「iLL」と一致するもの

Speaker Music - ele-king

三田格

 ニューヨークのアパレル・メーカー「HECHA / 做」が攻めまくっている。プロジェクト1は2018年の9月にウェブ上で行ったオール・デイ・ストリーミング。プロジェクト2は2019年のベルリン国際映画祭でジェシー・ジェフリー・ダン・ロヴィネリ(Jessie Jeffrey Dunn Rovinell)によるクィアー映画『ソー・プリティ』の上映。プロジェクト3は「黒いテクノを取り戻す(Make Techno Black Again)」(トランプのパロディです、念のため)というキャンペーン用キャップの発売。この時にテーマ曲をつくったのがスピーカー・ミュージックことディフォーレスト・ブラウン・ジュニア(以下、DBJ)という音楽ライター。プロジェクト4はオンライン・ショップの開設とポップ・アップ・イヴェントと続き、これらはすべて共感によってドライヴされるビジネス・モデル(Empathy-driven business model)を標榜するルス・アンジェリカ・フェルナンデスとティン・ディンという2人の女性が企画・推進している。プロジェクト7は「テクノは誰のもの?(Who Does Techno Belong to?)」と題された討論会の開催で、商品化され、商業化したテクノについてゲストを交えて語り合うなど、テクノに対するこだわりがハンパない。彼らの頭にあるのはとにかくデトロイト・テクノの継承と発展である。EDMのかけらもない。そして、Project10として〈プラネット・ミュー〉からリリースされたスピーカー・ミュージックのセカンド・アルバム『Black Nationalist Sonic Weaponry』はまさに「黒いテクノを取り戻」し、「HECHA / 做」の主張を具体化した素晴らしい内容となった。〈プラネット・ミュー〉も今年、最も重要なリリースになると大きな声を上げている。何も知らずに1曲目を聴いた僕も叫びそうになった。すごい。すごいよ!!マサルさん。セクシーコマンドー。いやいや。

 ベース・ミュージックとフリー・ジャズの出会い。そんな生易しい次元ではないかもしれない。1曲目にフィーチャーされているのは詩人のマイア・サナア(Maia Sanaa)で、付録としてついている45ページのブックレットは彼女の書いた理論や詩を集めたものらしい(これは未見)。DBJ自身もアミリ・バラカが提唱し、黒人音楽の歴史をまったく新しい視点で読み直したとされる批評家ツィツィ・エラ・ジャジ(Tsitsi Ella JajiI)が連帯のために提唱したステレオモダニズム理論をアルバム全体に応用したそうで、それはアメリカ産のブラック・ミュージックを読み解くためにセネガルとガーナと南アフリカの音楽を研究した成果らしい。どこがどうだかはもちろんよくわからない。わかるのは躓くように叩かれるスタッタリング・ドラムがとにかくカッコいいということと、3曲目の“Techno Is A Liberation Technology(テクノは解放のテクノロジー)”でジョン・ハッセルばりのトランペットが最初のピークをつくり出すこと。この緊張感には圧倒される。ドリルン・ベースなんて子どもの遊びだったじゃん……(いや、それはそれでいいんだけど)。続いて“Black Secret Technology Is A Traumatically Manufactured And Exported Good Necessitated By 300 Years Of Unaccounted For White Supremacist Savagery In The Founding Of The United State(野蛮な白人至上主義の上に築かれたアメリカのために300年も輸出が必要とされ、精神的な外傷を負わされてきた黒い秘密景気)”で同じく極端なスタッタリング・ドラムの背後で粒子の細かい電子音が縦横無尽に飛び回り、“A Genre Study Of Black Male Death And Dying(黒人男性の「死んだ」と「死んでいる」の調査)”ではドラムがトライバルな響きにガラッと変わり、延々と警察無線がサンプリングされる。複数のパーカッションが入り乱れる瞬間はまさしく何かが起きた感じ。

 不協和音を連打するピアノにリードされた“Of Our Spiritual Strivings(私たちの精神的努力)”はザ・ポップ・グループをベース・ミュージックに変換したかのようであり、メロウなサックスとノイズで構成された“Black Industrial Complex - Automation Repress Revolution In The Process Of Production, And Intercontinental Missiles Represent A Revolution In The Process Of Warfare(黒い複合産業 - オートメイションは生産方法を劇的に変えることを抑止し、大陸間弾道ミサイルは戦争を進化させていく)”でようやく一息つける(つけないかな)。“Super Predator(他人を犠牲にして利益を得る者)”で再び強烈なスタッタリング・ドラムが復活し、“American Marxists Have Tended To Fall Into The Trap Of Thinking Of The Negroes As Negroes, i.​e. In Race Terms, When In Fact The Negroes Have Been And Are Today The Most Oppressed And Submerged Sections Of The Workers​.​.​.(アメリカのマルクス主義者たちは黒人のことを人種的タームとして考える罠に陥りやすく、実際に黒人たちはかつても、そして、いまも抑圧され、労働者としてどっぷり社会の底に沈められている)”ではストイックなドラミングに不穏なシンセサイザーの波が押しては返すスリリングな展開。ラストはアルバム全体の余韻を先取りするようにジェフ・ミルズのコード進行を思わせるクールな“It Is The Negro Who Represents The Revolutionary Struggles For A Classless Society(階級なき社会のための革命の闘争を象徴するのはニグロである)”。物悲しいサックスの響きはマッド・マイクのそれとはあまりに対照的。デトロイト・テクノの優美なメロディやパワフルな面しか見えていないフォロワーは思いっきり反省すべきだろう。

 深南部からニューヨークに出てきたというDBJは、以前は本人名義で実験音楽に多くの時間を割いてきた。どちらかというと活動はアート寄りで、2017年にスザンヌ・フィオール・キュレイトリアル・フェローシップの奨励を得るとMoMAの別館など様々な場所で作品を発表し、ヒートシックなどの名義で〈パン〉からリリースがあるスティーヴ・ウォーウィックとの共作「E-M」などですぐにも知名度を上げていく。DJなどではヒップホップやテクノを扱うこともあったDBJは、しかし、自分で作曲するとなるとフィールド・レコーディングや延々とスピーチを続けているものがメインで、昨年末に〈プラネット・ミュー〉からリリースされたスピーカー・ミュージックとしてのデビュー作『Of Desire, Longing』もゴソゴソとしたドローンの変形サウンドが46分36秒にわたって持続するだけ。いわゆるダンス・ミュージックではまったくない(あ、安倍晋三の言い回しがうつった!)。『Black Nationalist Sonic Weaponry』の前哨戦となったのはケプラ(Kepla)とのコラボレイト・アルバム『The Wages Of Being Black Is Death』(19)で、控え目だけれど、パーカッション・サウンドが取り入れられ、『Black Nationalist Sonic Weaponry』の青写真がここには確実に描かれている。言葉とサウンドの比重が逆転し、「メイク・テクノ・ブラック・アゲイン」を自らが実行に移した感じだろう。“Sunken Place in Reverse...a Cancelled Future, a Horizon of a Pipe Dream(逆さに沈没した場所……キャンセルされた未来、空想の地平線)”から『Black Nationalist Sonic Weaponry』まではあと一歩である。“Sophisticated Genocide - American Industrialized Culture is Designed to Flush Out Non-performing/Non-conforming Black Male Bodies(洗練された大量虐殺 - アメリカの産業文化は役に立たない黒人男性の肉体を追い出すようにつくられている)”で組み合わされたリズムとドローンのコンビネイションもDBJが助走段階に入っていることを告げ知らせている。さらに『Black Nationalist Sonic Weaponry』と2日違いでリリースされたDBJ名義『Further Expressions Of Hi-Tech Soul』は1時間に及ぶスタッタリング・ドラムにマッド・マイクを思わせる雄大なシンセサイザーがやや重々しく被せられていくスタイルで、彼の作品にしては言葉がまったく使用されず、この試みもまたテクノを新たな次元に持ち上げたものといえる。タイトルはマッド・マイクを意識したものではなく、耐久と適応を強いられてきた黒人の歴史とその肉体を表すものだという。

 シリアからオマール・スレイマンが飛び出し、ウクライナからヴァクラが頭角を現したように、紛争が起きることを察知して優れた音楽がその予兆を奏でることはままあることだろう。アメリカでブラックライヴズマターが再び拡大する直前、僕はピンク・シイフ(Pink Siifu)によるパンク・ラップにいささか慄いていた。ここまでアナーキーなヒップホップ・サウンドはそうそうない。しかし、録音時期から考えて、それをも上回る音楽的な爆発を起こしていたのはDBJだった。19日に配信が開始されたということは、各曲のタイトルはブラックライヴズマターを受けて考えられたものに違いない。厳密にいうとブラックライヴズマター以後につくられた最初の作品とは言えないだろうけれど、そのような時間的な境界線上にあったことを考えれば、『Black Nationalist Sonic Weaponry』をブラックライヴズマター後に現れた最初の音楽作品として考えてかまわないのではないだろうか。〈プラネット・ミュー〉からのステートメントは「(『Black Nationalist Sonic Weaponry』は)野蛮な新自由主義を超克し、白人のテクノ・ユートピアが描き出す架空の経済成長に負うことがない未来へと歩み出す作品だ」と結ばれている。また、『Black Nationalist Sonic Weaponry』の収益はすべて「Black Emotional and Mental Health (BEAM) 」と「the Movement 4 Black Lives」に寄付される。

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野田努

デトロイト・テクノはアメリカのポップ・カルチャーから欠落し、反メディア的であるために、国のスキャン・システムから完全に抜け落ちてしまっている。(略)アメリカのメディア風景全体を補強しているエンパワーメントの論理からテクノは脱退する。それらすべての指令から逃れて可視化するために、あるいは人びとの声を聞くために、人びとの歴史を語るために。──コドウォ・エシュン『More Brilliant Than The Sun』(高橋勇人訳)

 娘がまだ幼稚園に通っていたとき、いっしょに近所を歩いていたら、自転車に乗った警官が2名ぼくたちの前を通り過ぎた。傍らにいた娘を見ると、思い切り敬礼している。「なにやってんだよ?」と訊くと「おまわりさんと仲良くなれれば、何かあったときに助けてくれるじゃん」と答えた。たしかにこの社会では最初、そう教えられるものである。おまわりさんはみんなを守ってくれると。
 その娘もいま11歳となって、アメリカで警官が黒人をとっちめている映像をいっしょに見ている。このリアルは、彼女が学校では教えられていないリアルだ。時間はかかるだろうが、これから彼女に“黒い物語”を話さなければならない。すなわち信じ込まされていた話が必ずも正しくはなかったということを。ブラックライヴズマターに若い白人が多いのは、彼ら・彼女らが子どもの頃に教えられたリアル(歴史、社会)が欺瞞的だったことに腹を立てているからだろう。

 「地球人を飼いならす平凡な視聴覚プログラムは、人びとの心を濁らせて人種間に壁を作る」とはかつての、30年前のデトロイトのURなるアーティストがレコードに印刷した言葉だが、時代が変わるときはいっきに変わるものだ。NYのスピーカー・ミュージック(ディフォレスト・ブラウン・ジュニア)なる黒人青年は、いま、山頂で空気で肺をめいっぱい膨らませるかのようにデトロイト・テクノとフリー・ジャズを我が身に吸い込み、そして更新しようとしている。ディフォレスト・ブラウン・ジュニア(DeForrest Brown Jr.)名義でリリースしたアルバム『Further Expressions Of Hi-Tech Soul(ハイテック・ソウルのさらなる表現)』のアートワークは、エシュンの『More Brilliant Than The Sun』を読んでいる彼自身の姿である。そして、“Hi-Tech Soul”とはデリック・メイの造語であり、そのコンセプトの重要性をDBJは1週間前に出たばかりのスピーカー・ミュージック名義のアルバムに併せて作ったブックレット(フリーでDLできる)のなかで解説している。
 ブックレットにおいては、URの『インターステラー・フュージティヴ』のアルバムのアートワークが紹介され、そしてドレクシアの『ザ・クエスト』のCD版に掲載された奴隷貿易という西欧社会の歴史(学校では教えられることのない)が再掲されている。それがこれからスピーカー・ミュージック(DBJ)を聴こうとする人たちへのひとつヒントだが、しかし、彼のサウンドには、21世紀のフットワークやベース・ミュージックを通過した斬新なリズム──ディスコとは切り離されたエレクトロニック・アフリカン・パーカッション──がある。リズムは彼の武器だが、さらにフリー・ジャズのエッセンスを融合させ、そう、URの“ファイナル・フロンティア”を30年分のアップデートに成功させている。それが、スピーカー・ミュージックのセカンド・アルバム『Black Nationalist Sonic Weaponry』の最後の曲、“It Is The Negro Who Represents The Revolutionary Struggles For A Classless Society (階級なき社会のための革命の闘争を象徴するのはニグロである)”だ。ちなみにニグロとは、黒人が主体的に自らを呼んだ言葉ではない、植民主義における白人が彼らをそう呼んだのであって、問題の根源は植民主義を生んでしまった思想なり文明なりにあると。
 スピーカー・ミュージックはサウンドの発展のさせ方もさることながら、コンセプトの研磨においても抜かりがない。今回の抗議運動は歴史的モニュメントの破壊にまでことが及んでいるが、ブラックライヴズターが反人種人差別にとどまらず、それ(=奴隷制度や植民主義)が黒人ではなく白人の歴史から来ていることを若い世代の白人が声を出していることに未来があるとは言えないだろうか。人びとの声は、DBJがブックレットの最初に引用したアミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)の1967年の言葉「我々はポスト・アメリカの形態を欲する」とリンクしている。そして、連帯(solidarity)を呼びかけているこの音楽は、パブリック・エナミー〜UR以来の、確信的なポリティカル・ブラック・ミュージックと言えよう。(彼はいま『黒いカウンター・カルチャーの結集』なる著書を準備中だとか)

 ディフォレスト・ブラウン・ジュニアは、革命前史として、サン・ラ、アーチー・シェップ、アルバート・アイラー、ミルフォード・グレイヴス、ノア・ハワード、クリフォード・ソーントンといったアーティストたちの作品をリストアップしている。そう、ジャズなのである。これら60年代末〜70年代前半のフリー・ジャズと90年代のデトロイト・テクノとの溝を埋めようというのがDBJの企みであろう。
 また、インスピレーションのひとつに状況主義にも影響を与えたフランスの思想家アンリ・ルフェーヴルの名も挙げているが、大それた固有名詞が並んでいるからといって、身構える必要はない。テクノは、音を感じるところからはじまる。まずは何よりも、ここにはサウンドの強度がある。能書きをすっ飛ばして聴いても充分にカッコいい。アーチー・シェップのアルバムのように。ただひとつだけ言いたいのは、世のなかには「いま聴かなくていつ聴くのよ」という音楽があり、これはまさにいま聴く音楽だ、ということ。世界が“黒い物語”を必要としているまさにいまこのときに、である。

Fiona Apple - ele-king

 ローリーン・スカファリア監督・脚本の映画『ハスラーズ』は、ジェニファー・ロペスとフィオナ・アップルという、長く別の場所にいたはずのふたりの女性ポップ・スターを結びつけた作品であった。ニューヨークのストリップ・クラブの花形であるラモーナ(ロペス)が得意のポールダンスをカリズマティックに披露する、その登場シーンでアップルの “Criminal” が流れるのだ。“Criminal” は気だるげなアップルの歌がブルージーなピアノに絡む官能的な歌だが、そこでは男に対して加虐的に接してしまう女の罪悪感が吐露される。濁りを含んだピアノの打音、「自分を犯罪者のように感じてしまう、だから償いが必要」……。その歌が合図になり、『ハスラーズ』では出自や抱える事情が異なる女たちによる犯罪が始まる。ウォール街のクソ野郎たち、女たちを見くびってきた傲慢な男どもからカネを奪取するための。だけどそこには当然痛みや後ろめたさも含まれるわけで、だからアップルによる個の情動がたっぷり詰まった歌が必要だったのだろう。1996年、『Tidal』で世界に固唾を呑ませた彼女の歌の迫真を思い出す……。

 そして2020年、『Fetch The Bolt Cutters』に収められた “Ladies” を聴く。そのタイトル通り、この曲は……あるいはアルバムは、「女性たち」についてである。“Ladies” はボーイフレンドの浮気が発覚したときに、期せずして当事者になってしまった女性同士で闘うべきではないということを説いた歌だそうだ。ある意味俗っぽいモチーフではあるものの、だからこそリアルで切実で、あるいはほかの事象においても適応されうるだろう。アルバム中でももっともメロウな響きを持ったこの曲で、アップルは女性同士の連帯の困難と尊さを慈しんでみせる。そしてアルバムを通して、アップルの姉であるモード・マガートをはじめとした複数の女性たちの声が折り重なっている。
 『The Idler Wheel Is Wiser Than the Driver of the Screw and Whipping Cords Will Serve You More Than Ropes Will Ever Do』(2012)以来8年ぶり、5作めとなる『Fetch The Bolt Cutters』は、予定されていたリリース日を早めて世に放たれた。その背景にあったのはパンデミックだ。自己隔離を余儀なくされるなかで、(精神的/肉体的に)虐待に遭うひとたちの逃避として自分の音楽が少しでも機能すれば、との想いによるものだそうで、ここでアップルは彼女自身が性暴力のサヴァイヴァーであることを踏まえている。そして『Fetch The Bolt Cutters』には、(おもに女性たちに向けて)声を上げることを恐れるなというメッセージがこめられた。ボルトカッターを取ってこい、自分を縛る鎖を断ち切れ。

 オープニングの “I Want You To Love Me”、続く “Shameika” から、ピアノを高い位置から思い切り叩きつけるような打音に圧倒される。本作はガチャガチャとした打撃音が全編を覆う非常にパーカッシヴなアルバムだが──楽器だけでなく、空き缶や亡くなった愛犬の骨までが叩かれる──、ピアノもまさにパーカッションとして扱われている。あるいはヴォーカリゼーションもまた、「歌」の形を取る前の吐き出すような声が多用されており、それは声帯を使って周囲の空気を「叩いて」いるようにさえ思えるダイレクトなものだ。人間が何かを「叩く」ときのダイナミックな瞬間、プリミティヴなパワーに満ち満ちている。ソウル、ジャズ、スタンダードを軸にしたソングライティングは90年代から確実に成熟しているものの、なおもコントロールできない感情の奔流をそのまま勢いに任せているようなところがあり、そのエキセントリックさや、定型をはみ出していく音楽の真に自由なエネルギーはいや増しているのである。メランコリックな瞬間はあるが、そこに留まっているわけにはいかないと言わんばかりにダイナミックに姿を変える。フィオナ・アップルという、かつて痛みをさらけ出すことで生々しさを表現に与えてきたアーティストが、激しさを失わずに感情の深度も表現がリーチする範囲を増していることに畏れに似た想いを抱く。
 簡素なリズムの上で多重コーラスがファンキーに弾けていく “For Her” が、性暴力で訴えられながらも最高裁判事となったブレット・カバノーをモチーフとしているという話からも、#Metoo 以降のムードを追い風にしている部分はたしかにあるだろう。しかし先述の “Ladies” が2013年には別タイトルで披露されていたという話からは、そうした主題──自分を抑圧してくる者(たち)との関係を断ち切ること──はつねに彼女の表現の重要な一部であり続けたことを発見できる。……だからこうだ。ひとりの女性の過酷な体験がメランコリックにムーディに編みこまれてきた彼女の歌は、いまこそ「彼女たち」のパワフルな歌となった。シス男性である自分はカギカッコつきの「シスターフッド」に対して、非当事者ゆえの近寄りがたさと強烈な憧憬を同時に覚えるが、『Fetch The Bolt Cutters』のなかに渦巻くそれは、言葉や概念として形作られる以前の、何かを激しく「叩く」ようなプリミティヴなものとして立ち上がっている。“Cosmonauts” での「始めろ! 始めろ! いますぐ始めろおおおおお!」という絶叫は、抑圧されてきた者たちを内側から揺さぶり、やがて社会の幾多の不条理を打撃する声の重なりとなるだろう。

Villaelvin - ele-king

 2000年代にはリアルなアフリカを舞台にした超大作がハリウッドでも次から次へとつくられ、小品にも忘れがたい作品が多かったものの、現在では『ブラックパンサー』のようにおとぎ話のようなアフリカに戻ってしまうか、そもそもアフリカを舞台にした作品自体が激減してしまった(90年代よりは多い。あるいはセネガルなど現地でつくられる作品にいいものが増えてきた)。アフリカに対する注目は音楽でも同じくで、ボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロがライヴ・エイドから20周年となる2005年に世界8大都市で「ライヴ8」を同時開催し(日本ではビョークやドリームズ・カム・トゥルーが出演)、G8の首脳にアフリカへの支援を呼びかけたり、ベルギーの〈クラムド・ディスク〉がコンゴのコノノNo. 1をデビューさせてアフリカの音楽に目を向ける機会を増大させてもいる。これに続いてデイモン・アルバーンはアフリカ・エクスプレスを組織したり、コンゴの現地ミュージシャンたちと『DRC Music』を制作、ベルリンのタイヒマン兄弟も同じくケニヤなどに赴いて『BLNRB(ベルリンナイロビ)』や『Ten Cities』といったコラボレイト・アルバムを、マーク・エルネスタスはセネガルでジェリ・ジェリ『800% Ndagga』をそれぞれつくり上げている。こうした動きはしかし、第1次世界大戦前にイギリスとドイツが次々とアフリカ各地を植民地にしていったプロセスともどこか重なってみえる、個々の動きとは別に全体としては複雑な感慨を呼び起こす面もある(ディープ・ハウスのアット・ジャズが早くから南アフリカのクワイトにコミットしていったことも多面的な要素を持つことだろう)。アフリカの音楽産業は、規模でいえば1に南アフリカ、2にナイジェリアである(北アフリカとフランスの関係は煩雑になりすぎるので省略)。西アフリカを代表するナイジェリアではイギリスとアメリカの資本が暴れている一方、この数年で東アフリカを代表し始めたのがウガンダで、同地にもイギリスやドイツ、そして中国の資本が相次いで投入されている。イギリスのコンツアーズとサーヴォが現地のパーカッション・グループとつくり上げた『Kawuku Sound』、ゴリラズのジェシ・ハケットによる『Ennanga Vision』……等々。

 「先進国から来る人たちは演奏を録音して持って帰るだけ。出来上がったものを聞かせてもくれない」という不満は以前から少なからずあったらしい。アフリカと先進国の関係を変える契機が、そして、クラブ・ミュージックとともにやってくる。ウガンダのクラブ・ミュージックを牽引してきたのはDJ歴20年を超えるDJレイチェルと、2013年ごろから始動し始めた〈ニゲ・ニゲ・テープス(Nyege Nyege Tapes)〉である。東アフリカ初の女性DJとされるDJレイチェルはレコードも売っていないし、わずかなCDも高価で手の届かないものだったという90年代からDJやラップを始め、それは彼女が中流で、平均的な家族よりもリベラルな親だったから可能だったと本人は考えている(https://blog.native-instruments.com/globally-underground-dj-rachaels-journey/)。ウェデイング・プランナーとして働く彼女は結婚式で使うサウンドシステムをDJでも使いまわすことでなんとか生計を立てているようで、CDJが国全体でも3台しかないというウガンダではレンタルも簡単にはできないという。一般的にウガンダで音楽を楽しむにはスマホしかなく、それは『Music From Saharan Cellphones』(11)の頃も現在もあまり変わっていないらしい。ヒップホップからゴムまで横断的に扱うDJレイチェルの流儀に応えるかのようにして、そして、〈ニゲ・ニゲ〉がスタートする(詳細はあまりに膨大なので詳しくは→https://jp.residentadvisor.net/features/3127)。〈ニゲ・ニゲ〉の特徴を2つに絞るなら最新のエレクトロニック・ミュージックと伝統的な過去の音楽を等価に扱っていること、そして、ウガンダだけではなく、南に位置するケニアやタンザニア、あるいは西アフリカのマリやマダカスカル島東方に浮かぶレユニオンで活動するプロデューサーたちの音源もリリースしていることだろう(〈ニゲ・ニゲ〉のリリースで大きな注目を集めたタンザニアのシンゲリを紹介するコンピレーション『Sounds Of Sisso』については→https://www.ele-king.net/review/album/006179/)。〈ニゲ・ニゲ〉自体は音楽を生み出す母体として機能しているというよりDJ的な編集センスで存在感を示しているといえ、その頂点に位置しているのが現在はカンピレ(Kampire)である。DJレイチェルと同じくアクシデントでDJになったというカンピレは音楽に対する知識がなかったことが幸いしたと自身のユニークさを説明する。彼女がミックスすると、嫌いだった曲まで魅力的に聞こえてしまうので、僕もかなり舌を巻いた(ということは以前にも当サイトで書いた)。

 「ウガンダのアンダーグラウンドはどんどん大きくなっている。〈ニゲ・ニゲ〉は国際的に認知され、多くの西側メディアがウガンダを記事にしている」(DJレイチェル)


 そして、〈ニゲ・ニゲ〉が2018年にクラブ専門のサブ・レーベル、〈ハクナ・クララ(Hakuna Kulala)〉をスタートさせる(ようやく本題)。「安眠」というレーベル名とは裏腹にあまり聞いたことがない種類のベース・ミュージックをぶちかますケニヤのスリックバック(Slikback)やウガンダのエッコ・バズ(Ecko Bazz)などアルバムが楽しみなプロデューサーばかりが名を連ねるなか、〈ニゲ・ニゲ〉のハウス・エンジニアを務めるドン・ジラ(Don Zilla)と、ベルリンからやってきたエルヴィン・ブランディによるユニット、ヴィラエルヴィン(Villaelvin)のコラボレイト・アルバム『Headroof』がまずは群を抜いていた。バンクシーのように公共空間を使ったアート表現でも知られるというブランディはこれまで3人組のイエー・ユー(Yeah You)として4枚の実験的なアルバムをリリースした後、ソロでは本人名義の「Shelf Life(賞味期限)」などでアルカもどきの極悪インダストリアル路線をひた走り、とくにアヴリル・スプレーン(Avril Spleen)名義では混沌としたサウンドを背景にリディア・ランチばりの絶叫を聞かせてきた(それはそれで完成度の高い曲もある)。これがドン・ジラと組んだことでグルーヴを兼ね備えたインダストリアル・テクノへと変化。ドン・ジラ自身は昨年、やはり〈ハクナ・クララ〉から「From the Cave to the World」でデビューし、シンゲリを意識したようなトライバル・テクノや不穏なダーク・アンビエントを披露したばかり(コンゴ出身の彼は自分の音楽をコンゴリース・テクノと呼んでいる)。2人が起こしたアマルガメーションはアフリカとヨーロッパの音楽が混ざり合うという文脈でもすべてが良い方に転んだといえ、それぞれの音楽性が互いにないものを補完し合うという意味でも面白い結果を引き出している。インダストリアル・ノイズをクロスフェーダーで遊んでいるようなオープニングからシンゲリにはない重量感を備えた“Ghott Zillah”へ。タイトル曲の“Headroof”ではコロコロとリズムが変わる優雅なインダストリアル・アンビエントを構築し、これだけでも次作があるとすれば、それは〈パン〉からになるような気がしてしまう。ゴムをグリッチ化したような”Ettiquette Stomp”からアルヴァ・ノトとDJニッガ・フォックスが出会ったような“Zillelvina”へと続き、”Hakim Storm”ではチーノ・アモービを、ダンスホールを取り入れた“Kaloli”ではアップデートされたカンをもイメージさせる。全編にわたって知的でダイナミック。想像力とガッツにあふれたアルバムである。



〈ハクナ・クララ〉の最新リリースはアフリカ・エクスプレスにも参加していた南アのインフェイマス・ボーズによるメンジ(Menzi) 名義のカセット「Impazamo」で、これがなんとも不穏でダークなインダストリアル・ゴムに仕上がっていた。〈ニゲ・ニゲ〉がこれまで大々的にプッシュしてきたシンゲリとはだいぶ異なっった雰囲気であり、こうした方向性はしばらく維持されるに違いない(シンゲリを発展させたリリースももちろん〈ニゲ・ニゲ〉は続けている)。さらには、この夏、〈ニゲ・ニゲ〉の最初期からリリースを続けてきたナイヒロクシカ(Nihiloxica)のデビュー・アルバムが〈クラムド・ディスク〉から、という展開も。母体をなすのはドラムセット1人に7人のパーカッションが加わったウガンダの伝統的な打楽器グループ、ニロティカ・カルチャラル・アンサンブル(Nilotika Cultural Ensembl)で、この編成で彼らは昨年、〈メガ・ミュージック・マネージメント〉から『KIYIYIRIRA』というラヴリーなアルバムをリリースしたばかり。これにイギリスでアフロ・ハウスの佳作を連打してきた〈ブリップ・ディスク〉から“Limbo Yam”をリリースしていたスプーキー~Jとpq(もしかして〈エクスパンディング・レコーズ〉から『You'll Never Find Us Here』をリリースしていたpqか?)がプロデュースとシンセサイザーで加わり、ニロティカにニヒリズムの意味を加えたナイヒロクシカと名称を変形させたもの(pqは前述したエッコ・バズのプロデューサーも務めている)。イギリスの地下室とアフリカの伝統を結びつけたと自負するナイヒロクシカは2017年に〈ニゲ・ニゲ〉からカセットでデビューし、1年間ツアーを続けたことで伝統音楽「ブガンダン」に対する理解を深めたと確信し、そのままスタジオ・ライヴを収めたEP「Biiri」を昨年リリース、これをアルバム・サイズにスケール・アップさせたものが『Kaloli』となる。怒涛のドラミングは冒頭からアグレッシヴに響き渡り、まったくトーン・ダウンしない。次から次へとポリリズムが乱れ飛び、スリリングなドラミングをメインにした構成はさながら23スキドゥー『Seven Songs』の38年後ヴァージョンだろう。本人たちはこれを「ブガンダン・テクノ」と称し、「不吉なサウンド」であることを強調してやまない。エンディング近くに置かれた“Bwola”などはそれこそ『地獄の黙示録』でウィラード大尉が血だらけの顔を河から浮かび上がらせたシーンを思わせる。エンディングでは少し気分を変えるものの、全体に漲るパッションはとても暗く、情熱的である。

 世界中からヴォランティア・スタッフが集まり、4日間も続くという〈ニゲ・ニゲ・フェスティヴァル〉(CDJは2台!)はもちろん警察から狙われ、今後は新型コロナウイルスの影響も避けられないだろう。ウガンダはしかし、政府がしっかりとした広報機能を兼ね備えていないらしく、コロナ対策もオーヴァーグラウンドで人気のヒップホップやダンスホールが音楽に乗せて民衆にその知識を伝え、いまのところ死者はゼロだという。つーか、タンザニアでも6月7日に終息宣言が出たものの、「神の恩恵により新型コロナウイルスを克服できた」というマグフリ大統領の言葉を聞くとかえって不安に……。韓国とともにメガ・チャーチが猛威を振るうウガンダはLGBTに対してかなり厳しい視線を向けるらしく、前述したDJレイチェルもレズであることがわかった途端に友だちを何人か失ったそうで、〈ニゲ・ニゲ〉に集まる人たちのなかには、そこが「安全地帯だから」という理由も少なからずあるらしい。

 健全なオーヴァーグラウンドがあり、必要なアンダーグラウンドが機能している。ウガンダの音楽状況をイージーにまとめるとしたら、そんな感じになるだろうか。そして、それはなかなか容易に手に入るものではない。

 以下に掲げるのは、音楽家と哲学者の4人によって共同執筆された、インプロヴィゼーションに関するテクストである(初出は2010年。原著フランス語版はこちら)。かつてデレク・ベイリーの掲げた「ノン‐イディオマティック」なる概念を出発点に、即興とはなにかについて、哲学的考察が繰り広げられる。訳出したのは、共同執筆者の1人であり、ヨーロッパの即興シーンで活躍する打楽器奏者の村山政二朗。彼による序文とともに、以下に全訳を掲載する。関連音源(2008年録音、マスタリングはラシャド・ベッカー)もあるので、ぜひそちらもチェックをば。(編集部)

「語法と愚者」について(村山政二朗)

「語法と愚者」(Idioms and Idiots (w.m.o/r35 / Metamkine) 2010)はジャン=リュック・ギオネ、マッティン、レイ・ブラシエ、村山政二朗により共同執筆された。

以下、各人の紹介。

ジャン=リュック・ギオネ(Jean-Luc Guionnet)(67年生)
フランス出身の即興演奏家(サックス、オルガン、エレクトロニクスによる)。作曲家。美術家でもある。
https://www.jeanlucguionnet.eu/

マッティン(Mattin)
ビルバオ出身のアーティスト。主にノイズと即興で活動。 フリーソフトウェア、そして知的財産の概念に反対している。
https://mattin.org/

レイ・ブラシエ(Ray Brassier)(65年生)
フランス生まれのイギリス人。アメリカン大学ベイルート校哲学教員。思弁的実在論という概念を考案したが、そのような運動はないと考える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/レイ・ブラシエ

村山政二朗(Seijiro murayama)(57年生)
ドラム、声を用い即興演奏を行なう。80年代、灰野敬二の不失者、KK NULL の A.N.P に参加。06年以降、ギオネと幾つかのプロジェクトで共同作業を行なっている。
https://urojiise.wixsite.com/seijiromurayama

今回、「語法と愚者」のフランス語版(idiomes et idiots 2017)から日本語版への訳を担当した村山は、99年よりフランスで演奏家として活動する機会を得、特に様々な分野とのコラボレーション(ダンス・ヴィデオ・絵画等)への興味より、2006年、哲学者、ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)との「ヴィーナスとオルガン奏者(Vénus et le joueur d’orgue)」という、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)の絵画をテーマにしたパフォーマンスを企画した(ストラスブール現代美術館後援。初演はパリ、グランパレ。2006)。

また、2005年より村山は振付家、カトリーヌ・ディヴェレス(Catherine Diverrès)のカンパニーで音楽を担当。これにギオネ、マッティンを招き、共同作業(ステージ上でのライブ)を行なう。この作業をきっかけとした話し合いの末、哲学者を招くプロジェクトの第二弾として、当時、イギリスで研究中のマッティンの担当教官である、ノイズにも造詣の深いブラシエに白羽の矢が立った。こうして、いったいこの4人で何ができるかの討論を重ねていくうちに……これが「語法と愚者」への簡単な導入である。

テキストのテーマは、デレク・ベイリー(Derek Bailey)が特に厳密な定義も与えず、自分のインプロを「イディオマティック」なインプロから差異化するために使った「ノン‐イディオマティック」という語、これを生産性のあるものとしていかに構想できるか、である。もちろんそのためには、まずはコンサートをめぐり、そしてインプロ自体をめぐり様々な問いが発せられる。「ノン・イディオマティック」を考察するため、フランソワ・ラリュエル(François Laruelle)の「ノン‐フィロゾフィー」まで引き合いに出す羽目と相成った。英語版からフランス語版訳への翻訳は、哲学者、アントワン・ドーレ(Antoine Daures)によるものだが、訳者の限界を思い知らされる意訳・改訳があり、日本語版への翻訳には共同執筆者権限で処理せざるを得ない箇所があったことをお断りしておきたい。そして、このテキストには付属の音源があるので、これもお忘れなく。

ジャン=リュック・ ナンシー(Jean-Luc Nancy)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=リュック・ナンシー
補足:À l’écoute, Paris, Galilée, 2002
この「聴くということ」についての本の末尾に、上述のティツィアーノの絵の引用がある。ナンシーから、これをコラボレーションに使いたいという意向があった。

デレク・ベイリー(Derek Bailey)
https://ja.wikipedia.org/wiki/デレク・ベイリー

フランソワ・ラリュエル(François Laruelle)
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランソワ・ラリュエル

イディオムとイディオット(語法と愚者)
──ある即興演奏のコンサートについての11のパラグラフ

0 何が起きた?

我々は共にあることを行なった。それは単にひとつのコンサートであるが、我々は自らにその説明を試みたいのである。正確には何が起き、また、どのようにして、なぜそうなったのかを。

我々はその過程の経過を語るだけでなく、コンサートの前後、さらにこのテキスト執筆に至るまでにあった全ての議論の要約も行ないたい。そのため、このコンサートがもたらした問題、すなわち、理論的には抽象的であるが実践的には極めて具体的な問題を、我々は言葉にし説明することにする。我々の希望するのは、この体験により、アートのうちにおけるアートの再現についてより良い理解が得られるようになることである。

1 コンサートの前

我々四人は皆、哲学に興味を持っている。その一人は音楽に強い関心をもつ、哲学を生業とする者である。他の三人の音楽家は彼をあるコラボレーションに誘った。ここで、この共同作業の正確な性質を明確にしておく必要がある。つまり、この哲学者は音楽家ではなく、いまだかつていかなる音楽のパフォーマンスにも参加したことがないということである。彼は参加に同意したものの、我々の誰にもこの共同作業がどのような形をとるのか皆目見当がつかなかった。

言葉が音声として音楽のコンテキストで発せられる場合、多くは不快な結果しかもたらさないにせよ、音声としての言葉には興味深い何かがある。繊細な感動においては、論理または思考の、同時発生する異なるレベル(二、三の、いやそれ以上の)間のコントラストがしばしば重要なファクターである。そして言葉はこのレベルの数を増すのに非常に有効なツールなのだ。こうして、例えば俳優が映画の中で自分自身の演技について行なうコメントは大きな感動の源であり得る。その例として、イングマール・ベルイマン〔Ingmar Bergman〕の「情熱〔En Passion〕」をあげよう。あるいは、クリス・マルケル〔Chris Marker〕は「レベル5〔Level 5〕」の中で自身の映画をどうコメントしているか、さらにアフガンの歌手、ウスタッド・サラハング〔Ustad Sarahang〕が歌の途中で行なう、自分の歌についてのコメントはどうか(たとえ、彼が言おうとしていることがこちらには一言もわからないとしても)。

我々が直面した最初の困難は、言葉にどんな役割を演じさせるか、である。プロジェクトに参加したこの哲学者はいかに作業を進めるかについては確固とした決意がないとしても、自分がしたくないことははっきり知っていた。それは、アカデミックな理論家の役割を果たすべく、他のメンバーによる音楽の演奏についてコメントすることである。彼が恐れているのは、自分の参加が哲学者としての能力において音楽について話すことになると、結局はありきたりで、大げさなアカデミズムを振りかざすだけの身振りにしかなるまいということである。そして、その内容も、音と概念との関係についてのある種の胡散臭い仮説に負い目を感じる程度のものにとどまらざるを得ないということなのだ。
その主な例とは、音楽には一種の代理概念的な考えが含まれ、それが本当に表現されるためには、音楽についての理論的考察を通じ、明確な概念的表現が与えらなければならないという考えである。
この図式は3つの点において受け入れ難い。
第一に、発言に訴えることは、音の物質的曖昧性を弱めるしかないであろう比喩的意味の中に、音を再び包み隠す恐れがある。
第二に、音楽が既成の概念形式および理論的カテゴリーから推論的に理解できるとそれは見なすからである。
第三に、それは言葉による概念化と音をつくることの分業を仄めかすからであるが、これは認知的・理論的考察と実際的・美学的製作とのイデオロギー的区別を再現していると考えられるのだ。
自分の演奏を本当に考察している即興演奏家は、自身のアーティスティックな音楽的実践についての理論家として、いかなる哲学者よりも適任である。「アカデミックな哲学者」として職業的に認められても、それで自動的に「公式に認定された理論家」の役割が認められることにはならないのだ。

このことは即、ジレンマとなる。私たちのうちの三人は経験を積んだ即興演奏家だが、残りの一人がもしアカデミックな理論家(考察する、コメントする、あるいはさもなければ演奏の二次的サポートをする)としてパフォーマンスすることに気がすすまないなら、いったい何を彼は行なうことになるのだろうか? コメントやスピーチという手段に訴える可能性をすべて放棄したとなると、彼に関しては、他のメンバーの傍らでパフォーマンスする以外の選択肢はないように思われる。パントマイムとタップダンスが除外されれば、楽器に頼るということが不可避となる。しかし、どの楽器か? 若干の躊躇ののち、エレキギターの選択が純粋に実際的な理由から浮上する。昔、学校でギターの演奏のイロハを習ったおぼろげな記憶があり、以来この楽器を手にしたことはないが、ギターから音をどう出すかについては漠然とではあるが少なくともわかる気がする。そんな微々たる自信も他の楽器については全くあり得なかった。

とはいえ、ギターの選択には問題がある。我々は、自ら自身にとってのみならず、またこのコンサートに来る聴衆にとっても何か非慣習的なことを行ないたいという点で一致していたわけだが、エレキギターの存在はこの要請を即座に阻む恐れがある。一方で、この楽器はロック・イディオムとの様々な結びつきを引きずっているからであり、これはできるだけ避けたいと我々は考えた。他方、即興演奏におけるエレキギターの使用は、デレク・ベイリー〔Derek Bailey〕や灰野敬二のような著名な演奏家を連想させ、彼らの特徴あるスタイルを意図よりも無能力を通じ風刺できるかもしれない。
無能力により、演奏は「自由な即興演奏〔improvisation libre〕」の不器用な模倣に終わるかもしれないが、無能力は能力の過剰と同じくらい確実に、親しみを供給することも可能である。コンサートの時に、この無能力に付随するパワーと無力さが決定的な要因であることが明らかになる。
我々のうちの一人は、同定可能な音楽語法を司る技術的ルールに基づき演奏できないだけではなく、「自由に即興演奏する」方法も知らないのである。重要なことは、この二重の無能力がそれにもかかわらず、陳腐さ以外の何かを生み得るか否か、である。

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2 頼むからインプロヴィゼーションを始めないでくれ!

我々はインプロヴィゼーションを一つの公理と見做すが、それは、人がインプロヴィゼーションをしているところなのか否かを決して本当には決められないという意味においてである(自由意志、主観性そしてイデオロギーについて、このことが提起する問題の多さを考えてみればよい。そして、そうした問題に満足な答えをもたらすのは我々には不可能に思われる)。
この公理的アプローチを取ることにより、インプロヴィゼーションは自らの考え、決定、概念により我々が寄与できる領域になる。こうしてそれは、インプロヴィゼーションの場を限定し焦点を当てる、その特異な様相の一つを特定する、その効果を検証する、そして様々なメソッドを発明する、等々を可能にする領域となる。

「インプロヴィゼーション」と言うとき、我々は単に特異な音や出来事の産出だけでなく、社会的な空間のそれについても触れているのである。我々はこれを戦略的なタームであると同時に概念的なツールとして援用する。したがって、インプロヴィゼーションは実験音楽の創造にも、平凡な日常の実践についても関係し得る。しかし、それはどんな領域に適用されても、なにがしか不安定なかたちを引き起こすはずである。インプロヴィゼーションが機能するとき、それが持つ定義し難いものは、あらゆる固定化と商品化を回避させようとするに違いない。少なくともそれが効力を持つ間は。
目指すべきは、世界とインプロとの関係について練り上げた推論を、展開しつつあるいかなる言説にも適用し、常に、そして世界の外側でさらによい良くこれを理解することだろう。そもそも「世界」はここでは適切な語ではなく、おそらく、「それがそうではないもの〔ce que cela n’est pas〕」と言った方がベターだろう。

アートの文脈において現実と非‐再現的な関係を持つことは可能だろうか? 場所・空間としてのホールの全ての特徴を考慮に入れることにより確かにそれは可能になるだろう。また、ホールを最大限に活用しようとし、以前の習慣や振る舞いを断ち切り、新しく変えなければならないだろう。
言い換えれば、人は標準化のプロセスに対抗しようと努力すべきである。
我々は即興演奏(インプロヴィゼーション)とは、ホールで起きるすべてへの考慮が要請される実践であることを期待する。それは、他の場所で、のちに使えるような、新しいなにかの創造であるのみならず、社会的関係を変化させることにより瞬間の強度を高める一つの方法である。
即興演奏は、ラディカルで、個人的かつ内在的な自己批判であるのと同様に、「その場限り〔l’in situ〕」という極端な形もとりうるが、それは、将来の状況のためにあるポジションを守ったり、作り上げる必要がないからである。このようにインプロヴィゼーションは自己解体の方を向いていると言える。

こうして、インプロヴィゼーションを外を持たない純粋な媒体〔médialité〕、あらゆる形の分離化、断片化あるいは個体性に対立する、限界も目的もない純粋な手段とみることができる。しかし、そう言うだけでは充分ではない! いつ、この空間のより良い活用は達成されるのか? それは、何か重要なことが起きようとしているという印象を与えるのに充分なほど、濃密な雰囲気を発生させることに成功したときである。この体験を記述する既定のカテゴリーや語彙は存在せず、ここでまさに賭けられていることを記述するのは常に困難である。
しかしながら、この奇妙さは、それを同化する、あるいは即座に理解することの困難さゆえ、標準化のプロセスに対立する。充分に濃密な雰囲気が生みだされると、その場に巻き込まれた人々は、自己の社会的地位と標準化された振る舞いをしばしば痛切に体験することになる。その雰囲気の密度はある閾に達すると、我々の知覚を妨げ、からだに馴染みのない感覚を生むほどの身体的なものにさえなり得る。ニュートラルな見かけの中のある混乱により、どこに自分がいるのかは本当にはわからぬまま、人は不思議な場所にいる感覚を最終的に持つ。ひとつひとつの動き、ひとつひとつの語が意味を持つようになる。そのとき生まれるのは、空間あるいは時間の統一された感覚ではなく、それぞれの位置が様々な空間及び様々な時間性を含むようなヘテロトピア〔訳註1〕である。空間について、以前のヒエラルキーと従来の区分が露呈する。伝統的な演奏時間と注意の配分(音楽家を尊重する聴衆の振る舞い、など)は置き去りにされる。さらに事態を進めれば、これらのヒエラルキーは消失することさえあり得ようが、それは誤った平等の感覚を与えるためではなく、時間と空間に対する新しい社会的関係を生み出すためである。

訳註1 ヘテロトピア:現実の枠組みの中で、日常から断絶した異他なる場所。

誤解のないようお願いしたい。我々が喚起しているのは「関係性の美学〔esthétique relationnelle〕」のいかなる変種でもない。関係性の美学においては、聴衆との対話性を少しでも注入すれば、胡散臭いイデオロギーを信奉している制度化されたアーティストがつくる退屈極まりない作品に、文化的余剰価値が付加される。我々はむしろ、ステージ上での演奏の限界を問い質したい。即興演奏の素材として、どの程度まで舞台芸術を定義するパラメータ(すなわち、聴衆、演奏家、ステージ、そして期待などの区分)を使うことができるのかを。このコンサートにおける期待の問題は、多くの人が一人の哲学者を見ることを待ち望んでいたゆえに重要である。即興音楽のコンサートで哲学者が何をするのだろう? スピーチを含む何かのはず……ところが、彼はその代わりにギターを弾いた、それも下手くそに! これらの期待により生まれたテンションが、どれほど我々に影響し、演奏のヴォルテージを上げたことか?

コンサートに先立つ会話中、我々が多く話したのは、出来うる限りそこにいようとすること、すなわち、パフォーマンスに没入する方法を見つけることであった。のちに判ったのだが、そうするためには、作業の枠組みをその境界あるいは限界まで押しやる必要がある。しばしば疑問なしに受け入れられるこれらの境界点には、実際、多くの問題、矛盾、そしてコンサートの状況を決定する条件が密かに含まれている。この境界点に我々がある仕方で振舞うように強いられ、どれほど影響されているかを見極めたいならば、非常に注意深くそれを扱わなければならない。我々は、コンサートホールが暑いのか寒いのかなど、だけではなく、書かれてはいないが我々を縛る惰性で従っている慣習のことも話しているのである。すなわち、異議を唱えることができるとはみなされぬルールのことである。即興演奏の実践において、まず第一に最も頻繁に見過ごされる単純な問いとは、いかにコンサートの社会的な文脈が我々の行動の範囲を枠付け限定しているか、である。

そのような限界を越えていくには何が必要か? それは、確立したルールを再現する実践の拒否、あるいは紋切り型の音楽制作を反復する実践の拒否である。そこには「実験音楽家」として認知されるためそうするのが当然とされ、不可欠なものとして受け入れられているルールの拒否も含まれる。
例えば、演奏者と観客間に適切な距離を決めるルールをとってみよう(これが演奏家と聴衆のあいだに能動的、受動的役割を割り当てることになる)。もし人が演奏中であるか、演奏の予定を入れたなら、彼には何か提案するか、提供することがあるということになる。しかし、その提案が、例えば演奏家が「聴衆になる〔être du public〕」というような内容であると、コンサートそのものを単に日々の平凡で「正常な〔normal〕」な状況に変えるというリスクが生じるだろう。とはいえ、コンサートの状況について最も興味深いことのひとつは、それが日常の空間とは際立って異なる社会空間を生む、あるいは提供する可能性を持っていることである。コンサートに行く人は影響を受けたい、感動したいと思っている。彼らは何かを受け取りたいのだ(あるいはたぶんそうでない?)。演奏家の「与える〔donner〕」、あるいは「与えない〔ne pas donner〕」という決定は、聴衆の「受け取る〔recevoir〕」、あるいは「受け取らない〔ne pas recevoir〕」という願望そして欲求不満との際限のないゲームを繰り広げる……
この聴衆の受動的役割を承認するのは非常に問題があるにせよ、このおかげで、演奏家は何か「例外的な〔extraordinaire〕」ことを行なう機会をも得られる。即ち、人々の習慣的、社会的なやりとりに対立する状況をつくることである。我々が目撃した、あるいは行なった最も興味深いコンサートは、聴衆と演奏家のポジションとそれぞれが承認されている役割(聴衆と演奏家が共にコンサートの状況のルールから受け継いだもの)が混じり合い、何か別物へと発展したものだった。これは聴衆がより責任の伴う能動的な役割を引き受けた結果であり、こうして彼らはどんなことでもなし得ると考えるようになったのである。

我々は「能動性〔activité〕」や「受動性〔passivité〕」のような用語の疑わしい性質を愛する。また、恩着せがましい態度をとるのはいかに容易であるかも我々は意識している。しかし、気がついたのは、誰もガツンとやらない、誰にも影響も及ぼさないようなコンサートは全てを現状維持のままにするだけで、人が能動的に関わることを生みだせないということなのだ。それでは何も起きなかったようなものである。他のコンサート(ニオール〔Niort〕はその一つ)は、後後まで我々の考察に糧を与えてくれるだろう。まさにそれは、コンサートの「良し〔bon〕悪し〔mauvais〕」をどんな音楽的意味においても判断するのが、どれだけ時間が経っても難しいからである。こうして、我々はこの二つの語のはざまで考えることに駆り立てられる。このコンテキストにおいて、良いコンサートとは、良い・悪い、成功・失敗という確定した二分法に従うかぎり、それについて下すどんな判断も理屈に合わないようなコンサートのことになる。こうしたケースでは、既成の判断基準は保留され、判断のもとになるパラメータの根拠の問い質しが余儀なくされる。これまでの基準と価値は崩れ去る。

これは単に判断の破棄、そして芸術的成功と失敗の区別を可能にする制約を清算するという問題に留まらない。「自由即興演奏〔l’improvisation libre〕」の理想に内在する挑戦を、コンサートの状況の性質こそ即興演奏において賭けられているという地点にまで強化するという問題でもあるのである。
音を反応的にやりとりする plink-plonk だけでは充分ではない。即興演奏におけるこの手の単純な反応のやりとりはすでに過去のものだ。我々が目指しているのは、まず、ほとんど無反応の仕方を、反応の仕方として探求することにより、「互いに反応すること〔réagir l’un à l’autre〕」が何を意味し得るかを問題とすることである。しかし、重要なのは「反応〔réaction〕」に「非‐反応〔non-réaction〕」を置き換えることではなく、いかなる種類の模倣(潜んだ、あるいは隠れた)も凌ぐような、反応あるいは非‐反応のモードを見つけ出すことである。ここで言う模倣とは、まさしく、それ自体が模倣として現われないような種類の模倣である。実際、これは音楽(作曲されていようと即興演奏されていようと)における反応〔réagir〕と呼ばれるものの本質に関係する。

我々ひとりひとりが、自分自身の手段をコンサートの状況に持ち込む。楽器、アイディア、持続、技能、知識……これら全てとの関係を忽ちにして断つことができると信じるのは、少なくとも非現実的だ。ここで、「お互いに反応すること〔réagir les uns aux autes〕」とは何を意味する? 我々が考えるところでは、それはあまりにも明白なやり方ではそうしない、ということに関わっている。また、これまで試みられなかったことを敢えて試みることにも。脆さを招く恐れがある何か、不安、他のミュージシャンに影響する緊張感。これらのものにより、誰もが最大の注意を払うようになることを期待しつつ。究極の目的は、それぞれの演奏者が個人的な時間感覚を自分のものにし得るような、相互作用の形態を達成することだろう。コンサートによっては時間の経過が極めて特異に経験されることがあるが、まさしくこのようなことがニオール〔Niort〕で起きたのだった。

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3 コンサート中

コンサート直前、サウンドチェック中に判明したのは、我々の相互反応の仕方についてある決定をすべきだいうことだった。というのは、メンバー相互の結びつきが余りにも明白すぎたからである。そこで、我々は行為とそのリアクションに制約をかけるような構造を考え出した。コンサートの長さは45分、これを15分ずつの三つのセクションに分け、各自、その一つか二つを選んで演奏できることにした(全てのセクションでの演奏は不可)。ただし、どのセクションでも演奏しなくても良いという可能性は残した。こうして、コンサート中、もし無音状態が生じるなら、それは15分から45分(皆がどのセクションでも演奏しない場合)までの長さになる可能性ができた。実際、結果的にはなんらかの理由で我々はこのルールを侵害したにせよ、この構造により充分非慣習的な相互反応の仕方が生まれた。

このコンサートを思い返してみるに、我々の主な目的の一つはその雰囲気をできるだけ濃密にすることだった。ニオールでは、各人がこの密度の追求を実現すべく奮闘した。個別にそうしたにもかかわらず、我々は集団的にヴォルテージを上げることになんとか成功した。これは紋切り型の相互コミュニケーション形態に訴えていてはうまくいかなかっただろう。たとえば、メンバーの一人は、普段は使わないチープなエレクトロニクス装置と声だけで演奏するという選択をしたが、コンサート全体の時間の三分の二を一人で演奏したことは非常に強い体験だったという。もう一人の音楽家もこの密度を一種の賭けとして体験するが、それは、いつ演奏すべきかだけでなく演奏するか否かについての賭けでもあった。ところで、全く演奏しない可能性は極めて強い誘惑であった。なぜなら、それはこのリスクの高いコンテキストで演奏するという決定に必然的に伴う、人に笑われることを回避する安易な方法となるからであった。結局、コンサートの密度は、いわば下に何があるのか知らず非常な高みから跳び下りる挑戦のような形を取ったのである。

4 臨床的な暴力

コンサート中に何を成し遂げたいかを議論し始めたとき、我々は、冷たい、あるいは臨床的な暴力の達成について語り合った。こうして、もし人が問い質すならば、馬鹿げていることは明白な(不名誉とは言わぬまでも)目標を設定した。すなわち、人々を叫ばせることである。
実際、少なくとも聴衆の一人はコンサート中、自発的に叫んだ。これは、雰囲気の密度が高まり過ぎ、身体に過酷な影響を及ぼす時に起こることかもしれない。なぜ、こんなことを達成したかったのか? 多かれ少なかれ美学的に心地よい抽象的な音作り、そして個人的な音楽趣味の再認につきものの好き嫌い、この二つを乗り越えたかったからだ。

もちろん、我々は音楽がある種の内在的な情動の次元を持っているとは信じないし、感情的なロマン主義に対するモダニストの批評を喜んで取り入れる。しかし、この批評はそれだけでは不充分だ。それは余りにも頻繁に一種の審美的形式主義を奨励してきたのである。我々は、麻痺させるようなダブルバインド状態を切り裂きたいのだった。つまり、修辞的表現主義による感情的インパクトか、用心深く撤退する形式主義による反省的明晰さ、この二つの間のダブルバインドである。我々が達成したかったのは理論的、根本的に要求が厳しいものだった。重要なことは、ある種の心理的、認知的動揺を招くような音楽表現のゆがんだモードを見つけることである。この音楽表現は他方、演奏家のであれ、聴衆のであれ、情動的な紋切り型と安易すぎる感情的満足感を破棄するものである。

音楽において暴力とみなされることは、余りにも頻繁に一連のショックを与える行為(不協和音、騒々しさ、演劇的威嚇と呪詛、等)から成り立っている。我々は別のことをやってみたかった。それは我々自身と聴衆を曖昧で、平静を失わせる試練にかけることである。
すなわち、即興演奏および音楽技術の技巧の誇示を控えることにより、我々演奏者と聴衆をすぐに見分けがつく快適なゾーンから押し出すこと。たしかにそれは「暴力」ではあるが、特別に考え抜かれたものだ。また明らかに、それは身体的である必要はない(しかし、身体的ではありえないとか、そうあるべきでないということではない)。しばしば、この暴力は心理的であり、願望、感情移入、注意、期待に関わる。また、この暴力は単純に満足することの拒否から生まれる一方、自己反省のレベルが建設的なフィードバックに高まるまで、当事者各人の動機を問いかけるのである。

このように、我々の興味を引く暴力は自発的なものではない。それは、規律があり、計算され、強い決意で動機づけられたものだ。この意味で「政治的暴力〔violence politique〕」と呼ばれているものに類似性を持つ。この暴力は実践における主観的取り組みの核から生じ、その目的達成時には単なる生理を越えた何かに触れる。それは紋切り型の再現や既成の表現のカテゴリーの外に出る。いや、そう言うだけでは充分ではない! いったい誰がそれを実行するのか? それは多分、馴染みの快適なゾーンを切り開き、全く思いがけない角度から自己を表現しようとする愚者だろう。
我々のうちの愚者は、我々のうちの非‐愚者に追い詰められたと感じる。あたかもゴムバンドが彼を自分の周りに縛り付けているかのように。このゴムバンドとは、人が深く関与する状況において、あらゆる保守的特性が自己に及ぼす圧力のことである。このバンドはある時点で若干きつくなり過ぎ、いつ切れてもおかしくない恐れがあるが、愚者にはこの圧力の性質と自己に及ぼす影響について考える時間がたっぷりある。その中心には、受け入れられている規範、すなわち、作業をするコンテキストに固有な現状を再現しうるあらゆることがらがある。自由即興演奏のコンテキストにおいてこれらの規範が含むのは、ノウハウ、超絶技巧、美学、好み、そして、演奏者の相互反応や聴衆への反応が演奏家にとって持つ意味についての先入観、さらに、コンサートの状況を条件づけ再現する習慣、音楽がどうみなされているか、などである。

これらの問題を長いあいだ考え、ついに袂を別つべきものが極めて明らかになったとき、あるいは、もはや待つことができなくなったとき、人は石を飛ばすパチンコになるのである。もちろん、これに伴い得るのは、即興演奏のコンサートに内在するとみなされる価値の基盤の破壊である。計算できないリスクが現れた。そして、この記述が絶望的に思われるかもしれぬ一方で、そのような暴力に伴う絶望は全くない。
先に問題とした圧力は現状のそれであるにせよ、この暴力がいったん発生すると、圧力は現状に無関心になる。なぜなら、この暴力は想像できる最も単純なやり方でそれにとって代わるからだ、あたかも何も例外的なことは起きていないかのように。人々は暗闇の中におり、ようやく闇に慣れてきたところで誰かがこの闇を問いかけるようなものだ。彼はこうして人々に恐怖を引き起こし、強いられる闇を暴力として感じさせるだろう。これが臨床的な暴力の意味である。臨床的暴力の精度とは狙撃者のそれであるか、あるいは正常さの見せかけ、あるいは自然と考えられていることを切開する外科医のそれである。これを暴力行為として経験する者がいるかもしれないが、愚者にとってそれは単に必要なことに過ぎない。外科用メスが、問われず、語られもせぬ、コンサートの状況を保持させる即興演奏のルールの基盤を切開するのだ。しかし、外科医と違い、愚者ははっきりした目標も、同定可能な切除すべき嚢胞(のうほう)もない。重要なことはその切断にある。そこから、皆自らの結論を引き出すことができる。愚者は構造のない、あるいは分類できない視点から現実を眺める。愚者の介入には拠り所がなく、アナーキー〔an-archic〕である。全体的な意見の一致も全体的理解もない。この意味において我々も愚者である。

5 11の何も言わない方法

1. 「何も言うことがない」から「何か言うことをみつける」へ。この動きに任せ、自分自身の位置を変えることにより。

2. コンサートについての問題をめぐり、音楽と哲学が出会った、なぜかは知らず。いずれにせよ我々は何かを変えたかった。

3. コンサートとは何であるかについて、我々は意見を交換し効果的な実践を見つけようとした。主に、コンサートで出来れば見たくないことを定義することにより。

4. こうして因習的なコンサートの枠組みがずらされた(それは視野を拡げ、聴くということを更新するための様々な可能性を生むだろう)。しかしながら、我々は何をして良いのかわからなかった。

5. 我々は一種のコンサート、非‐コンサートを行なった。さて、Aと非‐Aとの関係は何か?

6. 心理的葛藤と熟考の間のテンションにより採択されたひとつひとつの決定が我々のエネルギーの源だった。そして、このプロジェクトは我々の音楽家あるいは哲学者というアイデンティティーを突き崩した。音楽家であるか否かは別として、人は誰でも音楽に存在を与える、それに命を吹き込む時には音楽的であるのでは? 同じことを哲学にも言おう。さあ、同時に音楽的、哲学的、等々であれ、(コラボレーション〔collaboration〕という語のなかには労働〔labor〕という語が見つかるが、通常、コラボレーションする当事者たちはそれぞれのアイデンティティーを転覆させたり、他のアイデンティティー、未知のXへスライドする試みには積極的でない。あるいは、安易なスライドは見つけるに事欠かない)。

7. 哲学と音楽を括弧に入れ、自己の職業を自分自身から引き離すことで、至極単純に、我々は感じ、行為し、反応し、考える人間だと自らを確認する。そう、もはや我々自身を感じない経験(我々はあまりに疲れ過ぎ、時に自分の職業に閉じ込められてさえいないだろうか?)。

8. 堰き止めようとするならば爆発の恐れある、計り知れぬエネルギーで満たされた、我々の内なる深い沈黙……この名づけ得ぬゾーンこそがわれわれの言語活動の経験のもとにあるのだろう。おそらく、そこに我々はいた。

9. かくして、聴衆はこの経験を共有するように誘われた。中には我々が醸しだした緊張感の衝撃にまともに呑まれている者もいるように思われた。いわゆるコンサートへの期待もどこかに置きさったまま。

10. ひとたび、非‐コンサートが終わると、我々は作業を再開した。この語りがたい経験を言葉にしようとした。このテキストがその試みである。

11. 毎回、紋切り型に陥らずに行なおうとすること。それは日々の活動を更新し、刺激し、活性化する。それがもはやそうではないところまで。

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6 ノン(非)〔Non〕

我々はデレク・ベイリー〔Derek Bailey〕のノン‐イディオマティックにおけるノン(非)とフランソワ・ラリュエル〔François Laruelle〕のノン‐フィロゾフィー(非‐哲学)におけるノンの間には特別な関係があると考える。ノン‐フィロゾフィーは哲学の理論あるいは科学であり、哲学を素材として扱う。ノン‐イディオマティックな演奏は音楽自体を素材として扱うことができると考えられる。

「自由に即興演奏された音楽と他の音楽との主な違いは、私が思うに、後者はイディオマティックであるが前者はそうでないということです。いわゆる音楽はインプロヴィゼーション(即興演奏)ではなく、あるイディオムで成り立っています。音楽は土地固有の言語、言葉のアクセントと同様に形成されます。インプロヴィゼーションの音楽ではそのルーツは場所よりもむしろ機会です。たぶん、インプロヴィゼーションがイディオムに取って代わるのでしょう。しかし、インプロヴィゼーションは他の音楽のようなルーツを持っていません。その力はどこか他のところにあります。インプロヴィゼーションには多くのスタイル(グループや個人の)があっても、それらがまとまって一つのイディオムになることはありません。社会的あるいは地域的な絆や忠誠を持たず、特異であると言えます」(デレク・ベイリー)。

もちろん、ベイリーの発言は音楽の世界における個人の位置を擁護するための戦略のひとつとして理解できる。しかし、この種の戦略は通常シンプルで(そして時に愚かで)あるのに対し、ノン‐イディオマティックの戦略は非常にダイナミックなもので、我々には興味深い問いと問題にあふれている。たとえ、デレク・ベイリーが必ずしも彼自身の考えの最良の実例ではなくとも(しかし、この事実こそ、それが良い考えの証左であるのでは? つまり、考えや理論がその本人の実践や主観性を完璧に越える時には)。

ラリュエルとベイリーの足跡(そくせき)には類似性がある。彼らは、哲学と音楽の実践の、それぞれの制度化されたイディオムからの解放に携わっていると考えられる。両者は自らの歴史的バックグラウンドに対し、非常に似た関係を持っている。接頭辞としてのノン(非)が意味するのは、人がなにかの部分であるのではなく、ある種の外部からそのなにかと関係を持つということである。ただし、その外部は考察の超越性より実践の内在性を一層含むのである。ノン(非)はまた、否定辞として次のことを意味する。すなわち、人がある種のグローバルな内在的視点のようなものを持っているとみなされること。上からの視点ではなく、音楽の実践自体の内からの視点。もっとも可能な限り内在的な視点。この視点が暗示するのは、人は再現の層を一つ加えることで、先行の層を減らしたり、さらには他の全ての層を一つにするということ。言い換えれば、この視点が暗示するのは音楽はあのようではなく、むしろこのようである、そうは考えられないこと、そして音楽はそれ自体を再現する必要はないということである。

ラリュエル:「哲学は常に少なくとも哲学の哲学である」「ノン‐フィロゾフィー(非‐哲学)とは哲学の科学である」。それならば、なぜ哲学の科学として考えられるノン‐フィロゾフィーはなぜメタ・フィロゾフィーでないのか? ラリュエルは哲学とはその構成上、反省的であると主張する。Xについてのあらゆる哲学的主張は、同時に哲学のXに対する関係についての考察である(Xが芸術作品、科学理論、歴史的出来事のどれであれ)。言い換えると、哲学者は単に「この対象〔cet objet-là〕」についてだけ語ることは決してなく、全ての他の哲学がどのように「この対象〔cet objet-là〕」と関係を結ぶかについても語るのである。ノン‐フィロゾフィーの試みとは反省的調停のレベルの彼方に上昇する一方、それと同時に非反省的即時性のレベルまで下降することだが、それはラリュエル言うところの「リアルな内在性〔l’immanence réelle〕」を介して行なわれる。
これはラディカルに非反省的である即時性であるが、一種の純粋な実践的超越性を生み出す(理論よりもむしろ実践による媒介)。全く理想化された、または概念化された内在性に対立するものとして、「リアルな内在性」は、詰まるところ、理論の「使用〔l’usage〕」の問題に帰着する。ラリュエルにより喚起されるリアルな内在性は、哲学の厳密に訓練された実践を必要とする。ノン‐フィロゾフィーはメタ・メタ・レベルにまで上昇し反省性を悪化させる代わりに、第三の反省性の層を加えるがこれは同時に引き算でもある(a-であるa+)。すなわち、特異であると同時に普遍的な視点から、哲学自体を眺めることを可能にする引き算。媒介としての抽象は実践を通じて具体化、統一化されるのだが、ラリュエルによれば、これは「一のうちで見られ〔vue en-Un〕」得る。これは神秘的な有頂天、歓喜ではなく抽象への実践的没入であり、ポストモダンの皮肉屋により興じられた、様々な哲学的イディオムをもちいた戯れの類を排除する理論の具体化である。

我々はノン(非)を無能力のしるしとして振りかざす。このノンは知の層をひとつ加えると同時に、独善的な反省性の身振りを不可能にすべく、考察から自意識の層をひとつ取り除く。独善的な反省性の身振りとは演奏家の聴衆への訳知り顔のウィンク、「あなたは、私があなたが知っていることを知っている、というそのことを知っています」のことだ。ノン(非)は演奏者の知的かつ感情的能力と彼の技術的手腕のあいだに、決して取り除くことのできないくさびを打ち込むことにより、そのような皮肉を込め距離を保つ独善的安心感を無効にする。ノン(非)は実践に、学習したことを意図的に忘却する〔désapprentissage〕という身振りの中にある手腕を対立させる。状況において阿呆〔idiot〕になるという手腕。しかし、そう言うだけでは充分でない!

ノン‐イディオマティックな音楽にはノン‐フィロゾフィーと同様の狙いがある。ノン‐イディオマティックな音楽は音楽自体についての、そして様々な音楽についての知識から糧を得ているが、非‐知の層を付け加えることで、それ自体が「一のうちで〔en-Une〕」捉えられる(音楽自体に適応された現象学的還元のようなもの)。こうして、それはいろいろなイディオムで演奏する典型的ポストモダン的振る舞いの機先を制することになる。ノン(非)は音楽についていかなる二次的な言説も不可能にする。それは、いわゆる解釈の不可能性を印す。こうして実際的に言うならば、人は現在の全ての音楽をエレクトロ・アコースティックの音楽のフィルターを通して見ることができよう。あるいは、それはインプロヴィゼーションのフィルターを通してであってもよい。

我々は非〔le NON〕(「非‐哲学〔non-philosophie〕」/「非‐イディオマティック〔non-idiomatique〕」)と無〔le DÉ〕(「無‐技巧〔désapprentissage〕」)の間に同価値を仮定する。両者はそれぞれ、不能の中の能力の解放、無能力の中の能力の解放を連想させる。学習したことの意図的忘却の実践は単に技術の否定だけでなく、無能力の中の一般的能力の解放をも仄めかす。無能力の技術的/実践的習熟は単に限られた審級にすぎないのである。

ニオールでの我々のパフォーマンスは学習したことの意図的忘却とインプロヴィゼーションの技術の美学化を対立させるものであった。後者は、社会の枠組みやコンサートの仕組みのような、非‐美学的な覆いから演奏の音響的あるいは聴取的次元を取り出す傾向、さらに「純粋な」聴取体験の美学に従いすべての場所を音に与えようという傾向に起因する。しかしながら、自由即興演奏は技巧の審美化へと退化する恐れがあり、即興演奏の超絶技巧演奏家が誇示する技術はまさにイディオマティックの超絶技巧演奏家のそれと同様、フェティシズムの対象となる。審美主義の内在的批判は、音楽をイデオロギーへと貶めたり、音楽に反省的意識の層を加えることによっては達成されないだろう。むしろ問題は、内在的実践と超越的理論の間のヒエラルキーを、理論を実践に再度関係づけ解消することである。が、それも痙攣的概念が独善的感覚を妨げるよう、いかに危機が早まるかにかかっている。

目標は距離の安全にもはや依存せず、内部に留まるような批判を成し遂げることだろう。従って、これはもはや実際には批判ではなく、むしろ内を通しての外の発見だろう。

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7 再現〔REPRÉSENTATION〕

Représenter〔再現する〕:ラテン語 repraesentare からの借用(1175年頃):出現させる、目の前にあるようにする、言葉で再び生む、繰り返す、実際に存在させる、遅滞なく全額支払う。
誰かの前に連れて行く(6世紀)、司法に委ねる(8世紀)、誰かに取って代わる(10世紀)。

ラテン語の動詞 repraesentare は動詞 praesentare が re で強調されたもの。
法的意義が1283年より実例により確認されている。
Représentation:リプリゼンテーション、再現。
イメージ、類似(1370頃);法的意義が1398年初めて実例により確認される。

1980年代にクロード・レヴィ=ストロース〔Claude Lévi-Strauss〕は当時の現代アートに対する強い異議を次のように叫んだ:「彼らは鳥たちが歌うように描けると思っている」。思想家によるアート批判で極めて頻繁に見られることであるが、彼らの観察の正確さはおそらくネガティブな要素をずばり指摘する。しかし、この要素は別の観点からするとポジティブな潜在力であることが明らかになり得る。我々はレヴィ=ストロースの言葉をノン‐イディオマティックというものに結びつけることができよう。もし私が単純に知っているだけなら、私は「純粋な存在〔pure présence〕」の中にある(動物性)。もし私が私は知っているということを知っているなら、私は再現の中にある(二重の層/イディオム)。人間はサピエンス-サピエンス、つまり自分が知っていることを知る動物と考えられているが、これは人間が決して再現の外に出ることができないことを意味する。言い換えると、「我々」はこれから先も常に自らの文化的遺産やその背景に結びつけられているはずだから、決して鳥たちのように描いたり歌うことはできないだろう。しかし、ある層を先行する二つの層に付け加えること(私は(私は(私は知っている)ことを知っている)ことを知っている)は、人為的に最初の層に戻ろうという試みを意味し得る、特にこの層が「非‐何か(知)〔non-quelque chose〕」と名付けられるときには。ノン‐イディオマティックは「人為的な鳥」を作りあげる長く、主観的なプロセスと言えよう。

一連の出来事は次のようになるだろう。
1 第一の層:鳥の歌
2 第二の層:土地固有のアクセント
3 第三の層:スーパー‐イディオマティック(複数のイディオムで演奏すること)であるかノン‐イディオマティック(音楽を「一のうちで〔en-Une〕」受け取る)(=「非‐問題的な層〔niveau aproblématique〕」)

再現とは千の層のケーキ(ミル(千の)フォイユ(葉、層))とみなすことができ、その各層はそれ自体に再度加えられたり、多かれ少なかれ他の層に加えられる(一つの層の出力と他の全ての入力間のフィルターの強度に従い)。自己をあるイディオムに対し位置づけることができるというのは、このミル・フォイユの内部にある位置を占めることに等しい。問題を扱うとは、千の層を持つケーキを取り返しのつかぬ変化に強制的に晒す一方でそれに働きかけることである。ここにおいて、対象との相互作用はとりわけ動的である(安全策さえ必要とする)、アクセント(なまり)を失おうが、失うまいが(ところでアクセントがないこととはどういうことか?)。

ノン(非)は千の層に付け加えられる一つの層であるが、それは実際的な「一のうちでの見え〔en-Un〕」の観点から与えられる。つまりそれは千一番目のものである。これは未知の知という機能を果たす新たな層となる。引き算でもある、足し算としての実践の内在性。マイナスでもあるプラス。知には常に既に知識の力が含まれていると考え、そして知識とは単なる知に仮説的に我々を連れ戻す、そのような力の退行であると考える限り(それも自分が知っているということを知らぬまま)、端的に知ることは不可能であると人は主張し続けるだろう。しかしながら、我々がノン(非)を通じて接近するのはまさにこの条件なのである……

問題は再現が下で水平にすることなのか(平坦化)、上で水平にすること(即ち、上昇)なのかということである……即興演奏のコンテキストにおける影響の「リアリティー〔réalité〕」は、一つレベルの少ない再現に接近する可能性のうちにある(これが共時性のリアリティー)。出来事は起きても、可能な限りほとんど再現されていない。

それなら作品のまわり、中あるいは外側のざわめき〔rumeur〕を素材を不可欠な部分と考えてみてはどうだろう? ざわめきという言葉で我々が意味するものとは何か? 作品自体がデータや記号の巨大な流出の中の特異点であるかぎりにおいて、ざわめきとは作品の形態により発生するデータや記号の流入・流出の流れである。ざわめきとは芸術作品が発生させる流れ(これにより作品は作られるのだが)に抵抗できないという断言である。すると、作品が流れに対して透過性を帯びぬよう、いかに直前の流れを別の流れの方向へと反らせるかが問題になるだろう。即ち透過性が YES ならば作品は NO。とはいえ、作品は素材よりもコンセプチュアルであるべきだと言っているのではない。それはいかなるものでも、さらにいかなるものより以上(あるいは以下)のものでさえあり得る。ざわめきという言葉は「ゴシップ〔commérage〕」という意味に近く、誤解を招く恐れがあるので他の言葉を使ったほうが良いのかもしれないが、それにしてもこの意味の近さは重要である、もしくは重要であり得る。それはアートの歴史、あるいはアートイヴェントをめぐる討論やコメントを、いわゆるアーティスト自身により公表されたものも含め考えてみればよい。とはいえ、このロジックによれば全てのアート作品はざわめきに対し NO と言う方法であるのだろう、たとえ、ざわめきはすべてのそのような NO のおかげで存在するにしても。こうして、音楽の形態とプロセスも、音楽自体を取り巻くざわめきの形態とプロセスに何か関係があることになる。たとえ、ざわめきは抵抗の一方法でもあるとしても、である。

インプロヴィゼーションには常に少なくとも再現の層が一つ少ないと言うことは、インプロヴィゼーションが現実の中の影響を展開するものであると言うに等しい。まさしくそこに、音楽の内在性の可能性があり、これはパフォーマンスや、解釈や、音楽の(あるいは音楽の中の)コンテキストの内在性の中にある可能性とは比較にならない。そして、影響が実際に起きるとは、それがある影響として再現されていないことを端的に意味する。この「リアル〔réel〕」は「実際に〔réellement〕」起きることとして、単刀直入に理解されるべきである。それは単に今、ここで起きようとしているに過ぎないからである。

常に変わらず、アートにおける批評、あるいはアートについての批評は二つの層を重ねることにある。そして、批評は全てをそれ自体の再現の舞台に変える、と言うことができよう、たとえ全てがすでに舞台であるような場合でさえ。言い換えれば、再現というしるしは常にすでにつけられているものの、それは常に忘れられている(かのようだ)。再現をしるすとは枠に枠を嵌めること、つまり、二重に冗長な振る舞いである。結局、批評的距離は全てを社会学的分析のネタや人文科学の対象に変えることになる(後者は科学的姿勢の中にある最も特徴的なことをグロテスクに風刺するものに帰する)。自分が創るべきアートは自分が再現するという事実を意識することこそ、アートのいかなる歴史的なプロセスをも動かす原動力に他ならない。

ノン(非)。罠とは現代〔le contemporaine〕が常に究極のものであると考えることにある。これでは、この究極のものは我々と同時代〔contemporain〕であり、我々の現代性〔contenporanéité〕である、即ち我々は究極のものの同時代人〔contemporains〕だ! となってしまうのだ。歴史を二つに分けたいと考え、実際にそれを行ない、宣言すること。そのことがすでに、人がそうしようとしてはおらず、単なる希望的観測、あるいは呪いであるという兆候である。「~について〔sur〕」の言説の不可能性は、結局のところ、~と〔avec〕、または~の中で〔dans〕の言説の不可能性の原因となる。そこで残るものはただ、言説がそれ自体に再注入されるフィードバック(そしてこの叫びがノン(非)に対して可能にすること)だけである。すなわち、言説をそれ自体に再度注入する言説であり、そうする口実とは言説自体の可能性の条件を統合しなければならないということである。

この意味で、ノン(非)は認識の零度という白紙還元であろう。ノン(非)が前提とするのは、ある知であると同時に、対象、素材として知られていることの非‐使用である。アートは素材が何であるかについて教える学校であるが、同じ講義を際限なく繰り返す嫌いがあるだろう。「素材というものはないか、あるいはそれが何であるかについて徹底的に新しい意味を得るため、それを再定義しなければならないかのどちらかだ」。しかし、人はすでに常に素材に関与している。というのも我々には、全体として素材についての客観的なヴィジョンを得ることができるような位置がないからである。この全体とは素材という概念がまさしく前提とすることであるが、その前提の理由は「素材」という概念が超越のヴィジョン(それゆえ、現実の盲目な内在性からの出口)を仮定するからである。
もちろん、非‐哲学の素材に関する主張とは、その思考法を構成するラディカルな内在性の要素の外に出ることなしに、そのような内在的姿勢が実現できるということである。しかしながら、素材を内在性の中にまで高めることが素材の終わりをもたらすのであり、これこそ、アートが我々に教えることだというのが我々の確信である。こうして我々は素材という語に付随する意味の領域から外に出るのだ。ノン(非)と素材の間には相容れない何かがある。

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8 あらゆる音楽はイディオマティックである

「あらゆる音楽はイディオマティックである」という主張は、音楽自体についての断言というよりはむしろ、ある観点を断言するものである。この主張はそれを行なう者については多くを語るが、音楽自体についてはほとんど何も語らない。逆に、「音楽はノン‐イディオマティックに向かい得る」という主張は、音楽の内的原動力がどんなものであり得るかについて多くを語る。人がつくる音楽は努力にかかわらず、どれも常にイディオマティックだと信じるのは、上からの視点、空中からの俯瞰、あるいは、存在する、そして存在しうる全ての音楽について一種の概略的地図のようなものを持っているようなものだ。「あらゆる音楽はイディオマティックである」という主張、これは、演奏し、作曲し、パフォーマンスすることは、その地図に基づき、即座にその不可欠の部分として展開されると考えることだ。これは人はこのような地図を使い、地図の上で演奏すると考えることだ。ノン‐イディオマティックな音楽という考えに自分が馴染むようになっても、そんな地図についての考えは持っていないということにはならない。それは単に、知的活動においてもアーティスティックな実践においても、自己がその地図の場所にいないということ、そしてさらに、我々はそれを素材として考えることができないということを意味するに過ぎない。しかし、そう言うだけでは充分でない。

これはまた別のレベルでは、イディオムと考えられているものは、あらゆる音楽的提案も生み出しうる、影響、模倣、原則などのまとまりにすぎないということも意味しうる。これは歴史という語の最も貧しい意味において、あまりにも歴史的な観点である。人類は我々の知るあらゆる動物のうちで、実際、最も偉大な模倣者であると考えられる。ここから、「あらゆる音楽はいずれにせよイディオマティックであることに変わりない」と主張を進めるのはこの模倣の技術を指摘することに等しい。
しかし、「音楽はノン‐イディオマティックへと向かうことができる」と言っても、模倣や影響を音楽家が免れると断定することにはならず、音楽がそれらの関係に晒されることなく単独で発生し得るということを示すに過ぎない。あるいは、音楽自体が、自己参照と模倣への監禁とでも呼ぶべき事柄に対して、批判的観点を与える強力な手段になるということを示すに過ぎない。何よりもノン‐イディオマティックへの推進力によって、即興演奏は、選ばれた少数の者だけが正当に理解し得る、個人的な冗談や音楽的参照の引用に陥らないで済む。

幾つかの点で、ノン‐イディオマティックの概念はジル・ドゥルーズ〔Gilles Deleuze〕の「生成」という考えに関連がある。これに照らし、「マイノリティー」と「イディオム」という二つの考えの結びつきを考察しなければならない(クレオールの例によると、ノン‐イディオマティックは人が直感的にあるはずだと想定した場所に必ずしもあるとは限らない)。ジャンルが本当に時代遅れであるなら、我々は素晴らしい潜在的分離に直面する。それは、イディオムを気にせず、卒なくこなす演奏とジャンルに基づくか、ジャンルを使う演奏の分離である(後者はジャンルについて「精通している」人々に向けられた私的悪ふざけという様相を帯びる。普遍性を本当には普遍的でないとするのと全く同様に)。ジャンルとしての普遍性という考えはノン‐イディオマティックが避けなければならないものである。とは言え、これはノン‐イディオマティックの音楽家が自身の音楽を普遍的であると考えているということにはならない。 むしろ、それが意味するのは次のことである。
ノン‐イディオマティックの音楽家が、ジャンルについての隠れたメッセージを闇取引することなしに音楽がどうあるべきか否かについての判断を行なっていることは保証できないとしても、そのような判断はそれ自体のパラメータを侵害する極点にまで突き詰められるべきであり、そのとき、これらのパラメータは見えない操作子〔opérateurs〕となる。意識的であれ無意識的であれ、個人的であれ集団的であれ、慣例、習慣に応じて不当にも同化されることになった操作子として。音楽のあるべき姿についての保証を破棄しても、音楽はどう在り続けてよいかについての批判的禁止が全て無効になるわけではない。スピリチュアルな香油、良い趣味のしるし、あるライフスタイルのアクセサリー、贅沢な商品、等々(としての音楽)。ノン‐イディオマティックが結局、音楽的ピジン〔訳註2〕でないならば、それは間違いなくその可能性の問題を問う。

訳註2 ピジン:ピジン言語。現地人と貿易商人などの外国語を話す人々との間で異言語間の意思疎通のために互換性のある代替単語で自然に作られた接触言語。共通言語をもたない複数の集団が接触して、集団間コミュニケーションの手段として形成される。

「自由に即興された音楽は即興演奏をその一部として含む音楽とは異なります。私は、『インプロヴィゼーション』という本をまとめるとき、こうした事柄を言語の研究で発展した用語で考察するのが有益だと思いました。自由に即興演奏された音楽とあなたが引用した音楽の間の主な違いは、私が思うに、後者はイディオマティックであるが前者はそうでないということです。いわゆる音楽はインプロヴィゼーション(即興演奏)ではなく、あるイディオムで成り立っています。音楽は土地固有の言語、言葉のアクセントと同様に形成され、それはまた地域と社会の産物、その特定の社会で共有される様々な特徴による産物です。このコンテキストで、即興演奏は人々の音楽のなかに存在し、特定の地域と人々を反映する、中心的なアイデンティティーの機能を果たします。そして何と言っても即興演奏はツールです。それは音楽の内部で中心的なツールになりうるかもしれませんが、ツールであることには変わりありません。一方、自由即興演奏の音楽ではそのルーツは場所よりもむしろ機会です。たぶん、インプロヴィゼーションがいわゆる音楽におけるイディオムの場所を占めているのでしょう。しかし、自由即興演奏は他の音楽のような土台あるいはルーツを持っていません。その力はどこか他のところにあります。自由即興演奏には多くのスタイル(グループや個人の)があっても、それらがまとまって一つのイディオムになることはありません。社会的あるいは地域的な絆や忠誠を持たず、特異であると言えます。実際、自由即興演奏の音楽を、見たところ限りなく多様な特異な演奏家やグループからなるものと見ることができます。本当に多いのでその全体をノン・イディオマティックと考える方が容易です」(デレク・ベイリー)。

問い:どうしたら人はアクセント(訛り)なしで話していると思えるのか? ノン‐イディオムのアクセントですらイディオマティックである! これこそ、ノン‐イディオマティックの考えに反対する人々の主要な議論である。しかし、ノン‐イディオマティックへと向かう(あるいはそれに直面する)性向は音楽への強力な源となる、非常に特殊なエネルギーである。たとえば、既に確立した形式としてのジャンルに基づく演奏やそのジャンルを使った演奏ができなくなるような多くの場合にそれは当てはまるのだが、そのようなイディオマティックな演奏では、音楽体験がそれぞれの音楽家の内面に完全に統合されていることが確認されるのだ。文化とは何か? それは知のきわめて耐性のある核のようなもの、捨て去ることはどうしてもできず、また日々それでやっていかなければならないものである(この知についてはいかなることであれ知る必要なしに)。しかし、音楽が完全にイディオマティックであることは決してあり得ない。ノン‐イディオマティックな演奏とは、人が考えるあるべき音楽の姿、あるいはいかに音楽は機能すべきかを再現しようとしない演奏である。この点でイディオム自体が徹底的に非‐主観的である。イディオムが主観的なものになるのは、それがある特定のイディオムの再現となる時である。これは「愚かさ〔idiotie〕」としての音楽だ……それは現実の愚かさ(『現実の愚かさ〔L’Idiotie du Réel〕』:クレモン・ロセ〔Clément Rosset〕著)を人間の中に組み入れるという問題である。人は自分のアクセント(訛り)を選んだわけではないが、そのアクセントに対処する、またはそれに抵抗することはできる。ノン‐イディオムは音楽を言語的なメタファーから切り離し、「いや、音楽は言語ではない」と主張するための巧妙な方法である。母国語での自分自身のアクセント(訛り)に人は決して気づかない。それに気づくようになるには大変な作業を要するのだ。

ノン‐イディオマティックという考え自体に何かプログラムされたようなところがある。ある実践を名付けることは必ずしも、その実践をなんらかの(近視の)実用主義の名で言い表すことではない。 また、この実践の力学を以下のように命名することは役に立ち得る。すなわち、ほぼ疑いなくある種の生気論の名において。しかし、また充分あり得るのは、用語体系自体により、実践の結果とその原動力(そこでは実践と理論が同じひとつのもの)のあいだに立ち上げられた深い弁証法の名の下においても。ノン(非)はこの弁証法に力を与えるなにかである。一方であれよりもこれをするという決意がある(なぜそうしているかを知りつつ)。しかし、他方で別のやり方ができないという無力さもある(そしてそれを後悔することさえできないという無力さが)。イディオマティックな音楽家であるという考えに含まれる暗黙の仮説とは何だろう? それは、あるイディオムの中に「住まう」ということはそれに疑問を持つことなくそのイディオムで演奏することであり、そしてイディオムに縛られるということは自分の演奏を俯瞰する視点を手に入れることができなかったということ、である。人がいるのは内側で外側はありえない、人は唯一、母語だけで話すことができるのとほぼ同じように。この点で、イディオムと大衆の文化および知の間には結びつきがある。あるイディオティックな(馬鹿げた)形態とは、ここそこでだけ見つかる特定の形態であり、言語はそのようなもののひとつである。アクセント(訛り)とは、あるイディオティックな形態だが、これはある別のイディオティックな形態の中に含まれる。結果として、ノン‐イディオマティックの考えは自分自身のイディオムを反省する義務を伴うように思われる……

それにもかかわらず、ノン‐イディオマティックが意味するのは全く反対のことだ。ノン‐イディオマティックの想定では、モダンあるいはポストモダンの文化において、イディオムを強力に再現することなしに人はその中に住まうことができない。つまり、イディオムを再現している(そのイメージを見せている)という気持ちを(少なくとも)持たずには、そのイディオムで演奏することはできない。さらに、人は実際のところ、たった一つのイディオムに住まうことはできない。だから他の多くのイディオムについても、多かれ少なかれ知らなければならない……こうして人は俯瞰する視点の可能性を持つ。あるイディオムはひとつのシンプルな知を想定し、この知はできる限り深いものであるかもしれないが、少なくとも、この知についての知を生み出すとは考えられない。イディオムを再現するということは、その知についての知を人が所有すると(人が自分はそれを知っているということを知っていると)想定するに等しい。大衆文化は、それ自身を再現することなしに存在すると見なされる(だから、最も単純なレベルではポップアートは大衆的ではない)。しかし、「ノン‐イディオマティック」が意味するのは、演奏していることについてのこの二次的な知を引き算して演奏する、ということである。こうして、あらゆるイディオムはそれ自身の再現であるので、ノン‐イディオマティックな音楽家の仕事は音楽における音楽の再現から逃れることだろう。

ある意味で、ノン‐イディオマティックが想定するのは、人はアクセント(訛り)を全くもたないことができるということ、そして、人はだれもその由来を知らないような訛りを持つことができるということである。この点で、ノン‐イディオマティックな音楽は、あるべき大衆の〔populaire〕音楽を生み出すひとつの方法だろう。ということはそれは大衆音楽ではない。次の話の「あたかも、~のように〔comme si〕」は再現のそれではない。「私は私が演奏することを演奏する。私が演奏する場所で、その時に。私が知っていることを知りながら。あたかも自分が本当の大衆的音楽家〔un véritable musicien populaire〕であるかのように(即ち、民俗的ということ。それは必ずしも「大衆的」ではない)」。こうして、ノン‐イディオムが仮定する「あたかも、~のように」は、科学者が自分自身の仕事に使うそれに近い。「全てのことはあたかも……のように起きる」。大衆的〔populaire〕の意味は「民俗的〔folklolique〕」であるよりもむしろ「よく知られた〔très connu〕」であるというのは不思議である。噂〔rumeur〕……またしても)。「大衆音楽」のようなものを生み出す唯一の方法はノン‐イディオマティックな音楽家になることだろう。ノン‐イディオマティック=名声に対抗するイディオム。しかしながら、即興演奏家はどんな音楽家とも演奏できると考えられているということは、彼らのノン‐イディオムが実際は他のイディオム全てを含むスーパー‐イディオムであるということを意味しないだろうか? 否。一つ引き算するという層をつけ加えることにより、ノン(非)はスーパー‐イディオムという考えを妨げる。ラリュエルのノン(非)が示す、内在性の「一〔L’Un〕」はまさに非‐全〔pas-tout〕である。結局、ノン‐イディオマティックな音楽家になるということは、おそらく同時代的なイディオマティックな音楽家になるということに等しい。

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9 異化の政治学

社会はなぜ即興演奏家を必要とするのか? 我々即興演奏家は小企業家である。自己のマネージメントに長けているばかりか、自分自身の上司や部下として、またプロデューサーや消費者として振る舞うのもうまい。ある意味で、即興音楽がおかれた状況は、資本主義の発展の未来を予兆する小さな実験室のようなものである。というのも即興演奏家であるには資本主義的経済において評価される特徴の多くを必要とするからだ。すなわち、その特徴とは個人的な動機、強力な個性、極度の柔軟性と適応性、異なる状況に即座に対応する能力、公(おおやけ)で演奏する能力(消費者のため)、絶えざる出世欲(「私の個人的な能力や楽器の特殊な演奏法を見て下さい。私がお見せすることは他の場所では手に入りませんよ」)などである。

これらすべての理由で、自由即興演奏をこれが60年代に出現した当時の政治参加の雰囲気に再び結びつけることは重要であると我々は考える。それは、自由即興演奏の開始の歴史的瞬間から現代資本主義的文化におけるその現状までの、資本主義の発展とイデオロギーの変化の関連をより良く理解するためである。我々が把握する必要があるのは、なぜ以前の即興演奏の左翼的展望がこの実践に内在する諸問題を認めることができなかったか、である(例えば、即興演奏家が究極の資本主義者の良いモデルになるという事実)。この政治的視野の狭さを生んだロマンティックな理想化を明らかにする必要がある。さらに理解する必要があるのは、なぜ即興演奏家が実践の形態としての即興演奏の政治的可能性について、しばしばあれほど極度に粗雑で過剰に簡略化した説明を広めたかである(もちろん、実際に自由即興演奏に進歩的側面が隠されているという原則から出発するならば、であり、我々はそう考える)。

さて、演劇の再現装置との関係で、コンサートの装置のうちにある暗黙の了解の政治的な言外の意味を考えてみよう。ブレヒト〔Bertolt Brecht〕の Verfremundungseffekt (不当にも「異化効果〔effect de distanciation〕」と訳されている)は、演劇の4番目の壁を取り除こうとする試みだが、その達成のため、観客を舞台とパフォーマーから隔てる幻想を遠ざけ、中断させ、観客の「受動的」で「疎外された」状態を明らかにする。こうして、実際、状況がいかに見せかけのものであるかを、観客は理解するようになると考えられている。即興演奏においては異化効果は二重である。というのは、演奏家の状況もまた混乱したものだからである。演奏家と観客は前もって予想できなかった状態に置かれ、双方の分離はもはや余り明白ではない。

問い:今この瞬間に、どんな状況に自分が置かれているにせよ、どれほど自発的にギブアップしたいと思うか?

即興演奏において濃密な雰囲気を引き起こすこと、その意図するところは、状況(聴衆、演奏、ディレクター、オーガナイザーを含む)を成立させている保守性を明らかにし、新たな条件の組み合わせへの欲求を生むことにある。即興演奏に処方箋はない。その目標は前例のない状況を作ることである。それも誰にとっても奇妙な状況を、啓蒙的な、あるいは前もって準備された指針なしに。自著『解放された観客〔Le Spectateur émancipé〕』の中で、ジャック・ランシエール〔Jacques Rancière〕はジョゼフ・ジャコット〔Joseph Jacotot〕の例を引いているが、これは生徒に自分自身も知らないことを教えようとした19世紀のフランスの教師である。ジャコットはそうすることで、認識的習熟の自負を問題視し、知性の前の平等を自身の出発点としていたのである。ランシエールの言葉のよると、ジャコットは「民衆の教育についての標準的な考えに反対し、知的解放を要求していた」。知の権威を演じることは(ギー・ドゥボール〔Guy Debord〕の批判あるいはブレヒトの啓蒙的配慮のように)、たとえその解体が意図されたとしても習熟の論理を再現することになる。

ブレヒトは、幾つかの戦略を互いに巧みに利用し(例えば、社会主義リアリズムを叙事的あるいはロマンティックなシナリオに導入すること)、特定の技術や効果を明らかする。しかし、いずれにせよ、彼の啓蒙的配慮はたえず観客を、知らぬこと、まだ学ばなければならないことから遠ざけていた。ランシエールは、見ることと聞くことについての考え方を変えることを提唱する。それも受動的な行為としてではなく、「世界を解釈する方法〔des manières d’interpréter le monde〕」として世界を変え再構成するために、である。彼は教育的距離やジャンルや規律についてのどんな考えにも反対である。しかし、彼の説明はそこで終わり、この反対が何に至り得るのかは言わない。これらの不平等を拒絶するだけでは充分でないのであるが。

我々はこれに取って代わる経験のモデルが必要である。それは、ある状況の中で適切な知として重要なこと、その欠乏も余剰も溶かす限りにおいて、階層的な知の主張には無関係なものであるだろう。認識的権威が解釈による反論を受けることが想定される時のように、それは解釈の問題ではない。解釈には媒介が必要で、これを通じ人は状況を考察し、こうして状況への自分自身の熱中を和らげる意識的方法が得られる。目標は、演奏の即時性を解釈の媒介に対立させることよりも、知と無知、能力と無能力とのあいだの差異が明白でなくなる瞬間を突き止めること、そしてこれに専心し、それらの見分けがたさを、状況において最も言語道断な矛盾が集中する焦点へと転換することなのだ。異化と愚かさ。

10 異邦人と愚者

人がノン‐イディオマティックな音楽家になるのは、イディオムがイディオムそれ自体の再現である事実への気づきによるならば、ノン‐イディオマティックな音楽家になるということは(超)異邦人になることに等しいだろう(ホワイトヘッド〔Alfred North Whitehead〕のサブジェクト(主体〔subject〕)が「スーパー‐ジェット〔super-jet〕」であるのと同じ意味で)。

基本的には、異邦人とはある別のイディオムを持った者であるのに対し、愚者はイディオムを全く持たないか、例外的に特異なイディオムを持つ。つまり、愚者があるイディオムを持つならば、それを使うのは彼だけだ。

従って、バックグラウンド・ノイズ〔bruit de fond〕の定義を、
形態として同定できない、かつ/あるいは定義できない、かつ/あるいは聴取者が興味を引かれない、音の中にある全てとし、
そして、「ざわめき〔rumeur〕」の定義を、
記号(形態かつ/あるいは情報かつ/あるいは影響)で出来ているノイズとするならば、
異邦人とはざわめきとバックグラウンド・ノイズの境界が異なる者である。

一方、愚者にはその境界が存在しない。彼にはバックグラウンド・ノイズとざわめきは全体として一つのもの〔en-Un〕として現れる。それはまた、情報かつ/あるいは形態かつ/あるいはサウンド等々であり得る……一音としての音の世界と一情報としての音の世界を区別しないこと。

「(超)異邦人〔super-étranger〕」とは「太陽の異邦人〔étranger solaire〕」である。この異邦人がイディオム(太陽に)に光を投げかけるという意味において。

「(超)愚者〔super idiot〕」とは「闇の中で見える愚者〔l’idiot nyctalope〕(闇の中でも見える人)」である。この愚者は自身ならではのイディオムを持ち、非言語的環境の中で話す(完全な闇の中で自分自身のために光を創り出す)ことができるという意味において。つまり、愚者は非言語的な道具〔instrument〕を用いて話すのだ。

ノン‐イディオマティックは馬鹿げている〔idiotic〕! しかし、それに向かう(あるいは直面する〔le vis-à-vis〕)傾向はノン‐イディオティックな〔non-idiote〕音楽を生む。聴衆と演奏家は共に異邦人となる……

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11 言語活動、非‐言語活動としての音楽

I クルト・ザックス〔Curt Sachs〕によると、音楽の起源には歌と器楽演奏の二つの方向性がある。
歌は言語に向かうベクトルを持つ。一方、器楽演奏はその起源においてよりノン‐ランガージュ(非‐言語活動)に関係があるだろう。
ここまで、我々のノン(非)‐コンサートについて話してきたが、それは我々が交わした議論に条件づけられていた。
我々はランガージュ(言語活動)と音楽を分けて考えるよりも共に考えることにより興味があった。
我々のうちの一人が哲学者であり、彼がコンサートで話すことを拒んだ事実、コンサートをめぐる全ての言葉(コンサートの前、コンサート中、そして、コンサート後の議論)、これらすべてが我々のノン‐コンサートが言葉を欠くようになった理由、そして聴衆の側からの言葉に対する強い期待を充分明らかしたと思われる。

II 非‐言語活動=前言語的状態。
言語を考える上で、ヒトの過去に遡り、その初源の状態をイメージするためには、関連諸学の参照も有用であろうが、言語の起源についてどんな説明を与えられても、それが本質的なところで現在も自分のカラダでヴィヴィッドに感じられなければ、自分の言語活動とつながっているという実感が湧かなければ、興ざめな話である。言葉を探していて、なかなか見つからなかったものが、ようやく見つかった時の感覚、その時の充実感とは何に由来する? それは普通自分が成し遂げたことと考えられるが、言葉の方が自分を見つけるという感覚になるときもあるのではないか? そのようなことは時代が進んでも不変であろう。音でも同様のことがあるはず。そうでないならば、人間が言葉を、音を単なる道具として、なにがしかのかたちで有産性に貢献するだけのことになる。でも、その有産性だけではやっていけないのは自明では?
言語との関係で根本的なことは、常に我々にとってアクチュアルな創造の瞬間に達するための、言葉による自己の活性化、乗り越え、そしてそのような言葉の到来のための準備をすること。
同様に、音との関係で根本的なことは、常に我々にとってアクチュアルな創造の瞬間に達するための、音による自己の活性化、乗り越え、そしてそのような音の到来のための準備をすること、等々。
非‐言語活動=前言語的状態は歴史的なものだが、いまも非歴史的なアクチュアルななにかがあるはず。それに結びつくタームは、死、孤独、サイレンス(無音ではない)、深さ、カオス。ある種のヴァイブレーション(血流、空気の流れ)、絶えずやむことのないもの(モーリス・ブランショ〔Maurice Blanchot〕)などである。
意識的な知覚以前に、バックグラウンド・ノイズ、その他の恒常的な音により我々は常に身体的にマッサージされている。それは音の前体験のようなもの。

III 非‐言語活動を言語活動へともたらした想像を越えるエネルギー。
言語活動の創造は社会化、コミュニケーションの必要、そして協同的に生きるため。
と同時に、もちろん様々な弊害を生んだ。使いにくい道具としての言葉。それをいかに道具として意識しないか? 楽器をいかに道具として意識しないか?
コンサートの演奏者と聴衆との対峙構造。
つまるところ主客対立の問題をどうするか、となりがちだが、そうではなく、人も物も差別なく存在するという姿勢をとること。

IV 言語活動の特徴:分ける、形成する、組織する。
言語活動を音の世界に拡げて考えると、言語活動としての音楽がもたらすのは知識の伝達を口実とする制度確立と維持、既得権益の踏襲、商品としての音楽。言葉は必要な改革のための有効な自己批判をもたらすはずが、それが欠けると単なる、なし崩し的世襲制となる。
言語活動の飽和は機能障害、死をもたらす。全てが形式化すると、それはトゥーマッチ。言語活動は非‐言語活動の注射が必要。それは自らを開く、呼吸する、バランスを保つため。
その逆も真なり。非‐言語活動のカオティックさから常に創造性を生み出し続けるのは困難で、むしろ、ルーティン化したエネルギー一発のやっつけ仕事になる恐れが大。そこは言語活動を導入して事態を分析、自己を対象化する戦略が要る。細部への繊細な気配り。

V 人間の言語活動の構造:上部は言語活動、下部は非・言語活動
(追記:いまでは、内と外として考えるべき、だがそれは空間の話ではなくという認識に変わった)
非‐言語活動あっての言語活動であり、言語活動あっての非‐言語活動。補完的。持ちつ持たれつ。

VI デレク・ベイリーによるノン‐イディオマティック
音楽の歴史に見られるイディオマティックなインプロヴィゼーションから自分の即興演奏の行為を区別するためにこの語は厳密な定義なしに用いられ、そのため誤解の種も蒔いた。

VII 音楽を取り巻く現状
ランガージュとしての音楽の優位。ノン‐ランガージュを排除する同定し難い力は第一に音楽の疎外を、第二に人間の疎外をもたらす(それは別に新しいことではない)。
資本主義に基づいた音楽産業とコンサートのシステム、大衆のためのカルチャー。
音楽の身体を欠いた、脳による享受、音楽へのアクセスのさまざまなヴァーチュアルな方法。
それらはあるリアリティーを生み出すが、別のリアリティーを隠蔽する。個々人は何を選択するかで鍛えられる。

VIII 第一世代の即興演奏家たち
演奏行為におけるノン‐ランガージュなエネルギーの重要性を明らかにした(特に変化とスピードに関し)。
しかし、演奏家は一般に、一旦このエネルギー呪縛されるともはやそれから逃れられない。それはマイナス面であるが、プラス面としてはそれまでにない、即興音楽を提案し、したがって新しい音楽の聴き方を提案した。
主として、演奏行為イコール音を出すことの傾向がある。
演奏しながら音を聞く。より体で音を聴く。
サイレンスの追求は音をつかって行なわれた。
主として演奏行為の追求。

IX 対照的な傾向としての、後続のあるいは即興の第二の世代、そしてそれ以降
第一世代から少しづつ進行した音楽的枯渇、倦怠は音楽のラディカルな変化への動機となった。
経済的な要因もあり(不況には気分を高揚させるためのフリージャズ)、
住宅環境によるコンサートにおける制約や従来の演奏行為に対する批判もあり(音響派)、
今や、速度の代わりに、遅さ。
変化の代わりには、無変化、さらには退屈さの探求。
複雑さには単純、簡素さ。
即興演奏で曲のように聞こえる音楽をつくるという最近の志向。
つまり、即興自体よりも音楽という志向。
裏には即興演奏というジャンルがあるという読み。即興が本質的に重要なのではなく。
オーケストラによるインプロの台頭(助成金も取り易し)を見ても同じことが言える。
ノン‐イディオマティック・インプロとイディオマティック・インプロの違いは
イディオムが共有されるか否かにかかっている。
個人的なイディオムへの嫌悪?
即興行為イコール音を作ることではなく、聴くことが音を出すことよりもフォーカスされる。もちろん、二つの間のフィードバックは忘れずに。
聴くことが音を出すことのもとになる。
単に現象としてだけではないサイレンスの導入。
そもそもサイレンスって何ですか?
空間、その他のパラメータへの配慮。なぜそれは必要?
言語活動と非‐言語活動、どちらも飼いならすには様々な、微妙な戦略が必要。
それと同時にその束縛を逃れるには微妙なバランスがいる。近すぎず、遠すぎず。

だが、こうした頭でっかちの傾向分析と対策としての戦略に辟易した地点からしか音は始まらない。

X
我々の戦略は二つの道に跨っている(言語活動と非‐言語活動)。重要なことは、単に音楽を囲む現在のシステムを政治、社会、文化等々の観点から問い質すだけではなく、言語としての音楽の支配の仮面を剥ぐような、ラディカルな音楽をひとりひとりが日常的に試行錯誤することである。音楽がその本質的な力を引き出すのはその非‐言語活動的側面からであり、この力こそ音楽が様々な困難を克服し、それ自体を乗り越えていくことを可能にする。とは言え、言語活動あっての非‐言語活動であるので、後者の原動力を引き出す先のデータとなるのは言語活動としての音楽であることは変わらない。問題はその使い方だ。

これは音楽だけでなく他の分野にも関係する話である。

【訳者後記】

今回の「イディオムとイディオット(語法と愚者)」の翻訳は、仏語版をもとに英語版も参照しながら行なった。最終11章はこの章の執筆者権限で現状に即すべく大幅な加筆・変更を行なった。

村山政二朗 2020年

Kamaal Williams - ele-king

 かつてユセフ・デイズ(先日トム・ミッシュとの共作を発表)と組んだユニット「ユセフ・カマール」でUKジャズ・ムーヴメントに先鞭をつけたヘンリー・ウー。2018年にはカマール・ウィリアムス名義でこれまたすばらしいアルバムを送り出している彼が、ついに同名義でセカンド・アルバムをリリースする。ジャズやファンクはもちろん、エレクトロニック・ミュージックからの影響も巧みに落とし込んだ、彼らしい内容に仕上がっている模様。南ロンドンのシーンからはずっと良質な作品が出続けているので、これも要チェックです。

Kamaal Williams

ユセフ・デイズとのユニット、ユセフ・カマールでの活躍でも知られる
ヘンリー・ウーことカマール・ウィリアムスが待望の最新作『Wu Hen』を
7月24日リリース! 新曲 “One More Time” を公開!

俺たちがジャズを学んだのは教室ではなくて、ストリートなんだ ──Kamaal Williams (Henry Wu)

トム・ミッシュとの共作で話題のユセフ・デイズと組んだユニット、ユセフ・カマールとしての活動が絶大な評価を受けたことでその名を知らしめ、ヘンリー・ウー名義でフローティング・ポインツが主宰する〈Eglo〉、〈MCDE〉、〈Rhythm Section〉といったレーベルからリリースした12インチが、DJより支持を集めているカマール・ウィリアムス。自身が運営する〈Black Focus〉より待望の最新作『Wu Hen』を7月24日にリリースすることをアナウンスし、同時に新曲 “One More Time” を公開した。

Kamaal Williams - One More Time (Official Audio)
https://youtu.be/Q3vJLO0pXWU

『Wu Hen』は南ロンドンを拠点にクロスオーバーに活動するアーティスト、カマール・ウィリアムスことヘンリー・ウーによるセカンド・アルバムであり、これまで以上に聴き手を高みへと誘うアルバムとなっている。

これはマインド革命であり、精神的な反抗だ。新しい高みに到達するためには、物質的な世界から自分自身を切り離し、実体のないものに力を見出すことが必要なんだ。それがアートとか音楽っていうものなんだ。原始的な感情であろうと、何か深いものであろうと、それをただ感じるんだよ。そして、俺の作品全体には潜在的に共通した要素がある。もし絵を描いているなら、それは絵を描いている時に感じることだ。作品を見ている人も、音楽を聴いている人も、それを感じることができる、なぜならそれは嘘偽りのないものだから。 ──Kamaal Williams (Henry Wu)

アルバムのタイトル『Wu Hen』は、ヘンリーのおばあちゃんが子供の頃に彼につけたニックネームでもある。彼の台湾側の家系は呉王朝の出身で、呉という名前は「天国への入り口」という意味である。『Wu Hen』では、彼の家系から現在の精神的な使命に至るまでの道のりが描かれており、Othelo Gervacio による雲のようなカバーアートにもそれが反映されている。

「俺たちがジャズを学んだのは街角であって、教室ではない」とヘンリー・ウーは公言しているが、その言葉は至極真っ当なものだ。彼がアーティストとして受けてきたヒップホップ、グライム、UKガラージ、ハウスに70年代のファンク、ソウル、ジャズを重ね合わせることで、自身が “ウー・ファンク(Wu Funk)” と表現する独自フュージョンを生み出している。

今回のアルバムには、ストリングにミゲル・アトウッド・ファーガソン、べースのリック・レオン・ジェイムス、サックスのクイン・メイソン、ロサンゼルスを拠点にするドラマー、グレッグ・ポール(カタリスト・コレクティブ所属)、ハープ奏者アリーナ・ジェジンスカラ、ラッパーのマック・ホミー、そしてケイトラナダとの共作で知られるローレン・フェイスがボーカルとして参加している。中でもフライング・ロータスとの共同制作を始めレイ・チャールズ、ドクター・ドレ、メアリー・J・ブライジなどと共作をしているミゲル・アトウッド・ファーガソンは、彼らしい特徴的なストリングスのサウンドを披露しており、鮮やかな色彩と豊かな深みを与えている。

『Wu Hen』は多様な色合いに満ちた作品だ。“Street Dreams” の軽やかで美しいメロディーから “One More Time” の爆発的なブレイクビーツのドラムに繋がるさまは、エロクトロニック・ミュージックとファンクの力強い混成となっている。“Toulouse” と “Pigalle” がロニー・リストン・スミスやジョン・コルトレーンのような古典的な雰囲気を持っている一方、“Hold On” にはコンテンポラリーな感覚があり、カマールはローレン・フェイスの甘美な歌声とともに情感豊かなR&Bサウンドを提示している。『Wu Hen』のスタイルはロイ・エアーズによるフュージョン作品を想起させるところもあれば、それを支えるリズムはむしろ鈍重なヒップホップを思わせるものであり、海賊版ラジオの音声を細かくつぎはぎしたサウンドが、それとはわからないように織り交ぜられている。

待望の最新作『Wu Hen』はデジタル、国内盤CDで7月24日リリース、輸入盤CD/LPは8月14日リリースとなっている。国内盤CDにはボーナストラックが収録され、輸入盤LPは通常のブラックヴァイナルに加え、限定のレッドヴァイナルが発売される。

label: Black Focus / Beat Records
artist: KAMAAL WILLIAMS
title: Wu Hen
release date: 2020.07.24 Fri On Sale
国内盤CD BRC-643 ¥2,200+tax
国内盤特典:ボーナストラック追加収録/解説書封入

BEATINK.COM

Apple Music
Spotify

TRACKLISTING
01. Street Dreams (feat. Miguel Atwood-Ferguson*)
02. One More Time
03. 1989*
04. Toulouse*
05. Pigalle
06. Big Rick
07. Save Me (feat. Mach-Hommy)
08. Mr.Wu
09. Hold On (feat. Lauren Faith)
10. Early Prayer
11. 3 Yourself (Bonus Track for Japan)

Derrick May - ele-king

子供の頃からずっと人種的不正と共に生きてきた。二等市民として扱われたことのある人間ならば、人種差別・偏見は心に永遠に消えない傷を刻むことを知っているだろう。このようなメンタリティを持つ人たちの憎悪と無知は、恐怖と愚かさによるものだ。これからも、この惑星には常に人種差別主義者は存在するだろう。だから、人種差別を撲滅・根絶しなければならない! この社会から差別を時代遅れにしてしまおう。(デリック・メイ)

I have lived with racial injustice my entire life since I was a young boy, such as anyone who's ever been treated as a second-class citizen knows Racisim and bigotry leave painful deep permanent scars and injuries to the psyche that never go away! The hate and ignorance that lives in this mentality is due to fear and stupidity! There will always be a racist on the planet, our job is to eliminate and eradicate them! Make them obsolete to our society. (Derrick May)

たった一人のパンク・ロック - ele-king

 最初に結論を──Kazuma Kubota のノイズは人間讃歌である。
 本稿はその命題から始められ、その命題に向かって終えられる。

 Kazuma Kubota。日本のハーシュノイズ作家。
 フィールド・レコーディングとアンビエント・サウンド、具体音とカットアップ・ノイズを、高度に・複雑に・立体的に──繊細な織物のように──、高い解像度で組み上げたスタイルを築き上げたその作家は、ノイズ音楽シーンに新たな地平を切り拓き、東西南北・老若男女問わず、多くのノイズ作家に影響を与え続けている。
 たとえば──伝説的ノイズ・ミュージシャンと言って過言ではないであろう──非常階段/INCAPACITANTS の美川俊治は、Kazuma Kubota の作品集『Two of a kind』に次のような言葉を寄せて絶賛している。
「Kazuma Kubota、この名前は覚えておいた方が良い。年寄りが跳梁跋扈する日本のノイズを、この男はいずれ背負って立つことになるのだから。理由? この作品を聴きなさい。それで分からないようなら、自分を諦めることだ」

 カット・アップによる切断。アンビエントによる縫合。音によって切り刻まれ混ぜ合わされるのは時空を把握する認識そのものであり、つまるところそれは、歴史そのものである。
 ぱっくりと切り開かれた傷口。そこから覗く時間と空間。飛び交う断片が再接続されたあとで浮かび上がる、全く新たなノイズの地平。そこでは徹底して人間の物語が奏でられている。都市の喧騒、秋の散歩道、冷たい料理を囲む何気ない雑談。ささやきと咆哮、呼吸──言葉以前の音──それらの音の数々は、意味を持たない端的な雑音=ノイズであり、記号の外にある非‐記号であり、認識されず、理解されないままに、見過ごされ忘れられていく日々の泡である。

 うつろいゆく雑音。
 そう、雑音は果てなくうつろい続けてゆく。

 Kazuma Kubota は、それらの雑音=ノイズを拾い上げ、無関係だったはずの音と音の間に連関を見出し、繋ぎ、磨き、大量のエフェクターによって加工し、スピーカーを通して再生し、名もなき雑音に名を与える。そうすることで彼は、顧みられないまま失われた、しかしかつてはたしかに存在したはずの風景を、音と音の間に現出させる。──1月30日。週末、駅前で待ち合わせ。秋の朝を歩く。枯葉が敷き詰められた道。息が白くなり始めている。音楽を聴いている。たくさんの時間が混在する。思い出が混濁する。自分がわからなくなる。わけもなく涙が溢れる。その場にうずくまる。「January thirty」と「A Sense of Loss」。音楽を聴いている。無数の音の粒子が、世界をふたたびかたどりはじめる。物語が、私に生きることをふたたび働きかける。私は立ち上がり、ふたたび歩きはじめる。都市の喧騒、秋の散歩道、今ここにある風景。

 全ての人間は物語によって世界に触れる。
 全ての人間は物語によってのみ世界に触れることができる。
 物語とは、人間の情緒に訴求することで情報を効率的に伝達する情報伝達形式ではない。
 物語とは、人間の情緒に訴求することで情報の外にある世界の広がりを想起させる表現形式である。

 これまで、多くのノイズ作家は物語を否定し、物語性を拒否し、自身の作品に物語性が混入することに抵抗してきた。物語という表現形式は人間の持つ認識機能の特性にあまりにも近しいがゆえに、情緒に訴え共感を呼び起こし安易に連帯をもたらす危険なものであり、世俗的で卑小で恥ずべきものである──ノイズに限らず現代の表象文化においてはそうした主張が知的なものだとされてきた。そして、そうした思想の傾向は今なお強く、むしろ深化し過激化しつつあるように思われる。

 たとえば、自身もノイズ演奏を行う哲学者のレイ・ブラシエは、雑音=ノイズも含め、人間の認識領域外にある「他なるもの/多なるもの」の生の実在を認め肯定し、彼らについての思索を展開する。ブラシエは、地球上から人間がいなくなり、「他なるもの/多なるもの」のみが残された「人類絶滅後の世界」において、いかに存在は在り続けるのかと考える。人類はいない、それでも宇宙はあり、人類がもはや認識することのない世界のなか、認識されえない存在は、どのようにして存在を続けているのかと。
 それはこう言い換えることもできる。存在を存在足らしめるものは人間などではなく、仮に「人類の絶滅」が訪れたとしても、作者とも聴者とも関係のない場所で、音楽は鳴り続けるのだと。そうした思想の背景には、根本的な人間性への否定が横たわっている。そして、多くのノイズ作家/ノイズ作品が体現する思想もまた、ブラシエの論理と同様の構造を持っている。人の介在を問わず、それ自体で立つノイズと呼ばれる音楽は、過剰な──完全な──人間性の否定へと繋がる危険性を孕んでいるのだ。

 一方で、Kazuma Kubota はそうではない。私はそう思う。
 Kazuma Kubota のノイズには、今ここに生きる人間の物語がある。Kazuma Kubota のノイズは、徹底して、あなたや私や彼や彼女など、今目の前に生きている人間に捧げられている。Kazuma Kubota は、そうした自身の音楽性について、インタビューで次のように語っている。
「僕は作品を作る上で映像的なストーリー性と、自身の感情を表現することが重要だと考えています。僕はハーシュノイズを単に暴力的な表現として使用するのではなく、もっと深い感情の爆発のピークを切り取ったイメージとして使用しています。アンビエントは悲しみ、孤独、喪失感、憂鬱、等の現実の生活の中で感じる、行き場の無い感情を表現する為に使用しています」

 Kazuma Kubota のノイズは人間の生活の中にあり、人間の感情を写し取り、人間に徹底的に寄り添うようにして鳴らされている。
 ノイズでありながら人間を肯定すること──それは、幸福も不幸も、快楽も苦痛も、自由も不自由も含め、あらゆる人間の生活を「既に在るもの」としてとらえ、人間の限界を引き受け、その上で肯定しようとする、絶妙なバランス感覚が必要とされる取り組みである。そして Kazuma Kubota は、そうした高度なアクロバットを成し遂げ、今なお成し遂げ続けている。そのようにして Kazuma Kubota のノイズは、人間讃歌として、私たち人類に向けて、まっすぐに奏でられ続けている。

 最後に一つ、私的な思い出について話したい。

 私が Kazuma Kubota の存在を知ったのは2013年のことだった。
 私は当時、大学を卒業して会社員になったばかりで、右も左もわからないまま、右へ行ったり左へ行ったりを繰り返していた。私は社会の中で混乱していた。私は疲れていた。もう何ヶ月も、月間の労働時間は400時間を超えていた。かつては映画を観ることや小説を読むことが好きだった。その頃には映画を観ることや小説を読むことはできなくなっていた。けれども幸いなことに、音楽を聴くことはできた。聴くのは決まってノイズだった。──ノイズを聴くと、自分が失われていくような感覚を覚えることがある。自分自身がノイズを構成する一つの粒子になっていくような感覚を覚えることがある。私はその感覚が好きだった。

 そうした日々の中で、私は Kazuma Kubota のノイズを聴いた。それは不思議な感覚だった。新しいと思ったが、新しいだけでもないと思った。そこには妙な懐かしさがあった。奇妙な音楽だと思った。それはたしかにノイズだったが、そこにあるのはノイズだけではなかった。そこには、記憶の中に堆積していたハーモニーやメロディの数々が鳴っていた。私は私の思い出を思い出していた。私は思い出の中を彷徨していた。そのとき私は、私が十代だった頃に聴いた、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインやコールター・オブ・ザ・ディーパーズ、シガー・ロスにレディオヘッド、エイフェックス・ツインや七尾旅人を思い出していた。──いや、白状しよう、私の記憶はさらに過去へと遡り、私は小学生の頃に聴いた X JAPAN やブルーハーツすら思い出していた。
 それはなぜか。そこには何があったか。私はここで最初の文に立ち返る。「Kazuma Kubota のノイズは人間讃歌である」。──そう、結論はこうだ。そこには非‐人間に捧げられた、非‐意味の塊としてのノイズだけでなく、人間に捧げられた、意味の塊としての物語があったのだ。

「ノイズ・ミュージックは、たった一人でもできるパンク・ロックだ」と Kazuma Kubota は言った。
 たとえばそれがそうだとして、パンク・ロックが自分と他人の間に生まれる軋みを表した音楽だとすれば、ノイズとはまさにその字義通り、自他の間隙に生まれる〈軋み〉そのものではないだろうか。
 そう。軋みはここで鳴っている。いつものことだ。
 軋みはつねにすでにここにあり、そもそも自分と他人は隔てられているのだが、多くの音楽は隙間を満たすことで隔たりを隠そうとするその一方で、ノイズは、隔たりを隠そうとしないどころか軋みを浮き彫りにしさえする。ノイズは、私たちは一人ぼっちなのだと指し示し、そうであっても音楽の中で、一人ぼっちの私はこの上なく自由なのだと教える。

 Kazuma Kubota によって構成された新たなノイズ音楽=〈たった一人のパンク・ロック〉──フィールド・レコーディングとアンビエント・サウンド、具体音とカットアップ・ノイズ。「January thirty」と「A Sense of Loss」。都市の喧騒、秋の散歩道、今ここにある風景──それはたしかに一人ぼっちの音楽だが、一人ぼっちであるがゆえに、かつてブルーハーツが歌ったパンク・ロック=人間讃歌のような、優しさと愛に満ちた、現代の人間の物語が可能となっている。私はそんな風に考えている。

 人間は永遠に一人ぼっちだが、それは絶望ではない。
 kazuma Kubota が鳴らすノイズ──たった一人のパンク・ロックが、私にそれを教えてくれたのだ。


新世代の先進的リスナーを中心に幅広い注目と支持を集める Post Harsh Noise の旗手 “Kazuma Kubota” の現在廃盤となっている代表作品をCD化し6月3日(水) 2タイトル同時リリース!

さらに昇華したカットアップ・ノイズの復興を告げる基本資料。クボタの鋭く研ぎ澄まされた作品はどれも、多くのアーティストがその生涯をかけても生み出せないほどのアクションやアイデアに満ちている。 ──William Hutson (clipping. / SUB-POP)
真面目で甘酸っぱい音楽/ 音。フィルムや小説の短編集に近い感触。今後どうなっていくか聴いてみたいと思わせる作品でした。 ──朝生愛

タイトル:A Sense of Loss (ア・センス・オブ・ロス)
形態:CD (スリーヴケース+ジュエルケース+8Pブックレット)
品番:OOO-35
小売価格:2000 円+税
JANコード:4526180518259

トラックリスト:
1. Ghost
2. Memories
3. Sleep
4. Regret
 Total 25:16

タイトル:January Thirty + Uneasiness (ジャニュアリー・サーティー・プラス・アンイージネス)
形態:CD (スリーヴケース+ジュエルケース+8Pブックレット)
品番:OOO-36
小売価格:2000円+税
JANコード:4526180518266

トラックリスト:
1. January Thirty
2. Uneasiness
 Total 29:35

◆本年初頭の RUSSIAN CIRCL ES (US / Sargent House) 来日公演で共演を務めUKの〈OPAL TAPES〉からもリリースする等、新世代の先進的リスナーを中心に幅広い注目と支持を集める Post Harsh Noise の旗手 Kazuma Kubota の現在廃盤となっている代表作品をCD化し2タイトル同時リリース!
◆OOO-35 は2010年に米国のレーベル〈Pitchphase〉から限定リリースされたオリジナルEP。日常を思わせるフィールド・レコーディングや感傷的なドローン/アンビエントと切り込まれるカットアップ・ノイズのコントラストが単なるノイズ・ミュージックを越えた唯一無比のドラマを生み出す傑作。さらに本来収録される筈であった1曲を追加、晴れての完全版仕様となっている。
◆OOO-36 は2012年にイタリアのレーベル〈A Dear Girl Called Wendy〉から限定リリースされたワンサイドLP と、2009年に20部(!)限定でセルフリリースしたEPを1枚のCDにコンパイル。断続と反復を多用したブレイク感溢れる冷たくも激しいハーシュノイズと穏やかなアンビエントの狭間を揺らぎながら突き進んで行く “January Thirty”、雨音のフィールド・レコーディングとギターのアルペジオから幕を開け従前のノイズ観を独自の美意識で更新した意欲作 “Uneasiness”。ともに新時代のノイズ・ミュージックの発展性を示した
重要な内容だ。
◆本再発にあたってはリマスタリングエンジニアに SUMAC, ISIS, CAVE-IN 等のポストメタルの名盤から映画音楽まで幅広く手がける名匠 James Plotkin を起用。スリーヴケースに保護されたジャケットには Kubota 本人による撮りおろしの風景写真が収録された8Pフルカラーブックレットを同梱、Kazuma Kubota 独自の世界観を視覚面からも表象している。
◆国際シーンで人気を獲得し既に各地にフォロワーをも生み出している新たなるノイズ・フォーマットの提唱者として注目すべき作家の隠されたマスターピース、いまここに初の正規流通!

スチャダラパー - ele-king

 デビューからちょうど30周年を迎えたスチャダラパーによる、13作目となるフル・アルバム『シン・スチャダラ大作戦』。このタイトルは、彼らのデビュー・アルバムである『スチャダラ大作戦』の現代版アップデートとも読み取れるわけでもあるが、30年間、いい意味で全く変わらないスタイルを貫いてきた彼らのスタンスそのものが反映された作品にもなっている。
 本作の目玉のひとつとなっているのが、“スチャダラパーからのライムスター”名義にて先行でシングル・リリースもされたRHYMESTERとの初のコラボレーションによる“Forever Young”だ。年代的にもキャリアの長さ的にもほぼ同じこの二組であるが、両者の歩んできた道はまったく異なる。『スチャダラ大作戦』リリースの時点ですでにサブカル界のニュースターであったスチャダパラーと、スチャダラパーから約3年遅れでリリースされたデビュー・アルバムを今では(半ば冗談だが)自ら封印しているRHYMESTER。いずれも、当時の日本のヒップホップ・シーンを牽引していたインディ・レーベルである〈ファイル・レコード〉からのデビューというのも何とも不思議な縁を感じるが、以降、スチャダラパーはスチャダラパーであり続け、かたやRHYMESTERは常に試行錯誤を繰り返して切磋琢磨し、成長し続けていく。時を経て、いまでは日本のヒップホップ・シーンを代表するベテラン・アーティストとなった二組の待望の初共演曲。Illsict Tsuboiがプロデュースを手がけ、生楽器もフィーチャしたファンクネス溢れるトラックと4MCとのコンビネーションが生み出した“Forever Young”は、彼らがこれまで約30年にわたって表現してきたヒップホップのまさに王道中の王道。若手や中堅のアーティストは決して真似することのできない、味わい深い1曲に仕上がっている。こんな曲が、2020年のいま聴けるなんて、彼らと同世代である筆者にとっても、実に感慨深い。
 なお、今回のアルバムのメイン・プロデューサーは当然、これまでの作品と同様にスチャダラパーのDJであるSHINCOが担当している。SHINCOの作るサウンドは現在進行形の最先端のヒップホップとも当然異なるが、しかし、その時代時代に合わせて常にアップデートが繰り返されきた。とくに1999年リリースの『FUN-KEY LP』辺りで、スチャダラパーのサウンド面での基本型というものが作り上げられたように思うのだが、その型をずっとキープしたまま、その軸となる部分は全くブレない。その上での着実なアップデートによって、スチャダラパーの変わらないスタイルというものが、常に新鮮なままキープされている。それは実はBOSEとANIという2人のラップに関しても同様なのかもしれないが、『スチャダラ大作戦』にも収録された“スチャダラパーのテーマ”を引用した“イントロダクシン”から“シン・スチャダラパーのテーマ”へ至るド頭の流れの時点で、格好良さから面白さ、全てを含んだ彼らの普遍的なアーティストしての魅力が溢れている。
 日本に限らず、世界を見渡しても彼らのようなヒップホップ・グループはおそらく他に存在しないであろうし、今後もそう簡単には現れることはないだろう。30周年を超えてもなお輝き続ける彼らが、今後さらにどんな活動を繰り広げてくれるのか楽しみでならない。

The Soft Pink Truth - ele-king

 これは怒りの作品だ。マトモスの片割れ、ドリュー・ダニエルによるプロジェクト、ザ・ソフト・ピンク・トゥルースが『Am I Free to Go?』なるカヴァー・アルバムをリリースしている。コンセプトは明確で、ドゥームやディスチャージなど、クラストコアのカヴァー集。
 ドリューによれば、最近〈Thrill Jockey〉からリリースされたばかりの新作『Shall We Go On Sinning So That Grace May Increase?』と同時期に制作されたもので、現在の資本主義的な生活世界における政治的悲惨さ──ドナルド・トランプ、(巨大グローバル企業の)アマゾン、人種差別的とりしまり(警察)、気候変動、パンデミック──をめぐって湧きあがってきた、みずからの感情と向き合ったアルバムだそう。
 経費を除いたすべての収益は、ファシズムに抗議する世界じゅうの人びとを法的に支援するファンド「国際反ファシスト法的防御基金(the International Anti-Fascist Legal Defence Fund)」へと寄付される。

artist: The Soft Pink Truth
title: Am I Free To Go?
release date: 27 May, 2020

tracklist:
01.Hellish View (Disclose cover)
02.Fuck Nazi Sympathy (Aus-Rotten cover)
03.Multinationella Mördare (Totalitär cover)
04.Police Bastard (Doom cover)
05.Profithysteri (Skitsystem cover)
06.Respect the Earth (Crude SS cover)
07.Cybergod (Nausea cover)
08.Death Earth (Gloom cover)
09.Space Formerly Occupied by An Amebix Cover But Fuck That Guy for Being a Holocaust Denier
10.Protest and Survive (Discharge cover)

bandcamp

Wire - ele-king

 パンクが大衆の認識に与えた衝撃が完全に浸透するよりも前に、ワイアーはすでにパンクを弄び、嘲笑い、その限界を超越していた。新興のパンク世代が、より純粋であると思われる1950年代のロックンロールの価値観を称揚し、1970年代のプログレッシヴ・ロックの大仰さを軽蔑して根絶を望んでいたのをよそに、ワイアーは〈Harvest Records〉と契約を結んでピンク・フロイドと同じレーベルの所属となり、伝統的ロックンロールに残るブルース・ロックの影響を自分たちのサウンドから排除しようとした。パンク・ムーヴメントの中核に残された者たちは、パンクの限界をより深く突き詰めようとしたが、それがあまりにもあっさりと超えられたことに、ほとんど気づいてさえいなかった。

 それから40年以上が経ったいま、ワイアーの音楽が反ロックの衝撃をもたらすことはなくとも、その栄誉の一部はワイアー自身に与えられるべきだろう。彼らが短期間で鮮烈にロックの形態を歪め、解体したことによる影響は長くくすぶり続け、ここ数十年に渡ってロックを再構築しようとする動きに力を与えており、状況は1970年代の終わりに彼らが目指した方針に近づいている。一方でワイアーが少なくとも2008年の『Object 47』以来切り開いてきた道は、ロックとの和解を目指しているかのようであり、ロックの構造に対する遠回しでぎこちない攻撃は健在ながら、自分たちの言葉で曲作りの方法論を探求することで、以前より遙かに心地よい状態に繋がっている。

 また現在のワイアーは、過去の自分たちとの対話にますます没頭しているように見受けられる。ロックの既成概念を解剖するアイデアと、ほとばしるポップスの輝きを組み合わせるスタイルは当初から変わっておらず、バンドは過去の自分たちを折に触れて肯定することを厭わない。コリン・ニューマンが皮肉とともに“Cactused”の切迫感のあるサビに込めたメッセージは、バンドによる1979年の珠玉のポップ・ソング“Map Ref. 41 Degrees N 93 Degrees W(北緯41度西経93度)”と同じ無味乾燥なほのめかしを表している。それでもワイアーが現在のロックのあり方を受け入れるなかで辛辣さはわずかに鳴りを潜め、うまくいっているときに得られる純然たる喜びも多少は感じられるようになってきた。

 そこには以前に比べて少しだけ緩さも生じているのかもしれない。1970年代のワイアーの楽曲は槍のように脳をきつく刺激するもので、リリース時点ですでに彼らのミニマリズムは完成されており、バンドはそこにさらなる活力を与えて展開させることは望んでいないように見受けられたが、現在、その音楽のなかに新たな活気が生まれる余地が徐々に認識できるようになっており、とくに『Mind Hive』ではその狙いが見事に開花している。“Unrepentant”や最後の“Humming”のような曲では、ブライアン・イーノ風と言ってもいいほどの広大なアンビエントの流れができており、一方“Hung”は、8分近くにおよぶ曲の中で核となるグルーヴを乗りこなせるという自信に満ちている。そうしたエネルギーは、新たに加入したギタリストのマシュー・シムスが持ち込んだ幻惑的な色合いにもたしかに受け継がれており、彼の存在感はますます高まっているが、それはまたバンドが少なくとも過去12年間で辿ってきた進化の道筋に欠かせないものでもある。

 ワイアーが変わらず妥協のない挑戦的なワイアーらしさを保っていることは、歌詞に現れている。その歌詞は、現在のインディ・ロック・シーンで彼らの影響を受けているどの若手バンドと比べてもなお、鮮烈で鋭く、謎めいていると言っていいだろう。多くの楽曲では、オンライン空間のまとまりのない空虚な世界観が断片的な形で漂っており、“Humming”では謎めいたロシア人の存在に言及し、喪失感やうまくいかないものごとや頭をよぎる失われた自由について述べていて、“Hung”においては混乱のなかで制御を失われる感覚や「一瞬の疑念」から生まれた些細な混沌がひたすら描かれる。『Mind Hive』全体を貫いているのは、現在まさに動揺し崩壊しようとするこの世界に対する明白な意識だが、それぞれの歌が具体的な何かから引き出されたものだとしても、その直感の閃きを歌詞から辿ることはできない。歌詞に唯一残されているのは、断片的な糸口と脅迫めいた暗示であり、それは力強く感情を込めた、憂鬱と偏執からなる筆致で描かれている。これはおそらくロック・ミュージックに限らず、世界の全体が、ようやくワイアーに追いついたということなのかもしれない。

訳:尾形正弘(Lively Up)


Ian F. Martin

Before punk had even fully made an impact on the public imagination, Wire were already kicking it around, mocking it, transcending its limitations. As the emergent punk generation championed the supposedly purer values of 1950s rock’n’roll and sneered the pomposity of 1970s progressive rock into what they hoped was oblivion, Wire signed to Harvest Records as label mates to Pink Floyd and set about expelling the blues-rock influences of classic rock’n’roll from their sound, leaving the core of the punk movement digging deeper into its own limitations, mostly not even aware of how swiftly they’d been surpassed.
Now, more than 40 years on, Wire’s music doesn’t land the anti-rock impact, but part of the credit for that should probably go to Wire themselves. The slow-burning influence of their short, sharp distortions and deconstructions of rock forms has helped rock music over these past few decades to reassemble itself in a way that brings it closer to the path that Wire had begun charting in the late 1970s. Meanwhile, the path Wire have carved themselves, at least since 2008’s Object 47, feels like a sort of reconciliation with rock, retaining the band’s oblique and angular attacks on its structures but combining that with a greater comfort in exploring its songwriting conventions on their own terms.
The Wire of today also seem to be increasingly engaged in a dialogue with their own past selves. The combination of ideas that dissect rock conventions and bursts of glorious pop has been there since the beginning, and the band aren’t averse to the occasional nod to their past selves. Colin Newman’s irony-laced announcement of the impending chorus in Cactused directly references a similar dry aside in the band’s 1979 pop gem Map Ref. 41 Degrees N 93 Degrees W. Still, there’s a little less sarcasm in Wire’s nods to convention nowadays, a little more comfort in the simple joys of what works.
There’s perhaps a bit more looseness too. Where Wire’s songs in the 1970s were tightly-wound lances to the brain, already at such a point of minimalist completion by the time of release that the band seemed to feel no need to let them breathe and develop, there’s increasingly a sense of breathing space to their music now that is in particularly full bloom on Mind Hive. Songs like Unrepentant and the closing Humming have an expansive, almost Eno-esque ambient drift to them, while Hung has the confidence to ride its central groove for nearly eight minutes. Some of this must surely be down to the psychedelic tint brought by new guitarist Matthew Simms as he increasingly makes his mark, but it’s also part of an evolutionary course the band have been on for at least the past twelve years.
Where Wire are still uncompromisingly and defiantly Wire is in the lyrics, which are still fresher, sharper, more cryptic than nearly any of the younger bands that carry their influence in the contemporary indie scene. The disconnected, spectral presence of the online world haunts many of the songs in a fragmentary fashion; references to an ambiguous Russian presence, a sense of loss, of something gone wrong, of freedoms lost flicker through Humming; the sense of something spinning out of control, of mere chaos born out of a “moment of doubt” pounds its way through Hung. There’s a definite sense running through Mind Hive of our current shivering, crumbling world, but if the songs are drawn from anything specific, access to that spark of inspiration is closed off by lyrics that leave only fragmentary evocations and menacing hints, painted in powerfully emotional strokes of melancholic paranoia. Perhaps it’s not just rock music but the whole world that has only just caught up with Wire.

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