「You me」と一致するもの

悪女/AKUJO - ele-king

 昨年のワースト・ムーヴィーは『ワンダーウーマン』だった。ストーリーが単純な上にとにかくテンポが悪い。『ハリー・ポッター』シリーズは監督が変わってもテンポが遅いのは子どもに観せるという大前提があるからだろうけれど、『ワンダーウーマン』にそんな制約があるとも思えない。余韻がどうという場面もないし、じっくりと観せるシーンもなかったのに、どうしてあんなにゆっくりとしか展開しなかったのか。しかし、『ワンダーウーマン』は全米で年間3位の大ヒットだったという。『ワンダーウーマン』を絶賛している声を表面的に掬い取って見ると、世間のことは何も知らない女性が性善説に基づいてアクションしまくることがいいらしく、アン・ハザウェイやジェシカ・チャスティンといった中西部受けしない女優たちが絶賛し、ヒーローものにしては女性客が50%を超えていることがひとつの特徴だという。人類にはもともと悪い心はなく、悪魔がそうさせているだけなので、純粋無垢なワンダーウーマンがその悪を退治するという展開……と書くと、やっぱり子ども向けにしか思えなくなってしまうけれど、『スリー・ビルボード』もリベラルのおとぎ話みたいなところがあると書いたばかりなので、トランプ政権下で文化系リベラルが求めていた捌け口が集約された作品なのかなと思うばかりである。

 女が激しく戦闘するだけなら日本占領下の朝鮮半島を描いたチェ・ドンフン監督『暗殺』でチョン・ジヒョン演じるアン・オギュンも記憶には新しい。あれは銃があまりにも重くて、狙撃用のライフルを構えるだけでも大変だったらしい。そして、同じ韓国映画でチョン・ビョンギル監督『悪女/AKUJO』も冒頭から女の戦いっぷりは凄まじい。キム・オクビン演じるスクヒはいきなりヤクザの本部に乗り込み、組織ごと全滅させてしまう。ここまでがあっという間。ドミノ倒しのように殺されていくヤクザたちはまるで死ぬために生まれてきたかのように次から次へと倒されていく。物語はここから始まると言いたいけれど、警察に逮捕されたスクヒが連れて行かれたのは国家のためにさらに精度の高い暗殺マシンを養成する施設で、彼女はそこでさらに高度な訓練を施されることになる。この過程がまたシステマティックに構成されていて実に楽しい。スクヒはそして、国家が命じる暗殺をやり遂げればいままでとは異なる身分を国家から与えられ、自由の身になると告げられる。これが絶対に困難なミッションだろうと思っていると(以下、ネタばれ)、拍子抜けするほど簡単で、スクヒはすぐに釈放されて自由の身になれる。所内で産んだ子どもと共に彼女は新たな人生を生き始めることになる。


『悪女/AKUJO』

 その後に起こることは実はどんなストーリーでもよかったのではないかと思う。スクヒは要するに売春組織から抜けられない売春婦の比喩なのだと思う。彼女は徹底的に国家から監視され、それ以上は関わらなくてもよかったはずのことにも駆り出され、自分の人生などというものは持てないどころか、むしろ過去との接点は増えていく。『悪女/AKUJO』を観ていて僕はコリーヌ・セロー『女はみんな生きている』を思い出した。韓国の売春組織がどれほど高度なものかは知らないけれど、ヨーロッパのそれが極めて複雑で女性たちにとって絶望的な組織論によって支配されているかは各種ドキュメンタリーや国連がそれに関わっていることを暴いたラリーサ・コンドラキ監督『トゥルース 闇の告発』がアメリカでは上映できなかったことでも深刻さは伝わってくる(確かガスランプ・キラーがこれについてラップしていた)。フランスの新自由主義を批判するイントロダクションから始まった『女はみんな生きている』は次第にヨーロッパの地下に張り巡らされた売春組織の実態に肉薄していき、主役の女性たちはこれに思いっきりカウンターを食らわせることになる(ファンタジーとはいえ、その方法論はとても痛快だった)。『悪女/AKUJO』もこれと似た展開をたどり、クライマックスでは長丁場のカーアクションも圧巻だし、女性がアクションしまくるという意味では何も申し分はない。しかし、この作品は『ワンダーウーマン』と同じ客層を呼ぶことはできないだろう。それはスクヒにはあまりにも葛藤があり、それが物語を根底からドライヴさせている要因をなしているからである。逆にいえば口コミ型で広まったという『ワンダーウーマン』は何ひとつ葛藤がないことが女性客を引きつけたということなのだろう。

 どうして『ワンダーウーマン』を観たのかと聞かれれば、アメリカで再燃しているフェミニズムがどこかしらにテーマとして盛り込まれているからではないかと予想したからである。しかし、そのような要素はなかった。それどころか反トランプで動いている女性たちと『ワンダーウーマン』にもしも関係性があるとしたら、この運動はヤバいかもと懸念せざるを得なくなってしまった。『ワンダーウーマン』の幼児性がもしもウイミンズ・マーチやタイムズ・アップにも浸透しているとしたら、女性の尊厳というようなテーマからも一気にそれてしまうし、それこそカトリーヌ・ドヌーヴの言うように「女は子どもじゃない」と言いたくなる衝動も理解できないことはない。『ワンダーウーマン』は女性しかいないアマゾナスで育ち、世界のことは何も知らないという設定で、それは確かに子どもということでしかない。子どもが悪と戦う映画を女性客が喜んで観ているというのは……どうなんだろう。ソフィア・コッポラの新作『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』がそして、男性とは隔絶された女子寄宿学園で暮らす女性たちの話であった。1971年に公開された『白い肌の異常な夜』と同じ原作を映画化したもので、反戦や人種問題をばっさりとカットし、女性だけの空間に負傷兵がひとり紛れ込んでくるという設定だけを踏襲している。そして、男性に興味を示す女性たちの心理が事細かに描写され、前作よりも心理劇の要素が比重を増している(そして、アメリカ南部なのにヨーロッパにしか見えない衣装と)。


『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』

『白い肌の異常な夜』では負傷兵の体を拭くのは黒人メイドの仕事である(この時のセリフが実に印象的)。コッポラ版ではこのような仕事をニコール・キッドマン演じる園長のミス・マーサにやらせている。男性の肌に触れるマーサの内面を推し量るようなショットが最も雄弁にこの作品の意図を物語っている。キルスティン・ダンスト演じるエドウィナ、エル・ファニング演じるアリシアもコリン・ファレル演じるマクバニー伍長には興味津々で、クライマックスでマクバニー伍長が動き出すまでは男性にも女性にもいわゆる「理はない」としか言えない場面ばかりが積み重なる。結果的には悲劇ではあるものの、その過程は『白い肌の異常な夜』のようにあらかじめ男性=悪という描き方はせず、男性の内面はあくまで未知数になっているところが現代的だった。ウイミンズ・マーチやタイムズ・アップに対して、結果だけを見てモノを言うのはどうなんだろうという疑義がこの作品に潜んでいないとはとても思えないし、『ワンダーウーマン』を観てはしゃいでいた女性コメンテイターの感想を聞いてみたい作品ではある。とはいえ、『ワンダーウーマン』を監督したパティ・ジェンキンスはかつてシャーリーズ・セローンのブスメイクが話題を呼んだ『モンスター』を撮った監督でもある。リドリー・スコット『テルマ&ルイーズ』が元ネタにしていた事件を忠実に再現した『モンスター』はかいつまんで言えば、自分が愛した女性のために次々と男たちを殺していった娼婦の話である。世界のことは何も知らない、子どもみたいな女性が連続殺人鬼になるか、アクション・ヒロインになるか、パティ・ジェンキンスにとってはもしかすると大した違いはなかったのかもしれない。


『悪女/AKUJO』予告編

『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』予告編

 SWANKY SWIPE / SCARSでの活動でも知られ、数々のクラシック作品をリリースして人気/評価を不動のものとしたラッパー、BES(ベス)。MONJU / SICK TEAM / DOWN NORTH CAMPのメンバーとして、そしてソロ・アーティストとしてこれまでに膨大な音源をリリースし、近年の活発な活動にも注目が集まっているラッパー、ISSUGI(イスギ)。旧知の間柄であり、これまでにも幾度かコラボレーションしてヘッズを狂喜させてきた両者のジョイントによる噂のオリジナル・アルバム『VIRIDIAN SHOOT』(ヴィリジアン・シュート)のリリースへ向け、Teaserが公開! 同作のレコーディング風景を使用し、収録曲“RULES”をいち早くプレヴューしている。また2/21よりiTunes Storeでのプレオーダー受付とその“RULES”(Prod by GWOP SULLIVAN)、“WE SHINE”(Prod by GRADIS NICE)の2曲の先行配信もスタート! リリースはいよいよ来週、2/28!

*BES & ISSUGI 『VIRIDIAN SHOOT』 Teaser

BES& ISSUGI
VIRIDIAN SHOOT

2018年2月28日発売予定
レーベル:P-VINE, Inc. / Dogear Records

[トラックリスト]
1. ALBUM INTRO
 Prod by 16FLIP
2. SPECIAL DELIVERY
 Prod by GWOP SULLIVAN
3. NO PAIN MO GAIN
 Prod by GWOP SULLIVAN
4. GOING OUT 4 CASH
 Prod by GWOP SULLIVAN
5. NEW SCHOOL KILLAH
 Prod by 16FLIP
6. 247
 Prod by BUDAMUNK
7. RULES
 Prod by GWOP SULLIVAN
8. BIL pt3 feat. MICHINO
 Prod by GWOP SULLIVAN
9. EYES LOW
 Prod by 16FLIP
10. HIGHEST feat. MR.PUG, 仙人掌
 Prod by GWOP SULLIVAN
11. VIRIDIAN SHOOT
 Prod by GWOP SULLIVAN
12. SHEEPS
 Prod by DJ SCRATCH NICE & GRADIS NICE
13. BOOM BAP
  Prod by DJ SCRATCH NICE
14. WE SHINE
  Prod by GRADIS NICE
〈BONUS TRACKS〉
15. GOING OUT 4 CASH REMIX
  Prod by GWOP SULLIVAN
16. SPECIAL DELIVERY REMIX feat. MR.PUG
  Prod by GWOP SULLIVAN

BPM ビート・パー・ミニット - ele-king

記憶するということと/思い続けることは違います/たいていの人間は/時とともにすぐに忘れてしまう/それが一番/むずかしい事です 清水玲子『パピヨン』1994

 カンヌ国際映画祭には2010年に創設された「クィア・パルム」という独立賞があり、全上映作品の中からセクシュアル・マイノリティに関する要素を持つ作品が候補作として選定される。昨年この賞(カンヌではグランプリも獲ってるが)を受けたのが本作『BPM』で、3年前(2014年)のクィア・パルム受賞作は『パレードへようこそ(原題:Pride)』。

 LGSM(Lesbians and Gays Support the Miners)の軌跡を描いた『パレードへようこそ』の舞台は1984年の英国で、創設メンバーの一人であるゲイ・アクティヴィスト、マーク・アシュトンは1987年2月11日にエイズのため死去している。米国における、エイズ施策に消極的な政府や、感染当事者の要望に応えない製薬会社などに対する直接抗議行動団体「ACT UP」がニューヨークで始動したのが1987年の3月なので、彼はそのムーヴメントの萌芽を見ることなくこの世を去ったことになるが、さらに2年後の1989年には英国の対岸フランスで「Act Up-Paris」が活動を開始する。『BPM』が舞台に設定したのはその頃、90年代前半のパリである。

 実際にAct Up-Parisのメンバーでもあったロバン・カンピヨ監督はこの映画を、実在した過去の人物を役者に割り振ることをせず、あくまでフィクションとして再構成した。それは「フランスにおける90年代前半のエイズ・アクティヴィズム」といった言葉で記憶されるであろうムーヴメントの渦中にいた人々に、改めて顔と名前を与える作業とも言える。いかにあの時代の空気から乖離せずに描くか、という困難な作業をナウエル・ペレーズ・ビスカヤート(個人的に印象深いのはアルゼンチンからベルギーのパン屋のおっさんに身請けされる青年を演じたデヴィッド・ランバート監督の『Je suis à toi』)やアデル・エネル(『午後8時の訪問者』ほか。余談ながらパートナーは同性)を始めとした俳優陣が過不足なく体現することで成立させている。また監督が「出演者の大部分がオープンリー・ゲイだった」と語っていることからは、制作現場が現在と過去とがせめぎ合う空間であったことも窺える。

ゲイ社会にとってエイズはいまだに終わっていないのだ、と心に留めておくことが大切だ。僕の俳優たちはカクテル療法や併用療法の時代しか知らなかった。彼らは予防的治療の時代を生きている。にもかかわらず、未だに彼らはどこにでも存在する忌まわしい伝染病を抱えて生きなければならない。この映画の時代と現代では25年の歳月が経過しているのにね。 (監督インタヴューより)

 映画が始まって割とすぐ、Act Up-Parisの定例ミーティングに初めて来た若者に古参のメンバーが活動内容などを矢継ぎ早やに説明した後で実にさり気なく、こんな一言を付け足すシーンがある。「あ、あと君らの(HIV)検査結果がどうであれ、この活動に参加した時点で世間からはHIV感染者ってことにされるからね」。この実にあっけらかんと軽く、かつ絶望的なジャブを繰り出された観客は、かつて存在した空気の中に引きずり込まれる。

 早期に適切な治療にアクセスできれば、という条件付きではあるが現在、少なくとも先進国においてはHIVに感染しても生きるか死ぬか、というものではなくなった。が、90年代前半にはまさしく生きるか死ぬかの問題だったのであり、加えて感染者に近づくことすら避けられるような、無知に基づく恐怖が社会に充満していた時代である。当事者とその関係者以外(もちろん政治もである)のマジョリティーができるだけエイズについて考えないことで事態をやり過ごそうした果てに感染は拡がり、そしておびただしい数の人々が死んだ。マドンナが1989年に発表したアルバム『ライク・ア・プレイヤー』の日本盤ライナーには枠囲みで「AIDS(エイズ)に関する事実」というタイトルのコラムがあり、オリジナルのブックレットには見当たらないこのテキストが収録された経緯はよく判らないが、最後の一文はこうだ:「AIDSはパーティーではありません」。

 それから、だいたい四半世紀が経った。2018年現在、医療の進歩によってHIVウィルスの影響自体は効率的に抑えこむことが可能となっている(適切な服薬によりウィルスが検出されない状態を保つことができる)のに、いまだ感染者への差別――日本に限定すればお馴染みの「ケガレ」に近い忌避感、と言い換えてもいいだろうか――だけがスモッグのように残ってしまった状態である。感染しても取りあえず死なないらしい、という曖昧な雰囲気が関心を薄れさせている状況は、現実に向き合って判断していないという意味では「AIDSがパーティー」だった頃と似たようなものだ。

 この映画の仏語原題は『120 Battements par minute』である。音楽のテンポとしてならBPM 120は割と普通にあるけれども、安静時の心拍数としては早すぎる(走っている時にはこのくらい出るだろうが)。もしかすると本タイトルにおける「ビート(Battement)」はどちらとも取れるように「120」に設定されたのかもしれないが実際、この映画もビートとともに始まる。そして心拍としてのビートは、血液のイメージにも接続される。本来体内を循環するのが役割であるはずが、時に思いも寄らないところにまで運ばれ、また思いも寄らないものを運んでしまう血液のイメージが視覚的にも随所で使われ、なまじリアルな流血をこれでもかと繰り出すより効果的に作用している。

 登場人物がほぼ10~20代の若者たちで、かつアーバンな首都の生活者で、ある一時期ヒートアップしたムーヴメントを描いた映画であるのは間違いないので、この映画を観て受け取った感動をつい「駆け抜けた青春」などと形容しそうにもなるが、当時の渦中ただ中にあった人にとっての現実は、何も考えずに歩いていた道が実はランニングマシーンだった(止まったが最後、容赦なく地面に叩きつけられる)ことに気づいてしまったようなもので、ひたすらに追いかけてくる現在の中で自らの青春にうっとりしている余裕などなかったであろう。ハードコアな日常に否応なく放り込まれた彼らの顔は、だからどこか茫洋としている。

 『BPM』の中で彼らが束の間の陶酔を表情として見せるのは、観ていて息苦しくなるようなセックス・シーン(フェラチオする時にコンドームを付けたほうがいいのか大丈夫なのか、といったノイズがいちいち邪魔をする)ではなく、ほぼ深夜のクラブでのシーンに留められている。彼らが昼間の活動を終えた後でゆらゆらと漂うクラブで流れるサウンドはあくまで90年代風に作られた、ただしその音の硬さがあの頃の音とはどこか決定的に違う響きを持った新曲が大半を占めているが、そこからも制作者の「これはフィクションである」という明確な意志が伝わってくる。それはつまり、下手を打つと間違い探しによって内容がぼやけてしまう「事実に忠実な再現ドラマ」という枠組から自由になるために選ばれた語り方である。

 確かにエイズはパーティーではなかった。が、どうしようもなく熱を持っていた時期があった。やがてその「フィーヴァー」は去り、しかし終わったわけでもない25年後のいま、ノスタルジアを極力排した映画『BPM』が届けようとしているものは、かつてその熱が何を奪い、何を生んだのか? という人と社会の動きについてであり、そして一番にそれが届けられるべきなのは現在、この映画の中を生きた彼らと同年代の人々と言うことになるだろう。苦闘した先人たちを英雄的に描くことで若者に恩を着せるのが目的では無論なく、この先も人間社会は似て非なる愚行を幾度も繰り返すだろうし、幾ら歴史を学んでも過去が現在のシミュレーションではない以上、眼の前の事象にどう対処したらいいのかの判断は、その場に立ち会ってしまった未来の誰かがするしかないのだ。先に道を歩いてきた者は、さらにその先へと進もうとする誰かに「覚悟だけは決めておけ(幸運を祈る)」とだけ伝えて倒れていくほかに、できることはないからだ。


Mika Vainio + Ryoji Ikeda + Alva Noto - ele-king

 2002年9月23日。英国のニューキャッスルにあるバルティック・センター・フォー・コンテンポラリー・アーツにて、ミカ・ヴァイニオ、池田亮司、アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)らによる最初で最後の競演が行われた。今から16年も前の出来事である。しかし、その音響は明らかに「未来」のサウンドだ。今、『Live 2002』としてアルバムとなったこの3人の競演を聴くと、思わずそう断言してしまいたくもなる。
 この『Live 2002』には、音響の強度、運動、構築、逸脱、生成、そのすべてがある。11のトラックに分けられた計45分間に及ぶ3人のパフォーマンスを聴いていると、00年代初頭のグリッチ・ノイズ/パルスを取り入れた電子音響は、この時点である種の到達点に至っていたと理解できる。強靭なサウンドで聴き手の聴覚を支配しつつも、無重力空間へと解放するかのような音響が高密度に放出されているからだ。このアルバムのミニマル・エレクトロニック・サウンドは、00年代初頭の電子音響・グリッチ・ムーヴメントの最良の瞬間である。
 2002年といえばカールステン・ニコライはアルヴァ・ノト名義で『Transform』を2001年にリリースし、いわゆる「アルヴァ・ノト的なサウンド」を確立した直後のこと。池田亮司も2001年に『Matrix』をリリースしそれまでのサウンドを総括し、翌2002年には弦楽器を導入した革新的アルバム『op.』を発表した時期だ。ミカ・ヴァイニオも Ø 名義で2001年にアルヴァ・ノトとの競演盤『Wohltemperiert』を、ソロ名義で2002年にフェネスとの競演盤『Invisible Architecture #2』を、パン・ソニックとしてもバリー・アダムソンとの共作『Motorlab #3』、翌2003年にはメルツバウとの共作『V』もリリースしており、コラボレーションを多く重ねていた。
 つまり彼らは、これまでの活動の実績を踏まえ、大きく跳躍しようとしていた時代だったのではないか。逆に言えばそのサウンドの強度/個性はすでに完成の域に至っていた。そう考えると『Live 2002』の充実度も分かってくる。3人の最初の絶頂期において、その音が奇跡のように融合したときの記録なのだ。この種の「スーパーグループ」は単なる顔合わせに終わってしまうか、今ひとつ個性がかみ合わないまま終わってしまう場合が多い。しかし本音源・演奏はそうではない。以前から3人が競作していたようなノイズ/サウンドを発しているのだ。

 とはいえ3人揃っての競作・競演はないものの、カールステン・ニコライと池田亮司はCyclo.としてファースト・アルバムを2001年にリリースしていたし、ミカもカールステン・ニコライ=アルヴァ・ノトと共作『Wohltemperiert』を2001年にリリースしているのだから、すでに充実したコラボレーションは(部分的にとはいえ)実現していた。
 ゆえに私はこの『Live 2002』の充実は、才能豊かなアーティストである3人がただ揃っただけという理由ではないと考える。そうではなく2002年という時代、つまりはグリッチ以降の電子音響が、もっとも新しく、先端で、音楽の未来を象徴していた時代だからこそ成しえた融合の奇跡だったのではないか、と。
 むろん『Live 2002』を聴いてみると、このパルスは池田亮司か、このノイズはミカ・ヴァイニオか、このリズミックな音はアルヴァ・ノトか、それともCyclo.からの流用だろうか、などと3人のうちの誰かと聴き取れる音も鳴ってはいる(M4、M5、M6、M10など、リズミック/ミニマルなトラックにその傾向がある)。
 しかし同時にまったく誰の音か分からないノイズも鳴っており(クリスタル・ドローンなM7、強烈な轟音ノイズにして終曲のM11など)、いわばいくつもの電子音の渦が、署名と匿名のあいだに生成しているのである。それは3人が音を合わせたというより、この時代に鳴らされた「新世代サウンド、ノイズ」ゆえの奇跡だったのではないか。グリッチ電子音響時代の結晶としての『Live 2002』。

 90年代中期以降に世界中に現れたグリッチ的な電子音響音楽は、グリッチの活用による衝撃というデジタル・パンクといった側面が強かったが(キム・カスコーン「失敗の美学」)、00年代初頭以降は、それを「手法」として取り込みつつ、電子「音楽」をアップデートさせる意志が強くなってきたように思える。つまり電子音響が、大きくアップデートされつつある時期だったのだ。彼ら3人の音もまたそのような時代の熱量(音はクールだが)の影響を十二分に受けていた。先に描いたようにちょうどこの時期の3人のソロ活動からその変化の兆しを聴きとることもできるのだ。
 膨大化するハードディスクを内蔵したラップトップ・コンピューターや独自のマシンによって生成された電子音響/音楽/ノイズは、和声や旋律、周期的なリズムなど「音楽」的な要素を持たなくとも、その多層レイヤー・ノイズやクリッキーに刻まれるリズムによって聴き手の聴覚を拡張し、音楽生成・聴取の方法までも拡張した。90年代以降の電子音響は、21世紀最初の「新しい音楽」であったのだ。
 そのもっとも充実した時期の記録が本作『Live 2002』なのである。このアルバムは2017年に亡くなったミカ・ヴァイニオへの追悼盤ともいわれているが、〈ラスター・ノートン〉からの「分裂」(という言い方は正しくはないかもしれない)以降、カールステン・ニコライが主宰する新レーベル〈ノートン〉のファースト・リリースでもある以上、単に過去を振り返るモードでもないだろう。「追悼と未来」のふたつを、21世紀の最初の新しい音響/音楽に託して示しているように思える。
 じっさい『Live 2002』を聴いていると、そのノイズ音響は明晰で、強靭で、もはや2018年のエクスペリメンタル・ミュージックにしか思えない瞬間が多々ある。2002年という「00年代電子音響の最初の充実期」において、ミカ・ヴァイニオ、池田亮司、カールステン・ニコライの3人は2018年に直結する刺激と破格のノイズを鳴らしていた。16年の月日を感じさせないほどに刺激的な録音である。

 2002年、電子音楽には未来のノイズが鳴っていた。そして2018年、その過去との交錯から今、電子音楽/音響の歴史が、また始まるのだ。


Courtney Barnett - ele-king


 コートニー・バーネットは左利き。ジミ・ヘンドリックスも左利き、カート・コバーンもそう。
 コートニー・バーネットはミニマリズムの短編作家のような歌詞をあたたかいメロディとグルーヴィーな8ビートに乗せる。
 彼女は空想して、曲を書いて歌う。
 傑作『サムタイムス・アイ・シット・アンド・シンク、サムタイムス・アイ・ジャスト・シット』から3年、待望のセカンド・アルバムがリリースされる。
 『テル・ミー・ハウ・ユー・リアリー・フィール』。
 君は本当にどのように感じているんだい?



Courtney Barnett - Nameless, Faceless


コートニー・バーネット (COURTNEY BARNETT)
『テル・ミー・ハウ・ユー・リアリー・フィール (TELL ME HOW YOU REALLY FEEL)』

発売日:2018年5月18日(金)

Amazon: https://amzn.asia/19I5TnP
iTunes/ Apple Music: https://apple.co/2EsIthe
Spotify: https://spoti.fi/2Hgdoem

■COURTNEY BARNETT プロフィール
1988年、豪生まれ。2012年、自身のレーベルMilK! Recordsを設立し、デビューEP『I’ve got a friend called Emily Ferris』(2012)をリリース。続くセカンドEP『How To Carve A Carrot Into A Rose』(2013)は、ピッチフォークでベスト・ニュー・トラックを獲得するなど彼女の音楽が一躍世界中に広まった。デビュー・アルバム『サムタイムス・アイ・シット・アンド・シンク、サムタイムス・アイ・ジャスト・シット』(Sometimes I Sit and Think, Sometimes I Just Sit)を2015年3月にリリース。グラミー賞「最優秀新人賞」にノミネート、ブリット・アウォードにて「最優秀インターナショナル女性ソロ・アーティスト賞」を受賞する等、世界的大ブレイクを果たし、名実元にその年を代表する作品となった。2018年5月、全世界待望のセカンド・アルバム『テル・ミー・ハウ・ユー・リアリー・フィール』をリリース。
https://courtneybarnett.com.au/

スリー・ビルボード - ele-king

 年頭からH&Mの広告と日本テレビの番組に人種差別があったとして騒ぎになり、2社はかなり異なる対応を示した。南アで起きた店舗の打ち壊しやコラボレーターからの契約解除などH&Mに選択の余地はなく、即座に謝罪した上で「多様性と包括性のためのグローバル・リーダー」を新たに雇い入れたと発表、つまりは落ち度があり、そのマイナスは改善されることになるとアナウンスが行われたのに対し、一方の日本テレビは「差別意識はなかった」という声明を出したのみで、新たな世界観を企業が取り入れていくという姿勢は見せなかった。H&Mと同じ対応でもいいし、世界的にポリティカル・コレクトネス(PC)の行き過ぎで表現がいま非常に窮屈な思いをしているから日本テレビはあえてPC表現に挑戦していきますと宣言するとか、何かしら主体性を見せるいい機会だったと思うのに、それをせず、実質的に旧態依然としてやっていくとしか言っていない。「差別意識がなかった」ということは単に勉強不足だったということを自白しているだけで、それをいったらH&Mにも差別意識はなかっただろうし、世界の動向をトレンドとして学習した上でさらに面白い番組をつくっている例はいくらでもあるんだから、日本テレビだけでなく今後のTV業界のためにももう少し何かステートメントや企業としての方向性を出すべきだったのではないだろうか(韓流に駆逐されるまで日本のTV業界が東アジア全体に番組を売っていた時代もあったんだし~)。たとえばマーティン・マクドナー監督『セヴン・サイコパス』はコリン・ファレル演じる主人公が映画の脚本を書きながら、ああでもない、こうでもないとストーリーを考えるたびにPCが立ちふさがり、PCとの格闘自体がひとつの見せ場となっていた。あれがすでに6年前。日本テレビも自分たちが置かれている現状をそのままドラマ化してしまうとか、やり方はいくらでもあるだろうに。

 PCと格闘しながらいかにしてB級アクションを成立させるかという課題に取り組んだ『セヴン・サイコパス』に「目には目をではマイナスにしかならない」とかなんとかいうセリフがあった。それは全体を貫くテーマではなく、話の勢いに押し流されて出てきた思想のようにも思えたけれど、マクドナー監督にとってはそれが堂々とした新作のメイン・テーマとなった。『セヴン・サイコパス』から一転、非常にシリアスな演出とブラック・ユーモアが混ざり合った『スリー・ビルボード』は「目には鼻を、鼻には口を、口には顎を」とすべてのボタンがかけ違う復讐の連鎖が核となっている。娘をレイプで殺された母親ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は町の入り口に立つ3枚の広告看板をすべて買い取り、警察に早く犯人を逮捕しろという広告文をデカデカと載せる。『セヴン・サイコパス』でマフィアの親分を演じたウッディ・ハレルソンが引き続き、今度は警察署長のウィロビーとして登場し、警察はサボっているわけではなく、手掛かりが何もないことをミルドレッドに説明する。ウィロビーは町の人気者で、彼が末期ガンに犯されていることは町の誰もが知っている。同じく『セヴン・サイコパス』でとびきりのサイコパスを演じたサム・ロックウェルはウィロビーの部下ディクソンとしてタッグを組み、ここでもかなり乱暴な役回りを演じている。黒人と見れば叩きのめし、広告会社に乗り込んで社長を窓から放り出す。町はだんだん騒然となっていき、誰もがミルドレッドさえ広告を出さなければこんなことにはならなかったと思い始めた頃、ウィロビーはガンを苦にして自殺してしまう。

 この作品に描かれているのはあからさまなリベラルの理想である。ミルドレッドが娘を殺したレイプ犯を何が何でも捕まえようとする理由は追って明らかになっていくにせよ「正義を行え」という主張に間違いがあるわけではない。彼女は方法論に過剰な逸脱があり、問題があるとしたら「性急さ」ということに尽きるだろう。彼女の行動はウィロビーの死を早めたように受け取られ、そのことで多くの軋轢を生み出すけれど、実際には彼女の行動とウィロビーの死には関係がない。自殺を選んだウィロビーにはそれがわかっている。(以下ネタばれ)ウィロビーは自殺するにあたってミルドレッドやディクソンに手紙を残しておく。この手紙が人種差別主義者であり、とんでもない暴力警官だったディクソンを変えることになる。サム・ロックウェルの演技は誰もが感嘆するところで、大いなる説得力を持っていた。僕もまったく文句はない。しかし、冷静に考えてみると、オルタ右翼やネトウヨは「愛されることがなかった」からヘイトに走っているだけで、そうでなければもっといい人間だったはずだという考え方がディクスソンの変化を裏打ちしていることにも思い当たる。スティーヴン・キングは映画『エクソシスト』を評して、ヒッピーは子どもたちに悪魔が取り憑いた状態で、悪魔を取り除けば子どもたちはまたいい子に戻るというメッセージを読み取っていた。それと同じで、ヘイトや人種差別をする人たちも元はいい人で、一時的に悪魔が取り憑いているような状態だとリベラルは考えていると、そのように『スリー・ビルボード』は設定しているとしか思えなくなってくる。教育程度の差もこの作品では丁寧に表現されているので一筋縄ではいかないけれど、共和党主義者からしてみればリベラルこそ悪魔憑きなのである(さらにご丁寧なことにアメリカ南部が舞台であるにもかかわらず宗教は無力だとして否定される場面もきちんと挿入されている。そういう部分も抜かりがないというのか、甘く見ているというのか)。ヒッピーも思想であり、オルタ右翼も思想であって、どちらも一時的な気の迷いではすまないライフ・スタイル以上のものがある。「愛されたか」「愛されなかったか」ではこの溝を飛び越えることは不可能だろう。だけど、それを観せようとして、実際に最後まで観せてしまうのが『スリー・ビルボード』なのである。

 この作品が上手いなと思うのはマイノリティの配置の仕方である。実にさりげなく、目立たない場所にメキシコ移民や黒人たちが置かれている(『ゲーム・オブ・スローンズ』のピーター・ディンクレイジもキャスティングされている)。話がクライマックスに入ってくると、その人たちがあっと思うようなところにいたことに気づかされる。デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』のようなわざとらしさがない。ミルドレッドは彼らのおかげで決定的な孤立には追い込まれない。マイノリティがすべからく「いい人」であることもリベラルの価値観に裏打ちされている側面だし、主要な役回りを与えられていないだけだろうとも言えるけれど、誰ひとり悪い人がいるわけではないのに悲劇は起き、それがどんどん深まっているというのがこの作品の背景をなしている現実認識なのである。物語の終盤、ミルドレッドとディクソンは仮想の「敵」を共有するまでとなり、この映画のブラック・ユーモア性は最骨頂に達していく。誰もがやるべきことをやっている。それは間違いない。

『スリー・ビルボード』予告映像

Mark Pritchard - ele-king

 ベース・ミュージックへの傾倒から一転し、穏やかで叙情性に満ちた美しいアルバム『Under The Sun』を作り上げたUKテクノのベテラン、マーク・プリチャード。その新たな作品『The Four Worlds』が3月23日にリリースされる。先行公開された“Come Let Us”のドローンとヴォイスを聴く限り、前作の路線を引き継ぎつつもまた新たな試みをおこなっているようである。はたして「4つの世界」とは何を意味するのか? 待て、しかして希望せよ。

MARK PRITCHARD

新作『THE FOUR WORLDS』3月23日リリース決定
新曲“WATCH COME LET US FEAT. GREGORY WHITEHEAD”公開
MVを手がけたのは気鋭アーティスト、ジョナサン・ザワダ

マーク・プリチャードが、トム・ヨークやビビオが参加した2016年のアルバム『Under The Sun』のサウンドをさらに追求した8曲入りの新たな作品集『The Four Worlds』を3月23日にリリース決定。アートワークを手がけた気鋭アーティスト、ジョナサン・ザワダによるミュージック・ビデオとともに、新曲“Come Let Us feat. Gregory Whitehead”が公開された。

Mark Pritchard - Come Let Us (feat. Gregory Whitehead)
https://youtu.be/Eq8uo6dv4Y4

label: Warp Records
artist: Mark Pritchard
title: The Four Worlds

iTunes: https://apple.co/2nPwaAg
Apple: https://apple.co/2nLw8do

GEIST - ele-king

 昨年出た YPY 名義のアルバムも記憶に新しい日野浩志郎。バンド goat の牽引者でもある彼が2015年より続けている大所帯のオーケストラ・プロジェクトをさらに発展させた公演が、3月17日と18日、大阪の名村造船所 BLACK CHAMBER にて開催される。イベント名は《GEIST(ガイスト)》。マルチチャンネルを用いた音響により、空間全体を使って曲を体験できる公演となるそうだ。ローレル・ヘイロー最新作への参加も話題となったイーライ・ケスラー、カフカ鼾などでの活動で知られる山本達久らも出演。詳細はこちらから。

GEIST

Virginal Variations で電子音と生楽器の新たなあり方を提示した日野浩志郎(goat、YPY)の新プロジェクトは、自然音と人工音がいっそう響き合い光と音が呼応、多スピーカー採用により観客を未知なる音楽体験へと導く全身聴取ライヴ……字は“Geist

島根の実家は自然豊かな場所にあって、いまは、雨が降っている。その一粒一粒が地面を叩く音をそれぞれ聞き分けることはもちろんできないから、広がりのある「サー」という音を茫と聞く。やがて雨があがり陽が射すと、鳥や虫の声が聞こえてくる。家の前の、山に繋がる小さな道を登っていけば、キリキリキリ、コンコン、と虫の音がはっきりしてくる。好奇心をそそられ、ある葉叢に近づくと音のディテイルがより明瞭に分かる。さらに、たくさんのほかの虫の声や頭上の風巻き、鳥の声、葉擦れ衣擦れなどを耳で遊弋し、小さな音を愛でる自分の〈繊細な感覚〉に満足、俄然興が乗り吟行でもせんかな、いや、ふと我に返る。と、それまで別々に聞いていた音が渾然となって耳朶を打っていることに気づきなおしてぼう然する。小さな音が合わさって、急に山鳴りのように感じる。……。「〈繊細な感覚〉なんてずいぶんいい加減なものだ」と醒めて、ぬかるんだ山道で踵を返す。きっと、あの時すでに“Geist”に肩を叩かれていたのだ――。

【日時】
2018年 3月17日(土)
昼公演 開場:13:30 開演:14:00
夜公演 開場:19:00 開演:19:30

2018年 3月18日(日)
昼公演 開場:13:30 開演:14:00
夜公演 開場:19:00 開演:19:30

【会場】
クリエイティブセンター大阪(名村造船所跡地) BLACK CHAMBER
〒559-0011 大阪市住之江区北加賀屋4-1-55
大阪市営地下鉄四つ橋線 北加賀屋駅4番出口より徒歩10 分
https://www.namura.cc

【料金】
前売り2500円 当⽇3000円

【ウェブサイト】
https://www.hino-projects.com/geist

【作曲】
日野浩志郎

【出演者】
Eli Keszler
山本達久
川端稔 (*17日のみ出演)
中川裕貴
安藤暁彦
島田孝之
中尾眞佐子
石原只寛
亀井奈穂子
淸造理英子
横山祥子
大谷滉
荒木優光

【スタッフ】
舞台監督 大鹿展明
照明 筆谷亮也
美術 OLEO
音響 西川文章
プロデューサー 山崎なし
制作 吉岡友里

【助成】
おおさか創造千島財団

【予約方法】
お名前、メールアドレス、希望公演、人数を記載したメールを hino-projects@gmail.com まで送信ください。またはホームページ上のご予約フォームからも承っております。

【プロフィール】

日野浩志郎
1985年生まれ島根出身。カセットテープ・レーベル〈birdFriend〉主宰。弦楽器も打楽器としてみなし、複合的なリズムの探求を行う goat、bonanzas というバンドのコンポーザー兼プレイヤーとしての活動や、YPY 名義での実験的電子音楽のソロ活動を行う。ヨーロッパを中心に年に数度の海外ツアーを行っており、国内外から様々な作品をリリースをしている。近年では、クラシック楽器や電子音を融合させたハイブリッドな大編成プロジェクト「Virginal Variations」を開始。

Eli Keszler
Eli Keszler(イーライ・ケスラー)はニューヨークを拠点とするアーティスト/作曲家/パーカッション奏者。音楽作品のみならず、インスタレーションやビジュアルアート作品を手がける彼の多岐に渡る活動は、これまでに Lincoln Center や The Kitchen、MoMa PS1、Victoria & Albert Museum など主に欧米で発表され、注目を浴びてきた。〈Empty Editions〉や〈ESP Disk〉、〈PAN〉、そして自身のレーベル〈REL records〉からソロ作品をリリース。ニューイングランド音楽院を卒業し、オーケストラから依頼を受け楽曲を提供するなど作曲家としても高い評価を得る一方で、最近では Rashad Becker や Laurel Halo とのコラボレーションも記憶に新しく、奏者としても独自の色を放ち続けている。

山本達久
1982年10月25日生。2007年まで地元⼭⼝県防府市 bar 印度洋を拠点に、様々な音楽活動と並行して様々なイベントのオーガナイズをするなど精⼒的に活動し、基本となる音楽観、人生観などの礎を築く。現在では、ソロや即興演奏を軸に、Jim O'Rourke/石橋英子/須藤俊明との様々な活動をはじめ、カフカ鼾、石橋英子ともう死んだ⼈たち、坂田明と梵人譚、プラマイゼロ、オハナミ、NATSUMEN、石原洋withFRIENDS などのバンド活動多数。ex. 芸害。青葉市子、UA、カヒミ・カリィ、木村カエラ、柴田聡子、七尾旅人、長谷川健⼀、phew、前野健太、ヤマジカズヒデ、山本精⼀、Gofish など歌手の録音、ライヴ・サポート多数。演劇の生伴奏・音楽担当として、SWANNY、マームとジプシーなど、主に都内を中心に活動。2011 年、ロンドンのバービカン・センターにソロ・パフォーマンスとして招聘されるなど、海外公演、録音物も多数。


Event details - English -

Following “Virginal Variations”, a project which explored a new way of merging electronic and acoustic sounds, Koshiro Hino (from goat and YPY) presents his latest composition, titled “Geist”. Set in an immersive environment with interacting sounds and lightings, “Geist” invites audience to a new world of live music experience which people listen sounds with their whole body.

My home in Shimane is located in a nature-rich environment, and now, it’s raining outside. Needless to say, I cannot hear each of the raindrops hitting the ground, so I hear the rain’s “zaaaaa” sound that spreads in space. Soon after, the rains stopped and sunshine began to pour, and I started to hear the sounds of birds and insects. As I walk up the small path that connects from my home to the mountain, those insects’ buzzing and creaking sounds became more clear. As I get closer to the trees, the sound details became more distinct. With my ears, I observed closely a myriad of sounds from other insects, the wind blowing above, birds, rustling leaves and my own clothing. I enjoyed my ‘delicate sensibility’ that appreciates those little sounds, thinking, “Maybe I suddenly get excited and start composing a poem…” But soon later, I came back to myself. And suddenly, I got stunned, realizing that the sounds I heard separately now forms a harmonious whole and hits my ears. Those little sounds became one, and I hear it as if the mountain is rumbling... “The ‘delicate sensibility’ is so unreliable. “ I recalled myself and walked back the muddy path. — And by then, I now believe that I had already made my encounter with “Geist”.

[Date / Time]
Saturday, March 17, 2018
Day time performance Open: 13:30 Start: 14:00
Night time performance Open: 19:00 Start: 19:30

Sunday, March 18, 2018
Day time performance Open: 13:30 Start: 14:00
Night time performance Open: 19:00 Start: 19:30

[Venue]
Creative Center Osaka (Old Namura Ship Yard) BLACK CHAMBER
4-1-55, Kitakagaya, Suminoe Ward, Osaka City, Osaka 559-0011
https://www.namura.cc

[Price]
Advanced ¥2500 Door ¥3000

[Website]
https://www.hino-projects.com/geist

[Composed by]
Koshiro Hino

[Performers]
Eli Keszler
Tatsuhisa Yamamoto
Minoru Kawabata (*only on the 17th)
Yuuki Nakagawa
Akihiko Ando
Takayuki Shimada
Masako Nakao
Tadahiro Ishihara
Nahoko Kamei
Rieko Seizo
Shoko Yokoyama
Koh Otani
Masamitsu Araki

[Staff]
Stage direction - Nobuaki Oshika
Lighting design - Ryoya Fudetani
Stage art - OLEO
Sound engineering - Bunsho Nishikawa
Co-direction - Nashi Yamazaki
Production - Yuri Yoshioka

[Supported by]
Chishima Foundation for Creative Osaka

[Reservation]
To reserve your seat(s), please send an email to hino-projects@gmail.com with your name, your contact, number of people, and the performance date you wish to visit.

Various Artists - ele-king

野田努

 ま、とりあえずビールでも飲んで……かつてUKは自らのジャズ・シーンを「jazz not jazz」(ジャズではないジャズ)と呼んだことがある。UK音楽の雑食性の高さをいかにも英国らしい捻った言葉づかいであらわしたフレーズだ。これこそジャズ、おまえはジャズをわかっていない……などなど無粋なことは言わない。ジュリアードやバークレーばかりがジャズではないということでもない。何故ならそれはジャズではないジャズなのだから。

 そのジャズではないジャズがいま再燃している。昔からUKは流れを変えるような、インパクトあるコンピレーションを作るのがうまい。編集の勝利というか、ワープの“AI”シリーズやハイパーダブやDMZなどを紹介した『Warrior Dubz 』のように。『We Out Here』もそうした1枚だ。アルバムには、近年「young British jazz」なる言葉をもって紹介されている新世代ジャズ・バンドたちの楽曲が収録されているわけだが、その中心にいるのはシャバカ・ハッチングスである。

 いまやシーンのスポークスマンにもなっているシャバカ・ハッチングスは、同じサックス奏者であることからUK版カマシ・ワシントンなどと形容されているけれど、彼はもっと泥臭いというか、ストリートの匂いがするというか、強いてたとえるならシャバカは21世紀のコートニー・パインだろう。ロンドンに生まれ幼少期をバルバドスで過ごし、16才でブリテン島バーミンガムに移住したときにはクラリネットを手にしていたという彼は、ここ10年、UKジャズ・シーンのさまざまな場面に関わってきている。

 近年ではメルト・ユアセルフ・ダウンでサックスを吹き、ザ・コメット・イズ・カミングやサンズ・オブ・ケメトなどの別プロジェクトも手掛けている。いまもっともロンドンで熱いと思われる街、ペッカムから生まれたYussef Kamaalのアルバムにも参加しているし、2016年は Shabaka And The Ancestors名義のアルバムをリリースしている。そして、21世紀のUKジャズの現場で演奏し続けているシャバカは、自らの大きな影響としてジャズ・ウォリアーズの名を『Wire』誌の取材で挙げている。

 ジャズ・ウォリアーズは、ワーキング・ウィークやシャーデー、ジャズ・レネゲイズら80年代後半にニューウェイヴとリンクしながら注目を集めた、白いUKジャズ・シーンにおいてメンバー全員が黒人という当時としては異色の存在だった……そもそもジャズ・ウォリアーズはUKにおいて初の黒人ジャズ・オーケストラだった。コートニー・パインはそのバンドのリーダーだった人だ。

 ジャズ・ウォリアーズは、伝統的なジャズに囚われず、レゲエやアフロなど雑食的な演奏を展開した。その音楽に対する自由なアプローチがアシッド・ジャズとリンクし、そしてドラムンベース/ブロークンビーツとも共鳴した。こうしたUKにおける黒いジャズ(ノット・ジャズ)──エクレクティックで、マルチカルチュアルなその現在形のドキュメントが『We Out Here』というわけだ。

 アルバムは、2017年8月、3日間に渡って録音されている。ジャケットに貼られたステッカーには「THE NEW SOUND OF LONDON JAZZ」を記されている。参加した9組のうち7組が白黒混合、2組が全員アフリカ系だが、いくつかの演奏ではメンバーは何人か重なっているので、ひとつの音楽コミュニティの記録とも言える(つまり本作もひとつのコミュニティによる1枚のアルバムだと言える)。

 『We Out Here』には伝統と現代性、精神性と政治性が入り混じっている。アルバムはMaishaによるアリス・コルトレーン風のスピリチュアルな曲ではじまるが、続くEzra Collectiveの曲はそのままダンスフロアに繋げることができるだろう。本作には収録されていないが、Ezra Collectiveの昨年のアルバムにはベース・ミュージックを通過した感覚で演奏されるサン・ラーの“Space Is The Place”がある。そして、すでに広く注目を集めているドラマーのMoses Boydのバンドは、エレクトロニクスとアフロビートを組み合わせながらダブの境地へと突き進んでいく──。収録曲の解説は小川充さんにまかせるとして、アルバムの中核となるのはシャバカ・ハッチングの“Black Skin, Black Masks”になるわけだが、そう、この曲名は反植民地主義の先駆的思想家、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』のオマージュである。

 『We Out Here』(私たちはここにいる)という、音楽的にも政治的にもどちらにも解釈できるこの堂々たる題名からもわかるように、ここには今日のUKブラックの秘めたる思いが記述されている。昔のラフトレードのコンピレーションにザ・スリッツやザ・レインコーツがいたように、女性3人を中心とするKokorokoのようなバンドもいる。また、ラフトレード時代の比較でもうひとつ言うなら、あの時代のUKはジャマイカだった。『We Out Here』はアフリカである。

 ※シャバカ・ハッチングスによるThe Comet Is Comingの新作『Channel Spirit』は〈リーフ〉からリリース予定。Sons of Kometのアルバム『Your Queen Is A Reptile』(あんたの女王は爬虫類)はユニーバサルから3月に発売。アルバム収録曲のひとつは、“俺の女王はアンジェ・デイヴィス”。また、『We Out Here』に参加した(ポスト・フライグ・ロータスの呼び名高い)Joe Armon-Jonesの新作も春頃には〈ブラウンズウッド〉からリリース予定。

野田努

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小川充

 いまから20年ほど前のロンドンでは、北西部のラドブローク・グローヴを中心にブロークンビーツのムーヴメントが盛り上がりはじめ、俗にウェスト・ロンドン・シーンと呼ばれていた。ジャズ、ヒップホップ、ハウス、テクノ、ドラムンベース、レゲエ、アフロ、ファンクなどを立体的に融合したブレイクビーツというのがブロークンビーツだが、それはロンドンの折衷的で雑食的な音楽文化を象徴するものでもあった。そしてここ1、2年、今度は南ロンドンで新たなジャズ・ムーヴメントが注目を集めている。かつてのウェスト・ロンドン・シーンを思い起こさせる動きで、このムーヴメントは南ロンドンにあるペッカムという街を中心としている。もともと治安が悪かったこの地区だが、近年はレコード・ショップやインターネット・ラジオ局、ギャラリーやバーなどが生まれ、アーティストや若者が集まり始めているという状況だ。このペッカムを拠点とするレーベルに〈リズム・セクション・インターナショナル〉があり、ディープ・ハウスを軸にブロークンビーツやジャズなどクロスオーヴァーな音楽性を志向する作品を紹介している。〈リズム・セクション・インターナショナル〉からは鍵盤奏者のヘンリー・ウーことカマール・ウィリアムズが作品を出しているが、彼とユナイテッド・ヴァイブレーションズというバンドのドラマー、ユセフ・デイズの組んだユゼフ・カマールが登場したのが2016年。この頃から南ロンドンのジャズ・シーンがクローズアップされるようになっていく。

 このムーヴメントの代表的なミュージシャンには、ヘンリー・ウーやユセフ・デイズ、ユナイテッド・ヴァイブレーションズ以外に、ドラマーのモーゼス・ボイド、サックス奏者のテンダーロニアス、シャバカ・ハッチングス、ヌブヤ・ガルシア、キーボード奏者のジョー・アーモン=ジョーンズ、ベーシストのマックスウェル・オーウィンなどがいる。
 それぞれのソロ作やプロジェクトのほか、横の交流やセッションも盛んで、なかでもモーゼス・ボイドはもっとも早くから注目を集めていたひとりだ。サックス奏者のビンカー・ゴールディングとフリー・ジャズ・スタイルのデュオを組むほか、エクソダスというクラブ・サウンド寄りのプロジェクトでも活動する。このエクソダスのようにドラマー以外にビートメイカーという側面も持ち、昨年リリースしたEPの『アブソリュート・ゼロ』ではフュージョンとフットワークを融合したような世界を見せている。一方でジャズ・シンガーのザラ・マクファーレンのアルバム『アライズ』をプロデュースし、ジャズとジャマイカ音楽を結ぶなど多彩な音楽性を持つ。テンダーロニアスも同様にビートメイカー/プロデューサーでもあり、〈22a〉というレーベルも運営し、ユセフ・デイズらと組んだルビー・ラシュトンというユニットのアルバムも出している。
 シャバカ・ハッチングスはジ・アンセスターズ、サンズ・オブ・ケメット、ザ・コメット・イズ・カミング、メルト・ユアセルフ・ダウンなど様々なユニットで演奏し、前述のザラ・マクファーレンの『アライズ』やユゼフ・カマールの『ブラック・フォーカス』にも参加していた。サンズ・オブ・ケメットとメルト・ユアセルフ・ダウンではトム・スキナー(ハロー・スキニー)と組むなど幅広い音楽交流を持つ。ジョー・アーモン=ジョーンズはファラオ・モンチのヨーロッパ・ツアーでバックを務めたエズラ・コレクティヴというユニットに参加する。このエズラ・コレクティヴはザラ・マクファーレンを交えた作品のほか、昨年は『ファン・パブロ:ザ・フィロソファー』というEPをリリースし、サン・ラーのカヴァーを披露していた(ちなみに、このEPのエンジニアはフローティング・ポインツのサム・シェパードがやっている)。
 また、ジョー・アーモン=ジョーンズはマックスウェル・オーウィンと共同でEP『イディオム』もリリースしているが、この『イディオム』や『ファン・パブロ:ザ・フィロソファー』には女流サックス奏者のヌブヤ・ガルシアも参加する。彼女もレーベル運営とイベント主催を両立させる〈ジャズ・リフレッシュド〉からリーダー作を出し、そこにはジョー・アーモン=ジョーンズとモーゼス・ボイドも参加するという間柄だ。〈ジャズ・リフレッシュド〉は近年のロンドンのジャズ・シーンを支える存在で、リチャード・スペイヴンやカイディ・テイタムなどキャリア豊富な面々から、マイシャ、トライフォース、トループ、ダニエル・カシミールなど新鋭や若手が作品をリリースしている。

 ジャイルス・ピーターソン監修による新しいコンピ『ウィー・アウト・ヒア』は、こうした南ロンドンの新しいジャズ・ムーヴメントを伝えるものだ。音楽ディレクターをシャバカ・ハッチングスが務め、彼のほかにモーゼス・ボイド、エズラ・コレクティヴ、ジョー・アーモン=ジョーンズ、ヌブヤ・ガルシア、マイシャ、トライフォースらが新曲を披露している。
 マイシャの“インサイド・ジ・アクション”はスピリチュアル・ジャズで、エズラ・コレクティヴの“ピュア・シェイド”はアフロ風味のジャズ・ファンク。モーゼス・ボイドの“ザ・バランス”はコズミックなフューチャー・ジャズで、ヌブヤ・ガルシアの“ワンス”はストイックなモーダル・ジャズと、それぞれジャズと言ってもタイプの異なる作品を演奏しており、こうした間口の広い点がロンドンらしさの表れでもある。ジョー・アーモン=ジョーンズの“ゴー・シー”はフュージョン的な作品だが、そこにはダブやUKクラブ・ミュージックのエッセンスも注ぎ込まれている。
 UKのジャズ・シーンはアシッド・ジャズの昔からクラブやDJサウンドと密接な繋がりを持ち、お互いに作用し合ってきた。かつてのウェスト・ロンドン・シーンに登場したカイディ・テイタムもそうした流れに位置するミュージシャンであるし、近年であればリチャード・スペイヴンがその最たる例だろう。そして、このコンピのモーゼス・ボイドやジョー・アーモン=ジョーンズの作品を聴くと、こうしたUKのジャズの歴史や流れがいまも息衝いていることがわかる。

小川充

Dream Wife - ele-king

 先日おこなわれた第60回グラミー賞は、後味が悪いものになってしまった。今回のグラミー賞は性差別撲滅運動 Time's Up に賛同する白いバラで彩られ、さらにケシャが自身のセクハラ体験に基づいた曲“Praying”を披露するなど、性差別に批判的な姿勢を打ちだしていた。しかし蓋を開けてみれば、受賞したアーティストの多くが男性だった。
 このような矛盾を晒したグラミー賞は多くの批判を受けた。BBCは『Bruno Mars grabs (nearly) all the Grammys - but where were the women?』という記事でその矛盾を取りあげ、NPRは人種差別的な現在のアメリカ政府に例える辛辣な言葉を残している。

 これらの指摘に対し、グラミー賞の会長であるニール・ポートナウは、「女性たちはもっと努力しなきゃいけない」と言ってのけた。当然この発言も批判され、チャーリーXCXといった多くのアーティストが反応している。
 筆者もポートナウの発言にはあきれるしかなかった。例えばエレクトロニック・ミュージックに限っても、エリゼ・マリー・ペイド、エリアーヌ・ラディーグ、スザンヌ・チアーニなど、多くの女性たちが素晴らしい作品を残し、音楽史を前進させてきた。こうした史実を無視して、「努力しなきゃいけない」と言ってしまう男がグラミー賞の会長という現実は、笑い話にすらならないほど虚しい。

 この虚しさに一筋の光を差してくれたのが、『Dream Wife』と名づけられた爽快なアルバムだ。本作を作りあげたのは、イギリスのドリーム・ワイフというバンド。メンバーは、ラケル・ミョル(ヴォーカル)、アリス・ゴー(ギター)、ベラ・ポドパデック(ベース)の3人。2015年、ブライトンのアート・カレッジで3人が出逢ったのをきっかけに結成されたそうだ。サウス・ロンドンを盛りあげているシェイムやHMLTDといった新世代バンドとも交流があり、こうした繋がりを経由して3人にたどり着いた者もいるだろう。
 筆者がドリーム・ワイフを知ったのは、2016年に観た“Kids”のMVだった。このMVで3人はピンクを基調としたファッションを身にまとい、おまけに映画『ヴァージン・スーサイズ』を連想させるシーンも飛びだすなど、ガーリーとされるイメージを打ちだしていた。面白いのは、そのイメージの中でダンベル運動をするといった、男性的なマッチョさを散りばめていたことだ。こうしたMVを作るのが、ドリーム・ワイフ(理想の妻)というアイロニーたっぷりなバンドなのだから、惹かれるまでに時間はかからなかった。あきらかに3人は“女性”という言葉にまとわりつく固定観念を壊そうとしている。だからこそ、『Radical』『Skinny』のインダヴューでは性差別について積極的に発言したりもするのだ。

 そんな3人にとって本作はデビュー・アルバムとなる。一聴して驚かされたのは、必要最小限のプロダクションしか施されておらず、ゆえにひとつひとつの音がとても生々しいこと。音程が外れるほどシャウトするヴォーカル、ラウドでドライな質感が印象的なギター、タイトなリズムを刻むベースとドラムという構成は、虚飾なんてごめんだとばかりの躍動感あふれるサウンドを響かせる。
 そのサウンドはパンクを基調としているが、甘美なコーラス・ワークを披露する“Love Without Reason”があれば、“Spend The Night”ではブロンディーに通じるスウィートな風を吹かせたりと、引きだしはかなり多い。パンク・スピリットと80年代ニューウェイヴのセンスが共存しており、X-レイ・スペックスやエラスティカ、2000年代以降ではストロークスといったバンドを連想させる音楽性だ。この感性はおそらく、3人が公開しているスポティファイのプレイリストでもうかがえる幅広い嗜好が滲み出た結果だろう。プレイリストを見てみると、ロックを中心にピーチズやノガ・エレズといったエレクトロニック・ミュージック寄りのアーティストも選ばれており、3人の豊穣な音楽的背景がわかる。

 女性として生きることについて歌われたものが多い歌詞は、パンク・スピリット旺盛なバンドだけに怒りを隠さないが、それ以外の感情も多く込められている。“Love Without Reason”では文字通り愛について歌い、“Spend The Night”は孤独さを醸す言葉であふれているといったように。
 なかでも筆者が惹かれた歌詞は“Somebody”だ。2016年にレイキャヴィクでおこなわれたスラットウォークをモチーフに作られたこの曲は、まっとうな権利のために戦う女性たちに連帯の意を示すなかで、怒りに混じる切実さや哀しみといったさまざまな感情の機微を描いている。

 非常に質の高い本作を聴いても、まだ「女性たちはもっと努力しなきゃいけない」と言う者もいるだろう。しかし、もっと努力すべきなのは女性たちじゃない。女性たちに正当な評価があたえられない仕組みを作ってしまった者たちのほうだ。

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