「iLL」と一致するもの

Frank Ocean - ele-king

あなたの表面に浮かぶ印
あなたのしみだらけの顔
傷ついたクリスタルが
あなたの耳からぶら下がって
あなたの怖れは 僕には計り知れなかった
僕は仲間たちには 共感できない
本当は 外側で生きたい
ここにいて 頭がおかしくなるくらいなら
むしろ僕のプライドを粉々に砕いた方がましだ
たぶん僕は馬鹿なんだ
たぶん僕は移動するべきなんだ
どこか落ち着けるところへ
二人の子供たちとプール
僕は臆病者だ
僕は臆病なんだ(★1)

 ポップソングが持つ、既存のフォーマットに絡め取られず、果てしなく自由であること。ルールで固められたホームの、遥か上空を浮遊すること。彼が臆病でないことは、このアルバムの作りを見れば分かる。彼は移動する。

 彼は内側から外側へ移動する。あるいは境界線を移動させ、外側を内側に引き入れる。しかし内側と外側は、見方ひとつで反転してしまう。

 17の名前が付けられたピースたちは、典型的なR&Bの楽曲の長さと比較して、不自然なほど長くてもいいし、逆に短くてもいい。それはシンガーソングライターのソロ・アルバムだが、必ずしも、常に歌声が聞こえていなくてもいい。ビートは、何らかのテンポを刻むが、ダンスフロア向けにチューニングされていなくてもいい。それが、外側で生まれたこのアルバムの色。歌モノのクリシェの外側へ、彼が移動することで拾い上げた、ブロンド色。

 何かを拾い上げたということは、何かを捨てたということだ。フランクが捨てたものたち。そのひとつ。バックビートに打ちつけるスネア。もしくはバックビートをひとつのカテゴリとするビートそのもの。現代的なR&Bの世界の内側がこれまで共有してきたバックビートを疑うこと。結果、中盤から後半にかけて、スネアとキックなき楽音がビートを刻むプリミティヴな風景が展開する中、途中キックとスネアの世界観に回帰する“Close To You”のどこか牧歌的な響き。

 一拍目のキックで沈み込む身体を引き上げるスネア。抑圧された欲望を解放するクラップ。言い換えれば、目の前のあなたを抱き締めることの、あるいは殴りつけることの表象としてのスネア。これらのクリスピーな因子たちを沈黙の沼の底に放置することで、示す、反動。

 あるいはぶつ切りにされ、突発的に挿入されるコラージュのサウンド・ピース群。ティム・ヘッカーやOPNが弄ぶ時空の歪みが、随所に配置された60分超の音の連なり。たとえば“Nights”や“Godspeed”の曲中で肌触りが異なるピースが導入されたときの、あなたの驚きの表情、あるいは好奇心に満ち、仄かに潤んだ瞳の輝き。カーテンが引かれる動作とともに、突然喜怒哀楽の価値が入れ替わったり、心地よさの定義が転覆されたりする世界。

 尺の長い曲と短い曲のふるまいの、圧倒的な差異。まずは、長い曲。弾き語りの楽曲は裸体だ。その裸体に、どのように布をあてがって、隠しながら曝け出し、ラインを強調し、あるいは輪郭を霧で包むかを探求しているのが、フランクのプロダクションだ。ドライな音場でピアノやギターに伴奏される彼の歌声は、あなたが手を伸ばせば、触れられるほど、そこにある。一方で、深い残響音の支配する音場で、彼の歌声は、あなたの目が届かないところまで離れゆく。リヴァーブやディレイは、あなたとの距離を測る物差しだ。いや、そもそもラヴ・ソングというもの自体が、あなたと誰かの距離を測る観測機なのだから、フランクが投げかけるサウンドの肌触りに、あなたは素直に近さや遠さを感じればいい。

 次に、尺の短い曲。たとえば、アンドレ3000のライムで埋め尽くされた“Solo (Reprise)”。フランクはどこで何をしているのか。そこにあるのは、アンドレのライムと、フランクの不在を証明するビート。不在のピアノコード。彼を象徴する歌声を不在とすることのオーラにより、逆に存在感を強調すること。マイルスがトランペットを置いて、オルガンを叩いた“Rated X”のように。セカンド・アルバムにして、すでに不在でいられることへの驚嘆。

 マガジン付属版のオープニングを、加工したヴォイスと日本人のラッパーのライムで飾ること。「君たちを預言者にしてあげる/まずは未来を見てみよう」と歌うフランクに、「今しかない時間/大事にしな/何憶万人も/いい人ならいるよ」と返答するKOHH。逆にKOHHのヴァースの「誰かのことを/誰も縛れはしない/他人の心」というラインに、フランクはアルバムを通して対峙している。人はそれぞれが、他人には計り知れない「怖れ」を抱えている。

 2012年、フランクは4つ前の夏の記憶、つまり19歳のときの夏の記憶をネットで世界に向けてカミングアウトした。彼は、自分と同じ19歳の青年を前にしたその時の状況を「絶望。逃げ場はない。その感情とは交渉の余地はなかった。選択の余地もなかった。それが初恋だった。それが僕の人生を変えた」と記した。

1942年生まれ、ニューヨークはハーレム育ちのアフロアメリカンでゲイのSF作家、サミュエル・R・ディレイニーは、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」を批判する論考である「サイボーグ・フェミニズム」の中で次のように述べている。

ひとつの立場から、私は読む。
ひとつの立場から、私はこの読みかたには何かが欠落しているように思う。
かくて、私はひとつのテクストを──テクストのシミュレーションを──ひとつの立場からもうひとつの立場へ手渡す。私のものとはいいがたい借りものの立場から、あなたのものともいいがたい立場へ。このテクストは私のところへ回ってきたが、あなたもまたこれを誰かに手渡すだろう。(★2)

フランクがこのアルバムで模索し、示そうとしているのは、過去に描かれたことのない、歌と、感情と、愛と、人間のあり方だ。かつてディレイニーが僕たちの外側の生物/機械や世界を描いたテクストで、それらを探究したように。フランクは、外側との境界線を軽々と跨ぎながらも、友人や恋人との関係を通して、人は自己の意識の内側、そして皮膚の内側に留まらざるをえないという事実を繰り返し突きつけられる。そして“Be Yourself”ではロージー・ワトソンによってピア・プレッシャーの無化が諭され、“Solo”では「So low」な自身の内側において、孤独=soloであることの高み=ハイになることのポジティヴネスが探られる。

しかしフランクが“Nikes”という楽曲において、ひいてはこのアルバムにおいて証明していることがある。70億の二乗で示される組み合わせから、28歳のルイジアナ育ちのLAのシンガーと、26歳の王子のラッパーのヴァースが連結されることで、何が見えるのか。その、目も眩むような、確率の脆弱さ。そして、その吹けば飛んでしまいそうな確率が生き延びたことで現れた、外側と内側を重ね合わせることで生じるランドスケープの新奇さ。そして、あなたは気付くかもしれない。あなたの日常における他者との出会いも、実は、このように新奇な風景を更新しているのだという事実に。それぞれの怖れは個別のものでも、その怖れから生まれる言葉は共有されうる。他人の内側の怖れは共有できずとも、その怖れから生まれた言葉=テクストは他者に手渡され、外側で書き足され、組み合わさる。その組み合わせに、賭けてみること。

一光年の距離はどのくらいだろう

アルバムはこの言葉で締め括くられる。フィーチャリング・ゲストを単純に並べただけではない、言葉の組み合わせ。ケンドリック・ラマー、ビヨンセ、アンドレ3000、KOHH、ジェイムス・ブレイク、キム・バレル、セバスチャン、そしてフランクの弟や友人の家族、つまり他者の言葉=テクストが有機的に、しかし都度交わらない確率に晒されながら組み合わされたアルバムの、最後のライン。アルバム最後の曲“Futura Free”は、メインの楽曲の後、途中40秒間の空白を挟んで、ノイズ塗れの会話群がコラージュされる。その中で、最後に聞き取れる言葉。ひとつの問い。アフロ・フューチャリズムの想像力が、現在の方向に折り畳む未来。折り返された現在にプロットされた未来が、あるアーティストや作品に、突如として、顔を覗かせることがある。

ディレイニーは、前述の引用部に引き続き、次のように記している。

おそらく、それは移行に関するシミュレーションにほかならない。
読むことによって、我々はそれを食い止めるのだろうか?
読むことによって、我々はそれとともに歩むのだろうか?(★3)

フランクは、移動の目論みをこのアルバムに落とし込んだ。あなたは、このアルバムをどう読んでもいい。いかようにも解釈して、あなたの言葉=テクストを付け加えてもいい。そのために、“Futura Free”の40秒間の空白が、あなたを待っているのだから。

★1:フランク・オーシャン『Blonde』(2016年)より“Seigfried”。
★2、3:巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム』2001年、水声社。

吉田雅史

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大勢が僕たちを嫌ってるし、僕たちが存在しなければいいと願っている
──フランク・オーシャンのタンブラーより

 6月12日の夜は眠れなかった。フロリダ州オーランドのゲイ・クラブで49人が殺された銃乱射事件の続報を次々に追っているうちに気がつけば朝になり、精神的にすっかり参ってしまったのだ。そのひと月前にたまたまゲイ・クラブに遊びに行っていた僕は、自分が被害者になるところを……ホモフォビアの凶悪犯に殺されるところを想像した。あるいは逃げ惑う自分を。それから少し経って、犯人がクラブの常連であったことからゲイもしくはバイセクシュアル男性であった可能性が高い(というか、確実にそうだろうと自分は思う)ことが報じられると、いっそういたたまれない気持ちになった。僕は自分が加害者になるところを……自分が同性愛者だと受け入れられず、自己嫌悪とルサンチマンに駆られてホモフォビアに囚われる自分を想像した。自分が被害者にも加害者にもなりえる世界に、いまなお生きている現実を突きつけられた気分だった。そして考えても詮ないことが頭をよぎった。犯人は、フランク・オーシャンの『チャンネル・オレンジ』を聴かなかったのだろうか……と。

 『チャンネル・オレンジ』は、オーシャンが自分の失恋を赤裸々に綴り、歌うことでそれを乗り越えていこうとするところで終わるアルバムだった。そうして自分の恋を葬送し、自身を受け入れる作業でもあった。“フォレスト・ガンプ”……それはラヴ・ソングにおいてはごくありきたりの失恋の物語だったはずだが、青年が青年に抱いた恋心について描かれていたために、ブラック・ミュージック/ポップ・ミュージックを更新する1曲と「なってしまった」。彼自身は自分の表現において、自分自身に正直でありたかっただけだ。社会に何かを強く訴えるとか、自分がきっかけとなるとか、そういうことは優先して考えられていなかったはずだ。僕もあの曲を、あのアルバムをそう捉えていた。
……だから、オーランドの銃乱射事件からしばらく経って、冒頭で引用したメッセージをオーシャンが事件を受けて発表したとき、僕は少し驚くとともに鋭く胸を突かれたような気がした。迷うことなく、「We」「Us」という人称を使っていたその熱のこもった文章に。その時点で発表されていた新作のタイトル『ボーイズ・ドント・クライ』──ザ・キュアーの引用──がどうして複数形なのかようやくわかった。それは反語だ。「僕たち」は、いつだって泣き続けているのだと。僕がフランク・オーシャンを聴いているといつも感じるのは、マイノリティとはたんに人数が少ないということや「属性」のことではない、ということだ。

 散々待たされてようやく発表されたヴィジュアル・アルバム『エンドレス』、そしてそれに続いた『ブロンド』は、「We」「Us」についての作品集だ。虚実入り乱れるストーリーテリングを特徴としていたそれまでの作風に比べ、より内面的で、よりパーソナルな度合いが高まったとされるが、自分には聴けば聴くほどに「僕たち」や「わたしたち」の音楽に思えてくる。膨大かつ多岐にわたるコントリビューター/インスピレーション元のリストのせいもある。ジャンルをやすやすと越えて行き来する音楽性によるところもある。よりエモーショナルな声で歌われている痛みや傷が、とことん赤裸々であるがゆえに生々しいからでもあるだろう。たとえば1曲め、“ナイキス”──あまりに感傷的で、あまりに美しいオープニング・ナンバー──ではエフェクトのかかった声が「RIP トレイヴォン」と告げる。もちろん、銃殺されたトレイヴォン・マーティンのことだ。「RIP トレイヴォン、僕みたいなニガー」。このナンバーのエクステンデッド・ヴァージョンでは、そして、KOHHのラップに引き継がれる。あるいはまた、タイラー・ザ・クリエイターとファレル・ウィリアムスがクレジットされている“ピンク+ホワイト”では涼風を感じるようなスムースな演奏に乗せて自身の生い立ちが綴られているが、それは後半ビヨンセとの現在のポップにおいて最高にリッチで眩しいコーラスとなって表現される。また、ギターの弦の震えが優しげな“スカイライン・トゥ”では夏の記憶がケンドリック・ラマーの客演をさりげなく加えながら映し出される。イントロのキーボードの響きがいかにもフランク・オーシャンらしいバラッド“ホワイト・フェラーリ”ではビートルズの“ヒア、ゼア・アンド・エヴリホウェア”が、“ジークフリード”ではエリオット・スミスが引用されている。それらは彼自身が想いを寄せてきた/寄せているアーティストたちやミュージシャン、シンガーが総動員されたものであり、彼の内面世界に溶け込んでいる。これまで以上にR&Bやソウルの囲いをあっさりとはみ出る音楽的な幅広さにかかわらず、統一感があるのはそのためだろう。そもそもアートワークがヴォルフギャング・ティルマンス──90年代のアンダーグラウンド・ゲイ・カルチャーを現代アートの領域まで拡張したドイツの写真家──だという時点で、フランク・オーシャンというひとがアメリカのメインストリームにおけるブラック・カルチャーの枠を大きく外れた感性のひとだということがわかる。
 叶わなかった恋、ドラッグ、SNS時代における虚しいリレーションシップ、子ども時代の記憶と肉親への想い、ポップ・スターとしての空虚さや孤独……『ブロンド』における音楽的/文化的な折衷性や多層性は、フランク・オーシャン自身の感傷を中心としてかき集められたことによるものだ。それは彼の弱さや正直さからできている。ポップ・スターもアンダーグラウンドの新鋭も、肌の白いひとも黒いひとも黄色いひとも、生きているひとももう死んでしまったひとも召喚されて、ここで息を吐き出したり音を鳴らしたりしている。オーシャンの心の震えが、それら大勢の人間の表現と少しずつ共鳴している。その、少しずつ、という感覚こそがフランク・オーシャンのポップ・ミュージックだと思える。彼の音楽にとっての「僕たち」とは、彼が説明されるときにしばしば言われる「ゲイもしくはバイセクシュアル男性」、ではない。たくさんの、本当にたくさんの人間たちの吐息のことだ。

 このアルバムのムードを端的に示しているのがラスト2曲だろうか……とくにビートレスの“ゴッドスピード”は出色だ。ゴスペルのコーラスは、しかしカットされ、ときにピッチシフトされてどこかしら不完全でいびつなものとして響いている。それにどこまでもセンチメンタルな鍵盤と歌──存在しなければいいと願われている僕たちが、しかしそれでも存在していること。多様性やダイヴァーシティなんて言葉を政治家が声高に叫ぶ現在において、それでも行き場所を見つけられない人間たちの逃げ場所が『ブロンド』だ。いまこのときも燃えさかる憎悪を一瞬だけでも忘れられるように、そこでは少しばかり苦しそうに、だが慈しみをこめて、「I will always love you」と歌われている。

木津毅

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Brian Eno × Dentsu Lab Tokyo - ele-king

何もかもが俗悪きわまる再版であり、無益な繰り返しなのである。過去の世界の見本がそのまま、未来の世界の見本となるだろう。ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。 オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』浜本正文訳

 ブライアン・イーノ? ああ、なんか有名なじいさんね。アンビエントだっけ?──若いリスナーたちにとってイーノとは、もしかしたらその程度の存在なのかもしれない。しかし、実際の彼はそんなのんきなご隠居さんのイメージから最も遠いところにいる。2016年のブライアン・イーノは、たとえばアルカやOPNと同じように切実に、「いま」という時代のアクチュアリティを切り取ってみせようと奮闘しているアーティストのひとりである。いま彼が試みていることは、あるいはフランク・オーシャンが実践するような複合的な展開、あるいはビヨンセが体現するようなポリティカルなあり方、あるいはボウイの死のようなインパクト、そのどれにも引けを取らない強度を有している。
 4月末にリリースされたイーノの最新作『The Ship』は、歌とアンビエントを同居させるというかつてない音楽的実験を試みる一方で、そこに大胆に物語性をも導入するという、これまでの彼のどのアルバムにも似ていない野心的な作品であった。そしてそれはまた、タイタニック号の沈没および第一次世界大戦という出来事を「いま」という時代に接続しようとする、非常にポリティカルな作品でもあった。そのような複合性を具えた同作は、『クワイータス』誌が選ぶ2016年上半期のトップ100アルバムのなかで5位にランクインするなど、各所で高い評価を得ている。

 去る9月15日、『The Ship』のタイトル・トラックである "The Ship" の新たなミュージック・ヴィデオ「The Ship - A Generative Film」が公開された。
 とにかくまずはデスクトップのブラウザから、この特設サイトにアクセスしてみてほしい

トレーラー映像

 このヴィデオでは、イーノとDentsu Lab Tokyoとのコラボレイションによって開発された「機械知能(Machine Intelligence)」が、"The Ship" にあわせて自動的かつリアルタイムに、一度限りの映像を生成していく。あらかじめ20世紀の様々な歴史的出来事を学習させられた「機械知能」が、刻々と更新されていく世界中のトップ・ニュースを解釈し、それに類似した過去の出来事をピックアップして新たな映像を生み出していく、というのが本ヴィデオ作品の大まかな仕組みである。サイトへアクセスした瞬間に新しい映像が自動的に生成されるため、われわれはその時々でまったく異なる映像を視聴することになる。
 画面の左側では、ロイターやBBCの最新の記事がリアルタイムで更新されていく。画面の上部では、その記事の写真から「機械知能」が連想した過去の様々な写真が召喚され、ランダムに配置されていく。更新されるニュース写真とそれに基づいて召喚される過去の写真は、互いに何らかの関連性を有したものであるはずだが、必ずしも同じような出来事を記録したものであるとは限らない。要するに、「機械知能」が最新の写真を見て、それをあらかじめ記録された膨大なデータ=「記憶」と照合し、何か他のイメージを連想していくのである。したがって、そのプロセスには「誤認」の発生する余地がある。
 たとえば人は月を見たとき、そこに単に地球という惑星の衛星としての天体を認識するのではない。ある者はそこにウサギの影をみとめ、またある者はそこにカニの影をみとめる。それは、観測者が自らの所属する文化の体制に縛られて無意識的におこなってしまう、創造的な「誤認」である。では、はたして「機械知能」にもそのような「誤認」をおこなうことが可能なのか──それが本ヴィデオ作品のメイン・コンセプトである。

 このアイデアの一部は、すでに『The Ship』でも試みられていたものだ。表題曲 "The Ship" の二つ目のパートである "The Hour Is Thin" は、マルコフ連鎖ジェネレイターがタイタニック号の沈没や第一次世界大戦に関連する膨大な文書を素材にして自動的に生成したテクストを、俳優のピーター・セラフィノウィッツが読み上げていくというトラックであった。今回のヴィデオ作品はいわばその映像ヴァージョンであり、"The Hour Is Thin" で試みられていた偶然性の実験をさらに推し進めたものだと言えるだろう。
 イーノはこれまでも『77 Million Paintings』といった映像作品や、『Bloom』、『Trope』といったスマホ用アプリなどで、決して(あるいは、可能な限り)繰り返しの発生しない映像表現や音楽表現の探究を続けてきた。それは「ジェネレイティヴ(生成する)」と呼ばれる着想であるが、本ヴィデオ作品もそのような試行錯誤の径路に連なるものである。それは、ある何らかの制約のもとで能う限り偶然性や一回性を追求しようとする手法であり、あるいは、ある何らかの秩序のなかでいかにその秩序から逸脱するかを思考しようとする手法である。そのように「ジェネレイティヴ」な探究の最新の成果として公開された本フィルムは、何よりもまずブライアン・イーノという作家によって提出されたアート作品なのである。

 だが、このヴィデオ作品のポテンシャルはそこにとどまらない。本ヴィデオ作品が興味深いのは、「ジェネレイティヴ」という技術的な手法が、世界の報道記事とリアルタイムで関連付けられているというところである。つまりこのヴィデオは、極めて政治的な作品でもあるのだ。たったいま発生した出来事も実はすでに過去に起こったことの繰り返しなのではないか、いや、完全に同じ出来事が生起することなどありえないのだから、仮に繰り返しのように思われる出来事が起こったのだとしたらそれはあくまで「誤認」によって恣意的に過去の出来事が捏造されたにすぎない、いや、しかし「誤認」が発生するということは少なくとも過去の出来事と現在の出来事との間に何らかの類似点が存在するということではないか、いや、……。
 これは、まさに『The Ship』というアルバムが喚起しようとしていたことである。本ヴィデオでは「機械知能」による「誤認」を通して、たったいま人間がおこなっていることとかつて人間がおこなったこととの間に、強制的に回路が繋がれる。そのサンプルのひとつが、『The Ship』ではタイタニック号の沈没と第一次世界大戦であったわけだ。それに加え、一度として同じ画面が立ち上がることはなく、常に異なる映像が紡ぎ出されていくという趣向も、『The Ship』がかけがえのない「個性」の亡骸を拾い集めようとしていたことと呼応している。
 本ヴィデオ作品は、一度CDやヴァイナルという形に固定されてしまった『The Ship』を、再び偶然性や一回性の荒波のなかへと解放する作品なのである。

 さらにこのフィルムが興味深いのは、そのように「ジェネレイティヴ」な映像が、われわれを音楽へと立ち返らせる契機をも与えてくれる点だろう。次々と生成されてゆく映像に目を奪われていたわれわれは、しばらく時間が経った後に、ふとそこで音楽が鳴っていたことに気がつく。われわれが映像を見続け、「これは何の写真だろう?」、「これは最新のニュースとは何も関係がないのではないか?」などと思考している間、その背後ではずっと "The Ship" が鳴り続けていたのである。積極的に聴かれることを目的とせず、周囲の環境(この場合は、デスクトップの画面)への注意を促す──これは、まさにアンビエントの機能そのものではないか。

 このフィルムにはあまりにも多くのテーマが組み込まれている。テクノロジーの問題、アートの問題、音楽の問題、政治や社会、歴史の問題。このヴィデオ作品を通してわれわれは、それらの問題について「いま」という時間のなかで考えざるをえない。
 正直、『The Ship』という作品をここまで発展させてくるとは思っていなかった。イーノの探究は衰えるどころか、ますますその先端を尖らせている。今年われわれはボウイというスターを失ったが、まだわれわれはイーノという知性を失っていない。われわれはそのことに感謝しなればならない。(小林拓音)

BRIAN ENO

Dentsu Lab Tokyoとのコラボレーションが生んだ
「機械知能」が生成するミュージックビデオ
「The Ship - A Generative Film」を公開!
制作の裏側を紐解いたインタビュー記事も公開!

人類というのは慢心と偏執的な恐怖心(パラノイア)との間を行きつ戻りつするものらしい:我々の増加し続けるパワーから生じるうぬぼれと、我々は常に、そしてますます脅威にさらされているというパラノイアとは対照的だ。得意の絶頂にありながら、我々は再びそこから立ち戻らなければならないと悟らされるわけだ…自分たちに値する以上の、あるいは擁護しきれないほど多大な力を手にしていることは我々も承知しているし、だからこそ不安になってしまう。どこかの誰か、そして何かが我々の手からすべてを奪い去ろうとしている:裕福な人々の抱く恐怖とはそういうものだ。パラノイアは防御姿勢に繫がるものだし、そうやって我々はみんな、遂にはタコツボにおのおの立てこもりながら泥地越しにお互いと向き合い対抗し合うことになる。
- ブライアン・イーノ

アンビエントの巨匠、ブライアン・イーノが、最新アルバム『The Ship』のコンセプトでもあるこのステートメントを出発点に、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組む制作チーム「Dentsu Lab Tokyo」(電通ラボ東京)とともに、人工知能(AI)の可能性を追求する先鋭的なプロジェクトとして発足。最新楽曲「The Ship」に合わせて、映像が自動的かつリアルタイムに生成されるミュージックビデオを本プロジェクトの特設サイト上に公開された。

BRIAN ENO’S THE SHIP - A GENERATIVE FILM
https://theship.ai/

*特設サイトの視聴環境
携帯端末向けには最適化されておりませんので、ご覧いただくためには、下記パソコン環境でのブラウザーを推奨します。
Windows >>> Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)
Macintosh >>> Safari 5.0以降、Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)

トレーラー映像はこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=9yOFIStVuRI

本プロジェクトは、AIを「人間の知能」と対比し、その違いを際立たせるために「機械知能」(Machine Intelligence:MI)と名付け、機械が人間のようなクリエーティビティーを発揮できるかを模索するものとして発足。人類共有の外部記憶ともいえるインターネットから、20世紀以降のエポックメーキングな出来事を記憶として大量に学習させた機械知能を構築し、世界的な報道機関が運営するニュースサイトのトップニュースを見て、記憶と照らし合わせながら類似する事象を解釈し、どのような映像を生み出すのかを追求したプロジェクトである。

特設サイトにおいては、アクセスした瞬間に映像が生成されるため、来訪者ごとに視聴できるミュージックビデオが異なり、訪れる度に唯一無二の作品として、楽曲が持つ世界観とともに人々の感性を刺激し続ける。

またWIRED.jpにて制作の裏側を紐解いたインタビュー記事が公開中。
https://wired.jp/special/2016/the-ship/

The Shipについて
もともとは3Dレコーディング技術を使った実験から創案され、相互に連結したふたつのパートから成り立つブライアン・イーノ最新アルバム。美しい歌、ミニマリズム、フィジカルなエレクトロニクス、すべてを知り尽くした書き手が綴る物語、そして技術面での新機軸といった数々の要素を、イーノはひとつの映画的な組曲へと見事に纏め上げ、キャリア史上最もポリティカルな作品にして、過去の偉大な名盤たちのどれとも似つかない傑作である。ボーナストラック「Away」が追加収録される国内盤CDは、高音質SHM-CDを採用し、ブライアン・イーノによるアートプリント4枚が封入された特殊パッケージ仕様の初回生産限定コレクターズ・エディションと、紙ジャケット仕様の通常盤の2フォーマットとなり、いずれもブックレットと解説書が封入される。

Dentsu Lab Tokyoについて
新しいクリエーションとソリューションの場であると同時に、研究・企画・開発が一体となった“創りながら考えるチーム”でもあるDentsu Lab Tokyoは、2015年10月1日に始動。これまでの広告会社のアプローチとは全く違う、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組んでいる。
キーワードはオープンイノベーション。電通社内のみならず、社外の提携アーティストやテクノロジストとも協働しながら、広告領域にはとどまらない分野のクリエーションとソリューションを手掛ける。

https://www.beatink.com/Labels/Warp-Records/Brian-Eno/BRC-505/


The Birthday × THA BLUE HERB - ele-king

 さる8月24日恵比寿リキッドルームにて、The Birthday×THA BLUE HERBのライヴが開催された。リキッドルーム12周年を祝うスペシャルイベント、もちろんソールドアウトだ。
 この日は奇しくもTHA BLUE HERBの2015年12月30日リキッドルームでのワンマンの模様を収めたDVD『ラッパーの一分』のリリース日でもあった。偶然なのだが、リキッドルームでのTHA BLUE HERBのライヴは、この12月30日以来。年末足を運べなかった身としては、おのずとテンションが高まるというものだ。対バンはThe Birthday。90年代後半、ミッシェルとブルー・ハーブを並行して聴いていた身の上としては、この並びが既にミラクルである。
 この夜、先陣を切ったのはTHA BLUE HERB。
「2月から今も毎週ずっとライヴをやっているんだけど、例えば深夜のクラブと、この日(12月30日)のリキッドルームくらいの時間のライブハウスでは、攻め方も違うし、お客も違う。それ以外にフェスも入ってくるからね。それだってヒップホップのフィーリングがわかる人たちのフェスと、まったく違うフィーリングのフェスがある。真っ昼間と真夜中でも、室内と室外でも違う。それが毎週金土とか、常に待ったなしに来る。その都度MCもどんどん変化していくし、曲順もちょっと変えるだけで全然世界が変わる。だから一夜一夜がすごい大事な仕事だよね。12月30日のリキッドルームに関して言えば、チケットがソールドアウト、『IN THE NAME OF HIPHOP』リリース・ツアーのワンマン・ファイナル……いろんな条件が重ならないと商品にはならないし、そういう意味では、この夜のライヴは作品にするにはマッチしていた。ただライヴ自体に関しては今の方が良くなっている部分もあるよ」
 これは、『ラッパーの一分』のリリース・インタヴューのILL-BOSSTINOの言葉だ。ナマで12月30日のライヴを観ていない以上比べようもないし、もちろん比べる必要はないのだが、それでも8ヵ月ぶりのリキッドルームでのこのライヴは、ここでILL-BOSSTINOが言う意味を実感できる精度の高いものだった。
 70分のタイトな構成で(「ラッパーの一分」はフル尺ノーカットで2時間40分)、後半の「The Birthday」の名をMCの随所に織り込みながら、THA BLUE HERBならではの言葉をフロアに残していく。言うまでもなくTHA BLUE HERBは生半可なグループではないし百戦錬磨だ。フロアからも絶え間なく「ボス!」という熱い声が上がる(「そりゃそうでしょ」と思うだろうか? はっきり言ってどアウェイである)。そのフロアで印象的だったのは、絶対多数のThe Birthdayを観に来たであろうオーディエンス(皆The BirthdayのTシャツを着ているのだ)が身体を揺らしながら、リリックに聴き入っている様子だった。

自信がない奴ほど争う。 あらそう 横目で見ながら続けるマラソン“I PAY BACK”

 ILL-BOSSTINOはライヴ中のMCで「一言でも耳に残ればいい」というようなことを言っていたのだが、筆者に残ったのはHIMUKIのビートによる、このリリックだった。緊張感が張りつめたフロア、ILL-BOSSTINOの言葉に必要な沈黙が厳かに守られている。それを乱すものはフロアにはいない。音楽にルールなどない。だが、真のミュージック・ジャンキーにはミュージック・ジャンキーのマナーがある。さすがにTHA BLUE HERBとThe Birthdayクラスのライヴともなると、ジャンルやスタイルの違いなど意味を持たない。そんな当たり前のことを改めて思わされた。

                *****

 そして、The Birthday。黒づくめの4人組。首にバンダナを巻いたチバユウスケが、ノーブルなドーベルマンのような雰囲気でステージに入ってくる。クハラカズユキの超硬質なドラム、弦楽器と言うより打楽器のようなヒライハルキのベース。そして、前作『I’M JUST A DOG』から加入し、最新作『BLOOD AND LOVE CIRCUS』でいよいよ本領を発揮した感のあるフジイケンジのギターと、フロントマン・チバユウスケのボーカル&セミアコが渾然一体の轟音となってフロアを沸かせる。もっと言えば、沸かせるなんてものではない。オーディエンスそのものが、The Birthdayの鳴らす「音」のひとつの形のようだ。先ほどのフロアで守られていた沈黙が嘘のように、フロアの隅々まで身体を揺らすオーディエンスが雷の轟のようだった。

とんでもない歌が 鳴り響く予感がする
そんな朝が来て俺

冬の景色が それだけで何か好きでさ
クリスマスはさ どことなく 血の匂いがするから “くそったれの世界”

 Coool!!!
 ILL-BOSSTINOがMCまで含めフロアに数多の言葉を残したのに比べ、チバユウスケはほとんど何もしゃべらない。

 チバ「まだ雨降ってた?」
 客「降ってなーい」
 チバ「最近雨に祟られててさ。でも、雨降らなかったらお米も育たないからね」

 正確ではないかもしれない。だが、でも確かにこんな感じの「なんだそれ?(苦笑)」というMCがわずかに挟まれる程度。ミッシェルのほうが云々といった感傷を許さない(それは、もっともロックから離れたジジイの物言いだろう)美意識に貫かれた狂気、チバユウスケのリリシズム、そしてのたうつリズム……ライヴを構成するのは極めて純粋な音楽、クソドープなリアルロックンロール。最後まで一度もフロアの高揚は日和り揺らぐことなく、The Birthdayのライヴは幕を閉じた。
 もちろんどっちがどうではないが、リキッドルームの12周年アニヴァーサリー(誕生12年を祝うイベント)となれば、The Birthdayが立役者であるのは然るべきというものだろう。
 それにしても、アンコールでThe BirthdayをバックにILL-BOSSTINOがラップしている景色は最高だった。

DJ Shadow - ele-king

 DJシャドウが彼のデビュー作『Endtroducing.....』(1996年)を出した頃には「トリップ・ホップ」であるとか「アブストラクト・ヒップホップ」といった言葉がふわふわとその周りを取り巻いていた。あれから20年くらい経って今年、新作『The Mountein will Fall』(メルト・ユアセルフ・ダウンがやはり今年に出した『Last Evenings on Earth』とジャケットが妙に“同じ”)を出したシャドウの音は果たして何と呼ばれるのか、正味のところはよく判らない。その場限りでも(キーワードさえ憶えていられれば)誰に訊かなくても情報に辿り着けてしまう世のなかになり、「ジャンル」というのはもはや「好きな音楽は何ですか」「えっと、ロックとか」などといったやる気のない会話の取っ掛かりでしか無いのかもしれない。

 『Endtroducing.....』前後に〈Mo’ Wax〉で発表された彼の音を初めて耳にした時の、何というか鼻づまりが一気に抜けたときのような感覚はいまだに自分のなかにある。透明度の低いガラス戸を1枚隔てた向こう側で得体の知れない音が鳴っているのに気づいてしまった経験、とでも言ったらいいのか、ラジオのチューニングが合ったり合わなかったりするじれったさに似た磁力がそこにはあり、「ラップ……ねぇ、でも何言ってんのか判んないからまあいいか」程度の認識しかなかった自分の耳に「(これも)ヒップホップだけど」と届いたシャドウの音は「ヒップホップ=ラップ(ヤングな不良の与太話)」という自分の認識を解説抜きに打ち砕いてくれた。そういった経験を無くして20年の間、常にその名前が自分の意識に残り続けることは(とりわけ情報と作品の触りだけが濁流のように流れていく現在では)もう無理だろう、と思っている。

 デビュー作が必要以上に「マスターピース」だの「金字塔」だのという言葉を冠して流通してしまっている事態の不自由さは、シャドウのセカンド・アルバム『The Private Press』以降のアルバムよりも時折ふと届けられる(DJとしての)ミックス音源がの方が遥かに伸び伸びと音を鳴らしている辺りからも窺えたし、彼自身もそんなことをインタヴューで言及していたように思いますが今作『The Mountein will Fall』からは何故かふと、そこから逃れたかのような音が断続的に聞こえてくる。

 しかし(個人的な知り合いであればまだしも)聴き手にとっては作り手のそんな「オレとの闘い」は本来どうでもいいものであるし、そのときに聴いた音の何かに引っ掛かるかどうか、が全てではありますが、あらためて過去から現在までの音源を通して聴いてみれば、自分が毎回シャドウに引っ掛けられるのは「声」の使い方で、この人はいつも一体どっから持ってきたんだか(ナレーションなのかテレビドラマの台詞なんだかドラムの教則ヴィデオなんだか)由来不明な「非音楽的な声」をここぞというポイントで「音楽」に嵌め込んでしまうのですがそれが一番のフック、と言うことが判る。これは「歌(要はヴォーカル)が無い音楽は売れない」といった類いのわかったようなわからんような見識(まあ処世術、とでも言いますか)とは相当ずれた地点で組み上げられた音楽なのである。

 正直に白状すれば、往年のファンとしてはデビュー作で聴かせてくれたあの音の感触が嬉しい、と言うことでもあるのですが、ただそれはそんな「固定客」に向けたサービスでは全くなくて、今年このアルバムで初めてシャドウの音楽に触れる誰かのためにこんな感じでチューンナップしてみたけど、どう? ということなのだろうと思う。最初の頃から聴いていた人間にとっては「またコレか……(悪くないけど)」程度であるかも知れないものも、別の誰かにとっては「うわ何だコレ」になり得ることを知っている音楽家にとって「必要なのは、常に新しい聴き手(耳)」という正解に辿り着くための方法はひとつでは無いからだ。

 そして初めてDJシャドウを知った幸運な誰かがこの国の何処かにいるとすれば、ひとつ遡って2012年に出たベスト盤『Reconstructed』を聴いてみるのもいいかもしれない。このアルバムで初収録された『Listen Feat. Terry Reid』は映像も含めてちょっと物凄い。


YG - ele-king

 『Still Brazy』を一聴して去来したのは、失っていた記憶を呼び戻される感覚だった。YGがこのアルバムで奏でるのは、「赤い」ファンクだ。

 90年代中盤、Gファンクが僕たちに見せてくれたファンタジーの記憶。それはニューヨーク産のそれに比べ、風景の印象を強く刻むようなPVの効果もあったのかもしれない。灼熱の太陽。ローライダーの群れ。フッドで夜な夜なおこなわれるハウス・パーティ。ゆっくりとクルーズする深夜のアスファルトに残る、昼間の熱量の痕跡。このアルバムは、それらの記憶を呼び覚ます。一層骨太になったそのサウンドの輪郭は、Gファンクのニュー・エラ(新時代)の到来を示唆しているのだろうか。

 思えばファースト・アルバム『My Krazy Life』以降のYGは、BlancoやDB Tha Generalとコラボした『California Livin』(ANARCHYをフィーチャーした“Drivin Like Im Loco (Japan-BKK Remix)”も収録!)でも、往年のGファンク・サウンドに対する明らかなオマージュとも言えるサウンドを聴かせくれていた。それは90年代のGファンク・エラにドップリと浸かっていた者たちの「W」の字のハンドサインを誘発するような、見事なネタとグルーヴに支配されていた。

 先行シングル“Twist My Fingaz”を貫く、むせ返るようなGファンクイズム。冒頭のブリブリのベースラインに、サイン波によるピロピロ音のメロディー、そしてヴォコーダーと、Gファンクを象徴するサウンドが大集結。そして全体のムードを決定付けるのは、ピアノによるテンション・コードと、フックの背後で薄く鳴るシンセがもたらす緊張感だ。そのフックは8小節のフレーズ2種類(ひとつはマルコム・マクラーレンのクラシック“Buffalo Gals”から引用)が連続する展開となっており、気付けば自然と口ずさみつつ、裏拍に合いの手を入れてしまうこと必至だ。

 ビーフ騒動もあったDJ MustardからDJ Swishに制作のメイン・パートナーをスイッチしたこともあり、全体のトーンとしては派手さを抑えたプロダクションの本アルバムは、これまでのGファンクを総括するような顔付きを見せつつも、それとの差異をも提示し、アップデートを図る。たとえばリル・ウェインを迎えた“I Got A Question”やドレイクを迎えた“Why You Always Hatin?”、“Still Brazy”に見られる、トラップの影響下にあるハットの打ち方。ソフト・シンセによる、モジュレーションの動きのあるシンセ・サウンド。そして冒頭を飾る2曲“Don't Come To LA”と“Who Shot Me?”で目立つのは、これまでスヌープ、ウォーレン・G、コラプトらとの仕事を通してGファンクを支えつつ更新してきたテラス・マーティンが持ち込んだと思しき、琴のような弦楽器的なサウンド。この琴による、モノフォニーの、少し震えるようなサウンドが象徴するのは、YGが置かれたある種の精神状態ではないだろうか。

 ビルボード・チャート初登場2位を記録した前作の成功を受け、彼の立場や環境は大きく変わったはずだ。つまり、Bloodsの一員としてのギャングスタ・ライフから、成功を収めたアーティストへ。そして“Who Shot Me?”で4小節のメランコリーなコード進行とともに描かれているのは、彼自身を襲った銃撃事件のドキュメンタリーである。ハイファイなウエストコースト・サウンドに「突如」導入されるブレイクビーツの、周りのサウンドと噛みあわないある種「凶暴」な響きは、彼を襲った事件の「突然さ」や、彼の世界の見え方を「暴力的」に変えてしまった経験と共鳴する。事件以降、彼の世界への対峙の仕方は一変した。

 このセカンド・アルバムのスタジオ・ワークの最中に銃撃を受けたYGは、病院で治療後、翌日にはスタジオに戻ったという。彼はインタヴューに応えて言う。「ちょっとした出来事だった。ケツを撃たれたけど、問題ない」、「誰が撃ったかはどうでもいい」、「俺を殺るのは簡単じゃない(I’m hard to kill)」と。自らを襲う凶弾をも、逆に自身のタフネスを誇示する契機としてしまう腹のくくり方。彼を形作るギャングスタ・ラッパーのアイデンティティが、そのような選択肢を唯一の現実解たらしめているのだろうか。しかしその姿勢に、1995年に、頭部に2発、股間に2発、腕に1発の銃弾を浴びながらも、テレビカメラに向かって中指を立てた男、かつての2パックの姿を重ねてしまうのは筆者だけではないはずだ。

 1994年9月13日にリリースされたノトーリアスB.I.G.のファースト・アルバム『Ready To Die』。セカンド・シングル“Big Poppa”のB面収録の“Who Shot Ya?”で、ビギーは自分が曲中で撃った相手に「お前はゆっくりと穏やかに死ぬ/俺の顔を覚えておけ/間違いのないように/警官に伝えるときにな」と語りかけた。そしてそれから2年後、2パックは再び銃撃に遭い、あえなく凶弾に倒れる。彼は、その場に駆け付けた警官に、誰に撃たれたのかと問われると「ファック・ユー」と返答したと言われている。そして1996年9月13日、彼は25年の生涯を終える。

 YGは「誰が俺を撃った?」と叫び「俺は馬鹿みたいだ/仲間が俺をハメたのか?」と仲間を疑い、その他の可能性を次々と列挙してゆく。しかし結局犯人はわからず、悪夢で夜も眠れないと歌う。そして撃たれた原因は、彼が成功で手に入れた巨額の富のせいであるが、「カルマが犯人を捕える」ことになるし、「神は俺のために何か別のプランを持っているのだ」と結論付ける。

 しかしもはや誰も信じることのできなくなってしまった彼の独歩の足跡を、モノフォニックな琴の音階が、なぞるように、追ってゆく。

 この銃撃事件によってYGが得たものとは、一体何だったのか。それは本当に、自分以外は誰も信じられないという教訓なのだろうか。アルバムを締めくくる、最後の3曲に、解釈のヒントはあった。“FDT (Fuck Donald Trump)”ではNipsey Hussleとともにドナルド・トランプを批判し、“Blacks & Browns”ではSadboy Lokoとともにそれぞれアフロアメリカンとチカーノの立場からレイシズムの現況をライムする。そしてラストを飾る“Police Get Away Wit Murder”ではタイトル通り、警官の暴力を糾弾している。これらの楽曲を通して、彼らの置かれた政治的立場、社会的立場について問題提起をおこなう彼は、銃撃事件以前とは異なる視座を獲得しているように見える。以前のようなモノフォニックな独白だけでなく、より多様なテーマに対し、いわばポリフォニックな議論の口火を切るように。

 “Police Get Away Wit Murder”の終盤、YGのヴォイスはどこか遠くから語りかけるようなエフェクトを纏う。聴衆に演説するように、彼は警官に射殺された人々の名前と場所を挙げてゆく。ロバート・グラスパーが、ケンドリック・ラマーの“Dying of Thirst”のカヴァーで、自身の息子とその友人に、犠牲者の名前を読み上げさせたように。グラスパーはインタヴューで、ある種の「タイムスタンプ」として、彼らの名前を記録しておきたかったのだと言及している。

 自身の銃撃事件の帰結として、彼の周囲への疑念が膨れ上がり、そのことに疲弊したことが、彼の視点をフッドから引き剥がし、アメリカ社会全体に向けさせたのではないか。それは結局、彼が生きる世界のシビアさを、より明確に指し示すだけだったかもしれない。しかしそれは同時に、死者の叫びを自身のそれに重ね、タイムスタンプとして作品に刻印するような想像力を誘引したのではないか。

 このアルバム『Still Brazy』を飾るジャケット。赤いバックグラウンドに、赤いストライプのシャツ。これはもちろんBloodsをレペゼンする赤だ。しかし同時に、YGが「突然の出来事だった(it just happened out of the BLUE)」と振り返る銃撃事件以来、陰鬱な気分に沈み込む(in the BLUE funk)自らに三行半を突きつける、決意としての「赤」でもある。ファンクに刻印される、決然とした赤いタイムスタンプ。

 そして、ジャケットの中央に佇むのはYGのバストアップのショット。しかしその頭部がブレているのは何故か。それは、周囲を警戒し見回しているからではないか。誰に背後から撃たれるか分からない世界で、彼はライムする。アルバム最後のラインは、囁くようにこう締めくくられる。

「犠牲者のリストは続いてゆく/皆は不思議がる/俺が何故 後ろを気にしながら生きているのかを」

vol.85:変わりゆくNY、新たな胎動 - ele-king

 9月に入り少し涼しくなってきたNY。毎日変わり続ける、この地域のアップデートを少し。

 Palisades、Aviv、Blackbearなどの比較的新しかった音楽会場が2年弱でクローズし、新たにthe Glove、Sunnyvale、Footlight Barといった会場がオープン。シーンの中心はブッシュウィックやリッジウッドにどんどん移っている。ウィリアムスバーグにはアップルストアやホールフーズが出店し、あたりはハイエンドなレストランばかりで、アーティストたちはもはや立ち寄りもしなくなっている。
 今回は、家賃の高騰が原因で10月にクローズするグリーンポイントのAvivに、〈サマーズ・エンド・ミュージック・フェスティヴァル〉を見に行ってきた。

 9/2から9/4にわたって開催されたこのフェスには、ホンジュラス(Tidal)、ゲリラ・トス(DFA)、トール・ホワン、サーフロック・イズ・デッド(でもやっている音楽はドリームポップ)、ピル(Mexican Summer)、アナ・ワイズ(ケンドリック・ラマーのコラボレーター)、マル・バルム&ザ・バルムス(Don Giovanni)などが出演。夏の終わりのフェスではあるものの、どのバンドもエネルギーがみなぎっており、スピーカーは倒れるわ、押し潰されるわ、男率は高いわで、フロアが揺れる揺れる!


Audience

 私のおすすめは、ゲリラ・トスとホンジュラス。ゲリラ・トスは何度か見ているが、見るたびにどんどん良くなっている。パーフェクト・プッシーとグライムスがオーケストラをバックにラップして、ジャジー感までとり入れたような、とにかくいままでにない新しい音楽が目の前で紡ぎ出され、フロアも大変な盛り上がり。ディスコ、パンク、ノイズ、アートロックなど、どれも当てはまるようで当てはまらない。そんなかれらはすでに4枚のアルバムを出している。

Guerilla Toss merch

 ヘッドライナーのホンジュラスは、グリーン・デイのようなメジャー・コードと、ストロークスやブラーのようなヴィジュアルおよびインテリさを持ち合わせた、いまどきのブルックリンで大人気のパンク・ロック・ガレージ・バンドだ。バンド名を見て、「ん、中央アメリカのちょー治安悪い国だよね?」などと思うなかれ。メンバーは誰もホンジュラスに行ったことはない。ギターのタイソンとシンガーのパット(首のタトゥーがポイント)は、ミッソーニ州の小学校時代からの友達で、メンバーはもう10年以上ブルックリンに住んでいる。
 かれらが鳴らすのは、70年代後半のブリティッシュ・ロックとパンクの匂いを漂わせつつも、リチャード・ヘルなどアメリカのシンガー・ソングライターの要素まで盛り込んだガレージ・ロック。後ろのスクリーンにはHマークがぼんやり映し出され、友達やファンからヤジが飛ばされている。少しアット・ザ・ドライヴインを思い起こさせる。激しそうに見えて、決して極端には走らないさじ加減がいまっぽい。ルックスも良し。セックス・ピストルズの現代版?

 ホンジュラスは最近、Tidalのドキュメンタリー『Road to Made in America』シリーズに出演したり、9/4にフィラデルフィアでおこなわれたTidalのジェイ・Z主催の〈メイド・イン・アメリカ・フェスティヴァル〉に、リアーナ、コールドプレイ、グライムス、カー・シート・ヘッドレスト、ファット・ホワイト・ファミリーなどと出演したりしている。期待のブルックリン・バンドである。


Audience

ビデオをチェック→
https://www.brooklynvegan.com/honduras-prep-for-market-hotel-show-in-road-to-made-in-america-video-watch/

https://www.brooklynvegan.com/made-in-america-2016-rihanna-chance-the-rapper-grimes-aap-ferg-jamie-xx-touche-amore-more/

Yoko Sawai
9/4/2016

BAD HOP - ele-king

 だいぶ騒がしいことになっている2016年の日本のラップ・シーンだけれど、上半期のミックステープのベストは3月に発表されたBAD HOPの『BAD HOP 1 DAY』に決まりで異論はないだろう。BAD HOPは9月15日に無料のフィジカルCDを配布開始することも発表していて、このぶんだと下半期も彼らがかっさらっていくこともありえる。そんな予断の根拠は、まずはaudiomacでフリー・ダウンロードできるこの『BAD HOP 1 DAY』の内容を聴いてみれば明らかなのだけれど、実は別に理由がある。それはある楽曲の不在だ。ある1曲がこのミックステープに収録されてない事実こそ、なによりもBAD HOPの寡黙な野心を物語っている。その曲とは、去年1年間かけて公開されたヴィデオ・シリーズ「BAD HOP EPISODE」のファイナルを飾った、“CHAIN GANG”だ。

 もしまだ観てないんだったらいますぐYouTubeにアクセスすることだ。たったの4分間。この数分間はひとまず、日本のハードコア・ラップが辿りついた最新の到達点であると言っていい。サウンドの由来はすぐにわかる。シカゴ南部のドリルだ。オーヴァードライヴぎみのシンセ・ブラス、無愛想に突きあげるベース、ひっきりなしに鳴り続けるスネアとハット。その音の洪水を泳ぐようにフロウする20歳そこそこの若者たち。最も歌声的なラップの身体化に成功したVINGO、硬軟あわせたラップのスキルという点では随一のTIJI JOJO、殺人的なファスト・ラップに緩急をつけてヘヴィなグルーヴを生み出すBENJAZZY。炎を吹きあげる川崎南部の工場地帯の夜景をバックにそれぞれのヴァースでぶちまけられるデッド・エンド感を、ウィードの煙にまかれたT-PABLOWの異常なほど楽天的なフックが不思議にアップリフトさせていく。

 サウンドもラップも映像も飛び抜けている。だがそれだけではない。「チェイン・ギャング(Chain Gang)」とは、かつて奴隷制の遺制が根強かったアメリカ南部、ひとつの鎖に足をつながれて強制労働に従事させられた囚人たちに由来する。それをかつてサム・クックが歌い、オーティス・レディングがそのソウルを引き継ぎ、ブルーハーツの真島昌利が「だから親愛なる人よ」と黒人詩人ラングストン・ヒューズの詩を引用しつつ、この極東の島国に持ち込んだ。ここで「鎖(Chain)」とは、アンビヴァレントなふたつの象徴を背負う。すなわち、社会的な抑圧と、それゆえの絆。

 自分たちを縛りつけ、自由を奪う鎖がそのまま、自分たちを固く結びつける絆である、ということ。この曲が奇跡的なのは、彼らがそのアンビヴァレンスを本能的につかみとっているからだ。「つながれているチェインを切るために」と生まれた街のしがらみからの力ずくの脱出を歌うBAD HOPは、だがまさにそこで育まれた絆を「この鎖は錆びない」と誇らしげにかかげる。その矛盾はそのまま、日本のハスリング・ラップの画期となったSCARSを生み出した地元、川崎南部への彼らの愛憎にシンクロする。自己嫌悪に似た激しい憎悪と、裏腹の強烈な縄張り意識。ナズにとってのクイーンズしかり、N.W.Aにとってのコンプトンしかり、ハードコア・ラップにおける地元(hood)とは、必ず抜けださなくていけない地獄であるとともに、けして他者に侵犯されてはならない聖域なのだ。ここで、フッドとは現代のユースの新たなアイデンティティの拠り所である、とのポール・ギルロイの言説を一瞬だけ想起してもいいだろう。だがすぐに忘れることだ。この音楽はブラック・ディアスポラの理論やアフロ・アメリカンの歴史を熱心に学んだ人間によるものではない。

 川崎南部に対してBADHOPの口にする「サウスサイド」という言葉は、近年イラクへ派遣された米兵よりも年間死者数が多いことから「シャイラク Chiraq」と一部で呼ばれるシカゴの南部エリアからのインスパイアだ。しかし彼らに本場ドリルの無軌道なアグレッションを期待すれば肩すかしを食らうだろう。感じるのはむしろタフな状況への鬱屈、そしてそこからなんとしてでも脱出しようとする決意だ。崩壊家庭に生まれ育ち、ローティーンの頃から社会の闇にまみれ、すでに複数回の逮捕を経験してきたサヴァイヴァーたち……いや、そう言葉にしても何も伝わらない。

 貧困とはなにか。それはカメラを片手に土足であがりこんだ数人のヤクザが、母親に土下座させるのを幼い目で目撃することだ。同じ街で生まれた13歳の同級生が、金のために売春婦や犯罪者になるのを横目にみて育つことだ。痣だらけの体や穴の空いた服に耐えきれず、やがて自分も暴力をふるい、奪いとった汚い金で着飾るのをおぼえることだ。

 差別とはなにか。それは生まれた場所の名を口にするだけで、周囲の視線が冷たく色を変えるのを知ることだ。何気なく投げかけられた「カエルの子はカエル」という言葉を、まるで呪いかなにかのように感じることだ。自分や仲間のからだに流れる血のルーツに、街角で理不尽な殺意をむけられることだ。

 しがらみから抜け出すとはなにか。それは詐欺師や売人になった昔の友達からの着信に耳を塞ぎ、真夜中にひとり涙を流すことだ。周囲の誰かが懲役に行った噂を聞いて、次は我が身だと感じながらマイクの前に立つことだ。生まれた街のルールに疑問を抱いても口には出せず、ただ無言で仲間と目と目を合わせ、その理不尽なルールをいつか覆す、と固く誓うことだ。

 例によって嗅覚するどいVICEのドキュメンタリーであぶりだされた川崎南部ローカルの闇もあいまって、BAD HOPはヒップホップ・シーンの内外からの注目を一身に集めてみせた。雑誌『サイゾー』で連載中の磯部涼『ルポ 川崎』も毎回貴重な証言ばかりで目を離せない。そして繰り返すが、このミックステープ『BAD HOP 1DAY』の素晴らしさは、彼らのハードコアなバックグラウンドと濃密な叙情を凝縮した“CHAIN GANG”を、あえて収録しなかったことにある。

 鳴り止まないiPhone6の9度目の着信で目覚める午後3時、寝起きのダウナーな倦怠感をTIJI JOJOとYELLOW PATOのふたりがマイク・リレーする“3PM”。次いでメランコリックなMONBEEのビートによるTIJI JOJOのソロ“White T-shirt”。おろしたてのTシャツに袖を通した爽快感を歌いあげるこの曲のメッセージは明快だ。自分にプライドを持つ根拠など、真っ白なTシャツ1枚でじゅうぶんだ、というタフな自己肯定。その前向きな決意は、しかしあくまでマテリアルなトピックを通じて表現される。

 ウィードの植物的な刺激臭とコーラで割ったヘネシーの甘い陶酔感を完全に音楽的に再現してみせる“JAM SQUAD”。これまでどちらかと言えばマスキュリンなフロウを得意としていたYZERRの鼻にかかる中性的な歌声と、ヤング・サグをすばしっこく品種改良したようなVINGOのフリーキーなフロウの完璧なコンビネーション。アグレッションを煽りまくるKMのビート上でBENJAZZYがサイファーで鍛えぬかれた怒声まじりのファスト・ラップの真髄を叩きつける“BLACK HAIR YELLOW GOLD SKIN”。最初はビートに同期していたラップのグルーヴが徐々にビートを凌駕していくスリルは、TIJI JOJOとBENJAZZYのふたりが2年前、ビッグ・ショーンとケンドリック・ラマーの“コントロール”のビート・ジャックでめちゃくちゃに破壊的なラップを披露して中指を立てていたことを否応なく思い出させる。

 いちばん可能性を感じるのは中盤、T-PABLOWとYZERRの2WINがポップとハードコアのギリギリのバランスを狙い、そのトライアルを華麗に成功させる“LIFESTYLE”と“INK BOYZ”。“LIFESTYLE”は、ステューイ・ロックの某曲のフロウを日本語に移植しつつ完全に勢いで追い越してしまっているわけだけれど、その曲がしかし不思議とEXILEのLDHに代表される日本のメイン・ストリームのポップ・ミュージック的な雰囲気を強烈に漂わせているところが、まずもって素晴らしい。“INK BOYZ”ではフックの直前にビートが消え、逆回転するスネアの効果音によって焦らされた力が、キックの投下を合図に爆発するエコーをかけられまくったフックの歌声で躍動する。ほとんどセクシーと形容してもいいそのキャッチーな歌声は、「次は入れたいのはなに?/考えずに彫りにいこう」とカジュアルに身体改造を重ねる非日常的な感性をフレックスしているわけで、もうこのバランス感覚だけで見事だ。

 それ以外の曲もトピックはあくまでマテリアルだ。BARK、G-K.I.D.がスタジオでの錬金術を開陳する“DOUJOU”、BARK、YELLOW PATO、TIJI JOJOが日々の晩餐についてマイク・リレーするリラクシンな“CHILL DINNER”、もっともハードコアなイメージのAKDOWが珍しく色事を歌う“HOT ICE”など、どれも日々の生活と刹那の感情にフォーカスする。終盤は、意識がブラック・アウトし記憶を失う寸前の沸騰をOGマコ的な咆哮フロウで表現する凶悪なパーティ・チューン“BLACK OUT”、かろうじて立っていられるほどの酩酊状態で迎える狂騒の夜明けを描く“6AM”を経て、いまはまだ夢のはざま、と歌うTIJI JOJOのソロ“DEEP END“で、このアルバムは終わる。

 BAD HOPはこのミックステープで、ヴァースを堅実な韻で固めてシンガロングなフックを付け足す、というこれまでの日本語ラップのヒット・チューンの黄金律を、トラップ以降のフロウの多様化によって粉砕している。現行USヒップホップのサウンドとフロウのインスピレーションは、その起源を忘れさせるほどの自然さで、川崎南部の土着のリアリティに接続させられる。2WINのふたりに顕著なメロウ・チューンは地上波のCMソングとして流されてもまったく違和感はないし、メンバーが入り乱れるハードなラップは郊外型のコンビニのやけに広い駐車場で、派手な改造車から大音量で流れてくるのにぴったりだ。

 元々はGRAND MASTERでキャリアをスタートさせた2WINやBADHOPのこれまでの一部の楽曲では、ハードな生い立ちからくる濃厚な叙情が若々しい初期衝動とともに投げ出されていたが、ここでは切実なバックグラウンドへの語りは最低限にとどめられている。ハードコアなバックグラウンドというのは、アーティストにとってはときに諸刃の刃だ。壮絶な過去は創作行為に切実な衝動とモティーフを与えるとともに、一歩間違えればありきたりな叙情の物語にもたれかかる危険をもたらす。このミックステープの彼らは、USラップのトレンドを下敷きにした目覚ましいフロウの洗練によって、自分たちの成り上がりのストーリーに著しい説得力をみなぎらせている。

 BAD HOPのその意志は最近のサイド・ワークでも明確だ。まずは地上波での露出によって爆発的なポピュラリティを獲得しつつあるT-PABLOWの2曲。GRAND MASTERのEGOとの“WORK”では、つんのめるビートで自由自在に歌声を揺らしながら矢継ぎ早のライミングを披露し、逆にBCDMG傘下の新レーベル〈AIR WAVES MUSIC〉が放つ新鋭、RENE MARSとの“300 MY RIDE (LAMBORGHINI)”では、空間的でスロウなトラップ・ビートにのせてポスト・マローン解釈ともいえるヒプノティックな陶酔フロウを聴かせる。先のことなんて読めないから酒とウィードに酔って直感に従う、という“WORK”の突破者のメンタリティも、「もう戻れない」というポイント・オブ・ノー・リターンの常套句を世代交代の宣戦布告としてダブル・ミーニング的に響かせる“300 MY RIDE (LAMBORGHINI)”も、いまのT-PABLOWにしか歌えないヒリヒリとした切迫感がある。

 より象徴的なのは、この夏に立て続けにリリースされたサマー・チューンの数々だ。BCDMGのコンピレーション『FACT OF LIFE』収録の“EIVISSA”はVINGOとT-PABLOWに加え、BENJAZZYまでがメロウなスタイルのラップを披露し、イビザ島のカタルーニャ語表記だというタイトル通り、ウィードの煙と酒の匂いにむせぶ真夏の夜の喧噪を描く。DJ CHARI & DJ TATSUKIの『NEW WAVES THE MIXTAPE -SUMMER EDITION-』収録の“OVOLELU”は、DJマスタード以降の享楽的なウエスト・コースト・サウンドの直球な解釈で、今度はYZERRがハイトーンの絶唱的なヴォーカルを聴かせる。

 そしてなによりも、同じくDJ CHARI & DJ TATSUKIプロデュースの“TSUNAMI”。知っての通り、同じタイトルのサザン・オールスターズの国民的なヒット曲は2011年3月の東日本大震災以降ラジオでオンエアされなくなり、いまでもUSENではリクエスト不可能なままだ。スタジオ・ジブリの『崖の上のポニョ』も一時は地上波での放送が見合わせられ、いまだ津波の映像が登場する新作映画には厳かなウォーニングが注記される。この状況の中、真夏のビーチでの酒と女とウィードについて歌ったパーティ・チューンに、彼らはこのタイトルを付けたのだ。BAD HOPは、意識的にか無意識的にか、震災後の日本社会のタブーや感傷をものともしない、タフな快楽主義を獲得しつつあるようだ。

 こうしたBAD HOPの進化はそのまま、この5年あまりの日本のハードコア・ラップの転換と軌を一にするものだ。震災後のトラップの本格流入以前、USヒップホップの日本的解釈という意味でのひとつの極北は、ANARCHYがインディ時代の総決算として遺した“PLAYINING IN THE GHETTO”だった。かつてスヌープやウータンもサンプルしたダニー・ハザウェイの“リル・ゲットー・ボーイ”を下敷きに、古都京都の南部の闇を散文的なリリックで刻んだあの曲は、日本のヒップホップがアメリカ由来のゲットー・ナラティヴを美しく土着化させた瞬間だった。あの曲が1990年代以来の東京のヒップホップの重鎮であるMUROの手でプロデュースされ、少年院上がりの暴走族の元リーダー、ANARCHYによって歌われたとき、日本語ラップのソウルは土着的なヤンキー・カルチャーという肉体を獲得したのだ。ほかでもないそのANARCHYがメジャー移籍を機にその濃密な叙情といったん決別してトラップ・サウンドに舵をきり、〈AVEX〉からのデビュー・アルバムに『NEW YANKEE』というタイトルをつけたことは象徴的だ。

 しかし日本のハードコア・ラップはそれ以前からすでにメジャー・シーンへの侵略の意図をたぎらせていた。日本版ギャングスタ・ラップの創始者たるMSCの漢は、新宿の路地裏の廃材を寄せ集めたようなドープな音像のファースト『MATADOR』よりも、よりポップな完成度を誇るセカンド『新宿 STREET LIFE』を高く自己評価していたし、独自の文学性と私小説的なナラティヴによってハスリング・ラップの原型を用意したSEEDAは、早々にその叙情のクリシェを捨て、むしろ現行USラップのビートとフロウの貪欲な消化に腐心していた。

 とくに震災後に現れたトラップ・アーティストの多くは、率直な言語感覚と奇抜なフロウであけすけなリアリティを歌うことで、旧態依然とした日本的な感動の物語を拒絶している。「女と洋服と金」とのフレーズで鮮烈に登場したKOHHがその出自をドラマティックに歌ったのはあくまでANARCHYや般若とのサイド・ワークであり、これまでのスタジオ・アルバムにおいては、彼はそのモティーフを注意深く扱っている。RYUGO ISHIDAはデビュー前にすでにその生い立ちからくる叙情とひとまず別れを告げたし、kiLLaにいたっては、そもそもエモーショナルな内面の吐露など一顧だにせず、ひたすら空虚な感覚を先鋭化させている。彼らはそれぞれ独自なやり方で、これまでの日本のラップ・シーンの外側のオーディエンスへとリーチしつつある。

 ヒップホップが巨大産業であるアメリカならば、ミックステープ1本でフェイムを勝ち取り、デビューと同時に大金を手にしてもおかしくない若い世代は、ここ日本ではヒップホップ・シーンの玉座を獲得するミッションだけでなく、その狭い王国の領土を拡大するという難題を宿命づけられる。けれど、すくなくともBAD HOPにとってはそんなものはまったく重荷ではないようだ。日本のトラップのインフルエンサーであるKOHHがフランク・オーシャンとコラボレーションし、USやUKのiTunesでチャート・インするなどグローバルなマーケットへとアクロバティックに進撃しているのに対し、BAD HOPには明確に、この国の玉座を狙おうとする野心がある。

 今年はあのさんピンCAMPから20年で、ちょうどBAD HOPのメンバーたちも1月に成人式をむかえた。彼らが生まれてからの日本はずっと、中流神話がガラガラと音を立てて瓦解していく過程にあった。この20年の日本の自殺者数は60万人を超える。ちょっとした内戦規模の死者数だ。それでも、「ゲットー」なんて言葉を使えば、「貧困」なんて口にすれば、アメリカやアフリカの最貧国との比較でも持ち出して、そんなものは甘えだという批判が四方八方から飛んでくる。弱い者たちがさらに弱い者たちを叩く、その音はすでに時代のサウンド・トラックだ。いまや子どもの6人に1人、ひとり親の家庭に限れば2人に1人が貧困だとされる中、BAD HOPら90年代以降生まれの新世代は確実に、この社会の崩壊の最前線で言葉をつむいでいる。それは痛みの作文(Composition of Pain)だ。

 古くは作家なんかに対して使われた喩えで、社会の変化を誰よりも早く感知する「炭坑のカナリア」というのがあった。けれど日本のヒップホップはそれに代わる、素晴らしいメタファーをすでに獲得している。漢がDJ KRUSHのビートで10年前に放った、「実刑食らって元々どうもこうもいかねえ/実験用のモルモット同然の生活」ってやつだ。「炭坑のカナリア」じゃなく「実験用のモルモット」。実はこの比喩はべつにとっぴなものじゃない。考えてみれば、ザクザクとこの国の福祉と教育を切り捨ててきた「痛みをともなう改革」=新自由主義は、もともとはシカゴ学派の経済理論の南米での壮大な社会実験として始まったんだった。ケンドリック・ラマーが『SECTION. 80』でロナルド・レーガンを重要なモティーフのひとつとしていたように、現在の日本のラップはまぎれもなく、コロコロと首をすげ替えられるこの国の政治家が生み出した、荒廃の土壌の産物だ。そこには、ケンドリックが2パックの亡霊を経由して語った「大地とは貧民のシンボルである(the Ground is the Symbol for the Poor People)」との言葉がこだましているはずだ。

 BAD HOPのメンバーのひとりは、“BRAKU”という曲を発表している。タイトルの由来は定かではないが、それは日本の貧困と差別の歴史的なコンテクストを知るうえで象徴的な言葉のひとつだ。戦後生まれで初の芥川賞作家で、暴力と性にまみれた南紀の被差別部落の若者たちの短い生を描き続けた中上健次は、かつて「路地」と名づけた自身の生地の部落を「ゲットー」と読み替えていた。ジャック・デリダやボブ・マーリーと対談し、アレックス・ヘイリーの『ルーツ』に影響されて紀伊半島の被差別部落をルポタージュしていた中上の晩年の口癖は、「路地はどこにでもある」だ。彼は南米やアジアといった第三世界出身の作家たちと交流し、アメリカの南部作家ウィリアム・フォークナーを読み解く中で、やがてその磁場を「南」=サウスと呼んで普遍化し、日本の部落(Japanese Ghetto)の歴史をグローバルなコンテクストに接続させようとしていた。中上はヒップホップの本格的な台頭を知らずに1992年に46歳で死んだ。もし彼が生きていれば、BAD HOPが日本のラップ・カルチャーの先端であるとともに、日本の貧民(Poor People)の歴史の末裔であることを、ひと目で見抜いていただろう。

 グッチ・メインの片腕であるマイク・ウィル・メイド・イットがビヨンセやリアーナの楽曲のプロデュースを手がけ、トラップ・ミュージックがEDMに匹敵する巨大勢力となった現在、世界中のヴェニューでトラップに熱狂するオーディエンスは、そのサウンドがサウスの麻薬小屋(トラップ・ハウス)で生まれたことを必ずしも知らない。ヤング・サグのアンドロギュノスな和装が人々を魅了するときにも、モティーフとなった日本文化の女の身体や芸者への抑圧は、その美しさの影に隠されている。先進的なウェブ・メディアのティーザー映像に起用され、気鋭のドメスティック・ブランドのモデルとしてフレックスするBAD HOPの姿はこれから、川崎という地名どころか、ヒップホップすら聴いたことないオーディエンスの目にまで届くことになるだろう。現在の彼らの輝きは、バックグラウンドがうんぬんなどといった説明をまったく必要としていない。だがその音楽はやはり、東京と横浜に挟まれた、排気ガスに煙る工業地帯の闇で生まれたのだ。

 BAD HOPの新作『BAD HOP ALL DAY』は9月15日から配布開始とだけ予告されている。そこにあの“CHAIN GANG”が収録されるのか、もしくはさらに吹っ切れたポップ・チューンで埋め尽くされることになるのか、それはわからない。だが遅かれ早かれ、彼らはこの『BAD HOP 1 DAY』にあえて収録しなかった“CHAIN GANG”の闇さえも飲み込んだ作品を完成させるはずだ。社会の暗部の若きサヴァイヴァーたちが、ガードがガラ空きのこの国のポップ・フィールドのど真ん中を撃ち抜く。それは日本のラップが、USラップに遜色ないポピュラリティと社会的なインパクトを獲得する狼煙を意味するだろう。

 ポップの変革とは、社会のリアリティの変革だ。いまだ公共の場での刺青の露出がタブーとされる保守的な島国で、子どもの頃の包丁の傷をタトゥーで消したユースが爆発的な成功を手にするとき。レイシストのヘイト・デモを中止に追いやった川崎南部で生まれた、「コリアン、チャイニーズ、南米/繋がれてる川崎のWe are Chain Gang」というリリックが日本中に響き渡るとき。この社会のリアリティは必ず、あと戻りできない変化を経験するはずだ。

 ハナから眼中にない金も女もすでに目の前にあって、それでもまだ足りない。足につながれた鎖が切れるのはまだ先で、育ちの悪さを隠そうともせずに鉄の心臓に札束の羽を生やす。当たり前のものをなにも持たずに生まれ育ったのに、彼らは強いのではない。当たり前のものをなにも持たずに生まれ育ったがゆえに、彼らは強い。被差別や抑圧の体験をみずからのエネルギーの源泉とするその逆説こそは、「どん底から這い上がった(Started from the Bottom)」人間の、最大の武器だ。屈指のハードな環境を生き抜いたユースがいま、弾けるように強靭なポップ・ミュージックを鳴らそうとしている。どんだけ控えめにいっても、最高な時代だと思う。

*原稿の執筆にあたり、磯部涼氏から貴重な示唆を得た。感謝したい。

BACK TO CHILL - ele-king

 比類なきサウンドで世界を舞台に活躍してきたGOTH-TRADの主宰するイベント "BACK TO CHILL" が今月、10周年を迎える。それを記念し、9月16日(金)に渋谷のclubasiaにてアニヴァーサリー・パーティが開催されることとなった。
 当日は "BACK TO CHILL" のサウンドに特化したサウンド・システム "Broad Axe Sound System" が導入され、GOTH-TRADの新作アルバム『PSIONICS』のライヴ・セットや REBEL FAMILIA のライヴが披露される。
 10年にわたりベース・ミュージックを追求し、アンダーグラウンド・シーンを支えてきた "BACK TO CHILL"。いまその最先端を体験せよ!

Jeff Mills - ele-king

 ジェフ・ミルズの探究心が止まらない。
 昨年おこなわれた相対性理論とのコラボレイションを覚えているだろうか? ザ・ウィザード時代もUR時代も、そしてもちろんソロとして独立してからもずっと彼は、デトロイトという地名とテクノという音楽を背負いながら、ひたすら前進し続けている。
 今回ジェフ・ミルズが共演を果たすのは、ユウガ・コーラーの指揮する東京フィルハーモニー交響楽団。ジェフは2006年に発表された『Blue Potential』(録音は2005年)より断続的にオーケストラとの共同作業を続けているが、いまその最新の姿があらわになる。来る日曜の朝は早起きして、テレビの前に座り込もう!

今年3月に、東京フィルハーモニー交響楽団とのコラボレーション公演を東京渋谷のBunkamura オーチャードホールでおこなったジェフ・ミルズが、9月11日にテレビ朝日系で放送される音楽番組『題名のない音楽会』に出演する。

9月11日放送分(BS朝日では9月18日)の『題名のない音楽会』では「オーケストラで高揚する音楽会」をテーマに、クラシック音楽イベント『爆クラ!』を主宰する湯山玲子がクラシック音楽の新たな聴き方を提唱。ジェフ・ミルズはゲストとして登場し、東京フィルハーモニー交響楽団とのコラボレーションでテクノ・アンセム "The Bells" とアンダーグラウンド・レジスタンス(UR)後期の名曲 "Amazon" を披露、指揮はユウガ・コーラーが担当する。

なお、ジェフ・ミルズはオーケストラ・サウンドを全面的にフィーチャーした新作『Planets』を来年初頭にリリースする予定。第一弾のトレーラーも公開されているので、ぜひチェックを。

Jeff Mills『Planets』Trailer1

【番組詳細】
テレビ朝日『題名のない音楽会』毎週日曜あさ9時放送
https://www.tv-asahi.co.jp/daimei/sphone/

【出演者】

ジェフ・ミルズ /DJ
1963年アメリカ、デトロイト生まれ。デトロイト・テクノと呼ばれる現代エレクトロニック・ミュージックの原点と言われるジャンルの先駆者。DJとして年間100回近いイベントを世界中で行なう傍ら、オーケストラとのコラボレーションを2005年より開始、それ以降世界中でおこなった全公演がソールドアウト。クラシック・ファンが新しい音楽を発見する絶好の機会となっている。来年初頭、オーケストラのために書き下ろした作品『Planets』を発売予定。

湯山玲子  ゆやま れいこ /著述家
日本大学藝術学部文芸学科非常勤講師。編集を軸としたプロデュースをおこなうほか、自らが寿司を握るユニット「美人寿司」を主宰する。著書に『女装する女』(新潮新書)、『文化系女子という生き方』(大和書房)、『男をこじらせる前に 男がリアルにツラい時代の処方箋』(角川書店)ほか多数。クラブ仕様のサウンドシステムで、クラシックを聴く「爆クラ」イベントをほぼ毎月一回のペースで開催。現在はテレビ番組のコメンテーターとしても活躍。

ユウガ・コーラー /指揮
1989年生まれ、アメリカ、ボストン出身。日米ハーフ。ハーバード大学コンピュータ科学科を首席卒業後、ジュリアード音楽院で指揮を最年少としてアラン・ギルバートに師事。在学中アスペン、タングルウッド音楽祭に出演し、ブルーノ・ワルター賞、アンスバッカー・フェロウシップなどを授与される。現在はロサンゼルスのYMFデビュー・オーケストラの音楽監督を務め、最近のコンサートでは開演5時間前から聴衆が並び始めたことも話題を呼び、『LAタイムズ』紙・『ワシントンポスト』紙で好評を博す。

Congo Natty × Mala - ele-king

 1996年、ジャングル/ドラム&ベースがUKのダンス・ミュージック・シーンで旋風を巻き起こしているさなか、日本でもそのリアルな熱気を伝えるべく、いまはなき新宿LIQUIDROOMでスタートしたパーティ「Drum & Bass Sessions(DBS)」。今年で20周年を迎える同DBSだが、そのアニヴァーサリー・パーティが10月15日(土)にUNIT(東京・代官山)にて開催される。

 記念すべきイベントだけあって、出演者がとんでもないことになっている。ひとりは、90年代当時からオリジネイターしてジャングルを更新し続けてきたレベルMCことコンゴ・ナッティ。もうひとりは、ディジタル・ミスティックズとしてダブステップ・シーンの中核を担い、近年はベース・ミュージックとラテン・ミュージックの融合で圧倒的な評価を得ているマーラ。このふたりがヘッドライナーを務めるというだけでも十分アツいのだけれど、さらに日本からゴストラッドも参加するとなれば、これはもう行くしかないでしょう!

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【DBS20TH】
★1996年、熱波のようにUKアンダーグラウンド・シーンを席巻していったジャングル/ドラム&ベースのリアル・サウンズ&リアル・ヴァイブスを伝えるべく、今や伝説の新宿リキッドルームでスタートしたDrum & Bass Sessions(DBS)。2004年以降、代官山UNITを本拠にイベントを重ね、ドラム&ベースに限らず、JAH SHAKAに代表されるダブ/ルーツ・レゲエ、ブロークンビーツ~ニュージャズ、グライム、ダブステップ、UKファンキーの真髄、最前線を紹介し続けてきた。そこには英国の移民文化の歴史と密接な関係のもとに進化を遂げ、様々なエレメンツへと発展している広義のUKベース・ミュージック/サウンドシステム・カルチャーへの敬意と愛情しかない。
2016年、DBSは20周年を迎え、ジャングルの創始者CONGO NATTYとダブステップのパイオニアMALAという奇跡のダブル・ヘッドライナー! そして日本が誇るサウンド・オリジネイターGOTH-TRAD、PART2STYLE SOUND、DJ DON、HELKTRAM、TAKUTOら豪華なラインナップでDBS20THを開催する!
PEACE AND DUB! MORE BASS MORE VIBES MORE LOVE!!!

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