「You me」と一致するもの

Lori Scacco - ele-king

 ロリ・スカッコの音楽を聴くと、いつも「波紋」のようなサウンドだと感じる。水滴と波紋。その水面での折り重なり。いわば「丸と円」のレイヤーのような音楽。もしくは「輪」のような音のアンサンブル。それはカタチや現象の問題だけではなくて、どこか人と人との関係性、つまり「縁」を表しているのではないか。
 じっさい2004年にスコット・ヘレン(プレフューズ73)が運営し、あのサヴァス・アンド・サヴァラスのアルバムなどもリリースしていたレーベル〈Eastern Developments〉から発表された彼女のソロ・ファースト・アルバムも『Circles』というアルバム名だった。このアルバムを制作する前、ロリ・スカッコはバンド、シーリー(Seely)の解散を経験していたわけだし、それなりに人間関係の大きな変化の只中にいたのだろう。
 ちなみにシーリーは、1996年にトータスのジョン・マッケンタイア・プロデュースのファースト・アルバム『Julie Only』を〈Too Pure〉からリリースしたバンドである。シューゲイザーからステレオラブまでのエッセンスを持ちながらミニマル/ドリーミーなポップを展開し、熱心なリスナーも多かったと記憶している。ロリはこのシーリーのピアニスト/ギタリストだった。シーリーは2000年にアルバム『Winter Birds』をスコット・ヘレンとの共同プロデュースでリリースし、そして解散してしまったが、その解散から4年の月日をかけて彼女はソロ・アルバム『Circles』をリリースしたわけだ。
 そしてその音楽性はバンド時代から大きく変わった。ギターやピアノ、弦楽器などにエレクトロニクスが控えめにレイヤーされた「アコースティック・エレクトロニカ」とでも形容したい作品に仕上がっていたのだ。日曜の朝とか晴れた日の夕暮れ時を思わせる穏やかで美しいクラシカルなアルバムである。永遠に耳を澄ましていたいような心地良さがあった。もちろん聴き込んでいくと、音と音の重なりは和声感も含めて、実に繊細に織り上げられていることに気が付く。まさに「サークル」の名に相応しい作品である。このアルバムは熱心な聴き手に深く愛され、リリースから10年後に日本盤CDが〈PLANCHA〉からリイシューされ、新しいリスナーからも歓迎された。
 『Circles』リリース以降のロリ・スカッコは、ダンス、映画、ビデオ・アートの音楽制作を行いつつ、サヴァス・アンド・サヴァラスのメンバーのスペインのアーティスト Eva Puyuelo Muns とのストームス(Storms)としても活動し、2010年にはアルバム『Lay Your Sea Coat Aside』をリリースした。そして2014年にはデジタル・リリースのソロ・シングル「Colores (Para Lole Pt.2)」を発表。加えて先にも書いたように〈PLANCHA〉から『Circles』がリイシューされた(ボーナス・トラックを追加収録)。

 新作『Desire Loop』は、14年ぶりのセカンド・ソロ・アルバムである。リリースは、ニューヨーク・ブルックリンを拠点とするアンビエント・レーベル〈Mysteries Of The Deep〉から。〈Mysteries Of The Deep〉は、ニューヨーク・ブルックリンのエクスペリメンタル・バンド、バーズ・オブ・プリティのメンバー、グラント・アーロンによって運営されており、Certain Creatures、William Selman などの作品をリリースしている。
 本作も生楽器主体の『Circles』から一転し、シンセサイザーをメインに据えたアンビエント/トライバルな電子音楽に仕上がっていた。この変化には一聴して驚いてしまったが、しかし何度も聴き込んでいくと、どんどん耳に馴染んでくる。『Circles』と同じように波紋のような音がレイヤーされていく構造になっているからか、聴くほどに耳と身体に浸透するような音楽なのだ。音と音が泡のように生成しては変化し、持続やリズムをカタチづくっていく。あの見事なコンポジションは、形式を変えても健在であった。いや、深化というべきかもしれない。
 シンセ中心のサウンドのムードは、どこか現行のアンビエントやニューエイジ・シーンともリンクできる音楽性だが、浮遊感に満ちた和声感覚と音のレイヤー感覚などから、やはりロリ・スカッコという「作曲家」の個性が強く出ている電子音楽にも思えた。

 とはいえ、あざとい作為は感じられない。ごく自然にミニマルな音とミニマルな音が重なり、そこにコードやリズムが必然性を持って生まれていた。1曲め“Coloring Book”には、本作の特徴が良く出ている。やや硬めの電子音の持続から音が分岐するようにいくつかのループが生まれ、やがて糸がほぐれるように変化したかと思えば、それらはループを形成し、トライバルなビートが鳴り始めもする。持続と反復。その中断と非連続性の美しさ。まるで確かに水の波紋のように、一種の自然現象のように、電子音たちが踊っている。続く2曲め“Strange Cities”はニューエイジなムードのシーケンスから幕を開け、それらが電子音の層へと溶けるように変化を遂げていく。この最初の2曲に象徴的なのだが、ロリ・スカッコの作曲は音の反復を持続の中に「溶かす」。電子音という生成変化が可能な音響だからこそ実現する反復と非反復の融解とでもいうべきか。
 アルバム中、重要な曲は5曲め“Back To Electric”ではないか。トライバルなリズムが鳴らされていくのだが、もう1階層、別のリズム/ビートがレイヤーされており、そこに規則的な電子音と民族音楽がグリッチしたような旋律が鳴る。聴いていくと時空間が「ゆがんで」いくようなサイケデリック感覚を味わうことができた。続く6曲め“Tiger Song”は細やかなノイズと、どこか日本的な旋律に反復的なビートが重なる印象的な曲だ。7曲め“Red Then Blue”もノイズのレイヤーからミニマルな反復が生成し、ゆるやかに聴き手の知覚を変化させるような見事なトラックである。アルバム・ラストの8曲め“Other Flowers”では、それまでサイケデリックに歪む時空間が、次第に知覚の中で整えられていく。まさに「花」のような端正な電子音楽である。

 こうして14年ぶりとなるロリ・スカッコの新作アルバムを聴いてみると、やはりこの歳月は必要だったのだと痛感する。反復と非反復の往復。知覚の遠近法を変えてしまう音のゆがみ。それらを曲として成立させること。作曲と即興のあいだにある音と音の自然な生成の追求。そのための時間。何より音楽それじたいが聴き手に対しても長い時間をかけて浸透するような時を内包しているのだ。それは自分の音楽を作り続けた人だからこそ獲得することができる「時の流れ」の結晶ではないか。そんな感覚を『Desire Loop』の隅々から聴き取ることができた。

 かつてはアトランタで建築を学ぶ学生であった彼女だが現在はニューヨーク在住という。いまのアメリカの政治や社会状況には憤りを感じているというが、音楽にそのような感情は直接には反映されていないように思えた。しかし、彼女の音楽に耳を澄ましていると見えてくるのは、脆さや弱さ、そして美や強さに向かい合いつつ、極めて誠実に音楽=世界と向かい合っている音楽家/作曲家の姿だ。この酷い世界を音楽によって肯定すること。音と人の関係性を、その弱さを脆さと共に感じ取ること。そんな意志が音の粒子に舞っているのだ。

 本作は繰り返し聴取することで、どんどんその魅力が増してくるようなアルバムだ。ぜひとも「電子音楽家としてのロリ・スカッコ」が鳴らす音の波に耽溺してほしい。世界の事象が溶け合っていくような見事な作品である。


Kojo Funds - ele-king

 UKガラージ、グライムからアフロビーツまで、現在のUKの音楽のいくつかは「垂直のゲットー」とも呼ばれるロンドン郊外の団地から生まれてきた。グライムが生まれた2000年代初頭、MCはそれぞれの郵便番号でエリアをレペゼンした。郵便番号が表す1区画が彼らが守っていたエリアであり、またそれぞれクルーの境界でもあったという。一方で、同時期の投資と民間主導の都市再開発はオリンピックを契機にさらに加速していった。“公共”住宅が“高級”住宅へと建て替えられ、もともと住んでいた家族はより不便なエリアに追い立てられたり、予算が切り詰められたことでユースセンターが閉鎖されたりしているという。例えば、Dizzee Rascal や Wiley がしのぎを削った Deja Vu FM がもともとあった団地も、いまや警備員の配備された高級住宅地であるという。

 こうした背景から楽しみを失い、行き場を失ったロンドンの若者のギャング化が問題となっている。ナイフによる殺傷事件の増加はギャング・カルチャーと結びつけられ、ひいてはギャングスタ・ラップやグライムが槍玉に上げられることもある(*)。

 音楽の中で彼らがレペゼンしているのは、郵便番号ではなく、仲間やグループ、そして彼らが住む団地一棟である(**)。彼らは団地やアパートメント周辺で撮ったMVをYouTubeで公開し、自らのエリアを誇示する。「ハイパーローカル」と形容されるような極度の地元傾向、そしてその「ギャング」傾向は、ギャングスタ・ラップの競争的で暴力的な一面ではある。一方で、ストリートのハスラーとして名を馳せてきたロンドンのラッパーのスタイルは、若者から羨望の眼差しを受けている。ギャング・カルチャーの槍玉に音楽が上がることの是非もあるが、彼らの音楽が絶大な影響力を持っているということでもある。

 そんなUKラップのニューカマーとして注目を集めているうちのひとりが、Kojo Funds である。2016年に Kojo Funds がロンドンのMC、Abra Cadabra とのコラボ曲“Dun Talkin”をヒットさせ、「ラップする」のではなくパトワ交じりのスタイルで「歌い上げる」スタイルのパイオニアとなった。そして翌年には Mabel のラヴ・ソング “Finders Keepers”での客演で、YouTube再生回数3000万回の大ヒットを記録した。そして、遂に彼のデビュー・アルバム『Golden Boy』がリリースされた。

 アルバムはハードなギャングスタ・ラップをベースに、時折ソフトな曲やラヴ・ソングがくるような展開になっている。出だしは“Golden Boy”。自分を大きく見せようとする「ギャングスタ」の嘘について歌った“0%”、そして彼のヒット曲“Warning”へ流れる。彼の歌い方からは、肩に力が入ったような「怒り」ではなく、むしろ勝者としての余裕が感じられる。

フィールドに出ても、何も言わない
充電器みたいにプラグする
まるで Kolo と Yoyo
警察が俺の仲間を追ってる
やつらは言う、Kojo は悪魔だ
続編は見たくないって
俺の Nigga はディーゼルみたく Furious
“Warning”

 続いての“Million”から2曲は、昨年の“Finders Keeper”で見せたソフトで粋な一面が表れる。Raye を迎え、アコースティック・ギターが印象的な“Check”では、ラヴ・ソング・デュエットを披露している。落ち着きながらも、Kojo Funds のメロディックな暗喩の才能が開花する“Stallin'”。そして、Bugzy Malone を迎えたガラージ・チューン“Who am I?”はこのアルバムのハイライトだ。

俺のビジネスは失速しない
ひとつは足元のなかには
駅では会話するな
ひとつはドレッドの中に



失速しない、大金を手に入れた Nigga
太陽が昇るまでストリートで金をゲットする
Yeh Kojo Funds、俺が支配者
俺の兄弟が重りを測る
それでやつらがカットするんだ
“Stallin'”

 後半はポップスへトライした“High Grade”や、Giggs を迎えた“PNG”、エモーショナルな歌を披露する“Thug Ambition”など、幅広い音楽性へと拓けていく。そして、最大のヒット曲“Dun Talkin”でアルバムは締めくくられる。

 アルバムを通して彼自身のアフロ・カリブ、そしてギャングスタ・ラップのルーツを存分に発揮している。そして、ダンスホール、レゲエ、ガラージやトランス、ポップスまでミックスし「アフロビーツ」を開拓し続けている。

(*) Resident Advisor ニュース「「ドリルやグライムよりナイフ犯罪が問題」ロンドンの音楽コミュニティが議会に訴える」 https://jp.residentadvisor.net/news/41626
(**) Dan Hancox による著『Inner City Pressure』から。

interview with Gilles Peterson - ele-king


Maisha
There Is A Place

Brownswood

Spritual Jazz

ジェイク・ロングを中心としたセクステットで、人気サックス奏者のヌビア・ガルシアもメンバーとして参加している。ファラオ・サンダース直系のスピリチュアル・ジャズの現代解釈。

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 UKジャズは、ジャズとはこうあらねばならないという固定観念から自由だ。UKジャズは、50年前はロックと結合し、40年前はパンクに共鳴し、30年前はカリブ海のリズムを導入するいっぽうで、ヒップホップとDJカルチャーにジャズを見いだし、90年代なかばにはテクノとジャングルをジャズの延長で解釈した。そして21世紀も20年近くを経た現在、UKジャズはアフロビートと連結しながらデジタル・テクノロジーへの打ち壊し(ラッダイト)よろしく生演奏にこだわり、人種混合の理想とフェミニズムとリンクしながら躍動している。
 UKジャズにおける“ジャズ”とは拡張する契機であり、ゆえに「こんなのジャズじゃない」と思われがちだが、じつは逆説的にそれは褒め言葉である。UKジャズはつねにおりおりの若い世代に開かれているからだ。

 さて、今回の躍動の象徴となったのが、2018年の初頭に〈Brownswood〉からリリースされた『We Out Here』で、そのコンピレーション・アルバムのトップバッターを務めたマイシャ(Maisha)も11月9日にアルバム・デビューする。
今回は、〈Brownswood〉レーベルを主宰しながら、BBCのラジオ番組によっていまでは世界中にUK解釈のジャズを発信しているジャイルス・ピーターソンに話を訊いた。以下、UKジャズの特徴や面白さをじつに簡潔に語ってくれている。

たとえば〈ヴァーヴ〉や〈ブルーノート〉の社長から電話がかかってきて『非常にエキサイティングだ、もっと欲しい、どこに行けばいいか教えてくれ』と言われると、これは何かが起こっているなと確信するよね(笑)。

ここ2年、UKの若々しいジャズ・シーンの熱気がじょじょにですが日本にも伝わってきています。とくに2018年は、年の初頭に『We Out Here』というコンピレーション・アルバムが出たことがその勢いのひとつの印のようにも見えましたし、サンズ・オブ・ケメットに続いて、ジョー・アーモン・ジョーンズカマール・ウィリアムスといった若いひとたちの素晴らしいアルバムがリリースされました。日本でも松浦俊夫のアルバムがこうしたUKの動きにリンクしていたと思います。あなた自身、この1~2年を振り返って、やはりこのシーンの熱量には手応えを感じていると思うのですが、いかがでしょうか?

GP:素晴らしい時代が来たよね。ただそれほど驚いてはいないんだ。というのもそれはつねにそこにあったものだから。わりとよくUKジャズの歴史について訊かれるんだけど、ぼくは1988年に……ちなみに30年前のことだけど、『Acid Jazz And Other Illicit Grooves』と『Freedom Principle』をリリースしたんだけど、それは当時UKに存在したシーンのスナップ写真のようなもので、ジャズに関連した、もしくはジャズに影響を受けた音楽だったんだ。それ以来この音楽とムーヴメントは持続的に成長してきて、すごく注目された時期もあれば無視された時期もあったわけだよ。UKが盛り上がることもあれば、ドイツや日本といった場所が盛り上がることもあって、そして2018年、2017年、2016年くらいで、若い世代のミュージシャンたちがついにこのムーヴメントを自分たちのものとして引き受けて、自信を持ち、演奏技術を身につけて、SNSを駆使してクラブ・イベントを主催したりスタジオでのセッションを企画したり、そういったすべてのことがハリケーンのように巻き起こったんだ。
それを率先してやってるのがモーゼス・ボイド(Moses Boyd)やシャバカ・ハッチングス、ヌビア・ガルシア(Nubya Garcia)といった素晴らしい人たち、あるいはJazz re:freshedのようなグループや、サウスロンドンのペッカムやデトフォード周辺、イーストロンドンのダルストン辺りのクラブ、そういったものすべてが、より伝統的なジャズの世界に対するオルタナティヴとしてあるんだ。
ジャズはものすごく深い音楽で、強い基盤があるだけに、自分たちがジャズの所有者だと思ってる人たちがいるんだよ。どういうわけか上の世代はジャズを囲い込んでおきたいと思っている。それで、いま起きていることがこれだけエキサイティングな理由は、若者たちがジャズを自分たちのものにしたからなんだ。もちろん年配の人たちに対するリスペクトはあるけど、自分たちが立つ舞台を自分たちで作り出さなければならないことを理解して、実際それでいまこういうことになっているわけ。資金援助やスポンサーやサポートの必要を感じていない……いや、もちろんぼくたちは彼らの音楽を応援しているしプッシュしていきたいし、ぼく自身もこの動きに参加できて嬉しいし助けていきたいと思ってるけど、彼らはぼくのような人を必要としていないんだよ。ぼくがいようがいまいが関係なくて、いずれにしろ自分たちはやるんだという。それがこのムーヴメントを力強いものにしているんだ。だから若い人たちも共感できるんだ。友だちがやってたり、似たような育ち方をした誰かがやってたり、ステージに立っているミュージシャンが年寄りばっかりじゃなくて同世代の連中だからさ。

いろんな国からのリアクションがあると思うのですが、いかがでしょう?

GP:ジャズって面白くて、世界中でフェスティヴァルが開催されていて、彼らはコンテンツを欲しがっているわけさ。それで、新しい世代が出てきたことで、じゃあもうウェイン・ショーターやハービー・ハンコックやソニー・ロリンズに頼らなくていいんだと思うようになった。もちろん彼らはいまでもみんなから愛される素晴らしいアーティストだけど、でも世界中のフェスティヴァルやクラブは餌を欲しがってるわけだよ。そして食欲が旺盛なところへ、いまここからたくさんのパンが供給されつつあるという(笑)。
本当にみんな色めき立っているんだ。去年パリにいたときに、New Morningっていう素晴らしいジャズ・クラブがあるんだけど、そこに貼ってあるポスターに毎晩のようにイギリスのバンドが出演者として載っていたんだ。その翌日の新聞には、たしか『ル・モンド』だったと思うけど、その状態を“British Invasion”と名付けていた。フランス人がイギリスのジャズについてそんな風に書くなんて初めてのことだと思うよ。イギリスは変な破壊的な音楽とかは素晴らしいけど、ことジャズに関してはたぶんフランスの方が伝統があるんだ。だからそれは興味深かったね。
 あとは今年の初めにニューヨークのWinter Jazzfestに招かれたときも、ザ・コメット・イズ・カミング(The Comet Is Coming)やヤズ・アハメド(Yazz Ahmed)、ヌビア・ガルシア、オスカー・ジェローム(Oscar Jerome)といった人たちを紹介したんだ。それで来年の1月には、ドラマーのユセフ・デイズ(Yussef Dayes)やエズラ・コレクティブ(Ezra Collective)、ヤスミン・レイシー(Yazmin Lacey)、エマジーン・チャクレイ(Emma-Jean Thackeray)といった人たちが出ることになっていて。ニューヨークでも盛り上がっているというのは嬉しいことで、たとえば〈ヴァーヴ〉や〈ブルーノート〉の社長から電話がかかってきて『非常にエキサイティングだ、もっと欲しい、どこに行けばいいか教えてくれ』と言われると、これは何かが起こっているなと確信するよね(笑)。

今日のUKジャズの盛り上がりはどのようにして生まれたのか、あなたの分析を聞かせてください。

GP:このムーヴメントはとても自然発生的で、これがきっかけだったとはっきり言える瞬間がない。だからこそ力強いムーヴメントだと思うんだ。これ以前のムーヴメントはメディア主導だったんだよね。でも今回はとてもオーガニックで、それはもちろんいいことで、もしメディアが別の何かに注目しようと決めても存在し続けるし生き残り発展し続けるんだ。通常何かムーヴメントが起こったときは少し注意する必要がある。ちょっとフェイク・ニュースと似ていて、記事を読んで『いまはこれが流行ってるのか』と思っても実態がなかったりする。でもこれは間違いなく起こっていることなんだ。ぼくがこのムーヴメントの何が好きかというと、演奏のクオリティが高いことと、音楽のアイデアが非常に興味深くて、しかも成長し続けているということ。2年前と比べてもいろんなレベルでかなり変化があって、技術的には世界レベルになりつつある一方で音楽的なアイデアはユニークだから余計面白いんだよね。

このムーヴメントに「新しさ」があるとしたら、それはなんだと思いますか?

GP:いま言ったようなことも新しさだと思うし、自分の声を見つけるのが難しい音楽のなかに自分の声を見つけたということが、新しいと思う。というのもジャズのような長い歴史を持った音楽のなかに自分の場所を見つけてオリジナルな存在になるというのは難しいことなんだ。これまでのグループはもしかしたら少し伝統を重んじすぎてきたのかもしれないと思う。でもいま彼らはその伝統のなかにそれぞれ自分の声を見つけつつある。そのいい例がシャバカ・ハッチングスで、彼はサンズ・オブ・ケメットのリーダーでザ・コメット・イズ・カミングというグループもやってるんだけど、ぼくは彼は本当に素晴らしいと思っていて。というのも彼のレコードは単なるレコードではなく、ひとつのテーマだったりコンセプトのようなものでもあって、この時代を定義付ける重要なものだと思うんだ。彼が今年出したアルバムは伝統的な女性の役割に疑問を投げかけていて、いまの時代と波長が合っていて、そこも非常に重要だよね。

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Maisha
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ぼくにとってマイシャは、ぼくがクラブでDJをするときにかける音楽にいちばん近いんだ。クラブでぼくがジャズをかけるときは、スピリチュアル・ジャズを選ぶ傾向があって、浮遊感があるものというか。だからドラマーのジェイク・ロングがマイシャとして新しい音楽を聴かせてくれたとき、瞬時に引かれたんだ。

ジョー・アモン・ジョーンズはひじょうに若々しいアルバムをリリースしましたが、あなたはあのアルバムの良さはなんだと思いますか?

GP:まずジョーが作曲家として成長するのを見ているのはすごく喜ばしい。どの音楽でも、ムーヴメントが起こっていろんなクラブや人が関わって盛り上がるというのはもちろん素晴らしいことなんだけど、やっぱりそこには記憶に残る曲が必要なんだ。アンセムが必要なんだよ。それでジョーには、アンセムを書く能力があるとぼくは思う。彼のアルバムには3、4曲、本当にいい曲が入ってると思うし、そこはスタンダードなジャズ・レコードと一線を画す部分じゃないかな。構成もアレンジもアイデアも素晴らしいし、しかも彼の場合まだはじまったばかりだからね。先週末BBCでやった企画があって、ロンドンのメイダヴェールでライヴをやって、彼がハウス・バンドだったんだけど、オーガナイズもプレゼンも素晴らしくて、ある意味彼はイギリス版ロバート・グラスパーだね。


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There Is A Place

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ジェイク・ロングを中心としたセクステットで、人気サックス奏者のヌビア・ガルシアもメンバーとして参加している。ファラオ・サンダース直系のスピリチュアル・ジャズの現代解釈。

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ほかにも〈22a〉のテンダーロニアス(Tenderlonious)のアルバムもありましたし、この年末には、マンスール・ブラウン(Mansur Brown)のソロも出ますし、このたびあなたの〈Brownswood〉からはマイシャのアルバム『There Is A Place』がリリースされます。彼らは『We Out Here』の1曲目でもありましたよね。いまのシーンを象徴しているバンドのひとつのように思うのですが、あなたの口からマイシャとはどんなグループで、どんな魅力があるのか語ってもらえますか?

GP:ぼくにとってマイシャは、ぼくがクラブでDJをするときにかける音楽にいちばん近いんだ。クラブでぼくがジャズをかけるときは、スピリチュアル・ジャズを選ぶ傾向があって、浮遊感があるものというか。だからドラマーのジェイク・ロングがマイシャとして新しい音楽を聴かせてくれたとき、瞬時に引かれたんだ。ちょっとヴァイオリン奏者のマイケル・ホワイトだったり、あと日本で2枚レコードを作ったハリス・サイモンという人がいて、『New York Connection 』と『Swish』というアルバムがあって、そのストリングスとジャズというアイデアがぼくは大好きなんだけど、マイシャにはちょっとそれを彷彿させるものがあるんだよね。開かれていて、自由で、でもパーカッシヴなフィーリングもあって、おもしろことに、マイシャでぼくがいちばん好きな特徴のひとつがピアニストで、たしか日本人なんだよね。彼のソロは注目に値するよ。名前はアマネ・スガナミ(Amane Suganami)っていうんだ。あともちろんヌビア・ガルシアもシャーリー・テテー(Shirley Tetteh)もいるしね。
だからこういう作品を自分のレーベルから出せるのはすごく嬉しいよ。あと最近ココロコ(Kokoroko)とも契約したんだ。彼らの新作を年明けにリリースする予定なんだけど、ココロコもすごく好きなバンドで、彼らの音楽にはどこか西アフリカ的な雰囲気が感じられて、『We Out Here』に入っている彼らの“Abusey Junction”はYouTubeで800万回くらい再生されたんだよ。ジャズのトラックとして考えると、かなり異例だよね(笑)。

〈Brownswood〉のスタジオでセッションしているマイシャのPVを拝見しました。親密感があって、グッド・ヴァイブなところですね。見ていて、あなたがここ数年アプローチし続けているキューバやブラジルの音楽のようなファミリー感がある場面だと思いました。誰かの家に行ってセッションしちゃうみたいな。そんなフィーリングがいまのUKジャズにはあるんでしょうか?

GP:間違いなくあると思う。そこもこのシーンの強みなんだよ。ひとつのチームとして取り組んでいて、さらにみんながお互いから刺激を受けているという。そこがロンドンの良さでもあって、ジャズでもエレクトロニック・ミュージックでもインディ・バンドでも、そのなかでの競争があるんだけど、協力もするっていう。健全ないい意味でのライバル関係があるというか。みんなより上手くなりたいと思ってるから、それがそのシーンを強くしていく。いまのジャズ・シーンも一緒に演奏したり、お互いから学んだりしながら、それぞれが自分の個性を見つけていて、素晴らしいんだ。

いまの人たちはインターネットのおかげで音楽を探す能力が高いし速いから、非常に洗練されているよね。新世代のリスナーたちは、あっという間に音楽の核心部までたどり着くんだ。ぼくの場合はサン・ラを発見するまでに15年かかったけど、いまだったら15時間で見つけられる(笑)。

スピリチュアル・ジャズからの影響は、マイシャのほかにも、たとえばエズラ・コレクティヴにも感じますし、もちろんシャバカ・ハッチングスからも感じます。なぜいまになって、スピリチュアル・ジャズが見直されているんだと思いますか?

GP:見直されるべくずっと待ち続けていたと思う。正直、ぼくがパトリック・フォージなんかと一緒にDJをやってた80年代、90年代、最後にかけるのがスピリチュアル・ジャズだったんだよね。ぼくにとっては、たとえばダブ・レゲエとスピリチュアル・ジャズには通じるものがあって、何ていうか、実存的な、白昼夢のような、それをもっと構造がしっかりしてる音楽の前後にかけると、一種の美しいトランジションとしての効果があるというか、だからDJとしてぼくが生み出そうとしていた空気感にとっては欠かせないものとして常にそこにあったんだ。
何だろう、感情を動かす音楽というか……ああそうだ、カマシ・ワシントンはそういうサウンドを追求しているよね。ファラオ・サンダースやジョン・コルトレーンは、もうベスト中のベストな人たちなわけで、見直されるのは必然だったと思うよ。というのもいまの人たちはインターネットのおかげで音楽を探す能力が高いし速いから、非常に洗練されているよね。新世代のリスナーたちは、あっという間に音楽の核心部までたどり着くんだ。ぼくの場合はサン・ラを発見するまでに15年かかったけど、いまだったら15時間で見つけられる(笑)。

アフリカのリズムというのも、いまのUKジャズの特徴だと思います。これはもう、UKにおけるアフリカ系移民の増加を反映しているのでしょうか? あるいは、アフリカのリズムの多様さにジャズの“次”を見いだしたというか。

GP:そこはやっぱりロンドンの美しいところで、非常に多文化的な場所だからね。ロンドンとパリはすごく似ている部分もあるけど、全然違う部分もあって、パリのコミュニティは結構が分かれてるんだよね。UKの方が混ざってると思う。その結果として音楽もUKの方が混ざってるんだよ。アフリカン、レゲエ、カリビアン、コロンビア、南米と、あらゆる文化がロンドンのタペストリーとして織り交ぜられているんだ。そこがロンドンのマジカルなところだよ。たとえばザ・クラッシュのジョー・ストラマーのような人も世界中の音楽を擁護していた。その頃はちょっとアウトサイダーのものという感じがあったけど、いまはすべてが混ざってるんだ。いまの若いリスナーたちは、キング・サニー・アデの曲も聴けばグライムも聴くって感じなんだよね。アークティック・モンキーズからアート・ブレイキーまでが繋がってる。それは変わったことじゃなくて、ごく普通のことで、みんな幅広く聴いてるんだ。ぼくの頃はそうじゃなかったんだよね。

ヌビア・ガルシアもいろんな主要作品でサックスを吹いているキーパーソンだと思いますが、あなたは彼女をどのように評価しているのでしょうか?

GP:もちろん彼女はとても重要な存在だよ。あとはココロコのキャシー(Cassie Kinoshi )もそうだし、このシーンには多くの強い女性がいるんだ。それもこのシーンがすごく面白い理由のひとつだと思う。キャシーもシャーリーもシーラ(Sheila Maurice-Grey)も、みんな男連中と同じようにパワフルなんだ。演奏にしてもアイデアにしても独自のものを持っている。
ヌビアはスターになるだろうね。たぶんみんな彼女と契約したがってると思う(笑)。彼女はぼくにとってはもうビッグすぎるけど、すごく嬉しいよ。去年ぼくが観たなかでいちばん良かったライヴが、彼女が〈Jazz Re:freshed〉のアルバムを出すときにThe Jazz Cafeでやったもので、テオン・クロス(Theon Cross)がいて、シーラ・モーリスグレイ(Sheila Maurice-Grey)がトランペットで、フェミ・コレオソ(Femi Koleoso)とモーゼス・ボイドという2人のドラマーがいて、そしてジョー・アーモン・ジョーンズがいて……そのコンサートの場にいて、ぼくは『これは歴史的だ』と思ったのを覚えてるよ。とにかく彼女はこのムーヴメントにとっては非常に重要な大使の1人だね。

アシッド・ジャズの時代はDJカルチャーが主体でしたが、今日のUKジャズのシーンは個性的な演奏者たちが複数いて成り立っています。エレクトロニック・ミュージックが主流の現代において、この逆転現象は面白いと思うのですが、これはジャズ・ウォーリアーズの功績もあるんでしょうけれど、ほかにはどんな理由があると考えられますか?

GP:実は世界のいろんなところで起こっていることじゃないかと思う。職人の技を称えるというか、オーガニック・ワインも、クラフト・ビールも、家具職人も、あるいは芸術家もね。何でもデジタルで簡単にできてしまう時代だからこそ、伝統的な演奏が求められているということはあると思う。ドラムでもギターでも歌でもさ。だから誰でもDJになれるという状態に対するリアクションだよね。
こういう時代に、技術を習得するために努力した本物のアーティストを観ると、その良さが分かるという。人間がここまでできるんだっていうことに、すごいと思えるんだよ。職人の技が見直されているのには、そういう理由があるんじゃないかと思う。それに加えてジャズはすごくオープンな精神で演奏するもので、ステージ上で相互作用が起こるのを目の当たりにすることができるし、ミュージシャン同士の間でも、ミュージシャンと観客の間でも相互作用が起こるからね。

モーゼス・ボイドのように、シーンのなかにはほかにも複数の個性的で優れたプレイヤーがいますよね。あなたがとくに注目しているひとがいたら教えてください。

GP:ぼくがすごく好きなサラ・タンディ(Sarah Tandy)というピアニストがいるよ。来年あたり出てくると思うから彼女は注目しておいた方がいい。あとは……たくさんいすぎてわからないな。ヴェルス・トリオ(Vels Trio)もすごく好きだよ。それから今だったらスチーム・ダウン(Steam Down)、この人たちがアルバムを作ったら本当に面白いものになると思う。あとフランスでもドイツでも何かが起こりつつあって、ベルギーも色々面白くなってる。DJ Leftoが出した『Jazz Cats』というすごくいいコンピレーションがあって、ベルギー産の曲が20曲くらい入ってるんだ。
それに日本も絶対に期待を裏切らないよね。社長とかToshioもそうだし新世代もそうで、Shuya Okino(沖野修也)といった人たちも、彼らの素晴らしいところは新しい世代をプッシュして応援しているところだよね。だから今のこの動きがどう日本に影響を与えるのか、今後5年くらいがすごく楽しみだし、日本が何かやる時は絶対に面白いからね」

2019年も引き続きこの流れから良い作品がリリースされるものと思います。現在、リリースが決まっているものでいま言えるものを教えて下さい。

GP:ココロコのアルバムが年明けに出る。それは個人的にも楽しみだね。ええと他には……みんな作ってるんだよなあ。〈Brownswood〉からは、ザラ・マクファーレン(Zara Mcfarlane)の新作が出て、あとピート・ビアーズワース(Pete Beardsworth)というピアニストがいて、個人的にものすごく好きなんだ。ヤスミン・レイシー(Yazmin Lacey)も素晴らしいから要注目だよ。ぼくは彼女がいちばん好きなシンガーかもしれない。

(了)

Irmin Schmidt - ele-king

 先日、ホルガー・シューカイのソロ・アルバムがいっきにリイシューされたばかりだが、CANの4人のメンバーのうちの唯一の生存者、イルミン・シュミットのソロ・アルバムが12月14日(金)に〈ミュート〉よりリリースされる。(日本盤は先日TOYOMUのアルバムをリリースした〈トラフィック〉より発売)
 その作品、5つのピアノ作品集』(原題『5 Klavierstücke』)のリリースに先立って、〈ミュート〉はMVを公開した。


https://smarturl.it/IrminSchmidt_JP

 以下、〈ミュート〉から送られてきた資料をそのまま掲載しますね。

 イルミン・シュミット曰く「この楽曲たちは自然な瞑想状態というか、演奏したのは一度だけでそれを同時に録音していったんだ。エディットや修正も一切しなかった。全ては、シューベルト、ジョン・ケージ、雅楽やCANなどが秘めたエモーショナルな記憶から形成された楽曲たちだね」

 『5つのピアノ作品集』はガレス・ジョーンズのプロデュースにより、南フランスにあるイルミン・シュミット所有のグランドピアノ2台を使って録音された。ひとつはジョン・ケージ直伝のプリペアドのプレイエルのピアノを使い、もうひとつのピアノは製造から100年を数えるスタンウェイのピアノであったが、それはプリペアドを施されていないものであった。何曲かはプリペアドのピアノ一本で一度きり演奏したものを録音したもので、その他は2台のピアノを使ったものであった。アンビエントなサウンドは、イルミン・シュミットのスタジオの周囲の音をその場で録音したもので、この他には一切楽器や電子的な機材は使用されていない。

 作曲家として、そしてCANのメンバーの一人として、イルミン・シュミットが作曲してきた作品は100を超える。CAN以外で1ダースを超えるソロ作品や、「ゴーメンガースト」なるマーヴィン・ピークの小説をもとにしたオペラ作品を書き上げた。2015年には彼の芸術や文化への貢献からフランスにおける最高の栄誉である芸術文化勲章を授与され、2018年には「CAN- All Gates Open」が出版されたが、それはふたつのパートによって構成されており、最初のセクションはロブ・ヤングによって書かれたCANのバイオグラフィー、ふたつめのセクションはイルミン・シュミットによるインタビューや日記を編集しコラージュしたものでまとめられている。

 イルミン・シュミットによるこの作品は、この秋に行われるブラウンシュヴァイク国際映画フェスティヴァルの大きな部分を占める。またそこでは彼が作った映画音楽作品の回顧展などのイベントも行われる。またグレゴール・シュレンバッハとコラボして書いたオーケストラ用の2つの新作も披露される予定だ。一つは「CAN Dialog」なる2017年のバービカンで披露されたCANをモチーフにした作品、それと「Filmmusiken」というイルミン・シュミットのサウンドトラック数作品のオーケストレーションである。彼は11月に行われるこの映画フェスティヴァルで、ブラウンシュヴァイク州立交響楽団を指揮して「Filmmusiken」の初披露を行う予定だ。そして、ロンドン以外の地では初めて「CAN Dialog」が披露されることとなる。

 今年の終盤にはベルリンのフォルクスビューネでCANの作品に敬意を評してこの2作品の演奏が行われる予定で、彼がバベルスベルグ・ドイツ・フィルム・オーケストラを指揮する。それに続いてヨッヘン・アルバイト(アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン)によるキュレーションのもとCANのトリビュート・コンサートが行われる予定。またベルリンのバビロン・シネマではシュミットの映画音楽作品の回顧展とQ&Aセッションが一週間を通して行われる。
 CANは、昨年シングル23曲を収録したアルバム『ザ・シングルズ』を発売した。この作品は、「Halleluwah」「Vitamin C」や「I Want More」といった有名な曲から、あまり一般には浸透してない作品まで、また超レアなシングル曲「Silent Night」や「Turtles Have Short Legs」まで収録されている。全ての楽曲が当時リリースされたシングル・ヴァージョンで収録されている。


イルミン・シュミット(Irmin Schmidt)
5つのピアノ作品集 (5 Klavierstücke)

Mute/トラフィック
※12月14日(金)リリース

Tracklist
1. Klavierstück I
2. Klavierstück II
3. Klavierstück III
4. Klavierstück IV
5. Klavierstück V

[amazon] https://amzn.asia/d/117N5nS
[Apple Music/ iTunes] https://apple.co/2NtFfK0
[Tower Records] https://bit.ly/2PeEN87
[HMV] https://bit.ly/2Do6kgX
[Spotify] https://spoti.fi/2BXsV2s
[smartURL] https://smarturl.it/IrminSchmidt_JP

◼︎バイオグラフィー
1937年ベルリン生まれ。現代音楽の巨匠カールハインツ・シュトックハウゼンの元で学ぶ。1968年CANを結成し、ロック、現代音楽、ジャズと20世紀に起こった3つの音楽現象を全部一緒にしたらどうなるのか、という革新的な試みによって制作された作品の数々は、その後に起こったパンク、オルタナティヴ、エレクトロニックといったほぼど全ての音楽ムーヴメントに大きな影響を与え続けている。バンド解散後も、ソロ作品の発売・演奏、映画のサウンドトラック、オペラ作品、オーケストラの指揮など様々な旺盛な活動を続けている。
www.mute.com
https://www.spoonrecords.com/

interview with Kelly Moran - ele-king

 9月12日。それは渋谷O-EASTでOPNの来日公演が催される日だった。初めてバンドという形態で自らの音楽を世に問うたダニエル・ロパティン、ニューヨークロンドンに続くかたちで実現された東京版《MYRIAD》のショウにおいてもっとも異彩を放っていたのは、キイボード担当のケリー・モーランだった。クラシカルの文法を身につけた彼女が紡ぎ出す即興的な旋律の数々は、間違いなくロパティン個人からは出てこない類のそれであり、随所に差し挟まれる彼女の好演によって『Age Of』収録曲はもちろん、過去のOPNの楽曲もまたべつのものへと生まれ変わっていたのである。『Age Of』と《MYRIAD》との最大の相違点、それは彼女の存在の有無だろう。
 そのケリー・モーランがソロ名義の新作を〈Warp〉からリリースする。両者を仲介したのはロパティンだが、彼と出会う前の彼女はモダン・クラシカルな習作を手ずから発表するいっぽう、マーク・エドワーズやウィーゼル・ウォルターといったアヴァンギャルド勢(別エレのニューヨーク特集参照)のバンドに参加したり、ケイジの長年のコラボレイターだったマーガレット・レン・タンのために曲を書いたりと、なかなか興味深い経歴の持ち主である。そんな彼女は今回、ロパティンの手を借りることによって音楽家として新たな段階へ歩を進めたと言っていい。ミニマルに反復するプリペアド・ピアノとエレクトロニックな持続音が交錯する『Ultraviolet』は、恍惚と静謐を同時に成立させたじつに素晴らしい作品に仕上がっている。
 これまでの彼女の来歴や新作の制作秘話について、《MYRIAD》のために来日していた本人に語ってもらった。

私はたぶん音楽のADDだと思う(笑)。

これまで日本へ来たことは?

ケリー・モーラン(Kelly Moran、以下KM):今回が初めてね。

猫カフェへ行ったとお聞きしたのですが。

KM:初日に行った。ネコ派だから絶対に行かなきゃと思って。すごく楽しかった。ハリネズミカフェもあるって聞いたから、そっちも行かなきゃと思ってる(笑)。

通訳:出身はニューヨークですか?

KM:ええ。ニューヨーク生まれ。

NYにも猫カフェはあるんですか?

KM:何年か前に一店オープンしたから、行ったことはある。でも日本の猫カフェほど規模は大きくない。猫を飼っているんだけど、来日してから猫に会いたくて。だから、猫カフェに行って猫に会えて嬉しかった。

ほかにおもしろかったところはあります?

KM:大学のときのピアノの教授が、赤城ケイっていう日本のジャズ・ピアノ・プレイヤーで、私は数日前に日本に来たんだけど、彼もツアーで日本をまわっていて、たまたま東京にいたから会った。新宿を案内してもらったり、昨日は原宿をうろうろしてかわいいものを買ったり。

ミシガン大学で音楽を学んだそうですけれど、そこの先生ですか?

KM:いや、カリフォルニア大学のアーバイン校の、大学院の先生。

ミシガン大学のほうではピアノやサウンド・エンジニアリング、作曲技法を学んだとのことですが、つまりいわゆるクラシック音楽を学んだということですよね?

KM:私が専攻していたのはパフォーミング・アート・テクノロジー。そのなかでもいろいろ項目があるんだけど、そのひとつとして「クラシックのパフォーマンス」という項目を集中して受けていたの。あとは作曲とか、エレクトロニクスのクラスもとっていたし、サウンド・エンジニアリングも選べる科目としてあった。

そういうところへ進学したということは、幼い頃から音楽が好きだったのでしょうか?

KM:6歳のときにテレビでピアノを見て、これが欲しい、これがやりたい、って親に言ったら、小さなキイボードを渡されたの。「本気ならピアノを買ってあげる」って。それで一生懸命やっているのをみて、あとでピアノを買ってくれたわ。

現在はほかにもいろんな楽器を弾きこなしていますよね。

KM:私はたぶん音楽のADD(注意欠陥障害)だと思うの(笑)。最初はそういうふうにピアノをはじめたんだけど、それから次々と楽器に手をつけてしまって。小学校のとき、アップライト・ベースを弾ける人が必要になって、背が高いということもあって私が弾くことになった。あと、兄がクラリネットをやっていたから、それもやってみて、その流れでオオボエもやったわ。それから、私がちょうどロックに興味を持っていたときに、エレクトリック・ベースが必要だと言われて、それでベースをやって、そのまま今度はギターにも流れていった。アコーディオンもやったんだけど、アコーディオンだけはあんまりうまくなかった(笑)。

『Microcosms』(2010年)、『Movement』(2011年)、『One On One』(2012年)の最初の3作は、大学で学んでいたことがそのまま反映されているのかなと思いました。モダン・クラシカルとアンビエントの融合のような。

KM:大学時代はまわりにミュージシャンが大勢いたというのがあるね。みんなすごくオープンで、喜んでコラボレイションをやってくれる人たちだったから、私がアイディアをいっぱい持っているのをおもしろがって、寄ってきてくれて。私もそのへんにいる友だちを捕まえては、一緒にインプロやろうとかレコーディングしようとか誘っていたの。そうやって作った作品だったから、まわりの影響とかリソースがいっぱいあった。だから、たんなるクラシック音楽には終わっていない。

その後ウィーゼル・ウォルターのセルラー・ケイオスというパンク~ノーウェイヴのバンドでベースを担当していますよね。一気に音楽性が変わったなと。

KM:そもそも好きな音楽の種類が幅広くて、いろんなスタイルの音楽をやりたかったから、楽器もあれほど手を出してしまったんだと思う。とにかく楽しんで、いろいろなことを実験的にやってきたから、自分のなかではそんなに急に変わったとは思わなかったけど。

では、とくにノーウェイヴをよく聴いていたということではない?

KM:じつをいうと、ノーウェイヴは私がいちばんなじみのないジャンルの音楽かもしれない。大学院のときはカリフォルニアにいて、卒業後にニューヨークへ戻ってきたんだけど、仕事はないし、人生どうしたらいいのか、どんな音楽を追求したらいいのかわからなくて。大学時代はまわりに仲間がいっぱいいて、リソースがたくさんあったからよかったけど、それがない状態になってしまって。さあどうしようっていうときに、セシル・テイラーのところでやっていたマーク・エドワーズとウィーゼル・ウォルターのライヴを観たの。それがすごく楽しくて。いわゆるノーウェイヴ的なものはたぶんそのとき初めて観たに等しかったんだけど、こういうのがあるんだ、楽しそうだなと思っていたら、たまたまそのバンドのベーシストがニューヨークを離れることになって、後任を探していて。それで私が入ることになった。それがそのジャンルに入りこんだ流れね。

でもそのバンドには1年くらいしかいなかったんですよね?

KM:1年ちょっといたんだけど、とにかくツアーの多いバンドだった。私はニューヨークでべつの音楽の仕事もしていたから、それについていけないということもあって、いったん辞めたんだけど、そのあとに入ったベーシストが辞めるタイミングで、ニューヨークのショウだけ何本か手伝ったりしていたから、その後も関わりはあったのよね。いまはたぶん、トリオでやっているんじゃないかな。

その後はヴォイス・コイルズというバンドにシンセサイザーで参加しています。セルラー・ケイオスと比べるとこちらは、それ以前にやっていたことに近いのかなと思ったのですが――

KM:ヴォイス・コイルズではじつは、クリエイティヴなことは何もやっていなかったの。ギタリスト(サム・ギャレット)がぜんぶ曲を書いていたから。私はいわゆるセッション・ミュージシャンというかたちで参加していたんだけど、それだけだったというのが辞めた理由のひとつでもある。あまり創作性を発揮できなかったから。

2016年には『Optimist』を出して、大きな変化を迎えますね。プリペアド・ピアノを使いはじめて、電子音も以前より目立つようになりました。何かきっかけがあったのですか?

KM:もう1枚、『Bloodroot』(2017年)ってアルバムがあるでしょ。じつはそっちが先だったの。2016年の頭にそっちの曲が書きあがって、レコードにまで仕上げた。吹雪が続いた時期があって、そのときに仕上げたアルバムで。それまではプリペアド・ピアノで曲を作るなんてことはあんまりやりたくなかったというか、ちょっと引いている部分があったの。っていうのも、ジョン・ケイジが大好きで、すごく尊敬しているから。プリペアド・ピアノをやるとすぐ比べられてしまう。だから、勉強はしてきたんだけど、作品として作るのはちょっとなっていう思いがあって、手は出さないでいたのね。でも、吹雪で閉じ込められた状態のなかで曲作りをはじめたら、どんどんアイディアが湧いてきて、いつもと違うハーモニーも聞こえてきたりして。それで良い作品ができたので、せっかくだからちゃんとレーベルから出したいなと思ってレーベル探しをはじめたの。でもなかなかみつからなくて、だんだんイライラしはじめてきちゃって。すごく生産的な時期でもあったから、もうひとつアルバムができてしまった。それが『Optimist』(笑)。

おまけだったんですね(笑)。

KM:そっちがあとからできたんだけど、結果的には同じ年に2枚のアルバムを出すことになった。いろいろバンドをやっていた時期が長くて、ソロで音楽を発表するのは久しぶりだったし、自分だけの作品を作るというのをしばらくやっていなかったから、それをできるだけ活発に作りたいという思いが強くて、せっぱ詰まるものがあった。たからあの時期にたくさんアイディアが出てきたんだと思う。ただ、じっさいにレーベルを探そうとしたらすごく時間がかかるんだってこともわかった。なんとか2016年のうちに自分の作品を世に出したいという思いで一生懸命頑張って、まずは『Optimist』を仕上げたの。それで、自分で出せるということで、Bandcampで発表したという。

『Drukqs』は、ほんとうに、聴いたことがなかったの。神に誓って言うけど、今日に至るまであのアルバムを全曲聴いたことはなかった。

プリペアド・ピアノは今回の新作『Ultraviolet』でも用いられていますが、ケイジと比べられるのが嫌だという思いを克服したということですか?

KM:たしかにそれはあるかも。乗り越えたのかもしれない。プリペアド・ピアノをじっさいに使って、曲を書いて、出してみたらとても反応がよかったというのもあるし、自分自身もあのピアノが鳴らす音からすごくインスピレイションを受ける。ハーモニーの聞こえ方も違うし、オーヴァートーンとか、とにかくサウンドが独特だし、いじっていてすごく楽しい。そういうなかでいろんなアイディアがどんどん出てきたから、あれこれ悩んでいないでとにかくみんなに聴いてもらいたいという気持ちのほうが強くなったの。ちなみに、プリペアド・ピアノで曲を書いてアルバムを出しても、プリペアド・ピアノが使える会場ってけっこう限られてくるから、それもあって引いていた部分もあるんだけどね。

たぶんこれはもういろんな方から指摘されていると思うのですが、エイフェックス・トゥインの『Drukqs』というアルバムを聴いたことはありますか?

KM:これはほんとうにおかしくて、信じてもらえないかもしれないけど(笑)、いちおう話しておくね。エイフェックスは好きなんだけど、『Bloodroot』の時点では『Drukqs』は、ほんとうに、聴いたことがなかったの。そのあとそういう声がちらほら聞こえてきたから、気になって何曲か聴いてみて、なるほどなあとは思った。(プリペアド・ピアノが使われること自体が)珍しいから、同じものを使っているというだけで結びつけられちゃうのもわかるな、というくらいの認識だった。ただ、今回私が〈Warp〉からシングルを出したことで、まわりからいきなり「あのアルバムの影響が絶大ですね」とか言われちゃって(笑)。「違うんだけどなあ」って。神に誓って言うけど、今日に至るまであのアルバムを全曲聴いたことはなかったのよ。あまりにみんなからそう言われちゃうので、関係者にも「このアルバムはいままでちゃんと聴いたことがないってことをちゃんと説明してください」っていろいろ言って。それで、今日初めて全曲聴いたの。

今日!?

KM:まさに今日(笑)。でも、聴いてみたら、たしかにプリペアド・ピアノは使われているけど、それだけじゃない、スタイルも多様なアルバムだなと思った。

おっしゃるとおりです(笑)。

KM:私の曲が出たとたんに、YouTubeとかでもコメントがそればっかりで(笑)。「『Drukqs』の影響が」とか「『Drukqs』好きでしょ」って(笑)。

そのコメント、見ましたよ(笑)。

KM:わかってもらえると思うけど、ピアノの音楽にはあまり影響されたくないから、避けているという部分もあって。それで『Drukqs』も聴かずにきたんだけどね。

紫外線って、目に見えないけれど力のあるもので、それは私がこのアルバムの制作中に味わった経験につながる。

OPNの公演《MYRIAD》で彼のバンドに参加することになりましたけれど、それはどういう経緯で? たしか『Age Of』には参加していませんよね?

KM:そうね。彼が私の音楽を聴いてくれていて、Twitterでやりとりをしたのが最初。そのときはそれだけで終わっちゃって、2年くらいとくにやりとりはなかったんだけど、去年の11月くらいに、「そういえば彼のインスタはフォロウしてなかったな」とふっと思い出してフォロウしたら、速攻でフォロウが返ってきたの。その数日後に、会って話をしないかってメッセージがきて。それで、じつはいまこういうプロジェクトが進行中で、きみはたぶんぴったりだと思うんだ、っていう電話がきたの。そのとき私はOPNの『Garden Of Delete』のTシャツを着ていて(笑)。もともと彼の大ファンだったから、速攻でイエスと答えたわ。

先ほどまでずっとリハを観ていたんですが、ちょっと特殊なバンドのライヴですよね。あなたがこれまで体験してきたバンドとの違いはどういうところにあると思いますか?

KM:こんなの初めて! こういうのに参加したことはなかった。私がおもしろいと思うのは、お客さんの反応がいかに違うかということ。返ってくるエネルギーによって私たちの演奏も変わっていくから。ニューヨークでやったときはまだアルバム(『Age Of』)が出る前だったから、みんながその場で初めて曲を聴くことになる。それに着席の会場だったということもあって、初体験というか、オーディエンスがちょっとビビッているような感じだった。みんな「どうしよう、拍手してもいいのかな」という感じで聴いていた。逆にロンドンのときはアルバムが出て1ヶ月以上経っていたから、曲にもなじみがあって、みんな叫んだり踊ったり。“Chrome Country”のときなんかは最前列の男の人が大騒ぎして盛り上がっていて。そんな感じでどんどん反応が変わっていくのが私はおもしろかった。

今回〈Warp〉と契約してアルバムを出すことになりました。それはどういう経緯だったのでしょう?

KM:これはあまり言ってないんだけど、じつは今回、ダン(・ロパティン)が共同プロデュースというかたちでいくつか曲を手がけてくれているの。さっきの話で、彼から「こんなショウを企画しているんだけど」って言われたときに、「私もアルバムを作っていて」っていう話をしていたのよ。そしたら「聴かせてくれ」ってすぐに興味を示してくれて、「誰がプロデュースするの?」「どこから出すの?」って言われたから、「まだ何も決まってないんだけど」って。いままで私は自分の作品は自分で作って自分で発表してきたけれど、今回はもうちょっと野心的な作品だから、誰かのヘルプが必要だと思った。導いてくれるような人の存在が必要だって思っていたから、彼に力になってもらえないか聞いてみたの。そしたらその場で「ぜひぼくがやる」って言ってくれて。「きみがぼくのショウを手伝ってくれるんだから、ぼくはきみのレコードを手伝うよ」ということでやってくれた。レーベル探しも、できあがった音源を彼があちこちに配ってくれて。数週間経って「いくつか興味をもっているレーベルがあるんだけど、あそことここと〈Warp〉と」ってメッセージがきて、〈Warp〉って聞いたとたんにもう「ここだ!」って思った。〈Warp〉は私にとっても最高のレーベルだし。それで「会って話をしましょう」ということになって、スタッフの人たちとランチを食べながら話を聞いたら、とても気に入ってくれているということだったので、私としてはもう願ったり叶ったりで。夢が叶ったというか。それが2月ころの話ね。

急展開だったんですね。

KM:何が嬉しかったかって、2016年に『Bloodroot』でレーベル探しをしたときは、さっきも話したようにぜんぜん話がまとまらなかったのね。なんどもなんども拒絶されては蹴られて。その理由が「変すぎるから」とか「うちのレーベルの美意識に合わない」とか。とにかく、そのレーベルのスタイルに合わない、というのが大半の理由だった。それですごくがっかりしちゃって。「こんな私は誰も受け入れてくれないんだ」って思っていたところで〈Warp〉が興味を示してくれて、「ユニークだから」「誰とも違うから」「特別だから」って言ってくれた。ほかのレーベルがさんざん拒絶してきた、まさにその理由で〈Warp〉が私を気に入ってくれた。しかもあの有名な〈Warp〉が、ってことで、私としてはもう最高。

ちなみに〈Warp〉で好きなアーティストは誰ですか?

KM:ダンはべつとして(笑)、大勢いるから難しいな……。(しばし考え込んだのち)ボーズ・オブ・カナダ、エイフェックス・トゥイン、スクエアプッシャー。スクエアプッシャーが大好きなの。でもやっぱり選ぶのが難しい。その三つどもえかな。

今回の制作はとくに野心的だったとおっしゃっていましたけれど、これまでの作品と比べて、いちばん力を入れた点はどこですか?

KM:『Bloodroot』を作ったときは、それまでエンジニアの勉強もしてきていたし、プロじゃないけどそれなりに納得のいくミックスができたの。基本的にピアノの音だけだったら、自分でじゅうぶんできる、そこまでの力はあった。だから、半端なかたちで外の人に入ってほしくないという思いもあった。それに、女性アーティストが外部から男性のプロデューサーを連れてきて作品を作った場合って、手柄を持っていかれちゃうのが気になっていたのよね。でも今回のアルバムはエレクトロニクスを入れていて、そういうシンセサイザーやエレクトロニックな要素が増えれば増えるほど、その作業は難しくなっていく。曲はもちろん自分で書くし、音作りもどんどんするんだけど、それをオーガナイズするのは誰かに手伝ってもらわないと無理だと思ったの。そんなわけで、今回初めて外部からのインプットを受け入れて自分の作品を作ったんだけど、ダンとの仕事の関係性がすごくおもしろくて。彼はポイントを絞って、私の曲の余計なところをどんどんカットしていくアプローチなのね。対して私が彼の作品に口を出すときは「ここをもっと長くしろ」とか「もっと広げろ」って感じで、どんどん大きくしていく。『Age Of』のときもそんなふうにやりとりをしていて。だから、「セクション10くらいまでいっちゃいましょう」っていう私の作品を、彼はどんどん短くしていって、でもそのおかげうまくいったという感じかな。

タイトルは『Ultraviolet』ですが、これには何かテーマがあるのでしょうか?

KM:制作中にいろんなことがあって、それを詳しく説明するのはちょっと難しいんだけど、でもとにかくいろいろなことが変わった。ピアノの奏法が変わっていったり、けっこうインプロヴィゼイションぎみの演奏をやってもいるし、それをやっていく過程でトランス感覚を味わったりもした。幻覚が見えるような感じがあったり、幽体離脱のような感覚もあったり。紫外線って、目に見えないけれど力のあるもので、それは私がこのアルバムの制作中に味わった経験につながるかなって思ったの。

〈Warp〉のレーベル・カラーがパープルで、ヴァイオレットはそれに近い色なわけですけれど、〈Warp〉から出す最初のアルバムでその「外(ウルトラ)」を暗示するのはおもしろいなと。

KM:タイトルは〈Warp〉との話が出るまえに決めてあったの。でも運命かも。

Stine Janvin - ele-king

 このところ「もっとも暮らしやすい国」とか「高齢者の住みやすい国」といったアンケートでは必ず1位になるノルウェイからジェニー・ヴァルに続いてキュートな実験音楽を。大所帯のジャズ・バンド、キッチン・オーケストラやフィールド・レコーディング主体のネイティヴ・インストゥルメンタルとして活動してきたスティーン・ジャンヴァン・モットランド(現ベルリン)がソロ3作目にして、ついに〈パン〉にリクルート。メデリン・マーキー『Scent』(12)と同じく、すべて声を加工しただけでつくられたサウンドは(もちろん、そうとは思えないけれど)、女性特有のソプラノを断片化し、ループさせたり、ブリープ化することで、タイトル通り「フェイク・ミュージック」として成立させている。ノルウェイではもはやヴェテランともいえるスパンクのマラ・S・K・ラジェが地鳴りのような吠え声に挑んだり、広い音域を駆使するのとは対照的にソプラノだけにフォーカスし、キラキラと光り輝くイメージを構築していく。ニューヨークのエントリーレイディオの解説によると、黎明期の電子音楽にインスパイアされ、レイヴを脱構築したものだということになるそうだけれど、この場合の「レイヴ」は「怒鳴る」とか「わめく」という元の意味を指しているのだろうか。ということはヒステリックに叫んだ声を「素材」にしたということで、それはそれで合点が行くほど「高い声」しか使われていない。ずっと聴いていると、ちょっと気が遠くなってきたり。

 メレディス・モンクやオノ・ヨーコなど声だけでパフォーマンスしてきた女性は多い(なぜ女性ばっかりなんだろう)。それが声だけでつくられているとはすぐにはわからないほど加工してしまうようになったのはごく最近のことで、ダイアマンダ・ギャラスもシーラ・シャンドラもここまでではなかった。ポップ・ミュージックなどでも盛んにオート・チューンなどが使われ、肉声というものに対する愛着が薄れていたりするのだろうか。スティーン・ジャンヴァンの場合、どれだけ声を変調していても、ライヴなどでは息切れや疲れなどが伝わってくることも多く、身体性というのはどこからでも漏れ出してくるものだななとは思ったりするけれど、1枚のアルバムとしてまとめられた『Fake Synthetic Music』にはそういった破綻はなく、見事なほど現在形の「人工性」がパッケージされている。彼女が「フェイク」と表現する方法論には、実際には肉声も混ぜられており、それらが不可分のコンポジションになっているところも上手いとしか言いようがない。合成音には倍音が含まれることはなく、それが合成音のいいところだったりするけれど、いわばシンセサイザー・ミュージックのように聞こえるにもかかわらず、倍音がどこで出てくるかわからないとういう意味では二重にフェイクなのである。

 そもそも女性の声は社会的に高くなってしまう傾向にあり、必要以上に人工的なのだという考え方もある。スティーン・ジャンヴァンはそれを誇張して変形させることによって女性が置かれている位置を戯画して見せているともいえる。かつてローリー・アンダーソンは自分の声を男性の声に変えてパフォーマンスしていた。日本青年館で観たライヴはいまだにインパクトが薄れていない。ローリー・アンダーソンとスティーン・ジャンヴァンがもしも裏表の価値観で結びついているとしたら、誰か、ふたりの共演を実現させてくれないだろうか。滝沢カレンのヒューマン・ビートボックスを加えて(ウソ)。

The Field - ele-king

 マイナー・チェンジというとパッとしない印象がするのはどうしてだろう。だがスウェーデンのザ・フィールドことアクセル・ウィルナーは、少しずつ少しずつ変化を重ねることでサウンドを多面的なものにしてきた。簡単に気づかれないような変化をアルバムごとに織り交ぜる奥ゆかしいやり方はミニマルの美学とも通じているだろうし、彼のザ・フィールドにおけるコンセプトそのもののように思われる。シューゲイズ・テクノという呼称とともに世界的な評価を受けたデビュー・アルバム『フロム・ヒア・ウィ・ゴー・サブライム』辺りで印象が止まっているひとは、ぜひこの6枚めとなる『インフィニット・モーメント』を聴いてみてほしいと思う。「サブライム」という言葉に象徴されるような単純なカタルシスが影を潜めている代わりに、複雑な快楽のありようが張り巡らされていることに気づくだろう。
 このアルバムを何度か聴いて、僕は発表順にアルバムを遡って聴いてみるということをやってみた。すると、本当にちょっとずつではあるが、しかし確実に段階的にシンプルになっていくのである。これはほんのり予想していたとはいえ驚きだった。というのは、そのことはサウンドだけでなく、構成や音色、そして何より感情面においても言えるからである。そのなかで際立っているのはジャケットの色を黒に変えた4枚め『キューピッズ・ヘッド』のリズムの冒険で、大まかに言えばウィルナーのキャリアはこれ以前と以降に分けられるだろう。それ以前のザ・フィールドの音のキャラクター――高揚感、メランコリー、温かみ、叙情性といったものは、いま聴くととても素朴だ。

 『インフィニット・モーメント』は前作『ザ・フォロワー』の終盤を引き継ぐようにアンビエントで幕を開ける。ザラついて冷たい長音と重々しい低音が重ねられ、イーブン・キックが入ると次第にビルドアップしていく。そのオープニング・トラック“Made Of Steel. Made Of Stone”はゆったりとしたテンポをキープしながら、仄かにダークなトーンを貫きながら終わる。なにやら不穏な導入だ。続く“Divide Now”は丸みのあるシンセ音のループがグルーヴィーなベースラインに乗ってドライヴするザ・フィールドらしいトラックだが、簡単に快楽の出口を聴き手に与えないまま、抽象的に崩されたドラムンベース風のスネアの打音や微妙に圧迫的なハイハットの連打で入り組んだ構成を取る。音の感触はオーガニックだが、多くの場合でかすかにノイズを含んでおり、ザ・フィールドを特徴づけてきたメロディアスなヴォイス・サンプルのループは厚みのあるシンセ・サウンドの奥のほうでさりげなく導入される(“Hear Your Voice”)。
 こうしたデリケートで複雑な音像は、ウィルナーなりに混乱を深めていく世相を反映させたものなのかもしれない……と言うと邪推だろうか。が、「左のもの、右のもの、正しいもの、間違っているもの」という示唆的なタイトルを持つ“Something Left, Something Right, Something Wrong”(ここでの「Right」はおそらく「右」と「正しい」のダブル・ミーニングだ)のシャリシャリとしたノイズの後方に漂うサイケデリアは、ただ心地よく浸るには幾分不安感を伴っている。ミニマル・テクノ、シューゲイズという初期からの要素はいまも担保されているが、アンビエントやノイズが繊細に配合されているいまのウィルナーのトラック群は、簡単に気持ちよくなれない現代のわたしたちの耳に奇妙に馴染む。〈KOMPAKT〉のレーベル・メイトであるGASのここ2作『Narkopop』、『Rausch』辺りと並べて聴いてもいいかもしれない。恐れや不安が混ざりこんだ安らぎがある。

 わたしたちはもう、素朴さを簡単に取り戻すことはできない。さりげない変化を続けた結果、かつて透明感に溢れていたザ・フィールドのテクノ・ミュージックはいまや、迷宮のように入り組んだものとなった。そこでは希望とメランコリーがせめぎ合い、どちらかの極に振れることはない……おそらく、もう二度と。だがだからこそ、“Who Goes There”のじわじわと効いてくる反復は単純に抜け出せない深い快楽を与えてくれるのである。
 僕なりに意訳すれば、『インフィニット・モーメント』とは「一瞬の永遠」だ。二度と帰ってこないその一瞬に意識と身体を預けること。永劫回帰。メビウスの環。リーインカーネーション。すべては繰り返しているようで、すべての瞬間が違っている。ザ・フィールドの反復の哲学を凝縮したようなタイトル・トラック“Infinite Moment”のダウンテンポ・ループは、変わり続けていく瞬間と取り戻せない時間の流れ、その抗えない真実に対する降伏と祝福のように聞こえる。

Cat Power - ele-king

 ひとは言う。作者と作品とは分けて考えるべきだと。人間としてはクズだが作品は悪くはないという考え方は、ある次元までにおいてはアリだろう。ぼくは作者と作品とを分割する考え方がすべてにおいて通用するとはこれっぽちも思わない。西欧の高慢さを突いた批評家エドワード・W・サイードは、むしろ芸術活動と作者の生涯というふたつの領域は混ざり合って存在すると力説している。ぼくもそう思う。経験が表現とまったく切り離されているとは思えないし、作者と作品とはどこかで繫がっている。そのひとの生き様があってこその作品であり、キャット・パワー(猫力)という名のロック・シンガーの作品は、ショーン・マーシャルというひとりの人間の生き様なしでは考えられない。
 彼女の『ムーン・ピックス』を繰り返し聴いたことがあるひとなら、彼女はかつてニューヨークの路上でぐだぐだになって歌っていたんだよという類の風説もほとんど疑わないかもしれないし、彼女の『ユー・アー・フリー』の初回盤に封入されていたポスター(女の子たちが陽光の下、芝生のうえで遊んでいる)を壁に貼ったことがあるひとなら、彼女の歌声は彼女の歌詞以上に雄弁であることを知っているだろう。あの雑な歌い方。感情を押し殺しながら歌われる感情。傷だらけの美しい声。

 ショーン・マーシャルは、アトランタの売れないブルースマンの父とやがて離婚する母との貧乏な家庭で育った。学校を中退した彼女はピザ屋でレジを打ちながら、10代後半をその多くの仲間がエイズかオーヴァードーズで死んでしまうようなコミュニティで過ごしている。やがて彼女はアトランタからニューヨークに出た。ギターを手にしたのは19のときだった。そして彼女は路上で歌った。学校から学んだことなどどれほどの役に立ったのだろう。やがてキャット・パワーは生まれ、1994年には再結成したレインコーツの前座で演奏した。たしかに初期のキャット・パワーの音楽性には、レインコーツのファーストとも共通する洗練とはほど遠い粗野なテクスチャーがある。が、と同時に、彼女にはレインコーツにはない深い憂鬱があった。忌まわしい記憶、自棄、悲しみ。『ガーディアン』によれば、マーシャルには、売春婦にならなかったことを誇りに思うと祖母から言われたというエピソードがあるそうだ。
 これはいまどき流行らない、カビの生えた古くさいロックの物語だろうか。いいや、恵まれていたとは言えない環境で育った大人による、人生はどこまでも悲しいとわかっていながら希望を胸にしまっている音楽が不要であるはずがない。ぼくはキャット・パワーのようなひとの音楽は、いまこの時代にこそ必要とされているように思えてならないのだ。彼女の10枚目の『ワンダラー(放浪者)』のジャケットには、シングルマザーになった彼女の幼子の顔が見える。いまとなっては彼女はいわゆる“オルタナティヴ・ロック”の大御所のひとりだろうけれど、マーシャルのキャリアは順風満帆ではなかった。うつ病やドラッグおよびアルコール中毒と戦いながらリハビリに通い、彼女はそしてまたいま戻ってきた。
 『ワンダラー』は、ポップに飾り立てた前作『サン』とは打って変わって、綺麗さっぱり装飾性がはぎ取られている。それゆえマーシャル本来の魅力が滲み出ている作品ではあるのだが、『ムーン・ピックス』が“救済”だとしたら新作は“回復”のアルバムだ。アメリカ南部の乾いた風が漂うブルースとフォークをベースにした作品で、最小限の音で構成されている楽曲には抜けた感じがあるし、四十路の坂もなかばを過ぎた彼女の声も良い感じで歳を重ねている。1曲目の“ワンダラー”は彼女のアカペラからはじまる。「Oh wanderer (ああ、放浪者)/I been wondering(私は思いをめぐらしている)」。復帰作として相応しいはじまりだ。
 ポンゴとアコースティックギターによる2曲目“イン・ユア・フェイス”では、彼女はトランプ政権をこき下ろす。洒落たキューバ風の響きのなか彼女らしいぶっきらぼうな声で歌われるその歌は、浅ましい会社経営者が政府を乗っ取ったようなものだとたとえた信頼できるジャーナリストのひとり、ナオミ・クラインの視線と重なっているように思える。(ぼくが仕入れた現地からの情報でも、トランプ政権は労働者階級の時給を上げて、景気を回復させている。よって下方からトランプを批判することは日本で考えているほど容易ではないかもしれない。まさにワン・フォー・ザ・マネー。試されているとも言える。見せかけの豊かさにそうやすやすと流されないでいられるのは、いま、アメリカにおいては自由を主張する女性たちかもしれない)
 とはいえ、『ワンダラー』は政治的なアルバムではない。最初のクライマックスは、ラナ・デル・レイが参加した“ウーマン”だろうが、この曲はありがちなフェミニズムの歌ではない。ラヴ・ソングであり、自尊心の歌だ。マーシャルが成し遂げたものは、個人の感情がときには社会や政治もおよぶということであり、言うまでもなくそれはポップ・ミュージックが成しうる最良のことのひとつだ。もちろん『ワンダラー』を女性の団結の作品と評するのも理解できる。マーシャルの“ウーマン”はジョン・レノンの同名曲とは対極の、男に捨てられた女の歌だ。サッドコアのふたりの女王は、その主題をメロウだがドライなブルース・ロックで表現する。
 アルバムの本当のクライマックスは、続く“ホライゾン”から“ステイ”にかけてにある。後者はリアーナの2013年のシングル曲であり、この5年で発表された曲のなかでも傑出したラヴ・ソングのひとつであろう曲だ。アリ・アップをして「自分のやりたかったことすべてやっている」とまで言わしめたリアーナというバルバトス出身のR&Bシンガーは、清楚な女性を賞揚する男性たちからは決して評判の良いシンガーというわけではない。だが、“ステイ”はパティ・スミスにカヴァーされ、いまこうしてマーシャルにもカヴァーされている。心のこもった素晴らしいカヴァーだ。
 アルバムの後半は、マーシャルの十八番でもある果てしない夜のためのメランコリックな弾き語りが続く。これをアンダーグラウンドにおいてハードコアに展開しているのがグルーパーなのだろう。そう、彼女も放浪者のひとり。“ステイ”という曲はしかし放浪者としては矛盾めいた感情の発露だ。これは「いっしょにとどまって欲しい」という歌である。いつかいっしょにいられることができなくなることがわかっているからこその「いっしょにとどまって欲しい」ということなのだろう。なんども挫折したとしても夜になればどこでも眠れた若いころと違って、心身のいろいろなところにガタが来る40もなかばを過ぎた人間が心の底からこの曲を歌えることに、ぼくは強いものを感じる。

Kiki Kudo - ele-king

 あれからどれくらいのときが経ったのだろう。僕(小林)が初めてその名を知ったのは『STUDIO VOICE』だったか、それとも『remix』だったか。その後『NO!!WAR』に勇気づけられ、あるいは会田誠や Chim↑Pom らを論じた『post no future』にも大いに啓発された(アートについてだけでなく、たとえば「なんておもしろい小林秀雄の読み方をするんだ」と感心した覚えがある)。
 これまでライターやキュレイターとして活躍してきた工藤キキが、なんと、ミュージシャンとしてデビューする。昨年音楽制作をはじめたという彼女は、今年に入ってイリシア・クランプトンやツーシン、ピュース・マリー、エンバシらに混じってコンピ『Physically Sick 2』に楽曲“Freakey Ke Ke”を提供したり、カセットテープ『Mineral Sequences』を発表したりしていたが、来る11月9日、初のEP「Splashing」をリリースすることが決定。しかも、アンソニー・ネイプルスとデザイナーのジェイムス・スラッタリーが主宰するニューヨークの〈Incienso〉からである。レーベルによれば、「ナノテク・ポップ、シンセ・ジャム、キッチン・ウェイヴ、リスニング・テクノ」に仕上がっているとのこと。現在、収録曲の“City Neo Neon”が先行公開されている。彼女の新たな船出に大きな拍手を贈りたい。

Kiki Kudo
Splashing

Incienso
12" / Digital
2018/11/09

[Tracklist]
A1. The Secret Bedside Track
A2. U ARE AWAKE
A3. Gadget & Co.
B1. Interactive Gee
B2. City Neo Neon

Bandcamp

Demdike Stare - ele-king

 2014年に野田努に同行して、代官山ユニットの楽屋でデムダイク・ステアのマイルズ・ウィテカーとショーン・キャンティ、それからアンディ・ストットにインタヴューをしたことがある。ウィテカーとストットによるユニット、ミリー・アンド・アンドレアがアルバム『Drop The Vowel』を〈Modern Love〉から出した直後のことだ。地元のマンチェスター近郊に住む寡黙なストットと日本の文系青年に似た雰囲気のキャンティ(同世代の近郷出身者にはジェイムズ・リーランド・カービーとサム・シャックルトンがいる。若手世代にはシンクロ、インディゴ、エイカーなど)、当時ベルリンに居を構えていた快活なウィテカーと過ごしたあの時間をいまもたまに思い出す(このインタヴューは「ele-king vol.14 」に収録)。ウィテカーはあの頃、ニーチェ『善悪の彼岸』に頭を悩ませていて、インタヴュー後(ファンだというDJノブがデムダイクのふたりに会いに来ていた)、ステージ脇ではイタリアの現代音楽家エギスト・マッチ(1928-1992)について熱く語ってくれた。
 あれから四年過ぎ、デムダイクのふたりは実に多くのことに挑戦してきた。2013年から2015年までに続けていた12インチの「Testpressing」シリーズでは、ジャングルからUKガラージ、さらにはグライムにいたるUKダンス史を俯瞰し、これまでのデムダイク・ステアのイメージを覆すような楽曲フォームを発表してきた。
 ここには機材における大きな変化もある。それまでハードウェア+エイブルトン+ロジックで進めていた作業環境から、エレクトロン社製のサンプラー、オクタトラックをメインに据えたセットに切り替えたのだ。2014年のライヴでも「これ、使うの難しいんだよね」と言いながら(この発言は謙遜ではなく、オクタトラックは操作を覚えるのが本当に難しい機材である。サンプラーというよりも、オシレーター(音を発生させる機能)が搭載されていないエイブルトンのようなDAWのハードウェア版、くらいに捉えてもらってよい。マニュアルも難しい!)、ウィテカーはステージ上でオクタトラックを手に、キャンティがセレクトするレコードをサンプリングし、華麗にさばいていた。
 これは非常に重要な転回である。シーケンサーを動かしながら(つまり、楽曲を止めることなく)リアルタイムでサンプリング/加工ができるこの機材から実に多くのフレーズが生まれている。ジャングルはリピートを極小細分化し(“Null Results”)、ソウルⅡソウルは裁断機にかけられガラージになり(“Rathe”)、象の嘶きがグライム空間から突発してくる(“Procrastination”)。
 もちろん彼らは以前にも『Voices of Dust』(2010)で“Hashshashin Chant”という最高のトライバル・チューンを生み出している。しかしオクタトラック導入後の「Testpressing」以前以後では律動的直感性の強度は異なるものになっている。彼らが愛すジャズ・ミュージシャンたちが、猛練習と苦楽を重ねて新たな音を獲得していくように、デムダイク・ステアのマシン・ミュージックは自身のOSを書き換えていったのだ。
 この変化への欲求が結実したのが2016年の大傑作『Wonderland』である。この年の9月、僕はロンドンへ渡った。その翌月の7日、ショーディッチのクラブ、ヴィレッジ・アンダーグラウンドで、彼らの〈DDS〉レーベルのパーティが開かれ、迷わず現場に向かった(DJのリル・モフォも来ていた)。ジョン・K、ステファン・オマリー、ミカチュー、イキイノックス、そしてデムダイク・ステア。そうそうたるメンツである。この年、同レーベルからは、2018年に『Devotion』を生み出したティルザがフィーチャーされたミカチューのEP「Taz And May Vids」が、そしてなんといっても10年代の名盤であるイキイノックスのアルバム『Bird Sound Power』がリリースされている。
 「最近はジャズ、とくにマル・ウォルドロン、それからイキイノックスの影響でダンスホールを聴いてるよ」、とフロアにいたウィテカーは教えてくれた。この時点で彼は長年拠点にしていたベルリンを離れ、故郷のマンチェスターに戻っていた(この時のウィテカーの読書リストはドゥルーズ『スピノザ:実践の哲学』と、アントニオ・ダマシオ『感じる脳:情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ(原題:Looking for Spinoza)』である)。
 『Wonderland』の主軸にもキャンティとの2台のオクタトラックのセッションがあり、それがイキイノックスを経由したダンスホールの影響下で、なんとも形容しがたい奇妙なビートを醸成した。昨年、英国のNTSラジオに出演した坂本龍一が同アルバムからセレクトした“Animal Style”が好例である(坂本はストットの“Tell Me Anything”もかけていた)。揺らぎつつ、芯のあるポリリズム。怯えながらもトラップをすり抜ける小鹿のように、どこまでも逃げていく華麗なシンセ。どこか笑える、頭をかち割るリムショット。
 筒井康隆はかつて山下洋輔のボレロを「脱臼したボレロ」と形容したが、その言葉がここにもしっくりくる。正常ではなく、不良な異常さを。停滞ではなくダイナミックな恒常性を。そして、シリアスさもいいけど、常に一握りのユーモアを。『Wonderland』のマシン・ミュージックは、多くのしがらみにまみれたジャンルの道徳をフォローするのではなく、それを脱臼し、前例のない自らの倫理の構築を呼びかけてくる(これは先のドゥルーズのスピノザ理解と重なる点でもある)。
 2017年にはフランスの音楽研究グループであるIna Grmの要請によって実現した、同団体が所有するアーカイヴ音源と音響システム、アクースモニウムを用いたライヴ・レコーディング盤『Cosmogony』を、さらに2018年に入ってからはローマの伝説的即興音楽集団「Gruppo di Imorivvisazione Nuova Cosonanza」(同グループにはかつて前述のエギスト・マッチが参加していた。伏線はあのステージ脇にもあった!)とのコラボレーション作『The Feed-Back Loop』をカセットで発表。「Testpressing」/『Wonderland』のセットアップで、即興/ミュージック・コンクレートを追求していく力作だ。
 そして2018年10月25日に〈Modern Love〉から届いたのが、9曲入りの新作『Passion』である(紹介媒体によってアルバムかEPで分類が異なっているが、ここではアルバムとして扱う)。この段階で僕が最後にデムダイクのふたりに会ったのは、2018年6月15日、イースト・ロンドンにあるクラブ、オヴァル・スペースで行われた、デムダイク・ステア、アイコニカ、リー・ギャンブル、アンディ・ストットらがブッキングされたイベント時である。この日、〈DDS〉からシンイチ・アトべの新作『Heat』が出ることをウィテカーからチラッと教えてもらっていたのだが、デムダイクのリリースについては何も言っていなかったので、今回のリリースは驚きだった(この時、ウィテカーはマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、ダン・ハンコックス『インナー・シティ・プレッシャー:グライムの物語』を読んでいた。最近興味が社会学系にシフトした、そうである)。
 このライヴは『Passion』の布石だった。ライヴのヴィジュアルを担当したデザイナー/ヴィジュアル・アーティストのマイケル・イングランドが今作のジャケットのデザインを担当している(彼のクライアントはBBCからソニー、ミュージシャンにはオーテカやボーラなどがいる)。濃い紅色に塗られた女性がこちらを睨んでいる。現代におけるソフトウェアの使用方法を探求し問い直すという手法から、今回のヴィジュアルは生まれたという。
 現実にポッカリ空いた非現実の落とし穴を拡大することを、イングランドは得意とする。あの日のライヴのヴィジュアルに現れたイメージたち:カナダのナイアガラの滝で自撮りをするレズビアンのカップル、蝋人形館、ニューヨークのヴォーグ・ダンス、ジャパニーズ・ホラーな白衣を纏った女性の暗黒舞踏的身体移動etc。これまでは、映画好きであるキャンティが選んだホラー映画などからの抜粋がライヴで使われていたが、今回、彼らの視覚を司るのはフィクションとノン・フィクションの境界を揺らぐ何かであり、異様な人間性たちである。それがこのジャケットや、リリース時に公開された以下の本作のトレーラーにも表れている(この映像はライヴでも使われていたと思う)。


Demdike Stare - Passion / Trailer by Michael England

 ここでアルバムを再生する。鋭く青光りするシンセが鈍いディストーションの渦巻きへと降下する “New Fakes”から、さらに粒の細かい歪みが覆ったメランコリアが徐々に出現し、強いトレモロ・エフェクトを経由しビートが緩やかにはじまる“At It Again”へと流れる冒頭。極小のキックの上に、制御不能気味に響くジャングルのビートが、速度の低下と上昇を経て次第に開花する。複雑性と単純性の両方が相互を包摂していき、その両方がノイズの海へと沈む。
 “Spitting Brass”では、時にウォブルする緩やかな周波数グラフを描くシンセが、幽霊のごとき声と重なり低速ガラージを奏でる。続く“Caps Have Gone”でビート・パターンはよりプリミティヴになり、FMシンセの流星が降り注ぎつつもダンスホールのビートが前進を続ける。
 ここでレコードが2枚目へと移行する。1曲目、“Know Where to Start”はBPM142、グライムである。「どこからはじめるか知っている」とタイトルが語るこの3分33秒から、初期のワイリーとディジー・ラスカルが想起され、タワーブロックから送信される海賊ラジオのトランスミッションのようにパーカッションは断片的に連打される。「Testpressing」でのUKダンス・ミュージックの地図を書き換える旅は、ここでも新たな作図方を展開していく(タイトルを「Nowhere to Start/スタート地点などない」と言葉遊び的に読みかえれば、何かの起源/パイオニアを特権化しない姿勢も読み取れる?)。
 C面2曲目、「お前ら人間はファックだ」(“You People Are Fucked”)という挑発のもと、人間は何か別の存在に中指を立てられる。ふたつの冷徹なヴォイスが右と左のチャンネルで相互に会話のやり取りをし、異様なポジティヴさを放つウォンキーなベースラインが、BPM120代中頃の相対的低速感でユーモラスに響く。続く“Pile Up”は同様のタイム・スピードながらも、「間」を強調し、2017年のミュージック・コンクレート修行で養ったサウンド・マテリア構築センスが惜しみなく披露されている。
 レコードは裏面へ。タイトルは“Cracked”(「ひび割れた」の意)。針が飛んだかと思わせるオープン・ハットの機能不全ビートに、深いリヴァーヴ(おそらくクナスのエクダール・モイスチャライザー〔Ekdahl Moisturizer〕を使用。バネを使ったナチュナルにエグい効果を生む。ウィテカーが長年愛用)が優雅にマシン・ヴォイスを包む。そして入り込む低音。このベースラインは間違いなく、ガラージの暗黒面におけるクラシック、ダブル99 の“Rip Groove”(04年)に由来するものである。書道のようにフォームを崩されたそれが、一服の絵画のようにトラックを貫き、モノクロームを基本色に、ドットのようなシンセの突出が細部から全体を書き換える。ビートが消えると、広大な花畑のごときドローン・ビートがこれまでの展開がジョークだったかのように広がり(曲名“Dilation”は「拡張」の意)、今作は幕を閉じる。
 ここで見てきたように、そしてプレス・リリースが語るように、『Passion』はUKダンス・スタイルをなぞった「アヴァンギャルドと、重低音のためにデザインされ洗練された、機能的なクラブ兵器の奇妙な構成物」である。たしかに前作『Wonderland』でイキイノックスのダンスホールを経由し到着した不思議の国から、上記のカセットのリリースで研ぎ澄まされた前衛センスを武器に、「Testpressing」シリーズで試みたUKダンス史へと再潜入していくのが今作である(だからこのレヴューは、ここ数年の出来事を詳述しなければならなかった)。
 だが、同時にそれ以上の何かがここにあるような気がしてならない———。去る3月、僕はマンチェスターのクラブ、スープ・キッチンで毎年開かれている、デムダイク・ステアのオールナイトDJセットを聞きに行った。そこで流れていたのは、ミュータント・ダンスホールであり、レヴォン・ヴィンセントの“Double Jointed Sex Freak”(09年)だった。彼らは新旧ジャンル問わずにしっかりと丁寧にレコードを聴き、映画を見て、本を読む勉強家&リスナー・タイプの作り手であり続けていた。
 いわゆる「型にはまらない系」の人々は、自身のスタイルを「オンリー・ワン」の名の下に特権化しがちだが、デムダイク・ステアにはそれがなく、偉そうに見えない。彼らは謙虚なリスナーであることと、過激な作り手であることを自由に行き来する。そこには主体性を保ちながら、対象と並列に寄り添う姿勢がある(DJセットでは影響元である対象をセレクトし、フロアから聴かれることによって、自身も対象と同化している)。自身の曲中でありながら、“Rip Groove”が見え隠れするように、デムダイク・ステアの奇妙なリアリズムは、常に何か別のものに開らきつつ生成する……(この感覚は、清水高志が『実在への殺到』(水声社、2017年)で論じているミシェル・セールの概念「準-客体」に近いものがあるかもしれない)。
 かつて阿木譲は放射性物質がバラまかれた「3.11以後の我々の生きる時代意識が最もリアルに反映されたもの」としてデムダイク・ステアのホラーに満ちた音楽を論じた。同意である。今回、僕は違った角度からそこに新たな意味を加えたい。政治的にも、文化的にも、あるいは環境的にも何かを特権化してしまいがちなダークエイジの価値観に、デムダイク・ステアの音楽はノーを突きつける。だから僕は彼らに吸い寄せられてしまう。スピノザもニーチェもフィッシャーも、似たようなことを書いてきた。
 『Passion』は作品単体として聴いても素晴らしいが、上記で述べたように、前作たちとの関連でも面白みを増す。なので、単体でベスト・ランキングの上位に入る大傑作、というわけではないかもしれない。だが、UKダンス系にフォーカスをした初のアルバムという意味では初の挑戦であるし、何よりビートと音質が文句なしにかっこいい(今回から彼らは24ビット・リリース、つまりハイレゾにも挑戦している)。そして、ここに表出している奇妙な姿勢は、絶妙な彼ら「らしさ」である。ダークな内容に対して、少し皮肉っぽく響く「情熱」というタイトルも面白い。
 次にウィテカーは何を読んでいるのか考えながら(ミシェル・セールだったら面白い)、僕はしばらくこの「情熱」に耳を傾けようと思う。きっと今作は年末のフロアでも最高に鳴る1枚になるだろう。

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