SCOTTO))) なる筋書き
Side:Sunn O)))倉本諒
今年の春頃に「SCOTTO)))」とロゴのみのヴァイラル効果を狙ったウェブ・ページが〈4AD〉から表れ、音楽メディアを騒がせた。サンによる毎度スキャンダラスなコラボレーションは今回も大きな波紋を呼ぶのだろうか?
その時どきの時代性を射抜く先駆的なコラボレーションを企ててきたサンは、もちろんドローン・メタル/パワー・アンビエントのバンドであるわけだが、僕はそれ以上に彼らをある種のカルチャー・ムーヴメントの立役者として捉えてきた。
ヘヴィ、またはラウドと呼ばれるような音作りにおいて、その筋から絶大な信頼がおかれているアンプ──サン(sunn)だ──によって壁を築き、そのいまはなきメーカー・ロゴをそのままバンド名に冠し、カルトな垂れ流しドローン・ロック・バンド、アースへのトリビュートを謳うパロディ・バンドであったサン。彼らをはじめてコンテンポラリーな存在に仕立てたのは、2003年に発表したアルバム『White 1』でのジュリアン・コープとのコラボレーションだ。
バーニング・ウィッチ(Burning Witch)、ソーズ・ハンマー(Thorr's Hammer)等で、ひったすらに重い、遅いメタルやハードコアを追求してきたスティーヴン・オマリーとグレッグ・アンダーソンがたどりついた、「スピードは死に、それでも地を這うメタル・リフとフィードバッグが延々とアンプから垂れ流される」という境地をカンテラの明かりで照らすようなジュリアンの朗読が冴える“マイ・ウォール”はいまも秀逸な響きを放っている。
今回のスコット・ウォーカーとのコラボレーション『サウスト』を聴きながら、これまでのサンのコラボレーションに思いをめぐらせ、10年以上も前のジュリアンとの曲を振り返り見えてくるバンドの原点、それは舞台装置としてのサンだ。
圧倒的な数のヴィンテージ真空管アンプとスピーカーの壁から放射される、まさに振動としての音波、やりすぎなスモーク、全身に纏うローブ、ギター・ミュージックの究極形にあるアンビエント化したロック・サウンド。舞台装置としてのサンのコンセプトは完成されている。それは文字通りショウとしての、エンターテイメント/見世物としてのロック史の、黒いパロディのようでもある。
今回その舞台で披露された演目は、スコットとの、さながら『ファントム・オブ・パラダイス』のような悪夢のロック・オペラだ。フランスの舞台演出/美術家、『こうしておまえは消え去る』のジゼル・ヴィエンヌによるビデオ・クリップも発表され、ゴシックな舞台を彩っている。そもそもスティーヴンとピタによるKTLは当初ジゼルの演劇作品『キンダートーテンライダー(Kindertotenlieder)』の舞台音楽としてキャリアをスタートさせているわけだし、どうにも彼らはこういう方向性に強いようだ。
10年以上前の“マイ・ウォール”でジュリアンがスティーヴンとグレッグの紹介を読み上げるセリフから、今回のスコットとのコラボレーションまでが、サンによる壮大なバンド活動計画の脚本のうち、とすら思われてしまうほど説得力を感じてしまう。
過去のさまざまなアーティストたちとのコラボレーション同様、この作品が音楽のみならず、映画やファッション、現代美術など異なるフィールドを振動させてくれるのが楽しみである。
倉本諒
[[SplitPage]]ホラーと笑いのロック・オペラ
Side:Scott Walkerブレイディみかこ
お。ポップになったじゃん。
という表現が適切かどうかは不明だが、サンO )))と組んで聴きやすくなるアーティストというのもスコット・ウォーカー以外にそうはいないだろう。
異色のコラボと言われるが、UKでは「すごくわかる組み合わせ」「もう音が想像できる」みたいなことが何カ月も前から言われてきた。思えば、スコットの前作『ビッシュ・ボッシュ』にもへヴィでオカルトなメタルっぽい音色はあったし、でも肉切り包丁を擦り合わせてきーきー言わせてた音がギターの音に変わったのだから、それはやはりポップになったのだ。が、だからと言ってスコット・ウォーカーとサンO )))のコラボに、ルー・リードとメタリカの『Lulu』のようなものを期待してはいけない。本作に比べれば『Lulu』はワン・ダイレクションのベスト盤のようなものである。
わたしはだいたい音楽と名のつくものは何でも好きだが、一つだけどうしても駄目なのがメタルであり、のべつ幕無しギャーギャーわめくものが嫌い。という性格的なものだろうが、サンO)))の場合はわめくというより、唸ったり轟いたり歯ぎしりしたりという幅広い表現を追求しているのでスコットの声とは絶妙に合う。60年代には低音の魅力で売ったスコットも、前衛音楽に移行してからは妙な緊迫感のあるテノールを前面に出しており、本作は冒頭からまさにロック・オペラのようだ。
スコットの音楽は映画的とも言われるが、たとえば、彼の『ティルト』以降のアルバムがタルコフスキー的だとすれば、本作はケン・ラッセルのロック・オペラ『トミー』だ。あれももともとはザ・フーのアルバムだったのに、ケン・ラッセルが映画化した途端にイロモノになったというか変なことになったが、スコット・ウォーカーもサンO)))と組んだ途端に変なことになった。ここでの彼は難解で崇高な芸術家ではなく、いい感じに力が抜けてイロモノ化している。
歌詞にもそれは表れている。ああ見えて彼は以前からこっそり歌詞で笑わせることで知られていたが、『サウスト』ではそれが炸裂している。‟ブル”のソニック・ホラー風の緊迫した曲調でいきなり「leapin’ like a river dancer’s nuts(リバー・ダンスの踊り手の睾丸のように跳ね回っている)」などと歌われると、ぴょんぴょん跳ねながらアイリッシュ・ダンスを踊っている白タイツの男性を想像して吹きそうになったのはわたしだけではないだろうし、マーロン・ブランドが題材という‟バンド”でバシッ、バシッと鞭のパーカッションを使いながら「A beating will do me a world of good(ぶってくれたらとても僕のためになるのだけれど)」と劇的に歌い上げるのもナイスである。スコットは2008年にサンO)))からコラボの申し入れがあったときには断ったが、しっかりそれを覚えていてコラボ用の曲を書き溜めていたというのだから、きっとやりたくてウズウズしていたんだろう。
2012年の『ビッシュ・ボッシュ』のレヴューを読み返していて、「スコット・ウォーカーはコードとディスコードの間にあるもやもやとした部分を追求している。この未知の領域は人間を不安にさせる。この不安に比べると、恐怖はまだいい。ポップだからだ」と自分で書いていたことに気づいたが、まさに『サウスト』の彼は、さらなる「不安」の探究を休み、よりポップな「恐怖」をやっているように思える。きっと彼はサンO)))という、それを形にする最高のパートナーを見つけたのだ。
こうなってくると、気になることがある。それは、デヴィッド・ボウイやブライアン・イーノを羨望させたレジェンドが、このノリでつるっとステージに立ったりするのではないかということだ。そういうことを期待させるぐらい、本作のスコットは弾けている。そしてタルコフスキーよりケン・ラッセルのほうが100倍ぐらい好きなわたしにとり、本作は今年もっともチャーミングなアルバムだったと言ってもいいほど怖くておかしい。
ブレイディみかこ