「You me」と一致するもの

Interview with Ryu Okubo - ele-king

 ただいま絶賛個展開催中の新進気鋭のイラストレーター、オオクボリュウ(通称ドラゴン)をつかまえて話を訊いた。
 90年代のある時期までは、新しいモノは新しいモノだった。しかし、新しいモノが必ずしも新しくはない。少なくとも90年代のある時期までは新しいモノが昔のモノよりも面白かった。しかし、新しいモノが必ずしも面白くはない。そんな現代の申し子であるこの若者は、構えることなく、いつも会うときと同じように話してくれた。

本当にそうですよ。絵に関してもそうですもん。これ以上の進化はしなくてもいいというか。でも古いものが好きなんじゃなくて、時間が経っても残る普遍的なものが好きなんです

ドラゴンくんと初めて会った頃に、ルーツを教えてくれたよね。水木しげるからすごく影響を受けたって。

ドラゴン(以下、D):この間、三田さんと水木さんのお葬式に行ったんですよ。

ヒップホップと水木しげるっていうのが、ドラゴンのユニークなところじゃない?

D:『ele-king』の文章、素晴らしかったですよね。ああいうキャッチコピーにこれからしようかな(笑)。

そもそもドラゴンが絵を描きはじめたきっかっけって、漫画だったんでしょう? 

D:でも僕は音楽が好きだったから、最初のきっかっけは映画の『イエロー・サブマリン』ですよ。母親に見せられたんですよ。

えー(笑)!

D:それが小1とかですね。いまでもビートルズは好きなんですよ。音楽がやっぱり良かったですよね(笑)。

リアルタイムの音楽よりもそっちなんだね?

D:当時流行っていたものも聴いていましたけどね。でもビートルズはずっと好きですよ。

日本語ラップもすごく詳しいでしょう。リアルタイムじゃないと思うんだけど、キングギドラの『空からの力』の曲名が順番通りに全部言えるじゃない?

D:あれはクラシックだからみんな言えるんじゃないかな(笑)。でもそれは僕の性格もあると思いますよ。調べ癖がヒドいというか。つまみ食いしないで何でも全部いってみるというか。

じゃあ最初は絵というよりも音楽だったんだね。

D:そうかもしれないですね。

能動的に音楽を聴きはじめたときに、自分の転機になったものは?

D:ビートルズを聴くようになる前に2年間アメリカにいたことがデカいです。4、5歳のときで、マイケル・ジャクソンがすごく流行っていました。『ヒストリー』が出たときですね。当時の4、5歳のアメリカ人はマイケル・ジャクソンを聴いていたんですよ。子供たちはヒップホップを聴いてませんでしたね。トライブとか流行っていたのかもしれないんですけど、子供の耳に入ってくるのは、マイケル・ジャクソンでした。

その体験が自分のなかの文化的方向性の何かを決めてしまったの?

D:そうでしょうね。ノーマルな状態にマイケル・ジャクソンが入ってきたわけですもんね。

それでビートルズを聴いたと。

D:日本に帰ってきてビートルズですね。日本語ラップは流行っていたときに聴きました。リップ・スライムとか、キック・ザ・カン・クルーとか。僕の世代はみんな聴いていますよ。それが小6から中1にかけてのとき。

「あがってんの? さがってんの?」って。

D:あれがスーパーで流れていて、お母さんにキック・ザ・カン・クルーのアルバムを買ってもらいましたね。当時はエミネムも流行っていました。D12とか。

懐かしい。エミネムの『8マイル』も流行ったよね。

D:あの頃って、ハードな曲でもみんな聴いていましたよね。ちょっと変な時代でしたよね。だってキャッチーじゃないのに、アメリカみたいにわけもわからず聴いていたんですから。

じゃあ中学から高校にかけての思春期に大きな影響を与えたものって何? 

D:一番影響を受けたのはザ・フーなんです。

な、なんなんだよ〜、それは! 

D:本当に好きで。ヒップホップは聴いていたんですけど、高校1年生のときに、『トミー』を先生に借りて、映画にものすごく感動しちゃって。そこから3年くらいはあの辺の音楽を聴いていましたよ。ビートルズより後のバンドといいますか。ぼくはいまでもああいうバンドが来日したら見に行きますよ。キンクスとかも、リーダーのレイ・デイヴィスがソロで来日したときもフジロックで見ました。

90年代もそうだったけど、ドラゴンくん世代だとタワーレコードとかで、旧譜とかも普通に手に入るもんね。逆にいうと、古い音楽と新しい音楽が同じように売られてしまっているところもあるからね。例えば、いま流行っている新しい音楽を買うくらいだったら、再発されたフーを買うって感じ?

D:本当にそうですよ。絵に関してもそうですもん。これ以上の進化はしなくてもいいというか。

それは要するに、いいものが出尽くしているから?

D:そうなんですよ。ピカソとかすごく好きですけど、あそこまでいっているから見栄えとしてはあのまんまでいいかなと。

でも自分でカタコトをやったり絵を描いたりする上でさ、すでに過去に素晴らしいものがあるのに、そこで自分が出ていくというのは矛盾じゃない?

D:そうですよねぇ……。いつも考えてはいるんですけど。

「新しさ」とはなんだろう?

D:最近思っているのは、パーソナルになることっていうか。

「新しさ」って必要だと思う?

D:この展示の感じでいうと、見栄えに関しては新しいことをしている意識はないです。本当にキャンパスに絵の具を使って書くだけというか。キャラクターに関しても、新しいものを生み出しているつもりも全然ないんです。白くて丸いキャラクターっているでしょう? キャスパーとか、スヌーピーとか。ああいうスタイルってあると思うんですよ。それにのっとっているというか。でも今回の扱っている「アイフォンを落として割っちゃった」みたいな、最近のひとの悩みというか、それはキャスパーの時代にはありませんでしたよね。ピカソの時代にももちろんない。だから別に外見に関して新しい素材を使うとかそういう気持ちはないですけど、そういうパーソナルな部分を意識していますね。音楽に関しても似ているかみしれません。リヴァイヴァルっていくらあってもいいけど、その時代のひとがやっていて、そのひとのパーソナルなところが出ていれば、俺は面白いかなと思います。

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その当時王道のベスト・ワンされていた音楽にはやっぱり力強さを感じられるんですよね。漫画に関しても似たものを感じます。もちろん例外はありますけど。

2〜3年前だっけ? 快速東京のライヴで知り合って、カタコトのカセットを買って、ドラゴンくんの絵をいろいろ見せてもらったんだよね。ドラゴン君にはすごくたくさんある引き出しのなかで、今回の初めての個展で、いろんな自分を見せるんじゃなくて、ひとつのコンセプチュアルな作品を見せたじゃない?

D:それは意識しましたし、現実的にも出せる作品が溜まっていなかったんです。僕、普段はクライアントワークばかりやっているんで、いざ個展をやろうとしたとき、そんなに作品は溜まっていないというか。だから個展やるときに、ひとつコンセプトを決めて展示するってアイディアにいきがちな部分もあります。

クライアント仕事へのストレスが作品に表れていたりする?

D:それはあるかもしれないです。とはいえ、仕事のようにスケジューリングをして、全部作るのに2ヶ月くらいかかりましたね。終わったのは個展が開始する1週間前でした。普段のクライアントワークで時間は厳守していたので、そこはきっちり守れましたね(笑)。

クライアントワークではどういう仕事が多いの?

D:東京メトロのCMで使われるような絵の仕事とかですかね。

アイフォンとかアマゾンとかって、現代の消費生活を象徴しているものだと思うんだけど、そういうものを屈託無く描くよね?

D:そう思いました(笑)?

うん。例えば僕なんかはアイフォンもアマゾンも利用するけど、複雑な気持ちになるもんね。むちゃくちゃ頭にきたりするけどね。でも仕方がねぇから使うか、みたいな。

D:僕は全然複雑な気持ちじゃないんですよ。でも、そう言ってもらえて良かったです。僕はこれが批判的に捉えられていたら嫌だなと。見方によればすごくベタな現代批判みたいに思われそうで。

あまりにも屈託が無さすぎると思ったくらいですよ(笑)。

D:でも僕はいつもそういう感覚ですよ。否定も肯定もせず、みたいな。

話は変わりますが、カタコトはどうなっているんですか?

D:セカンドは半分くらい進みました。やる気はあるんですが、忙しくて……(笑)。1回アルバム制作を経験しているから、もう1回あれをやるのかぁっていうか(笑)。サクッといかなかった思い出が強いんです。メンバー同士の話し合いもストレスになるし。ひととモノを作るってストレスが溜まりますよね。

カタコトの屈託の無さが好きなんだよね。ストリート系ヒップホップに対するリスペクトもすごくあるんだけど、ヒップホップは幅広いモノだから。でも、カタコトみたいなものは変種だよね(笑)。

D:もうちょっと頑張らないとダメだな(苦笑)。

いま普段聴いている音楽って何?

D:相変わらず何でも聴いていますね。ヒップホップも聴くし、新しいものも聴いていますよ。カニエの新作とか(笑)。聴いてもあんまりなんとも思わなかったですけど。

ドラゴンくんはPSGのMVをやったじゃない? あれはどうやってやったの?

D:あれはPUNPEEくんに「お金はないけど、一緒にやってみませんか?」みたいな感じで誘われたんです。

それはどこでどう繋がったの?

D:これも不思議な話なんですけど、ユーチューブに自分の短いアニメーションを何個か上げていたんですよ。そこに何も考えず、自分の好きなアーティストをたくさんタグ付けしました。例えば、鎮座ドープネスの下に自分のアニメがきたらいいな、ぐらいの気持ちです。そうしたら、PUNPEEくんがたまたま見てくれたんですよ。それが2009年ぐらいなんですけど、その頃ってPSGも出たばっかりのときで。僕はスラックのファーストを予約して買うぐらい好きだったんですよ。『My Space』のときです。だからけっこう早かったというか。

PSGとドラゴンの世界観がハマっていたよね。

D:いまでもあれは言われますからね。相変わらずあの動画の再生回数は伸びてます。



アニメーションはそのときから自分でやっているんだよね。しかもコマ撮りで。

D:やってますね。最初、アニメは能動的に作っていたんですけど、PSG以降は全部頼まれて作るぐらいなので、あまりアニメーションを研究している感じではないんですけどね。だからアニメの絵は見るひとが見れば下手くそだとバレるというか。上手く動かせるひとってもっといるんですよ。いわゆるアニメの作法とかは僕は無視してるんで。

レトロスペクティヴな感覚があるよね。現代の消費生活を象徴するものが描かれていながら、アニメで再生されているのはある意味懐古的だけど、ドラゴンくんのなかに失われてしまったものに対する郷愁ってあるの? 

D:どうなんだろう。無意識的にはあるかもしれないですね。

ドラゴンくんから見て、昭和的な面白さってなんだと思う? 

D:難しいな。何なんでしょうね。でも古いものが好きなんじゃなくて、時間が経っても残る普遍的なものが好きなんです。

古いものが好きなわけじゃないと。

D:スヌーピーって造形もかわいいですけど、ここまで残っているからには、それなりの強度も持っていると思うんです。そこに僕はやられちゃう。ビートルズももちろんそうですけど。

スヌーピーの絵がグッとくるの?

D:絵ももちろんですけど、考えさせられる部分でもグッときてますよ。願わくば、自分の作品においても百年後のことを考えてしまうというか。音楽も、その当時王道のベスト・ワンにされていた音楽にはやっぱり力強さを感じられるんですよね。漫画に関してもそうで、もちろん例外はありますけど。

そう言われると、やはり水木さんは大きな存在なんだね。

D:水木しげるの魅力って絵だけじゃないですよね。

ドラゴンくんの作品は同世代に向けて描いている?

D:特に対象を考えているわけではないです。子供向けに描いてみたいとも思いますけどね。でも、自分が子供の頃を考えると、子供むけじゃないものも面白がっていたので、そこはあんまり子供に合わせる必要はないと思ってます。

映画では何が好きなの? 

D:うーん、何だろう……。映画はいろいろ見ますよ(笑)。タイのアピチャッポンとかすごい好きです。世界観が水木しげる的ですよ。ありえないことが起きているけど、誰も驚かないみたいな。

 

オオクボリュウ「Like A Broken iPhone | アイフォン割れた」開催中

2016年4月8日(金)- 4月24日(日)
トーク・イベント:4月16日(土)19:00-21:00 進行:安部憲行(本展キュレーター)】
時間:12:00-19:00  
休廊日:月曜日
会場:CALM & PUNK GALLERY (東京都港区西麻布1-15-15 浅井ビル1F)

Tel: 03-5775-0825
URL:https://calmandpunk.com/
facebook:https://www.facebook.com/events/1860614200832209/

Chimurenga Renaissance - ele-king

 3月末に首相官邸で行われたアベとムガベの握手がまるで独裁政権の契り合いに見えてしまったからではないけれど、ムガベ大統領が30年以上も牛耳るジンバブエにルーツを持ち、父親がンビラ(親指ピアノ)奏者としてマリンバ・アンサンブルを率いていたテンダイ・マレーアと、コンゴに起源を持つらしきフセイン・カロンの2作目を。マレーアはディゲブル・プラネッツのシュマエル・バトラーとスター・ウォーズ由来らしきシャバズ・パレシィズとして〈サブ・ポップ〉からも2枚のアルバムをリリースしてきた成長株。ユニット名に使われているチムレンガとは戦いとか抵抗といった意味らしく、近年は人権や社会正義を示すようにもなっているという(タイトルの「銃を持った女たち」とは橋元さんのことだろうか?)。

 2年前のデビュー・アルバムはそれこそシャバズ・パレシィズに作風も近く、マルカム・マクラーレンを思わせるシャンガーンなどもありつつ全体としてはヒップホップの範疇に留まるものではあった(映像も楽しめる→https://www.youtube.com/watch?v=2ChY5_uSR-8)。それが、ここではジャケットに貼られたステッカーでも強調しているようにジンバブエのビートとコンゴのギター奏法が前面に押し出され、US風のヒップホップはかろうじて殻を残しているだけに過ぎない。セネガルのヒップホップなどはあまりにもアメリカのコピーでしかなく、アフリカの遺伝子がむしろ移民先で花開くという図はダンス・ミュージック全体に見通せることとはいえ、これだけ面白い例はなかなかないかもしれない。レーベル・サイドはこれに「アフロ-フューチャリスト・ヒップホップ」というレッテルを与えている。

 透明度の高いギター・サウンドが終始、明るいムードを呼び込むのに対し、歌詞はかなり政治的らしく(それはムガベに対するもの? それともアメリカ?)、「およげ!対訳くん」とかで取り上げてくれないかなーと。前作同様、宇多田ヒカルが絶賛していたジーサティスファクションからサッシー・ブラックもMCで参加。アナログ・オンリーのようで、ダウンロード・コードが付いてます。

 アフリカついでに、ドミューンでもけっこう受けたゴールデン・ティーチャーのメンバーが参加したグリーン・ドアー・オールスターズのデビュー作も。これはグラスゴーとガーナ、そして、ベリーズ(旧英領ホンデュラス)から複数のグループが混在としたセッション・バンドで、どうやら主導権を握っているのはグラスゴーのグリーン・ドアーというスタジオ(〈ZEレコーズ〉からマイケル・ドラキュラの名義でアルバムをリリースしていたエミリー・マクラーレンがプロデュース)であり、同じくグラスゴーのハントリーズ&パーマーズ(『クラブ/インディレーベル・ガイドブック』p.55)から主宰のアウンティ・フローやオプティモのJ・D・トウィッチが最終的に宅で仕上げているという過程はどうしてもエイドリアン・シャーウッドのニュー・エイジ・ステッパーズを想起させる。ただし、レゲエではなくアフリカ。アリ・アップの役回りはやはりゴールデン・ティーチャーのキャシー・オージでしょうか。

 オープニングからしばらくはイメージ通りのアフリカ音楽が続き、だんだんダブを多用したり、クラブ的なスキルが比重を増してくる。エンディング近くになってくると、パーカッションの刻み方だけでアフリカ音楽を感じさせるだけで、チムレンガ・ルネッサンス同様、形式性はどんどん希薄になっていく。どこまでやったらレゲエとは呼ばれなくなるかという問いがニュー・エイジ・ステッパーズに存在していたとしたら、同じことがここではアフリカ音楽によって行われていることは間違いない。時にハンドクラップだけ、ハットとコーラスだけでアフリカがそこに立ち現れてくる。

 ハドソン・モホークやラスティといったベース系だけでなく、グラスゴーといえばメアリ・スチュワート人気といい、スコットランドの独立騒ぎであれだけ高揚したんだから、面白い音楽が出てこないほうがおかしいともいえるけれど。

スポットライト 世紀のスクープ - ele-king

 今年のアカデミー賞のステージに、クリス・ロックは白いタキシードを着て現れた。#OscarSoWhite――「白すぎるオスカー」は何もいまに始まった話ではない。少なくとも去年も話題になったが、今年騒ぎになったのはやはり2015年がはっきりと政治の年だったからだろう。クリス・ロックが司会者に選ばれた時点でそれはスーパーボウルのビヨンセやグラミー賞のケンドリック・ラマーから続くパフォーマンスだったと言えるし、ボイコットも続くなかアカデミー賞側も何かしなければ格好がつかなかったわけだ。が、その「何か」はなかなか見応えがあった。クリス・ロックがあっさりと「司会もノミネート制だったら僕は選ばれなかったね」と言ってポリティカル・コレクトネスを皮肉ったように、ガチガチに正しいことからは外れようとする態度があったのだ。授賞式の間では人種ネタ――ほとんどはブラック関係だった――のジョークがしつこく挟まれ、そこに集まった白人のスターたちの表情を固くさせていた。「今年の追悼映像は、映画館に行く途中で警官に殺された黒人を集めた」というジョークなどはたしかに重いものがあったし……。あるいは、「黄色くて小さいひとはノミネートされてないよね? ……ミニオンズのことだよ」と言ったサシャ・バロン・コーエンもなかなかに光っていた。
 いまドナルド・トランプのようなひとが面白がられているのは、強固になっていくPCに対する反発だという見方もある。たしかにアメリカン・カルチャーからきわどいジョークが減ったなというのは僕も感じていたところで、そういう意味ではレオナルド・ディカプリオが環境問題について語ったり、サム・スミスがLGBTライツについて訴えたり、あるいはレディ・ガガがレイプの被害者たちを連れてステージに立ったりしたことは、非常に2016年的な振る舞いに見えた。何か社会正義を訴えなければならない空気がアメリカのポップ・カルチャーにはいまあるのだろう。だからこそ、社会的意識を持ったままそのような堅苦しさからどのように脱却するのか、が課題であるように感じられるのである。

 そうした観点からすると、誰もが認める大物黒人俳優であるモーガン・フリーマンがプレゼンターとして作品賞を『スポットライト 世紀のスクープ』に渡したのは象徴的な一幕だった。同作は膨大な人数のカトリック神父が児童に性的虐待を行っていたことを暴いたジャーナリスト・チームを描いたものであり、とても正しく、骨太で、リベラルな政治的主張があり、そしてとても白い映画である。マッカーシー監督の代表作『扉をたたく人』(07)のように義憤があり、真面目な作品だ。個人的にどの作品を評価するかを別とすれば、本作が今年のアカデミー賞作品賞を獲得したのは妥当なところだと思う。
 ただ、では『スポットライト』が退屈な作品かと言えばそうではないのが、アメリカのエンターテインメント産業の足腰の強さなのだろう。品行方正すぎるという向きもあるだろうが、それでも社会派エンターテインメントとしての完成度は非常に高く、ひとつの極としてこうしたものが絶対にあったほうがいいと思わされる。とくに被害者の感情に捕まり過ぎることなく、現場で明らかになっていくこと自体をエンジンとしてドライヴしていく様はなかなかにスリリングだ。何よりも「メディアは何を報道するべきか?」というごく真っ当な問いがある。ボストン・グローブ誌のコラム<スポットライト>チームはある種のふるき良きジャーナリズムとして描かれており、全員がヒーローのように映される。俳優陣が渋めなのもいい(しかも一番いい役がリーヴ・シュレイヴァーという地味さ)。そもそも冒頭の場面が1976年から始まる時点で、ロバート・レッドフォード『大統領の陰謀』との繋がりを強調したかったのだろう。

 来年アカデミー賞はどうなるのだろう? わざとらしい配慮がされたノミネートになったら、それこそ炎上するのではないか? ボストン・グローブのジャーナリストたち、ひいては『スポットライト』が暴いたのは一部の悪人の行いではなくて、組織的な腐敗そのものだった。#OscarSoWhiteにおいても同じように、ポップ・カルチャー産業の構造自体が歪なものであることがあらためて浮き彫りにされたわけであって、多様なカルチャーに根差した作品が作られていくことこそがこれから求められていくことだろう。授賞式はたんなるお祭に過ぎないのである。
 大統領選を見ていても思うが、政治がポップ・カルチャーのなかに否応なく食いこんでくるアメリカという国には呆れつつも感心してしまう。アカデミー賞の最後、『スポットライト』チームが授賞に喜ぶなか出てきたクリス・ロックが最後にあのにやけた顔で放った言葉はもちろん、「Black lives matter!」だった。

予告編

interview with Hiroshi Watanabe - ele-king









Hiroshi Watanabe

MULTIVERSE


Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse



Amazon


 人生には何が待っているかわからない。当人にとっての自然な流れも、はたからは意外な展開に見えることがある。ヒロシ・ワタナベといえばKaito、KaitoといえばKompakt。Kompaktといえばドイツのミニマル・ハウス、ポップ・アンビエント、水玉模様……ヒロシ・ワタナベといえばKaito、Kaitoといえば子どもの写真、美しい風景、クリーンな空気……。

 しかしヒロシ・ワタナベのキャリアは──90年代半ばのNY、DJピエールのワイルド・ピッチ・スタイル全盛のNY、エロティックでダーティーなNY、それは世界一ハードなクラバーのいるNY──そこからはじまっている。

 そして2016年、彼はデリック・メイのレーベル、──デトロイトの名門中の名門とでも言っておきましょうか──、〈Transmat〉から作品をリリースする。アルバムは『MULTIVERSE(マルチヴァース)』というタイトルで、12インチEPはすでに出ている。EPのほうは〈Transmat〉からの初の日本人作品という話題性もあって、あっという間に売れたし、好評だった。アブドゥール・ハックによるアートワークも良かった。

 それで『MULTIVERSE』だが、これはヒロシ・ワタナベらしい繊細さをもちながら、じつにパワフルで……というか寛容さと力強さを兼ね備えていて、些細な瞬間に大きな喜びを見いだすことさえ可能な、前向きな心によって生まれた作品であることは間違いない。人生に挫折した男も女もふと空を見上げ、ひょっとしたらこの苦境を乗り越えられるかもしれない、そう思うだろう。

 これを〈Transmat〉サウンドと呼ばずして何と言おうか。初期ヒロシ・ワタナベが荒々しいダンスの渦中で生まれた音楽なら、Kaitoはダンスフロアに草原の清々しさを吹き込む音楽、そして『MULTIVERSE』は……こうも言えるだろう、デリック・メイとの二人三脚で生まれた音楽であると。

 このインタヴューではヒロシ・ワタナベの20年以上のキャリアを振りながら、彼のダンス・ミュージック/電子音楽への考え方を紹介している。長い話だが、初めて聞けることばかり。デリック・メイとの熱い(!)やり取りのところまで、どうぞお付き合い下さい。


2016年正月の神戸公演にて。

理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

今回の新作、表面的には「〈コンパクト〉から〈トランスマット〉へ」──という風に見えると思うんですよ。やっぱりカイト名義の〈コンパクト〉からの作品は、ある時代(2000年代の最初)を象徴するものでもあったし、その印象がまだ強いんじゃないでしょうかね。

ヒロシ・ワタナベ(以下、HW):たしかに、長い期間やってきましたからね。

〈トランスマット〉から日本人が出るらしい、それがヒロシ・ワタナベって知ってびっくりする人は少なくなかったと思いますよ。

HW:でしょうね。

ただ、ちょうど2000年代に入ったばかりの頃、ぼくがデトロイトに行ったとき、車のラジオから〈コンパクト〉が流れてきたことがあったんですよね。ラジオのDJが「コンパクトからの新譜で〜」みたいな紹介の喋りがあって、あのミニマル・ハウスがかかるみたいな。

HW:意外というか、オープン・マインドというか。

そういう意味でいうと、今回のヒロシ・ワタナベの〈トランスマット〉リリースも、ヨーロッパ経由なわけでデトロイトと繋がらなくはないんですよね。だって彼らはヨーロッパ大嫌いで大好きじゃん。

HW:ヨーロッパのひとたちも、アメリカのシーンに絶対に興味を持っているけど、アメリカという国に対してはめちゃめちゃアンチだったりする。
 ぼくが結果的にデトロイトの〈トランスマット〉からのリリースにたどり着いた経路にも、不思議で面白いところがあるんです。ぼくは、もともとはボストンで大学に通いながらダンス・ミュージックを作りはじめたんですね。メインストリームも消化しつつ、自分なりの音を探っていたんですが、それがのちのちクァドラ(Quadra)というプロジェクトになっていきます。で、卒業後にボストンからニューヨークに行って、当時もっとも衝撃だったDJピエールやジュニア・ヴァスケス 、ジョニー・ヴィシャスなどのハード・ハウスのスタイルに影響を受けました。ゲイ・カルチャーに根ざしながら、ゲイ・シーンだけではないものを一生懸命に聴いていましたね。

90年代のニューヨークにとってハウスは本当に大きかった。ヒップホップも大きかったけど、ハウスもすごかった。ジャネット・ジャクソンのようなポップ・スターも、みんなハウスをやっていたよね。

HW:あのマンハッタンと狭いその近隣のエリアにガッツリ組み込まれていたハウス・シーンに、ぼくもドップリ入っていたわけです。

どのような経緯で?

HW:1990年にボストンに渡って音楽の学校(バークリー音楽大学)へ通って、1994年に卒業したあとにニューヨークで曲を作りはじめました。学校でかぶってはいないんですけど、DJゴミ(DJ GOMI)さんがぼくの先輩なんです。ゴミさんがバークリーに遊びに来ていたので、ちょっとお会いして挨拶したりとか、ニューヨークのシーンについて伺ってみたりしました。卒業する間近にゴミさんの家に泊まらせてもらって、ニューヨークをいろいろ案内してもらったり、いろいろお世話になったんです。「じゃあ、これからがんばってね」と言われて、ぼくはニューヨークへ渡るんですけど。

なんでハウス・ミュージックにそこまでのめり込んだんですか?

HW:ボストンで楽曲を作りはじめたときは、基本的にテクノなサウンドの方が好みだったんです。中学のときはYMOも聴いていたし、レコードもほとんど持ってました。とにかく、シンセサイザーを使って打ち込みが盛り込まれている音楽が、ひと通り好きだったんです。でもクラフトワークはあんまり聴いてないんですよね。アンダーグラウンドの音楽に対する自分の着目点は、王道のクラフトワークまで遡らずに、当時流行っていたブレイクビーツ系のテクノや〈XL〉のものでしたね。ドイツの〈EYE Q〉なんかもも聴いていました。学校には、打ち込みをやっている仲間がいっぱいいたんです。

お父さんが作曲家で、お母さんがジャズのピアニストなんですよね。

HW:そうです。

ご両親に対する反発心からテクノへ行ったんじゃないかと(笑)。

HW:ははは(笑)! 反発心からじゃないんですよね。

テクノって、音楽をちゃんと学んだひとからするととんでもない音楽でしょう?

HW:ぼくはとんでもないスタイルで作られた音楽に完全に魅了されたんです。高校は東京音楽大学の付属へ通ってクラシックも勉強したし、バークリーではジャズや音楽理論も多少なりとも勉強しました。でも自分が音楽を作って放出するときに、そういうアカデミックなものとはどうも違う。オーケストラでのコントラバスの経験ももちろん肥やしになっていますけど、理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

テクノって、多くが感覚で作られているし、単純じゃないですか? クラシックを学んでいると、その辺が逆に新鮮だったりするの?

HW:それで間違いないと思いますよ。理論やテクニックの部分を取っ払ったとこでどこまで勝負できるかという点において、テクノってすごく素敵な音楽なんです。ただ、もっと幼少期にさかのぼると、うちの父親が当時アナログ・シンセサイザーを多用して、マルチ・レコーディングやフィールド・レコーディングをした音を組み合わせて、夜な夜な楽曲を作っていたのを見ていた体験があるんです。

お父さんの影響が大きんだ。

HW:大きいです。かつ、当時はニューエイジ・ミュージックと呼ばれていた、いまでいうアンビエント・ミュージック、それこそアンビエントの原点というか。

UKのある有名なテクノのアーティストが、なんでテクノを好きになったのかという話をして、それは5歳の頃、オーディオ好きの父親に、部屋を真っ暗にして冨田勲を聴かされたことがきっかけだったと。そのとき、自分が本当に別世界へ行ってしまった感覚を覚えてしまったと言っていたんだけど、そんな感じですよね?

HW:それにほぼ近いですね。当時小学生のころ住んでいたのは平屋の木造民家だったんですけど、父親がバンドの練習をするためにひと部屋を手作りでかなり強力な防音室にしたんですよ。その防音室にぼくは忍び込んで当時全盛だった『スター・ウォーズ』の2枚組LPを真っ暗にして大音量で聴いていたんですよね。するともう、そこは宇宙になわけですよ。右も左もわからない状態で音だけに浸るって、その体験とまったく同じなんですよ。

しかしヒロシ・ワタナベをその気にさせた音楽って、〈XL〉であり、レイヴ・カルチャーであり、ダンス・ミュージックなわけですよね。

HW:サンプラーとブレイクビーツに興味があったんですよね(※レイヴ・ミュージックは基本、ブレイクビーツだった)。
 当時はアカイのサンプラーが一世を風靡していたんですけど、ヒップホップのスタイルはかっこいいけど自分が作る音楽ではないなとずっと思っていたんです。ヒップホップのスタイルは自分が経験してきた文化と違うし、最初はサンプリング・ミュージックを作ることには前向きにはなれなかったんです。でも、〈XL〉やオルタン8などブレイクビーツのサンプルは、ヒップホップとはまったく別のやり方でしたね。ヒップホップは無理だけど、こっちは全然いけるじゃんって思った(笑)。

その手のダンス・ミュージックは、どうやって知ったんですか?

HW:最初は、学校のシンセサイザー科の友人から教えてもらいましたね。彼はテクノを聴いて、自分でも作っていたんですけど、そこからテクノの仲間がどんどん増えていきます。学校外にも仲間がたくさんいることがわかって、いろんな人たちと出会うんですけど、そのうちのひとりがいま大阪にいるエニトクワ(Enitokwa)で、彼は同じ時期にボストンにいました。

レイヴに行って踊ってました?

HW:最初は聴いてるばかりでした。音楽と出会ってしまい、音楽を聴きまくる感じでした。クラブにも行ってないですし。

じゃあベッドルーム・プロデューサーとしてスタートしたわけですね?

HW:最初はそうです。ただ、そのあとボストンに808ステイトやエイフェックス・ツインなどがボストンに来ているので、見に行ったんです。そこでクラブ・サウンドの凄さを体感して、「DJをしないと、ダンス・ミュージックは作れないんじゃないの?」くらいに思いはじめました。
 作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。
 それで、踊るんだったら躍らせる側に回った方が早いじゃないかと。それで中古の機材を集めてDJをはじめたんですが、そのころに知り合ったDJの友人がニューヨーク・ハウスのレコードを持っていたんです。それを自由に使っていいと言ってくれたので、わけもわからないままレコードを漁って、いいなと思ったものを友人のところでかけていたんですよ。そこでDJピエールのワイルド・ピッチ・スタイルを聴いちゃって、「これ何!?」みたいになって(笑)。

DJピエールで4つ打ちの良さに目覚める。

HW:ブレイクビーツを聴いていると、シンプルな4つ打ちがスカスカに思えてしまうんですね。だけどDJピエールは、普通の4つ打ちなのに、なんでこんなにかっこいいんだろうと。そこからハウス・ミュージックに興味を持つんです。ニューヨークへ行ったきっかけもDJピエールでしたね。


いきなりニューヨークという、その行動力はすごいです。

HW:若いエネルギーがすごいなと思うのはそこですよね。若さゆえに何にも考えずに、どんどん入っていけちゃうじゃないですか。これはもういても立ってもいられないから、ニューヨークへ行くしかないと。それ以前の歴史やアンダーグラウンド・シーンの流れをあまりわかっていないまま、いまその街で起こっていることに夢中になって追っかけていくんですね。
 それでぼくはサウンドを追い求めてニューヨークへ行くんですけど、実際はこんなにゲイ・カルチャーなんだと。

カルチャー・ショックでしたか?

HW:ぼくはけっこうすんなり受け入れましたね。彼らが巻き起こしているシーンがこれなんだって、サウンド・ファクトリーへ行ったとき、そう思いました。あまりにも強烈なサウンドシステムと、すさまじい盛り上がり方。そこではジュニア・ヴァスケスが延々とプレイしている……セットのなかで、ドープな時間だったり歌物の時間だったりハッピーだったりと展開していくわけだけど、そのシーンに触れたときに、「このために音楽が生まれているんだな」というのも思い切り体感して。ここでかかるような音楽を作って勝負したいと思いましたね。

ニューヨークではどんな生活だったんですか?

HW:最初はゴミさんの紹介で、〈Dr.Sound〉というところに勤めていたんです。クロサワ楽器系列で、経営は日本人だったんですね。その楽器屋さんには、DJデューク(※90年代のNYハード・ハウスの中心人物のひとり)が遊びに来たりとか、いろんなDJが来たので、用意していた自分の新作デモカセットをすかさずデカい音でかけていました(笑)。「これ誰の曲だ? お前のか?」とか、そう言われるのを待って(笑)、それで知り合いになってオフィスに呼んでもらって、デモ・テープを渡しまくりました。もちろんデュークのところ(※〈セックス・マニア)レーベル〉からも出したかったんだけど、ぼくはあそこまでダーティ・ハウスじゃなかったから(笑)。


働いていた楽器店の入口にて。

ヒロシ・ワタナベがDJデュークや〈セックス・マニア〉といっているのが面白いんですけど、カイトのイメージとは真逆だよね(笑)。

HW:カイトのサウンドは、小中学校のときに触れたニューエイジ・ミュージックにまで遡れる。あるいは映画音楽だったりとか。音でイメージが空想できるようなスタイルというか。クアドラの音楽はそのイメージに自分が解釈したテクノを融合させたイメージだったんです。クアドラ名義では1995年に〈フロッグマン〉から1枚目を出しました。その前にはコンピレーションにも参加していたんですよね。あの曲は、ボストンで学生だったときに作った曲です。ああいう、クアドラのイメージはとっておきながら、それとは別にニューヨークで自分が勝負したいと思うものを探求していくと、ハード・ハウスのスタイルだったんですね。

なるほど。面白いね。

HW:ぼくはニューヨークにいたけど、ガラージみたいなものにはいかなかったんですよ。さっきのヒップホップといっしょで、ガラージは日本人が勝負をかけても無理だろうと思っていたんですよね。あのグルーヴ感は、真似て作るものではないと。自分が勝負できるのはハード・ハウスだと。とにかく、ピエールの、じわじわ構築していくようなワイルド・ピッチ・スタイルが大好きでした。当時、ヒサさんのレーベル(〈キング・ストリート〉)からも、あの手法を取り入れた作品がリリースされていました。

しかし、DJデュークなんか、ポルノみたいなハウスじゃないですか(笑)。

HW:ラベルとかもひどいし(笑)。



ヒロシ・ワタナベのイメージとは著しく異なっている(笑)。

HW:現場でぼくが追い求めていたハードで熱いシーンと、ぼくがオリジナルで作品を出し続けた自分のイメージはけっこうズレているんです。

90年代半ばは人気がすごかったもんね。

HW:そうなんです。音はすごく良いんです! 

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作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。


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DJは、どんなふうにはじめるんですか?

HW:楽器屋さんに来てくれるお客さんでDJもしていた大事な旧友と知り合うんです。最初は、彼といっしょにDJができる場所を探すことにしたんですよね。彼はイースト・ヴィレッジに住んでいて、ぼくはクイーンズのグリーンポイントというところにはじめはいたんですけど。で、マンハッタンのイースト・ヴィレッジにあったセイヴ・ザ・ロボッツ(Save The Robots)という、めちゃめちゃアンダーグラウンドでアフターアワーズ・パーティが盛んなクラブがあったんですね。アヴェニューB沿いの、かなり危険な区域なんですけど。


Save the robotsでのDJシーン。

90年代には、まだ70年代のニューヨークが残っていたんですね。

HW:そうなんです。アヴェニューA、B、Cとかにいっちゃうとヤバいんですよ。ジャンキーやフッカーだらけの怪しくて危ない場所でしたね。でもそこにかっこいいクラブがあるから行こうぜ、と。レコードを持ってお店が開いたら直ぐに入って、「DJやりたいんだけど、やれないかな?」とオーナーに直接訊いてみたんです(笑)。そしたら「お前ら上のラウンジの方でちょっとかけてみろよ」と言われて、ふたりで一生懸命かけるんですよ。

すごい強引な(笑)。

HW:はい(笑)。でも、そうしたら運良く、「空いてる曜日があるから、お前たち上でよかったらいいよ」って誘われて、毎週そのクラブでふたりで時間をわけてDJをやるんです。で、上のフロアなのに、がっつり盛り上げてハードに攻めていたら、お店のひとが面白がってくれて、「お前ら、下のメインフロアでやっていいよ」となったんです(笑)。そこで実験がはじまるんです。
 ある日、あるパーティにヒサさんが遊びに来ていて知り合いになるんですね。それで、早速次の日にすぐヒサさんのところに自分のトラックを持っていきました。そうしたら「アーバン・ソウル(Urban Soul)とサンディー・ビー(Sandy B)の“バック・トゥギャザー(Back Together)”をリミックスしてみないか?」と言われて、「DATをくれて好きにやっていいよ」と。それでもう、必死になって作ったら、それが出たんですよ。

ヒサさんも知名度ではなく、音で選んだんですね。

HW:はい! 音でいけました。セイヴ・ザ・ロボッツでDJ をしていて面白かったのは、わけのわからない日本人がDJをしているわけじゃないですか? でも曲やプレイがすごいと「お前何てやつだよ?」って訊いてきてくれるし、ガンガン踊ってくれるから、その反応を素直に体感できたというか。作ったばっかりの楽曲をDATでかけたりとか。アセテート盤を作ってかけてみたりとか。

ニューヨークには何年いたんですか?

HW:丸5年ですね。1999年の夏に帰ってきているんで。

ある程度ニューヨークで活動しながら、帰ってきたのはなぜだったんですか?

HW:アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。
 当時はジュニア・ヴァスケスが頂点の時代で、みんながジュニアがプレイしている晩に自分のレコードやDATを持って、ジュニアのブースまで行くわけですよ。ぼくもほんの数回それをやりました。でも、自分がジュニアのところまでわざわざ音源を持って行ってもかけてくれないんだったら、なんか嫌だなという違和感もあって、それよりジュニア本人がレコード屋さんで選んだものが自分の音楽だったら、そんな最高なことはないじゃんと思ったんですよ。目標はそれだと。それで、まずはいろんなハウスのレーベルに作品を持っていって、自分の作品をリリースしようと思ったんです。

初めてのリリースは、1996年に〈Nite Grooves〉から出した「Bad House Music」?




HW:それはニューヨークで出したオリジナルの最初で、その前に“Back Together”リミックスが先に出るんですよ。

盤としては、ひょっとして〈フロッグマン〉から出た「SKY EP」が最初だったりして。

HW:レコードとしては〈フロッグマン〉からの方が早いです。でも、いちばん最初はクアドラが入ったコンピレーションですね。続いてイエロー(Yellow)が出した『East Edge Compilation 2』にDefcon 5という名前で参加しました。それが95年で、ほぼ同時期。

1996年にはジョニー・ヴィシャスの〈Vicious Muzik〉からもシングルを出していますね。

HW:ニューヨークへ行っていろいろ模索しているうちに、クラブでジョニー・ヴィシャスにも出会うんですよ。ジュニアもかけていたジョニーの曲があって、それを聴いて「やべーな、こいつとは会うしかない」と。かつてトンネルでDJをしていたヤング・リチャードが HouzTown 名義で、先にそのレーベルから「Brooklyn A Train」という曲を出したんです。それもすごくドープな曲で。それからぼくもナイト・システム(Nite System)名義で出すんです。

なんでそんなに名義を使い分けていたんですか?

HW:ひとつには色分けですよね。全然コンセプトが違うからクアドラでやるわけにもいかないし。言ってしまえば、ハードハウスはぼくにとっては実験だったので、それで生きていきたいというよりもニューヨーク・シーンに対しての自分なりの挑戦というか。

ハード・ハウスは、もう、とにかくクラブでダンスするための音楽だよね。トランスさせる音楽というか。

HW:さっきも言ったように、音楽の学校へは行ったけど、ぼくが求めている音楽にはいっさいがっさいそれが必要なかったんだなと気づいてしまった(笑)。

とにかく、ハウスのアンダーグラウンドな世界に入って、順調な活動ができていたんですね?

HW:DJもやっていてネットワークもできていたので、週末の金曜日にトンネルで回せたりとか。サウンド・ファクトリーがトワイロ(Twilo)という名前に変わったときも、友人がオーガナイザーになってイベントを立ち上げたとき、メインフロアでDJができましたね。いろんなクラブでDJができるようになった。レコードも出せて活動の幅の広がった。

すごいですね。

HW:ただ、ぼくは、デモを渡さずにジュニアがいつ自分の曲をかけるのかという一点だったんです。それであるとき、友人から電話がかかってきて「ジュニアが先週ヒロシの曲をかけたよ!」って教えてくれたんです。次の週に急いで駆け込んで、ずーっとかかるか何時間も見ていたんです(笑)。

フロアで(笑)?

HW:そう、ずーーーっと。そしたらかけてくれたんですよね。スタジオでちまちま作った音楽がレコードとなって、そしてジュニアが見つけてくれて、そしてフロアでかけてくれて。

なんていう曲だったんですか?

HW:〈Deeper〉からナイト・システム名義で出した曲です。

嬉しかったでしょぅ、それは。

HW:はい。と同時に、ニューヨークでのミッション・コンプリートみたいな感じになっちゃったんです。当時ぼくはもう結婚していました。籍入れたのは1996年の終わりころ! なので新婚生活真っ只中だったんです。DJと曲作りが基本だったからお金が全然なくて本当にひどい生活だったんだけど……。

早い!

HW:本当にただ一緒にいたくて。若くて熱かったっすね。

息子さんのカイトくんはまだ生まれてないわけでしょう?

HW:生まれてないです(笑)。






NY時代の自宅スタジオの風景。


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アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。


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話を戻すと、ジュニアがヒロシ君の曲をかけて?

HW:嬉しかったと同時に、目標を果たしてしまったというか。自分の気持ちがそこで変わっていくんです。 当時はお金がなかったから、マンハッタンからクイーンズへ引っ越して、住んでいたアパートは屋根に上がれたんですけど、そこに寝そべって星空を見ていたときに、ふっと「俺、日本帰ろう」と思ったんです。奥さんにもその気持ちを伝えて、日本に帰る決断ができて、帰国を決めて段取りを整えているときに、奥さんのおなかに赤ちゃんがいることがわかったんです。このタイミングにはある意味運命を感じた。それがカイトなんですけど。日本に帰ってきて1月後に生まれるのかな。
 だから、子供が生まれるから帰ってきたのねってみんなに言われてたんだけど、全然そうじゃなかったんです。ある意味アメリカでのミッションをクリアし、高校を出てから日本の社会にも触れてなかったから。頭も高校生のまま! で、音楽を作ってきて、ちょっと社会的にまずいんじゃないかとも思ったんです。日本を知らなさ過ぎていたし、日本で社会人の経験がないのがまずいんじゃないのかと。それで戻ったんです。

ニューヨークでは、DJやって、EPを出しているぐらいでは、食っていけない?

HW:ギリギリです。1タイトルを売ると、当時多くて2000ドルくらい。少ないと1300ドルくらい。

それを毎月出すわけでもないしね。

HW:それをコンスタントに繋げて、あちこちでDJをしながら小さなお金をかき集めるって感じでしたね。それでギリギリです。結果的に自分の修業の場になってやれてよかったですけど。
 イースト・ヴィレッジのアヴェニュー・A沿いに、ものすごくハイプなアヴェニュー・A・スシ・バーというのがあったんですよ。やばくって、内装もいっちゃってるんですけど、ニューヨーク中のクラバーが日本食を食べに来るヒップな場所なんですね。入ってすぐに席とDJブースがあって、その奥にまた席があって、さらに奥に寿司を握る場所があるんです。そこに毎日入れ替わりでDJが入っていて、そこに勤めていた友人がやめちゃうんですけど、「ヒロシくん、よかったらやる?」と話をくれて毎週木曜日に回すことになったんです。そこのお客さんは耳が肥えているから、スシ・バーなんだけど本気でDJをしてないといけない。しかも時間も長くてロングセットなんです。そこでいいDJをすると、お客さんが帰るときに名前やスケジュールを聞いてくれるんですね。「ここでご飯を食べている連中を踊らせてやるぞ」くらいな感じで、毎週そこでDJをやってました(笑)。

当時のニューヨークって、いまのベルリンじゃないけどさ、クラブ・カルチャーの中心地だったものね。

HW:その通りですね。そこにテイ(・トウワ)さんとかもいたんですよね。

90年代末は、でも、ちょうどひとつの時代の終わりでもあったよね。それを肌で感じたということもあるんですか?

HW:あります。

ワイルド・ピッチ系のニューヨークのハード・ハウスの流れも、そのころにはピークに達していたもんね。

HW:成熟しきっちゃっていて。言ってみれば、それ以上先はルーティン・ワークになって飽きちゃうギリギリのところで、ぼくはニューヨークから引き上げたんです。ぼくが帰国した2年後にテロがありますよね。それでニューヨークは一気に変わってしまう……。

当時は、日本の状況を何も知らないわけでしょう?

HW:そうです。ニューヨークにいたとき、3ヶ所くらいツアーで日本を回らせてもらったことがありましたけどね。マニアック・ラヴと沖縄のヴァンプと福岡のO/D。マニアック・ラヴやイエローが盛り上がっていたのは知っていました。
 それに、アメリカに10年いようが、日本人は日本人じゃないですか。だから日本で起きているテクノ・シーンのことを、ぼくはすんなりと受け入れられたんですよね。「こんな面白いことをやっているのか!」って見れたんです。日本のシーンがうごめくすごさに関しては、とてつもないものがありましたからね。


Kompaktの昔のレコ屋さん内でDJ中のヒロシ。

しかし当時は多くの日本人はニューヨークに学ぼうとしていたわけですよ。

HW:ただ、ぼくはニューヨークでドラッグ・カルチャーもモロに見てしまったんです。ぼくは正直一切ドラッグはやらなかったので、葛藤はありましたよ。ぼくは音楽でぶっ飛んで欲しいと思っていましたからね。

そこはデリック・メイと同じスタンスですね。

HW:おこがましい話だけど、ぼくはデリックに強いシンパシーを感じるんですよね。ぼくは自分が持っている感覚をフルに使って「さらにぶっ飛ばせる音楽を作ってやろうじゃん」と決意をあたらにしたんです。

帰国して、それからカイトをやるわけですが、その経緯を教えて下さい。

HW:日本に戻って子供が生まれて、家庭を持つことになり、日本の社会に揉まれるんですよね。最初は日本についていくのが大変でした。
 そういう時期、EMMAくんが〈NITELIST MUSIC〉を立ち上げたばっかりで、曲を集めていたんです。ぼくの作った曲の半分はニューヨークくさいもの、半分は日本に戻ってきてもう一度構築しようと実験していたものでした。〈NITELIST MUSIC〉からは、ヒロシ・ワタナベとナイト・システム名義で作品を出してもらうんですけど、ニューヨークでやってきたことを踏まえながら、新しいことをやりたいなとも思っていたんです。ちょうどその頃に、のちにいっしょにトレッドというユニットを組んでアルバムを出すことになる、グラフィック・デザイナーのタケヒコ・キタハラくんに会うんです。彼はヨーロッパの音を当時僕より断然追っていて、とくに〈コンパクト〉レーベルという存在を意識していましたね。彼から「ヒロシくん、〈コンパクト〉にデモを送った方がいいよ」と言われたんです。で、曲を送ったら、1週間後くらいにウルフガング・ヴォイトからメールで連絡が来たんですよ。
 ミヒャエル・マイヤーが言うには、送ったタイミングもすごくよかったみたいです。〈コンパクト〉は、1998年にレーベルがはじまってから、ひと通り出し切っちゃった感があったみたいで、自分たちがどこに向かうべきか話し合っていたときらしく。そこにぼくのデモテープが送られてきた。オフィスでかけてみたら、みんなが反応したそうです。メールには、「ちょうど新しいものを探していたんだよ。お前の音はバッチリだから出そう!」と書かれていましたね。

デザインもよかったですよね。〈セックス・マニア〉の猥雑さとは真逆でしょ。いかにもドイツ的なデザインで。なぜカイト名義にしたんですか?

HW:自分の本名でもよかったんですけど、ヒロシ・ワタナベだと印象がニューヨークすぎるんじゃないかと。でも彼らは日本語名がいいと言っていたんです。日本語名って難しいじゃないですか。日本人にとって日本語名プロジェクトがダサく感じることもあると説明していたんですよ。なかなか良い案が出なかったんですけど、「ちょうど生まれて間もない息子のカイトの名前はこういう漢字で、こういう意味(宇宙の謎を解く)があるんだよ」って伝えたら、「もうそれしかねぇよ!」と決まったんです(笑)。そうやってカイトのプロジェクトが生まれたわけです。だから最初に曲を作っていたときに、息子をイメージしていたわけではないです。

親バカからきたわけじゃないんですね(笑)。

HW:全然違います(笑)! ゼロからはじめて、日本で暮らしながら生まれる音楽ってなんだろうという模索の中から作ったのがカイトです。で、セカンド・シングルの「Everlasting」にジャケをつけることになって、子供の写真を送ったらあのジャケになってたんです。



あれがカイトのひとつのイメージを作ったもんね。

HW:自分が意図的にそのイメージを作り上げたわけじゃないけど、一度出した以上はそれでプロジェクトは走っていく。あの当時はダンス・ミュージックにあんな子供がドーンと露骨に出ちゃうって、なかった。だから自分でも面白いかなと思ったんですね。

当時売れたでしょう?

HW:かなり売れましたね。

だって、2000年代からは、ヒロシ・ワタナベといえばカイトですよ。

HW:自然とそうなっちゃいましたよね。


Kaito Live at Studio 672 in 2002

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デリック・メイと一緒に。

日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。









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ニューヨークのハウスは、12インチ・カルチャーですよね。しかし、ヨーロッパのテクノにはアルバムを出すというスタンスがある。結果、カイト名義では6枚以上のアルバムを出すことになりますよね。

HW:2002年、最初のアルバムを作り終えたあと、〈コンパクト〉がぼくのライヴ・ツアーを組んでくれたんです。そのとき、ケルンのまだ小さかった頃のオフィスに行ったんです。そこで、カイトの音楽のもとになったビートレス・ヴァージョンをミヒャエル・マイヤーに聴かせたんです。そしたらビートレス・ヴァージョンもこのまま出そうって、その場で決まったんです!

ああ、それが有名な『ポップ・アンビエント』シリーズにも発展するのかぁ。ヒロシ君の曲の特徴のひとつは、メロディだから、ビートレスの作品というのはすごくわかります。また、〈コンパクト〉というレーベルにすごく勢いがあった時代だった。クラブだけではなくて、アメリカのインディ・ロックの連中も、〈コンパクト〉と〈WARP〉はチェックしていたでしょ?

HW:ジェラルド・ミッチェルが「俺はカイトのビートレス・アルバムが大好きで、毎朝起きると聴いてんだぞ。本当だぜ」と言ってくれました。「デトロイトの連中はみんなお前の曲好きだよ」って(笑)。本当なのかなぁと思ってたんですけど、デリックも「デトロイトの奴らはお前の音楽をずっと追っかけてるぞ!」って教えてくれたんです。それって、お世辞じゃなかったみたいで、ぼくは正々堂々と自分の音楽で彼らとつながることに自信が持てたというか。
 そういう人たちって、ぼくにはレジェンド過ぎるので、会うたびに緊張していたんです。デリックとも最初は全然話せなかったんですよ。イエローが閉店する週の同じ日に、デリックがDJでカイトがライヴというときがあったんですね。そのとき初めて話ができたんです。ちょうどデリックの子供が生まれたばかりで、ぼくも三男が生まれたばかりで、子供の話で盛り上がりましたね(笑)。
 それから数年後、日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。

2003年に〈Third-Ear〉から出た12インチ「Matrix E.P」は、たしかにデトロイティシュでした。メロディの作り方は、いま思えばデリック・メイの好みだったのかな。






「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。


HW:デトロイト・テクノって、メロディアスで、哀愁的な感覚も入ってますからね。マイク・バンクスにはジャズやいろんな要素が入って、音楽のアカデミックな部分が盛り込まれてくるけど、旋律的な部分ではみんなに共通項があると思うんです。

なぜいまデトロイトなんでしょうか?

HW:いままでにもいろんな出会い/出来事がありましたけど、今回の一件は強烈でした。ただ、極めて自然な流れだと思うんです。2004年あたりにぼくはギリシャのレーベルからいろいろ出しているんですけど、そのときに出した数枚のアルバムがデリックの手に渡って、DJで使っていたんですね。

そうだったんですね。ギリシャとのネットワークはどうやってできたんですか?

HW:ギリシャの〈Klik Records〉の元A&Rだったジョージっていう最高な友人がいてリアルタイムに「Matrix EP」をレコード屋さんで見つけてくれたんです。あの曲を聴いて、ぼくに直接連絡をくれた。「この音楽を見付けてからもう何回もリピートして聴いてるよ、うちのレーベルから何か出さないか?」と。ちょうど、アテネ・オリンピックが終わった後ぐらいでしたね。




アテネで開催されたBig In Japanの模様。野外の映画館が会場となり2000人以上動員した。2007年6月


2006年、ギリシャでのポスター。

ギリシャって、経済破綻しながら、なんで音楽は廃れないんだろう。いまでもレーベルがあるしね。

HW:しかもいまでもたしかにパーティ・シーンはあるんです。あそこは国柄、人間性がなんというか、すごくあっけらかんとしているんですよね。イタリアやスペインとも似ていますね。暖かくて、国のどこに行ってもオリーブの木があってっていう、そういう土地柄で、ものすごくオープンな人柄という印象です。
 それから、クラブ・ミュージックをボディではなくてマインド・ミュージックとして捉えているんじゃないかと感じます。ぼくの音楽に対しても、グルーヴもそうなんだけれど、その上に乗っかっているものにシンパシーを感じているといつも行く度に思うんです。

ギリシャはけっこうまわってますよね?

HW:アテネを中心にツアーしていますね。多くのDJは、ギリシャに行くと、だいたいミコノス島にあるカヴォ・パラディソという一番コテコテな有名なクラブでやるんです。観光客ばかりで羽振りがいいんで、有名なDJはみんなそこへ行くんですけど、ぼくはギリシャ全土にある、現地人しか来ないような小さいバーから大きなクラブまで回りました。車やフェリーを使って。それを2005年から毎年2回くらいやったんですよ。
 〈Klik Records‎〉が仕掛けたプロモーションも功を奏しました。発行部数が多い一般紙にぼくのCDをフリーで付けたこともありました。だから、一般のひとにもウケたんですよ。あるツアーでアテネのホテルに滞在していて、ちょっとお腹が空いたから何か買いに行こうと思ってホテルを出て、信号のない大きな道路を渡ったんです。そしたら近くに警察がいて「ヘイ!」って言われたんですよ。渡っちゃいけないところだったのかなと焦って立ち止まったんです、そしたら「アー・ユー・ヒロシ?」って警察が言ってきたんです(笑)。

それはありえないよね(笑)。

HW:本当なんです。「アイ・ライク・ユア・ミュージック」って。




なるほど。90年代はニューヨーク、そして2000年代はヨーロッパのシーンとリンクしているんだけど、2000年代に入ってクラブ・カルチャーも変化するじゃない?

HW:〈コンパクト〉はウルフガング・ヴォイトが社長の座を降りた頃から変わったんですよ。小さなレコード屋さんから大きなオフィスに移って、ビジネスやディストリビューションを大きくしていった。しかし、シーンはデジタルに移行していったので、運営が当時一度難しくなっていってしまった様子でした。

そうだよね。インターネットが普及していったのと反比例して、アナログ盤は減った。

HW:マーケットがデジタルへ移行していくことに関しては、僕も抵抗があったんですけど、ぼくはもともと曲作りから入っているんで、DJソフトのトラクターも早い段階で導入したんですよね。コンピュータを現場に導入する感覚って、楽曲を作っている人間にしてみれば、普通なんです。むしろパソコンがあったほうが安心できるというか。だけどよりDJという側面で強く音楽に接してきた人には、けっこう抵抗があったと思います。パソコンの状態の保ち方とか、データの整理の仕方とか、そういう基本的なところから話がはじまっちゃうから。

そういう意味では、なおさら、なぜいま〈トランスマット〉なのかと思いますね。デリックとの対談で「40代のゼロからのチャレンジ」みたいなことを言っているでしょう?

HW:20数年のキャリアを振り返ったときに、いまという現在を通過できるかできないかのチャレンジをしているってことなんです。ニューヨークでジュニア・ヴァスケスがぼくの曲をクラブでかけるか、というチャレンジと同じくらい大きな試練がやってきたというか。デリック・メイが〈トランスマット〉に求めるものを、ぼくが作れるか作れないかって、とてつもなくハードルが高いことなんですよ。

しかも〈トランスマット〉は〈コンパクト〉みたいにコンスタントに動いているレーベルじゃないからね。

HW:デリックは出したいものしか出したくないし、タイミングなんかどうでもいいわけですよ。自分が出してきたどのレーベルでもそうなんだけど、まず自分が作った音楽があって、出来上がったものを渡すのが自然の流れじゃないですか? でも今回のリリースに関してはそうじゃない。数年前ぼくはデリックに「〈トランスマット〉から出せる機会があれば光栄だし、そんな光栄な時を願わくば待っているよ」ってデリックに言ったんです。そのときは「もちろんそのチャンスがないわけじゃないぜ」って答えたんですけど、ぼくはそれをずっと覚えてたんですよね。
 それであるとき、ふたりで熊本にDJをしに行ったんです。そのときに、カイトとしての自分の今の環境や状況の相談みたいな話をしてて、ものすごく親身になってくれたんです。「もちろん俺はカイトの音楽自体ももっと世の中に認知されるべきだし、お前はカール・クレイグと同じような存在であるべきなのに、なぜもっと世界で認知されていないのか俺には理解できない」、「デリック、嬉しい言葉だけど俺もわかんねぇから、理由を教えてくれ」と(笑)。そうやって個人レベルでのやりとりが密にはじまるんですよね。

そのやりとりが面白いんですよね。そういうやりとりはいつぐらいから?

HW:震災あたりからだから、5年前くらいです。

そのときから自分のデモを聴かせていたんですか?

HW:デモを聴かせているというよりも、当時は純粋にぼくが出している曲を聴いてくれていたんです。彼がぼくの曲をDJで使っているのを知ることで、そんな嬉しいことはないと思いながら、ぼくもデリックにしっかり話していいんだなと思えてきて、あるときに、「お前はデトロイトに来てフェスに出るべきだ!」って言われたんです。そりゃいつでも出たいけど、どうしようもないじゃないですか。そしたら「俺が話をつけてやるから、ちょっと待ってろ!」と。それでしばらく経って、また会ったときに「ヒロシ、ごめんな。俺はプッシュしたんだけど、イベントの体制が純粋に音だけで選ぶような今は状況ではなかった。ごめんな」と。そういう見方をしてくれていたんですよね。
 それでデリックは、彼なりにぼくに対してできる最善のことは何かと、考えてくれるようになったんでしょうね。そこまで関係性ができたときにぼくはデリックに曲を渡すんです。忙しいだろうし返事もすぐには来ないだろうなと思ってたんですけど、「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。

はははは(笑)!

HW:「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。

すごいね(笑)!

HW:「そこにたどり着く方法は自力で見つけろ。お前には絶対できる。本当に出したかったら、次の〈トランスマット〉からのリリースはヒロシだ」と。デリックがそんなこと言うなんてすごいじゃないですか? 

まあ、すごいですね(笑)。

HW:だけどそれと同時に、いままでにないプレッシャーを感じたんです。いいものができたら曲を出すって言われている以上、作らなきゃいけない。でも作っても「ヒロシ、これじゃない」と返信し続けられたら、ぼくは生きた心地がしないわけです。ずーっと自信をもって音楽を作ってきているし、自分の音楽を感じながらやってきたものの、そこで作れども作れども、もしOKが出ないなんてことが起きたら、デリックの言うポイントに到達できてないってことになる。それは自分の音楽人生であっちゃいけないし、ありえないことだと思ったんですね。

しかしデリックも直球な言葉ばかりを言ってくるんだね。

HW:だから、20年以上のキャリアを積んできたにも関わらず、もう一回ゼロから自分がチャレンジする機会をデリックがくれたとも言えるんですよ。ニューヨークで無心になって作っていた当時の自分がいま新たに蘇ったというか。デリックに「これだよ!」って言われなかったら、俺の20年間はなんだったんだろうと、そのときに思ったんです。そこからはもう、徹底的に作り続けました。

「あの山を登るのに、他の連中はこの平坦な綺麗に舗装された道を行く。しかし、お前は一人きりで裏の崖からロープ一本で登ってるんだ」とか言われたらね(笑)。

HW:「お前は荒野のなかの一人たたずむ侍だ、自身の中に潜む何かを掴むために一人きりでいるんだ」(笑)とか。

そうやって火をつけるのが彼のやり方なんだろうけど、すごいものがあるよね。

HW:最初に送った楽曲は〈トランスマット〉へというつもりではなかったにせよ、しょっぱなが「これじゃない、もっと〈トランスマット〉に相応しいものを作れ」って言われたわけじゃないですか。(笑)だから簡単には曲は送らないと決めたんですけど。なんでもいいわけじゃなくて、自分で彼のいうポイントに到達できたと思えるものでないと送っちゃいけないと思ったし、深く考えると、自分がいいと思ったものに対して「お前はこんなものをいいと思ってんのか?」と反応をされたとしたら信頼も失うことになる。だからそのときに自分は何を作るべきなのかを、いろいろ深く改めて探るようになったんです。

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カール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。









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ニューヨーク時代にハウスを追求し、カイトではアンビエント的な要素もいれつつ、より多様なエレクトロニック・ミュージックをやっていたと思うんですけど、それとは別のコンセプトが必要になってきたときに、何をどうやって考えたんですか?

HW:〈トランスマット〉で選ばれてきた音楽もしっかり一通り聴き返したんです。純粋に改めて「デトロイト・サウンドって何だろう?」という観点から作っても、ヒップホップやガラージ・ハウスを真似するのと結局同じことになってしまう。そんなことでは絶対にダメだし、そんな方向をデリックが求めていないことはハナっからわかってたんです。とはいえ、カイトのまんまやることはぼく自身が納得できなかった。それは〈コンパクト〉や他のレーベルでやればいい。やっぱり〈トランスマット〉から出すのであれば、その歴史の名に恥じないものを作らなきゃいけない。ぼくが好きなカール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。
 例えばグレッグ・ゴウ(Greg Gow)やステファン・ブラウン(Stephen Brown) とか、マイクロワールド(Micro World)、特にジョン・ベルトランなんかはめちゃめちゃメロディアスで、ディープで綺麗で繊細だし。デリックのすごくホットなDJプレイのシーンだけじゃなくて、彼自身の音楽の好みや〈トランスマット〉が歩んできたルートを紐解いていけば、そもそもなんでカイトにシンパシーを感じてもらえ、DJでも使ってくれている理由とかもより明確にわかってきたんですね。

自分の武器が何なのかがわかってきたということ?

HW:そういうことです。ぼくが何かに合わせるということよりも、自分が本来持っているものの何をデリックは見ていたのかを、自分でもう一度探し求めたといいますか。

今回のアルバムは、いままでのヒロシ・ワタナベ作品のなかではもっとも感情に訴える音楽ですよね。それが大局的な意味で言うところのデトロイティッシュなものですよね。ブレインでもボディでもなく、エモーションに行くっていうね。

HW:タイトルや曲の情景が出来上がるにつれて、自分が導かれていく場所はタイトルが示しているものだってわかっていきました。生きている意味だったりとか、自分が生かされている場所だったり、そんなところまでさかのぼって音に気持ちを込めざるをえなかったんです。もちろんアルバムの2曲目を聴いてみると、自分がニューヨークで体験したことが現れていたりするんです。野田さんのライナーにも書いてくれていましたけど、逆に“Heliosphere”なんかはデリックが好きなカイトのテイストだと思うんです。アルバム全体には自分のいろんな部分が散りばめられているんですよね。

そういう意味でいうと、ヒロシ・ワタナベがいままでやってきたことが集約されているんだけれども、やっぱりデリック・メイに火をつけられた部分というか……

HW:40半ばで心が少年になっちゃったんですよね。一度もレーベルから出したことのない時代にさかのぼって、気持ち的には本当にあの頃に戻っていたというか……。あの頃って、本当に血眼になって楽曲を作っていたというか……。

デリックとヒロシくんの関係がはまったんだと思います。たとえば“The Leonids”という曲は、本当に素晴らしい曲ですね。

The Leonids (ele-king exclusive preview)
https://soundcloud.com/kaito/the-leonids-eleking-exclusive-preview/s-wpIVz

デトロイティッシュであなりながら、ヒロシ・ワタナベらしい繊細さ、ソウルフルな展開……。

HW:人種を飛び越えたところでのソウル・ミュージックって何だろうって考えましたね。「特定の生まれもったルーツがないとソウル・ミュージックとは言えないのか?」と。言葉がないダンス・ミュージックってそういうところを越えていけるような、ものすごく特殊な音楽だと思うんです。本当の意味で魂や人種を飛び越えることが、どのように音が変換されていくのかを見てみたかったんですよ。

それもデトロイト・テクノの重要なコンセプトでですね。例えば、ケンドリック・ラマーというヒップホップのひとがいて、ぼくはいま大好きなんですけど、彼はソウルやファンクもちゃんとわかっていて、ジャズやフライング・ロータスのような最新のエレクトロニック・ミュージックも取り入れている。なによりも弱き者たちへの力強いメッセージもある。しかし、そこで主に参照されるのは、やはり自分たちの内なる文化、アフリカン・アメリカンの文化なんですね。
 デトロイト・テクノのすごいところは、彼らは自分たちの内側だけを参照しないところなんです。ヒロシ君もよく知っての通り、自分たちの内なる文化を誇りとしながら、ヨーロッパであるとか、他の文化にどんどんアクセスする。90年代にぼくが初めてデトロイトへ行ったときに、友だちの車で最初に流れたのがエイフェックス・ツインだったんですね。ぼくにはものすごい先入観があったんですね。黒人はエイフェックス・ツインを聴かないだろうっていう。しかし、真実はそうではなかったんです。デトロイト・テクノは、アフリカン・アメリカンであるということだけでは完結できないんです、そして、それを彼らは“未来”と言ったんですよね。
 どこまでデリックが意識しているのかわからないけど、〈トランスマット〉は早くから、アラブ系とか、中国系とか、アメリカ人でも主要ヨーロッパの人たちでもない人たちの曲を出していますよね。しかも彼は、日本のことが大好きだから、もっと早くに日本人の作品を出したかったかもしれない。だから、ヒロシ・ワタナベの作品を出せたことは、彼自身も嬉しかったんじゃないのかな。あるいは彼は気まぐれな男だし、商業ベースでレーベルを運営していくタイプでもないんで、出会いのタイミングもあったとは思うけどね。ちなみにこの「マルチヴァース(Multiverse)」というタイトルですけど、これは人種を超えた何かを表しているんですか?

HW:そうです。次元を飛び越えたところで、自分たちが存在する意義とは何かと。音や自分が生きてきた証のなかで、しっかりと正々堂々と繋がってこれた関係性でもあるわけじゃないですか。そういうなかで、もっと飛び越えた次元で自分が生きていることが最終的にどんな証になるのか、この機会に自分の気持ちを盛り込まなきゃと思ったんです。

どこで意識されたのかわからないですけど、世界情勢をみると、それはタイムリーなメッセージですね。アメリカもヨーロッパもすごく難しい時期にきていますね。もちろん日本も。

HW:本当はもっと飛び越えていかなきゃいけないんですよね。みんな本当のところはわかっているんだから。

DJカルチャーの重要さもそこにありますよね。さっきのギリシャの話もそうだけど、ぼくたちは日本に住んでいるけど、ムーディーマンのDJを通じてデトロイトのインナー・シティのソウル・ミュージックを聴くこともできる。南ヨーロッパの辺鄙な街で生まれたハウス・ミュージックを聴くことができる。大げさに言えば、普段は出会うことがない文化にDJを通して触れることができる。DJはある意味では文化の運び屋なんだけど、同時に文化をミックスすることもできるんですよね。

HW:音楽というところで繋がっているひとたちは、DJに限らずいろんな国や人種にふれたときに、問答無用にひとつになれることを体感しているわけじゃないですか。それこそ僕たちが地球全体で抱えている問題って実はすごくシンプルで、人種なんか関係ないはずです。ところが、国が大変になってくると、政治や宗教が原因でいろいろな事件が起きる……そういう意味では、ぼくがいま感じられることは注ぎました。野田さんの素敵なライナーもありがとうごいました! ぼく自身のメッセージもあえて添えましたし、きっとトータルで音や言葉からそれらを感じてもらえると思います。

NOT WONK - ele-king

 平均年齢20歳の札幌のロック・バンド、NOT WONKも“格好いい男のたち現る”現象において重要なバンドです。ワイキキ/DYGLと双璧を成しているのかもしれません。彼らが英語で歌うのは、ここ5年のJロックと括られる日本語バンド名/日本語ロック・バンドへの違和感があるのではないでしょうか? と邪推してみます。そうすると彼らの音楽が、ロックンロールとはもっと格好いいものなんだよと暗に主張しているように見えるのです。
 NOT WONKは、ワイキキ/DYGLよりもエモーショナルです。安孫子ちゃんのレーベル、〈KiliKiliVilla〉からの昨年のデビュー・アルバム『Laughing Nerds And A Wallflower』は、当初の予想を覆し、たくさん売れました。そして、4月20日、新曲“This Ordinary”“Don’t Get Me Wrong”が先行配信販売します。アルバム『Laughing Nerds And A Wallflower』の配信スタートします。

 また、7日15時よりKiliKiliVillaのオフィシャル・サイトにて“This Ordinary”のMV公開になります。これなんですけど。https://www.youtube.com/watch?v=Y65dfJQYkoc
 そして、ニュー・7インチ・シングル「DisOrdinary」が500枚限定でリリースされことになりました。
 キミが若者であるなら、チェックしましょう。

NOT WONK
「This Ordinary」

KiliKiliVilla

Side A : This Ordinary
       Don’t Get Me Wrong
Side B : DisOrdinary
定価:1,400円+消費税
KKV-026VL
5月25日発売

news_Moe and ghosts × 空間現代『RAP PHENOMENON』、いよいよリリース、そしてレコ発のお知らせ

 彼女は、そうだね、たとえば最近の、ゆるふわ系女子がラップしましたっていうのとはわけが違うんだよ。ホンモノのラッパーだ! と、信頼のおける某ライター氏が言っておりました。たしかに……Moe and ghosts 、その速くて独特のアクセントのフローに、ジャズドミュニスターズなどで聴いてびっくりされた方も多いでしょう。
 早くから期待が高まっていたMoe and ghostsと空間現代との共作『RAP PHENOMENON』は、いよいよ来週の水曜日(6日)に発売されます。
 また、4月6日にDOMMUNEにてオンライン・リリース・パーティ、5月30日には渋谷WWWにてZAZEN BOYSとのツーマン・レコ発も決定しました。これ、間違いなく注目作です。



Moe and ghosts × 空間現代
RAP PHENOMENON
NKNOWNMIX 42 / HEADZ 212
2016年4月6日発売

Amazon

■TRACK LIST:

01. DAREKA
02. 不通
03. 幽霊EXPO
04. TUUKA
05. 新々世紀レディ
06. 可笑しい
07. 少し違う
08. TASYATASYA
09. 同期
10. DOUKI
11. 数字
12. ITAI

Moe and ghosts: Moe, Eugene Caim
kukangendai: Junya Noguchi, Keisuke Koyano, Hideaki Yamada

All lyrics by Moe and Junya Noguchi
Except Track 6 (Mariko Yamauchi "It's boring here, Pick me up.")
All music produced by kukangendai
Except Track 1, 4, 8, 10, 12 produced and mixed by Eugene Caim, contain samples of kukangendai

Recorded by Noguchi Taoru at Ochiai soup
Rap Recorded and Mixed by Eugene Caim at DADAMORE STUDIO
Mixed and Mastered by Tatsuki Masuko at FLOAT

Photographs: Osamu Kanemura
Design: Shiyu Yanagiya (nist)

 2012年に発売され異形のフィメール・ラップ・アルバムとして話題となった1st『幽霊たち』から、約4年振りの作品リリースとなる"Moe and ghosts"と、昨年はオヴァルやマーク・フェル、ZS、OMSBら国やジャンルを越えたリミキサーが参加したリミックス・アルバム『空間現代REMIXES』をリリースし、日本最大級の国際舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー」に出演するなど各方面で注目を集める"空間現代"のコラボ・アルバムが発売決定。
 2015年に開催されたHEADZの20周年イベントにて初披露されたこのコラボレーションは、巷の安易な共作ではなく、互いが互いの音楽を研究しつくし、互いの音楽が寄り添いつつ並列し昇華される、前代未聞のコラボレーション、前代未聞のラップ・アルバムに仕上がった。
 山内マリコの小説「ここは退屈迎えに来て」のテキスト使用した楽曲や、未だ謎に包まれるMoe and ghostsのトラックメイカー、ユージーン・カイムが空間現代をリコンストラクトしたトラックも収録。
 ジャケット写真は金村修。ジャケットデザインはブックデザイナーの柳谷志有。バンド録音は、にせんねんもんだい等の録音を手がける野口太郎。ラップ録音はユージーン・カイム。ミックス・マスタリングは砂原良徳やiLL等を手がける益子樹が担当。
 2016年4月6日にDOMMUNEにてオンライン・リリース・パーティ、5月30日には渋谷WWWにて、ZAZEN BOYSとのツーマン・レコ発が決定している。

■アルバムのティザー映像

■LIVE

2016年4月6日(水)
@DOMMUNE 21:00-24:00
【"RAP PHENOMENON" ONLINE RELEASE PARTY】
LIVE:Moe and ghosts × 空間現代
DJ:GuruConnect(from skillkills)

2016年5月30日(月)
@渋谷WWW
【"RAP PHENOMENON" release live】

LIVE:
Moe and ghosts × 空間現代
ZAZEN BOYS

open18:30/start19:30

前売:3000円(+1D)
※ぴあ[Pコード:295-316]、ローソン[Lコード:75789]、e+[https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002187031P0030001]にて4/9~販売開始

https://www-shibuya.jp/schedule/1605/006575.html

Riki Hidaka - ele-king

 4月は残酷な月……と言ったのはT.S.エリオットだが、しかしなんなんだろう、この世捨て人のような音楽は。ボヘミアニズムをためらうことなくにおわせる彼が生きている世界とは、どんな世界だ。日高理樹が息を吸って吐いている世界……それはぼくと同じ世界である。

 トリクルダウン(は幻に 終わった新自由主義)がもたらす冷酷な世界。考えてみればロック文化が世界的に、あるいは米国において昔にくらべて弱体化したのも、中間層の弱体化と関係しているのかもしれない。それは白人史観だと言われそうだが、なんだかんだいって大戦後の大衆音楽文化を支えた主成分は彼らであり、ウッドストックもそうだった。それがパンクでは、あらゆる階層が交錯したかもしれない。しかしいま下北沢を歩いても、新宿2丁目あたりを歩いても、残酷なほどクリーンになっている。数年前に改築された下北沢の小田急の駅は不便極まりないし。
 90年代までは日高理樹のような人が下北にはたくさんいた。平日の昼下がりに暇を持てあました若者が道ばたに座っている風景も、珍しくはなかった。しかしいまでは観光客の外国人が道ばたに座っているその横を、まるでそれが視界に入っていないかのように、人はさくさく歩いている。日高理樹の音楽も同じように、それがなかったかのように忘れられるのだろう。聴こえない人には聴こえない音楽。見えない人には目の前にいても見えない人。

 彼はすでに2枚のアルバムを発表しているようだ。これは3枚目のアルバムになるのだろうか、リリース元は広島のレコード店〈Sereo Records〉。グルーパーのようなドローン・フォーク調の曲があり、物静かな作品ではあるが、90年代末のキャレクシコのようなローファイ宅録ならではの捻りと面白味をもった曲もある。何も持たない人間が多重録音して作った音楽で、スタイルこそまったく別ものだが、ムーンドッグの音楽のような無邪気さ/誠実さも感じる。タイトルが言うように、彼は「見捨てられた(Abandoned)」領域に侵入する。ドアを開けて部屋に佇み、静かに微笑んでいる。
 わからない。彼の音楽に気がつく人は、ぼくが考えているより多くいるかもしれない。ぼくがこんな仕事を続けているのも、こういう人たちがいるからで、日高理樹のような人たちがいない世界を望んでいないからだと思う。というか、間違いなくそうだ。

Lafawndah - ele-king

 いつも少し遅い。だがそれゆえいつも質が高く、ポイントは外さない。それが〈Warp〉というレーベルの性格である。
 昨年リリースされたフューチャー・ブラウンのアルバムからも聴き取ることができたように、近年のベース・ミュージックは、従来ならワールド・ミュージックという言葉で呼称されたであろう領域から様々な要素を貪欲に摂取し、どんどんその境界線を書き換えていっている。あるいは南アフリカのシャンガーン・エレクトロやリスボンのゲットー・サウンドがそうであるように、いまやワールド・ミュージックそれ自体がベース・ミュージックという文脈の中で生き直しを図っているのかもしれない。
 ともあれ、そのようにベース・ミュージックとワールド・ミュージックとが混淆していく様を数年遅れで少しずつパッケージしてきた〈Warp〉が、ここにまたひとり新たな才能を送り出した。

 ラファウンダことヤスミン・デュボワはパリで生まれ育ち、現在はニューヨークを拠点に活動しているシンガー/プロデューサーである。かつてソルボンヌで美術史を研究していたという彼女は、ニューヨークやメキシコでギャラリーのキュレイターを務めた後、ラファウンダという名義で音楽活動を開始する。2014年には〈ナイト・スラッグス〉のボスであるエルヴィス1990やケレラと一緒にレコーディングをおこなったり、ティーンガール・ファンタジーのEPに客演したりしながら、デビューEP “Lafawndah” を発表。日本で開催された Red Bull Music Academy Tokyo 2014 にも参加している。そして2015年の秋、ケレラに続く形で〈Warp〉と契約を交わし、年明け後セカンドEPとなる本作をリリースした。
 グアドループで録音された前作ではズークが参照されつつも、ラテン・ミュージックのステレオタイプを解体していくような独自のダンス・ミュージックが展開されていたが、本作でもそのようなリズムの探求は続けられている。

 エルヴィス1990との共作である “Town Crier” は、軍隊的でもあり土着的でもあるドラムが前面に押し出されており、インダストリアルからの影響を聴き取ることができる。このトラックは、昨年大統領選への出馬が取り沙汰された法学者ローレンス・レッシグに対しラファウンダ自らがおこなった、「市民的不服従」をめぐるインタヴューとセットで公開されたもので、彼女のポリティカルな側面が打ち出されたマニフェストとして聴くことも可能だろう。

 続く “Ally” では、彼女の標榜する「儀式的クラブ・ミュージック」の側面が強調されている。アーロン・デヴィッド・ロス(ゲイトキーパー)とニック・ワイス(ティーンガール・ファンタジー)との共作であるこのトラックでは、軽やかに転がるパーカッションの上を狂ったようなパンパイプが吹き荒れ、どことなく M.I.A. を思わせるラファウンダのヴォーカルが、それらに追い立てられるように疾走していく。

 そして白眉は何と言ってもタイトル・トラックの “Tan” だろう。
 タイトルの "tan" という語は、デューク・エリントンのミュージカル『ジャンプ・フォー・ジョイ』でアフリカン・アメリカンを指すために用いられた "suntanned" (「日焼けした」)という語から採られている。ニーナ・シモンから影響を受けたというラファウンダだが、このタイトルが仄めかしているのは、エジプト人とイラン人との間に生まれた彼女が、西欧社会で暮らしながらブラック・ミュージックを受容することによって獲得した、独特のゆがみやねじれだろう。まさにそのゆがみやねじれこそがこのトラックの低音を作り上げている。
 変則的なドラムがヴォーカル・サンプルにまとわりつかれながらトラック全体の時間を支配し、狂騒の後に訪れる静寂を際立たせる。まるで単調なリズムに身を任せて享楽に耽ることに対し異議を申し立てているかのような、それでいてダンスへの意志は絶対に放棄しない、そういう稀有な作りになっている。これはいわば慣習への抵抗であり、おそらくは彼女の「市民的不服従」の思想とも照応しているのだろう。

 ところで、この特異な音楽にはまだ名前がない。ベース・ミュージックにしろワールド・ミュージックにしろ、それらはあくまで抽象的な総称である。現在ラファウンダはアルバムを制作中とのことだが、彼女が今後も本作のような刺戟的なリズムの探求を継続し、両者の境界を攪乱し尽くした後になってから、ようやく新しい言葉が生み出されるのだろう。
 いつも少し遅い。〈Warp〉がではない。言葉がだ。

DYGL - ele-king

 格好いい男の子たちはいつ見てもいいもの。Ykiki Beatのメンバー3人を擁す噂のインディ・ロック・バンド、DYGL(デイグロー)のデビューEP『Don’t Know Where It Is』(6曲入り)が5月4日にリリースされる。ワイキキをガレージに変換しながらキュアーをやったような、ワイキキ同様にニューウェイヴ時代のインディ・バンドの良いところを手際よくコラージュしたような感じで、じつにお洒落で格好いい。まずはyutubeを見よ。
 

 ほら、格好いいでしょう。いまどき男子だけのバンドはアナクロだなんて言わせませんよ。だから格好いい男の子たち、英語が苦手なぼくたちのために早く日本語で歌ってくれ、声優に負けるな! 


DYGL
Don’t Know Where It Is)

2016.5.4 ON SALE
(CD、ヴァイナル、カセット)
*カセットのみ4月6日の発売
【収録曲目】
1. Let It Sway
2. Don't Know Where It Is
3. I'm Waiting For You
4. Let's Get Into Your Car
5. Slizzard
6. Thousand Miles

■オフィシャルWEB:https://dayglotheband.com/

※また、デイグローの曲は、SaToA、Cairo、Burgh、Yuksen Buyers House、Batman Winksなど、新世代のインディ・バンドを集めたコンピレーション・アルバム『Rhyming Slang Tour Van』(Pヴァイン)の1曲目にも収録されています。

こちらは3月29日に発売されています。

Leftfield Groove 2 - ele-king

 ダンス・ミュージックで使われるレフトフィールドという言葉はとてもざっくりとしている。ハウス、テクノ、ヒップホップ、ドラム&ベース、ダブステップなど、何か特定のジャンルを指しているわけではないけれど、そのいずれにもレフトフィールドと呼べる領域は存在していて、レコード店でのポップなどにこの言葉が添えられる作品には、おしなべて共通した雰囲気が漂っている。
それを「自由で実験的」と言ってしまえばそれまでだが、最も重要なのは作品のどこかにダンスフロアとの接点が必ず残されている点だ。なぜなら「レフト」が存在するためには「センター」という前提が必要で、ダンス・ミュージックの「センター」に位置するダンスフロアという起点があるからこそ、レフトフィールドとしての意義が明確になるからだ。
 起点から遠く離れるほど異質になっていくが、それでもやはりフロアで機能し得るこの手のトラックはDJにとって非常にプレイのしがいがあるもので、上手くセットに組み込めば驚くほど新鮮で不思議な体験をもたらしてくれる。踊る側にとってもドラミングにおけるシンコペーションのように、そこにはズレによる心地よさがある。今回ここに選んだのは、前回とは違うかたちで素敵なレフトフィールドぶりを響かせている5作品だ。


Dynamo Dreesen, SVN & A Made Up Sound - Untitled - SUED

 ダブステップ・シーンから火が点いた2562ことア・メイド・アップ・サウンドは近年、そのイメージから離れていくように、尖った実験性を持ってダンスフロアに面白い提案を投げかけている。レフトフィールド・サウンド筆頭レーベル〈スード〉から発表したこのコラボレーションもそのひとつ。

Don't DJ - Gammellan - Berceuse Heroique

 ドント・ディージェイという名前からもレフトフィールドぶりが伝わって来る彼は、デビューから一貫してポリリズムによるミニマルな陶酔性を探求している。中でも特にこの”ガムラン”は出色の仕上がり。

PST & SVN - Recordings 1 - 4 - Recording

 何度も制作を共にしているポーン・ソード・タバコ(PST)とSVNのふたり。簡素な4つ打ちリズムの中に潜むロウなテクスチャーとじんわりと滲み出てくるトロピカルなムードによる反復の快楽がたまらない。

Frank Wiedemann - Moorthon EP - Innervisions

 00年代を代表するアンセム“レイ”を生んだアムの一員、フランク・ヴィーデマンの初ソロ作品に収録されているトラック。電子音による特異なセッション空間とグルーヴを実現している。

The Durian Brothers / Harmonious Thelonious / Don't DJ - Diskanted - Emotional Response

 ドント・ディージェイ、そして彼が参加するプロジェクトであるザ・ドリアン・ブラザーズ、ひび割れたトロピカルサウンドが特徴的なハーモニウス・セロニウスの楽曲をコンパイル。その共通項にあるのはやはりポリリズム。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316