「You me」と一致するもの

 結果的に、ここ数年でもっともショッキングなアカデミー賞授賞式になってしまった。自分もリアルタイムの放送を観ていたのだが、作品賞が『ラ・ラ・ランド』だと発表されて「今年もアカデミー賞は驚くようなことはなかったなー」と横になろうとしたら「間違いです。作品賞は『ムーンライト』です」との騒ぎに飛び起きてしまった。だが、まるでコントのような顛末以上に本当に驚くべきことは、貧しい黒人ゲイ少年を主役に据えた低予算の作品を、その古い体質を批判され続けるアカデミー賞が選んだことだろう。昨年の「白すぎるオスカー」から急旋回し、ビヨンセではなくアデルを選んだグラミー賞との差を見せつけた格好だ。昨年アメリカのエンターテイメント産業がもっとも評価した作品は、ビヨンセ『レモネード』でありフランク・オーシャン『ブロンド』でありそして『ムーンライト』であることはすでに確定していたが、それにしてもあのアカデミー賞までもが……。
 大本命と言われた『ラ・ラ・ランド』は、非常によくできたカラフルなミュージカル映画として多くの観客を楽しませたいっぽうで、「やはり白すぎる」という声も一部で上がっていた。曰く、ジャズを描いてるわりに黒人が白人カップルの背景として扱われている、というわけだ。もちろんそれに対する言いがかりだとか、行きすぎたポリティカル・コレクトネスだという反論もあったが、それでも客観的に見ると『ラ・ラ・ランド』は何だかんだ言って白人のおじさんが多くを占めるアカデミー会員には安全だろうなと想像できるものではある。僕自身、個人としては『ラ・ラ・ランド』よりも『ムーンライト』のほうをはるかに支持すると言いながら、後者がアカデミー賞の作品賞を獲ることなど絶対にないだろうと思っていた。だから、『ムーンライト』が大方の予想を裏切って作品賞に選ばれたのは、旧態然とした組織までもを動かす時代の要請があったのだろうと思わざるを得ない。

 ただ逆に言うと、それ以外に今年のアカデミー賞に驚きはあっただろうか? 自分にはどうもそうは思えない。司会のジミー・キンメルがトランプをからかうジョークを言えば言うほど気持ちが冷めていった。「リベラルも保守も関係ない」とキンメルはたしかに同じ口で言ったが、スターやセレブがゴージャスな格好をしてお互いの政治的立場を確認し合う仲良し会のように見えてしまう場面が多々あった。昨年の賞では、ノミネートに関わらずいかにハリウッドが業界全体でマイノリティを無視してきたかが浮き彫りになっていたわけだが、今年のノミネートのラインアップは一見様々な人種や階層の人間を描いた作品にスポットが当たっているように見える。それは多様性という観点では有効だし、たしかな前進と判断することもできるだろう。が、今年のアカデミー賞が決定的にオミットしていたものがある――それはクリント・イーストウッドだ。
 年末の紙ele-kingの年間ベストにイーストウッドの『ハドソン川の奇跡』を選んだのは、一般的には共和党支持者として知られる彼のその作品のなかで、政治的分断をも無効にする危機が取り上げられていたからである。それは、アメリカという国が直面する倫理的問題を見つめ続けてきた監督だからこそできる現状認識だろう。『ハドソン川の奇跡』が作品としてアカデミー賞にふさわしいかどうかはここで判断することは(アカデミー賞会員でもなくアメリカ人でもない自分には)できないが、しかし、それにしても彼の存在がかなり意図的に排除されているように見えてしまう場面があったのだ。それは、メリル・ストリープの過去の演技を讃える際に流された『マディソン郡の橋』の映像で、そこでは共演のイーストウッドの後ろ姿が数度映されるのみであった。映画監督としてはハリウッドに尊敬される存在であるから余計にややこしいが、政治的にはともかくこの場にふさわしくないとされる判断があったのではないかと邪推せずにはいられなかった。
 いっぽうでそのメリル・ストリープは大喝采である。ゴールデン・グローブ賞のスピーチでトランプを批判し、そしてそのことでトランプから攻撃されたことは彼女の「勲章」となった。キンメルが「過大評価された女優」とトランプの発言を引用してジョークを言うと、会場はスタンディング・オベーションで拍手を送る。それはしかし、業界の内輪のノリではないのか? 視聴率は今年も芳しくなかったそうだが、もちろん、トランプに投票した人びとのほとんどは大女優が讃えられるその映像を見ることもなかっただろう。だが『ハドソン川の奇跡』は、そうした人びとに向けても開かれた映画であったように自分には思えてならないのだ。

 7カ国からの入国を禁止する大統領令への反発として出席をボイコットしたイラン人監督、アスガー・ファルハディのスピーチには切実なものがあったと思う。問題はそうではなく、本人が望もうが望むまいが特権的な立場にいるスターたちが何にトライするか、だ。その点、『それでも夜は明ける』や『ムーンライト』に出資したブラッド・ピットは出席していなかったのか映像には映っていなかったと思うが、着飾って壇上で立派なスピーチをするよりも実践的だと言える。アンチ・トランプをセレモニーで叫ぶような単純な振る舞いではなく、いま起きていることを表現のなかに見つけたい。ショウが政治的になり過ぎるがゆえに、あるいは政治がショウとして消費されるがゆえに、作品本来の価値がそれに左右されることは避けられてしかるべきだ。

 だから、どうか、『ムーンライト』が「本命の『ラ・ラ・ランド』を抑えて政治的配慮からアカデミー賞に選ばれた作品」として残らないでほしい。『ハドソン川の奇跡』がそうであるように、賞の結果などに関係なく観られる価値のある映画だからだ。ここまで書いてきて何だが、本質的には賞などどうでもいいのである。
 『ムーンライト』はマイアミの貧しい家庭で……麻薬中毒の母親のもとで育った黒人少年が、父親代わりのドラッグ・ディーラーと交流し、やがて男に惹かれる様を叙情的に描いた作品だ。まるきりフランク・オーシャンの『チャンネル・オレンジ』であり、つまり、「わたしはゲイである」という社会的な表明ではなく、そのはるか前の段階としての恋の純粋な痛みを封じこめている。それこそがいままで見落とされてきた生から弱々しくも立ち上がるエモーションであり、その美しさに少なくないひとが気づき始めてきた時代の記憶としてそこに残されるだろう。

仙人掌 - ele-king

 ヴォイス。肉声。ラップ・ミュージックは、肉声の音楽だ。奴隷制度下の黒人たちが農園で肉声によって個を特定したように、あるいはブルースにおいて12小節のコード進行の下、それぞれに異なる声色とギターの鳴りだけがアーティストごとの属性となるように、MCたちの個性もまた、その肉声に宿る。

 MONJUの『103LAB』EPから10年、この間『Be In One’s Element』とそのリミックス盤を挟み、僕たちの元に届けられた新しいアルバム。公式には最初の仙人掌のアルバムと謳われているそのタイトルは『VOICE』だ。肉声は、何かを伝える。それは、単なる情報ではない。肉声のテクスチャが伝えるもの、暴くもの。あるいは隠匿するもの。それらに着目すること。

 MCたちの「声」について、たとえばECDは次のように述べている。声を作りすぎているMCは好みではない。一般的な歌と違い、極力声の加工をせず、「地声」で聞かせることができるのが、ラップの興味深い点であると。地声とは、ラップを発声する声そのものであり、また、その声で描かれるリリックの内容も、地声と加工された声の二種類に分類できるだろう。つまり、加工のない地声でラップされるリリックもまた、加工のないMCの実存を否応なしに映し出してしまうはずだ。

 それでは仙人掌の地声は、何を歌っているだろうか。そこにはどんな実存が透けるのか。

 アルバムの前半を占めるのは、殺伐とした世界観が印象的な楽曲群だ。たとえば「世界はゲットーだ、とっくに」「俺には見える最早誰もいない都市」というラインに象徴的な、混乱した現代社会の状況を背景に投げかけられる、緊張感を伴った言葉の群れ。それらの言葉を発信するのは、ヴァースとフックにおいて使い分けられる声色だ。“Face Off”のフックのモブ・ディープを彷彿させる声の被せ方、“Whirlwind”におけるNasの“One Love”へのオマージュの様なヴァースの入り方、あるいはその"Face Off"で描かれるのがNYの風景や出来事である点などを見れば、90年代のヒップホップのフォーミュラがまずは彼が根を下ろす美学であることを改めて感じさせる。

 しかしアルバム3曲目の“Hustle and Bustle”はどうだろう。ZZYによるバックビートでスネアを打たないビート装置の上で、ダイレクトに鼓膜を打つ仙人掌のフロウが伝えているのは、その美学がアップデートされていることもまた確かだということだ。

 彼は元々DJと組んでいたグループ名の「仙人掌(センニンショウ)」を自身のMC名に引継いだが、事後的に本来は「サボテン」と読むことに気付いたという。それ以来、彼はどこかで自身の内側に、地声としての「サボテン」のイメージを匿ってきたのかもしれない。

 一度根を下ろしてしまえば移動できないのが植物の宿命だが、サボテンの中には少しずつ移動する種が存在する。DOWN NORTH CAMPにしっかり根を下ろしながらも、様々な場で客演し活動範囲を広げてきた彼の姿は、そんな異形の種を想起させる。そしてこのことは、オーセンティックなNYヒップホップの美学を中心としながらも、様々なスタイルのビートにも柔軟に対応する彼の音楽観とも共鳴するだろう。

 不穏な世界観や殺伐とした空気感の描かれ方。ここで描かれるのは、現在の仙人掌が置かれた世界の景色であると同時に、彼が根を下ろす90年代中盤のNYの風景でもある。当時NYのMCたちは迷彩柄のアウターを着込みブーツを履いて、荒廃した街の哀愁をソルジャーの視点で描いた。モブ・ディープのクイーンズ、グループ・ホームのブルックリン、そしてウータンのスタッテン・アイランド。そして古着を着込んだ仙人掌が描く、人影のない街。ふたつの街の二重露光。

 しかしNYのオーセンティックなヒップホップの美学を追求することは、ポジティヴな意味で現実逃避につながる。なぜならある者たちにとって、ヒップホップはいつでも帰ることのできる場所だからだ。その吸引力と包摂力を、ある者はゴールデン・エイジと名付けた。

 仙人掌が前作の“Watch Your Step”で「チビたちの分まで日銭稼ぐ」ために働き「コンビニ弁当買って食べてる」と歌うとき、彼は確かに自身の実存に対峙している。そしてその実存は本作にも透けて見えている。つまり、NYの90年代のマナーを志向していること自体が、彼の実生活の一部として包含されている。立ち止まることを許されない状況に中指を立てながらも、ある種の誇りを持ち続けること。その状況に飲み込まれず、フレッシュであり続けること。

 状況はいつでもそこにある。僕たちの目の前にある。それはリアルなものだからだ。しかしヒップホップ・ヘッズ(ゴールデン・エイジのリスナーは言うに及ばず、DNCのファンたちをヘッズと呼ぶのは妥当に思える)たちはヘッドフォンを装着する。そしてたとえばモブ・ディープ“Shook Ones Pt.2”のイントロが流れて来ると、その瞬間、首は前後に振れ出し、拳を握りしめる。同時に、その殺伐としたリリックとは裏腹に、ある種の清々しさを覚えるのだ。そして気がつけば、一旦は目の前のリアルを、受け入れる。それしか選択肢がないことに気が付かずに悶々とすることと、それしか選択肢がないことを自覚的に受け入れることの間には、果てしない距離がある。たとえ結果は同じだとしても。

 MCとして生きてゆくとは、そのような場所を持つことだ。動くことの出来る特殊なサボテンが、客演で様々なMCたちの懐を巡りつつ、それでも根城とする場所。そして帰ることのできる場所を、自分一人で匿うのではなく、リスナーにも提示すること。ヒップホップ・ヘッズであることもまた、そのような場所を持つことなのだから。だからこそ仙人掌は、「ヒップホップは全てを肯定する」と呼びかける。これこそが仙人掌の地声だ。上からではなく、自身もヘッズとして水平の目線で、近くから、語りかける地声だ。

 さらに「お前の代わりに孤独を歌う」とラップする彼の地声に触れる者たちの中には、「孤独を歌って」くれるその声を渇望している者もいるだろう。乾いたサボテンが、水を渇望するように。水のイメージ。“Be Sure”のZZYによるビートには、水滴の音がループされ、trinitytiny1によるインスト“Sunday”の終わりには、水面を進むようなSEが挿入される。

 思えば『Be In One’s Element』のリミックス盤もまた、水がモチーフとなっていた。オープニング明けの2曲目“Be In One’s Element”ではShow & A.G“Under Pressure”を彷彿とさせる水流の音がサンプリングされていたし、何より全編を覆うBudamunkとIllsugiによるエレピのサンプリングサウンド自体が、粘度の高い硬水のプールで泳いでいるような聴覚体験を引き起こしていた。ラストの“Shit, Damn, Motherfucker”でサンプリングされていると思しき、ディアンジェロによる、汗や体液で濡れた滑らかな肌を愛撫するようなオルガンサウンドも言わずもがなだ。

 『VOICE』というタイトルが指し示すのは、仙人掌の肉声だけではない。ビートの肉声もまた、僕たちに差し出されている。このアルバムの制作にあたり、彼はまずビートを並べ、タイトルを付けたという。その時点で、アルバムの8割方は完成したも同然だったというところに、彼の美学が顕現している。自身の言葉を活かしも殺しもするビートに対する、確かな選球眼を持つことは、良いMCの条件だ。クラシックと呼ばれる数々の楽曲において、ビートがどのような役割を果たしているか考えてみれば、そのことは自明だろう。しかしこのアルバムで仙人掌が実践しようとしているのは、自身の言葉をビートでエンパワーすることだけではない。彼はビートそのものの肉声に、語らせようとしている。アルバムの収録曲17曲中、インストのビートが4曲含まれていることが、その証左だ。

 ラップ・アルバムにおける、インストビートの役割とは何だろうか。それはオープニングの高揚感を増幅したり、クロージングの余韻を作品に刻む手伝いをするだろう。あるいは、たとえば90年代のNYで生まれたPete Rock & C.L Smoothの『Caramel City』やO.Cの『Jewelz』は、インストビートを曲間にインタールード的に絡めることで、一枚のアルバムが描く物語を、より重層的に見せる手法を確立した。その方法論は、その他の多くのアーティストたちの作品でも繰り返し見られる光景となった。しかし本作におけるインストビートは、もっと積極的な役割を担っている。積極的に、仙人掌がビートに仮託した「声」を響かせている。

 四者四様の肉声。まずはオープナーの“Spoon of Street”の直後、肉声の熱を冷ますように2曲目に鎮座する“Street Talk”。いきなり2曲目にインストが配置されること自体、ビートに語らせようという仙人掌の明確な意識が伺えるが、確かにビートの背後で聞こえる会話以上に、ビート自体がストリートの声を代弁しているようだ。ストリートの物理的空間を、キックとスネアの隙間に語らせること。

 そして中盤に“Skit”として挿入されるZZYによるビート。定番ブレイクビーツを使いながらも、様々な楽器のパートが現れては消え、目まぐるしく展開する。丁度アルバムの中央に配置されることで、アルバム全体の流れを変化させつつ、アルバムのサウンド/世界観の多様性と、仙人掌の柔軟性をも示している。

 終盤のtrinitytiny1による“Sunday”は、アルバムの中でも異質なトラップライクな楽曲“罰”への導入の役割を果たしている。しかし単に“罰”への助走というだけではない。非常に情緒的な旋律と、ここでも水をイメージさせるサウンド。海の底まで淡く照らす日曜の日差し。特に後半に挿入されるシンセのピッチが不安定であるのは、僕たちがたとえばボーズ・オブ・カナダの諸作で経験したように、それが過去の経験への憧憬と呼応していることを示している。誰もが幼少期の気怠くも平穏な「Sunday」への憧憬をどこかで匿っているのではないか。海の底で見る夢。しかし日曜の午睡から覚め、ラストの水音のSEと共に海上に顔を出すと、そこには「罰」が待っている。

 対して、Fitz Ambro$eによるアルバムクロージングのアウトロ。彼らしい、よろけた手打ちのハットとスネアが、余白を提示する。つまり、僕たちはアルバムを通して拾い上げた肉声の余韻を、頭の中で反芻するのだ。その背景/器としてのビート。音数の少ないビートは、その分だけ想像力の介入を許す。

 石野卓球やceroの作品も手掛ける得能直也によってミックスされたサウンドは、仙人掌の美学に寄り添うようなハイを抑えた音像だ(数か月差でリリースされたISSUGIとGradis Niceの『DAY and NITE』のハイファイサウンドとの対比が興味深い)。いくつかの楽曲においてはサンプルネタの空間処理が強調され、仙人掌の乾いた地声をウェットに保っている。ドライな生音に対して残響音の音量比率を上げること。リバーブはビートを抽象化=アブストラクト化する。この残響により、仙人掌の声は、ビートの声と混じり合う。

MASS-HOLEによるドープ&スモーキーな“Spoon of Street”で聞かれる、歌声のサンプリングが象徴するスピリチュアリティや、"Good Day Bad Cop" "Whirlwind"“Back To Mac”“愛”を始めとしたメロウなソウルフルネスがアルバム全体を象る輪郭だ。そのためアルバムのサウンド面を貫くのも、やはり仙人掌の美学の基盤となる1990年代のゴールデン・エイジのNYサウンドへの憧憬だ。しかし、このアルバムは裂け目を孕んでいる。アルバム唯一のトラップライクと言えそうなビートが地鳴る“罰”の存在。いまや、トラップがもたらしているラップ・ミュージックの分断をどのように解釈し、消化/昇華するかが、MCにとって喫緊の課題のひとつだ。だとすれば、この曲に表れている仙人掌の回答はどのようなものだろうか。

 トラップの刻印が押されたブーミンなベースサウンドに埋もれるように、“罰”における仙人掌の声は何かの暗号のように非常に遠くで響く。その具体的なリリックの内容は、ほとんど聞き取ることができない。彼の回答は、明示されない。あるいは、聞き取れないこと自体が「罰」だということなのか。仙人掌にとっても。そしてリスナーにとっても。

 何れにしても、本アルバムの裂け目におけるこの聞き取れなさは、単なる偶然では片付けられないのではないか。だとすれば、たとえばミックス時に無意識的な抑圧が働いたと考えてみたい。90年代のNYのゴールデン・エイジに根を下ろすこと自体が実存として透けているMCにとって、トラップが席巻する世界はオルタナティヴであり、世界の向こう側に秘匿された、あるいは秘匿されるべきリアリティだ。だからこそ向こう側からやって来る仙人掌の声も、トラップのポスト・テクストと呼ばれるリリックと対応するかのように、意味を捨て去った、暗号めいた響きとして現れた。しかし向こう側にそのようなリアリティがあることを、確かに告げているのだ。

 サボテンが咲かせる花は、乾いた大地に抗うようなヴィヴィッドな色を誇示する。しかし仙人掌が咲かせる花は、本作のジャケットやMVで見られるように、ヒップホップのラグジュアリーな側面からはほど遠い、アースカラーの古着のような色だ。彼は決してその花を過剰に見せびらかすでもなく、しかしそれを散らすでもなく、ただ淡々とそこに佇んでいる。自らが目印となり、帰る場所がいつでもそこにあることを、示している。その根は深く、その地声は、近い。

Kan Sano - ele-king

 七尾旅人もその才能に惚れ込むキーボーディスト/プロデューサーのKan Sano。昨年には七尾旅人を迎えた7インチ・シングル「C’est la vie」や、3枚目のアルバム『k is s』をリリースするなど、〈オリガミ・プロダクション〉をバックに精力的な活動を続けている彼が、3月から全国ツアーをおこないます。

 今回のツアーではアルバム『k is s』に新曲2曲を加えたカセットテープや、Kan Sanoがチョイスした自身の楽曲のコード譜、ピアノ譜などを掲載した楽譜集を販売するとのこと。楽譜集には自身のスケッチやメモも収録されているそうで、全国のキーボード小僧垂涎の内容なのではないでしょうか。

 まだKan Sanoを知らないという方は、レコード店まで行ってぜひチェックしてみてください。特にサンダーキャットや〈ブレインフィーダー〉のファンの方は要チェックです。きっと彼のメロウネスに惚れ込んでしまいますよ。

 以下、本人からのコメントです。

今回初めてツアーグッズを作りました。
いま個人的に(世の中的にも?)ジワジワきてるカセットテープ。十代の頃はカセットでデモテープを作っていたし、いまだに愛着があります。
アルバム『k is s』に新曲の“夜明けの街”と“Wartime Love”を加えてパッケージしました。
2曲とも自分の今までの作品の中ではかなりポップな方向性です。全体のバランスを優先して『k is s』には収録しませんでしたが、とても気に入っています。
“Wartime Love”は大島渚監督の『愛のコリーダ』を思い出しながら書いた歌、今何かと話題の不倫や駆け落ちをテーマにしたハイスピードのメロウ・ラブソングです。“夜明けの街”は遠くに行ってしまった大切な人を想う歌です。
A面B面をひっくり返したり、巻き戻したりするカセットのひと手間が最近妙に楽しいです。みなさんにもこの感覚をぜひ味わってもらえたら嬉しいです。新曲はダウンロードURLも付いてます。
自作の楽譜をまとめたSongbookや、“Magic! (naked ver.) ”(歌とピアノだけの文字通り丸裸バージョン)をダウンロードできるメッセージカードも作りました。どれも会場でしか手に入らないものです。Don't Miss It!

Magical kiss tour 2017
3/ 3 (fri.) 360° ALLINONE @ [東京] 代官山 LOOP guest : 七尾旅人 / Michael Kaneko / 島村智才
3/10 (fri.) GROOVE MOMENT @ [長野] 伊那 momentom
3/11 (sat.) Magical Echo 2017 @ [大阪] 心斎橋 SUNHALL with : Yasei Collective / BimBomBam楽団 / jizue / 向井太一
3/12 (sun.) INFINITY POOL @ [愛知] Live & Lounge Vio with : 中村佳穂 / BAWA
3/18 (sat.) Resound @ [群馬] 前橋市芸術文化れんが蔵 with : Michael Kaneko / 岩崎有季
3/19 (sun.) 結いのおと @ [茨城] 結城 奥順つむぎの館 (新座敷)
3/23 (thu.) Magical kiss tour in Nagasaki @ [長崎] Ohana Cafe
3/24 (fri.) GLaSSY MUSIC presents Magical kiss tour in Fukuoka @ [福岡] brick with : COLTECO / and more
3/25 (sat.) Magical kiss tour in Saga@ [佐賀] ROCKRIDE
3/26 (sun.) Magical kiss tour in Kumamoto @ [熊本] NAVARO
4/ 7 (fri.) Magical kiss tour in Kariya @ [愛知] 刈谷 Cafe Nation
4/27 (thu) @ [広島] 音楽食堂ONDO
5/10 (wed.) @ [宮城] 仙台 CLUB SHAFT
5/13 (sat.) @ [北海道] 別海 MUSIC SHOP PICKUP + on cafe
5/15 (mon.) @ [北海道] 札幌 Perle
5/26 (fri.) MUSIC DROP 7th Anniversary @ [新潟] GOLDENPIGS BLACK
5/27 (sat.) @ [秋田]
6/3 (sat.) @ [栃木] 宇都宮 studio baco
6/4 (sun.) @ [千葉] 柏 Cafe Line
more shows to be announced!!

(商品情報)

アーティスト : Kan Sano
タイトル : k is s
価格 : ¥1,852 (+tax)
品番 : OPCT-1001
収録曲 :
side A
01. Penny Lane
02. Magic!
03. Reasons feat. Michael Kaneko
04. C'est la vie feat. 七尾旅人
05. lovechild
06. Can't Stay Away feat. Maylee Todd
07. Momma Says feat. 島村智才
side B
08. LAMP
09. と び ら
10. Awake Your Mind
11. Let It Flow
12. 夜明けの街(カセットのみの収録)
13. Wartime Love(カセットのみの収録)

HP:https://kansano.com/

interview with Shota Shimizu - ele-king


清水翔太 - FIRE
MASTERSIX FOUNDATION

J-PopR&BSoul

(初回生産限定盤)
Amazon Tower HMV


(通常盤)
Amazon Tower HMV iTunes

 R&Bシンガー、清水翔太のデビュー10年目にしての並々ならぬ情熱が伝わってくる。清水が2016年にリリースした通算6作目となる『PROUD』が素晴らしい。それまでの彼の音楽から劇的な変化を遂げている。ゴスペルがあり、ヒップホップ・ソウルがあり、トラップがある。伝統的なリズム&ブルースの濃厚な味わいとJ・ポップの折衷があり、モダンR&Bのメロウネスがある。ドレイクやリアーナの影がちらつく。

 別の言い方をしてみよう。KREVAが最新作『嘘と煩悩』で「歌えるラッパー」としてのプロダクションの可能性をさらに追求したとすれば、清水は『PROUD』で「ラップするR&Bシンガー」の次なる可能性を提示している。日本語を母国語とする人びとが生み出したJ・ポップという音楽産業の荒波の中で――。

 「くだらないラブソングを聞いて/何がくだらないか見抜こうよ」「キツめの言葉でごめんなさい/でも、これで俺に保険はない」(“Good Conversation”)。清水は自身の想いをクールなテンションでそうラップする。清水は自ら曲と歌詞/リリックを書き、ビートを打ち込み、アレンジもこなす。言葉からは、彼の複雑な、そして熱い想いが滲み出している。

 日本語ラップ・ファンであれば、ラッパーのYOUNG JUJUが清水の楽曲を引用して話題となったことを知っているだろう。そんな清水は『PROUD』のリリース後、「My Boo」、そして先日「FIRE」という2枚のシングルをリリースした。“FIRE”は『PROUD』の経験を経て完成したヒップホップ・ソウルである。変化のときを迎えている清水翔太がいま何を考え、創作しているのか。おおいに、そして情熱的に語ってくれた。

清水翔太 『FIRE』Short Ver.

とにかく意味をわからせる、共感してもらう、みんなの耳に馴染みやすい音楽を作る、ということをずっと意識してやってきたんです。『PROUD』以降はそういう自制がかかるところを一切なくしたんです。

『PROUD』で音楽性が大きく変化した部分があると思います。その点についてまずお訊きしていいですか?

清水翔太(以下、清水):そうですね。僕の中でベスト・アルバム(『ALL SINGLES BEST』 2015年)を出すまではCDを出せることへの感謝というところで、自分を見つけてくれた人たちであったり、なるべく色んな人に還元できるようにしたいという感覚が強くあったんです。自分の音楽だし、そういう作品たちもすごく大事なんですけど、自分のエゴはあんまり出さずに、何を求められているかとかそういうことを考えながらやっていました。それをベスト・アルバムを出すことでリセットしたいというか、恩返し的なことは一旦終わりにしたんです。もちろんプロである以上は数字に対しての目標はつねにあるんですけど、その方法をちょっと変えていきたい、自分のやり方で狙っていきたいという思いが強くなった。実際にこれが売れるとみんなが信じているものをトライしてみてもいまいち思ったような結果が出なかったのもあって、自分のやり方で自分の音楽を主張することによっていまよりいい結果が出るかもしれないと考えるようになりました。でも、「じゃあどうすればいいのかな?」と考え始めたら、今度は全然曲が書けなくなってしまった。それでいまの環境でやっていることをやめて、いちど海外に住んでみようかなと思って、実際にLAに家を探しに行ったりとかもしました(笑)。

『ALL SINGLES BEST』を出したあと、『PROUD』をリリースする前ということは2015年くらいですか?

清水:そうですね。2015年だと思いますね。LAから帰国して思いっきり恐れずに自分の好きなことをやりまくる作品があってもいいのかなという気持ちになって、そういう気持ちにシフトした瞬間にバーッと曲ができて、『PROUD』が完成した。数字や評価よりもライヴをやってみたらすごく良くて、「これでいいのかな」という気持ちになれた。そういう経緯で作った作品でしたね。

USラップ・ミュージックやR&Bなどリスナーとしての清水さんが普段聴いている音楽をこれまで以上に創作に活かしていくというか、ダイレクトに直結させた作品なのかなと聴きました。先ほど「自分のエゴを出したかった」とおっしゃっていたじゃないですか。あるインタヴューで『PROUD』について“ドープ”という言葉を使って説明されていたと思うのですが、自分のエゴを出した部分はどういったところなのでしょうか?

清水:あんまりジャンルは意識していなくて、その瞬間に鳴らしたい音、言いたいことをバーッと言っちゃうみたいな感じで作りました。それまでは、これはちょっと言わないほうがいいかなとか、これは(リスナーが)意味がわかんないかなとか、自分でセーブしていたんです。とにかく意味をわからせる、共感してもらう、みんなの耳に馴染みやすい音楽を作る、ということをずっと意識してやってきたんです。『PROUD』以降はそういう自制がかかるところを一切なくしたんです。

例えば、タイトル曲の“PROUD”はラヴ・ソングという形を採りながら、音楽への愛や人生における向上心など複数の意味が折り重なっていますよね。

清水:そうですね。本当の意味でのラヴ・ソングは“lovesong”ぐらいしかないと思います。他の曲はラヴ・ソングっぽい書き方をしていても別の対象について歌っていたりしますね。このアルバムには裏テーマがたくさんあるんです。例えば、BUMP OF CHICKENに“K”って曲があって、けっこう好きな曲なんです。で、その曲の裏の意味や“K”というタイトルの意味について本人たちはそこまで説明していないんですけど、みんながそれを解明しようとしているんですよね。

リスナーとかファンが?

清水:そうですね。で、それを動画にしたりしている。『PROUD』について「この曲のここの歌詞は本当はこういうことを歌っていて……」という深読みをしてくれるんじゃないかと思っていたら誰もしてくれなかった。それはそれで意外と寂しいなと(笑)。

ははは。ただ、“Good Conversation”はわかりやすいですよね。「くだらないラブソングを聞いて/何がくだらないか見抜こうよ」とか、「キツめの言葉でごめんなさい/でも、これで俺に保険はない」とか、清水さんの先ほど語った気持ちを率直に攻めの姿勢でラップしています。

清水:そこはわかりやすいですけど、他にも裏テーマがあって意味深なところのある曲がアルバムの中にいっぱいあると思うんですけど、誰も言ってくれないなって……(笑)。なので、いまは自分だけの裏テーマみたいなものはそこまで入れずに作っていますね。

“MONEY”では、お金をテーマにして歌っていますね。「カネ」はヒップホップやラップの定番テーマでもありますね。青山テルマさんとSALUさんがラップしています。

清水:テルマにラップしてほしいなという思いがずっとあって、トラックが先にできてとりあえず軽いデモを作ってみようというところから始まりました。ヒップホップ的な観点だと、「俺は金を持ってるぜ」とかそういうリリックが多いじゃないですか。だからあえて“MONEY”というタイトルにして、お金が軸じゃなくて、男にお金を使って欲しそうな女性のことを書こうと思ったんです。女が男にお金を使って欲しそうな瞬間ってイヤじゃないですか。

ははは。

清水:僕はすごく嫌いなんですよ。卑しいじゃないですか。僕はまだ若いんでお金を目的に寄ってくる女性ってそんなにいないし、僕、お金そんなにないんですよ(笑)。

はっはっは。大丈夫ですか、そんなぶっちゃけて(笑)。

清水:だから余計にそういうシーンを見ると卑しいなと思って、自分の好きな女の子とか可愛い女の子がそうだったら嫌だなと思うんです。それよりももっとナチュラルな気持ちで異性と向き合っていたいし向き合ってほしい、という気持ちを曲にしたかったんです。だからタイトルは“MONEY”なんですけど、曲の中のストーリーは違うんですよね。そこは自分らしい目線かなって。

しかもSALUさんと一緒にやられていますよね。あるパーティで初対面して共作に至ったということらしいですね。

清水:知り合いのアーティストの誕生日パーティで会ったんですよ。自分は基本インドア派で限られた友だちとしか遊ばなくて、そういうところにはあまり行かないんです。でも、その日は珍しくフットワークが軽かったんですね。そうしたら、彼がいて。僕は彼が曲をYouTubeでアップしていたころから好きで、ずっと期待していたアーティストだったんです。でも、『PROUD』を出す前には思いきりやれていないコンプレックスというか、R&Bにせよヒップホップにせよ、コアなことをやっていたり、好きなことを思いっきりやっている人たちに対して怖さがあったんです。僕は「そっち側の音楽をやりたいし、作れるし、好きなんだけどなあ」と思っているけれど、「あいつは違う。リアルじゃねえから」みたいな線引きをされているんじゃないかって。「向こうはどう思っているんだろう?」って。でも話してみたら、「俺は(清水の音楽が)大好きだよ」という感じで来てくれたので、「それならぜひ一緒にやりましょうよ」とお願いした感じですね。

[[SplitPage]] 清水翔太 『MONEY feat. 青山テルマ, SALU』Short Ver.

いかにトラックがカッコよくても、歌がうまくても、コーラス・ワークがエグくてアドリブが良くても、詞がダサいと思うとなんか入ってこないんですよ。


清水翔太 - FIRE
MASTERSIX FOUNDATION

J-PopR&BSoul

(初回生産限定盤)
Amazon Tower HMV


(通常盤)
Amazon Tower HMV iTunes

J・ポップと呼ばれるジャンルがあるじゃないですか。一口に説明することのできないジャンルですけれど、清水さんはR&Bやラップ、ソウルやファンクなどのブラック・ミュージックをJ・ポップのフィールドでいかに表現して、しかもセールス的に結果を出すかを模索されてきましたよね。両者の融合の難しさはどこにあると感じてきましたか?

清水:まずいちばんに音楽としての純粋なR&Bというものが日本のリスナーにそこまで響かない。例えば、アーティストとしての人気があるとか別の要素が加われば、受け入れられるんですよ。だから人気のあるアーティストがそういう音楽に手を出したら売れたりもする。でも音楽一筋でやっているアーティストのR&Bってなかなか聴かれないんですよね。自分はビジュアルとか他のところのプラスアルファで勝負できる魅力ってそんなにないと思っているから、音楽だけでしか勝負できない。そこで、僕が思うのはやっぱり日本語ですね。

どのように歌ったり滑らかにラップでフロウして、いかに日本語を音としてハメていくか、というところのチャレンジですよね。

清水:そうですね。ただ自分なりにダサくない日本語の乗せ方を見つけてきてはいるんですよ。いつもそれだけを考えるんですよ。日本語のR&Bやヒップホップを聴いて、いいなと思うか、これは好きじゃないなと思うかの違いって日本語がうまく乗っているかどうかだけなんですよ。いかにトラックがカッコよくても、歌がうまくても、コーラス・ワークがエグくてアドリブが良くても、詞がダサいと思うとなんか入ってこないんですよ。そこはやっぱりナチュラルに聴けて、でもいいこと言っているとか、沁みるみたいな言葉のハマりと詞の良さというのが両立できているものが僕の中で響くんですよ。そういう音楽がR&Bには少ないですね。結局それならJ・ポップ寄りの音楽を聴いているほうが詞は刺さるんですよ。

清水さんは歌うようにラップすること、またラップするように歌うこと、その境界線をどれだけスムースに超えられるかを模索されているなと思いました。

清水:それがいちばんでかいですね。僕は日本語のヒップホップも好きで、唯一日本語でカッコよくできるのはヒップホップだと思っているんです。遊び心を入れられるんですよ。だから、ヒップホップとR&Bを合成していったほうがいいと思うんです。いまはアデルみたいなアコースティックな歌モノのR&Bと、リアーナみたいなヒップホップ的なR&Bがあるじゃないですか。僕はヒップホップのノリがあるほうが好きだったから、歌モノではなく、トラップの方向に行ったんですよね。そのほうが日本語を乗せてもカッコいいと思ったんです。だから『PROUD』もそういう作りなんです。ラップで韻を踏みまくって、メロウに歌う瞬間もある。そうやって日本語をカッコよく聴かせていくというテーマがこのアルバムにはありましたね。

例えば、KREVAさんのソロになってからのキャリアは「歌えるラッパー」になっていくことで、清水さんの場合はその逆で、「ラップする歌手」になっていくということをデビュー当初からやってきて、そして洗練させていく。そういうキャリアを経てきて、『PROUD』で清水さんなりの形を見つけたのかなと思いながら聴いていました。

清水:まさにそうですね。このアルバムに“N.E.E.D”って曲があるじゃないですか。すごくシンプルでオート・チューンを使っているあの世界観は、KREVAさんの“希望の炎”を継承している感じはあると思いますね。

たしかに。すごくわかります。

清水:日本語をカッコよく乗せていくとか、カッコよく聴かせるというところに関してずっとやり続けてきた結果が『PROUD』で出たかなという感じはしています。で、『PROUD』にはトラップっぽい感じのラップもありますけど、そこからヒップホップ・ソウルっぽいことをやろうとしたのが“FIRE”なんです。僕、エステルとかすごく好きで。

エステル、いいですよねー。UKの女性シンガー/ラッパーですよね。

清水:ローリン・ヒルも昔すごく好きだったし、ラップして歌う感じのルーツは僕の中にすごくあるんですよね。だからいまその感じは僕の中で前に出てきていますね。

先ほど触れた“Good Conversation”のファンキーなサンプリングのループやそのちょっと歪な鳴りから歌メロに入っていく感じとか、ローリン・ヒルの『ザ・ミスエデュケーション・オブ・ローリン・ヒル』に近いテイストを感じました。いろんなアイディアを持たれているんだなと。

清水:そうですね。“Good Conversation”は自分で作った曲ではないですけど、やっぱりいろんなルーツを持ちすぎて、それをどう出していくかということに迷ってしまう部分はありますね。いま次のアルバムを作らないといけなくて、“FIRE”ではヒップホップ・ソウルっぽい方向性をやって、次のアルバムもそういう雰囲気で行こうかなと思っているけど、やっぱり打ち込み始めると気づけばトラップを作っているんですよね。僕はだいたいビートから作るんですけど、“FIRE”はトラップのチキチキしたハイハットじゃなくて、ライドっぽいシンバルの打ち込みから始めたんです。そういう音ひとつひとつの生っぽい太さとかを意識しながらビートを打ち込んでいったので、生感のあるヒップホップ・ソウルみたいな雰囲気になったのかなと思いますね。

ビートから作るんですね。そこがもうヒップホップ的な作り方ですね。コードやメロディーから作るわけじゃない?

清水:じゃないですね。なんとなくのイメージがまず頭の中にあって、コードがこういう感じかなという雰囲気もありながらビートを作って、その上でコードを弾いていく。そうやって作っていくと、ビートと自分の中にあるなんとなくのコードがすごくハマる瞬間があるんですよね。ガチッとハマった瞬間に「これは作んないとな」とスイッチが入って本気で作り始める感じですね。

「気づけばトラップを作っている」というのは単純にいま好んで聴いているからということだけではない?

清水:トラップのビートだと、ラップっぽくフロウしていけるというのがあるんですよね。歌モノになってくると、AメロBメロの文字数とか、ストーリーとして組み立てるという制約が出てくるんですけど、ラップだととにかくまず歌詞を書くことができる。その後に歌いながらフロウを変えていったり、ここで韻を踏もうとか、あとから作り変えていける自由さがあって、結果的に言いたいことを完璧に言えるのはやっぱりラップが絡んでこないとできないんですよね。歌になるとキレイに組み立てられたものになっちゃって、自分の中の想定内の言葉で収まっちゃうんです。ラップになるとより自由に言いたいことが言えるんです。まさに“PROUD”っていう曲がそうなんです。

あと、曲名通りお酒のノリでラップする“Drunk”のトラップもそうですよね。

清水:そうですね。あの曲をカラオケに入れてほしいんですけどね(笑)。テキーラ5、6杯飲んで、「まだいくの?」ってときに「いくでしょ!」って片手で(テキーラを)持ちながらカラオケで歌いたいんですよ。(笑)。でも、入ってないんですよね。

はははは。あの曲はたしかに飲んでカラオケに行ってラップしたら盛り上がる。そう考えると“My Boo”のような恋愛感情の機微を描くラヴ・ソングは歌詞を作るのに苦労されるような気がするのですが、そうでもなかったですか? 

清水:“My Boo”を作るときはプロデューサー目線の自分が強くて、自分なりのキャッチーなワード・センスを出したりしていて、そこまで苦労はしていないですね。『PROUD』を経たいまの自分だからできるキャッチーさを一度しっかりやってみようとチャレンジした曲だったんです。だからすごく楽しみながら作っていましたよ。『PROUD』でやりたいことをやりきったというほどではまだないですけど、自分のエゴや欲が満たされた部分はあったので、ここらへんで一回くらい周りも安心させたかった(笑)。自分のリアルな恋愛観も出ていますしね。

[[SplitPage]] 清水翔太 『My Boo』Short Ver.

ただビジュアルがいい、ただ歌や声がいいというのに僕はあまり興味がないんです。小田さんといっしょにやって、「やっぱり自分はミュージシャンでありたいな」という気持ちが強くなったんです。


清水翔太 - FIRE
MASTERSIX FOUNDATION

J-PopR&BSoul

(初回生産限定盤)
Amazon Tower HMV


(通常盤)
Amazon Tower HMV iTunes

少し話題を変えるのですが、これまで多くのラッパー、シンガー、ミュージシャンと共作してきましたよね。自分の音楽観に影響を与えた客演とか、共作はありましたか?

清水:小田(和正)さんがすごく印象に残っています。僕は音楽をやる以上ミュージシャンでありたいんです。「ビートだけもらってラップだけやる」ではなくて、自分で音に入り込んで作りたい。いかにビートから作ろうがラップをバンバンやろうが、音楽的に何がどうなっているのか、というのをちゃんと話せる人間でいたい。あの曲(“君さえいれば”)はアレンジを小田さんがやられたんですけど、そのアレンジの過程を見ていると、全部の楽器が上手いんですよ。アレンジもするし、打ち込んでギターも弾いたりしていて、「ミュージシャンだなあ。カッコいいな」と思いましたね。自分もそうありたいし、音楽のプロである以上みんなにそうあってほしいとも思いますね。自分のできる範囲でいいと思うんですよ。それが例えばMPCでもいいし、ギター1本でもいいし、何でもいいからとにかく自分で奏でてひとつ作品を作れる、というのが僕のなかでの最低条件だと思っているんです。ただビジュアルがいい、ただ歌や声がいいというのに僕はあまり興味がないんです。小田さんといっしょにやって、「やっぱり自分はミュージシャンでありたいな」という気持ちが強くなったんです。

清水さんはギターも弾いて、ドラムも打ち込んで、自分で作曲もアレンジもしていますよね。それは子供のころに習得したものだったのでしょうか?

清水:いやいや、そんな偉そうなことを言いながら全部そんなに上手くないですよ。ピアノ、キーボードを15、6歳くらいのときに、ドレミファソラシドのドの音もわからないみたいなところから始めて、ギターもここ3、4年でちょっと触ってみているぐらいですね。ドラムも1年前くらいに電子ドラムを買った感じです。でも僕は教わるのが嫌なんで(笑)、全部自分で触りながらやっていきたいし、独学ですね。とりあえずは触っていくみたいな感じですね。ヒップホップ的な感覚でいけば、そんなに知識がなくたって、コードが全部わかって押さえられなくたって絶対いい曲作れますから。限られた技術や知識のなかでめちゃくちゃいい曲作る人もいっぱいいますしね。

「FIRE」のシングルの2曲目“Knocks Me Off My Feet”はスティーヴィー・ワンダーのカヴァーですよね。どうしてこの曲をカヴァーしようと思ったんですか?

清水:スティーヴィーの曲であの曲がいちばん好きなんです。それぐらいしかあの曲に関しては言うことがなくて(笑)。

ははは。ダニー・ハサウェイも大好きなんですよね。

清水:そうですね。いまでも歌自体の上手さというところではダニー・ハサウェイが僕のなかでいちばんですね。

ダニー・ハサウェイでアルバム1枚か1曲挙げるとするなら、清水さんはどれを選びますか?

清水:ベタですけどやっぱり『ライヴ』が好きです。あのアルバムのライヴ感って、いまでもずっと僕の理想としているライヴなんですよ。僕はお客さんにいっしょに歌ってほしいんですよね。それは自分にも責任があって、歌いたくなるようなキャッチーな部分がないから歌わないんだろうっていうのもあるんですけど、でも海外のアーティストのライヴってお客さんがバリバリ歌うじゃないですか。

そうですね。R・ケリーのライヴとか観るとすごいですもんね、オーディエンスの歌が。

清水:自分が客だったら聴こえないでしょ、っていうくらい客がほぼ全部歌うじゃないですか。自分のライヴもそうなって欲しいなって思うんですけど、でも曲のパワーがもうちょっと必要だなと思いますね。だから、“My Boo”を作るときに歌いたくなるフレーズも意識していたんです。そうしたら、あの曲がちょっとパーティ・アンセムっぽくなってくれたので、すごく嬉しいんです。北海道かどこかのクラブで“My Boo”が流れていて、それを客が大合唱しているのをツイッターで見て、「これこれ! これに憧れてた!」みたいな(笑)。だから、自分の理想とするライヴ像はあのアルバムからきてますね。それもあってキャロル・キングの“ユーヴ・ガッタ・フレンド”(ダニー・ハサウェイが『ライヴ』でカヴァーしている)をカヴァーしたんです。

ディアンジェロもすごく好きなんですよね。ディアンジェロでアルバム1枚選ぶとしたらどれですか?

清水:僕はぶっちぎりで『ブードゥー』ですね。

『ブラウン・シュガー』ではなく『ブードゥー』なんですね。

清水:『ブラウン・シュガー』から入りましたけど、もう『ブードゥー』を棺桶に入れてほしいですね。あれだけあればいいってレベルに好きですね。『ブラウン・シュガー』は音楽として完成されすぎちゃっている曲が多いというか、もちろん他のアーティストの曲と比べたら全然キレイじゃないですけど、ディアンジェロにしてはある程度キレイですよね。『ブードゥー』のぶっ飛び具合が好きすぎるんです。たぶん何万回か聴いたとしても発見があると思う。「やっぱりエグいな」とハッとする瞬間がいまだにある音楽はすごいですよね。

清水さんも『PROUD』で自分なりの“エグみ”を出して、そこで獲得した自信や方法論の延長で次作も創作していこうと考えていますか?

清水:そうですね。自由な感じはすごくありますね。やっぱりいままでみたいに「これはちょっと言わないほうが良い。ここはもっとキャッチーにしよう」みたいなのはやめたほうがいいとはすごく思っていますね。既存のキャッチーさではなくて、自分なりのキャッチーさとか、自分なりの表現をやればいいと思っていますね。

清水さんの音楽の変化に戸惑ったファンもいたんですか?

清水:それが意外といなかったと思いますね。もちろん多少はいると思うんですけど、想像してたよりかはだいぶ少ないと思います。そこが僕のリスナーのすごくいいところで、この10年のなかで僕の「本当はこういうことをやりてえんだ」というのを感じ取っているんですよね。

それは、『PROUD』以前のインタヴューなどでそういう葛藤とかジレンマみたいなものを表現されてきたからですか?

清水:軽くは言っていましたね。少しだけ。思っていた以上にファンのみんながそういうことを感じていて、だから「変わっちゃったね」というよりも「やっときたか」みたいな意見の方が多かったですね。

それは後押しになりますね。

清水:そうですね。ただ、「次のアルバムはマジでぶっ飛んじゃおう」みたいな気持ちになる日もあれば、次の日には「いや、もっと普通の聴きやすいものを作ろうよ」みたいな気持ちになったり、その次の日には「もうトラップっしょ」みたいな気持ちになったりするんでそういう自分にもう困っちゃうんですよ。しかもけっこう完璧主義なんでアルバムを通しての世界観とかを統一したいんです。でもそれを気にし過ぎると作れなくなるから、音楽は真剣に作るけれど、そういう気持ちとの向き合い方はテキトーにやらないとダメですね。自分のなかで良い曲なら良いというのがあるので、それがどういう形であれ、良い曲を作ればいいかなといまは考えていますね。

interview with Thundercat - ele-king


Thundercat - Drunk
Brainfeeder/ビート

Hip HopJazz

Amazon Tower HMV iTunes

 偏狭になる社会に反比例するようにいまこそ豊穣な広がりを見せる21世紀産のソウル・ミュージックだが、そのもっとも甘い展開がこのひとから届くと想像していたひとは多くはなかったのではないか。これは嬉しいギフトである。
 卓越したプレイヤーであるがゆえに数多くのミュージシャンの作品に客演として招かれてきたサンダーキャットだが、近年ではケンドリック・ラマー『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』、カマシ・ワシントン『ジ・エピック』への参加が彼にとってとりわけ大きな刺激になったのだろうと想像される。それらの作品が高く評価されたのは、新しい世代によるブラック・ミュージックの歴史に対する敬意とそれゆえの編集の巧みさがよく現れていたからで、それはサンダーキャットがかねてから自らの作品において取り組んでいたことでもあった。であるとすれば、彼が自分の個性を踏まえてその先を目指したのはロジカルな展開だと言える。
 サンダーキャットにとっての「その先」とは、結論から言えば、アクセスしやすくよく編集された歌ものポップスと自らのベース・プレイとの融合であったことが『ドランク』を聴けば理解できる。先行して発表されたマイケル・マクドナルドとケニー・ロギンスが参加した“ショウ・ユー・ザ・ウェイ”の70年代西海岸AOR路線は人選の意外さもあって驚きとともに受け止められたが、それとてアルバムのなかでは一部でしかない。西海岸の要素が強めとはいえ、そこに限定されたものでもない。ファンク、ジャズ、これまでの作品にも見られたエレクトロニカやヒップホップの要素、果てはソフト・ロックまでが現れて、しかしすべてはメロウでスウィートなソウルのフィーリングのなかに溶けていく。ケンドリック・ラマーやウィズ・カリファ、ファレル・ウィリアムスがゲストとして参加し、フライング・ロータスやカマシ・ワシントンらがプロダクションに参加するなど『ドランク』にはその人脈の広さがよく表れているが、全体を貫くのはサンダーキャット自身によるけっして線が太いとは言えない歌である。その軽やかさが中心にあるからこそ、演奏のテクニック主義に走りすぎない心地よいフワフワしたムードが保たれているのだろう。曲数が多く一曲一曲が短めなのも特徴で、このことから連想されるのはフライング・ロータスの諸作だ。その緩やかに変化し続ける時間のなかで、様々な時代の様々な音楽的要素が消えては現れ、あるいは過去と現在が優しくミックスされ、リスナーをじっくりとスムースに快楽へと導いていく。
 先述のマイケル・マクドナルドやケニー・ロギンスにしても敢えて狙ったわけではなく、単純に好きだから呼んだ、という無邪気さがサンダーキャットならではの闊達さに繋がっているように思える。それを彼は「ファンタジー」と呼ぶが、であるとすれば、強固に築かれた壁を溶かしてしまうオープン・マインドの持ち主だけが辿りつける極上の逃避行がここにはある。

俺は間違いなく黒人なわけだから、もちろんその経験は反映されてる。いまの社会で起きている問題を肌で感じないわけにはいかないよ。でも世のなかのすべてがひどい状態にあるわけじゃなくて、いまは人間として俺たちは逆境に立たされているんだ。もちろん、この作品は黒人としての体験を反映しているけど、地球上のほとんどの人間は有色人種なんだ(笑)。

ツアー前のお忙しいところお時間ありがとうござます。日本でニュースを見ていると、トランプとその反対勢力のデモ映像がこの1週間流れっぱなしです。日本もたいへんですがアメリカはいますごいことになっているようです。この騒動についてどう思われていますか?

サンダーキャット(Thundercat、以下TC):いまの状況を自分でまだ消化しきれてないけど、ただ言えるのは最悪な状況だね。それくらいしか言えないよ。あいつの言動によって、もっとバカな行動を取ってる連中が増えてる。いまのところは希望の光は見えていないよ。

アルバムが、ものすごくスウィートで、温かく、あなたは「ファンタジー」という言葉で説明しているようですが、この甘くドリーミーなフィーリングがとても素晴らしく思えました。エレクトロニック・ジャズ・ファンクとユーモアが混在したスペイシーなデルフォニックスというか。

TC:そういう音楽に確かに影響されてるし、俺の音楽にはジャズ、ファンク、フュージョンの要素は入ってる。だから、そういう風に言ってもらってもかまわないよ。

実際は、どういうサウンドを目指していたのでしょうか?

TC:自然にでてきたものを曲として作り上げただけなんだ。いろいろなクレイジーな体験をしたんだけど、自然体で曲を作ったんだ。

ヴォーカルのメロディラインのみならず、アートワークも70年代的なんですが、なぜ70年代を引用するのですか?

TC:70年代の影響はあるし、もちろん70年代に影響されてるけど、俺は1984年生まれだから、70年代を経験したわけじゃないんだ。ちょっと答えづらい質問だな。ただ俺が使ってる音色から、俺の音楽に70年代のフィーリングを感じる人はいると思う。70年代の要素は入ってるけど、それがメインの要素というわけじゃないんだ。

それではジャケのコンセプトについて説明してもらえますか?

TC:ジャケのアイデアは、エディ・アルカザール(Eddie Alcazar)というアーティストにインスパイアされたんだ。彼は映画監督であり、カメラマンでもある。エディ・アルカザールの要素と〈Brainfeeder〉を運営しているアダム・ストーヴァーのアイデアを組み合わせた。このジャケは、ホラー映画と70年代のレコードのジャケの要素が混ざっている。でも、それだけに限定されてるわけじゃなくて、いろいろな捉え方ができるんだ。

昨年は、大統領選ともうひとつ、ブラックライヴスマターに代表される現代の黒人運動がありました。『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』や『ジ・エピック』、あるいはビヨンセの『レモネード』はこうした運動と(共感するしないはともかく)少なからずリンクしていたと思います。『ドランク』にはケンドリック・ラマーも参加してますし、またずばり“Blackkk”なる曲もあります。あらためて訊きますが、『ドランク』はファンタジーであり、政治や社会とは切り離されて考えるべきでしょうか? 

TC:俺は間違いなく黒人なわけだから、もちろんその経験は反映されてる。いまの社会で起きている問題を肌で感じないわけにはいかないよ。でも世のなかのすべてがひどい状態にあるわけじゃなくて、いまは人間として俺たちは逆境に立たされているんだ。もちろん、この作品は黒人としての体験を反映しているけど、地球上のほとんどの人間は有色人種なんだ(笑)。だから、“ブラック”主体のアルバムじゃないんだよ。“ブラック”という言葉はヘンだと思う。ブラウンの人だっているわけだし、どこで線引きするかははっきりしてない。俺は黒人なわけだから、もちろん黒人の経験としての経験は音楽や曲名に反映されてるね。

時速100キロぐらいで走っていく“Uh Uh”もいいんですが、“Bus In These Streets”なんかはソフト・ロックにも聴こえます。この眩さってどこから来ているんですか?

TC:自然に湧きあがった気持ちを曲に反映してるだけなんだよ。アルバムを作りながら、「今度は速い曲を作らなきゃ」とか、そういうことを意識してるわけじゃない。俺はAbletonを使って曲を作ってるんだけど、直感的に曲を作れるから、プロセスが早くなる。だから、曲を聴いてると、自分の思考の流れがわかるんだ。俺が曲を作った順序通りに作品を聞くと、すごく遅い曲から、すごく速い曲とかがあるから、作ったときの気持ちがわかるんだよ。

1曲1曲が短く、アルバムは50分で終わりますが、この意図するところはなんでしょう?

TC:そのときの思考の流れをそのまま曲に仕上げてるからなんだ。自分のアイデアを曲として書いた時に、それがたまたま短かったんだ。俺の場合、五線譜ではなくコンピュータで曲を書いてるけどね(笑)。フライング・ロータスの“Descent Into Madness”を作ったとき、もともとは3部作のコンチェルトみたいな曲だったんだ。“Descent Into Madness”はフライング・ロータスのアルバムに入ってるけど、その曲の一部だった“Inferno”が俺のアルバムに収録されたんだ。だから、もともとは壮大な曲だった。その壮大な曲の細かいピースを、それぞれの作品に入れているんだよ。だから短い曲があったり、5分の曲があったり、30秒の曲もあるんだ。

アイズレー・ブラザースのサンプリングを使った“Them Change”。クールでスローなファンク・ナンバーで、個人的には好きな曲のひとつなんですけど、この曲にメッセージはありますか?

TC:失恋したことはあるかい(笑)? この曲は、ガールフレンドに対する怒りを表現してるんだよ。心を傷つけられたことについての曲なんだ。人生において、俺はいろいろな形で心に傷を負ったことがあるよ。それを全部この曲で表現してるんだ。恋愛での失恋だけじゃなくて、いろいろな意味での心の痛みを表現してる。“Heartbreaks and Setbacks”という曲と似たようなテーマだよ。人生において経験する様々な逆境についてなんだ。

マック・ミラーが日本盤のボーナス・トラックにフィーチャーされていますが、彼についてコメントいただけますか。

TC:彼は仲のいい友だちだし、しょっちゅうコラボレーションしてるよ。彼は根っからのミュージシャン気質だけど、テリー・ボジオやカマシ・ワシントンみたいなテクニシャン系のミュージシャンじゃないんだ。でも、彼は身も心もすべて音楽に捧げてる。俺とマック・ミラーは長い時間かけてよく制作してるんだけど、その一部がインターネットで発表されてるだけなんだ。この曲をアルバムに入れたかったのは、俺とマックの人生において傷ついてる時期だったからなんだ。いまの音楽業界において、音楽ビジネスによって汚されていないアイデアを表現するのは難しいんだよ。この曲は、2人にとって本当に愛情を込めて作った曲なんだ。このレベルでクリエイトできたことに、2人とも喜びを感じてたんだ。この曲をアルバムに入れると決めたとき、彼は「アルバムに入れてくれて本当にありがとう」って言ってくれたんだ。マックのことは前からリスペクトしてるんだよ。

いっぽうで『ドランク』はブラック・ミュージックだけに特化しているわけではなくて、たとえば“Show You The Way”でのマイケル・マクドナルドとケニー・ロギンスの存在も、このアルバムをもうひとつの側面を象徴していると思います。彼らのどのようなところが魅力だと思いますか?

TC:彼らと仕事できて嬉しかったのは、長年彼らの大ファンだったし、彼らの音楽に心から共鳴していたからなんだ。彼らの人生経験が、彼らのソングライティングにダイレクトに反映されてるところが大好きなんだよ。彼らの人生を彼らの音楽から感じ取ることができたから、俺もそのアプローチにインスパイアされて、自分の人生を音楽で表現したいと思うようになったんだ。そういう意味で、ジノ・ヴァネリもそうだけど、彼らは俺の先生のような存在なんだよ。

Dirty Projectors - ele-king

(細田成嗣)

 ダーティ・プロジェクターズによるセルフタイトルを冠した堂々たる最新作について、ひとまずはその表面から受け取ることのできるものを言語化してみることから始めてみよう。本作はこのグループの7枚めのアルバムであるとともに前作からメンバーがガラリと変わり、というかリーダーのデイヴ・ロングストレスしか残っておらず、改めてこのグループが通常の固定メンバーを従えたロック・バンドとは異なった、あくまでロングストレスの変名プロジェクトとも言うべきものであるということを印象付ける作品だった。アルバムの内容を眺めてみると収録された9つの楽曲は多様多彩であり、それぞれの楽曲ごとに参加メンバーも異なりコンセプトも異なるというヴァラエティーの豊かさがある。ビッグバンド・ジャズを彷彿させるホーン・セクションがあるかと思えば弦楽四重奏が加わった楽曲はまるで室内楽風でもクラシカルでもなく、あるいはバーナード・ハーマンの映画音楽を素材にした楽曲ではジョエル・マクニーリーの指揮によるロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏の録音をサンプリング・コラージュし、かと思えば唯一の女声ヴォーカルであるドーン・アンジェリク・リチャードの歌が響き渡る。とっ散らかった印象を与えかねないそれら楽曲群が1枚のアルバムに収められることができたのは他でもない、彼のつまりロングストレスの歌声が全編を通して流れているからである。その声がおそらくは紐帯となっている。だがしかし、おそろしいのはその紐帯としての彼の声を彼は切り刻み変調し重ね合わせて録音し、自在に姿かたちを変幻しながらあらゆる角度から声の肌理の様相をあらわにしていることである。思えばダーティ・プロジェクターズの前作と前々作の特徴は3人の女声コーラスの見事なハーモニーがロングストレスの歌声と絡み合うアヴァン・ポップなロック・ミュージックであるところにもあったのだったが、そのフォーマットを根城にして新たな音楽に挑んでいくのではなく、やはりダーティ・プロジェクターズはロングストレスのプロジェクトなのであって、むしろそこからそうしたコーラス・ワークを手中に入れ、彼女らが不在の今作においても彼が彼自身の力量によってそれを披露したのだということなのだろう。そして今作において見過ごすことができないのはダーティ・プロジェクターズにおけるロングストレスのそうした前進と変化だけではなく、いや、ある意味ではそれに含まれもするのだが、彼とほぼ同世代で活躍する作曲家/電子音楽家であり元バトルスのメンバーでもあるタイヨンダイ・ブラクストンが参加していることである。

 一昨年リリースされたパーカッションと電子音のための作品『HIVE1』も話題を呼び、そのエレクトロ・アコースティック打楽器アンサンブルのアルバムは明らかにエドガー・ヴァレーズを参照点のひとつとしているとともにヴァレーズの遺産をいま一歩前に進め、それによって彼のもうひとつ前の作品『Central Market』において同様に参照され継承発展させられたイーゴリ・ストラヴィンスキーと併せてタイヨンダイ・ブラクストンの音楽的嗜好と背景の一端をある程度の幅を持って見ることができるようになったのだった。その彼が本作において参加しているのは5曲、全体のおよそ6割に参加しているのは単なるゲストというよりも半ば共作と言ってしまってもよいものだろう。モジュラー・シンセサイザーを用いた演奏やポスト・プロダクションを施す彼の手腕がロングストレスともっとも共振しているように聴こえるのはやはり“Keep Your Name”であり、それがもっとも不協和を奏でているような歪さを感じさせるがためにかえってふたりの類似と差異があらわれるところがおもしろく、また、別の共振のしかたを聴かせているとも言えるのは“Ascent Through Clouds”だろう。前者ではロングストレスの変調された低音のヴォーカルが印象的に響くところから幕を開け、彼が失恋の哀しみを歌い上げるそばでブラクストンによる変調された高音ヴォイス――あのバトルスがおそらくもっとも多くのリスナーの耳に焼き付けただろう“Atlas”で聴かせたそれ――が被さってきて、二声のエレクトロ・ヴォイスの対比的な絡み合いは見事としか言いようがない。しかし後者ではまるでぶつ切りにされたふたつの楽曲が強引に接ぎ木されたかのような構成をとっており、前半にロングストレスのヴォコーダーをかました歌声と爪弾かれるギターによるフォーキーな演奏、後半には打ち込みのビートにエレクトロニクス・ノイズとともに乗せられたブラクストンによる変調された高音ヴォイスのミニマルに反復する演奏がやってくる。そして後半にはさらにロングストレスの多重録音された歌声によるコール&レスポンスが差し挟まれていて、そこで生々流転する世界の循環について歌われたあとに続く打ち込みビートは興奮の閾値を超えるようにしてリズミカルにグルーヴする、それもまた圧巻なのである。そうした共同作業の成功の陰にあるのが、単に快楽主義的であるだけでなく、グリッチ・オペラや記憶のみを用いたアルバム・カヴァーなどといったアメリカ実験音楽の流れを汲むコンセプチュアルな作品制作に取り組んでいたロングストレスの音楽美学と、同様にアヴァンギャルドの遺産とエクスペリメンタルの可能性に浸りながら現代の音楽を創造するブラクストンのそれとのあいだに共有できるものがあったからなのかどうかは定かではないが、少なくともUSインディー・ロックなる矮小なジャンルには全くとどまることのないそうした志向をうちに秘めたふたりの音楽家の交わりのもとに生まれた最上の音楽のひとつがここにはあるのだということは言えるだろう。

細田成嗣

Next >> 小林拓音


[[SplitPage]]

(小林拓音)

 時代は変わった。昨秋リリースされたソランジュの『A Seat At The Table』は、インディ・キッズという迷い子たちを最新鋭のソウル/R&Bの領野へ誘導する決定的な分岐器となった。その領野から収穫された最高の果実のひとつが先日リリースされたサンファのアルバムであり、そしてもうひとつの果実がこのダーティ・プロジェクターズのアルバムである。
 サンファと同じように、デヴィッド・ロングストレスもまた『A Seat At The Table』でいくつかのトラックを手がけている。その経験が大きな転機となったのだろう。ダーティ・プロジェクターズにとって初のセルフタイトルとなったこのアルバムは、全編を通してR&Bへの強い意志に貫かれている。これまでの作品にもその要素は垣間見られたが、おそらく彼はいまはっきりと気がついたのだ。創造的な表現を試みる上で、ロックというフォーマットはもはや弊害にしかならないということに。
 失恋ソングの意匠を借りた冒頭の“Keep Your Name”は、一瞬ナオミ・クラインの名前に引っ張られて「これは商品や消費についての歌である」と解釈したくなるけれど、「バンドはブランド」というくだりを経るともうロックの失墜を憂う歎息にしか聞こえなくなる。「i wasn’t there for you(おまえのためにそこにいたんじゃない)」というブリッジの一節にはインディ・ロックに対するデヴィッドの複雑な思いが表れているし、その心情は「手遅れさ/巻き戻すことはできないんだ」という“Death Spiral”のヴァースからも聴き取ることができる。たしかに、ロックにできることなどもう何もないのだろう。バンドという形態に残されている可能性も皆無に等しい。「そんなことはない」とデヴィッドはこれまで、バンドに憧れるティーンエイジャーさながら自らに言い聞かせてきたのではないだろうか。だがついに彼はその慰めが現実逃避でしかないことを悟ったのだ。ソランジュが呪いを解いてくれたのである。

 とはいえデヴィッド・ロングストレスというタレントの創造性が、単なるR&Bという枠組みに収まり切るものでないことも容易に想像がつく。これまでダーティ・プロジェクターズが、ロックという沈没寸前の舟艇にしがみつきながらも特異なバンドたりえていたのは、彼の実験精神によるところが大きい。グリズリー・ベアのクリス・テイラーがプロデュースを手がけた『Rise Above』(2007年)には、「原曲を聴き返さずにカヴァーする」という大胆なコンセプトとアフリカ音楽の流用があった。その後かれらの評価を決定づけた『Bitte Orca』(2009年)や『Swing Lo Magellan』(2012年)には、リズムの探索や打楽器の音響的効果の開拓、それにかれらの代名詞とも言えるコーラスの妙技があった。その実験精神は姿を変え、このアルバムにもしっかりと受け継がれている。そのエクスペリメンタリズムの片棒を担ぐのがデヴィッドの旧友、タイヨンダイ・ブラクストンである。

 加工されたデヴィッドのヴォーカルが美しいメロディを紡ぎ出す“Ascent Through Clouds”は、中盤でぱたりと沈黙を迎えモジュラー・シンセを招き入れるが、この官能的なシンセ使いはまさしくタイヨンダイが『Oranged Out E.P』で試みていたものだ。“Keep Your Name”におけるサンプルの使い方もじつにタイヨンダイらしい。野太いシンセを命綱に快楽指数の高いパーカッションが冒険を繰り広げる“Death Spiral”でも、ブラック・ミュージックにおける伝統的なホーン・アンサンブルを解体しようとしているかのような“Up In Hudson”でも、そして『A Seat At The Table』のセッションの合間にデヴィッドとソランジュによって書かれ、ヴォーカルにドーン・リチャードを迎えたキラー・チューン“Cool Your Heart”でも、タイヨンダイの持ち味が遺憾なく発揮されている。その強烈な毒素はタイヨンダイが参加していないトラックにまで影響を及ぼしており、たとえば“Work Together”における音声のエディットと配置のしかたは、デヴィッドが電子音楽家としてタイヨンダイと肩を並べる域にまで達しつつあることを告げている。

 時代は変わった。いまやR&Bこそがエクスペリメンタリズムを展開するのに最もふさわしい土壌なのである。ダーティ・プロジェクターズのこのアルバムは、まさにそのような状況の変化を告げ知らせている。ためらう必要はないので言ってしまおう。本作はダーティ・プロジェクターズのキャリア史上、最も優れたアルバムである。

小林拓音

Next >> 野田努

[[SplitPage]]


(野田努)

 音楽はなぜ実験を必要とするのか──サティは旧来の音楽の硬直さに疑問を抱いた、シュトックハウゼンはロマン主義を否定しなければならなかった、ミニマル・ミュージックは陶酔を忘れた現代音楽に抗した。フランク・オーシャンをみればわかるように、R&Bとはポップ・ミュージックの最新型であり、音楽ビジネス・モデルの最新型であり、同時に広大な実験場である。かつてロックが大衆的実験場であったように。
 しかし『ダーティ・プロジェクターズ』における実験は、時代の要請というよりは個人的追求心の結実なのだろう。ブライアン・ウィルソンの『スマイル』のように、コーネリアスの『ファンタズマ』のように。
 『ダーティ・プロジェクターズ』を特徴付けているひとつは、細かいエディットとその繊細な音響加工とミキシングの妙技にある。『Blonde』の1曲目で歌っていたのは元メンバーで、デイヴィッド・ロングストレスの元彼女だったアンバー・コフマンだが、彼女はかつてメジャー・レイザーのご機嫌なレゲエで歌ったり、ちゃらいブロステップ系のルスコで歌ったりと、芸術的にはまるで一貫性がない。そして残されたロングストレスだが、タイヨンダイの強力なサポートを得たとはいえ、ひとりであるがゆえの想像力を拡張させ、かくもユニークなポップ・アルバムを完成させたというわけだ。
 “Death Spiral”や“Little Bubble”のような、いくつかの印象的な曲を聴くと、音楽的にみれば本作を『Blonde』や『ア・シート・アット・ザ・テーブル』と並べたくなるかもしれないが、クラウトロックめいた音響加工やミキシングの妙味を混入することの面白さでいえば、コーネリアスあるいはアーサー・ラッセルの“レッツ・ゴー・スウィミング”のような曲とリンクする。言うまでもなくダーティ・プロジェクターズとは、かつて脚光を浴びた(良くも悪くも素人臭い音響実験に特徴を持つ)ブルックリン系と括られており、10年前のリスナーはアニマル・コレクティヴのファンと重なっていたほど、フォーキーでローファイなインディ・ロックをやっていたバンドである。もちろんロックとは旧来は、このように他のスタイルをどんどん吸収しながら変化する音楽でもあった。
 本作の“Up In Hudson”や“Ascent Through Clouds”といった曲にはドゥーワップ的要素もみられる。だが、それらもレトロであることは許されず、いちいち音響加工されている。過剰に感じられるかどうかのすれのすれのレヴェルで音はいじくられ、タイヨンダイの力を借りていない曲のひとつ、“Work Together”における声のエディットやサンプリング・ビートの鳴り方は、コーネリアスどころか『ボディリー・ファンクションズ』の頃のハーバートさえ思い出させる。アシッド・フォーク調の“Ascent Through Clouds”は、それこそ60年代末のビーチ・ボーイズを現代にアップデートしているかのようで、ソランジュが作詞作曲に参加し、ドーン・リチャードが歌う“Cool Your Heart”は、カリブ海のリディムが咀嚼され、本作においてもっとも色気を持った親しみやすい曲となっている。つまり『ダーティ・プロジェクターズ』は、魅力たっぷりのスリルと冒険心を持ったモダン・ポップ・アルバムなのだ。
 音楽はなぜ実験を必要とするのか──我々のなかに前進したいという欲望があり、それを封じ込めることはできないからだ。このアルバムにノスタルジーは、ない。

野田努

Arca - ele-king

 ど、ど、どんと三段重ねのニュースである。アルカが〈Mute〉を離れ、〈XL〉とサインを交わした。そして4月7日にニュー・アルバム『Arca』がリリースされる。それに先駆け新曲“Piel”が公開されたが、そこではなんとアルカ本人が歌っている。
 本人によるヴォーカルがフィーチャーされているのは、今回公開されたこの1曲のみなのだろうか。それともアルバム全編にわたってアルカのヴォーカルが導入されているのだろうか。そのあたりの情報はまだ明かされていないが、レーベルの移籍やアルバムのタイトル、あるいは「内面」や「感情」といった本人のコメントから推測するに、来るべきアルカの新作はこれまでとは異なる作風に仕上がっている可能性が高い。
 「OPNとは何者なのか」という問いに答えが出ていないのと同様、アルカという現象もいまだ解明されていないと言っていいだろう。しかし今度の新作はもしかすると、「アルカとは何者なのか」という問いにひとつの手がかりを与える内容になっているのではないだろうか。まあ現時点ではまだ何もわからないので、さしあたりは公開された新曲を聴きながらおとなしく待っていよう。


A R C A
奇才アルカが〈XL Recordings〉との契約を発表!
最新アルバム『Arca』を4月7日(金)に世界同時リリース!
ジェシー・カンダによるアートワークと新曲“Piel”を解禁!

“我々の期待を完全に超えている”
- Pitchfork【Best New Track】獲得


Artwork by Jesse Kanda


これは僕の声であり、僕の内面の全てだ。自由に判断してほしい。
闘牛のように、喜びを求める感情の暴力を目撃することになる。
これは、感情のぶつかり合いの模倣的存在が、不自然なほど深く、自己陶酔していく姿なんだ。
- Arca

ベネズエラ出身ロンドン在住の奇才、アルカことアレハンドロ・ゲルシが〈XL Recordings〉と契約し、待望のサード・アルバム『Arca』の4月7日(金)世界同時リリースを発表した。長年のコラボレーターであるヴィジュアル・アーティスト、ジェシー・カンダの手がけるアートワークと、初めて自身の歌声を披露した新曲“Piel”を公開した。『Pitchfork』では早速【Best New Track】を獲得している。

Arca - Piel (Official Audio)

早くからカニエ・ウェストやビョークらがその才能を絶賛し、FKAツイッグスやケレラ、ディーン・ブラントといった新世代アーティストからも絶大な指示を集めるアルカ。セルフタイトル作となった本作『Arca』は、2014年の『Xen』、2015年の『Mutant』に続くサード・アルバムとなり、〈XL Recordings〉からの初作品となる。国内盤CDの詳細は近日発表予定。iTunesでは、アルバムを予約すると公開された“Piel”がいちはやくダウンロードできる。

Arca: Discography
『XEN』2014
『MUTANT』2015
BJORK『VULNICURA』2015
KANYE『YEEZUS』2013
FKA TWIGS『EP2』2013/『LP1』2014
KELERA『HALLUCINOGEN』2015
DEAN BLUNT『THE REDEEMER』2013
BABYFATHER『BBF: HOSTED BY DJ ESCROW』2016
FRANK OCEAN『ENDLESS』2016


label: BEAT RECORDS / XL RECORDINGS
artist: Arca
title: Arca

release date: 2017/04/07 FRI ON SALE

iTunes Store: https://apple.co/2m9K7um
Apple Music: https://apple.co/2l1GBNJ

Tracklisting
01. Piel
02. Anoche
03. Saunter
04. Urchin
05. Reverie
06. Castration
07. Sin Rumbo
08. Coraje
09. Whip
10. Desafío
11. Fugaces
12. Miel
13. Child
14. Saunter (Reprise) *Bonus Track for Japan

作品情報

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』
2017年2月18日(土)より、有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか全国順次公開

監督:チュス・グティエレス
参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ラ・モナ、ライムンド・エレディア、ラ・ポロナ、マノレーテ、ペペ・アビチュエラ、マリキージャ、クキ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア他多数
日本語字幕:林かんな/字幕監修:小松原庸子/現地取材協力:高橋英子
(2014年/スペイン語/94分/カラー/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ/原題:Sacromonte: los sabios de la tribu)

提供:アップリンク、ピカフィルム 配給:アップリンク 宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会

公式サイト
https://www.uplink.co.jp/sacromonte/

 エレクトロニックなクラブ系の音楽にとって、フラメンコといえば、チル・アウトの一要素として流麗なギターが使われる程度のことが多い。しかし映画『サクロモンテの丘』のフラメンコの音楽と踊りは、はるかに荒削りで強烈なものだ。歌詞のストレートなあけすけさはラップに負けず、手拍子(パルマ)と踊り手のステップ(サパテアード)と打楽器的なギターによるリズムは、ミニマルなダンス・ミュージックに通じ、ときにトランシーでさえある。
 映画が撮られたのは、スペイン南部アンダルシア地方のグラナダ。町の郊外のサクロモンテの丘の洞窟には古くからヒターノ(ジプシー)が暮らし、フラメンコで身を立てている。グラナダ出身の監督チュス・グティエレスは、その丘と住民に焦点を当てた。


チュス監督

「ドキュメンタリー映画を撮ったのはこれがはじめて。テーマに興味があって、身近なものだったので、何かが語れる自信はあったけど、企画の段階では、それが何なのか、まだわからなかった。映画を作るときは、信じるものを追求して撮るだけよ。サクロモンテの人たちにインタビューすることからはじめて、撮りながら作っていったの」

 フラメンコ・ダンサー/歌手/研究者のクーロ・アルバイシンを案内役に、映画は少しずつサクロモンテに暮らす人々の中に分け入って行く。世界中を旅して回った人もいれば、踊るために結婚生活を断念した人もいる。ヒターノではないのに踊りを教える人もいれば、大人顔負けのステップを踏む少年もいる。インタビューや歌や踊りに合わせて、登場人物の若いころの姿などの貴重なアーカイヴ映像も挿入される。

「フラメンコは若い人たちの力強い踊りを見るものと思われているけど、わたしが感動したのは、年配の人たちが体力の限界の中で表現している微妙な動き。若い人のような激しさはないけど、抑制された踊りの動きが、かえって新しく見えたりする。その人たちは、みんな見よう見まねでフラメンコを覚えた世代の人たち。マノレーテのように、アントニオ・ガデスの踊りを見て影響を受けた人もいる」

 実は1963年の洪水で丘の洞窟住居は大きな被害をこうむり、以後ヒターノたちの生活環境も変化を余儀なくされた。

「この映画の主役はフラメンコだけでなく、昔ここにあった共同体のゆくえでもある。往年のこの丘ではフラメンコが生活と密着していた。それがどうだったのかを知りたかった。いまの子供たちはそんな環境には暮らしていない。学校で先生について学んで、伝統を受け継いでいる」

水害で失われたものは大きかったが、伝統が時代の変化に対応しながら継承されている様子は、映画から伝わってくる。ところでサクロモンテのフラメンコはアンダルシアの他の地域のフラメンコと異なる特徴を持っているのだろうか。

「フラメンコはフラメンコね。本質にちがいはない。ただ、狭い洞窟の店で、舞台の上ではなく、同じ目線の高さで、目と鼻の先にいる客を相手に踊るから、その熱が伝わってくる。床はセメントで、舞台の板のようには響かないから、音を出すためのステップも激しい。ライヴの場面は身内のパーティのような形で撮ったので、みんな親密にリラックスした形で、楽しんで踊ってくれた。奔放に踊るフラメンコになったと思う」

 イベリア半島は、8世紀から15世紀までイスラム王国の支配下だった。グラナダは最後の王国が残っていたところだ。グラナダのイスラム建築の精華アルハンブラ(アランブラ)宮殿の姿も、丘の上の踊りの場面で遠望できる。イベリア半島に残ったアラブの音楽家たちが、フラメンコの成立に影響を与えたという説もある。

「イスパニア王国はイスラム王国と戦うとき、鍛冶屋だったヒターノを連れてきて武器を作らせたと言われています。踊りの場面を撮影したタブラオ(フラメンコ酒場)の壁に金属の調理道具が飾ってあるのもその名残。アラブの音楽はフラメンコにもきっと影響を与えたでしょう。いまも北アフリカの弦楽器バンドゥーラを使ってフラメンコを演奏する人がいるし、踊り手が額にアラブの貨幣をつけて踊ったりもする」

 両者の古い関係は文献では跡づけられなくて諸説あるが、交流がまったくなかったとは考えにくい。短絡は避けなければならないが、推測する楽しみは尽きない。
 海外でのイメージとちがって、「フラメンコはスペインでは外縁的な文化扱いされ、大切にされていない。優れたアーティストは国外に出ていってしまう」と監督は嘆いていた。でもインドに起源を持つヒターノたちがユーラシア大陸の西端でフラメンコの担い手になったように、文化のDNAは国境や民族を越えて繋がっている。「だからこの映画も日本まで来ることができたのだと思う」と語る監督の目はうれしそうだった。

予告編

interview with Jeff Mills - ele-king




Jeff Mills & Orquestra Sinfónica do Porto Casa da Música
Planets

U/M/A/A Inc.

TechnoClassical

(初回生産限定盤)

Amazon
Tower
HMV



(通常盤)

Amazon
Tower
HMV


 まず確認しておくべきことがある。ザ・ウィザード時代に高速でヒップホップをミックスし、その後URのメンバーとしてヨーロッパを震撼させ、ソロでミニマル・テクノのフロンティアを切り拓いたあのジェフ・ミルズが、なんと今度はクラシックに取り組んだ! という意外性が重要なのではない。彼が幼い頃からSF映画などを通してクラシックに触れてきたであろうことを想像すると、今回のオーケストラとの共作がこれまでの彼の音楽的志向から大きく外れたものであると考えることはできない(実際この10年、彼はオーケストラとの共演を何度も重ねてきた)し、そもそもジェフ・ミルズのルーツであるディスコやハウスがいわば何でもアリの、それこそロックを上回るくらいの雑食性を具えたジャンルであったことを思い返すと、今回のアルバムがエレクトロニック・ミュージックからかけ離れたオーケストラの生演奏とがっつり向き合っていることも、これと言って驚くには値しない。ポルト・カサダムジカ交響楽団との共同名義で発表された新作『Planets』は、あくまでもこれまでの彼の歩みの延長線上にある作品である。だから、ちゃんとグルーヴもある。

 とはいえ、ではこの新作がこれまでの彼の作品の焼き直しなのかと言うと、もちろんそんなことはない。アルバムを聴けばわかるように、このオーケストラ・サウンドとエレクトロニクスとの共存のさせ方は、以前のジェフ・ミルズ作品には見られなかったものである。徹底的にこだわり抜かれた細部のサウンドは、テクノ・ファンには「オーケストラでここまで表現できるのか」という驚きを与えるだろうし、クラシック・ファンにはかつてない新鮮な余韻と感歎をもたらすだろう。ホルストを踏まえた「惑星」というコンセプトにも、ジェフ・ミルズ独自の視点が導入されている。それに何よりこのアルバムには、黒人DJが白人ハイカルチャーの象徴たるオーケストラをコントロールするという文化的顛倒の醍醐味がある。

 本作を制作するにあたりジェフ・ミルズ本人は、クラシックでもエレクトロニック・ミュージックでもない第3のジャンルへと到達することを目指していたそうだが、彼は1999年の『ele-king』のインタヴューで非常に興味深い発言を残している。「かつて僕は、スコアを書ける人間に自分の音楽を書き取らせようとしたことがあった・でも彼にはそれが出来なかった。というのもそこには、彼が上手く当てはまるような言葉にカテゴライズ出来ない要素がたくさんあったから」。要するに、ジェフ・ミルズの音楽をエンコードすることなどできないということだ。今回『Planets』で編曲を担当したシルヴェイン・グリオットは、しかし、見事にその不可能を可能にしてしまったということになる。だがそこで新たな困難が生じてしまった。プレイヤーがそのスコアを完全には再現できないのである。すなわち、オーケストラはジェフ・ミルズの音楽をデコードすることができないということだ。ゆえに彼は「譲歩」を強いられるが、まさにその折り合いのつけ方にこそ「第3のジャンル」の片鱗が示されていると言うべきだろう。だからこそ彼は本作に2枚組という構成を与え、オーケストラ・ヴァージョンとエレクトロニック・ヴァージョンを並置したのである。ジェフ・ミルズはいまコード化の可能性と脱コード化の不可能性とのはざまで、自らの音楽を更新しようと奮闘している。何しろ彼はこの作品を、100年先の人びとへも届けようとしているのだ。




クラシックやエレクトロニックのどちらでもない第3のジャンルのような音楽にまで到達できれば、と思いながら制作したね。

今回の『プラネッツ』は、2005年の『ブルー・ポテンシャル』から始まり、10年以上にわたって続けられてきたオーケストラとのコラボレイションの集大成のような作品で、ジェフさんにとっても念願の作品だと聞いています。クレジットでは「作曲:ジェフ・ミルズ、編曲:シルヴェイン・グリオット」となっていますが、このアルバムはジェフさんが原曲を書き、シルヴェインさんが編曲して、それに基づいてポルト・カサダムジカ交響楽団が演奏をおこない、それを録音する、というプロセスで作られたのでしょうか?


ジェフ・ミルズ(Jeff Mills、以下JM):プロセスについてはいま言ったことで間違いないけど、編曲をする段階で編曲者のシルヴェインとすごくいろいろな話し合いを重ねたね。話し合いの内容は具体的なアレンジ方法というよりは曲のコンセプトについて、たとえば惑星がどういったもので構成されているかといったことについてで、物質的なことも含めて音として表現したいと思っていた。たとえば土星であれば、その輪の重要性や、あるいは輪が凄まじいスピードで廻っているということに関して、「それはテンポに反映するのがいいのではないか、ならば土星はいちばんテンポを早くしよう」というふうに、コンセプトや科学的な事実をどういった形で音に反映するかということを話し合った。その話し合いの後、シルヴェインが編曲し、また変更点を話し合うといったやりとりを何度もおこない、曲を完成させていったんだ。

ホルストの「惑星」は神話がもとになっていますが、ジェフさんは科学的なデータに基づいてシルヴェインさんと曲を作っていったのですよね。神話の場合だと、たとえば「マーズは戦の神なので曲を荒々しく」というふうに曲のイメージがなんとなく想像できるのですが、惑星の物質的な要素を曲に反映させる場合は、いまおっしゃったような「土星の輪の回転速度をテンポに反映させる」といったこと以外に、どういったパターンがあるのでしょうか。

JM:僕もホルストからの影響は受けているよ。どういうことかと言うと、(僕は)実際の神話をもとにしてはいないけど、ホルストがそういった考えをもとに作曲したというそのことに影響を受けた。惑星に対してどういう見方をするかということを勉強した。僕の場合は、科学的な事実に基づくとともに、「僕たちが惑星をどのように見ているか」ということに重点を置いている。たとえばネプチューン(海王星)やプルート(冥王星)のような太陽系の端にある星というのは、いまだにわからないことが多くあって非常にミステリアスなんだけど、自分たち人間がまだすべてを把握できていないというその事実を音として表現したんだ。もう少し具体的な例を挙げれば、ガスで構成されている惑星、天王星や海王星は表面がはっきりと識別できないので、曲の雰囲気を軽くしてみたり、逆に岩石でできているような惑星は足元があるので、しっかりとしたソリッドな雰囲気で曲作りをおこなった。

なるほど。科学的な事実に基づいているとのことですが、個人的にはこのアルバムを聴いていて、たとえば8曲目の“マーズ”からは戦のイメージを思い浮かべたり、10曲目の“ジュピター”からは神々しさのようなものを感じたりしました。それはあらかじめ聴き手がそういう神話を知ってしまっているためかなとも思ったのですが、神話ではないにせよ、ある程度はジェフさんも意識して、人間が持っている惑星のイメージや見方を曲に込めていらっしゃったと考えてもいいのでしょうか?

JM:君の言う通りで科学的な事実だけに特化したわけではなく、普段から影響を受けているSFであったり、宇宙科学はもちろんのこと、たとえば火星に関する映画であったり、実際の惑星の写真であったり、人間が蓄積してきたものすべてから影響を受け、作曲をおこなった。宇宙科学の話で言うと、今後人類が火星に行くかもしれないという段階に来ているので、そういったこともいろいろと考慮しながら曲を作ったよ。

今回のアルバムはポルトガルのポルト・カサダムジカ交響楽団との共同名義となっています。ジェフさんはこれまでも様々なオーケストラと共演されてきたと思うのですが、今回一緒にアルバムを制作したポルト・カサダムジカ交響楽団が他のオーケストラと違っていたところがあれば教えてください。

JM:ポルト・カサダムジカ・オーケストラとは『プラネッツ』を制作する以前に別の作品で共演したことがあったんだ。その際に非常に良い印象だったことと、そのコンサートが大成功だったこともあって、オーケストラのマネージャーからも「また何か一緒にやりたい」という話をもらった。そのときちょうど『プラネッツ』を制作していたので、こういう作品を制作しているという話と、一緒にレコーディングしてみないかという話を伝えたところ、今回の共同制作が実現したんだ。

6曲目“アース”を聴いていて、管楽器奏者の息継ぎ(ブレス)の音が効果的に使われているように感じました。またこの曲は他の曲とは違って唐突に終わり、すぐ次の曲に移りますよね。「地球」は私たちの住む星なので、やはりこの曲には他の惑星とは異なり何か特別な意味合いや思いが込められていたりするのでしょうか?

JM:アレンジャーとの話し合いの際に強調したことは、もちろん「地球」は僕たちがいちばん慣れ親しんでいる星なので、何かなじみのあるような音をシンプルな形で表現したいということだった。地球自体は太陽系の中でも比較的若い星であり、その若さというものを表現したかったし、地球はまだ進化し続けているので、はっきりとした結末を迎えるのではなく、アンフィニッシュな感じの曲作りをお願いしたんだ。曲自体の長さもあまり長くならないよう心がけた。僕がオリジナル・スケッチを制作した際は、わりとおとぎ話のような雰囲気を持たせ、子どものようなイタズラ感のある音作りをしたんだけど、それは地球がまだ若い星であることに注目したからなんだ。

少し「地球」での出来事についてお伺いしたいと思います。去年アメリカで大統領選挙がおこなわれ、デトロイトでは失業したりした貧しい人たちがトランプに票を入れたという話を聞きました。まさにいまそのトランプが大統領に就任して、さっそく中東やアフリカからの入国を禁止する大統領令を発しています。彼はこれからもそういった政策をどんどん実行していくのだろうと思います。ジェフさんは昨年末『ハフィントン・ポスト』紙のインタヴューで、人種差別に関して「もう手遅れだ」というようなことをおっしゃっていましたが、このトランプの時代に何か私たちにできるポジティヴなことは残されていると思いますか?

JM:イッツ・ア・メス(めちゃくちゃだ)! この先4年間ローラー・コースターのようにいろいろなことが起こるだろうね。大統領たる人物が自分の好き勝手なことを躊躇せず発言しているけど、発言の細かい内容がどうこうではなく、そのような事態になってしまっているというモラルの低下がいちばんの大きな問題だと思っている。国のトップに立つ人物がそのような行動をすることによって、みんなに(悪い)例を示してしまっている状況だ。まだ大統領が就任して日が浅いから、これからそれがどのように影響していくのかはまだはっきりとは見えていないけど、みんなの雰囲気がいままでとは少し異なっているような印象を抱いている。インターネットの力もかなり大きいと思うけど、個人個人が好き勝手なことを発言してもそれが許されるという状況で、ますます洗練とは逆の方向に向かってしまった。その結果がどのような形になって現れるのか、はっきりとは言えないけれど、今後しばらくはこのような状況が続いてしまうのではないかと思う。ポジティヴなことは考えられないね。


[[SplitPage]]

僕が強調したかったのは「ミックスする」ということと「ミックスされた結果がどのようなものになるのか」ということなんだ。

ではまたアルバムについての話に戻りたいと思います。12曲目“サターン”の打楽器は、とてもテクノ的あるいはエレクトロニック・ミュージック的な鳴り方をしているように聴こえました。終盤から電子音が乱入してきますが、弦楽器がピッツィカートでそれと呼応・並走して、エレクトロニクスと生楽器との間におもしろい共存関係が成立していると思いました。16曲目の“ネプチューン”でもピッツィカートが電子音のように使われていますよね。今回このアルバムを制作するにあたって、オーケストラの奏でるサウンドをエレクトロニックなサウンドに「近づける」、「似せる」というような意図はあったのでしょうか?

JM:どちらかと言うとクラシカルな音とエレクトロニックな音がうまく融合して、区別がつかないような音像にしたいというのが最終的な目標だった。特に太陽から離れていった、太陽系の端にある惑星に関しては、そういったミクスチャーをより強調していくことを心がけている。むしろクラシックやエレクトロニックのどちらでもない第3のジャンルのような音楽にまで到達できれば、と思いながら制作したね。

なるほど。なぜこの質問をしたのかと言いますと、もし「近づける」ことが意図されていたのであれば非常に興味深いと思ったからです。実際は「似せる」ことではなく両者の区別がつかなくなることを意図されていたということですが、オーケストラ・サウンドをエレクトロニック・サウンドに「近づける」ことは、たとえば「人間がAIを模倣する」というような関係性に近いと思ったのです。一般的には機械やエレクトロニックなものは人間や自然を模倣して作られたものですが、それが逆転しているという関係性はおもしろいと思いました。もしそのような逆転があるとするならば、人類の未来のあり方としてそのような状況についてどのように考えますか?

JM:その考えはとてもおもしろいね。自分が考えていたのは2017年といういま人間が置かれている状況、つまり「ミックスされている」ことを表現したいということだった。人類が進化するにつれて性別や人種などいろいろなものが混じっていったということ。アメリカという国の成り立ちを踏まえても、「ミックス」という考え方を表現したかった。もうひとつ考えていたのは、与えられた情報をいかに有効活用するかということ。今回の『プラネッツ』に関しては科学的な情報を自分に取り込み、そこから何か新しいものを生み出すというような方法をとった。それは様々なことを伝える考え方で、僕が強調したかったのは「ミックスする」ということと「ミックスされた結果がどのようなものになるのか」ということなんだ。

細かい音を連続で鳴らすときに、エレクトロニクスの場合はひとつの音をすぐ止めることができると思うのですが、生の楽器の場合は構造上どうしても残響が生じてしまいますよね。アルバムを聴いていると両者のその差が揺らぎのようなものを形成しているように感じて、それはたとえば宇宙空間の無重力などを演出しているのかなと思いました。エレクトロニクスとオーケストラを共演させる際に最も苦心したこと、苦労したことは何ですか?

JM:揺らぎのようなものについてだけど、今回の作品では「旅」がメイン・テーマになっていて、宇宙は無重力空間だから、太陽から徐々に離れて太陽系の外に向かっていくということを止めることはできないんだ。そのため(演奏が)沈黙(サイレンス)する状態がないようにすべてが延々と繋がっているような曲作りをした。その際に浮遊感のようなものを演出するため、いろいろな工夫を施している。苦心したことに関しては、ひとつには楽譜を作っていく段階で、特に後半の“ウラヌス”、“ネプチューン”、“プルート”は譜面が難しくて、ミュージシャンが演奏するのに苦労した部分が多々あったこと。あまり難しくしすぎると(オーケストラのメンバーが)ミスなく演奏できないということが起こりえるので、そのあたりは多少の譲歩があった。そういう意味では、レコーディングだと1度きりのパフォーマンスと違って何度も演奏し直すことができるし、ポスト・プロダクションでそれぞれの音を多少調整することもできるから、レコーディングに関しては比較的スムースにおこなえたよ。もうひとつ、難しいというか大変だったのが、僕自身の楽譜というものがないから、自分で演奏するパートはもちろん、他のミュージシャンの演奏する音をすべて暗記して本番に臨まなければならなかったということだね。それに、(自分には楽譜がないので)決められた中である程度即興的に演奏しなければならなかったこともすごく苦労した。


いまこれを聴いてくれる人たちはもちろん、自分が100年前に作られたホルストの「惑星」を聴いていまでも楽しめるように、この『プラネッツ』も100年先に生きている人びとにも聴いてもらえるのであればいいなと期待しながら作ったんだ。

最終曲の“プルート”は終盤にノイズが続き、それが唐突に途切れて、その後15秒の沈黙(サイレンス)を経てトラックが終わりますよね。他方、ディスク2のエレクトロニック・ヴァージョンの方の“プルート”はフェイドアウトしていく終わり方です。オーケストラ・ヴァージョンの不思議な終わり方を聴いたとき、それまでアルバムの冒頭から旅を続けてきた人が急に宇宙という広大な空間に放り出されるような印象を抱きました。宇宙船なのか他のものなのかはわかりませんが、人類が自らの技術力に頼って最後の冥王星まで辿り着いた結果、難破してしまうようなイメージ、つまりある種のバッドエンドを想像したのですが、それは深読みでしょうか? なぜこのような形でアルバムを終わらせたのですか?

JM:“プルート”の終わりにあるノイズは、太陽系を出たところにカイパーベルトという宇宙の塵のようなもので構成されているリングがあるんだけど、それを塵=ホワイトノイズとして表現している。15秒のサイレンスについては、たしかに僕たちが実際に聴くことのできる形での音楽はそこで終わっているけれど、マスタリングの際に沈黙の部分を可能な限りレヴェルを高くして何度も何度もサイレンスを重ねることで、そこにじつは非常に高いレヴェルのサイレンスがあるようにしたんだ。もしもそこに沈黙ではなく音を配置したとしたら、スピーカーが飛んでしまうようなレヴェルの沈黙になっている。それはつまり、自分たちが知っている太陽系というものを出てしまった後は本当に未知の世界で、何がそこに潜んでいるのかわからないから、非常に注意しなければいけないという警告の意味があるんだ。なのでここで終わってしまった、ということではないね。

ジェフさんは先ほどこのアルバムは「ジャーニー」がテーマであるとおっしゃっていましたが、頭から順番に通して聴いてみると次々に惑星を訪れていくような映像が頭に浮かびます。そこで旅をしているのは一体誰、または何なのでしょうか? 人類なのでしょうか? それともたとえばボイジャー探査機に搭載された人類の情報を刻んだレコードのような、人の思いや願い、あるいはメッセージのようなものなのでしょうか?

JM:旅をしているのは基本的に人間だ。誰のためにこれを作ったのかということを説明すると、いまこれを聴いてくれる人たちはもちろん、自分が100年前に作られたホルストの「惑星」を聴いていまでも楽しめるように、この『プラネッツ』も100年先に生きている人びとにも聴いてもらえるのであればいいなと期待しながら作ったんだ。この作品はそういう未来を見据えた考えに基づいている。“ループ・トランジット”という、惑星と惑星の間を旅するというコンセプトのセクションが9つあって、その箇所は現在の人間の知識では基本的に無の空間として認識されると思うんだけど、いまの人間の能力では何も見えず、何も聴こえず、何もわからないだけであって、もしかしたら何百年も経った後にはそこに何かがあるということを人間が発見するかもしれないよね。そういったことが起こりうるということを期待しつつ作曲したんだ。

このアルバムはオーケストラのサウンドがメインになってはいますが、いくつかの曲からはいわゆる普通のクラシックの曲からは感じられないテクノやダンス・ミュージックのグルーヴが感じられました。それは意識して出されたものなのでしょうか? それとも自然と出てきたものなのでしょうか?

JM:僕のオリジナル(・ルーツ)としては、やはりグルーヴ(・ミュージック)から入っていったので、グルーヴについては入れ込めるところには可能な限り入れたいと思っている。アレンジャーのシルヴェインももともとジャズのピアニストなので、彼自身ファンキーなことはできるし、ふたりでできる限りそういった要素を入れることを試みたよ。

このアルバムはCD2枚組になっていて、2枚目には1枚目の楽曲のオリジナル・エレクトロニック・ヴァージョンが収録されていますよね。両者を聴き比べるとその違いが際立ったり、いろいろなイメージが膨らんだりしておもしろいのですが、なぜこのような2枚組という形態にしたのでしょうか? 『プラネッツ』というアルバムはオーケストラ・ヴァージョンだけでは完結しない、ということなのでしょうか? それとも2枚目はあくまでボーナスあるいは参考資料のような位置づけなのでしょうか?

JM:(2枚組にしたのには)『プラネッツ』という作品の全体像をみんなに把握してもらいたいという意図があった。オリジナル・エレクトロニック・ヴァージョンの方もボーナスという位置づけではなくて、作品に欠かせない存在だ。あえてオリジナルのトラックをみんなに聴いてもらうことで、「クラシカルなアレンジをすることでそれがどのような変化を遂げたのか、どの部分が取り上げられてどの部分が取り上げられなかったのか」ということをいろいろと考えてもらったり、評価してほしいという意図があるんだ。





Kid Cudi - ele-king

「と、ここまで書いて深沢七郎の『東京のプリンスたち』を読みかえして笑ってしまう。この小説に登場する五〇年代末の、面倒臭いことはほとんど何も考えずプレスリーのリズムでからっぽの頭の中をいっぱいにして、細いズボンをはき、体を小刻みに揺っていた高校生たちも、今は六十四、五歳だ。今も何も考えずに生きているだろうか」 金井美恵子『目白雑録2』2006

 Cudi is back!!!
 アメリカ・アマゾンではこんなタイトルで始まるレヴューが新作『Passion, Pain & Demon Slayin'』に付いていましたがキッド・カディは今までどこかへ行っていたわけでもなく、2009年にカニエ・ウェストの〈GOOD Music〉からデビュー作『Man on the Moon: The End of Day』を出して以降、スタジオ・アルバムだけで6枚もあってとくに寡作な人でもない。ないですが、キッド・カディと言えば2008年のデビュー・シングル「Day 'n' Nite」に尽きるかも、という辺りからして少なくとも日本では、最初に打ち上げた大玉花火の残像みたいな扱いかも知れない。

 自分が最初にカディを聴いたのは2013年発表の3作目『indicud』で、そこから遡って耳にした“Day 'n' Nite”よりも同アルバム収録の“Enter Galactic (Love Connection Part I)”や“Up Up & Away”の方がずっと好もしい印象だったのはいまでも同じですが、カニエ・ウェストの“All of the lights”(2010)を始めとした幾多の客演曲も含め、この人は過去作品を一通り聴いてみても嵌まると凄いんだけどダメな時は超残念、といった余りの玉石混淆ぶりが面白く、かつ評価を定めづらいところではある。

 さてこの、歌詞データベース・サイト「Genius」が制作したこの動画は『Passion, Pain & Demon Slayin'』からカディがハミングしているパートだけを集めた、新作及び作家紹介としてはこれに尽きるダイジェストだ。ハミングに限らず、とりわけ彼が旋律を下降していく時に発生する低いノイズの禍々しく官能的な豊穣さは、ちょっと他に思い当たらない類いの感触がする。ただし自分のノドを楽器と見做して日々鍛錬、といったストイックさは微塵も感じられないので行き当たりばったりのだらしない感じが満載だが、例えばちょっと前に大喧嘩してたらしいドレイクの入念に計算された(スタイルとしての)だらしなさとキッド・カディの「だらしなさ」は似て全く非なるものであって、公式音源でさえも音程が妙に外れたままの曲が結構ある辺りからして、この人のだらしなさ加減はミキシングやポスト・プロダクションではどうにもならない天然の――要は獣が唸っているかのようなのだ。
 アルバム冒頭の“Frequency”からして唸っている。暗すぎてカディの姿がよく見えないPV(ほとんど珍獣観察番組である)は自分で監督しているのでその辺りの獣性には自覚があるように思えるが、2曲目の“Swim in the Light”と来ると、聴くほどにこれはひょっとするとフランク・オーシャンの“Swim Good”を遥か遠くに踏まえ、FOが剥き出しにしてみせた傷に5年くらい経って貼られた絆創膏のなのではないかと思えてくる。

 例えばこんな一節があったりする:
 “You could try and numb the pain, but it'll never go away”
 君がその痛みを宥めようとしても、消え去りはしない

 最後の「go away」をまた「ゴウオウオウオウオウオウオウオウウェイ」とぐざぐざに唸るのではありますが、カニエ・ウェストという(現時点ではひとまず「調子の悪い方の人グループ」に入れざるを得ない)人を縦軸に取れば、この2人はある種の好対照でもあり、キッド・カディの新作を聴きながら自分の頭の中で「次」に浮かんでくるのはフランク・オーシャンの『nostalgia, ULTRA.』(2011)だったりする──こんなのはもうFOが5年前にやったことだよ、と批判したいのではない。ある作品からまた別の作品へとバトンが受け渡される為に必要な時間はどれだけ長くてもあり得る、ということである。ラストに置かれたアッパラパーなパーティー・チューンが象徴するように、例えご本人は何も考えてない、としてもである。


Kid Cudi “Surfin' (ft. Pharrell Williams)”

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316