「iLL」と一致するもの

Daniel Lopatin - ele-king

 まもなく《WXAXRXP DJS》での来日を控えるワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティンが、新たなサウンドトラックをリリースする。2年前の『グッド・タイム』に続いて、今回もサフディ兄弟監督による映画の劇伴だが(原題『Uncut Gems』)、名義が OPN から本名へと変わっているのには何か意図があるのだろうか。
 映画の製作総指揮はマーティン・スコセッシで、主演はアダム・サンドラー、さらに作中ではザ・ウィークエンド(The Weeknd)がサックスを吹いていたり(予告編にも登場)、トラヴィス・スコットまで参加している模様。全米では12月13日に公開され、それ以外の地域では2020年1月に Netflix での配信が予定されている。
 なお、サントラのコントリビューター一覧にはイーライ・ケスラーゲイトキーパーの名も挙がっており、音楽のほうも注目すべきポイントが多そうだ。リリースは映画の公開とおなじ12月13日。

DANIEL LOPATIN

アダム・サンドラー主演、サフディ兄弟監督の話題作
『UNCUT GEMS』の音楽をOPNことダニエル・ロパティンが担当
12月13日にサウンドトラック・アルバムのリリースが決定

ダニエル・ロパティンが新たに手がけたサウンドトラック・アルバム『Uncut Gems - Original Motion Picture Soundtrack』が12月13日にリリースされることが発表された。ハリウッド俳優アダム・サンドラーが主演を務め、NBAの元スター選手であるケビン・ガーネットや、ザ・ウィークエンドが本人役で出演するクライムサスペンス映画『Uncut Gems (原題)』は、ジョシュア&ベニー・サフディ兄弟が監督を務め、新進気鋭の映画スタジオA24の配給で2020年1月に Netflix にて公開が予定されている。

Uncut Gems | Official Trailer HD | A24
https://youtu.be/vTfJp2Ts9X8

今週いよいよ開催を迎える〈WARP RECORDS〉30周年記念イベント《WXAXRXP DJS》にも出演するワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティンとサフディ兄弟がタッグを組むのは、2017年公開のロバート・パティンソン主演映画『グッド・タイム』に続き、今回が2度目となる。『グッド・タイム』では、カンヌ・サウンドトラック賞やハリウッドメディア音楽賞を受賞したことでも大きな話題となった。ダニエル・ロパティンは、これまでにもソフィア・コッポラ監督映画『ブリングリング』(2013)やヴァンサン・カッセル主演映画『Partisan (原題)』(2015)の映画音楽を手がけている。

ダニエル・ロパティンが手がけた音楽が、映画のクライマックスの緊張感をさらに高め、また幻想的な要素も加えていることよって、強迫観念や神経の高ぶりが生むエネルギーが映画を包み込んでいる。 ──Little White Lies

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティンの類いまれなるパーカッシヴなサウンドトラックが、次々と巻き起こる展開を圧倒する ──IndieWire

エレクトロニカとオペラを融合したダニエル・ロパティンによる不穏な音楽は、見る者の血圧を上昇させ続けながら、サフディ兄弟の生み出す奇妙なマジックに多大なる貢献をしている。 ──Thrillist

Uncut Gems (原題)
監督:ジョシュア・サフディ&ベニー・サフディ
脚本:ジョシュア・サフディ、ベニー・サフディ、ロナルド・ブロンスタイン
製作:スコット・ルーディン、イーライ・ブッシュ、セバスチャン・ベア・マクラード
出演:アダム・サンドラー、キース・スタンフィールド、ジュリア・フォックス、ケビン・ガーネット、イディナ・メンゼル、エリック・ボゴシアン、ジャド・ハーシュ
音楽:ダニエル・ロパティン
公開:2020年1月予定

ダニエル・ロパティンによるサウンドトラック・アルバム『Uncut Gems - Original Motion Picture Soundtrack』は、12月13日(金)に世界同時リリース。国内盤CDには解説書が封入される。

label: BEAT RECORDS / WARP RECORDS
artist: Daniel Lopatin
title: Uncut Gems Original Motion Picture Soundtrack
release date: 2019/12/13 FRI ON SALE

国内盤CD
BRC-625 (解説書封入) ¥2,200+税

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10630
Amazon: https://www.amazon.co.jp/dp/B07ZR5G8DL

TRACKLISTING
01. The Ballad Of Howie Bling
02. Pure Elation
03. Followed
04. The Bet Hits
05. High Life
06. No Vacation
07. School Play
08. Fuck You Howard
09. Smoothie
10. Back To Roslyn
11. The Fountain
12. Powerade
13. Windows
14. Buzz Me Out
15. The Blade
16. Mohegan Suite
17. Uncut Gems

CFCF - ele-king

 今年、ニューエイジとジャングルを組み合わせたアルバム『Liquid Colours』をリリースし話題を呼んだ CFCF が、同作を引っさげ来日ツアーをおこなう。11月2日から11月6日にかけて、東京、新潟、大阪を巡回。ライヴではいったいどんなサウンドが繰り広げられるのか。あなた自身の耳で確認しよう。

CFCF JAPAN TOUR 2019
– LIQUID COLOURS RELEASE TOUR –

・11/02 (Sat) – TOKYO | CIRCUS Tokyo
・11/03 (Sun) – Niigata | Kiageba Church
・11/06 (wed) – OSAKA | CIRCUS Osaka

https://www.artuniongroup.co.jp/plancha/top/news/cfcf-japan-tour-2019/

■東京公演

CFCF JAPAN TOUR 2019 – Tokyo –

日程:11/2(土)
場所:CIRCUS Tokyo
時間:開場 19:00 / 開演 19:30
料金:前売 3,500円 / 当日 4,000円(別途1D代金600円)
チケット:チケットぴあ (Pコード:167133) / Peatix / e+

LIVE:
CFCF
dip in the pool
Daisuke Tanabe


■新潟公演

CFCF JAPAN TOUR 2019 – Niigata –
experimental room #30

日程:11/3(日)
場所:新潟・木揚場教会(新潟市中央区礎町通上一ノ町1957)
時間:開場 17:00 / 開演 17:30
料金:前売 3,500円 / 当日 4,000円 / 新潟県外からの方 3,000円 / 18才以下無料!
チケット:メール予約
info@experimentalrooms.com
(件名を「11/3チケット予約」としてご氏名とご希望の枚数をご連絡下さい)

LIVE:
CFCF
dip in the pool
Yojiro Ando

DJ:
Jacob

SHOP:
Oohata Coffee


■大阪公演

CFCF JAPAN TOUR 2019 – Osaka –

日程:11/6(水)
場所:CIRCUS Osaka
時間:開場 19:00 / 開演 19:30
料金:前売 3,000円 / 当日 3,500円(別途1D代金600円)
チケット:チケットぴあ (Pコード:167135 ) / Peatix / e+

出演:
CFCF
speedometer.
Dove



■CFCF
モントリオールを拠点に活動するコンポーザー Michael Silver によるソロ・プロジェクト。これまで〈Paper Bag〉、〈Acephale〉、〈RVNG Intl.〉、〈1080P〉、〈International Feel〉など、様々なレーベルから作品をリリースしている。インディ・ディスコ~ポスト・ダブステップ~アンビエントなど幾多のエレクトロニック・ ミュージックを横断しつつも、常にクウォリティの高いサウンドを披露し、ジャンルを超えて高い支持を得ている。また、リミキサーとしてもその手腕を発揮しており、Crystal Castles、HEALTH、Owen Pallett など多岐にわたるアーティストのリミックスを手がけており、現代のエレクトロニック・シーンで重要な人物の一人として地位を確立している。日本の音楽にも精通しており、dip in the pool との交流も深い。
cfcfmusic.com / Twitter / SoundCloud


■dip in the pool:(東京、新潟公演に出演)
1983年に作/編曲を担当する木村達司(track)と、作詞担当の甲田益也子(vo)が結成したデュオ。独特の音楽センスとファッショナブルなヴィジュアルが話題を呼び、86年にイギリスは〈ROUGH TRADE〉よりデビュー。
マイペースな活動と並行して、甲田益也子が89年に映画『ファンシイダンス』で役者としてもデビューし、映画『白痴』では主演をつとめた。木村達司は他アーティストのプローデュース、アレンジやCM、映画音楽制作等、個々の活動も多彩に展開している。
一時の活動休止を経て2011年に本格的に再始動、14年ぶり、8枚目となるアルバム『brown eyes』をリリース。
2013年には木村達司がモーガン・フィッシャー、安田寿之と共にアンビエント・エレクトロニカ・アルバム『Portmanteau』をリリース。甲田益也子がゲスト・ヴォーカルとして4曲参加している。
2015年1月に伊藤ゴロー、古川初穂らをゲストに迎えた10枚目のアルバム『HIGHWIRE WALKER』をリリース。
2016年にアムステルダムに本拠を置き世界中に多くのファンを擁する復刻レコード専門レーベル〈Music From Memory〉から89年に発表した「On Retinae」が12 inch・シングルとしてリイシューされ世界的に再評価される。
2017年にはアメリカのアンビエント・デュオ Visible Cloaks からの依頼を受けシングルを共作リリースし、来日イベントでは共演も果たしている。
2018年、オーストラリアはメルボルンでのフェス、シドニーでのDJ/ライヴ・イベントに参加。
2019年、ヨーロッパツアーを行い、パリ、ストックホルムにてライブを行い好評を博す。また、年内には日本、オーストラリア、フランスのアーティストとのコラボレーションを行い、作詞、作曲、歌唱、トラックメイクを提供したシングルが連続してリリースされている。
https://dipinthepool.com/


■Daisuke Tanabe:(東京公演に出演)
偶然の重なりから初ライヴはロンドンの廃墟で行われた大規模スクウォット・パーティー。06年、紆余曲折を経てリリースした初のEPが BBC Radio1 Worldwide Award にノミネートされ、その後も世界最大規模の都市型フェス Sónar Barcelona への出演、イタリアでのデザインの祭典ミラノサローネへの楽曲提供等幅広く活動中。釣り好き。
https://soundcloud.com/daisuketanabe
https://twitter.com/daisuketanabe
https://www.facebook.com/Daisuke-Tanabe-157676610954408/


■Yojiro Ando:(新潟公演に出演)
安藤洋次郎 | 新潟県新発田市在住の作曲家。4歳から17歳までピアノを習い、その後、クラブ音楽に傾倒。22歳からトラック製作を開始し、2016年にエレクトロニカを軸とした自身初となるアルバム『Cube Day Love』を旧名義(Yojiro Chiba)で発表。その後、2018年にはインスト・ヒップホップを軸としたアルバム『Keshiki』を発表。現在、トラック製作の他にライブ活動にも力を入れている。
YOJIRO ANDO
YOJIRO ANDO “KESHIKI”
YOJIRO CHIBA “CUBE DAY LOVE”


■ヤコブ:(新潟公演に出演)
国内外の先鋭的なアーティストを招聘し、アート・エキシビションやクラブ・イベントなどを行う、新潟のアンダーグラウンド・シーンを牽引する red race riot! を主催し、DJとしてもプレイする。また様々なイベントでもDJとして精力的な活動を行い、盟友 le とのDJユニット、Ixalods の名義も持っている。
RED RACE RIOT!
Interview with JACOB


■speedometer. (高山純 a.k.a. slomos):(大阪公演に出演)
1990年代より speedometer. として活動、6作のアルバムをリリース。中納良恵(ego-wrappin')、イルリメとのユニット「SPDILL」、山中透(ex. Dumb Type)とのコラボレーションから、二階堂和美の編曲、ビッグポルノ楽曲担当、故市川準監督作品への楽曲提供など。近年はAUTORA(山本アキヲ+高山純+砂十島NANI+森雄大)としても2作のアルバムをリリース、アパレル・ブランドのコレクションに楽曲提供、台湾・蔡健雅のアルバムに編曲者として参加。
​オフィシャルサイト
https://takayamajun.com/


■Dove:(大阪公演に出演)
大阪拠点のシンガー/プロデューサー。2018年にリリースした1st EP「Femm」、2019年にリリースした2nd EP「irrational」が各地で話題となり、今までにデンマークのシンガー Erika de Casier やレーベル〈PAN〉の M.E.S.H や Toxe などと共演。自主レーベル〈Pure Voyage〉も共同で主催しており、各方面から今後が期待されているアーティストの1人である。
https://soundcloud.com/doveren

interview with Michael Gira(Swans) - ele-king


Swans
Leaving Meaning

[解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録]
Mute/トラフィック

Experimental RockPost Punk

Amazon

 ニューヨークのノー・ウェイヴ勢がその崩壊型のアート虐殺行為を終えつつあったシーン末期、1982年にスワンズは出現した。1983年のデビュー作『Filth』のインダストリアルなリズムと非情に切りつけるギターから2016年の『The Glowing Man』でのすべてを超越する音響の大伽藍まで、彼らは進化を重ね、長きにわたるキャリアを切り開いてきたが、次々に変化するバンド・メンバーやコラボレーターたちの顔ぶれの中心に据わり、スワンズの発展段階のひとつひとつを組織してきたのがフロントマンのマイケル・ジラだ。

 実験的な作品『Soundtracks for the Blind』に続き、スワンズは1997年にいったん解散している。そこからジラはエンジェルズ・オブ・ライトでサイケデリックなフォーク調の音楽性を追求した後、新たなラインナップでスワンズを再編成しこの顔ぶれで2010年から2016年にかけて4作のアルバムを発表。じょじょに変化を続けるジラのサイケデリックからの影響を残しつつ、それらを音の極点のフレッシュな探求に融合させた作品群だった。このラインナップは2017年に解消されたものの、それはバンドそのものの終結、というか長期の活動休止を意味するものですらなかった。そうではなく、ジラは自らのアイディアの再配置を図るべく短い休みをとった上で、『Leaving Meaning』に取り組み始めた。クリス・エイブラムス、トニー・バック、ロイド・スワントンから成るオーストラリアの実験トリオ:ザ・ネックスから作曲家ベン・フロスト、トランスジェンダーの前衛的なキャバレー・パフォーマー:ベイビー・ディーに至る、幅広い音楽性を誇るコラボレーターたちが世界各国から結集した作品だ。

 マントラ調になることも多い執拗なリズムとグルーヴ、トーン群とサウンドスケープの豊かな重なり、ゴスペル的な合唱によるクレッシェンドとが、今にも崩れそうなメロディの感覚で強調された、霊的な音の交感の数々へと統合されている。このアルバムおよびその創作過程の理解をもう少し深めるべく、筆者はアメリカにいるジラとの電話取材をおこなった。取材時の彼はこれまでも何度かコラボレートしてきたノーマン・ウェストバーグを帯同しての短期ソロ・ツアーに乗り出す準備を進めているところだったが、それに続いて彼は2020年から始まる『Leaving Meaning』ツアー向けの新たなスワンズのライヴ・ショウ作りに着手するそうだ。(坂本麻里子訳)

わたしはドアーズを聴いて育ったんだ。大げさな音楽だったかもしれないけど、その当時はすごくいいと思ってた。いまでもその頃聴いてたレコードのことを思い出すよ。

アルバムを聴いたのですが、かなり手の込んだプロセスだったのではないでしょうか。参加したアーティストも30人以上います。

ジラ:6ヶ月やそこらかかったんじゃないかな、いや、8ヶ月だったかも。ようやく作り終えたのがたしか3ヶ月前。かなりの作業だった。

大部分をドイツで録られましたね。なぜドイツだったのでしょう?

ジラ:メインで参加してくれてるアーティストがベルリン在住だった。ラリー・ミュリンズ、クリストフ・ハン、ヨーヨー・ロームとまず元になるトラックを録って、その後サポート(と言えども、重要な役割の)ミュージシャンを呼んだわけだけど、彼らもベルリン在住だったからね。ベルリンには他にも何人か呼び寄せて、素晴らしきベン・フロストと作業するためにアイスランドに飛んだよ。ニューメキシコ州のアルバカーキにも行って、A Hawk and a Hacksawのヘザーとジェレミー、昔からの友人のソー・ハリスとも作業した。で、ブルックリンでダナ・シェクター、ノーマン・ウェストバーグ、クリス・プラフディカのパートを録って、またベルリンに戻ってオーヴァーダブとミックス作業をしたんだ。

以前とはかなり異なるプロセスだったのですか?

ジラ:うーん、2010年から2017年、18年くらいまでは固定のバンド・メンバーがいた、メンバー間の仲も良かったし、みんないいミュージシャンだった。スタジオに入って、ライヴ演奏してきたものや、わたしがアコースティック・ギターで書いた曲に肉付けしたものを録ったりした。いつも一緒にやっている人は決まっていて、外部から人を連れてきたりもしたけど、ベースになる部分はずっと同じだった。スタジオに入って、全てをレコーディングしたりもした。わたしが不在のこともよくあったけど、いまみたいに大世帯ではなかったんだ。その当時のバンドを解散してからは、曲に見合って、作り上げてくれる仲間を選ぶようにした。

アルバム、『My Father Will Guide Me up a Rope to the Sky』(2010)から『The Glowing Man』の流れでいくと、先に広がりを持つ曲作りをされたということでしょうか?

ジラ:まずわたしがアコースティック・ギターのみで録って、そのあとみんなでスタジオで作りこんでいった曲もあるよ。他の曲はライヴでやったものを使ったりもした。アコースティック・ギターから生まれたグルーヴをスタジオでみんなとプレイして、エレクトリック・ギターを乗せて、バンドとして曲を作りこんでいく感じ。そこから、ライヴ演奏して、わたしひとりじゃなくて、曲が展開するに従って、バンドとしてインプロしていく。こういった断片的なものを生でプレイして、積み重なって、どんどん構築される──30分の曲もあれば、50分の曲もある。ある曲を演奏しているうちに、新たな流れができて何かが生まれて、元にあった部分を切り捨てたりとかね。わたしたちの曲は常に進化系だから、その先の流れも見えてくる。なかなか面白いやり方だったと思う。

かなり前に作られた曲の断片を再度使い、新しいものに生まれ変わらせる、といったプロセスなようにも取れますね。例えば、『The Glowing Man』内の“The World Looks Red/The World Looks Black”は80年代にサーストン・ムーアのために書かれた歌詞が引用されています。

ジラ:音楽が完成することは決してないと思っている。今回のアルバムの曲にしても、新しいバンドと演奏すれば、また新たに進化していくものだろうし。むしろそうであってほしい。アルバムと全く同じように聴こえるのではつまらない、新しいかたちでで演奏できる術を見出したい。常に崖っぷちにぶら下がってる感覚が大切なんだ。まがりないものを作り出すにはいい刺激なんじゃないか。

そういった意味では、今回のアルバムを作る過程は以前とは逆のやり方だった、と?

ジラ:そうかもしれない。ただ、今回のアルバムの構成・作曲に関していうと、作りはじめはむき出しの状態。いままでに演奏したことがあるものじゃないから、構成、作曲、ミックス、プロダクションという流れだった。以前に存在していたものではなかったから、だから自分のよく知るやり方でベストなアルバムを作ったのみ。で、想像つくと思うけど、このでき上がったものを思い切りぶち壊すのが次のステップ(笑)。

ご自身のアコースティックのデモを事前にリリースし、今回のアルバム制作資金を調達しました。以前にもこのやり方をされたことがありますね。

ジラ:何度もね。曲が反復する部分があるんだけど、そこからその曲のごく初期のヴァージョンや、アウトラインが見えてくると思う。ただ、こういう曲をアルバムと比べると、相当変化を遂げている。あるものが常に進化段階だという事実は重要だ。

レコーティングされたものとライヴ音楽の関係性について。ライヴ体験は独特の身体的若しくは直感的な何かがあるように思えます。

ジラ:そうだね、特に前作から感じ取れたと思うけど(笑)。音量重視だったからね。それには訳があって、ただ単に音量をあげたかったのではなくて、そこまでの音量にしないとしっくりこなかったっていうのがあった。これからのライヴではもうそのやり方はしないけど。それなりの音量にはなるが、以前のように音量に圧倒される体験ではなくなるね。

それを聞いて、以前ブライアン・イーノが言ったことを思い出しました。何かが限界ギリギリになったときにこそ、クリエイティヴィティが生まれる、と。例えば、スピーカーを最大音量まであげたときに、ディストーションという新しい音の形が生まれるように。

ジラ:ああ、想定外のものが生まれるのをみるのは楽しい。わたしも最初に作ったものを捨てて、予想外の産物を使うことがよくある。そっちの方が熱がこもってる気がするから。

かなり冒険的なアプローチですよね。それはご自身が元々ミュージシャンとしての訓練を受けていないことに起因していると思いますか?

ジラ:そうだな、わたしがギター・プレイヤーと曲作りをしているとする。わたしが自分のギターでコードを弾いて、「もうちょっとオープンコードっぽく弾いてみて」と頼んで、弾いてもらう。で、「あー、ちょっと違うな。もっと高いコードでやってみようか。それかハモってみるか」って具合に。その曲にしっくりくるものを探すのみ。だいたいわたしが曲を書くときはアコースティック・ギターを使うんだけど、ギターに腹が触れてるもんだから腹で音を感じるんだよ。わたしが弾くコードにはオーヴァートーンや共鳴があって、曲を組み立てていく段階になると、むしろコード主体というよりもコードを取り囲むサウンドがメインになること多い。そうすると、「そうか、そこに女性ヴォーカルかホーンを入れたらこの共鳴部分を引き出すことができるのかもしれない」ってなるから、そうやって曲が作り上げられていく。

だから自分のよく知るやり方でベストなアルバムを作ったのみ。で、想像つくと思うけど、このでき上がったものを思い切りぶち壊すのが次のステップ(笑)。

ギターの共鳴を身体で感じるとおっしゃっていましたが、音楽の身体性について思い出しました。

ジラ:ああ、まあ、わたしはある意味、サウンドにのめり込んで消えてしまいたいっていう、こう、青臭い衝動に駆られるから、スケールはでかければでかいほどいいんだけど。ただ当然、長いこと生きていれば、でかいサウンドにしたいんだったらそれなりにサイズ感を合わせていかなきゃいけないことを学ぶわけで。青臭いっていったのは、若かりし頃に音楽に没頭して、そのなかに埋もれるとどこか新しい場所に辿り着けたことを思い出したから。だから、ステレオの音量をグッと上げるんだよ、しばしのあいだこの世から消えてしまいたいと思うから(笑)。

わたしの青春時代はいつもシューゲイザー・ミュージックでしたね。音の渦に飲み込まれますから、音楽的にはひどいものだったかもしれませんけど。

ジラ:申し訳ないけど、中身のない音楽だな(笑)!

その当時は自分自身の中身も空っぽだったんだと思います!

ジラ:わたしはドアーズを聴いて育ったんだ。大げさな音楽だったかもしれないけど、その当時はすごくいいと思ってた。いまでもその頃聴いてたレコードのことを思い出すよ。

そう考えると、最近のスワンズのサウンドはドアーズ特有のエコーを彷彿させるものがありますね。サウンドそのものというよりも、雰囲気ですけど。

ジラ:まあそうだな、ドアーズはわたしの一部になってるから。ジム・モリソンみたいに歌えたら、もう死んでもいいや、だってそれ以上の幸せなんてないだろ(笑)。

ノイズやノイズ・ロックのような音楽の極限を追求する音楽は多々ありますが、80年代、90年代のアーティストがもともとこの音楽的な限界を作り始めたように思います。どのようにしてご自分の限界に挑み続けられているのでしょうか。

ジラ:その当時、スワンズは“ノイズ”音楽だと言われてたみたいだが、そう思ったことは一度もない。“サウンド”──純粋なサウンド、と捉える方が個人的にはしっくりきた。“ノイズ”と言われてたことを気にすることもなかったが、常に自分のやり方で、自分にとって唯一無二の、本物の音を追求してきたつもりだ。

そういった意味でこのように音楽に限界を設けるのは、音楽的な違反を犯すということなのかもしれません。

ジラ:他人が何をしようと関係ないさ。ルールを破りたいのあれば、どうぞご勝手に(笑)! そうしたところで、結局またそのルールとやらに縛られることになるんじゃないかと思うけど。やりたいことは自ら見つけるべきだし、それが人を不快にさせるなら仕方ないこと。ただそうと決めても、またその事実に結局は囚われることになる。誰かが決めたルールのなかで音楽は作りたくはない。

今回のアルバムに話を戻します。『The Glowing Man』に比べると、歌詞重視なように思えます。

ジラ:かなり意図したものだ。特に過去の『The Seer』、『To Be Kind』、『The Glowing Man』の3作に関しても歌詞はそれなりに重要だったんだけど、若干陰に隠れていたのかもしれない。歌詞がゴテゴテしすぎたり、奇抜すぎたりすると、サウンド体験の妨げになりうると思ったから。今回はこのサウンドに見合うものを生み出すことに挑戦した。ある意味、ゴスペルみたいな感じだよね。何度も繰り返されるフレーズがあって、それが昂揚していくような。だから、物語調のものより、サウンドに意味をもたせてくれるようなアンセムとかスローガンみたいなフレーズを見つけようと思ったんだ。今回の新しいプロジェクトでは、もっと歌詞を書くと決めて、アコースティック・ギターを持って自分をなかば強制的に歌詞に集中させるところからはじまった。湧き出てくる言葉もあれば、どうしてもうまい具合に出てこないこともあったけど。

インプロを多用し、生で演奏し作り上げていくというスタイルから、より構造的なものにしていこうというプロセスの変化の一端だということですか?

ジラ:ああ、そうだね。歌詞は明らかに完成してるけど、そこからまた曲が進化していくっていうときもあったね。歌詞ができていないときでも、イメージしているものがあがってくるまで、適当なフレーズで歌ってたときもあった。で、そのイメージと他のイメージの相乗効果で曲ができたり。その場合、全ての曲はすでに完成していて、あとはその曲を演奏してる人たちと詰めていくだけだった。

このアルバムの制作過程で歌詞から何かテーマが生まれてきましたか?

ジラ:どうだろう。いつも自分自身の存在に惑わされ、驚かされてるからさ。自分の精神、一般的にいう精神というものがどういうものなのか、意識とはどういう仕組みなのか理解しようとしているんだけど、もしテーマがあるとしたらそれかな。君が若い頃にこういう経験があったかどうかわからないけど、わたしには間違いなくあった、とくにLSDをやったときにね。鏡のなかの自分の姿をある一定の時間眺めていると、自分が肉体から離れていくのが見えて、鏡のなかの人物は自己というものを失う、この現象。こういった心理状態は興味深いものだ。

歌詞やサウンドについて。“Amnesia”を例にとります、もしかしたらわたし自身の不安を投影しているだけかもしれませんが、世のなかが制御不能に陥っていくような印象を受けました。

ジラ:さあ、いまの世のなかについてどうこう言えるほどの立場にないからなんとも言えないけど、自分の頭のなかがどうなってるかはよくわかってるつもりだ(笑)。

まあ、わたしはある意味、サウンドにのめり込んで消えてしまいたいっていう、こう、青臭い衝動に駆られるから、スケールはでかければでかいほどいいんだけど。

先ほど、ゴスペル音楽についてお話されていましたが、今回のアルバムにもその要素が入っているように思えました。このような音楽は、宗教的な救済を彷彿させるのではないでしょうか。

ジラ:うーん、救済、ではないかな。救済っていうんだったら、まずは呪われていることが前提じゃないか。恍惚的な何かに解けこんでいくっていう考え方は、もちろん音楽の本質だけどね。それは常に追い求めている。曲ってシンプルなものだったり、短編的なものだったりするんだけど、サウンドのなかで我を見いだしたり、見失ったりってことを同時にやっているってことでもあるんじゃないか。

“Leaving Meaning”では最近話題のドイツの「Dark」というテレビ・ドラマのサントラを担当してるベン・フロストが参加していますね。映画ファンなんですか?

ジラ:映画オタクってわけでもないし、すごく詳しいわけじゃないけど、映画はよく観るよ。近代では一番わかりやすい芸術の形なんじゃないか。個々の持つ力をうまく引き出して、自分のヴィジョンを維持しつつ、そこから芸術作品を作り出すって、とてつもないことだと思うんだ。まとめていかなきゃいけない人たちからあれこれ言われたり、経済的な困難だとか、それを全て乗り越え、ものすごく手の込んだ何かを生み出すのはとてつもない労力だ。

いまお話にあった、手が込んで、包括的な芸術作品である映画のように、あなたが音楽的に成し遂げたいなにかはありますか? アルバムを聴いていると、単に個々の曲を寄せ集めただけではないような気がします。

ジラ:80年代後半か、もしかしたら80年代なかばくらいから、アルバムをサウンドトラックとしてとらえるようになった──エナジー、わたしたち独自のサウンドそして昂揚感が詰まったものとして。音を通じて、完全なる体験を作り出したかったんだ。自分が映画を撮ったり、脚本を書いたりなんて腕は全くないが、こういった体験に音を落とし込んでいくことだけはできる。

それは曲や音楽の欠片が他のものに移り変わっていく過程なのではないかとわたしも思います。

ジラ:以前のアルバムだと、音の継続性や遷移性は少し掘り下げてみるだけだったこともあったが、『Soundtracks for the Blind』(1996)あたりから、それを実際に採用してみたら面白いんじゃないかと思うようになった。だからその流れに乗って、曲を作ってみようってなったんだ。「お、面白いやり方が見つかった、遷移的で形のない瞬間を紡いでいこう」って思ったのを覚えてる。

最後になりますが、次のステップとして今回のアルバムをライヴで実現したいとおっしゃっていましたね。どのようにして実現されるか、若しくはどのようなセットアップにされるか決めているのですか?

ジラ:まだあまり公にするつもりはないんだけど、6人編成で、座っての演奏になる予定。延々と伸びた音の洪水がポイントになって、そこから曲が展開していくっていう変わった編成の予定だけど、どうなるかね! リハの期間は3週間あるから、なかなか面白いことになりそうだ。このツアーで新しいバンドと一緒に作り込もうと思っている曲はあるんだ。これからはじまるソロ・ツアーが終わったら、彼らとのツアーだけでプレイ予定の新曲が完成しているはず。いいサウンド体験にできればいいんだけど。

現在のセットアップにインプロを取り入れる予定は?

ジラ:ああ、そうだね、それもいいなとよく思ってる。それにはまずコード構成をちゃんとおさえて、それからどうやってそれをぶち壊すかを考えないとだな(笑)!

Emerging in 1982 into the disintegrating art-carnage of the New York no wave scene’s dying days, Swans have carved out an enduring career that has evolved from the industrial rhythms and harsh guitar slashes of their 1983 debut Filth through to the transcendent sonic cathedrals of 2016’s The Glowing Man, with frontman Michael Gira orchestrating each evolutionary step from the centre of an ever-shifting lineup of bandmates and collaborators.

Swans disbanded in 1997, following the experimental Soundtracks for the Blind, with Gira pursuing a psychedelic folk-tinged direction with Angels of Light before reforming Swans under a new lineup for a run of four albums between 2010 and 2016 that retained Gira’s evolving psychedelic influences and fused them to fresh explorations of sonic extremes. The dissolution of that lineup in 2017 didn’t herald the end of the band though, or even an extended hiatus. Instead, Gira took a short break to reconfigure his ideas and began work on Leaving Meaning, bringing together a worldwide cast of musically divcerse collaborators ranging from Chris, Tony Buck and Lloyd Swanton of Australian experimental trio The Necks through composer Ben Frost to transgender avant-cabaret performer Baby Dee.

The album synthesises insistent, often mantric rhythms and grooves, richly layered tones and soundscapes, and gospel-like choral crescendos into moments ecstatic sonic communion underscored with a frequently fragile melodic sensibility. To try to understand a bit more about the album and the process behind it, I spoke with Gira by phone from the United States, where he was preparing to embark on a short solo tour with occasional collaborator Norman Westberg before working on creating a new live Swans show to tour Leaving Meaning in 2020.

IM:
Listening to this album, it feels like it was quite an involved process, and looking at all the people you collaborated with, there’s more than thirty people on the album.

MG:
It took six months or something – maybe eight months – and I finished three months ago, maybe. It was quite involved.

IM:
You recorded a lot of it in Germany. Why did you take that decision?

MG:
Some of the main players lived in Berlin. Larry Mullins, Kristof Hahn and Yoyo Röhm were the people with whom I first recorded the basic tracks, and then other ancillary musicians, although ultimately of equal importance, also lived in Berlin. I flew some people into the studio in Berlin as well, and then I travelled to Iceland as well, to work with the wonderful Ben Frost. I also travelled to Alberqurque, New Mexico, and worked with Heather and Jeremy from A Hawk and a Hacksaw and my old friend Thor (Harris). And then I travelled to Brooklyn and recorded Dana Schechter, Norman Westberg and Chris Pravdica and a few other things, and then I went back to Berlin and did some more overdubs and mixed.

IM:
Is that a very different process from the way you’ve worked previously?

MG:
Well, from 2010 to 2017-18 I had a fixed band for a while – great friends, great musicians – and we had a thing, so we’d go into the studio and record the material we had worked on live perhaps, or things that I had written on acoustic guitar we fleshed out. I had a set group of people with whom I worked, and then I would bring in other people to add orchestrations, but I had a basic group. We would go into the studio and record everything – I’d travel around a bit, but there weren’t as many people involved. Since I decided to disband that group, I just chose the people, whomever they might be, that served the song and helped orchestrate the song.

IM:
So on that run of albums from My Father Will Guide Me up a Rope to the Sky through The Glowing Man, the songs were built up live to a greater extent?

MG:
There are songs on there that I wrote exclusively on acoustic guitar and then we orchestrated them in the studio. Other ones came through playing live. I would have maybe a groove on the acoustic guitar and then I would go and rehearse with those gentlemen and I’d play electric guitar and then as a group we’d build it up and develop the song. And then we’d play it live and we had a tendency to improvise as a group – not solo, but improvise as the music unfolded. These long pieces developed just through performing, some of them thirty minutes long, sometimes fifty minutes long – it would just grow and grow. And sometimes what would happen is we’d have a song we were playing and a new thing would happen, which would become a new song and we’d leave the old bit behind, so it was always evolving and we’d find a new path forward. It was an interesting way to work.

IM:
There also seemed to be this process where fragments of old songs from a long time ago would re-emerge and gain a new lease of life. For example, on The Glowing Man using lyrics you’re written back in the ’80s for Thurston Moore in the song The World Looks Red/The World Looks Black.

MG:
I don’t look at the music as ever being finished. Even the songs from this album, I’m going to perform some of them with a new group and I expect that they’ll change considerably. I want them to – I don’t want them to sound like the record: I want to find a new way to perform them. It’s always important to me to be dangling over the cliff and having failure nipping at your toes. It’s a good impetus to make something authentic happen.

IM:
So in that sense, was the process behind Leaving Meaning almost in some ways the reverse of the ways you’d been working previously?

MG:
Maybe so. However, the way that this was composed and orchestrated was naked at the beginning. There wasn’t a history of playing it, so it was composing, orchestrating, mixing and producing this thing in and of itself. It didn’t have a life previous to that, so I just made the best record I knew how to do. And now, of course, the next thing to do is to fuck things up as much as possible (laughs).

IM:
You helpeed fund this album with a collection of your acoustic demos as well, right? You’ve done similar things in the past too.

MG:
Many times, yes. There’s one iteration of the songs and you can see the skeletal, nascent version of the songs, but as you compare those to the album, they’re obviously transformed quite a bit. Things are always in process, I think that’s important.

IM:
In terms of the relationship between recorded and live music, there’s also something physical or visceral that is unique to the live experience.

MG:
Yeah, particularly with the last version of Swans you felt it (laughs). It was very volume-intensive. And for a reason: it wasn’t just to be loud, it was that it didn’t sound right unless it was loud. But I’m leaving that behind in the next performances. It’ll have some volume, but it won’t be the overwhelming experience that it was in the past.

IM:
That reminds me of something that I think Brian Eno once said, about how creativity often emerges when something is pushing against its limits, for example in the way that volume pushing against the maximum carrying capacity of the speakers creating new sounds in the form of distortion.

MG:
Yeah, I enjoy that. I enjoy when unexpected results occur, and oftentimes I will discard the original thing and go with these unexpected results because they seem to have more fire in them.

IM:
That seems like quite an exploratory approach, and do you think it has something to do with you not being a formally trained musician?

MG:
Well, say I’m working with a guitarist and I’ll have a chord on my guitar and I’ll say, “Why don’t you try this, more of an open chord?” and then they’ll try something and I’ll say, “Ahh, not quite. Maybe move up the neck or let’s do a harmony.” It’s just searching for what works with the song. Usually, if I’m playing a song with an acoustic guitar, which I do when I’m writing, I can feel it in my belly because the guitar’s resting against my belly and there’s these overtones and resonances that are in the chords I play, and often the orchestration is inspired by what I hear around the chord rather than the chord itself. So I might think, “Oh, maybe I can bring out that resonance if I added some horns or some female vocals,” so things start to grow in that way.

IM:
What you said about the resonances of the guitar against your body brings me back to the idea about the physicality of music.

MG:
Yeah, well, I have a kind of adolescent urge to disappear in the sound, so I usually want things bigger and bigger. Of course, I’ve learned over the years you actually have to make things small also in order for something to sound big. I say adolescent because I associate it with my younger days listening to music, and just to disappear in the music and it kind of takes me somewhere. That’s why you turn up your stereo really loud: because you just want to be erased for a while, you know? (Laughs)

IM:
That reminds me of when I was a kid and my teenage crybaby music was always shoegaze. Even when the music was horrible, I could just disappear into the sound.

MG:
Unfortunately, the music had no content! (Laughs)

IM:
Probably back then I had no content myself either!

MG:
I grew up listening to The Doors. Maybe melodrametic, but it was pretty fantastic. I still think about those records sometimes.

IM:
I can definitely feel some echo of The Doors in recent Swans, at least in the feeling if not exactly the sound.

MG:
Yeah, I mean it’s there in me, for sure. If I could sing like Jim Morrison, I’d immediately kill myself because I’d be so happy. (Laughs)

IM:
With a lot of music that explores sonic extremes, like noise or noise-rock, it sometimes feels as if those limits were already charted by artists in the 1980s and ’90s. How do you keep on being able to challeenge yourself?

MG:
Well, I realise the word was bandied about in regards to Swans back in the olden days, but I never agreed with the term “noise” as applied to us. “Sound” – pure sound would have been a better term for me. But I’ve always followed my own path, and what I think sounds real and not redundant or phony is what I pursue.

IM:
In that sense, maybe thinking of sonic limits in these terms is similar to the idea of transgression, which I know is an idea you don’t necessarily agree with.

MG:
Oh, I don’t care what people want to do. If they want to transgress, all power to them! (Laughs) It just seems like that puts you in the position of a captive in a way, nipping at the heels of your master. To me, one should just choose their own destiny and if that bothers people, fine, but if you make that the point, then you’re necessarily beholden to the people that you’re trying to bother.

IM:
To return to Leaving Meaning, it felt like a more lyrically dense album than, say, The Glowing Man.

MG:
That’s very intentional. The thing is, with the last three records in particulat – that would be The Seer, To Be Kind and The Glowing Man, the lyrics were important, but they took kind of a back seat because if the words were too baroque or ornate, it tends to distract from the experience of the sound. So my challenge was to create signifiers that worked with the sound. Sort of like gospel in a way – you know, you’ll have a phrase that keeps repeating and that ties in with the crescendo. So the challenge was to find words that were more like anthems or slogans rather than someone telling a story, and that would just add meaning to the sound. In this new project, I decided I wanted to write more, so I sat down with an acoustic guitar and forced myself to keep working on the words and they develpped. Sometimes the words flowed and others it was just hacking away with an icepick at a mkountain.

IM:
Is that then partly a function of the change in process from building up the songs live with a lot of improvisation to something more compositional?

MG:
Yeah. I mean, there are some instances in that period where I had clearly finished words and then the songs grew from that, but in other things I wouldn’t have words, and even live I’d be singing nonsensical phrases until an image appeared, and then gradually that image would inspire other images and then I’d have a song. But in this instance, the songs were all there, written, and it was a case of finding life in them with the people that interpreted them.

IM:
Did you notice any themes emerge from the lyrics through thr process of writing this record?

MG:
I don’t know. I’m perpetually befuddled, flummoxed and astonished just by the fact of my own existence, you know? Trying to figure out how my mind works or how a mind works, how consciousness works, and if there’s any theme, it’s that. I don’t know if you had this experience when you were young – I certainly did, particularly when I took LSD – but staring at your face in the mirror long enough, you become disembodied and this person in the mirror loses all sense of being you: it’s just this phenomenon. That kind of frame of mind interests me.

IM:
In the lyrics and music of some songs, for example Amnesia, and I may be projecting my nown anxieties here, but I got the impression of a world spiralling out of control.

MG:
I don’t have an authoritative enough perspective enough to make comments about the world in general, but as far as questioning the reality of my own mind, I’m pretty good at that. (Laughs)

IM:
You also brought up gospel music earlier, and that’s also a soun d and feeling that ceme through on this album. That’s a kind of music that traditionally has been concerned with the idea of salvation.

MG:
Well, I don’t know about salvation. Salvation would presuppose that you’re damned to begin with, but the idea of dissolving into something ecstatic of course is inherent in music, so I’m always looking for that. Sometimes the songs are simple and it’s just a little vignette, but sometimes it’s about simultaneously finding and losing yourself in the sound.

IM:
On Leaving Meaning you worked with Ben Frost, whose work on the soundtrack to the German TV drama Dark was very well received recently. Are you a big fan of cinema?

MG:
I’m not a cinephile – I’m not an expert or anything – but I definitely enjoy movies. I think of the last century, it’s the most comprehensive artform. I have tremendous admiration for an auteur director who can harness all these different forces, keep a vision and manage to forge a work of art out of it. You can imagine all the things tugging at you from every direction from all the people you have to pull together, all the financial travails you have to endure, and making this completely immersive out of it I think is just tremendous.

IM:
In creating these immersive, all-encompassing works of art, is there a parallel with what you try to achieve musically? Increasingly your albums seem to be aiming for something more than just a collection of discrete songs.

MG:
Since the late ‘80s or even mid-‘80s I started to look at albums in a way as soundtracks, replete with all the dynamics and signature sounds that might appear, the crescandos, and just trying to create a total experience through sound. I certainly don’t have it in me to direct a film – or write a film, for God’sb sake! – but I can forge sound into these experiences.

IM:
That’s about the way one song or piece of music transitions into another I guess, too.

MG:
There was a period in Swans, on the album Soundtracks for the Blind, where in previous albums I’d been exploring just that – these segues or transitions – and then I decided around Soundtracks for the Blind that the more interesting thing was the segues or transitions, so I sort of followed those to make the music rather than trying to have songs – or too many songs, anyway. So I thought, “Oh, there’s an interesting avenue to pursue: these transitional, amorphous moments.”

IM:
So lastly, as you mentioned, the next stage is to take this album live. Do you have a plan for how you’re going to do that or what sort of setup you’ll employ?

MG:
I guess I’m not supposed to talk about it yet, but it’ll be six people, and we’ll all be sitting down. The instrumentation is kind of odd, and I think the emphasis is going to be on extended waves of sound punctuated by moments where a song arises, so we’ll see what happens! We have three weeks of rehearsals to make a band, so it should be interesting. I have songs that we’ll work on and hopefully after I finish this solo tour I’m about to embark upon, I’m going to have a couple of new songs written just for the tour with these people in mind that will be playing live and hopefully we’ll make a great experience.

IM:
And will you still be trying to incorporate space for improvisation into the setup you’re buiolding?

MG:
Oh, yeah, that always interests me. First people have to learn the chord structires, and then we have to learn how to destroy them! (Laughs)

Lone - ele-king

 アクトレス主宰の〈Werk Discs〉から『Ecstasy & Friends』を送り出し、その後〈Magicwire〉からの『Emerald Fantasy Tracks』や〈R&S〉からの数々のリリースで、ぐんぐん知名度を上げていったプロデューサーのローンが来日する。今年は自らのレーベル〈Ancient Astronauts〉を始動させるなど新たな動きも見せているだけに、これは注目の公演だ。11月22日は VENT へ。

Radiohead からGilles Petersonまで
ジャンルを超えたレジェンド達が注目する才能、Lone

〈R&S〉を筆頭に、〈Dekmantel〉や〈Werk Discs〉などの人気レーベルからの作品が大人気! 今年には新レーベル〈Ancient Astronauts〉を始動するなど絶好調な活動を見せるエレクトロニック・ミュージック新世代を代表するアーティスト Lone (ローン)が11月22日の VENT に初登場!

UKのレイヴやデトロイトのテクノに影響を受け、ポスト・ダブステップ旋風が吹き荒れる時代にさっそうとシーンに現れた Lone。Actress 率いる〈Werk Discs〉から2009年にリリースしたアルバム『Ecstasy & Friends』が早耳リスナーの話題になり、2010年
の『Emerald Fantasy Tracks』、そして2012年に名門レーベル〈R&S〉からリリースした『Galaxy Garden』で一躍、世界的プロデューサーの地位にまで上り詰めた。

2011年には Radiohead にリミキサーに選ばれ、2014年には Gilles Peterson が Lone の“2 is 8”をベスト・トラックに選んだりと、Lone の才能はジャンルを超えたトップ・アクトにも認められている。過去には Redbull 主催の EMAF Tokyo や Taico Club などにも出演し、大きな舞台で日本のクラウドにも素晴らしい才能を披露してきた。Boards of Canada にも比肩される孤高のプロデューサーの VENT デビューは要注目だ!

イベント概要
- Lone -

DATE : 11/22 (FRI)
OPEN : 23:00
DOOR : ¥3,600 / FB discount : ¥3,100
ADVANCED TICKET : ¥2,750
https://jp.residentadvisor.net/events/1334405

=ROOM1=
Lone
DJ Conomark
Frankie $ (N.O.S. / KEWL)
shunhor (breathless / euphony)

=ROOM2=
Shintaro & Gradate (haktúːm)
Ueno (Charterhouse Records / sheep)
Jeremy Yamamura
Kyohei Tanaka
KATIMI AI

VENT:https://vent-tokyo.net/schedule/lone/
Facebookイベントページ:https://www.facebook.com/events/402200657399623/
※ VENTでは、20歳未満の方や、写真付身分証明書をお持ちでない方のご入場はお断りさせて頂いております。ご来場の際は、必ず写真付身分証明書をお持ち下さいます様、宜しくお願い致します。尚、サンダル類でのご入場はお断りさせていただきます。予めご了承下さい。
※ Must be 20 or over with Photo ID to enter. Also, sandals are not accepted in any case. Thank you for your
cooperation.

interview with Floating Points - ele-king

 まず弦の響きに驚く。やがて極小の電子音が静かに乱入してくる。終盤、両者は混じり合い、高速スピッカートなのかエレクトロニクスなのか判然としない音の粒子が烈しく舞い乱れる。冒頭の“Falaise”が高らかに宣言しているように、弦(と管)がこのアルバムのひとつの個性になっていることは疑いない。ストリングスは4曲目“Requiem for CS70 and Strings”や10曲目“Sea-Watch”でも効果的に活用されており、そういう意味ではフローティング・ポインツによる4年ぶりのこのアルバムは、昨今のモダン・クラシカルの文脈から捉え返すことも可能だろう。
 が。やはり、それ以上にわれわれを惹きつけるのは、そのエレクトロニックかつダンサブルな側面だ。2曲目“Last Bloom”のエレクトロ、3曲目“Anasickmodular”や7曲目“Bias”におけるダブステップ~ジャングルの再召喚、そして先行シングルとなった“LesAlpx”の4つ打ちなんかを耳にすれば、いやでも身体を揺らさずにはいられない。他方で8曲目“Environments”の音の響かせ方はある時期のエイフェックスを想起させるし、穏やかな“Karakul”や“Birth”では細やかな実験が展開されている。サム・シェパードの雑食性が見事に花開いたアルバムと言えるが、ようするに、テクノなのだ。
 デビューから6年ものときを経て届けられたファースト・アルバム『Elaenia』(2015)によって、クラブ系以外のリスナーにまでその名を轟かせることになったフローティング・ポインツは、新たなファンの期待に応えるかのようにバンドを結成し、「Kuiper」(2016)や『Reflections』(2017)でロック的なアプローチを追究していったわけだけれど、ここにきて彼はふたたびダブステップやテクノの躍動と、実験に立ち戻っている。何か大きな心境の変化でもあったのだろうか?
 本作でもうひとつ注目しておくべきなのは、そのテーマだろう。たとえば“Environments”はリテラルに「環境」を意味しているが、「僕にとって、『Crush』は、じわじわと僕らを蝕んでいく破壊行為を想起させる」と、サム・シェパードはプレスリリースで語っている。「つまり、利己主義に凝り固まった政治的権力闘争、気候変動、抑圧された思想や人びとといった圧倒的に不可避な物事──日常的に僕らが怒りを覚えているこうしたすべてのことにたいし、無力だと感じてしまうような」。
 フローティング・ポインツがポリティカルな要素を直接的に作品とリンクさせたのは、おそらく今回が初めてだろう。プラッドがそうだったように、シェパード青年もまたこの暗黒の社会のなかで怒りに打ち震えている。その怒りが生み出した、しかしあまりに美しい音楽に、わたしたちは耳をすまさなければならない。(小林拓音)

今回、デジタルじゃなくて本物の楽器が使いたかったんだよね。本物の楽器を使って、その音をデジタルの楽器であるかのように扱いたかったんだ。僕からしたら同じなんだ。だから、このアルバムの曲の根本はぜんぶストリングスなんだよ。

今回ヴァイオリンやヴィオラ、チェロを入れようと思ったのは?

サム・シェパード(Sam Shepherd、以下SS):じつはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、クラリネット、フルート、バスクラリネットとフレンチホルンを使ってるんだ。僕は1日じゅうストリングスを聴いていられるほどストリングスが大好きなんだ。天国の音に聴こえるんだよね。でも木管楽器って忘れられがちな気がするんだ。とくに僕自身が忘れてたりすることが多いんだけどね(笑)。トーク・トークのフロントマンのマーク・ホリスのアルバムに木管楽器の音がたくさん使われていて、僕自身はそのアルバムの曲のアレンジはそこまで好きだとは言い切れないんだけど、サウンドは大好きなんだ。すごくオリジナルで美しい音だったから僕もいつか自分の曲でそういう音を使ってみたいなと思ったんだ。

ローラ・カネルはご存じですか?

SS:知らないなぁ……名前のスペルは? 聴いてみるよ。

いまはエレクトロニック・ミュージック全盛の時代ですが、そういうヴァイオリンのようなストリングスの音が逆に求められているのかなという気もしていて。どう思います?

SS:僕は今回、デジタルじゃなくて本物の楽器が使いたかったんだよね。本物の楽器を使って、その音をデジタルの楽器であるかのように扱いたかったんだ。僕からしたら同じなんだ。1曲目はストリングスや木管楽器がふつうにスピーカーから鳴っていて、そこからブクラ(Buchla:モジュラー・シンセサイザー。かなり特定されたもの)に通して、リブートして、音を細かく切って、その切った音をデジタルな音として扱ったんだ。

エレクトロニクスとストリングスの融合が今回のテーマだった?

SS:まったくそのとおりだよ。

冒頭“Falaise”の最後のほうで鳴っているシンセはヴァイオリンのようで、まさに両者の区分が融解しているように聞こえます。

SS:モジュラー・シンセサイザーはすごくテクニカルなんだ。ほんとうはオシレイター(oscillator)っていう、シンセサイザーの音のもとになる波形をつくり出す発振器でベーシックな音をつくるんだ。そのベーシックな音をプロセシして、音楽的な音にするんだけど、今回はオシレイターの代わりにヴァイオリンを使ったんだよね。まるでヴァイオリンがこのデジタル機材の一部であるかのように扱った。だから、このアルバムの曲の根本はぜんぶストリングスなんだよ。機械でプロセスして、フェイドインさせたり、フェイドアウトさせたりしているストリングスの音なんだ。「プロセスする」っていうのは、フィルターに通したり、パンを振ったりしてるってことね。サラウンド・サウンドなんだ。

現代音楽、クラシカルはよく聴いていたんですか?

SS:クラシカルしか聴いてなかったね。エレクトロニック・ミュージックやジャズやソウルを聴きはじめたのは14歳か15歳のときだったかな。目覚めるのが遅かったんだ。僕がそのとき聴いてたエレクトロニック・ミュージックはカールハインツ・シュトックハウゼンとかモートン・サボトニックのようなクラシカル・エレクトロニック・ミュージックで、カール・クレイグとかそっち系ではなかったんだ。

ダブステップやジャングル的なリズムの曲もありつつ、全体としてはテクノのトーンで、それが見事にストリングスと合体している──今回こういうアルバムにしようと思ったのはなぜですか? 少し前まではバンド・サウンドを追求していましたよね?

SS:Elaenia』はエレクトロニックだったんだけど、バンド・サウンドになるポテンシャルがすごくあるアルバムだったんだ。ギターやドラムの音も入っててね。だからバンドにしたんだ。アルバムを聴いたときに「バンドとしてできる!」って思ったんだよね。バンドとして世界中をツアーでまわって、よりバンドっぽくなっていって、つねにライヴしてたんだ。毎日毎日ライヴ、ライヴ、ライヴ……。それで僕ら、いや、僕の音が変わったんだよね。サイケデリック・ロック・バンドのサウンドになってしまったんだ。そのツアーが2017年のコーチェラで終わって、僕は自分のスタジオに戻ってふたたび音楽をつくりはじめた。でも、もうこのときはバンドとしてっていうのは終わったので、ひとりで帰って、ひとりでつくりはじめたんだ。べつにバンドに飽きたわけじゃなくて、ちがうことをやりはじめただけなんだよね。『Elaenia』の前はテクノっぽい感じの音楽をずっとやってたし、『Elaenia』はちょっとしたバンド・フェイズだったってだけなんだ。ツアー終了と同時にそのフェイズが終わって、僕はひとりでスタジオに戻って、それまでやってきたことに戻ったんだ。だからこのアルバムは本能的というか、より直感的なものなんだよね。僕と機材だけ。僕が愛してる音楽はそういう音楽なんだ。サイケデリック・ロックも大好きだけど、テクノも大好きなんだ。

ユースセンターや更生施設に力を入れずに警察に権力を与えまくっていることが腹立たしいよ。理解不可能だ。あとは医療制度だね。お金がないと病院に行けないっていう制度には怒りを感じるよ。

今回の『Crush』はいつごろからつくりはじめたんですか?

SS:今年の2月だね。3月にはつくり終わってたよ。5週間でできたんだ。

制作にあたり「Shadows EP」(2011)を聴き返したそうですが、原点回帰のような意識が?

SS:僕は自分がつくった音楽はあまり聴かないんだ。だって世の中はもっといい音楽で溢れてるでしょ(笑)? べつに聴き飽きてるわけではないけど、つくってるときに聴きまくってるからちょっと離れたくなるんだよね。でも何年か後に聴いたりすると、なんか予想外というか……まったくちがう聴き方ができて、自分がつくったものじゃないかのような感じがしたりするんだ。わくわくするんだよね。深い意味があって聴いたりするわけじゃないんだけど、「Shadows」はもうちょっと長くやっていたかったって気持ちはあるんだ。その気持ちにたいする答えが『Crush』なのかなって思う。僕はいま「Shdows EP」がすごく好きなんだ。8年くらい前につくったんだけど、聴くといまでもわくわくするんだ。

『Crush』をつくる際にとくに参照した作品やアーティストはありましたか?

SS:ものすごいスピードでできたんだ。32年間音楽を聴いてきた僕がいて、ロンドンにある僕の大きな、機材がぜんぶ置いてあるスタジオがあって、機材が正常に動いているのを確認してくれるティムって言う仲間がいたから作業がすごく早くなった。このアルバムはスピーディに作業ができた結果みたいなものだと思うんだ。激しかったよ。音楽を聴いて「こういうふうにしたいなぁー」とかはなかったんだ。アルバム制作中は音楽を聴いてなかったからね。ゆっくりめの曲もピアノの前に座って淡々とできていった、溢れ出てきたって感じだったよ。

《Sónar 2019》でのDJはすごくダンサブルかつ多様なセットでしたが、今回のアルバムがこのようなスタイルになった理由は?

SS:いい質問だねぇ。僕の頭のなかでは、僕がいままで聴いてきた音楽が乾燥機状態になってるんだ。頭のなかで転がりまわってるんだよね。で、僕のスタジオのなかにはブクラやコルグやローランドのようなエレクトロニックな楽器がたくさんある。だから僕のつくる音楽がエレクトロニックなサウンドなんだ。たとえば僕がスタジオに行って、ヴァイオリニスト4人が座ってたとしたら、僕はきっとヴァイオリンの音楽だけをつくるだろう。たとえば「LesAlpx」のBサイドの“Coorabell”って曲なんかはドラムを全部ローランドの新しいドラム・マシーンでつくったんだ。それで8分もあるこの曲のベースを、淡々と10分でつくったよ。できちゃったんだよね。
 やっぱりエキサイティングじゃないといけないと思うんだ。エレクトロニック・ミュージックをつくるうえで僕がたいせつだと思うのは、たとえばチェロ奏者。チェロを弾くには、楽器を抱えて、包み込んで弾かないといけない。だから、チェロの演奏をみると、そのチェロの音を通り越して演奏者の心の音まで聞こえると思うんだ。エレクトロニックの機材だとそれが難しいと思うんだよね。自分と機械だからさ。リスナーがその機械を通り越してアーティストの心が聞こえるようにするには、機材のことを知り尽くさないといけないと思うんだ。これは絶対。

『Elaenia』は音響的にけっこうクリアでしたが、今回は良い意味で濁りがあって、たくさん細やかな音が入っています。それは意図的にやりました?

SS:それもつくりあげたスピードが関係してるんだと思う。今回使った機材はツアー中でも使ってる機材で、曲を早く流したり、ディテールを足すこともできるものなんだ。でもたまに、手を離したら何もコントロールできなくなる状態のセッティングにするんだ。だからつねに機材の舵を取ってないといけないんだよね。前作よりちょっと乱雑な音になっているのはそれが原因かな。ぜんぶセッティングして、機材に声を与えたんだ。でも舵は僕が握っている。野獣に手綱をつけて、暴れすぎたら引く感じって言えばいいのかな。

怒りの根本は、僕たち人間が時間を無駄にしていることからきてると思うんだ。でも希望はある。このアルバムをつくったときは絶望を感じていたし、怒ってたけど、希望がなければ何も正せないと思うんだ。希望は捨てちゃいけない。

本作の背景には「政治的権力競争」や「環境変動」などがあるようですが、やはりいまのUKの情況に影響されたんでしょうか?

SS:グローバルな情況だね。どの問題もちょっと似ていると思う。UKやアメリカ、ブラジルなどでは右派の政治が増えていて、それにしたがって独立主義も増えているんだよね。この世代にとってはほんとうに悲しいことだと思うし、それにたいして闘わないといけないと思うんだ。僕はこの問題についてなら延々と話せるよ。

そういったポリティカルなことを明確に作品とリンクさせたのは今回が初めてですよね?

SS:そうだね。このアルバム以外の作品はもっと抽象的なものばかりだったと思うな。「自分の信じているものを最前線に」っていう形でやったんだけど、それは自分の信じてることが正しいと思ってるからなんだよね(笑)。

いま何にいちばん怒ってる?

SS:毎日ちがうんだよね。たとえばUKでは青少年犯罪がすごく増えているのに、政府はどんどんユースセンターを減らしているんだ。ユースセンターや更生施設に力を入れずに警察に権力を与えまくっていることが腹立たしいよ。理解不可能だ。あとはヘルスケア・システム(医療制度)だね。僕はすべての人間がヘルスケアにアクセスできて当たり前だと思ってる。お金がないと病院に行けないっていう制度には怒りを感じるよ。ほかにも怒ってることはたくさんあるけど、僕が生きている限りずっと怒りを感じ続ける問題は、ヘルスケア・システムだろうね。いまでもつねに頭をよぎるからね。

なぜ今回のアルバムはそういうものとリンクしたんだと思いますか?

SS:リンクしているかどうかは正直はっきりわからない。今年の初めごろに僕は、人生でこれまで感じたことのないほどの絶望を感じていたんだ。その気持ちが僕の音楽に浸透したのは間違いないと思うけどね。修道士のように毎日スタジオにこもる。毎日毎日。僕はそこにいないといけないんだ。でもそれと同時に僕は、世界から自分を締め出してしまいたくないんだよね。だからつねにいろいろ読むんだ。僕自身がより意識するようになったからなのか、ニュースがどんどんひどくなっていってるからなのかわからないけど、確実に読むニュースのひどさに意識が向いているんだよね。そのニュースが僕に怒りを感じさせているし、その怒りから生まれてきた曲も確実にあるんだ。ピアノに向かって「よし、いまからボリス・ジョンソンについて曲を書くぞ」っていう感じでつくってるわけではないんだけど、自分の心が勝手に、つくる曲に反映されているとは思うんだよね。

今回アルバムをこのような構成にした意図は?

SS:けっこう難しかったよ。最初はアップテンポで次第にゆっくり、って順番で並べてみたりもしたんだけど、ぜんぜんしっくりこなかったんだよね。その並べ方だとソフトな曲を聴いてもリラックスできないって思ったんだ。友だちのキーレンとふたりでいろんなコンビネイションを聴いてみたりしたよ。キーレンはシーケンスをすごく助けてくれたんだ。“Sea-Watch”だけはちょっと多めにスペースを与えたいって思ってね。ほかの曲との距離感をたいせつにしたかったんだ。

“Sea-Watch”はアルバムのなかでもとくに静かな曲ですよね。

SS:人道的活動グループの曲なんだ。地中海に船を出して難民を救う団体なんだけど、イタリア政府は認めていない。キャロラ・ラケット(Carola Rackete)っていうドイツ人女性の船長がいて、彼女の船だけで500人の難民を救ってるんだよね。彼女やその団体の人たちはイタリアの政府からしたら犯罪者かもしれないけど、僕はほんとうのヒーローだと思ってるんだ。政治家は揉めているだけだけど、この人たちは危険な海に出て、行動を起こして、人を救っているからね。

8曲めはいきなり唐突に終わります。これは怒りですか?

SS:トラックリストある? 8曲めがどの曲かわからないんだ(笑)。……ああ、“Environments”か。このアルバムは、どの曲もけっこう重めでディテールが強いドラムスが入ってるんだよね。メロディのほうはけっこうピアニスティックでシンプルでメロンコリックだけど。“Environments”の場合はピアノがゆっくり忍び寄る感じで入ってきて、悲しみの感覚が曲の最初から最後まで存在してるんじゃないかな。でもその悲しみのうえに怒りもつねにいる感じなんだよね。曲の最後はすべてがぐるっと回転したかのような激しい怒りで終わるんだ。このアルバムをライヴでやるときがきたら、きっともっと大きな怒りを表現するんだろうなと思うよ(笑)。

そしてアルバムは“Apoptose”という連曲で終わります。「アポトーシス」と聞くと暗い印象を抱く人もいるかもしれませんが、これにはどういう意味が?

SS:僕は学校に行って生物学者になったから、こういう言葉は日常的に使うんだよね。家のキッチンから出てすぐの壁に、プログラムされた細胞死(アポトーシス)のポスターを貼ってるんだ。オタクっぽいって言われるんだよね。友だちとかが家にくると「なんでこんなポスター貼ってんだよ」って突っ込まれるし。だから僕はふだんから「アポトーシス」って言葉に触れてるんだよね。「アポトーシス」って言葉の響きが好きなんだ(註:黙字を発音して「アポプトーシス」と読むことも)。「ポップ!」ってさ、なんかシャボン玉がはじけるような、かわいい音というか。暴力的には聞こえないんだよね。なんか……良いことのようなさ。ぜんぜんいいことじゃないんだけどね(笑)。曲も悪いことを指してるし。でも言葉の響きはいい。「ポップ!」って。日本語だと風船が割れる音をどう表現するの? パン? パン! 英語だと「ポップ!」なんだよね。「ア・ポップ!・トーセス」。その響きが好きなんだ。曲中のドラムスの音もはじけてるような音になってる。ディデールがたくさん詰め込まれた曲だからいろんな音がはじけてるように聞こえると思うんだよね。アポトーシスは末期というか、細胞が死ぬ、ようするに終わりだからアルバムの最後に持ってきたんだけど、そんな悲しいとか暗い終わりって感じじゃなくて、単純に終わりって感じで最後にしただけなんだよね。

こちらの考えすぎだったかな?

SS:いや。この曲はたまたまゆるい感じの曲なんだ。逆に“Sea-Watch”とかにはすごく献身的な意味がある。クリアな意味というか。でも“Apoptose”はゆるめなんだ。

今回のアルバムは、オプティミスティックですか? それともペシミスティック?

SS:オプティミスティックだね。“Birth”は新しい命を祝福する曲だし、いま僕らが目の当たりにしている環境問題や政治問題は人間がつくってしまった問題で、だから人間で正せる問題なんだ。新しく生まれてくる人間たちでね。怒りの根本は、僕たち人間が時間を無駄にしていることからきてると思うんだ。でも希望はある。このアルバムをつくったときは絶望を感じていたし、怒ってたけど、希望がなければ何も正せないと思うんだ。希望は捨てちゃいけない。

Stereolab - ele-king

 1993年から2004年にかけてのステレオラブは、1970年代のデヴィッド・ボウイにも似た活躍を見せ、毎年、新しくて非凡な作品をリリースしていた。個々の作品は単体で見ても優れているのだが、全体として捉えてみると、それがバンドの成長と進化の記録そのものとなって我々を魅了する。

 今回のキャンペーンで再発されるのは、グループ(彼らはたびたび自分たちのことを“group”ではなく“groop”と称する。発音は同じだがgroopには「排水溝」という意味がある)がこの期間にリリースした7枚のスタジオ・アルバムだが、この数字だけでは、当時のステレオラブがどれほど旺盛に制作を行っていたかを説明するにはいささか物足りない。7枚のアルバム以外にも、2枚のミニアルバム、2作品からなるコンピレーション・シリーズ『Switched On』、さらには前衛音楽の伝説的バンド、ナース・ウィズ・ウーンドとコラボレーションした数枚のEPが、同じ時期に生み出されているのだから。彼らに関して興味深いのは、結成して活動を始めたときからバンドとしての完全な形態を成立させており、下積みの期間を飛び越えて、そのままデビューアルバム『Peng!』と複数のシングルとEPを完成させ、それを『Switched On』の1作目に繋げたことだ。

 ステレオラブの下地となっているのは、1980年代のイギリスおよびアイルランドのギター・ポップ・シーンである。このころティム・ゲインが中心メンバーだった騒々しく反抗的な左翼バンド、マッカーシーに、レティシア・サディエールが加入し、バンドにとって最後の(そして最高傑作である)アルバム『Banking, Violence and the Inner Life Today』が制作された。マッカーシーの歌詞は、1980年代のイギリス左派による政治闘争を主要なテーマとしており、しばしば皮肉を込めて、敵対する政治スタンスをあえて標榜し、そうすることで相手の明らかな不合理や偽善を風刺しようとした。マッカーシーの最後のアルバムを聴けば、そこからステレオラブのサウンドが芽生え始めていたことがわかる。ギターの騒がしい音はわずかに鳴りを潜め、それまで以上に瑞々しく多層的なキーボード主体のサウンドが“I Worked Myself Up from Nothing”などの楽曲に現れている。このアルバムでとりわけ興味深い楽曲が“The Well Fed Point of View”で、マッカーシーの定番とも言える、敵の立ち位置を歌に乗せて風刺する手法を採用している──この曲では、自身の幸福と感情の安寧は本質的に個人の問題だと捉えるべきだと聴き手をけしかける。反面、この世界にある残酷さと不公正さもまた、個人に帰する問題だとしている。マッカーシーが言外に主張しているのは、これらは本来、個人の問題ではなく社会の問題だということだ。こうして培われた思想の中核が、やがてはステレオラブの世界観の根幹を成すことになる。すなわち、個人の問題と、社会的もしくは政治的問題の間には、切り離せない相互関係があるということだ。

 ステレオラブが活動を始めたころ、バンドは主にロンドンのミュージシャンたちと交流を持っていた。こうした集まりは「自画自賛の界隈」などと軽蔑されながらも、後のブリットポップに繋がる、何でもありのインディー・ロックシーンを形成していた。当時ステレオラブの周辺には、スロウダイヴ、チャプターハウス、ラッシュなどのシューゲイザーのバンド、またはマッドチェスターの残り火から熱を受け取って早々に名を上げたブラーのようなバンド、そしてシー・シー・ライダー、ガロン・ドランク、ザ・ハイ・ラマズなどの一風変わったパフォーマンスをするバンドなどが存在していた。初期のステレオラブのサウンドには、周囲から受けたさまざまな影響が渾然となっていて、マッカーシーが築いたものをある程度引き継ぎながら、ギターポップとシンセサイザーを組み合わせるだけでなく、シューゲイザーや実験的ポップスの要素も取り入れられている。

 他に初期の彼らに多大な影響を与えたのがクラウトロック、とりわけノイ!というバンドの存在だった。1992年に壮大な叙事詩的傑作『Jehovahkill』をリリースしたジュリアン・コープとともに、ステレオラブは90年代初めにクラウトロックへの注目が再燃した際に中心的役割を果たした。その影響が何よりも華々しく描かれているのが、新たに〈Warp Records〉から再発される作品の中でもっとも古い『Transient Random-Noise Bursts with Announcements』である。再発されるアルバムの中でも──そしておそらくステレオラブの全アルバムのなかでも──これがバンドにとってもっとも荒削りで、獰猛なサウンドの作品だ。冒頭の曲“Tone Burst”は素っ気なく始まるが、次第にサウンドは分裂し不協和音の層に溶け込んでいく。それでいて、このサウンドを際立たせるのがサディエールによる幻想的で夢のような歌詞だ。このように粗さと優美さを並列させるスタイルは、次の“Our Trinitone Blast”でも続き、ヴォーカルは前面に出る声と後ろを支える声に分かれ、片方が粗野に歪めば一方が甘く歌うというように、まるでラッシュのようなハーモニーを奏でている。“Golden Ball”では、間断なくかき鳴らされるギターコードとともに、特定の箇所で明らかにテープが途切れたかのような効果が再現され、ノイ!のセカンド・アルバム後半で積極的に採用されているような、故意に曲のスピードを変化させる一筋縄では行かない演出を真似ている。対して“I'm Going Out of My Way”では、ほとんど若者向けのバブルガム・ロックと言っていいようなガレージ・ロックのグルーヴを取り入れ、ひたすら反復を続けることでトランス・ミュージックに似た作用を引き出している。

“Pack Yr Romantic Mind”では、ステレオラブの原動力を示す別の重要な一面が見られる。それは、情念もしくは冷笑主義のどちらかに裏打ちされたサディエールの抑揚のない平板な歌い方と、その後ろに聞こえるメアリー・ハンセンによる「ba ba ba」という歌声との間に生まれる相互作用だ。また、『Transient Random-Noise Bursts』が、ザ・ハイ・ラマズのメンバーだった(その前はアイルランドのインディー・バンド、マイクロディズニーのメンバーだった)ショーン・オヘイガンを正式に迎え入れ、初めてその存在を前面に出して制作されたステレオラブのフルアルバムだという点も見逃せない。この時点で、オヘイガンはギター・ポップからより実験的な方向へという自身の転向を踏まえてバンドを導いていた。そこにはブライアン・ウィルソン、ヴァン・ダイク・パークス、バート・バカラック、フィル・スペクターの他、多くのアーティストの影響があった。アルバムの持つ粗さにもかかわらず、“Pack Yr Romantic Mind”のような曲を聴くと、このころから前衛的なイージーリスニングの影響を受けるようになったことが明白だ。これは後にステレオラブの作品においてますます重要な特色となるものであり、ザ・ハイ・ラマズの1994年のアルバム『Gideon Gaye』にも、オヘイガンによる特色として現れている。それでもやはり、この歌とアルバムの他の曲との共通点をひとつ挙げるなら、それはマントラのような繰り返しに専念していることで、歌詞はひとつのフレーズを途切れることなく何度も復唱するものになっている。

 しかしながら、ノイ!が用いたような4ビートのモータリック・サウンドこそが、『Transient Random-Noise Bursts』の特徴としてもっとも強力なもので、楽曲“Jenny Ondioline”の要となっている。歓喜に満ちた18分の歌を構成するのは、のらりくらりと奏でられるキーボード、幾層にも重なるシューゲイザーのギター、反抗的でありながら純真さのあるサディエールの独特な歌声であり、そうした寄せ集めの中で、無限に広がる至福の音が神々しいまでの領域に達している。

 『Transient Random-Noise Bursts』がステレオラブのもっとも荒削りなアルバムであるとすれば、1994年の『Mars Audiac Quintet』は、もっとも激しい怒りが歌われているアルバムかもしれない。明るい曲調の“Ping Pong”の軽快なメロディーは、それまでにない都会的なポップ・サウンドで、同時期に日本で渋谷系と呼ばれ始めていたものと類似する。だが、表面的には前向きなこの曲も、歌詞を見ればその様相が一変する。マッカーシーの戦略を引き継いで、語り手は作詞者の真意とは対極にある考え方を持ち、安心させるような口調で、世の中のことで悩むのはやめるようにと聴き手を促す。

「心配いらない 歴史のパターンはもうわかっているから/経済のサイクルがどんなふうに回っていくか/何十年という周期の中で 3つの局面が繰り返し現れる/不況と戦争があっても そこから挽回して元に戻り さらに上を目指していく」

 この架空の語り手は、厳しい時代でも悩むことはないと聴き手を煽る。なぜなら「ものごとは自然に良くなっていく」からであり、「凄惨な戦争があって死ぬのは数百万人 だから心配いらない/せいぜい彼らの命とその次の世代の命が失われただけのこと」と強調する。最終的には、社会の現状に対してメンバーたちが抱く怒りや不安が、「悩まなくていい 何も言わず そのままでいい 受け入れて幸せになりなさい」という言葉で封殺されていることを明らかにする。

 “Three Longers Later”は、平和を実現するという名目で戦争を行うことの不合理について語る。これは、徴兵制度によって家族から父親を奪われた子供の目を通して描かれる──作詞をしたサディエールの祖国フランスでこの徴兵制度が終了したのは、アルバムリリースの2年後だった(そして本稿執筆時の2019年夏、現大統領エマニュエル・マクロンが何らかの形でこの制度を復活させようと試みている)。このテーマを表現するため、楽曲は童謡と言っていいほど穏やかなメロディーから始まり、やがて爆発してスペースロックと呼ぶにふさわしいクライマックスを迎える。

 “Transporte sans Bouger”では、ますます断片化していくように見える世界を嘆く。人びとは空しい「仮想の夢」の中で生き、「隣人のことを知る必要がない」夢の世界で「一定の距離を置いて愛し合う」。1994年には、まだインターネットが人びとの生活に深く浸透していなかったことを考えれば、これは見事な先見性ではないだろうか。徐々に失われていく友好的な地域社会を懐かしむというのは、いくぶん保守的な考え方だ。だが、ステレオラブは左派としてのスタンスにもかかわらず、現在の問題の解決策を探るために過去を振り返ることを決して厭わなかった。
“International Colouring Contest”は、エキセントリックな音楽家で塗り絵帳の制作者であるルチア・パメラの持つ、創造性と宇宙時代的な楽観主義に対する賛辞のようなものだ。曲の冒頭は、ルチア・パメラによる「私の頭の中はアイデアでいっぱい 最高のアイデアを教えてあげる!」という高らかな声のサンプリングから始まっている。ステレオラブは、創造性とは根本的な変革をもたらすものであり、自由の概念と密接につながっているという意識に繰り返し立ち返っている。

 反対に、想像力を発揮するための道筋を塞いでしまうものがあれば重苦しく感じられるだろう。“L'Enfer Des Formes”は、冷笑的な態度が、変化をもたらすための行動をどのように阻害するかということを述べ、クラウトロックの影響を受けた“Nihilist Assault Group”は検閲制度と道徳的な危機を題材に、それがいかに批評的な感性を潰えさせ、問題を効率的に対処するためのあらゆる現実的な手段が犠牲になるかということを描く。“Wow and Flutter”とアルバムを締めくくる“New Orthophony”は、現在の状況を避けられないものとして受け入れるのではなく、異議を唱えることの必要性に触れる。

 『Mars Audiac Quintet』では、前作同様クラウトロックのリズムセクションの技法に頼っているが、それとともに、紛れもなくアヴァンポップの分野に進んでいる。“Ping Pong”に加えて“L’Enfer Des Formes”もまた、表面的には明るいポップなメロディーを奏で、一方“The Stars Our Destination”と“Des Etoiles Electroniques”では、リズムマシンによる陽気なループ音と、夢幻的なシンセと、絡み合うヴォーカルのメロディーラインが組み合わさって流麗で重層的なサウンドを生み、バンドが進む新たな方向性を示している。

 歴史を辿る旅の次なる停車駅は、1996年の『Emperor Tomato Ketchup』だ。本作でこのバンドのサウンドは完全に刷新されているが、それにもかかわらずステレオラブとすぐに認識できる特徴が残っている。前作までと同様、バンドは前進する過程において過去の芸術を参考にしていて、例えばタイトルは日本の劇作家で映画監督の寺山修司による1971年の同名の映画(『トマトケチャップ皇帝』)から取られたものであり、ジャケットのアートワークは1960年代にリリースされたベラ・バルトーク作曲の『Concerto for Orchestra』のジャケットを下敷きにしている。やはりステレオラブにとってお馴染みの要素がアルバムの中核を成しており──繰り返しのリズム、多層的な音作り、あえて外した曲調のポップス、作用しあうサディエールとハンセンのヴォーカル、そしてマルクス主義を遠回しに表現する歌詞──たとえ今作でいっそう洗練された姿へと進化していても、その点は変わっていない。

 最初の“Metronomic Underground”では、クラウトロックの中でもファンク寄りの部分、つまりノイ!ではなくカンのようなサウンドを引き出しているが、フレーズの繰り返しとドラムのループが変わらず全体を包みながら、それぞれの歌がモータリックのリズムを刻み続ける。例えばアルバムと同タイトルの楽曲“Emperor Tomato Ketchup”や“Les Yper Sound”では、そこにヴォーカルが融合し、数々のアルバムのなかでもとくに甘美でポップなメロディーが用いられている。華麗な“Cybele's Reverie”はプルースト風の内省によって記憶を巡り、ステレオラブのポップ・ミュージックへの傾倒を踏まえて、より豪華でオーケストラ的な演出を志向している。一方他の場面では、バンドは繰り返しとループ再生を探求する中で、さらに新しくて興味深い手法を発見しており、それはミニマル・ミュージックの“OLV 26”や左右のギターが鏡合わせのように鳴らされる“Tomorrow is Already Here”といった曲で窺える。

 歌詞においては、それまでのアルバムと比べてさらに抽象的な世界を探求しているが、このアルバムが個人と社会の関係性というテーマをもっとも明示的に扱っていると言えるかもしれない(少なくとも、ステレオラブの全作品の中で、確実にこのアルバムが一番多く「社会」という言葉を使用している)。“Spark Plug”は、個々の人間やあるいは人間の集団が見せる内なる生命の輝きを、抽象的に捉えるのではなく、実際にあるものとして認識することの重要性を描く。“Tomorrow is Already Here”では、本来は社会に資するために用意された、いくつもの制度が、今では対象を抑圧する元凶となっていることに着目する。対して“Motoroller Scalatron”は、子供向けの歌のように質問と答えを歌詞にするという構成になっていて、社会というものが脆弱な基盤の上に成り立っているのだと語り、現在の社会を維持するには、脆弱な基盤が確かに存在し、そしてそれがしきりに変動しているという考えを共有するしかないと述べる──そして皮肉なことに「言葉の上に築かれた」社会では、我々が言った言葉、あるいは言わないことを選択した言葉が、最後には計り知れない結果を招くことがあるのだとも述べる。

 そしておそらく、さらに意義ある変革が、次のアルバム『Dots and Loops』で成された。『Emperor Tomato Ketchup』がリリースされたのと同時期に、シカゴ出身のバンド、トータスが画期的なアルバム『Millions Now Living will Never Die』をリリースし、その少し前にはドイツ生まれのデュオ、マウス・オン・マーズがセカンド・アルバム『Iaora Tahiti』をリリースしていた。3つのグループはいずれも、急速に拡大したにもかかわらず定義が曖昧なままだったポスト・ロックというジャンルのなかで大きな役割を担った。1990年代当時のポスト・ロックを理解するには、ジャーナリストのサイモン・レイノルズの記述がもっとも適しているだろう。「ロックの楽器編成をロックではない用途に使い、ギターはリフやパワーコードを奏でるのではなく、音色や響きを補助するものとして使用される」

 コラボレーション相手としてマウス・オン・マーズを選び、トータスのジョン・マッケンタイアをプロデューサーに迎えたことで、『Dots and Loops』はポスト・ロック黎明期の才能がぶつかり合う場となった。ディストーションのかかった電子音で始まり、そのまますぐに軽快なブレイクビーツに続く“Brakhage”では、サディエールが夢のような声で、消費主義の影響を受けて感覚が麻痺してしまうことを嘆く。一方、先行シングルの「Miss Modular」は、ラウンジ・ミュージックの美しい作品で、歌詞は、戯れや神秘、そして目の錯覚といった比喩に言及している──抽象的な比喩表現のために主題がわかりにくいかもしれないが、フランスの状況主義(人の行動は状況によって決定されるところが大きいとする考え方)の先導者ギー・ドゥボールが消費主義を批判したその著作『スペクタクルの社会』にバンドが親近感を抱いていることからも明らかなように、こうした比喩表現が暗示しているのは、人為的なもの──すなわちスペクタクル──が現実と想像、あるいは歴史と終わらない現在の違いを見極める人間の能力を圧倒してしまうときに、社会的な関係性がより広い意味を持つということであるのは確かだろう。このアルバムに特定のテーマがあるとすれば、それは孤立かもしれない。社会や近しい人たちからの孤立だけでなく(そして個人と社会は不可分だとするステレオラブの世界観を考えれば必然的に)自我や自身の感覚からの孤立もまたテーマである。

 マッケンタイアとの関係は続く2枚のアルバム、1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』と2001年の『Sound Dust』でも続き、その2作には、共同プロデューサーとしてジム・オルークが加わった。『Dots and Loops』に比べればエレクトロニック・サウンドはあからさまではなく、この2枚のアルバムでは、バンドはジャズの影響を取り入れて純然たるアヴァン・ポップの方向に進んでいった。

 『Dots and Loops』が孤立の感覚を携えているとすれば、『Cobra and Phases』はバンド史上もっとも希望に満ちた音が鳴るアルバムである。少なくともその要因の一端は、ゲインとサディエールの間に子供が誕生したことにある。それは“People Do it All the Time”ではっきりと言及されていて、歌詞では、創造的営みの混沌たる作用である生命の誕生を大いに喜んでいる。「混沌のなかから創造が生まれる/ひとつの形に結びついて/酒飲みが正気になるように」そして子供は希望で満たされるべき器であると位置づけ「あなたにはのびのびと育ってほしい/私たちが守っている古い考えを蘇らせて」と宣言する。

 自由に育っていくことは「古い考えを蘇らせる」ことと両立しなければならないという考え方は、ステレオラブが繰り返してきた、前に進むには振り返ることも必要になるだろうというテーマに対する新しい切り口だ。アルバム全体を通して、(単なる誕生や発見ではなく)生まれ変わりや再発見というイメージが繰り返し登場する。“The Free Design”でサディエールは「願いが届きいつでも復活させられる/私たちにできるのはプロジェクトを再生させるだけ」と歌い、過去のプロジェクトで未完成のまま残されたものがあることをほのめかしている。一方“Puncture in the Radax Permutation”に登場する「孤独に歩む人の形をしたもの」は、それが「五感を取り戻」そうとする姿を通して「自分の歩調を再発見する」ことの象徴として描かれる──新しさとは過去を振り返ることに結びついている、そして、生命のサイクルと生まれ変わりが意味するのは、新しいものは必ず何か古いものと同一であるということだ。そのような考えが、ここで再度強調されているのかもしれない。

 『Cobra and Phases』は官能的なアルバムで、最初と最後には愛についての歌が並び、大地と自然のイメージに何度も立ち返っている。本作は、サディエールが女性として生きることをはっきりと単刀直入に歌っている希有な事例であり、フェミニズムのテーマが「Caleidoscopic Gaze」や、クラウトロックにわずかながら回帰した「Strobo Accelleration」で前面に出ている。

 『Cobra and Phases』では楽観的な姿勢が念頭にあったが、『Sound Dust』はさまざまな意味でステレオラブのもっとも陰鬱なアルバムで、資本主義に内在する人間性の剥奪と社会の抑圧を扱うテーマに戻っており、“Gus the Mynah Bird”では「自己決定とは事実として存在しなければならない/本来は権利などではない」と断言して、資本主義は偽りの自由を提供し、嬉々として社会の抑圧と結託するのだと示唆する。“Space Moth”で参考にしているのは2人の映画監督、ジャン・ルーシュとエドガール・モランで、彼らによる1960年の映画『ある夏の記録』は、フランスの多様な人々、なかでもとりわけ労働者階級の人々にとっての幸福をテーマに、幸福とは政治と自由に密接な関連があるという考えのもと、戦争、検閲制度、人種の問題に触れ、ホロコーストを痛切に描いている。この歌の「人間はその職に応じて変わる」というフレーズは、再度、資本主義を自由と相反するものとして位置づける。

 “Nothing to Do with Me”の歌詞は、イギリスの風刺作家クリス・モリスによる陰気でシュールなコメディーから直接引用されている。そのテレビ番組『ジャム』は、不気味なアンビエントミュージックを短編コメディーに組み合わせ、タブーを破り、ドクターと呼ばれる人種は利他的な人々ではないという描写を用いたことで、イギリスで議論の的となった。モリスが描くドクターは、しばしば混沌の仲介者となる。それは自分たちに頼る人々の信頼を不明確な理由で悪用する権威の象徴である。「私の娘に1ポンドのヘロインを処方したの?」と歌の途中でサディエールは尋ねる。他の箇所では、顧客と依頼人という微妙に異なる立場の関連性に混乱が生じ、ひとりの女が配管工に頼みごとをする。「先日は本当に助かりました/おかげでボイラーが直りました/今度はうちの赤ちゃんを直してくれませんか/あの子はもう3週間も動かないの」どちらの例においても、社会的な関係性が悪用されているのだが、社会的に定められた当事者同士の関係性は、それでもなお形式的には妥当な手続きに守られており、穏やかで理性のある様子を見せることは、他者を威圧する非常識な人間に付け入られることに繋がる。

 だが、それ以上に『Sound Dust』は二重性についてのアルバムだと思われる。ステレオラブの曲の多くが、対立する概念を考察して真理に至ろうとする弁証法的アプローチを採用し、2つの対立する勢力や立場に折り合いをつけることを論じていて──命題とそのアンチテーゼがあってこそ、総合的な判断ができるということだ──その構造が変わらず存在する。「Baby Lulu」の歌詞は「両極端なものは一致していた/即興を奏でる/合理的にそして詩的に/すぐに矛盾を見極めながら」と述べている。そしてこれは、バンドにとって、これまででもっとも率直に邪悪という概念に向き合ったアルバムだということでもある。「Naught More Terrific than Man」の歌詞に「ふたつの対極点が人の歩みを導く」とあり、対極点のうちのひとつが邪悪そのものとして描かれる。そして「Suggestion Diabolique」では、邪悪の概念が明らかに聖書を意識した内容で表される。メロディーの華麗さや温かさや美しさは、歌詞の暗さや厳粛さと相まって、アルバムのテーマと同様の二重性を有している。

 このような特徴は、アルバムの音楽的な構成にも反映されており、多くの曲がふたつのパートで構成されている。曲の前半と後半では、メロディーもアレンジも、まったく別のものが展開される。もっとも際だった事例が、楽しげな“Captain Easychord”で、生と死のサイクルというテーマに戻り、それを突き詰めた結果、もっとも基本的な息を吸って吐くという行為のサイクルによってそのテーマを表現している。

 『Sound Dust』はメアリー・ハンセンが参加した最後のアルバムとなった。ハンセンが翌年、交通事故で他界したからだ。今回の再発キャンペーン最後のアルバムとなる2004年の『Margerine Eclipse』には、ハンセンに捧げるという側面がある。楽曲“Feel and Triple”では直接別れに言及し、“Need to Be”では、今あるものを認めるために、痛みや寂しさや死への恐れを受け入れることの必要性を語り、そして“…Sudden Stars”では、愛に向き合って喪失の悲しみを尊重することを伝える。

 当時のヨーロッパやアメリカの政治状況もまた、アルバムのあちらこちらに影を落としている。それは、アフガニスタンやイラクでの戦争、自分たちの中にムスリムという「他者」がいることで具体化したテロの恐怖の増大、そしてますます過度になる国家の監視という姿で現れている。“La Demeure”はこの他者への恐怖を描き、“Bop Scotch”は、我々は自由と安全を天秤にかけられるのかという問いかけを論じる。

 死と恐怖が影を落としているにもかかわらず(あるいは、だからこそと言うべきか)『Margerine Eclipse』はステレオラブのもっとも明るいアルバムのひとつでもあり、また、間違いなくもっともファンク寄りのアルバムで、豊かで濃密なシンセとベースのサウンドが派手に鳴らされながら推進する。そしてこれはもっとも明確に愛を謳ったアルバムであり、最後の曲“Dear Marge”では愛することと学ぶことを関連づけていて、反面、愛と共感が欠けていれば人は学ぶことも成長することもままならないという含みを持たせている。

 『Sound Dust』と同様、弁証法的な構成が『Margerine Eclipse』の基礎を作っている。『Margerine Eclipse』では、ミックス時にすべての楽器の音が極端に右か左にパンをした状態で配置されていて、左右それぞれのサウンドが独立して成立していながら、それでいて同時に聴いたときに2つが統合されるように設計されている。

 この期間に製作された作品を聴いた上で改めて問うてみよう。ステレオラブにとって、バンドとして本当に重要なことは何だろうか?

 このバンドを理解するためのひとつの手段は、同じ時代の見地から彼らを探ってみることだ。この7枚のアルバムは、ソビエト連邦の崩壊に始まり、2001年9月11日にワールドトレードセンターが攻撃され冷戦後のアメリカにもはや敵はいないという意識が粉砕された10年間と、密接に重なっている。

 経済学者フランシス・フクヤマによって「歴史の終わり」と表現されるこの時代には、社会全体が持つ大規模な想像力が通用しなくなったという特徴がある。20世紀に繰り広げられた巨大なイデオロギー同士の闘争は終焉を迎え、自由資本主義が勝利を収めた。それに取って代わるものは存在しなかった。そして評論家マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」と呼んだ考え方が浸透した結果、さまざまな未来の展望が示されても、すべてが必ずしも「二番煎じ」とは限らなかったにもかかわらず、それらを一律に実現不可能なものとして扱う風潮が生まれた。

 この考え方こそ、ステレオラブが繰り返し非難してきた敵そのものだ。『Mars Audiac Quintet』収録の“Wow and Flutter”の歌詞が、それをもっとも明快に表現している。

 「IBMはこの世界とともに誕生したのだと思っていた/アメリカの旗は永遠に漂うのだろう/冷淡な敵対者は早々にいなくなった/資本家はこれからもついていかなくてはならない/それは永遠でも不滅でもない/そう きっと変わっていくだろう/それは永遠でも不滅でもない/化石のような法律なのだから」

 資本主義リアリズムは人の想像力に制限を加えることで、狡猾で抑圧的な力を持つ。そしてステレオラブにとって、これを克服するには、意識を高く持ち、独創的な(そして夢想的な)精神を発揮するより他にない。状況主義の誕生と、1968年のパリで起こった五月革命(学生たちの運動に端を発したフランスの社会的危機で、世界中の社会運動に多大な影響をもたらした)で示されたように、個人の創造性と構想力が発揮される類まれな瞬間に、社会にショックを与えて、ひとつのサイクルを終わらせ、世のなかを新しい段階へ引き上げることができる。ちょうど『Emperor Tomato Ketchup』のジャケットに描かれた螺旋のように、変わらず周回を続けながらも、常に空に向かって上昇するのである。この意味で、ステレオラブの展望には、フィッシャーが不慮の死の直前まで展開していた思想や、彼が「アシッド共産主義」と称した概念と共通する部分がある。この意味における共産主義とは、資本主義者の自己満足に向かって投げ込まれた修辞上の爆弾であり、20世紀の共産主義体制の再現ではない。そもそもスターリンの抑圧体制は、フィッシャーやステレオラブのような人びとにとっては常に恐怖の対象だった。むしろ彼らは五月革命の子供世代(フィッシャーとサディエールは共に1968年生まれ)であり、アシッド・ハウス全盛のときに成人を迎えた──両者の展望は、地域社会に分散した自発的な活動の影響を受けている。「アシッド共産主義」の「アシッド」という名称は幻覚剤から取られたものかもしれないが、その真の意味は、言葉が持つ以上のものがある。アシッドすなわちLSDは、意識を上昇させ新たな段階に引き上げる行為の同義語となっており、さらにその背後には実験や探求という意味合いも込められるようになった。これはまた、ステレオラブが新たな表現に至るために再三にわたって創造性を引き出そうとしていることと深く合致している。そして『Mars Audiac Quintet』では明確にこのテーマに向き合っており、“Three-Dee Melodie”にはこう歌われている。

 「存在することの価値は/宗教やイデオロギーによって与えられるのではない/意味があろうとなかろうとそれは崖っぷちに出現する/それこそが創造的に生きることで得られる唯一の力」

 では、フィッシャーが語っていたように「未来が取り消された」とき、それをもう一度、発見し直すにはどうすればいいだろうか? ひとつの手段は過去に目を向けることだ。

 取り消された未来の幻影は、現在を生きる我々を苛む。その姿は、あるときはノスタルジーとなり、あるときは俗悪なものとなり、あるときは我々の充実感を潰えさせるほどの威力を持ったままで現れる。フィッシャーは、過去と現在が共存する不自然なこの状況を「憑在論」と呼んだが、前を向く人々にとっては、このように未来が失われたことは、一旦退いた上で新たな道を探して前進するための好機となる。1960年代のヒッピーによるカウンター・カルチャー、1968年の五月革命、昔のサイエンスフィクション作家たちが描いた理想郷の姿というように──ステレオラブの美的価値観は、彼らが過去を掘り進め、独自の理想郷への道を開いていることから、ときに「レトロフューチャー」と評される。初期におけるクラウトロックへの執着もまた、過去の光景を想像しながら再訪し、その先に何か新しいものを追い求めることで、未来に目を向けるためのものである──この結果として、図らずもポスト・ロックが誕生する一助となったのである。

 往々にして革命の実体は幻影のようなものだ。なぜなら、それは現実となるまでは物質的な姿を持たない概念として存在し、静かに現在の体制を脅かしていくからだ。よく知られているように、マルクス自身が共産主義を「ヨーロッパに取り憑いた」亡霊であると表現したが、この場合のより適切な描写は、1819年のピータールーの虐殺(選挙法の改正を求めてマンチェスターの広場に集まった群衆を騎兵隊が鎮圧しようとして多くの死傷者を出した事件)で犠牲になった人びとについて急進的詩人パーシー・ビッシュ・シェリーが述べた「彼らの墓所からは輝かしい幻が飛び出してくるだろう」という表現だろう──果たされなかった革命は、それでもなお、いずれ蘇ってその目的を達成するかもしれないという脅威を孕んでいる。1960年代に成し得なかった革命の数々は、取り消されたその他のあらゆる未来と同じように、ステレオラブの楽曲に息づいている。

 ステレオラブの作品で中核となる弁証法的手法があるとするならば、彼らは問題を解決するために、常に意識を高めて創造性を抑制しないという方向性を目指しているように見受けられる──想像や創作から何か新しいものが生まれる希有な瞬間、それはより自由な世界へ突き進むための革命的手段として世界に登場する。そこに立ちはだかるのが、世界はともすると同じパターンやサイクルを繰り返してしまうという事実だ。例えば、不況で経済が落ち込み戦争が起こり回復していくように、愛が花開いて枯れていくように、そして死と再生のサイクルがあるというように。ステレオラブの音楽は、それ自体がこの世界に呼応している。その形式は繰り返しによって定められながら、創造的発見が生まれる類まれな瞬間に前進して新しいパターンを獲得する。あるいは別の言葉で表すなら、これはまさにアルバム『Dots and Loops』のタイトルのごとく「点とループ」が織りなすシンフォニーだ。

 

Stereolab in the years 1993 to 2004 were like David Bowie in the 1970s in that every year saw them release something new and extraordinary, each a wonderful record in its own right, but taken together adding up to a fascinating document of a band’s growth and development.

The current batch of re-releases encompasses the seven studio albums the group (or “the groop”, as they often referred to themselves) released over that period, although this slightly understates just how productive Stereolab were at that time, with two mini-albums, two volumes of their excellent “Switched On” compilation series, and a couple of collaboration EPs with avant-garde legend Nurse with Wound also falling within the same timeframe. What’s interesting about them is that they start off with the band fully-formed in their first incarnation, skipping over the period of finding their feet that that defined their debut album “Peng!” and the singles and EPs that made up the first “Switched On” compilation.

Stereolab’s background lies in the British and Irish 1980s guitar pop scene, with Tim Gane having been a key member of the jangly and defiantly left-wing McCarthy, joined by Laetitia Sadier for their last (and best) album “Banking, Violence and the Inner Life Today”. McCarthy’s lyrics mostly focused on the political struggles of the 1980s British left, often ironically adopting the stance of political enemies in order to satirise their perceived absurdities or hypocrisies. It was on that final McCarthy album that you start to hear the early murmurs of Stereolab, with the band dialing the guitar jangle back slightly in favour of a more lush, layered, keyboard-based sound on songs like “I Worked My Way Up from Nothing”. A particularly interesting song on this album is “The Well Fed Point of View”, which takes the standard McCarthy approach of satirically vocalising their enemy’s position – in this case, a voice encouraging listeners to see their happiness and emotional wellbeing as essentially individual issues, with the flipside of that being that the cruelty and injustice of the world is also the problem of individuals. McCarthy’s implied message, that these are actually social rather than individual issues, lays down a key idea that would become a key part of Stereolab’s worldview: the inseparable interrelationship between the personal and the social or political.

In Stereolab’s early days, they were connected to a cluster of musicians in London, known cynically as “the scene that celebrates itself”, as well as the eclectic pre-Britpop indie scene. Around them at that time were shoegaze bands like Slowdive, Chapterhouse and Lush, bands like Blur, who had risen to early fame heated by the dying embers of the Madchester scene, and oddball acts like See See Rider, Gallon Drunk and The High Llamas. The early Stereolab sound shows a mixture of these influences, picking up in part from where McCarthy left off, combining guitar pop with synthesisers, but also drawing on elements of shoegaze, and experimental pop.

The other big influence in these early days is krautrock, and Neu! in particular. Along with Julian Cope, whose epic cosmic masterpiece “Jehovahkill” came out in 1992, Stereolab were key figures in the revival of interest in krautrock that bloomed in the early ’90s. It’s this influence that and the expresses itself most spectacularly on the oldest of the new Warp Records re-releases, “Transient Random-Noise Bursts with Announcements”. Of all the re-releases – perhaps of all Stereolab albums – this is the band’s rawest and most sonically brutal. The opening song, “Tone Burst” begins simply, but gradually dissolves into layers of sonic discord, but set against this are Sadier’s deamily romantic lyrics. That juxtaposition of harsh and sweet continues on “Our Trinitone Blast”, with the vocals pinging back and forth, one part harsh and distorted and the other sweet, Lush-like harmonies. “Golden Ball”, with its relentless, clanging guitar chord, fakes an apparent tape breakdown at one point in a way that echoes the frequent, deliberately awkward speed-changes in side two of Neu!’s second album. Meanwhile, “I’m Going Out of My Way” takes a garage rock, almost bubblegum, groove and turns it into something trancelike through sheer repetition.

“Pack Yr Romantic Mind” showcases another key aspect of the Stereolab dynamic: the interplay between Sadier’s plain vocal delivery, uninflected by either passion or cynicism, and Mary Hansen’s backing “ba ba ba”s. It’s telling as well that “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s first full album to feature Sean O’Hagan of The High Llamas (formerly of Irish indie band Microdisney) as an official member. O’Hagan was at this point navigating his own transition from guitar pop to something more experimental, drawing on the influences of Brian Wilson, Van Dyke Parks, Burt Bacharach, Phil Spector and more. Despite the album’s harshness, tracks like “Pack Yr Romantic Mind” reveal the beginnings of an avant-garde easy listening influence that would become an increasingly important feature of Stereolab’s work, as well as O’Hagan’s on The High Llamas’ 1994 album “Gideon Gaye”. Nonetheless, one thing the song has in common with the rest of the album is its dedication to mantric repetition, with the lyrics just a single phrase repeated over and over again in a loop.

The motorik sounds of Neu! are what most powerfully define “Transient Random-Noise Bursts” though, and the centrepiece is Jenny Ondioline, a joyous 18 minutes of droning keyboard, layered shoegaze guitars, and Sadier’s uniquely disaffected-yet-wide-eyed vocals that punches through pastiche into a heavenly realm of cosmic sonic bliss.

If “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s harshest sounding album, 1994’s “Mars Audiac Quintet is perhaps their lyrically angriest. On the upbeat “Ping Pong”, the bouncy melody parallels the sophisticated emerging pop sounds that were starting to get called Shibuya-kei in Japan at this time, but the song’s superficial positivity is undercut by its lyrics. Following the McCarthy playbook, the narrator adopts a position opposed to the author’s true intentions, taking the reassuring tone of someone urging the listener to stop worrying about the world.

“It's alright 'cause the historical pattern has shown / How the economical cycle tends to revolve / In a round of decades, three stages stand out in a loop / A slump and war, then peel back to square one and back for more.”

The fictional narrator urges the listener not to worry about bad times because “things will get better naturally”, noting that “There's only millions that die in the bloody wars, it's alright / It's only their lives and the lives of their next of kin that they are losing,” and finally revealing their own anger and disquiet at seeing the status quo questioned by declaring, “Don't worry, shut up, sit down, go with it and be happy.”

“Three Longers Later” talks about the absurdity of waging war in order to achieve peace through the eyes of a child seeing their father ripped away from his family by military conscription – a system that wouldn’t be ended in lyricist Sadier’s home country of France until two years later (and which current president Emile Macron is, at the time of writing in summer 2019, trying to bring back in some form). It does this over a melody that begins quietly, almost like a nursery rhyme, and then explodes into a spacerock climax.

“Transporte sans Bouger” laments a world that seems to be becoming increasingly atomised, with people living in a lonely “virtual dream” with “no need to know your neighbour”, in which we “make love at a distance”. Given that the internet hadn’t penetrated people’s lives very deeply in 1994, this seems prescient. It is also rather conservative in its yearning for an increasingly lost sense of neighbourly community, but despite their leftist outlook, Stereolab were never averse to looking back to the past to find solutions to the problems of the present. “International Colouring Contest” is a tribute of sorts to the creativity and space-age optimism of eccentric musician and colouring book creator Lucia Pamela, who is sampled at the beginning of the song exclaiming, “I’m so full of ideas, and here’s a good one!” Repeatedly, Stereolab return to the notion that creativity is a fundamentally revolutionary act, and one inextricably bound up with the idea of freedom.

The inverse of that is that anything that closes off routes through which the imagination can travel is oppressive. “L’Enfer Des Formes” notes the way cynicism kills action for change, while the krautrock-influenced “Nihilist Assault Group” is concerned with censorship and moral panic, and how that annihilates critical sensibilities at the expense of effectively dealing with problems in any real way. “Wow and Flutter” and the closing “New Orthophony” both touch on the need to challenge rather than accept as inevitable the way things currently are.

While “Mars Audiac Quintet” relies on a similar toolbox of krautrock rhythms as its predecessor, things are also clearly moving forward into avant-pop territory. In addition to “Ping Pong”, “L’Enfer Des Formes” is another superficially upbeat pop melody, while “The Stars Our Destination” and “Des Etoiles Electroniques” both combine bubbly rhythm machine loops, dreamy synths and intertwining vocal lines into a smooth, layered sound that points a new way forward for the band.

The next stop on that journey was 1996’s “Emperor Tomato Ketchup” which completely blew apart the band’s sound while remaining instantly recognisable as Stereolab. As before, there are nods to the past in how the band move forward, with the title being drawn from Japanese playwright and director Shuji Terayama’s 1971 film of the same name and the cover artwork being based on a 1960s release of Bela Bartok’s “Concerto for Orchestra”. Nevertheless, the familiar Stereolab elements still make up the core of the album – the repetitive rhythms, the layered production, the off-kilter pop tunes, Sadier and Hansen’s vocal interplay, and the obliquely Marxist lyrical themes – albeit now developed into something far more sophisticated.

The opening “Metronomic Underground” draws from a funkier side of krautrock, more Can than Neu!, but still wrapped up in repetition and looping rhythms, while the songs that retain motorik rhythms, like the title track and “Les Yper Sound” marry it with vocal lines that employ some of the albums sweetest pop melodies. The gorgeous “Cybele’s Reverie” is a Proustian meditation on memory, that takes Stereolab’s pop inclinations in a more lushly orchestral direction, while elsewhere the band find ever more new and interesting ways to explore repetitions and loops, from the minimal “OLV 26” to the mirrored guitar clang of “Tomorrow is Already Here”.

Lyrically, it explores more abstract places than previous albums, but it’s perhaps the album most explicitly concerned with the relationship between the individual and society (certainly it’s the album in Stereolab’s catalogue that uses the word “society” most). “Spark Plug” is concerned with the importance of recognising the innate spark of life in an individual or collective group rather than viewing them in the abstract. “Tomorrow is Already Here” deals with institutions originally set up to serve society, now become something oppressive. Meanwhile, “Motoroller Scalatron”, with its children’s song-like question-and-answer structure talks about the fragile basis on which society is constructed, maintaining its existence only on a shared agreement that it exists, and constantly in flux – as well as the irony that, in a society “built on words”, the words we say, or choose not to say, can end up having huge consequences.

Perhaps an even more significant shift came with the next album, “Dots and Loops”. At around the same time that “Emperor Tomato Ketchup” was being released, Chicago-based Tortoise were releasing the landmark “Millions Now Living will Never Die” and German duo Mouse On Mars had recently released their second album “Iaora Tahiti”. All three were key acts in the burgeoning but nebulous genre of post-rock, which at this point in the 1990s can best be understood using journalist Simon Reynolds’ description as, "using rock instrumentation for non-rock purposes, using guitars as facilitators of timbre and textures rather than riffs and power chords."

Bringing in Mouse on Mars as collaborators and Tortoise’s John McEntyre as producer, “Dots and Loops” was a collision of early post-rock talent. Opening with a burst of electronic distortion, it swiftly moves into the skittering breakbeats of “Brakhage”, Sadier dreamily bemoaning the narcotising effects of consumerism. Lead single “Miss Modular”, meanwhile, is a beautiful slice of lounge pop with lyrics touching on imagery of games, mystery and tricks of the eye – abstract imagery with an opaque subject, but one that, for a band undoubtedly familiar with French situationist leader Guy Debord and his consumerist critique “The Society of the Spectacle”, surely hints at wider social relevance in the way the artificial – the spectacle – overwhelms our ability to discern a difference between reality and representation, history and endless present. If there’s a particular theme of the album, it might be that of alienation, not only from society and people close to you, but also (and necessarily given the way the individual and society are inextricable in Stereolab’s worldview) alienation from the self and one’s own feelings.

The collaboration with McEntyre continued over the next two albums, 1999’s “Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night” and 2001’s “Sound Dust”, with Jim O’Rourke joining as co-producer on both albums. Less explicitly electronic than “Dots and Loops”, these two albums see the band picking up on its jazz influences and advancing with them into pure avant-pop.

If “Dots and Loops” carried a sense of alienation, “Cobra and Phases” is the band’s most hopeful sounding album, with at least part of that coming from the birth of Gane and Sadier’s child, explicitly referenced on “People Do it All the Time”, which revels in the birth as a chaotic act of creation, “Out of chaos, a creation / Binding into one form / Lucid drunkenness” and positions the child as a vessel of hope, declaring, “I want you free when you grow, boy / Revive the old idea that we carry.”

The idea that growing up free should go together with “reviving an old idea” is a new angle on Stereolab’s recurring theme that moving forward may require looking back. Throughout the album, images of rebirth and rediscovery (rather than simply birth and discovery) keep cropping up. On “The Free Design” Sadier sings “The request is here ready to resurrect / What else can we do but recover the project” hinting at a past project left unfinished, while the “lonely walker humanoid” of “Puncture in the Radax Permutation” is described as “rediscovering your own pace” as it tries to “repossess the senses” – the idea of newness being linked to going back to something, and perhaps also of the cycle of life and rebirth meaning that everything new is something old just come round again.

“Cobra and Phases” is a sensual album, opening and closing with songs about love, and constantly returning to images of earth and nature. It’s also a rare example of Sadier singing explicitly and directly about being a woman, with feminist themes coming to the fore in “Caleidoscopic Gaze” and krautrock slight return “Strobo Accelleration”.

With the positive attitude of “Cobra and Phases” in mind, “Sound Dust” is in many ways Stereolab’s darkest album, returning to themes touching on the dehumanisation and oppression inherent in capitalism in songs like “Gus the Mynah Bird”, which declares “Self determination should be a fact / not essentially a right,” and suggests that capitalism offers false freedom, and will happily collude with oppression. “Space Moth” references the filmmakers Jean Rouch and Edgar Morin, whose 1960 film “Chronicle of the Summer” deals with the subject of happiness among various, mostly working class, people in France, touching on war, censorship, race, and poignantly the Holocaust, with the idea that happiness is closely linked to politics and freedom. The line in the song “L'homme est réduit à son travail” – “man is reduced to his job” – again positions capitalism as antagonistic to freedom.

The song “Nothing to Do with Me” takes its lyrics directly from the dark, surreal comedy of British satirist Chris Morris, whose TV show “Jam” combined eerie ambient music with comedy sketches and was controversial in the UK for breaking the taboo against portraying doctors as less than altruistic people. Morris’s doctors were often agents of chaos: figures of authority who abused the trust of people who relied on them, for opaque reasons. “Did you prescribe my daughter a pound of heroin?” asks Sadier at one point in the song. Elsewhere, the relationship between customer and client is turned on its head as a woman asks a plumber, “You did such a great job / With the boiler last time / Please can you mend my baby / He hasn't moved for three weeks.” In both instances, a social relationship is being abused, but the socially defined relationships between the participants are still followed in a formally proper way, the form and appearance of calm rationality put into the service of the terrifying and absurd.

More than this, though, “Sound Dust” feels like an album about duality. Many of Stereolab’s songs are dialectic in that they deal with reconciling two opposing forces or positions – the thesis and antithesis birthing a synthesis – and that structure is still present here. “Baby Lulu” delivers the line “extremes reconciled / improvisation / rational and poetical / summing up contradictions”. It’s also the most direct the band ever were about the notion of evil, referencing it as one of the “two poles guiding his step” in “Naught More Terrific than Man”, and giving it an explicitly Biblical face in “Suggestion Diabolique”. The lushness, warmth and beauty of the melodies works in a similar dualistic way with the darkness or gravity of the lyrics.

This is reflected in the musical structure of the album too, with many of the songs having a two–part structure, where the first and second half of the song follow quite different melodies and arrangements. The most striking example is the joyous “Captain Easychord”, which returns to the theme of the life and death cycle, boiling it down to its most basic representation in the cycle of inhaling and exhaling breath.

“Sound Dust” was the final album to feature Mary Hansen, who was killed in a road accident the following year. The last album of this current batch of re-releases, 2004’s “Margerine Eclipse” is in part a tribute to Hansen, with the song “Feel and Triple” a directly addressed farewell, “Need to Be” talking about the need to embrace pain, loneliness and fear of death in order to recognise the now, and ‘…Sudden Stars’ dealing with embracing love and respecting loss.

The political situation in Europe and America at the time also hangs over parts of the album, in the shape of the wars in Afghanitan and Iraq, rising fear of terrorism embodied in the “other” of the Muslim in our midst, and increasingly intrusive state surveillance. “La Demeure” references this fear of the other, while “Bop Scotch” deals with the question of whether we can trade freedom for security.

Despite (or perhaps because of) the death and fear hanging over it, “Margerine Eclipse” is also one of Stereolab’s most upbeat albums, and certainly their funkiest with its rich, thick, squelchy synth and bass sounds. It is the album that most explicitly addresses love, with the closing “Dear Marge” tying love up with learning, with the implied flipside that lack of love or empathy prevents us from learning or growing.

Like “Sound Dust” there is a dialectical structure underlying “Margerine Eclipse”, with the album being mixed with all the instruments panned to the extreme right or left, with each channel designed to work either independently or as a synthesis of the two made when both are listened to together.

After listening over this span of work, what is Stereolab really about as a band though?

One way to make sense of the band is to look at them through the prism of their times. These seven albums closely overlap with the ten-year period after the fall of the Soviet Union and the aftermath of the September 11th, 2001 attack on the World Trade Center that shattered America’s sense of post-Cold War invulnerability.

This period, described by Francis Fukuyama as “The End of History”, was characterised by a shutting down of the public imagination on a mass scale. The struggle between great ideological movements of the 20th Century was over and liberal capitalism had won: there was no alternative. A mindset took hold of what the critic Mark Fisher called “capitalist realism”, which made any vision of the future that didn’t essentially amount to “more of the same” seem impossible.

This mindset is the enemy against which Stereolab constantly rail. The lyrics to “Wow and Flutter” from “Mars Audiac Quintet” express it most clearly:

“I thought IBM was born with the world / The US flag would float forever / The cold opponent did pack away / The capital will have to follow / It's not eternal, imperishable / Oh, yes it will go / It's not eternal, interminable / The dinosaur law.”

The limits capitalist realism place on the imagination are what make it such an insidiously oppressive force, and one that, for Stereolab, can only be overcome by the lifting of consciousness and the opening up of the creative (and the romantic) mind. As with the situationists and the 1968 Paris Spring, unique moments of individual creativity and imagination can jolt society out of one of its cycles and elevate it to a new level, like the spiral on the cover of “Emperor Tomato Ketchup”, ever-circling but always reaching skyward. In this sense, Stereolab’s vision shares something in common with the ideas Fisher was developing before his untimely death, and which he referred to as “acid communism”. In this sense, communism is really functioning as a rhetorical bomb thrown into the midst of capitalist complacency rather than a recreation of the communist regimes of the 20th century. The repressiveness of Stalin would have been a horror to people like Fisher and Stereolab: rather they were children of the Paris Spring (both Fisher and Sadier were born in 1968), who came of age at the height of acid house – both visions of decentralised, spontaneous, communal action. The “acid” of “acid communism” may take its name from psychedelic drugs, but its true meaning perhaps lies more in what it represents. Acid or LSD has become synonymous with the act of elevating consciousness to a new level, with an underlying meaning of experimentation and exploration. This again locks in very well with Stereolab’s repeated invocation of creativity as a route to revelation. Again, “Mars Audiac Quintet” tackles the theme explicitly, this time on “Three-Dee Melodie”:

“The meaning of existence / Can't be supplied by religion or ideology / The sense or non-sense that will emerge from the precipice / Is only the impact of a creative activity”

So when, as Fisher put it, “the future has been cancelled”, how do we rediscover it anew? One way, is to look to the past.

The ghosts of cancelled futures haunt the present, sometimes as nostalgia, sometimes as kitsch, sometimes as something that still has the power to jolt us out of our complacency. Fisher referred to this uneasy coexistence of past and present as “hauntology”, but for those of us looking ahead, these lost futures can provide opportunities to step back and find a new route forward. The hippy counterculture of the 1960s, the 1968 Paris Spring, the utopian visions of old science-fiction authors – Stereolab’s aesthetic is often described as “retro-futurist” because of the way they mined the past for routes towards their own utopia. Their early obsession with krautrock is another way of looking to the future by revisiting past visions of what it might be like and pursuing those lines towards something new – in this case, helping to bring post-rock into existence in the process.

Revolution often takes the form of a ghost because, before it can become real, it will exist as an idea without corporeal form, silently threatening the status quo. Marx himself famously described communism as a spectre that “is haunting Europe”, but more pertinent in this case might be the radical poet Percy Bysshe Shelley’s depiction of the victims of the 1819 Peterloo Massacre as “graves from which a glorious Phantom may burst” – an unfinished revolution that nevertheless threatens to return and complete its work. The failed revolutions of the 1960s live on in Stereolab’s songs, as do all the other cancelled futures.

If there is a central dialectic process at work with Stereolab, the direction they seem to be trying to resolve it in always leans towards a kind of raised consciousness and unrestrained creativity – unique moments of imagination and creation bringing something new into the world as a revolutionary means towards pushing forward into a place of greater freedom. Against that lies a tendency of the world to fall into repeating patterns and cycles, whether they be destructive cycles of economic depression, war and recovery, the blooming and dying of love, or the cycle of death and rebirth. Stereolab’s music itself parallels this, its own forms defined by repetition, driven forward into new patterns by unique moments of creative revelation – or to put it another way, it is a symphony of “dots and loops”.

消費税廃止は本当に可能なのか? (3) - ele-king

消費税に替わる”財源”を考えよう。

 10月16日の予算委で共産党・大門みきし議員は、IMFの「世界経済が大きく後退する」とした報告を引用しながら、メルケル、マクロン、トランプ政権それぞれが、世界経済悪化に対して個人消費の底上げを図るべく数兆円規模の減税を予定していることを伝えた。そのうえで世界経済はリーマンショック並みの落ち込みが予測されており、日本の消費者マインドも実際に東日本震災並みに下落しているのだから、消費減税すべきだと主張した。(https://www.youtube.com/watch?v=FVXSiPt60aY


10/15 予算委 共産党・大門議員質疑より「消費者態度指数」

 10月4日のNHKの報道によると、米国の新聞も左右問わず日本の消費増税を批判しているようだ。

ウォールストリート・ジャーナル
「消費税率の引き上げは、日本の経済成長に再びブレーキをかけるリスクが大きい。日本の最大の課題は財政ではなく、需要の弱さで、消費税率を引き上げる必要はない」
ワシントンポスト
「消費税率を5%に引き上げた1997年と、8%に引き上げた2014年には景気が後退した。日本経済は去年の後半から減速していて、来年のオリンピックに向けた建設ブームによる需要も薄れている。需要の低迷による物価の下落が、成長のけん引役である投資を押し下げ、デフレからの脱却に向けた長年の努力が後退するおそれがある」
ニューヨーク・タイムズ
「成長懸念にかかわらず日本は消費税率引き上げ」「日本経済の牽引役として貢献する消費者に打撃を与えるだろう」
コロンビア大学・ヒュー・パトリック名誉教授
「消費税は直接、国民のポケットからお金を奪うものだ。日本政府が、財政支出を増やして増税の影響を緩和しなければ、世界経済はやや減速する可能性がある」「駆け込み需要が起きないほど、そもそも消費が弱くなっている可能性がある」

 日本の問題は財政赤字ではなく、需要(投資や消費)が減少していることで、その需要をさらにシュリンクさせる消費増税は悪手だということだ。そして、需要減少への対抗策は財政支出であるとしている。世界経済を減速させる一因となりかねないのがこの消費増税であり、世界にとって迷惑行為でしかないのだ。

 WSJやNYT、パトリック教授らに言われるまでもなく、「不景気時には財政出動」という話は当然のことで、中学校の公民の教科書にも書かれている常識だ。

「不景気のときは、道路工事などの公共事業をして、民間企業に入るお金を増やします。公共事業のほかにも、減税を行うことで、民間企業の持つお金を増やす場合もあります。
 (中略)
このように、政府が、公共事業の増減や、減税・増税などで、景気を調節することを財政政策(ざいせい せいさく)といいます」

出典:中学校 社会・公民

 景気の悪い時には、減税し、公共事業などに財政支出をするのが財政政策なのだ。日本政府には、中学校の教科書からお読みいただくことをお勧めする。


 前回コラムで、「需要の減少」が起こる悪循環をどう断ち切れば良いのかという課題に対して、反緊縮派は一つに「消費税廃止」を提案していることをお伝えした。加えて、二つ目の有効策がこの「財政出動」になる。これは消費税廃止で無くなった消費税収に替わる財源を得るため、また国民経済を後押しするための政策となる。減税と財政出動、上述した中学校の教科書通りの財政政策だ。

 「財政出動すると財源が減ってしまうのではないか」と思われる方もいるかもしれない。それも当然だろう。普通の人は、政府が何か税金などを貯めている金庫のようなものを持っていて、そこからお金を支出していると考えている。しかしその考えは誤りである。政府が支出すると、実体経済市場に通貨が創造されるので、支出することそれすなわち財源となることを意味する。政府が誰かに支払いをすると、新しい通貨がこの世に「無から生まれる」のだ。

 このことをMMTerは「万年筆マネー」や「スペンディング・ファースト(Spending First)」という概念をもって説明するが、少し複雑な仕組みなので我慢して以下を読み進めてもらいたい。

 信用創造(通貨を創造すること)には経路が2つある。一つは、金融機関によって保有される既発国債と交換する形で中央銀行が創造した貨幣(実体経済市場では使用不可能な準備預金)を元手にして、金融機関が一般企業や個人に貸し出すときに起こる。中央銀行が国債を買い入れることを「買いオペ」と言い、国債と交換する形で貨幣を増やすことを「量的金融緩和」と言うが、基本的には同じことを指している。何を言っているのかわからないという方は下記の「教えて!にちぎん」と「ニチギンマン」の説明も見てもらいたい。

国債買入オペは、日本銀行が行うオペレーション(公開市場操作)の一つであり、長期国債(利付国債)を買い入れることによって金融市場に資金を供給することです。
出典:日本銀行「教えて!にちぎん」より


出典:日本銀行「ニチギンマンのきんゆうせいさく」

 ニチギンマンは、日銀が国債を買い入れ、貨幣(準備預金)を銀行に供給し、金利を下げることにより「景気が活発になり、物価が安定する」と誇らしげに言っているが、実際は量的質的金融緩和を続けても、金融市場以外、つまり実体市場は活発になっていないばかりか、個人消費が落ち込み、需要が減少、逆にデフレ状況で物価が不安定化するような状態が続いている。

 これは企業や国民があまり消費も投資もできないから、銀行からお金を借りることもないし、信用創造(通貨創造)されないということが原因だ。銀行などの金融機関同士の決済にしか使うことができない準備預金のままでは実体市場では流通しえないのだ。このことが6年間続けた金融緩和の効果の薄さに繋がり、多くのエコノミストたちもやっとこの仕組みの綻びを理解し、指摘するようになった。金融市場の外にお金が出ないのだから、とにかく株屋だけがマネーゲームで儲けるばかりで、私たち庶民にはほとんど関係がない話だった。

 ちなみに信用創造とは、誰かが銀行から借金した時に通貨が創造される仕組みとなる。貨幣は、発行元である銀行がただペンで記帳するだけで生まれることから「万年筆マネー」と言われる(現在ではコンピューターで打ち込むだけなので「Key Stroke」とも表現される)が、かいつまんで言えば、お金の正体とは誰かの借金であり、貨幣とはその借金に対して発行された債務証書だということになる。また、通貨と貨幣の違いにも気をつけてもらいたい。貨幣は紙幣やコイン、また私たちが使えない準備預金などお金全般のことを指すが、通貨は私たちが使える紙幣やコイン、預金などのお金だけを指す。(参考:社会人の教科書「貨幣・通貨・紙幣の違い」

 そこで、信用創造のもう一方の経路が重要となる。政府支出(財政出動)を介した経路がそれだ。これは、政府の支出により生まれた銀行の預金を、一般企業が受け取るときに起こる。この場合は政府が企業に仕事を発注する形をとるので、必ず信用創造され、実体市場に通貨が生まれる。MMTの視点では、政府は国債や税収などの財源がなくても、支出するだけでお金を創造できるとし、このことをスペンディング・ファースト(最初に支出ありき)と呼んでいる。政府債務である国債は政府支出した後に発行され、民間銀行を介して中銀からファイナンスされるとしているため、支出が先なのだ。

 なにやらややこしい概念だと思われたかもしれないが、少し考えてみれば実感できるだろう。政府は毎年、税収がいくら集まるかわからないのに、予算を決定し、支出している。言い換えれば、財源などなくても支出できるということだ。だから「最初に支出ありき」なのだ。

「ここに人々が見落としているものがあります — 連邦政府の支出は”自己資金(Self-Financing)”だということです」
「政府が支出すると、支出そのものの副産物として新しいお金は創造されます」
「そして新しくできたドルは、誰かのバランスシート(貸借対照表)に追加されます」
出典:ステファニー・ケルトン ツイッターより

MMTは、政府の財政は家計や企業のそれとはまったくの別物だと主張している。
(中略)
主権を有する政府が、自らの通貨について支払い不能となることはあり得ない。自らの通貨による支払い期限が到来したら、政府は常にすべての支払いを行うことができるのである。
それどころか、政府が支出や貸出を行うことで通貨を創造するのであれば、政府が支出するために租税収入を必要としないのは明らかである。さらに言えば、納税者が通貨を使って租税を支払うのであれば、彼らが租税を支払えるようにするために、まず政府が支出しなければならない
出典:L.ランダル.レイ「MMT 現代貨幣理論入門」p39

 MMTの創設者の二人、先般来日を果たしたステファニー・ケルトン教授(NY州立大学)と、近日来日予定もあるランダル・レイ教授(バード・カレッジ)は、政府の財政の仕組みについてこのように簡素な形で語っている。このことは民間銀行からお金を借りる時に起こる信用創造の場合も同じだ。中野剛志氏(元・京都大学大学院准教授)は以下のように解説する。政府も銀行も「最初に支出ありき」なのだ。

実際には、銀行は、人々から集めたお金を元手にして、貸し出しを行っているのではありません。その反対に、貸し出しによって、預金という貨幣が創造されるのです。そして、借り手が債務を銀行に返済すると、預金通貨は消滅するのです。
(中略)
「銀行の貸し出しの段階で預金は創造される」のですから、銀行の貸し出しが、元手となる資金の量的な制約を受けるということはありません。
この点は資本主義経済の仕組みの根幹にかかわる話です。
出典:中野剛志「奇跡の経済教室」p98,p100

 MMTerの視点では、政府が支出したその後に、金利を調整する為に国債は発行されるとしているが、このような国債発行の視点は主流経済学の常識を覆す論理となり、賛否の分かれる騒動ともなっているわけだが、この騒動の一端は、以前に拙コラムでお伝えした西田議員と雨宮日銀副総裁の財金委員会でのやりとりで垣間見ることができる。政府支出を介した信用創造の仕組みについて実務的な詳細を知りたい方もぜひご覧いただきたい。
 参考:「黒船MMTと参議院選挙の行方



画像提供: @nonsuke38 氏

 長々と3回にもわたっていろんな話をしてきたが、これまでの話をまとめるとこうなる。政府には通貨発行権があって、過度なインフレにさえならなければ、いくらでも無からお金を作って国民経済のために支出できる。もちろん財政破綻などするわけがない。さらに、政府は自分でお金を作って支出できるのだから、税は財源ではない。税は主にインフレを抑える景気調整のためにある。だから、このような貨幣観を持つ反緊縮派にとっては、景気調整機能もない消費税を人々に課す理由がまったく理解できないというわけだ。

 加えて言うなら、日本においては「税は再分配のために徴収されている」とも言えない。下図のように、税による再分配効果はOECDで最低のミジンコレベルだ。「社会保障を支えるために税金が必要だ」と思い込んでいる人たちには、この事実もよく考えていただきたいと思う。


出典:内閣府 再分配効果の国際比較

 前述した「消費税に替わる財源は政府支出である」とした論理は、貨幣システムの会計的事実から導き出されている。「でも結局、それは借金ではないのか」と言う方もおられるだろう。その疑問に対する回答は次回、最終回につなげたい。

Gr◯un土 - ele-king

 大阪の音楽シーンには得体の知れないモノを生む出す力がある。ことクラブ・カルチャーにおいては90年代初頭からそれはずっとあったし、いまも失ってはいないようだ。
 大阪らしさのひとつには、ボアダムス的な折衷主義がある。思いも寄らないものが同じ宇宙で渦巻くようなアレである。Gr◯un土(グランド)にもそうした大阪らしさを感じる。彼の音楽は、ハウス・ミュージックを基調にしながら、今福龍太のクレオール主義よろしく世界のいろんな文化がパッチワークされる。じっさい彼が音楽を作るのは移動中=旅先なのである。南米や欧州やアジアや、それぞれのとある街で作られた彼の音楽には、日本には欠落しているのであろうなにか(文化)が注入されている。ゆえにその響きは、感性を拡張させる。
 昨年リリースされたアルバム『Sunizm』がひとつのきっかけになって、じょじょにではあるが、彼のスロー・ハウスの魔力により広く注目が集まりはじめている。とはいえGr◯un土(グランド)は、すでに10年以上のキャリアを持っているので、もうベテランと言ってもいいかもしれない。なんにせよ、ぼくはようやくこの天性の旅人と話すことができた。

自分が影響を受けたDJは京都のMamezukaさん、Sinkichiさん、Daichiさん、大阪だとマスモト・アツコさん、Dr Masher。YA△MAさんにダビーなハウスを教えてもらったり、Akio Nagase君からもダブとエレクトロニクスが融合してる感じのをたくさん教えてもらいました。

DJをはじめたのは何年?

G:クラブで働きはじめたのが19歳くらいのときでそのタイミングです。

大阪のクラブ?

G:大阪のfireflyというクラブです。東心斎橋というエリアに、fireflyという小さいクラブがあって。

15年とか17年くらい前の話?

G:はい。

じゃあ2000年代頭?

G:はい。

2000年代初頭の大阪には何があったんですか?

G:たくさんあったと思いますが、ひとつはMamezukaさんがオーガナイズしていたJAMs、あとはお店の先輩Dr.Masherがオーガナイズするアンビエントを主体にしたClearというイベント、単純に自分が働いていたお店でやっているパーティからの影響が強かったと思います。大阪・味園ビルの一角に週末だけオープンするクラブ『鶴の間』や京都の『活力屋』など、自分はFireflyで働いていたので、なかなか週末抜けるのは難しく、仕事が終わってから、先輩や同僚と鶴の間やMACAOに遊びに行ったりもしました。でも、なかなか他の箱に遊びにいくのは難しかったりしましたけど。

ALTZ君とか?

G:ALTZさんの名前はもちろん知っていました。ベータランドというVJユニットだったり、YA△MAさん。FLOWER OF LIFEに遊びに行ったりもしました。毎回参加はしていませんが、EYEさんが17時間? 18時間?セットをMACAOでやってたのはいまでも記憶に残っています。「凄いな〜」って。

じゃあ、影響を受けたDJも?

G:自分が影響を受けたDJは京都のMamezukaさん、Sinkichiさん、Daichiさん、大阪だとマスモト・アツコさん、Dr Masher。もともとFireFlyで働くきっかけを作ってくれた服屋の方がFireFlyでダブのイベントをやっていたので、初めはニュー・ルーツ、ON-U関連とか、そこからNew Tone RecordsでYA△MAさんにダビーなハウスを教えてもらったりして。あ、こういうのもかっこいいなって。YA△MAさんは本当にいろいろ好みな音を教えてくれましたね。他にもAkio Nagase君からもいろいろなUKのムーディー・ボーイズとかダブとエレクトロニクスが融合してる感じのアーティストをたくさん教えてもらいました。

そこから自分でもDJをはじめたの?

G:はい。働いているクラブでイベントをオーガナイズしながら。自分でオーガナイズをすると、自分でもDJをする時間ができるので、そこからはじめました。

最初からグラウンドという名義だったんですか?

G:はい。Groundです。10年経ったときに土をつけたんですよ。Оをでっかくして、グラウンドのDを土にして(Gr◯un土)、10年目だし進化させて変えていこうと(笑)。

いまはでも普通の表記だよね。

G:いまは。この前〈ESP institute〉というレーベルからアルバムを出したんですけど、あのときに名義が英語じゃないとややこしいからというレーベル側とのやりとりがあったんです。ならGroundにしようって。DJ Ground名義でもいろいろ出していますが。いまでも日本でDJする時はGr◯un土って表記して貰ったりしてますが。

〈Chill Mountain〉というのは?

G:〈Chill Mountain〉は2005年大阪・南河内でスタートした野外のキャンプ・イベントの名前で、5年前に野外での活動はストップしたんですが。その後もコレクティブとして各自メンバーは活動しています。自分は大阪のエンジニアKabamixさんの協力もあって、Chill Mountain Recという名でレーベルを運営したり、オリジナルメンバーにDJ のTOSSYとKAZUSHI、ギタリストのCHILLRERU(現在は陶芸家の松葉勇輝)、デコレーションを担当するm◎m◎、BARBA(現在 ウッドワーカー)、デザインやSILKSCREEN PRINT(SILK LOAD)をしているMT.CHILLs。いま現在も各自、形は変われど表現者として活動しているので、タイミングでまた集まって開催したいなとも思ってもいます。

いつから曲を作りはじめたんですか? 

G:25歳とか。11年前くらいですかね。はじめはDJだけでした。働くクラブが変わって。もともと東京で〈SOUND CHANNEL〉というレーベルをやっていたTAIYOさんが、大阪、難波、味園に『鶴の間』をオープンさせて、その移転後、大阪、大正(SOUND CHANNEL)をオープンさせて、僕自身もそこで併設されてたレコ屋でAkio Nagase君のMake dub recordsを手伝いながらSOUND CHANNELで働いていました。
Taiyoさんに手伝わせて下さいって言ったのを今でも覚えています。その時にじゃあAKIOの店を手伝えよって。
いままでのオーナーはザ・オーナーという感じだったんですけど、そのクルーは自分たちでも曲を作っていて。何をやっていきたいのかをTAIYOさんに訊かれたときに、「DJで食べていきたいです」と言ったら「じゃあ曲を作らなくちゃだめだよ」って。初めてパソコンで曲を作るやり方を見せてくれたのもTAIYOさんでした。機材が無いと作れないと思っていた自分に、「MAC BOOKに元から入っているGarage Bandっていうソフトでもできるよ、初めはそこからやってみ」、と。仕事明けに横に座って付き合ってくれたのをいまでも覚えています。ヨシオ君(Dollop)も丁寧に教えてくれましたね。みなさんもうそんなこと忘れていると思いますが……。

ファースト・アルバムは2015年の『Vodunizm』?

G:はい。それまではミックスCDだったり、1曲だけコンピに提供したりしていました。2008年(『Sync』)がたぶんいちばんはじめです。

どういうコンピレーションだったの?

G:アンビエントとかブレイクビーツとか。〈Chill Mountain〉メンバーのTOSSYがO.Rとはじめたレーベルでしたね。

とにかく、ずっとアンダーグラウンドでやっていたんだ?

G:はい。オーヴァーグラウンドというものにまだ触れていません。触れる機会すらないですよ。あるんですかね? 触れる機会……。

自分の音楽性みたいなものの方向には、野外でパーティをやった影響が大きかった?

G:だと思います。

グローバル・ビートというか、エスニックな感性がグラウンド君の音楽の特徴だと思うけど、それはどこからきたの?

G:レコードを買っていくときに、無機質なものよりワールド・ミュージック・テイストなものがやっぱり好きで。どつぼやったのがオーブとか、レネゲイド・サウンドウェイヴとか、レーベルでいうと〈セルロイド〉とか。先輩がそういうのを教えてくれて。だからダブからはじまったんですよね。最初はジャマイカのダブを聴いていたんですけど、その後ダブっぽいベースラインのエレクトロニクスを好きになって。それでレネゲイド・サウンドウェイヴとかムーディ・ボ-イズとか知って。それで24歳くらいのときにイギリスに行きました。ユースさんとかアレックス・パターソンさんは実際どんな感じでやってんねやろみたいな(笑)。

会いに行ったんだ(笑)。すごいな。本人とは会った?

G:会いました。ホワイトチャペルっていうエリアに2ヶ月半くらい住んで、ユースさんがブリクストンのJammという箱でイベントしていて、通いました。もう成熟した大人の方々なので、「日本からこいつ好きで来たらしいで」みたいな感じでしたが。ただ、同世代の子がユースさんのパーティを手伝っていて、その子が興味を持ってくれて、仲良くなって。「DJやらしてもらえるように俺が言うから」ってその子が言ってくれたんですけど、しばらく住んでてヨーロッパの他の国に行ったんですけど再入国できず、結局イベントに参加できずDJできませんでした(笑)。フライヤーはいまも部屋に飾ってあります(笑)。ちょうど地下鉄テロが起きたときで、とくに厳しかったみたいですね。ドーバー海峡のトンネル経由のバスでドーバー海峡渡る前のイミグレーションで引っかかり、フランスからドーバー海峡渡れず、フランスに2週間くらいいました。

よく日本に帰ってこれたね(笑)。フランスでは何をしていたの? 

G:とりあえずパリに行って、ゲストハウス探して、荷物は全部イギリスにあったので、カバンひとつでって感じで。記憶が結構断片的というか。相当テンパってたんだと思います。泊まったゲストハウスの壁がベロンベロンに破れてたのが記憶に残ってるくらいですね(笑)。あと、大阪で過去に共演したDJの方と偶然の偶然に再会したり、みんなで地べたでサラダ作って食べたのとか覚えてますね。どこかでまた再会したいですね。パリから航空チケット買って名古屋空港経由で帰ってきました。

いきなりミックスマスター・モリスの家に行ったのも笑えるな。

G:日本人の友だちのYUKIさんという方の誕生日会をやっていて、行ったらフラットメイトがモリスさんで。レコードもたくさん持っていて、すごく優しい人でしたね。でも何年かあとに日本にモリスさんが来て、そのときのことを話したら覚えてなくて。いっしょにサン・ラーのヴィデオ見たのにって(笑)。ま、そんなもんですよね(笑)。

ALTZさんはバンドマンなので、ただのDJとは違って音楽的な部分もちゃんとあって。ああいうふうに歳をとれたらいいなぁって思いますね。みんなでバンドして楽しそうだなって(笑)。同級生の親友と見に行ったんですが、2人で見ながら、こういう風なの憧れるよなって。ALTZさんは天才です。

『Vodunizm』はどういう意味なの?

G:これは4年前に東京のDJの7eちゃんが「Voodoohop(ヴードゥーホップ)のトーマッシュというプロデューサーが来日するんだけど、絶対合うよ!」って紹介してくれて、大阪で彼をゲストに〈Chill Mountain〉コレクティブでパーティしたんですけど、そのときに。2歳かな?  僕の年上なんですけど、話をきいたら世界中を飛び回っていて。すごくおもしろいコレクティブで。世界には同世代にこういう子らがおるんかと思いました。で何故かヴォダンとかブードゥとかアフリカ発祥のいろんな文化も興味が出て調べたりして。精霊のこととか、すごくおもしろいなと思って。それでヴォダンにニズムを付けて「Vodunizm」。造語を作るのが好きなんですよ。精霊別のイメージで曲作ったりして。
トーマッシュに、どうやったらそんな風に海外を回れるのと訊いたとき、サウンドクラウドに曲をアップして良かったら連絡がくるよみたいな感じで教えてくれて。とりあえず曲ができる度にひたすらSOUND CLOUDにアップしていた時期があるんですよ。そのときにいろんな方面から連絡がきまして。そっから海外からのリリースや海外でのDJ活動もはじまりましたね。3年前にはじめてドイツ、ケルンとか、ヨーロッパに行きました。その前に韓国に行ったこととかはあったんですけど、ヨーロッパはそのときがはじめてでした。去年はメキシコ、チリ、ブラジルに行ったり。

中南米ツアーだね。それはどういう繋がりなの?

G:Voodoohopにフローレンスさんというフランス人の美しく敏腕な女性がいるんですけど、その人が全部繋いでいってくれて。ここでできるから、もう話しているからと進めてくれて。その人がチケットとかも用意してくれたり。泊まるところを提供してくれたり。本当に感謝しています。

行く先々で曲を作っているみたいだけど。

G:はい。

それはPCで?

G:いまも持っているんですけど、ラップトップだけで。あとは一応レコーダーみたいなものも持っています。それで録ったものを取り込んだり。

じゃあ誰か人の家で作るの?

G:そうですね。いちばん多いのはプロデューサーの家に行って一緒に作ろうって。あとはどこでも。アパートの階段で作ったりもしますよ(笑)。

そうやって作ったものが去年出たアルバム(『Sunizm』)?

G:これはレコードが出たのは去年ですけど、曲自体は2016年にできたものなんですよ。

これ、とくに1曲目、2曲目が最高にかっこいいです。

G:ありがとうございます。“Osaka Native”というのは、大阪ごちゃまぜで、あんまりポリシーみたいなものを持っていないというか。アフリカの音楽だけでとか南米の音楽だけでとか、僕の頭のなかではそれがごちゃまぜになって、地球民族音楽みたいな。(笑)。おもしろいところを組み合わせたらおもしろいんちゃうかなみたいな。そういうところが根本なので。“Osaka Native”も大阪ネイティヴと言っているんですけど、いろんなところの、日本民謡とかも混ぜていたりとか。結局自分は大阪人なんで。笑えてなんぼなんですよ。

なるほどね。全然大阪ネイティヴじゃないね。

G:人によってそう感じるかもしれませんが、これは自分にとっては“Osaka Native”なんですよね(笑 )。ごちゃっとした感じというかいろいろ混ざってるというか。かっこいいと感じでもらえてたら自分的には何でもいいです(笑)。

大阪の人ってそういう感覚があるよね。ボアダムスもそうだったし、いろんなものをいろんなところから持ってくる独特の雑食性。しかも、わけのわからない、脈絡のないものを持ってくるみたいなところがあるよね。

G:発想力が重要なんじゃないでしょうか? 面白さというか、人が思いつかないようなもの。とか。そういうことが沁みつきすぎていて、それが自分の色になっているんかなみたいな。これとこれは絶対やらんやろとか。そんなことばっかり。これとこれを混ぜたらめっちゃおもろいねんけどみたいな。コピーみたいなものを自分は全然面白いと思わないので。

今年出たアルバムの『Cashoeiracid』。これはいつの録音なの?

G:これは去年の音源です。去年、ヨーロッパと南米で。

大阪にいるときは作らないんだ(笑)。

G:作らないわけではないんですが、最近は海外で作ってきた作品を、大阪にあるKabamix氏のLMDスタジオでミックスを教えてもらいながら作業したり、海外で作ったものを作品として仕上げる、のに一杯一杯な所もあります。で出来上がったらリリースして次の国へ、みたいな感じです。

旅しているときに作るんだね。おもしろいね〜。

G:ずっと住んでいる場所は安心はするんですけど。初めての場所にいると全てが違うので、なんていうかゾーンに入りやすいんですよね。作りたいというスイッチが絶えず入っていて。ずっと作っています。観光いかんでいいんかとか、みんなに言われますけど(笑)。今年行ったエクアドルもけっきょく全然観光していない。ずっとPablo君(Shamanic Catharsis)とJuan diego Illescas君のスタジオで曲を作っていましたね。あ、何箇所かは行きましたよ!

グランド君の音楽のベースにあるのはハウス・ミュージックだと思うんだけど、ハウスはどこに行っても通用する?

G:難しい質問ですが。通用するとこ通用しないところいろいろあるんではないかと思います。サンフランシスコやカナダのバンクーバーの野外フェスに行ってきましたが、主流はベース・ミュージックなんだと思いましたし。世界のいまのシーンはテクノの人が多いかなと感じることはありますが。それはRAが主体な(これが世界のクラブ・ミュージックの中心)的な風潮なんじゃないでしょうか、この地球は本当に広いので、そういう媒体に取り上げられていないシーンもたくさんあると思います。そういうシーンをもっと知りたいなって。自分の目で耳で見たものが自分にとってはリアルなんで。媒体に取り上げられてない素晴らしい天才達を自分は知っているので。
インターネットが地球上に普及しているので。そういう媒体からみんなこういうのがいまの主流と錯覚して拾ってきている感じがしますね。以前だと雑誌から情報を得ていたと思うので。ただそれは全て日本人が日本人用に作ったもので、あって、という感じですね。日本で異常に人気がある海外アーティストがヨーロッパの同世代のなかでは全然知られてないっていうのもたくさんありますね。誰それ? みたいな。

すごいね。スケールがデカいなぁ。

G:10数年前に比べると自分たちの世代はめっちゃ恵まれていると思っているんですよ。インターネットにしても、海外に行くにしても、昔は本当に大変だったんだろうなと感じます。google翻訳やgoogle mapもあるし、情報を調べればなんでも出て来る。十数年前は海外の現場とかまで行くにしろ、その現地の言葉で運転手に伝えて、行くわけじゃないですか、騙されたりたくさんあったと思います。いまは最悪どうしようもなければアプリのUberに目的地入れてそこまでの料金が出てドライバーが迎えに来てそのまま現場に行けるので、騙されることもだいぶ減っていると思うんです。料金も出ているし、そのドライバーは騙したら自分のポイントも下がるので。そういう意味でもテクノロジーが発達したことによって海外でもDJは動きやすくなっているんじゃないかなと思います。自分はマネージャーもいないので、そう感じます。マネージャーがいるDJの方々はまた違うと思いますが。音源のデモテープとかもいまはメール1本で1秒後には地球の裏まで届くわけじゃないですか。なんで昔の方に比べると本当に時代が変わったんだと思います。あ、あくまで自分の場合は、ですよ。

新しいアルバムはいつでるの?

G:8月にエクアドルで作ったEPが自分たちのレーベル〈Chill Mountain Rec〉からリリースされます。いままではずっと〈Chill Mountain Rec〉という自分らの媒体でリリースもやってきているんですけど、僕はほんまにプロモーション能力もひく過ぎて。

これからもっと売れるますよ! ところでALTZ君とか元気ですか?

G:この前会いました。Kabamix氏がP.Aで所属しているALTZ.Pというバンドのリリース・パーティで豊橋まで見に行ってきました。ALTZさんの歌のパートも増えていて、ボコーダーで。めっちゃかっこよかったです。もともとALTZさんはバンドマンなので、ただのDJとは違って音楽的な部分もちゃんとあって。ああいうふうに歳をとれたらいいなぁって思いますね。みんなでバンドして楽しそうだなって(笑)。同級生の親友と見に行ったんですが、2人で見ながら、こういう風なの憧れるよなって。ALTZさんは天才です。

いまの大阪のシーンはどうなっているの?

G:一時期の壊滅期に比べると新しく発生しているクラブとかもあって。厳しい環境でも止めずにDJとして頑張ってシーンを作っている方もたくさん知っています。いま現場で残っている人たち筋金入りの本気な人たちだと思います、死ぬまでみんな活動するんだなと思います。いまは箱で働いているわけじゃないので、細かなシーンの様子は自分は把握していませんが。僕はいまレギュラーパーティを持っていないのでMamezukaさんとChariさんが主催する『奇奇怪怪』というパーティに定期的に参加させてもらっています。Mamezukaさんは京都で昔、Mashroomというクラブ作ったり、MEGA道楽というライヴや喜怒哀楽やJAMsというパーティをやっていたり、フジロックの前夜祭で毎年DJしていたり、活動、人間性、すごく影響を受けました。関西で豆さんの影響を受けた方々はたくさんいるんじゃないでしょうか。

あの人はすごい初期からがんばってるよね。同じ世代なのでね。昔からアンダーグラウンドでやっている。

G:自分にとって心のお父さんみたいな感じです。

でもマメちゃんは京都じゃなかった?

G:京都です。おもしろいパーティやってます。新しい音楽も取り入れていて。いまだに進化しています。なので、最新の音をやっていますね。クラシックに頼らず、進化する姿勢は本当に素晴らしいです。歳を取っても自分もそうありたいなと思います。ただ、マメさんはデータにはいかずに、自分の曲も絶対に「レコードで出んと俺はかけられへん」って。「マメさんめっちゃええ曲できたんですよ!」って。報告しても「ごめんな」って(笑)。レコードにならないとマメさんに使ってもらえないんで、そういう部分含めて自分にとって心の父なんです。簡単にはかけてもらえないという。
あ、でも、いちばん新しいのは「AMANOGAWA EP」というレコードなんです。ドイツの〈SVS〉というレーベルから最近出たやつで。Bartellowというドイツ人アーティストと僕が一緒にプロデュースしたやつで、彼の来日ツアー時にKabamix氏のLMDスタジオで作った曲で。
シンセサイザーにMAYUKoさん、ヴォーカルにArihiruaさんやMt.Chills、Kabamix氏も参加してくれています。BARTELLOW & DJ GROUNDという名義で出てます。それはマメさんに使って貰えるかもですね。笑

ミッドナイト・トラベラー - ele-king

 スマホだけで撮ったドキュメンタリー。実験的な映像が随所にインサートされ、洒脱な仕上がりに。そして、なによりもアブストラクトな音楽が素晴らしい(エンディングはシガー・ロスみたいだったけど……?)。登場人物は監督の家族だけで、いわばホームヴィデオ。ただし、一家はタリバーンから殺害命令が出され、アフガニスタンには住めなくなった映画監督と妻、そして2人の娘である。監督のハッサン・ファジリには若い頃に意気投合した親友がいた。そいつがまさかのタリバーンに加わっていたため、だったら、捕まっても助けてくれるだろうと高を括っていた。が、彼が撮った映画の主演俳優が殺され、お前も危ないと忠告を受けてファジリは国外に脱出する。彼がどれだけ慌てていたかは、脱出部分の映像が一切ないことでも容易に推し量れる。

 一家はまずタジキスタンに逃れた。この時点であっという間に難民である。世界に約7000万人にいるという難民のうち国外に出た難民は2500万人だとされ、これに4人が加わったことになる。タジキスタンは中国に接していることやコンドリーサ・ライスらの経営する石油会社があることから米軍がそれなりの兵力を置く駐屯地となっている。アメリカとタリバーンの関係を考えると、確かにタジキスタンに逃れたのは賢い選択だったかに見えたけれど、難民申請は受理されず、賄賂を要求された一家は再びアフガニスタンに戻り、そのまま国を反対側へと突き抜けてイランにたどり着く。イランやトルコは最初からスルーで、目的地はヨーロッパと定められている。イランは確かに映画監督の追放が相次ぎ、『人生タクシー』(15)のような作品は命がけで撮られたりしているけれど、アスガー・ファルハディのように高く評価されている監督もいるし、麻生久美子が主演した『ハーフェズ』のような作品もある。トルコもエルドアンによる独裁が進んでいるとはいえ、ヌリ・ビルゲ・ジェイランやデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンはなんとかやっていると思うと、イランやトルコが選択肢に入っていないのはちょっと納得が行かなかった。理由は娘たちの教育のことを考えて合法的に移民できる国に落ち着きたいからで、現在のヨーロッパがそう簡単に移民を受け入れる場所ではなく、仮りにヨーロッパに入れてもトルコに移送されて不法移民として落ち着く可能性が高いなら「最低でもトルコ」という可能性は残しながら、なるべく高望みをしたということなのだろう。だとしたら、その後の難民生活を「地獄めぐり」と呼んだことはその通りになっていったとは思うけれど、結果的にトルコに落ち着けば、家族がやったことはもしかして「しなくてもいい努力」だったのではないかというエクスキューズが残ってしまうことになった。

 難民としての苦労はフル・コースで襲ってくる。威嚇射撃はなかったものの、ファジリ一家は通称バルカン・ルートでブルガリアに辿り着く。まずは密航業者に騙されて大金を巻き上げられる。娘たちを誘拐すると脅される。食べ物がない。果樹園に忍び込む。寝る場所がない。冬山で野宿。フェンスをくぐる。廊下で寝る。走る。窓から雪が吹き込んでくる。そして難民キャンプに移民排斥デモが押し寄せる。カメン・カレフ監督『ソフィアの夜明け』(09)に移民が暗がりで殴られるというシーンがあったけれど、まさにブルガリアの首都ソフィアでファジリもまったく同じように殴られる。先の予定がまったくわからない。入国できるまでトランジットで何ヶ月も過ごさなければいけない。どれもキツい。セルビアで比較的まともな難民キャンプに入れた時は、もうそれ以上動かなくていいじゃないかとさえ思ってしまった。これらのハードなシーンの合間には、しかし、ファジリ一家の楽しい日常がこれでもかと詰め込まれている。妻のファティマ・ファジリは笑い上戸なのか、このような極限状態のなかでピリピリしそうなものなのに、料理をしながら笑いが止まらない様子。出発する前に大きな世界地図を広げ、娘2人にオーストリアまでの道のりを教えながら、途中で自分でもどこがどこだかわからなくなってしまう場面はなかなか愛らしかった。娘たちの無邪気さは難民の逃避行をどこか異常なピクニックといった趣に変えてしまい、思わず笑ってしまう場面も少なくなかった。ハッサン・ファジリはかつて女性は髪を隠さなければいけないと考えていたらしいのだけれど、髪を隠すのが面倒だと口に出して言うファティマの影響か、「お前はどうしたい?」と聞かれた長女のナルギスは思い切って「私は隠したくない」と意見を述べる。ナルギスが身をよじって、言いにくそうに話す様子を見てしまうと、イランという選択肢はなかったかなと。都市部はだいぶ緩くなってきたとはいえ、スマホでアングリー・ラップを聴きながらガシガシ踊るナルギスにイランはやはり過酷な環境になりかねない。法律が変わって女性が自由に行動できると思ったサウジアラビアでも考えの古い男たちが女性に暴力を振るうという事件も起きているし、最先端だけを見て行動するのは危険というか。

 ハッサン・ファジリが捉える娘たちの映像には彼女たちがぐっすりと眠りこけるシーンが何回もあった。次女のザフラはとんでもない寝相である。手足を好きなように伸ばして眠るポーズはまさに「自由」。

 2年前、日本中の電気が止まってしまい、鈴木一家が東京から九州まで自転車で旅をする『サバイバル・ファミリー』という邦画があった。なにがあっても家族は離れない。1人ぐらい途中で出会った人の家に残るとか、その方が自然な流れだし、いい人にはたくさん会うので、誰にとっても楽だろうと思うのに、バラバラだった家族が団結を固くするという教条主義が作品に柔軟性を与えず、とにかく不自然極まりなかった。これとは反対にファジリ一家の難民生活では家族と仲良くなる人が1人も現れない。現地の人たちは無理でも、かなりな日数を過ごした難民キャンプで多少は顔なじみになる人もいるはずだと思うのに、意図的にカットしたのでなければ、これもやはり不自然である。渡辺志帆氏による監督インタビューを読むと、ハッサン・ファジリは定期的に録画したデータをプロデューサーに渡し、スマホにはなるべく情報を残さないようにして撮影を続けたとあるので、外部との接触はプロデューサーがいわば集約的に引き受けていたのかもしれない。そのことによって純粋な難民生活というよりはやはり最終的には作品として回収されるプロセスとして、この旅は存在したという印象が強くなる。「カメラが入れないところにスマホが入った」的な考え方は、そういう意味では大した意味がない。撮影の道具があることによって明らかに意識は変性し、最終的に仕上げられた映像の美しさや音楽の素晴らしさは素材をまったく違う次元で昇華させているということもある。おそらくは難民生活を作品として完成させることで芸術家として他の難民とは区別され、ヨーロッパに認められる可能性も頭の片隅にはあったに違いない。映像のクオリティの高さはだから、ファジリが実力以上のクリエイティヴを爆発させた可能性もあるだろう。実際の生活はもっと過酷で芸術のことを考える余裕もないに等しかったのではないかと思うけれど、難民生活の悪い面に終始する作品ではなく、こんなにヒドいところでも人間は生きていけてしまうんだなということも含め、人が生きていることを力強く伝えてくれるドキュメンタリーになっている。強くなれることがむしろ人間の不幸だと思えてくるほどに。

*『ミッドナイト・トラベラー』は山形国際ドキュメンタリー映画祭(11日・15日)、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭(14日・17日)で上映予定。

また、名古屋国際センターで行われるUNHCR WILL2LIVE映画祭で13日と14日に無料上映会があります。詳しくは→https://unhcr.refugeefilm.org/2019/venue/nic-nagoya/

Stereolab - ele-king

 ステレオラブ復刻プロジェクトがついに完結。5月の2nd&3rd、9月の4th~6th に続き、今度は2001年の7作目『Sound-Dust』と2004年の8作目『Margerine Eclipse』がリイシューされる。発売は11月29日。これまで同様、全曲リマスタリング&ボーナス音源追加。両作ともにショーン・オヘイガンが参加しており、前者ではおなじみのジム・オルークとジョン・マッケンタイアがエンジニアリングとミックスを担当している。現在『Sound-Dust』より“Baby Lulu”が先行解禁中。

STEREOLAB

90年代オルタナ・シーンでも異彩を放ったステレオラブ
10年ぶりに再始動をした彼らの再発キャンペーン第三弾発表!
『SOUND-DUST』と『MARGERINE ECLIPSE』の名盤2作が全曲リマスター+ボーナス音源を追加収録でリリース!

90年代に結成され、クラウト・ロック、ポスト・パンク、ポップ・ミュージック、ラウンジ、ポスト・ロックなど、様々な音楽を網羅した幅広い音楽性で、オルタナティヴ・ミュージックを語る上で欠かせないバンドであるステレオラブ。その唯一無二のサウンドには、音楽ファンのみならず、多くのアーティストがリスペクトを送っている。10年ぶりに再始動を果たし、今年のプリマヴェーラ・サウンドではヘッドライナーのひとりとして出演。5月には、再発キャンペーン第一弾として『Transient Random-Noise Bursts With Announcements [Expanded Edition]』(1993年)、『Mars Audiac Quintet [Expanded Edition]』(1994年)の2タイトルが、9月に第二弾として『Emperor Tomato Ketchup』(1996年)、『Dots And Loops』(1997年)、『Phases Group Play Voltage In The Milky Night』(1999年)の3作がアナログ、CD、デジタルで再リリースされている。

7タイトル再発キャンペーンの締めくくりとなる第三弾として、ジム・オルークとジョン・マッケンタイア共同プロデュースによる2001年の『Sound-Dust』と、久々のセルフ・プロデュース・アルバムとなった2004年の『Margerine Eclipse』の2作が、全曲リマスター+ボーナス音源を追加収録した“エクスパンデッド・エディション”で再発されることが発表された。また合わせて『Sound-Dust』より“Baby Lulu”が先行解禁されている。

Stereolab - Expanded Album Reissues Part 3
https://youtu.be/5mlLux_PEhc

Baby Lulu
https://stereolab.ffm.to/baby-lulu

今回の再発キャンペーンでは、メンバーのティム・ゲインが監修し、世界中のアーティストが信頼を置くカリックス・マスタリング (Calyx Mastering)のエンジニア、ボー・コンドレン(Bo Kondren)によって、オリジナル・テープから再マスタリングされた音源が収録されており、ボーナス・トラックとして、別ヴァージョンやデモ音源、未発表ミックスなどが追加収録される。


『Sound Dust [Expanded Edition]』と『Margerine Eclipse [Expanded Edition]』は2019年11月29日リリース。国内流通盤CDには、解説書とオリジナル・ステッカーが封入され、初回生産限定アナログ盤は3枚組のクリア・ヴァイナル仕様となり、ポスターとティム・ゲイン本人によるライナーノートが封入される。また、スクラッチカードも同封されており、当選者には限定12インチがプレゼントされる。さらに対象店舗でCDおよびLPを購入すると、先着でジャケットのデザインを起用した缶バッヂがもらえる。

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: SOUND DUST [Expanded Edition]
release date: 2019/11/29 FRI ON SALE

[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Black Ants In Sound-Dust
02. Space Moth
03. Captain Easychord
04. Baby Lulu
05. The Black Arts
06. Hallucinex
07. Double Rocker
08. Gus The Mynah Bird
09. Naught More Terrific Than Man
10. Nothing To Do With Me
11. Suggestion Diabolique
12. Les Bons Bons Des Raisons

Disk 2
01. Black Ants Demo
02. Spacemoth Intro Demo
03. Spacemoth Demo
04. Baby Lulu Demo
05. Hallucinex pt 1 Demo
06. Hallucinex pt 2 Demo
07. Long Live Love Demo
08. Les Bon Bons Des Raisons Demo

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: MARGERINE ECLIPSE [Expanded Edition]
release date: 2019/11/29 FRI ON SALE

[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Vonal Declosion
02. Need To Be
03. Sudden Stars
04. Cosmic Country Noir
05. La Demeure
06. Margerine Rock
07. The Man With 100 Cells
08. Margerine Melodie
09. Hillbilly Motorbike
10. Feel And Triple
11. Bop Scotch
12. Dear Marge

Disk 2
01. Mass Riff
02. Good Is Me
03. Microclimate
04. Mass Riff Instrumental
05. Jaunty Monty And The Bubbles Of Silence
06. Banana Monster Ne Répond Plus
07. University Microfilms International
08. Rose, My Rocket-Brain! (Rose, Le Cerveau Electronique De Ma Fusée!)

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