:そんなわけでもないですよ。たしかにブレグジットの影響でボーダーは前ほど自由ではないけど、音楽シーンにインターナショナルな感じはあるかな。TSVIはイタリア人なので。ヨーロッパから人がたくさん集まってる。ベルリンみたいな雰囲気もあります。
■ロレイン・ジェイムスの内省
野田:そのロレイン・ジェイムスなんだけど、彼女の『Reflection』、俺はアヤ同様に、昨年ものすごく気に入ってしまってよく聴いたんだよね。ドリーミーで、内省的なところにすごく惹かれたよ。ロンドンに住んでる人とは、日本はだいぶ状況が違うから聴き方も違っているのかもしれないけど、いまロンドンはプランBでもって、すべてのクラブは解禁されて、マスクなしでみんな騒いでるわけでしょ? でも日本はまったく違うのよ。年末年始に久々にリキッドルームやコンタクトに行ったけど、当然マスク着用で、基本、みんな静かに踊ってる感じ。日本はさ、なんか陰湿な社会になっていて、相互監視がすごくて、その場で注意されるんじゃなく、ネットで批判されたりするんだよ。で、まあ、久しぶりにクラブやライヴハウスに行くとやっぱ楽しいんだけど、でも、いつまでこうやって、マスク着用で静かに踊ってなきゃならないんだろうかって思うと、途方に暮れるんだよね。だから相変わらずひとりでいる時間も増えたりで、内省的にならざるをえないというか、むき出しのエネルギーみたいなものより、内省的なものにリアリティを感じちゃう。俺の場合はロレイン・ジェイムスはそこにすごくハマった。それにアヤとは違ってロレインのほうがメロディックじゃない?
高橋:まあ、そうですね。
野田:メロディがはっきりしていて、そういう意味ではポップともいえる。
高橋:アヤはどっちかというと、リズムの実験。
野田:そうだね、あとテクスチュア重視。ロレインもリズムはこだわってるけど、メロディのところでは対照的かもね。あとさ、ロレインって、紙エレキングでインタヴューさせてもらったんだけど、ほかのインタヴューを読んでも、すごく誠実そうな人柄が伝わってくるじゃん? IDMは大好きだけど、ベタなポップスもけっこう好きってことも言うし。俺はレコードで買ったけど、レコードには歌詞カードがちゃんと入っている。彼女はファーストがすごく騒がれて、で、がんばりすぎて鬱になってしまって、だから決してドリーミーな言葉ではないんだろうけど、でもサウンドはドリーミーなんだよね。悲しみから生まれた音楽かもしれないけど、悲しい音楽ではない。
高橋:パワフルでエネルギッシュな音楽ですよね。
野田:あるイギリスのライターが書いたレヴューで共感したのが、「この音楽は絶望から生まれたかもしれないけど、もっとも絶望から遠ざかってもいる」みたいなね。
高橋:そういう意味で〈ハイパーダブ〉にいままでなかった音楽ですよね。ロレイン・ジェイムスは顔が見えるというか。そういうパーソナルな部分がでている。〈ハイパーダブ〉は「ハイパーなダブ」ですからね。音の実験みたいなところ。ロレインそういう意味で〈ハイパーダブ〉の新しい章のはじまりかもしれない。僕はファースト『For You and I』に漂っている、あの自分の生まれ育ったノースロンドンをサウンドで振り返る感じがすごく好きです。
野田:ブリアルを輩出したレーベルだから、やはり匿名性にはこだわってきたんだろうし。
高橋:〈ハイパーダブ〉は2004年にはじまったわけだから、もうすぐ20年近くになりますね。
野田:最初はカタカナで「ハイパーダブ」って書いてあったんだよね。サイバーパンク好きだから。
高橋:そうですよね。クオルタ330とか、いまも食品まつりとか日本人のも出し続けてますね。
野田:食品さんが〈ハイパーダブ〉から出したのはいちファンとして嬉しかったな。

Photo by Suleika Müller
■〈ハイパーダブ〉とレイヴ・カルチャー
野田:〈ハイパーダブ〉には、レイヴ・カルチャーをリアルタイムで体験できなかった人たちがレイヴ・カルチャーを再評価するっていうところがあるじゃない?
高橋:そうかな?
野田:そうじゃないの?
高橋:たしかにコード9の後輩とも言えるゾンビーやブリアルは、本人たちも言っているようにレイヴを直接経験していないですよね。でもコード9、スティーヴ・グッドマンは1973年生まれのレイヴ世代ですよ。それこそグラスゴー出身で、レイヴに行ってた。そしてエジンバラ大学で哲学を勉強して、それからウォーリック大学に移って、そこでニック・ランドとセイディー・プラントが教鞭を取っていて、マーク・フィッシャーなんかもいた。いま頑張って訳してるマーク・フィッシャーの『K-PUNK』にも書いてあるんですけど、CCRUのなかでひとつ共有されていたのは、ジャングルは哲学化する必要なんかなくて、最初から概念的だったということだと、そうマーク・フィッシャーは言ってます。
野田:〈ハイパーダブ〉って、ブリアルとコード9がそうだったように、すごくメランコリックだったでしょ。それってやっぱり、1992年はもう終わったという認識があったからだと思うんだよね。
高橋:たしかに。
野田:ノスタルジーとメランコリックは違っていて、ノスタルジーは過去に囚われている状態だけど、メランコリックは過去は終わってしまったという認識からくるものでしょ。彼らのメランコリーって、そういう意味で過去を過去と認め明日を見ていたというか。それをこの20年くらいのあいだ実践してきたのがすごいなと。
高橋:面白いのは、コード9は自分のことをジャングリストっていうけれど、彼はいちどもストレートなジャングルを作ったことはないですよね。しかも、やっぱり最初にコード9が注目されたのはダブステップのシーンであったわけで。かといって、ダブステップの曲ばかり作っていたかといえばそうではなくて、UKファンキーを作ったりとか、そういうこともやってた。いま彼のプロダクションは、フットワークの影響が強い楽曲がメインですね。
野田:そのときどきの変異体に柔軟に対応しているよね。でもずっと通底しているのはジャングルから発展したベース・ミュージックだよね。
高橋:それはあります。彼がいうように、〈ハイパーダブ〉はサウンドの伝染していくウイルスで、形が変わってもジャングルの要素は残っているんでしょうね。DJではコード9はいまも直球のジャングルをかけてます。
野田:ま、UKアンダーグラウンドのブルースであり、ソウルみたいなものだしな。ちなみにUKのレイヴおよびジャングルをリアルタイムで経験してる音楽ライターって、日本では俺とクボケン(久保憲司)だけだと思うよ。これ自慢だけど。
高橋:〈ハイパーダブ〉のレーベル・カラーとしてスティーヴ・グッドマンが最初から明言してる重要なことなんですけど、自分たちはIDMみたいな音楽は出さないと言ってます。彼はもっとシンプルなダンス・ミュージックのフォーマットに惹かれているのであって、いわゆるIDMとされる音楽の表現形態とは離れてると。
野田:レイヴ・カルチャーってのはラディカルだったけど、大衆文化のなかにあったからね。業界のエリートが集まってやってたものではないから。
高橋:たぶんスティーヴ・グッドマンが考えているのは、いわゆるIDMみたいに複雑なことをやらなくても、常にそのなかに、あえていうなら哲学的でコンセプチュアルな可能性は秘められているというか。そこの価値転換みたいなことを〈ハイパーダブ〉は実践としてやっているのではないかと。コード9と同世代のリー・ギャンブルが数年前に〈ハイパーダブ〉に移籍したときはびっくりしたけど、彼のレーベル〈UIQ〉にもそれを感じるかな。リー・ギャンブルの〈ハイパーダブ〉の作品はすごく複雑でコンセプチュアルで、僕にはIDMに聴こえるんですが(笑)。
野田:ブリアルが新しい作品をだして話題になってるけど、タイトルが「Antidawn」だよね。
高橋:造語ですね。
野田:そう、「反夜明け」って造語。それって明るいものに対する反対みたいな、否定的なニュアンスで受け取られてるよね。でもね、レイヴ・カルチャーってことを思ったとき、レイヴの真っ只中では誰もが「夜明けなんて来るな」と思ってるんだよ。だから、必ずしも「Antidawn」は否定的な言葉ではないとも思ったんだよね。
高橋:なるほど。アンダーグラウンドの世界が終わらない、というか。野田さんって『remix』で、日本で唯一ブリアルにインタヴューしている人ですよね。
野田:まあ、電話だけどね。
高橋:あれすごく面白くて。彼が音楽の比喩として使っているのが、公園とかにある石を裏返すと虫が元気にうごめいてると。クラブ・ミュージックはそういうものだと、太陽が当たらないほうが元気だろ、と。こういうことをしゃべる人なんだって(笑)。
野田:そうそう(笑)。彼はほんとうにアンダーグラウンド主義者だよね。
[[SplitPage]]■〈WARP〉や〈Ninja Tune〉との違い
高橋:「Antidawn」をどういうふうに聴きました?
野田:あれって日本にいるほうがリアリティを感じるよね。クラブに行きたくても昔のようには行けないじゃない。リズムがないってことはそういう状況の暗喩なわけで。
高橋:あれはロックダウン中に作られた音楽ですよね。個人的なことを話すとロックダウン中に、僕は散歩をたくさんしていた。クラブに行けない状況で、ヘッドホンをしながらパーソナルに聴く状況が増えた。その雰囲気にかなりぴったりですよね。レヴューでも書いたけど、僕はこの続きを聴きたいなって思わせる音楽だと思いました。
野田:スタイルとしてはサウンド・コラージュだよね。風景を描いている音楽。
高橋:野田さんは〈ハイパーダブ〉をずっと紹介してきたけど、いままでのUKレーベルの〈Ninja Tune〉や〈WARP〉との違いって何だと思いますか?
野田:そのふたつのレーベルはセカンド・サマー・オブ・ラヴの時代に生まれたってことが〈ハイパーダブ〉との大きな違いだよね。ただし、リアルタイムでレイヴやジャングルを経験するってことはそのダークサイドも知るってことで、あとからジャングルを形而上学的に分析することはできるだろうけど、あの激ヤバな熱狂のなかにいたらなかなかね……。
高橋:そういえば、野田さんは〈fabric〉から出たコード9とブリアルのミックスのことを形而上学的だって書いてましたね。
野田:で、ジャングルと併走して白人ばかりでドラッギーなトランスのシーンもあったし、だからあの時代(1992年)に〈WARP〉が“AIシリーズ”をはじめたことは、当時はものすごく説得力があったんだよね。IDMに関しては、その言葉はオウテカやリチャード・ジェムスもみんな嫌いで、だから90年代は“エレクトロニカ”って呼んでいたんだよ。そして、ではなぜ〈Ninja Tune〉や〈WARP〉がジャングルに手を出さなかったかと言うと、ひとつは、すでにレーベルがいくつもあった。〈Moving Shadow〉であるとか、4ヒーローの〈Reinforced〉であるとかゴールディーの〈Metal Heads〉であるとか、そういうオリジネイターに対してのリスペクトもあったし、でも、その革命的な音楽性に関してはドリルンベースなどと呼ばれたようなカタチで取り入れているよね。あと、ジャングル前夜のベース・ミュージックって、それこそブリープの元祖、リーズのユニーク3だったりするんだけど、そこと〈WARP〉は繋がってるじゃん。もともとシェフィールドのレコ屋からはじまってるわけで。そこに来てシカゴやデトロイトのレコードを買っていた連中が音楽を作るようになっていって、レーベルがはじまった。
高橋:それに対して、〈ハイパーダブ〉はウェブ・マガジンとしてはじまってるんですよね。その読者がブリアルであって、そこからいろいろつながった。そういう意味で、ゼロ年代のある種のインターネット音楽のパイオニアみたいなところもあったんじゃないかな。
野田:たしかにね。レコ屋世代からネット世代へってことか。
高橋:そういえば、スティーヴ・グッドマンは現実の政治性を全面にだす感じではなく、むしろ冷ややかに離れて見ていた印象があったんです。自分のイベントでは「ファック、テレザ・メイ」とMCで言っているのを見たりしましたけど(笑)。でも最近、ブラック・ライヴズ・マター以降の彼の言動をみると、〈ハイパーダブ〉がいまのブラック・ミュージックを世界に出すうえでのハブというか、ブラック・ミュージックを意識的に紹介していくことをひとつの重要な点として考えているってことをソーシャルメディアで公言しているんです。フットワークもそう。〈ハイパーダブ〉の00年代後半の功績のひとつとして、イギリスにフットワークを広く紹介した。
野田:それは〈Planet Mu〉でしょ。
高橋:〈ハイパーダブ〉と〈Planet Mu〉のふたつですね。〈ハイパーダブ〉はDJラシャドをだしてますから。また、〈ハイパーダブ〉から紹介されて以降、ラシャドはジャングルに興味を持つようにもなる。そういう相互関係も生まれてくる。コード9はいまもフットワーク・プロデューサーをどんどん紹介している。あと最近ではさっきのエンジェル・ホを出したり、南アフリカのゴム(Gquom)やアマピアノを紹介したり。西洋中心主義に陥いることなく、そういう音楽を意識的に紹介している。そういう意味で食品まつりを出したのも面白いですよね。
野田:〈ハイパーダブ〉はイギリスではどんなポジションなの?
高橋:先日用があってブライトンに行ってレコ屋を覗いたんですが、「Antidawn」のポスターがメジャーなアーティストと並んでました。
野田:やっぱブリアルは別格だよね。でも、当然あの作品に対する批判はあるでしょ? あれだけ極端で、思い切ったことやっているわけだから。
高橋:ダンス・ミュージックじゃない点で、少し物足りなさを感じる人はいますね。あとはやってることがまえとそんなに変わってないから、もっと違うことをやればいいんじゃないかとか。そのまえにいくつか12インチをだして、そちらはダンサブルでいままでにないアプローチもあったから、そっちの続きが見たいって人も多いですね。
野田:そりゃまあ、そう思う人が多いことはわかる。
高橋:僕はロックダウン中、ダンス・ミュージックと同じくらいアンビエントもフォローするようになっていて。いわゆるアンビエント・サウンドのなかでも、すごくパーソナルな方向というか、そういうひとたちが増えたと思うんですよね。デンシノオトさんもレヴューを書いてますが、アメリカのクレア・ロウセイってひとはアンビエント音楽のうえで、すごくパーソナルなエッセイを朗読したり、すごく作り手の顔が見える音楽をやっている。
野田:ああ、なるほど。たしかにパンデミック以降、アンビエントの需要が拡大したのは事実で、「Antidawn」はブリアルにとってのアンビエント作品という位置づけもできるよね。
高橋:ロンドンの視点で言うと、コロナで休止しちゃったけど、エレファント・アンド・キャッスルの高架下にある〈Corsica Studio〉ってライヴ・ハウス/クラブで〈ハイパーダブ〉は「Ø(ゼロ)」というイベントを月イチでやってました。最初の回がコード9のオールナイト・セットで、さっき言ったインガ・コープランド、ファンキンイーブンやジャム・シティも出ていた回もありました。〈ハイパーダブ〉からリリースはしていないけど、ロンドンで活動しているプロデューサーをコード9がフックアップしていたんです。そういうブッキングは、彼ひとりでやるのではなく、たとえばシャンネンSPという黒人の女性のキューレーターと一緒にやっていたりする。ロンドンのダンス・シーンにはいろんな人種がいるわけだけど、その文化を意識的に紹介することも面白いと思いました。
野田:ポスト・パンク時代の〈ON-U〉みたいなものだね。俺さ、昔のレイヴ・カルチャーを思い出すとき、自分の記憶で出てくるのが、女の子の穴の空いた靴下なんだよね。これは91年にロンドンのクラブに行ったときの話で、当時のクラブはコミュニティ意識が強かったから、ひとりで踊っているとよく話しかけられたんだよ。「どっから来たの?」とか「何が好きなの?」とか。で、なぜかそんときある青年と仲良くなって、明け方「いまから家に来ない?」ってことになって、昼過ぎまで数人で車座になって紅茶を飲んで音楽を聴いたんだけど、そこにいたひとりの女の子が穴の空いた靴下を履いていたんだよね。それが俺にとってのあの時代のロンドンのクラブ・カルチャーであり、レイヴの時代の象徴というか、良き思い出だね。要するに、気取ってないし、牧歌的だったんだよ。
高橋:いまは牧歌的な感じではないかな……。日本とは比較できないオープンな感じはもちろんあるけど。
野田:じゃあ27歳くらいの俺がふらっと来て、そのまま誰かの家に行ったりすることっていまでもあるのかな?
高橋:それは僕もたまにありますよ。それこそ、ele-kingでレヴューを書いた2016年の〈DeepMedi〉の周年パーティのあと、ダブステップ好きの人と知り合って、その人の家で二次会しました(笑)。ブリアルかけたり、アンビエントかけたり。
野田:ああ、よかった。それ重要だよね。
高橋:でも、〈ハイパーダブ〉は牧歌的ではないですよね。もっと音楽そのものが持ってる凶暴な感じというか、サウンド・テクスチャ―であったりポエトリーの表現がつながるんだとか、いかに音そのものでサイエンス・フィクションのような、いわゆるウィリアムギブスンやJ・G・バラードを読んでるときの感じが蘇ってくるんじゃないかとか、そういうことですからね。
野田:そこが〈WARP〉や〈Ninja Tune〉との違いなんじゃない? そのふたつは幸福な時代に生まれたレーベルであって、〈ハイパーダブ〉はロンドンが再開発されていて、そのあと911もあって、荒野の時代に生まれたレーベルってことだよね。
HYPERDUB CAMPAIGN 2022
https://www.beatink.com/products/list.php?category_id=3
レコード店「Disc Shop Zero」の店主、飯島直樹氏が永眠してはや2年、今年の2月で3回忌を迎える。彼の功績に敬意を表しつつ、彼が志した低音の美学とその広大なヴィジョンを継承すべく、2月11日(金)渋谷のContact Tokyoにて、飯島氏がオーガナイーザーでもあったポッセ〈BS0〉がパーティを企画する。「Disc Shop Zero」に行ったことがない人も、ぜんぜんウェルカム。足を運んで、力強いベースを感じて欲しい。

Trilogies - Mars89 episode 1
Tribute to DSZ with BS0 United
at Contact Tokyo
・Studio X -Power of Dub-
Live:
Undefined
DJ (A-Z):
Dub Kazman from Osaka
Ena (Old School D’n’B Set)
Lil Mofo
Mars89
Ykah
・Contact -Dance in Dub-
DJ (A-Z):
Gunilla from Kyoto
K-yam
Moodman (Dub Techno set)
NullDaSensei
Sayuri
Torei
・Foyer -Roots & Culture-
Selector (A-Z):
Aki Dolanikov
BS0gang -Tribute to DSZ Set-
(1TA, Dx and Osam green giant)
Daddy Veda (Trip hop set)
Likkle Mai (DJ set)
Mini Soundsystem by
Homebeat Soundsystem
Shop : Disc Shop Zero Pop-up
Coffee : BS0 coffee
Food : ちょっと遠いレコード
————————————
・Disc Shop Zero 数量限定復刻T-Shirt
・数量限定BS0無料特典
2022年2月11日(金曜日)OPEN 22:00
UNDER 23 ¥ 1000
BEFORE 11PM ¥ 1000
GH G MEMBERS ¥ 1500
ADVANCE ¥ 2000
GH S MEMBERS ¥ 2500
GH MEMBERS ¥ 2500
DOOR ¥ 3000
3DAY PASS TICKET ¥ 4000
HP
https://www.contacttokyo.com/schedule/trilogies-mars89-episode-1/
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BS0 instagram
https://www.instagram.com/bs0tokyo/
「低音とエコーの向こう側に浮かびあがるカルチャーの交雑点を」
Contactによるマンスリーな3週レジデント・シリーズ、Trilogies、Mars89が務める2022年2月第1弾として開催されるのは、ブリストル・ミュージックを紹介してきた〈BS0〉とのタッグによるレコードショップ、DISC SHOP ZEROのトリビュート・スペシャル。
約2年前に店主、飯島直樹の急逝によって急遽、その歴史に幕を閉じたDISC SHOP ZERO。音楽と音楽、ローカルとローカル、人と人を結びつけるリンク・スポットとして、ブリストル・サウンドのディープな紹介者であり、現地のシーンの密な交流も含め、国内はもとより、世界中からリスペクトされたレコードショップであった。特にベース・ミュージックのスペシャリストとしての側面は晩年、首謀者の1人としてマイペースで主催していた〈BS0〉にひとつ象徴される。サウンドシステムと現地のDJ、そして東京やその他、国内各地のDJたちを結びつけるネットワークを持ったパーティ、それは文化のコンダクターとして単なる招聘とは異なった、店のコンセプトをそのまま“現場”として象徴させていたかのようでもある。このパーティの平日版として同地で開催されてきたBS0xtraには、Mars89もレジデンシーとして参加している。
Studio Xでは“Power of Dub”と題し、ライヴに〈ZamZam〉からのリリースでも知られるダブ・バンド、Undefinedのライヴ、Osaka Dub Meetingからは自身の〈Rough Signal〉で勢力的なリリースを行っているDub Kazman、さらにはMars89をはじめLil Mofo、Ena (この日はオールド・スクール・ドラムンベース・セットを披露)といったワールドワイドに活躍するDJたち、そして〈BS0xtra〉の注目株、Ykahが登場。カッティング・エッジなダブ / ベース・ミュージックの強力な低音がこだまするフロアに。
さらにContactは“Dance in Dub”と題して、ハウスやテクノなど、さまざまなスタイルでダンス・カルチャーのなかで息づく、ダブのミームを感じることのできる、ある意味で〈DSZ〉“らしい”ダブ解釈のヴァリエーションを楽しめるフロアに。
そしてFoyerでは“Roots & Culture”と題して、話題のミニチュア・サウンドシステム、Homebeat Soundsystemとともに、〈BS0〉の面々やリクル・マイなどがプレイ。そしてここには渋谷の街路一夜だけ蘇る、DISC SHOP ZEROのポップ・アップ・ショップがオープン。早い者勝ちの数量限定復刻Tシャツなどさまざまな、かのショップの縁の品が列ぶ可能性も。
フライヤーには、ブリストル・アンダーグラウンドの重要レーベル〈Bandulu〉の特徴的なアートワークなどを手がける現地のデザイナー、Joshuaによるアートピース。また数量限定BS0無料特典も。
音楽と人の繋がりから、強靱で芳醇なカルチャーを浮かび上がらせてきたDISC SHOP ZERO、そして店主、故飯島直樹の、そんなショップのコンセプトを継承し、次世代やまだ見ぬ同胞と共有する一夜。
と、長々と書いてしまったが最後に、先達の麻芝拓の言葉を引いて、この日の見所としよう。
「誰かが欲しかった“こんな音”が鳴る“こんな場所”が、渋谷のど真ん中の地下に生まれようとしている。それを完成させるのは、ひとりひとりのあなただ」
文:録通基飯
※以下のイアン・F・マーティンによるコラム原稿は、web掲載した〈ラフトレード〉インタヴューと同様、別冊エレキング『マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界』のなかの小特集「UKインディー・ロック/ポスト・パンク新世代」のために寄稿されたものである。今日の状況を知るうえでもシェアすべき原稿なので、ここに再掲載します。
Music for fragmented lives
断片化された生活のための音楽
イアン・F・マーティン(江口理恵・訳)
written by Ian F. Martin / translated by Rie Eguchi

ザ・スミスの再来とも言われ文学性が評価されているフォンテインズ D.C. by Vinters Pooneh Ghana
UKは混乱した、幸せではない場所だ。貧困の拡大、ナショナリズムの高まり、ブレグジットから、選挙民が絶望しながら受け入れた狭量な保守主義まで、大量の新聞の見出しは何かがとんでもなく間違っていること、つまり、孤独な国がパニックに陥って自分自身を抱きしめ、粉々になり、断片となって崩れて行く様子をはっきりと示している。
しかし、このような目に見える衰えの兆候の裏には、目に見えにくいたくさんの不安が隠れている。とくに若者にとっては劇場型のブレグジットによる玄関払いを喰らって、様々な機会が閉ざされるという感覚は、緊縮財政や21世紀の資本主義の不安定な労働条件のなかでもう長いこと続いてきたことだ。ミュージシャンたちにとっては業界が少数のデジタル・インフラの所有者たちのまわりで合体し、音楽がプレイリストのための、哀れなほどの報酬のコンテンツになり下がり、ブレグジットによって引き起こされた欧州ツアーへの財政的、官僚的な障壁もまた、閉ざされた扉のひとつだ。
2019年9月、私はUKをエンド・オブ・ザ・ロード・フェスティヴァルのために訪れた。エンド・オブ・ザ・ロードは英国のインディーズ・フェスティヴァルの最高峰で、爽やかな、またはメランコリックなシンガーソングライターからアフロビート・オーケストラ、ジェンダーフルイドなグラム・エレクトロニカまで、様々なアーティストが出演する混沌とした世界のなかの芸術的でリベラルなバブルのような心地よさがある。しかし、2019年に印象に残ったのは様々なテントやステージから聴こえる音から立ち昇る怒りと、激しい無秩序ぶりだった。カナダのクラック・クラウド、アイルランドのフォンテインズD.C.から、ワイヤーのようなヴェテラン勢がエネルギーに満ちた音を立て、ビルジ・ポンプの粗い、惑わせるように旋回するリフ、Beak>のクラウトロック的なミニマリズム、そしてスリーフォード・モッズの意気揚々とした凱旋のヘッドライナー・セットなど、これらの、またこれ以外のアーティストたちの演奏もポスト・パンク的な緊張感と角のあるスレッド(糸)のようなものに貫かれていた。
この日ラインナップされていた若手の有望株のなかでも、斜めからのポスト・パンク的なアプローチをする4つのバンド、ゴート・ガール、スクイッド、ブラック・ミディとブラック・カントリー・ニュー・ロードが話題になっていた。2年後、彼らが代表する奇妙で興味深い世代の新しいブリティッシュ・ミュージックが育ってきているが、彼らが実際に何を代表しているのかを特定するのは難しい。
音楽史のなかで特定の時代に結びついたタームである、レンズの役割のようなポスト・パンクは、ここで起こっていることの幅を説明するには充分ではないように感じる。これらのバンドは少なくともブレヒトやワイルの伝統にまで遡る部分を持ち、エクスペリメンタル・ロック、No Wave、カンタベリーのサイケデリック・シーン、クラウトロックなど、すべての〝ポスト~〟のジャンル(ポスト・パンク、ポスト・ハードコア、ポスト・ロック)にまで貫かれ、同時にキャプテン・ビーフハート、ジズ・ヒート、ザ・カーディアックス、ライフ・ウィズアウト・ビルディングス他の挑戦的なインディヴィジュアルに活動するアーティストたちにも及んでいるのだ。
しかし、ポスト・パンクをより抽象的に、パンクがイヤー・ゼロの基点からの短い爆発で残した断片をくし刺しにして繋ぎあわせる、音楽を取り戻すプロセスだと考えるならば、今の若いバンドたちは文化的な瓦礫をふるいにかけて規範を過激に覆された後にそれを理解しようとする点で、同じような立場にあるようだ。しかし、パンクの時代とは違い21世紀の文化的な混乱は、若者のカルチャーからではなく、政府と資本主義の構造そのものから来ており、ポスト・パンクや、〝ポスト・パンクド(嵌められた)〟の若いミュージシャンたちは、切断され、断片化された自分たちの置かれている環境下で、扇動者ではなく、犠牲者となっている。
断片化された、断絶的な感覚は、多くの新しいブリティッシュ・ミュージックのなかから聴こえてくる。
ブラック・ミディの音楽の突然の停止や開始、トーン・シフトの多用、1920年代から直近にいたるまでの100年にわたる時間軸から受けた影響などから、それを聴きとることができる。彼らは音楽業界が資金援助をするパフォーミング・アーツの専門学校、ブリット・スクールの卒業生で、学校が提供する施設で実験ができただけでなく、音楽史を学んだことで広い視野にたって音楽を探究する恩恵を受けている。バンド自身もこの背景が与えてくれた特権を痛感しているようで、自分たちが受けた音楽教育を遊び心と小さな喜びを感じながら活用している。
ロンドンのバンド、ドライ・クリーニングの素晴らしいデビュー・アルバム『New Long Leg』には断絶を意味するような、もっとダウンビート(陰気)な感覚がある。控えめだが、微妙にゴツゴツした音をバックに、ヴォーカルのフローレンス・ショーが毎日を無為に過ごしている人の日常の疲れて断絶した、サンドイッチを食べる気力もない、何かを経験することに意義が感じられないという一連のスナップショットをため息交じりに歌う。シニフィアン(意味しているもの)とシニフィエ(意味されているもの)の間にある皮肉なギャップ──「あなたは、あれほど汚い裏庭をもつ歯医者を選ぶか?」とアルバムのタイトル・トラックで問いかけ、「選ばないと思う」と応えている。
ブラック・ミディの折衷主義とドライ・クリーニングの倦怠感はまったくの別物に見えるかもしれないが、根無し草のような感覚を共有している。それは、どんなに教育を受けて意識を高めても、自分のしていることでは何も変わらないという無力感や権利の剥奪といった形をとることがあり、敗北の雰囲気のなかにも解放感が感じられたりする。誰も自分のしていることに関心がないのなら、やりたいことを好き勝手にやっていいという免罪符を持っているという感覚だ。
やたらと個々のバンドの意図を決めつけたりするのは危険だが、リスナーとしてはこの世代のバンドの音楽の多くが英国の生活を貫く断絶感と共鳴しているように感じる。ゴート・ガールは政治的なものと生活での体験をさりげなく結び付け、スクイッドは無数の方向にむかって半狂乱で爆発し、シェイムは「自分のものではない世界」に向かって怒りを燃やし、優れたザ・クール・グリーンハウスは皮肉たっぷりの不条理な物語を延々と反復される2音のみのギター・ラインに乗せて表現している。それぞれのやり方で、世界を前にして笑ったらいいのか、泣いた方がいいのかがわからないリスナーの不安と心の急所に触れているのだ。

2021年はセカンド・アルバム『Drunk Tank Pink』も出したユーモアと勢いのシェイム by Sam Gregg
これらのバンドはすべて、何らかの方法で自分たちを取り巻く断片的な世界を理解しようとしている。たとえ、その不条理さに浸って楽しむためだけであったとしても。多くの批評家がザ・フォールの影響の高まりを指摘しているが、それはある意味、ザ・クール・グリーンハウスのトム・グリーンハウスが2020年のDIY誌のインタビューで指摘したように、安易な比較ともいえる。「みんな自分たちをザ・フォールと比較するし、その理由もわからなくはない。それは妥当な比較だとは思うけれど、ザ・フォールはあまりにも多くのバンドに影響を与えてきた存在で、まるでラップのレコードをグランドマスター・フラッシュと比較するようなものだ。彼らはその道のゴッドファーザーだけど、ラップはとても豊潤な世界で、いまはみんながラップの要素を使ってたくさんのことをしているのが現実だ」
彼の言うとおり、ザ・フォールの語りかけるようなヴォーカルと反復するクラウト=パンクのリズムは、本当にあらゆるクリエイティヴな方法で用いることのできるシンプルなツールである。ドライ・クリーニングやヤード・アクト、ドゥ・ナッシング、ガッド・ホイップとビリー・ノーメイツは皆、インディー系の言語を様々な方法で表現している。そしてこのラップとの比較が面白いのは、最近のインディー・ギター・バンドが注力していること、つまりヒップホップが伝統的に得意としてきた──人生における混乱を物語に織り交ぜて意味を持たせる──ことを表現するため、このゆるいヴォーカルの構造がじつにパワフルな方法になりうるからだ。ザ・クール・グリーンハウスはこれらの物語を音楽の中心に据えている。ブラック・カントリー・ニュー・ロードは、道にはぐれた生活のスナップショットを話し言葉による物語として、複雑で騒々しいマリアッチとスリント風のアレンジに織り込んでいるのだ。正式な意味での物語とは言えないかもしれないが、我々は皆、このような断片的な物語をソーシャル・メディアで創造し、フィードに流れてくるノイズを構造化された物語としてではなく、本能的に、感情の質感を読み取っている。
物語は空間のなかにも存在する。「ブラック・ミディの前で、君に愛していると告げた」と、ブラック・カントリー・ニュー・ロードのアイザック・ウッドは〝Track X〟のなかで情景を描写するように言っているが、冗談のようでありながら、おそらくライヴ会場などの物理的な空間の重要性についても言及しているのだ。断片的な命を一か所に集めて観客がシェアできる経験を創りだすと同時に、バンドたちが共に発展して繋がっていく場所のことを。ブラック・ミディやスクイッドの曲の多くは長尺で、8分強あるものが多い。これらのバンドは、分割してSPOTIFYのプレイリストに組み込まれるための最適さは持ち合わせていない。彼らは、一度の機会にすべてを体験するためにあるバンドなのだ。
独立系の会場がバンドの成長に欠かせないインフラであるとすれば、レーベルもまた役割を担っている。ブラック・ミディ、ゴート・ガール、スクイッドにブラック・カントリー・ニュー・ロードは皆、〈Speedy Wunderground〉レーベルのプロデューサー、ダン・キャリーとの繋がりを持つ。自宅のスタジオで、1日で7インチ・レコードを録音し、ミキシングしてマスタリングするキャリーの作業工程は、自発的でエネルギーにあふれた時代感覚を捉えているし、シングルを非常に限定的にしかプレスしないというレーベルの抜け目のないポリシー(フラストレーションはたまりそうだが)が、〈Speedy Wunderground〉のリリースを期待の高まるイベントにしているのだ。キャリーのような人びとの重要性はカルチャーのなかのノイズをふるいにかけ、新しい、エキサイティングなものに焦点を当て、我々が断片的なもののまわりに物語を組み立てることが可能になることにある。〈Rough Trade〉、〈Warp〉、〈Ninja Tune〉や〈4AD〉のような、影響力があって、いまも独立系であり続けるレーベルの存在がこれらのバンドを次のレヴェルに押し上げて、彼らの物語をさらに幅広いところへ届けることを確約するのだ。
これらのバンドはいずれも、いま、UKで騒がれている豊富な人材のそろった幅広いポスト・パンク層の表面をなぞっているに過ぎない。ガールズ・イン・シンセシスやEsの怒りに満ちたスラッシュから、ハンドル、スティル・ハウス・プランツの実験的ミニマリズム、薄汚れたインディ・アート・パンクのカレント・アフェアーズとウィッチング・ウェイヴズ、心にとり憑く崇高なナイトシフトまで、周囲の混乱や断絶、断片化にもかかわらず、いや、だからこそ、UKから驚くほど豊かな音楽的なクリエイティヴィティが生まれているのだ。
(初出:別冊エレキング『マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界』2021年7月刊行)
以下に掲載する記事は、2021年7月に刊行された別冊エレキング『マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界』に掲載の、〈ラフ・トレード〉の創始者、ジェフ・トラヴィスと共同経営者ジャネット・リー(『フラワーズ・オブ・ロマンス』のジャケットで有名)、ふたりへのインタヴューです。現在のUKインディ・ロック・シーンに何が起きているのか、UKインディに起点を作った人物たちがそれをどう見ているのか、じつに興味深い内容なのでシェアしたい思い、ウェブで公開することにしました。
〈ラフトレード〉については日本でも多くの音楽ファンがその名前と、だいたいの輪郭はわかっていると思う。しかしながらこのレーベルが、マルクス主義とフェミニズムを学んだ人物によって経営されていた話はあまり知られていない。このあたりの事情については、ele-king booksから刊行されたジェン・ペリー(ピッチフォークの編集者)が書いた『ザ・レインコーツ』に詳述されている。ま、とにかく、彼=ジェフ・トラヴィスには彼が望んでいる未来がありました。彼の志はおおよそ正しかったのですが、未来とは予想外の結果でもあります。さてさて、彼がポートベローに小さなレコ屋を開いてから45年、“UKインディ・ロック”はどこに向かってるのでしょうか。どうぞお楽しみください。

2021年はスリーフォード・モッズの素晴らしい『スペア・リブ』からはじまった。
by Alasdair McLellan
数多くのエキサイティングなバンドがいま浮上してきている、間違いなくそう思う。ただ、今回の違いと言えばおそらく、いま出てきている若いバンドの多くは本当に素晴らしいプレイヤーたちだ、ということでしょうね。テクニック面でとても秀でている。
■ここ数年、日本から見て、UKのロック・シーンから活気が生まれているように感じます。スリーフォード・モッズのような年配もいますが、とくに若い世代から個性のあるバンドが何組も出てきて、このコロナ禍においてパワフルな作品を出しているように見えます。おふたりは70年代からずっとUKのロック・シーンの当事者であるわけですけど、いまぼくが言ったように、現在UKのロック・シーンは特別な状態にあると思いますか?
ジャネット・リー(JL):ええ、数多くのエキサイティングなバンドがいま浮上してきている、間違いなくそう思う。ただ、今回の違いと言えばおそらく、いま出てきている若いバンドの多くは本当に素晴らしいプレイヤーたちだ、ということでしょうね。テクニック面でとても秀でている。若いバンドはたまに、数曲プレイできるようになり、髪型とルックスをかっこよくキメたらツアーに出てしまい、成長するのはそこから……ということもあるわけだけど(苦笑)、いま飛び出してきているバンドの多くは、テクニックの面ですでにとても優れていると思う。しかも彼らの多くはカレッジあるいは音楽校、たとえばブリット・スクールやギルドホール・カレッジ(ギルドホール音楽演劇学校)等に通った経験もあるから、ツアーに出る前に楽器演奏をしっかり学んでいる、という。いま起きていることの違いのひとつはそこだと、わたしは思う。
■ジェフはいかがでしょう? ジャネットの意見に賛成でしょうか?
ジェフ・トラヴィス(GT):ああ、賛成。(苦笑)だから、わたしたちはいつだって意見が一致するんだ!
JL:(笑)
GT:興味深いと思うのは我々が十代だった頃はいまのような音楽学校はなかったことでね。ブリティッシュ・ミュージック・シーンはある意味アート学校で生まれたようなものだ。実際に学生だった者だけではなく、アート校周辺に集まった連中も音楽をやっていた。それに、ピート・タウンゼントのように実際にアート学校に通った人びともいた。
けれどもいまや、さまざまな音楽学校がそれに代わったわけだ。かつ、70年代には職がなければ失業手当の申し込みができ、政府からわずかのお金が給付された。飲食費に充てるのではなく家賃のためにね。
ところが現在では、政府給付を受けるのははるかにむずかしくなっている。それに大学やカレッジといったアカデミックな道を望まない、あるいは義務教育以上に進学したくないキッズで、それでも音楽を本当に愛しているとか、何かをクリエイトするのが大好きという者たちは、先ほどジャネットが名前を挙げたような新たなタイプの音楽校に向かうわけだね。
リヴァプールや南ロンドンをはじめ各地にそういった学校があり、彼らはそこに3年通ったり、専門校他の違ったタイプのカレッジに通い、音楽を学べる。実際、それが大きなサポートになっている。ミュージシャン同士がそうした学校で出会い、バンドを結成し、プロジェクトをやったり。たとえば、ミカ(・リーヴィ)の通った、キャンバーウェル(南ロンドン)にあるあの学校はなんだっけ? あるいは、ジョージア・エレリー(ブラック・カントリー・ニュー・ロード、およびジョックストラップ)が行ったのは……
JL:スレイド美術校? いや違う、ジョージア・エレリーが通ったのはギルドホール。
GT:ああ、ギルドホールか。ああいった面々は本当に才能あるミュージシャンであり、相当なカレッジに通ってね。
JL:でも、そればかりとは限らないし——
GT:たしかに、生まれつき才能のある者もいる。
JL:——ただ、彼らが基準を高く定めていく、と。
GT:ああ、レヴェルを上げる。違う世代ということだし、そこだね、70年代からの変化と言ったら。
JL:そう。
GT:思うに……それに70年代は、ある種60年代を引きずっていたとも言える。というわけで、カウンター・カルチャーの発想がいまよりももっと優勢だったのではないかな?
JL:(うなずいている)
GT:だから、若者はちゃんとした職に就こうとはしない、弁護士や医者になるつもりはない、といった調子で、親が子に望む生き方と逆の方向に向かったものだ。けれども、彼らはそういう考え方をしていないよね? いまのキッズは違う。
JL:ええ、それはない……。ということは、いまのキッズには反抗する対象があまりないということでしょうね、かつてのわたしたちと較べて(苦笑)。
GT:ああ。それにおそらく、まだ親と暮らしているだろうしね。
JL:でしょうね。
GT:なにせひとり暮らしをしようにも、家賃が高過ぎて無理だから。その違いは大きい。UKにおいて、音楽は歴史的に言っても、我々がいつだってかなり得意としてきたところでね。我々にいくらかでもある才能のうちのひとつだ。だからイングランドでは常に、新たな面白い音楽が生まれてくる。
もっとも、ムーヴメントというのは正直、定義しにくいものでね。我々はその面は大概、社会学者やそれらについて書く音楽ジャーナリストの手に委ねておく。我々はとにかく、いま音楽をやっている人びとのなかで我々がベストだと思う者たち、我々全員がエキサイトさせられる連中を見つけようとするだけだ。
とはいえ、うん、間違いなくひとつのムーヴメントがあるね。あの、歌うのではなくて、たとえばマーク・E・スミスやライフ・ウィズアウト・ビルディングスのスー(・トンプキンス)がやっていたような、歌詞を吐き捨てるごとくシャウトする一群の連中がいる。ドライ・クリーニングやヤード・アクト、スクイッド、ブラック・カントリー・ニュー・ロードといった連中、彼らがああいう風に「歌う」歌唱ではなく、「語る」調の歌唱をやっているのは興味深いことだ。
UKにおいて、音楽は歴史的に言っても、我々がいつだってかなり得意としてきたところでね。我々にいくらかでもある才能のうちのひとつだ。だからイングランドでは常に、新たな面白い音楽が生まれてくる。
■これら新たなバンドがどんどん出てきているのには、何か社会/文化的なファクターがあると思いますか? それとも、じつはずっとこの手のバンドは存在し活動していて、シーンもあり、それがいまたまたメディアに発見され、脚光を浴びているのでしょうか?
JL:新しいシーンはいつだって進行していると思う。常にね。そして、いつだってメディアがそれを取り上げ、命名するものだ、と。ただ、さっきも話したように、現在起きていること、おおまかに言えば南ロンドン&東ロンドン・シーンになるでしょうけど、それを他と区別している点は、新たなバンドのミュージシャンシップだと思っている。専門的な腕の良さ、彼らが技術的に非常に堪能であること、この新たな一群とこれまでとを画している違いはそこになるでしょうね。というのも、ほら、たとえばパンクの時代には、そこから離れていく動きがあったわけでしょう?
■たしかに。
JL:パンク以前は、人びとは技術的にとても達者だったし、(苦笑)ギターでえんえんとソロを弾いたり(苦笑)。そしてパンクが起こると、楽器が上手なのはまったくファッショナブルなことではなくなり、誰もそれをやりたがらないし、誰も聴きたがらなくなった。その側面は長い間失われていたけれども、こうしていま、人びとが再び音楽的な才能を高く評価する、そういうフェーズに入っているということだと思う。本当に、ちゃんと演奏ができる、という点をね。
GT:それもあるし、いま、ロンドンには非常に活況を呈しているジャズ・シーンもある。それは珍しいことでね。新世代の若い黒人のロンドン人たちが、ジャズを再び新しいものにするべく本当に努力を注ぎ込んでいる。それはずいぶん長い間目にしてこなかった動きだし、そこもまた、新しいバンドのいくつかのなかに入り込んでいる気がする。サキソフォンやホーン、ヴァイオリンなど、一般的なバンドでは耳にしないサウンドが聞こえるし、それも彼らにとってはノーマルな部分であって。そこはある意味興味深い。
■たしかにジャズも勢いがありますし、新世代バンドのなかにはやや70年代のプログレが聞こえるものがあるのは、興味深いです。
JL:ブラック・ミディでしょ(笑)?
GT:ああ。
■(笑)はい。なので、いまの世代は、パンクだ、プログレッシヴ・ロックだ、ヒッピー音楽だ、という風にジャンルを分け隔てて考えていない印象があります。影響の幅が非常に広いな、と。
GT:その通りだね。我々が本当に驚かされてきたのもそこで、たとえばブラック・ミディの3人と話すとする。で、彼らの音楽的知識、その幅、そして歴史的な理解は全ジャンルにわたるものであり、とにかく驚異的だね、本当に。わたし個人の体験から言っても、あの年齢で、あれだけさまざまな音楽や知名度の低いアーティストについて詳しい人びとに出会ったことはいままでなかった。ジャズ・ギタリスト、フォーク・ギタリスト、カントリー&ウェスタンのプレイヤー、ロカビリーのギター・プレイヤー等々。それはまあ、インターネットが人びとの音楽の聴き方の習慣を変え、あらゆるものへのアクセス路をもたらしたからに違いないだろうけれども。
JL:しかも、彼らは音楽学校に入るわけで。そこでも教育を受け、音楽史等について学ぶ。
GT:ああ、そうだね。にしても、彼らの音楽への造詣の深さ、あれにはただただ舌を巻くよ。
■若手のシェイムをはじめ、ゴート・ガール、ドライ・クリーニング、スクイッド、ブラック・ミディ、ワーキング・メンズ・クラブ、ヤード・アクト、ザ・クール・グリーンハウス、コーティング、ブラック・カントリー・ニュー・ロード、ビリー・ノーメイツ、スリーフォード・モッズやアイドルズなどなど……彼らをポスト・パンクと括ることに関してはどう思われますか?

ゴート・ガールの『On All Fours』もよく聴きました。
by Holly Whitaker
GT:ルイ・アームストロングはかつてこう言ったんだ、「音楽には良いものか、悪いものしか存在しない。わたしは良い類いの音楽をプレイする」とね。
JL:(笑)その通り。
■(笑)ええ。
GT:いやもちろん、わたしも理解しているんだよ。ジャーナリストは数多くの原稿を文字で埋め、何かについて書かなくてはならないわけだし、物事をジャンルへとさらに細かく分け、そこに名前をつけようとするのは理にかなっている。けれども、ミュージシャンのほとんどはそれらのカテゴリーのなかに入れられるのが正直好きではないし、とくにジャンルに関して言えば、これらのバンドたちは、別の世代がやったのと同じようにカテゴリーを認識してはいない。非常に多様でメルティング・ポットな影響の数々が存在しているからね。ポップをやることも恐れないし、かと思えば次はフォーク、今度はソウル・ミュージックをプレイする、という具合だ。たとえばブラック・ミディは今日、ホール&オーツのカヴァーをやってね。
■(笑)なんと!
GT:あれはまさか彼らから?と思わされた変化球だった(苦笑)。
JL:(笑)それに、彼らはブルース・スプリングスティーンの曲もカヴァーしたことがあって。あれにも――かなり驚かされたわね。でも、個人的に言えば、わたしはカテゴリーは別に気にしてはいない。とにかく、いいものか、そうではないか。何かしら胸を打つものか、あるいはそうではないか。それだけの話であって。わたしたちの心に響き感動させられるもの、わたしたちが惹き付けられるのはそれ。これまで、わたしたちが「あの新しいムーヴメントのなかから誰かと契約しなくてはらない」という風に考えたことは一度もなかったと思う。そうした考えは一切入り込まないし、とにかく本当に才能があるとわたしたちの見込んだ人びとと会ってみるし、その視点から物事を進めていくことにしているだけ。彼らをグループとして一緒にまとめているのは、新聞のほう(笑)。
■(苦笑)はい、我々の側ですよね。承知しています。
GT:(笑)。
[[SplitPage]]若い子たちはスリーフォード・モッズにあこがれていると思う。ちょっとしたヒーローだし、若い人たちの見方もそれだと思う。彼は自分の考えをはっきり外に向けて出しているし、しかも人生経験もちゃんとある人だから。
■多くの若いバンドが2018年あたりに登場していることで、ブレグジット以降のUKの社会/政治状況が間接的に影響を与えているという解釈がありますが、あなたがたはどう思われますか? 若者の多くは未来に不安を感じているでしょうし、とても不安定な状況なわけですが。
GT:そこは非常に大きい部分を占めていると思う。たとえばゴート・ガール、彼女たちの書くこと、プレイしている曲、何もかもがそうしたことによって形成されていると思うし、彼女たちは社会の崩壊や、現在の世界の状態を非常に強く意識している。というか実際彼らのほとんどは、いまどういうことになっているかについてかなり強い意識があると思う。これらのミュージシャンの多くが演奏している音楽は、必ずしもストレートにコマーシャルだとは言えない類いのものなわけで、そういうことをやるためには、実は本当にやりたい音楽を「自分たちはこう感じている」とプレイし、言いたいことを言うしかない。人がどう考えるだろうか?と気にするのはある種の検閲であり、忌まわしいことと言える。
だから、(商業的ではなく)やりたい音楽をやっているということは、彼らがはただ単に保守的に順応するのではなく、いわば自分たち自身の道を進んでいる、その現れだね。ただ、いまの時代において、成功という概念はとても混乱させられるもので。
JL:そうね。
GT:やっていることを気に入ってくれるオーディエンスを見つけること、それがサクセスなんだろうね。かつ、音楽をプレイすることで生計を立てられる、それが多くのミュージシャンの夢だよ、実際。彼らがまず到達しようとする第一着陸地点がそこだろう。
JL:ええ。それにわたしは、このCOVIDのロックダウンやもろもろの後で、かなり大きなクリエイティヴィティの爆発が起こるんじゃないかと期待している。人びとは集まってクリエイトすることができずにいたし、おそらく彼らも、音楽を作りクリエイティヴでいるために何か別の方法を思いつかなければならなかったでしょうから。で、「必要は発明の母」なわけで、きっとここから何かが出てくると思う。大きな、クリエイティヴな爆発が起きるでしょうね。
■シャバカ・ハッチングスの素晴らしい新作はロックダウン下で制作されたはずですし、おっしゃるように、今後UKからさらに多くの素晴らしい音楽が出てくるのを期待したいです。
JL:そうね。
■〈ラフ・トレード〉では、ゴート・ガール、ブラック・ミディ(そしてスリーフォード・モッズ)を今回の特集のなかでフィーチャーさせてもらっています。どちらの新作も大好きなので、個別に話を訊かせてください。まずはゴート・ガール。このバンドこそぼくには70年代末の〈ラフ・トレード〉的な感性を彷彿させるものがあるように思います。ザ・レインコーツのような、独自の雑食性があって、しかも女性を売りにしない女性バンドです。
GT&JL:うんうん。
■おふたりにとって、このバンドのどこが魅力ですか?
JL:彼女たちは……非常に音楽的だからだし、彼女たちの作っていた音楽をわたしたちが気に入ったのはもちろん、しかも彼女たちはとても意志の強い、興味深い、若い女性たちであって。彼女たちのような若い女性たち、強い心持ちがあり、自分たちが求めているのは何かをちゃんと知っている女性のグループと一緒に仕事できるというのは、わたしたちにとって非常に魅力的だった。というのも、ああいうグループは、決して多く存在しないから。
■ええ、残念ながら。
JL:そう。だから、これまで彼女たちと一緒に仕事してこられて、こちらも非常に嬉しいし満足感がある。
■ブラック・ミディはほとんどアート・ロックというか、なんでこんなバンドが現代に生まれたのか嬉しい驚きです。ブリット・スクールで結成されたのは知っていますが、だいたいダモ鈴木と共演していること自体が驚きです。彼らはいったい何者で、どんな影響があっていまのようなサウンドを作るにいたったのでしょう? 『Cavalcade』を聴いていると、エクスペリメンタルですが、XTCみたいなポップさもあるように思います。
JL:……(ジェフに向かって)この質問はあなたに譲る。
GT:(苦笑)えっ!
■(笑)説明するのが楽ではないかもしれませんが。
GT:むずかしいね、というのも彼らは本当に風変わりで、とても型破りだから。たとえばジョーディ(・グリープ)、ギタリストでメインのシンガーのひとりである彼だけれども、彼は相当にエキセントリックなキャラクターだ。非常に個性的な人物だし、ああいう人間には滅多にお目にかからない。で、そこは本当に彼の魅力のひとつでもある。
まあ……我々はほかとはちょっと違う人びとを、普段出くわさないような人びとを常に讃えてきたよね。いい意味で、とは言えないような、やや興味深い人びとを。だがジョーディはとても教養があり、知識も豊富で、しかも実に素晴らしいミュージシャンだ。それに彼はとてもいい形で、自分のやっていることの本質を理解している、というのかな。彼は楽しいことをやりたい、スリリングかつ楽しいものにしたいんだ。それは非常にいい考え方だ(笑)。
JL:たしかに。彼らのもっとも魅力的なところのひとつは、彼らには境界線が一切なさそうだ、ということで。とにかく彼らは、そのときそのときで自分たちの興味をそそることならなんだってやるし、自分たち自身を「我々はこういうバンドであり、やっているのはこういうこと」という風に見ていない。自分たちにとって興味深く、スリリングなものであれば音楽的にはなんだってやる。彼らは恐れを知らないわけ。
GT:しかも、それをやれるだけの能力も備えている。それは珍しいことだ(笑)。
JL:そう、そう。能力があり、恐れ知らず。彼らはほかの人間がどう考えるかあまり気にしていないし、自分たち自身を楽しませている。そこに、わたしたちは非常に魅力を感じる。
■なるほど。でも、レーベルとしては、そんな風になんでもありで形容・分類できないバンドな、逆にマーケティングしにくいのではないか? とも思いますが。
GT:新しく、前代未聞ななにか、というね。それはその通りだし、だからこそエキサイティングなのであって。
JL:でも、その意見はおっしゃる通りで、彼らをマーケティングするのはとてもむずかしかったかもしれない。ところが実際はどうかと言えば、これまでわたしたちがしっかり付き合ってきたなかでも、彼らはもっともマーケティングしやすいバンドでね。なぜなら彼らには自分たちで考えてきたアイデアがあるから。自分たちをどう提示するかについて、本当にいいアイデアを持っている。その意味でもやっぱり、「境界線がない」という。彼らがとてもいい案を思いついてきて、こちらはそれらのアイデアをサポートしてきた。だからこれまでの彼らのマーケティングは、楽しかったとしか言いようがない。そもそもアイデアがちゃんとあるから、かなり楽にやれる、という。
質問にあった、ザ・フォールやパブリック・イメージのようなバンドは現在でも出てこれるか? に対するわたしの回答は、絶対に出てこれるだろう、そう思う。
■今回我々が取り上げているような、ここ数年出て来たバンドのなかで、もっともいまの時代を言葉によって的確に表現できているバンドは何だと思いますか?
JL:それはもう、あなたが親であれば、彼らはあなたの子供であってみんな愛しいし、「この子」とひとつだけにスポットを当てるのはとてもむずかしい、というのがわたしの感覚であって(苦笑)。
■(笑)すみません。
JL:(笑)でもまあ、スリーフォード・モッズには山ほどある。いまの世界の状況とUKの状況について、彼らには言いたいことがいくらでもある。だから、ある面では、たぶん彼らでしょうね。一方で、ゴート・ガールは、女たちにとって本当に大事なことを言葉にして歌っている。先ほど言ったように、ブラック・ミディは境界線も恐れも知らなくてアメイジングで――だから、この一組、という話ではない。そうやって選ぶのはこれからもないでしょうね。
GT:ああ。それに、我々全員が惚れ込んでいる、キャロライン(Caroline)という新人バンドもいる。8ピースのグループなんだが。
■はい、知っています。
GT:うん。彼らのやっている音楽もわたしたちみんながとても、とても愛しているものだ。興味深いんだよ、あのバンドは共同し合い作業できる者たちによる一種の集団で、コミュナルな、恊働型でね。しかも8人と大規模なグループだから、その力学を見守るのも興味深い。それにこれらのグループはいずれも、もっとショウビズ的なロックンロールとしての価値も備えている。たとえばスリーフォード・モッズ、あるいはブラック・ミディの演奏を観に行くと、実際のイヴェントが、ショウとして、パフォーマンスとして、とにかくファンタスティックなんだ。それゆえに彼らのメッセージ、あるいは彼らの言わんとしていることに対して懐疑的になってしまうかもしれないが、とにかく素晴らしい一夜のエンタテインメントになってもいて。それもまた、彼らのやろうとしていることの一部なんだ。

内省的だった2021年に、場違いな騒々しさをもたらしたブラック・ミディ。
■それではサウンドの面で、おふたりにとってもっとも斬新に感じるバンドはどれでしょうか?
GT:我々はいま、アイルランドのフォーク・ミュージックにとても入れ込んでいる。あの音楽は現在非常にいい状態にあるし、ランカム(Lankum)、リザ・オニール(Lisa O’neill)、 イェ・ヴァガボンズ(Ye Vagabonds)、ジョン・フランシス・フリン(John Francis Flynn)といった面々が大好きでね。新たな世代による伝統的なアイリッシュ・フォークの再解釈ぶり、あれはアイルランド音楽に久々に起きたもっともエキサイティングなことではないかと我々は思っている。実際、70年代初期以来のことだ。(※上記アクトはいずれも〈ラフ・トレード〉、もしくはジェフとジャネットが音楽ライターのティム・チッピングと始めたフォーク音楽を紹介するための傘下レーベル〈River Lea〉所属)
■なるほど。
GT:それだけではなく、文学界も興味深くなっている。労働者階級や少数派文化の背景を持つ作家の作品がもっと出版されるようになっていて、それは出版界ではかなり久々のことであり、本当にエキサイティングな展開だ。他のレーベル所属アクトのライヴはあまり観に行かなくてね(苦笑)……
JL:ミカ・リーヴィ(Mica Levi/ミカチュー名義で〈ラフ・トレード〉から2009年にアルバム・デビュー)は、〈ラフ・トレード〉外ね。彼女も以前〈ラフ・トレード〉所属だったけれども、いまは自分自身で活動している。わたしたちは彼女が本当に大好きで。
■同感です。最近はサントラ仕事を多くやってきましたよね。ものすごい才能の持ち主だと思います。
JL:ええ。彼女は本当にアメイジング。
■いまの若いロック・バンドは、Z世代やミレニアルに属している子たちも少なくないと思うのですが、昔のロック・バンドのようにまずドラッグ(大麻は除く)はやらないし、酒に溺れることもないですし――
GT&JL:(苦笑)。
■また、人種問題や環境問題、フェミニズムにも意識的だと人伝いに聞いています。おふたりから見てもそう思いますか? 70〜80年代のロックンロール・ピープルとは違う、と?
JL:間違いなくそう。わたしは確実に彼らから勉強させてもらっているから。彼らは食生活も健康的で、お酒も飲まないし、PC(政治的に正しい)でもあって(笑)。
■(笑)口の悪いスリーフォード・モッズは除いて。
JL:(笑)その通り。ただ、あなたの言う通りで、若い人たちのアプローチの仕方は本当に違う。だから、むしろわたしたちの方が彼らから学べると思う(苦笑)。彼らの方が、かつてのわたしたちよりももっと妥当なルートをたどっている——というか、いまですらわたしたちはその面はダメかもしれない(笑)。
GT:フフフッ!
■スリーフォード・モッズのようなバンドは、質問者のようなオヤジ世代にしたら堪らないバンドですが、UKの若い子たちはジェイソンのことをどう思っているのでしょうか? いまのバンドに彼らの影響はあると思いますか?
JL:若い子たちは彼にあこがれていると思う。彼はちょっとしたヒーローだし、若い人たちの見方もそれだと思う。彼は自分の考えをはっきり外に向けて出しているし、しかも人生経験もちゃんとある人だから。
■階級闘争と文化闘争の問題についてはどう思われますか? つまり、いまのUKの文化、音楽はもちろんテレビ/映画界等の担い手から労働者階級が昔にくらべて激減し、文化が富裕層に乗っ取られているという話です。PiLやザ・フォールのようなバンドは現代では出にくい状況にあるという。
GT&JL:フム……(考えている)
■ある意味、より複雑な状況のように思えます。たとえば先ほどおっしゃっていたように、いまバンドをやっている人びとにはカレッジやブリット・スクールに通った者もいて、親の学費負担もそれなりでしょうし。
GT:それは部分的には誤解だね。ブリット・スクールは実は学費を払わないで済む学校だから。
■ああ、そうなんですか!
GT:あれは有料校ではないはずだし、それ自体があの学校の意義であって。入校するためにオーディションを受けるとはいえ、学費は払わないでいい。金持ちの子供のための、彼らが世に出る前に教養を積む学校だ、と思われているけれども実はその逆。才能さえあれば誰でも入校できるし、労働者階級の面々もブリット・スクールに通っている(※通訳より:ブリット・スクールに通ったことのある有名なアクトであるエイミー・ワインハウスもアデルも労働者階級なので、これは当方の理解不足です)。そこは思い違いだし、ブリット・スクールの側ももっとPRをやってその点をはっきりさせるべきだな。とはいえ、ファット・ホワイト・ファミリーのようなバンドもいるわけで……(ジャネットに向かって)彼らはどんな連中なんだい? 労働者階級?
■(笑)。
JL:……(考えている)
GT:あれは、また別の系統だ。
JL:彼らは彼らだけの無比階級(笑)!
GT:そうだね、たしかに他にいない。彼らは違う感じだ。ただ、とりわけいまのロンドンのミュージシャンにとって、彼らは非常に影響力の大きいバンドでね。まあ、いろいろな人間が混じり合っていると思うし、労働者階級の面々にもいずれ、リッチな層と同じくらい、音楽界に入っていく可能性が訪れると思う。
JL:でもわたしは、いまは中流〜中流よりちょっと上の階級の人びとがバンドに多い、その意見は本当だと思う(笑)。それは本当にそうだと思うし。ただ、人生における何もかもがそうであるように、物事はさまざまなフェーズを潜っていくものであって。たとえば70年代には、お洒落で高そうな学校に通ったことがあってバンドをやっていると、あざ笑われることがかなり多かったと思う。
けれども、とにかくいまはもうそんなことはないし、もっと人びとが混ざり合っている。だから、そうした類いのタブーが消えたんだと思う。もっと混ぜこぜだし、いまはもっと、しっかり教育を受けた若者たちがバンド活動と音楽にのめり込んでいる、そういうものではないかと思うし、とにかく時代は変化している、ということなんでしょうね。ある意味、わたしたちは向上した、というか。
■なるほど。そうしたタブーは逆差別にもなりますしね。中流やそれ以上の階級の人間であっても、音楽作りが好きでバンドをやりたければやっていいわけで。
JL:でも、スリーフォード・モッズ、間違いなく彼らは、そうしたバックグラウンドからは出て来ていないし。それに、質問にあった、ザ・フォールやパブリック・イメージのようなバンドは現在でも出てこれるか? に対するわたしの回答は、絶対に出てこれるだろう、そう思う。仮にわたしたちが明日彼らのライヴを観に行き、素晴らしかったら、その場で契約しているでしょうし。要は才能があるかないか、それだけの話だと思う。
■1970年代末のポスト・パンク時代にはサッチャーという大きな敵がいましたが——
JL:(苦笑)ええ。
■いま現在のロック・バンドにとって当時のサッチャーに匹敵するものとは何だと思いますか?
GT:たぶん、内務大臣のプリティ・パテルは国でもっとも人気が低いんじゃない?
■なるほど。
GT:彼女は嫌悪の対象だ。けれども、現政府が若者たちの多くに対して発してきた嘘の山々、あれはとにかく過去に前例のないひどさという感じだ。いやおそらく、過去にも同じだけの嘘をつかれてきたんだろうが、かつては秘密のとばりにもっと隠されていたのが、いまやもっとあからさまになっている、ということなんだろうね。
で、先ほど君が言っていたように、いまの若者はもっと政治に関して意識的だし、この国でいま何が起きているかについてとても詳しい。気象変動をはじめとするさまざまな問題に対するアクションの欠如も知っているし、それを我々も過去数年起きてきた大規模なデモ行動の形で目にしてきたわけで。
■BLM運動など、いろいろありますね。
GT:そう。とはいえ、君の指摘は正しいよ、マーガレット・サッチャーがある意味、若者を団結させた存在だった、というのはね。「この政府はうんざりだ」と彼らも思ったわけで(苦笑)。
JL:でも、あの頃も保守政権だったし、いまも保守政権なわけで。
GT:そうだね。憂鬱にさせられるのは、この保守党政府がしばらく長く続きそうな点で。そこは最悪だ。
■政治・社会状況が困難であるほどアートは活発になると思うので、それを祈りましょう。でも、ということはボリス・ジョンソン首相はサッチャーほどの「敵」として見られてはいない?
GT:ああ、彼もそうだけれども、うん……
JL:……いまは、保守党全体がそういう感じで(苦笑)。
■何人ものサッチャーから成り立つ政党、と。
JL:そう。だから、単純に「このひとりを敵視する」という象徴的な存在はいない。
GT:でもミュージシャンにとっては、ボリス・ジョンソンはミュージシャンがヴィザ無しで欧州に渡り、ライヴをやり、現地でお金を自由に使うのを許可する協定をEUとの間で締結しそこねた、という事実があるわけで。まだ駆け出しのバンドが外に出て行ってプレイするのは不可能な話だし、ミュージシャンには深刻だ。若いバンドに限らず誰であれ、欧州で演奏するのが以前よりもっとずっとむずかしくなっている。現政府のアートに対する感謝の念の欠如、そこにはただただ、ショックを受けるばかりだ。
■それもありますが、まずはCOVID状況の克服が先決ですよね。それが起きればライヴ・セクターも回復するでしょう。音楽界にとってもまだまだ困難な時期は続きますが、〈ラフ・トレード〉の活況を祈っています。
GT&JL:ありがとう。
(初出:別冊エレキング『マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの世界』2021年7月刊行)
(追記)
ついでながら、ぼく(野田)が気に入っているのは、ドライ・クリーニングとブラック・ミディ、次点でスクイッドです。2021年の洋楽シーンは良い作品が多かった、それはたしかでしょう。が、コロナ禍ということがあってだいたいが内省的だった。そんななか、ブラック・ミディから聞こえる場違いな騒々しさとスクイッドの“Narrator”には元気をいただきました。
というわけで、ブラック・ミディ、スクイッド、ブラック・カントリー・ニュー・ロードの最新インタヴュー掲載の紙エレキング「年間ベスト・アルバム号」、どうぞよろしくお願いします。(ロレイン・ジェイムズの本邦初インタヴューもありまっせ)
音というものはつくづく不思議なものだ。高らかに鳴り響いたかと思えば、地を這うように轟きわたり、郷愁をさそうメロディの他方で聴くものを拒絶するノイズと化し、熱狂した観衆は踊り狂い、その瞬間に音はそのこと自体を言祝ぐファンファーレとなり、陶然とする私たちはただそれを描写することしかできない──
上のような横書きの文字列が東京都現代美術館で開催中のクリスチャン・マークレーの展覧会「トランスレーティング[翻訳する]」の会場にはいってすぐの方形の展示スペースをかこんでいる。冒頭で「ような」とことわったのは文章そのものは私がうろおぼえで書いた創作だからだが、だいたいこのようなことが日本語で記してあったと考えていただいてさしつかえない。むろん私とて出版人のはしくれ。引用は正確の上にも正確を期すべきだとわかっている。わかっているが、この作品のテキスト自体、意味の伝達を優先しない。なんとなれば、今回の展示テキストはカタロニア語からの訳出で、その前が何語だったかは寡聞にして知らないが、本邦初披露のさいの展示はドイツ語からの翻訳で、このたび二度目のおめみえとなる。ただし前回と今回の文章は微妙にちがっているはずだ。翻訳=トランスレーションが逸失(ロスト)と不可分なのは日本を舞台にした映画の題名にもなったのでごぞんじの方もすくなくないが、聴覚に働きかける音ないし音楽という現象を対象とする場合、まかりまちがえばその懸隔はおそるべきものとなる。音を書くとは、その点で不可能事に属することは、ゆめゆめわすれてはなるまいが、それらを他言語に移しかえるともなれば、こぼれおちるニュアンスもひとしおであり、そのとき「翻訳」は「伝達=欠落」となる。
2.《ミクスト・レビューズ》 1999
壁に貼られたテキスト
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay.
この作品のタイトルは《ミクスト・レビューズ》。1999年の発表で、新聞や雑誌に載った音楽にまつわる幾多のレヴューからサンプリングしたセンテンスをつなぎあわせ、文意はとおっていそうなのに全体的にはなにをいっているかわからない(わからなくてもいい)テキストになっている。クリスチャン・マークレーの個展「トランスレーティング[翻訳する]」はこの作品がぐるりをめぐる中央に「リサイクル工場のためのプロジェクト」と題した、ブラウン管式PCモニターやメディアプレイヤーなど、廃物を利用したメディアアートないしインスタレーション作品を設置した第一室からスタートする。サンプリングとリサイクリング、オブジェクトとコンセプトといった作者を基礎づける2作品、かつて国内で公開したなじみぶかい2作品でクリスチャン・マークレー「トランスレーティング[翻訳する]」展をおとすのである。
5. 「リサイクルされたレコード」のシリーズ 1979-1986
コラージュされたレコード
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York
第一室をあとにした観客は通路沿いの《リサイクルされたレコード》、その前後をはさむように設置したふたつの映像作品《ファスト・ミュージック》《レコード・プレイヤーズ》を目にすることになる。ともに活動初期の作品で、ことにレコード盤にじかにマーカーで記号を書いたりシールを貼ったりするだけならまだしも、切り離して別のとくっつけて外見ばかりか中身もコラージュした《リサイクルされたレコード》はマークレーが特異なターンテーブル奏者としてニューヨークの即興音楽界隈で頭角をあらわしはじめた当時の代名詞というべき一作。ここでの「代名詞」の語には代表作や名刺代わりの含意があるが、そのように記す私はこの「代名詞」なる用語の匿名性と交換可能性をたのみに、言語そのものがマークレー的表現世界の一端であるかに思いはじめている。
本展はこの「マークレー・エフェクト」とでも呼びたくなる現象の多面性をたしかめる場でもある。それらはレディメイド、フルクサス、ノーウェイヴ、DJカルチャーなど、歴史的文脈にも接続可能だがいずれも微妙に食いちがい、そのわずかばかりの空隙を発生源とする。たとえば初期サンプラーの粗いビットレートやいびつなループ感は時代性の傍証であるとともに特定の形式を想起させる記号でもある。いまでは80~90年代のサンプラーの解像度を再現することはたやすいが、マークレー・エフェクトはそのようなテクノロジー依存的で定量的なシミュレーションとはことなる原理原則に接近しながら働く法則だといえば、いえるだろうか。
その点でマークレーはデュシャンやケージら考え方の枠組みを転換した先達の系譜につらなっている。ただし彼らのようにその前後を分割したりはしない。もっとカジュアルでしばしばコミカルなのは、お歴々ほど近代や制度や社会や教育や教養といった課題に真正面からとりくまなくてもよかったからかもしれない。むろん美大生時代のボストンでのノーウェイヴ体験、卒業後に出てきたニューヨークの都市の磁場も無視できない。80年代のニューヨークには猥雑で折衷的な空気が瀰漫していたと想像するが、先端的なモードのなかで近代なるものは失調しかけていた。モダニティの革命幻想が晴れてしまえば、あらわれるのは「post festum」としての事物と状況である。剥き出しのレコード盤を転々流通させることで、音楽から本来とりのぞくべきノイズを外部から付加するのみならず、エディションを一点ものに変化させる《レコード・ウィズアウト・ア・カバー》や、レコード店のエサ箱から中古盤のジャケットを改変した《架空のレコード》、おもにクラシックとポップスのジャケットをかさねて視覚をおもしろがらせるのみならず、鑑賞者固有のイマジナリーサウンドスケープの再生ボタンを押す《ボディ・ミックス》など、本展の中盤の要となる80年代末から90年代初頭の諸作の情報攪乱的なコンセプト、すなわち黎明期のサンプリング・カルチャーの戦術はおそらく先に述べた時代背景にも影響をうけている。また制度との摩擦熱を動力源とするこの戦術はおよそ形式や序列や経済性が存在すれば、どの分野にも応用可能であり、そのことを証明するように2000年代以降、マークレーは作風の裾野をひろげていくのである。
14 「ボディ・ミックス」シリーズより 1991-1992
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York
とりわけ2002年の《ビデオ・カルテット》は映像分野の劃期として一見の価値がある。作品に登場するのは過去の映画から抜き出した音にまつわる場面で、マークレーは数百にもおよんだという断片を、カルテットの題名通り、四つの画面に矢継ぎ早に映し出しながら、時間の前後のみならず空間の左右にも目配せしつつ緊密に編みあげている。私はこのおそるべき労作を前にするたびに畏怖の念と笑いの発作におそわれるが、なんど鑑賞してもあきないのは作品の自律性によるものだろう。《ビデオ・カルテット》でマークレーはサンプリングした映像を人物や事物といった事象に分解しその記号的な側面を強調したうえで同時時進行する4面の映像と音が連関するようたくみに構成するのだが、そのありようは、ジャズのアンサンブルにも、実験的ターンテーブリストのエクササイズにも、チャールズ・アイヴズのポストモダン版になぞらえられなくもない。
9. 《ビデオ・カルテット》 2002
4チャンネル・ビデオ(同期、カラー、サウンド) 14’ 30”
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
サンフランシスコ近代美術館蔵 © Christian Marclay.
きわめて音楽的であるがゆえに時間的な《ビデオ・カルテット》の主題はのちに長大な《The Clock》などに展開する。一方で速度や強度といった音楽体験の土台となる主観的な時間単位は「アクションズ」や「叫び」のシリーズで絵画という古典的な形式に擬態するかにもみえる。クリスチャン・マークレーの「翻訳」とは、それら相補的な問題の系を横切りながら、そのたびになにかを「欠落」していくことにほかならない。あたかも音の不在が沈黙を析出するように、翻訳のさい反語としてうかびあがるもの。私のいうマークレー・エフェクトもそこに淵源するが、そのことを体感するには本展のような企画はぜひとも必要だった。
いうまでもなく「翻訳」とは二言語間に限定できず、言語の数だけ存在するなら、その行為は本来的に増殖的である──そのことを体感するのにも本展はうってつけといえる。やがて鑑賞者は本展後半にいたるころには、マークレーがアートそのものの翻訳作業にかかり、度外れにその意味を拡張するなかで、意図的に主題を空転させ、真空状の記号にすべての意味をすいあげさせていることに気づくであろう。翻訳行為にはえてしてこのようなパラドックスがつきまとうが、よくよく考えると、存命中の美術家でクリスチャン・マークレーほどパラドキシカルな作家もそうはいないわけで。私は本展の多様な作品を前にして上のようなことを思ったが、他方であらためて作品を前にして、マークレーを語るにあたってコンセプトに隠れがちな細部の繊細さ、情報が覆う作品表面の風合いや素材の質料や質感にも目をひかれた。《無題》と題した2004年のフォトグラムなどはそのことをさらに作品化したものともいえるのだろうが、ほかにもレコード盤やジャケットやマンガ雑誌の切り貼り、シルクで刷ったカンバスの表面、幾多のファウンド・オブジェクトに作者の手の痕跡のようなものを感じたのも本展の収穫だった。展覧会場の最終コーナーにもうけた「フェイス」シリーズや《ノー!》などの新作にも手の痕跡はみとめられる。2作品ともに2020年の発表で、コロナパンデミックというきわめて現代的で文明的な状況における人間のありようをマンガのコラージュであらわした作品だが、そこでは感情や身体性の表出が意味伝達の速度をおいこしていくのがわかる。その傾向は2021年の最新作《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》へ伸張し、ろう者であるパフォーマーが冒頭でとりあげた《ミクスト・レビューズ》を日本語へ手話通訳する模様をおさめた映像では音や口頭言語の伝達機能が希薄化するのと反比例するように身体性がたちあらわれるのである。この作品をもって「トランスレーティング[翻訳する]」は円環を閉じるように幕をひくが、そのとき私たちは「翻訳する」ことにみちびかれ、思えば遠くに来たもんだと、ひとりごつのである。
連鎖の網の目に位置する「誤訳=創造」のプロセス
——クリスチャン・マークレーと「翻訳」
たとえば五線譜を演奏することについて、一般的にはそれを翻訳と呼ぶことはない。五線譜に記された記号は多くの場合、演奏内容を細かく規定しており、演奏者はそれらの記号を解釈しながら特定の作曲作品を音として再現する。他方で翻訳とは、なにがしか起点となる表現を別の文脈へと置き直すために別の形を作り出す作業のことをいう。通常はある言語を別の言語へと、できるだけ同一の意味内容を保ちつつ置き換える行為およびその結果を指す。だが周知のように言語学者ロマン・ヤコブソンは「翻訳」を三種類に腑分けし、そのうちの一つを自然言語にとどまらない「記号間翻訳」として定義した。彼の定義を踏まえるのであれば、言葉、音、イメージ、あるいはそれらの混合物をも含み込みながら、音楽、文学、絵画、写真、映画など、さまざまな記号系を置き換えることもまた、一種の「翻訳」と看做すことができる。この意味で異なる記号系を跨がる演奏、たとえば絵画を譜面と見立てて音楽を演奏する行為は一種の「翻訳」である。五線譜の演奏は譜面と音を異なる記号系と区別する限りにおいて「翻訳」と呼び得るだろう。そしてこうした「翻訳」は、自然言語においてもそうであるように、少なくとも次の二つの結果をもたらす。すなわち「翻訳」によって、わたしたちは異なる言語あるいは記号の体系を架橋し、これまでになかったコミュニケーションを生み出すことができる。同時に「翻訳」は、同一の意味内容を保とうと努めつつも、文脈と形が変わることによって、つねに致命的なズレを抱え込むこととなる——それをコミュニケーションの原理的な不可能性と言い換えてもいい。だがこうしたズレと不可能性は、たとえ情報の伝達という面で失敗の烙印が押されようとも、いみじくもヤコブソンが「詩」について述べたように、むしろ新たな表現へと向かうための創造性の源泉となっている。音楽に「翻訳」の観点を導入することに意義があるとすれば、まさにこの点にある。そしてそれは作曲と演奏のプロセスだけでなく、演奏と聴取の間にも創造的に寄与するはずだ。
*
音楽家であり美術家のクリスチャン・マークレーによる、国内の美術館では初となる大規模な個展「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」が11月20日から東京都現代美術館でスタートした。展覧会の関連企画として、会期2日目の11月21日にはマークレーのグラフィック・スコアをリアライズするライヴ・イベント・シリーズ「パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する」の第1回が開催。∈Y∋のソロ・パフォーマンス、およびジム・オルーク率いるバンド(山本達久、マーティ・ホロベック、石橋英子、松丸契)による演奏が披露された(なお、同イベント・シリーズは2022年1月15日にコムアイと大友良英、翌16日に山川冬樹と巻上公一によるライヴが予定されている)。マンガをコラージュしたヴィジュアル・アートでもあるグラフィック・スコアを音楽へと「翻訳」する試みは、音楽と美術という異なるジャンルを渡り歩き、そしてそのいずれにも括り切れないマークレー独自のスタンスがあればこそ実現できた取り組みだったことだろう。
クリスチャン・マークレーは1955年にアメリカ・カリフォルニア州で生まれ、スイス・ジュネーヴで育った。音楽家としては主にノー・ウェイヴの影響下でバンド活動を始め、ヒップホップとは異なる文脈で1970年代後半からターンテーブルを自らの楽器として使用し始めた先駆的存在として知られる。1980年代にはジョン・ゾーンらニューヨーク・ダウンタウンの先鋭的な音楽シーンと交流を持ち、1986年に当時「ノイズ・ミュージックの前衛的ゴッドファーザー」と呼ばれたヴォイス・パフォーマーでドラマーのデヴィッド・モスとともに初来日。音楽批評家・副島輝人の招聘ということもあり、来日の模様は『ジャズ批評』誌で取り上げられた。その後、マークレーは1989年に自身を含む12名のミュージシャンのレコードをそれぞれのミュージシャンごとにコラージュした12曲入りの傑作アルバム『モア・アンコール』を発表、さらに80年代のレア音源をコンパイルしたソロ・アルバム『記録1981~1989』を1997年にリリースしている。他にもギュンター・ミュラーやエリオット・シャープ、大友良英、オッキョン・リーらさまざまなミュージシャンとセッションをおこなった作品を多数リリースしており、こうしたコラボレーションの方が彼の音楽活動の大部分を占めているとも言える。演奏家としては近年はターンテーブル奏者としてではなく、日用品やオブジェを駆使したアコースティックなサウンド・パフォーマンスに取り組んでいる。2017年に札幌国際芸術祭が開催された際、廃墟となったビルの内部で大友良英とともにバケツやキッチン用品、食器、発泡スチロール、自転車、枕など無数のファウンド・オブジェを用いてデュオ・インプロヴィゼーションをおこなったことも記憶に新しい。
他方でマークレーの足跡は音楽家だけでなく、ヴィジュアル・アーティストとしても40年近いキャリアがあることが一つの大きな特徴だ。もともとマサチューセッツ芸術大学で彫刻を専攻していた彼は、1979年から86年にかけてレコードをモノとして解体/再構築した「リサイクルされたレコード」シリーズを制作。1985年には音楽アルバムとも造形作品とも言い得る代表作の一つ《カヴァーのないレコード》を発表し、やはり不透明なメディアとしてのレコードそれ自体の物質性を前景化した。他にもレコード・ジャケットのステレオタイプなジェンダー・イメージをユーモラスかつクリティカルにコラージュした「ボディ・ミックス」シリーズ(1991~92年)、さまざまな人々が歌い叫ぶ口元を切り取った写真で構成される《コーラス》(1988年)、古今東西の映画から演奏シーンを抜き出して4つの画面に映した《ヴィデオ・カルテット》(2002年)など、発表されたヴィジュアル・アート作品は多岐にわたるが、そのどれもが音または音楽と関連する要素がモチーフとなっている点では共通している。2010年には無数の映画から時刻がわかる映像を切り出してコラージュし現実の時間と対応させた24時間にわたる大作《ザ・クロック》を完成させ——この作品もまた時間を構成するという点で音/音楽と密接に関わっている——、翌2011年に第58回ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を獲得することで美術家として名実ともに確固たる地位を確立した。2010年代以降は《マンガ・スクロール》(2010年)を突端に、無音のヴィデオ・インスタレーション作品《サラウンド・サウンズ》(2014~15年)や近作「叫び」シリーズ(2018~19年)および「フェイス」シリーズ(2020年)など、マンガに描かれた絵やオノマトペを素材として用いた作品に目立って取り組むようになっている。
このように音楽と美術の領域を跨ぎつつ、一貫して音/音楽にまつわる要素をモチーフに、一流のユーモアとクリティカルな視点を織り交ぜ、聴覚のみならず視覚的作品としても自らの活動を展開してきたのがマークレーの足跡だと、ひとまずは言うことができるだろう。そうした彼がミュージシャンによる演奏を前提として制作したグラフィック・スコアの一部が、《ノー!》(2020年)と《つづく》(2016年)である。21日のライヴ・イベントでは、∈Y∋が《ノー!》を、ジム・オルーク・バンドが《つづく》を、どちらも約20分弱の時間でリアライズした。通常のグラフィック・スコアがそうであるように、演奏内容の大部分は演奏者自身に委ねられているものの、これら二作品にはマークレーによるディレクションも記載されており、そのディレクション内容の違いも手伝ってか、∈Y∋のパフォーマンスがほとんど彼自身の個性を大々的に伝えるような独自のリアライズとなっていたのに対して、ジム・オルーク・バンドは極めて構成的で、スコア解釈も奏功することでマークレーのユーモアさえ感じさせるようなリアライズとなっていた。

パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する (2021/11/21)
「ノー!」∈Y∋
撮影:鈴木親
最初の∈Y∋のパフォーマンスでは、ステージ上に15台の譜面台が扇状に設置され、それぞれの譜面台には計15枚ある《ノー!》のグラフィック・スコアのシートが1枚ずつ置かれていた。《ノー!》はソロ・パフォーマーのためのヴォーカル・スコアとして制作されており、15枚のシートをどのような順序で並べるのかはパフォーマーに委ねられている。シートにはマンガから切り抜いた間投詞を含むシーン、たとえば「AAAH!」「NNNN!」「WOO-OO-OO-OO!」といったさまざまなセリフが絵とともに貼りつけられ、パフォーマーはこのスコアをもとにヴォイスと身体で解釈していく。コップを持ちながら舞台袖から登場した∈Y∋は、向かって右端の譜面台へと歩み寄ると、おもむろにマイクを手に取って絶叫し始めた。そして左端まで1枚ずつスコアをリアライズしていったのだが、会場で準備されていた計3本のマイクを通じて∈Y∋のヴォイスにはディストーションやディレイなどの激しいエフェクトがかけられ、ほとんど言葉を聴き取ることが難しいような凶悪なノイズが響き渡っていた。身体を大きく後方に反らせてなにかに取り憑かれたかのようにヴォイスを振り絞るそのパフォーマンスは他でもなく∈Y∋そのものである。だが1枚ずつスコアをリアライズしていくという点では、自由な即興演奏でもなく、明確に15のブロックに分節されたパフォーマンスだったと言える。そして最後の1枚はタイトルでもある「NO!」というセリフがさまざまなシチュエーションで発されているシーンを切り抜いたスコアで——厳密には「NO!」以外のセリフのシーンも含まれているが——、ここに至って渦を巻くような絶叫ノイズからようやく誰もが聴き取ることができるほど明確な言葉が立ち現れる瞬間が訪れた。全てのスコアをリアライズした∈Y∋はステージ中央に戻るとマイクのプラグを荒々しく引き抜き、まるで示し合わせたかのように横に置かれたドラムセットのクラッシュシンバルが倒れて終わりを告げた。
パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する (2021/11/21)
「つづく [To be continued]」 ジム・オルーク(ギター)、山本達久(ドラム)、マーティ・ホロベック(ベース)、石橋英子(フルート)、松丸契(サックス)
撮影:鈴木親
しばしの休憩を挟み、続いてジム・オルーク(ギター)が山本達久(ドラム)、マーティ・ホロベック(ベース)、石橋英子(フルート)、松丸契(サックス)とともに今回のパフォーマンスのために結成したバンドが登場。マークレーのグラフィック・スコア《つづく》がリアライズされた。同じグラフィック・スコアとはいえ《つづく》は制作経緯が《ノー!》とはやや異なっており、もともとスイスのグループ、アンサンブル・バベルのために考案された48ページからなる冊子タイプの作品である。アンサンブル・バベルは今回のジム・オルーク・バンドと近しい二管&ギターのクインテット編成で、《つづく》はギター、木管楽器、コントラバス、パーカッションを想定して作られているが、編成に若干の異同が許されている。スコアにはやはりマンガの切り抜きがコラージュされているのだが、必ずしもセリフが書かれているわけではなく、演奏シーンや楽器、機材、オノマトペ、あるいは音を想起させる描写、そして五線譜までが、まるで一編の物語を描くように配置/構成されている。コラージュされた五線譜にはところどころメロディとして解釈可能な音符も記されており、スコアに付されたマークレーによる複数のディレクションを踏まえるなら、通常のグラフィック・スコアよりも比較的明確に演奏内容が定められているとも言える。実際に当日のジム・オルーク・バンドによるリアライズでは、数10秒程度で次々にシーンが切り替わっていくように演奏がおこなわれ、その音像は時間の枠組みと分節を設定する現代音楽のコンサートのように構成的なものだった。そしておそらくスコアそれ自体のディレクションに加えて、スコア解釈にあたって演奏前にバンド内で交わした取り決めも、こうした構成的側面の創出に大きく寄与していたのではないだろうか——たとえば出演者たちが揃って足踏みするユーモラスなシーンは、あらかじめ定めたスコア解釈の一つの結果だったと言える。とはいえその分、当日のパフォーマンスでは全体を満たすアンサンブルの細部にも妙味が宿っており、スコアそれ自体や事前の取り決めに還元することができないような、5人のメンバーそれぞれに特有な楽器奏者として持ち合わせている音色、そして独自に開発しただろうテクニックも一つの聴きどころとなっていた。いずれにしても、個性的ヴォイスが前面に出た∈Y∋のパフォーマンスに比して、ジム・オルーク・バンドがリアライズした《つづく》には作曲家・マークレーの痕跡が色濃く刻まれていたとは言えるだろう。
《ノー!》2020
15枚のインクジェットプリントを含むポートフォリオ
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング [翻訳する]」展示風景(東京都現代美術館、2021年)Photo: Kenji Morita
© Christian Marclay
どちらの演目も、マークレーが手がけたヴィジュアル・アートでもあるグラフィック・スコアを、音中心のパフォーマンスへと「翻訳」する試みであった。展覧会のテーマがそうであるように、「翻訳」はマークレーの活動の一側面を鋭く言い表した言葉だ。ただしコンサートにおいては、スコアとパフォーマンスの間を置き換えるプロセスはあくまでも秘密裏に遂行されている。観客はどのような「翻訳」がおこなわれているのかをリアルタイムで知ることはなく、ステージ上の演奏風景とそこから発される響きに耳を傾けるのみだった。こうした演出の仕方はマークレー自身の意向によるものである。というのも《つづく》に書き記されたディレクションには次のような箇所がある。すなわち「このスコアは演奏するミュージシャンたちのために作られたものであり、コンサート中にオーディエンスとシェアするものではない」のであり、しかしながら「この出版物はパフォーマンスとは別物として、誰もが楽しむことができる」のである。もしもイメージを音へと「翻訳」するプロセスそれ自体が作品となっているのであれば、ヴィジュアル・アートとしてのグラフィック・スコアをプロジェクターでスクリーンに投影するなどしつつ、視覚的要素がどのように聴覚的要素へと置き換えられるのかを明らかにした方がよりよく表現できるだろう。だがマークレーは《つづく》のディレクションで「プロジェクションを使用してはならない」と釘を刺してさえいる。つまり彼にとってイメージを音へと「翻訳」するプロセスは、観客に伝えるべき内容としては考えていないようなのだ。実際に《つづく》のみならず《ノー!》も、当日に会場でスコアが投影されることはなかった。観客にはパフォーマンスのみ体験させ、他方でスコアそれ自体をヴィジュアル・アートとして楽しむことは半ば推奨されているのである。

《つづく》2016
冊子(オフセット印刷、ソフトカバー、48ページ)
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング [翻訳する]」展示風景(東京都現代美術館、2021年)Photo: Kenji Morita
© Christian Marclay.
このことからはグラフィック・スコアを用いたパフォーマンスに対するマークレーのスタンスが窺えるのではないだろうか。すなわち彼にとってグラフィック・スコアは、一方ではヴィジュアル・アートとして制作されているものの、他方ではヴィジュアル・アートとは別の記号系に属するパフォーマンスそのものを生み出すための手段としても制作されている。そして「翻訳」を通じて置き換えることはあくまでもパフォーマンスの裏にある作業として、受け手にはリアルタイムでは伝えることなく実行されなければならない。それは言い換えるならパフォーマンスそのものの価値を積極的に認めようとすることでもある。だが翻って考えるなら、このようにスコアを投影しないということ自体は、むしろ音楽においてはスタンダードなあり方だ。通常、譜面台に置かれた楽譜は演奏者が音を生み出すためにあり、観客に見せるためにあるわけではない。マークレーは映像をスコアとする《スクリーン・プレイ》(2005)のみ例外的にスコアを見せることで観客に「より積極的に聞く」よう仕向けることを企図したと明かしつつ、グラフィック・スコア(図案楽譜)を観客に見せないことの理由をこのように説明している。
大半の図案楽譜はミュージシャンのためにあります。楽譜のイメージは音楽を説明することは意図していませんし、テレビやインターネットのせいで私たちはサウンドにイメージを紐づけるよう飼い慣らされています。サウンド抜きのイメージだとなにかが欠けているという感覚を持ってしまう。私にとって楽譜のイメージは演奏の引き金であり、ミュージシャンのための通常の譜面となんら変わらないのです。
(「クリスチャン・マークレーに、恩田晃が聞く 音楽とアートの関係」『intoxicate vol.155』2021年12月10日発行)
マークレーは大規模なコンサートで豆粒大にしか見えないミュージシャンの姿を映像として巨大なスクリーンに映し出すことを例に挙げながら「人々は音楽を聞きながら、何かが見えることを期待してしまう」とも述べる。たしかにわたしたちは、音のないイメージ、またはイメージのない音について、なにかが欠落していると感じてしまうことがしばしばある。野外フェスティバルではかろうじて視認できるミュージシャンの小さな姿よりもスクリーンに映る大きな映像を目で追ってしまう。たとえイメージが用意されていたとしても飽き足らず、動画サイトで静止画と音楽の組み合わせに出会すと、時間とともに変化する映像を欲してしまう。それは音楽体験の充実度を情報量の多寡で判断しているということなのかもしれない。音楽を情報として捉えるなら、できるだけ効率よく多量の情報を摂取することが望ましいのだ。だがこうした消費のあり方はどれほど効率的であっても創造性の観点からは貧しい体験だと言わざるを得ない。受け手が自ら想像し作品に積極的に介入する余白を持たないからだ。しかしマークレーの作品はむしろこうした想像/創造へと受け手が自発的に足を踏み出すよう誘い出す。なにも聞こえないヴィジュアル・アートは音の欠落ではなく、受け手自身が豊かな音を想起するきっかけとしてある。同様にグラフィック・スコアを用いたパフォーマンスは、響きを聴くことによって一人ひとりの観客が異なるスコアのイメージを思い浮かべることになるだろう。むろんイメージに限る必要はない。今まさにこうして書かれているテキストがそうであるように、当日のパフォーマンスに触発された受け手は、音とは別の記号系にあるなにがしかを想起し、あるいは具体的な形をともなう表現としてアウトプットする。「翻訳」という観点が重要なのはこの意味においてである。もしもスコアをスクリーンに投影していたのであれば、イメージとパフォーマンスの対応関係に観客の注意が向いたことだろう。それは「翻訳」を客体として眺めることであって、観客自らがそのプロセスに介入しているわけではない。例外とされた《スクリーン・プレイ》のパフォーマンスも、「より積極的に聞く」という意味において、やはり観客が自ら主体となって「翻訳」をおこなう契機となる。
クリスチャン・マークレーのヴィジュアル・アートは観客に音を想起させる。だが彼のグラフィック・スコアが想起させる音楽と、ミュージシャンが「翻訳」することによって具現化する響きは、おそらくまったく異なるものとしてある。それはとりもなおさず観客とミュージシャンそれぞれの「翻訳」がつねに致命的なズレと不可能性を抱えた創造的な「誤訳」であることを示している。この点で音を譜面の再現と看做す通常の五線譜と彼のグラフィック・スコアは根本的に異なるあり方をしている。そしてヴィジュアル・アートとしてのスコアがあくまでも固定化された視覚的要素として存在しているのに対して、それを手段として生まれたパフォーマンスはつねに具体的なパフォーマーをともなうことによって、実現されるたびに新生し続けていく可能性がある。それはかつてマークレーがターンテーブル演奏に関して「死んだと思えるオブジェを、生きたライヴの文脈において使うための一つの方法」(『ur 特集 ニュー・ミュージック』第11号、ペヨトル工房、1995年)と語ったこととも通底している。ヴィジュアル・アートとしてのグラフィック・スコアは、他の人間によって「翻訳」されない限り、あくまでもある時点で記録され固定化された「死んだと思えるオブジェ」に過ぎない。それは一方では見られることで受け手の記憶をまさぐり、想像上の音の発生を引き起こすことで「生きたライヴの文脈」へと蘇ることになる。他方ではパフォーマンスのための手段として用いられることによって、やはり「生きたライヴの文脈」に鳴り響きをともないながら置き直される。それだけではない。さらにパフォーマンスそれ自体の受け手によっても「翻訳」されていくのである——まるで物体としてのレコードが延々と回転し続けるように終わりのない連鎖を呼び込みながら。他の音楽家による多くのグラフィック・スコアが作曲と演奏のプロセスに焦点を合わせ、あるいは視覚のための純粋な絵画へと近づくのに対して、マークレーの作品はあくまでも連鎖の網の目——そもそもが既存のマンガを流用したコラージュだ——のなかに位置している。その意味で∈Y∋とジム・オルーク・バンドによる「翻訳」のプロセスを通じたリアライゼーションは、グラフィック・スコアを生きた文脈へと置き直す一種の蘇生の儀式であるとともに、パフォーマンスそれ自体が「死んだと思えるオブジェ」のように観客の記憶へと刻まれることによって——あるいは記録メディアにアーカイヴされることによって——、新たな「翻訳=創造」のプロセスを駆動させる試みでもあったのだと言えるだろう。
コロナ禍で迎える年末年始のカウントダウン・パーティ、渋谷コンタクトの「New Year’s Eve Countdown Party 2011-2022」には、BOREDOMSの∈Y∋のライヴをはじめ、あっこゴリラと食品まつりとの共演、なかむらみなみのライヴほか、滝見憲司ほか、Contactでお馴染みのDJやMOTORPOOLのレギュラー陣、ファビュラスなDrag QueenやGoGo Boysも加わって、2022年の幕開けをお祝いする。
12/31(金)
New Year’s Eve Countdown Party 2011-2022
featuring MOTORPOOL
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Open 9PM
¥1000 Under 23 / Before 10PM
¥2000 Before 11PM
¥2500 GH G Members / Advance
¥3000 GH S Members
¥4000 Door
★毎年恒例! 鏡開き、振舞い酒あり
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Studio:
∈Y∋ (w/ NIIMI TAIKI, HORIO KANTA) -Live Set
食品まつり a.k.a foodman feat. あっこゴリラ
なかむらみなみ -Live
andrew
7e + Mari Sakurai
CYK
Celter
Contact:
Kenji Takimi (Crue-L | Being Borings)
DSKE (MOTORPOOL)
MAYUDEPTH (四季協会 | MOTORPOOL)
P-yan + Ryokei
Yamarchy
LB3
Foyer:
KIRI
SHOYU (YUME & SHOWHEY)
ShioriyBradshaw
dj poipoi + Hibi Bliss
MATCHA
Crazist + Hugest
Queens:
MAXIM
PORA
OKINI
KAGUYA
Boys:
NAWOTO
TOWA
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『刺激的なカルチャーと多様なアクト達と共に華々しく迎える新年』
2021-2022のカウントダウンは、日本のアンダーグラウンドカルチャーを牽引するアクトたちとMOTORPOOLをフィーチャー。混乱の2021年を締めくくり新しい年を歓びで迎える。
Studio Xには、新プロジェクトFINALBY( ) を仕掛けるBOREDOMSの∈Y∋(山塚アイ)が、ライヴセットで年越しのContactに登場する。FUJI ROCK FESTIVAL 2021で披露されたFINALBY( )の超絶的なパフォーマンスは、会場はもちろん、配信を見ていた音楽ファンの度肝を抜く大きなトピックのひとつとなった。さらに、夏に発売されたアルバム『YASURAGI LAND』でエレクトロニカル万華鏡による圧倒的な美を披露した食品まつり a.k.a foodmanがあっこゴリラと共演。MCなかむらみなみもライヴでの参戦が決まった。DJ陣も2021年のキーパーソンが集い才能を開花させる。これまでにも卓越したエレクトロニクスや突然変異的な優れた音楽感で、Contactを極上の空間に演出してきた、感動と意外性に富んだ刺激溢れるラインナップと、クィアパーティMOTORPOOLとの絶妙なドッキングの準備が整った。
久々の開催となるMOTORPOOLをフィーチャーしたContact / Foyerフロアには、オルタナティヴ・ ミュージックの真のパイオニアKenji Takimiが登壇する他、レジデントのDSKE、MAYUDEPTH、ゆかりのアーティストを中心とした強力なラインナップでダンスミュージックの多様性を表現する。 至極のトラックと共にお馴染みのQUEENやBOYSが新年を華やかに染め上げ、唯一無二の空間を演出する。
特別な年となった2021年、どんな価値観を持つ人でも、自分自身に素直でいられる居場所を見つけることができる、今年のContactのカウントダウンに身を任せて2022年に歩を進めてはいかがだろう。
★鏡開き、振舞い酒に加えて、お正月フードや、コーヒーもご用意してお待ちしております!
∈Y∋
ART/音楽/DJを並行しておこなっている。86年『BOREDOMS』始動。07年77台のドラムで77BOADRUM、08年88BOADRUMをNY/LAで開催。21年 新プロジェクト『FINALBY( )』 ファイナルビーエンプティー 始動、FUJI ROCKホワイトステージ初演。BECK『Midnite Vultures』アルバムジャッケット制作、『NANOO』、『WEOEM』、『ONGALOO』出版。近年 17年 札幌国際芸術祭『DOT KAY DOT』、18年『SADOT CAY DOT』19年コーン(パイロン)のインスタレーション/ライブ『レコーン』、同年ロスBLUM&POEパレルゴン展参加、21 年PARCO、LEDパネルのインスタレーション/ライブ『LAG-ED』。複眼的アプローチで96年 DJスタート、メタモルフォーゼ最多出、新宿リキッドルームクローズ15時間プレイ、FUJI ROCK他、様々なフェス、パーティでプレイ。
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Tel: 03-6417-8107
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※新型コロナウイルスの感染予防対策の取り組みについて
https://www.contacttokyo.com/news/27949/
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NITRO MICROPHONE UNDERGROUND の MACKA-CHIN と PART2STYLE の MaL、そして JUZU a.k.a. MOOCHY の3人から成るユニット、ZEN RYDAZ のセカンド・アルバムがリリースされている。
ディジェリドゥや三味線、アラビック・ヴァイオリンなどが入り乱れ、ヒップホップやダンスホールやジャングルのリズムが揺らす大地の上を、多様なスタイルのラップや歌が駆け抜けていく。日本ラップのファンもベース・ミュージックのファンも要チェックです。
弛まぬ想像力によって昇華されたZEN RYDAZの2ndアルバムがリリース!
極東発HIP HOP x WORLD MUSIC!!!
新時代のベースミュージック・ユニット ZEN RYDAZ が豪華ゲストミュージシャン達と共に、廃墟の遊園地(宮城県・化女沼レジャーランド)にて満月の下繰り広げた1発撮りの奇跡のライブセッション! 朝陽へ向かう瞬間を捉えた貴重な映像作品とともにリリースされます。
https://www.youtube.com/watch?v=WnBh7LolsQw
映像制作は近年、絶景 x MUSICで話題を集めるTHAT IS GOOD。
ドローンによる風景美を得意とするチームとの連携により、独自の近未来感と映画的情緒を持つ唯一無二な作品が出来上がりました。

●ZEN RYDAZ
MACKA-CHIN, MAL, J.A.K.A.M. (JUZU a.k.a. MOOCHY)
●ゲストMC/シンガー
ACHARU, AZ3(RABIRABI), D.D.S, EVO, NAGAN SERVER, MIKRIS, RHYDA, 愛染eyezen, なかむらみなみ
●ゲストミュージシャン
GORO(ディジュリドゥ、ホーミー、口琴), KENJI IKEGAMI(尺八), KYOKO OIKAWA(アラビックバイオリン), 東京月桃三味線(三味線)
●発売開始日
2021年12月02日(木曜日)
CD: 2000円(税別)
各種サブスク、ストリーミング
https://ultravybe.lnk.to/zentrax2
CROSSPOINT bandcamp
https://crosspointproception.bandcamp.com/album/zen-trax2
NXS Shop
https://nxsshop.buyshop.jp/items/55581725
TRACK LIST
01. WISDOM 04:57
Vocal: ACHARU / Digeridoo & Jews Harp: GORO
02. CLOUD9 03:19
Voice: MIKRIS / Violin: KYOKO OIKAWA
03. CLOUDLESS MIND 04:22
Voice: NAGAN SERVER / Shamisen: 東京月桃三味線 / Flute: GORO
04. KOKORO 04:33
Voice: AZ3,EVO / Violin: KYOKO OIKAWA
05. QUEST 04:28
Voice: RHYDA, ACHARU, NISI-P / Shakuhachi: KENJI IKEGAMI
06. SLOW BURNING 03:32
Voice: D.D.S / Violin: KYOKO OIKAWA
07. CROSS-BORDER 04:01
Voice: 愛染 eyezen / Turkish Flute & Jewish Harp: GORO
08. CANCANCAN 03:43
Voice: なかむらみなみ
09. MIRRORS 04:21
Voice: ACHARU / Violin : KYOKO OIKAWA
10. VEDA 05:36
Voice: NAGAN SERVER & NISI-P / Shakuhachi: KENJI IKEGAMI
Total Time: 41:50
Arrangement: J.A.K.A.M.
Mix: J.A.K.A.M. (01,03,05,07,09) & MAL (02,04,06,08,10)
Mastering: Robert Thomas (Ten Eight Seven Mastering London / UK)
Logo, Illustration: USUGROW
Picture: NANDE
Photo: Nobuhiro Fukami
Design: sati.
PRODUCED BY ZEN RYDAZ (MACKA-CHIN, MAL, J.A.K.A.M.)
P&C 2021 CROSSPOINT KOKO-099
https://www.nxs.jp/
プロフィール
ZEN RYDAZ:
NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのMACKA-CHIN、PART2STYLEのMaL、JUZU a.k.a. MOOCHYことJ.A.K.A.M.
2019年、それぞれのフィールドで20年以上活動してきた同年代の個性派3人が、満を持してジャンルを越え“ZEN RYDAZ”としてWORLD MUSICをテーマに、メンバーが旅して得た世界観、常にアップデートされていく其々の感性、追及から生まれるスキルを結集し、21世紀的ハイブリッドサウンドver3.0としてここTOKYOでクラクションを響き渡らす。
MADE IN JAPANの島リズムが生み出すZEN SOUNDはバウンシーでドープそして自由な発想と飽くなき音楽魂を“禅FLAVA”に乗せ、大空高くASIA発のニューライダーズサウンドとして言葉を越え世界にアップデートされたWORLD MUSICを送信中。
https://zenrydaz.tumblr.com/
BANDCAMP
https://crosspointproception.bandcamp.com/
SHOP
https://nxsshop.buyshop.jp
WEBSITE
https://www.nxs.jp/label




