「You me」と一致するもの

Bonnie 'Prince' Billy - ele-king

 ケンタッキー州はルイヴィル出身。ボニー・プリンス・ビリーの名称以外にパレス・ブラザーズ、パレス・ソングス、パレス、パレス・ミュージック、ひいては本名のウィル・オールダム名義で着々と出しつづけた音盤を、私なぞ日々くりかえしくりかえし聴きつづけてきたせいで干支がひとまわりするまでナマの彼を拝んでいなかったとはにわかに信じられないが来日公演は12年ぶりである。
 米国インディの中堅どころでありフォークロアをたっぷり吸った歌心をもつ楽曲がどこか輪郭がひしゃげた聴き心地なのは、その風貌のせいもあるとの意見を否定するつもりはありませんが、それをしのぐ音楽のナゾめいたものがボニー・プリンス・ビリーの音楽には秘められている、それを確認するかっこうの機会だろう。さらに今回は新作『Epic Jammers and Fortunate Little Ditties』〈Drag City〉を共作したビッチン・バハスが帯同するという。トータスしかり〈オネスト・ジョンズ〉からのトレンブリング・ベルズとの共作しかり、コラボレーターとしても無類の柔軟性と順応性をみせるボニー・プリンス・ビリーが在シカゴのクラウトロック・バンドとどのようにわたりあうか、フリーフォーキーな弾き語りとハルモニア的な天上のドローンとが重なり合い、アシッドでありながらときにローリー・アンダーソン風のアヴァン・ポップ(おもに“You Are Not Superman”の印象です)を思わせる新作に耳を傾けつつ、首を長くして待ちたい。(松村正人)

Bonnie 'Prince' Billy & Bitchin Bajas Japan Tour 2016
ボニー・プリンス・ビリー&ビッチン・バハス ジャパン・ツアー2016

10月26日(水)京都 アバンギルド(075-212-1125)
京都府京都市中京区木屋町三条下ル ニュー京都ビル3階
出演:ボニー・プリンス・ビリー、ビッチン・バハス、風の又サニー
開場 6:30pm/開演 7:30pm
料金 4,500円(予約)/5,000円(当日)*ドリンク代別

10月27日(木)金沢 アートグミ(076-225-7780)
石川県金沢市青草町88 北國銀行武蔵ヶ辻支店3階
出演:ボニー・プリンス・ビリー&ビッチン・バハス、ASUNA quintet(ASUNA+宇津弘基+黒田誠二郎+ショーキー+加藤りま)
出店:喫茶ゆすらご
開場 7:00pm/開演 7:30pm
料金 3,500円(予約)/4,000円(当日)/2,500円(学割)
*学割:学生証など証明となるものをご持参ください。

10月28日(金)名古屋 KDハポン(052-251-1324)
愛知県名古屋市中区千代田5-12-7
出演:ボニー・プリンス・ビリー、ビッチン・バハス、Gofishトリオ(テライショウタ+黒田誠二郎+稲田誠)
開場 6:30pm/開演 7:00pm
料金 4,500円(予約)/5,000円(当日)/3,500円(学割)*ドリンク代別
*学割:学生証など証明となるものをご持参ください。

10月29日(土)東京 O-Nest(03-3462-4420)
東京都渋谷区円山町2-3 O-Westビル6階
出演:ボニー・プリンス・ビリー、ビッチン・バハス、井手健介と母船(墓場戯太郎+清岡秀哉+石坂智子+山本紗織+羽賀和貴+岸田佳也)
開場 6:30pm/開演 7:00pm
料金 5,000円(予約)/5,500円(当日)*ドリンク代別

10月30日(日)東京 7th FLOOR(03-3462-4466)
東京都渋谷区円山町2-3 O-Westビル7階
出演:ボニー・プリンス・ビリー&ビッチン・バハス with 馬頭將器(The Silence / ex: Ghost)、ダスティン・ウォング
開場 6:30pm/開演 7:00pm
料金 5,000円(予約)/5,500円(当日)*ドリンク代別
チケット:予定枚数が終了しましたので、予約受付を終了いたしました。当日券の有無につきましては、公演当日、会場に直接お問い合わせください。

企画・制作:スウィート・ドリームス・プレス
(詳細は以下をご参照ください)
https://www.sweetdreamspress.com/2016/08/bonnie-prince-billy-bitchin-bajas-japan.html

Jameszoo - ele-king

 ジェイムスズーとは何者なのだろうか。本名、ミシェル・ファン・ディンサー。オランダ南部の町デン・ボス出身のプロデューサー/トラック・メイカーであること、前衛ジャズやプログレ、クラウトロック、実験的エレクトロニック・ミュージックといったジャンルのバックグラウンドを持っていることくらいしかいまのところはわからない。もっともこれだけわかっていれば、充分であるとも言えるかもしれない。なにより音源さえあれば本人のプロフィールなんて二の次だ。

 彼は〈ブレイン・フィーダー〉からリリースされたこのデビュー・アルバム以前にも何枚かのepを出しているが、もちろんそれらを聴いたのも『フール』を知ってから。僕にとってこの『フール』がジェイムスズーとの初対面だった。
 そして、この初対面でジェイムスズーの実像を掴みとることはできなかった。むしろ、さらに謎に包まれたと言ってもいい。初体験の『フール』から読み取ることができたのは、彼の提示する「ナイーヴ・コンピュータ・ジャズ」(ジェイムスズー自身による呼称)が最先端の音であるということと、このアルバムに参加しているミュージシャンたち、とくにニルス・ブロースとジュリアン・ザルトリウスがクレイジーなプレイヤーであるということだった。彼の音楽性が多岐に渡っていることもよくわかる。しかしながらこのアルバムにおいてジェイムスズー個人の存在感を意識することはほとんどない。まるでリーダーが不在であるかのような感覚を抱いてしまうのだ。

 このアルバムにはふたりのドラマーが参加している。ホセ・ジェイムズやフライング・ロータス、シネマティック・オーケストラのスチュアート・マッカラムらの作品に参加しているUKのドラマー、リチャード・スぺイヴンとコリン・ヴァロン・トリオなどで活躍しているジュリアン・ザルトリウスだ。僕はこのアルバムを聴くまでリチャード・スぺイヴンがメイン・ドラマーとして参加しているものだと思い込んでいたのだが(数少ないジェイムスズー・クインテットのライヴ動画では彼が叩いている)、『フール』において彼の乾いたマイネル・シンバル・サウンドを聴きくことはなかった。
 それもそのはずで、リチャード・スぺイヴンの参加曲は“ワロング”のみで、その他のドラムが入っている曲はすべてジュリアン・ザルトリウスが叩いている。“ワロング”のクレジットには両名の名が記されているので、実質ドラム・パートはほぼジュリアンが担当しているのだろう。
 これにはたまげた。コリン・ヴァロン・トリオや自身のソロを聴き、彼がエレクトロ・ミュージックからの影響を受けたフリーキーなプレイをすることは知っていたが、ここまでビート・ミュージックと親和性が高いドラミングをするプレイヤーだとは思っていなかった。例えば、アルトゥール・ヴェロカイが参加する“FLU”では、思わずリチャード・スぺイヴンが叩いているのではないかと錯覚してしまうほど、グリッドに正確で直線的なドラミングをしている。
 さらに、曲の後半ではダイナミクスのあるプレイを展開し、最後は三連符の激しいスネア・フィルによって熱を帯びたセッションに終止符を打つ。ビート・ミュージックに対してジャズ・ドラマーとしてのアプローチをしかける、最高にクールなプレイだ。また“ミート”や“ザ・ズー”においては、彼の特徴であるプリペアド・ドラム的なサウンドが聴こえてくる。スネアやタムの上にシンバルやゴングを乗せて叩くことで、よりエフェクティヴなドラム・サウンドを作り出すのは、とくビート・ミュージック系のジャズ・ドラマーたちがよくやることなのだが、ジュリアン・ザルトリウスはマシン・ビートを生音で再現するというよりも、プリペアド・ドラムそのものを聴かせるような発想があるように見える。
 つまり基準がマシン・ビートではなく、あくまでもアコースティック・ドラムなのである。だからこそ、このアルバムへの参加が意外だったのであるが、蓋を開けてみればエレクトリックにより過ぎない彼のドラミングが、「ナイーヴ・コンピュータ・ジャズ」サウンドの構築に大きく貢献しているのだ(ドラムの音もあまり機械的な加工がされていないように聴こえる)。

ジュリアン・ザルトリウスによるソロ・パフォーマンス。

 また、キーボードとして参加しているニルス・ブロースも「ナイーヴ・コンピュータ・ジャズ」サウンドの根幹を担っていると言ってもいいだろう。彼はジェイムスズーと同じくオランダ出身であるようだが、『フール』の参加以外はカイトマン・オーケストラなどに参加しているミュージシャンであるようだ。アルバム(日本盤のボーナストラックも含め)全12曲中10曲もクレジットされており、ジェイムスズーからの信頼が厚いことがうかがえるが、“FLU”で突如として挟み込まれるシンセサイザーの恍惚的なフレーズや、浮遊感のあるウーリッツァーのバッキング、“ザ・ズー”の前半部分におけるフリーキーでエッジー、そして時折メロウな一面を見せる彼のプレイはかなり印象的だ。“クランブル”でのハーモーニーと手数で攻める超絶技巧的な演奏もさることながら、スキット扱いの“NAIL”でみせるインプロヴィゼーションのほとんどない構築的なプレイも美しい。シンセサイザーのクレジットではミシェル・ファン・ディンサーとの連名になっている楽曲が多いので、先に挙げた“FLU”のフレーズはジェイムスズーの演奏によるものである可能性もあるが、ニルス・ブロースの存在なしでは『フール』のサウンドは成り立たなかったであろう。彼のジャズ・ミュージシャンとしてのスキルは、このアルバムが〈ジャズ〉であることに大きく貢献している。

ニルス・ブロースによるソロ・パフォーマンス。

 注目すべきプレイヤーはジュリアン・ザルトリウスとニルス・ブロース以外にもいる。このアルバムにインスピレーション元となったというアルトゥール・ヴェロカイとスティーヴ・キューンの参加は、ある意味で異質な要素として印象的であるし、“ミート”でのサンダーキャットことステファン・ブルーナーが、もはやベースを弾いているとは思えない超絶技巧を披露するのもにやけてしまう。サックス奏者であるジョン・ダイクマンのフリーキーなプレイや、サンダーキャット以外にも4人いるベーシストの異なるプレイなど、演奏面においての聴きどころが数多くある。しかし、これはあくまでもジェイムスズーの作品だ。彼を忘れてはならない。

 先ほど『フール』においてジェイムスズーの存在は意識されないと書いたが、それはプレイヤーとしての存在が意識されないという意味である。クレジットを見れば、それがよくわかるだろう。ジェイムスズーことミシェル・ファン・ディンサーのプレイヤーとしての参加はシンセサイザーのみで、“NAIL”や“ティース”では参加すらしていない。参加曲においても彼のプレイが前面に押し出されるような箇所はほとんどなく、いやもしかしたらあるのかもしれないが、先述したようにニルス・ブロースとクレジットが被っている場合がほとんどなので、判別するのが困難なのである。彼は『フール』に収録されているほとんどの楽曲を作曲してはいるが(“ザ・ズー”はスティーヴ・キューン「Pearlie’s Swine」のカヴァー。何曲かはニルス・ブロースらとの共同名義になっている)、楽曲の中での彼は決してリーダー的なプレイをしていない。リーダー不在のセッションなのである。これはマリア・シュナイダーのようなジャズ作曲家のような視点で捉えられることも、ジェイムスズーの肩書そのものであるプロデューサーとしての視点で見ることもできる。彼はプレイヤー同士のセッションを内側からではなく外側から見ることによって、この奇妙な「ナイーヴ・コンピュータ・ジャズ」を作り上げているのである。

 『フール』には妙な空白がたびたび現れる。例えばそれは曲と曲の間であったり、曲中でぶつ切りのように現れたり、とにかく妙なタイミングで現れる。『フール』の締めくくりである“ティース”の最後でも、妙な空白の後に突如としてセッションの一部分が挿入されるが、このようなエディットは彼がジャズ・ミュージシャンではないからこそ可能なのであろう。リーダーの不在や奇妙なエディットによって、『フール』はジャズ・ミュージシャンが演奏するジャズでない何か別の音楽になっている。それは近年の〈ブレイン・フィーダー〉がリリースしてきた諸作品と共通する点であり、ジャンルに縛られることのない最先端の音楽なのである。
 油性絵の具を塗りたくられたジェイムスズーがこちら側を向いている『フール』のジャケットは、彼がセッションのなかで匿名性を示したことと何か関係性があるように思える。参加ミュージシャンのクレジットを隅々まで読みこもうとするジャズ・リスナーにとって、ジェイムスズーが何者であるかを理解することはできないだろう。

AHAU - ele-king

最近作業中に聴いていた音楽の中から

AHAU(tomoaki sugiyama)
グラフィックアーティスト、グラフィックデザイナー
1976年横須賀生まれ、東京在住
https://www.instagram.com/ahau_left/

10月16日から、BnA HOTEL Koenjiで展示します。
16日にオープニングパーティーやります。
ぜひ遊びに来てください。


Ahau Exhibition
“The Flyer”巡回展
BnA HOTEL Koenji
2016.10.16[sun] - 11.5[sat]
19:00 - 24:00
Entrance Free
※Close 10.29[sat]、10.30[sun]

Opening Party
10.16[sun] 18:00 - 22:00
LIVE
cinnabom + ARATA(チナボラータ)
DJ
MOODMAN
MINODA
Sports-koide
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Sunday Afternoon Party
10.23[sun] 14:00 - 22:00
DJ
ヤマベケイジ
Q a.k.a. INSIDEMAN
pAradice
弓J
nnn
町田町子
ぬまたまご部長
来夢来人
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Closing Party
11.5[sat] 14:00 - 22:00
DJ
bimidori
THE KLO
do chip a chi
Sports-koide
otooto22
hitch
LIVE
HELIOS
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BnA HOTEL KOENJI
https://www.bna-hotel.com
東京都杉並区高円寺北2-4-7
(JR Koenji Station - 30 seconds)
2-4-7 Koenjikita, Suginami, Tokyo, Japan 166-0003

 ミュージック・テープスを追っかけて早20年。1996年、初めてLAで見たショーはまだはっきり覚えている。アップルズ・イン・ステレオ、オリヴィア・トレマー・コントロール、そしてミュージック・テープスというラインナップだった。
 当時のミュージック・テープスのメンバーは、ジュリアン、アンディ(マシュマロー・コースト)、ジェレミー(ハック・アンド・ハッカショー、ニュートラル・ミルク・ホテル)。アップルズ・イン・ステレオは知っていたが、時間もわからないので、早めに来た。最初のバンド(=ミュージック・テープス)を見て、いままでにない衝撃を受けた。中心人物(=ジュリアン)は、バンジョー、ノコギリ、トランポリン、ギターなど様々な楽器(のようなもの)を演奏し、まるでチンドン屋と遊園地を合体させたようなカラフルなショーで、温かい気分になる。ショーが終わり、まったく会話にならないなりに(英語が喋れない)、どれだけ良かったか、衝撃だったかを説明し、向こうも全身で喜びを表現してくれ、気がついたら彼らの住むジョージア州、アセンスに来ていた。
 彼らと寝食を共にし、生活を知り、夢を具体的に語ってくれた。移動遊園地のサーカス・テントで、シアトリカルなショー(=オービティング・ヒューマン・サーカス)を実現すること。

 ミュージック・テープス(=ジュリアン・コスター)は、すでに5回以上、このオービティング・ヒューマン・サーカスを公演している。その間、ジュリアンは、ララバイ・キャロリング・ツアー、人の家でクリスマス・キャロルを演奏するツアーをしたり(著者は2回参加)(https://vimeo.com/33672614)、無音映画で演奏するワードレス・ミュージック・オーケストラにミュージックソウ奏者として参加したり(https://www.wordlessmusic.org/blancanieves-2012/)、ニュートラル・ミルク・ホテルのリユニオン・ツアーに参加したり(https://pitchfork.com/news/47783-neutral-milk-hotel-reunite-for-tour/)、ちなみに、ニュートラル・ミルク・ホテルの『In The Aeroplane Over The Sea』は1998年リリースに関わらず、10年後の2008年にはもっとも売れたヴァイナル・アルバムの6位に入り、『NME』ではオールタイム・ベストアルバムの98位にランクインしている。
 そんななか、ジュリアンは確実に自分のサーカス・プロジェクトを進行させ、去年の夏は、ハドソンリバー・パークでメリーゴーラウンドでのショーを開催した。

 今回はポッドキャストになって登場。たまたま地下鉄で、メンバーにばったり会い、今回のプロジェクトを教えてもらった。

https://www.orbitinghumancircus.com/

 エピソードは、10/12にスタート、2週間に1回水曜日に配信で、2月の末まで続く。11/9からツアーがはじまり、11/18にはNYにやってく来る。
「ジュニター(門番=ジュリアン)を中心に繰り広げられるオービティング・ヒューマン・サーカスの世界。神秘的に歌う鳥、トロンボーンを演奏する北極グマ、合法な時間旅行(いえ、本当に)、そして、並外れた展示達が貴方を迷わせる」
 2016年11月、周りの雑音から離れて、このマジカルな世界を体験してみよう。ジュニターの切ない摩訶不思議な世界は、現実の世界への新しいアイディアを届けてくれるようだ。

https://www.orbitinghumancircus.com/phone/the-music-tapes.html

Powell - ele-king

 パウウェル(ゴシップ誌風にいえば“テクの界次世代のスター候補”)の待望のデビュー・アルバムのタイトルは『スポート』で、死ぬほど単調な電子音、PCやiPhoneを叩きつけて破壊するかのようなインダストリアルなグルーヴ、アンダーグラウンド・ロックンロールと名付けられた瓦礫の音響、フランケンシュタインのためのDJミキシング……つまりここには、まったくスポーツらしさはない。
 先にリリースされた「フランキー&ジョニーEP」の“ジョニー”のPVはみんなでスイカを頭で割って喜んでいる。当方、先日頭の怪我で手術したばかりの身なので、あまり笑えないのだが、本当にアホだな~と思う。

 ちなみに「ジョニー」に参加しているジョニーは、ヘイトロック(HTRK)のジョニー・スタンディッシュである(あの身も凍えるようなダーク・サウンドのロック・バンドの女性ヴォーカリストだ)。
 パウウェルは、型にはまることがお嫌いなようだ。1994年の「Club Music EP 」で、これはちょとクラブ・ミュージックとは括られないのでは……という電子ノイズと疾走感を打ち出したかと思えば、そしてスティーヴ・アルビニの声をサンプリングし、アルビニから直に「私は地球上でもっともクラブ・ミュージックを憎んでいる。クラブ人間が大嫌いだし、連中の服装もやってるドラッグもみんな嫌いだ、私は君たちの敵だ」とメールされて話題になった「インソムニアック」は、しかし、実際のところパウウェルは、アルビニがいみじくもそのメールで記した「私が好きなエレクトロニック・ミュージックとは、クラフトワークやクセナキス、初期のキャバレ・ヴォルテールやSPKやDAFのようなサウンド」のほうに近いのである。(この件はファンの間で、アルビニはパウウェルを暗に評価しているからこういう表現をしたのではという議論にもなった)

 〈Modern Love〉や〈Blackest Ever Black〉、〈PAN〉や〈Mego〉などと音楽的にリンクしながら、パウウェルにはユーモアがあり、遊び心があり、ふざけているんだよな~。そのプリティ・ヴェイカントな感じがじつに良い。
 何はともあれ、わずか4枚のEPで注目され、〈XL〉と契約することになった大型新人のデビュー・アルバム『スポート』は、本国では10月14日発売。日本盤はボーナストラック(例の「インソムニアック」)付きで、11月16日に発売。確実に、今年のベスト・アルバムの1枚です。硬直したシーンにはこれぐらいふざけた音楽が必要でしょう!
 

The Pop Group - ele-king

 ザ・ポップ・グループが、35年振りのスタジオ・アルバムとなった『CITIZEN ZOMBIE』に続く、通算4作目のスタジオ・アルバム『HONEYMOON ON MARS』をドロップする。注目すべきは、1979年に発表され、いまなおポストパンクの名盤として語られる彼らのデビュー作「Y(邦題:最後の警告)」以来、37年振りにデニス・ボーヴェル(UKレゲエの最重要人物)とタッグを組んだことである。
 さらに、PUBLIC ENEMYの初期3作品のプロデュースを務めたプロダクション・チーム、ボム・スクワッドの一員であったハンク・ショックリーも3曲のプロデュースに関わっている。
 ボーヴェル曰く「再び彼らと仕事ができて、とても光栄だった。彼らは真に善悪を超越しているんだ」、とのこと。
 また本作のレコーディングとミックスは、2016年の初夏に、いくつかのスタジオに分かれて行なわれた。メンバーのマーク・スチュワートはこう語る。「これは造られた憎悪への反抗であり、異質なる遭遇とSF的子守唄で満たされた暗黒の未来への超音速の旅だ」

 『ハネムーン・オン・マーズ』は2016.10.28世界同時発売 / 日本盤ボーナス・トラック収録。日本盤ボーナス・トラックの“Stor Mo Chroi”は、アイルランドの伝統的な楽曲。バンドのメンバー全員でアレンジを施し、カヴァー曲として収録している。

HONEYMOON ON MARS / ハネムーン・オン・マーズ
1. Instant Halo / インスタント・ヘイロー
2. City Of Eyes / シティ・オブ・アイズ
3. Michael 13 / マイケル13
4. War Inc. / ウォー・インク
5. Pure Ones / ピュア・ワンズ
6. Little Town / リトル・タウン
7. Days Like These / デイズ・ライク・ジーズ
8. Zipperface / ジッパーフェイス (※1stシングル)
9. Heaven? / ヘヴン?
10. Burn Your Flag / バーン・ユア・フラッグ
11. Stor Mo Chroi / ストール・モア・クリー

Tr.11: 日本盤ボーナス・トラック

半野喜弘 - ele-king

 RADIQ名義(ベーシック・チャンネルのファンならPaul St. Hilaireとのコラボはいまでも記憶に焼き付いているでしょう!)や田中フミヤとのユニットDartriixなど、クラブ・ミュージックの領域においてはもちろんのこと、映画音楽の分野でも活躍してきたエレクトロニック・ミュージックの鬼才・半野喜弘。
 このたび、彼にとって初となる映画監督作品『雨にゆれる女』が、11月19日(土)よりテアトル新宿にて公開されることとなった。それに先がけ、11月5日(土)にCIRCUS TOKYOにて公開記念パーティ〈A WOMAN WAVERING IN THE RAIN〉が開催されることも決定している。映画と音楽というふたつの領域を横断する半野喜弘の現在を、目と耳の両方で体験してみてはいかが?

映画音楽の鬼才・半野喜弘 初監督作品
主演 青木崇高 × ヒロイン 大野いと

映画『雨にゆれる女』

RADIQ aka Yoshihiro HANNO 4年ぶりの主催!
映画『雨にゆれる女』公開記念クラブ・パーティ
“A WOMAN WAVERING IN THE RAIN”
開催決定!!

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パリを拠点に、映画音楽からエレクトロ・ミュージックまで幅広く世界で活躍し、ホウ・シャオシェン、ジャ・ジャンクーなど世界の名匠たちを魅了してきた音楽家・半野喜弘の監督デビュー作『雨にゆれる女』が11月19日(土)にテアトル新宿にてレイトロードショー
本作は、濃厚な色彩、優美な旋律、登場人物の息づかい……現代の日本映画には稀な質感の映像で紡ぐサスペンスフルな愛の物語。14年前のパリで、まだ俳優になる前の青木崇高と半野喜弘が出会い、いつか一緒に作品を作ろうと誓い合った。そして10年後の東京で2人は再会し、『雨にゆれる女』は生まれた。本作は今月末に行われる東京国際映画祭「アジアの未来」部門の日本代表に選出されている。

監督の半野は、ジャスやヒップ・ホップの音楽活動を経て、ヨーロッパで発表されたエレクトロニック・ミュージック作品で注目を集めたことを皮切りに、それらの活動が目に留まり台湾の巨匠・ホウ・シャオシェン監督『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の音楽を手掛ける。その後ジャ・ジャンクー監督やユー・リクワイ監督、行定勲監督などとのコラボレーションを経て、ついに自らも映画製作に真っ向から携わることを決意。そんな半野の処女作とあって、その独自の映像表現に、坂本龍一、田中フミヤ、吉本ばなな、斎藤工、ジャ・ジャンクーからの絶賛コメントが届くなど、各界の注目をさらっている。

『雨にゆれる女』の公開を記念して、「I WANT YOU」から4年ぶりに半野喜弘主催のパーティー“A WOMAN WAVERING IN THE RAIN”の開催が決定! 音楽仲間が集結して、映画監督としての才能を開花させた半野を盛大に祝う!

“A WOMAN WAVERING IN THE RAIN”@CIRCUS TOKYO
■日時:11月5日(土)OPEN 23:00~
■場所:CIRCUS TOKYO(〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3-26-16 第5叶ビル1F, B1F)
■出演者:RADIQ aka Yoshihiro HANNO
Neutral - AOKI takamasa + Fumitake Tamura (Bun)
Dsaigo Sakuragi (D.A.N.)
Taro
■料金:Door \2,000

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――出演者Profile
■Neutral
AOKI takamasa + Fumitake Tamura (Bun)、ふたりのアーティストによる不定形ビーツ・プロジェクト。両者の作家性の根底にあるミニマリズムを共有しながら、宇宙に揺らぐ波のように透明なサウンドの現象をキャプチャーする。
2015年1月、Liquidroom/KATAで行われたライヴ・セッションにて本格的に始動。
■Dsaigo Sakuragi
1/3 of D.A.N.
■Taro
90年代中盤に大阪でDJを開始。“TOREMA RECORDS”、“op.disc”などを手伝いながら現在にいたる。
■RADIQ aka Yoshihiro HANNO
パリ在住の音楽家/映画監督、半野喜弘によるエレクトロニック・ミュージック・プロジェクト。
ブラックミュージックを軸に多種多様なエッセンスが混ざりあい、野生と洗練が交錯する未来型ルーツ・ミュージック。

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【ストーリー】
本当の名を隠し、“飯田健次”という別人としてひっそりと暮らす男。人との関わりを拒む彼の過去を知る者は、誰もいない。ある夜、突然同僚が家にやってきて、無理やり健次に女を預ける。謎の女の登場で、健次の生活が狂いはじめる。なぜ、女は健次の前に現れたのか。そしてなぜ、健次は別人を演じているのか。お互いに本当の姿を明かさないまま、次第に惹かれ合っていくふたり。しかし、隠された過去が明らかになるとき、哀しい運命の皮肉がふたりを待ち受けていた――。

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★こちらのサイトor QRコードから映画『雨にゆれる女』ディスカウント・チケットをGET!
https://www.bitters.co.jp/ameyure/discount.html

劇場窓口にて割引画像を提示すると、300円引き!
(当日一般料金1800円→1500円、大学・専門1500円→1200円)
*1枚につき2名様まで *『雨にゆれる女』の上映期間中有効です。
*サービスデイ、会員など、ほかの割引との併用はできません。 *一部の劇場をのぞく。

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監督・脚本・編集・音楽:半野喜弘
出演:青木崇高 大野いと 岡山天音 / 水澤紳吾 伊藤佳範 中野順二 杉田吉平 吉本想一郎 森岡龍 地曵豪 / 十貫寺梅軒
企画・製作プロダクション:オフィス・シロウズ
配給:ビターズ・エンド
2016年 / 日本 / カラー / 1:1.85 / 5.1ch / 83分
©「雨にゆれる女」members
https://bitters.co.jp/ameyure/

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11月19日(土)より、テアトル新宿にてレイトロードショー!

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お問合せ:
パーティーについて:taro@opdisc.com
映画について:info@bittersc.co.jp

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Equiknoxx - ele-king

 〈ソウル・ジャズ・レコ-ズ〉が5年前にコンパイルした『インヴェイジョン・オブ・ザ・ミステロン・キラー・サウンズ(Invasion of the Mysteron Killer Sounds)』はザ・バグことケヴィン・マーティンとレーベル・ボスのスチュワート・ベイカーが当時のシーンからディジタル・ダンスホールと呼べる曲を掻き集めてきたコンピレイションで、伝統にも鑑みつつ、意外性にも富んだ内容となっていた。世の中があまりにも真面目すぎて気が狂いそうになる時はこれを聴くしかないというか。マンガちっくなアートワークも素晴らしく、いまだに文句のつけようがない。ただ、何がきっかけでこの企画が成立したのか、それだけはよくわからない。ディジタル・ダンスホールのピークはメタルとダンスホールが交錯した2001年を最後にリリース量は減るばかり。2011年に『インヴェイジョン~』がリリースされた後も、回復の兆しはどこにも見えず、カーン&ニークやゾンビーの試みも散発的な印象にとどまった。あるいはEDMと結びついたムーンバートン(というジャンル)が少しは目新しかったというか。すでにそれなりの知名度は得ていたディプロやウォード21をフィーチャーしていた『インヴェイジョン~』から、ほかに誰かルーキーが飛び出し、少しでもシーンを活性化させたかというと、そういうこともなく、そういう意味ではノジンジャ(Nozinja)しかアルバムを出さなかったシャンガーン・エレクトロや、実態はファベーラ・ファンクのミュージシャンが名前を変えて作品を提供していただけのバイレ・ファンキのコンピレイションと同じくで、「コンピレイションが出た時点で終わり」みたいなものではあった。それで内容はいいんだから大した編集力だとは言えるけれど(同作にこだわらなければもちろん一定の存在感を示したプロデューサーやMCはいる。MCスームT(MC Soom-T)やトドラ・T(Toddla T)、ミスター・ウイリアムズやスパイス、テリー・リン(Terry Lynn)、エンドゲーム(EndgamE)……ケロ・ケロ・ボニートやビヨンセ、サム・ビンガやジェイミー・XXもアルバムには取り入れていた)。

 要するにダンスホールというジャンルにはもう発展性は望めないのかなと思っていたのである。しかも、ギャビン・ブレア(Gavin Blair)とタイム・カウ(Time Cow)によるイキノックスは、最初はダンスホールを下敷きにしているとは思えないほどトランスフォーメイションが進行し、ダンスホールといえば陽気でハイテンションという枠組みからも逸脱していたために何が起きているのか僕にはわかっていなかった。ワールド・ミュージックは表現する感情が変わってきていると、それは自分でも書いてきたことになのに、先入観というのは恐ろしいもので、そのことに気づくまでに2カ月もかかってしまった。確か最初に「ア・ラビット・スポーク・トゥ・ミー・ウェン・アイ・ウォーク・アップ(A Rabbit Spoke To Me When I Woke Up)」を聴いた時はDブリッジ&スケプティカル「ムーヴ・ウェイ」のパクリかなと思ってしまったほど彼らの音楽はダンスホールと結びつかなかったのである(「ムーヴ・ウェイ」がダンスホールを取り入れてただけなんですけどね)。

「ああ、そうか」と思うと後はなんでもない。ダンスホールである。確かにダンスホールの要素がここかしこに見つかる。つーか、ダンスホールにしか聴こえない。それもそのはず、ギャビン・ブレアはビーニーマンを始め、スパイスやT.O.K.、あるいはダニエル“チーノ”マクレガーやティファなどジャイマイカのシーンに長いことかかわってきたプロデューサーで、いままでそれしかやってこなかった人物なのである。タイム・カウはケミカル(Kemikal)の名義で比較的最近デビューしたMCらしく、もしかして若いのかなと思って写真を眺めてみるけれど、とくに歳の差があるようには見えない。ふたりの役割分担もよくわからないし、レコード盤(限定でゴールド盤もあるらしい)には作曲のクレジットもない。録音は、古くは2009年に遡るそうで、ミスター・スクラフのジャケットなどを手掛けてきたグラフィック・デザイナーのジョン・クラウスがコンパイルしたものをデムダイク・ステアのレーベルが世に出している(ショーン・キャンティとマイルズ・ウィットテイカーもコンパイル作業にはかかわっていると記してある)。そして、それだけのことはあるというのか、やはり異質であることには変わりなく、「ポーリッジ・シュッド・ビー・ブラウン・ノット・グリーン(Porridge Should Be Brown Not Green)」になると何を聴いていたのか途中でわからなくなり、スネアの連打から始まる「サムワン・フラッグド・イット・アップ!(Someone Flagged It Up!!)」に至っては背景にダブ・テクノがそれとなく織り込まれ、ベーシック・チャンネルへのジャマイカからのアンサーといえるような面も出てくる(マーク・エルネスタスも気に入っているらしい)。

 アルバム・タイトルにも入っている「Bird」というのは、実際に鳥の声を模したような音作りにも反映はされているだけでなく、どうも彼らの音楽はダンスホールだけではなく、ソカにも大きく影響されているということを表しているようで、実際にアフリカン・ドラムとレイヴ・シンセイザーが絡む「リザード・オブ・オズ(Lizaed of OZ)」も耳慣れないサウンド・センスに仕上がっている。

 ここからまたダンスホールが……なんて。

Deep Medi 10 - ele-king

  去る10月1日、プロデューサーのマーラが2006年にスタートさせたダブステップ・レーベル〈Deep Medi Musik〉 のアニバーサリー・イベントが、彼のホームであるロンドンで開催された。
 多種多様なプレイヤーたちを紹介することにレーベルの目標は置かれ、その範囲はイギリスや同ジャンルのプロデューサーたちに収まるものではない。日本のエレクトロニック・ミュージックを代表するゴス・トラッドは、同レーベルからの諸作品で多くの注目を集め、〈Warp〉の看板ともいえるマーク・プリチャードやドラムンベースの鬼才、カリバーといった面々も、自身の顔のイラストがあしらわれた分厚い12インチをカタログに残している。そのサウンドをアップデートしているのは、若手のスウィンドルやカーン、グライム・シーンを支えるDJ、サー・スパイロらによるリリースだ。
 その飽くなき探究心を鑑みるに、先日、ジャイルス・ピーターソンの〈Brownswood Recordings〉からリリースした『Mirrors』において、ペルーで録音されたサウンド・マテリアルから幻想的な物語を作り上げたマーラ自身の魂は、レーベルに集うエネルギーと共にあると言っていいだろう。
 この夜のために総勢30名に登るDJやMCたちがひとつのステージに集結し、約1700人が入る会場のチケットも当然のごとくソールド・アウトだった。

Sir Spyro - Topper Top ft. Teddy Bruckshot, Lady Chann and Killa P - 2016

 オープン時刻の9時になると会場のエントランスには長蛇の列ができていた。ネットで買ったチケットの購入画面をスキャンし、厳重な荷物&ボディチェックをすませ、開始30分後に会場へ飛び込む。徐々に聴こえてくるのは、A/T/O/Sがシンガーを引き連れて放つ、悲哀に満ちたビートだ。サウンドシステムはヴォイドのインキュバスが設置され、重低音がまだ人がまばらなフロアに地鳴りを起こしていた。
 最初のDJであるサイラスと共に、リュックを背負ったドレッドヘアーのMCサージェント・ポークスもステージに登り、10年以上に渡ってロンドンのダブステップを支え続けてきた声を張り上げる。炎のような男だ。続くKマンがDJデックに立つ頃には、フロアは多くの人々で埋まり、〈Deep Medi〉のイラストを描き続けてきたタンニッジのプレイでこの日最初のリワインド(注:オーディエンスの反応が大きい曲を、DJが巻き戻して最初からプレイし直すこと)が巻き起こった。次の曲のメイン・シーケンスが流れた瞬間に上がる歓声とたくさんの拳。その曲がクラシックではなく今年リリースのこの曲であったことから、ベテランの彼もフロアとともに成長していることがうかがえる。

Dstrict - Drowsy - 2016

 日付が変わる頃には移動するのも困難なほどの数の人々で会場が溢れかえっていた。往年のファンから20代前半の若者まで、多くの世代が入り混じっている。
 ブリストル新世代を代表するカーン&ニーク、リーズ在住のコモドによるバック・トゥ・バックによって、会場はさらなる熱量で包まれた。ニークのシンプルでソリッドな選曲と、カーンのキラー・チューンとが相乗効果を生む。2012年の彼のレーベル・デビュー作である“Dread”がプレイされたとき、フロアは揺れに揺れた。コモドもそこに彼独自の変則的なトライバル・チューンを加えてうねりを生み出し、オーディエンスをロックし続ける。
 カーン&ニークと同じくブリストル出身のライダー・シャフィークが、ここではマイクを握った。ポークスの情熱的なパフォーマンスとは対照的に、彼はクールな立ち振る舞いで呪文を唱えるかのように淡々と言葉を紡ぎ、時に歪んだ声で低音を華麗に乗りこなす。クラブに舞い降りたダブポエットさながらのその姿は、奇しくもその日が命日だったMCスペースエイプに重なっても見えた。豊穣な才能とともに世代は確実に引き継がれているのだろう。続いてステージに上がった、ダブステップにファンクやジャズを持ち込んだ功績を持つシルキーとクエストのセットで、スウィンドルが流れた時も同じことを思った。

Kahn - Dread - 2012

 ゴス・トラッドとトゥルース、そこにマーラが加わって始まった2時15分からの怒涛の1時間、これは間違いなくこの日のピークだろう。マーラは自身のアンセム曲“Changes”でセットをスタートさせ、トゥルースが スクリームの“Midnight Request Line”をかけた時、フロアには狂気が渦巻いていた。僕の記憶が正しければ 、セット前半のゴス・トラッドの選曲はほぼ全てリワインドされていたように思う。“Babylon Fall”がかかったときの会場の一体感も素晴らしかった。
 ダブステップの定義が定まっていない頃に登場したゴス・トラッドのプロダクションは、計り知れない影響をUKのシーンに与え、マーラと初めて顔を合わせたときに彼が口にした「お前を日本に連れて行くから」のひと言は、日本でのダブステップのさらなる拡散に貢献した。人や情報の流れがトランスナショナルになった現在において、住んでいる場所や地域が個人の活動を遮るものではない。それを体現する一例がダブステップというムーヴメントであり、ゴス・トラッドのようなミュージシャンなのだろう。

Goth-Trad - Babylon Fall feat. Max Romeo - 2011

 これ以降も重低音は消えない。スプーキーとサー・スパイロによるMCにレディ・チャンとキラPを向かえたグライム・セット、レーベルの記念すべき第1作目である“Kalawanji” がリワインドされまくったクロームスターとジェイ・ファイヴのバック・トゥ・バック。ハイジャックとベニー・イルが“Cay’s Cray (Digital Mystikz Remix)”をプレイしたとき、終演間際であるにも関わらずフロアには多くの小さな火が灯っていた。

Fat Freddys Drop - Cay’s Crays (Digital Mystikz Remix) - 2006

 〈Deep Medi〉が作品をリリースし続けたこの10年の間に、ロンドンの音楽シーンには実に多くの変化が起きた。オリンピックの再開発などにより高騰した家賃のため、レコード店やクラブが閉鎖し、多くのプロデューサーたちがロンドンを離れている。最近では、ドラッグによる死亡事故が相次いだとはいえ、行政や警察の過剰に見える対応のもと、ロンドンの看板クラブであるファブリックの営業ライセンスが剥奪されてしまった。気のめいる出来事はこれからも続くのかもしれない。
 じゃあ、ここにはどんな希望がるのだろう。プレイの途中で、マーラはこんなことを言っていた。「〈Deep Medi〉は俺のものじゃない。いままで参加したプロデューサー全員のレーベルだ」。これは仲間に向けられた感謝の言葉であり、特定の中心を持たずに拡散していこうとする、ひとつの意思表示でもある。実際のところ、マーラは彼自身がレーベルに関わっていることを、2009年頃まで明らかにはしていなかった。この日のタイムテーブには彼の名前がなかったのだけれども、おそらくそれはそういう意図によるものだ。
 ここで先ほどのゴス・トラッドの例に視点を戻す。東京で実験を繰り広げていた彼がロンドンの地下室で産声を上げたばかりの音楽の一部になったように、世界のどこかで起きていることに関わることができるのは現在を生きる僕たちの権利だ。なんとかファブリックを救おうという活動もネットを介し世界規模で広がり、現在多くの支援金が集まっている。そして何より、10年前にロンドンで生まれたダブステップが今日も健在で、それを支えているのが、世界中でそこに耳を傾けている人々だということも忘れてはいけない。分断の風潮も至るところにある一方、確実に広がるこの水平の繋がりは、自分たちの人生を傾けることができる何かを守る大きな力なのだ。
 これからもダブステップと〈Deep Medi〉には夢を見させてもらおう。終演後、ゴミだらけになった会場でそう思ったのは僕だけだろうか。


宇多田ヒカル - ele-king

情愛の濃さを一方的に注いでいる状態、全身的に包んでいて、相手に負担をかけさせない慈愛のようなもの、それを注ぐ心の核になっていて、その人自身を生かしているものを煩悩(ぼんのう)というのです。……愛という言葉はなんとなく、わたくしどもの風土から出て来た感じがしませず、翻訳くさくて使いにくいのでございますが、情愛と申したほうがしっくりいたします。そのような情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子どもに対しても注ぐのも煩悩じゃと。石牟礼道子「名残りの世」

 ポップ・ミュージックにおける「わたし(I)」と「あなた(YOU)」をめぐる歌は、たいてい「ラヴ・ソング」とくくられがちなのだけれど、そこでの「愛」はセックスの欲望をふくんだ恋愛関係だけに限られるものではけしてなくて、セクシャルな欲望よりももっと大きく、深く、強い感情もそう呼ばれる。慈愛……なんていえば聞こえはいいけれど、人は生まれて、必ず死ぬから、その愛も必ずいつか断ち切られる痛みをともなう。水俣公害の苦難を描いた『苦海浄土』で有名な熊本土着の作家、石牟礼道子は、ネガティヴな仏教用語をほがらかに裏切った民衆の言葉づかいで、その愛を「ぼんのう」と肯定的に呼んだ。それはこの国の大衆=ポップの言語感覚だ。

 インタヴューなどではっきりと語られているように、この『Fantôme』には、3年前に急逝した宇多田ヒカルの実母の存在、というか不在が横たわっている。もちろん歌は歌だし、言葉は言葉だ。ポップ・ミュージックに見いだされる意味はいつだって複数あって、それらはときにアーティスト本人のなかでさえ不確かに重なり合いながら発せられ、オーディエンスに受け取られる。このアルバムで生々しさを増した彼女のヴォーカルは、あくまで普遍的なメロディと言葉に落としこまれることで、ポップ・ソングとしての透明な強度を保っている。とてもパーソナルで、シリアスなモティーフを扱っているのに、とても開かれていて、ぞっとするほど優しい。

 いつか彼女がフェイヴァリットとしてあげていたのは、コクトー・ツインズやPJハーヴェイ、シャーデー、それに実母である藤圭子といったシンガーとともに、アトムス・フォー・ピース、フランク・オーシャン、最近ではOPNとハドソン・モホークの手を借りてアノーニへとトランスフォームしたアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズといった名前だった。それでなんとなく、復帰後のアルバムはポップ・ソングの形式を前衛的に溶解させるものになる可能性もあるのかなと思ったのだけれど、このアルバムのたたずまいは、あくまでクラシカルでオーセンティックだ。多くの曲でエンジニアとしてクレジットされているのはスティングやU2、昨年のグラミーで4部門を受賞したサム・スミスなどを手がけたスティーヴン・フィッツモーリス。マスタリングはスターリング・サウンド。ベースになっているのは丁寧に音響処理された生楽器の演奏、彼女自身の手によってプログラミングされた電子音、それに静謐でドラマティックなピアノだ。

 『Fantôme』は宇多田ヒカルの8年半ぶりのオリジナル・アルバムということになるけれど、その長い沈黙を意識したことがない人間でも、彼女の名前と顔、そしてその声を知っている。前世紀末にピークを迎えた20世紀の大衆音楽の巨大産業化の波は、日本では「Jポップ」と呼ばれるムーヴメントとして現れた。そのスター・システムの最大で、おそらく最後の申し子。平成日本のポップ・スター。

 21世紀になってCDの売上がごっそりと減り、音楽シーンの断片化が進み、ストリーミングの普及によってさらに流動的な多極化が進む現在、「ポップ」という言葉を定義するのはますます難しくなりつつある。それでも、1990年代末に物心がついていた世代で、彼女の声をまったく聴いたことがない人間というのは日本にたぶん存在しない。本当に存在しないかなんてわからないけれど、わからなくてもそう言わせてしまうのがポップ・スターというものだ。15歳でデビューした彼女は、アルバムを重ねるごとにシンガーとしてだけではなく、自分自身に対するプロデューサーとしても成長していった。名実ともにポップ・フィールドの頂点にいるのに、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべながら。宇多田ヒカルはやがて2010年に「人間活動」を宣言し、表舞台から姿を消した。

 このアルバムはリリース直後、アメリカのiTunesで6位にチャート・インした。かつて全編英語詞でのぞんだ2枚のアルバムが商業的には苦戦したことを考えれば、ほぼすべて日本語で歌われるこのアルバムのチャート・アクションは驚くべきことだ。ティンバランドやトリッキー・スチュアートといったプロデューサーを起用したそのアメリカ進出のアルバムについて、彼女が強く感じた違和は、英語による詩作よりも、自分の作品に自分以外の声を入れること、だったそうで、それはこれまでの彼女のアルバムがいつもどこか密室的な空気を漂わせていたことと無関係ではないと思う。その宇多田ヒカルがこのアルバムに自分以外の人間の声を歓迎した。元N.O.R.K.の小袋成彬、椎名林檎、そしてKOHHだ。クレジットで確認する限り、KOHHは唯一、声だけではなく言葉をこのアルバムに捧げている。

 そういえば彼女のアメリカでのアーティスト・ネームは、「UTADA」だった。ファースト・ネームじゃなくファミリー・ネーム。すでに2012年に発表されていた“桜流し”をのぞけば、アルバムのクライマックスと呼ぶにふさわしい“忘却”に招かれたKOHH。彼もまた、幼い頃に死別した実父のファミリー・ネームを名乗る人物だ。著名な音楽一家で英才教育をうけ、10代のなかばでポップ・スターになったニューヨーク帰りの帰国子女と、父親との死別と母親の薬物中毒を赤裸々に歌いながら日本のアンダーグラウンドなトラップ・ミュージックの立役者となった、北区王子の刺青だらけのラッパー。いかにもメディア好みの組み合わせだし、間違いなく現在の日本のポップ・シーンで最大級の事件ではある。けれどここにあるのは、それぞれに周囲から押しつけられる「特別さ」に背を向け、手ぶらでみずからの根源的な喪失の経験に向き合おうとする、ふたりの人間の誠実な姿だ。

 みな望んでこの世界に生まれてくるわけではない。誰も生まれる家族や場所を選べない。突然ある国に、ある家族に、ある肉体に産み落とされ、ある言語を、人種を、国籍を、セクシャリティを、肌の色を、からだの形を受け入れることを強いられる。どんなに普遍的に表現しようとしても必ずある特定の言語に縛られてしまう「言葉」を、誰もが感覚的に感知できる「音」へと変換することを「歌」と呼ぶなら、歌とは、不自由な世界で自由であろうとする意志のことだ。

 リード・トラックは宇多田自身の手によってプログラミングされたシャープで吹っ切れたダンス・ポップ、“道”。フックの「It’s a Lonely Road, but I’m not Alone」という嗚咽のような切実なリフレインは、リズムに乗ったファルセット・ヴォーカルの軽快さによって引っ張られつつ、直後の「そんな気分」でチャーミングにはぐらかされる。まるでタトゥーのように心の傷跡を引き受けること。不在という形の存在=ファントーム(幻/気配/亡霊)というアルバム・タイトルの秘密は、ここであっけらかんと明かされる。

 ダブル・ベースに誘われた濃厚なバンド・セットで共依存的な男女をロール・プレイする“俺の彼女”。歌声のトーンと一人称を使いわけ、空虚なマチズモをフェミニスト的な視線でアイロニカルに戯画化するのかと思いきや、それだけではなく、見せかけの強さと共犯関係にある、ほの暗い内面のもろさを描く。重なり合わない男女のモノローグの並列は、ストリングスをバックにしたスリリングな欲望を訴えるフックをはさんで、振り出しの男の語りに巻き戻され、宙吊りのまま終わる。この曲のクライマックスにフランス語で忍ばされた「永遠(L'éternité)」をめぐる関係性のモティーフは後半、ヘルマン・ヘッセを呼び出しながら勇ましいホーンを響かせるファンク・チューン“荒野の狼”では逆に、今度はお互いに交差することができずに「永遠の始まりに背を向ける」人間同士の孤独として変奏される。

 ヒップホップ的なリズム・セクションで始まり、インコグニートのベーシストが心地よくベースを滑らせる“ともだち”は、本人がインタヴューでLGBT的な問題系を意識して作曲した、と発言したことで一部で話題になっている。きわめて保守的なジェンダー観をかかげる自民党の政治家までがレインボー・プライドのパレードに顔を出す現在、そうした解釈が可能なポップ・ソングが日本語圏で歌われること自体はそこまで驚くべきことじゃない。けれど、ポップスの社会的インパクトが歌詞のメッセージうんぬんを超えて、それが誰によって、どんな場所で鳴らされるかによって現実を揺さぶるパワーを生み出すのだとすれば、この曲はやはりとてもアクチュアルだ。

 この夏、都内のあるロースクールで同級生による同性愛のアウティングによって命を絶った青年の事件が明るみに出た。遺族の会見での言葉、あえて公開されたプライベートなLINEでのやりとりのディティールなど、いまだこの社会に蔓延するセクシャル・マイノリティに対する無理解の残酷さを痛感させる出来事だった。小袋成彬の深みのあるヴォーカルをバックに、あくまで軽いトーンで口にされる「君に嫌われたら生きていけないから」というボーイ・ミーツ・ガールのクリシェは、ボーイ・ミーツ・ボーイにも、ガール・ミーツ・ガールにも、あらゆる関係性にむけて開かれることで、ひどく生々しい痛みを表現してしまっている。それにしても、「ハグ」と「キス」のあいだの無限の距離をじれったく逡巡する歌声、口には出せない嫉妬や性的なファンタジーをほのめかす言葉、そんな葛藤を無視して悪戯っぽく欲望を煽るホーンのアレンジ……社会的なコンテクストうんぬんを抜きにして、まずはポップスとしての緻密な魅力をこの曲が持っているからこそ、そこにはあらゆるアイデンティティを超越する力が宿っているのだ。

 もっとも力の抜けたストレートなヴォーカルを聴かせる“花束を君に”は、オフコースやチューリップを意識してソング・ライティングされたというオーセンティックな葬送曲だけれど、それは「薄化粧」というワンフレーズで匂わされるだけ。それにアルバムで最初に完成させたという、悲恋の歌のようにも聴こえる追悼歌“真夏の通り雨”の、コーラスと呼ぶにはあんまりな言葉をリフレインしながらのフェード・アウト。爪弾かれるハープの響きに夢のあわいから拾ってきたような詩を並べる“人魚”は、左右のチャンネルに丁寧に振りわけられたドラム・パターンの絶妙なズレが心地よく鼓膜を撫でる。

 “二時間だけのバカンス”でデュエットする椎名林檎とはいつかカーペンターズの“アイ・ウォント・ラスト・ア・デイ・ウィズアウト・ユー”をデュオでカヴァーして以来のオリジナルの共演だ。この曲自体が、切実なモティーフにあふれたアルバムのなかで、それこそ古くからの友達に誘われて出かけたような解放感に満ちている。そしてある1曲をはさんでラストの直前、サム・スミスの“ステイ・ウィズ・ミー”でも響いていたシルヴェスター・アール・ハーヴィンの抜けのいいスネアに後押しされ、彼女のソロ・ヴォーカルが跳ねる“人生最高の日”。「歓声にも罵声にも拍手喝采にも振り返んない」というラインは、KOHHがフランク・オーシャンの“Nikes”への客演で披露した「自由にする/まるでパリス・ヒルトン」という、毎分毎秒、何億万分の一の出会いの可能性を祝福するラップの転生した歌声のようにも聴こえる。

 ラスト・ナンバーは“桜流し”。仏教的な諸行無常の死生観、本居宣長以来のその日本ヴァージョンとしての「桜」というモティーフ。繰り返す生と死……いや、それでも決定的な死はある。「もう二度と会えないなんて信じられない」からのぞっとする絶望と諦観は、このトラック・リストの最後に置いてしまえば、どうしてもアルバムの核に置かれた、家族をめぐる喪失のストーリーを連想させてしまう。けれどこの曲はその決定的な出来事の前に発表されているのだ。あらゆる別れはひとつの死であること。すべての葬送は生き残った者たちのためのセラピーであること。この曲が、まるでその喪失にむけて歌っているように聴こえてしまうことは、なによりも彼女のソング・ライティングの普遍性を物語っている。

 そして作品が他者に開かれたという意味でも、アルバムを通じたハイライトといっていいだろうKOHHとの“忘却”。最初はノイズだと思った。クリアに、そして重く鳴る心臓の音。すぐにアンビエント的に風景を覆い尽くすストリングスが鼓膜を支配して、後ろでピアノが踊り、曲の三分の一がそのまま過ぎる。前触れもなくヴォーカルが入る。「好きない人はいないもう/天国か地獄」。黄達雄(KOHH T20)という強烈な固有名詞は、「三歳の記憶」、「二十三年前のいい思い出」という記号的な数字にそっけなく置き換えられる。「思い出せないけど忘れられないこと」について韻律をたどる男の言葉に亡霊のように女の声がよりそい、やがてラップが途切れると、女の声が生々しく実体化する。「熱い唇/冷たい手/言葉なんて忘れさせて」。次のヴァースでぶっきらぼうに女の背中を押すラップは、「吐いた唾は飲むな」、「男に二言はない」といった男性的なジェンダー・ロールを裏切り、ラストのオルガンにのせた「いつか死ぬとき手ぶらがベスト」という彼女のパンチラインに引き継がれる。ふたりの声は、ぎりぎりまで接近して、だがはっきりとは交わらず、ただ言葉だけがダイアローグをつなぐ。足をすくうベースの低音の浮遊感に抵抗するかのように、心音はいつのまにか力強いドラムスに変わっている。

 日米のヒップホップにおけるラップの主流が、セルフ・ボースティングによるマチズモと具体的な固有名詞を駆使したリアリズムをベースとしていることを考えれば、ここでのKOHHのラップはひどく特異だ。最近の彼のラップ、たとえば『DIRT』シリーズ以降のいくつかの曲の英訳に目を通すと、ほとんどヒップホップのリリックとは思えないほどのアブストラクトさを実感する。「女と洋服と金」というトラップ・ラッパーとしての彼のマテリアリズムとは真逆の、スピリチュアル・ミュージックとしてのラップ。時代のアイコンであることを背負わされたポップ・スターが、ごくごくパーソナルな喪失の経験に生身で向き合う、その最奥の現場で、あまりに人間的なリアリティを歌ってのし上がったラッパーが、これまでにないスピリチュアリティに接近している。ここにあるのは、ポップ・スターのロール・プレイでも、ヒップホップ的な成り上がりのストーリーでもない。

 このアルバムを語る際、しばしばイギリスのアデルが引き合いに出されているようだ。それは国民的なポップ・スターとしての存在感、という意味ではなるほど頷けるものの、しかしすくなくとも純粋に音楽的にいえば、どちらかといえばコンサヴァティヴなたたずまいのアデルに比べて、卓越したグッド・リスナーとして吸収したエッジーな音楽的要素を独自に消化し、普遍的なポップスに組み上げる宇多田ヒカルの手腕は際立っている。そのことを別にすれば、そういえばアデルの大ヒット曲“ホームタウン・グローリー”は、そのサンプリングをネタにイギリスの各地のラッパーたちがそれぞれの地元をレプリゼントする曲をYouTubeに発表するストリート・アンセムになっていた。それはたしかに、日本のヒップホップ・シーン界隈での宇多田ヒカルの根強い人気にもオーヴァーラップする。PSGのPUNPEEがDOMMUNEでのスペシャル・セッションで示したように、ニューヨークのハードコア・ラップのキング、ナズが“ザ・メッセージ”でサンプリングしたスティングのあの“シェイプ・オブ・マイ・ハート”のギター・フレーズは、ここ日本では、「二人で靴脱ぎ捨てて、はだしで駆けていこう」という“NEVER LET GO”の彼女の甘い歌声とともに記憶されているのだ。

 そして、デビューしたばかりだったKOHHの“MY LAST HEART BREAK”での、“SAKURAドロップス”のサンプリング。スキャンダラスなラインとヴィデオばかりが話題になりがちだけれど、あそこでKOHHは、ひどく猥雑なラップの隙間で、「これが最後のハート・ブレイク」という原曲の歌詞を「これが最後の傷だから平気/自分に言い聞かせる」というリリックでさりげなく引き継いでいた。「壊れない心臓」という歌い出しで始まるあの曲が、登場時のKOHHのまるで内面を欠いたエイリアンのようなメンタリティの誕生を記録した曲だったとすれば、ふたりの新たなフェーズを予感させるこの曲でのセッションは、飛び交うハイプとはまったく無関係なところで、やはり記念碑的な意味を帯びている。

 「宇多田ヒカル」というひとりの人間について語ろうとすれば、天才と呼ばれるその才能であるとか、特殊といえば特殊なその生い立ちであるとか、どうしても特別なドラマがつきまとう。もちろんポップ・ミュージックはそうしたバックグラウンドさえ原動力にしてさまざまな感情をオーディエンスから引き出すものだ。けれどここにあるのは、誰もが誰かの子であり、ときには父や母となり、そして誰しもいつかは喪失を経験する、というシンプルなリアルだ。普遍的な喪失の経験に向き合おうとするこのアルバムの誠実さを、もしドラマティックと呼ぶのなら、どんな人間の生もドラマティックなのだ。彼女のパーソナルなセラピーの記録でもあるこのアルバムは、大切なのは「特別であろうとすること」じゃなく、「自由であろうとすること」なのだと教えてくれる。世界の不自由さをいったん受け入れ、それでもそこには「自由になる自由がある」と。宗教思想においては煩悩と呼ばれる愛も、諸行無常の死生観も、しなやかに飲みこんで笑ってみせる大衆音楽=ポップスのぞっとするような力がここにはある。

 2016年、カニエ・ウエストにせよビヨンセにせよフランク・オーシャンにせよ、話題作をリリースしたトップ・アーティストたちはいずれも、リリース形態そのものがアート表現の一部であるといっていいような動きをみせていた。そうでなくても、この日本ではポップ・アイコンに否応なくつきまとう「物語」への消費欲望だけをあっけらかんとアンプリファイしてCDの売り上げに結びつけるセールス方法が定着してひさしい。データ配信やストリーミングの普及と、アナログ・レコードへのフェティッシュな回帰のはざまで、CDというメディアは過渡期のものとして衰退していく運命にあるとの声もあるほどだ。そんななか、彼女は特典もなしのフィジカルCDとiTunesによる配信という、とても素朴なフォーマットでこのアルバムをリリースした。そこには、自分の音楽に対する自負……というよりは、なにかもっと力の抜けた、大げさにいえば、自分を取りまく世界に対する信頼のようなものを感じる。

 宇多田ヒカルが愛読しているという話もある小説家、中上健次の音楽論はけっこうデタラメなものも多いのだけど、もっとも印象的に記憶しているもののひとつに、耳と音にかんするものがある。耳は目や口と違い、閉じることができない感覚器官だ。しかも脳にいちばん近い。だからそれはもっとも脆く、それゆえ聴覚とは生命や霊のヴァイブレーションをもっとも鋭敏に感じとる器官なのだ……と彼は真剣に論じていた。冗談のようなその熱弁にならうなら、このアルバムでもっともスピリチュアルな場所で鳴らされる音は、生命のヴァイブレーションそのものである、心臓のたてる鼓動だ。誰も自分の心音を直接に聴くことはできない。鼓動を聴くためには、誰かの胸に耳を押しあてる必要があるし、鼓動を聴かせるのなら、誰かの頭を胸に抱く必要がある。聴くこと、聴かせることは、誰かを信じることなのだ。

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