「iLL」と一致するもの

DJ Nigga Fox - ele-king

 きました! これは嬉しいニュースです。リスボンから世界中にポリリズミックなアフロ・ゲットー・サウンドを発信している〈プリンシペ〉から、なんとDJニガ・フォックスが来日します! 〈プリンシペ〉のドンであるDJマルフォックスはすでに来日を果たしていましたが、かのシーン随一の異端児が初めてこの極東の地でプレイするとなれば、これはもう足を運ばないわけにはいきません。2018年1月26日に渋谷WWWβにて開催される今回のパーティは、《南蛮渡来》と《Local World》とのコラボレイションとなっており、東京のThe Chopstick Killahz(Mars89 & min)と〈Do Hits〉/〈UnderU〉のVeeekyも参加、さらにKΣITOがゴムのセットを披露する予定とのこと。いやはや、これは年明けから一気にテンションぶち上がりそうです。ドゥ・ノット・ミス・イット!

Local 5 World 南蛮渡来 w/ DJ Nigga Fox

リスボンのゲットーからアフロ新時代を切り開く〈Príncipe〉の異端児DJ Nigga Foxが初来日! 加えて中国の新星Howie Lee率いる北京拠点の〈Do Hits〉からVeeekyと目下テクノウルフでも活躍するKΣITOが暗黒の南ア・ハウスGqom(ゴム)のライヴ・セットで参加、The Chopstick Killahzによるポスト・トライバルな《南蛮渡来》と世界各国のローカルの躍動を伝える《Local World》のコラボレーション・パーティにて開催。

ジャマイカからダンスホールの突然変異Equiknoxx、ナイジェリアの血を引くアフロ・ディアスポラの前衛Chino Amobi、シカゴ・フットワークの始祖RP Boo、アイマラ族の子孫でありトランス・ウーマンの実験音楽家Elysia Cramptonをゲストに迎え開催、インターネットを経由し急速な拡散と融合を見せながら、多様化するジェンダーとともに新たなる感性と背景が構築される現代の電子音楽における“ローカル”の躍動を伝えるパーティ《Local World》。その第5弾は“ポスト・トライバル”を掲げ、新種のベース・ミュージックを軸にエキゾチックなグルーヴを追い求める東京拠点の若手Mars89とminのDJユニットによるパーティ《南蛮渡来》をフィーチャー。ゲストにリスボンの都市から隔離された移民のゲットー・コミュニティでアフリカ各都市の土着のサウンドと交じり合いながら独自のグルーヴを形成、DJ Marfox、Nídia Minaj、シーンをまとめたコンピレーション・アルバム『Mambos Levis D'Outro Mundo』のリリースや〈Warp〉からのEPシリーズ「Cargaa」を経由し、国際的な活動へと発展したアフロ新時代を切り開くリスボンのレーベル〈Príncipe〉からアシッディーなサウンドで異彩を放つシーンの異端児DJ Nigga Foxが初来日、さらには中国の新星Howie Lee率いる北京拠点の〈Do Hits〉のヴィジュアルを手がけ、地元台北で世界各地のベース・ミュージックに感化され独自のローカル・サウンドを創り出すコレクティヴ〈UnderU〉のコア・メンバーVeeekyが登場。国内からは目下テクノウルフのメンバーとして活躍する傍ら、ジューク、ヒップホップ、ゴムなど先鋭的なビートを常に取り入れ、サンプラーを叩き続けるKΣITOがゴムのライヴ・セットで参加。ポップス、アンダーグランド、土着が“何でもあり”なポストの領域で入り乱れる現行のエクスペリメンタル・クラブ・シーンでも注目のバイレファンキやレゲトン、メインストリームとなったトラップ含めいつも“サウス”から更新される最新のビートが混じり合う逸脱のクラブ・ナイト。

Local 5 World 南蛮渡来 w/ DJ Nigga Fox
2018/01/26 fri at WWWβ

OPEN / START 24:00
ADV ¥1,500 @RA / DOOR ¥2,000 / U23 ¥1,000

DJ:
DJ Nigga Fox [Príncipe - Lisbon]
The Chopstick Killahz [南蛮渡来]
Veeeky [Do Hits - Beijing / UnderU - Taipei]

LIVE:
KΣITO *Gqom Live Set*

※20 and Over only. Photo ID Required.

https://www-shibuya.jp/schedule/008652.php

【記事】
リスボンのゲットー・サウンド@Resident Advisor
リスボンの都市から隔離されたゲットーのベッドルームでは、アフリカの音楽を取り入れた刺激的で新しい音楽が、10年ほど前から密かに鳴っていた。しかし今、〈Príncipe〉という草分け的レーベルの活動を通し、この音楽が徐々に国境を越え、世界で鳴り響き始めている。
https://jp.residentadvisor.net/features/2070

【動画】
リスボンのアンダーグラウンド・シーン@Native Instruments
ここ数年、リスボン郊外を拠点とするプロデューサーやDJの小さなグループが、未来のサウンドを創造しています。彼らはアンゴラ、カーボベルデ、サントメ、プリンシペなどのポルトガル語公用語アフリカ諸国出身で、彼らの作り上げた音楽には、激しい切迫感、荒削りなビート、恍惚感のあるグルーヴ、そして浮遊感が集約され、その結果アフリカのポリリズムにテクノ、ベース、ハウス・ミュージックを組み合わせた唯一無二のハイブリッドなサウンドが誕生している。

■DJ Nigga Fox [Príncipe - Lisbon]

アンゴラ出身、リスボンを拠点とするプロデゥーサー/DJ。2013年にリリースされた12" 「O Meu Estilo」でデビュー、ポルトガル郊外のゲットー・コミュニティで育まれた特異なサウンドをリスボンから発信するレーベル〈Príncipe〉の一員としてアフロ・ハウスの新しい波を世界へと広めている。続く2015年の12" 「Noite e Dia」は『Resident Advisor』、『FACT』、『Tiny Mix Tapes』といった電子音楽の主要メディアに取り上げられ、同年〈Warp〉からリリースされたシーンのパイオニアと若手をコンパイルしたEPシリーズ「Cargaa」にも収録され、国際的な認知を高めながら《Sonar》、《CTM》、《Unsound》といった有力な電子音楽フェスティヴァルにも出演、Arcaのブレイクで浮かび上がったエクスペリメンタル・クラブの文脈の中で、同性代の土着のローカル・サウンドを打ち出した〈N.A.F.F.I.〉、〈NON Worldwide〉、〈Gqom Oh!〉といったレーベルやコレクティヴとともにシーンのキーとなる存在へと発展。2016年の〈Príncipe〉のレーベル・コンピレーション『Mambos Levis D'Outro Mundo』と最新作「15 Barras」はアシッドなサウンドを強め、これまでのクドゥーロのアフリカン・スタイルを飛躍させ、よりハイブリッドで強烈なサウンドとグルーヴを披露、他ジャンルとの交流や融合を交え新時代のアフロ・ハウスの拡散と拡張に大きな貢献を果たしている。

https://soundcloud.com/dj-nigga-fox-lx-monke

■The Chopstick Killahz (Mars89 & Min) [南蛮渡来]

ポスト・トライバルを掲げ、奇妙なグルーヴと無国籍感を放つパーティー《南蛮渡来》のMars89とminによる東京拠点のDJユニット。

https://soundcloud.com/thechopstickkillahz

■Veeeky [Do Hits - Beijing / UnderU - Taipei]

現代社会の問題をテーマとし、ヴィジュアル・アートや音楽で伝える台北拠点のアーティスト。Howie Lee率いる北京の〈Do Hits〉と台北の〈UnderU〉のコア・メンバーとして活動。現代社会で起こっている問題に多くの関心を持ち、これらのテーマをヴィジュアル・アートや音楽に伝え、微妙な文化のシンボルや物語、デジタル/オフライン作品のコラージュを用い、コンピュータ・アートに加工した鮮やかなヴィジュアル・パフォーマンスを披露し、〈Do Hits〉ではヴィジュアル担当として、レーベルのユニークなヴィジュアル言語を作り出している。主に北京と台北の異なる場所の文化/音楽シーンを行き来しながら、ソロでは2017年末に台北にある洞窟のギャラリーで『sustainable data 1.0』展示会を開催、最新のアートワークとヴィデオを発表する。来年にはクリエイターの友人とともに、社会主義の真の価値とその調和を世界へ広げることを目指した、新しい服のブランドを立ち上げ、アジアの各都市でポップ・アップ・ショップの展開を予定している。

https://www.veeeky.com

■KΣITO

トラックメーカー/DJ。2013年に初のEP「JUKE SHIT」をリリース。ジューク/フットワークの高速かつ複雑なビートをAKAIのパッドを叩いて演奏するスタイルでシーンに知られるようになる。2016年、HiBiKi MaMeShiBa、ナパーム片岡などとともにレーベル〈CML〉を立ち上げ、Takuya NishiyamaとのスプリットEP「A / un」をリリース。ソロ活動に加えテクノウルフ、Color Me Blood Black、幡ヶ谷ちっちゃいものクラブなど、複数のユニットに参加、様々なミュージシャンとのセッションを重ねている。

https://keitosuzuki.com

Jeff Mills - ele-king

 ジェフ・ミルズが音楽を担当したことで話題となった大森立嗣監督による映画、『光』。そのサウンドトラックCDが急遽発売されることとなった。このCD盤は、すでに配信でリリースされているヴァージョンよりも収録曲が多く、また映画本編未公開、未配信音源も含んだ内容となっている。詳細は下記より(映画『光』のレヴューはこちら)。

ジェフ・ミルズが音楽を担当した映画『光』のサウンドトラックCDが急遽発売決定。収録曲“Incoming”をフィーチャーした特別映像も公開!!

三浦しをん原作・大森立嗣監督。井浦新、瑛太、長谷川京子、橋本マナミらが出演、“人間の心の底を描く過酷で濃厚なサスペンス・ドラマ”で、音楽をエレクトロニック・ミュージックのパイオニア、ジェフ・ミルズが担当していることでも話題を呼んでいる映画『光』。

この映画のサウンドトラック『AND THEN THERE WAS LIGHT (FILM SOUND TRACK)』のCDを12月22日に発売することを急遽決定致しました。

すでに先行配信されている10曲とは収録曲が一部異なり、さらに映画本編未公開、未配信音源も含めた全16曲を収録した充実の内容で、主演 井浦新のシルエットに映画の舞台、美浜島に生い茂る、うねる樹木がコラージュされたグラフィックが印象的なCDジャケットとなっています。

サントラ収録曲の中でもひと際強いインパクトを与える、ジェフ・ミルズの90年代のサウンドを思い起こさせるインダストリアルでハードな楽曲“Incoming”。映画の中でも一瞬にして世界を不穏な空気に包み込むこの楽曲と、映画の本編映像が融合した、特別映像が公開されているので、こちらもぜひチェックしてください。

ジェフ・ミ ルズの音楽と本編シーンを融合させた映画『光』特別映像
https://youtu.be/jq1AW-D5L-8


【CD情報】
JEFF MILLS 映画 『光』 サウンドトラック
『AND THEN THERE WAS LIGHT (FILM SOUND TRACK)』

2017.12.22リリース [日本先行発売]
品番:UMA-1103 定価¥2,500+税

収録曲 ※CDのみに収録
01. A Secret Sense
02. Islands From The Lost Sea ※
03. Raindrops Of Truth
04. Parallelism In Fate
05. The Revenge Of Being In Lust ※
06. The Bond Of Death ※
07. The Trail Of Secrets ※
08. Consequences ※
09. Danger From Abroad
10. The Little Ones ※
11. Landscapes
12. Trigger Happy Level ※
13. The Players Of Consequence
14. Lost Winners ※
15. The Hypnotist (Hikari Mix)
16. Incoming

JEFF MILLS 映画 『光』 サウンドトラック
『AND THEN THERE WAS LIGHT (FILM SOUND TRACK)』配信Ver.

収録曲
01. Incoming
02. A Secret Sense
03. Danger From Abroad
04. Parallelism In Fate
05. Landscapes
06. Arrangements of The Past
07. Trigger Happy Level
08. The Players Of Consequence
09. Raindrops Of Truth
10. The Hypnotist (Hikari Mix)

DYGL - ele-king

 渋谷から明治通りを恵比寿方面に向かって歩いていたら、デイグローのライヴを初めて観た夜の記憶が急に蘇った。もっと暖かい10月の夜で、もっと小さいキャパシティのライヴハウスで、ワンマンではなく複数の出演者が演奏するイベントだった。前日にワイキキ・ビートを観て満足しきった後だったのに、デイグローのライヴがあまりにもフレッシュであまりにも良すぎて、物欲だけが先走ってしまい、聴けもしないカセットテープを買って帰った日。今日はその夜に前を素通りしたリキッドルームでの公演。手元にあるチケットの番号は800を超えていて、キャパシティはその時の約6倍。何だか少し感慨深い。

 今年の4月に待望のファースト・アルバム『Say Goodbye to Memory Den』をリリースした後、長いアジア・ツアーを経て、先週は念願のイギリスでのライヴも成功させたデイグローは、本公演が今年最後の締めくくりのライヴになるとのこと。『Say Goodbye to Memory Den』は以前からデイグローに注目していた人たちにとっては文句なしの見事な出来で、今年の日本のロック・バンドの作品を振り返ってみても、新人バンドと紹介するのも躊躇うような、とにかくその中でも頭ひとつ飛び抜けたクオリティを放つインディ・ロックの名盤だったと改めて思う。発売から半年以上経ってじわじわと自然に浸透していったのも当然の結果で、今夜はこの場所に同じ嗅覚をもった音楽好き達が新しいものを目撃する為に集まっているに違いない。会場に入るとすでにたくさんの人たちが中に押しかけていて、さっきまで寒空の下でコートを着ていたのが噓みたいな熱がこもり、誰もがそわそわとライヴのはじまりを待ち望んでいるのが伝わる。男女比は半々ってところ、半数以上が20代に見えるけれど3〜40代らしき人たちもちらほらといて親近感を覚える。開演時間が過ぎてSEが止まり、メンバーが出てくると同時にわーっと湧き上がる歓声。昨年発売されたEP収録の“I'm Waiting For You”の甘いギター・リフからゆったりとロマンチックにはじまったことが、この素晴らしい夜のひとつの手がかりだったような気がする。

 まだ1枚のアルバムしか出していないバンドというのは、リスナーとしてはそのアルバムを何度も繰り返して気に入れば気に入るほど、曲が足りない、もっとたくさん聴きたいという我儘な欲が出てくるけれど、その代わりライヴでは大体の収録曲の演奏を披露してもらえるのが嬉しいポイント。アルバムとは順番を逆にして“Take It Away”から“Let It Sway"へとすぐに繋がる絶妙な流れは何度観ても盛り上がるし、ギター炸裂のロックな新曲から続いたダブ調の“Boys On TV”あたりはロンドンパンクのようにシニカルで格好よく、さらに力強いバンドアレンジに進化していた“Thousand Miles”はいままで聴いたなかでもいちばん素敵だった。デイグローの曲は短いけれど、ライヴではあまりそう感じさせないように聴かせてくれるのが凄いところ。前回の5月のワンマンで観た時にはノリのいい曲の方が印象に残っていたけれど、今回のライヴでは後半のゆったりとした展開が効いていて、テンポをやや落とした“I've Got to Say It's True”や“Waste of Time”などのシンプルな曲はリズムの一音一音が厚みを増してしっかりとまとまり、この半年の間でこなしてきたライヴの数とともに、演奏力や見せ方がスケールアップしているのが伝わってくる。そして初期の曲“Nashville”の儚く繊細なサウンドと感情的なヴォーカルにその場にいたすべての人が酔いしれているさまは、光が交差した照明の美しさも加わってひときわ胸を掴まれた瞬間だった。スローな音がバンドのいまのモードに近いのだろうか。それともこちらの気分にたまたま合っていたのだろうか。師走のせわしなさから逃れたい気持ちも作用していたのかもしれない。

 アグレッシブな演奏中の姿と違って、MCは言葉を選びながら言いたいことはちゃんと言い、しかし言葉尻は丁寧なのがまたデイグローのいいところで、あと2曲でおしまいなんですけど、と告げた後、世の中への不満やものづくりについての熱意、今日は駄目でも明日は良くなるというようなことを言い聞かせるように話しながら、「いつもスピリチュアルなことを言って笑われている皆さんに捧げます」と残して、“Don't Know Where It Is”と“Come Together”でガレージ・ロックを叩きつけて熱く終わったのにはかなり痺れた。グッド・ミュージックを与えてくれる人たちの何気ない発言や佇まいは、弱った心を少しだけ動かしてくれる。メッセージを受け取った我らがその場で出来ることは、〈ボロボロの靴のまま、あのロックンロールに向かって踊る〉だけ。

 本編終了後に「よいお年を」と言ってステージから消えていき、アンコールを求めてやまない拍手のなかに再び現れて「あけましておめでとうございます!」と明るく挨拶をして笑わせてから「せっかくなので好きなバンドのカバーをやります。」と言うので、てっきり今月20日に発売されるカバー・コンピ盤『Rhyming Slang Covers』に収録されるバズコックスの曲をやるのかと思っていたら、なんとザ・クリブスの“Mirror Kissers”を披露してくれた。開演前のSEでも流れていたし、荒削りでメロディアスなところも共通しているし、デイグローにはクリブスのカバーをして欲しいとかねがね願っていたので、なんて嬉しい誤算だろうとここで感激。そして最後は上がりきったテンションを保ったまま、アルバムのなかで唯一まだ聴けていなかった“All I Want”のイントロに突入する。たちまち明るく照らされた観客は暴動のように感情をあらわにし、何が師走のモードだ知るか、と私も一瞬だけ前言撤回して騒ぐ羽目になった。2度目のアンコールは必要ないくらいの充実感。ライヴ終了後、以前ヴォーカルの秋山君がお気に入りだと紹介していたシェイムの“One Rizla”が会場に流れているのを聴き逃さずに出口へと向かった。

 外に出て、2年前の夜と同じように来た道を反対方向に戻る。相変わらずカセットテープはまだ聴けていないけれど、デイグローの音楽はあの時よりももっとたくさんの人たちの元に確かに届いていて、今日のような日が何度も訪れることを願いながら駅へと向かう私の足取りはより軽く、力強い。いい夜だった。

Tomoko Sauvage - ele-king

 都市空間のなかで生活をするわれわれは、日々、変化する環境の只中に身を置いている。人が作り出した環境は豊かにもなるし、朽ちもする。人工的な空間が自然を破壊するかと思えば、自然は人工の領域へと浸食もする。人の意志によっては適度に共存することもできる。環境は時と共に変化をするし、場所を少し変えれば別の環境へと移行もする。
 とうぜん環境が変われば音環境も変わる。暴力的な音が鳴り響くときもあるし、人と環境に配慮する音が快適に鳴りもする。作為の介在しない自然の音が聴こえてくるときもあるだろう。そのような環境の変化は人の心身になんらかの影響を及ぼす。心と環境の関係はあまりに大きい。不穏。不安。恐れ。とすればアンビエント・ミュージックは環境と心=身体の関係を微調整し修復するものではないか。
 人は音を鳴らす。世界も音を発する。触れれば何らかの音がする。叩けば音が鳴る。音は「世界」と「私」の「あいだ」に存在する。その「あいだ」がアンビエントといえないか。それゆえ人が環境のただなかで音を鳴らすとき、自然なるものへの、畏怖と尊敬が生まれなければならない。音が「先にあること」を実感すること。音に/が、触れることの官能性を感じること。そして官能と尊厳はイコールだ。尊厳なき環境は荒む。

 トモコ・ソヴァージュは、横浜出身・現パリ在住のサウンド・アーティストである。彼女は水を満たした磁器のボウル、ハイドロフォン(水中マイク)、シンセサイザーなど組み合わせた独自エレクトロ・アコースティック楽器を用いて、水と磁器が触れ合う透明で美しい音響を生み出している。

 彼女は、2008年に、スイス出身・ベルリンを拠点に活動をするサウンド・アーティスト、ジル・オーブリー(Gilles Aubry)との共作『Apam Napat』を〈Musica Excentrica〉というロシアのレーベルからデジタル・リリースした(ジル・オーブリーは、フィールド・レコーディング・レーベル〈グルーエンレコーダー(Gruenrekorder)〉からのリリース作品もある)。
 翌2009年、実験音楽レーベルの老舗〈and/OAR〉からソロ・アルバム『Ombrophilia』を発表した。この『Ombrophilia』は、世界中の開かれた耳を持つ聴き手に静かに浸透し、リリースから3年後の2012年に、ベルギーの実験音楽レーベル〈Aposiopèse〉からヴァイナル・リイシューもされた。まさにトモコ・ソヴァージュの代表的アルバムといえよう。2009年には、〈カール・シュミット・フェアラーク(Karl Schmidt Verlag)〉からCD-R作品『Wohlklang: 14. Nov』もリリースする。
 本作『Musique Hydromantique』は、それらに続くトモコ・ソヴァージュのソロ・アルバムだ。リリースはガボール・ラザールフェリシア・アトキンソン、ガブリエル・サロマンなどのラインナップで知られる〈シャルター・プレス〉から。マスタリングはラシャド・ベッカーである。
 アルバムには“Clepsydra”、“Fortune Biscuit”、“Calligraphy”の全3トラックが収録されている。中でも約20分に及ぶ3曲め“Calligraphy”における水滴とドローンに満たされていく静謐な音響空間に耳を澄ましていると、時間の推移ともに聴覚の遠近法が変わってくる感覚を覚えた。その「音」が鳴っていた空間と、この「耳」が繋がり、「音」が身体に水滴のように浸透する……。デヴィッド・トゥープの言う「音が辺りに満ちてくる」とでもいうべきか。

 じっさい、 トモコ・ソヴァージュは音環境をそのまま録音しているようだ(本作の録音は編集なしのライヴ録音されたものだという)。拡張・録音された水や磁器の触れ合う音は、その時空間がそのままパックされ、多様な広がり・質感・肌理を有している。聴く者の環境や状況によってさまざまに表情を変えていく。
 水の音、モノの音、機械の音。自然の音。拡張された音。電気的なドローン、磁器ボウルの響き。それらの音は、ときに自然界に横溢する生物たちの鳴き声のようにも聴こえるし、機械から発せられる人工的な音のようにも聴こえもする。耳の遠近法は次第に刷新され、気がつけば、その響きの場所に連れていかれる。音と環境と人。時間と空間。その変化、差異によって、本作は聴き手が持っている音の遠近法を、ごく自然に書き換えてしまうのだ。そして聴き手である私たちに問いかける。「聴く」とは何か、「音と空間」とは何か、「音と時間」とは何か、と。

 本作には、まずもって「音」への尊厳がある。それは微かな畏怖ともいえるし、音=美への抑制の効いた精神性の発露ともいえる。音というオブジェクトが、「この私」より「先にあること」。その音たちを触れるように官能を感じること。鳴り響く音たちは、人間中心の音楽観・歴史に向けて発せられた音たちの微かな、しかしはっきりとした「声」に思えた。その「声」の肌理の変化に耳を傾けているとき、われわれは環境の繊細な変化に耳を傾けてもいるのだ。

BS0xtra - ele-king

XtraDub

interview with Ian F. Martin - ele-king


バンドやめようぜ! ──あるイギリス人のディープな現代日本ポップ・ロック界探検記
イアン・F・マーティン (著) / 坂本 麻里子 (翻訳)

Pヴァイン/ele-king books

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 その本を作った編集者が著者に取材するということはあまりないと思うが、この本に限っては、自分も音楽ライターの端くれであり、音楽メディアに携わっている人間なので、仮に自分がこの本の編集者ではなかったとしても、話を聞きたかった。
 『バンドやめようぜ!』(原題:QUIT YOUR BAND!)は、イアン・F・マーティンという在日英国人によるじつに示唆に富んだ内容の日本のロック/ポップス批評だ。通史を描くというのもひとつの批評であり(すべてを万遍なく描くことは不可能ではないかもしれないが、膨大な文字量を要する)、そこには著者の史観や選択も入るわけで、どうしたって語り部独自の批評が介在する。そして、この世に生まれてから20年以上ものあいだの英国文化圏での経験は、日本文化圏の音楽を語る上でも照射される。その見え方が、日本文化圏におけるこの本の面白さのひとつとしてある。
 日本の音楽が海外でブームというのも、最近の音楽界が、新譜を追うよりも過去の掘り出し物を探したほうが刺激的という、ある意味後ろ向きな潮流のなかにあるなか、『バンドやめようぜ!』は、過去の再評価ではなく、現代そして将来へと向かう本であり、そうなると、Jポップ/アイドルについても触れなくてはならないわけで、よくここまで書いてくれた! というのが編者の正直な感想だった。というのも、この本で描かれているのは日本からは見えづらい日本だからだ。
 なんにせよ、イアン・F・マーティン氏は、僕が知る限り、日本でもっとも全国のライヴハウスに足を運び、日本人音楽ライター以上に、もっとも大量のジャパニーズ・インディ・ミュージックを聴いている人物である。その成果は彼のCall & Responseレーベルをチェック。以下のインタヴューは、『バンドやめようぜ!』を未読の方にはよくわからない話かもしれないが、ちょっとのあいだお付き合いいただければさいわいである。

これは日本に限らず一般論としての文化的視点として西洋、と言ってもアメリカとイギリスの英語圏、においてはものすごく日本寄りになってきていて、それは音楽というものにおける自分のアイデンティティの拠り所的な見方が強まってきているからなんだと思う。

そもそも日本に移ることになったきっかけはなんだったんですか?

イアン・F・マーティン(以下、イアン):その質問はよく聞かれるんだけどじつは答えるのが難しいところで、(日本に移った)16年前の自分がどういう人間だったかも覚えていないんですよね(笑)。とにかくUKから遠く離れたところに行ってみたかったんです。ただしトイレがちゃんとしているところじゃないと嫌だった(笑)。トイレに関してはフランスより悪いところには絶対に行きたくないという基準があったんですね。
 ただじつはそんな単純な話でもなく、音楽についてではないけれど日本に関しては多少知っていたということもあったんですね。というのも、大学で日本の映画について学んでいたというのがひとつ。前に日本に来たことがあったということがひとつ。だからいい場所かなと思って来たんです。せいぜいいても2年くらいかなと思っていたけど、こんなに長くなっちゃった。

日本の音楽シーンに惹かれてとか、レーベルをやりに来たとかいうわけでもないんですよね。

イアン:白人の救世主として日本の音楽シーンを救いに来たというわけではないんだよね(笑)。

はははは。

イアン:UK時代にもいろんなバンドを観に出かけたりはしていたので、日本に来ても同じようにバンドのライヴを観に行きたいとは思っていたんですね。ただそうするうちに東京周辺の小さな会場に出入りするようになって、とくに高円寺にはよく行っていて結局そこに住むことになるんですけど、そうするうちにそういうシーンと自分との関わりあいができていったんですね。UKでそうはならなかったのはあくまでも自分は客のひとりという立場で、バンドが有名でも成功していなくても向こうの人はロックスター的なんですよね。それに対して日本の会場で見るバンドの姿というのは、お客さんとバンドの境界線がそこまで厳密に別れていないというか、混じっているようなところがあって、そういう状況だったからこそ僕みたいな人でも日本の音楽と絆を持っていくことが出来たんだと思うんだけど。
 とにかく、そういう日本のありかたが自分にとっては啓発というか、目から鱗みたいなところがあったんですよね。それが自分の気持ちのフックになったきっかけですね。この本(『バンドやめようぜ!』)に「日本にいる外国人って結局孤独で悲しくて、友だちもいないなかでこういうところに救いを求める」みたいなことを書いたんですけど、それは半分はジョークで半分はアイロニーで書いたつもりだったのに、在日の外国人の人たちがこれを読んで「そうだよね!」っていう反応がけっこうあったんだよね(笑)。たまたま思いついて書いたことだったんだけど、じつは真実を突いていたのかも。

その孤独な外国人にとって、客が二桁も入らないようライヴハウスみたいなマニアックな空間というのはなおさら行きづらいんじゃないかと思うんですけどね。

イアン:20人いたらいいほうだよね(笑)。知っているバンドを観にいくわけなんだけど、例えばこの本の最初にスチューデンツというバンドのことを書いたけど、少年ナイフの前座をやったことのあるバンドということで知っていて、少年ナイフといえばUKでも活動しているし、すごく人気ってわけじゃないけど音楽好きなら聞いたことがあるというバンドなので。それと関わりのあったバンドということでスチューデンツのチラシを見て、八王子の客が6人くらいいたライヴハウスに行ったんですよね。

なるほど。

イアン:そういうところに行くと観たかったバンドのほかに4つくらいバンドが出ているんですよね。そうするとひとつくらいはいいと思うバンドがいるんですが、アフター・ショウ(打ち上げ)でミュージシャンたちが話をしてくれるんです。そういう人たちに「どういうバンドが好き?」とか「ほかに共演していいと思ったバンドはいる?」とか、そういうことを聞くなかで、だんだん知っているグループが増えて、自分なりに追いかけていきたいバンドが増えていきましたね。いまだにそのあたりのバンドで記事になっているような情報がないんだけど、というか書かれているものはたくさんあっても整理されていないので情報が得にくいところはあるんだけどもね。

話は変わりますが、本のなかで「1978年生まれの自分はブリット・ポップ直撃世代」というようなことを書かれていますよね。そのブリット・ポップ直撃世代だったがゆえのトラウマというか、あの騒ぎの国家主義的だったというネガティヴな側面についても書かれていますが、音楽リスナーとしてのあなたには、ブリット・ポップというのはどのような影響を与えたのでしょうか?

イアン:そのブリット・ポップ時代に僕はティーン・エイジャーだったんだけど、あの時代そのものがネガティヴだったと言っているつもりはないんです。というか当時はそういう自覚もなかったんだけれど、いま振り返って距離を持って見たときに、たぶんあのムーヴメントは国家主義的なものを意図していなかっただろうけれども、そこにいた人たちの考えかたのなかには種として国家主義的なものがあったということは否めないんじゃないかっていまは感じるんだよね。モチベーションがなんであれ、自分がなにかの一員になってしまって一緒に旗を振ってしまったら、なにかしらの問題がそこで生まれてくるということはほかの現象を見ていてもわかると思う。
 「愛国主義(Patriotism)」と「国家主義(Nationalism)」という言葉の違いは僕自身もはっきりと差別化はできないけど、いずれにしても邪悪で危険なものをはらんでいると思う。というのも人間というのはどこかに所属したいという気持ちが必ずあるから、その思いがあまりにも強いためにいまの世界の人々はアイデンティティに苦難しているところがあると思うんだよね。それは商業主義にしても、資本主義にしても言えることだし、あとはネットがこれだけ氾濫してくるなかで自分のアイデンティティに自信が持てなくなってきている人がいろんな意味で増えてるでしょ? ナショナリズムというのはそういうなかで「自分がなにか確固たるものを目指しているという気持ちを持ちたい」という人びとの欲求が作り上げている動きだと思う。だから国家とかいうものじゃなくて、なにか違うところにアイデンティティを見つけられればいいのになと僕は思うんだけれども。だってそれが右翼じゃなくて、左側の政治家の人たちだって性別や民族などのさまざまなアイデンティティを問うているわけだよね? 自由だと言いつつもやっぱりそこはなにかしら問うているわけで、音楽のシーンのなかにも同じようなことがあったと思う。アイデンティティに悩むがゆえに、なにか自分が帰属するシーンはないかって。
 例えば80、90年代は服装ひとつ取っても「お前はゴス」って決まられるようなことがあって、そういうなかのひとつとしてブリット・ポップという動きはあったんだと思う。たぶん自分があのシーンを考えたときになにか落ち着かないものがあるのは、国家主義に通じる帰属を求める動きに対する違和感と、あとは自分自身が典型的な英国人というものと共通項を見出せない人間だからだと思う。同じ土壌に生まれたということ以外には本当に共通項が見つからないんだ。だったら国は違ってもアートやカルチャーの面で自分と共通する価値観を持つところのほうがアットホームに感じられるし、そういう意味ではいまのモリッシーには非常に失望しているね(笑)。

(通訳さんに)うちはモリッシーの本を出していることもあって、最近イアンにメールで「モリッシーは好き?」って聞いたんですよ。聞くんじゃなかったな(笑)。

イアン:モリッシーはそういう人じゃなかったのにね……。80年代のモリッシーはオタクから何から、英国社会というものに馴染めないでいた人たちの体現者であり代弁者だったし、そういう人たちにとっての解毒剤的な存在だったのに……。彼も歳を取ったんだよ。ブレグジットの話のなかで、「これが真のワーキング・クラスだ」とか「ワーキング・クラスの精神だ」みたいなことを言っていたんだけど、考えるとマンチェスターやロンドンやブリストルや、ああいう都市は投票ではビックリするくらいブレグジットに反対しているんだよね。僕が思うに、そういうなかにあってモリッシーを含むちょっと年配の人たちは変化についていけない、混乱のなかでノスタルジーに走るみたいなところがあるんじゃないかな。
 ある意味では僕と似ているところがあるのかもしれないね。UKを離れていったというところでね。モリッシーもたしか90年代にアメリカだったかに行っているし、僕がいまUKを離れている以上に長い期間離れていた人だから、遠くから自分の国を見るというなかでやっぱり失望は味わうと思うんだよね。その失望を味わっている対象は僕とは違うかもしれないけども、そういう感覚というのは事実としてあると思う。そういう意味で僕みたいな人間にイギリスについて語らせちゃいけないんだ(笑)。聞かれるんだけどね(笑)。

そりゃ、聞かれるでしょう(笑)。

イアン:とても危険だよ(笑)。イギリス人のってことがね(笑)。だから信じちゃいけないよ(笑)。

だから僕なんかから逆に言うと、モリッシーみたいに表に立って炎上する人がいるというところがイギリスっぽいなと思うんですよね。ああいう、音楽と政治との太いリンクは日本にはいないから。

イアン:いや、音楽というのは根っこにそういう性質を持っていると思うんだよね。ただ音楽というだけじゃなくて、そこにはアイデンティティを窮する気持ちがあるし、ということは当然ポリティクスに繋がってくるわけで、音楽と政治は分けては考えられないんじゃないかな。

それはあなたもこの本のなかで書いていますよね。

イアン:それに関連して、この本の紹介のされかたのなかで「日本においては音楽をネガティヴに語ることはタブー視されている」ということに注目がいっているみたいなんだけど、現状として僕の考えかたってまだ過去の世界にいるのかなって自覚するところもあって。ジャーナリズムについてこの本で言っているのは、昔からの対立を煽るみたいなところ、ようするにレスター・バングスやポストパンクの時代、80年代の『NME』のような時代というのは音楽シーンでさまざまな意見があって、とくにクリエイティヴな意見のバトル・グラウンドみたいな書きかたをしていたよね。それに対してミレニアム以降のいまというのは、じつは西洋の人たちも日本人と音楽観が似ているというか、ようするにあまり煽り立てないし叩こうとしなくなってきているんだよね。
 その理由というのはいくつか考えられるんだろうけど、これは日本に限らず一般論としての文化的視点として西洋、と言ってもアメリカとイギリスの英語圏、においてはものすごく日本寄りになってきていて、それは音楽というものにおける自分のアイデンティティの拠り所的な見方が強まってきているからなんだと思う。日本で「NO MUSIC, NO LIFE.」というスローガンがあるけど、まさにあれだと思うんだよね。「音楽=自分の暮らし、自分自身」みたいな考えかたが広まってくると、今度は「音楽を叩く=個人攻撃」ってことになってしまうと思うんだ。音楽自体じゃなくてやっている人を攻撃するというような考えかたになってしまっている。結局のところ音楽というのはその人の聴いている音楽がその人物を語るってところもたしかにあるとは思うんだけど、やっぱりミュージシャンのキャラクターみたいなところに自分のアイデンティティを感じている人が多くなってくると音楽批判というのがなかなか難しくなるんじゃないかと思うんだ。日本の場合はそもそも業界の構造上(批判が)難しいというところがあるんだろうけども、感覚的にいまの日本の若い人たちといまの英語圏の若い人たちの音楽に対する観点というのはすごく近くなっているんじゃないかって思うんだ。かつてのような批評というのは成り立たなくなっているような気がする。
 理由としてはすべての雑誌を読まなければいけなかった時代とは違って、いまはツイッターやなんかで作品を発表すればすぐに反応が返ってくる時代だから、じっくり読んで考えるということじゃなくて、もしかしたら作る側も出した途端にフッと返ってくるとか、あらゆる方向から攻撃されるということを常に念頭に置いて作っているのかもしれないし、東京の変化というのは昔と比べたらかなり早いよね。そういうなかで僕の批評性というのはオールド・スタイルな厳しい人たちとミレニアム世代のあいだにいるんだろうけれど、昔の人に比べたら全然優しいよ(笑)。もうひとつは細分化された音楽のなかで読む人が非常に限られている、そこで言ったことがすべてという世界になっているということにおいてはインディ・バンドを相手に厳しい批判をするなんて、赤ん坊をいじめているみたいだから僕はしないな。ある程度批評に足る存在にまでなっていないと厳しいことは言えないというのが僕の考えかたとしてありますね。

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いまルールがわからない怖さというものを、みんなが自分らしさを探るなかで感じているんだと思う。世界中どこでもツイッターなんかでちょっと変なことを言ってしまったら受信箱にバーッと脅迫状が届くような世界だから、本当に自由に自分らしさを追求できないなかで、なにか「これに従っていれば大丈夫だ」というルールを探す、その末に行きついているのがあのアイドル文化なんじゃないかと思う。


バンドやめようぜ! ──あるイギリス人のディープな現代日本ポップ・ロック界探検記
イアン・F・マーティン (著) / 坂本 麻里子 (翻訳)

Pヴァイン/ele-king books

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海外のレヴューは点数制でいまでも平気で1点とかつけるわけじゃないですか。そういう意味でいうと残っていると思いますけどね。

イアン:残ってはいるにしても、(悪く)書かなくなってきていると思う。逆に筋の通らないような批評に対するリアクションというのもソーシャル・メディアのおかげで出てきたし、反対意見が聞けるようになったという点ではいいことかもしれないね。

アイデンティティのことを言うと、ジャン・コクトーが1930年代に日本に来たときに「なぜ日本人は和服を着ていないんだ」って言ったんですね。フランスから来たコクトーにしてみたら「日本人のアイデンティティはそこだろ」「なに欧米化されてんだ」と思ったんだろうけど、1930年代の時点でも日本人はそうじゃなかった。イアンも日本に来てわかったと思うけど、日本人というのは、京都や桂離宮や歌舞伎に行っていればいいという簡単なアイデンティティではなくて、とくに東京みたいな都市ではアイデンティティは不安定で、流動的で、つねに揺れ動いている部分があるんですよね。だから、日本を発見する必要がないと思っているほうが発見できるくらいな逆説的な日本が横たわっていたりすると思うんですよね。そういう意味で、僕がこの本のなかでおもしろいとおもったところのひとつに、イアンはこの本を通じて京都や桂離宮や歌舞伎ではない、コクトーがかつて求めたような日本でもない日本を発見しているんじゃないかなと思うんだよね。それが日本人の読者としてすごく新鮮でしたね。

イアン:たしかに日本に対してあまり先入観を持っていなかったかもしれない。それは逆に思っていたのと違うか、思っていた通りだったかのどちらにしても、僕にとっては大きなことではなかったのかもしれない。僕の考えかたとして基本的には世界中どこも似ているっていうことが大前提としてあって、そもそも僕はなにか違うものがあったとしても違うところより似たところを探すタイプなんだよね。似ているところにばかり目がいくので、他の人からしたら「なんでこのふたつが一緒なわけ? 全然違うじゃない」って言われるときもあるんだけど。
 もちろんイギリスと日本は全然違うよ。全然違うんだけど、それはそれとして置いておいて逆にどんな共通点があるのかなって考えかたの人間だから、逆に根本的な考えかたの違いというのがのちのち見えてくるということもあるんだよね。例えばイギリスにずっと暮らしていると人に対する無礼さというのに慣れてしまってなんとも思わなくなるんだけど、日本に来たときにその親切さに驚いたのかというとそうではなくて、イギリスがああだったということを忘れてしまっていたんだよね。それで里帰りしてロンドンに戻るとこんなに無礼だったのかってことにあらためてショックを受けるんだけど(笑)。
 僕はブリストルの出身なんだけど、ブリストルに行くとすごくオープンでフレンドリーなことに驚くんだよね。東京は礼儀正しいけどフレンドリーではないよね。ブリストルのコンビニに行くと女性の店員さんから「お元気?」とか「いかがですか?」なんて笑顔で声をかけられて、しかもそれがブリストル訛りで言われるんで日本だったらたぶん大分訛りって感じなんじゃないかな(笑)。でもそれに対して言葉を返せない自分がいるんだ。東京だったらこんなふうに声をかけられることがないから、どうしようってなっちゃうんだよね(笑)。そういうことを忘れていたということに驚くということはあるんだよね。日本に驚くんじゃなくて、地元に帰ったときに驚くんだ。
 念のために言っておくと、ブリストルのって言ってもちょっとした郊外のエリアに住んでいるみなさんのことを言っているのであって、ブリストルの中心街に行けばみんなアスホールだよ(笑)。

(一同笑)

イアン:まあ、いい人もいるけどね(笑)。ブリストルは大好きだよ。UK全体を見て自分が愛着をもって語れるのはブリストルくらいだよ(笑)。

なるほどね(笑)。本のパート2の通史の部分なんですけど、ここはいろいろと調べて、そうとうご苦労されたと思うんですけれども、どのように調査したのでしょうか?

イアン:いろんなミュージシャンに出会って聞いた話ももちろんあるし、本を読んでということもあるけど、ジャーナリストの人たちからも話を聞いたんだよね。とくに70、80年代のポップスに関してはそういった人たちからロード・マップ的なものをもらって、自分なりに人脈図を解明していったんです。ジュリアン・コープの本があるけど、ああいうのは取扱注意なんだよな(笑)。あの本に出てくるような実際の人に言わせれば「あれはフィクションだ」ってことになってしまうけど(笑)、事実じゃないと言われていたことが時代を経てのちに事実化していくみたいなこともあるからおもしろいよね。「本当だったよ!」って言ってあげればジュリアン・コープは喜ぶんだろうけどね(笑)。でもやっぱり事実とフィクションは分けきゃいけないと思う。ただ彼の本のなかにおいてはその境目がはっきりしないんだよね。たぶん本人にもそのボーダーがはっきり見えていないというタイプだからだと思うけど、ここは真実でここは違うという見分けは難しいところだったよ。
 ただ自分の本として書いていくときにやっぱりフィクションは別のところに置いておきたかったから、とくにパート3においてはそのあたりを注意しつつ、3つ4つ起こった出来事を組み合わせてそのなかから出てきた事実とか、あとは様々な新聞の見出し記事とかを見ていって、自分なりに考えてこうだろうと思った真実ももちろん入ってきてはいます。ただ事実を事実って書くときは正確にと思っていたので、それがもし正確に書けていけないところがあったとすれば、それは僕が取材のなかで誤解したことがあったということなんだろうと。それは認めます。ただソースにいくつか当たって再チェックもしたので、そこは慎重を期してはいます。あとはジュリアン・コープの話に戻るけれども、あの本のなかでも裸のラリーズのメンバーが飛行機をハイジャックして北朝鮮まで飛んで行ってという話を出したけど、それは嘘だと思っていたら事実だったということが後にわかったりもしているので、やっぱり魅力的なストーリーというのは嘘だと思っていると事実は小説よりも奇なりということもあるんだなと思ったね。ベーシストが20人とかさ。そのなかでひとりでもおもしろい人がいたらその人に注目が集まるし、その人ばかり大きくなっていくということは当然あると思う。事実かどうかは別として、おもしろい話というのはおもしろいんだよね。

海外の人は、ジュリアン・コープ的な人は、とかくジャックスとラリーズに対して抱く反体制的な幻想が大きいと思うんですよね。例えば日本映画の足立正生や若松孝二といった人たちの作品は、60年代当時のラディカルな政治運動と本当にリンクしていましたが、日本のロック・バンドは必ずしも彼らのように政治運動と深くリンクしてはいないんですね。

イアン:まずは野田さんが政治的というときの意味合いと、僕はこの本のなかで語っている政治的の意味がちょっと違うのかなと思いました。僕が言っているのは存在としての政治性ということなんだよね。とくに70年代のそのあたりのバンドというのは曲の内容とか、実際に政治的な活動をしていたかどうかということとは別として、いわゆる日本の社会からはステップ・アウトしている人じゃないとできないようなところにいた人たちじゃないですか。その存在が後にすごくヘヴィ―に政治的なものだったと見られるようになった人たちだったということなんだよね。だから曲自体がポリティカルじゃなかったということは僕も理解しているけど、それが彼らがポリティカルな存在ではなかったってこととイコールではないと思うんだ。彼らがどういう人物でどういう暮らしをしていたか、そのことの政治性ではなくて、彼らを見ている側からどういう存在だったのかというところで政治性が感じられた人たちだったということだね。
 僕は今回本を書くにあたって、読んでくれる人には二種類いると最初から思っていて、それは日本の音楽のことなんてなにも知らない外国人と、あとは日本の音楽オタク(笑)。僕がこういう文を書いたところでその両方を100%満足させるってことは無理だし、とくに歴史においてはある程度読みやすく端的にということをしないとどちらの人にとっても満足できない本になってしまうと思ったので、ことによってはわりと簡略化して書いて、そのなかでもラリーズは刺激的なバンドだったし、頭脳警察なんてもっとそうだから度合いの違いはあるとは思うんだけど、でも類としては同じだろうという語りかたになっているんだよね。日本の社会のそういう一面を代弁していたバンドという括りになっているんです。そうしないとどちらかはものすごく喜ぶけどどちらかにはつまらない、あるいは詳しい人にはわかるけどわからない人には難しいものになってしまう。パート2の歴史の部分はそういった姿勢で書いているんだ。ある程度慣らして書いたところも省いて書いたところもあります。
 でももちろん勝手に話を作ってしまうのはダメだけれども、情報やニュアンスというところでの手加減があったということですね。他にも重要なバンドがいるだろうと言う人もいるかもしれないけど、それは省く必要があったということで、これは百科事典じゃないんだからね。野田さんのおっしゃることは僕もポイントとしては理解しているけれども、全部まとめて細かいところまで書きこむということじゃなくて、ちょっと太い筆でバーッと書いたという感じかな(笑)。

(通訳さんに)この本を作っているときにイアンに、メールで「なんで大瀧詠一と山下達郎とゆらゆら帝国が載ってないの?」って聞いたんですよね(笑)。

イアン:そういえば訳者の坂本さんが「ユーミンと四畳半が一緒なのはおもしろいね」と書いてくれていたんだけど、同じところに入れたつもりはないんだけどね(笑)。とにかく、その理由は、全部入れるスペースがなかったということとと、ユーミンと四畳半がそうであるように、同時期に出てきたものは、その後に現れた新しいムーヴメントのなかではわりと似た感じで語られていたんじゃないかなということなんだ。だから僕も決して同じカテゴリーで認識しているわけじゃないんだよ。でも僕の頭のなかではカテゴリーは違うんだけれでも、流れやコンテキストとしては繋がっているんだ。

この本であなたが称揚しているオルタナ系ロック・バンドよりも、現代のとくに英米ではエレクトロニック・ミュージックのほうがより身近な音楽になっていますね。でもこの本のなかにはエレクトロニック・ミュージックやヒップホップについてはまったく語られていない。それはなぜですか?

イアン:(エレクトロニック・ミュージックやヒップホップについては)知らないからですね(笑)。

あなたが好きなステレオラブは、エレクトロニック・ミュージックともリンクしていたよね?

イアン:70年代後半から80年代あたりまでのミニマルなエレクトロニクスやインダストリアル系、クラフトワークやニューウェイヴ的なものの余波で出てきたようなものは多少聴いてはいたけれども、その手のものは日本ではなかなか見つからなかったね。いくつかあるのは知っているけど、それほど見かけていない気もするんだ。そのへんの影響というのはなんなんだろう。サブカルチャーの世界のゴシック・テクノとか、そっちに吸収されちゃっているような気がするけど。

ブリット・ポップ時代というと、トニー・ブレアがナイトライフを賞揚した時代でもあって、クラブ・カルチャーがメインストリームの産業に吸い込まれた時期とも重なるんで、あなたはあまりクラブ・ミュージックというものに対していい印象がないんだろうと深読みをしたんですが(笑)。

イアン:そこまでクールな人間じゃなかったからね(笑)。僕にとってのクラブはそういう場所じゃなかったし、そういうわけで僕はクールな人間じゃなかったからドラッグが出てくるようなところには全然行けなかったんだ(笑)。

ブリストルなのにね(笑)。

イアン:そうだよね。でも大学はボーマスという海沿いの小さな町にあったんだ。大学時代にブリストルにいなかったというのもひとつ理由としてあるかもしれないね。そうはいっても小さな町でもいくつかクラブはあったし行ったりもしていたけど、どちらかというとバンドのライヴを観に行ったり、あとはインディ・ディスコに行っていたね(笑)。インディ・ディスコは名前がすごくダサくて、聞いたとたんにあか抜けない感じのイメージが湧くのが好きなんだけど(笑)。自分のイベントをその名前でやっているのはそういう理由からなんだ。でも90年代のブリストルの有名なエレクトロニック・ミュージックは聴いてはいたよ。
 90年代のエレクトロニック・ミュージックでピンときたのはオービタルかな。あの時代のその手のバンドのなかではもっともクラフトワークに繋がっているところがあるバンドだったと思う。

話は変わりますが、ツイッターで「アイドルについては本当は書きたくなかった」というようなことをおっしゃっていて、でもパート3はやっぱり読んでいてすごくおもしろいんですよね。よくここまでJポップやアイドルを聴いたなと思いました(笑)。

イアン:はははは。やらざるをえなかったんだよね。ビジュアル系は無視できても、アイドル・カルチャーをなかったことにはできなかったかな(笑)。
 頭の良さそうな分析が簡単にできてしまうところがアイドル文化の危ないところなんだ。メカニズムとしてすべて表面化しているというところがアイドル・カルチャーの特徴で、隠していないんだよね。「どうぞ、ご覧ください」って感じでみんな見せてしまっている。見せたうえである程度参加させてくれる。そういうマシーンのありかた自体がアイドル・カルチャーが売り出している商品の一部であるというところが特徴なんだと思っているね。しかもそれをメディアがどんどん取り上げるでしょ? それで僕みたいな人間がそれについていって引っかかってしまうんだ(笑)。30、40代ジャーナリストの多くもその罠に引っかかっていると思う。ようするにすごく知的で、あたかもポップスを解析しました的な文章を書きたくなるんだよ。だけど実は秋元康さんみたいなそのマシーンを作った人の手のひらの上で遊ばされているに過ぎないんだよね(笑)。「どんどん私たちについて語ってください」という罠がそこに仕掛けられているんだ。昔や90年代のポップだったらその罠に対して「フェイクだ」と大声をあげることがあったと思う。それは表は取り繕っていて裏に隠している何かがあったから、声をあげてそれを暴露しようという気持ちになったんだろうけど、いまの日本のアイドル・カルチャーは裏がないんだよね。みんな見せちゃっている(笑)。それに対して何かカッコイイことを書いたと思っている人は多いんだろうけれども、実はそれはパンの残りかすを拾い集めている作業にしか過ぎないんだよね。そういうことを考えると(アイドルについて)一部書いてしまったことは、あーあと思っているね(笑)。自分が罠にかかっていることを肯定しているよね(笑)。

はははは。ずっと日本に住んでいると慣れて忘れてしまっていることもすごくあるので、この本でいくつもの「気づき」があることも僕にとっては興味深く思えたんですね。例えば「日本は独立国ではない」というふうに書いている箇所があって、それは、「アメリカ軍が駐在している国である」ということですね。ここでは、たとえば「反米」という考えが、英米の左翼/右翼のようにはいかないと、当たり前のことなんだけど、なるほどと思ったんですね。そういうことはつい忘れてしまうことであって。みんな日本は立派に独立国だと思っているんだけど、あなたから見れば「じゃあ、なんでアメリカ軍が駐在している?」と。

イアン:取り込んでしまって考えなくなってしまうというのがイデオロギーってやつの一面だよね。今日のインタヴューで「アイデンティティ」ってよく言っているわりには、本のなかではその言葉はあまり使っていないんだけど。いま世界のなかで変化するアイデンティティが問われる世のなかになってきているということから振り返って考えると、こういうことが言いたかったんだなと、いま「アイデンティティ」という言葉が出てきているんだ。この本を書いた3年前にはまだそういう状況になかったということだと思う。
 それでアイデンティティの権化のひとつがまさにアイドル文化だと思っているよ。あのアイドル文化的なものが成功してビジネス・モデルとして日本で成り立っているというのは、まさに帰属意識を煽るからなんだと思う。DJをやっていてもインディ・アイドルとかそういう人たちがいるし、パンク系でもアイドルの人がいたりするようないまの状況を見ていると、僕はDJもやるからそういう人たちの姿もよく見ているんだけど、アイドルの世界においては客との距離感の近さがとにかく極端だよね。しかもインタラクションまでできてしまうし、アイドル・オタクの人たちの動きかたって振付けでもしているくらい同じことをやるでしょ? それを外から見ているとすごく不思議なんだけど、中にいる人にとってはそれが極めて自然なありかたであるんだよね。自然の押しつけみたいなことがそこではなされていて、すごくストレスを感じるんじゃないかなって思うんだけど、どうなんだろうね。ルールがわからない人にとってはやっぱりああいうのは見ていて怖いよね(笑)。入っていけないと思う。でもそのルールに従ってしまえばものすごく居心地がいいんだろうな。
 いまルールがわからない怖さというものを、みんなが自分らしさを探るなかで感じているんだと思う。世界中どこでもツイッターなんかでちょっと変なことを言ってしまったら受信箱にバーッと脅迫状が届くような世界だから、本当に自由に自分らしさを追求できないなかで、なにか「これに従っていれば大丈夫だ」というルールを探す、その末に行きついているのがあのアイドル文化なんじゃないかと思う。
 その居心地の良さというものの魅力もわかることにはわかるんだ。さっきおっしゃったような左/右の伝統的な価値観が日本の現状にはなかなか当てはまらないということにも繋がってくるんだけど、右/左というものにはまり切らないなにか、サブカルチャー的なものが実はこの日本においてすごくメインストリームになっているんだよね。そういう意味では混ざり合っているなにかみたいなところで、僕は本来はそこに居心地の良さを感じるようなタイプなんだけど、そこを切り取ってまた細分化していくようなことがいまの日本では行われているような気がしているんだよ。いまはひとつに絞って「こうだ!」と言うことがなかなか難しい。
 本来のメインストリームというものがすごくわかりづらい遠いものになってしまって、本当はそうじゃなかった日陰の存在がすごくメインストリームなものになっている。あんまりそういうことを言っていると陰謀論みたいに思えるかもしれないね(笑)。すごく売れているものや、社会的にすごく高レベルなものというのがすごく遠いものになってしまってリアルに感じられなくなるなかで、自分のリアルというものはなんだろうと探している人たちが大勢いるという現実があるから、そういった細かいところでアイドル文化的なものに居心地の良さを感じる人もいるし、木製のテーブルのカフェでコーヒーを飲むのが自分の居場所だと思う人もいるし、すごく細かくなっているよね。そこまでしてそういう居場所を探す情熱があるんだったら、インディ・バンドのライヴを観に行ったほうがいいよ。

たしかに(笑)。

イアン:ああいうところには本当に自分の作りたいものを作ろうと頑張っている人が大勢いるわけで、それを支えるということをやったらいいじゃない。そこに自分の居場所を生み出すことができたら、そんな健康的なことないじゃない? 資本主義やビジネスの人たちというのはそこらへんのことがわかっているんだよ。わかりやすいものをポンと投げて、こういう動きが起こっているなというところを嗅ぎつけて、それを商品化していっている。そういうことに異を唱えすぎるとマルクス主義で『赤旗』を配っているんじゃないかって思われるかもしれないけど(笑)。僕もコピーライターをやっている人間なので広告の仕組みはわかっているから、「“I am MUJI」じゃないけどね。「“I am MUJI」ってお前が言うなって話で、人から言われることじゃないような押しつけがいっぱいあることはわかっているから、いわゆる本当にその人が好きでこれがリアルなんだって追いかけていたものを後ろからビジネスが追い抜いて、「はい、これがトレンドですよ」って出してくる仕組みの権化がまさにアイドル・カルチャーだと思うんだよね。あそこまでオープンにフェイクなものを認める社会があって、それがいまの彷徨えるアイデンティティ的な現象のシミュレーションなんじゃないかって思うんだよね。

結局のところ、きゃりーぱみゅぱみゅが表現する自由っていうのは、「好きなものを買える自由だ」ってことを書いてるけど、昔から日本は消費するのは得意だけど生産(創造)することに関しては苦手という意見があるんですよ。

イアン:逆に音楽の世界では作るのが苦手というのは違うと思うな。少なくとも音楽業界においては、作っている人が大勢いて、買う人のほうが少ないですよね(笑)。作る人間が多すぎる! もっと聴いて!

そうだね(笑)。それは見かたの違いですね(笑)。

イアン:(『バンドやめようぜ!』を取り出しながら)そういうときにこれだよね。「バンドの数が多すぎるから、お前はやめろ!」っていうのもひとつの解釈だよね(笑)。でもこの「やめろ!」というのは決して命令ではなくて、逆にこっちから挑んでいる問いかけなんだよね。「やめるだけの勇気が君にはあるか?」ってね。

「やめられないだろ?」って意味だよね。

イアン:これを括弧のなかに入れるとみんなに言われている気がするよね。音楽だけじゃなくて社会においても「やめちゃえばいいじゃん」って声がどこからも聞こえてくる感じね。

最後の質問にしますね。影響を受けたライターを教えてください。

イアン:インタヴューでミュージシャンがよく影響を受けたバンドについて聞かれているじゃない? そこであんまりはっきり言わない人が多いことに「なんで言わないんだよ」って思っていたけど、結局コピーしていることがばれるのが嫌だってことだよね(笑)。いまそういう立場になってわかった(笑)。

はははは。

イアン:実は音楽批評はあまり読まないんだ。子どもの頃はよく『メロディ・メーカー』を読んでいたから自分のなかに入ってはいるんだろうけど。僕がとても若いころに影響を受けたのはダグラス・アダムスだね。彼はコメディを書く人だからおもしろい言い回しというか、わざと小難しい言葉を重ねて文章を構築する人なんだよね。モンティ・パイソンや70年代のコメディに通じるようなおもしろさの人だね。スチュワート・リーというコメディアンがいて、彼はスタンダップ・コメディもやるんだけど作家でもあって、ちょっと保守的な表現をする人なんだよね。そこからもけっこう影響を受けているんだろうな。書きかたについてもそうだし、「コメディとは?」というような本を書いているんだけど、彼のコメディ観みたいなものを音楽に当てはめて考えてもおもしろいなと思うような発想をくれるんだよね。もちろん書くことにも応用の効くような発想だったし、スチュワート・リーはアートの作りかたみたいなものの発想自体がすごくおもしろいんだ。日本語になっているものがあるかどうかはわからないけど、そもそもがスタンダップ・コメディアンということもあるからね。イギリスのコメディというのは作品が出回っているということでは狭い世界かもしれない。
 音楽の本で影響を受けたのは、Artemy Troitskyというロシアのジャーナリストが書いた『Back in the USSR:The True Story of Rock in Russia』(1988)。これはソヴィエトのロック史を彼自身の経験を織り込みながら絶妙に描いた本で、今回の執筆において大いに助けられました。

 

※ちなみに、「QUIT YOUR BAND!」の直訳は「バンドをやめろ!」で、原題は「CLAP YOUR HANDS」とか「KILL YOUR IDLE」など英文でよく使われる「●●YOUR●●」の言葉遊び。

ハテナ・フランセ - ele-king

 みなさんボンジュール。前回のエレクトロニック・ミュージックに続いて、ここ数年フランス音楽市場の最重要ジャンルとなっているフレンチ・ヒップホップについてお話したく。
 日本にはほとんど入ってくることはないが、90年代初頭からラップはフランス音楽市場で重要な位置を占めてきた。第一世代にはポエティックなMCソラー、フランスのもっとも柄の悪い港町マルセイユのIAM(アイアム)、映画「憎しみ」で有名になったパリ郊外のゲットー、サン・ドニのNTM(エヌテーエム)などがいた。フレンチ・ヒップホップのフロウはもちろんフランス語。そしてスラングを多用しているのでフランス語圏から外に出ることは滅多にない。だが、最近ではStromae(ストロマエ)がイギリスやアメリカでも若干話題になり、コーチェラに出演したこともあった。Stromaeは厳密にはベルギー出身なのだが、フロウはフランス語だしフランス人にとってはベルギーはほぼほぼフランス。なのでStromaeはフレンチ・ヒップホップと認識されている。
 そのStromaeに続いて2017年にコーチェラにブッキングされたのがPNL(ペーネヌエル)。兄Ademo(アデモ)、弟N.O.S(ノス)からなるアラブ系の兄弟2人組は、パリ郊外のレ・タルトレというフランス有数のゲットー団地出身。2015年3月にファーストEP ”Que la famille”(ファミリー・オンリーの意)をリリースし、程なくイタリア・マフィア、カモッラの本拠地スカンピアで撮ったクリップ”Le Monde Ou Rien”を公開。
 

「天国へのエレベーターは故障中? じゃ、階段でヤク売るわ」とゲットーでのドラッグ・ディーラー生活を極端なオートチューンに乗せて歌い、タイトル通り「世界制覇かゼロか」と高らかに宣言。その言葉通りフランスはあっという間に制覇した。そしてコーチェラを足がかりにアメリカにも上陸せんと目論んだが、その野望は逮捕歴のある兄Ademoにヴィザが下りなかったことによりあっけなく頓挫した。PNLのトラブルはそれだけではない。2016年6月にはセカンド・アルバムから先行して発表されたトラック”Tchiki Tchiki”のMVが1ヶ月もしないうちにYoutubeから削除されたのだ。坂本龍一の”Merry Christmas Mr. Lawrence"をサンプリングしたこの曲のMVは日本で撮影された。だがサンプリングの権利処理をきちんとしていなかったようで、結局御蔵入りとなってしまった。日本で撮影する手間を惜しまないならクリアランスくらいちゃんとすればいいものを...。これらを不遜ゆえの不手際ととるのか、DIYゆえのリスクと取るのか。どちらにしろPNLへのフランスのオーディエンスによる支持は現時点では揺らいでいない。
 その点フレンチ・ヒップホップ界きっての男前Nekfeu(ネクフュ)は、ストリート感やDIY精神はありながらもチンピラ臭はぐっと低め。2007年ごろからS-crewと1995、そしてその2つが合体した13人の大所帯l'Entourage(ロントゥラージュ)といったヒップホップ・クルーで活動を開始。2014年には早くもl'Entourageでパリの殿堂オランピア劇場をソールド・アウトにする人気を博した。2015年にメジャー・レーベルから満を持してリリースしたソロ・アルバム『Feu』が30万枚のセールスを記録し、その年のフランス版グラミー賞、Victoire de la Musiqueを獲得。メジャーで契約しつつも、活動初期からS-crewの仲間とレーベルSeine Zoo Recordsを立ち上げレコーディングからMVの撮影まで自前でこなしている。Seine Zoo Recordsの仲間と勝手に日本に行ってMVを撮影したり、なぜかクリスタルKと一緒にレコーディングしたりするものだから、状況や背景がよく理解できないメジャー・レーベルの担当者はすっかり振り回されて参っているようだ。

 クリスタルKをフィーチャリングしたこの”Nekketsu(熱血)”はセカンド・アルバム『Cyborg』に収録されている。パパへのリスペクト、ママンへのアムールを歌い、自らをドラゴンボールの悟空にたとえ、神龍を呼び出そうと念じたりしている。そのドラゴンボールを始めとする少年漫画はNekfeuの重要なバックグラウンドといえるようだ。S-crewの”Fausse Note”では「東京喰種トーキョーグール」の金木研に扮して「歪んだ音こそビューティ。俺たちがスタンダードを変えてやる」と息巻いている。

 そんなラッパーらしい俺様アティテュードの一方、フランソワ・リュファンの立ち上げた政治運動「Nuit Debout(夜、立ち上がれ)」でゲリラ・ライヴを敢行するするなど政治的グッド・ボーイな面も持ち合わせている。9月にはフランス映画界の至宝カトリーヌ・ド ヌーヴと共に主演を張った映画「Tout nous sépare」も公開され、オーバーグラウンドでの活躍は増す一方だ。
 ドラゴンボールが歌詞の中に登場するのはNekfeuだけではない。”Makarena”が2017年夏のアンセムの1曲となったDamso(ダムソ)もその一人。

”Makarena”で浮気な彼女への恨みつらみをメロウに(でも下品に)歌っていたのとは一転、”#QuedusaalVie”では自分がいかにヘンタイ(フランス語でエロマンガのこと)でバビディ(ドラゴンボールの悪役)のように悪辣かを、フランス版Fワード゙満載で歌っている。Damsoのような超マッチョ系バッドボーイ(男尊女卑ゲス系とも言う)ラッパーは、男女を問わず中高生を中心としたフランス中のコドモたちに人気だ。12歳の女の子が学校に向かう道すがらDamsoを口ずさんでいるのを同じクラスの子が軽蔑の眼差しで見ていたりする。そんな両極端が共存しているのがフランスのヒップホップを巡る現状だ。
「はーい、今から基本的なこと言うよ。じゃないとお前らクソバカはわからないからね!」と、Damsoとは別のベクトルで振り切ったイントロで度肝を抜くのはOrelsan(オエルサン)。

 OLさんをそのままアルファベットにした奇妙なMCネーム(本人談だが真偽のほどは不明)を持つこのラッパーは、毒舌フロウとポップで先鋭的なビートで日本でいうとDotama的立ち位置というとわかりやすいだろうか。
「よく知らない人と子供作っちゃダメ。政治家が嘘つくのはそうしないとお前らが投票しないから。あ、あとイルカはレイプするからね、見た目に騙されないこと」。
 サード・アルバムの先行シングルとなった「Basique(基本)」は、その他のラッパーとは一線を画したクリエイティヴなMVも相まって大ヒット。新陳代謝の激しいフレンチ・ヒップホップ界において、35歳、6年ぶり、サード・アルバム、と重なるネガティヴ要素を物ともせず、『La fête est finie』はリリース1週間でプラチナ・アルバムに認定された。そんなフレンチ・ヒップホップ界のスター、Orelsanは「ワンパンマン」のサイタマ役声優をしたり、アルバム・ジャケットで忍者の格好をして満員電車に乗ってみたりと日本愛がダダ漏れの様子。彼の日本贔屓への好感度は別にしても、今回紹介した中でもっともフランス語がわからなくても楽しめるサウンドだろう。よければ一度チェックしてみてほしい。

BS0xtra with V.I.V.E.K - ele-king

 急な話ですが、今週の12月13日(水曜日)、ロンドンからダブステップのプロデューサー、V.I.V.E.Kが来日。これは、ブリストルを中心としたサウンド&カルチャーをここ東京に浸透させるべく始動した〈BS0〉の番外編〈BS0xtra〉(CHART参照)のゲストとしての来日になる。
  V.I.V.E.Kは、レーベル〈SYSTEM〉を主宰、サウンドシステム・カルチャーの視点からUKダブ/ダブステップをプレイする、現シーンの重要人物のひとり。いまアツい注目を集めている彼が、CONTACTのシステムをどう震わせるか、迎え撃つレギュラー陣が作り上げる空気とともにお楽しみください。

BS0xtra with V.I.V.E.K
at Contact Tokyo (Shibuya)
Wednesday 13th December 2017
9pm - 4am
¥1,500(w/1drink)

Facebook event page:
https://www.facebook.com/events/1991206010905951/

Guest:
V.I.V.E.K (SYSTEM, UK)
DJs:
DADDY VEDA (Antidote Concilium)
KILLA
Mars89 (Noods Radio Bristol / Radar Radio London)
NullDaSensei (TwinFox / NightVision)
OSAM GREEN GIANT (Soi Productions)


■V.I.V.E.Kプロフィール

 ダブステップ・サウンドにおいて、140bpmで制作された豊かな音楽の遺産に敬意を表しながらジャンルを推進していると賞されるアーティストは数えるほどしかいない。V.I.V.E.Kという別名で知られるヴィヴェク・シャルダは、そんなアーティストの中のひとりである。彼は、ダブステップのテイストメイカーや影響力のある人々の小さなグループの中で揺るぎない存在と言える。
 その音からも分かるように、V.I.V.E.Kは自身のインド人としてのルーツと、ドラム&ベースやダブをプロデュースしていた00年前後の初期の経験を基にした、豊かで多様なバックグラウンドを持つ。07年に〈On The Edge〉からダブステップの作品でデビューして以降、ダブステップのジャンルの中で最も尊敬されるレーベル〈DEEP MEDi〉〈Tectonic〉そして最も最近では〈SYSTEM MUSIC〉を通じ、アンセムを連発してきた。それらのリリースは、自身が受けてきた音楽的影響を組み合わせて、鋭い中域、軽快なスネア、重いローエンドの轟きを特徴とするサウンドを形成する能力を、レーベルがどこであれ示している。本当に美しい、メロディックな存在感は言うまでもなく。
 彼の音楽に加え、ロンドンに拠点を置くこのプロデューサーは、尊敬されるイヴェント・プロモーターとして、ダブとダブステップへの愛をカスタム・ビルドのサウンドシステムで融合させる。ピュアなサウンドと、とてつもない重低音を両立させる明確な努力を積み重ねてきた。英国内外で100%ダブステップのラインナップが消え、“ダブステップ”という用語が商業的な雑音と結びついている昨今において、〈SYSTEM〉はオリジナルのダブステップ・サウンドのファンのためのイヴェントへとステップアップした。 現在、〈SYSTEM〉と〈SYSTEM MUSIC〉はベースミュージック界で最も即座に認識されるブランドとなった。デビュー・リリース以来、V.I.V.E.Kが140bpmの音楽にどれだけの影響を与えたのか、これはその例のほんの2つにすぎない。彼は正にインスピレーショナルな看板役であり、他のプロデューサーがキャリア全体でするようなことを、たった7年で成し遂げている。

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Visionist - ele-king

 2015年に〈パン(PAN)〉から発表されたヴィジョニスト(Visionist)=ルイス・カーネル(Louis Carnell)のファースト・アルバム『セーフ(Safe)』は、UKグライム・カルチャーをベースにしつつ、インダストリアルとヴェイパーウェイヴ的なサウンドを拡張させたかのようなアルバムであった。すでに2年前のアルバムだが、今もって不思議な存在感を放つ作品である。じっさい当時のインダストリアルやエクスペリメンタルの潮流においても透明に輝く石のような異物感を称えていたように思う。ジャンルの共通事項に収まりがつかない作品だったのだ。
 そして2017年、ハイプ・ウィリアムス(Hype Williams)の賛否両論となった復帰・新作『レインボウ・エディション(Rainbow Edition)』をリリースした〈ビッグ・ダダ・レコーディング(Big Dada Recordings)〉からヴィジョニストの新作『ヴァリュー(Value)』が発表された。この2年ぶりの新作でインダス/ヴェイパーな要素は解体され、ノイズとクラシカルな成分で混合されたサウンドが全面的に展開されている。暴発性と折衷性と優雅さが同時発生しているエレクトロニック・サウンドとでもいうべきか(折衷という意味では、リー・ギャンブルの新作『マネスティック・プレッシャー』に近い)。
 アートワークはカニエ・ウェスト(Kanye West)の『ザ・ライフ・オブ・パブロ(The Life Of Pablo)』のアートワークを手がけたPeter De Potterが担当している。

 宗教歌のような澄んだ声が、こま切れにエディットされ電子ノイズのなかに掻き消されていく1曲め“セルフ-(Self-)”からアルバム世界に引き込まれる。そこからシームレスにつながる2曲め“ニュー・オブセッション(New Obsession)”では、ガラスが砕け散るような猛烈なノイズとインダストリアル・ビートが天空の歌声のごとき澄んだヴォイス・サウンドにレイヤーされ天国と地獄が記憶の中に再現されるような感覚を覚えた。そして一転して静寂な楽園を思わせるクラシカルな3曲め“オム(Homme)”、脳内に蠢くネットワークのごとき神経的なノイズから讃美歌のようなヴォイスへと展開する4曲め“ヴァリュー(Value)”と、アルバムは螺旋階段を描くように展開する。
 このアルバムはノイズとクラシカルという両極を統合しようとしているのではないか? などと思っていると、5曲め“ユア・アプルーヴァル(Your Approval)”ではヴォーカル曲が披露される。ノイズと人間の統合。人間の(再)承認。破壊と再構築。ヴァイオレンスとエレガンス。ノイズとクラシカル……。このアルバムでは相反する概念や現象が互いに衝突している。だからこそピアノの悲しげな音色と激しい音色のビートとが交錯し、相反するふたつの極が離反・統合されていく6曲め“ノー・アイドル(No Idols)”が本アルバムを象徴するトラックなのであろう(MVも制作されたのだから)。

 楽園のように静謐な7曲め“メイド・イン・ホープ(Made In Hope)”を経て、8曲め“ハイ・ライフ(High Life)”では空へ上昇するようにヴォイスと電子音が交錯する。そしてこのトラック以降、アルバムのムードはやや変わってくる。まるで天国への昇天を希求する音楽のように、前半と中盤で交錯されてきた(対立と融合を繰り返してきた)ノイズとクラシカルな要素が統合されるのだ。
 ゆえにアルバムは、涙の雫のようなピアノ、シンセ・ヴォイス、微かなノイズに、激しい電子ノイズがレイヤーされ暴発したかと思えば、それらすべてが消え去ってしまうラスト曲“インヴァニティ(Invanity)”で終焉を迎えるのだろう。ふたつの音=極が統合される。その先にあるのは人間性の再承認か。その価値の再創造か。

 ノイズとクラシカル。ふたつの対立が統合され、融解し、昇天し、消失する。どこか弁証法的なアルバム構成であり、一種のコンセプト・アルバム(なんという20世紀的表現!)にも思えるが、「物語」よりも「不穏化していく世界」に対する存在論的な問題の方が表面化している点が21世紀初頭的だ。ポスト10年代(来るべき20年代!)の行方を模索するサウンドのように感じられる。
 本作には2010年代のインダストリアル/テクノ以降の「ネクスト」が潜んでいる。もしくはワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(Oneohtrix Point Never)『ガーデン・オブ・デリート(Garden Of Delete)』以降の「世界」への予兆に満ちている。電子ノイズに託される「世界への不安」の意識。それに抵抗する「個」の生成。それゆえの「情動」の発生。引き裂かれる「個」の存在。『ヴァリュー』は、その名のとおり「人間」の価値を再定義するかのようなアルバムだ。人間の終焉から人間の再承認へといった具合に。
 このアルバムからはインターネット環境化において自我がバラバラに分断され、日々、不安と不穏とに苛まれている2010年代後半を生きているわれわれ人間にむけてのメッセージが「暗号」のように発せられているように思える。われわれはそろそろ「インナースペースの病」から脱して「新しい地球地図」(ネオ・ジオ?)を描くときが来ているのかもしれない。

Matthew Herbert Brexit Big Band - ele-king

 先日、ブルーノートで行われたマシュー・ハーバートのライヴに行ってきた。銃弾の音や豚の生活音、コンドームの擦れる音まで、様々な音をサンプリングして楽曲制作することで知られるハーバートだが、今回のテーマは、Mathew Herbert Brexit Bigbandという名前の通り、「ブレグジット」だ。
 “イギリス(Britain)”がEUを“抜ける(Exit)”から“ブレグジット(Brexit)”──EU残留か離脱かを問う国民投票を行うとキャメロン前首相が発表したその数日後、新聞の見出しにあったこの語を見た時は、ずいぶん適当な造語だなと思ったものだが、結局、この語の名指す出来事はイギリスを大きく揺るがすこととなる。国民投票の結果、離脱派が勝利し、ブレグジットは現実のものとなったからである。
 世界中がこの前代未聞の政治的出来事に注目した。ブレグジットに向け、イギリス政府は今も活動中である。そんな政治的出来事をいったいどうやって音楽に落とし込むというのか? 全く予想がつかない。
 初めてブルーノートにコンサートを聴きにいくということで、「ドレスコードはあるのだろうか」とか細かいことばかり気にしながら、一応襟のついたシャツを着て会場に向かう。

 ビッグバンド編成だったが、演劇の舞台を見ているようでもあった。プロットがしっかりあって、曲ごとに登場人物の顔が見える。
 たとえば3曲目。冒頭でメロディを担うサックスやトランペットの奏者が、イギリスのタブロイド紙『デイリー・メール』を破いた。それを破いた音とともにゆったりとスウィングが始まる。
 『デイリー・メール』とはイギリスで発行されている大衆向けの新聞で、エロ情報が必ず載っている(紙面をめくると割と早い段階で薄着のセクシー姉ちゃんが出てくる)。
 EU残留派支持にはミドルクラスの知識層や左派の学者が多く見られたが、彼らはその大半が『デイリー・メール』に書かれていることなど読むに値しないと考えていた(以前、政治討論のテレビ番組で、レフトアクティビストが、的外れな発言をするインタヴュアーに向かって「This is Daily Mail!」と言い放ったのをみたことがある)。
 今回離脱派に入れた人びと、つまり『デイリー・メール』を読んでいるような人びとのことなど気にとめる必要などない……そんなミドルクラスの雰囲気を表現しているかのような曲だった。実際、残留派の人びとは「ブレグジットなど起こるわけがない」と静観していた。彼らはEUに不満を抱く人びとの声に耳を傾けることはなかった。

 4曲目、勢いよくブラス隊がかき鳴らすマーチのリズムに乗って、ボーカルのRahelが「take a step(一歩前へ)」「yes!yes!」と歌う。まるで聞こえのいい言葉でアジテーションしていくポピュリストたちの喚声のようだ。『デイリー・メール』を破いた前の曲が、大衆の声に耳を傾けることなく高みの見物をしていた残留派知識層を象徴していたとすれば、この曲は、日々の生活に不満を抱く人びとに向けられたポピュリスト政党のメッセージをモチーフにしたかのような音楽だ。
 曲を聴きながらある人物を思い出した。離脱派のEU議会議員、UKIP(イギリス独立党)党首のナイジェル・ファラージだ。彼は、EUを出てシングルマーケットになるメリットと、EU向けに使っている予算を国内の福祉に回すことができるということをいい 、離脱支持層を集めた。しかし、国民投票で離脱派勝利の数日後、ファラージはEUに払っていた予算を国内に回す事はできないと述べた。EU議会でファラージは他の議員たちに「You lied(あなたは嘘をついた)」と非難され、EU議員を辞職している。歌詞に出てきた「naughty sounds, naughty sounds」とは彼が言った、人びとに都合のいいような、甘い嘘のことなのかもしれない。

 5曲目で、ハーバートは自分の首にサンプリング機械をあてる。音楽ではリズムの速度を示すBPM(Beat Per Minute)という言葉は、医学では心拍数という意味で使われる。マシューの脈がうつビートと同時に、曲が始まる。彼の心拍数と曲のリズムが交差し、時々ずれながら、ヴォーカルのRahelが歌い上げる

You need to be here
あなたはここにいる必要がある

 ここでいうhereはEUではないだろうか。儚げに歌い上げる声に、まだ投票権を持たず、EUからの離脱に反対するティーンエイジャーの姿を重ねてしまった。EUの特徴に「EU加盟国間では、人、物、サービス、および資本がそれぞれの国内と同様に、国境や障壁にさらされることなく、自由に移動することができます」というものがある。例えば、スーパーでスペイン産の生ハムや、フランス産のパンなど、国内で作ったものと同程度の価格で購入できる。あるいは、イギリス人が就労ビザなしでイタリアやベルギーで働くことができる。
 EU内ではどこにでも行くことができるのだ。将来、子どもたちが享受できたはずの、暮らしたい街や働きたい場所を自由に選ぶ権利は、EU離脱によって狭まれてしまう。ハーバートの心拍の音は、音楽のリズムと時々重なるものの、ずっとズレを伴っている。このズレは、EUに留まりたいと思う子どもたちが、その気持ちを政治的に表現する権利を持たないことのもどかしさを表現しているかのようだった。

 6曲目ではタイプライターを打つ音をサンプリングし、それがすぐにビートに変えられる。ハーバートはドナルド・トランプのお面をかぶる。なぜブレグジットでトランプのお面だったのか。UKIPのナイジェル・ファラージはトランピスト(トランプ支持者)だそうだが、ここでの直接的な関わり方はわからなかった。
 エントランスで「ドナルド・トランプへのメッセージを紙に書いて、それを紙ひこうきにして、ステージに向かって飛ばす準備をしてください」というメッセージと色折り紙をもらった。それをトランプ扮するハーバートに向けて投げる。その紙飛行機は、ほとんどがステージに届かず客席に舞うだけだが、演奏をしながらハーバートは時々それを拾っては投げ返す。ツイッターが現実世界に可視化されるとすればこんな風だろうかと、演奏を聴きながら会場で起こったパフォーマンスに驚いてしまう(ちょうどブルーノートでライヴが行われた日、本物のドナルド・トランプが来日していた日だった)。
 2人目のお面は誰だかわからなかったのだが、3人目のお面はロンドン元市長のボリス・ジョンソンだった。ブレグジットキャンペーンで、ボリス・ジョンソンは離脱派として活動した。離脱派が勝利し、キャメロンは首相を辞任。その後、ボリス・ジョンソンは外務大臣として内閣入りしている。

 終盤、ハーバートは会場にいるオーディエンス全員の声をサンプリングして演奏に使う。曲のなかでは「we want to be human」と歌われる。残留か、離脱か。この選択を迫られたイギリスの人びとは、それぞれが抱える個人の生活、そして自分たちの社会のために、自分がいいと思った選択をしただけだ。離脱派も残留派も“人間らしくありたい”という点では同じである。

 最後の曲になった。曲は“The Audience”。歌詞の一部を引いてみよう。

Though the ending is not here
We are separate we are one
The division has begun
You are my future I am your past
Even music will not last

So move with me
With me removed

You and us together 
Together in this room
You will not remember
This passing moment soon

終わりだがここにはない
僕らは別れていて、僕らはひとつだ
分断が始まっている
君は僕の将来で、僕は君の過去だ
音楽でさえ続かないだろう

だから僕と一緒に行こう
僕抜きで

君と僕らは共に
この部屋に一緒にいる
君はいずれ忘れてしまうだろう
すぐ過ぎ去ってしまうこの出来事を

 このコンサートの2日前、DOMMUNEのインタヴューでハーバートは、シニア世代と若者世代のブレグジットに対するイメージのギャップについて話をしていた。もしかしたらここで出てくる「you(君)」は、EUを出た後のイギリスで、若者たちよりも先にいなくなってしまうシニア世代ことかもしれない。この曲を作った当時、ハーバートはブレグジットのことなどまったく考えていなかったに違いないが。
 離脱派も残留派も、結局はイギリスという同じ部屋にいる。“The Audience”はブレグジットの文脈で聞くととても悲しい曲に聞こえる。
 ブレグジットはおそらく、イギリス史に残る出来事だろう。しかし、歴史という大きな文脈のなかで、その時代を生きる大衆の意見は大きな出来事の影に隠れてしまう。ニュースで流れてくる政治の出来事や事件は、日々の生活に忙殺され、少しずつ忘れられていく。
 DOMMUNEの対談で、BBCの音響技師だった父親について質問を受け、ハーバートは、「ニュースを1枚のレコードにする作業が印象的だった」と答えていた。ハーバートは、ブレグジットを1枚の楽譜(スコア)にした。彼の父親がニュースをレコードにプレスしていたように、彼の楽曲はブレグジットについて皆がそれぞれの立場で語っていたことを記録している。ブレグジットが後に史実として歴史の教科書に登場するときには忘れ去られてしまうであろう人びとの声を忘れないために。

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