「iLL」と一致するもの

遠くで鳴るビート、蒸気を吸いそして Chill-out……
エイフェックス・ツイン最大の問題作を読み解く

リリース25周年!
エイフェックス・ツイン、あるいはテクノ、アンビエント、ヴェイパーウェイヴのファンであるなら避けては通れない本、テクノ史上もっとも謎めいた名作の秘密をさぐる快著、ついに翻訳!
アンビエント/IDMのオーソリティーが膨大な資料のもとに構成する、世界で唯一のエイフェックス・ツインの単行本。

発売当時、明晰夢によって作曲された音楽だと本人が解説した『セレクテッド・アンビエント・ワークス・ヴォリューム2』。
曲名のクレジットもなく、ダンス・カルチャー全盛期に、いっさいのビートを削除した作品。リリース当時はリスナーとメディアを大いに困惑させた問題作。いまとなっては傑作と言い切れる先駆的なアルバム。
その『セレクテッド・アンビエント・ワークス・ヴォリューム2』を紐解きながら、ブライアン・イーノのアンビエント、レイヴ・カルチャーにおけるチルアウト、そして21世紀のオンライン・カルチャーにおけるアンビエントまでを解読していく。

【著者】
マーク・ウィーデンバウム(Marc Weidenbaum)
サンフランシスコ在住。著述家。アンビエントとエレクトロニカに特化したサイト『Disquiet.com』の設立者。アメリカでもっとも有名なサイト『Boing Boing』や科学系のサイト『Nature』などにも寄稿。メディアやアンビエントにかんする講義もおこなっている。

「あんなに楽しいフェスは経験したことがなかった。だからフェスが嫌いなひとのために、自分でもやってみようと思ったんだ」

 ポルトガルのマデイラ島で開催されている、マデイラディグ実験音楽フェスティヴァルのオーガナイズ・リーダーであるマイケル・ローゼンは、大西洋を見晴らす崖に面したホテルのバーのバルコニーに座っている。雨と汗と泥にまみれた、よくあるフェスの体験からは数百マイルも隔たった雰囲気がそこにはある。というかその雰囲気は、ほかのどんな場所にも似ていないものだ。
 フェスの来場者の大半が滞在する小さな町ポンタ・ド・ソルは、高く深い谷の上に位置している。フェスの運営を取り仕切るメインとなる中継地点であるホテル、エスタラージェン・ダ・ポンタ・ド・ソルはとくに素晴らしく、まるで崖沿いを切りだしたようにして作られていて、海に沿った通りからはただ、崖の岩肌を上に向かってホテルへと至る、すっきりとした作りのコンクリート製のエレヴェーターだけが見えている。

 エスタラージェンでのアフター・パーティーや毎晩行われるライヴはあるが、フェスのメインとなるプログラムは、ホテルから車ですこし移動したところにあるアート・センターで行われる、午後の二つのショーのみである。

 ローゼンは次のように述べている。「毎日たくさんのパフォーマンスが行われるフェスが好きじゃないんだ。テントを張って、雨が降って、人混みに囲まれてっていうやつがね。僕らが借りている会場のキャパは200人くらいで、それがちょうどホテルが受けいれられる上限でもあるから、そのくらいが集客の上限なんだよ」

 フェスは金曜の夜、ポルトガルのサウンド・アーティスト、ルイ・P・アンドラーデ&アイレス[Rui P. Andrade & Aires]によるアンビエント・セットとともに開幕し、アナーキーで混沌としたフィンランドのデュオ、アムネジア・スキャナー[Amnesia Scanner]によるデス・ディスコがそれに続く。マデイラディグのプログラムはみな、多くの人が実験音楽と理解しているものの元にゆるやかに収まる音楽ばかりなわけだが、主催者側がはっきりと意図して普通とは異なったアプローチを見せているこの組みあわせ方によって、2組のアーティストのあいだにある違いが強調されることになっている。


アナ・ダ・シルヴァとフュー

 日曜日の夜は、不気味さや打楽器のような調子や、美しさや激しさのあいだで移り変わっていく自らの演奏から生みだされるループによって音楽を構築する、ポーランドのチェリスト、レジーナ[Resina]の演奏とともに始まる。彼女の演奏は、つねに変化するアニメーションによるコラージュや、戦争の映像、自然や文明や、コミュニケーションやテクノロジーといったものの相互の関係を映しだすヴィデオの上映を背景して行われる。コミュニケーションというテーマは、より遊び心に満ちたものとして、ただ一つのテーブル・ランプに照らしだされた多くの電子機材を前に演奏される、アナ・ダ・シルヴァ[Ana da Silva]とフュー[Phew]による、めまぐるしい展開によって方向感覚を狂わせるようなライヴのなかでも取りあげられている。参加したアーティストのなかで、フェスの開催日に到着したフューはもっとも遠くからやってきている人物だが、その一方でダ・シルヴァは、生まれ育った島に戻ってくるかたちとなっている。2人のアーティストのあいだにあるこのコントラストは、それぞれの言語を使い、ひとつひとつの言葉にたいし、ユニークかつときに不協和音的な解釈を与えている彼女たちのパフォーマンスそのもののなかにも、はっきりとその姿を見せているものだ。演奏のある地点で彼女たちは、曲間のおしゃべりの一部分を取りあげてループさせ、それをパフォーマンスのなかに組みこむことで、ライヴのもつ遊び心に満ちた親密な性格を強調している。

 ローゼンは、そうした彼女たちのライヴを生む根底にある自身の哲学を次のように説明している。「普通では一緒に見ることのないような二組のアーティストに同じ舞台に上がってもらうんだ。まったく異なっているように見えながら、だけど質の部分で繋がっているアーティストにね」

 こうしたアプローチは、ドイツのクラブ「キエツザロン」[Kiezsalon]で彼がオーガナイズしているイヴェントにも見られるもので、マデイラディグについて理解するためには、多少ベルリンのことについて触れておく必要がある。というのも、ローゼン以外のオーガナイザーだけではなく、オーディエンスの大半もその街からやってきているからだ。

 ローゼンはベルリンのシーンを退屈でバラバラなままの状態だと述べている。いわくそこには、すでに存在しているオーディエンスに媚びたありきたりなイヴェントばかりがあり、結果として、シーンやジャンルを分断する区別を強化することになっているのだという。オーストリアを拠点にしたスロバニアのミュージシャンであるマヤ・オソイニク[Maja Osojnik]もやはりこの点を繰りかえし、彼女が暮らしているウィーンも同じように、まれに土着的な「ヴィーナーリート」[Wienerlied]という民謡の一種がジャンルを横断した影響を見せているくらいで、パンクがあり実験的な音楽があるというかたちで、内部での音楽シーンの分断という状況にあると述べている。東京のインディーでアンダーグラウンドなシーンのなかに深くかかわっている人たちもきっと、すぐに同じような状況に思いあたることだろう。


マヤ・オソイニク

 マヤ・オソイニクは、パリを拠点としたカナダのミュージシャンであるエリック・シュノー[Eric Chenaux]による、キャプテン・ビーフハートの経由したニック・ドレイクといった雰囲気のジャズ・フォークの後に続いて、金曜日の夜の最後に出演した。シュノーの演奏が、いったん心地よく美しく伝統的な音楽的発想を取りあげ、それをさまざまなかたちで逸脱させていくことによって特徴づけられるものであるのにたいし、オソイニクの音楽は、不協和音の生みだすことを恐れることなくさまざまな要素を重ねていき、そのすべてが、彼女がときに「ディストピア的な日記」と呼ぶ、音によるひとつの物語をかたちづくるものにしている。全体の雰囲気や演奏に通底する低音やパルス音は、催眠的でインダストリアルな高まりを見せ、オソイニクのヴォーカルは、豊かな抑揚をもった中世の歌曲からポストパンクの熱を帯びた怒りまで、自在に変化していくものとなっている。


エリック・シュノー

 後に彼女と話したさいオソイニクは、同時代の音楽からの影響ももちろんあるが、古典的な音楽教育を受けてきのだという事実を明かしてくれた。一三〇〇年代にフランスのアヴィニオンに捕囚されていた教皇たちのためだけに作曲された、あまり知られていない音楽に興味があるのだと、興奮気味に彼女はいう。自身が受けてきた折衷的で渦を巻くような影響にかんして彼女は、次のように述べている。「いろんな音楽をアカデミックに学んでみた結果、そこには多くの並行性があることに気づいたんです。たしかに規則は違うし、アプローチも違う、根底にある美学も違っていますが、同じ鼓動が感じられるときがあるんです」

 シュノーとオソイニクが共有しているのは、二組のライヴがともにどこかで、人間は複雑で、つねに仲良く議論しているわけではないのだという事実を感じさせるものだという点にある。したがってオーディエンスにたいするメッセージは、オソイニクがいうとおり、「目を覚ますこと。受けとるだけでいるのをやめて、探すことをはじめること」にあるのだといえる。

 マデイラディグは、多くの点で伝統的な音楽フェスと異なるものとなっているわけだが、一方でそれは、参加する者たちのなかに普通とは異なる現実を創造するというその一点において、真の意味で伝統的なフェスティヴァルといえるものとなっている。フェスの初日の時点では、どこか気後れしたような初参加者と毎年参加しているヴェテランのあいだに目に見えるはっきりとした違いがあったが、フェスのオーガナイズの仕方によって、そこにはすぐに、その場にいる人間たちによる共同体の感覚が育まれることとなっていた。イベントの後の食事やエスタラージェン・ダ・ポンタ・ド・ソルでのアフター・パーティーは、交流の機会となり、毎回あるメイン会場への車での移動が、参加者をひとつにすることを促している。日中に辺りの自然のなかや最寄りの大きな町であるファンシャルへ旅することは二重の意味をもっていて、参加者がひとつのグループとして絆を深める機会となっていると同時に、イヴェントの会場でもあるホテルの盛りあがりからの息抜きとしても機能している。

 またマデイラ島は並外れて美しい島であると同時に、不思議なことにどこかで日本に似たところもある場所だといえる。通りに沿ってその島を旅していると、山がちな景色が必然的にトンネルのなかを多く通ることを強いてくるわけだが、気がつけばやがて古い通りに出て、島がその本当の姿を見せてくる。そこには雲を突きぬけ緑で覆われた、ぐっと力強く迫りだしている火山の多い地形があり、谷に沿って並ぶ家々や急な勾配に沿った畑があり、浅くコンクリートで舗装されれ、海まで続く川が見られる。海を見張らしながら、古い時代の商人たちが登った道のひとつを登っていたとき、ポルトガルの現地スタッフのひとりが、「この景色を見るためには、ここまで登ってこなきゃいけないんですよ」と述べていた。

 美しさを見いだすためには努力が必要だというこの発想は、風景についてだけではなく、音楽についても当てはまるものだろう。フェスの最終日は、カナダのアーティストであるジェシカ・モス[Jessica Moss]による繊細で複雑なヴァイオリンの演奏とともに始まる。彼女はマデイラディグに参加する多くのアーティスト同様、ループによってレイヤーを生みだし、自らの音楽のなかにテクスチャーとパターン(そしてパターン内部におけるパターン)を作りだしている。その後に続くのは、デンマークのデュオであるダミアン・ドゥブロヴニク[Damien Dubrovnik]によるハーシュ・ノイズの荒々しい音である。彼らはまるでモルモン教徒の制服のモデルのような出で立ちでステージに上がり、会場を音による恐怖で連打していく。


ダミアン・ドゥブロヴニク

 マデイラディグは間違いなく、オーディエンスにたいし、このフェスがステージ上で生みだそうとする美のために協力するように求めているのだといえるが、一般的にいって実験音楽にかんするイヴェントや、とくに遠方からの参加を前提とした特殊なフェスには、参加を阻む誤った種類の障害を設けてしまうという危険性が存在しているものである。すぐに思い当たることだが、日本で行われる同様のイベントは、全員ではないにしろ、多くの熱心なファンには厳しい金額が参加費として設定されているし、結果としてそのことが、音楽シーンの断片化を助長し、多くの地方都市における文化の空洞化に繋がることとなってしまっている。
 マデイラディグの参加費は目をみはるほど安い(チケットの料金は4日間で8000円ほどであり、ホテルの価格も納得のいく範囲に維持されている)。だがいずれにしてもそれは、もっぱら市場の情けによって生き残っているだけであるヨーロッパのアートを手助けしている、ファウンディング・モデルなしには機能しなかったものだといえるだろう。ローゼンはこうした状況を自覚したうえで、それでもやはり、難解で聞きなれないような音楽を集めるイヴェントは、可能なかぎりアクセスしやすいものではくてはならないという点にこだわる。

 「音楽にかかわりのないような人にも届いてほしいと思っているんだ」。「ホテルの予約間違い」でフェスを知り、結果として、いまでは毎年参加しているベルギーのカップルの話をしながら、ローゼンはそんなふうにいう。

 「文化を近づきやすいものにしたい。これは音楽だけじゃなく、文学でも哲学でも何でもそうであるべきだと思う。誰もが参加できるファンドによるフェス、政府から資金を引きだすフェスというかたちで、僕はそれを立証しているんだよ」

https://digitalinberlin.eu/program2018/

Madeiradig experimental music festival
November 30 (Fri) to December 3 (Mon)

by Ian F. Martin

“I've never been a fan of festivals, so I wanted to make one for people who don't like festivals.”

Michael Rosen, the lead organiser of the Madeiradig experimental music festival on the Portuguese island of Madeira, is sitting on the balcony of a hotel bar, situated on a cliffside overlooking the Atlantic Ocean. It feels a million miles from a typical festival experience, drenched in a cocktail of rain, sweat and mud. It feels a million miles from anywhere.

The village of Ponta do Sol, where most of the festival guests stay, nestles in the mouth of a tall, deep valley. The main organisational hub of the festival's activities, the hotel Estalagem da Ponta do Sol, is a particularly striking, looking almost as if it has been carved out of the cliffsides, visible from the road only by the thin, concrete elevator shaft that rises skywards out of the rock towards the hotel proper.

The main festival programme is limited to two shows an evening, held at an arts centre a short coach ride away, while the Estalagem hosts after-parties with DJs and live acts into the morning every night.

“I don't like festivals where there are lots of performances every day – all the tents, rain, crowds,” explains Rosen, “The capacity of the auditorium we use is about 200 people, which is also all the hotels in Ponta do Sol can accommodate, so that’s the audience limit.”

The opening Friday night of the festival opens with a spacious, ambient set by Portuguese sound artists Rui P. Andrade & Aires, which is followed by the anarchic, chaotic death disco of Finnish duo Amnesia Scanner. While Madeiradig’s programme all falls loosely under what most people would understand as experimental music, it’s clear through the choices of pairings that the organisers are keen to see different approaches rub up against each other.

Saturday night opens with Polish cellist Resina, whose music builds around loops that draw from her instrument sounds variously eerie, percussive, beautiful and harsh. Set against this are video projections featuring an ever-shifting collage of animations and images exploring subjects such as war and the relationship between nature, civilisation, communication and technology. The theme of communication recurs more playfully in the lively and disorientating set by Ana da Silva and Phew, performing behind masses of electronic equipment and lit intimately by a single table lamp. Of all the artists at the festival, Phew has travelled by far the furthest to be there, having arrived from Japan on the first day, while da Silva is revisiting the island where she was born. This contrast between the two performers informs the performance, with each member delivering their vocals in the other’s language, adding their own unique and sometimes dissonant takes on the words. At one point, they pick up and loop what seem to be snatches of inter-song backchat and integrate that into the performance, reiterating the playful and intimate nature of the set.

Rosen explains his philosophy as being based on, “Placing two artists on the same stage who you wouldn’t normally see together. Artists who are connected in terms of quality, but nonetheless quite different.”

It's an approach that he follows with the “Kiezsalon” events he organises in Berlin as well, and in understanding Madeiradig, we really need to talk a bit about Berlin, since that's where not only othe organisers but the vast majority of the audience come from.

Rosen describes the scene in Berlin as boring and fragmented, with events typically pandering to existing audiences, in the process reinforcing the divisions that separate scenes and genres. Austrian-based Slovenian musician Maja Osojnik echoes the point, saying that her adopted hometown of Vienna suffers from similar internal divisions in the music scene, with punk, experimental and the unique local “Wienerlied” folk style rarely interacting. Anyone who has spent much time immersed in the Tokyo indie and underground music scene will find their complaints immediately familiar.

Maya Osojnik closed Sunday night after the rhythmically dislocated Nick Drake-via-Captain Beefheart jazz-folk of Paris-based Canadian musician Eric Chenaux. While Chenaux’ set was characterised by the way he would take conventionally pretty or beautiful musical ideas and then investigate multiply ways of knocking them off centre, Osojni's music layers element over element, not shying away from dissonance, but bringing them all together in the service of a single sonic narrative – what she sometimes calles a “dystopic diary”. Tones, drones and pulses build up to a hypnotic, industrial crescendo, Osojnik’s vocals ranging from richly intoned, almost medieval sounding singing to haranguing postpunk rage.

Speaking to her later, she reveals that, despite her more contemporary influences, she was classically trained and she talks excitedly about her interest in obscure music composed only for the exiled popes of the French town of Avignon in the 1300s. She explains her music's eclectic swirl of influences, saying, “Studying all this music academically made me realise that there were many parallels. There are different rules, different approaches, different aesthetics, but you can find the same heartbeat.”

Where Chenaux and Osojnik are perhaps similar is that their sets both feel in some way like people having complex and not always friendly discussions with themselves. The challenge to the audience is, as Osojnik puts it, “To wake up. To stop receiving and start seeking.”

Despite the many ways Madeiradig diverges from a traditional music festival, one way it is a traditional festival in a very real sense is in the way it creates a kind of alternate reality around its attendees. On the first day, there is a visible division between the rather intimidated-looking first-timers and the veterans who return every year, but the way the festival is organised very quickly fosters a sense of community among those present. Post-event food and after-party entertainment at the Estalagem da Ponta do Sol give us opportunities to interact, while the ritual of the coach trip to the main venue regularly hustles everyone together. During the daytime, trips into the countryside and the main town of Funchal served the dual purpose of giving us chance to bond as a group and at the same time breaking us out of the hotel-venue bubble.

And it has to be said that Madeira is an extraordinarily beautiful island, but also one in some ways strangely reminiscent of Japan. Travelling around it by road, the mountainous landscape means that you spend a lot of your time in tunnels, but finally finding our way out onto the old roads, the island’s real form revealed itself, the volcanic topography thrusting aggressively skyward, piercing the clouds, swaddled in thick vegetation, houses clinging to valleysides and farmland carved out of steep slopes, shallow, concrete-lined rivers racing seaward. Hiking along one of the crumbling ancient merchants’ roads, overlooking the ocean, one of the local Portuguese staff remarked that, “To get this beauty, you have to work for it.”

The idea that to find beauty requires effort feels just as appropriate to music as it does to a landscape. The closing night of the festival opens with the fragile, fractal violin of Canadian artist Jessica Moss, who, like many artists at Madeiradig uses loops to build layers, textures and patterns (and patterns within patterns) in her music. She is followed by a raw blast of harsh noise, delivered by Danish duo Damien Dubrovnik, who stalk the stage like models from a Mormon menswear catalogue, pummeling the theatre with sonic terror.

While Madeiradig undoubtedly wants its audience to work for the beauty it gives a stage to, there is always a danger with experimental music events in general, and exotic “destination festivals” in particular, that they put up the wrong kinds of barriers to participation. It's easy to imagine a similar event in Japan being priced far out of the ability of any but the most dedicated fans to access, and that in turn feeds the fragmentation of the music scene and contributes to the cultural hollowing-out of much of rural Japan.

Madeiradig is remarkably cheap (a festival ticket costs about ¥8,000 for four days, and the hotels are also kept very reasonable) and I don't think it's unfair to say that it would never be able to function without the arts funding model that ensures European arts aren't left solely at the mercy of the market. Rosen is aware of this situation, and adamant that an event offering difficult or unusual music needs to be as accessible as possible.

“I want to reach people who have nothing to do with music,” he explains, recounting the story of a couple from Belgium who discovered the festival because of “a booking mistake” and ended up returning every year.

“I want to make culture accessible, and this should be true not just for music but also literature, philosophy, anything,” he continues, “I make a point that at a funded festival – one that’s getting money from the government – anyone should be able to go.”

Addison Groove - ele-king

 ブリストルのアジソン・グルーヴは、ダブステップ~フットワークときて、そして最近では自身のレーベル〈Groove〉を拠点にハウスへと急接近している。UKガラージの要素も入った雑食的ハウスで、やっぱアジソン・グルーヴってなにやっても上手い。
 今回は、Trekkie Traxの一員でありながら、高崎を拠点に活動する若手DJ Ampsが仕切ってのツアーになる。3月上旬から3月末まで。UK最高のグルーヴを体験して欲しい!

Addison Groove Japan Tour 2019

■3/08(Fri) 群馬 at WOAL高崎〈replace〉
■3/09(Sat) 金沢 at BASE Kanazawa〈DUB ROUNGE〉
■3/15(Fri) 松本 at Sonic〈satisfaction〉
■3/16(Sat) 名古屋 at CLUB MAGO〈PURE_____〉
■3/17(Sun) 大阪 at CIRCUS
■3/23(Sat) 東京 at CIRCUS


■Addison Groove
Addison GrooveことAntony Williamsは、2006年にHeadhunterとしてダブステップ・シーンに現れ、SkreamやBengaで知られるTempaを中心に幾多のシングルをリリースし、シーンにおいて伝説的な地位を築いた。その後、2010年に突如、Addison Grooveという新名義でシングル「FOOTCRAB」をリリース、ジューク/フットワークを取り入れた斬新なサウンドはジャンルを超えたビッグチューンとなり、ダブステップDJだけでなく、Aphex TwinやSurgeon、Ricardo Villalobos、Mr.Scruffら、テクノやハウスの重鎮たちのレコード・バックにも収められ、新しいオーディエンスを獲得することになった。2013年にはジュークシーンの伝説であるDJ Rashadのアルバム「DOUBLE CUP」収録のトラック“Acid Bit"にてRashadとのコラボも実現、さらには先進的で独創性の高いアーティストにフォーカスするSonarSound Tokyo 2013、Red Bull Music Academy Tokyo 2014に出演を果たす。さらに2017年にはBS05AGからスタートした全国5都市を回るジャパンツアーを成功させた。そして再びの来日となる今回は2018年にDJ Hausが主催するDANCE TRAXから盟友Sam Bingaとリリースを行ない、テクノやハウスシーンを賑わせた直後であり、さらに磨きのかかった先鋭的なサウンドを日本各地で披露してくれるに違いない。

 しぶや花魁を拠点にローカルからワールドワイドまでクオリティーの高いアーティスト / DJを招き、毎週日曜日18:00~21:00にライヴ・ブロードキャストを行うTSUBAKI FM。昨年は京都八坂や加賀山代温泉などの出張放送の実績もあるラジオ局が、東京、京都、福岡、広島にて初のジャパンツアーを行う。
 ツアーでは京都を代表するJAZZ / CROSSOVERイベント〈Do it JAZZ!〉を主催し、現在は Gilles Petersonがスタートしたオンライン・ラジオステーション〈Worldwide FM〉の京都サテライト〈WW KYOTO〉のDJも務めるMasaki Tamura。
 アンダーグラウンドディスコを軸に長年に渡り茶澤音學館のクルーとしてSadar Baharの来日サポートを務め、毎週火曜日のAoyama Tunnelをレギュラーに都内を中心にDJとして活躍中のSouta Raw。
 そして東京ハウス・ミュージックシーンの人気パーティー / レーベル〈Eureka!〉を仕掛け、TSUBAKI FMの発起人でもあるMidori Aoyamaの3人を中心に、特定のジャンルに縛られない様々なジャンルを発信するTSUBAKI FMとリンクした「音」にこだわりのある4会場のローカル・アーティストがコラボレーション。
 現地でのライヴ配信とイベントが融合したツアーショーケースを1ヶ月通して開催する。

interview with Swindle - ele-king

 スウィンドルが2013年に発表したデビュー・アルバム『Long Live The Jazz』に収録された“Do The Jazz”。ダブステップのビート感、レイヴなシンセ、そしてファンキーなリフをミックスしたこの曲は、彼のなかにある多様な音楽の生態系を1曲のなかに凝縮したような音だった。多くのラップトップ・ミュージシャンと同じように、ひとりで作曲・編曲をこなしミクスチャーな音を届けてくれたスウィンドルは、新作『No More Normal』でさらなる進化を遂げている。自己完結型の作曲・編曲だけでなく、共作するミュージシャンを集め、その「指揮者」となって、彼らの演奏からオリジナルなサウンド・言葉を引き出していったのだ。グライムMC、シンガー、ポエトリーリーディング、サックス奏者、ギタリストなど様々な才能の真ん中に立ち、彼らと制作している。僕が気になったのは、そうした制作手法の意味やコラボレーションのコツだ。どのようにして彼らと出会い、どんな関係を築いていくのか。どのような工夫をすれば有機的な時間を作り出していけるか。スウィンドルのアルバムを聴いたとき、こうした問いに彼がなにか答えをもっているのではないかと思った。

 制作・コラボの秘訣からはじまったインタヴューは、『No More Normal』の問いの意味をめぐる話につながっていった。2018年11月、アジア・ツアーを周り、代官山UNIT の DBS×BUTTERZ の出演を控えたスウィンドルが誠実に答えてくれた。

自分がダブステップを見つけたというよりは、ダブステップが自分を見つけたという感じ。それはグライムにおいても同じで、自分はずっとグライムの「アウトサイダー」なんだ。

前回ele-kingに登場いただいたのは2016年来日時のインタヴューでした。それから、編集盤『Trilogy In Funk』を2017年にリリース、プロデュースの仕事など様々な仕事をされてきましたが、今作『No More Normal』はどのくらいの制作期間だったんですか?

スウィンドル(Swindle、以下S):『Trilogy In Funk』 の後にこのアルバムのプロジェクトをはじめたというわけではなくて、コージェイ・ラディカル(Kojey Radical)と同時並行でいろいろ作っていたりするなかで、このアルバムが生まれたんだ。音楽は「日記」のように書き続けているから、音楽の仕事はすべてが繋がっているように感じているよ。

なるほど、『No More Normal』にはエヴァ・ラザルス(Eva Lazarus)、ライダー・シャフィーク(Rider Shafique)、コージェイ・ラディカル、マンスール・ブラウンといったジャンルやエリアを超えた多彩なアーティストが参加しています。アルバム制作のコラボレーションはどのように進んだのでしょうか。

S:ロンドンの郊外にある Real World Studio という素晴らしいスタジオを2週間貸し切って制作に入ったんだ。そこに自分が一緒に作りたいアーティストを招待した。じっさいにどういうふうに制作が進んだかというと、朝10時にはエヴァ・ラザルスがきて、12時にはべつの人が来てエヴァに加わったり、マンスール・ブラウンがギターで加わったりとか。だから何も強制せずにすべてが自然に起こったんだよね。 アーティストと一緒に制作するとき、いま取り組んでいることを止めてべつのことをやらせたりとか、「時間が無駄だからこれをやって」というように言ったりすることはしないんだ。夜9時になって、全体を見て「ひとつアイディアがあるんだけど、こういうことをやってみるのはどう?」と提案することはあるけど、やっぱりルールがあるわけじゃないし、プレッシャーもなかったよ。

それはすごく理想的な環境ですね。短い時間だけスタジオに入って作業すると、「この時間内に成果を出さなきゃ」というプレッシャーがあったりします。

S:そうだね。参加してくれたアーティストのなかにはロンドン以外を拠点に置いている人もいて、べつべつに作業することもあったけど、基本的なアイディアとしてはみんなで長い時間いて、その場所にいて制作するということ。これまでは、言ってくれたように2時間だけスタジオを借りて、そこでちゃちゃっと作っちゃうっていうことをしてきたけど、今回はそうじゃなくて、2週間という期間があったのがよかった。

このアルバムを聴いていて、じつは最初は「なんて生音のように素晴らしいシンセサイザーなんだ」ということを思ったんです。僕のミュージシャンの友だちはあなたのお気に入りの VST(作曲ソフト上で作動する音源ソフト)を知りたいみたいだったんだけど、そういうわけではないようですね。

S:VST は入ってないね。今回はサンプリングもいっさいしていない。808 の部分とピアノのいくつかは使っているけど、それ以外では MIDI も使っていない。ほんとうにそのスタジオで録った音しか収録されてないんだ。

アナログな手法が音の質感の変化にもつながっていますね。一方で『Trilogy In Funk』に引き続き、ゲッツ(Ghetts)やD・ダブル・E(D Double E)、他にもP・マニーといった第一線のグライムのMCが多く参加していますが、レコーディング中のエピソードはありますか。

S:ゲッツとの共作“Drill Work”を作っているときかな。ロンドンのスタジオで、初日はビートを作って、その次の日にヴァイオリン、その次の日にホーンというふうにレコーディングしていったけど、ゲッツはその音に対してノートも使わずにその場でビートをスピットしていったんだ。マイクの前に立って、ゲッツが「Been there, Done there, No Talk, Don chat」とスピットして、俺は「イェー」って感じ。そういうことが生まれるのもスタジオのいいところだね。まるでスタジオを「白いキャンバス」として使うようで好きなんだ。自分の音楽がほかの人をインスパイアして、それがさらに次に繋がっていって、一緒に作っているという感覚がある。

生の空気がそのまま制作につながっていくんですね、ヴァイブスの高さはゲッツらしい感じがします。ほかに一緒に参加したアーティストはどのように選んでいますか?

S:とにかくまずはその人の音楽が好きなこと、そして「正直」なことをやっている、音楽を感じられること。「真のアーティスト」であると感じられること、そして自分がつながりを感じられること。「人気がある」とかほかの瑣末なことは関係ないよ。スタジオでケミストリーが生まれるかどうかが大事だな。

誠実さというのがいちばんキーになるのはすごくおもしろいと思いました。少しむかしのことを振り返るような感じになりますが、スウィンドルが「スウィンドルになる前」についても聞かせてください。私は最初あなたの音楽を「ダブステップ」や「UKベース」の棚で見つけました。ご自身はダブステップのシーンが非常に勢いづいていたクロイドンで生まれ育っていますが、そこまでダブステップにハマっていたというわけではなかったんですね。

S:自分がダブステップを見つけたというよりは、ダブステップが自分を見つけたという感じ。クロイドン(*)が出身だけど、もともと作っていたものを外の人が聴いて、「こういうのやらない?」と誘われた感じだね。それはグライムにおいても同じで、自分はずっとグライムの「アウトサイダー」なんだ。たとえば、アラバマ出身でカントリー・ミュージックをやるっていうのは「ふつう」のことかもしれない。だけど、「ふつう」にはないようなユニークなことをやっている人が、お互いをサポートするためのシステムが〈Butterz〉だったりするんだ。たとえば僕が応援している ONJUICY が日本でグライムをやっているってことは、もうそれだけで「違うこと」をしているわけだよね。だから彼をすごく応援したいし、彼の立場に共感できるんだ。

オーセンティックになるためには「自分自身」でなければいけないと思うよ。ただそれは「何かから距離をとる」っていうことじゃなくて、あらゆるものにより近づくってことだと思う。

いまUKのジャズ・シーンにはすごく勢いがあって、おもしろい作品がたくさん生まれています。今回のアルバムにはヌバイア・ガルシア(Nubya Garcia)やマンスール・ブラウンが参加していますが、ジャズとの関わりはいかがでしょうか。

S:ヌバイア・ガルシアとはむかしからの仲で、僕のショーのサポートでも演奏してもらっている。彼らとのストーリーといえば、2013年に1st アルバム『Long Live The Jazz』をリリースしたときにいろいろな人から「ジャズというジャンルは人気じゃないし、そのジャンルに自分を並べることは今後の音楽活動に悪い影響がある」という話をされたんだよね。でも後から、アルバムに参加しているマンスール・ブラウンとかヌバイア・ガルシアや、ヘンリー・ウーユセフ・デイズ、エズラ・コレクティヴ、フェミ・コレオソ(Femi Koleoso)といったミュージシャンが僕を見てくれていて、僕が「ジャズ」という言葉を使ったことで、彼らが新しいムーヴメントを起こすときに後押しされたと言ってくれた。だからといって、べつに僕は「彼らの成功は自分のおかげだ」と言うことはまったくないけどね。僕はジャズという言葉を文字通りの意味以外の意味で使っていた部分もあるけど、僕がしてきたことで彼らを後押しできたことはとても素晴らしいことだと思っている。

非常におもしろい話ですね。そういったことを踏まえて、ジャズについてご自身はどのような立ち位置だと感じていますか? グライムやダブステップと同じようにやはり「アウトサイダー」でしょうか。

S:やっぱりアウトサイダーのような感じだね。ヌバイア・ガルシアと自分は同じアーティストとしてメッセージを発していて、彼女とは従兄弟のような感じかな。

そういう意味では影響を受けている音楽も含めて、あらゆる音楽から少し距離を置いているというか、言い方を変えれば「孤立」しているという感じでしょうか。そういういわゆる「オーセンティックなもの」からは……

S:だから「自分がオーセンティック」なんだよね。たとえば「オーセンティックなグライムをやる」っていうのは、他のオーセンティックな人に合わせるっていうことだと思う。そしたら、オリジナルの人はオーセンティックかもしれないけど、フォローする人はオーセンティックじゃないんだよね、オーセンティックになるためには「自分自身」でなければいけないと思うよ。ただそれは「何かから距離をとる」っていうことじゃなくて、あらゆるものにより近づくってことだと思う。(ジャズ・レジェンドの)ロニー・リストン・スミスとも仕事するし、(グライムMCの)D・ダブル・Eとも仕事してきた。ほかの人から、「そんないろんな人と仕事をしているのはスウィンドルだけだ」って話を聞いた。だから、オーセンティックになるためにダブステップやグライム、ジャズから距離を取るのではく、あらゆるものに近づいて、いろいろなものから影響を受けるっていうことだと思った。

でもそういう人と仕事をするのってけっこう大変なときもありませんか。「友だちになる」っていうこともコラボレーションのなかには入っているでしょうから。

S:でも何も強制することはないよ。自分はこれだけ音楽に浸ってきているので、ライヴとかショーとか、他のときに一緒にいたというきっかけで繋がって打ち解けることが多い。具体的に「どこで」出会ったかとかは忘れてしまっているけど、音楽に対して向き合う姿勢やリスペクトはすごく大事だね。

なるほど。少しネガティブな話になりますが、そうした音楽キャリアのなかで自分の成功やこれまでの評価が逆にプレッシャーになることはありませんか。

S:2013年に、ロンドンのクラブ Cable でDJしたときに、電源が止まって、音が止まってしまったんだ。そのときに満杯のお客さんに対してどうしたらいいかわからなくて。

それはある意味でプレッシャーですね(笑)。

S:そう、でもそのときに自分の口から「Long Live the Jazz」という言葉が出て、それでお客さんとコール・アンド・レスポンスしたんだ。そこからはじまった。いまは多いときは毎週5000人のお客さんに会うことになる、そんな生活はすごく恵まれていると思う。音楽キャリアのなかでいちばん大変なのは飛行機とか車で移動することだけど、音楽をやることはぜんぜんプレッシャーには感じてない。一方で、音楽で生計をたてていることには責任を持たなければいけないと思っているよ。なぜかというと、音楽をやって生活しているということは特権的な生活だから。そのためには、自分が好きな音楽だけをやってそれで自分がハッピーになって、周りの人にポジティヴなものを返す、与えるっていうことを大事にしているよ。

みんなが憧れるような人気DJやアーティストとして素晴らしい仕事をしていても、不幸になってしまう人もいますね。

S:そうだね、それはすごく気をつけなくちゃいけない。結局不幸せになるっていうのは「やりたくないことをやっている」からだよね。たとえば歌がうまくて歌手になったのに、着たくない衣装を「人気が出るから」という理由で着るとか. そういうことが不幸になってしまう最初の状態だったりする。家具職人が最初は手の込んだ家具を作っていたのに、「お金が儲かるから」とか「これが仕事だから」とか、そういう理由で組み立て家具ばかり作らされてしまうみたいなことだ。そうしたら、家具職人はむかしやっていた自分の好きなことが懐かしくなって、いまがすごく不幸に感じられてしまう。それはなぜかというと、「自分はなんでいまこれをやっているのか(Why are we doing what we do?)」っていうことに気を配ってないからなんだ。

まさにアルバムの最初のライダー・シャフィークのメッセージですね(**)。そういう話を聞くと一層メッセージが強く伝わってくる感じがします。アルバムのタイトルになっている「No More Normal」というメッセージはどのような意味がありますか。

S:自分はまずタイトルが決まってからアルバムを作りはじめるといった性なんだよね。3年前に自分が思いついて、いまは自分にとっては「連帯」やコラボレーションを通じて自分たちの未来を作り上げていくというような感じかな。ジャンルやバックグラウンドが違っても、「自分たちらしくある」ことで自分たちの未来を作り上げていくというメッセージを込めているんだ。

(*) クロイドンは南ロンドンの郊外にある地区。2000年代のUKダブステップの興隆の中心となった。
(**) “What We Do (Feat. Rider Shafique, P Money, D Double E & Daley)”『No More Normal』

Jeff Tweedy - ele-king

 オルタナティヴという言葉はある時期まで、なにか真新しいものを指す響きを伴っていたはずだ。日本では「オルタナ」といえばイコールで(ある程度狭い範囲の)オルタナティヴ・ロックを指す時代もあった。主流派や多数派の主張、ロック・スターやその物語を崇めるだけでは感じることのないできない何か……いまでは言葉自体の新鮮さは失われ、オルタナと言えば右派の冠となって(alt-right)もっとも話題になっているようである。リベラリズムにネオがついて別の価値観を提示するようになったように、オルタナティヴもまた行き場所を失っているのだろうか。
 とはいえいま、だからこそと言うべきなのか、「オルタナ」は懸命に回顧されている。ライオット・ガールをはじめとした90年代の女性たちによるロック・ミュージックが再評価されるのは時流を考えれば当然のことだし、スネイル・メイル、コートニー・バーネット、ジュリアン・ベイカーといった現在脚光を浴びる「オルタナティヴ・ロック」の新世代のアイコンが非ヘテロの女性というのも象徴的だ。ビキニ・キルの再結成も、スリーター・キニーの新曲をセイント・ヴィンセントがプロデュースしているというのもいいニュースだと思う。いま、「なにか真新しいもの」は圧倒的に女性の表現だ。

 では男たちはどうだろうか。天野龍太郎くんには年末の紙エレキングのコラムで「木津はいま一番生きにくいのは白人男性だと言っている」と書かれてしまったが――いや実際に言っているのだが――、もう少し正確に言うとそれは白人ヘテロ男性で、具体的な経済的・政治的なことではなく、なんと言うか、発言力や表現の説得力のようなものを指している。いわゆるトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)を男性側から糾弾したジレットのCM(https://youtu.be/koPmuEyP3a0)がいま海外では凄まじい議論になっているが(日本であまり話題になっていないのはなぜ?)、彼らヘテロ男性たちの肩身の狭さを見る想いがして何とも言えない気持ちになってしまった。
 かつて「オルタナ」だった男たちもすっかり中年になり、もはや新しくも何ともない。しかし……結論から言えば、ジェフ・トゥイーディとJ・マスシスというオルタナ中年男のソロ・アルバムがなんとも沁みるものがあるのである。それは多分にノスタルジーもふんだんに含みつつも、彼らの現在を懸けて鳴らされていることが伝わってくるからだ。

 どちらも飾り気のないフォーク・ロック・アルバムだ。ウィルコのフロントマンであるジェフ・トゥイーディの『ウォーム』ではドラムのグレン・コッチェや息子のスペンサーなどお馴染みのメンバーを招きつつ、お馴染みの彼の歌がパーソナルに展開する。フォーク/カントリー、いくつかのパワー・ポップ、ほのかなエレクトロニカやアンビエントの音響。90年代末から00年代頭にかける頃のウィルコの音のドラスティックな進化はすでに過去に得た語彙のひとつとなり、着古したシャツのように全体の一部として馴染んでいる。鳴りのいいギターを殊更強調するわけでもなく、かといって無理に加工したりしない率直さ・素朴さはキャリアの長さを思えばじつはすごいことのようにも思えるし、ジェフの声もメロディもいまふと沸いて降りてきたような親密さがある。
 キャッチーで軽やかなフォーク・チューンである“Some Birds”や“Don't Forget”も彼らしいチャーミングな曲だが、ラスト2曲にこのアルバムの良さがよく表れているように感じる。ビターなメロディと余韻を残すギターが重なる“Warm (When The Sun Has Died)”では「僕は天国のことを信じない」と老いや死についての内省が弱々しく呟かれ、力の抜けきったダウンテンポ・フォーク“How Will I Find You?”では「どうすれば君を見つけられるだろう? わからない」と繰り返す。僕には「You」が生きる目的やゴールを指しているように聞こえる。彼は天命を知るはずの50を過ぎてなお、途方に暮れる自分を包み隠そうとしない。

 ダイナソーJr.のマスターマインド=J・マスシスの『エラスティック・デイズ』もまた、オープニングの“See You At The Movies”のあまりにも瑞々しいギターのイントロの時点でハッとするものがある。よく歌うエレキのソロと、90年代の青春映画に一気にタイムスリップするような甘酸っぱいメロディ……「映画のなかで会おう」。だがそれは、彼が向き合い続けたロック・サウンドの蓄積でこそ実現しているのだとわかる。マスシスはここでギターだけでなくほとんどの楽器を自分でこなし、おそらく過去最高に親しみやすくパーソナルな一枚を作り上げた。ダイナソーJr.のギター・ノイズではなく、アコギを主体とした演奏はあくまで優しい。ほとんど3分台のナンバーがズラッと並び、エモの復権を象徴するように情熱的なギターの演奏が次々に現れては去っていく。ドラマティックなコントラストを持つ“Give It Off”、激しさを内包しながら疾走する“Cut Stranger”、叙情的アコースティック・サウンドで聴かせる“Sometimes”……思春期の少年たちの偶像劇のようでありながら、しかしこれはあくまで若くない男の内部にある柔らかい部分の表出である。
 何かと奇人とか変人とか言われるJだが、それは「普通」に器用に生きられるひとたちが見落としている何かが彼には見えているからだろうし、この飾り気のないソロ・アルバムを聴いていると、彼のほうこそその瞬間瞬間を生きているのだろうと思わされる。それが「オルタナ」なのだろうと。

 ふたりがまだ真新しかった頃を僕はリアルタイムで知らないので「いい年の取り方をしている」なんて偉そうなことは言えないのだけど、オルタナティヴとして年を重ねることの困難と勇敢さを感じることはできる。20年以上前に壁に貼ったライヴのポスターは剥がれてしまったし、誰かにもらったお気に入りのミックステープもなくしてしまった。だが、もう入らなくなってしまったTシャツとジーンズを棚から引っ張り出さなくても、30年以上弾き続けてきたギターを鳴らすことでふたりのJは僕たちをいまもビターでスウィートな気持ちにしてくれる。

FEBB - ele-king

 昨年2月15日、不慮の事故により亡くなったラッパー/プロデューサーのFEBB。STRUGGLE FOR PRIDE の『WE STRUGGLE FOR ALL OUR PRIDE.』や Gottz の『SOUTHPARK』にもそのラップやプロダクションがフィーチャーされていたけれど、24歳の若さで逝去してしまった彼の一周忌となる今年2月15日に、追悼イベント《STILL SEASON》が開催されることが決定した。彼と同じく Fla$hBackS のメンバーだった KID FRESINO や JJJ をはじめ、B.D.、DMF、DOWN NORTH CAMP など、多くのアーティストが出演する。会場は渋谷 WWW X。詳しくは下記をご確認ください。

2018年2月15日に逝去したラッパー/プロデューサー/DJの FEBB AS YOUNG MASON (享年24歳)の一周忌に、追悼イベント《STILL SEASON》が渋谷WWW Xで開催される。

JJJ、KID FRESINO と共にFla$hBackSのメンバーとして活動、唯一のアルバム『FL$8KS』が高く評価され一躍シーンの重要人物となった。
ソロ・デビュー・アルバム『THE SEASON』の発表、SPERB とのユニット CRACKS BROTHERS、A-THUG、KNZZ らとの DAWG MAFIA FAMILY など精力的に活動をしてきた。2017年10月に GRADIS NICE & YOUNG MAS 名義によるアルバム『L.O.C -Talkin' About Money-』を発表。
《STILL SEASON》の出演者には、JJJ、KID FRESINO のほか、B.D.、DMF、DOWN NORTH CAMP、MIKI&KIKUMARU (KANDYTOWN)、SPERB によるライヴ、ETERNAL STRIFE、日本横町 (Marfa by Kazuhiko Fujita) のDJが決定している。
SPACE SHOWER TV Black File によるドキュメンタリー番組『look back to FEBB AS YOUNG MASON』の上映のほか、Banri Kobayashi (Diaspora skateboards)、Daiky As Tosatsuma、Goro Kosaka によるギャラリーも併設。ROCCO'S NEW YORK STYLE PIZZAの出店も予定している。
1月26日(土)午前10時より前売券が発売される。

タイトル:STILL SEASON
日付:2019/2/15(金)
OPEN / START:18:00
会場:WWW X
前売券 / 当日券:3,000円+1D

LIVE:
B.D.
DMF
DOWN NORTH CAMP
JJJ
KID FRESINO
MIKI&KIKUMARU (KANDYTOWN)
SPERB

DJ:
ETERNAL STRIFE
日本横町 (Marfa by Kazuhiko Fujita)

上映:
Black File : look back to FEBB AS YOUNG MASON

GALLERY:
Banri Kobayashi(Diaspora skateboards)
Daiky As Tosatsuma
Goro Kosaka

FOOD:
ROCCO'S NEW YORK STYLE PIZZA

前売券(発売日:1月26日(土)午前10時):
e+、ぴあ、ローソン、トラスムンド店頭

Binkbeats - ele-king

 これは興味深い。まずはこのエイフェックス“Windowlicker”のカヴァー動画を視聴してみてほしい。あの楽曲を人力で、しかもたったひとりで再構築してしまうこの人物、ビンクビーツ(Binkbeats)というオランダのプロデューサーである。他にもフライング・ロータスラパラックスアモン・トビンなどのエレクトロニック・ミュージックをがしがしひとりでカヴァーしているからすごい。アンダーグラウンドの最尖端に敏感なDJクラッシュの最新作『Cosmic Yard』にもフィーチャーされていたので、それで気になっていた方も少なくないだろう。そんなアナタに朗報です。ちょうど本日1月9日、彼がこれまで発表してきた2枚の12インチを独自にまとめたCDがリリースされます。昨年ソニックマニアで来日した〈Brainfeeder〉のジェイムスズーも参加しているとのことで、おもしろい音楽を探している方は要チェックですぞ。

BINKBEATS

〈Brainfeeder〉総帥 Flying Lotus、Thom Yorke (Radiohead) 率いる Atoms For Peace、そして Aphex Twin や、さらには J. Dilla まで数々のアンセムを人力且つたった一人で再現したライヴ映像で世界中に衝撃を与えたオランダのビート・サイエンティスト BINKBEATS ついに日本デビュー!

LAビート・シーンを牽引する〈Brainfeeder〉総帥 Flying Lotus “Getting There”、Thom Yorke (Radiohead) 率いる Atoms For Peace “Default”、そして Aphex Twin “Windowlicker”といった数々のアンセムやさらには J. Dilla の“Mixtape”を人力且つたった一人で再現したライヴ映像で世界に衝撃を与えたオランダのマルチ・インストゥルメンタリスト BINKBEATS。ROCK、POSTROCK、ELECTRONICA、HIPHOP、JAZZ など幅広い音楽要素を融合し多種多様な楽器/機材を駆使しながら構築する先鋭的なビートや美しくもエモーショナルなメロディ、それらを独創的なサウンド・スタイルで展開した本作は各500枚限定でプレスされた連作EP「Private Matter Previously Unavailable」 PART1 と PART2 の全曲を収録したオリジナル楽曲としては初のCD化!

既に YOUTUBE で公開されているライヴ映像が100万再生を超えているM1 “Little Nerves”は Daedelus や Jameszoo の作品にも参加しLAビート・シーンの重要レーベル〈Alpha Pup〉からも自身の名義でリリースしている注目の若手鍵盤奏者 Niels Broos をフィーチャー、そしてM3 “In Dust / In Us”には〈Brainfeeder〉から発表された 1st『Fool』が高い評価を受けた Jameszoo もプロデュースに加わるなど次世代の注目アーティストが多数参加! 現在ワールドワイドにツアーを行っており、また DJ KRUSH の最新アルバム『Cosmic yard』(2018年3月)にも参加するなど日本国内でも徐々に活動の幅を広げるなど、その唯一無二なパフォーマンスで世界各地に衝撃を与えている今後の活躍が期待されているアーティストである。

タイトル:Private Matter Previously Unavailable / プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル
アーティスト:BINKBEATS / ビンクビーツ
発売日:2019.1.9
定価:¥2,400+税
PCD-24796 / 4995879-24796-9
日本語解説:原雅明
p-vine.jp/music/pcd-24796

Additional Synths On All Tracks By Niels Broos
Additional Production On In Dust / In Us By Jameszoo
Additional Vocals On Heartbreaks From The Black Of The Abyss By Luwten, The Humming / The Ghost By Maxime Barlag

Mansur Brown - ele-king

 ひとりの亡霊が音楽シーンを徘徊している――アンビエントという亡霊が。いや、べつにいまにはじまった話ではないけれど、とりわけ近年はさまざまなジャンルにアンビエント的な発想が浸透していることを改めて実感させられる機会が多い。もちろん一口にアンビエントと言っても、イーノ的なそれだったりレイヴ・カルチャー以降のチルアウトだったり、あるいはグライムのウェイトレスだったりヴェイパーウェイヴだったりといろんな展開のしかたがあるわけで、その亡霊はヒップホップやロックの分野にも、そして当然のようにジャズの領域にも忍び込んでいる。フローティング・ポインツの『Elaenia』(2015年)なんかはその好例だし、そしてこのマンスール・ブラウンのアルバムにもまた同じ亡霊がとり憑いている。

 現在のUKジャズ・ムーヴメントを加速させる契機のひとつとなったユセフ・カマールのアルバム『Black Focus』に参加したことで注目を集めたマンスール・ブラウンは、もともとはトライフォース(Triforce)という当時大学生だった面々が組んだバンドの一員で、そのときの超絶的なギター・プレイが話題となりシーンに浮上してきたギタリストである(トライフォースのアルバム『5ive』もユセフ・カマールとほぼ同時期にリリース)。その後アルファ・ミストやリトル・シムズの作品に客演した彼は、2018年のジャズの流れを決定づけたコンピ『We Out Here』にもトライフォースとして参加、松浦俊夫のアルバムにもフィーチャーされるなど着実に知名度をあげていき、最近ではハーヴィー・サザーランドの新曲に参加したり、まもなくリリースされるスウィンドルの新作にも名を連ねたりと、ますます活躍の場を広げていっている。その勢いに乗って放たれたファースト・ソロ・アルバムがこの『Shiroi』だ。

 ギタリストとしての彼についてはジミ・ヘンドリックスの名がよく引き合いに出されているけれど、本作における彼はそのようなスタイルを抑圧し、静穏な演奏に徹している――とまで言ってしまうと語弊があって、たしかに“Godwilling”や“Flip Up”のようにエレクトリック・ギターの唸りが大いに華を添えている曲もないわけではない。ただ、それ以上にリスナーの耳に突き刺さるのは、アルバム全体を覆うどこまでも幽遠なディレイのほうだろう。それによって生成されるアンビエント的なムードは、たとえば先行シングルとなった“Mashita”によく表れ出ていて、雨音のような具体音とギターの残響とが密やかに重ね合わせられていく様には息を呑まざるをえない。遠くの谷からこだましているかのようであり、逆に窓のすぐ外で奏でられているかのようでもある不思議なエコー、それらが織り成すなんとも幻妖な音色の数々は、どうしたってドゥルッティ・コラムを想起させる。
 冒頭“The Beginning”ではそのディレイが、左右に振り分けられたテープの逆再生音と絡み合うことでサイケデリックな趣を醸し出しているが、他方でベースの動きもおもしろく、独特の拍の強弱が肉体的な躍動感をもたらしてもいる。続く表題曲でも淡いギター・エフェクトとグルーヴィなベースとの対比が強調されていて、低音パートもまたこのアルバムのたいせつな要素であることがわかる。“Back South”や“Simese”などのファンキーなベースはその何よりの証左だし、“Me Up”や“Flip Up”で鳴らされるブロークンビーツ由来のビートも非常に良い効果を生んでいる。ようするに、霧のごとく宙を漂うギター・ディレイとグルーヴィな低音パートとの幸福な出会いこそがこのアルバムの肝であり、「地に足の着いた浮遊感」とでも表現すればいいのか、彼岸へと連れ去られそうになる意識をご機嫌なベースラインがしっかりと此岸に引き止めてくれている。

 2018年はUKジャズの画期として記憶されることになるだろうけれど、そのUKジャズの熱気とアンビエント的なものの浸透とを一手に引き受けたこの『Shiroi』は、どちらの観点から眺めてみても異色の魅力を放っている。こういう作品がぽっと生み落とされるからこそムーヴメントはおもしろいのだ。マンスール・ブラウン、しばらくは彼の動向から目が離せそうにない。

The 10 Best Singles/EPs of 2018 - ele-king

 このサウンド・パトロールというコーナーは僕にとって非常に思い入れが深いコーナーである。よく読んでいたのは、かれこれ7年ほど前のこと。レコ屋へ行っても「何聴いていいかわかんねーよ」と大量のシングル盤を前にして怯えていた当時、野田努が主に書いていたこのコーナーは、いま人生を傾けるべき音を教えてくれるマイル・ストーンだった(その形式を踏襲し、持っている盤の写真は自分で撮った。ジャケではなくラベルを優先している)。
 2018年。データやサブスク形式が主流になってもエレクトロニック/ダンス・ミュージックはシングルやEP(1ー3曲入りの音のカタマリ)をいまだに必要としている。産業構造を俯瞰してみてれば、いまさらいうまでもなく、技術革新などによって、制作、それに付随する労働パターン、さらには「消費」スタイルが現在確実に変わりつつある。けれどもシングルやEPはヴァイナル以外の購入/再生の選択肢が増えただけで、「12インチに収録できるくらい少ない収録曲」というコンセプトは30年前とさほど変わってはいない。なぜか。シングルは最初から「高速」で動いてきたからである。シングルやEPはプロデューサーに浮かんだアイディアを比較的ハイスピードで形にすることを可能にさせる。ゆえにシングルは時代のモードを即座に反映することができる。ゆえに発売されたばかりのシングルは新しい。ゆえに、シングルはいつまでも素晴らしくてカッコいい。ゆえに、シングルには耳を傾けなければならない。
 今回のサウンド・パトロールでは、今年リリースされたシングル/EP(リイシュー含む)を10枚ピックアップしてみた。民主的なプロセスを経て選んだわけではないが、行く先々のクラブで吸収した人々の躍動(ヴァイブス)は、それ相応に反映されているだろう。住んでいるロンドン、訪れる場所になった東京、マンチェスター、ユトレヒト、モスクワ、浜松のクラブでインスピレーションを与えてくれた人々に感謝する。
 可能な限り盤で聴いたものを選んだが、データで聴いたものもある。並びは順不同である。それぞれが別の方向を向いているので、ランキング付けは不可能だった。そのどれもが見逃すことができなかった秀作たちだ。感覚を大いに奮い起たせる10枚といってもいい。レアなものを選んだつもりはない。このすべては、あらゆるひとびとに開かれている音楽だ。

Object Blue - Do you plan to end a siege? - Tobago Tracks

 ロンドンの物質世界でオブジェクト・ブルーの存在が確認されるようになったのは3年ほど前のことで、2018年はその大きな飛躍の年となった。2017年にブリストルで行われたこの「青い物体」によるライヴの1時間のオーディファイルは、その特異性を捉えるモーション・キャプチャーとして機能している。そこでは無光状態で合生するオウテカのライヴでサウンドが全感覚器官をハックしていくのと同種の凶暴性や、UKベース・ミュージックの低域60ヘルツ付近に設置された身体を捕獲するマジックが確認された。今年ロンドンの〈Tobago Tracks〉からは、そのデビュー作が到着。EPの各所で女性の音声マテリアルが分裂と融合を繰り返し、それがグラニュラー・シンセで視覚的にコンピュータライズされた周波数テクスチュアと絡まり、ダイナミックな律動性を形成する。この美学は他者を大きく圧倒している。オブジェクト・ブルーは自身をテクノフェミニストと呼ぶ。哲学者ダナ・ハラウェイは機械と人間の混合が進む現代を考察しサイボーグフェミニズムを起動させた。それをサウンド面から更新するように、このデータ・リリースの三曲は、テクノ化された、つまり技術によりラディカルな空気振動へとトランスコーディングされた無形の「身体」を経由して、フロアの女性たちに変革をもたらさんとする。あるいは、彼女たちこそがその変革の主体であり、サウンドはその周囲のすべてを取り込んでいく。ウジェヌ・グリーンの映画『ポルトガルの尼僧』から引用されたというタイトル「包囲戦を終わらせるつもり?(Do you plan to end a siege?)とは、ジャンヌ・ダルクが突破したオルレアンの包囲を指している。

Pavel Milyakov aka Buttechno - Eastern Strike - RASSVET records

 2018年、ロンドンのカルヴァータ22というアートスペースで『Post Soviet Vision』というソ連解体以降の旧ソ連圏の若者文化を追った美術展に、『オレフォヴォ』と題された作品が展示されていた。ブリューゲルの絵画『雪中の狩人』にロシアのモスクワ郊外のオレフォヴォ地区に立ち並ぶブロック(集合マンション)をコラージュしたそのビュジュアル作品を作ったのは、デザイナーのパベル・ミリヤコフ。彼の音楽プロデューサーとしての名をバッテクノと呼ぶ。「郊外」はソ連解体以降の都市文化においても重要なタームであることを端的に示した作品だ。ミリヤコフはファッション・デザイナーのゴーシャ・ラブチンスキーのショー音楽を手がけていることでも知られており、今作はその2018年AWコレクションのために制作された。A面はトランシーなノンビートのシンセループあるいはインプロ集。ロシアのレイヴの遺産の探求がテーマにあるというが、その手法はダンス・ミュージックのブレイク部分をつなぎ合わせたロレンツォ・セニの影響か。 B面はダブステップ以降のUKベース若手世代が思わず唸るビートである。ミリヤコフはとても研究熱心な作り手だ。テレンス・ディクソンやエイフェックス・ツインを丁寧に聴き、クラウトロックにも関心を向け、2017年に〈TTT〉から出たEP「Super Sizy King」にはその成果が溢れている。普段からハード機材をよく使っているようだが、本人に問い合わせたところ、今作はラップトップでピュアデータをメインにすえて制作されたとのこと。スタイルを横断する。ここに重要な学びの精神がある。A面冒頭曲が『i-D』が制作したゴーシャのドキュメンタリーで流れた時の、新しい時代の幕開け感が凄まじかった。「Rassvet」とはロシア語で「夜明け」の意味である。彼をよく知るモスクワの友人は「それは言い過ぎ」というけれど、東の郊外からはじまるサウンド革命に、ついついブリアルを重ね合わせてしまう。

Nkisi - The Dark Orchestra - Arcola

 チーノ・アモービによれば、〈NON Worldwide〉の当初のコンセプトはンキシによるものだという。アフロフューチャリズムの文脈で分析されることもある同レーベルだが、彼女の関心は未来というよりも、そのアフロの起源、あるいはアフリカの民族に伝わるコスモロジー(宇宙論)に向いている。今年リリースされた〈Non〉のコンピレーションに収録の“Afro Primitive”は、過去としての起源に向かうというよりも、その起源で生まれた原始的なレンズを通して、現代を覗き見るようなトライバルテクノ・トラックだった。 今年の3月に〈Warp〉のサブレーベルである〈Arcola〉からリリースされたこのEP「The Dark Orchestra」の表題曲は、プリミティヴなミニマル・ループであるというよりも、ダイナミックなヘヴィ・トラックである。ブラックではなく、光が差し込まないダークという概念をンキシはチョイスする。冒頭の数分のシンセの重層から突如場面が切り替わり、宇宙の暗黒面から大量の隕石が落下するかの如く連打されるリズムは圧巻である。曲名からサン・ラーを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。ダンス・トラックのルールを度外視した暴力的速度の祭典“Violent Tendencies”、強力なサイケデリアが襲撃する“G.E.O”、ハーフステップ的ガバの突然変異“Dark Noise”。安易に聴かれることを拒否する、新たなテクノの地平である。2018年の1月には、リー・ギャンブル主宰の〈UIQ〉から彼女はデビュー・アルバム『7 Directions』をリリースする。このアルバムが参照し、彼女が本人名義メリカ・ンゴンベ・コロンゴのインスタレーション活動で調査をしたバントゥ-コンゴのコスモロジーによれば「聞くことは見ること、見ることとは反応すること/感じること」である。ここにはX-102にもドレクシアにもなかったアフロへの、あるいは音へのアプローチがある。ンキシが切り開くダーク・テクノは、明日のシーンの方向をどう変えるのだろうか。

Raime - We Can’t Be That Far from The Beginning -RR

 ダンス・ミュージックにおけるサウンドの共進化である。レイムがついに始動させた自身のレーベル〈RR〉からの一発目。タイトルを少し意訳せば「俺たちがハナっからそんな行き過ぎるわけがない」となる。数年前、ワイリーによるドラムをトラックから抜き去る手法、通称デビルズ・ミックスの発展系とされるスタイル、無重力グライムが脚光を浴びた。レイムのこの12インチもその延長線上で捉えることができるかもしれないが、これは重力の塊のように聴こえる。“In Medias Res”は冒頭でリズム的展開を見せるかと思えば、「とても怖い」、「私は疲れた」とピッチを変調されたループとともに、ビートは引き裂かれる。そこに放たれるサウンドは何か引っ張られるように視界から消えてゆく。ベースと言葉が落下を続ける。低音とエフェクトを通された金属音、「ちょっと度が過ぎたかも」というセリフの抜粋ではじまる“Do I Stutter?”では、裁断された声が遠近法やリヴァーブといったエフェクトを通される。静寂と進行性キックで何かを語ろうとするも、聞き手にそれがなめらかに届くことはない。このアプローチを継承した形で“See Through Me, I Dare You”では、空間そのものが鋭利な刃物に思えるほど際立つ。前半は緊張を煽り、中間でメタリックな旋律が一瞬の希望を見せ、アブストラクトな形状のビートが追従し、最後はそれがストリングスの濃霧に消える。『RA』の今作のレビューでも触れられているが、マーク・フィッシャーは生前、レイムにインタヴューを行っている。パーソナル、カルチュラル、ポリティカルさの不可分性を踏まえた上で、そのすべてに働く無意識を描き出そうとするレイムの姿勢がそこでは語られている。重力、あるいは現実に無意識が引き寄せられていく段階、つまり言葉が言葉になる容態を覗き込むことができたら、きっとこんな音が鳴っている。

Docile - Docile - The Trilogy Tapes

 ダークにも、B級にも、ロウにも、ドレクシア学派にも自由に変形する今日のテクノ・アンダーグラウンドにおいて、ひときわ神秘的かつソリッドなビートを生み出しているプロデューサーがジョン・T・ガストである。個人的な2017年のベスト・シングルは、彼が〈Blackest Ever Black〉から出した「wygdn」で、アンビエントとダンスホール的メランコリアで構成された10インチは、一瞬にしてレコード店から姿を消しクラブへ投下されていったのを記憶している。ガストは今年、ンキシとのプロジェクトであるコールド・ウォーを始動させているが、ここで取り上げるのはトライブ・オブ・コリンとのユニット、ドーサイルである。ライダー・シャフィークのスポークン・ワードのようにリズムは魔術的にとぐろを巻く。デジタリティを醸し出すドラムキックは、おそらくはトライブ・オブ・コリンが操るMC505で生成されたものだろう(彼のライヴ機材群はMC505を主軸に組み立てられ、テクノでMCが飛び入りでラップをする! 同機はMIAのファーストに使われたことでも有名)。ノンビートで静かに奈落へと降下し、突如キックが重力を発生させ、スネア、タム、クラップがシンプルにグルーヴを生み、シンセが耳元で息を吹きかけるA面の“Docile 7”。裏面で行き場を失った怒りが、躍動するベースライン、金属の鳴き声、メランコリックなメロディとともに押し寄せる“Empty Fury”。最後の“Jonah Reprise”は間延びしたサイレンがベースとともに響く漆黒のアンビエントだ。ラベル上で彼らの顔はカットされている。見えないこと、ダークであること、パワフルであること。彼らはじつに素直(docile)に、それらを並列させクラブに黒い炎を生み出してしまった。

Mars89 - End of the Dearth - Bokeh Versions

 マーズ89の存在を僕は5年ほど前から知っている。コード9×ブリアル・ミックスがネオ・トーキョー感を放っているという文章を読んだが、そっちよりも僕は彼のプレイにそれを感じる。マーズ89は会った時からすでにまだ到来していないネオ・トーキョーの住人だった。トラップがかかるメインフロア上空のサブルームで、アンダーグラウンドなR&Bや初期シンゴツーをプレイする姿は、荒廃するキャピタル・シティを自由に走り去るライダーのように見えたものである。近年、ザ・チョップスティック・キラーズ(現:グッド・プロフェッツ)などでの活動を通し、そのモード感覚はトライバルやUKベースを軽やかに吸収。加えて、ユーモラスで危険な遊び方を練磨し、その成果がNOODSラジオにおける縦横無尽な選曲のトランスミッションから聴こえてくる。2018年にブリストルの〈Bokeh Versions〉からリリースされた3枚目が本作EP「End of the Death」である。アートワークのカプセルは快楽用ではなく、この異世界ソニック・フィクション的音像へアクセスするための装置だろう。BPM110のネオ・ダブビーツが思考の速度を奪う表題曲は、ミイラ化したリズムマシンを召喚し、続く “Run To Mall”ではそのドラム・ロールが銃声に倒れるまでループされる。その渇きを潤すかのように、“Visitor from the Ocean”では水面化のマイクが拾っているかのようなシンセとベースがあなたに休息を許す。“Random Coherence”においては不可視的サブベースがDJピンチのいう「ブラック・スポット」を刺激。終曲“Throbbing Pain”は和太鼓と幽霊の声が共生し、左右に揺れるハットが火花を散らす。このサイファイホラー・ダブは誰にも似ていない。死の終わりの向こうに浮かぶ火星から届いた傑作である。

Loidis - A Parade, In The Place I Sit, The Floating World (& All Its Pleasures) - anno

 頭から視聴して驚き、すぐに購入した。調べてみたら、ホエコ・Sの別名義だということでさらに驚いた。フォー・テットはあまりの良さに二枚買ったといっている。最初のマジックはまず一曲目 “A Parade”の冒頭部分だろう。スローにループされるサウンド・マテリアルから、このレコードが33回転なのか45回転なのか判別できる人間はまずいないだろう。そこにキックが入り、一定のタイム・モードが世界の進行を決定づけ、最小限かるインプロバイズされたシンセが複合かつ単発的に動く。全員で一点を目指して各マテリアルが鳴るというよりも、そのそれぞれがバラバラにかつグルーヴィに同時進行(パレード)していく絶妙な統一感のなさが自由を感じさせる。裏面の“The Place I Sit”においては、この盤におけるヒプノティックなムードの強度が最高潮に達する。低音域で穏やかになるパーカッションと、意思を持っているかのようにうねる高音域のループが、艶やかにファンクする。同面終曲の“The Floating World (&All Its Pleasure)”では、アンビエントで展開されるベースとハイハットの会話にキックが合流し、FMシンセ的な金属音のにわか雨が降る。この12インチのヘイジーなアンビエンスは、アクトレスのそれとは異なり視界を遮ることがなくクリアであり、クラブのサウンドシステムの開放的美学とベッドルームの閉所的快楽の間に浮世を創出している。

Joy O - 81b EP - Hinge Finger

 ジョイ・オービソンが自身のレーベル〈Hinge Finger〉から出した2018年唯一の12インチである。今年はマルチ楽器奏者にベン・ビンスとの共作「Transition 2」が〈Hessle Audio〉から出ているが、サウンド・デザインの面では僕はこちらの「81b EP」 に惹きつけられた。一曲目の“Seed”はジョン・T・ガストの墓場のメランコリアや、ンキシのダーク・テクノにも通じる。上部でこだまする粒子的ブリップ音は次曲の“Coyp”にも引き継がれ、ダンスホール的ベース・キックの悦楽が足元を揺らしている。ギターのミュート・プレイのようなシンセが特徴のアンビエント“Tennov6teen”は、以前のオービソンのスタイルにはなかった砂漠に置き去りにされたような焦燥感を生む。“Belly”はリチャード・D・ジェイムスのアンビエント・テクノを想起させるような、透明度の高いグルーヴを創出。“Sin Palta”はジョイ・オーが得意とするヴォイス・サンプルのループが、全曲のアンビエンスをストレートなリズム・ストリームで流れる。最後の“81b”はスローなテンポでベースが上下に跳ね回り、上記の曲の渇いた透明なアンビエンスそれを支え、ブレイクで崩壊するシンセが耳を奪い続ける。オービソンは無法レイヴと都市世界者のテクノをつなげる重要プレイヤーであり、ロンドンのトップDJである。だがこの12インチには、かつての姿ははっきりとは出現しておらず、異なるモードへ向かっていることが示唆されている。ここで彼はさらなる進化を遂げようとしている。その姿勢はエスタブリッシュすることなく、暗闇のコウモリのようにテクノのワイルド・サイドを飛んでいるようだ。

Terre Thaemlitz, DJ Sprinkles - Deproduction EP 2 - comatonse recordings

  米国出身川崎在住のミュージシャン/ジェンダー理論家のテーリ・テムリッツがアルバム『Deproduction』を自身の〈comatonse recordings〉からリリースしたのは2017年の12月である。43分の2曲と、そこから抜粋されたピアノ・ソロ、そして彼自身のDJスプリンクルズ名義による3曲のリミックスが収録された一枚のSDHCカードと、10枚のインサートで発表された。
 まず同作のコンセプトを説明する。フェミニストとクイアによる核家族の批判的拒絶の現状に今作は焦点を当てている。現在、欧米を中心に核家族という西洋の伝統的価値観がLGBTの家族観に積極的に取り込まれはじめている。元来、クイア側は、その核家族観に抵抗する形で、意図的に親になること、あるいは家族を持つことの放棄を行っていた。「Deproduction」、不産主義。それは多様性をラディカルに捉え直す実践でもある。だが現在のLGBTにおける核家族化の普及の流れにおいて、不産主義はただのエゴセントリックなものとしてみなされてしまう。テムリッツはそこに注目し、音源、ビデオ、それからテキストによって、西洋的ヒューマニスト観の闇を不産主義の側から描いている。(レーベルのHPに詳しい説明がある: https://www.comatonse.com/releases/c027.html)。
 2018年、このアルバムから二枚のEPがカットされた。リリースはヴァイナル・オンリー。ここで取り上げるEP2には各約14分の“Admit It’s Killing You (And Leave)”のピアノ・ソロとスプリンクルズによるハウス・バージョンが収録されている。ハウス・バージョンに針を落とすと、湖面に落ちる雨粒のように澄み渡るハイハットの幻覚と、そこに反射するピアノが流れてくる。それに加え、静寂のなかで跳ねるベースを基調に、異なるシンバル、パーカッション、ストリングがリズムを彩る。ときとして落ちる、優しく深いリバーブに覆われたリムショット。完璧なトラックである。裏面のソロピアノも非常に美しい。(俗な例だと言われるかもしれないが)キース・ジャレットの『ケルン・コーサート』の陽気な部分をそぎ落とした、かといって隠が増幅されているわけでもない旋律。どこにも着地しようとしない、不安定なグライダー飛行のアンビエンス。これほど議論と癒しを聴き手にもたらした12インチを僕は知らない。このシングルを手にしたとき、炎上していたのは杉田水脈衆議院議員の「LGBTには生産性がない」発言である。勘違い野郎はことの本質を常に取り逃がすことしかできない。テムリッツの批判的美学はその現状において輝きを増しているのは間違いない。ここでは長くなってしまうのであまり踏み込まないが(実は僕もまだアルバムを聴けていないとうこともあり)、リリースから一年経ってしまっているものの、この作品は木津毅を切り込み隊長に据え、しっかりと論じられなければならない。
 最後に、リミックスでループされるコメディ風の英語のスポークン・ワードに触れる:「彼らは従来的な家族で、ただその周囲にいるだけのゲイのひとびとから非難を浴びていた。というのも、彼らの考えが家族観を腐敗させると思っていたからだ。その家族は「他に別の考え方があるって?」という感じだ。それで、彼らはバラバラになった」。前後の文脈がなければなかなか理解するのが難しいセンテンスだが、ラベルの和訳タイトルが参考になる。伝統的な家族は、その「苦しみ」、つまり自分たちが直面する問題点がその家族の構造にあるかもしれない現実を認めようとしない。彼らが恐れる不産主義的なバラバラになる生き方(立ち去ること)が、その解決になることだってありえる。ここでは、そんな風にして、伝統的な家族が絶対的であるとする西洋の核家族観が揺さぶりをかけられているのだろう

Womack&Womack - MPB (Missin’ Persons Bureau) - Melodies International

 2018年ベスト・リイシューはコレ。僕が初めて聞いたのは5月のこと。この頃、ベンUFOがオールド・ストリートにあるクラブのXOYOで13週連続のレジデンシーDJを務めていた。あの日はブラワンとパライアからなるユニット、カレンが出演した回だった。つまり、ハードなテクノの激流が午前2時を破壊した日である。その後3時くらいにデックに戻ってきたベンがもう2時間ほど回して、その夜最後のシメにこれをかけた。開始数秒のディレイがかかったギター・ストロークが鳴った時点で時間の流れが直線から凹凸になる。もう数秒経過、甲高い声と囁き、ファンキーなギターが入る。ダブ、空間がねじれる。ビートはない。残像とともに美しいコーラスが始まり、明らかに他のパートとは異なる強度のベースが重力を変える。そして、爽快なドラムが4月中旬の風のようにすっと入ってくる。あとはこの繰り返し。数分後には夜が終わって欲しくないと強く思っていた。フランキー・ナックルズ(1955-2014 RIP)がウーマック&ウーマックの88年作 “MPB(Missin’ Persons Bureau)”のリミックス盤を〈Island〉から出したのは1989年、 “Your Love”の2年後、 “The Whistle Song”の2年前のことである。オリジナル盤が高騰しまくる約30年後の5月にこの名作をリイシューしたのはフローティング・ポインツ主宰の〈Melodies International〉で、オリジナル盤のマスター・テープから二曲ピックアップし「A Side: Paradise Ballroom Mix/ B Side: Folk Version」として12インチ45回転にまとめられた。ベンUFOが流したのはB面のフォーク・ヴァージョンだ。シルキーで、低音がぶっ飛んでいて、ダブ・サイエンティストから全盛期のカンまでもが想起される音響マジックは時間/空間の非現実性をフロアで増大させる。そして何よりも大事なことは、これは偉大なる失恋歌であり、ハウスのゴッド・ファザーはそこだけは非現実化しなかったということだ。ヴォーカルは今日も朝飛び起きると行方不明者捜索局に電話をかけ、愛する人がいなくなっちゃいました、と問い合わせ続けている。

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