「iLL」と一致するもの

John Cage, Apartment House - ele-king

 実験音楽や即興を中心とする英国のレーベル、〈アナザー・ティンバー〉が2021年8月にリリースした4枚組ボックス・セット。当時75歳のジョン・ケージが1987年から亡くなるまでの1992年に取り組んだ最晩年の楽曲群『Number Pieces』全43曲のうち、“Four”から“Fourteen”までを英国の現代音楽アンサンブル・グループ、アパートメント・ハウス (Apartment House)が演奏している。このボックスセットに収められているどの曲も基本的に音の引きのばしでできているので、なんとなく聴いている分にはとりとめのない印象だ。実際、どのトラックを再生しても、そこから聴こえてくるのはなんらかの楽器の音が放つ、ただまっすぐな響きとその重なり合いのみである。これらの曲を「ドローンのような」と表することもできないわけではないが、現代音楽の精鋭たちが奏でるこの一様なテクスチュアには思いのほか深い意味が込められているらしい。

 ケージの『Number Pieces』はそれぞれの曲のタイトル、つまり数字がその曲を演奏する人数を表している。例えば“Five”は5人で演奏する曲だ。“Five2”の場合は“Five”シリーズの2番目の曲を意味し、同じく5人で演奏する。しかし、編成については曲ごとに若干の違いがある。“Five”は演奏楽器が指定されておらず、5人の奏者であればどんな楽器で演奏してもよいし、声でも演奏できる。このボックスセットで“Five”はディスク1の1曲目に収録されており、ヴィオラ、アコーディオン、コントラバス、ファゴット、バス・クラリネットによるアンサンブルが演奏している。対して“Five2”(ディスク1、2曲目)には風変わりな5重奏−コールアングレ、クラリネット2人、バス・クラリネット、ティンパニ−が指定されている。個々の楽曲の編成についてケージは意図を明確にしていないが、おそらく彼はあまり慣習的ではない編成が生み出す新鮮な音の響きを期待していたのだろう。
 『Number Pieces』シリーズにとって、数 (number)は曲のタイトルだけでなく曲の構成や演奏方法にも深く関わる重要な要素だ。1981年頃にタイム・ブラケットという作曲技法を考案したケージは、この技法を『Number Pieces』シリーズに用いた。タイム・ブラケットは時間の長さを括弧などで囲って区切ることを意味する。例えば60分にもおよぶディスク4の2曲目“Eight”のトランペットのパートには、F#の音の両端に8’05” – 8’35”と8’25” – 8’55”のタイム・ブラケットが書かれている(Illustration 1参照)。この場合、左端のタイム・ブラケット、8’05” – 8’35”に従い、曲が始まってから8分5秒~35秒までの間にF#の音を演奏する。そして、そのF#は右端のタイム・ブラケット、8’25” – 8’55”に従って8分25秒から55秒の間に終わらせる。演奏者はストップウォッチを見ながらタイム・ブラケット内でのタイミングを計る。基本的な決まりはこれだけである。タイム・ブラケットの範囲内であれば、その音を長くのばしてもよいし、逆に短めに鳴らして終わることも可能だ。音の強弱や抑揚といった音色にかかわる要素も特定の指示がない限り演奏者に委ねられている。演奏する人数が多ければ多いほど、つまり“Five”よりも“Six”や“Seven”の方が多層的な音の響きを生み出す。その様子をケージが愛したきのこに例えるならば、演奏者が多いほど音の胞子も広範囲に散らばり、絶えず色々な音が鳴り響いている状況が展開される。アパートメント・ハウスのメンバーの人数の都合から、このボックスセットに収録されているのは“Fourteen”が最大人数の楽曲だ。他の『Number Pieces』シリーズの楽曲を見てみると、オーケストラのための“108”(1991)という大きな編成もある。
 タイム・ブラケット自体のルールは単純だが、より多様な音響を引き出すためにケージは演奏指示をいくつか記している。ディスク1の5曲目“Five3”とディスク3の5曲目“Ten”は、通常の調律よりも狭く分割された微分音で演奏するよう指示されている。こうすることで曲全体が十二平均律とは違った響きを生み出す。アパートメント・ハウスの演奏者たちはこの指示にしっかりと応じており、普段のチューニングとは違った響きを聴かせてくれる。
 トランペット、シロフォン×2、ヴァイオリン×2、チューバ、ヴィオラ、チェロ、ファゴット、オーボエ、クラリネット、フルート、トロンボーンの13人の奏者で演奏されるディスク3の5曲目“Thirteen”も特徴的な曲だ。基本的にタイム・ブラケットが指示するのは単音のひきのばし(ピアノ等の鍵盤楽器の場合は和音も含まれる)だが、“Thirteen”ではタイム・ブラケットのひとつのシステムに複数の音符が記されている(Illustration 4参照)。このような箇所では記された全ての音を順番に演奏しなければならず、音が1つの音から次の音へと移っていく。静止した印象を与える他の曲と違い、“Thirteen”には音の動きやゆらぎをはっきりと感じ取ることができる。
 タイム・ブラケットをはじめとして、単純な仕組みやルールが柔軟に作用して思いがけず豊かな音の響きや効果を生み出すケージの晩年の記譜法は「耐震構造(earthquake proof)」に喩えられている。『Number Pieces』の場合、タイム・ブラケットが強固な基盤や土台として機能し、その内部で可変的な音の世界が繰り広げられる。
 『Number Piece』シリーズでケージは「アナーキーなハーモニー」という概念を打ち出し、実践した。西洋音楽におけるハーモニー(和声)は、調性システムの上に成り立ち、それぞれのコード(和音)が特定の役割や機能を持つと考える。トニック(主和音)とドミナント(属和音)という名称からわかるように、機能和声といわれる和声体系のなかでは、和音と和音との関係は階層関係や主従関係にある。このような関係性のなかで和音を配置してひとつの流れを作ることを和声法という。ケージはこの慣習的な和声の考え方に対して若い頃から反発していた。まだ20代だった彼に和声法を教えていたアルノルト・シェーンベルクは、ケージには和声の感覚がなく、このまま彼が作曲を続ければ、やがて大きな壁に直面するだろうと指摘した。これを受けてケージは壁に頭を打ち付けた。この有名なエピソードは伝統的な和声、さらにいえば伝統的な音楽の慣習や規則に対するケージの態度を象徴している。以来、長きにわたってケージの音楽に和声の要素は希薄だったが、晩年にさしかかった彼は独自の和声概念「アナーキーなハーモニー(anarchic harmony)」にたどり着く。
 「アナーキーなハーモニー」の「アナーキー」は辞書通りに、中心や階層関係のない無政府状態や無秩序を意味する。「ハーモニー」は音楽用語としての和声や音の響きと、事物が混ざり合って調和した状態のふたつの意味を持つ。『Number Pieces』のそれぞれの曲がタイム・ブラケットの範囲の中で様々な音を奏でる。高い音、低い音、金管楽器の音、打楽器の音、短い音、長い音、微かな音、力強い音など、様々な音がタイム・ブラケットという共通の場に集う。そこには機能和声に見られる階層構造も主従関係もなく、ただ音が鳴り響く。このような音の重なり合いをケージは「アナーキーなハーモニー」と呼んだ。アナーキーなハーモニーが提示するのは音楽に限ったことではなく、ケージは理想的な社会のあり方をこのハーモニーを介して追求しようとした。1988年に行われた講演で、ケージは音楽の演奏が望ましい社会の姿を描く可能性について語っている。

 音楽が他の芸術と違うのは、音楽がしばしば他者を必要とすることだ。音楽の演奏は公共や社会的な場である。したがって、なんらかの曲を演奏することは社会のメタファーになりうるし、私たちが望む社会の姿を演奏に反映させることもできる。現在、私たちはよい世界に生きているとは言えないが、私たちが生きたいと願っている世界を投影した曲を作ることができるだろう。これは文字通りの意味ではなくて喩え話だ。楽曲を、あなたたちが生きてみたい社会の表象と見なすことだってできるはずだ。
(John Cage, I-VI, Cambridge: Harvard University Press, 1990, pp. 177-178.)

 音楽を公共的な芸術と考えていたケージにとって、誰かと誰かが共に音を奏でる行為は社会的な行為に他ならない。指揮者とオーケストラとの関係のように、慣習的なクラシック音楽の制度も社会のあり方を反映しているが、ケージが目指したのは中心点のないアナーキーな社会だった。『Number Pieces』では、演奏者はタイム・ブラケットの基本的なルールを守っていれば、音を鳴らすタイミングや音の長さを自分で決めることができる。もちろん、他の演奏者と無理に足並みを揃える必要もない。誰かと音のタイミングを合わせたい場合は、隣の人とアイコンタクトを取ることができる。社会には単独行動が好きな人もいれば、誰かと一緒に行動したい人もいる。アナーキーな社会ではどちらも受け入れられる。自分と違った考えや方法を排除せず、異質な要素の混ざり合いがすばらしい効果を生むことを期待する。曲が演奏されているほんの束の間かもしれないが、アナーキーなハーモニーによって、私たちはケージが目指した社会の姿を疑似体験しているのである。このように考えながら再び演奏を聴いてみると、次々と現れては消えていく数々の音がとても興味深い現象として聴こえてくる。
 プロデューサーのサイモン・レイネルは、アパートメント・ハウスのメンバーと編成や演奏方法などを協議しながら録音を進めていったとライナーノーツに書いている。このボックセットはCovid-19による様々な制限のさなか、2020年8月から2021年5月の間に録音が行われた。演奏者たちが顔を合わせることができず、やむをえず別々に録音し、ミックスの過程でそれぞれの演奏を一体化させた曲も数曲含まれている(それがどの曲なのか明かされていないが)。この類の音楽は、曲の特性や演奏技術だけでなく、その音楽が提示する問題意識を演奏者と聴き手がどれほど共有できるかも大事だ。アパートメント・ハウスが聴かせる音の響きに私たちは何を聴き取り、想像するだろうか。

talking about Black Country, New Road - ele-king

 昨年話題になったブラック・ミディも、そしてブラック・カントリー、ニュー・ロード(以下、BC,NR)も、望まれて出てきたバンドというよりも、自分たちから勝手に出てきてしまったバンドだ。いったいどうして現代のUKの若い世代からこんなバンドが出てきたのかは、正直なところ、いまだによくわかっていないけれど、とにかく突然変異が起きたと。で、そのひとつ、BC,NRという7人編成のバンドのセカンド・アルバム『Ants From Up There』について語ろう。なぜなら、これをひとことで言えば、圧倒的なアンサンブルを有した感動的なアルバムで、アイザック・ウッドの歌詞は注目に値するからだ。

野田:今日はディストピアで暮らしている木津君相手だし、ビールを飲みながら話すよ。で、ブラック・カントリー、ニュー・ロード(以下、BC,NR)なんだけど、年末の紙エレキングで取材するってことで、昨年の10月に『Ants From Up There』の音は聴かせてもらっていたのね。あの号では、俺は絶対にロレイン・ジェイムズに取材したいって思っていたから、BC,NRの音をすぐ聴いたわけじゃなかったんだけど、しばらくして聴いたらびっくりしたというか、すごく好きになってしまって。ビートインクの担当者の白川さんに「自分が取材したかった」って、10月19日にメールしたくらいだよ。

木津:そうなんですか(笑)? ただ、あのタイミングで新譜が出るっていうのもまだわかっていなかったので。けっこうサプライズでしたよね。去年にアルバムが出たばかりでまだ短い期間しか経ってなかったので。しかも音楽性はけっこう変わっていたのもおおきかった。そもそも、野田さんはいまのUKからアイルランドのバンド・ブームに盛り上がってる印象なんですが、去年のBC,NRのファースト・アルバム『For The First Time』についてはどういう印象をお持ちですか?

野田:えーと、まずその「バンド・ブームに盛り上がってる」って話だけど、UKのインディ・シーンを追っているわけじゃないし、シーン自体はずっとあったわけで。それが、ここ数年で突出したバンドが出てきて、シーンが脚光を浴びていると。ただ、実際にシーンとしてどこまで盛り上がっているのか、俺にはわからない。UKの音楽業界はこの手のトレンドを作るのに長けているし。それに、サウスロンドンっていう括りとかさ、ある意味どうでもいいって言えばいい。
 ちょっと話が逸れるけど、昨年末に〈ラフトレード〉のジェフ・トラヴィスのインタヴューを載せたけど、彼はすごく重要なことを言ったよね。いまの南ロンドンには若い黒人たちがやっているジャズのシーンもあるんだって。俺なりに意訳すれば、南ロンドンは白い音楽だけがすべてじゃないぞってことだよね。その街にはジャズもあれば、ハウスもあるし、ダブステップだって、ラップだってあるだろう。UKドリルの初期型だってここから生まれてる。こう見えても俺は、90年代に雑誌をはじめたときからページをめくって白人と日本人ばかりにならないことをずっと心がけてきているんだよ。まずはそれを踏まえたうえで、今日はインディ・ロックについて話しましょう。
 で、BC,NRなんだけど、最初に言ったように、昨年末とにかく新譜を聴いて感動してさ、編集部の小林君にも「こりゃ、すげーアルバムだぞ」って言ったり、白川さんにも「こんな良いバンドだとは気がつかなかった。ちゃんと聴いていなかった自分を反省してます」ってメールしてるんだけど、あらためてファーストを聴いて、ファーストがどうこうっていうより、わずか1年かそこらでここまで進化したんだってことに驚いたかな。

木津:ふうん。

野田:バンドというものが生き物であって、わずかな時間でも進化しうるんだっていう。フィッシュマンズが『ORANGE』から『空中キャンプ』へと、あるいはプライマル・スクリームが『Screamadelica』へと変化したように。バンドって、たまにすごい速さで、リスナーが追いつけないような速さで進化することがあるよね。BC,NRは完全にそうで、ファーストからこれはちょっと想像できないよ。

木津:ファーストはまだ参照元がわかりやすく見える感じでしたよね。いわゆるポスト・ハードコアといわれるもの、マス・ロック的なものであったり。あとはユダヤの伝統音楽であるクレズマーとか。それが、アンサンブルの構成が完全に緻密かつ複雑になりましたよね。その辺りはかなり変わったところだと思います。

野田:冒頭がまずスティーヴ・ライヒだし(笑)。ライヒの“Different Train”みたいだ。勘違いしないで欲しいんだけど、ライヒを引用すれば良いってもんじゃないよ。ただ、ロックというスタイルはいろんなものをミックスできる排他性のないアートフォームなんだっていうことが重要で、こういう雑食性はすごくUKっぽいと思う。ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターというプログレッシヴ・ロックのバンドがいて、最初に聴いたときはちょっと似てると思った。ドラマチックな歌い方もピーター・ハミル(VDGGのヴォーカル)っぽい。VDGGはプログレに括られるバンドなんだけど、マーク・E・スミスやジョン・ライドからも好かれたかなり珍しいバンドで(以下、しばしVDGGの話)。BC,NRは、VDGGほど複雑な拍子記号があるわけじゃないけどね。でも、管弦楽器を効果的に使ったアンサンブルには近いものがあるし、曲のなかに物語性があって、メリハリが効いていて展開も多いじゃない? 俺が普段聴いている音楽はどこから聴いてもいいような、反復性が高いものばかりなんで、BC,NRみたいなのは新鮮だったっていうのもあるのかもね。

木津:なるほど、たしかに展開の多さはポイントですね。僕は素直に初期のアーケイド・ファイアを連想しました。

野田:本人たちも言ってるよね。

木津:そうですね。いちばんいいときのアーケイド・ファイアですよ。シアトリカルになったのはおおきいと思っている。大人数でドラマティックな音のスケールを展開していくという。恐れなくなった感じがするんですよね。ファーストのころはわりとミニマルな反復で展開するのにこだわっていたところ、メロディと展開っていうのを大きく解放したことで、かなりドラマティックになった。そこはすごくいいときのアーケイド・ファイアを思わせますよね。

野田:アーケイド・ファイアよりも複雑じゃない?

木津:そうなんですけど、いい意味でのエモーショナルさというか。楽曲の壮大さが、大人数でやることの意味と直結している。

野田:アレンジが懲りまくってるよね。ときを同じくして、アメリカのビッグ・シーフもすごくいいアルバムを出したけど、木津くんの好みからいったらBC,NRよりもビッグ・シーフじゃない?

木津:まあ、ビッグ・シーフは今回のアルバムがちょっと抜きんでているので。でも、BC,NRも今回のアルバムは前作よりも断然好きです。よりフォーキーになったというか。ファーストも面白いと思いましたけど、いま聴くとちょっとぎこちない感じがあります。今回はフォーキーになったことで、管弦楽器がより生き生きしたと思うんですよ。

野田:アコースティックなテイストが打ち出されているよね。そうした牧歌的な側面と同時に激しい側面もあって、激しさの面でいうと、やっぱアイザック・ウッドの存在だよね。なんて言うか、いまどき珍しい、自意識の葛藤?

木津:そうですね、BC,NRは彼の存在が本当にデカい。

野田:ちゃんとオリジナルの歌詞がブックレットに載っているくらいだから、言葉にも重点を置いているのはたしかだね。

木津:実際、とくに海外のメディアからは歌詞も注目されてるんですよね。だからバンドの重要な部分だったと思うんですけど、残念ながらアイザック・ウッドは脱退を表明しています。だからもう、まったく別のバンドになりますよね。

野田:アイザック・ウッドは、言うなれば、「人生の意味に飢えている」タイプだよね。

木津:メンタル・ヘルスの問題でもありますよ。BC,NRは彼の自意識や懊悩を大人数のアンサンブル――それを僕はつい「仲間」って言いたくなるんですけど――が受け止めて、見守っている感じが僕は好きなので。だから、そのバランスがどう変わっていくのかちょっと想像できない。

野田:でもやっぱ、言葉が上手い人だと思う。たとえば「ビリー・アイリッシュ風の女の子がベルリンに行く」という言葉が何回か出てくる。東京で暮らす若者ではない俺にはなかなか感情移入できないフレーズなんだけれど、でもこれって象徴的な意味にも解釈できるよね。ビリー・アイリッシュもベルリンもイングランドではないっていう。自意識だけの問題でもなく、彼を取り巻く状況への苛立ちも確実にあるよね。1曲目の“Chaos Space Marine”という、個人的にいちばん好きな曲なんだけど、そこに出てくる「間違っていたすべてのことを考える(I think of all that went wrong)」ってフレーズも、印象的な言葉だよ。俺の年齢でそれをやったら洒落にならないんだけど、これはおそらくこの曲の最初のフレーズにかかっているんだろうね。「イングランドが僕のものであっても、僕はそれをすべて捨てなければならない(And though England is mine/I must leave it all behind)」。まったく素晴らしい言葉だな。

木津:うんうん。

野田:去年評価されたドライ・クリーニングの、淡白さをもって社会を冷淡に風刺するというアプローチとは対極にあるんじゃない?

木津:ドライ・クリーニングとBC,NRってすごく対極的なバンドである一方で、どっちもいまの時代をすごく見つめようとしてるなと。ドライ・クリーニングの象徴的な言葉で、「全部やるけど、何も感じない」って出てくるじゃないですか。現代って体験やモノがあふれている。ドライ・クリーニングはそれに対して何も感じないと言うけど、BC,NRむしろ感じすぎている。現代のあらゆる事象に振り回されていて、とくにファーストはそれがすごく出ていた。固有名詞の出方が尋常じゃないですよね。

野田:ああ、そうだね。それとBC,NRには、アルチュール・ランボーとかゲーテの『若きウェルテの悩み』とか、若者の特権とも言える内面の激しさっていうか、そっちの感じもあるよね。たとえば“Good Will Hunting”って曲の歌詞では、「もしも僕らが燃える宇宙船に乗っていたら、脱出船には友だちとの幼少期のフィルム写真があって、自分はそこにいるべきではない」ってあるんだよね。聴いていて、「いや、君もその脱出船に乗ってくれよ」って思うよ。

木津:たしかに……。ただ、ファースト・アルバムですごく象徴的なのは、「自分の好きなものを選び取る重荷」って表現だと思うんですね。過去があふれすぎているストリーミング時代、ひいてはインターネット時代の話で、あらゆるものがあふれかえって、しかもそれがスーパー・フラットになってることの息苦しさ。アイザック・ウッドからはそこをかなり表現していると感じます。そんな状況へのアンビヴァレントな混乱が痛々しくもあり、生々しくもあり。だから「ここから脱出できない」感じはわかる。
 野田さんはUKの音楽に関して雑食性という言葉をよく使っていて、それが良さなんだと言ってますよね。僕もその通りだと思いますが、一方で現代において雑食性というのは難しいとも思ってます。いまはストリーミング時代になり、みんなが過去のあらゆる音楽にアクセスできるようになると文脈が剥ぎ取られてしまって、いわゆるメインストリームでもジャンル・ミックスが当たりまえなトレンドがずっと続いている。そのなかでオルタナティヴな雑食性を表現するのってすごく難しいと思うんです。野田さんは、そういう意味でブラック・ミディやBC,NRの雑食性の面白さってどの辺にあると思いますか?

野田:UKの雑食性の面白さは、いろんなものに開かれてるってことだよ。それはもう、UKの音楽のずっと優れているところだと思う。俺がエレクトロニック・ミュージックが好きなのは、そこも大きい。ベース・ミュージックがそうだけど、たとえばUKゴムみたいなのは、いまの流行かもしれないけど、この音楽にはまだ更新の余地があるってことでもあって。ロックは歴史がある分、すでにいろんなことをやってきているから難しいよね。たとえばアート・ロックっていうか、60年代末から1970年前半のプログレ期のUKのロック・バンドは旧来のロックの語法に囚われず、ジャズやクラシックや実験音楽やエレクトロニクスなど、ロック以外のいろんなものを取り込んでいってその表現を拡張していったわけだよね。雑食性っていうか……、折衷主義って言ったほうが正確かもしれないね。ただ、こうしたプログレ的な折衷主義って、ポスト・パンクのそれがダブやレゲエやジャズだったりするのとは違って、ともすれば装飾的で、西洋主義的で、ファンタジー・ロックっていうか、たとえばスリーフォード・モッズが生きている現実からはまったく乖離してしまうんだけど、BC,NRはそうじゃない。サウンドだって削ぎ落とされてもいる。BC,NRで感心するのは、バンドが7人編成と大所帯なんだけど、音数がすごく整理されているっていうか、ちゃんと抑制されているところ。ブラック・ミディなんかあれだけ情報量と戯れながら、ものすごい躍動感があるでしょ。踊れる感じがあるよね。あ、でもBC,NRにあんまそういうのは感じないかな。ダンス・ミュージックからは遠いな(笑)。

木津:いや、でも彼らには舞踏音楽のクレズマーの要素があるじゃないですか。いわゆるロックとは別の文脈でのダンスを志している感じがあって、僕がストリーミングで観たライヴは、曲によってはけっこう身体を動かしたくなる感じもありましたよ。

野田:そうだね、クラブ音楽だけがダンスじゃないからね。話を戻すと、ブラック・ミディやBC,NRなんかがやろうとしていることは、折衷主義における参照性の幅を極限まで引き伸ばそうっていうことなんじゃないのかな。それはそれでアリだと思うよ。でもさ、ストリーミング時代でいろんな音楽にアクセスできることは、音楽ライターにも言えるよね。俺らが若い頃は、たとえばクラウトロックなんかを聴くには、何年もかけて毎週毎週レコード店に通っていなければ無理だったけど、いまはなんの苦労もなく聴けて。ブラジル音楽にしてもフリー・ジャズにしても。

木津:いや、本当にそうですよ。で、僕はそのことに罪悪感もあるんですよ。過去への敬意がなくなっていくんじゃないかって。それで言うと、このまえ、BC,NRは限定でカヴァーEPを出したんです。A面がアバでB面がMGMTとアデルのカヴァーです。僕はその脈絡のなさにためらってしまいました。

野田:いや、アバはいま来てるからな。本当に好きなんじゃない? でもさ、もうしょうがないでしょ。もうそうなってしまってるんだから。こういう環境が前提で生まれていくものだし、そこからはじまる何かだってあるってことに期待しようよ。

木津:うんうん。ただ、それは彼らなりの現代への批評的な態度なんじゃないかとも思う。ジャケットはCD-Rを持ってる写真なんですけど、それってつまり音楽が「コピー」されることへの皮肉でもありますよね。つまりBC,NRに関して言えば、純粋に全部良いって言うよりも、スーパー・フラットになっている状況がいいのか? という問題意識も若干あるような気がします。とくにアイザック・ウッドはそのことを考えてたと思う。

野田:だいたいアイザック・ウッドはこのあと何をやるんだろう、それはそれで興味をそそられるし。

木津:本当にそうですよね。

野田:BC,NRに文句があるとしたら、バックの演奏があまりにもうますぎるってことだね(笑)。ポスト・パンクってアマチュアリズムだからこれをポスト・パンクと言わないでほしい!

木津:わはは。まあブラック・ミディもBC,NRも、さすがにもうポスト・パンクとは誰も呼べないでしょう。ブラック・ミディもメンバーにメンタル・ヘルスの問題があって休んだりしているので、そういう感じはいまのバンドは変わってるのかなって思います。昔のバンドは追い込まれても無理やり繕ったりしていたけど。アイザック・ウッドも休んで苦しみとはまた違う表現が出てくる可能性はあるので、それは楽しみですね。

野田:アイザック・ウッドってインタヴューではどういう人なの?

木津:基本的には真面目な若者だと思うんですけど、僕が読んだものではちょっと無軌道なところもあったかもしれない。質問の意図をちょっとずらすような答えかたをしたり、そういう感じはありましたね。いずれにせよ、ファーストとセカンドがBC,NRにとって重要なアルバムになると思います。アイザック・ウッドが抜けたら、エモーションがちょっと暴走している感じはもう出てこないのかなと。これからバンドがどう変わろうとも。

野田:ヴォーカリストいれるのかな?

木津:どうなんでしょうねえ。ツアーはキャンセルになっちゃったみたいなんで、まだ方針が固まっていないのかも。あと彼らはファーストのころから、歌詞の内容や思想などをバンド内ではそれほどシェアしないと言ってました。

野田:だからコミュニティ(共同体)っていうんじゃなく個人の集まりなんだよ。それで良いと思うし、俺はBC,NRのバンドの普段着な感じも好感が持てた。いまから20年ぐらい前にもUKではインディ・ロック・ブームがあったんだけど、あのときはまだ古典的なロックンローラーを反復している感があった。そこへいくとZ世代のバンドは古典的なロックンロール気質から100万光年離れてる。それにちょっと泥臭いところもあるよね?

木津:ファーストのときにね、野田さんがブルース・スプリングスティーンの引用があると教えてくれたんですよね。

野田:そうそう、「だから木津君は気にいるんじゃない?」って。すごく適当だな(笑)。

木津:(笑)でも、そこは面白いポイントだなと。というのも、あまりにも固有名詞がランダムに出てくるし、サウンド的にも雑食的と言いつつランダム性もあるから、ちょっとナンセンスなものなのかなとも僕は思ってたんです。でもそこでブルース・スプリングスティーンの”Born to Run”を引用するのは、ある種の泥臭さのあらわれですよね。そこを発見してから、僕はBC,NRが好きになりましよ。我ながらチョロいですけど(笑)。

野田:それから俺はね、アルバムで時折見せる牧歌的な感じも好きだよ(笑)。ビッグ・シーフだって、俺あのジャケット好きだもん。動物たちが焚き火しているイラストの、ほのぼのしているやつ。それに対してBC,NRはさ、これは日本語タイトルをつけてほしかったけど、「Ants From Up There」って。『上空からのアリたち』だよ。ちょっとニヒルじゃない?

木津:たしかに。“Concorde”という曲名なんかも象徴的な言葉ですよね。昔、めちゃくちゃな速さを求めて開発されて、でも結局ものすごい費用がかかってうまくいかずに終わってしまった飛行機ですから。それもある種、もう未来が良くならないとわかっている世代の気持ちかなとは思ったりしましたね。前の世代が残した負債をどう処理していくかっていう……。

野田:未来が良くならない可能性が高いのは日本だよ。イギリスのZ世代はもっと希望を持ってるんじゃない? 絶望したり苦痛を感じるのは希望を持っているからだと思うよ。だってBC,NRの『Ants From Up There』は、素晴らしくアップリフティングなアルバムじゃないですか。

木津:そうですね。とくにアルバムの終わりのカタルシスはすごい。ラストの“Basketball Shoes”って昔からバンドの持ち曲でどんどん内容が変わっていったものなんですよ。だから、バンドにとっても思い入れのある曲だと思うんですけど、そのエモーションの爆発で第1期のBC,NRは終わったわけで……。ある特別な瞬間を共有できたことの喜びがある。だからそういう意味でも僕にとってBC,NRはすごくロマンティックなバンドで、そこにはたしかに、暗い未来にも立ち向かっていくエネルギーを感じますよ。

FEBB - ele-king

 4年前に急逝した Fla$hBackS のラッパー/プロデューサー、FEBB。生前手がけていたという幻のサード・アルバム『SUPREME SEASON』がなんと陽の目を見ることになった。残されたPCから発見された全16曲を収録、アナログ2枚組とCDのフィジカル限定で、デジタルでのリリースは予定されていない。これは要チェックです。

FEBBが生前に最後まで手がけていた幻の3rdアルバム『SUPREME SEASON』が完全限定プレスの2枚組アナログ盤、CDのフィジカル限定でリリース。

2018年2月15日に急逝したFEBBが生前に最後まで手がけていた幻の3rdアルバム『SUPREME SEASON』がリリース。デジタルでリリース済みの“SKINNY”や“THE TEST”の7インチにカップリングされた"FOR YOU”など一部既出の楽曲やGRADIS NICEとの『SUPREME SEASON 1.5』でリミックス・ヴァージョンが収録されたりしているものの、これが本人が纏めていたオリジナル音源での3rdアルバム。
 FEBB自身のパソコンから発見された全16曲のオリジナルデータにマスタリングを施し、ご家族と協議の上リリースすることとなりました。客演としてMUD(KANDYTOWN)が唯一参加となっています。(本来は全17曲ですが"DROUGHT"はMANTLE as MANDRILLのアルバムに収録されたため本作には未収録)
 アートワークは名盤『THE SEASON』と同じくGUESS(CHANCE LORD)、マスタリングはNAOYA TOKUNOUが担当。
 本作はアルバムとしてのデジタル・リリースは予定しておらずフィジカル限定となり、アナログ盤は帯付き見開きジャケット/完全限定プレスで一般販売。同じく完全限定プレスのCDやTシャツ等のマーチャンダイズはP-VINE
SHOP限定での販売となり、詳細は追ってアナウンスになります。
(Photo: Shunsuke Shiga)

[商品情報]
アーティスト: FEBB
タイトル:  SUPREME SEASON
レーベル: WDsounds / P-VINE, Inc.
発売日: 2022年5月25日(水)
仕様: 2枚組LP(帯付き見開きジャケット仕様/完全限定生産)
品番: PLP-7778/9
定価: 4.950円(税抜4.500円)

[TRACKLIST]
A-1 SUPREME INTRO
A-2 DRUG CARTEL
A-3 THUNDER
A-4 FOR YOU
B-1 CITY
B-2 DANCE
B-3 RUSH OUT
B-4 $AVAGE
C-1 F TURBO
C-2 FOR REAL THO
C-3 ELOTIC
C-4 NUMB feat. MUD
D-1 REALNESS
D-2 LIFE 4 THE MOMENT ( SKIT )
D-3 MOTHAFUCK
D-4 SKINNY

 現代の日本のダークサイドを風刺しているともっぱら評判の遊佐春菜のアルバム『Another Story Of Dystopia Romance』、1曲目の“everything, everything, everything”が配信を開始した。彼女の〝ディストピア・ロマン〟をぜひ聴いてみてください。
 
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 アルバムはCD2枚組で、1枚はオリジナル・ミックス盤、もう1枚はリミックス盤になる。リミキサー陣は、DJ善福寺、SUGIURUMN、Yoshi Horino、Eccyといった〈kilikilivilla〉レーベルでお馴染みのベテラン勢が担当。アルバムは4月20日に発売予定。


 

遊佐春菜 / Another Story Of Dystopia Romance
KKV-120
4月20日発売予定
CD2枚組
税込3,300円
https://store.kilikilivilla.com/product/receivesitem/KKV-120

Disc 1 : Another Story Of Dystopia Romance
1. everything, everything, everything
2. ミッドナイトタイムライン
3. Faust
4. Night Rainbow
5. Escape
6. 巨大なパーティー
7. everything, everything, everything (beat reprise)

Disc 2 : Another Story Of Dystopia Romance Remixes
1. everything, everything, everything (beat reprise)(SUGIURUMN Remix)
2. 巨大なパーティー(DJ善福寺from井の頭レンジャーズ Remix)
3. Escape(ReminiscenceForest Remix)
4. Night Rainbow(House Violence & Yoshi Horino remix )
5. Faust(Satoshi Fumi Remix)
6. ミッドナイトタイムライン(XTAL Remix)
7. everything, everything, everything(Eccy Remix)

以下、レーベル資料から。

Remixerについて by 与田太郎

このアルバムが伝えようとする物語はクラブやパーティーが重要な舞台となっている。野外レイヴやパーティーで踊ることはこの行き詰まる日常からの解放だ、そして様々な場所からそこに集まる人々とのオープン・マインドなコミュニケーションは人生に大きな出会いをもたらしてくれる。

Have a Nice Day!のライブでフロアがモッシュピットだったことは偶然ではなく、そこに集まった人々による1時間にも満たない熱狂は彼らにとって日々を生きる糧だったはずだ。2020年以降消えてしまったパーティーやフロアの熱気がようやく今年取り戻せるかもしれない。

今作のプロデューサーである僕は90年代からパーティー・オーガナイザーとして、またDJとしてその熱気を求め続けてきた。Another Story Of Dystopia Romanceが90年代以降のダンス・カルチャーが生み出したサウンドから作られているのはそういう理由による。ならばそれぞれの楽曲のフロア向けのリミックスを作る必要があるだろう、というアイデアはすぐに実行された。

everything, everything, everything (beat reprise)(Sugiurumn Remix)
数々のパーティーを20年以上共に駆け抜けてきた盟友であり、変化の激しいシーンを生き抜いたベテランらしくないベテランSUGIURUMNは静かな熱気をきらめくようなエレクトロ・ビートの結晶に封じ込めた。

巨大なパーティー(DJ善福寺from井の頭レンジャーズ Remix)
90年代のワイルド・ライフを共に過ごした高木壮太は普段なら引き受けないリミックス、ダブの制作を2021年8月に亡くなったリー・ペリーの追悼ということで特別に引き受けてくれた。そのDJ善福寺from井の頭レンジャーズ名義のダブ・リミックスからは彼がいかに深く音楽に精通しているかを物語る。

Night Rainbow(House Violence & Yoshi Horino remix )
東京のハウス・シーンのライジング・スターHouse Violenceとワールド・ワイドなレーベルUNKNOWN SEASONをオーガナイズするYoshi Horinoがタッグを組んだリミックス、パーティーの現場に即した構成とシカゴ・テイストなビートとニューヨーク・マナーな展開は彼らが日々のパーティーで培ってきたダンス・ミュージックそのもの。

FAUST(Satoshi Fumi Remix)
90年代からプログレッシヴ・ハウスを追いかけてた僕にとってジョン・ディグウィードにフックアップされたSatoshi Fumiは特別な存在と言っていい。2022年現在、リアルタイムでワールド・クラスのプロデューサーが織りなす展開は見事としか言いようがない。彼の最新アルバムはディグウィードのBEDROCKからリリースされた。

ミッドナイトタイムライン(XTAL Remix)
Traks Boysとしても活躍するXTAL、近年の作品同様に流れで聴かせるのではなく瞬間を切り取るようなスタイルは歪み成分がまるで音の粒子のように広がるって聞こえてくる。バレアリックかつシューゲイズなタッチは彼ならではの作品となった。

everything, everything, everything(Eccy Remix)
かつてSLYE RECORDSを共に率いたトラック・メイカーは今またコンスタントに作品を発表している。オリジナル・アルバムのオープニング・ナンバーは現代の日本を見つめるインターネットの視点から歌われているがEccyのビートはそのディストピアのダークサイドを見つめている。

R.I.P. Betty Davis - ele-king

私はあなたを愛したくない
なぜなら私はあなたを知っているから
ベティ・デイヴィス“反ラヴソング”

 時代の先を走りすぎたという人がたまにいるが、ベティ・デイヴィスはそのひとりだ。彼女については、かつてのパートナーだったマイルス・デイヴィスが自伝で語っている言葉が的確に彼女を説明している。「もしベティがいまも歌っていたらマドンナみたいになっていただろう。女性版プリンスになっていたかもしれない。彼女は彼らの先駆者だった。時代の少し先を行っていた」(*)
 ベティ・デイヴィスは女ファンクの先駆者というだけではない。彼女は、セックスについての歌をしかもなかば攻撃的に、鼓膜をつんざくヴォーカリゼーションと強靱なファンクによって表現した。公民権運動時代のアメリカには、ローザ・パークスやアンジェラ・デイヴィスをはじめとする何人もの革命的な女性がいた。音楽の世界においてもアレサ・フランクリンやニーナ・シモンらがいたが、ベティ・デイヴィスは彼女たちがやらなかったことをやった、それはセクシャリティの解放であり、家父長社会に対する性的な挑発だ。男性が伝統的に当然としてきた性的自由を享受する権利を声高く主張すること。だが、そのあまりにも放埒でラディカルな性表現は、1970年代当時、公民権運動の主体の一部であった全米黒人向上協会(NAACP)からもボイコットされたほどだった。
 
 1944年7月16日、ノースカロライナ州ダーラムで生まれたベティ・デイヴィスが、2月9日に77年の生涯を終えたことを先週欧米のメディアはいっせいに報じ、彼女にレガシーに言葉を費やしている。
 16歳のとき、ファッション・デザインを学ぶためにニューヨークにやってきた彼女は、その街の文化——グリニッジヴィレッジやフォークなど——を思い切り吸収した。モデルとしても働くようになったが、モデル業よりも音楽への情熱が勝り、1967年にはザ・チェンバース・ブラザーズのために曲を書いている。それが昨年ヒットした映画『サマー・オブ・ソウル』でも聴くことができる“Uptown (To Harlem)”だ。そして、マイルス・デイヴィスが、おそらくはほとんど一目惚れして、1969年のアルバム『キリマンジェロの娘(Filles De Kilimanjaro)』のジャケットになり、収録曲の1曲(Miss Mabry)にもなった。マイルスにスライ&ザ・ファミリー・ストーンとジミ・ヘンドリックスを教えたベティは、彼の二番目のパートナーとなり、かの『ビッチェズ・ブリュー』へと導いたことでも知られている。「音楽においても、これから俺が進むべき道を切り拓いてくれることになった」とマイルスは語っている(*)。
 そしてベディ・デイヴィスはマイルスとの短い結婚生活を終えると、わずか3枚の、しかし強烈なファンク・アルバムを残した。ぼくが所有しているのは『They Say I'm Different』(1974)の1枚だが、このジャケット写真を見れば、どれだけ彼女がぶっ飛んでいたかがわかるだろう。彼女はグラム・ロッカーであり、サン・ラーやジョージ・クリントンと肩を並べることができるアフロ・フユーチャリストでもあった。

 しかしながら、1970年代前半のアメリカで、黒人女性がファンクのリズムに乗って、自分の性欲や別れた男=マイルスのことを面白おかしく歌うこと(He Was A Big Freak)は、あまり歓迎されなかった。だがいまあらためて聴けば、先述の『They Say I'm Different』はもちろんのこと、ファースト・アルバム『Betty Davis』(1973)もサード・アルバム『Nasty Gal』(1975)も、その素晴らしいファンクのエネルギーに圧倒される。ベティの散弾銃のようなヴォーカリゼーションは、因習打破の塊で、まだまだ保守的だった時代においては恐れられてしまったのだろう。彼女の前では、ジェイムズ・ブラウンの“セックス・マシーン”でさえもお上品に聴こえると書いたのは、ガーディアンやクワイエタスに寄稿するジョン・ドーランだ。「彼女は、揺るぎない勇気とリビドーをストレートに感じさせる強さをもっていた」

 ベティは結局、早々と音楽業界から身を引かざるえなかった。ドーランは、ベティが無名性に甘んじたのは、明らかな性差別だったと断言しているが、21世紀の現在では、エリカ・バドゥやジャネール・モネイのように、彼女からの影響を公言するアーティストは少なくない。カーディBやニッキー・ミナージュだってその恩恵を受けているだろうし、もっと前には、それこそマイルスが言ったように、マドンナとプリンスにもインスピレーションを与えているという。テキサスのサイケ・パンク・バンドのバットホール・サーファーズだってベティへの賞賛を表明しているし、彼女はいま、ようやく時代が自分に追いついたことに安堵していることだろう。

人は私が変わってるって言うけれど
だって私はサトウキビで芯まで甘い
だからリズムがある
曾祖母は社交ダンスなんて好きじゃなかった
そのかわり
エルモア・ジェイムズを鼻歌で歌いながらブギったものさ

人は私が私は変わってるって言うけれど
だってチットリンを食べるから
生まれも育ちもそうなんだから仕方がない
毎朝、豚を屠殺しなければ
ジョン・リー・フッカーの歌を聴いて帰るんだ

人は私が私は変わってるって言うけれど
だって私はサトウキビで
足で蹴ればリズムが出る
曾祖父はブルース好きだった
B.B.キングやジミー・リードの曲で
密造酒をロックしていたのさ
“They Say I’m Different”
※サトウキビは長い円筒形の管のなかに甘い液体が入っていて、その管を口に入れて汁を吸う。


(*)『マイルス・デイヴィス自叙伝』(中山康樹 訳)。原書は1989年刊行

ECD - ele-king

 これは朗報だ。転機を迎え、猛烈に時代とリンクしたECDの名作、イラク戦争のあった2003年にリリースされた『失点 in the park』が、ついにアナログ化される。ミックスは盟友 illicit tsuboi。ごりごりのサウンドに仕上げられているとのこと。メッセージがこめられたアートワークを眺めながら、じっくり聴きこみたい。

ECDが2003年に自主制作で発表した2000年代を代表する不朽の名作『失点 in the park』がリリースから約19年の時を経て奇跡のアナログ化! 盟友illicit tsuboi監修のもと2枚組/33回転でのプレスとなりオリジナルCDを再現した紙ジャケ仕様かつ拘りの見開きジャケット/シリアルナンバー付き/初回完全限定生産でのリリース!

◆ メジャーレーベルとの契約を終了して完全インディペンデントとなり、ECD自身で全てを制作したアルバム『失点 in the park』。それまでに身に着けたスキル、ギミックなどを一切排し、生身のECDが淡々と感情を吐露する衝撃的内容は発売当初、困惑と戸惑いをリスナーに巻き起こしたものの、従来の狭いカテゴリーから脱却して新たなる音楽荒野を目指す、その姿勢がやがて大きな共感を呼び、口コミによってHIP-HOPリスナー以外にもその存在が知られるところとなり、現在ではJ-POPの名盤としても語り継がれている名作中の名作。2003年のオリジナル・リリースから約19年の時を経て奇跡のアナログ化が実現。
◆ 盟友illicit tsuboi監修のもと全8曲をあえて2枚組/33回転で製作することで作品のイメージをさらに増幅させるゴリゴリなサウンドに仕上げられている。
◆ 2003年に杉並区の公園の公衆トイレで起きた落書き事件の写真を用い、リリース当時大きな話題となったジャケットはオリジナルのCD/紙ジャケ仕様で再現し、かつ拘りの見開きジャケット/シリアルナンバー付き/初回完全限定生産でのリリースとなります。

ECD 2003年の傑作アルバムがいよいよLPにて復刻!
メジャー契約も切れ彼1人で出来ることといえば、PORTA ONEの4トラックカセットMTRで録音することだけ。
サンプラーキーボードRoland W-30を叩いてラップするスタイルは、正にアコギ弾き語りスタイルのHiphop版そのものであり、彼史上最もシンプルかつ鋭い内容に自他共に「これを超えることは不可能」と言わしめたアルバムでもある。
個人的にもエポックメイクだと思っており、しかるべきフォーマットで出さないと意味がないと思い収録時間度外視で2LPフォーマットでリリースさせて頂くことになりました。これはECD本人の夢でもあり、こうして2022年に叶ったことは大変意義があるなと。
これでまたECDに足りなかったピースが埋まった。
感謝。
──The Anticipation Illicit Tsuboi

[商品情報]
アーティスト: ECD
タイトル: 失点 in the park
レーベル: Final Junky / P-VINE, Inc.
発売日: 2022年4月20日(水)
仕様: 2枚組LP(見開きジャケット仕様/シリアルナンバー付き/完全限定生産)
品番: FJPLP-001/2
定価: 5,940円(税抜5,400円)
Stream/Download/Purchase:
https://p-vine.lnk.to/wn4VUH3v

[TRACKLIST]
A1 FREEZE DRY
A2 EVILE EYE
B1 迷子のセールスマン
B2 1999
C1 Island
C2 DJは期待を裏切らない
D1 貧者の行進 (大脱走Pt.2)
D2 Night WALKER

今回のコラボレーションによって世界への扉が開かれたという感じかな。一緒にやるのが夢っていうアーティストがまだたくさんいる。そういう扉が開かれた気がするね(アンドリス)〔*オフィシャル・インタヴューより。以下同〕

 ムーンチャイルドの5作目となるアルバム『Starfruit』がリリースされる。
 バンド結成10年目という節目に制作された今作は、〈新たな扉〉を開ける作品 であり、彼らの〈コミュニティ〉が生んだメモリアル・アルバムでもある。

 南カリフォルニア大学ソーントン音楽学校のジャズ科に通っていたアンバー・ナヴラン、アンドリス・マットソン、マックス・ブリックの3人は、ホーン・セクションに属するツアーで時間を共にすることが多く、意気投合し楽曲制作をおこなうようになった。2011年にムーンチャイルドとして活動を開始し、ファースト・アルバム『Be Free』(2012年)を発表したのちに、〈Tru Thoughts〉から3枚のアルバム(『Rewind』(2015年)、『Voyager』(2017年)、『Little Ghost』(2019年))をリリース。国際的なツアーをおこないながら知名度を上げ、前作のUSツアーでは、演奏した各都市で地元のチャリティを推進する活動も展開し、バンドとしての影響力も増していたところだ。

 ドラムとベース不在のこのバンドは、3人が管楽器をメインとしたマルチプレイヤーでソングライターであるのが特徴だ。各自が持ち寄ったビートを基盤に、ベースパートはシンセベースで担当し、キーボードとホーンによるハーモニーやヴォイシングは、大学のビッグバンドの授業で培ったテクニックをもとに複雑に練り込まれている。そこから感じられるのはひたすら心地良いフィーリングで、その音楽性が彼らの圧倒的な個性となっている。今作でも、曲作りのプロセスは変わっていない。

まずはそれぞれが個別に作るところから始めるから、ビートは常に選び放題の状態なのよ。各自1日1ビート、あるいは1日1曲というのを1ヶ月くらい続けて、そこから多くのアイデアが生まれた。でもその制作過程っていつもと変わらなくて、全員のアイデアを集めて、そのなかからやってみたいと思ったことをやるっていうのが私たちのやり方なの(アンバー)

 前作では、アコースティック・ギターや、カリンバなどオーガニックな楽器も積極的に取り入れながら音色の領域を広げ、ミックス、プロデュースを含め、全工程を3人で完結できるまでにそれぞれがレベルアップしていた。思えばムーンチャイルドは、デビュー作を出してからは、フィーチャリングを一切おこなわないアルバム作りを続けていた。その結果ブレない3人の世界が形成されてきたわけだが、今作では一転、堰をきったように、豪華面々をゲストとして迎え入れている。

 多数グラミー受賞経歴を持つベテラン、レイラ・ハサウェイや、現代のジャズ・シーンの面々と共演するアトランタ出身のヴォーカリスト、シャンテ・カン、ブッチャー・ブラウンの2021作でも大きくフィーチャーされていたシンガー、アレックス・アイズレー(アイズレー・ブラザーズのギタリスト、アーニー・アイズレーの娘)、そして、ラッパー陣も名うての面々が集う。LAの実力者、イル・カミーユ、BET(Black Entertainment Television)ヒップホップ・アワードで2020年のトップ・リリシストにも選ばれたラプソディー、さらに2020年にグラミー最優秀新人賞にノミネートされたニューオーリンズ・ベースのソウル/ヒップホップ・バンド、タンク・アンド・ザ・バンガスのヴォーカル、タリオナ “タンク” ボールや、マルチオクターヴの声域を持つボルチモア出身のラッパー/シンガー、ムームー・フレッシュといった多彩なキーウーマンが集結している。

 近年フィメール・ラッパーを取り上げるメディアの動きがあり、女性の在り方を彼女たちの立場から紐解く視点がこれまでにないほど広がってきたが、その流れにも呼応するかのような圧巻の顔ぶれだ。これらのゲストを迎えた曲では、アンバーのパートと、ゲストによるリリックのパートがあり、〈もう一人の違う私〉が見えてくるようで興味深い。また言葉の中に、愛を綴りながらも確固とした自身のアイデンティティが見え隠れしていて、夢を持っている女性の心境、音楽への強い志、これまでに植えつけられた女性観など、各所に現代女性のリアルを感じさせる部分がある。

いつも私の夢を応援してくれてた 裏方みたいに でも呑まれそうになるのは慣れてる
──“Love I Need feat. Rapsody”
良い彼女になろうとはしたんだ でも知っての通り 私が愛してるのはこのマイクだけ それが人生で大事なこと
──“Don't Hurry Home feat. Mumu Fresh”
母には祈りを捧げて耐えろと言われた 女の心は神聖不可侵であり続けるべきだから
──“Need That feat. Ill Camille”

彼女たちがやっていることを聴いて、さらに自分も曲に取り組んで、この曲ではどうしようとかどう歌おうかと考えているのと同時に、他のシンガーが自分では絶対に思いつかないような、本当に素晴らしいことをするのを目の当たりにするっていう、その過程はすごく楽しかったし、自分の創造する上でのマインドが開かれたと思う(アンバー)

 ゲストたちがテーブルに乗せていく多彩な表現がムーンチャイルドの新たな扉を開け、彼女たちに誘発されるように音楽的にもチャレンジングなプロセスが増えていった。

曲を各ゲストに送って、送り返してもらって、その人が曲をどういう方向に持っていったかによってさらに新たな要素やサウンドを加えたりという感じだった(アンバー)
“Get By” でタンクとアルバートがホーンのパートを歌ってるところなんかまさにそうだったよね。(中略)どの曲にも鳥肌が立つような瞬間があって、たとえば “I’ll Be Here” のブリッジのところでアンバーがやってることも好きだし、“Need That” のイル・カミーユも素晴らしくて、彼女がラップしている部分は元々の形から変化していて。変化した部分の作業はみんなが同じ空間に集まってやったもので、アルバム制作期間のなかでもレアな瞬間だった(アンドリス)

 今作のコラボレーションの源となるのは、10年の間に築かれたムーンチャイルドのコミュニティだ。そしてそのベースとなったのが、DJジャジー・ジェフである。彼は音楽コミュニティ向上のために毎年100人近くのアーティストを自宅に呼ぶなど、コラボレーション促進のための活動に力を入れている。ジャジー・ジェフは、ツイッターを通じて彼らの音楽を発見し、その後ジェームス・ポイザーと共にリミックス(“Be Free”(2013年)、“The Truth”(2017年))を買って出るほど、活動初期から3人の支持者だった。

ジャジー・ジェフはコラボレーションについてすごく力強いメッセージをくれて、それは、音楽は関わる人が多ければ多いほどよくなるってこと。その言葉がすごく印象深かった。一般的に言えば、自分だけの力でやり遂げなきゃいけないプレッシャーってあると思うの。自分だけでもアルバムを作れることを証明しなきゃいけないとか、自分の芸術性を証明しなきゃいけないとか。でも実際歴史的に見ると最高の音楽は複数人で作ったものが多いっていう。それで私も、より多くのアイデアを取り入れたいと思うようになった(アンバー)

 アンバーが語る通り、コラボレーションの話題は目白押しだ。現在進行中のアンバーのプロジェクトでは、〈Stones Throw〉レーベルの人気ビートメイカー/ピアニストのキーファーや、そのキーファーの公演で2019年に共に来日していたキーボード奏者、ジェイコブ・マンともアルバムを制作中のようだ。さらに今作でフィーチャーされているアルト奏者のジョシュ・ジョンソンは、ジェフ・パーカーの『Suite for Max Brown』やマカヤ・マクレイヴンの『Universal Beings』でも印象的な音色を与えるLAシーンの名脇役で、今後も彼らのコラボレーションは広がっていきそうだ。

 そしてもうひとり、ムーンチャイルドの畑を耕したキーバーンが、スティーヴィー・ワンダーだ。デビュー時期に彼らの音楽を知ったスティーヴィーは、毎年恒例となっている自身のチャリティ・コンサート「House Full of Toys」のオープニング・ステージに彼らを抜擢した。2012年12月のこのステージで彼らが演奏した、エリカ・バドゥの “Time's a Wastin” は、LAシーンとR&Bシーンの両方にムーンチャイルドの音楽を発展させるための決定打となった。

コンサートの短い時間で彼が言ったことがすごく印象に残っていて、彼の言葉を要約すると、自分は音楽を色で捉えないんだと。僕らが白人のミュージシャンで黒人の音楽をやっていることについても、今やっていることをやり続けなさいって言ってすごく励ましてくれたんだよ(マックス)

 このときに刻まれた志を胸に彼らはスキルアップを重ね、10年後のいま、ソウルやR&Bをルーツに持つ現代のメッセンジャーたちと共に、これからの扉を開く作品を生み出した。彼らはこの作品を、まさにコロナ禍で得た『Starfruit』と表現している。

この10年ムーンチャイルドを続けてきて、その間にバンドの周りに小さなコミュニティが築かれて、それはすごく嬉しいことだなと思っていて。それは長くバンドを続けてきてよかったと思う部分だね(マックス)

 彼らが築き上げた境地を、“I'll Be Here” の歌詞から感じてみよう。その言葉は、聴く私たちの扉を開け、背中を押すものでもあるはずだから。

代わりにノックしてくれたり歩いてくれる人は誰もいない 代わりに傷ついたり働いたりしてくれる人は誰もいない 代わりに感じてくれたり癒されたりする人は誰もいない きっと自力で見つけることになる だけど私はここにいるから これまで何度も聞いてきたでしょ ここまで来たなら扉を開かなくちゃ
──“I'll Be Here”

interview with Animal Collective (Panda Bear) - ele-king

「リモートでやって繋ぎ合わせても大丈夫なくらいに熟知している曲はどれか」っていう決め方になっていたような気がするね。このアルバムの制作は、曲がりくねった川を進んでいくような感覚だった。

 2021年10月、アニマル・コレクティヴのニュー・アルバム『タイム・スキフズ』からファースト・シングルとして切られた “プレスター・ジョン”。思わせぶりなタイトルのその曲を聴いたときに驚いたのは、伸びやかなアンビエンスをたっぷりと含んだドラムの響きを中心としたバンド・アンサンブル、そしてパンダ・ベアとディーキンとエイヴィ・テアが歌声を重ねて織り上げたメロディに、生き生きとしたよろこびのようなものが備わっていたことだった。バンド・アンサンブルのよろこび! そんなものをアニマル・コレクティヴに期待したことなんて、一度もなかったからだ。20年近いキャリアにおいて、彼らがバンド然としていたことなんて、ほとんどなかった。それほどの変化、これまでにない試みを、その曲に感じた。

 今回、パンダ・ベアことノア・レノックスに、『タイム・スキフズ』についてインタヴューをするにあたって最初にやったのは、このアルバムがどこからはじまっているのかを探ることだった。新作に至るまでの道のりを、少し振り返ってみよう。
 2016年の前作『ペインティング・ウィズ』は、ディーキンは不在で、パンダ・ベア、エイヴィ・テア、ジオロジストの3人がつくったアルバムだった。その後、2018年の『タンジェリン・リーフ』はパンダ・ベア以外の3人がつくったもので、これはコーラル・モルフォロジック(海洋学者のコリン・フォードとミュージシャンのJ.D.・マッキーからなるアート・サイエンスのデュオで、危機に瀕している珊瑚礁の美しさ、その保護などを映像作品やイヴェントを通して伝えている)とのコラボレーション、そして「国際珊瑚礁年」を祝すことを主眼にした映像作品だった。そして、2020年には『ブリッジ・トゥ・クワイエット』という、2019年から2020年にかけてのインプロヴィゼーションを編集した、抽象的なEPを発表している(もちろん、この間、メンバーはそれぞれにソロでの活動もしている)。
 2019年のライヴ動画を YouTube で見て気づいたのは、パンダ・ベアがドラム・セットを叩き、ディーキンを加えた4人でライヴをしていたことだった。そこには、いかにも「バンド」といったふうの並びで、新曲を集中してプレイする4人がいた。どうやら、『タイム・スキフズ』は、このあたりからスタートしているらしい。とはいえ、『タイム・スキフズ』という作品を、アニマル・コレクティヴがふつうのロック・カルテットとしての演奏を試みただけのアルバムだとしてしまうのは早計だ。

 プレス・リリースには、「成長した4 人の人間関係や子育て、大人としての心配事に対するメッセージを集めたものでもある」と綴られている。ひたすら音の遊びを続けていた4人の少年たちは、2022年のいま、誰がどう見ても「大人」の男たちである。言うなれば、『タイム・スキフズ』は、彼らが「成熟」という難儀なものをぎこちなく受け入れて、それをなんとか音に定着させたレコードとして聴くことができるだろう。
 子ども部屋のようなスタジオのラボで音に遊んでいたアニマル・コレクティヴのメンバーは、いま、それぞれの活動拠点で、その地に根づいた市民社会や共同体、家族のなかで生きている。そんなことを象徴し、『タイム・スキフズ』を予見させた出来事として、彼らがあるアルバムのタイトルを変更したことが挙げられる。『ブリッジ・トゥ・クワイエット』と過去のカタログを Bandcamp でリリースするにあたって、バンドは、“Here Comes the Indian(インディアンがやってきたぞ)” という2003年のデビュー作の題を “Ark(箱舟)” へと改めた。なぜなら、彼らは、当初のタイトルを「レイシスト・ステレオタイプ」だとみなしたからだ。
 今回のインタヴューでパンダ・ベアは、「アメリカのバンドであることについて、昨今それが自分たちにとって何を意味しているのかについて」バンド内で意見をシェアしたと語った。それは前記のことと直接的に関係しているだろうし、現にこのアルバムには “チェロキー” というネイティヴ・アメリカンの部族、および彼らの文化が残る土地に由来する曲が収められている。
 4人の「元少年たち」が、極彩色のサイケデリックな夢を描いていたインディ・ロック・バンドが、なぜいま「アメリカのバンドであること」について考えなければいけなかったのか。それは、パリ協定からの離脱を断行し、議会襲撃事件を煽り、ツイッターから締め出されたあの男のことを思い出さなくても、じゅうぶんに理解できる。

 だからといって、身構える必要もない。最初に書いたとおり、『タイム・スキフズ』は、バンド・アンサンブルの自由で清々しいよろこびが詰まったLPである。ぼくにとっては、あの素晴らしい『メリウェザー・ポスト・パヴィリオン』や『ストロベリー・ジャム』に次ぐフェイヴァリットだ。
 さて。前置きはこれくらいにして、パンダ・ベアの言葉を聞こう。

ドラムを音色の楽器だと考えるようになり、どう叩くとどういう音色になるかとかじっくり考えて。感触やスウィングがどう曲にフィットするかを考えたんだ。ロックのヘヴィなサウンドではなくて、すごく軽くしたかったというか、静かに演奏したいと思ったんだよね、ほとんどメカニカルと言えるくらいに。

いま、どちらにお住まいですか? そちらは、パンデミックの影響はどんな感じでしょうか?

パンダ・ベア(PB):リスボンだよ。コロナはオミクロンの波が来て2、3週間感染拡大が続いていたけれど、ようやく終わりに近づいてきたところなんだ。感染者数は激増しても入院や死亡者数がかなり抑えられていたから、それなりにうまくいったと言えるんじゃないかな。(編集部註:取材は1月中旬)

まずはディーキンがバンドに戻って、4人で再び演奏や作曲をするようになった過程や理由を教えてください。

PB:10代でバンドをはじめたときにもともとのアイディアとしてあったのが、緩くつながる集団というか、必ずしも毎回4人全員が参加するというものではなかったんだよ。それぞれがいろんなことをやる、っていう考え方が気に入っていたんだ。その時々で呼び名も変えていいかもしれないし、ジャズのミュージシャンがよくやっているみたいに、その時参加している演奏者の名前がバンド名になる、みたいな。たとえば、トリオとして集まって5年くらいライヴやレコーディングを精力的にやる。でも、それぞれが他の人とも組む。そうやって常に変化し続けるというのが、グループの最初のアイディアだった。でも一時期はそのアイディアから遠ざかっていたような気がするんだよね。2006年頃の4年間くらいは従来的なバンドの周期だったというか、レコーディングして、ツアーをして、というのをひたすら繰り返していて。でもこの7、8年くらいはもともと持っていたエネルギーを取り戻した感じがあって、僕としてはすごく気に入っているんだよ。それによって新鮮味を保つことができると思うし、次がどうなるか予測できないのがいいと思う。お互いが柔軟に、自由に、いろんなことができるようにしたいんだ。そして、今回はこれを作るということに関して、全員が一致していたんだよ。

なるほど。2019年に4人が演奏しているライヴ動画をいくつか見たら、セットリストは新曲ばかりでした。『タイム・スキフズ』 の作曲や制作がはじまったのは、2019年頃でしょうか? 制作プロセスについて教えてください。

PB:最初の曲作りからアルバムのリリースまでの期間は、たぶん今回が最長だと思う。もちろん、パンデミックが事態をさらに悪化させたわけだけど、たぶん、たとえパンデミックがなかったとしても、僕たちにとっては構想期間がかなり長かったと思う。曲ができるまでのサイクルは、普段はもっと短いからね。その(2018年の)ニューオリンズのミュージック・ボックス(・ヴィレッジ)という場所でやったライヴは全部新しい曲で構成していて、その多くが最終的に『タイム・スキフズ』の曲になったんだよ。とにかくそれが制作の初期段階で、たしか2019年の前半にそれがあって、ナッシュヴィルの郊外の一軒家に全員で集まったのが2019年8月。そこからさらに僕も曲を書いて、ジョシュ(・ディブ、ディーキン)も曲を持ち込んで、デイヴ(デイヴィッド・ポーター、エイヴィ・テア)もさらに数曲を持ってきて、3週間くらい、曲をアレンジしながらうまくいくものとそうじゃないものを仕分けて、そのあと9月、10月頃にアメリカ西海岸の短いツアーがあって、12月にはコロナが中国を襲って、クリスマス後、1月初頭にまた集まって、最終的なアレンジをしたり曲を仕上げたりといったセッションをして、そのあとすぐにレコーディングをするつもりだった。そうしたら、知ってのとおりコロナの波が来て、2020年3月にスタジオ入りする予定だったんだけど、でも2月にはそれが叶わないことがはっきりしてきた。それからは、「じゃあ、どうするか」という話になって、「リモートでやるならどうするか」といったことを諸々話しあって、結局、2020年夏の終わり頃にリモートで作業を開始したんだ。だから、選曲はどことなく、「リモートでやって繋ぎ合わせても大丈夫なくらいに熟知している曲はどれか」っていう決め方になっていたような気がするね。このアルバムの制作は、曲がりくねった川を進んでいくような感覚だった。でも、かなりいいものに仕上がったと思うよ。

実際、『タイム・スキフズ』は、本当に素晴らしいアルバムです。長いキャリアにおける最高傑作だとすら思います。さて、本作をレコーディングした場所は、アシュヴィル、ボルティモア、ワシントン、リスボンと4か所が記されています。それは、いまおっしゃったように、4人がリモートでレコーディングした場所ということですよね。

PB:そう。一度も同じ場所に集まることなくレコーディングしたからね。

それぞれの場所でどんなレコーディングをしたのか、それらをどう組み合わせていったのかを教えてください。

PB:ジョシュはキーボードをメインにやって、あとは自分が担当するヴォーカル・パートを録って、ブライアンが電子系、モジュラー・シンセ、サウンド・デザインといった感じのものを、デイヴはベースで、それは僕らにとっては新しいことで、あとは歌だね。それから、他にもクロマチック・パーカッションとか細々したもの。それで、僕は最初、自分のところでドラムを録ったんだけど、その録音がいまひとつで、それでリスボンのちゃんとしたスタジオに2日ほど入って、今度はしっかりマイクも何本も使って再度ドラム・トラックを全部やって。それで、自分たちでミックスしたものをロンドンのマルタ・サローニのところに送ったんだ。

ミキシングを担当したマルタ・サローニと仕事をすることになった経緯や、彼女のミキシングがどうだったのかを教えてください。彼女は、ブラック・ミディからボン・イヴェール、ホリー・ハーンダン、ビョーク、トレイシー・ソーン、デイヴィッド・バーンなど、幅広いミュージシャンと仕事をしていますよね。

PB:彼女のミキシングには大満足だよ。素晴らしい仕事をしてくれたと思う。きっかけが思い出せないけど……ケイト・ル・ボンの曲かな……いや、ちがうかも。ビョークのミックスをやったのはわかってるんだけど(『Utopia』、2017年)。とにかく、彼女の手がけたいくつかの作品がすごくよくて、それでお願いしたい人のリストに入れてあったんだ。そして、最初に何人かにミックスをお願いしたなかで、彼女のものがこのアルバムに合っていて。もちろん他の人のものもすべて素晴らしかったんだけど、彼女の視点が今回の音楽に適していたんだ。

最近のライヴでは、あなたがドラム・セットを叩いていて驚きました。このアルバムでも全曲で叩いていますね。近年のアニマル・コレクティヴにおいて、これは珍しいことでは?

PB:ドラムが自分の第一楽器であるとは言わないけど、アニマル・コレクティヴにおいては、まあ、僕が「ドラムの人」だね。ドラムが必要となったら、デフォルトで僕がやる感じになっているよ。ある意味、今回、これまでとはぜんぜんちがったドラムの演奏方法を考えたというのが、曲作り以外での僕のいちばん大きな貢献だったと思う。まず、いろんなドラマーの YouTube の動画を見まくったんだよ。ジェイムズ・ブラウンのドラマーのクライド・スタブルフィールドだったり、ロイド・ニブ、バーナード・パーディ、カレン・カーペンターだったり。そして僕はドラムを音色の楽器だと考えるようになり、どう叩くとどういう音色になるかとか、そういったドラムのサウンドについてじっくり考えて。演奏のパターンについて考えるよりも、感触やスウィングがどう曲にフィットするかを考えたんだ。ロックのヘヴィなサウンドではなくて、すごく軽くしたかったというか、静かに演奏したいと思ったんだよね、ほとんどメカニカルと言えるくらいに。だから、そういった演奏をするために、毎日練習して、それまで自分が達していなかったレヴェルを目指した。考えてみたら、そもそもそれが昔ながらのアプローチなのかもしれないけど、自分にとってはまったく新しいことだったんだよ。

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アメリカのバンドであることについて、昨今それが自分たちにとって何を意味しているのかについても、けっこう話したね。いくつかの曲には、僕らがそのことと折り合いをつけようとしているのが感じ取れる要素があると思う。

あなたのそんなドラム・プレイもあって、アルバムからは生のバンド・アンサンブルが強く感じられます。そもそも、どうしてこういうサウンドになったのでしょうか? これは、バンドにとって、原点回帰なのでしょうか?

PB:ある意味ではそうで、別の意味ではちがうと思う。楽器を使って、演奏ベースで何かをやるっていうことで言うと、たしかに初期の頃を思い出させるものがある。『ペインティング・ウィズ』(2016年)や『メリウェザー・ポスト・パヴィリオン』(2009年)は、もっとサンプルを駆使した、完全にエレクトロニックの領域のものだった。『センティピード・ヘルツ』(2012年)では今回のような方向性を目指したというか、音楽のパフォーマンスという側面に傾いて、ステージ上で汗をかくといいうような、理屈抜きのフィジカルなところを目指していたと思うんだ。だから、創作面では、振り子のように行ったり来たりしているんだよね。前回とは逆の方向に振れるというか。まったくちがう考え方をすることでそれがリフレッシュになるし、それで自分たちがおもしろいと思いつづけられて、願わくはオーディエンスにとってもそうであればいいなって。そういうことについての会話があるわけではないけれどね。だからそれが目標というわけではないけど、でも気づくと結構そうなっているんだ。

タイトルのとおり、アルバムのテーマは「時間」なのでしょうか?

PB:それもテーマのひとつだね。音楽がタイム・トラヴェルの乗り物みたいなものだ、という話をしたことは覚えているよ。時間を戻したり進んだりさせてくれるものだよな、っていう。その音楽に思い出があったりして、だから大好きなんだけど、聴くのが辛い時期があったりもする。自分のなかで思い出と音楽が融合して、大好きなんだけど聴くと辛い時期が蘇ってしまうから聴けない、とかね。それだけ強力に時間と結びついていることがある。そういうことは、作る上ですごく考えていたね。特にいまの時代は家に閉じ込められがちだから、いまという時間、あるいは、その閉じた空間から抜け出すというのが、僕らがやりたいと願っていたことで。それから、他にも、アメリカのバンドであることについて、昨今それが自分たちにとって何を意味しているのかについても、けっこう話したね。いくつかの曲には、僕らがそのことと折り合いをつけようとしているのが感じ取れる要素があると思う。それは、これまであまりやってこなかったことだと思うんだ。

なるほど。それに関連するのかもしれませんが、アルバムについて、エイヴィ・テアのステイトメントに「最近、よく考えるのは、どうして音楽を作るのかということ、そして音楽が今、与えてくれるものは何なのかということだ」とあります。このことについてのあなたの考え、そしてそれを『タイム・スキフズ』でどう表したのかを教えてください。

PB:これまで、音楽をキャリアとして、仕事として20数年やってきて、そうすると、やっぱり「自分はまだこれをやっているけど、じゃあ、そこにどんな意味があるのだろう?」と考えるようになる。どうして他の人に聴いてもらうために作っているのか、自分は何を成し遂げたいのか、といった問いが絶えず浮かぶようになって。おそらく、その答えは、常に変わるんだけどね。でも、同時に、根幹的な部分にはふたつのことがあって、ひとつは、自分が1日また1日と生きていく上で、すごく楽しいものだということ。何かアイディアが浮かんでそれを形にすることにはちょっとした興奮があるし、もし出来がよければ達成感もある。そして、それで元気になれる。もうひとつには他の人とのコミュニケーション方法だということで、願わくは、それが愛とリスペクトを広めることに繋がってほしい。そのふたつが僕にとって音楽をやる根拠で、そこは変わらないね。それが今作の音楽にも表れていることを願うけど、あからさまに表現されているってことはないと思う。ただ印象としてそうであれば嬉しいよ。

また、そのステイトメントには、「楽曲はリスナーをトランスポートさせる能力を持っている」とあります。これは、まさにアニマル・コレクティヴやあなたの音楽を表した言葉だと思うんですね。物理的な移動が困難になったいま、「音楽がリスナーをトランスポートすること」についての考えを教えてください。

PB:それに関して、果たして音楽よりいい方法があるのかっていうくらい……。まあ、僕はゲームをよくやるんだけど、それは音楽とはまたぜんぜんちがう種類で、自分の脳を忙しい仕事に従事させることによって瞑想状態が生まれるというもので。僕がゲームをすごく好きなのは、ある意味、自分のスイッチをオフにできるからなんだよ。脳の、何かについて心配している部分をゲームで陣取るというか。音楽はもっと……作用としては似ているけど、かなりちがう。もっと会話的というか、作曲者、あるいは演奏者とリスナーとの対話があって……。でも、考えれば考えるほど、ゲームにもそれがあるように思えてきたな。たまに、プログラマーの意図を考えるからね。何を考えてこのゲームのシステムを構築し、プレイヤーにどういう効果をもたらそうとしたのだろうか、っていう。でも、ゲームはひとりの経験だから……。いや、やっぱり話せば話すほど、同じなんじゃないかと思えてきた(笑)。

ははは(笑)。音楽=ゲームですか。ところで、「音楽がリスナーをトランスポートすること」は「リスナーを現実から逃避させること」とも言い換えられますよね。逃避的な音楽はいいものなのでしょうか、悪いものなのでしょうか? どうお考えですか?

PB:たしかにそうで、逃避できるっていうのはいいことではあるけど、それがいきすぎるのは心配だね。特にいまの時代、お互いのことが必要だし、繋がりを持ちつづけるべきだと思うから、逃避しすぎるのはどうかと思う。閉じこもったり逃げたりする理由がありすぎない方がいい。だから、現実から気を逸らすものではなくて、コミュニケーションだったり、薬であったりすることが望ましいかな。

では、具体的にアルバムの曲について聞かせてください。“Walker” は、スコット・ウォーカーに捧げた曲だそうですね。スコット・ウォーカーは、私も大好きなアーティストです。彼のどんなところに惹かれますか?

PB:彼の声がすごく好きで、彼は僕がもっとも好きなシンガーのひとりなんだ。自分で歌う時、以前はもっと柔らかいというか弱い感じだったんだけど、でもスコットの声にすごく影響を受けたんだよね。彼の声には強さがあるというか、胴体から出てくるみたいな声と歌い方で、それに彼の歌は非常に男っぽい感じがしてかっこいいと、個人的に思う。それから、彼がキャリアの初期に大成功して、でも「自分の道はこっちじゃない」と感じて、常に探求を続けて、自分なりのキャリアを築いていったという部分にも超刺激を受けたしね。

音楽は会話的というか、作曲者、あるいは演奏者とリスナーとの対話があって。でも、ゲームにもそれがあるように思えてきたな。プログラマーの意図を考えるからね。何を考えてこのゲームのシステムを構築し、プレイヤーにどういう効果をもたらそうとしたのだろうか、って。

フェイヴァリットの曲はありますか?

PB:全部好きだよ。超変な実験的なやつも好きだし、アートっぽいものも好きだし。でも、いちばん好きなのは『スコット2』(1968年)とか『スコット3』(1969年)とかの番号がついたアルバムかな。

“チェロキー” についてお伺いします。ノースカロライナのチェロキーは、ネイティヴ・アメリカンのチェロキー族の文化がいまも残る土地だそうですね。これは、どうやってできた曲なのでしょうか? 先ほどおっしゃっていた、「アメリカのバンドであることと折り合いをつける」ということが関係しているのでしょうか?

PB:そうだね。この曲がそのもっともあきらかな例で、これは自分たちにとって、いまアメリカのバンドであることがどういうことなのかを考えた曲だと思う。チェロキーというのはデイヴの家の近くの地域で、たしかハイキングに行ったりもするらしいし、彼はこの曲でその問いに向き合っていると思うよ。

デイヴが書いた曲なんですね。

PB:そう。なんというか、曲の内容について、バンド内で「これはどういう意味か?」ということを逐一話していると思われているかもしれないけど、実際はそういうことはあまりやらないんだ。たまに「この一節、すごくいいけど、何を考えて書いたの?」とか聞くことはあるけど、でも「曲を書いた。内容はこうだ。さあ、君たちはどう思う?」的なことはほとんどなくて、ただそのまま受け止めることが多い。だから、残念なことに「何についての曲ですか?」と訊ねられても「ええと……」となっちゃうんだよね(笑)。僕個人にとっての意味はわかるけど、デイヴの代弁はできないからさ。

わかりました。本日はありがとうございました。日本で4人のライヴを聴ける日を心待ちにしています。

5lack - ele-king

 USのラッパー、6lack と名前が類似しているということから、ネット上で100%言いがかりなパクり騒動→アジア人差別にまで発展してしまうという由々しき事態が今年に入ってから勃発した 5lack だが(詳しくは「5lack 6lack」で検索してみてください)、その問題とは無関係に、2021年の日本のヒップホップ・シーンを代表するこのアルバムが紹介されていなかったということで、編集部側の強い要望もあり、遅ればせながらレヴューさせていただきます。

 前作『この景色も越へて』から約1年ぶり、昨年4月にリリースされたソロ通算8枚目のアルバム『Title』。光が射す海辺の景色を用いた前作から一転して、本作はブラックホールのような黒い闇がジャケットに描かれており、このヴィジュアルが象徴しているようにアルバム全体にあまり派手さはなく、トーンとしては少し重めで落ち着いている。ただ、この重さは決して気が滅入ってくるような陰鬱なものではなくて、どこか心地良さを与えてくれるものであり、ときには神々しさまで感じさせる。それはリリックに関しても同様で、ヒップホップ的なセルフボースティングやマネートークなども含めて実に様々なトピックを扱いながら 5lack の目線は一定しており、そこには彼がいままで通ってきた人生からいまの生活にいたるまで等身大の姿が反映されている。本作のリリース日は新型コロナの第3波の直後で、世の中がまだまだ混乱している状況で、無理に明るくポップに振り切るわけでもなく、かといってダークな部分を強調するわけでもない本作の温度感は、あのタイミングに絶妙にフィットしていたようにも思える。

 これまでのアルバムと同様に本作も 5lack 自身がメイン・プロデューサーを務めており、一曲目の “Uz This Microphone” からドラムとシンプルなウワモノで構成されたトラックの上で、シャープなフロウとライムに乗せて自らがマイクを握るまでのストーリーをスピットする。この曲やあるいは ISSUGI をフィーチャした「稼がな」などは最上級にストレートなヒップホップ・チューンなのだが、アルバム全体で言えばトラックのスタイルの振れ幅は驚くほど広い。“五つノ綴り” ではオルガン(パイプオルガン?)のコードを軸にしたトラックがまるで讃美歌のような佇まいで、一方、“Nove” ではアコースティックギターの音色で奥行きのある透明感溢れるサウンドを聞かせる。“現実をスモーク” ではピアニカのメロディなどを交えたレゲエ・チューンを披露し、ラストの “つかの間” にいたってはギターとドラムで構成されたミニマルなトラックの上でラップではなく歌声を披露している。これだけ音楽的な幅広さがありながらも、声質、フロウも含めて一聴してそれとわかる 5lack のヴォーカルが乗ることで 5lack にしか表現しえない世界が見事に完成している。もちろん彼の表現の音楽的な豊かさはいまにはじまったことではないが、今回はその枠がさらに別次元へと切り開いたかのような大きな可能性すら感じる。

 また、本作には前出の ISSUGI の他に PUNPEE、YENTOWNの kZm、クレジットは無いが “近未来 200X” に GAPPER をフィーチャしており、さらにプロデューサーとしてはUS勢ふたり(brandUn DeShay、Willie B)に加えて BudaMunk がトラックを提供している。ゲスト参加曲はいずれも秀逸な出来で、例えば “Betterfly” での BudaMunk のトラックとの相性の良さは群を抜いているし、“Bad End” での kZm とのコラボレーションは良い意味で異質な輝きを放っている。そんな中でやはり注目は Kendrick LamarSchoolboy Q、J. Cole といったビッグネームの作品を手がけてきた Willie B がプロデュースを手がけて、実兄である PUNPEE が参加した “己知らぬ者たち” だろう。兄弟だからこその親しさと緊張感が入り混じる独特な距離感がありながら、PSG 時代とは異なる、アーティストして共に大きく成長したふたりの存在感が溢れる一曲に仕上がっている。

 ちなみに 5lack は昨年10月から『白い円盤Series』というタイトルでシングル・リリースを行なっており、現時点(2022年1月末)で5作目まで発表されている。作品のトーンとしては本作の延長上にある楽曲が揃っているようにも感じるが、この流れの中でさらに彼の次作がどのような形になるのか非常に楽しみだ。

Burial - ele-king

文:小林拓音

 周知のようにブリアル*は2007年の『非真実(Untrue)』を最後に、アルバム単位でのリリースを止めている。なのでこの新作「反夜明け(Antidawn)」はおよそ14年ぶりの長尺作品ということになるわけだが……2ステップのリズムを期待していたリスナーは大いに肩透かしを食うことになるだろう。本作にわかりやすいビートはない。もちろん、これまでも彼はシングルでノンビートの曲を発表してきた。今回はその全面展開と言える。
 厳密には、冒頭 “Strange Neighbourhood” の序盤、聴こえるか聴こえないかぎりぎりの音量で4つ打ちのキックが仕込まれている。それは “New Love” の中盤でも再利用されているが、そちらではより聴取しやすいヴォリュームで一瞬ハットのような音がビートを刻んでもいる。あいまいで、小さく、すぐに消えてしまう躍動。間違ってもフロアで機能させるためのものではない。それらは数あるパッチワーク素材のひとつにすぎず、うまく思い出せない遠い記憶のようなものだ。

 明確なダンス・ビートの不在を除けば、変わっていないところも多い。トレードマークのクラックル・ノイズ。もとの素材がわからなくなるまで激しく加工されたヴォーカル。サウンドトラックなどから引っ張ってきたと思しき上モノたち。“路上生活者(Rough Sleeper)”(2012)以降のブリアルを特徴づけてきた、聖性を演出するオルガン。
 あるいは、しゃりしゃり/かちゃかちゃと鳴る金属的な音。咳払い。雨の音。虫の歌。謎めいたキャラクターの震え声。その他いくつかの、あたかも具体音のごとく響く断片たち。その大半はおそらく(フィールド・レコーディングではなく)ヴィデオ・ゲーム(の、さらに言えばユーチューブにアップされた動画)からサンプルされたものだろう。とりわけ強く印象に残るのは “Antidawn”、“Shadow Paradise”、“Upstairs Flat” の3曲に忍ばせられた、ライターで火をつける音だ。

 コラージュはブリアルの音楽を成り立たせるもっとも重要な技法である。今回もそのうち元ネタ特定合戦が開始されるにちがいない。たとえば最後の “Upstairs Flat” で二種類の音色に分散されて奏でられている旋律。下降時の音階が異なるので間違っているかもしれないが、たぶんこれ、エイフェックス『SAW2』収録曲(CD盤でいうとディスク2の8曲め、通称 “Lichen”)じゃないかと思う。直前に挿入されるたった2音のパーカッションも “Blue Calx” に聞こえてしかたがない。
 ダンスを出自とするブリアルの音楽がアンビエントとしての可能性を秘めていることはあらためて確認しておくべきだろう。クラックル・ノイズを過去性の刻印として解釈するのもいいが、それは無個性かつ無展開であるがゆえ周囲に溶けこむ音にだってなりうる。

 静寂はそして、ことばを引き立たせる。ブリアルを特徴づける闇夜と孤独は、冒頭 “Strange Neighbourhood” ですでに十分すぎるほど表現されている。「通りを歩く/夜になると/行き場がない/どこにもない/通りを歩く(Walking through the streets / When the night falls / There is nowhere / Nowhere to go / Walking through the streets)」。この「行き場がない(Nowhere to go)」は、「ひどい場所にいる(I'm in a bad place)」とのフレーズが印象的な表題曲 “Antidawn” でも繰り返され、「夜になると(When the night falls)」のほうも “Shadow Paradise” でふたたび顔をのぞかせている。どうしようもない閉塞感。それを、まったく出口の見えない資本主義と接続したくなる気持ちもわからなくはない。

 が、ポイントはそこではない。「Antidawn」にはまとまった長さが与えられている。ゆえに各曲のことばは照応し、シングルでは発生しようのなかった相互作用が際立っている。
 たとえば “Shadow Paradise” では、孤独に抗うかのように何度も「ちょっとだけ抱きしめさせて(Let me hold you for a while)」というフレーズが繰り返されている。「こっちに来て、愛しいひと/暗闇のなかへ連れていって(Come to me, my love / Take me to the dark)」「いっしょに夜のなかまで連れていって(Take me into the night with you)」と、つねにだれかの存在がほのめかされているのだ。
 この「you」はほかの曲にもこだましている。“Strange Neighbourhood” では「あなたがこっちにやってきた(You came around my way)」と、“Antidawn” では「あなたが入れてくれたら(If you let me in)」と、“Upstairs Flat” では「いちばん暗い夜のどこかにあなたがいる/そこに行きたい(You're somewhere in the darkest night / I wanna be there)」というふうに。

 最大のテーマであるはずの闇夜や孤独を凌駕するほど、本作には「あなた」が横溢している。そしてそんな「あなた」を「わたし」は求めている。「あなた」とはライターであり、星だ。「あなた」がいれば暗闇のなかでも歩いていける、と。
 いやもちろん、2007年の “Archangel” も「あなた」を求めていた。でもそれは2ステップのリズムの勢いに任せて放たれる、「きみを抱きしめる/ひとりじゃ無理、ひとりじゃ無理、ひとりじゃ無理」という、幼く、ひとりよがりで、一方的な願いだった。「Antidawn」はちがう。今回の「わたし」はどこか控えめだ。大人になったということかもしれない。なにせあれから14年のときが過ぎているのだ。
 ダンス・ビートの放棄、静けさの醸成、ことば同士の照応。かつてとは異なるアプローチで「あなた」と出会いなおすこと。いまブリアルは初めて本格的なアンビエント作品に取り組むことで、ほんとうの意味で他者に出会おうと努めているんだと思う。多くのひとが内省にとらわれたパンデミック以後の世界にあって、外からやってくるものへと向かうその姿勢はきっと重要な意味を持つにちがいない。

* 日本では「ブリアル」と表記されることが多いが、実際の発音は「ベリアル」のほうが近い。

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文:キム・カーン
翻訳:箱崎日香里

 ブリアルのブルータリストなネイバーフッドにようこそ──「Antidawn」はブリアルのこれまでで最も無防備で生身の作品だろうか?

 彼の最新作──45分という長尺を考慮すればもはやアルバムと呼ぶべきに思えるが──で、唯一聞こえてくるビートは、ポトポトという雨音だけだ。これまでのブリアル作品でもお馴染みのこの音は、彼が毎日のように雨が降り続くイギリス出身であることを物語っている。

 ひとたび「Antidawn」の世界に足を踏み入れると、その舞台セットに飲み込まれる。1曲目 “Strange Neighbourhoods” が女性の咳払いとともに幕を開けると、たちまちひとつの物語のはじまりが告げられる。いわば、ブリアルのロックダウン・サーガとでも呼べるだろう。

 「You came around my way(私のところに来たんだね)」というささやきが荒涼とした景色の中に一陣の風をかき立てたのち、きらめくチャイムに招き入れられて、共感覚によってグレーに彩られた、物語の舞台となるとある地区の姿が現れてくる。トラックは中ほどでブレイクダウンに入り(ブリアルのダンス・ミュージックのバックグラウンドがまだ完全に消失してはいない証だろう)、そのあとに聞こえる「my love」の哀しげな呼びかけが、本作の主人公と思われる人物の感情を揺さぶる。

 続くタイトル・トラックは Ronce を思わせるASMRではじまり、主人公に新たな試練が降りかかる。

I'm in a bad place / with nowhere to go
(まずい状況にいる/行く先もない)

 不穏なシンセの暗闇の中を、ときおりチャイムの輝きが照らす。

you're one of them / I'm not your kind
(あなたは彼らの仲間だ /私はあなたたちの仲間じゃない)

 ここから登場人物たちのコミュニケーションがはじまると、少しずつ物語が肉付けられてゆく。チャイムのきらめきの緊張感が高まっていく先には、ブリアルが構築したこの不毛の地の中の小休止が見えてくる。

 “Shadow Paradise” で響くオルガンの音は、ロックダウン中にブリアルは教会をよく訪れたのだろうかと想像させる。曲はブリアルが変化していくのと同じように多幸感に満ち溢れている。そこに随伴するのは管楽器風のシンセ音や母性的なヴォーカルだ。次の箇所は故ソフィーのトラックに入っていても違和感がないであろうし、まるで生温かい抱擁のようだ。

There's one / alone in our reverie / ...I'll be around
(誰かがいる/たったひとりで私たちの幻想のなかに/……わたしはそばにいる)

 登場人物たちが新たな愛(New Love)を見つけると同時に、「Antidawn」の物語も動き出す。

ever since I was young / I wanted to get away / free beyond everything / for you
(幼い頃からずっと/ここから離れたかった/全てから解放されて/あなたのために)

 若い恋人たちの逃避行を、「For you」の反復の間にちりばめられたメロディーの断片が彩る。無限に増大するような重層的な音のテクスチャに、チャイムの閃きと、そこここで鳴るヴァイナルのクラックル・ノイズが重なり合う。次の瞬間、シーンはシンプルなアンビエント・パッドの音に合わせて無邪気に踊る主人公たちへと切り替わり、やがてトラック中盤でブレイクダウンに入る。「Come unto me / Come on come on」と手つかずの野原を奔放に跳びはねるふたりの蜜月はここでピークを迎えて終息へと向かい、オルガンの厳粛な響きがシンセのアルペジオをかき消すと、ふたたびブリアルの雨が降ってくる。

 「New way / my way」の声が響く “Upstairs Flat” は傷心の主人公を映し出し、呼吸音とクラックル・ノイズが細心の注意をもって重ねられた低いドローン・シンセが、新しいフラットの未知の環境を照らし出す。

I won't be there / when you're alone
(私はそこにいない/あなたがひとりのとき)

 甘くほろ苦いヴァイオリンのメロディーが闇に響く。「Come get me」の声で曲は静まり、雨音とともに終わりを迎える。

 私たちはディストピア世界のサバービアを描いたひとつの物語を聞き終え、すべての登場人物に出会い、彼らのストーリーや名前を知り、そして彼らが一礼して舞台を去ったのち、静寂のなかに取り残される。ひょっとしたら、ビートがないブリアルは、それを失う前のブリアルと同様に素晴らしいのではないか。そんな思いを巡らせながら。

 パンデミック以降の世界で、ペリラ(Perila)やウラー(Ulla)スペース・アフリカといった多数のアーティストがサウンド・コラージュやASMRをアンビエントのフィールドに持ち込む中、ブリアルの「Antidawn」はこのアンビエント界における新世代の蜂起を静かに補完している。

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Text: Kim Kahan

Welcome to Burial’s brutalist neighbourhood. Is this Burial at his most vulnerable yet?

The only beats we really hear on his newest EP - although at a meaty 45 minutes it can be considered an album at this point - are the pattering of rain, typical of Burial’s output to this point. Telling that he’s from England, where it rains everyday.

Heading into Antidawn, we’re struck by the mise en scene. A feminine clearing of a throat signals the beginning of the first track, "Strange Neighbourhoods". At once this appears as the telling of a story, potentially the Burial lockdown saga.

Whispers “you came around my way” stoke the wind that swirls around a barren landscape. Chimes twinkle as they welcome us to the neighbourhood which my inner synaesthesia unanimously agrees is grey. The song enters a breakdown halfway (it becomes apparent that Burials’ dance music background has not disappeared just yet) before emerging with a plaintive voice calling out “my love”, stirring emotion for what we presume is the protagonist of the album.

The title track "Antidawn" begins with a Ronce-esque ASMR fumbling and another trying time for our character “I’m in a bad place / with nowhere to go” and ominous synth is punctuated by chiming that glimmers in the darkness. We then start to see the story fleshed out with conversations as the character begins to communicate “you’re one of them / I’m not your kind”. Twinkling intensifies and we start to see the hint of respite in this barren land of Burial’s construction.

"Shadow Paradise" welcomes organs and we wonder if Burial visited church much during lockdown. The song is about as euphoric as Burial gets, with piping pads and a maternal vocal “there’s one / alone in our reverie / ...I’ll be around” which wouldn’t be out of place on a Sophie (RIP) track and feels like a lukewarm hug.

The story of Antidawn moves on as they find "New Love", “ever since I was young / I wanted to get away / free beyond everything / for you”, snatches of melody intersperse the “for you”s as the young lovers elope through the track. Vinyl crackles back and forth as chimes twinkle over a million multiplying textures. The next moment sees them dancing along innocently simple ambient pads before heading down to a breakdown mid-track. Bounding through fields of wild abandonment “come unto me / come on come on” as the lovers enter the post-honeymoon phase and it winds down, arpeggio synth disappears as the organ solemnly ploughs on and the rain comes down in true Burial style.

"Upstairs Flat" sees the protagonist post-heartbreak, “new way / my way”, entering the unknown of a new flat as deep, droney synth kicks in, breaths and crackles layered carefully on top. “I won’t be there / when you’re alone” as the bittersweet melody of violin punctuates the darkness. “come get me” and the song calms down, as rain comes in and the song finishes.

We feel like we’ve just listened to an entire story about a suburban dystopia and met all the characters and learnt all their stories and their names and then they’ve bowed out again and we feel alone in the silence. And we think that maybe Burial without beats is just as good as Burial with them.

In this post-COVID world we have seen artists such as Perila, Ulla, Space Afrika and more bring sound collages and ASMR to the ambient landscape and Burial’s Antidawn quietly complements this modern ambient rebellion.

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文:髙橋勇人

 COVID-19が猛威を振るう中でも、ソロ・シングル「Chemz / Dolphinz」(2020)、フォー・テットトム・ヨークとの12インチ「Her Revolution / His Rope」(2020)、ブラックダウンとのスプリット「Shock Power of Love E.P.」(2021)と、コンスタントに作品を出してきたブリアル/ウィル・ビーヴァンは、45分にも及ぶ「Antidawn」で2022年の幕をこじ開けた。
 発表に際して公開された写真には、降り頻る雪のなか、楽しそうに両手を広げる本人の姿がある。マスクをしていることから、これはパンデミック中に撮られたものであることがわかる。今作は彼からの「近況報告」なのだろう。
 「Antidawn」にはビートがなく、スタイルとしては2019年のシングル集『Tunes 2011-2019』でも顕著だったアンビエント的なサウンド・コラージュであり、楽曲や映画からサンプリングされたであろうスポークン・ワードが音の流れを牽引している。前述のシングルでは、レイヴ・スタイルのハードなビートで、フロアの期待に答えつつ、自身の表現の幅を増幅させていたのに比べると、今作には明瞭な新しさはない。
 現在、電子音楽シーンではエクスペリメンタル/アンビエントの新たな光が、緩やかな木漏れ日のように、意気消沈した世界へと降り注いでいるのに気づいている方は多いだろう。ウラーやペリラ、あるいは日本のウルトラフォッグの参加作品などで知られる、ASMR的感覚、牧歌性、ときにメタリックな美学を繋ぐドイツの〈Experiences Ltd.〉(最近〈3XL〉に改名?)。イーライ・ケスラーや主宰のひとりでもあるフェリシア・アトキンソンを擁する、ミュジーク・コンクレートやエレクトロニクス/アコースティックを行き来しサウンド/ソニックの可能性を探求するフランスの〈Shelter Press〉。アーティスト、レーベルとともに、この勢いは衰えを知らない。作風的には「Antidawn」はその流れに連なっている、といえる。

 今回もブリアルのインスピレーションは彼の周囲からやってきているようだ。過去作を振り返ってみても、路上生活者(Rough Sleeper)、ねずみ(Rodent)、盗まれた犬(Stolen Dog)など、ブリアルは(特にロンドンでは頻繁に目にする)日常の構成物から楽曲のタイトルを採用してきた(そしてイルカ(Dolphinz)など彼が好きなもの)。
 「Antidawn」が奇妙深いのは、「奇妙な近所(Strange Neighbourhood)」や「上の階のフラット(Upstirs Flat)」といった日常的アクターが、造語である「反夜明け(Antidawn)」、「影の楽園(Shadow Paradice)」、「新たな愛(New Love)」といった抽象的で幻想的な面をも醸し出すタームで繋がっているという点だ。
 ブリアルは『Untrue』(2007)収録の “In Macdonalds” などがそうであるように、日常風景にかすかに存在する非日常性を サウンドで描くのに長けたアーティストでもある。「Antidawn」をその尺度で考えるならば、これらのタームが放つ印象は、ロックダウンによる隔離生活によって、日常と非日常の境目が人連なりに曖昧になっていく世界/生活と違和感なく連想できる。45分はそのサウンドスケープであり、ここでは踏み込まないが、スポークン・ワードはそこに広がるドラマツルギーとして考え得られる。ジャケットのイラストはその住人なのかもしれない。
 ブリアルは今作において一層エモーショナルになっているようだ。雨の音で緩やかにはじまる1曲目は、荘厳なオルガンを経て、徐々に電気グルーヴの “虹” のシンセ・フレーズにも似た優美なメロディにまで展開する。2曲目ではドローン・サウンド上で言葉が舞い、彼のシグニチャー・サウンドであるフィルターがかかったノイズやウィンドチャイムを機に、その表情が変わっていく。一曲のうちにいくつもの楽曲が組み込まれているような構成であり、そのアレンジも「Antidawn」を起伏のあるドラマとして醸成している。

 ここにないものはビートなのだが、それはある種、ブリアルと現実のダンスフロアを繋ぎ止めていたダンスというリアルな身体性の欠如であるとも考えられる。言葉においても、孤独や救済に焦点が当てられるものの、肝心なそこで生きる者の顔は曖昧なままだ。
 対照的に、現在のシーンでは身体や自意識への回帰、あるいはその問い直しが顕著におこなわれている。例えばブリアルのホームである〈Hyperdub〉から、2021年にデビュー・アルバム『im hole』を出したロンドン拠点のアヤは、自分の出自をラップ/詩で歌い、複雑なポリリズムとプロダクションは、入り組んだ身体のようにその言葉を基礎づけている。
 同年、先の〈Shelter Press〉からアルバム『17 Roles (all mapped out)』をリリースしたテキサスの前衛ドラマー/電子作家のクレア・ロウセイが頻繁にテーマにするのは、自身の肉声と機械によるエッセイの読み上げと、涙腺を緩やかに刺激するアンビエントを経由した、身体とそこを横切っていく人間関係だ。
 世界に再び太陽が登ろうとする2022年、私たちが聞くべきなのは、待ち受ける関係性のしがらみを再び生き抜いていくヴァイタリティに溢れたそのようなサウンドではないか。閉じきった2020年のような「Antidawn」が位置している太陽が登らない世界は、そこからは少し遠いように思える。
 愛、ドラッグ、ジェントリフィケーション、移民、階級、リズム&低音の科学が渦巻くUKガレージやダブステップとの緊張関係のなかで『Untrue』生まれたように、アンダーグラウンド主義者ブリアルは何かの中心との距離をとりつつも、そこと呼応することができる作家だ。「Antidawn」がロックダウンの世界であるならば、次はそのアフターの世界になる。「上の階のフラット」で/から彼が何を見たのか、次の長編作にその答えを待つ意味は大いにある。

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