「iLL」と一致するもの

KTL - ele-king

 KTLのサウンドはロックと電子音楽における「消失と咆哮」の先に鳴り響く壮絶なドローン音響空間である。どこか原子の生成を思わせる物質的な電子音と、まるで宇宙の発生を想起させるような強靭なノイズが、高密度かつ高感度に並走・融解し、聴き手の音響空間へと浸食・制圧し、耳を、その脳を、その空間を、その磁場を、その重力を震動させるだろう。音のバロックと、その崩壊のようなドローン・ノイズ。
 00年代以降に勃興したドローン作品の中でも、アンビエントなサウンドにはならず、リスナーの聴取空間に制圧感覚をもたらすという意味で、ドゥーム/ノイズの強靭さとグリッチ・ノイズ/電子音響の刺激を合わせ持つ類まれなユニットといえよう。

 それもそのはずだ。ご存じの方も多いだろうしいまさら多くの説明は不要かもしれないが、このKTLは、あのサンO))) のスティーヴン・オマリーと、電子音響作家ピタにして〈Editions Mego〉主宰のピーター・レーバーグのユニットである。彼らはオリジナル・アルバムを5作リリースしている。まず2006年に『KTL』、ついで2007年に『2』、さらに同年にはEP「3」、そして2008年に『IV』(ジム・オルークによるプロデュース)、2012年に『V』(マーク・フェルがアートワークを手掛けている)を発表する。ライヴ音源なども多くリリースされているが、アルバム・ナンバーを冠したオリジナル・アルバム(EP)は、〈OR〉リリースのEP「3」を除き、これまではピタの〈Editions Mego〉からリリースされてきた。
 しかし新作『The Pyre: Versions Distilled To Stereo』は現在絶好調のリリースを仕掛けるフランスの〈Shelter Press〉からとなった。これには驚かされたが、しかしアートと音響を越境するこのレーベルならば、KTLと結びつくのは必然ともいえる。
 じじつ、本作は、フランスの振付家ジゼル・ヴィエンヌ(Gisèle Vienne)の舞台/ダンス作品『The Pyre』のために制作されたという越境型の音響作品である。その意味ではサウンドトラック盤に近いアルバムかもしれないが、しかし、本作の音には彼らの新しい音響的境地が凍結されており、やはり「オリジナル・アルバム」にもカウントすべき作品にも思えた。あえていえば「硬質/静謐」の生成である。
 音はパリのIRCAMで制作された。舞台はマルチ・チャンネル作品らしいが、本レコード用にKTLの手によってステレオ・ヴァージョンにエディットされている。ミックスをサンO))) の共同プロディースを手掛けている音響作家ランドール・ダン、そしてマスタリングを名匠マット・コルトンが手掛けている点も注目したい。

 前作『V』は2012年リリースなので、なんと6年ぶりのアルバムだ。2018年末は注目すべきエクスペリメンタル・ミュージックが多数リリースされているが、その中でも重要作品といえる。モダンな舞踏作品の音響音楽だが、そのサウンドの肉体への拘束力が、身体が発する重力に抗いたいという意志にシンクロするような音響となっているのだ。時代の先端的なモードを疾走するような「最新音楽」は、抵抗とシンクロを同時に生み育てるものだ。そこにおいては「重力」への抗いこそが、音楽の抵抗とシンクロのアナロジーとなる。このKTLの新作も「最新音楽」のテーゼを象徴するように、新しいアトモスフィアを生成しているように感じられるのだ。
 さらに本アルバムの音は、これまでのKTLと比べて、冷たい鉄のように静謐なのである。轟音の先に漲る硬質でスタティックかつマテリアルな音の生成とでもいうべきか。仏「IRCAM」録音ということもあるが、その鉱物的ともいえる電子音は、まさにピエール・シェフェール、ピエール・アンリなどフランスの電子音楽とミュジーク・コンクレートの伝統に即した音響ともいえよう。同時にその音響は過去の伝統という重力も強く振り払う。肉体と重力からの解放をテーゼとするモダンなコンテンポラリー・ダンスの音楽をベースとした作品としては、完璧な音響を構築しているとすらいえる。これもまた肉体/重力への静かな抵抗の意思の表出といえないか。

 アルバムには全5曲が収録されており、全体でひとつの大きな流れを作っている(ベースが舞台作品の音響音楽なのだから当然だろう)。どの曲もガラスのように透明で、その砕け散った破片のように鋭利で、澄んだ早朝の空気のように清冽でもある。電子音が、波のようにダイナミックに、かつ繊細な変化と生成を行い、聴き手の脳内にインプリティングされている反復という概念を静かに拡張していく。それは確かにピエール・アンリやシェフェールを思わせるオーセンティックな電子音楽のようでもあり、シェーンベルクやヴェーベルンなどの20世紀型の無調の弦楽曲のようでもあり、轟音が過ぎ去ったあとのノイズ/ミュージックのようでもあり、そのどれでもない。「形式」という状態に束縛されてはいないのだ。ここにおいて重要なのは意識への新しい作用とムードの生成にある。

 特にアルバムの最終楽曲にして10分36秒に及ぶアルバム中最大の長尺曲“SuperMellow”は圧倒的な聴取体験をもたらしてくれる。静謐にして、しかし空気を一気に支配してしまうような電子音と具体音の折り重なりは、宇宙の秘密を垣間見るような強烈な音響空間だ。静謐な空間にいくつもの音が舞うように鳴り、生れ、舞う。やがてそれらの音はダイナミズムを増していき、ノイズへと生成変化を遂げる。その刹那、それらの音たちは、「過去」になっていくだろう。まるで「重力」を振り払うように。あたかも「光」の発生のように。もしくはマーラーの交響曲のコーダのように。ロマンティックな時代が終焉し、光と速度の世界へと変わることを宣言するように。
 それはむろんこの曲だけに限らない。このアルバム全体に漲る音響運動には、地上の「重力」に抵抗する強い意志=芯があるように感じられる。踊ること、舞踏は、まさに重力への抗いであろう。KTLのこのアルバムは、そんな意志に見事にシンクロしている。それはサウンドのエディットがもたらす時間の変容感覚ゆえだろう。そう、透明な光のごとき美的完成度と強靭さを称える最新の音響音楽がここにある。

ジム・オルーク - ele-king

 ジム・オルークはいかなる音楽ジャンルもマスターできる人だと立証する必要がもっとあるとしたら、アンビエント/エレクトロニック音楽に焦点を絞った新レーベル〈ニューホェア・レーベル〉から6月にリリースされた『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』は確実にその証拠をもたらしてくれる1枚だ。豊かな質感を備え、ときに驚くほど耳ざわりなサウンドから圧倒的で不気味な美の感覚を作り出す音楽作品『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』は、パワフルで心を奪う。

 そのアルバムをライヴ・パフォーマンスへと置き換える行為には常にチャンレジが付きまとうもので、というのもライヴ会場のリスニング環境次第でその音楽経験も変化するからだ。エリック・サティが開拓しブライアン・イーノによって統合された本来のアンビエント・ミュージックは「音楽的な家具」――すなわちその聴き方に特定のモードを押し付けてこない音楽だった。しかし、数多くの観衆がひとつのホール内に囲い込まれ、立ったまま、ステージを見つめながらの状態で集団としてアンビエントのパフォーマンスを体験するというのは、そうしたライヴ環境そのものの性質ゆえに、音楽をとある決まったやり方で味わってくださいと求められることでもある。
 
 それだけではなく、2年越しでまとめられ、『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』を形作っていくことになった繊細にバランスがとられたテクスチャーと音の重なりとを、このライヴ・パフォーマンスがそっくりそのまま再現するはずがない。ジム・オルークのようなミュージシャンは、いったん自分の中から外に送り出してしまった作品を再び訪ねたり再構築しようという試みくらいでは満足できない、変化を求め続けるアーティストである点も考慮に入れるべきだろう。そもそも、彼のおこなったアルバムのライヴ解釈の演奏時間はCD版の倍の長さであり、ルーズな構成の中に新しいサウンドやアイディアを盛り込みつつ、それでもアルバムに備わっているのと同じ音響面での文法のいくつかはちゃんと維持している、そういう内容なのだから。

 アンビエント・ミュージックの本質はロックのリズムを否定するというものではあるが、『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』には特有のリズムがあり、完全な静寂の瞬間とは言い切れないものの、それにかなり近いものによって句読点を記されながら、そのリズムは満ち欠けしていく。アルバムにはキーとなるふたつの静止場面があり、そこで聴き手は可聴域のぎりぎりのところで音や振動波を探しまわることになるのだが、音楽はごく漸次的で慎重なペースでもってしか耳に聞こえるレヴェルにまでこっそりと忍び戻ってはこない。ライヴの場でも、同様に静寂がたゆたうプールふたつの存在がパフォーマンスの構成を定義するのを助けていた。それでも会場のウォール&ウォールに訪れたそうした静寂の瞬間は、スタジオに生じる漠たる静寂にはなり得ない──それは屋根で覆われたコンクリートの箱の中にめいっぱい詰まった、たくさんの押し黙った身体が懸命に息をひそめようとしている、そんな場に生まれる静けさの瞬間だ。

 音源作品としての『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』とオルークがしょっちゅうやっている「スティームルーム・セッションズ」のオンライン・リリースとの関係が、少なくとも同アルバムに何かしらの痕跡を残しているらしきことは、オルークが「スティームルーム」で発表されたもののいくつかはある意味『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』の「できそこねたヴァージョンなのかもしれない」と示唆していることからもうかがえる。今年6月にあのアルバムが発表されて以来、「スティームルーム」からは他にもう2作が浮上してきているし、これらの新音源に備わった遺伝子が、音楽をまた新たな何かに変容させつつあるという印象を抱かされる。そこから生まれるのは刻々と変化する奇妙な日没、ぼんやりとした、歪んだ「蜃気楼(Fata Morgana)」(※)が溶け出し、彼方に浮かぶサブリミナルな拍動へと組み変えていくようだ。

※筆者補遺=Fata Morganaは蜃気楼(訳者註:アーサー王物語に登場する魔女・巫女Morgan le Fay=モーガン・ル・フェイにちなみ、イタリア読みがファータ・モルガーナ。水平線や地平線上に見える船や建物などの「上位蜃気楼」を意味する)を意味する言葉だが、このパフォーマンスとも関係がある。オルークの演奏中、その背景には異星の景色っぽく見える歪曲されたヴィデオ・プロジェクションが流れていたのだが、友人はその映像の元ネタはヴェルナー・ヘルツォークの映画『蜃気楼(Fata Morgana)』(1971年)ではないかと指摘していた。


Jim O'Rourke

Live@Wall & Wall Aoyama, Tokyo
17th Nov, 2018

text : Ian F. Martin

If the world needed any further evidence of Jim O'Rourke's ability to master any musical genre, the release in June of Sleep Like It's Winter for new ambient/electronic-focused label Newhere Music provided it in spades. A richly textured piece of music that creates an overwhelming sense of eerie beauty out of sometimes surprisingly harsh sounds, Sleep Like It's Winter is a powerful and captivating album.
Turning it into a live performance was always going to provide challenges, due to the way a live listening environment changes the experience of the music. Ambient music as originally pioneered by Eric Satie and consolidated by Brian Eno was musical furniture – music that doesn't insist on a particular mode of listening. However, a large crowd of people all corralled into a hall to experience an ambient performance collectively while standing, facing the stage are by the nature of the environment being asked to consume the music in a certain way.
There's also no way a live performance is going to recreate exactly the delicately balanced textures and layers that over the course of two years combined to form Sleep Like It's Winter, and you've got to guess a musician like Jim O'Rourke is too restless an artist to be satisfied attempting to revisit or recreate a work he has already got out of his system. For a start, his live interpretation of the album is twice as long as the CD, incorporating new sounds and ideas into a loose structure that nevertheless retains some of the same sonic grammar as the album.
While the nature of ambient music is that it rejects the rhythms of rock music, Sleep Like It's Winter has a particular rhythm of its own, waxing and waning, punctuated by moments of, if not exactly silence, then something quite like it. The album features two key moments of stillness, where your ears are left to hunt for tones and frequences at the very edge of your hearing, the music creeping back into the audible range at only the most gradual and deliberate pace. Live, two similar pools of silence help define the structure of the performance, although at Wall & Wall, these moments cannot be the silence of the studio: they are the silences of a high-ceilinged concrete box filled to capacity with quietly shuffling bodies, trying not to breathe.
The relationship between the recorded form of Sleep Like It's Winter and O`Rourke`s frequent Steamroom Sessions online releases appears to have left at least some mark on the album, with O'Rourke suggesting that some of the Steamroom releases might be in part “failed versions” of Sleep Like It's Winter. Since the album's release in June, two more Steamroom releases have emerged, and it feels like the DNA of these new recordings has gone to work mutating the music into something new. The result is an ever-shifting alien sunset, a blurred, distorted Fata Morgana dissolving and reformulating to a distant, subliminal pulse.

The reference to "Fata Morgana" is maybe a bit difficult to translate. Of course the phrase has a meaning in relation to optical illusions and visual distortions in the atmosphere. However, it's also relevant to Jim's performance. While he was playing, there was a distorted video projection of what looked like an alien landscape, and I was talking to a friend about it who thought it looked like the original clip was from the Werner Herzog documentary movie called "Fata Morgana" . I don't know how you'd translate that, but there is a kind of double-meaning in the phrase.

追悼 ピート・シェリー - ele-king

 近頃はみんながハッピーだ
 僕たちはみんなそれぞれのインスタグラムでポップ・スターをやっていて、最高に楽しそうな、もっとも自己満足できるヴァージョンの自らのイメージを世界に向けて発している。僕たちは文化的なランドスケープの中を漂い、愉快そうでエッジがソフトな人工品に次から次へと飛び込んでいく。そこでは硬いエッジに出くわすことはまずないし、蘇生させてくれる一撃の電気を与えることよりもむしろ、締まりのない、無感覚なにやけ笑いを引き起こすのが目的である音楽に自分たち自身の姿が映し出されているのに気づく。

 近頃では、バズコックスにしてもポップ・カルチャーのほとんどに付きまとう、それと同じ麻痺した喜びのにやけ顔とともに難なく消費されかねない。ノスタルジーの心あたたまる輝き、そして40年にわたって続いてきたポップ・パンクのメインストリーム音楽に対する影響というフィルターを通じてそのエッジは和らげられてきた(AKB48の“ヘビーローテーション”はバズコックスが最初に据えた基盤なしには生まれ得なかったはずだ、とも言えるのだから)。ピート・シェリーとバズコックスはファンタスティックなポップ・ミュージックの作り手だったし、その点を称えるに値する連中だ。

 だがもうひとつ、ポップ・ミュージックはどんなものになれるかという決まりごとを変えるのに貢献した点でも、彼らは称えるに値する。ザ・クラッシュとザ・セックス・ピストルズの楽曲が、それぞれやり方は違っていたものの、怒りや社会意識と共に撃ち込まれたものだったのに対し、バズコックスは60年代ガレージ・ロックの遺産を労働者階級系なキッチン・シンク・リアリズムの世界へと押し進め、十代ライフのぶざまさを反映させてみせた。彼らのデビュー作『スパイラル・スクラッチEP』に続くシングル曲“オーガズム・アディクト”は自慰行為の喜びを祝福するアンセムだった(同期生のジ・アンダートーンズも同じトピックをもうちょっとさりげなく歌ったヒット曲“ティーンエイジ・キックス”で好機をつかんだ)。そのうちに、ハワード・ディヴォートがマガジン結成のためにバンドを脱退しシェリーがリード・ヴォーカルの座に就いたところで、“ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?”や“エヴァー・フォールン・イン・ラヴ(ウィズ・サムワン・ユ―・シュドゥントヴ)”といった歌では欲望というものの苦痛を伴う複雑さを理解した音楽作りの巧みさを示すことになった。

 バズコックスだけに焦点を絞るのはしかし、ピート・シェリーの死を非常に大きな損失にしている点の多くを見落とすことでもある。バンド結成の前に、彼はエレクトロニック・ミュージックで実験していたことがあり、その成果はやがてアルバム『スカイ・イェン(Sky Yen)』として登場した。そして1981年にバズコックスが解散すると、彼はシンセサイザーに対する興味と洗練されたポップ・フックの技とを組み合わせ、才気縦横でありながらしかしあまり評価されずに終わったと言えるシンセポップなソロ・キャリアを、素晴らしい“ホモサピエン”でキック・オフしてみせた。

 シェリーはバイセクシュアルを公言してきた人物であり、概して言えば満たされない欲望やうまくいかずに終わった恋愛といった場面を探ってきたソングライターにしては、“ホモサピエン”でのゲイ・セックスの祝福は一見したところ彼らしくない直接的なものという風に映った。ここには事情を更に複雑にしている層がもうひとつあり、それは当時の一般的な英国民が抱いていたホモセクシュアリティは下品で恥ずべきものという概念を手玉にとる形で、シェリーがホモセクシュアリティを実に喜ばしいロマンチックなものとして描写した点にあった。言うまでもなくBBCは躍起になってこの曲を放送禁止にしたしイギリス国内ではヒットすることなく終わったが(アメリカではマイナーなダンス・ヒットを記録した)、ブロンスキー・ビートやザ・コミュナーズといったオープンにゲイだった後続シンセポップ・アクトたちは少なくともシェリーに何かを負っている、と言って間違いないだろう。
 
 ピート・シェリーはポップ・ミュージックのフォルムの達人であったかもしれないが、我々アンダーグラウンド・ミュージック・シーンにいる連中にとって、彼の残した遺産そのものもそれと同じくらい重要だ。『スパイラル・スクラッチEP』はその後に続いたDIYなインディ勢の爆発そのものの鋳型になったし、ミュージシャンがそれに続くことのできる具体例を敷いたのは、もっと一時的な華やかさを備えていてポリティカルさを打ち出したバズコックスの同期アクトがやりおおせたことの何よりも、多くの意味ではるかに急進的な動きだった。その名にちなんだ詩人パーシー・ビッシュ・シェリーのように、ピート・シェリーもまたラディカル人でロマン派だったし、彼の影響は深いところに浸透している。

R.I.P. Pete Shelley

text : Ian F. Martin

Everybody’s happy nowadays.
We’re all pop stars of our own Instagram accounts, projecting the happiest, most self-actualised version of ourselves out to the world. We drift through a cultural landscape, bouncing from one cheerfully soft-edged artefact to another without encountering any hard edges, finding ourselves reflected in music whose goal is to induce a slack, anaesthetic grin rather than a resuscitating jolt of electricity.
Nowadays, Buzzcocks can be comfortably consumed with the same slack grin of numb enjoyment that accompanies most pop culture, the warm glow of nostalgia and the filter of 40 years of subsequent pop-punk influence on mainstream music softening its edges (AKB48’s Heavy Rotation could arguably never have existed without The Buzzcocks having first laid the foundations). Pete Shelley and The Buzzcocks made fantastic pop music and deserve to be celebrated for that.

However, they also deserve to be celebrated for helping change the rules for what pop music could be. While The Clash and The Sex Pistols’ songs were, in their own differing ways, both shot through with anger and social consciousness, Buzzcocks pushed the legacy of ‘60s garage rock into the realm of kitchen- sink realism, reflecting the awkwardness of teenage life. Orgasm Addict, which followed their debut Spiral Scratch EP, was a celebratory anthem about the joys of masturbation (contemporaries The Undertones made hay from the same topic slightly more subtly in their hit Teenage Kicks). Meanwhile, as Shelley settled into the role of main songwriter following Howard Devoto’s departure to for Magazine, songs like What Do I Get? and Ever Fallen In Love (With Someone You Shouldn’t’ve) showed a knack for music that recognised the tortured complexities of desire.
Focusing only on Buzzcocks misses a lot of what made Pete Shelley’s death such a loss though. Prior to the band’s formation, he had experimented with electronic music, the results of which eventually appeared as the album Sky Yen, and following his band’s dissolution in 1981, he combined his interest in synthesisers with his knack for sophisticated pop hooks, kicking off a brilliant if underappreciated synthpop solo career with the magnificent Homosapien.

Shelley was openly bisexual, and for a songwriter who typically sought out moments of frustrated desire and love gone wrong, Homosapien was on the face of it uncharacteristically direct in its celebration of gay sex. The complicating layer here lay in the way Shelley played with the British public’s perception at that time of homosexuality as something tawdry and shameful by depicting it in such joyous and romantic terms. Obviously the BBC fell over themselves to ban it and it was never a UK hit (it was a minor dance hit in America) but the subsequent success of openly gay synthpop acts like Bronski Beat and The Communards surely ows at least something to Shelley.
Pete Shelley may have been a master of the pop music form, but for those of us in the underground music scene, his legacy is just as important. The Spiral Scratch EP was the template for the whole DIY indie explosion that followed and as an example for musicians to follow was in many ways a more radical move than anything Buzzcocks’ more flashily political contemporaries managed. Like the poet Percy Bysshe Shelley, from whom he took his name, Pete Shelley was a radical and a romantic, and his influence runs deep.

Matmos - ele-king

 2018年のトピックのひとつにIDMのクィア化というのがありましたが(ソフィーロティックサーペントウィズフィートイヴ・トゥモア……などなど)、そのルーツのひとつにビョークの存在が大きくあり、そして彼女のエレクトロニカ期を支えたのがIDMシーンの愉快な実験主義者=マトモスでした。作品ごとに風変わりなコンセプトを打ち出してきたマーティン・シュミットとドリュー・ダニエルのふたりは公私ともに長く付き合っているゲイ・カップルであり、様々な意味で現在に続くエレクトロニック・ミュージックの先駆者であることは間違いないでしょう(古今東西の実在のクィアたちの“サウンド・ポートレイト”である『The Rose Has Teeth in The Mouth of A Beast』を聴き返してみましょう)。
 そんなふたりが、彼らの記念日を祝ってニュー・アルバムをリリースすることを発表しました。はたしてそのテーマは、プラスチックです!

 タイトルは『Plastic Anniversary』で、いろいろなプラスチック製品やそのゴミを鳴らした音で作り上げたものだそう。前作『Ultimate Care II』が洗濯機の鳴らす音で作ったアルバムであったことを思い出せばその連続性も窺えますが、それ以上に、本作の背景に現在世界で大問題になっているプラスチック製品のゴミによる環境汚染があることは明らかです。リリース元の〈スリル・ジョッキー〉のプレス・リリースによれば、プラスチックが持つ“環境破壊の力”について考察したものであるそうです。今年のG7サミットで発表された「海洋プラスチック憲章」ではプラスチック製品を減らすことがかなり厳格に提唱されましたが、それにアメリカは署名しませんでした。つまりこれは非常に政治的なテーマを持つ作品であり、トランプ政権への異議申し立てをこのような独創的な手法でやってのけてしまうマトモスはさすがと言うほかありません。
 アルバム制作のトレイラー映像ではプラスチックのゴミをドンドンと叩いて録音するふたりの姿が確認でき、それがマトモスらしいファンキーでファニーなIDMへと変貌していく様にはワクワクしてしまいます。

 え? G7のプラスチック憲章に署名していない国がもうひとつあるじゃないかって? そうでした。それはもちろん、日本です。だからこそ、『Plastic Anniversary』は日本の音楽リスナーも現在の社会を考える上で、あるいはわたしたちに何ができるかを想像する上で必聴のアルバムとなるでしょう。

 トラック・リストには“Thermoplastic Riot Shield”といったタイトルも見えますが、警察がデモと対峙するときに使うプラスチック製のライオット・シールドの奥でふたりがキスをしている最新のアーティスト写真も、知的かつユーモラスに示唆的で最高です。ディアフーフのドラマー、グレッグ・ソーニアもゲスト参加しているとのこと。
 毎日大量に発生するプラスチックのゴミと向き合いながら、リリースを待ちましょう。 (木津毅)

Matmos
Plastic Anniversary
Thrill Jockey
March 15, 2019

Tracklist
01. Breaking Bread
02. The Crying Pill
03. Interior With Billiard Balls & Synthetic Fat
04. Extending The Plastisphere To GJ237b
05. Silicone Gel Implant
06. Plastic Anniversary
07. Thermoplastic Riot Shield
08. Fanfare For Polyethylene Waste Containers
09. The Singing Tube
10. Collapse Of The Fourth Kingdom
11. Plastisphere

七尾旅人 - ele-king

歌から生まれる音楽北中正和

 デビューしたころから既知感のある音楽だった。はじめて聞く曲ばかりなのにそんな気がしなかった。お父さんの影響で子供のころからジャズを聞いていたことや、彼が興味を持っているというミュージシャンの名前を見て、なるほどと思えるところもあったが、音楽が誰かのフォロワーというわけでもなく、その既知感がどこから来るのか、しばらく説明できなかった。しかしいつしか曲の作り方がそう感じさせるのかもしれないと思うようになった。

 いま世間では、リズム・トラックを先に作ってそこにメロディをのせて最後に歌詞を合わせていくような音楽の作り方が主流だ。そういう音楽ではリズムが細分化され、転調が多用され、コントラストの強い音がぎっしり詰めこまれている。それはそれで目立つための工夫であり、いまの社会のありようの一面をとらえた音楽ではあるのだろう。
 ところが七尾旅人の音楽はそんなふうに感じさせない。もちろん、いろんなタイプの作品があるので、一概には言い切れないのだが、あえて言えば、歌なりメロディなりが先にあって、リズムやサウンドがそれに寄り添う形で作られてきた作品が多いように思える。それは80年代までは普通にあった伝統的な曲の作り方だ。つまり彼の音楽が誰かの何かに似ているという以上に、歌声とメロディとリズムの織りなし方に、ぼくのような高齢者は既知感や懐かしさをおぼえてきたのだ。

 そんなふうに構造的にいまの時代の方法論から一歩距離を置いたオルタナティヴなところで“きみはうつくしい”や“スロー・スロー・トレイン”や“DAVID BOWIE ON THE MOON”、ジャジーな“いつか”のような曲を作れるのは素晴らしい才能だと思う。伝統的といえば、5音階的なメロディとケルト系のサウンドが重なる“天まで翔ばそ”のような曲もある。
 ただし伝統的といっても、彼はアンティーク趣味の音楽をやっているわけではない。レイヴ・パーティ的なイベントにギターひとつで出て行っても違和感がないたたずまいを持ち、ネット配信の可能性も試みてきた人だから、彼がいまのポップスのありように無関心であるはずがない。歌詞のはしばしや声の加工からひとつひとつの楽器の音色まで、どこを切り取ってもいまの音楽だ。音を引き算して聞き手の想像がふくらむ余地を残すところも、考えてそうする人が多いのだが、彼の場合はとても自然な感覚でやっている印象を受ける。
 旅する感覚にも似た、せつない希望に満ちた余韻が残るアルバムだと思う。

北中正和

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「こうしてまた、かき集められる声とともに」木津毅

 『Stray Dogs』というタイトル、そして岡田喜之による少年と犬が向かい合う可愛らしいイラストに僕はなんだか『犬ヶ島』を連想してしまったのだけれど、たしかに『Stray Dogs』はウェス・アンダーソンによるストップモーション・アニメのような愛らしい見た目と人懐こさ、茶目っけと温かみに満ちたアルバムだ。『兵士A』のような緊迫感やシリアスさはずいぶん和らぎ、怒りを堪えることができなかった七尾旅人そのひとの歌う姿を息を呑みつつ見つめなくても、寒い日の午後に紅茶でも飲みながら聴くこともできるだろう。が、あるいはこうも言えるかもしれない――『Stray Dogs』は、その柔らかく優しい感触とともに、この国や世界で起こっていることに想像を巡らせさせるようなアルバムである。その言葉とメロディ、音に耳を澄ませば、縦横無尽に繰り広げられる架空の冒険が待っている。それはどうしようもなく、僕たちが暮らす過酷な現実世界と結びついている。
 そういえば『犬ヶ島』の主人公は、野良犬(Stray Dog)だった。それまで誰にも心を開かなかった野良犬チーフは、少年アタリと暴走する権力と闘うための冒険をしているうちに彼との絆を育んでいく。僕はだから、あの映画はチーフが「thank you」とアタリに伝える声を聞くためのものだと思っている。ブライアン・クランストンによる、あの低く深い声。もちろん現実では犬の声を聞くことは僕たちにできない。だが想像のなかでなら、耳を澄ませば、もしかしたら聞こえてくるのかもしれない……。「野良犬」というのは、もちろんボヘミアンたる七尾旅人の生き方を表した言葉であるだろう。と同時に、僕には声を持たない人びとのことだと思える。七尾旅人は、世界に散らばった彼らの小さな声を懸命に拾い集めようとしている。ビリオン・ヴォイシズ。それをある種のファンタジーやフィクションに仮託して物語ること。だから、『Stray Dogs』はまったくもって『兵士A』の続きの地平で鳴っている。

 アルバムは、七尾旅人が20年でそうして集めてきた「声たち」とともに積み重ねてきた音たちをコレクションしたものだ。初期からの弾き語りフォーク、『billion voices』以降に顕著なソウルを中心としたブラック・ミュージックからの影響、いくらかのシンセ・ポップ、ギター・ポップ、ジャズ、ヒップホップ、エレクトロニカ、それに童謡。それらは少し悪戯っぽくとっ散らかりながら、しかし彼らしいチャーミングなメロディと少年性を残した声によって統合されていく。なめらかなアコースティック・ギターの演奏とシンセが重ねられる“Leaving Heaven”はあまりにも「らしい」オープニング・ナンバーだし、強めの打ちこみビートとエフェクト・ヴォイスが炸裂するエレクトロ・ポップ“Confused baby”には少し面食らうけれど、歌が入ってくれば変わらぬ愛嬌に微笑まずにはいられない。なんだかんだ言って、七尾旅人の歌はどんな装飾をしようとその芯でこそ聴き手の心をわし掴みにする。
 だから、たとえばヘリパッド建設問題で揺れる沖縄・高江で録音したと知らなければ、“蒼い魚”が政治的な歌だとは気づかないかもしれない。シンプルな言葉と強いメロディに支えられた美しいフォーク・ナンバーだ。僕たち聴き手はただ陶然とすることもできる。が、かすかに注がれる沖縄の音階と波の音、それに「泣かないで 泣かないで 蒼い魚はまだ泳いでいる」という言葉の意味をじっくりと考えてみれば、そこに沖縄で暮らす人びとの声や想いが重ねられていることがわかる。ほとんど幻想的なほどに華麗な弦の調べと反比例するように、必死に振りしぼられる歌声。そのひたむきさだけが、この歌たちの原動力になっていることがよく伝わってくる。もしくは、モザンビークからNadjaをヴォーカルに迎えた“Across Africa”はモザンビーク内戦をモチーフにしているそうで、音色やリズムはアフロ・ポップからの引用だ。日本のポップスとしてはオルタナティヴな類のものだろう。だが、誤解を恐れずに書いてしまえば、僕はこの曲をBUMP OF CHICKENやRADWIMPSのようなJ-ROCKを聴いている若い子たちにも聴いてみてほしいと思う。ナイーヴさと勇壮さを併せ持つメロディやコーラスとともに、知らない言語のスポークン・ワードを楽しんで、アフリカの歴史に想いを馳せてみてほしいと願う。それぐらいオープンなところで鳴っている歌だと、少しばかり頼りなくもしなやかなポップ・ソングだと感じる。
 僕たちは自分たちの生活や人生にいっぱいいっぱいだから、世界中に散らばった声なき声に耳を澄ましている余裕など失っているのかもしれない。シリアの現状を伝えるために危険を顧みなかったジャーナリストを攻撃せずにはいられないほどに。ただ生き延びるだけならば、そんな声たちに耳を塞いだほうがいくらか楽なのだろう。七尾旅人はそれらを無視することができず、しかし、その「できない」ことこそを歌うたいとしての力に変えていく。

 『Stray Dogs』はそんな風にしてこの世界の悲しみや嘆きを見つめているが、驚くほど肯定的な響きを有している。たとえば近しいひとの自死がきっかけとなったという“きみはうつくしい”は、ある喪失を根拠など持たぬまま「きみはうつくしい」という断言にひっくり返してしまう。やや唐突なラップでまくしたてられる、「誰かが最後に遺したフレーズ 読まれぬまま 流れるメール/誰かが最後に あれから迷子に そう 見逃される 無数のトレイル」という誰にも顧みられないまま消えていった存在への物想いは、七尾旅人流のソウル・チューンとして昇華される。「うつくしい」という単語は5音であるがゆえに少し収まりが悪く、だが、だからこそチャーミングなフロウとなる。その歌は、どうしたってはみ出してしまう存在や想いをどうにかして肯定し、祝福しようとする。清潔な響きのピアノが純粋な想いと呼応するラヴ・ソング“スロウ・スロウ・トレイン”。オートチューンド・ヴォイスがメロウなムードを醸すダウンテンポ“DAVID BOWIE ON THE MOON”。どれもが小さな人間の感情について描いているが、それらは宇宙にだって旅をする。  ところで、はっきりと犬が主人公になっている歌はアルバムには収録されていない(と思う)。代わりに鍵盤の音がまろやかでキュートなポップ・ソング“迷子犬を探して”は、いなくなってしまった子犬を探す少年の目線で語られる。「あの子の場所をぼくに教えてよ」とお願いする七尾旅人は本当に子どものようだ。そして僕たちがもし声を持たず、帰る場所もない野良犬だとして、懸命に探してくれる誰かがいる限りは存分に彷徨い続けることができる。彼の歌はそういうものだと思う。永遠の流浪を詞に託し、ジャズ・ピアノが静かな夜を彩る“いつか”はまったくもって美しいエンディングだ。

月明かりのその下を 二匹の犬が歩いていく
どこへ行くの? どこまでも
どこへ行くんだ? どこまでも
どこまでも どこまでも
横切って消えた  “いつか”

木津毅

interview with Colleen - ele-king

 年末に刊行されるele-king vol.23では「non human」というテーマの特集を組んでいる。近年の音楽、とくにエレクトロニック・ミュージック周辺では、「人間以外」をテーマにした音楽が目立つようになっている。OPNが人類滅亡後の世界を空想したり、このご時世、ダーク・エコロジーを反映した音楽は少なくない。日本でもceroが動物たち(人間以外の生命)のことをテーマにしたり、少し前ではビョークが自然をテーマにしたり、そんな感じだ。詳しくはぜひ本誌を読んでいただきたい。ここではその予告編もかねて、去る11月に来日したコリーンのインタヴューをお届けしよう。

 だれかにもっとも美しい音楽を聴きたいと言われたら、ぼくならコリーンの『A Flame My Love, A Frequency(炎、わたしの愛、フリーケンシー)』というアルバムを差し出す。2017年の年間ベスト4位にした作品(ちなみにFACT MAGは2位)。これだけ消費スピードが速いご時世において、いまでも聴きたくなるし、じっさいいまでも聴いているたいせつな1枚だ。彼女が来日すると知って、これは取材せねばならないと思った。11月初旬のことである。
 もっともぼくにはほかにも推薦したいアルバムがもう数枚ある。2013年の『The Weighing Of The Heart(心の計量)』は間違いなくその1枚に入るし、2015年のダブにアプローチした『Captain Of None 』も、初期の作品では『Les Ondes Silencieuses(沈黙の波)』もぼくは好きだ。ヴィオラ、チェロ、クラシックギター、こうした弦楽器の音色とエレクトロニクスとの有機的な絡み合いから生じるおおらかな静寂が彼女の音楽の魅力である。

 コリーンことセシル・ショットは1976年パリ郊外で生まれ、2年間イギリスで暮らし、そしてパリに移住し、現在はスペインに住んでいる。日本には2006年の11月に来ているので、今回は彼女にとって12年ぶりの2回目の来日となるわけだが、彼女が泊まっているホテルは渋谷の公園通りを上がっていって少し脇道に入ったところにあった。通りの向こう側では、建設中のビルがインダストリアルなビートを打ち鳴らしている。なんともアイロニカルなシチュエーションだなと思いながらロビーに座って待っていると、彼女は爽やかな笑顔でやって来た。ぼくは彼女にいかに自分があなたの音楽好きかを説明し、2017年の年間ベストでは『A Flame My Love~』を4位にした旨を話ながら誌面を見せた。5位が坂本龍一の『async』であることを見ると、「FACT MAGでは坂本が1位でわたしが2位だった。知ってる?」と言った。それから「うん、ジェイリンが3位は良いね」「じゃ、1位はなんでしょう」とページをめくってコーネリアスであることを確認すると、ひとこと「わお、ナショナリスティック!」とおどけた。なるほど、こういうリアクションもあるのかとぼくは妙に感心した。

わたしは反消費主義。たとえば、服は全部自分で作る。(着ている服をつまみながら)これも、これも、このジャケットも自分で作ったものよ。基本的にショッピングとかしない人間なの。

渋谷は、世界でもトップクラスの過剰なまでの商業都市で、あなたの音楽性とは真逆の世界でもあるんですが、滞在していてどうですか?

C:答えるのは難しいな。渋谷でじっくり時間を過ごしたことがないから。商業地区は避けるようにしているの。できるだけミニマリストな生き方をしたいからね。わたしは反消費主義。たとえば、服は全部自分で作る。(着ている服をつまみながら)これも、これも、このジャケットも自分で作ったものよ。基本的にショッピングとかしない人間なの。だから渋谷や商業地域で時間を過ごすことがないから、そこがどうなのかわからない。この後、谷中や上野に行こうと思っている。わたしが好きでいつも行く場所よ。東京が魅力的なのは、たとえ渋谷や原宿でも路地裏に行けば低層の建物が並んだ、味のある街並みがまだ残っているところ。パリだとすべてが高い建物で覆われてしまって、小さい住宅はもうほとんど残っていない。わたしから見ると、東京にはまだいくつか孤立した穴場があって、木造の掘っ建て小屋のような個性あふれる風景が残っている。

あなたの音楽が好きなのは、ぼくがふだん見ている世界とは違った世界が見えるからなんですね。この世に感情がかき立てられる音楽があるとしたら、あなたの音楽は世界が広がる音楽なんです。たとえば『Les Ondes Silencieuses』のアートワークには植物や星や動物が描かれている。あなたは動物や風や珊瑚や砂の音楽も作っている。

C:それはわたしにとっては大変な褒め言葉ね。わたしにとってひとりの人間としての進化とひとりのミュージシャンとしての進化は完全に連動している。そのふたつを切り離すことはできない。そして歳を重ねるにつれ、自然をより身近に感じるようになって、生きていく上で欠かせないものになった。たとえば、『Les Ondes Silencieuses』の後、わたしは音楽面そして個人的にも重大な危機に直面して、しばらく音楽を作るのをやめた。あまりに早いペースで物事が進んでいると感じたから。そしてまた音楽を作りたいと思えるきっかけを作ってくれたもののひとつが他の表現方法に身を置くことだった。だから陶芸と石彫を勉強した。そしてもうひとつは、より純粋で素朴な生き方をすることだった。
仕事とプライヴェートのバランスを見つけるのに日々悩まされるわ。わたしにとってプライヴェートの生活のなかで調和をとるのに役立つのが自然と接することなの。だからバードウォッチングをするんだし(※彼女の趣味で、取材の前日は代々木公園で野鳥の観察をしている)。もちろん鳥が大好きだからなんだけど、自然のなかにいると、自分のことについて考えるのを忘れるのよ。自分のあるべき姿により戻してくれる。大きな宇宙のなかでわたしたちというのは本当にちっぽけな存在でしかないのに、日常のなかでわたしたちは自分たちのことに囚われすぎてしまう。だからわたしとって自然を愛すること、そして自然界に生きる動物たちは当たり前のもの、うまく説明できないんだけど、自分を癒してくれる存在なの。わたしは瞑想を実践してはいないけれど、自然のなかにいて自然を見ていると、瞑想しているみたいに思える。心を癒してくれる薬のようなものね。だから、宇宙のなかに存在する他の生き物たちの存在を音楽のなかに感じ取ってくれたのなら、それは本当に嬉しいことよ。

わたしにとってひとりの人間としての進化とひとりのミュージシャンとしての進化は完全に連動している。そのふたつを切り離すことはできない。そして歳を重ねるにつれ、自然をより身近に感じるようになって、生きていく上で欠かせないものになった。

あなたの音楽は、いくつかの生の楽器とエレクトロニクスとの融合だと言えますが、人間とテクノロジーの関係をどう考えていますか?

C:テクノロジーは我々の感情表現や生活を便利にするための道具として使うのであれば素晴らしいものだと思う。音楽という観点で見たとき、PCや誰もが使えるソフトが存在しなければ、わたしはレコーディング・アーティストになっていたとは思わない。わたしはテクノロジーをDIYのツールとして興味を持っているけど、決してテクノロジーに傾倒している人間ではないわ。たとえば、わたしはスマートフォンを初めて手にしてからまだ2年も経っていないのよ。ずっとスマートフォンなんて要らないと思っていた。2年前に、必要に迫られて持つようになっただけ。
制作面に関して言うと、テクノロジーとの関係性は5作目の『Captain of None』から変わってきていると思う。もしかしたらその前のアルバムからかもしれない。『The Weighing of the Heart』はほとんどが生楽器で構成されているけど、最後に作った曲の”Breaking Up The Earth”にはたくさんディレイを使っていて、この曲を作っていたときにたくさんのジャマイカ音楽を聴いていた。ジャマイカ音楽こそがいい例だと思うわ。貧しい国で、限られたテクノロジーしか持っていなくても、それを最大限に活用して、時代を超えた素晴らしい名作を数多く輩出している。だから、”Breaking Up The Earth”をアルバムの最後に作ったとき、自分が行きたい方向はこれだとわかった。
だからいまわたしにとってテクノロジーというのは、サウンドの世界をさらに奥深く、遠くへと探求させてくれるものなの。でも『A Flame My Love~』のように、全編エレクトロニックな作品を作るとは思っていなかった。このアルバムの前までは、わたしは生楽器の音しか好きじゃないと思っていた。もちろん生楽器の音を加工するのは前からやっていたわ。でも核にあるのはviola da gambaやアコースティック・ギターの音だとずっと思っていた。でも、自分でも驚いたのだけど、このアルバムを通じて、エレクトロニック・サウンドで旅ができることを発見したの。今夜のライヴもそうだけど、エレクトロニックの機材を操作していると自分がどこにいるかを忘れてしまうくらい、不純物のない、抽象的な周波数の世界に瞬間移動したかのような感覚になる。アルバムのタイトルに「周波数」という言葉を使ったのもそれが理由よ。だからいまは、とくにアナログ機材に興味がある。魔法を生む機械だと思う。電子機材を作る人も尊敬する。わたしは電子工学のことはてんでわからないから。でも、こういう機材を使うのは凄く面白いし、今後もサウンド操作が生み出すこの抽象的な周波数の世界をさらに探求し続けたいと思っている。

『A Flame My Love~』はパリのテロ事件に触発された作品だという話をどこかで読みましたが、アルバムの最初の2曲は、悲劇的なテロを題材にした曲で、しかしこれほどパラドキシカルに美しい曲はないと思います。

C:アルバムはあの事件に影響を受けているのはたしかよ。わたしがあの夜にパリにいたのはまったくの偶然で、実際に事件があった場所にはいなかったのだけど、ほんの数時間前に近くを通った。ヴィオラの弓の修理をしなければいけなくて、本当にたまたま近くを通ったの。同時に家族と近しいひとが病気だったので、お見舞いも兼ねてパリにいた。本当に辛い体験だった。新しい音楽の制作にちょうど取り掛かろうとしていたところだった。アルバムを作る準備を進めていたときにあの事件が起きた。制作に戻らないとと思ったわ。
あの事件が作品に反映するのは不可避だった。これはわたしの人生に起きたことだったのだから。そして曲作りに取り掛かると、最初にできてきた曲は明るく喜びに満ちたものだった。なぜなら、わたしの人生、そして世界がいまどれだけ辛くても、それはどうすることもできない。できることがあるとしたら、少しでもその苦しみを和らげてくれるものを作ることだった。自分のためでもあり、それを聴いたひとたちもそう感じ取ってくれたら嬉しいと思った。そうやって最初はビートのある曲や明るい曲に自然と寄っていった。そしてアルバムの制作が進むにつれ、1年半近く経って、わたしの気持ちも少し落ち着いて、起きたことの重苦しいことも曲にすることができるようになった。矛盾しているかもしれないけど、気持ちが回復してから悲しい曲をかけるようになった。それしか方法はなかったの。わたしの歌詞はあまり直接的ではないかもしれないけど、わたしにとっては歌詞で表現しようとしたことと音楽は明確につながっている。

あなたがムーンドッグやアーサー・ラッセルに惹かれるのはなぜでしょうか?

C:その質問に限られた時間で答えるのは難しいけれど、おそらくわたしは独自のやり方を貫いている人たちに惹かれるんだと思う。ムーンドッグやアーサー・ラッセルはふたりとも「非常に特異なミュージシャン」のいい例だと思う。どちらも多くの人に影響を与えながら唯一無二の存在だった。
アーサー・ラッセルにはいまでも強く共感するわ。彼の音楽を前ほど聴くことはなくなった。何度も何度も聴いたから、もはや自分のなかにあるんだから。基本的には自分独自のやり方を貫く人が好き。リー・ペリーもまた、限られた環境で独自の世界を作ったひとね。10万ユーロもかけて機材を揃えたスタジオがなくてもいい音楽は作れる。むしろ贅沢な設備はない方がいいのかもしれない。いまわたしが面白いと思うのは……、『A Flame My Love~』はエレクトロニックかもしれないけど、じつは作っているあいだ、エレクトロニック・ミュージックを聴いていたわけじゃないの。わたしのパートナーのIker Spozioの話をしないといけないわ。彼はわたしの作品のアートワークをすべて手がけているのだけど、彼は熱心な音楽ファンでもあって、幅広く何でも聴いている。彼のレコード・コレクションの恩恵に預かったわ。家にいるときはたとえばアフリカ音楽だったり、60年代のサイケデリック・ポップだったり、ジャマイカ音楽、そして夜にはバッハやモーツアルトを聴いたりしている。とくにアフリカ音楽はたくさん聴いているの。アフリカ音楽は、わたしのすべての作品に多大な影響を与えていると思う。それと……、リズムとメロディの関係性にも興味がある。パーカッションという意味でのリズムではなくて、どんな楽器でも弾き方によってリズム感を出すことができる。アフリカ音楽のそういう部分が面白いと思う。アフリカ音楽のギターの弾き方も凄くリズミカルよね。だから例えば『Captain Of None」ではヴィオラをよりリズミカルに演奏しようと試みた。音楽は果てしない海のようだと思う。自分が知らないものがまだまだたくさんあって、それと出会うことで新しい何かをもたらしてくれる。

世界がいまどれだけ辛くても、それはどうすることもできない。できることがあるとしたら、少しでもその苦しみを和らげてくれるものを作ることだった。自分のためでもあり、それを聴いたひとたちもそう感じ取ってくれたら嬉しいと思った。そうやって最初はビートのある曲や明るい曲に自然と寄っていった。

子供の頃から楽器を習っていたんですか?

C:全然。15歳になるまで楽器を弾いたことなんてなかった。自分も音楽をやりたいと思わせてくれた最初に夢中になったバンドがビートルズだった。ビートルズは絶大な人気を誇りながらも、非常に質の高い作曲能力があって、それに加え革新的なテクノロジーも積極的に取り入れた最たる例であり、誰も真似できていないと思う。最初は素晴らしい曲を作るシンプルなポップ・バンドだったけど、数年という短い期間にテクノロジーを駆使してバンドとして進化し続けた。そういう点では、いまでもわたしにとって大きなインスピレーションの源よ。わたしの音楽は彼らのとは全く違っていてもね。で、えっと、質問は何だったかしら……、あ、クラシックの教えを受けたか、だったわね。わたしの両親は多少音楽を聴いたけどそれほどでもなくて、わたしはいわゆる中流家庭の出で、高価なクラシックの楽器を買うお金もレッスン代を賄うお金もなかった。だから最初の楽器はクラシック・ギターで、それからエレキ・ギター。そして26歳になって安いチェロを買った。しかも正規のよりも小型の。そのあとでちゃんとしたチェロを手に入れて、それからヴィオラ・ダ・ガンバを買った。弦楽器職人に依頼してヴィオラ・ダ・ガンバを作ってもらったのよ。もうその頃は働いていて、英語の先生をやって貯めたお金があったから、自分の夢を叶えようと思ってね。そうやってヴィオラを手に入れてレッスンも受けたけど、2006年頃だからすでに30歳だったわ(笑)。

あなたの音楽はエレクトロニック・ミュージックであるとか、アンビエントであるとか、いろいろアクセスできると思うのですが、どこか固有のジャンルには属していませんよね。それは意識しているのですか?

C:そう。自分がどのジャンルに属するかといったことを意識したことはない。自由であることを大事にしてきた。生きているとわたしたちはいろいろな妥協をしなければならないでしょ。いろんな出来事や出会い、人間関係に直面し、人生のいろいろな場面で妥協を強いられる。そんななかでアートというのは、自分が表現したいことを妥協することなく表現することだとわたしは思っている。もし1時間の長いドローン・ミュージックを作りたいと思ったら作ればいいし、2分のポップ・ソングが作りたいならそうすればいい。わたしはメロディアスであると同時に実験的なものを作りたいと思っていて、それを追求しない理由はない。わたしがアルバムを出し続ける理由はたったひとつで、それは伝えたいことが自分のなかにまだあるから。ある日伝えたいことが無くなったら音楽を作るのをやめて他のことをするでしょう。何にも縛られず自由であることは大事で、もの作る者にとっての本分だと思う。

あなたは英文学を勉強し、英語の教師をしていたということですが、どんな本がお好きなんですか?

C:最初に好きになったのは文学よ。子供の頃から本を読むのが大好きだった。学校で英語を勉強した際も文学の歴史に重点を置いて勉強した。高校のときもたくさん本を読んで、大学ではもっぱら英米文学を読んだ。いちばん好きな本はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』。読破するのにものすごく時間が掛かった。ものすごく分厚い本だから(笑)。でもわたしの読書人生のハイライトのひとつだと思う。またいつか読み返したいと思っている。
それからしばらくは音楽制作で忙しくなってしまって本を読む時間がなくなってしまった時期があった。そして日本から戻って、フランスの図書館から日本についての本をたくさん借りて読んだ。もっぱら日本の陶器や伝統美意識、禅庭についての本よ。そのあと、またしばらく読書から離れた時期があって、今度は自然に関する本をたくさん読んだ時期もあった。たとえばバードウォッチングはとにかくまず野鳥について知らないといけないから、何冊も繰り返し読んだわ。他にはアートブックを読むのも好きよ。パートナーのIkerは絵描きだから家にはアートブックがたくさんある。アフリカのお面(マスク)についての本から、マティス、ミケランジェロまで、なんでも。アートについて読むのも大好き。そして小説もまた読むようになった。今年ようやくメルヴィルの『白鯨』を読んだわ。20年もの間ずっと本棚にいつか読まなきゃと思って置いてあったのをようやく読むことができた(笑)。最近はそうやって昔に読もうと思って買った本を読むようにしているわ。

『The Weighing Of The Heart(心の計量)』というタイトルも気になっていたのですが、これはなにか書物からの引用ですか?

C:古代エジプトの『死者の書』の翻訳を読んだ。美しい絵とヒエログリフで構成されている巻物を写したヴァージョンよ。そして古代エジプト人が行なった埋葬の儀式に感動した。その儀式では死者の心臓を天秤にのせ、もう片側の皿には羽根を置く。純潔な人生を送った人はその心臓が羽根よりも軽くなる。なんて美しいイメージなんだろうと思ったわ。わたしはいい人間でありたいと思っているから、いい人生を送ることの難しさを表しているようで、余計にこのイメージが心に刺さったんじゃないかしら。わたしにとってぴったりのタイトルだった。

 パリの「黄色いベスト」運動が起きたとき、アメリカのトランプ大統領は、ほら、だれから俺はパリ協定から脱退すると言ったんだという、まったくトンチンカンだが環境のために膨大な福祉予算などつぎ込みたくなる側からすればある意味スジが通った意見を述べている。逆に言えば、人間以外(生きる権利を持っている地球上の生物)のことを考えることは、新自由主義の暴走を否定する根拠にもなってきている。コリーンのような音楽が重要なのは、デジタルとアナログとの融合などということではなく、ポジティヴな未来を考えるうえでたいせつな感性が表現されているからだと思う。
 ele-king vol.23に掲載されているアースイーターのインタヴューもぜひ読んでください。こちらは2018年もっとも感情をかき立てられたアルバムの1枚ですが、コリーンよりもさらにラディカルに「non human」というテーマが偏在しています。なぜなら彼女は本当に動物たちといっしょに育った人間であり……。(続く)

Felicia Atkinson/Jefre Cantu-Ledesma - ele-king

 本作は、フランスにおいてエクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈シェルター・プレス〉を主宰し、自身も気鋭の電子音楽家であり、2017年にリリースしたソロ・アルバム『Hand In Hand』も話題を呼んだフェリシア・アトキンソンと、イギリスの老舗音響レーベル〈タイプ・レコード〉よりリリースされた『Love Is A Stream』(2010)、ニューヨーク・ブルックリンのインディー・レーベル〈メキシカン・サマー〉から送り出された『A Year With 13 Moons』(2014)などをはじめ、多くのシューゲイズ/アンビエントな作品を多く発表してきたサンフラシスコを活動拠点とするジェフリー・キャントゥ=レデスマのコラボレーション作品である。

 このアルバムは、極めて現代的なアンビエント音楽だ。ノイズと音楽が互いに矛盾することなく(もしくは矛盾のまま)、同居している。私はこの『Limpid As The Solitudes』を一聴し、その密やかさと解放感が同居する音響構築に惹き込まれた。空間的で映画的。音楽的で音響的。構造的で快楽的。アトモスフィアなアンビエント・サウンドのアップデート。

 とはいえ2人のコラボレーションは本作が初ではない。2016年に〈シェルター・プレス〉からリリースされた『Comme Un Seul Narcisse』についで2作目である。むろん前作『Comme Un Seul Narcisse』も素晴らしい音響空間を生みだしていたが、本作のシネマティック・サウンドは前作を超えたアンビエンスを展開していた。ひとことでいえば「映画的」なのである。
 音による光景と光景の接続、シネマティック・アンビエント……?その意味では旧来の意味での「アンビエント・ミュージック」とはいえないかもしれない。じじつ本作には「音楽的」な要素が音響的要素と融解するように導入されているのだ。音のむこうに「音楽」が立ち現れ、そして溶け合って消えていく。そして微かな痕跡が残る。音楽的要素が豊穣でありながら、それでいて騒がしくない。この感覚こそ(本作に限らず)2010年代的な「新世代」のアンビエント・ミュージックの特徴ではないかと私は考える。00年代以降、アンビエント・ミュージックはブライアン・イーノが提唱した古典的な概念からさらに変化を遂げた。つまり環境を満たす意識されない音楽として存在するだけではなく、この騒がしい世界の中での静謐さを摂取するための音響による音楽作品としての自律性を高めてきたのだ(そこにおいてはドローン音楽のアンビエント化も大きい)。音響の音楽化ではなく、音楽の音響化が実践されているというべきだろうか。
 アルバムには全4曲収録されている。フェリシア・アトキンソンのヴォイスがボーカルのように音響空間を舞うような曲もあれば、不意にベースのような低音が断片的に鳴る曲もある。そのうえ記憶の残響のようなピアノが素朴な旋律を奏でる曲もある。ドローンは楽曲のそこかしこで生成し、ノイズの粒子が音を立てサウンドのアトモスフィアを形成するだろう。世界の光景を描写するかのようにシネマティックな環境音がエディットされてゆき、まるで映画のような1シーンのように音楽と音響が編集される。音と音楽を交錯・融解させることで、映画的・映像的ともいえる持続と音響空間を織り上げているのだ。そこに不思議な鎮静感覚が生れているわけである。
 とくに17分に及ぶ4曲め“All Night I Carpenter”は圧倒的だ。音、ノイズ、音楽、声の欠片によって、音と音楽が時間の中に溶け合うようなサウンドスケープを生成しているのだ。不意にアピチャッポン・ウィーラセタクンの映画や坂本龍一『async』を思い出しもした。ちなみにマスタリングはお馴染のダブプレート&マスタリング(ヘルムート・エルラー)が担当している。
 すでに名の知れた電子音楽家2人のコラボレーション作品だが、フェリシア・アトキンソン『A Readymade Ceremony』(2015)や『Hand In Hand』(2017)や、ジェフリー・キャントゥ=レデスマ『On The Echoing Green』(2015)などとも異なる「新しいアンビエント音楽」を聴きとることができた。何より、音楽が、音が、これほどまでに心身に染みる音響作品も稀ではないか。「孤独のように卑劣な」という意味を持つアルバムだが、その密やかな気配によって鎮静を与えてくれる緻密なモダン・アンビエント音楽である。

 それにしてもCV&JAB『Thoughts of a Dot as it Travels a Surface』、マイヤーズ『Struggle Artist』、トーマス・アンカーシュミット『Homage to Dick Raaijmakers』、イーライ・ケスラー『Stadium』など、今年の〈シェルター・プレス〉のリリース作品は重要作ばかりだ。そのうえスティーヴン・オマリーとピーター・レーバーグ(ピタ)によるKTL『The Pyre: versions distilled to stereo』のアルバムまでリリースされてしまった。個性的なラインナップとクオリティ。いま、もっとも勢いに乗っているエクスペリメンタル/電子音楽レーベルのひとつといえよう。

tamao ninomiya - ele-king

 2018年は新鋭ネットレーベルのリリースに大きな刺激を受けた1年だった。なかでもele-kingにも寄稿する捨てアカウント氏が主宰する〈Local Visions〉と、tamao ninomiyaの主宰する〈慕情tracks〉はその象徴的存在だろう。前者はvaporwaveの第二次ブームとも言えるような現在の状況と密接にリンクしつつ、優れた国内作家の作品を積極的に紹介しているし(僭越ながら私自身も「俗流アンビエント」という概念をこさえて、DJミックスをリリースさせてもらった。その話はまたどこかに書きたい)、後者は様々な宅録作家の紹介を行いつつ、芽生えつつある新しいインディー・ポップをネット空間を通して可視化するような役割も演じている。音楽性という面で言えば似つかわしくない両レーベルであろうが、ポストインターネット性という点でどこか符合する美意識を感じるし、単に「新しい」「古い」という進歩主義的時間尺度から逸脱した先端性を強く発散している点でも共通していると思う。
 そして、私見ではその〈慕情tracks〉が今年頭にBandcampで公開した、アンダーグラウンドな(とポジティヴな意味で呼称するにふさわしい)宅録作家による楽曲をコンパイルした『慕情 in da tracks』は、こうした動きの発火点という意味でも非常に意義深い作品だったと思う。新たな才能との出会いにわくわくする一方、ここに登場するクリエイターたちはおそらく私より圧倒的に年若だろうに、どこか現況に倦み疲れているようにも聴こえる。しかし同時に、ひと昔前のインディー音楽界にはびこっていた「本当の自分を素のままに表現してみました」式の偽造された清廉さも無く、産業化された「新しいシティ・ポップ以降」の欺瞞に安易に乗ることは(当たり前のごとく)避けられている。

 この『忘れた頃に手紙をよこさないで』は、今年10月にデジタルリリース、先月11/28にカセット・テープとしてリリースされた、先述の「慕情tracks」主宰tamao ninomiyaによる初のフル・アルバム作品だ。これまで様々なユニット名義での音源リリースや、〈Tiny Mix Tape〉の記事翻訳、川本真琴への歌詞提供などの幅広い活動を行ってきた彼女だが、本作は宅録作家tamao ninomiyaとしての集大成というべき作品になっている。
 自らの音楽を「lo-fi chill bedroom pop」と標榜するように、その手触りは相当にインティメイトだ。ジョー・ミークやブライアン・ウィルソンを祖とする一大ジャンル「内省ポップス」の系譜に耳慣れたリスナーにとっても、この「鋭利なインティメイト」にはたじろいでしまうかもしれないほどに。それでも、かねてより彼女がネット上にアップしていた楽曲にあった剥き出しの内向からすると、やや外向的になったともいえるかもしれない。実際に、入江陽hikaru yamadaといったアーティストがゲストに迎えられていることからもそういった色彩は感じられるだろう。しかしながらその「外向」は、ベッドルームに敷き詰められた厚い布地を通して吐出される息吹のように、強い密室性によって曇らされ、内燃する体温を帯びている。
 現代において「宅録」とは、主にDAW上での打ち込み制作を指す訳だが、初期の理解において、そのような制作法はいわゆる「人間性」とかいうものを表現するには冷徹に過ぎる手法だと思われていた。いまだにそのような見方が残存する(とくに「ロック」はそこに最後の生存領域を見出そうとしている)一方で、むしろそういったプライベートなDTMこそが、濃密に個的でヒューマニックな作品を作りうるということ、そのことを過激なまでに突き詰めているのがtamao ninomiyaなのではないだろうか。夜中2時、パジャマ姿でPCとMIDIコントローラーを弄り、デスクトップ画面に現れる波を切ったり貼ったりする。そういう行為を通してしか固着されない音楽があるということを、我々は音を通して彼女の寝室を覗いてしまったような焦りとともに知る。
 かねてより90年代の忘れ去られたJ-POPのディガーとしても知られていた彼女らしく、ある種の歌謡曲的クリシェを大胆に取り入れながら、まったくもってドリーミーなポップスをあたらしく作り上げる。一方で、様々なリズムアプローチやアヴァンギャルド音楽への造詣も伺わせる各種ノイズ処理など、個別に現れる音楽要素の多様さからは、彼女がサウンドクリエイターとしてと同じくらいリスナーとしても非常に鋭敏な感性の持ち主であることを物語る。かといって、音楽ディレッタント的な印象を抱かせることは決してせず、あくまで表現者としての人格と個性が前景化する。
 そして、たんに「ウィスパーヴォイス」というワードではその色調を捉えることは難しいであろう、ゆらゆらと去来するヴォーカルの魅力。夢の中で歌う歌のように、音符を撫でて消え入るその声。有り体な表現になってしまうけれど、これは、どこでも聴いたことのないような音楽、だけどどこかで聴いたことのあるような音楽……。

 そう、いま思い出した。今年11月3日、東京・大久保の「ひかりのうま」で行われたダンボールレコード主催の「Dry flower’s」というイベントの冒頭、「休日はいつもブックオフの280円コーナーを漁ってるシティ・ポップ好きのディガー集団」こと「light mellow部(彼らの存在も2018年のある局面を象徴するものだったと思う。いずれどこかで論じたい)」の一員として彼女がトーク出演し、そこで昔からの愛聴盤として銀色夏生の『Balance』というCDを紹介していたのだった。
 当時の女子たちから絶大な人気を誇った詩人・銀色夏生が全作詞・監修を務め、一般公募で選ばれたNanami Itoというアマチュアの女子高生がヴォーカルを取る作品なのだが、『忘れた頃に手紙をよこさないで』は、1989年に産み落とされたこの不思議なアルバムと呼応する魅力を宿していると思う。J-POPというにはオブスキュア過ぎるトラック、儚げな歌唱、ここでないどこかを希求するような詩情……。斉藤由貴、伊藤つかさ、もっと遡ってシャンタル・ゴヤなど、そういう系譜上に、Nanami Itoと、そしてtamao ninomiyaの歌声を位置づけてみると(両者がローマ字表記だというのも嬉しい符合だ)、その魅力を理解しやすくなるかもしれない。
 「こうではなかったかしもれない」パラレルワールドを、独りベッドルームで夢想する少女による歌。その夢想はポップス対アヴァンギャルドという歴史的且つ父権的見取り図を超えて、様々な表象としてまろび出てきた。いまから30年前、Nanami Itoと銀色夏生が僥倖によって偶然に表現し得た夢想に通じる何か。tamao ninomiyaはいまその夢想を、それをブーストし、同時に純粋化してくれるインターネットという装置を通じて、鮮烈な形で我々に届けてくれているのではないだろうか。

 縦横に時間を駆け巡り、時間を圧縮し加速させ続ける中で、我々はいよいよもって慕情を求める。その慕情とは、過ぎ去った過去へのほの甘い憧憬であるとともに、起こらなかった「いま」へ憧憬であり、そして、誰しもに無限として広がる未来への不安と蠱惑であるのかもしれない。自分が存在する以前の時代の方が、少なくともいまより幸福な時代だったに違いないという確信めいた何か。見知らぬものへ向かう、決していまは満たされることのない慕情。不透明な未来の愛らしさ、憎らしさ。これらの圧倒的な切なさを日々眼前に突き出され続ける2018年の我々にできることは、独り音楽を聴いてまどろむことぐらいなのかもしれない。
 物事が目まぐるしく動けば動くほどに、ベッドルームに篭って、眠るようで眠らずに、ラップトップが発する朧気な明かりを浴びる。私が『忘れた頃に手紙をよこさないで』を無性に聴きたくなるのは、現代の誰しもが遭遇するであろうそんな時間だ。

MUD - ele-king

 昨年ソロとしてのファースト・アルバム『Make U Dirty』を発表し話題を集めた KANDYTOWN 所属のMC、MUD。仙人掌『VOICE』などへの客演でもその存在感を見せつけてきた彼が、新作EP「VALUE THE PRESENT」を12月25日にリリースする。同クルーからはKEIJU、先日ソロ・デビュー・アルバムを発表した Gottz、MIKI らが参加。先行シングルとなった新曲“Rather Be”はこちらから。

KANDYTOWN所属のMUDがEP「VALUE THE PRESENT」リリース決定。
それに伴い新曲“Rather Be”が本日リリース

HIP HOPクルー、KANDYTOWNに所属し、そのルードなアティテュードと日本人離れしたフロウでクルー屈指の実力派との呼び声高い、ラッパーの MUD がEP「VALUE THE PRESENT」を12月25日にリリースすることが決定した。それに伴い、本日先行シングル「Rather Be」をリリース。

自身のソロ名義としては、2017年にリリースし各方面から高い評価を得た『Make U Dirty』以来、約1年半ぶりとなる今作。全7曲を収録し、ゲストには KANDYTOWN より KEIJU、Gottz、ビートメイカーの MIKI が参加。又、Blaise(KILLAH)、Pablo Blasta、楽曲提供として Fla$hBacks の Febb が参加している。

[リリース情報]

●先行シングル
タイトル:Rather Be
発売日:2018年12月7日(金)
URL:https://linkco.re/H6sXF3X2

●EP
タイトル:「VALUE THE PRESENT」
発売日:2018年12月25日(火)

収録曲:
1. Rather Be
2. No Cry (feat. KEIJU)
3. Sacred Muzik 作曲 febb
4. Vertex (feat. Dony Joint)
5. No Mercy (feat. BLAISE & Gottz)
6. Brotherhood (feat. Pablo Blasta)
7. Ex (Prod: MIKI)

[MUDプロフィール]

東京のHIP HOPクルー KANDYTOWN LIFE に所属。ルードなアティテュードと日本人離れしたフロウでクルーの中軸を担う実力派。2017年7月、ソロ・デビュー・アルバム『Make U Dirty』をリリースし、内外から非常に高い評価を得る。客演においても KANDYTOWN メンバー作品ではもちろん、仙人掌、DJ PMX、kojoe, mc tyson 等の作品に参加するなど、シーン内で幅広く支持を受けている。2018年12月にセルフ・プロデュースの1st EPをリリース予定。

U_Know - ele-king

 2016年の『Word Of Words』が話題となったコンビ、福岡のビートメイカー=Olive Oil と、BLAHRMY の一員でもある藤沢のMC=Miles Word によるユニット、U_Know が再始動! 去る11月21日にニュー・アルバム『BELL』をリリースしたばかりの彼らだが、昨日新たに収録曲“In A Row”のMVが公開されている。映像を手がけたのはもちろん Popy Oil。まだ聴いていない方は要チェック。

U_Know [Olive Oil × Miles Word] - BELL

あの奇跡のコラボレーションはまだ序章に過ぎなかった……
Olive Oil × Miles Word [BLAHRMY] 再び!!!

2016年11月に発表された Olive Oil と Miles Word のジョイント・アルバム『Word Of Words』。福岡と藤沢、音楽が繋げた数奇な出会いは、このアルバムを聞けば必然であったことは疑いの余地がなかった。あれから2年、Olive Oil は全国でのライヴはもちろん、5lack や Wapper とのジョイント・アルバムなど、止まらずに楽曲を世に送り出し、Miles Word は仙人掌、I-DeA のアルバム他、ソロ、そして SHEEF THE 3RD との BLAHRMY として、ライヴ、客演などでその存在感を高めてきた。そんな、前作発表時よりもさらに進化した2人が帰ってきた。先行シングル的に夏に MV が解禁、7インチで限定発売(ジャケも最高◎)された、哀愁あるホーンと変則的なドラムが鳴り響くビートと、三拍子すらも、江ノ島の波の如くさらりと乗りこなすラップが極上だった“Sunny”をはじめ、前作を経たことでよりぶつかりながら融合するビートとライムは極上。いまだにある場所に安住せずに数々の挑戦と実験を繰り返して進み続けるふたりの新たな挑戦であり提示だ、しかと受け止めてほしい。

ARTIST : U_Know [Olive Oil × Miles Word] (オリーヴオイル × マイルス・ワード)
TITLE : BELL (ベル)
LABEL : DLiP Records × OILWORKS Rec.
発売日 : 2018年11月21日(水)
CAT NO. : DLIL-0008
FORMAT : CD (デジパック) / DIGITAL
税抜価格 : 2,500円 / TBC
バーコード : 4526180463832

収録曲
01. Sonnnatoko
02. XX
03. Free Jazzz
04. Sunny
05. BACK AGAIN
06. オドラニャ
07. Nice
08. Stylee
09. ONEDAY
10. In A Row
11. Guess What
12. A SHIT A
13. マタフユ -Winter Again-
14. Midnight
15. Bell Remixx feat. DLiP

All Tracks Produced by Olive Oil
Mixed & Mastered by NOAH

■U_Know [Olive Oil × Miles Word] (ユーノー[オリーヴオイル × マイルス・ワード])
福岡(FKC)を拠点に活動する Olive Oil (OILWORKS Rec.)と湘南・藤沢(Moss Village)を拠点に活動する Miles Word (DLiP Records/BLAHRMY)によるユニット。2016年に発表したアルバム『Word Of Words』から2年、再び動き出す。

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