ブタのパレードの向こうから
──批評はアリエル・ピンクをつかまえるか松村正人
ケヴィン・エアーズが死んだのは一昨年の早春だから野田さんに追悼文書きますよ、とやすうけあいしたままそろそろ2年が過ぎようとしている。さいきんとみに時間の流れがはやい。このままではケヴィン・エアーズの追悼文を書く前に私が追悼文を書かれるだろう、書いてくれるひとがいればだが。私はもうしわけない、エアーズさん、と敬称をつけると妙な気がするが呼び捨てにしない間は死んだ人間はいくらかまだこちら側にいる。高倉健さんとか菅原文太さんとか。そういえば保坂さんと湯浅さんの『音楽談義』の、クリームをクサしたくだりを校正していたときにジャック・ブルースさんは死に、本が出てしばらくして同じく文中であつかったジョニー大倉さんが亡くなられた。そろそろ大瀧詠一さんの一周忌になる、などと連想が止まらなくなったのはアリエル・ピンクのソロ名義でははじめてのアルバム『ポン・ポン(pom pom)』冒頭の“プラスティック・レインコーツ・イン・ザ・ピッグ・パレード(Plastic Raincoats In The Pig Parade)”がケヴィン・エアーズ――ここからは敬称略となります――のファースト『ジョイ・オブ・ア・トイ(Joy Of A Toy)』の1曲めにあまりにもそっくりモグラだったからであるが、だからといって鬼のクビをとったつもりではそれこそアリエル・ピンクの思うツボである。ケヴィン・エアーズさん、もうしわけないとは彼は思っていない。というかこの曲はキム・フォーリーとの共作なのでこの調子っぱずれのブタのパレードの向こうでほくそえんでいるのはキム・フォーリーなのかもしれない。
以前灰野敬二さんとジムさんの対談で、灰野さんがフランスでトニー・コンラッドとキム・フォーリーと対バンしたとき、タイムテーブルがオシてんな、と思い覗いたらキム・フォーリーが“ルイ・ルイ”をやってたんだよ、と灰野さんは目を丸くされた。もちろんサングラス越しなので灰野さんがじっさい目を丸くされていたかわからない。しかし声の表情はそういっている。そういわれればそうだ、トニー・コンラッドも灰野敬二もともに先鋭的な音楽性を特徴とする、そこに“ルイ・ルイ”はそぐわない。それこそがキム・フォーリーの狙いだったのかたんにガレージ好きだからかサービスなのか、判然としないのがしかしキム・フォーリーのそのひとであり、それをそのままアリエル・ピンクになぞらえられなくもない。極彩色の夢をベッドサイド経由で世界に播種するサイケデリアにして、サン・ローランが、ということはつまりエディ・スリマンがポップアイコンと認めたミュージシャンである、ということはつまりカート・コベインの系譜に感覚的(赤字に傍点)に連なるポップ・アイコンたるポテンシャルを秘めたアリエル・ピンクのホーンテッド・グラフィティとの『ビフォア・トゥデイ(Before Today)』にせよ『マチュア・シームス(Mature Themes)』にせよ、そこには無数の夢ともに音楽の夢である過去が詰まっていた、というべきかポップス史を再構成したといえばいいいか、それとも時々刻々積み重なる現在時のもぬけの殻の過去を、記憶を夢の力学でつむいだといえばいいのか、2010年代の稀代の名曲とされる“ラウンド・アンド・ラウンド(Round And Round)”の歌い出しに「マイ・シェリー・アモール」を想起する私の90年代仕様の思考には少々手にあまるにしても、アリエル・ピンクは断片が意味を帯びる前に身をよじりその意味から意味へと身をかわす。全部がそのようにできているといっても過言ではない。
『ポン・ポン』ではそれがさらに夢のような反響をもちせわしない。さらにロウファイであることは時代の磁場をあらわし、スタジアム・ロックを思わせる大上段にふりかぶった楽想をふりおろす間もなく曲調はスタジアムを離れベッドルームへもぐりこむ。ロックとポップとメジャーとアンダーグラウンドに向けた八方美人な批評性を方法とするならジェームス・フェラーロのそれと近似していくにしても、ディレッタンティズムともスノビズムともとられかねない方法からもやはりアリエル・ピンクは遠い。遠いのはソングライティングがなににもまして先立つからであり、それはビートルズやビーチボーイズのように神がかり的な名曲を生みだし得ず、意匠さえ尽きかけた時代のパンク足らんとしたニルヴァーナがポップだったようにポップであり、1990年代と2000年代と時代を経て、ブルックリンで着ぶくれした異形の衣装のまま西海岸の陽光に晒されている。かつてのソングライティングの才と呼ばれたものは20年後まったくちがうものになっているだろう。機能と調性から解放されノイズとノートの境界があやふやになった楽曲は誰も口ずさめない名曲として何億万ダウンロードもされるだろう。そのとき『ポン・ポン』がその古典とみなされるかどうか。
松村正人
[[SplitPage]]分解してもたどりつかない魅力 吉田ヨウヘイ
編集部の方から、「ロックの歴史性やシーンの現在に照らしたジャーナリスティックなレヴューではなく、アーティストさんの目線で」というかたちで原稿をご依頼いただいたので、いろいろ考えて「自分だったらどんな音楽に影響を受けたらこんな作品を作れる可能性があるか」ということを書きたいと思いました。
表面的な作品の質感はちがうのですが、製作の流れや製作に向き合う姿勢はアニマル・コレクティヴの諸作に近いように思います。いちばんは、簡単なコードとわかりやすいリズムの単位で構成される、短いセクションの組み合わせで曲ができていること。あとは、ドラム、ベース、と順番に下から組み上げたのではなく、楽曲を彩るポスト・プロダクションの一部のようにそれらが存在していること。バンドでの演奏を前提とした、一貫した演奏感が一曲の中に流れていないことも共通しています。
こういう形で曲を作ると、短い構成単位の中にどのような素材を取り込むか、がもっとも大きなポイントになると思います。アニコレやヴァンパイア・ウィークエンドなどはアフリカ的なリズムを取り込んだり、ダーティ・プロジェクターズであればアリ・ファルカ・トゥーレのようなギターを入れる、といったことをしていると思います。
本作のアリエル・ピンクの場合、80年代的なもの、たとえばドラムの音色、演奏感、シンセの音色、エコー/リヴァーブ感などを取り入れているのが顕著です。2曲めや4曲めがわかりやすいかなと思います。こういう音は一般的に「時代遅れでダサい」と言われがちで、作品の質感を安っぽくしやすいので、扱うのが難しいです。でもアリエル・ピンクの場合、その安っぽさを前面に出して、露悪的な感じのサウンドを作ることを自身の特徴にしているように思います。
60年代〜70年代初頭のロック、サイケデリックロックのようなサウンドも(ほかの作品でも顕著ですが)多いです。ドアーズのようなキーボードの音色があったり、1曲めの1分くらいからはじまるセクションはラヴィン・スプーンフルの“ドゥ・ユー・ビリーヴ・イン・マジック(Do You Believe In Magic)”のサビ前のパートのようだったり。8曲めはタイトルからしてビーチボーイズ風のサーフィン/ホットロッド路線。
60〜70年代前半のサウンドと、80年代サウンドは曲によってパッキリ別れているというわけではなく(別れている曲もありますが)、同じ楽曲の上でレイヤーされています。
ここまではアリエル・ピンクが「素材として取り入れているもの」を考えてみたのですが、そもそものミュージシャンとして資質、たとえば短い時間でなんとなく弾き語りやジャム・セッションをすると作りがちなメロディやサウンド、という視点で考えると、(僕の知ってる範囲では)ピーター・アイヴァースに近いのかなと感じます。僕にかぎらず、ピーター・アイヴァースをお好きな方であればそう感じる方が多いんじゃないでしょうか(そもそもは坂本慎太郎さんと何か近いな~と感じていて、その後「ああピーター・アイヴァースか」、と思うようになりました)。
マスタリングやポスト・プロダクションで生み出している質感は、才気あふれる近年のUSインディ・バンドと共通するものだと感じます。なので、取り入れている素材は古いものが多い一方で、きわめて現代的な感性を持ったミュージシャンだと思います。
以上をまとめると、ピーター・アイヴァースのような才能が、アニコレのような折衷感覚で、60〜70年代前半、80年代などのサウンドを折り込むとこういう感じ、という作品になります。……と、頑張って書いてみたものの、これを踏まえればアリエル・ピンクみたいな作品ができる、とはぜんぜん思えないです。すいません。
この作品(に限らず多くの優れた作品に共通するものかもしれません)の素晴らしさは、目のつけどころのよさや、素材選びの新鮮さ、組み合わせの妙、といったところにはありません。たとえば、「60年代と80年代のサウンドの質感をレイヤーする」といったこと(意識的に取り組んではいないと思いますが)は、逆にけっこう平凡なんじゃないかとも思います。
なのでこの作品の素晴らしさは手法やコンセプトといったものではなくて、アリエル・ピンクの、素材や表現に対する深い愛着、音楽への妥協のない姿勢、製作中に注いだ集中力、完成までにかけた長い時間などが、結果的に人の心を打つ表現に昇華されている、ということだと思います。各要素を分解して成り立ちを掴んだとしても、アリエル・ピンクと同じような気持ちで作らないと、このような名盤にはならないはずです。音楽性はちがっても、自分のバンドのアルバム制作はそのような姿勢で取り組みたいと刺激を受けます。
個人的には2曲めがいちばん好きで、1分8秒からはじまるパートのストレートなわかりやすさにぐっときました。それ以外のパートが禁欲的な美学で貫かれているからこその良さだと思います。
吉田ヨウヘイ