「You me」と一致するもの

Robert Aiki Aubrey Lowe - ele-king

 インテリア・デザイナー/彫刻家であり、音響彫刻作家でもあるハリー・ベルトイア(Harry Bertoia)。彼は1970年代に巨大な金属のオブジェによって生成される「金属の擦れ」の音響/残響による「Sonambient」という音響作品を11作品ほど遺している。近年、そんなベルトイアの音楽/音響の再評価が続く。
 まず昨年、2016年に〈インポータント・レコード(Important Records)〉から10枚組という音響モノリスのようなボックス・セット『Complete Sonambient Collection』がリリースされた。同年、先のボックス・セットを補完するように1971年と1973年に録音された『Clear Sounds/Perfetta』も発売。くわえて2016年には彼の功績をふりかえるエキシヴィジョン「Atmosphere for Enjoyment」もニューヨーク・アートミュージアムで開催されている。さらには2017年にリリースされた坂本龍一のニュー・アルバム『async』においても、ベルトイアの音響彫刻がもちいられるなど多方面から彼の音響空間の現代性が証明されつつある。響きの「現前性」と、マテリアルな「モノ性」と、「非同期の」融解といった点からか。
 デムダイク・ステアが運営するレーベル〈DDS〉からリリースされたロバート・アイキ・オーブリー・ロウ(Robert Aiki Aubrey Lowe)『Levitation Praxis Pt. 4』もまた、そんなハリー・ベルトイアのサウンドを現代に蘇生する試みのひとつだ。『Levitation Praxis Pt. 4』は、さきに書いたエキシヴィジョン「Atmosphere for Enjoyment」にて、ロバート・ロウによるベルトイアの「Sonambient」彫刻を用いておこなわれた「演奏」の記録である。アルバムにはA面とB面で長尺1曲ずつ収録しているのだが、「Sonambient」彫刻とロバート・ロウの特徴的なヴォイス/音響が溶けあい、まさにベルトイアのサウンドを継承するようなサウンドスケープを実現している。マスタリングを手掛けたのは名匠マット・コルトン(Matt Colton)。

 ここでロバート・アイキ・オーブリー・ロウについて述べておきたい。1975年生まれの彼はもともと〈サザン・レコード(Southern Records)〉から2000年代初頭にリリースされていた90デイ・メン(90 Day Men)のベース/ヴォーカルであった。ドゥーム/ストーナー・バンドOMに参加していたことでもしられる(2012年には〈ドラッグ・シティ(Drag City)〉からリリースされたアルバム『Advaitic Songs』に参加し、特徴的なヴォイス/ヴォーカル・スタイルを披露している)。
 電子音響作家としてはライカンズ(Lichens)名義で2005年に〈クランキー(Kranky)〉からアルバム『The Psychic Nature Of Being』を発表。この時点で今に至る電子音とヴォイスによるドローン的サウンドの基本形はすでに完成していた。2007年には同〈クランキー〉からアルバム『Omns』をリリース。00年代後半から10年代初頭にかけては自主レーベルや〈Biesentales Records〉、〈Morc Records〉などからアルバムを発表する。
 一方、ロバート・アイキ・オーブリー・ロウ名義では、2010年に〈スリル・ジョッキー(Thrill Jockey)〉から出たローズ・ラザール(Rose Lazar)との共作『Eclipses』をリリースし、声やドローンの要素を基底にしつつ、リズミックなエクスペリメンタル・テクノを展開。そして2012年には傑作『Timon Irnok Manta』を〈タイプ(Type)〉から発表した。2015年には伝説的なニューエイジ・シンセストとして近年再評価も著しいアリエル・カルマ(Ariel Kalma)との共作『We Know Each Other Somehow』を、〈リヴィング・インターナショナル〉(Rvng Intl.)からリリースし、現行ニューエイジ・リヴァイヴァル・シーンにも接近し話題をよんだ。
 また、2015年にはポスト・クラシカル(現在では映画音楽の大家とでもいうべきか)のヨハン・ヨハンソン(Jóhann Jóhannsson)の『End Of Summer』〈Sonic Pieces〉に Hildur Guðnadóttirと共に参加した。ちなみにヨハンソンが音楽を手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』にロバート・ロウはヴォイスで参加している。映画を観た方なら、だれもがつよい印象をのこしているはずの、あの音響の「声」だ。そのせいか映画体験後に『Levitation Praxis Pt. 4』を聴くとまるで『メッセージ』のサウンドのような錯覚をおぼえてしまうから不思議である(ちなみに『メッセージ』は、現代的SF映画であるのみならず、優れた「音響映画」でもある)。
 以上、ドゥーム、電子音響、ニューエイジ、ポスト・クラシカルなどジャンルを超えていくロバート・アイキ・オーブリー・ロウのアーティストとしての歩みは、ひとことでは掴みきれない独特の遊動性・浮遊性がある。そこに私などは安住を拒否するボヘミアン的な彷徨性を感じてしまう。なにかひとつのイメージを拒否し続けるような歩み、とでもいうべきか。

 そんなロバート・アイキ・オーブリー・ロウが、本年2017年にリリースしたもうひとつのアルバムが『Two Orb Reel』である。このアルバムもまた同時期にリリースされた『Levitation Praxis Pt. 4』とは異なるサウンドを展開する。『Timon Irnok Manta』的なエクスペリメンタル・テクノの雰囲気を一掃されているし、あえていえばアリエル・カルマとの『We Know Each Other Somehow』の系譜にあるニューエイジ/コスミックなシンセ音楽の系譜にあるアルバムといえるが、瞑想性がもたらすトリッピーな感覚は希薄である。どちらかといえば冷めた作風で彼のシンセストの側面を展開する電子音楽の室内楽・小品集(全14曲にして39分)といった趣なのだ。『Levitation Praxis Pt. 4』がすばらしいのは大前提としてもこれはこれで悪くない。
 オリエンタルにして人工的な旋律が魅力的な1曲め“Yawneb Pt.1”からして奇妙な作品世界にひきこまれる。2曲め“The Crystal World”以降は、飛びはねるようなチープなシンセ・サウンドの短い尺のトラックが展開し、6曲め“The Dead Past”のような心ここにあらずの夢の中の夢のようなシンセ・アンビエントへと至る。B面1曲め“Nabta Playa”以降は、テリー・ライリー的なミニマリズムをシンセ音楽に置きかえたようなトラックが続くのだが、同時にYMO結成直前に発表された『コチンの月』(あのジム・オルークも愛聴盤・名盤に掲げている傑作シンセ・アルバム)の頃の細野晴臣を思わせもする。

 『Levitation Praxis Pt. 4』と『Two Orb Reel』。この二作は、ロバート・アイキ・オーブリー・ロウという才能ゆたかな音楽家が抱えこんでいるふたつの側面(サウンド・アーティストとシンセスト)を満喫できるアルバムである。それは「実験」と「ポップ」の両極が進行している電子音楽/エクスペリメンタル・ミュージックの「現在」を体現してもいるといえよう。

CHAI - ele-king

 いま、80年代のカルチャーが注目されている。たとえば『VOGUE JAPAN』は、2017年9月号の表紙で、〝パワー・ドレッシング〟という言葉を掲げた。この言葉が持てはやされたのは、女性の社会進出が進んだ80年代。ビジネスにおいて男性と互角に渡り合うために女性が纏う服を指す言葉に、〝パワー・ドレッシング〟が用いられたのだ。いまは意味が変化しており、自分らしさに依拠したセンスが〝パワー・ドレッシング〟とされている。自分の好きな服だけを身につけ、そのことに喜びを見いだす。いわば〝パワー・ドレッシング〟は、スタイルからアティチュード的な言葉になった。
 『VOGUE JAPAN』は、2017年5月号でも「アメリカ発、80sカルチャー論。」という記事を掲載し、80年代をアピールしている。『Interview Magazine』の元編集長クリストファー・ボレンが80年代論を語ったこの記事によると、エイズから核戦争までさまざまな不安が渦巻いていた80年代と現在は似たような状況だから、多くの人が当時のスタイルに惹かれるのだと述べている。確かに、トランプを筆頭とした排斥的姿勢の台頭、あるいは世界的に問題となっている経済格差などを現在の不安要素と考えれば、ボレンの指摘は妥当だ。
 ボレンは当時のスタイルの例として、ビッグ・シルエットな服や軍隊擬装のように濃いメイクなどを挙げている。これらに従えば、『MEN'S NON-NO』の2017年11月号で見かけた、「デカい!重い!ゴツい!」という言葉も80年代的なセンスと言える。アウター特集で使われていたこの見出しに引かれて記事を読むと、肩幅の広い大きなコートを着たモデルたちがずらりと並んでいた。どうやら、80年代再評価の波は日本にも来ているようだ。

 こうした流れと共振するところがCHAI(チャイ)にはある。2013年に結成されたCHAIは、双子のマナ(ヴォーカル/キーボード)とカナ(ギター)に、ユウキ(ベース)とユナ(ドラム)を加えた女性4人組バンド。4人の関係のルーツは、マナとカナが同じ高校でユナに出逢い、バンドごっこを始めた頃になる。その後大学でマナとユウキが出逢い、それをキッカケにマナとカナはユウキとユナに声をかけ、CHAIを結成したそうだ。
 筆者が初めてCHAIを知ったのは、2016年初頭に“ぎゃらんぶー”のMVを観たときだった。体操着姿の4人が踊るのを観ながら、単なるおもしろバンドかと思っていたが、よくよく聴いてみると演奏力が高いことに気づいた。息の合ったコーラス・ワーク、ねちっこいファンクネスを生みだすタイトなリズム隊、語感の良い言葉が並ぶ歌詞など、サウンド面にたくさんの魅力があったのだ。ジャンルでいえばニュー・ウェイヴだが、ヒップホップやファンクといったブラック・ミュージックの要素も随所で見られる。ヘタウマでごまかすこともなければ、キャラだけで勝負する卑しさもない。もちろん、前向きな空気を前面に出すキャラも魅力ではあるが、仮にそれがなかったとしても、CHAIはサウンドで勝負できるバンドなのだなと強く実感した。

 そんなCHAIが、ようやくファースト・アルバム『PINK』を発表してくれた。本作の曲で特にオススメなのは、去年4月にリリースのセカンドEP「ほめごろシリーズ」にも収められた“sayonara complex”だ。〈飾らない素顔の そういう私を認めてよ〉〈かわいいだけのわたしじゃつまらない〉といった、かわいいだけが女性じゃないと言いたげな一節が多く登場する。しかし肝心なのは、かわいさそのものを否定していないこと。かわいさだけを求める風潮や、女性はかわいらしくしていなきゃダメという固定観念に批判的な視座がうかがえる。
 “sayonara complex”には、〈Thank you my complex〉という秀逸な一節もある。この名フレーズは、コンプレックスを個性として認められるようになったことで、コンプレックスと思っていたものがコンプレックスじゃなくなった瞬間の喜びと、その喜びに浸れる感謝の気持ちを表している。“コンプレックスは個性だよ!”と公言するCHAIらしい言葉選びだ。曲自体は、ニュー・ウェイヴの視点から解釈したメロウなディスコ・サウンドが特徴の心地よいポップ・ソングで、ブロンディーの“Heart Of Glass”を彷彿させる。だが奥深くには、心地よいだけじゃない多くの感情や想いを秘めている。その感情や想いは女性のみならず、偏見やイメージのせいで嫌な思いをしたことがある者なら誰だって心に響くだろう。

 “フライド”もグッとくる曲だ。けたたましいシンセと性急なグルーヴが印象的なこの曲を聴くと、チックス・オン・スピードを中心としたエレクトロクラッシュ、あるいはCSSやクラクソンズといったニュー・レイヴを連想してしまう。10代のほとんどを2000年代で過ごした筆者としては、抵抗できない音が詰まっている。「ほめごろシリーズ」収録の“クールクールビジョン”を聴いたときも思ったが、CHAIには2000年代の音楽から影響を受けた曲が多い。今年の日本では、ロス・キャンペシーノス!やファックト・アップといったバンドの要素を散りばめたcarpool(カープール)『Come & Go』、ザ・ストロークスに通じるソリッドなロック・サウンドを打ちだしたDYGL(ディグロー)『Say Goodbye To Memory Den』など、2000年代の音楽に影響を受けた良作が次々と生まれている。ここに、2000年代のNYロック・シーンについて書かれたリジー・グッドマン『Meet Me In The Bathroom』が話題を集めていることや、グライムの再興という潮流もくわえると、2000年代再評価の流れは世界的なもの? とも感じるが、これらの半歩先の動きと共鳴してるのも本作の面白いところだ。

 本作の初回限定盤についてくるブックレットもぜひ見てほしい。そこにはコンプレックスをポジに転換した写真がたくさん並べられており、その見事さに筆者は心の底から笑うしかなかった。サウンドのみならず、ヴィジュアルにもCHAIは私たちへのメッセージを込めている。
 CHAIには、緑の人が口にしたことで話題の“排除”という考えがまるでない。自分たちのセンスや直観に忠実で、欠点とされるものを魅力として受け入れ、そうした自分たちを寿いている。それこそ現在における〝パワー・ドレッシング〟の意味と同じように。こうした寛容さと多様性に救われる者は決して少なくないだろう。
 だが何よりすごいのは、素晴らしい音楽を生みだすだけでなく、私たちにまとわりつく窮屈な価値観や思考を解きほぐす力も備えていることだ。〈私はあなたの理想の女の子には絶対にならない(I'll never be your dream girl)〉と「Butterfly」で歌ったグライムスのように、CHAIは何物にも縛られない自由な感性を持つ。このような感性からしか、誰かの運命に決定的な影響をあたえる音楽は生まれない。2010年代を代表する傑作、ここに爆誕。


Nightmares On Wax - ele-king

 月が変わり、いよいよ秋も深まってきた今日この頃……そうです、秋と言えばナイトメアズ・オン・ワックスです。はい、いま決めました(だってNOWってば、いつも秋に新作を出しているような印象があるから)。そんなNOWが年明けにニュー・アルバムをリリースします。って、その頃はもう冬じゃありませんか! ……はしゃいじゃってスミマセン。しかし前作から数えること、4年ぶり? 昨秋EP「Ground Floor」のリリースはありましたが、フル・アルバムは久しぶりですね。その新作のアナウンスとともに、新曲“Citizen Kane”が公開されています。

 おお。これはちょっとした新機軸かも? いぶし銀のビートにモーゼズによるヴォーカルとアラン・キングダムによるラップが絡み合って、なんとも当世風の味わいが醸し出されております。翻って9月に公開された“Back To Nature”の方は、じつにNOWらしいぬくもりのあるトラックに仕上がっていましたよね。

 いやあ、たまりません。NOW大好き。アルバムには上述のふたりの他にも、アンドリュー・アショングやジョーダン・ラカイ、セイディ・ウォーカー、おなじみのLSKなどが参加しているとのこと。待望の新作『Shape The Future』の発売日は2018年1月26日。首を長くして待ちましょう。

[11月22日追記]
 リード曲の“Citizen Kane”がなんと、シカゴ・ハウスのレジェンド、ロン・トレントによってリミックスされました。このトラックは12月1日発売の限定12インチに収録されるとのこと。こちらも楽しみです。

Nightmares on Wax
カニエ・ウェストのコラボレーターとしても知られる新鋭ラッパー
アラン・キングダム参加の新曲“Citizen Kane”を公開!
待望の最新アルバム『Shape The Future』のリリースを発表!

ソウル、ヒップホップ、ダブ、そして時代を越えたあらゆるクラブ・ミュージックを取り込んだトリッピーかつチルアウトなエレクトロニック・ミュージックで独自のキャリアと世界観を確立し、そのキャリアを通して多くのアーティストに多大な影響を与えてきたレジェンド、ナイトメアズ・オン・ワックスが、待望の最新アルバム『Shape The Future』のリリースを発表! 合わせて新曲“Citizen Kane feat. Mozez & Allan Kingdom”をミュージック・ヴィデオとともに公開した。

Nightmares on Wax - Citizen Kane ft. Mozez, Allan Kingdom
https://youtu.be/DQJG4hKkX0c

公開された楽曲は、ジャマイカに生まれ、ロンドンを拠点に活躍するSSW、モーゼズのほか、カニエ・ウェストやフルームのコラボレーターとして知られるラッパー、アラン・キングダムをフィーチャーしたラップ・ヴァージョンとなり、国内盤CDとデジタル・フォーマットにボーナストラックとして収録される(アルバム本編にはオリジナル・ヴァージョンを収録)。

コンテンポラリーなサウンドを積極的に取り入れた“Citizen Kane”のほかにも、すでに公開されミュージック・ヴィデオも話題となった“Back To Nature”といったナイトメアズ・オン・ワックスの代名詞とも言えるチルアウトでリラクシンな楽曲ももちろん満載。またセオ・パリッシュとの共作で注目を集め、ロイ・エアーズやビル・ウィザースを引き合いに高い評価を受けるSSW、アンドリュー・アショングや、ディスクロージャーやFKJの楽曲にもフィーチャーされた新世代ネオ・ソウルの注目株ジョーダン・ラカイ、長年のコラボレーター、LSK、女性ヴォーカリスト、セイディ・ウォーカーがヴォーカルで参加している。

Nightmares on Wax - Back To Nature
https://youtu.be/Vc-XzhnwpVc

ナイトメアズ・オン・ワックスの8作目となる最新作『Shape The Future』は、2018年1月26日(金)世界同時リリース! 国内盤CDには初CD化音源“World Inside feat. Andrew Ashong”と“Citizen Kane feat. Mozez & Allan Kingdom”がボーナストラックとして追加収録され、解説書が封入される。

label: Warp Records / Beat Records
artist: Nightmares On Wax
title: Shape The Future

cat no.: BRC-565
release date: 2018/01/26 FRI ON SALE
国内盤CD: ボーナストラック追加収録/解説書封入
定価: ¥2,200+税

【ご予約はこちら】
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商品詳細はこちら:
https://www.beatink.com/Labels/Warp-Records/Nightmares-on-Wax/BRC-565/

パーティで女の子に話しかけるには - ele-king

 1977年のクロイドンを舞台に初期パンクの佇まいや心情を描いた映画だと思って観ていたら、ちょっと違った。クロイドンはロンドンの南に位置し、当時だとXTC、最近ではベンガやスクリームなどダブステップのシーンで知られる住宅街。オープニングからしばらくはアレックス・シャープ演じるエンが生粋のパンク・キッズとしてジュビリー(女王在位25周年)を祝う大人たちにケンカをふっかけたり、友だちとライヴハウスに潜り込んで大騒ぎはするものの、バンドの打ち上げに紛れ込めなかったエンたちがどこからか音がする方向に導かれて奇妙な一軒家に迷い込むと、そこからはSF映画に話がすり替わっていく。その家にいた奇妙な人々は実は宇宙人であり、48時間後には地球から退去しなければならないことが次第にわかってくる。彼らが宇宙人だと判明するまでがまずは楽しい。ブロードウェイで大成功を収めたジョン・キャメロン・ミッチェル監督が舞台演出をコンパクトにまとめた美術や衣装で彼なりのヴィジョンを矢継ぎ早に見せていく。ナゾがナゾを呼ぶというパターン。僕は最初、ロシアのバレエ団かと思った。未来派のようなコスチュームで優雅に踊っているし、群舞だし、全員が同じ衣装というのは当時、共産圏の比喩みたいなものだったし。宇宙人ということになってはいるけれど、そう、彼らはまるでパンクの3~4年後に姿を現すニューロマンティクスのようにも見えなくはなかった。等しくエドワード朝ファッションだったり、英国病にうんざりしていたという共通点があるにも関わらず、パンクとニューロマンティクスは同質の文化とは見なされていない。この距離を縮めてみることもまたSF的発想だったといえる。

 ジョン・キャメロン・ミッチェルは彼の名を一躍有名にした『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(01)でもやはり時間軸を巧みに操作していた。東ドイツでニューヨークのロック文化にアイデンティファイしていたヘドウィグはトランスジェンダー化することで西側への越境を果たす。そして、ベルリンの壁崩壊後に70年代のニューヨーク文化を音楽によって再現しようとするものの、アメリカには往時の熱狂を思い出す者はいなかった。よく言われているように70年代のニューヨークは文化的にひとり勝ちで、それには世界中が嫉妬していた。そのために90年代以降、誰もがニューヨークの凋落を指して、その事実を過剰に言い募った。同地からは!!! “ミー・アンド・ジュリアーニ・ダウン・バイ・ザ・スクール・ヤード”がそのアンサーとなり、『ヘドウィグ』もアメリカはもはや苦労してまで来る意味はなかった場所なのかと、その変貌を際立たせつつ、かつて自分が自由の国から得た熱狂を人々に回復させようとする。90年代の風景に70年代の精神を置くことでアメリカが失ったものを可視化したともいえる。時間的な差は短いとはいえ、パンクとニューロマンティクスにも決定的な違いがあり、前者が女性たちに独自の表現を促したのに対し、ホモ・ソーシャルであることを気取っていた後者は女性の参入そのものをほとんど許さなかった。エンが奇妙な家で出会ったザン(エル・ファニング)に「パンク」という言葉を教えると、ザンがすぐにも自分の衣装をハサミで切り刻み始めたことはなかなか象徴的である。そして、ザンはエンを追って奇妙な家から飛び出し、そこからしばらくは「1977年のクロイドンを舞台に初期パンクの佇まいや心情を描いた映画」になっていく。

 選曲が面白い。ファンジンを編集しているエンたちは音楽にも幅広い興味を示し、パンク一本やりではなく、レコードショップでクラウトロックを漁り、レジデントのDJにはペル・ウブをリクエストする。確かにパンクしか聴かないという哲学が生まれるのはもう少し後のことだろう。パンク・ロックしか鳴らない映画は必ずしもパンク・ロックの時代を描いているとはいえないともいえる。とはいえ、この映画のために作られた新曲も多く、その辺りはぐっちゃぐちゃ。宇宙人のBGMにはニコ・マーリーとマトモスがあたり、この場面は高解像度のカメラで画面の調子も変えてある。またパンクといえばどうしてもスウィンドルのようで、ヴィヴィアン・ウエストウッドからクビを言い渡されたという設定のボディシーア(ニコール・キッドマン)がちょっとした思いつきでザンをステージに上がらせ、それが受けると「私がプロデュースしたのよ!」とマルカム・マクラーレンばりの仕掛け人を気取る。スージー・スーを思わせる彼女のファッションもなかなか見せるものがあり、ほかもデレク・ジャーマンの衣装デザインを手掛けてきたサンディ・パウエルが初期パンクをなるべくリアルに再現したそうで、服もヘアも77年のデザインに限定し、78年以降のアイテムはまったく出てこないという。そのようにしてリアリズムに徹したのは宇宙人パートをファンタジーとしてくっきりと対比させるためで、ニコラス・ウィンディング・レフン『ネオン・デーモン』でもエキセントリックなメイクを盛られまくったばかりのエル・ファニングがなかなかそれらしい宇宙人キャラを演じている(僕はつい『荒川アンダー ザ ブリッジ』の桐谷美玲を思い出してしまった)。宇宙人たちのことを最初は移民の比喩かなとも思ったりもしたけれど、どちらかというとアスペやサヴァン症候群を描きたがる流れと同じ性質を持つものなのだろう。そういう意味ではそれほど徹底した表現にはなっていない。ザンの振る舞いを真似たエンがゲイリー・ニューマンとしてデビューしたという後日談を付け足せばよかったのに(なんて)。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は、ヘドウィグがトランスジェンダーの手術に失敗していたことが後半部分のキーになっていた。それはいわば生殖機能にかかわる問題で、『パーティで女の子に話しかけるには』も後半で明らかになるのは宇宙人たちの世代交代や存続にかかわる問題だった。ザンにはある種の運命が課せられ、エンと過ごした時間がそのことに影響を与える。奇妙な家を抜け出し、エンの隠れ家で朝を迎えたザンは父親のいない家庭でエンの母親と出会う。エンの母親は昔はモデルだったと自慢げに話し、ダイアナ・ドースのポートレイトを指差しながら「彼女の足はアップに耐えられないので私がその代わりを務めていた」と言い放つ。そして、ソウル・ミュージックをかけてザンと楽しく踊り出す。ビートルズ『サージェント・ペパーズ』やザ・スミス『シングルズ』のジャケット写真にも使われているドースは、簡単にいってしまうとマリリン・モンローの代役を務めていたイギリスの女優で、莫大な遺産がいまだに行方不明という謎だらけの存在である。一般的にはドースはポルノ女優に近い存在とみなされているので、その足の代わりを務めていたということは、エンの母親はイギリスに置ける性的な存在としてかなり重要なパートを占めていたという意味になる。そのセリフの後でザンと踊り出すのだから、ザンにはすなわち性的なポテンシャルが手渡されたことになり、ヘドウィグのような性的に中途半端な存在であることをやめ、さらにはエンとの交流を通じてザンは親と子という「世代」の持つ意味を学ぶことになる(これ以上はネタバレ)。ザンは踊り、歌い、そして、宇宙人の存続にとって大きな変化をもたらす契機をつくり出す(ちなみにザ・スミスが『シングルズ』で使用しているドースのポートレイトは彼女が唯一、シリアスな映画に出演して評価を得た作品から選ばれている。マリリン・モンローでいえば『ノックは無用』と重なる)。

 ジョン・キャメロン・ミッチェルの作品にはいつも父がいないか、いても陰が薄い。父が欲しければ自分がなればいい。『パーティで女の子に話しかけるには』は他愛もないボーイ・ミーツ・ガールものだけど、ヘドウィグの手に入らなかったものがすべてここにあるともいえる。ラスト・シーンは予想外だった。

interview with Mount Kimbie - ele-king

 ケンドリック・ラマーは今年リリースした新作で、驚くべきことにU2をフィーチャーしている。さらに彼は来年、ジェイムス・ブレイクとともにヨーロッパを回るのだという。いまでも黒人たちの一部は心の底から白人たちを嫌っているという話も聞くが、どうやらケンドリックはそうではないらしい。彼の選択はたぶん、そういう対立を少しでも突き崩していこうという試みなのだろう。それがどこまで成功するのかはわからない。過度な期待はいつだって裏切られる。そう相場は決まっている。
 そんなケンドリックの果敢な試みに代表されるように、近年ブラックのサイドが積極的にホワイトのサイドへとアプローチしていく動きが目立っている。その起点となったのはおそらく去年のビヨンセのアルバムだろう。彼女はその力強く気高い作品で、ジャック・ホワイトやジェイムス・ブレイクといった白人のアーティストたちを積極的に起用した。その横断的なチャレンジは、エリオット・スミスやギャング・オブ・フォーをサンプリングしたフランク・オーシャンや、デイヴ・ロングストレスとの共作を試みたソランジュへと受け継がれることになる。そして今春、ついにジェイ・Zまでもが自身のアルバムにジェイムス・ブレイクを招待するに至った。そのトラックでブレイクとともにプロダクションを手掛けていたのが、マウント・キンビーの片割れ、ドミニク・メイカーである。つまり、引く手あまたのブレイクだけでなく、その盟友たるマウント・キンビーもまた、そのような越境ムーヴメントの一端をホワイトの側から支える存在になったということだ。
 そんな背景があったので、以下のインタヴューではドミニクにそういう昨今の傾向について尋ねているのだけれど、どうもうまく質問の意図が伝わらなかったようで、「近年はUSのメジャーとUKのアンダーグラウンドが結びついていっているよね」という話になってしまっている。こうして期待は裏切られるのである。


Mount Kimbie
Love What Survives

Warp / ビート

ElectronicKrautrockPost-Punk

Amazon Tower HMViTunes

 それはさておき、最初にマウント・キンビー4年ぶりのアルバムがリリースされると聞いたときは、それはもう胸が躍った。“We Go Home Together”や“Marilyn”といったトラックが公開される度に、勝手にイメージを膨らませては「今回はぐっとR&B~ソウルに寄った作品になるんじゃないか」「いや、彼ららしいダウンテンポなムードをより洗練させたものになるんじゃないか」などと予想を繰り返していた。そうして迎えた夏の終わり、いざ蓋を開けてみると――これがクラウトロックなのである。冒頭の“Four Years And One Day”からしてそうだ。完全にやられた。アルバム全体が、何やらパンキッシュなエナジーに満ち溢れている。いや、たしかにバンド・サウンドそれ自体は前作『Cold Spring Fault Less Youth』でも試みられていたけれど、それがここまで大胆に展開されるとは思いも寄らなかった。こうして期待は裏切られるのである。
 クラウトロックだけではない。マウント・キンビーの新作『Love What Survives』には、さまざまな音楽の断片がかき集められている。本作を聴き込めば聴き込むほど、それらの断片たちが要所要所で効果的な役割を果たしていることに気がつくだろう。そういえば本作をインスパイアした楽曲を集めたという彼らのプレイリストでは、ロックからアフリカ音楽まで多様な楽曲がセレクトされていたし、彼らがやっているNTSのラジオ番組には、ジェイムス・ブレイクやキング・クルールといったお馴染みの面子に加え、ウォーペイントケイトリン・アウレリア・スミスアクトレスからウム・サンガレ(!)まで、じつに興味深いアーティストたちがゲストとして招かれていた。つい先日も、アルバム収録曲の“You Look Certain (I'm Not So Sure)”をケリー・リー・オーウェンスがリミックスしたばかりである(彼女はマウント・キンビーの欧州ツアーのサポート・アクトにも抜擢されている)。そんな彼らのレンジの広さや音楽的探究心の断片を、クラウトロック~ポストパンクというムードのなかにさりげなく、だがこの上なく巧みに落とし込んでみせたのが、この『Love What Survives』というアルバムなのだ。

 10月9日、この取材の後に渋谷WWWXにておこなわれた彼らのライヴは、荒削りな部分が目立つ場面もあったものの、アルバム以上にエネルギッシュな熱を帯びており、まるで新人ロック・バンドのステージを観覧しているような気分になった(ファーストやセカンドの曲が新たに生まれ変わっている様もじつにスリリングだった)。いや、じっさい、4人編成という点において彼らは新人である。つまり……マウント・キンビーは今回のアルバムやパフォーマンスで、いわゆる「初期衝動」のようなものを演出しようとしているのではないか。そう考えると、なぜ彼らがこの新作に『Love What Survives』という意味深長なタイトルを与えたのか、その動機が浮かび上がってくる。「生き残るもの」とは要するに、かれらが最初に音楽を作り始めたときに抱いていた気持ちや勢い、刺戟のことだったのである。
 そんなわけで、「生き残るもの」というのはきっと政治的・社会的に虐げられている人びとを暗示しているのだろう、という小林の浅はかな先入観は見事に覆されることとなった。そして、ファースト・アルバム『Crooks & Lovers』のジャケに映っていたのはおそらくチャヴだろう、という編集部・野田の予想も外れてしまった。こうして期待は裏切られるのである。そんな素敵な裏切り者ふたりの言葉をお届けしよう。

 

よくわかっていないからこそ、そういう音楽のスペースのなかで、自分たちなりの解釈で何かをやってみるのもおもしろいんじゃないかと思ったんだ。 (カイ)

マウント・キンビーの音楽について、日本ではいまでも「ポスト・ダブステップ」という言葉が使われることがあるんですが、UKでもまだそう括られることはありますか?

カイ・カンポス(Kai Campos、以下カイ):いまその括りは死につつあるね(笑)。たしかに、僕らが初めてのアルバムを作った2010年当時、その言葉と一緒にその手の音楽がバーッと出てきて、ほんの短期間のうちにダブステップという音楽の概念がガラッと入れ替わった時期があったと思うんだけど、いまはだいぶ死に絶えてきているね。たぶんこのアルバムが出たあとには完全になくなるんじゃないかな(笑)。

これまでそう括られることにストレスは感じていましたか?

ドミニク・メイカー(Dominic Maker、以下ドム):いや、けっしてその呼び名に納得はしていなかったけど、とくに気にもしていなかったよ。とにかく自分たちの音楽がひとつの箱に収まりきらないようなものであってほしい、ジャンルの境界を跨いでいるようなものであってほしいという意識で音楽を作ってきたし、じっさいいろんなことをやっているから、それが「ポスト・ダブステップ」だろうがなんだろうが、ひとつの言葉で括ってしまうのは僕らの音楽にはふさわしくないんじゃないか、という思いはつねにあったね。

今回のアルバムからはクラウトロック~ジャーマン・ロックの影響を強く感じました。

カイ:たしかにいままでやっていたエレクトロニック系の音楽よりも、ちょっと前の時代のエレクトロニック・ミュージックに遡ったようなところはあるよね。クラウトロックやジャーマン系の音に聴こえるというのは僕らも認めるところだけれども、僕らはけっしてそのジャンルに詳しいというわけではないんだ。(クラウトロックを)ずっと聴いてきてよくわかっているからそれをいまやってみた、ということではないんだよ。逆に、よくわかっていないからこそ、そういう音楽のスペースのなかで、自分たちなりの解釈で何かをやってみるのもおもしろいんじゃないかと思ったんだ。「セミ・エレクトロニック・ミュージック」とでも言うのかな。過去を振り返って、リズムや楽器の編成といったところからアイデアを引っ張ってきて作ったのが今回のアルバムかな。

他方で本作からは80年代のポストパンク~ニューウェイヴの匂いも感じられます。そのあたりの音楽も参照されたのでしょうか?

カイ:その手の音楽はUKではかなり広く愛されていたから、僕らも自ずと踏んできてはいると思う。当時はブリティッシュ・ミュージックのなかでもおもしろい時代だったと思うし。ただ僕らの場合、たとえばスクリッティ・ポリッティとか、ああいったバンドは最近になって聴いているんだよね。あの頃の音楽が持っていた、とくにパンクのアティテュードに見られるようなポジティヴな要素を自分たちのアルバムの制作過程に持ち込んだというか、そういうことは今回あったような気がする。あと他にもこのアルバムには、自分たちの音のパレットが幅広くなればと思って、ソウルやディスコみたいなものも組み込んだつもりなんだ。だからいろんな音が聴こえてくると思う。でもけっして後ろばかり振り返っているわけではなくて、あくまで前に進もうとしている作品だと思っているよ。

昨年リリースされたパウウェルのアルバムはお聴きになりました?

ドム:聴いたと思う。バンドっぽいやつだよね? 僕は好きだったよ。聴いていて楽しかった。

エレクトロニック畑の人がパンキッシュなサウンドをやるという点で、今回のアルバムと繋がりがあるように思ったんですよね。

カイ:そりゃそうだろうね。だってこういう発想は僕らが思いついたものではないし、大きな流れのなかで、いろんな人が同時発生的にやってみたくなった時期なのかもしれないからね。


Photo by Masanori Naruse

じつを言うとキング・クルールとの曲の歌詞はいまだに意味がわかっていないんだ(笑)。まだ解読中だね(笑)。 (カイ)

今回のアルバムに影響を与えた楽曲のプレイリストが公開されていますが、そこではロバート・ワイアットやアーサー・ラッセル、スーサイドやソニック・ユース、ウィリアム・バシンスキからアフリカのバンドまで、かなり多様な楽曲がピックアップされていました。それらはおふたりが今回のアルバムを作っていく過程で発見していったものなのでしょうか?

ドム:あれはじつは、僕らはラジオ番組をやっていたんだけど、それ用のプレイリストという側面が大きいんだ。曲をかけるためにいろんなものをチェックして聴いていくなかで幅が広がっていったんだけど、その作業で見つけた曲もプレイリストに入っている。番組をやっていく過程でかなり大量の音楽を吸収して消化したんだ。それは今回のアルバムにも影響を与えていると思う。あと、番組に来てくれたゲストから教えてもらったものもあるね。僕らがリスペクトしている人が来てくれたんだけど、どんなふうに音楽を作っていくのか聞いていくなかでおもしろいものと出会ったりして、そういうこともすべてあのプレイリストには詰め込まれているんだよね。

カイ:そうやって考えるとおもしろいね。そういう流れがあってあのアルバムに至っている、ということがプレイリストからもわかるよね。

今回のアルバムには4組のゲストが招かれています。キング・クルールは前作にも参加していましたが、4曲目の“Marilyn”にフィーチャーされているミカチューはどのような経緯で参加することになったのでしょう?

カイ:ミカチューは、僕らふたりが音楽を作り始める前からファンだったんだ。知り合ったときに「いつか一緒にやろう」という話をしていたんだけど、それから2年くらい話が続いていて(笑)。今回いよいよ一緒にやる機会に恵まれたわけだけど、作ってみたらあっという間で、すごく相性がいいのかなと思える時間だったよ。だから、僕らにとってはようやく実現できたスペシャルなトラックなんだ。

その“Marilyn”はアルバムの他の曲と趣が異なっていますが、7曲目の“Poison”や、ジェイムス・ブレイクが参加している8曲目の“We Go Home Together”と11曲目の“How We Got By”の2曲も他の曲と雰囲気が異なっているように感じました。本作をこのような構成にしたのはなぜですか?

ドム:今回のアルバムは全体を通してすごくヴァラエティに富んでいると思う。いま挙げてくれた曲に限らず、個性的な曲ばかりが詰まっていると思うんだけど、それだけにアルバム全体の流れというか、全体で聴いたときの消化具合がうまくいくように、ということをすごく考えて曲順を決めたんだ。ミカチューとの曲もジェイムスとの曲もそうだけど、自分の頭のなかで曲順を組んでみたときに、“Marilyn”は突出しているという印象があって。(この曲は)アーサー・ラッセルの影響がすごく大きいと思うんだけど、とくにユニークな曲だからアルバム全体の流れのなかで活かしたいと考えたんだ。

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ジェイ・Zから「ジェイムス(・ブレイク)に歌ってほしい」というオファーがあったんだ。そのときちょうど僕がジェイムスが歌うことを想定して書いていた曲があって、それをやろうかってことになったから、僕も関わることになったんだよ。 (ドム)


Mount Kimbie
Love What Survives

Warp / ビート

ElectronicKrautrockPost-Punk

Amazon Tower HMViTunes

春頃から少しずつアルバムの収録曲が公開されていきましたが、先行公開曲のセレクションに関しては何か意図があったのでしょうか? 公開された曲からぼんやりとアルバムのイメージを膨らませていたのですが、蓋を開けてみると想像していたのとはまったく違い、とてもパンキッシュで驚きました。

カイ:最初に何を公開するかみんなと話し合ったときに意見が一致したのは、ゲスト・ヴォーカルの入っている曲から公開するのが理に適っているんじゃないか、ってことだった。やっぱりヴォーカルが入っているというのはみんなに伝わりやすいだろうし、わかりやすいよね。それを聴いて「アルバムはどんな感じなんだろう」という期待感を煽る狙いで最初の2曲(“We Go Home Together”、“Marilyn”)を選んだんだ。でも、その2曲はみんなが消化するのにちょっと苦労する曲だったかもしれない。それをあらかじめ出しておいて、他の曲より先に聴いてもらうことによって、あとでアルバムを聴いたときに、その曲のあいだにあるどの曲もフィットしたものに聴こえるようになる、という枠組みを提示することができたかもしれないね。

ドム:ジェイムスの曲もミカの曲もそうだけど、僕らはしばらく鳴りを潜めていたから、タイトルのなかにそういう有名な人の名前(ビッグ・ネーム)が入っていることによって注目を集めることができるんじゃないか、という意図もあったね。

いまヴォーカル曲の話が出ましたが、今回のアルバムにはハードな生活を送っている人たちの登場する曲が多いように感じました。リリックに関して何かコンセプトやテーマのようなものはあったのでしょうか?

カイ:歌詞は、僕らと客演してくれたシンガーとで一緒になって作ったんだけど、基本的には彼らが伝えたいストーリーをそのまま語ってもらえればいいと思っていたんだ。だから僕らが影響を与えたというか、注文をつけたことがあるとすれば、「この曲にはこういうふうに(言葉を)乗せてほしい」という、歌い回しやフレージングに関することだね。「ここに乗せるためには音節はこうじゃないほうがいい」とか、そういう注文はしたけれど、歌詞の内容に関しては自由にやってもらったよ。だから、(それぞれの)曲のメッセージには一貫性がないんだ。でも、そういうふうにやってもらったほうが幅の広さという意味でいいレコードになるんじゃないかと思って。ただ、レコーディングの段階では僕らも完全には歌詞を咀嚼しきれていなくて、じつを言うとキング・クルールとの曲の歌詞はいまだに意味がわかっていないんだ(笑)。まだ解読中だね(笑)。でもライヴでやるときは、あくまでも僕らのものとして消化してやっているから、歌詞の内容もレコードよりももっとフォーカスした内容になっているんじゃないかな。

ドミニクさんはいまLAに住んでいるんですよね。

ドム:そうだね。

LAへ移住したのはなぜ?

ドム:ガールフレンドが向こうに住んでいたからだよ。(移住して)もう2年になるね。天気もいいし、楽しんでいるよ。

ということは、今回のアルバムの制作はカイさんとデータをやり取りする形で進めていったのでしょうか?

ドム:いや、行ったり来たりしながら作ったよ。(UKには)しょっちゅう行くから。ノルウェー航空とかの安い航空券を買ってね(笑)。

なるほど。ではおふたりはわりと頻繁に会われているんですね。

ドム:そうだね。メインのスタジオはロンドンにあるんだけど、レコーディングの終盤には感覚やリズムを取り戻したいと思ってライヴを始めたんだ。今度のバンド編成はわりかし新しいものだから、アルバムが出る前からライヴに打ち込みたくて、ロンドンでライヴ活動はしていたよ。そういう意味ではLAに住んでいるからどう、ということもないかな。

ドミニクさんはジェイムス・ブレイクと一緒に、今年出たジェイ・Zの新作『4:44』に参加しています(“MaNyfaCedGod”)。それはどういう経緯で実現したのですか?

ドム:そもそもはジェイ・Zから「ジェイムスに歌ってほしい」というオファーがあったんだ。そのときちょうど僕がジェイムスが歌うことを想定して書いていた曲があって、それをやろうかってことになったから、僕も関わることになったんだよ。結局2曲で参加する形になったけど、作り方が僕らの慣れているやり方とぜんぜん違っていて、でもそれだけ勉強になったね。いい経験だったよ。


Photo by Masanori Naruse

音楽を作るときの刺戟って僕らがファーストを作ったときと何も変わっていないんだよね。そういう気持ちや勢いが「Survive(生き残る)」ってことなんだ。 (カイ)

ジェイムス・ブレイクは昨年ビヨンセのアルバムに参加していました。また、昨年話題になったフランク・オーシャンのアルバムではエリオット・スミスやギャング・オブ・フォーなど、いわゆる白人の音楽がサンプリングされていて、今回のドミニクさんとジェイ・Zとのコラボもそうなのですが、最近ブラック・ミュージックのビッグなミュージシャンたちが積極的にホワイトの文化を取り入れていっている印象があります。10年前や20年前にはあまりなかったことだと思うのですが、そういう昨今の流れについてはどうお考えですか?

ドム:ドレイクもジャマイカのアクセントを真似して歌ってみたり、グライムが好きで聴いていたりするから、そういう流れはたしかにあるよね。

カイ:カイラの“Do You Mind”(2008年)というUKファンキーの曲があって、むかしUKでビミョーに、ちょっとだけヒットした曲なんだけど、ドレイクの“One Dance”(2016年)ではそれをバックトラックに使っているんだ。もとの曲自体はUKでは大して注目されなかったんだけど、それがいまになってUSの超メインストリームの曲のなかで鳴っているというのはすごくおもしろいことだと思ったよ。そういうのって、(もとの曲に)興味を持ったR&B系のプロデューサーなんかが引っ張ってくるんだろうけど、たとえばビヨンセとかもそうで、メインストリームの人なのにオープンにいろんなものに興味を持ってそれらを取り入れたりしていて、彼女がやればそれに続く人が出てくるし、UKのアンダーグラウンドとUSのメインストリームのあいだにあった大きな壁が、ここ5年、10年くらいのあいだに崩れていっているという実感はあるね。

今作のタイトル『Love What Survives』は「生き残るものを愛せ」ということで、とても意味深長なのですが、これにはどのような思いが込められているのでしょう?

カイ:今回に限らず、レコードを作っているときに考えすぎてしまうのはよくないと思っているから、いつも感覚でいいと思うものを作っていくんだけど、いざどういうタイトルにするか考える際には、「何がモティヴェイションとなって自分たちはこれを作ったのか」ということを振り返るんだ。今回ふたりでこのアルバムを作りながら話していたのは、とにかく(これまでと)違うことをやりたいということや、変化が訪れたらそれをどんどん受け入れて前に進んでいこうということだった。そういう音楽を作るときの刺戟って僕らがファーストを作ったときと何も変わっていないんだよね。そういう気持ちや勢いが「Survive(生き残る)」ってことなんだ。新しいことをやったり、刺戟を絶やさないことで生き残っていくというか、自分たちのまわりにあるものを受け入れて、ケアをしながら大事に音楽を作っていくというか。そういう気持ちを可能にするには好奇心が必要だったり、変化に対するオープンな気持ちが必要だったり、あとは違うアプローチを恐れないということが必要だったりして、(『Love What Survives』は)そうやって生き残ってきたものを大事にするというような作り方に対する考えなんだ。でもこれは僕の解釈であって、聴いた人がどう解釈しても構わないんだけどね。

ドム:同感だね。

今回のアルバムはアートワークもユニークですが、被写体の彼は何をしているんでしょう?

ドム:いい質問だね(笑)。

カイ:本当は実際にアートワークを制作してくれたデザイナーのフランク(・レボン)に聞いてもらうのがいいんだけどね(笑)。フランクは今回のヴィデオもほぼすべて手がけることになっているんだ。このジャケットは彼が撮影してくれたものをもとにデザインしたものなんだけど、僕らと彼とではアルバムに対する見方がちょっと違っていて、だからこそおもしろいんだと思う。レコードにあのジャケットが付いたことによって、作品として僕らふたりのアイデア以上の存在になったんじゃないかなと思っている。けっこうインパクトは大きいよね(笑)。見た目もそうだし、フィーリング的にも。僕らだけの作品じゃなくなった気がして好きなんだ。まあ詳しいことはフランクに聞いて(笑)。彼はキャラクターになって何かをやるのが好きなんだ。

このジャケットを見て、ファースト・アルバムのジャケットを思い出したんですが――

カイ:フランクはファーストのアートワークを手がけたタイロン(・レボン)の弟なんだ。

へえ!

カイ:ファーストから今回のアルバムまでのあいだに僕らのなかですごくいろんなことが変わったんだけど、そこ(アートワーク)で繋がっているというのはおもしろいよね。

ファースト・アルバム『Crooks & Lovers』の被写体の女性は、いわゆるチャヴなのでしょうか?

ドム:あの女の子? ぜんぜんわからないな(笑)。

カイ:デザイナーに聞かないとわからないし、たぶんデザイナー本人もわかってないよ(笑)。

いまはこうして来日されて、ツアーの真っ最中だと思いますが、それが一段落ついたら何かやってみたいことはありますか?

カイ:ここ4年はけっこうおとなしくしていたから(笑)、いまは動きたくて、このツアーができるのが嬉しいよ。もうオフはいいや(笑)。

ドム:僕はこのあとホリデイで、フィリピンに行くんだ。日本ではカイとツアー・メンバーみんなで一緒に京都に行く予定だよ。そうやってちょっと休んで、また動き出したいね。


Ninos Du Brasil - ele-king

 イタリア人DUOユニットNinos Du Brasilの3枚目のアルバム。1曲目の“O Vento Chama Seu Nome”で驚いたのは、ヴァーカル・スタイルが大阪のSUSPIRIAやbonanzasの吉田ヤスシ氏に似ていることで、以前SENYAWAが出てきた時もそっくりだと皆が声を揃えていたことを思い出します。この抑えたヴォーカル・スタイルがダークな雰囲気を醸し出すのに一役買っています。シームレスに2曲目へと移行し、BPMはそのままで同じフレーズまで使われているので中盤のブレークまで気付かないこともしばしば。なのでそのままDJで2曲続けてかけても誰も気付かないでしょう。

 A4“Algo Ou Alguém Entre As Àrvores”は先行12”「Para Araras」にも収録されている楽曲ですが、グッとBPM(100)を抑え、持続する詠唱、演説めいた声、原始的な吠えるような声などが挿入されながら、儀式的旋律が高まるに連れてピークを迎えるこの楽曲は、個人的にお気に入りです。B2“A Magia Do Rei II”が「II」と題されているのは、先ほどと同じ先行12”のA面に「I」が収録されていて、そちらにはヴォーカルが入っていません。細かく動き回るベースラインなどの骨格は同じで、そこにヴォーカルやパーカッションで肉付けしたものが「II」となっています。なので「I」はDUB versionという感じで、尺も1分ほど長いです。どことなくオリエンタルなムード漂う旋律がテーマとなっているB3“Em Que O Rio Do Mar Se Torna”はBPM110でどっしりと重いイーヴンキックが刻まれ、その上をポコポコとパーカッションが鳴り、テーマ旋律が現れては消えていきます。

 Ninos Du Brasilのアルバムでfeat. Arto Lindsayという記述を見れば、誰もがあの痙攣ギターの音色とNinos Du Brasilのアグレッシヴな楽曲の融合を期待すると思いますが、最後の曲という点で、そうではないだろうという予想もしていました。アートはアルバム中で最も落ち着いた、若干アブストラクトなサウンドの上でパーカッションが響く楽曲に、官能的な歌声を添えています。彼らのコラボレーションがどのようにして実現したのか、その経緯がひょっとすると載っているかもしれないと、13年ぶりにソロ・アルバムを発表したアートを丸々特集した本『アート・リンゼイ 実験と官能の使徒』を読んでみましたが、見当たりませんでした。しかしこの本の充実ぶりは素晴らしいと思います。カエターノ・ヴェローゾとアートがゴダールやジェイムス・ブレイク、ディアンジェロについて語っている部分などはとても刺激的で、アートファンのみならず、音楽ファン必読の内容となっています。

 2014年に初めて〈Hospital Productions〉から発表した2ndアルバム『Novos Mistérios』では、そのユニット名にふさわしくブラジルのカーニバルの影響色濃いパーカッシヴな疾走感のあるサウンドで、このレーベルにしては陽気なサウンドと言えるものでした。その後〈DFA〉から12”「Aromobates NDB」を、そして再び〈Hospital Productions〉から12”「Para Araras」をリリース。作品を追うごとに少しずつダークなサウンドへと、あたかもレーベルカラーに染まっていくかのように、傾倒していっているように感じます。依然としてパーカッシヴではあるものの、カーニバル感は後退し、何かの儀式めいた音楽のような感じが強まっています。そのように感じる要因は何なのかと考えました。

 まずひとつにはクイーカの音の使用の有無が考えられます。この楽器の音が入ると一気にカーニバル感が出ますが、クイーカと言われてもどんな楽器なのか、どの音がクイーカの音なのか、わからない方もいらっしゃると思いますので、参照リンクを貼り付けておきます。音だけ聴いてもどんな楽器なのか想像しづらいと思います。2ndアルバムでは“Miragem”と“Essenghelo Tropical”の2曲でクイーカの音が使われていますが、それ以降クイーカの音は一切使われていません。

https://www.youtube.com/watch?v=t9xlRJbIfmk

 もうひとつは音のバランスが変わっていて、前作ではパーカッションが主体のMIXでしたが、今回はベースドラムの音がより重く、より太くなり、大きな音でMIXされていて、それに加えて前作よりも不穏な和声がそこかしこに登場し、ベースドラムにまとわりつくかのように持続することがダークな儀式感を強めている要因と考えられます。パーカッションからベースドラムへと音の比重が移ることによって、全体的に重心がグッと下がっています。前作は比較的乾いた、カラッとしたサウンドの印象でしたが、今作ではやや水分を含んで重たくなったかのような、ジメッとした熱帯雨林、60%はブラジルの領土にあるというアマゾンを想起させるサウンドになっているのも、その比重の変化と怪しげな持続音の多少によるものでしょう。

 事実“Condenado Por Un Idioma Desconhecido”のPVは、どことも知れぬジャングルの奥地にふたつの棺桶が転がっていて、その中でふたりが歌い、最後には棺桶から出てくるという趣で撮られていて、それはアルバム・タイトルの『Vida Eterna(永遠の命)』を表現しているものと思われますが、ジャケットの絵はおそらくコウモリ。とするならば、彼らはヴァンパイアなのかもしれません。ヴァンパイアといえば、『パターソン』も素晴らしかったジム・ジャームッシュの回転するレコードのクローズアップで始まる『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を思い出しますが、音楽映画としても興味深い作品ですので、オススメです。

 このアルバムのタイトルの意味を調べていて、イタリア語とポルトガル語が同じ綴りで同じ意味である場合があるということを知り、イタリアとブラジルという遠く離れた国同士の共通点が垣間見えました。最後の曲にカエターノ・ヴェローゾをプロデュースしたこともあるアートをゲストに迎えたのも、彼らなりのブラジルという国で生まれた音楽への敬意の表れなのかも知れません。

 短い言葉でこのアルバムを表するなら、トライバル・ダーク・ウェイヴでしょう。次作ではベースラインがうねり始める事を期待します。

Kaitlyn Aurelia Smith - ele-king

 これは電子音楽で鳴らされる21世紀のフォークロア・ミュージックではないか。このアルバムには、シンセサイザーによる幻想的なトラディショナルなムードが横溢している。見知らぬ地のコドモたちの祝祭の音楽のようでもあるし、16世紀の画家、ヒエロニムス・ボスの絵画のようでもある。

 米国はワシントンの北西部にあるオーカス島出身の電子音楽家ケイトリン・オーレリア・スミスの最新作『ザ・キッド』は、これまでどおり「ブックラ100」(Buchla)などのヴィンデージ・シンセサイザーを駆使したサウンドでありながら、その音楽性はさらに色彩豊かに変貌をとげている。
 2016年にリリースされた前作『イヤーズ』(『EARS』)もエクスペリメンタル・ミュージック/電子音楽の領域で高い評価を獲得したが、本作はそれをもこえる完成度といえよう。マーク・プリチャード(Mark Pritchard)のリミックスやアニマル・コレクティヴ(Animal Collective)との競演でも知られているケイトリンだが、本作においてはより広範囲なリスナーを獲得することになるのではないか。ようするに傑作なのだ。

 アナログな電子楽器によるサウンドスケープはこれまでどおりだが、「声」を多用したポップ・ミュージック的なコンポジションも、さらにさえわたっている。ニューエイジ・リヴァイヴァルと交錯しつつも、独自のファンタジック/オーガニックな電子音楽を展開するのだ。シンセサイザーの魅力が横溢した電子音楽もあれば、アンビエントなサウンドもある。ヴォイスとリズムが絡み合うトラックもある。カラフルでドリーミーな絵画を観ているような電子音楽集なのである。民族音楽的なトライバルなリズムとシンセサイザー・サウンドを融合させ、「OPN以降の現代の音楽」を成立させている点は、ローレル・ヘイロー(Laurel Halo)の新作『ダスト』(『Dust』)にもつうじる。

 オープニングの“アイ・アム・ア・ソート(I Am A Thought)”のスペイシーな電子音楽を経由し、エスニックな旋律のヴォーカル・トラック“アン・インテンション(An Intention)”が始まったとき、これまでの彼女のアルバムとはどこか一線を画すポップネスを感じたものだ。
 さらに3曲め“ア・キッド(A Kid)”のトライバルなリズムは、たんなるポップ・ミュージックには収まらない自由な感性の発露にも思われた。つづく鳥の鳴き声のようなイントロからトラディショナルなヴォーカル・メロディへと移行する“イン・ザ・ワールド(In The World)”をへて、アルバムは中盤から後半にかけて、その世界感は、次第にディープになってくる。別世界へのサイケデリック・トラベルのように。
 ラスト2曲“アイ・ウィル・メイク・ルーム・フォー・ユー(I Will Make Room For You)”と“トゥー・フィール・ユア・ベスト(To Feel Your Best)”において、「声」と「アンビエンス」の交錯は、さらに深遠な領域にいたる。声が電子音の波をよびよせ、電子音が声と身体と世界の深いところで響きあう、とでもいうべきか。感覚的で、オーガニックな電子音の横溢である。しかも、音楽自体にむずしさはない。ジョイフルであり、創意工夫にとんでおり、聴きやすくポップである。

 まさに「ポップさ」と「オーガニックさ」にふりきった本作だが、この変貌には、ケイトリンが2016年にリリースした1970年代から活動する電子音楽家スザンヌ・チアーニ(Suzanne Ciani)とのコラボレーション・アルバム『サナジー』の影響もあるのではないか。

 むろん『ザ・キッド』と、ロングトラックなニューエイジ・電子音アンビエント『サナジー』では音楽性は異なる。しかし、『サナジー』で展開した世界の神羅万象をナチュラルかつオーガニックに受け入れていく姿勢は、『ザ・キッド』(『The Kid』)のオープンな音楽の精神(形式ではない)へと大きなフィードバックを与えているような気がしてならない。この『ザ・キッド』でケイトリンの素晴らしい電子音楽に初めて触れた方は、ぜひともソロ『ユークリッド』(『Euclid』)(2015)、『イヤーズ』だけでなく、『サナジー』も聴いていただきたい。現代的ナチュラル/オーガニックな電子音楽(それはフェイクであってもいい。そもそもわれわれ現代人自体はすでにフェイクなのだから……)が、世代を超えて継承されていくさまが、より深く伝わってくるはずである。

 今、という時代においては、電子音楽もまた「継承」され、「受け継がれていく」フォークロア・ミュージックとしての歴史を積み重ねつつある。本作『ザ・キッド』も、その「継承」の成果ではないか。ジョイフルで、エクスペリメンタルで、伝統的で、ストレンジ。そのうえ不思議とナチュアルで、奇妙にオーガニック。そう、心と体に「効く」電子音楽なのだ。

僕たちのLOVEい曲10選〜AUTUM編~

gifted/ギフテッド - ele-king

 泣いた。普通に泣いた。権力者たちにとって、古くは「気をつけた方がいい」とされてきた「頭がいい貧乏人の子ども」は、いまでは「国家のために役立つもの」とされ、存在意義があることにシフト・チェンジしている。ネオ・リベラルは子どもの脳もある種のレアメタルと見なし、早いうちに摘み取っておくものから早いうちに大事にするものに昇格し、どこの国でも天才児狩りのような様相を呈している。それこそ頭が良いか悪いかだけでなく、特殊能力を持つ子ども全般に話を広げると、雑誌などの天才児特集はまるでサーカスかイリュージョンを見ているような気分になるし、低年齢化が進むフィギュア・スケートの選手なんて、メンタルとフィジカルがあまりに釣り合っていなくて、いつのまに日本は旧ソ連みたいなマン-マシーンを生み出す国になっていたのだろうと歴史観すらおかしくなってくる。人類というのは、全体としては一体何がやりたいのかというか。

 特別な才能があるのなら、それを伸ばせるに越したことはない。本人だってどこかに埋もれているよりは幸せだろう。だけど、才能が頭角を表すまで待っていられないという焦燥感だったり、幼少期にまで管理の網の目が張り巡らされている感覚は微妙に受けつけがたい。資源にも製造業にも頼れなければ「頭脳国家シンガポール」という国家のあり方しかないのかもしれない。勉強のできる子どもが金にしか見えなくなっている親もそこら中にいるだろう。地下鉄サリン事件が起きた際、TVの報道番組で自分の教え子がオウム真理教に入信していたことを受けて、日本の物理学がこの先、どうなるかを心配していた人がいた。そう、教え子本人の精神状態とか健康のことはまったく心配しないのかなと、僕はその研究者の冷たさに恐れ入るしかなかった。

 7歳で天才的な数学の才能を見せた女の子の話。タイトルの「ギフテッド」というのは天から「贈られた」才能を示す修飾表現が暗喩に転じたクリシェのようで、マッケナ・グレイス演じるメアリーが「ギフテッド」そのものにあたる。メアリーは叔父のフランクとふたり暮らし。これまで『キャプテン・アメリカ』や『アヴェンジャー』といったアクション・シリーズが専門だったクリス・エヴァンスがフランクを演じ、感情のパレットを端から端まで使い切るような新境地を見せている。ここにひとつ意外性が仕掛けられ、フランクがメアリーの「数学」に対して、情緒とか感情のような位置に配置されるのかと思ったら、フランクがメアリーを叱る時は必ず論理的にメアリーを説得し、「ダメといったらダメ」とか「大人の言うことを聞け」といったような過剰に権威的だったり、理屈になっていない叱り方は一回もしなかったことが重要である。メアリーには数学の素質があるという前提で話は進められていくものの、メアリーの数学脳を日常的に鍛えているのは、実はフランクなのである。フランクを含め周囲の誰もがそのことには気づいていない。しかも、このふたりのやりとりが実に面白い。フランクが繰り返すのは何度も話し合ったじゃないかというセリフで、そのすべてを聞きたかったと思うほど、ふたりによる言葉のパスは絶妙だった。冒頭から「スペシャルな朝食だといったのに」とメアリーが怒ればフランクは「スペシャル・ケロッグ」という商品の文字を見せる。メアリーは最初のうちこそフランクに言い返すことができないものの、それが少しずつ対等に近づいていく。

 一方でメアリーの数学脳をもっと伸ばそうとするメアリーの祖母とフランクは裁判所で養育権を争うことになる。ここにもうひとつの論理合戦が始まる。このプロセスも数式の証明のような展開を辿り、途中でメアリーに大きな打撃を与える事実が浮かび上がってしまう。フランクはこの時、非言語的なコミュニケイションでしかメアリーに自分の伝えたいことを伝えられなくなる。言語を超える瞬間。この飛躍がこの作品は感動的だった。メアリーの存在を論理的に肯定するだけではこの映画はそこまでの作品だったかもしれないけれど、メアリーとフランクの間に非言語的なコミュニケイションが成り立った時、むしろ作品のメッセージは完成するのである。言葉、言葉、言葉ででき上がっていると思った作品が自らそれをひっくり返してしまう。しかも、その後でフランクはメアリーを言葉で裏切るのである。

 実際にこの作品を観た方は、ここに書いたことはストーリーの要約になっていないじゃないかと思うことでしょう。確かに物語はもっと別な経緯を辿り、メアリーの担任やフランクの隣人など登場人物はぜんぜん多い。特にフランクの姉は自分でも省略してしまうのはどうかと思うほど重要な役割を負っている。しかし、それらの要素はこの映画をメロドラマ化するための囮のような意味合いが強く、あえて解題の対象としなかった。メロドラマはメロドラマとして楽しめばいいし、僕もそこは普通に泣いた。この映画はそれだけスタンダード作としてよくできている。マーク・ウェブが『(500)日のサマー』の監督だということは忘れて観た方がいいぐらい。あのような奇矯な演出はここでは一切顔を出さない。

 フランクは一貫してメアリーに天才教育を施さない。それは冒頭で書いたように反ネオ・リベ的だし、この映画に出てくるどの登場人物とも同じく非常識と受け取られる。それこそ政治的行為に近いのかもしれない。子どもの脳は子ども自身に属し、アンバランスな成長がもたらす悲劇からは遠ざけなければいけない。そう、フランクがやっていることはいわゆる「男の子育て」ではない。裁判では「ゴキブリ」のことばかり言及されるけれど、この作品で男性の家事能力がまったく問題にされていないのも、その辺りは雑音にしかならないとあらかじめ判断されていたからだろう。もっといえばメアリーが家事を手伝う場面もないし、形而下はスパッと切り捨てられている。メアリーが遊んでいるおもちゃも幾何学を思わせる「レゴ」だったり。

 言葉で裏切られたメアリーは、フランクとの関係が言葉によって修復されるというストーリーにはならない。ここで非言語的な結びつきが活きてくる。言葉にはまず言葉にしなければならない感覚が先行し、それが言葉になっていくプロセスを言葉と称するのではないかと問うようなシーンがそれに応えている。「生きていくなら、言葉にするのを諦めてはいけない」とは蒼井優の言葉だけれど、同じように「非言語から言語へ」と向かうヴェクトルこそ生きていることだと、この作品も訴えかけている。メアリーは最後にデカルトの有名な言葉をもじってみせる。たったひと言足すだけでデカルトの近代的自我が他者性の議論へと変換されてしまう。そして、公園に駆け出していったメアリーはひとりではできない遊びを友だち相手に始める。こうして天才児はただの凡人になれたのである。なんというエンディングだろうか。

 メアリーを「数学」の天才という設定にしたのは、フランクとの論理的な会話を日常に溶け込ませるための方便だったのかもしれない。しかし、「数学」がモチーフになっている映画には、なぜかこのところ面白い作品が多い。先月、取り上げた『ドリーム』もそうだったし、アラン・チューリングの生涯を描いた『イミテーション・ゲーム』(14)はゲイ、ホーキング博士の伝記映画『博士と彼女のセオリー』(14)は身体障害者、同じくシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの伝記映画『奇蹟がくれた数式』(16)も人種問題をそれぞれ数学と絡ませ、なぜかイギリス映画が多いなか、圧倒的に意表を突かれたのは『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』だった。『女神の見えざる手』のジョン・マッデンが12年前に撮った作品(この頃も数学モノは多かったかもしれない)である。そこでは『ギフテッド』と似た設定ながら、まったく違う結論が導かれていた。

知覚管理 Feat. DJ Python - ele-king

 ブルックリンのダンス・ミュージック・シーンの“いま”をつくる、DJ Pythonが初来日!
 『Deep Reggaeton』というスタイルを確立させ、あのAnthony Naplesが手がけるニュー・レーベル〈Incienso〉の第1弾として、自身初にして最高傑作のアルバムをリリース。もっとも旬なタイミングでの来日公演が決定!

 DJ Wey、Deejay Xanax、Luisなど、数々の活動名義を持つ彼は、同じくNY拠点のアーティスト、Ital主宰の〈Lovers Rock〉をはじめ、〈Bank Records〉、〈Exotic Dance Records〉〈1080p〉などの次世代重要レーベルから音源をリリース。NYのダンス・ミュージック・シーンにおいて、唯一無二の存在である。独自のベースライン、ドラム・マシン使いから織り成すブレイクビーツやレゲトンのリズムに、哀愁漂うアンビエンスなシンセサイザーの音色を重ねたオリジナルの楽曲。その新鮮で、絶妙なバランスの音楽に魅了される。

 そして、〈BIG LOVE〉 / 〈FISH〉からMichihiko Ishidomaru、電子音楽コレクティブ『IN HA』からMari Sakuraiが共演する第二次知覚管理、下北沢Moreで開催!

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